なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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42年間非常勤講師として星稜高校で世界史を教え、今年3月に定年退職しました。高校生に世界史を教えるにあたって一番重視したのは、いかに生徒に興味を持たせるかでした。歴史に興味を持ちさえすれば、受験に必要な知識も自然と記憶に残って行きます。そのためのエピソードをふんだんに盛り込み、物語を語るような授業を心がけてきました。授業で語ったエピソードをさらに進化させ、ふんだんに写真(ほとんどネットからの借り物ですが)を使い、みなさまを世界史のミラクルワールドにご案内いたします。先ずは、中国史から。
アンダーソン博士による竜骨山の調査により、1923年に動物化石に混ざってヒトの臼歯が発見され、1926年にこれを発表。1927年にはスウェーデンの古生物学者ベーリンが別の大臼歯を発見し、歯を詳しく調べたカナダ人学者のブラックは、その歯の持ち主に対してシナントロプス=ペキネンシスという学名を与えることにした。いわゆる北京原人である。
1928年からロックフェラー財団の援助のもとに、中国の中国地質調査所新生代研究室が実際の発掘を担当し、遺物の研究は北京の協和医学院の解剖学教室が担当した。この結果、ぞくぞくと人類の骨などが出土した。劇的な発見は1929年12月2日午後4時頃、中国の学者・裴文中【はいぶんちゅう】による完全な頭骨の発見であった。
その後発掘は1936年まで行われ、大人25体分、子ども15体分にもおよぶ多くの頭、顎その他の部位の骨が発見された。発見された遺物に黒こげの跡があることから、北京原人が火を使用していたことも明らかとなった。1891年にオランダヒト医師のデュボアがジャワ島で頭骨と大腿骨を発見し、ピテカントロプス=エレクトゥス(直立猿人)の学名を与えていたが、杜撰な発掘調査から原人の存在は当時否定されていた。そうした中で、北京原人の発見により原人の存在が証明され、20世紀最大の発見とされた。ところが、それらはすべて太平洋戦争勃発直前の1941年を最後に忽然と姿を消してしまった。
その発端は1937年7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争だった。北京原人調査プロジェクトのスポンサーだったロックフェラー財団は北京原人の化石を戦争中一時アメリカに避難させることにした。その後平和になれば中国に返還するという条件で、1941年11月末に化石骨はワイデンライヒの中国人助手2人の手で木箱2箱に梱包され、極秘裏に3キロほど離れたアメリカ大使館に運ばれた。その頃、協和医学院を接収した日本軍はやっきになって化石骨を探したが、当然見つかるはずはない。ところが、化石骨はアメリカ大使館を最後に忽然と姿を消してしまった。
1941年12月8日、太平洋戦争が勃発する。化石骨をニューヨークのアメリカ自然史博物館まで運搬する予定だったプレジデント・ハリソン号が日本海軍により撃沈され、北京原人は海の底に沈んでしまったという噂もたった。化石骨はアメリカ大使館から秦皇島のアメリカ軍海兵隊の倉庫に運ばれ、ここでハリソン号に積んでアメリカに向かう予定だったが、ハリソン号はマニラから中国に向かう途中で撃沈されているので、この話はあり得ない。
化石骨は日本軍が押収して内地にもたらされ、どこかに隠匿されたとする説が、戦時中と戦後の初め中国やアメリカでは有力で、戦後GHQによる徹底的な調査が行われたが発見されなかった。
1975年にはアメリカ人女性が海兵隊員だった夫の遺品として化石骨を所有しており、取引が進められているとの報道があったが、結局偽物だったようだ。北京原人は一体どこへ行ってしまったのだろうか?
ひとつ考えられることがある。秦皇島のアメリカ軍海兵隊の倉庫は日本軍が接収したはずである。化石骨の重要性を知らない無知な日本憲兵隊が木箱を発見したとしたら、どうなるか。がらくたと思い込んで、木箱を倉庫から放り出してしまったかも知れない。すると、化石骨を拾った中国人が薬局に竜骨として売る。ということは、北京原人は現生人類の胃袋の中へと消えていったのかもね。
失われた化石は、ワイデンライヒ(写真の人物)が石膏模型として残るのみである。幸い、新中国になって周口店発掘が再開され、1966年に頭蓋骨破片2個と歯1本が発掘されている。
ちなみに、北京原人は中国人の祖先と思ってるヒトがいると思うけど、アジア人の祖先ではないそうな。
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1921年の真夏のある日、北京の国民政府農商務省地質調査顧問を務めるスウェーデン人のアンダーソン博士が、北京の西南50余キロ離れた周口店へ調査にでかけた。アンダーソン博士と言えば同年に河南省の仰韶【ヤンシャオ】村で彩陶(彩文土器)を発見したことでも知られる。
周口店は石灰岩の石切場のある当時人口2000ほどの寒村で、竜骨山と呼ばれる小高い山があった。竜骨が採れることから竜骨山なのだが、竜の骨などあるわけもない。中国では大型哺乳類の骨の化石を竜骨と呼んで生薬としており、これを削って煎じて飲むと万病に効くとされ、特にマラリアの特効薬とされた。これが後に 殷墟【いんきょ】発見のきっかけになるので、覚えておいてね。
周口店は石灰岩の石切場のある当時人口2000ほどの寒村で、竜骨山と呼ばれる小高い山があった。竜骨が採れることから竜骨山なのだが、竜の骨などあるわけもない。中国では大型哺乳類の骨の化石を竜骨と呼んで生薬としており、これを削って煎じて飲むと万病に効くとされ、特にマラリアの特効薬とされた。これが後に 殷墟【いんきょ】発見のきっかけになるので、覚えておいてね。
アンダーソン博士による竜骨山の調査により、1923年に動物化石に混ざってヒトの臼歯が発見され、1926年にこれを発表。1927年にはスウェーデンの古生物学者ベーリンが別の大臼歯を発見し、歯を詳しく調べたカナダ人学者のブラックは、その歯の持ち主に対してシナントロプス=ペキネンシスという学名を与えることにした。いわゆる北京原人である。
1928年からロックフェラー財団の援助のもとに、中国の中国地質調査所新生代研究室が実際の発掘を担当し、遺物の研究は北京の協和医学院の解剖学教室が担当した。この結果、ぞくぞくと人類の骨などが出土した。劇的な発見は1929年12月2日午後4時頃、中国の学者・裴文中【はいぶんちゅう】による完全な頭骨の発見であった。
その後発掘は1936年まで行われ、大人25体分、子ども15体分にもおよぶ多くの頭、顎その他の部位の骨が発見された。発見された遺物に黒こげの跡があることから、北京原人が火を使用していたことも明らかとなった。1891年にオランダヒト医師のデュボアがジャワ島で頭骨と大腿骨を発見し、ピテカントロプス=エレクトゥス(直立猿人)の学名を与えていたが、杜撰な発掘調査から原人の存在は当時否定されていた。そうした中で、北京原人の発見により原人の存在が証明され、20世紀最大の発見とされた。ところが、それらはすべて太平洋戦争勃発直前の1941年を最後に忽然と姿を消してしまった。
その発端は1937年7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争だった。北京原人調査プロジェクトのスポンサーだったロックフェラー財団は北京原人の化石を戦争中一時アメリカに避難させることにした。その後平和になれば中国に返還するという条件で、1941年11月末に化石骨はワイデンライヒの中国人助手2人の手で木箱2箱に梱包され、極秘裏に3キロほど離れたアメリカ大使館に運ばれた。その頃、協和医学院を接収した日本軍はやっきになって化石骨を探したが、当然見つかるはずはない。ところが、化石骨はアメリカ大使館を最後に忽然と姿を消してしまった。
1941年12月8日、太平洋戦争が勃発する。化石骨をニューヨークのアメリカ自然史博物館まで運搬する予定だったプレジデント・ハリソン号が日本海軍により撃沈され、北京原人は海の底に沈んでしまったという噂もたった。化石骨はアメリカ大使館から秦皇島のアメリカ軍海兵隊の倉庫に運ばれ、ここでハリソン号に積んでアメリカに向かう予定だったが、ハリソン号はマニラから中国に向かう途中で撃沈されているので、この話はあり得ない。
化石骨は日本軍が押収して内地にもたらされ、どこかに隠匿されたとする説が、戦時中と戦後の初め中国やアメリカでは有力で、戦後GHQによる徹底的な調査が行われたが発見されなかった。
1975年にはアメリカ人女性が海兵隊員だった夫の遺品として化石骨を所有しており、取引が進められているとの報道があったが、結局偽物だったようだ。北京原人は一体どこへ行ってしまったのだろうか?
ひとつ考えられることがある。秦皇島のアメリカ軍海兵隊の倉庫は日本軍が接収したはずである。化石骨の重要性を知らない無知な日本憲兵隊が木箱を発見したとしたら、どうなるか。がらくたと思い込んで、木箱を倉庫から放り出してしまったかも知れない。すると、化石骨を拾った中国人が薬局に竜骨として売る。ということは、北京原人は現生人類の胃袋の中へと消えていったのかもね。
失われた化石は、ワイデンライヒ(写真の人物)が石膏模型として残るのみである。幸い、新中国になって周口店発掘が再開され、1966年に頭蓋骨破片2個と歯1本が発掘されている。
ちなみに、北京原人は中国人の祖先と思ってるヒトがいると思うけど、アジア人の祖先ではないそうな。
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写真は岩手県石巻が生んだ詩人・童話作家の宮澤賢治。僕が最も敬愛する人物である。彼の名前を知ったのは小学校の国語の教科書であったと思うが、ほんとうの出会いは僕が35歳の時。専任布教師となって初めて金沢市の老人センターの教養講座で話をすることになり、日蓮聖人のほかに法華経に生涯を捧げた人物がいないか探していて賢治に出会った。それ以来、お説教で賢治の生涯と生き方を紹介し、随分とお布施をいただいてきた。(笑)
そんなわけで、お礼を申しあげるために平成14年に花巻の身照寺を訪ね、賢治の墓に手を合わせた。五輪塔形式の小さな墓は、デクノボーと呼ばれるような生き方をしたいと願った賢治にふさわしいものであった。
宮澤賢治と言えば、誰もが知っている「雨ニモマケズ」の詩。僕が小学校の教科書で出会ったのもこの詩だった。賢治の死後、愛用のトランクから写真の手帳が見つかった。「雨ニモマケズ」の詩が書かれているので、この手帳を「雨ニモマケズ手帳」と呼んでいる。
この有名な詩が書かれたのは昭和6年の11月3日。賢治が肋膜炎を患い長い闘病生活に入ったのは昭和3年の8月。その後一時平癒と診断され、昭和6年3月に東北砕石工場技師となった賢治は、同年9月20日に商用で上京、着京とともに発病病臥し、9月21日には両親に宛てた遺書をしたためている。奇しくもその2年後の昭和8年9月21日に37歳の若さで亡くなるのだが、病床にあって時折この手帳に詩や戯曲の構想をしたためた。
この有名な詩が書かれたのは昭和6年の11月3日。賢治が肋膜炎を患い長い闘病生活に入ったのは昭和3年の8月。その後一時平癒と診断され、昭和6年3月に東北砕石工場技師となった賢治は、同年9月20日に商用で上京、着京とともに発病病臥し、9月21日には両親に宛てた遺書をしたためている。奇しくもその2年後の昭和8年9月21日に37歳の若さで亡くなるのだが、病床にあって時折この手帳に詩や戯曲の構想をしたためた。
長くなるので省略するが、「雨ニモマケズ」の詩は、もろもろの苦悩を身に負った農民たちの幸福のために献身的な生き方をしたいという思いを綴ったものであり、賢治は菩薩道に生きる誓願をデクノボー精神として表現した。デクノボー的生き方が賢治が法華経から読み取った菩薩のあり方であった。賢治は日蓮聖人が文永10年7月8日に佐渡で書かれた「十界曼荼羅」【じゅっかいまんだら】の複製を御本尊として日常奉掲礼拝していたが、「雨ニモマケズ」の詩句に続けて、曼荼羅の二尊四菩薩を書写していることからも、その信心の深さが読みとれる。
賢治は18歳の時に父親の書棚にあった島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を読み、震えるほどに感動したと伝えられている。それ以来、37歳で亡くなるまで熱烈なる法華経信仰を続け、法華経精神に基づいた人生を生きた。(写真は復刻版)
この手帳の扉裏(写真)には、「当知是所 即是道場 諸仏於此 得三菩提」の経文、続けて第2ページには、「諸仏於此 転於法輪 諸仏於此 而般涅槃」の経文が書写されている。いうまでもなく、法華経神力品の「道場観」として知られる有名な経文だ。原典では「阿耨多羅三藐三菩提【あのくたらさんみゃくさんぼだい】」だが、賢治は漢字4文字に揃えるため三菩提と略した。「当【まさ】に知るべし、是のところは即ちこれ道場なり」とは、原典の「若【も】しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧房に於ても、若しは白衣【びゃくえ】の舎【いえ】にても、若そは殿堂に在っても、若しは山谷曠野【せんごくこうや】にても、是の中に皆塔を起【た】てて供養すべし」の前文を受けているわけだが、賢治は「若しは病床に在っても」の言葉を補いたい気持ちで、如説修行の覚悟を新たにして書写したものと思われる。
僕はこのことをベッドで思い出し、この病室を道場として如説修行に励む覚悟を決めた。入院して最初の1週間は呼吸が苦しくてそれどころではなかったが、毎日テレビばかり観ていて時間を無駄にしてはいけないと思い、奥さんに数冊の本を持って来てもらい読書に励むことにした。まずは山折哲雄先生の『死者と先祖の話』と植木雅俊先生の『仏教学者 中村元』と『人間主義者ブッダに学ぶ』で肩慣らし。
僕はこのことをベッドで思い出し、この病室を道場として如説修行に励む覚悟を決めた。入院して最初の1週間は呼吸が苦しくてそれどころではなかったが、毎日テレビばかり観ていて時間を無駄にしてはいけないと思い、奥さんに数冊の本を持って来てもらい読書に励むことにした。まずは山折哲雄先生の『死者と先祖の話』と植木雅俊先生の『仏教学者 中村元』と『人間主義者ブッダに学ぶ』で肩慣らし。
その上で取り組んだのが、植木雅俊先生が翻訳された『サンスクリット原典現代語訳 法華経』だ。植木先生には7月からうちのお寺で6回にわたる講義をお願いしてある。植木先生ご本人も鬱病に悩まされ、その時読んだ法華経で心が救われ、それをきっかけとしてサンスクリット語を独学で学ばれ、偉大な功績を残された。今まで何回も読んだ法華経だが、その神髄を僕はまだつかんでいない。先生の講義を受ける前に何とか深い理解にいたるように、毎日少しずつ読み進めたが、僕には奇跡のようなことは起こらなかった。凡人じゃ駄目みたいだね。(笑)
ただ、今回の経験から、残された人生を法華経の弘通にかける覚悟だけは出来た。そう考えれば入院も悪くない。かと言って、もう一度入院したくはないけどね。(笑)
つたない闘病記をお読みくださったみなさん、ありがとうございました。(おわり)
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ただ、今回の経験から、残された人生を法華経の弘通にかける覚悟だけは出来た。そう考えれば入院も悪くない。かと言って、もう一度入院したくはないけどね。(笑)
つたない闘病記をお読みくださったみなさん、ありがとうございました。(おわり)
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僕が入院生活は5月2日から25日まで23日間で、お世話になったのが金沢医科大学病院西病棟の958号室で、ナースセンターのすぐ前の個室。ICUにいる時に病室の説明を受けた奥さんが長男の嫁さんと相談して4人部屋にしようと決めていたらしいけど、僕は勝手に担当医のY・Kさんに個室を頼んでおいた。浅ノ川病院で半日だけ入院した時は4人部屋に入った。ところが、人が呼吸困難で苦しんでいるのに、向かいの奴ときたら大きな声で携帯で話しをするわ、看護婦とペチャクチャ喋るわで、怒ろうにも苦しくて怒れない。マナーを守れない奴が多いから、とてもじゃないけど相部屋での生活はできない。というわけで、家計には負担になるけど、無理を言って個室にしてもらった。
これが室内の様子。トイレはもちろんシャワーもついている。(シャワー室は狭いので、結局1回も使わず、順番待ちをして共同風呂に入った。)テレビは見放題で、冷蔵庫つき。これで差額ベッド料が1日8,000円。食事が1食460円。パジャマが1日65円。しめて1泊3食付き9,445円。いっぱしのホテル並み。
写真は退院してから近くの公園から撮ったもの。僕の病室は上から3番目、左から2番目の部屋。毎日この部屋の窓から、公園で野球をする少年の姿を見て過ごした。
病室の窓から左手には白山連峰の山並みが見え、毎日朝日が昇る。角度が悪くて直接には見えないが、昇る朝日に手を合わせ、今日も命を与えられていることを感謝した。
病室の右手には日本海。こちらも角度が悪くて直接見えないが、沈む夕日に手を合わせ今日一日を生きられたことに感謝した。景色はなにしろ抜群な環境。僕は名づけてシーサイドホテルKMUHと呼んだ。KMUHはKanazawa Medical University Hospitalの頭文字。
5月9日には金沢港に豪華客船MSCスプレンディダ号が入港した。総トン数は137,936トン、乗客定員3,247名、全長333.30m、幅37.92mと、とてつもなくでかい。
5月22日には窓辺に珍客が現れた。これハヤブサだよね。恐らく石川県庁で営巣している奴だ。毎日テレビを観て退屈しのぎをしている僕にとっては嬉しいお客さん。海岸が近いからこのほかに鴫の仲間もやってきた。
病気でさえなければ、こんな部屋で美人の女医さんや若くて可愛い看護婦さんと過ごせることは幸せなことだ。退院してやがて3カ月になるけど、時々帰りたくなる。(笑)(つづく)
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今回の入院は僕にとって人生初めての経験。だから看護婦さんの看護を受けるのも、もちろん人生初めての経験。入院患者と看護婦さんが恋に落ちて結婚したという話をよく聞くけど、その理由がよ~くわかった。とにかく優しく、献身的。奥さんには悪いけど、奥さんにもこんなに優しく世話してもらった記憶がない。病気で精神的にも弱っている時だ。痰を吸引するなど、汚い仕事も嫌がらずに献身的な看護をしてくれる人に惹かれないわけがない。
写真は金沢医科大学のホームページから借りてきた、僕がお世話になった9階西ナースステーションのスタッフの方々。残念ながら現在のスタッフとは違うので、僕がお世話になった看護婦さんは一人しか写っていない。
たくさんの看護婦さんにお世話になったが、特に印象に残ったのが5人。もちろん全員若い看護婦さんだ。(笑)
目の綺麗なM・Nさん。最初のうちずっとマスクをしていたので目しか見えなかったけど、魅惑的な目に心を惹かれてしまった。マスクをとったらガッカリかなと思っていたら、あにはからんやの超美人。僕が若くて独身だったらプロポーズしたかも知れない。たぶん断られるだろうけどね。前にも書いたけど、僕が「吸引の鬼」と渾名したA・Tさん。彼女には本当にお世話になった。それから、おっとりしたY・Yさんは優しさのかたまりみたいな看護婦さん。まだあどけなさの残るH・Kさんは脈を測る時にきっちり1分間僕の手をとってくれる。たぶん4月にデビューしたばかりの新人さんだね。
面白い看護婦さんもいる。声が出ないのでジェスチャーか筆談で話をするから、トンチンカンなことが起こる。K・Nさんが「森田さんのお寺は古いんですか?」と聞いたので、「創建して430年くらいかな」と答えた。「何代目ですか?」と聞いてきたので、「35代目だよ」と答えた。もちろん指でね。そしたら、「へ~、430代目ですか」となっちゃった。日本最古の飛鳥寺でもあり得ない。N・Fさんからは「森田さんのお寺は何宗?」て聞かれたので、口の動きで伝えようとしたけど、伝わらない。そこで、洗面台の鏡に指で日蓮と書いた。そしたら、「ヒレンという宗派あったっけ」だって。ニチレンだよ、ニチレン。看護婦さんは人の死にかかわる仕事なんだから、もっと宗教教育をしなきゃ駄目だね。
そんな彼女たちの献身的な看護を受けて、僕たち僧侶もただ葬式や法事をしているだけでなく、もっと人の悲しみ苦しみに寄り添う活動をしないといけないと、心から思った。「看護婦さんは給料もらってるし、それが仕事だから当たり前だ」という声が坊さん達から聞こえてきそうだけど、僕たち僧侶の本来の仕事は人の悲しみ苦しみを癒すことだし、おまけにお布施をもらってるぞ。目覚めよ坊さん!!!!(つづく)
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