なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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2月29日(月)

今年は閏年で、8月5日にはリオデジャネイロ・オリンピックも始まる。というわけで、一日儲かった今日29日は一日かけてタージ=マハルのあるアグラへ移動する。午前7時30分にホテルを出発。午前中はウッタル・プラデーシュ州の州都であるラクナウまでのバスの旅。何もすることがないので、車窓からのインドの風景をお楽しみいただこう。
さっそく、目に飛び込んできたのが、日本ではとんでもないことだが、インドではごく普通の光景。
午前10時過ぎ、変な集団が歩いている。
次から次へと同じような集団が同じ方向を目指して歩いて行く。それも、カラフルに飾りたてた天秤棒のような物を担いで。???何?
ガイドさんに聞いたら、ガンジス川に水を汲みに行く連中だそうだ。村のお寺のシヴァ神を浄めるための水を汲みにガンジス川まで歩いて行くそうな。ネットで調べたらカワルと呼ばれる行事らしいけど、デリーの近辺じゃ8月頃に行われる一大イベントみたいだ。どこまで歩いて行くんか知らんけど、ご苦労さんなことだ。なまぐさ坊主、脱帽。

午前10時45分、大きな町が近いのか、次第に道が混んできた。
混雑の原因は道路工事でした。
インド風コンビニ。
おいっ、あんまり見つめるな。
道路工事による渋滞をようやく抜けたと思ったら、今度は袋に入った積荷を載せたトラクターやらトラックで大渋滞。どうやら袋の中身はジャガイモらしい。この町にはジャガイモの集積所があるらしく、それで矢鱈めったらと混んでいる。
午後12時20分、ようやくラクナウの町に着いた。昼食は La Place Sarovar Portico というホテルのレストランでいただくんだけど、道路工事をしていてバスが入れないため、大通りにバスを停めて歩くことになった。すると、とたんに二人の女の子が寄ってくる。
手にボールみたいなものを持ってるけど、これに金を入れろってか?そんな金ありませんよ~だ。
現地ガイドのラケシュ君が道を間違えたらしく、団地の中をぐるぐる回ってようやくホテルに着いた。こぢんまりとしてるけど、なかなかのホテルだ。
テーブルの上には素敵なカードが。Enjoy your dish your way.Perrfect ! あなたの料理をあなたの方法でお楽しみください。完璧に!あれっ、正しい綴りはPerfectじゃないの。r が1個多いよ。これって、インドリッシュの綴り?
午後12時40分、ようやくお昼ご飯。ぎんぎんに冷えたビールに、いつものインド料理に、いつものナン。いや、ナンはいつものと違ってバターナンにガーリックナン。まあ、都会のホテルだから、田舎とは違うぞ、と言いたいんだろうけど、普通のナンのほうが美味い。
昼からビール飲み過ぎて、おしっこ。写真じゃ分からないと思うけど、インドの便器はえらい高い。インド人は大柄な人が多いから仕方ないんだけど、僕らが用を足そうとすると爪先立ちしないと、チ〇チ〇が便器についてしまう。素面の時はいいけど、酔って足下がふらついていると、もう大変。
やっとの思いでおしっこを終えて席についた時、バリーンという音。ボーイさんがビール瓶を床に落として割っちゃった。でも、二人のボーイさんは知らん顔。おいっ、割れた瓶片付けて、濡れた床を拭かんかい。でも、知ら~ん顔。
そう、これがカースト制度だ!ボーイさん達は上位カーストで床に落ちた物は絶対に拾わない。そんな仕事はもっと下のカーストのやることだ、ってわけだ。噂には聞いていて、世界史の授業で教えてはいるけど、まさか目の前で見ることになるとはね。教材に写真を撮ろうと思ったけど、流石に憚られたんで画像は無い。暫くしてから別の人間が床を片付けに来た。生きた世界史の授業でした。
さあ、午後はいよいよ列車に乗ってアグラに向けて出発だ。(つづく)
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2月28日(日)
綺麗な花が咲いている。まるで瓶を洗うブラシみたいだ。ブログを書きながらネットで調べてみたら、花槇というそうだ。フトモモ科ブラシノキ属の常緑樹で、英語名は Common red bottlebrush。そのまんまじゃん。それにしても、鮮やかで美しい赤ですね。
写真は沐浴するために掘られた池。当然ブッダもここで沐浴されたんだろうね。世界史習った人なら同じような写真が教科書に載ってたのを覚えているだろう。そう、インダス文明の遺跡モエンジョ=ダーロの写真の真ん中に写っていた沐浴池と似てるよね。このあたりの地区は1986年から関西大学とインド考古局の合同発掘調査で掘り出されたんだ。
この写真はトラベルサライからの借り物。前来た時はほとんど誰もいなくて、落ち着いてここでお経をあげられたんだけど、今日は結局お経をあげることなく、去らなくてはいけない。いくら有り難い場所だと言っても、居座り続けるのはマナー違反だぞ。くそっ。
「祇園精舎の鐘」を知らない人はいないと思うけど、本当にインドに「祇園精舎の鐘」があったよ(笑)。
「日本国祇園精舎の鐘の会」というのが造ったらしいんだけど、梵鐘は中国で生まれて日本に伝わったもの。ブッダの時代にインドに鐘なんかあるはずないじゃんね。恥ずかしくて、顔が赤くなっちゃたよ。
僕らは見るだけ。馬鹿馬鹿しくて、そんなもんつく気にもならない。インド人は面白半分に順番ついて、鐘鳴らしてたけどね。
午後7時、夕食。あれっ、今晩も鍋だ。奥村君に聞いたら、このホテルが鍋発祥の地で、ロイヤル・レンジデンシー・ホテルが真似したんだって。確かに昨日の鍋にはナマズが入っていて、ちょっと泥臭さがあったけど、こっちの鍋は上品で味もいい。
インド風餃子も出てきた。餃子にはやっぱビール。きのうは500mlの缶ビールが900円だったけど、今日のホテルは少し安くて800円。安いからと言って、今晩もまた飲み過ぎちゃった。
仏跡地の旅は今日まで。旅もいよいよ終わりに近づき、あと残すのはタージ=マハルだけ。明日はラクナウからアグラまで列車の旅になる。(つづく)
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綺麗な花が咲いている。まるで瓶を洗うブラシみたいだ。ブログを書きながらネットで調べてみたら、花槇というそうだ。フトモモ科ブラシノキ属の常緑樹で、英語名は Common red bottlebrush。そのまんまじゃん。それにしても、鮮やかで美しい赤ですね。
上ばかり見ていたら、美しい女の人が声をかけてきた。言葉はわかんないけど、一緒に写真を撮りたいと言ってるみたいだ。願ってもないと、二つ返事でOKして撮った写真。そんなに美しい人とは思えない、って。美しいのはシャッターを押した人。だから、僕の顔喜んでないっしょ。あなたと一緒に撮りたいと言いたいんだけど、言えない悲しさ。でも、なんで僕らと写真撮りたかったんだろうか。謎のまま。
この菩提樹はアーナンダ菩提樹と呼ばれている。地元の信者たちが不在がちのブッダの代わりに祈る対象が欲しいと懇願したため、アーナンダがブッダの許可を得て、ブッダガヤの菩提樹から移植したんだそうだ。と言うわけで、仏教徒にとってはブッダガヤの菩提樹に次いで2番目に大切な菩提樹なんだって。
写真は沐浴するために掘られた池。当然ブッダもここで沐浴されたんだろうね。世界史習った人なら同じような写真が教科書に載ってたのを覚えているだろう。そう、インダス文明の遺跡モエンジョ=ダーロの写真の真ん中に写っていた沐浴池と似てるよね。このあたりの地区は1986年から関西大学とインド考古局の合同発掘調査で掘り出されたんだ。
現在も修復作業が行われている。こんな広い所を数人でやってるから、なかなか捗らない。
40分ほどかかって祇園精舎跡を一周して来たんだけど、ブッダが住まいされていた香室跡にまだ坊さんどもが居座っている。
この写真はトラベルサライからの借り物。前来た時はほとんど誰もいなくて、落ち着いてここでお経をあげられたんだけど、今日は結局お経をあげることなく、去らなくてはいけない。いくら有り難い場所だと言っても、居座り続けるのはマナー違反だぞ。くそっ。

午後4時20分、スダッタ長者の屋敷跡に到着。屋敷跡は正確じゃないな、屋敷跡に建てられたストゥーパの跡。ということはこのあたりがマヘート遺跡で、コーサラ国の都サラヴァスティーの跡地だ。いにしえの都に思いをはせようにも、ここも観光客でいっぱい。中国人か韓国人か、とにかく五月蠅い。
僕も登ってみた。ただの平原が広がっており、ここにマガダ国と覇を競ったコーサラ国があったとはとても思えない。
こちらはアングリマーラのストゥーパの跡。こちらは誰も登っていない。何かの理由で禁止されてるんだろう。
アングリマーラは「指の首飾りをかける者」という意味で、本名はアヒンサ。体力・智慧ともに優れ、容姿も端麗であったアヒンサはマニー=ヴァードラというバラモンに師事し、聖典ヴェーダを学んでいた。そんなアヒンサに恋心を抱いたバラモンの奥さんがアヒンサを誘惑したんだけど、アヒンサはこれを強く拒絶。奥さんはアヒンサに拒否されたその腹いせに、自らの衣を破り裂いて悲相を装い、旦那のバラモンに「弟子のアヒンサに乱暴され、辱めを受けた」と嘘をついた。これを聞いたバラモンは激怒し、アヒンサに「100人の人間を殺して、その指を切り取って首飾りにすれば、お前の修行は完成し、悟りを得るだろう」と教えた。
根が真面目な性格だったアヒンサはバラモンの命令通りに人々を殺してその指を切り取っていった。そのためサラヴァスティーの人々からアングリマーラと呼ばれ、恐れられるようになった。彼はとうとう99人を殺し、あと一人を殺そうとした老婆は彼の母親だった。アヒンサが母親を殺すことをためらったその時、そこにブッダが通りかかった。ストゥーパが建っているのが、まさにその場所なんだって。その後アングリマーラはブッダに諭されて改心し、ブッダの弟子になるんだけど、長くなるんで続きは「ブッダの弟子たち その14」を読んでね。
祇園精舎というと、古典の時間に習った『平家物語』を思い出すよね。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」アングリマーラは「指の首飾りをかける者」という意味で、本名はアヒンサ。体力・智慧ともに優れ、容姿も端麗であったアヒンサはマニー=ヴァードラというバラモンに師事し、聖典ヴェーダを学んでいた。そんなアヒンサに恋心を抱いたバラモンの奥さんがアヒンサを誘惑したんだけど、アヒンサはこれを強く拒絶。奥さんはアヒンサに拒否されたその腹いせに、自らの衣を破り裂いて悲相を装い、旦那のバラモンに「弟子のアヒンサに乱暴され、辱めを受けた」と嘘をついた。これを聞いたバラモンは激怒し、アヒンサに「100人の人間を殺して、その指を切り取って首飾りにすれば、お前の修行は完成し、悟りを得るだろう」と教えた。
根が真面目な性格だったアヒンサはバラモンの命令通りに人々を殺してその指を切り取っていった。そのためサラヴァスティーの人々からアングリマーラと呼ばれ、恐れられるようになった。彼はとうとう99人を殺し、あと一人を殺そうとした老婆は彼の母親だった。アヒンサが母親を殺すことをためらったその時、そこにブッダが通りかかった。ストゥーパが建っているのが、まさにその場所なんだって。その後アングリマーラはブッダに諭されて改心し、ブッダの弟子になるんだけど、長くなるんで続きは「ブッダの弟子たち その14」を読んでね。
「祇園精舎の鐘」を知らない人はいないと思うけど、本当にインドに「祇園精舎の鐘」があったよ(笑)。
「日本国祇園精舎の鐘の会」というのが造ったらしいんだけど、梵鐘は中国で生まれて日本に伝わったもの。ブッダの時代にインドに鐘なんかあるはずないじゃんね。恥ずかしくて、顔が赤くなっちゃたよ。

僕らは見るだけ。馬鹿馬鹿しくて、そんなもんつく気にもならない。インド人は面白半分に順番ついて、鐘鳴らしてたけどね。
午後4時50分、ホテルに到着。今日のホテルはニッコウ・ロータス・ホテル。名前を聞くと日航系列のホテルだと思ってしまうけど、日航さんとは何の関係もない。
部屋はまずまず。
午後7時、夕食。あれっ、今晩も鍋だ。奥村君に聞いたら、このホテルが鍋発祥の地で、ロイヤル・レンジデンシー・ホテルが真似したんだって。確かに昨日の鍋にはナマズが入っていて、ちょっと泥臭さがあったけど、こっちの鍋は上品で味もいい。
インド風餃子も出てきた。餃子にはやっぱビール。きのうは500mlの缶ビールが900円だったけど、今日のホテルは少し安くて800円。安いからと言って、今晩もまた飲み過ぎちゃった。
仏跡地の旅は今日まで。旅もいよいよ終わりに近づき、あと残すのはタージ=マハルだけ。明日はラクナウからアグラまで列車の旅になる。(つづく)
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2月28日(日)
午後3時25分、サヘート遺跡に到着。案内板にはJETAVAN、ジェータ園と書かれている。ここがあの有名な祇園精舎の跡で、19世紀半ばにイギリスの考古学者アレクサンダー・カニンガムによって考古学的に証明されている。この地はネパールとの国境に近いオウドの北方約93キロのところにあり、ガンジス川の支流ラプティ川の旧河道に接し、ヒンドゥスタン平原のただ中にある。現在は10万平方メートル(東京ドームの約2倍)もある歴史公園として整備されている。
今日は日曜日なんで参詣者で溢れかえっている。なかなか順番も回ってきそうもないんで、歩きながら祇園精舎の話をしよう。
ブッダの布教活動は初めマガダ国のラージャガハ(王舎城)が中心だったけど、やがて西北にあるコーサラ国にも広がっていった。マガダ国はガンジス川の中流あたりに位置し、コーサラ国はガンジス川の支流ラプティ川の流域にあり、都はシュラヴァスティーといった。漢訳仏典では舎衛城と訳す。スダッタはこのシュラヴァスティーの大富豪だ。スダッタは「よく布施をする人」という意味なんだけど、その名の通りボランティア精神にあふれた人で、貧しい人々や身寄りのない人に惜しみなく施しをしたので、「身寄りがない孤独な者に食事を支給する長者」という意味で、アナータピンディカ(給孤独【ぎつこどく】)長者とも呼ばれた。
スダッタは商売で成功した新興の豪商で、マガダ国の大富豪の妹を嫁さんにしていたので、よく商用でラージャガハを訪れていた。ある時、スダッタがラージャガハに来てみると、義理の兄ちゃんが忙しそうにあたふたと動き回っている。理由を聞くと、竹林精舎におられるブッダとその教団の修行僧たちをご招待するのに忙しいのだと言う。
スダッタは、ブッダという言葉を聞いただけで驚いてしまう。近頃誰一人知らぬ者はいないというほど高名なブッダがこの町におられると知ったもんだから、落ち着いてはいられない。「私もこれから出かけて行って、すぐにでもお目にかかりたい」と言うのを、義理の兄ちゃんに「明日の朝にしなさい」と止められちゃった。
翌朝、スダッタは夜の明けるのももどかしく、転がるように急いで竹林精舎へと向かった。ブッダはその朝、コーサラ国のスダッタが会いに来るということを知って、道の傍らで待っていた。スダッタが近づくと、「おお、スダッタ、よく来た」 と声をかけた。
スダッタは飛び上がらんばかりに感激してしまった。だってブッダが自分の名前を呼んでくれたんだよ。こんな光栄なことはないよね。嬉しくて、即座にブッダの足元にひれ伏した。スダッタは、「ブッダ、わが名を呼びたもう」と、後々まで語り続けたとのことだ。
ブッダは、はるばる訪ねて来たスダッタに布施と持戒について説き、その果報によって天上に生まれることを教え、スダッタは在家のままでブッダの弟子となった。この時、スダッタは、「ここはマガダ国。どうか、わがコーサラ国へも、教団の皆さんとおいでいただきたい。精舎を寄進いたします」とお願いして、ブッダの承諾を得た。
商用もそこそこに済ませコーサラ国のシュラヴァスティーの自宅へ戻ると、スダッタはブッダの教団のために僧院を寄進すべく、ふさわしい場所を懸命に探した。ちょうど適当な土地が見つかったんだけど、そこはコーサラ国王パセーナディの太子ジェータ所有の園林だった。
スダッタは、ジェータ太子に、「この土地をブッダの教団に寄進したいので売って欲しい」と交渉したんだけど、答えはNO。「買いたい」「売らない」という問答が延々と続いたんだけど、ある時、太子が思わず、「たとえこの土地に金貨を敷き詰めたとしても、売らないよ」と言ってしまった。これを聞いたスダッタはニヤッと笑って、「勝った」と小さく叫んだ。
太子の言葉を聞き逃さなかったスダッタは、『金貨』という言葉が出たんだから、金貨を敷き詰めた部分だけは売ってくれるはずだと考え、車で金貨を運ばせ、その土地に並べ始めた。スダッタにとってはあり余るほどの金貨だったけど、敷き詰めてみると金貨はわずか入り口のあたりを埋めるだけだった。なんせジェータ園の遺跡は考古学者の実測によると19,170坪もある。東京ドームの広さの1.35倍の広さだよ。これに金貨を敷き詰めようというんだから、金貨がなんぼあっても足りない。スダッタはそれにもめげず、私財をなげうって金貨を敷き続け、少しもあきらめる様子を見せなかった。
それを見たジェータ太子は、スダッタの信仰の篤さに感心し、とうとう入り口は自分が寄進することを条件に園林を売ってくれることになった。スダッタはそこに精舎を建て、教団に寄進したんだけど、これが有名な祇園精舎だ。さっき書いたけど、スダッタの別名が給孤独長者。広い土地をスダッタに分けてやり、自らは僧院の門を寄進したジェータ太子は漢訳で祇陀【ぎだ】太子。そこで、新しく建てられたこの僧院は二人の名をとって、「祇樹給孤独園精舎【ぎじゅぎつこどくおんしょうじゃ】」、略して祇園精舎(ジェータヴァナ・ヴィハーラ)と呼ばれるようになったという訳だ。
添乗員の奥村君が以上のお話を長々と語ってくれた。僕は知ってるので半分上の空。ところが、僕に耳がある言葉に反応した、奥村君が一度この祇園精舎からヒマラヤを見たことがあると言うんだ。ブッダが雨期の3カ月間雨安居を過ごした場所は6カ所あったようなんだけど、ここ祇園精舎が26回と断トツに多いんだ。第2位の竹林精舎が5回だから、ブッダはほとんどこの祇園精舎で雨安居を過ごしている。その謎が今解けた。故郷カピラヴァットゥはヒマラヤの麓、ブッダは幼い頃から白く輝く山々を見て育った。そのヒマラヤが望むことができる祇園精舎が大好きだったんだね。いや~、新たな発見です。奥村君、ありがとうね。
だいぶ話が長くなっちゃったね。続きは今度にしよう。(つづく)
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午後3時25分、サヘート遺跡に到着。案内板にはJETAVAN、ジェータ園と書かれている。ここがあの有名な祇園精舎の跡で、19世紀半ばにイギリスの考古学者アレクサンダー・カニンガムによって考古学的に証明されている。この地はネパールとの国境に近いオウドの北方約93キロのところにあり、ガンジス川の支流ラプティ川の旧河道に接し、ヒンドゥスタン平原のただ中にある。現在は10万平方メートル(東京ドームの約2倍)もある歴史公園として整備されている。
今日は日曜日なんで参詣者で溢れかえっている。なかなか順番も回ってきそうもないんで、歩きながら祇園精舎の話をしよう。
ブッダの布教活動は初めマガダ国のラージャガハ(王舎城)が中心だったけど、やがて西北にあるコーサラ国にも広がっていった。マガダ国はガンジス川の中流あたりに位置し、コーサラ国はガンジス川の支流ラプティ川の流域にあり、都はシュラヴァスティーといった。漢訳仏典では舎衛城と訳す。スダッタはこのシュラヴァスティーの大富豪だ。スダッタは「よく布施をする人」という意味なんだけど、その名の通りボランティア精神にあふれた人で、貧しい人々や身寄りのない人に惜しみなく施しをしたので、「身寄りがない孤独な者に食事を支給する長者」という意味で、アナータピンディカ(給孤独【ぎつこどく】)長者とも呼ばれた。
スダッタは商売で成功した新興の豪商で、マガダ国の大富豪の妹を嫁さんにしていたので、よく商用でラージャガハを訪れていた。ある時、スダッタがラージャガハに来てみると、義理の兄ちゃんが忙しそうにあたふたと動き回っている。理由を聞くと、竹林精舎におられるブッダとその教団の修行僧たちをご招待するのに忙しいのだと言う。
スダッタは、ブッダという言葉を聞いただけで驚いてしまう。近頃誰一人知らぬ者はいないというほど高名なブッダがこの町におられると知ったもんだから、落ち着いてはいられない。「私もこれから出かけて行って、すぐにでもお目にかかりたい」と言うのを、義理の兄ちゃんに「明日の朝にしなさい」と止められちゃった。
翌朝、スダッタは夜の明けるのももどかしく、転がるように急いで竹林精舎へと向かった。ブッダはその朝、コーサラ国のスダッタが会いに来るということを知って、道の傍らで待っていた。スダッタが近づくと、「おお、スダッタ、よく来た」 と声をかけた。
スダッタは飛び上がらんばかりに感激してしまった。だってブッダが自分の名前を呼んでくれたんだよ。こんな光栄なことはないよね。嬉しくて、即座にブッダの足元にひれ伏した。スダッタは、「ブッダ、わが名を呼びたもう」と、後々まで語り続けたとのことだ。
ブッダは、はるばる訪ねて来たスダッタに布施と持戒について説き、その果報によって天上に生まれることを教え、スダッタは在家のままでブッダの弟子となった。この時、スダッタは、「ここはマガダ国。どうか、わがコーサラ国へも、教団の皆さんとおいでいただきたい。精舎を寄進いたします」とお願いして、ブッダの承諾を得た。
商用もそこそこに済ませコーサラ国のシュラヴァスティーの自宅へ戻ると、スダッタはブッダの教団のために僧院を寄進すべく、ふさわしい場所を懸命に探した。ちょうど適当な土地が見つかったんだけど、そこはコーサラ国王パセーナディの太子ジェータ所有の園林だった。
スダッタは、ジェータ太子に、「この土地をブッダの教団に寄進したいので売って欲しい」と交渉したんだけど、答えはNO。「買いたい」「売らない」という問答が延々と続いたんだけど、ある時、太子が思わず、「たとえこの土地に金貨を敷き詰めたとしても、売らないよ」と言ってしまった。これを聞いたスダッタはニヤッと笑って、「勝った」と小さく叫んだ。
太子の言葉を聞き逃さなかったスダッタは、『金貨』という言葉が出たんだから、金貨を敷き詰めた部分だけは売ってくれるはずだと考え、車で金貨を運ばせ、その土地に並べ始めた。スダッタにとってはあり余るほどの金貨だったけど、敷き詰めてみると金貨はわずか入り口のあたりを埋めるだけだった。なんせジェータ園の遺跡は考古学者の実測によると19,170坪もある。東京ドームの広さの1.35倍の広さだよ。これに金貨を敷き詰めようというんだから、金貨がなんぼあっても足りない。スダッタはそれにもめげず、私財をなげうって金貨を敷き続け、少しもあきらめる様子を見せなかった。
それを見たジェータ太子は、スダッタの信仰の篤さに感心し、とうとう入り口は自分が寄進することを条件に園林を売ってくれることになった。スダッタはそこに精舎を建て、教団に寄進したんだけど、これが有名な祇園精舎だ。さっき書いたけど、スダッタの別名が給孤独長者。広い土地をスダッタに分けてやり、自らは僧院の門を寄進したジェータ太子は漢訳で祇陀【ぎだ】太子。そこで、新しく建てられたこの僧院は二人の名をとって、「祇樹給孤独園精舎【ぎじゅぎつこどくおんしょうじゃ】」、略して祇園精舎(ジェータヴァナ・ヴィハーラ)と呼ばれるようになったという訳だ。
添乗員の奥村君が以上のお話を長々と語ってくれた。僕は知ってるので半分上の空。ところが、僕に耳がある言葉に反応した、奥村君が一度この祇園精舎からヒマラヤを見たことがあると言うんだ。ブッダが雨期の3カ月間雨安居を過ごした場所は6カ所あったようなんだけど、ここ祇園精舎が26回と断トツに多いんだ。第2位の竹林精舎が5回だから、ブッダはほとんどこの祇園精舎で雨安居を過ごしている。その謎が今解けた。故郷カピラヴァットゥはヒマラヤの麓、ブッダは幼い頃から白く輝く山々を見て育った。そのヒマラヤが望むことができる祇園精舎が大好きだったんだね。いや~、新たな発見です。奥村君、ありがとうね。
だいぶ話が長くなっちゃったね。続きは今度にしよう。(つづく)
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