なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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2月27日(土)
午後1時過ぎ、クシナガラのホテルに到着。いよいよ涅槃仏を参拝に行くんだけど、お腹が空き過ぎてしまって、このままじゃ僕が涅槃に入ってしまうので、取り敢えず昼飯。
「さあ、ボーイさんよ。わたしにビールをもって来てくれ。わたしは、のどが渇いている。わたしは飲みたいのだ。」
こう言われたボーイさんは「たった今、冷蔵庫に入れたばかりで、ぬるくてとても飲めません」と答えたのだが、僕は再三にわたりビールが飲みたいと要求する。まるで駄々っ子のようだ。(おまえはブッダか。え~い、五月蠅い。ほっとけ)
料理はすべてバナナの葉の上にボーイさんが置いて行く。全員が料理が運ばれてくる前に除菌用ウェットティッシュでバナナの葉を消毒。案の定、ティッシュは真っ黒けに。
まず運ばれて来たのがチキンとワンタンのスープ。
インド風天ぷら。
日本風の唐揚げにタンドリーチキン。インドに来て一番お腹の調子がいい上に、ビールのつまみにもってこいの料理が続き、ビールの進むこと進むこと。
締めくくりは乳粥。ごちそうさまでした。美味しかったで~す。
食事を済ませた後、午後3時20分涅槃堂に到着。現地の子供達が正座をし、僕たちに向かって合掌して迎えてくれた。
♫ ブッダン・サラナン・ガッチャーミ ♬
♫ ダンマン・サラナン・ガッチャーミ ♬
♫ サンガン・サラナン・ガッチャーミ ♬
歌っているのはパーリ語の三帰依文。意味は私は仏陀に帰依いたします。私は法(真理)に帰依いたします。私は僧(聖者の僧団)に帰依いたします。僕たちも法要の際には必ず唱える。もちろんパーリ語じゃなく、漢文の声明【しょうみょう】でね。
子供達が三帰依文を唱えている目的は明白。こうやって座っていれば、たまには、「まあ、感心な子ね」って、お金を恵んでくれる人がいるんだね。今日は土曜日だし、ちょっとお小遣い稼いで来ようぜって訳だ。
以前はこんな子供はいなかったんだけど、恐らくタイやミャンマーなど上座部仏教系の団体参拝が増えたからだろう。いつの間にか覚えちゃったんだね。「ナンミョウホウレンゲーキョウ」って唱えたら10ルピーあげるよ、って言ったけど、通じなかった。
クシナガラのウパヴァッタナに到着したブッダは、アーナンダにこう言った。
「さあ、アーナンダよ。わたしのために、二本並んだサーラ樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくて。アーナンダよ、私は疲れた。横になりたい」と。
ブッダはアーナンダの用意した床に、右脇を下にして、右足の上に左足を重ね、衰弱した身体を横たえた。
午後1時過ぎ、クシナガラのホテルに到着。いよいよ涅槃仏を参拝に行くんだけど、お腹が空き過ぎてしまって、このままじゃ僕が涅槃に入ってしまうので、取り敢えず昼飯。
「さあ、ボーイさんよ。わたしにビールをもって来てくれ。わたしは、のどが渇いている。わたしは飲みたいのだ。」
こう言われたボーイさんは「たった今、冷蔵庫に入れたばかりで、ぬるくてとても飲めません」と答えたのだが、僕は再三にわたりビールが飲みたいと要求する。まるで駄々っ子のようだ。(おまえはブッダか。え~い、五月蠅い。ほっとけ)
で、ボーイさんが持って来てくれたのが、今回初登場のキングフィッシャー・ストロング500ml缶。
グビィ、グビィ。冷たいビールが喉から胃に流れ込んでいくのが分かる。なんと美味い、末期の水。いや、間違い。甘露の水。
グビィ、グビィ。冷たいビールが喉から胃に流れ込んでいくのが分かる。なんと美味い、末期の水。いや、間違い。甘露の水。
料理はすべてバナナの葉の上にボーイさんが置いて行く。全員が料理が運ばれてくる前に除菌用ウェットティッシュでバナナの葉を消毒。案の定、ティッシュは真っ黒けに。
まず運ばれて来たのがチキンとワンタンのスープ。
インド風天ぷら。
日本風の唐揚げにタンドリーチキン。インドに来て一番お腹の調子がいい上に、ビールのつまみにもってこいの料理が続き、ビールの進むこと進むこと。
ほうれん草とチキンのカレーとカリフラワーのカレーにナン。
締めくくりは乳粥。ごちそうさまでした。美味しかったで~す。
食事を済ませた後、午後3時20分涅槃堂に到着。現地の子供達が正座をし、僕たちに向かって合掌して迎えてくれた。
♫ ブッダン・サラナン・ガッチャーミ ♬
♫ ダンマン・サラナン・ガッチャーミ ♬
♫ サンガン・サラナン・ガッチャーミ ♬
歌っているのはパーリ語の三帰依文。意味は私は仏陀に帰依いたします。私は法(真理)に帰依いたします。私は僧(聖者の僧団)に帰依いたします。僕たちも法要の際には必ず唱える。もちろんパーリ語じゃなく、漢文の声明【しょうみょう】でね。
子供達が三帰依文を唱えている目的は明白。こうやって座っていれば、たまには、「まあ、感心な子ね」って、お金を恵んでくれる人がいるんだね。今日は土曜日だし、ちょっとお小遣い稼いで来ようぜって訳だ。
以前はこんな子供はいなかったんだけど、恐らくタイやミャンマーなど上座部仏教系の団体参拝が増えたからだろう。いつの間にか覚えちゃったんだね。「ナンミョウホウレンゲーキョウ」って唱えたら10ルピーあげるよ、って言ったけど、通じなかった。
中学生の修学旅行かな?でも、制服の子とそうじゃない子が混じってるし、制服の違う子もいる。それに、制服の子だけが首から「吊り下げ名札」をつけてる。これってどういう集団?
やっと、涅槃堂が見えてきた。涅槃堂は1956年ブッダ生誕2500年記念としてミャンマー僧によって建立されたそうだ。
今日は土曜日だから人出が多くて、入り口は大変な行列。中に入るまでに10分以上かかりそうなんで、この時間を利用してブッダの最後のようすをお話ししよう。
クシナガラのウパヴァッタナに到着したブッダは、アーナンダにこう言った。
「さあ、アーナンダよ。わたしのために、二本並んだサーラ樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくて。アーナンダよ、私は疲れた。横になりたい」と。
ブッダはアーナンダの用意した床に、右脇を下にして、右足の上に左足を重ね、衰弱した身体を横たえた。
涅槃堂の両側に立ってるのがサーラ樹。サーラ樹が2本並んでるんで沙羅双樹【さらそじゅう】なんだけど、古典の時間に習った『平家物語』の冒頭部分「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」で有名だよね。
日本で沙羅の木と言ってるのはナツツバキのこと。インドのサーラ樹はフタバガキ科の熱帯樹で、高さ30メートルを超す大木になり、春に白い花を咲かせる。
ブッダが横たわった時、サーラ樹は突然花が咲きだして満開になり、ブッダを供養するためにブッダの身体に降り注いだそうだ。
やっと、順番が回ってきた。さあ、中に入ろう。(つづく)
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2月27日(土)
12時40分、カクッター河のたもとに到着。国道沿いにバスと停めて、川岸に降りてみた。カクッター河はブッダが最後に沐浴された河だ。
下痢と下血によりみるみるうちに体力の衰えたブッダにとって、臨終の地クシナガラへの道は最後の力を振り絞っての苦しい旅となった。広大なインドの野を、太陽の光にあぶられ、土埃を頭から浴び、身をひきずるように歩んでいくブッダの姿は、凄惨である。
ある町では道の脇に立ち止まり、大樹のもとに身を寄せると、
「さあ、アーナンダよ。お前はわたしのために外衣を四つ折りにして敷いてくれ。わたしは疲れた。わたしは坐りたい。」と言って、崩れるように倒れ込んでしまう。
「さあ、アーナンダよ。わたしに水をもって来てくれ。わたしは、のどが渇いている。わたしは飲みたいのだ。」
こう言われたアーナンダは「たった今、500台の車が通りすぎたばかりで、河の水は濁っていてとても飲めません」と答えたのだが、ブッダは再三にわたり水が飲みたいと要求する。まるで駄々っ子のようだ。アーナンダは仕方なく水を汲みに行くのだが、不思議なことにすでに水は清く澄んでいた。ブッダはアーナンダが汲んできた水を美味しそうに飲み、口の渇きをいやした。
「末期の水」って、知ってる?脱脂綿やガーゼを割り箸の先につけて、水を含ませて、亡くなった人の口を潤してあげることだけど、ブッダのこの故事がもとになってるんだよ。
ブッダがクシナガラに間近い道の途中の樹の下で休んでいると、マッラ族の人ブックサという者が来て、ブッダに法話を求めた。この人はアーラーラ・カーラーマの弟子だ。アーラーラ・カーラーマって覚えてる?出家したシッダールタが最初に教えを求めた仙人だったよね。ブックサはブッダの教えに感銘し、終生帰依する在俗信者となることを誓い、ブッダに2枚の金色に輝く絹衣を差し上げた。ブッダはその1枚をアーナンダにあげちゃう。
タイ ワット・ポーの涅槃仏
ブックサが去ってから、アーナンダが金色の衣をブッダに着せかけたところ、その衣は輝きを失ったように見えたというんだ。と言うことは、ブッダの身体のほうが輝いて見えたということで、ブッダの身体は金色であると考えられるようになったんだ。タイやインドの仏像は金ピカピカで、日本人から見ると何となくけばけばしくて違和感がある。だけど、われわれが慣れ親しんでいる日本の仏像は長い年月を経て渋い色になったんで、 作られた時には金ピカだったんだよ。
「さてアーナンダよ。今夜最後の更【こう】にクシナーラーのウパヴァッタナにあるマッラ族の沙羅【さら】林の中で二本並んだサーラ樹の間で修行完成者の完全な死が起こるであろう。
さあ、アーナンダよ。われわれはカクッター河へ行こう。」
そこで尊師は多くの修行僧とともにカクッター河に赴いた。赴いてカクッター河につかり、浴し、また飲んで、流れを渡り、マンゴー樹の林に赴いた。赴いてから若き人チュンダカに告げた。
「チュンダカよ。どうか、お前はわたしのために外衣を四つに折って敷いてくれ。チュンダカよ。わたしは疲れている。わたしは横になりたい。」
写真はカクッター河のほとりに建てられた案内板。『大パリニッバーナ経』の赤文字で示した部分が英文で記してある。
仏像も安置されていて、それなりにこの場所が仏跡として整備されている。でもね、最初のカクッター河の写真はゴミのなるべく無いところを撮したもの。
実はゴミだらけ。まあ、雨季になれば水量が増してゴミも洗い流されてしまうんだろうけど、日本人を初めほとんどの仏教徒は乾季に仏跡をめぐるんだから、もうちょっと何とかしてよ。
その上、網で魚を捕ってる。仏跡地で殺生するのは止めて欲しいな~。
話がちょっと逸れてしまった。ブッダが外衣を敷いてくれと頼んだチュンダカは、キノコ料理を供養したチュンダとは別人だよ、ややこしいね。チュンダカの名前でチュンダを思い出したのか、ブッダはアーナンダに、
「おそらく人々は鍛冶屋のチュンダに向かって、お前が出した供養のキノコ料理を食べてブッダがこの世を去ったのだと非難し、チュンダを苦しめるであろう。
アーナンダよ、最後の供養をささげたチュンダには大いなる功徳ありと師より聞いていると、お前の口からチュンダに言ってくれ。わたしの生涯で他の供養の食物よりはるかに優れた最上の供養の食物が二つあった。その二つとはスジャータの供養とチュンダの供養であったと。そうすればチュンダの悔いる心は晴れるであろう。」と告げた。
「与える者には、功徳が増す。身心を制する者には、怨みのつもることがない。善き人は悪事を捨てる。その人は、情熱と怒りと迷妄とを滅して、束縛が解きほごされた」と。
後にアーナンダからブッダの言葉を聞いたチュンダは、その優しい思いやりに涙を流したに違いない。
この後、われわれは昼食を済ませてから涅槃堂に参拝したんだけど、その後でブッダ最後の説法地を訪ねた。7回目のインドで今回初めて訪ねた場所。
最近整備されたようで、真新しいお堂が建っている。
お坊さんではなく、管理人さんがお出迎え。
とりあえず、仏像の周りを右繞【うにょう】してお詣り。右繞は時計回りで仏の周りを回ることで。われわれは普段の法要でも3回右繞する。
でも、なんか感慨が涌いてこない。というのは、『大パリニッバーナ経』ではカクッター河からブッダは直接涅槃の地に向かったことになっており、どこにも立ち寄っていない。そうすると、ここはどこ?いつ、ここでブッダが説法したの?という疑問がわいてしまう。
それと、もう一つ。祠にお堂に安置されている仏像が降魔印だということ。前々回お話ししたけど、降魔印【ごうまいん】はブッダが悟りを開いた時、悪魔がこれを邪魔しようとしたのを降伏させた時の印相だ。ここは涅槃の地なので、この印相はおかしい。誰が置いたのか知らないけど、なんかな~。というわけで、この空間にブッダがいたとは思えなかったわけです。疑い深くてすんませ~ん。(つづく)
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2月27日(土)
ケサリア仏塔の見学を終え、1時間半ほど走ったところで国道28号線の本通りにバスを停め、歩いてファジルナガル村に向かった。ファジルナガル村はブッダの時代はマッラ国のパーヴァー村。ブッダに最後の食事を差し上げたチュンダが住んでいたとされ、通称チュンダ村と呼ばれる。
バスを降りたところに映画館。バイクが何台か停まっているし、屋台が出てるから、ただいま上映中のようだ。
パーヴァー村にたどり着いたブッダは、当地の鍛冶工であるチュンダのマンゴー林に留まった。マンゴー林なんか持ってるくらいだからチュンダはかなり裕福だったんだろうね。鍛冶工と言っても金銀細工をする職人も鍛冶工だし、いわゆる村の鍛冶屋みたいな鍬や鋤を作っているのも鍛冶工だけど、いずれにしても金属を加工する人はインドのカースト社会では最下層のシュードラで、卑しい身分とされていたそうだ。実は僕のご先祖さんは羽咋の滝谷の出身で屋号を「かんじや」と言うんだけど、これは鍛冶屋ということで、僕はひょっとしたらチュンダの生まれ変わりかも知れない。(ほな、アホな)
村の鍛冶屋さんなんて日本ではもうほとんどいないだろうけど、インドには今でも村の鍛冶屋がいた。写真はこのあとクシナガラで出会った鍛冶屋さん。
手回しの鞴【ふいご】はブッダの時代には無かったかも知れないけど、その他の道具はブッダの時代とあまり変わってないんだろうね。
チュンダはブッダが自分のマンゴー林に滞在していると聞き、飛んできて挨拶し、ブッダの法話を聴いた。感激したチュンダは明朝、修行僧とともにブッダを食事に招待したいと申し出て、ブッダはこれを承認された。はりきったチュンダはたくさんのご馳走を作り、ブッダの一行を迎えた。ところが、特別に出されたキノコ料理を見たブッダが、「そのキノコ料理は私が食べよう。キノコ以外の料理をすべての弟子たちに与えなさい」と言ったというんだ。なんだ、ブッダは美味しいキノコ料理を独り占めしたんだ、なんて思っちゃいけないよ。これにはちゃんと理由があるんだけど、それはもうちょっと後でね。
「さて尊師が鍛冶工のチュンダの食物を食べられたとき、激しい病いが起こり、赤い血がほとばしり出る。死に至らんとする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、よく気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。
さて尊師は若き人アーナンダに告げられた、「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーに赴こう」と。
「かしこまりました」と、若き人アーナンダは答えた。」
ブッダが食べたのは毒キノコだったんだね。「赤い血がほとばしり」というリアルな表現をしているけど、そうとう激しい下痢と下血があったようだ。もちろんチュンダに悪意があったわけではなく、間違って毒キノコが混入してしまったんだと思うけど、腑に落ちない点が一つある。それはブッダが毒キノコだと判っていたんだろうということ。だって、キノコ料理を独り占めして、弟子達には食べさせていないもんね。でも、やっぱおかしいな~。毒キノコと判っていたら、食べなきゃいいもんね。経典編集者はブッダに神通力があったから、最初から毒キノコだと判っていて、それでも敢えて食べたみたいに書いてある。でも、実際には知らずにブッダが最初に箸をつけ、一口食べて毒キノコだと判ったんだと思う。だから、弟子達には食べさせないようにして、なおかつチュンダには残ったキノコ料理を穴に埋めるように命じている。
実はこの毒キノコと訳されている物の原語はスーカラマッダヴァ。これ直訳すると「柔らかい豚肉」なんだ。じゃ、なんで毒キノコと訳してるのか、ってことだ。ブッダが豚肉を食べるはずがないという先入観だろうね。なかにはトリュフみたいに豚が好むキノコのことじゃないか、という苦しい解釈をしている学者さんもいるみたいだけどね。ブッダは菜食主義者で肉は食べなかったか?答えはNOだ。供養された食事は断ってはいけない。だから、ブッダに供養するために殺された牛や豚でない限り、ブッダは断わることなく、食べていたんだ。だから、僕はここは素直に豚肉でいいと思う。しっかり調理してなくて、サルモネラ菌でもいたんじゃないかな。そうすれば、チフスということも考えられる。
またまた映画のポスター。DHARA 302。さすがボリウッドの国ですね。日本じゃもう映画のポスターなんて町中で見ることないもんね。
さあ、チュンダの話をしているうちに、チュンダの家があったという場所に到着した。バスを降りて歩くこと10分位かな。アショーカ王が建てたと言われるストゥーパの跡が残っているだけで、あとは何もない。ここに本当に2500年前にチュンダが住んでいたという証拠はない。でも、ブッダの時代から250年後のアショーカ王の時代まで、この地にチュンダが住んでいたという話が伝わっていたのかも知れない。
奥村君の説明を聞いていると、ぞくぞくと若者達が集まってきて、一生懸命に説明に耳を傾けている。あんたら、日本語わかるんかい?アンバパリーの村では裸足の子供達だったけど、この村で集まって来た連中は年齢が高く、全員靴を履いている。おまけに全員が男。なんだか気味が悪いや。しっしっ、あっちけ行け。
誰一人帰りそうにないんで、僕のほうが動いた。ストゥーパの跡地に登って、村全体の風景を眺めてみた。ここからクシナガラまでは約20キロ。出血の止まらないブッダの体力は、みるみるうちに落ちてゆく。臨終の地クシナガラへの道は最後の力を振り絞っての苦しい旅となった。(つづく)
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2月27日(土)
午前7時30分にホテルを出発し、1時間半ほど走ってケサリア仏塔に着いた。インドの旅はこれで7回目なんで、ほとんどが以前訪ねたところばかりで、初めて訪ねるところは数カ所だけ。その中でケサリア仏塔は超の字が5つ付くほど重要な遺跡で、今回の旅で一番楽しみにしていた場所だ。
ケサリア仏塔は円形8層の基壇がピラミッド状に積み上げられ、その上に乳房状のストゥーパが載っているが、現在基壇の底部の直径が188メートル、高さは32メートルある。
仏塔には以前は登ることができたそうだけど、現在は発掘修復中ということで残念ながら登ることはできない。
降魔印は触地印【そくちいん】とも言って、ブッダが悟りを開いた時、悪魔をこれを邪魔しようとしたのを降伏させた時の印相で、右手の指先を地面についている。
定印はブッダが瞑想する時の印相。
ところが望遠で見てみると、どれもこれもすべての仏像の首がない痛ましいお姿。くそっ、イスラーム教徒の仕業だ。インドの仏教は7世紀のヴァルダナ朝以降、しだいに衰退し、12世紀に侵入して来たイスラーム教徒の破壊によって完全に息の根を止められた。その時に受けた被害に間違いないだろう。近年ではターリバンによるバーミヤンの大仏の破壊が記憶に新しいが、自分たちが偶像崇拝しないからって、他の宗教にまでちゃべちゃべ構うんじゃないよ、この馬鹿たれが。
(つづく)
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午前7時30分にホテルを出発し、1時間半ほど走ってケサリア仏塔に着いた。インドの旅はこれで7回目なんで、ほとんどが以前訪ねたところばかりで、初めて訪ねるところは数カ所だけ。その中でケサリア仏塔は超の字が5つ付くほど重要な遺跡で、今回の旅で一番楽しみにしていた場所だ。
ケサリア仏塔はヴァイシャリーの北西約45キロの地にある世界最大級のストゥーパ。恥ずかしながらつい最近まで僕はその存在すら知らなかった。まあ、1998年に再発掘が開始されたばかりで、インド考古局から正式な発表もされていないから、仕方ないと言えば仕方ないんだけどね。
初めて見るケサリア仏塔にわくわくしながらバスを降りると、仏塔は湿地帯と畑のど真ん中に山のように聳えており、まずその大きさに度肝を抜かれる。
最後の旅を歩むブッダがヴァイシャリーを後にした時、ヴァイシャリーの人々はブッダとの別れを惜しんで、どこまでも付いて来たそうだ。あまりに多くの人々が町を出て行ったために、ヴァイシャリーの町は機能不全に陥ったそうだ。ブッダは自分から離れようとしない人々に、托鉢用の鉢を自分の身代わりとして渡して、ついに彼らに別れを告げた。涙ながらにブッダを見送ったヴァイシャリーの人々は、ブッダと別れたこの地を記念して、ブッダの鉢を祀ったそうだ。(『大パリニッバーナ経』にはこのエピソードは記載されていない)
その後、紀元前3世紀のアショーカ王の時に最初のストゥーパが建てられ、4世紀のグプタ朝時代に拡張され、8世紀のパーラ朝時代に現在の形になったと考えられている。
初めて見るケサリア仏塔にわくわくしながらバスを降りると、仏塔は湿地帯と畑のど真ん中に山のように聳えており、まずその大きさに度肝を抜かれる。
最後の旅を歩むブッダがヴァイシャリーを後にした時、ヴァイシャリーの人々はブッダとの別れを惜しんで、どこまでも付いて来たそうだ。あまりに多くの人々が町を出て行ったために、ヴァイシャリーの町は機能不全に陥ったそうだ。ブッダは自分から離れようとしない人々に、托鉢用の鉢を自分の身代わりとして渡して、ついに彼らに別れを告げた。涙ながらにブッダを見送ったヴァイシャリーの人々は、ブッダと別れたこの地を記念して、ブッダの鉢を祀ったそうだ。(『大パリニッバーナ経』にはこのエピソードは記載されていない)
その後、紀元前3世紀のアショーカ王の時に最初のストゥーパが建てられ、4世紀のグプタ朝時代に拡張され、8世紀のパーラ朝時代に現在の形になったと考えられている。
遺跡の周りをぐるっと半周してみる。現在発掘調査が進んでいるのは遺跡の半分だけ。写真の通り左半分はいまだに草や灌木が生い茂った小山状態。
敷地内にあるガジュマルの木
ケサリア仏塔は円形8層の基壇がピラミッド状に積み上げられ、その上に乳房状のストゥーパが載っているが、現在基壇の底部の直径が188メートル、高さは32メートルある。
世界史の教科書にも出てくる有名なジャワ島のボロブドゥールは方形6層の基壇の上に、円形3層の基壇が載り、その上にストゥーパが立つ。底部の直径が111.5メートル、高さが31.5メートル。なんとケサリア仏塔のほうが大きいんだ。
ところが、1861年にカニンガムの調査隊が発掘調査した時には、底部の直径が225メートル、高さが52メートルもあったんだってさ。
ところが、1861年にカニンガムの調査隊が発掘調査した時には、底部の直径が225メートル、高さが52メートルもあったんだってさ。
それが、まず1934年の地震で一番てっぺんの舎利を納めたストゥーパ部分が壊れちゃった。これでもともと20メートルほどあったのが、半分くらいになっちゃったんだって。その上、ガンジス川の支流ガンタッキ河の氾濫によって2層分が埋もれてしまい、9メートル低くなった。で、合計20メートルも低くなったというわけなんだけど、そうするとケサリア仏塔はもともとは10層あったということだ。
これまた教科書に出てくるサーンチーのストゥーパ。これが高さ16.5メートルだから、ケサリア仏塔はその3倍。いやはや、世界最大級に間違いなしだ。
インド政府は現在発掘・修復作業を進めているが、インドのやることだから遅遅として進まない。全貌が明らかにされて完全修復され、ヴァイシャリーやクシナガラからのアクセスが良くなれば、ボロブドゥール並みに観光客がやって来るだろうけど、その頃は僕は涅槃に無いってしまってるね。間違いなく。
敷地内にあるヒンドゥー教寺院の祠
仏塔には以前は登ることができたそうだけど、現在は発掘修復中ということで残念ながら登ることはできない。
残念と言えば、もっと残念なことがある。2層から6層にかけてボロブドゥールと同じように 仏龕【ぶつがん、仏像を祀るためのくぼみ】が設けられており、その中にテラコッタ製の仏像が安置されている。すべてブッダ像で、降魔印【ごうまいん】か定印【じょういん】。
降魔印は触地印【そくちいん】とも言って、ブッダが悟りを開いた時、悪魔をこれを邪魔しようとしたのを降伏させた時の印相で、右手の指先を地面についている。
定印はブッダが瞑想する時の印相。
ところが望遠で見てみると、どれもこれもすべての仏像の首がない痛ましいお姿。くそっ、イスラーム教徒の仕業だ。インドの仏教は7世紀のヴァルダナ朝以降、しだいに衰退し、12世紀に侵入して来たイスラーム教徒の破壊によって完全に息の根を止められた。その時に受けた被害に間違いないだろう。近年ではターリバンによるバーミヤンの大仏の破壊が記憶に新しいが、自分たちが偶像崇拝しないからって、他の宗教にまでちゃべちゃべ構うんじゃないよ、この馬鹿たれが。

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