なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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8月3日(木)
屋根はヤシの葉で葺かれている。こんなんで雨漏りせんのかね。
運動したんで喉カッラカラ。何はともあれ、先ずはビール。お馴染みのライオンビール。シュワシュワと心地よいビールが喉を通った瞬間、まさに砂漠に降る恵みの雨のように心まで潤っていく。
ってんで、今日の昼飯のメニューは、サフランライスにチキンカレー、ダールカレー、オクラカレーと、なんと西瓜のカレー。写真じゃ、どれがどれか分かりません。
午後1時にレストランを出発、30分程でポロンナルワに到着した。紀元前380年頃に建国されたシンハラ王朝は最初アヌラーダプラ(明日行きま~す)に都を置いた。しかし、1017年、南インドのタミル人のチョーラ朝にアヌラーダプラを征服され、やむなくここポロンナルワに都を遷した。ポロンナルワはスリランカで一番の川があり、上下流の交通の要所であるとともに防御にも適し、また、周囲に米作りに適した湖が多いことも遷都の理由だったようだ。遷都したウィジャヤバーフ1世はその後チョーラ王朝を追放しポロンナルワに繁栄をもたらした。しかし、その繁栄も200年余り、チョーラ朝を滅ぼしたタミル人のパーンディヤ朝の攻撃を受け、1255年にポロンナルワを放棄、シンハラ王朝は島の中央部へと退いていった。
最初はパラークラマ・バーフ1世が建設した宮殿跡。ウィジャヤバーフ1世の孫にあたるパラークマラ・バーフ1世は巨大な貯水池を作って灌漑を充実させるとともに、ポロンナルワに多くの寺院を建築して、ポロンナルワの最盛期を築いたスリランカ史上最大の英傑。
宮殿は幅13メートル、奥行きが31メートル、地上7階建てで、部屋数は50。煉瓦を重ねた壁の厚さは約3メートル、36本の柱がホールの屋根を支えていたそうだ。右端にいる赤い服の人と比べれば如何に大きな建物だったかが分かる。現在は3階部分までの煉瓦造りの壁しか残っておらず、木製の床を支える柱がはめ込まれた跡が見られる。4階から上は木造だっため残念ながら残らなかったみたいだ。
宮殿の北東にある閣議場。
僕が撮してたのは、これ。ライオンですね。シンハラ王朝の成立に関してはまた後で書くけど、「シンハラ」は「ライオンの子孫」の意味。
もう一度、閣議場の入場階段の写真を見てもらえますか。階段の上がり口の所にこんな半円形の石があるよね。これムーンストーンって言うんだ。ムーンストーンと言うと女の人は宝石を思い浮かべるかも知れないけど、それじゃなくて仏塔や寺院の入口に敷かれているす半円形の図柄のこと。入り口から悪魔が入るのを防ぎ、内部の本尊を守るためのもので、普通は象(誕生)、馬(老齢)、ライオン(病)、牡牛(死)の4種類の動物が刻まれ、輪廻を表しているそうだ。ところが、写真を見てもらっても牡牛がいないよね。これが、ポロンナルワ時代にはすでにヒンドゥー教がインドから伝わっていた証拠とされる。ヒンドゥー教では牡牛であるナンディがシヴァ神の乗り物として神さまになってるから、外しちゃったみたいだよ。
ジャヤン君が説明しているから、そろそろ入場しようかね。
閣議場の入り口に鎮座する狛犬。でも、これはどう見ても犬ではなくライオン(獅子)だよね。実は古代オリエントでは聖なるものの守護神としてライオンが用いられており、ピラミッドを守るスフィンクスがそのいい例だ。これが中国に伝わり、仏教とともに朝鮮半島を経て日本に入って来た時に、犬と勘違いして高麗犬と呼ばれ、狛犬となったと言われている。
分かりにくいんで拡大してみるね。両手を広げて梁を支えている人のように見えるよね。おっぱいのようなものも見えるんで、これは、たぶん女神ヤクシー(夜叉女)だね。
写真はパキスタンのジョーリアン遺跡の漆喰で造られたストゥコ像。一番下で梁を支えているのが、天を背負う役目を負わされたギリシアの神アトラス。もし、閣議場の基壇のものがアトラスだったら、スリランカにもヘレニズムの影響があるという大発見なんだけど、まあ違うわな。
閣議場のすぐ近くにあるシヴァ・デーワーラヤ。この遺跡の中にある唯一のヒンドゥー教寺院で、13世紀に建てられた。ポロンナルワは、タイやビルマからも修行僧が訪れた国際的な仏教の中心地だったのに、なんでヒンドゥー寺院がここに建てられたのか。二つ説があって、一つは当時の王妃の一人が南インドから迎えたヒンドゥー教徒だったという説。もう一つは南インドのチョーラ人がこの地を侵略したときに建てたという説。
ジャヤン君の説明を聞いて、「ふ~ん」と言ってみんな次に行っちゃったけど、僕だけ後ろに回ってみた。なんでか、って。ここが本当にシヴァ神を祀ったお寺か確認するため。
そう、これがシヴァ神の象徴。まあ~、いやらしい、なんて言わないでね。純粋に学問的興味から確認しただけですから。みんなにも説明してあげようと思ったんだけど、向こうのほうに行っちゃった。せっかくの機会だったのに、残念。
石像を詳しく図解するとこうなる。シヴァ神の持つエネルギーの象徴とされているリンガとヨーニ。リンガは男性のおちんちんで、ヨーニは女性の〇〇〇〇。リンガとヨーニがどういう状態かわかるよね。白い液体らしきものがかかっているけど、これが何かはご想像にお任せします。
つまり、シヴァ神は破壊の神として有名だけど、破壊しなければ次の新しいものは生まれて来ないんで、シヴァ神は創造の神でもあるんだ。リンガとヨーニは人間を創造するものだから、シヴァ神のシンボルだ、という訳。お分かり?
スリランカの土産物屋はインドみたいにしつこくない。インドでもお馴染みの透かし彫りの象。象の中に子象がいる。1個5,000円と最初からふっかけてきた。インドで買ったもっと質のいいものがうちにあるし、「要らない」と断ったんだけど、なっちゃんが欲しそうな顔をしている。しゃあないんで、結局1,000円で買った。爺ちゃん、孫に甘いね。(つづく)
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午前11時15分、シーギリヤを出発してポロンナルワに向かう。岩山を登り降りして腹も減ったことだし、途中大きな掘っ立て小屋みたいなレストランで昼飯。
屋根はヤシの葉で葺かれている。こんなんで雨漏りせんのかね。
運動したんで喉カッラカラ。何はともあれ、先ずはビール。お馴染みのライオンビール。シュワシュワと心地よいビールが喉を通った瞬間、まさに砂漠に降る恵みの雨のように心まで潤っていく。
待ってても誰も料理を持って来てくれない。しゃあない、料理取ってくるか。
ってんで、今日の昼飯のメニューは、サフランライスにチキンカレー、ダールカレー、オクラカレーと、なんと西瓜のカレー。写真じゃ、どれがどれか分かりません。
午後1時にレストランを出発、30分程でポロンナルワに到着した。紀元前380年頃に建国されたシンハラ王朝は最初アヌラーダプラ(明日行きま~す)に都を置いた。しかし、1017年、南インドのタミル人のチョーラ朝にアヌラーダプラを征服され、やむなくここポロンナルワに都を遷した。ポロンナルワはスリランカで一番の川があり、上下流の交通の要所であるとともに防御にも適し、また、周囲に米作りに適した湖が多いことも遷都の理由だったようだ。遷都したウィジャヤバーフ1世はその後チョーラ王朝を追放しポロンナルワに繁栄をもたらした。しかし、その繁栄も200年余り、チョーラ朝を滅ぼしたタミル人のパーンディヤ朝の攻撃を受け、1255年にポロンナルワを放棄、シンハラ王朝は島の中央部へと退いていった。
最初はパラークラマ・バーフ1世が建設した宮殿跡。ウィジャヤバーフ1世の孫にあたるパラークマラ・バーフ1世は巨大な貯水池を作って灌漑を充実させるとともに、ポロンナルワに多くの寺院を建築して、ポロンナルワの最盛期を築いたスリランカ史上最大の英傑。
宮殿は幅13メートル、奥行きが31メートル、地上7階建てで、部屋数は50。煉瓦を重ねた壁の厚さは約3メートル、36本の柱がホールの屋根を支えていたそうだ。右端にいる赤い服の人と比べれば如何に大きな建物だったかが分かる。現在は3階部分までの煉瓦造りの壁しか残っておらず、木製の床を支える柱がはめ込まれた跡が見られる。4階から上は木造だっため残念ながら残らなかったみたいだ。
右側に白い部分が見られるのは漆喰の跡だ。漆喰の跡は壁の外部にも見られ、アメリカ合衆国大統領官邸のようなホワイトハウスだったことが分かる。
宮殿の北東にある閣議場。
閣議場の入場階段。みんな古の大臣よろしくジャヤン君に続いて閣議場に入場して行くけど、僕は撮影に余念がない。何を撮してるかって?
僕が撮してたのは、これ。ライオンですね。シンハラ王朝の成立に関してはまた後で書くけど、「シンハラ」は「ライオンの子孫」の意味。
だからスリランカの国旗にもライオンが描かれている。ちなみにライオンの周りにある4枚の葉っぱは菩提樹で仏教徒を表し、緑と橙色の帯は少数派のイスラーム教徒とヒンドゥー教のタミル人を表してるんだってさ、なっちゃんに教えてもらいました。世界史の先生も脱帽。
もう一度、閣議場の入場階段の写真を見てもらえますか。階段の上がり口の所にこんな半円形の石があるよね。これムーンストーンって言うんだ。ムーンストーンと言うと女の人は宝石を思い浮かべるかも知れないけど、それじゃなくて仏塔や寺院の入口に敷かれているす半円形の図柄のこと。入り口から悪魔が入るのを防ぎ、内部の本尊を守るためのもので、普通は象(誕生)、馬(老齢)、ライオン(病)、牡牛(死)の4種類の動物が刻まれ、輪廻を表しているそうだ。ところが、写真を見てもらっても牡牛がいないよね。これが、ポロンナルワ時代にはすでにヒンドゥー教がインドから伝わっていた証拠とされる。ヒンドゥー教では牡牛であるナンディがシヴァ神の乗り物として神さまになってるから、外しちゃったみたいだよ。
ジャヤン君が説明しているから、そろそろ入場しようかね。
閣議場の入り口に鎮座する狛犬。でも、これはどう見ても犬ではなくライオン(獅子)だよね。実は古代オリエントでは聖なるものの守護神としてライオンが用いられており、ピラミッドを守るスフィンクスがそのいい例だ。これが中国に伝わり、仏教とともに朝鮮半島を経て日本に入って来た時に、犬と勘違いして高麗犬と呼ばれ、狛犬となったと言われている。
だから日本の神社に置かれている狛犬も実はライオン(獅子)なんだ。ただし、左右同じに見えるけど、厳密に言うと口を開けている右側の「阿形【あぎょう】」は獅子で、口を閉じている左側の「吽形【うんぎょう】」が狛犬なんだってさ。
ライオンはこんな所にもいる。閣議場の基壇部分のレリーフで、一番下に象、その上にライオン、さてもう一つ上には?
分かりにくいんで拡大してみるね。両手を広げて梁を支えている人のように見えるよね。おっぱいのようなものも見えるんで、これは、たぶん女神ヤクシー(夜叉女)だね。
写真はパキスタンのジョーリアン遺跡の漆喰で造られたストゥコ像。一番下で梁を支えているのが、天を背負う役目を負わされたギリシアの神アトラス。もし、閣議場の基壇のものがアトラスだったら、スリランカにもヘレニズムの影響があるという大発見なんだけど、まあ違うわな。

閣議場の中に入ると石柱が林立している。一番奥に王さまが座り、左右の各石柱には彫刻が施されており、大臣の名前が刻まれている。その前に大臣たちが座り、王さまと喧喧諤諤の話し合いをしたんかね。
爺ちゃんはジャヤン君の説明も聞かずに写真撮ってるのに、なっちゃんはちゃんと説明を聞いてる。偉いね~。
ジャヤン君の説明を聞いて、「ふ~ん」と言ってみんな次に行っちゃったけど、僕だけ後ろに回ってみた。なんでか、って。ここが本当にシヴァ神を祀ったお寺か確認するため。
そう、これがシヴァ神の象徴。まあ~、いやらしい、なんて言わないでね。純粋に学問的興味から確認しただけですから。みんなにも説明してあげようと思ったんだけど、向こうのほうに行っちゃった。せっかくの機会だったのに、残念。
石像を詳しく図解するとこうなる。シヴァ神の持つエネルギーの象徴とされているリンガとヨーニ。リンガは男性のおちんちんで、ヨーニは女性の〇〇〇〇。リンガとヨーニがどういう状態かわかるよね。白い液体らしきものがかかっているけど、これが何かはご想像にお任せします。

つまり、シヴァ神は破壊の神として有名だけど、破壊しなければ次の新しいものは生まれて来ないんで、シヴァ神は創造の神でもあるんだ。リンガとヨーニは人間を創造するものだから、シヴァ神のシンボルだ、という訳。お分かり?
スリランカの土産物屋はインドみたいにしつこくない。インドでもお馴染みの透かし彫りの象。象の中に子象がいる。1個5,000円と最初からふっかけてきた。インドで買ったもっと質のいいものがうちにあるし、「要らない」と断ったんだけど、なっちゃんが欲しそうな顔をしている。しゃあないんで、結局1,000円で買った。爺ちゃん、孫に甘いね。(つづく)
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8月3日(木)
ようやく空いたので、全員で記念撮影。10名全員が無事ここまで登れました。
僕もインスタ用に自撮りで1枚。それにしてもでかい前足の爪だよね。現在は前足の一部しか残ってないけど、昔は足、頭部があったそうだ。
想像復元すると、こんな感じですかね。ライオンが大きく口を開けて座った形になっていて、階段を登って行くと、ライオンの喉に飲み込まれて行くような感じになっていた、と考えられている。何でそんなことが言えるのか言うと、「ライオンの喉」はここの地名の由来なんですね~。と言うのは、シンハラ語でライオンは「シンハShinha」、喉は「ギリヤGiriya」、ほんで「ライオンの喉」は「シンハギリヤShinhagiriya」となり、これが「シーギリヤ」になったちゅう訳だ。
さあ、休憩も十分にとったし、元気出して行くぞ~。それにしてもかなり急な階段ですな~。
いよいよ最後の階段。あれ登ったら、頂上でっせ。ほら、あともう一息。
ライオンの入り口から息を切らして登ること約10分、午前9時50分、ついに登り切りました。
左の外人さんが立っている2段の石があるけど、これが1250段の階段の最後の2段だそうだ。登った人はみんなここに立って記念撮影する。ここに立たないと1250段登ったことにならない。あほか!
と言いながら、僕も立ってみた。4人はライオンの入り口でギブアップしたんで、最後まで登り切った6人で記念撮影。みんなよく頑張りました。褒めてつかわす。
360度のパノラマ。素晴らしい絶景ですな。
崖から下を覗くと遙か下に真っ直ぐの道が見えるけど、あれが水の広場からこの岩の登り口まで続いている道だ。高低差200メートル。高所恐怖症の人だとかなり怖いでしょうね。
これがカーシャパ王のプール。こんな岩の上で泳いでいたなんて、なんて贅沢な。
あっ、一つ閃いた。遮るものが一つも無いから岩の上は台風並みの無茶苦茶強い風が吹いている。それも下から吹き上げるので、見学に来た女子高校生が捲れるスカートを押さえるのに必死になっていた。(おじさんは捲れるのをつい期待してしまいました)それくらい風が吹いているので、あまり暑さを感じてないけど、岩の上なんで太陽光線が容赦なく降り注いでいる。ソーラーで湯を沸かして「天空温泉」にすれば、10ドルほど取れるんじゃない。
素人がいくら一所懸命撮しても全体像は分からないと思うので、また画像を借りてきた。シーギリヤ・ロックの頂上はこんな風になっている。面積は1.6haで、5,000坪弱。この狭い空間に王宮、兵舎、住居、ダンスステージがあったらしい。
シーギリヤ博物館の再現ビデオによると、こんな感じだったらしい。弟の復讐を恐れたカーシャパ王はこの岩山の天辺にこんな華麗な王宮を建てて住んだ。あまりの恐怖心が岩の頂上まで逃げるという選択をさせたんだろうけど、なんか間違ってないかな。確かに360度見渡せる岩の上だから、敵が攻めて来るのをいち早く発見出来るし、敵はこの岩山の天辺にある王宮に攻撃をくわえることは出来ない。でもね、兵糧攻めされたら、果たして何ヶ月持つかね。雨に降らない時期にやられたら、一月も持たないんじゃない。
南インドに亡命していた弟のモッガラーナは、495年に兄に戦いを仕掛ける。最初は兄貴が優勢だったけど、その後劣勢に転じ、観念したカーシャパ王は喉を掻き切り自害、シーギリヤは陥落したと伝えられている。恐らく兵糧攻めされたんだろうね。王位についたモッガラーナはシーギリヤを仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへと移した。シーギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続するが、徐々に衰退。しだいに忘れ去られていった。
今は廃墟となってしまった王宮跡に立つと、聞こえて来るのは風の音だけ。なんだか人間の欲望の果ての虚しさがひしひしと胸を打つ。と、感傷に浸りたいんだけど、風の音よりも観光客の声のほうが五月蠅い。午前10時30分、岩山を降りた。
登りよりも降りる時に気をつけなければならないのは登山の常識。なんせ足ふらふらだから、蹴躓いたら一巻の終わり、階段から転落してしまう。と言うことで、写真撮る余裕無し。余裕たっぷりのなっちゃんの作品から2点。これはAsana Caveと書いてあるから、坊さん達が瞑想した場所だね。
これ何に見えますか。天空に向かって鎌首をもたげた、そうコブラ。「コブラの岩」でした。
午前10時50分、全員怪我もなく無事下山。朝到着した時は逆光だったんで、今一度全員で記念撮影。みなさん、お疲れさまでした。(つづく)
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シーギリヤ・レディを堪能した後、さらに上をめざす。前を行くOさんの両脇を抱えているのは親切なスリランカの若者じゃなくて、有料のヘルパー。インドの霊鷲山には篭屋がいるけど、ここは階段なんで篭は使えない。一人2,000ルピー(1,500円)。80歳を超えていてお金持ちのOさんは二人雇って3,000円。霊鷲山の篭屋は10年ほど前で800円だったから、かなり高い。
ヘルパーは時には後ろから押してくれる。Oさんに後から聞いたら随分楽だったそうで、3,000円払う価値はあるようだ。
Yさんも80歳を超えてるけど、自力で頑張ってる。なっちゃんも頑張ってるね~。添乗員の奥村君はかなりしんどそう。
ほれ頑張れ、もう少しだよ。
息を切らして登ること10分、午前9時35分、ついにライオンの入り口に到着。午前中なんでまだ観光客は少ないほうだけど、記念撮影のためライオンの足の前に群がっていて、なかなか僕たちが記念撮影出来ない。
ようやく空いたので、全員で記念撮影。10名全員が無事ここまで登れました。
僕もインスタ用に自撮りで1枚。それにしてもでかい前足の爪だよね。現在は前足の一部しか残ってないけど、昔は足、頭部があったそうだ。
想像復元すると、こんな感じですかね。ライオンが大きく口を開けて座った形になっていて、階段を登って行くと、ライオンの喉に飲み込まれて行くような感じになっていた、と考えられている。何でそんなことが言えるのか言うと、「ライオンの喉」はここの地名の由来なんですね~。と言うのは、シンハラ語でライオンは「シンハShinha」、喉は「ギリヤGiriya」、ほんで「ライオンの喉」は「シンハギリヤShinhagiriya」となり、これが「シーギリヤ」になったちゅう訳だ。
さあ、休憩も十分にとったし、元気出して行くぞ~。それにしてもかなり急な階段ですな~。
いよいよ最後の階段。あれ登ったら、頂上でっせ。ほら、あともう一息。
ライオンの入り口から息を切らして登ること約10分、午前9時50分、ついに登り切りました。
今登って来たところを上空から見た画像。僕はドローンじゃないから、もちろんネットからの拝借画像。下の広場がライオンのテラス。そこからの傾斜面は約60度。そこにへばりついている階段を登ってきたわけだ。
左の外人さんが立っている2段の石があるけど、これが1250段の階段の最後の2段だそうだ。登った人はみんなここに立って記念撮影する。ここに立たないと1250段登ったことにならない。あほか!
と言いながら、僕も立ってみた。4人はライオンの入り口でギブアップしたんで、最後まで登り切った6人で記念撮影。みんなよく頑張りました。褒めてつかわす。
360度のパノラマ。素晴らしい絶景ですな。
この山はシーギリヤ・ロックに王宮を建設の際、元々ここに在った坊さん達の修験場を移した山らしい。
崖から下を覗くと遙か下に真っ直ぐの道が見えるけど、あれが水の広場からこの岩の登り口まで続いている道だ。高低差200メートル。高所恐怖症の人だとかなり怖いでしょうね。
これがカーシャパ王のプール。こんな岩の上で泳いでいたなんて、なんて贅沢な。
あっ、一つ閃いた。遮るものが一つも無いから岩の上は台風並みの無茶苦茶強い風が吹いている。それも下から吹き上げるので、見学に来た女子高校生が捲れるスカートを押さえるのに必死になっていた。(おじさんは捲れるのをつい期待してしまいました)それくらい風が吹いているので、あまり暑さを感じてないけど、岩の上なんで太陽光線が容赦なく降り注いでいる。ソーラーで湯を沸かして「天空温泉」にすれば、10ドルほど取れるんじゃない。
素人がいくら一所懸命撮しても全体像は分からないと思うので、また画像を借りてきた。シーギリヤ・ロックの頂上はこんな風になっている。面積は1.6haで、5,000坪弱。この狭い空間に王宮、兵舎、住居、ダンスステージがあったらしい。
シーギリヤ博物館の再現ビデオによると、こんな感じだったらしい。弟の復讐を恐れたカーシャパ王はこの岩山の天辺にこんな華麗な王宮を建てて住んだ。あまりの恐怖心が岩の頂上まで逃げるという選択をさせたんだろうけど、なんか間違ってないかな。確かに360度見渡せる岩の上だから、敵が攻めて来るのをいち早く発見出来るし、敵はこの岩山の天辺にある王宮に攻撃をくわえることは出来ない。でもね、兵糧攻めされたら、果たして何ヶ月持つかね。雨に降らない時期にやられたら、一月も持たないんじゃない。
南インドに亡命していた弟のモッガラーナは、495年に兄に戦いを仕掛ける。最初は兄貴が優勢だったけど、その後劣勢に転じ、観念したカーシャパ王は喉を掻き切り自害、シーギリヤは陥落したと伝えられている。恐らく兵糧攻めされたんだろうね。王位についたモッガラーナはシーギリヤを仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへと移した。シーギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続するが、徐々に衰退。しだいに忘れ去られていった。
今は廃墟となってしまった王宮跡に立つと、聞こえて来るのは風の音だけ。なんだか人間の欲望の果ての虚しさがひしひしと胸を打つ。と、感傷に浸りたいんだけど、風の音よりも観光客の声のほうが五月蠅い。午前10時30分、岩山を降りた。
登りよりも降りる時に気をつけなければならないのは登山の常識。なんせ足ふらふらだから、蹴躓いたら一巻の終わり、階段から転落してしまう。と言うことで、写真撮る余裕無し。余裕たっぷりのなっちゃんの作品から2点。これはAsana Caveと書いてあるから、坊さん達が瞑想した場所だね。
これ何に見えますか。天空に向かって鎌首をもたげた、そうコブラ。「コブラの岩」でした。
午前10時50分、全員怪我もなく無事下山。朝到着した時は逆光だったんで、今一度全員で記念撮影。みなさん、お疲れさまでした。(つづく)
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8月3日(木)
え~っ、こんな足場を渡るんすか?落ちないすか。おしっこちびりそうですが、渡れとおっしやるなら、渡りますよ。
あっ、ここは通らなくていい。安心しました。
一難去ってまた一難。こんどは螺旋階段ですか。シーギリヤ・レディを見に行くためだけに造られた階段らしい。一方通行で登りと下りの2本ある。
恐怖の螺旋階段を登って、ようやくシーギリヤ・レディとご対面。このフレスコ画はイギリス統治下にあった1875年に、この岩山を望遠鏡で眺めていたイギリス人によって発見された。
もともと500人ほど描かれていたそうだが、現在残っているのはわずか18人。ほとんどが風雨にさらされて浸食されてしまい、さらに1967年にバンダル人の攻撃で剥がされてしまった(と、『地球の歩き方』に書いてあるけど、バンダル人なんて聞いたことない)。カーシャパ王亡き後、この王宮は坊さん達に寄進されたそうなんで、こんなエロチックな肖像は修行の妨げになるから、坊さん達も剥ぎ取ったと思われる。シーギリヤ・レディの18人はたまたま非常に高いところにあって坊さんの目に触れなかったことと、上の岩がオーバーハングしているお陰で風雨から守られて助かったんだろうな。
今まで4枚の写真を見てもらったけど、実はこれ全部レプリカ。以前はフラッシュを使わなければ撮影を許されていたのが、2016年1月から完全に撮影禁止になったそうだ。当然撮影できると思って来た僕はがつくり。
話によるとなんぼ注意しても中国人観光客がフラッシュを使うんで、禁止したそうだ。くっそう、中国人のあほたれが。
で、レプリカのシーギリヤ・レディを撮したのがシーギリヤ博物館。この博物館はJICAの無償資金協力により建設され、2009年7月28日にマヒンダ・ラジャパクサ大統領と福田康夫前首相を迎えて、開館式が盛大に行われた。岩山を降りてからここを訪れ、2階にある復元されたシーギリヤ・レディを撮影したというわけだ。
これもレプリカ、というのは嘘で、これは唯一本物。監視員の目から一番遠い壁画を、ファインダーを覗くとバレルるので、腹のあたりにカメラを固定させて撮った写真。運任せでシャッターを切ったが、見事に真ん中にヒットした。ただ、ちょっとピンぼけ気味。
シーギリヤ・レディを鑑賞しての帰り道、女子高生の団体に遭遇。現代のシーギリヤ・レディ、なかなか可愛い子たちばかりなので、失礼してパチリ。
もう1枚パチリ。そしたら、一番奥でこっち見てる監視員が僕に向かって何か怒鳴ってる。ジャヤン君が通訳して、「壁画の写真撮ったでしょう」。「いいえ、女子高生を撮ったんで、壁画は撮ってません」、て答えたけど、ありゃバッチリ壁画も写ってる。こりゃ、いかん。データを削除しろと言ってくる前に退散、退散。(つづく)
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さあ休憩も終わったし、元気出して登るぞ。茶色く見えているところがミラー・ウォール=「鏡の回廊」と呼ばれている高さ約3メートルの壁。真珠のような輝きをもち、鏡のような光沢があるため、この名前がついたんだって。レンガの上に漆喰を塗って、その上に多量の卵の白身と蜂蜜と石灰を混ぜたたものを上塗りし、その表面を丹念に磨きあげて、光り輝く壁にしたんだってさ。
そのミラー・ウォールの左手に螺旋階段が見えると思うけど、そこを登り切ると、第一目標のシーギリヤ・レディにお会い出来る。頑張ろうぜ。
そのミラー・ウォールの左手に螺旋階段が見えると思うけど、そこを登り切ると、第一目標のシーギリヤ・レディにお会い出来る。頑張ろうぜ。
かなり登って来てるようで、眺めは抜群。風が気持ちいい、と言いたいんだけど、気持ちいいを通り越した突風が吹いている。「あっ」と言う声が聞こえたと思ったら、Iさんの帽子が突風に吹かれて、飛んで行っちゃった。さよ~なら~。帽子は遙か下に落下。今登ったところを降りて、取りに行く気力はIさんには無い。帽子は諦めちゃった。ところが、一人の青年が猛ダッシュして、帽子を取って来てくれた。てっきり金を要求してくると思ったが、さにあらず。心からの親切心からだった。疑ってご免。さすがスリランカ。また、一段とスリランカが好きになった。
え~っ、こんな足場を渡るんすか?落ちないすか。おしっこちびりそうですが、渡れとおっしやるなら、渡りますよ。

あっ、ここは通らなくていい。安心しました。

一難去ってまた一難。こんどは螺旋階段ですか。シーギリヤ・レディを見に行くためだけに造られた階段らしい。一方通行で登りと下りの2本ある。
これ下から見たらどうということないんだけ、登りながら下見たら、おしっこちびるよ。この螺旋階段は1936年にイギリスが造ったそうだ。いくら金網で囲われているとは言え、80年も前に造られたものだから、劣化によって階段そのものが落ちてしまうなんてことを考えたりすると、足がすくんでしまう。高所恐怖症の方には拷問のような階段だけど、これ登らない限りシーギリヤ・レディに会えないんですよね~。
恐怖の螺旋階段を登って、ようやくシーギリヤ・レディとご対面。このフレスコ画はイギリス統治下にあった1875年に、この岩山を望遠鏡で眺めていたイギリス人によって発見された。
もともと500人ほど描かれていたそうだが、現在残っているのはわずか18人。ほとんどが風雨にさらされて浸食されてしまい、さらに1967年にバンダル人の攻撃で剥がされてしまった(と、『地球の歩き方』に書いてあるけど、バンダル人なんて聞いたことない)。カーシャパ王亡き後、この王宮は坊さん達に寄進されたそうなんで、こんなエロチックな肖像は修行の妨げになるから、坊さん達も剥ぎ取ったと思われる。シーギリヤ・レディの18人はたまたま非常に高いところにあって坊さんの目に触れなかったことと、上の岩がオーバーハングしているお陰で風雨から守られて助かったんだろうな。
ところで、この美女たちは一体何者なんだろうか?殺してしまった父親の霊を慰めるために描いたという説があるらしいけど、なら父親の墓に描くだろう。また、裸の女性が天国に住む妖精アップラサで、服を着ているのが王の侍女だとも言われているが、この説もなんかな~。
カーシャパ王の奥さんたちだという考えはどうかな?この岩のてっぺんの王宮に住めた人間の数は限られただろうから、500人の奥さんを住まわせるわけにはいかない。選りすぐりの数名と岩の上で暮らし、その他の奥さんは下の宮殿にいた。カーシャパ王は恐怖心から岩から降りられず、会えない寂しさを紛らわすために、奥さんの肖像を描かせた。これ、あたってんじゃない。
カーシャパ王の奥さんたちだという考えはどうかな?この岩のてっぺんの王宮に住めた人間の数は限られただろうから、500人の奥さんを住まわせるわけにはいかない。選りすぐりの数名と岩の上で暮らし、その他の奥さんは下の宮殿にいた。カーシャパ王は恐怖心から岩から降りられず、会えない寂しさを紛らわすために、奥さんの肖像を描かせた。これ、あたってんじゃない。
今まで4枚の写真を見てもらったけど、実はこれ全部レプリカ。以前はフラッシュを使わなければ撮影を許されていたのが、2016年1月から完全に撮影禁止になったそうだ。当然撮影できると思って来た僕はがつくり。

話によるとなんぼ注意しても中国人観光客がフラッシュを使うんで、禁止したそうだ。くっそう、中国人のあほたれが。

で、レプリカのシーギリヤ・レディを撮したのがシーギリヤ博物館。この博物館はJICAの無償資金協力により建設され、2009年7月28日にマヒンダ・ラジャパクサ大統領と福田康夫前首相を迎えて、開館式が盛大に行われた。岩山を降りてからここを訪れ、2階にある復元されたシーギリヤ・レディを撮影したというわけだ。
これもレプリカ、というのは嘘で、これは唯一本物。監視員の目から一番遠い壁画を、ファインダーを覗くとバレルるので、腹のあたりにカメラを固定させて撮った写真。運任せでシャッターを切ったが、見事に真ん中にヒットした。ただ、ちょっとピンぼけ気味。
シーギリヤ・レディを鑑賞しての帰り道、女子高生の団体に遭遇。現代のシーギリヤ・レディ、なかなか可愛い子たちばかりなので、失礼してパチリ。
もう1枚パチリ。そしたら、一番奥でこっち見てる監視員が僕に向かって何か怒鳴ってる。ジャヤン君が通訳して、「壁画の写真撮ったでしょう」。「いいえ、女子高生を撮ったんで、壁画は撮ってません」、て答えたけど、ありゃバッチリ壁画も写ってる。こりゃ、いかん。データを削除しろと言ってくる前に退散、退散。(つづく)
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8月3日(木)
シーギリヤ・レディをご存知ですか。スリランカが誇る5世紀のフレスコ画。なんとも妖艶で神秘的な微笑みをたたえるな美女ですが、テレビ番組でこのシーギリヤ・レディを知った時、僕はある壁画を思い出した。
そう、インドのアジャンター石窟の至宝、第1窟の蓮華手菩薩だ。法隆寺の金堂壁画にも影響を与えたことは世界史でも習ったよね。シーギリヤ・レディと蓮華手菩薩に何か共通するものを感じて思い出したってわけだ。
蓮華手菩薩は2002年にこの目で見ているので、シーギリヤ・レディも是非見たいと思った。
蓮華手菩薩は2002年にこの目で見ているので、シーギリヤ・レディも是非見たいと思った。
ただ一つ問題がある。シーギリヤ・レディは写真のシーギリヤ・ロックの中腹まで登らなければ、見ることは出来ない。シーギリヤ・ロックは大自然が広がるスリランカのジャングルの中に突如現れる標高約200m、南北に約180m、東西に約100mもある巨大な岩山。頂上までの階段は1250段。その半分の階段を登らないと、シーギリヤ・レディは見れない。香川県の金刀比羅宮は1368段。20代の頃に行った時に半分も登らないうちにギブアップした経験がある(まあ、二日酔いだったけどね)。還暦を過ぎた僕が登れるだろうか?
いや、絶対に見るぞ!!シーギリヤ・レディをこの目で見るのが、今回の旅行の最大の目的になった。
まずは腹ごしらえということで、午前7時に朝食。ただ、スリランカに来てから腹の調子が今イチで、軽めに済ます。
もう一品、スクランブルエッグ。
この兄ちゃんに焼いてもらった。
午前7時45分にホテルを出て、30分でシーギリヤに到着。チケットを買って、さあいよいよ中に入ります。チケット代金は30USドル(3,300円)で、かなり高い。ルピーで払うと3,960ルピー(2,970円)で、ちょっとお得。ただし、スリランカ人は50ルピー(38円)らしく、外国人は80倍だよ。パキスタンのジョーリアン遺跡ですら20倍だったから、あまりにも外国人観光客からぼり過ぎじゃないですか。

まあ怒ってものしゃ~ないので、遺跡を見ていこう。左手に見えるのが城壁。その周りを取り囲んでいる水路で、「蓮の水路」と呼ばれている。おいおいお話ししていくけど、シーギリヤは477年から495年の間の18年間だけ、シンハラ王朝の都として繁栄した。この水路にはかつてワニが住んでいて、ここに落ちた人は二度と戻って来なかったそうだ。まあ、日本のお城でいう外堀だね。
城壁の中に入ると、まず「水の広場」。これは「王の沐浴場」。
ドライ・シーズン・パレス。乾季の時は王さまはここで過ごしていたということなんだろうけど、高い所から地下のパイプを通って濠まで水をひいていたようだ。
これ何かわかる?実は噴水。小さな5つの穴から水が噴き出す仕組みになっていて、今でも出るそうだ。自然の水圧で吹き出る噴水というと、文久元年(1861年)に作られた兼六園にある噴水が日本最古とされている。金沢の人間として自慢じゃないけど、あれは3.5メートルも吹き出る。シーギリヤの噴水はそれほど高く吹き上げるわけじゃないらしいけど、なんせ5世紀の遺構だから大したもんだよ。
ようやくシーギリヤ・ロックが見えてきた。あの200メートルもある巨大な岩の上に王宮があったというのは驚きだよね。なんでそんなことになったのか、お話ししよう。少し長くなるけど我慢して聞いてね。
5世紀のシンハラ王朝にダートゥセーナ王という偉大な王がいた。王は 南インドのタミル王朝に征服されたアヌラーダプラを奪還し、 カラーウェワと呼ばれる巨大な貯水池を作り、国は大いに栄えた。ダートゥセーナには二人の息子がいた。 長男のカーシャパと、その異母弟モッガラーナである。 カーシャパは平民出身である側室の子、 モッガラーナの母親は王族出身。王位継承争いでありがちな話だけど、兄貴よりも弟のほうが血筋はいい。
5世紀のシンハラ王朝にダートゥセーナ王という偉大な王がいた。王は 南インドのタミル王朝に征服されたアヌラーダプラを奪還し、 カラーウェワと呼ばれる巨大な貯水池を作り、国は大いに栄えた。ダートゥセーナには二人の息子がいた。 長男のカーシャパと、その異母弟モッガラーナである。 カーシャパは平民出身である側室の子、 モッガラーナの母親は王族出身。王位継承争いでありがちな話だけど、兄貴よりも弟のほうが血筋はいい。
そのため弟に王位を奪われることを恐れたカーシャパは父親を監禁して王位を剥奪、477年にカーシャパ1世として即位、モッガラーナは国を追放され南インドへと亡命した。 その後、カーシャパは父ダートゥセナに、隠し財産をすべて出すように迫ったが、「貯水池が全財産だ」という父に怒り狂い、将軍に命じて父を殺害してしまう。
しかし、そこからカーシャパの後悔の日々が始まる。父親殺しという仏教徒として最大の罪を犯した彼は罪を償うべく寺院や施療院を立て、善政に励んだ。しかし、弟の復讐が怖い。長らく首都であったアヌラーダプラを離れ、より安全なシーギリヤへと遷都。さらにつのる恐怖心はとうとう200メートルもある岩山の頂上に7年の歳月をかけて王宮を完成させた。
さあ、話はこれくらいにして、孤独の狂気の王の王宮跡をめざして登ろうか。午前9時、登頂開始。
石窟寺院の跡。この岩山はもともと僧侶たちの修行の場であった。インド・ラジギールの霊鷲山にも同じような洞穴が残っている。
巨岩のトンネル。王宮への玄関にあたるが、なかなか迫力がある。
なかなか勾配がきつい。奥さんはもう喘いでいるようす。なっちゃんは元気そのもの。やっぱ、若いね~。
小さなカメラマンは撮影に余念がない。
まだまだ先は長いが、もう疲れた。続きはまた今度ね。(つづく)
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