なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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2月27日(土)
ピーナッツ屋さん。今回は買わないけど、インドのピーナッツは小さいけど美味いよ。
このあと、前々回にお話しした最後の説法地を周り、荼毘【だび】塚(ラーマバール・ストゥ―パ)へ。
ブッダの遺体は7日間手厚く供養されたのち、マッラ族の信者の手により静かに火葬され、やがて雨が降り注ぐと、そこには真っ白な骨のみが残されたそうだ。その場所に建てられているのがは荼毘塚。荼毘って、火葬することだよ。みんなで荼毘塚の周りをお題目を唱えながら右繞【うにょう】してお詣り。
荼毘塚のすぐ横手に流れているのがヒラニヤパティー川。漢訳経典では跋提河【ばつだいが】と呼ばれ、ブッダが最後に沐浴された川とされている。でも、『大パリニッバーナ経』ではカクッター川で最後の沐浴をされたことになっていて、どっちが本当、という疑問が残る。
写真はネパールのパシュパティナート寺院での葬儀風景。遺体は火葬にする前に川の水で浄められる。ヒラニヤパティー川がブッダが荼毘にふされた場所のすぐ近くにあるということは、ブッダの遺骸もこの川で浄められた可能性が高い。という訳で、僕はカクッター川はブッダが最後に沐浴された川、ヒラニヤパティー川は涅槃の後にブッダが沐浴された川との結論に達したんだけど、誰か詳しいことをご存じの方がおいでましたらご教授ください。
僕たちがヒラニヤパティー川の見学をしていると、僕たちを見学するために沢山の子供が集まって来た。前にクシナガラに来た時もそうだったけど、近くの子供たちがお菓子を貰いに集まってくる。添乗員の奥村君が前持って配るためのお菓子を用意していたみたいだ。インドの人は順番を待つという習慣がなく、我先にとお菓子に群がって来る。それをきちんと並ばせて、順番にお菓子を配ってるところだけど、んっ、年寄りまでがちゃっかりと並んでる。おいおい、子供らを先にしろや。
最後に訪れたのが八分骨の地。大きな菩提樹があり、その下には仏像が安置されている。
近年この地だと比定されたというんだけど、決め手は何だったんだろう。なんか、疑問が残るな~。
ブッダが荼毘にふされた後、遺骨を独占しようとするマッラ族と分配を要求する王族との間で争いが起きた。これを調停したのがドーナ・バラモン。
「きみらよ。聞け。わが一言を。われらのブッダは〈堪え忍ぶこと〉を説く方でありました。最上の人の遺骨を分配するために争うのは善くありません。きみらよ。きみらはすべて一致協力して、仲良くしてください。われらはともに喜び合って(ご遺骨を)八つの部分に分けましょう。」
ということで、遺骨は8つに分骨された。
① マガダ国のアジャータサットゥ王。
② ヴァイシャリーのリッチャヴィ族 。
③ カピラヴァットゥのシャカ族。
④アッラカッパ(チャラカルパ)のブリ(ブッラ)族。
⑤ ラーマガーマ(ラーマグラーマ)のコーリヤ(コーリタ)族。
⑥ヴェータディーパ(ヴァイシュトラ・ドゥヴィーパ)のバラモン。
⑦パーヴァーのマッラ族。
⑧クシナガラのマッラ族。
ブッダの遺骨は仏舎利としてそれぞれの国の王によって持ち帰られ、ストゥーパが建立された。ヴァイシャリーで見た ブッダ・レリック・ストゥーパは、そのうちの一つとされている。
ブッダ最後の地をゆっくりと巡った後、午後5時に歩いてホテルに帰った。今日のお泊まりはロイヤル・レジデンシー・ホテル。平成20年にベナレスからカトマンズに飛ぶ予定がドタキャンされて、急遽クシナガラまで車を飛ばして、翌朝バイラワまで飛行機で飛んでネパールに入るという、とんでもない旅をした時にも泊まったホテル。
午後7時、夕食。あっ、鍋だ。
8年前は午後9時45分にこのホテルに着いて、翌朝6時にはネパールに向けて出発しているので、まったくこのホテルの記憶が無かったんだけど、鍋を見て記憶が蘇って来た。
7時間も車をぶっ飛ばして着いたホテルのレストランの隅で食べた鍋。インドで鍋とは一旦は喜んだんだけど、下で炊いている炭火が弱くて、ぬるくて全く美味しくなかった。
ところが、今日の鍋は熱々。味付けも具材も日本風で、いや~これは美味い。自然と顔もほころびて、ビールが進む。お腹の調子も上々、ビール飲み過ぎました。
これ、お昼にも飲んだキングフィッシャー500ml缶。これが何本も出たんだけど。翌朝値段を聞いてびっくり。これ1本450ルピー、日本円で900円だよ。いくらホテルだからって、こんな高いのあるか。日本で買うよりも高いじゃないか。いい加減にしろ。
明日は2度目の祇園精舎。おやすみなさ~い。(つづく)
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午後4時過ぎ、涅槃堂での参拝を終え、町中を歩いて最後の説法地へ。まあ、日本風に言えば門前町というところだが、そんなに沢山の店があるわけではない。これは、サトウキビジュース屋さん。
ピーナッツ屋さん。今回は買わないけど、インドのピーナッツは小さいけど美味いよ。
で、見つけたのがスナック菓子を売っている屋台。奥村君の薦めもあって、買うことにした。(写真を撮っている余裕が無かったんで、画像は借り物です)
スナック菓子は10袋がミシン目が入って一繋がり。値段を聞いたら1袋5ルピー(10円)。学校で自習させてる生徒達にはお土産にブッダガヤでブッダのコインを買ってるけど、何かいまいち物足りない気がしてたんで、これ幸い。80人分買ってもたったの800円。と言うことで、100袋500ルピーで買った。ところが、中身が壊れないように空気で膨らませてあるんで、100袋もあるとすごい嵩張ってしまい、自分で持って歩けない。ガイドのラケシュ君に持ってもらった。
これがお土産のスナック菓子。ヌードルスナックのハルディラム社のブジア。パッケージは違うけど、日本の駄菓子屋においてあるベビースターラーメンをぱくったんじゃないかと疑ってしまうほど中身は一緒。でも、味は全く違っていて、凄いスパイシー。僕は辛い物が好きなんで、ちょうどいい味。
日本に帰ってから教室で生徒に配って、その場で食べてもらった。本当は教室でお菓子を食べるなんてもってのほかだけど、これはあくまでも世界史の授業で、インドの文化を体験する学習として行った(苦笑)。最初のうちは喜んで食べていた生徒も、辛いの苦手な子は顔真っ赤っ赤。口から火を噴いて、涙を流してた。
インドを体験してもらえて、本当に安くて良いお土産でした。アマゾンでも売ってるから、是非一度試してみて。
日本に帰ってから教室で生徒に配って、その場で食べてもらった。本当は教室でお菓子を食べるなんてもってのほかだけど、これはあくまでも世界史の授業で、インドの文化を体験する学習として行った(苦笑)。最初のうちは喜んで食べていた生徒も、辛いの苦手な子は顔真っ赤っ赤。口から火を噴いて、涙を流してた。
インドを体験してもらえて、本当に安くて良いお土産でした。アマゾンでも売ってるから、是非一度試してみて。
このあと、前々回にお話しした最後の説法地を周り、荼毘【だび】塚(ラーマバール・ストゥ―パ)へ。
ブッダの遺体は7日間手厚く供養されたのち、マッラ族の信者の手により静かに火葬され、やがて雨が降り注ぐと、そこには真っ白な骨のみが残されたそうだ。その場所に建てられているのがは荼毘塚。荼毘って、火葬することだよ。みんなで荼毘塚の周りをお題目を唱えながら右繞【うにょう】してお詣り。
荼毘塚のすぐ横手に流れているのがヒラニヤパティー川。漢訳経典では跋提河【ばつだいが】と呼ばれ、ブッダが最後に沐浴された川とされている。でも、『大パリニッバーナ経』ではカクッター川で最後の沐浴をされたことになっていて、どっちが本当、という疑問が残る。
写真はネパールのパシュパティナート寺院での葬儀風景。遺体は火葬にする前に川の水で浄められる。ヒラニヤパティー川がブッダが荼毘にふされた場所のすぐ近くにあるということは、ブッダの遺骸もこの川で浄められた可能性が高い。という訳で、僕はカクッター川はブッダが最後に沐浴された川、ヒラニヤパティー川は涅槃の後にブッダが沐浴された川との結論に達したんだけど、誰か詳しいことをご存じの方がおいでましたらご教授ください。
先ほどのヒラニヤパティー川の写真はトラベルサライからの借り物で、これが僕の撮した写真。これじゃ、川なのか水溜まりなのか、わかんないよね。実はゴミだらけで、精一杯ズームにして、ゴミの無い所を撮ったんだ。今は乾期で仕方がないと言えば仕方ないんだけど、仏跡地なんだからもっと綺麗にしといて欲しい。
僕たちがヒラニヤパティー川の見学をしていると、僕たちを見学するために沢山の子供が集まって来た。前にクシナガラに来た時もそうだったけど、近くの子供たちがお菓子を貰いに集まってくる。添乗員の奥村君が前持って配るためのお菓子を用意していたみたいだ。インドの人は順番を待つという習慣がなく、我先にとお菓子に群がって来る。それをきちんと並ばせて、順番にお菓子を配ってるところだけど、んっ、年寄りまでがちゃっかりと並んでる。おいおい、子供らを先にしろや。

最後に訪れたのが八分骨の地。大きな菩提樹があり、その下には仏像が安置されている。
近年この地だと比定されたというんだけど、決め手は何だったんだろう。なんか、疑問が残るな~。
ブッダが荼毘にふされた後、遺骨を独占しようとするマッラ族と分配を要求する王族との間で争いが起きた。これを調停したのがドーナ・バラモン。
「きみらよ。聞け。わが一言を。われらのブッダは〈堪え忍ぶこと〉を説く方でありました。最上の人の遺骨を分配するために争うのは善くありません。きみらよ。きみらはすべて一致協力して、仲良くしてください。われらはともに喜び合って(ご遺骨を)八つの部分に分けましょう。」
ということで、遺骨は8つに分骨された。
① マガダ国のアジャータサットゥ王。
② ヴァイシャリーのリッチャヴィ族 。
③ カピラヴァットゥのシャカ族。
④アッラカッパ(チャラカルパ)のブリ(ブッラ)族。
⑤ ラーマガーマ(ラーマグラーマ)のコーリヤ(コーリタ)族。
⑥ヴェータディーパ(ヴァイシュトラ・ドゥヴィーパ)のバラモン。
⑦パーヴァーのマッラ族。
⑧クシナガラのマッラ族。
ブッダの遺骨は仏舎利としてそれぞれの国の王によって持ち帰られ、ストゥーパが建立された。ヴァイシャリーで見た ブッダ・レリック・ストゥーパは、そのうちの一つとされている。
ブッダ最後の地をゆっくりと巡った後、午後5時に歩いてホテルに帰った。今日のお泊まりはロイヤル・レジデンシー・ホテル。平成20年にベナレスからカトマンズに飛ぶ予定がドタキャンされて、急遽クシナガラまで車を飛ばして、翌朝バイラワまで飛行機で飛んでネパールに入るという、とんでもない旅をした時にも泊まったホテル。
部屋もまずまず小綺麗。今日は7時30分にヴァイシャリーを出てあちこち回ったんで、くたくた。取り敢えずシャワーを浴びる。
午後7時、夕食。あっ、鍋だ。
8年前は午後9時45分にこのホテルに着いて、翌朝6時にはネパールに向けて出発しているので、まったくこのホテルの記憶が無かったんだけど、鍋を見て記憶が蘇って来た。
7時間も車をぶっ飛ばして着いたホテルのレストランの隅で食べた鍋。インドで鍋とは一旦は喜んだんだけど、下で炊いている炭火が弱くて、ぬるくて全く美味しくなかった。
ところが、今日の鍋は熱々。味付けも具材も日本風で、いや~これは美味い。自然と顔もほころびて、ビールが進む。お腹の調子も上々、ビール飲み過ぎました。
これ、お昼にも飲んだキングフィッシャー500ml缶。これが何本も出たんだけど。翌朝値段を聞いてびっくり。これ1本450ルピー、日本円で900円だよ。いくらホテルだからって、こんな高いのあるか。日本で買うよりも高いじゃないか。いい加減にしろ。

明日は2度目の祇園精舎。おやすみなさ~い。(つづく)
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2月27日(土)
今日は2月15日、日本では各地で涅槃図がかけられて涅槃会が行われる。僕の住んでいる金沢では一月遅れの3月15日。
昨年の3月2日にインドから帰国しているから、やがて1年になろうというのにブログのほうはまだクシナガラ。一体いつになったら終わることやら。
あまりの混雑ぶりで、10分ほど待たされて、ようやく涅槃堂に入ることができた。
「スバッタよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。
スバッタよ。わたしは出家してから五十年余となった。
正理と法の領域のみを歩んで来た。
これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。」
ブッダにとって形而上の問題はどうでもよいことだった。人生の問題を解決することこそ第一であり、苦を滅して安楽の境地に向かうことがブッダの教えの核心であることを、スバッタにも示した。スバッタはその場でブッダに帰依し、ブッダ最後の弟子となった。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
これがブッダ最後の言葉となり、ブッダは安らかに息をひきとった。ブッダ80歳。雨季が終わってから3カ月程後ということなので、10月か11月のことだったと考えられるが、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日、日本では2月15日とされている。
サーラ樹の林では、ブッダの遺骸を囲み、まだ悟りにいたっていない人々は、身体をよじって大声で泣き叫んだ。しかし、欲を離れ、悟りに至った者は、正しき智慧でよく耐え忍び、「諸行は無常なり、いかでか滅せざることあらん」と繰り返し唱えていたそうだ。
アーナンダは駆けつけた高弟アヌルッダと、東の空に輝ける太陽の光が満ち渡るまで、法話をして過ごした。
涅槃像の台座には3人の姿が彫られている。ストロボの光で見難いけど、真ん中にこちらに背を向けて座っているのがブッダ。

左は最後の弟子となったスバッタらしいんだけど、確認するの忘れた。ご存じの方がおいでになられたら、教えてください。
ちなみに、日本の涅槃図ではブッダの遺骸の前で気絶しているのがアーナンダ。あまりに悲しみに気絶しちゃったんだけど、右手にいるアヌルッダが顔に水をかけて助け起こし、正気に戻ることができたそのだよ。
もうひとつ蘊蓄話を。写真の飾りは四華って言うんだけど、見たことあるよね。そう、お葬式の祭壇に飾ってあるよね。恐らくほとんどの人は知らないだろうし、ひょっとしたら葬儀屋さんも知らないかも知れない。
一番最初の涅槃図を見てもらうと、沙羅双樹が8本あるよね。沙羅双樹は2本のはずなのに、8本というのもおかしな話だけど、そのうち右の4本は枯れていて、左の4本は青々としてるよね。これは「四枯四栄」といって、ブッダが涅槃に入られてこの世から姿を消されても、その説かれた法は永遠に滅びないということを意味していて、四華はこの故事から葬儀の祭壇に飾られるようになったんだ。勉強になったでしょ。
涅槃堂を初めて訪ねたのは平成9年のこと。その時はこれが最初で最後だろうと思ったんだけど、ありがたいことに3回も訪ねることが出来た。霊鷲山とブダガヤ、そしてこのクシナガラは何度訪ねても、その度に涙があふれる。
今回は時間の余裕があるので、じっくりと周りを見てみると、たくさんの僧院の跡や奉献ストゥーパの基壇が残っている。
今日は2月15日、日本では各地で涅槃図がかけられて涅槃会が行われる。僕の住んでいる金沢では一月遅れの3月15日。
昨年の3月2日にインドから帰国しているから、やがて1年になろうというのにブログのほうはまだクシナガラ。一体いつになったら終わることやら。
あまりの混雑ぶりで、10分ほど待たされて、ようやく涅槃堂に入ることができた。
これ、実は隠してるわけじゃなくて、涅槃像の衣替えなんだ。タイの参拝団が新しい衣を寄付して、今涅槃像に掛けているところ。
この儀式でまた10分ほど待たされて、ようやく僕たちの番。涅槃像の傍らに座り、手を合わす。一番心が高揚するところなんだけど、目の前にはガラスの柵が。前来た時にはこんなもん無かったんだけど、涅槃像にさわる奴が現れるようになって、こんな無粋なものをつけたんだろうね。(2012年につけられたそうです)
ガラスの柵がない時は、こんな感じだった。
この涅槃像は1876年にアレキサンダー・カニンガムが近くのヒラニヤヴァティー河の河床から発掘したもので、全長6.1メートルもある。5世紀のグプタ朝時代に造られたもので、赤砂岩製なんでもともとは赤色をしてたんだけど、仏滅2,500年の大祭の時、ミャンマーの仏教徒により金箔が施され現在の色となったそうだ。
経典に書かれている通り、北を枕にして横たわっておられるけど、これを「頭北面西」という。頭を北にして右脇を下にすれば、自然に顔は西を向くことになるけど、インドではこれが最上の横臥法と考えられていたそうだ。人が亡くなったら北枕にする習俗があるけど、これに由来してるんだよ。みんな、まさか北を枕にして寝てないだろうね。それ、死んだ時だけだよ。
うるさい奴らも帰ったし、ここで落ち着いてブッダの最後について語ろう。
アーナンダは悲しみに襲われ、戸の横木によりかかって号泣する。アーナンダがそばにいないことに気づいたブッダは、修行僧に呼びに行かせた。横たわるブッダの傍らに力なく立ったアーナンダにブッダは優しく語りかける。
「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、ーすべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ブッダ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」
25年の長きにわたりブッダに仕えてきたアーナンダへの労い言葉とともに、お前もやがて悟りを開くだろうと励ましの言葉をかけるブッダ。弟子の中ではまだ悟りを得ていない人々の側にいたアーナンダは、ブッダのこの言葉にひれ伏した。
この涅槃像は1876年にアレキサンダー・カニンガムが近くのヒラニヤヴァティー河の河床から発掘したもので、全長6.1メートルもある。5世紀のグプタ朝時代に造られたもので、赤砂岩製なんでもともとは赤色をしてたんだけど、仏滅2,500年の大祭の時、ミャンマーの仏教徒により金箔が施され現在の色となったそうだ。
経典に書かれている通り、北を枕にして横たわっておられるけど、これを「頭北面西」という。頭を北にして右脇を下にすれば、自然に顔は西を向くことになるけど、インドではこれが最上の横臥法と考えられていたそうだ。人が亡くなったら北枕にする習俗があるけど、これに由来してるんだよ。みんな、まさか北を枕にして寝てないだろうね。それ、死んだ時だけだよ。
うるさい奴らも帰ったし、ここで落ち着いてブッダの最後について語ろう。
アーナンダは悲しみに襲われ、戸の横木によりかかって号泣する。アーナンダがそばにいないことに気づいたブッダは、修行僧に呼びに行かせた。横たわるブッダの傍らに力なく立ったアーナンダにブッダは優しく語りかける。
「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、ーすべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ブッダ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」
25年の長きにわたりブッダに仕えてきたアーナンダへの労い言葉とともに、お前もやがて悟りを開くだろうと励ましの言葉をかけるブッダ。弟子の中ではまだ悟りを得ていない人々の側にいたアーナンダは、ブッダのこの言葉にひれ伏した。
ブッダはアーナンダに、これからクシナガラの町に行って、今夜半、ブッダが亡くなると伝えよと命じた。アーナンダが一人の弟子を連れて町へ行き、ブッダの言葉を告げると、マッラ族の人々は驚き、慌てふためいてサーラ樹の林に駆けつけたんだけど、その中にスバッタという名の遍歴行者がいた。この時、120歳だったというから驚きだ。このスバッタがアーナンダに近づいてきて言った。
「アーナンダよ、私には疑いがあります。しかし、私は自分のもっている疑いをブッダが除くことができると信じています。どうか、ブッダに会わせて下さい。」
ブッダは臨終の床にある。それにスバッタの態度はいささか強引だ。カチンときたアーナンダは、ブッダを悩ませてはいけないと言って、願い出を拒否した。スバッタは3回面会を求め、3回ともアーナンダは断った。しかし、そのやりとりを聞いていたブッダはこう言った。
「 やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッタを拒絶するな。スバッタが修行を続けてきた者(=ブッダ)に会えるようにしてやれ、スバッタがわたしにたずねようと欲することは、何でもすべて、知ろうと欲してたずねるのであって、わたしを悩まそうとしてたずねるのではないであろう。かれがわたしにたずねたことは、わたしは何でも説明するであろう。」と。
ところで、スバッタの質問はつまらないものだった。仏弟子とは違う6名の高名な修行者の名をあげ、彼らは本当に真理をわかっているのかと、聞いたんだ。この質問は当然ブッダにも向けられていたんだろうね。あんた、本当に真理が分かってんの?死の床にあるブッダへの質問としてはあまりにも底意地が悪い。身体が衰弱しきっているブッダを相手に論争をしかけようとしたんだね。この質問に対してブッダは「スバッタよ、そのように言ってはいけない」と言い、直接質問に答えず、こう語った。 「アーナンダよ、私には疑いがあります。しかし、私は自分のもっている疑いをブッダが除くことができると信じています。どうか、ブッダに会わせて下さい。」
ブッダは臨終の床にある。それにスバッタの態度はいささか強引だ。カチンときたアーナンダは、ブッダを悩ませてはいけないと言って、願い出を拒否した。スバッタは3回面会を求め、3回ともアーナンダは断った。しかし、そのやりとりを聞いていたブッダはこう言った。
「 やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッタを拒絶するな。スバッタが修行を続けてきた者(=ブッダ)に会えるようにしてやれ、スバッタがわたしにたずねようと欲することは、何でもすべて、知ろうと欲してたずねるのであって、わたしを悩まそうとしてたずねるのではないであろう。かれがわたしにたずねたことは、わたしは何でも説明するであろう。」と。
「スバッタよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。
スバッタよ。わたしは出家してから五十年余となった。
正理と法の領域のみを歩んで来た。
これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。」
ブッダにとって形而上の問題はどうでもよいことだった。人生の問題を解決することこそ第一であり、苦を滅して安楽の境地に向かうことがブッダの教えの核心であることを、スバッタにも示した。スバッタはその場でブッダに帰依し、ブッダ最後の弟子となった。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
これがブッダ最後の言葉となり、ブッダは安らかに息をひきとった。ブッダ80歳。雨季が終わってから3カ月程後ということなので、10月か11月のことだったと考えられるが、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日、日本では2月15日とされている。
サーラ樹の林では、ブッダの遺骸を囲み、まだ悟りにいたっていない人々は、身体をよじって大声で泣き叫んだ。しかし、欲を離れ、悟りに至った者は、正しき智慧でよく耐え忍び、「諸行は無常なり、いかでか滅せざることあらん」と繰り返し唱えていたそうだ。
アーナンダは駆けつけた高弟アヌルッダと、東の空に輝ける太陽の光が満ち渡るまで、法話をして過ごした。
涅槃像の台座には3人の姿が彫られている。ストロボの光で見難いけど、真ん中にこちらに背を向けて座っているのがブッダ。

右にはブッダの死を嘆き悲しむアーナンダ。
左は最後の弟子となったスバッタらしいんだけど、確認するの忘れた。ご存じの方がおいでになられたら、教えてください。
へらへらと笑っている僕の後ろの涅槃堂。その後ろにあるストゥーパは駆けつけたアヌルッダのものとされている。
ちなみに、日本の涅槃図ではブッダの遺骸の前で気絶しているのがアーナンダ。あまりに悲しみに気絶しちゃったんだけど、右手にいるアヌルッダが顔に水をかけて助け起こし、正気に戻ることができたそのだよ。
もうひとつ蘊蓄話を。写真の飾りは四華って言うんだけど、見たことあるよね。そう、お葬式の祭壇に飾ってあるよね。恐らくほとんどの人は知らないだろうし、ひょっとしたら葬儀屋さんも知らないかも知れない。
一番最初の涅槃図を見てもらうと、沙羅双樹が8本あるよね。沙羅双樹は2本のはずなのに、8本というのもおかしな話だけど、そのうち右の4本は枯れていて、左の4本は青々としてるよね。これは「四枯四栄」といって、ブッダが涅槃に入られてこの世から姿を消されても、その説かれた法は永遠に滅びないということを意味していて、四華はこの故事から葬儀の祭壇に飾られるようになったんだ。勉強になったでしょ。
涅槃堂を初めて訪ねたのは平成9年のこと。その時はこれが最初で最後だろうと思ったんだけど、ありがたいことに3回も訪ねることが出来た。霊鷲山とブダガヤ、そしてこのクシナガラは何度訪ねても、その度に涙があふれる。
今回は時間の余裕があるので、じっくりと周りを見てみると、たくさんの僧院の跡や奉献ストゥーパの基壇が残っている。
この地が仏教の一大中心地だったことがわかる。
~ん。こら~、誰だ~。神聖な地で愛を語らってるのは~。
(つづく)
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