なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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太公望とも呼ばれた呂尚【りょしょう】は歴史上重要な人物にも拘わらず、数々の伝説に包まれて実態がつかめない。紀元前1156年に生まれ、紀元前1017年に139歳で亡くなったと伝えられる。諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、貧乏暮らしで、ただただ読書ばかりして80歳となった
呂尚は現在の西安の近郊にある渭水で、毎日静かに魚釣りをしてたそうだが、 呂尚にまつわる諺に、「太公望の魚釣り、相手が自ら望んで引っかかってくる」というのがある。
呂尚の釣りは実は魚釣りではない。なにせ、真っ直ぐな針に餌もつけず、おまけに釣り針を水中には入れず水面からおよそ1メートルも上に垂らしている。もちろん、魚が釣れるはずがない。通りかかる人はみんな不思議に思い、「こんなんじゃ、100年経っても1匹も釣れね~よ」と言うと、「わしは魚ではなく、天下を釣りたいんだ!」と言ったそうな。周の西伯昌(後の文王)が人材を求めていることを聞いて、釣りをしながらチャンスを待ってたんだね。
呂尚の釣りは実は魚釣りではない。なにせ、真っ直ぐな針に餌もつけず、おまけに釣り針を水中には入れず水面からおよそ1メートルも上に垂らしている。もちろん、魚が釣れるはずがない。通りかかる人はみんな不思議に思い、「こんなんじゃ、100年経っても1匹も釣れね~よ」と言うと、「わしは魚ではなく、天下を釣りたいんだ!」と言ったそうな。周の西伯昌(後の文王)が人材を求めていることを聞いて、釣りをしながらチャンスを待ってたんだね。
西伯がある日猟に出ようとして占いをさせたところ、獣ではなく人材を得ると出た。占い通りにその日はさっぱり獲物がない。落胆して渭水のほとりに出た時、貧相な姿をした呂尚がつくねんとして糸を垂れているのに出会う。言葉をかけてみると、その応答も立派で、大人物であることがわかった。あなたこそ太公(西伯の祖父)が待ち望んでいた人物だ」と喜び、呂尚を軍師として迎えた。これが、呂尚が太公望と呼ばれた由来なんだけど、日本で釣り好きな人を太公望と呼ぶのも、この話から来てるわけだ。

周では昌が亡くなった後、発(後の武王)が後を継ぎ、弟・周公旦と太公望の補佐を受けて次第に国力を強化していった。殷の当時の国王は前回お話しした悪名高き紂王【ちゅうおう】。周は紂王の悪政に恨みをもつ諸侯たちの間に手を回して密かに同盟を結び、『牧誓八国』の同盟軍が結成された。
武王11年2月、殷の東で反乱が相次ぎ、殷は精鋭軍を多数投入した。むろん、周と連携しての動きである。そこへ周の連合軍が西から攻め込み、牧野の戦いが勃発する。
大きな功績をあげた呂尚は、現在の山東省にある営丘という土地を冊封された。当時、山東にいた莱【らい】と呼ばれた民族を討ち、この地を平定。山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を拡大。その後も領土を拡大し、春秋時代に入る頃には東の強国となり、第15代桓公は春秋五覇の一人に数えられた。
臨淄
営丘はのちに臨淄【りんし】と名を改め、斉の都として繁栄した。『戦国策』によれば戸数は7万戸、人口50~60万人を数える大都市だった。市場を中心とした市街地には闘鶏やドッグレースの娯楽場があり、娯楽を求める人々でごった返し、また諸子百家の弁論家があつまってきて盛んに議論をかわし、たいへんな賑わいだったらしい。
呂尚がまだ若くして勉強中のころ、ある女性と結婚した。ところが、呂尚はまったく働こうとせず、毎日読書三昧。一日中机に向かって、一文の徳にもまらない本ばかり読んでいる。まるで働きのない亭主にとうとう愛想をつかした嫁さんは、自分から三行半をつきつけて、実家に帰ってしまった。呂尚が周から斉に封ぜられ出世すると、別れた嫁さんがのこのこやって来て復縁を申し出た。呂尚は黙って水の入った器を持ってきて、水を庭先の土にこぼし、「水を器に戻してみよ」と言った。元嫁さん水をすくおうとしたが、土はすでに水を吸っており、当然すくうことは出来なかった。
呂尚はおもむろに言った。「一度こぼれた水はもとの器に戻すことが出来ない(覆水盆に返らず)」
虫のいい女もいたもんだ。

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清朝末期、北京に王懿栄【おういえい】という大学者がいた。彼はそのころ国子監祭酒という、東京大学総長にあたる名誉な地位についていた碩学で、金石学を得意としていた。
金石学というのは碑文研究の一種で、中国古代の青銅器・石刻に刻まれた銘文を研究する学問である。
王にはマラリアの持病があって、季節の変わり目にはいつも発熱に悩まされていた。1899年のある日、竜骨がマラリアの特効薬だと友人に勧められたので、ボーイを薬屋にやって買ってこさせた。
王にはマラリアの持病があって、季節の変わり目にはいつも発熱に悩まされていた。1899年のある日、竜骨がマラリアの特効薬だと友人に勧められたので、ボーイを薬屋にやって買ってこさせた。
「消えた北京原人」で話したように、中国では地中から掘り出された脊椎動物の骨の化石を竜骨と呼び、薬局で漢方薬として売っている。これを削って煎じて飲むと万病に効くとされた。買ってきた竜骨を袋から取り出してみると、古そうな骨が出てきた。
たまたま王の家を訪れていた劉鉄雲【りゅうてつうん】という弟子が、その竜骨をなにげなく見ると、骨の表面にナイフで刻んだような小さい文字らしいものが見える。二人はこれが金石文よりも古い文字ではないかと考え、薬屋にどこから買い求めたか尋ねたところ、河南省の田舎で農民が掘り出していると聞いた。二人はたくさんの文字の刻まれた骨を集め、研究を始めた。
ところが、翌1900年に義和団事件が起こり、8カ国連合軍が北京に迫った。西太后ら時の実力者はさっさと西安へ逃げてしまい、王は義勇軍の長官を命ぜられたが、連合軍が北京に入場すると、自害して果てた。
事変後、劉は王の集めた骨を譲り受け、1903年に「甲骨文字」と名づけ、殷王朝の王が占いに使った卜辞であることを明らかにした。劉は事変中、ロシア軍と交渉して太倉(穀物倉)の米を買い取り、住民に売却することで飢餓から救った。しかし、1908年にその行為が横領にあたるとして流刑となり、翌年、流刑先で亡くなった。
ところが、翌1900年に義和団事件が起こり、8カ国連合軍が北京に迫った。西太后ら時の実力者はさっさと西安へ逃げてしまい、王は義勇軍の長官を命ぜられたが、連合軍が北京に入場すると、自害して果てた。
事変後、劉は王の集めた骨を譲り受け、1903年に「甲骨文字」と名づけ、殷王朝の王が占いに使った卜辞であることを明らかにした。劉は事変中、ロシア軍と交渉して太倉(穀物倉)の米を買い取り、住民に売却することで飢餓から救った。しかし、1908年にその行為が横領にあたるとして流刑となり、翌年、流刑先で亡くなった。
劉所蔵の甲骨はその後、羅振玉【らしんぎょく】の手に渡ったが、1911年に今度は辛亥革命が起こる。翌年に中華民国が成立すると、羅振玉は甲骨コレクションを携えて日本に亡命し、研究を続けた。彼は、甲骨文字の刻まれている竜骨が安陽県小屯の出土であることを突き止め、同地を殷王朝の遺跡と推定した。
結局、安陽県小屯(すなわち殷墟【いんきょ】)の発掘は1928年に始まるが、日中戦争の勃発で一時中断、中華人民共和国が成立した翌年の1950年に再開された。
殷墟からは大量の奴隷の殉葬をともなう多数の大墓が出現して世界を驚愕させることになるのである。現在、殷墟は第19代盤庚【ばんこう】から最後の紂王までの後期殷王朝の都であった商(または大邑商)であったと考えられている。
王懿栄がマラリアでなかったら、殷墟の発見はなかったのかもね。
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中国人が酒を飲み始めたのは約9000年も昔のことらしい。2004年に賈湖【かいこ】遺跡から出土した陶器片を分析したところ、醸造酒の成分が検出されたらしい。
史書に中国の酒の始祖として名前を残しているのが儀狄【ぎてき】だ。一説には身の丈九尺五寸、ひたい黄色で鼻曲り、頭ゆがみ、耳薄い男であったとも言われている。
史書に中国の酒の始祖として名前を残しているのが儀狄【ぎてき】だ。一説には身の丈九尺五寸、ひたい黄色で鼻曲り、頭ゆがみ、耳薄い男であったとも言われている。
儀狄はもち米から黄酒を造ったと伝えられている。中国酒は醸造酒で紹興酒に代表される黄酒【ホアンチュウ】と、蒸留酒である白酒【パイチュウ】に大きく分けられる。関係ないが、僕は白酒は臭くて苦手だ。一方、白酒を造ったのは杜康【とこう】で、夏の第6代国王の少康のことだとされる。ちなみに、日本で酒を造る職人を杜氏【とうじ】と呼ぶのは杜康に由来するらしい。(諸説あります)
話しを儀狄に戻すね。儀狄は自分の造った酒を夏の初代国王である禹【う】に献上した。禹は明君として後世まで有名な人だが、いかに明君でも美味いものは美味い。そこで、「うむ、これは美味いものだ」と感心し、その酔い心地に陶然となったそうだ。禹ですらそうだから、僕なんかは毎晩酒を飲んで、お陰でγ-GTPは最悪の数値だ。でも、流石に禹は違う。酔いながらも、「後世、その甘美なるを貪り、これを飲むこと節ならずして、必ず国を亡ぼし家を敗る者あらん」と言い、儀狄を退けたと伝えられている。
立派な初代国王を持つ夏王朝だったが、第6代目の少康が白酒を発明したように、次第に酒の虜になっていったようだ。そして17代目の桀【けつ】王は寵姫【ちょうき】である末喜【ばっき】に溺れ、政治を省みなくなった。末喜の願いに応えるために巨大な宮殿を建て、酒の池に船を浮かべて肉山脯林【にくりんほざん】(肉は生肉、脯は干し肉のこと)と呼ばれる肉を山のように盛る豪華な宴会を開催。人々が酒の池から杯で酒を飲むことを禁じ、牛のように這いつくばり、直接飲むように命じた。この姿ははなはだはしたない獣のような飲み方で「牛飲」と呼ばれた。こんなことをやってるから、次第に国力は衰え、殷の湯王【とうおう】によって滅ぼされた。
しかし、残念ながら殷もまた世代を過ぎるごとに退廃していった。暴君として知られる30代目の紂王【ちゅうおう】は愛妾である妲己【だっき】に溺れ、彼女を喜ばせるために面白そうなことを次々にやった。
夏の桀王を真似て、酒の池を造り人々に牛飲を強いたほか、肉を林のように吊して肉林と称した。多くの男女を裸にして肉林に放ち、夜を徹して乱痴気騒ぎをした。こうして堕落した殷は周の武王によって滅ぼされてしまうが、武王は王侯は酒を飲むにあたり非礼であってはならぬとし、民衆が集まって酒を飲むことを禁止したという。
皆さんも酒の飲み過ぎには注意しましょう。
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司馬遷の『史記』によれば、中国の歴史は三皇五帝三代で始まるとされる。三皇は伏羲【ふっき・ふくぎ】・女媧【じょか】・神農【しんのう】の3人の神。伏羲と女媧は兄妹あるいは夫婦とされ、写真のように蛇身人首で交尾している姿で描かれ、手には矩(直角定規)と規(コンパス)を持っている。伏羲は狩猟、神農は農業を始め、女媧は人間を創造したとされる。
五帝は黄帝・顓頊【せんぎょく】・嚳【こく】・堯【ぎょう】・舜【しゅん】の理想の君主とされた5人の人物。佐藤製薬の栄養ドリンク剤ユンケル黄帝液があるけど、黄帝は中国医学の祖とされているので、非常に上手いネーミングだね。ちなみに、秦の始皇帝が中国史上初めて皇帝という称号を使ったけど、皇帝には三皇五帝の徳を兼ね備えた者という意味もある。

五帝の後、夏・殷・周の三代の王朝が続くことになるが、夏王朝の創始者が禹【う】という男である。禹は帝顓頊の孫にあたり、治水事業に失敗した父・鯀【こん】の後を継ぎ、大洪水を起こした黄河の治水に邁進した。厳しい自然との戦いで、身体が半身不随となったが、13年後中国全土の治水に成功し、生まれ変わった土地で民の暮らしは一変した。禹は舜から禅譲されて王位に就き、17代続く夏王朝が始まった。
禹は現在の中国でも人気があり、2006年には湖北省武漢市の川辺にある大禹神話園に、長さ13.5m高さ8mという巨大な大禹像が出現した。場所は長江と漢水の合流地点。禹が治水に成功したのは黄河で、長江は何の関係も無いんだけど、漢水はよく氾濫するので、それを禹の力で止めようという魂胆かな。
ところで、2016年に南京師範大学の研究チームが伝説の大洪水の証拠を発見したと発表した。それによると洪水が起きたのは紀元前1920年で、黄河の水位は通常よりも最大38m高くなったそうだ。この発表が正しければ、夏王朝の歴史は紀元前1900年から始まったことになる。
「夏」は「華」に通じ、中華を意味する語でもあり、現在の中国は自国を美化して「華夏」と呼んでおり、現在の中国人は夏王朝の子孫の末裔とされている。ところが、山川出版社の教科書『詳説 世界史B』では夏王朝は伝説の王朝として扱われている。夏王朝ははたして実在したのであろうか?
ところで、2016年に南京師範大学の研究チームが伝説の大洪水の証拠を発見したと発表した。それによると洪水が起きたのは紀元前1920年で、黄河の水位は通常よりも最大38m高くなったそうだ。この発表が正しければ、夏王朝の歴史は紀元前1900年から始まったことになる。
「夏」は「華」に通じ、中華を意味する語でもあり、現在の中国は自国を美化して「華夏」と呼んでおり、現在の中国人は夏王朝の子孫の末裔とされている。ところが、山川出版社の教科書『詳説 世界史B』では夏王朝は伝説の王朝として扱われている。夏王朝ははたして実在したのであろうか?
夏王朝の実在を裏づける遺跡として近年脚光を浴びているのが、1959年に河南省で発見された二里頭遺跡である。
二里頭遺跡は 殷の後期の都であった殷墟のある河南省安陽市小屯から南西130キロほどにある。紀元前1800年頃から紀元前1500年頃の遺跡とみられ、史書の夏王朝の時期に相当するため、中国では夏王朝の都の一つと考えられている。
宮殿復元図
1960年には規模の大きな宮殿の基壇が発見された。人の出入りする南門のすぐ近くに最も重要な宮殿(一号宮殿)を配置、その重要な宮殿の内部には回廊と広い中庭、正面に王が立つ建物(正殿)を配する構造になっている。この構造は、後の中国歴代王朝の宮殿構造に引き継がれ、宮廷儀礼もここから始まったと考えられる。
写真は二里頭遺跡で出土した平底銅爵。当時最先端の技術で作られたピカピカの銅爵は人々を驚かせた。「謎の仮面王国・三星堆」で書いたように、爵は儀式用の酒器のことだけど、後に身分を表すようになった。宮廷儀礼で身分の高い貴族は壇上に上げられ、王から酒を賜ることになる。下から見守る参列者たちは、王との身分の違いを痛感し、王を崇めるようなった。軍事力だけでは、長く権威を維持させることは不可能なので、このような宮廷儀礼というソフトパワーのシステムが作られ、これが清朝まで続くのである。
動物紋飾板。動物の姿を真上からみたデザインを、青銅の板にトルコ石で象嵌【ぞうがん】してある。恐らく身分の高い人が身につけていた装身具だろうね。
トルコ石で作られた龍。
これは玉璋【ぎょくしょう】。璋は日本の神主さんが手に持っている笏【しゃく】みたいな物で、宮廷儀礼の際に最後に壇上に上がった王が権威の象徴として手に持っていたものだ。これが玉で出来ている。「たま」じゃなくて「ぎょく」。玉は「玉石混淆」【ぎょくせきこんこう】の玉で、翡翠【ひすい】のことだ。中国人はこの玉が大好きなんだけど、玉のことはまたいずれ書こう。さあ、ここにも龍が描かれているね。分かる?
二里頭のすべての玉璋の柄の部分には、龍の頭、背びれが刻まれている。龍はもともと、中国東北部で宗教的なシンボルとして信仰されてきた空想上の生き物であるが、二里頭はこの龍を、権力の象徴として利用し始めたんだね。このように龍と王の結びつきは二里頭から始まり、龍は中国の歴代の王朝に権力の象徴として脈々と受け継がれていった。近年の発掘で、この龍を刻んだ玉璋が中国各地で発見され、夏王朝の影響力が大陸全域に及んでいたと考えられている。
これらの発見によって中国の学者は二里頭遺跡が夏王朝の都の一つと考えているが、二里頭の都市文化は殷墟のように文字資料は出土していない。したがって、考古学的に『「夏」と後世に呼ばれた政権が実在した事』は証明されたが、史書のいう『「夏王朝」が実在した事』は証明されていない。
いまだに夏王朝は幻なのだ。
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中国文明は黄河文明に始まると言われてきた。僕が世界史を教え始めた40年ほど前には、こんな風に教えていた。紀元前5000年頃は現在よりも温暖であったため、長江流域はジャングル状態であり、当時の稚拙な道具類で農耕を開始することは不可能であった、とね。
この説を覆したのが、1973年に発見された河姆渡【かぼと】遺跡だ。河姆渡遺跡は杭州湾南岸に位置する紀元前5000年~3300年頃の新石器時代中期の遺跡で、大量の稲籾、稲殻、籾殻などが発見されたことで、長江下流域稲作起源説が強まり、長江文明の存在が明らかになった。(1988年に彭頭山【ほうとうざん】遺跡で紀元前7000~6000年頃に遡る栽培種の稲が出土し、長江中流域稲作起源説が強まっている。)これにより、従来は中国文明の源流として黄河文明が強調されてきたが、多元的に文明が発生したという見方が通説になっている。
中でも異彩を放っているのが、1986年に四川省の成都の北方で発掘された三星堆【さんせいたい】遺跡だ。成都と言えば、三国時代の蜀の都が置かれた地だが、それよりも2000年も前に古蜀王国が栄えていたことが明らかになった。
ことの始まりは1929年に燕道誠という農民が用水路の修繕をしていたところ、おびただしい数の玉器と石器が入った土穴を発見したことであった。1984年夏に本格的発掘調査が行われ、東西2100メートル、南北2000メートル、総面積4平方キロという広大な地域が、巨大な城壁で囲まれた古代都市であったことが判明。1986年夏には三星堆という3つの丘の付近で、祭祀坑と考えられる土穴から、重さ1トンを超える多種多様な青銅鋳造遺物、300点以上にのぼる玉石類、数点の金器、80数本の象牙、および大量の子安貝が発見され、20世紀最後の考古学上の大発見とされた。
最大の問題はこの祭祀坑が地層や年代測定法によって紀元前1300年頃のものと推定されたことだった。それはちょうど、「黄河文明」殷代の後期にあたり、殷と同じ時期に長江流域にも高度な青銅器文明が栄えていたことになる。
ことの始まりは1929年に燕道誠という農民が用水路の修繕をしていたところ、おびただしい数の玉器と石器が入った土穴を発見したことであった。1984年夏に本格的発掘調査が行われ、東西2100メートル、南北2000メートル、総面積4平方キロという広大な地域が、巨大な城壁で囲まれた古代都市であったことが判明。1986年夏には三星堆という3つの丘の付近で、祭祀坑と考えられる土穴から、重さ1トンを超える多種多様な青銅鋳造遺物、300点以上にのぼる玉石類、数点の金器、80数本の象牙、および大量の子安貝が発見され、20世紀最後の考古学上の大発見とされた。
最大の問題はこの祭祀坑が地層や年代測定法によって紀元前1300年頃のものと推定されたことだった。それはちょうど、「黄河文明」殷代の後期にあたり、殷と同じ時期に長江流域にも高度な青銅器文明が栄えていたことになる。
高校の世界史の教科書にも殷の代表的青銅器として写真が掲載されていたと思うけど、左が「尊」で右が「爵」。現代では「尊敬」や「男爵」といった言葉に使われている漢字だけど、もともとはどちらもお酒を入れる器のことだ。中国の歴史ドラマを見てると爵で酒を呑んでるシーンが出てくるけど、どう見ても呑み難そうだよね。王さまからご褒美でお酒が下賜されたことから、尊卑の意味になったり、貴族の爵位に使われるようになったんだ。
これが司母戊鼎【しぼぼてい】と呼ばれていた、これまで発見された中で最も重い青銅器。一緒に写っている人間と比べたらその大きさがわかると思うけど、高さ137センチ、長さ110センチ、幅77センチ、重さが875キロもある、とんでもなくでかい鼎【てい、かなえ】だ。鼎というのは空洞になっている足を持つ器物のことで、足の部分が詰まっていれば鬲【れき】と呼ぶ。足はもともと3本だったので、今でも3人で会談することを鼎談と言うよね。「呼ばれていた」と過去形にしたのは、現在は后母戊鼎【こうぼてい】と呼ばれているから。名前が変わった理由は、銘文の「后」の字を「司」と読み間違えたというアホみたいな理由だ。
鼎は後に権力の象徴とされるようになるが、もともとは神さまに捧げる生け贄の肉を煮るためのもの。豚なんかをぐつぐつと煮てお酒と一緒に神さまにお供えし、お下がりのゆで豚を肴に酒を呑んでトランス状態になることで神意を聞いたんだってさ。殷が滅びた最大の原因が酒の飲み過ぎ。詳しいことは、殷の滅亡のところでお話しよう。
こうした殷代の青銅器には饕餮文【とうてつもん】と呼ばれる装飾が施されている。饕餮は体は牛、顔はヒトという、逆ミノタウロスの怪物。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意味。何でも食べる猛獣だったんだけど、何でも喰らうというイメージから転じて魔を喰らう怪物となり、後には魔除けになった。だから、饕餮文は神さまに捧げる肉や酒を魔物から守っているわけだ。ただし、写真の模様を饕餮文と呼んではいるけど、実際には何を表しているのかよく分かっていない。
尊、爵、鼎の他にもいろいろあるが、青銅器は宗教儀式用に作られた祭器であるというのが、中国青銅器に対する常識であった。ところが、三星堆の青銅器はこの常識を打ち破り、全く異質である。三星堆では殷代青銅器も存在はするが、黄河流域では全く見られない奇妙な人物、動物および植物の造形が主流をなしている。
三星堆で出土した青銅器のうち人々を最も驚かせたのが、写真の縦目青銅仮面である。高さ64.5cm、幅138cmと、ヒトが被るにしては大きすぎる。その上、目玉が正面に向けて水平に14センチも飛び出しており、耳も「スターウォーズ」のヨーダのようにやたらに大きい。三星堆は宇宙人が造った遺跡か?
『華陽国志』蜀志には、古代の蜀における最初の王である蚕叢【さんそう】は「其の目は縦なり」と表現されている。「目が縦」とはどうゆうこと?いろいろ推測されていたが、縦目青銅仮面の発見によって明らかになった。縦目青銅仮面はまさしく蚕叢を表しているのである。
三星堆で出土した青銅器のうち人々を最も驚かせたのが、写真の縦目青銅仮面である。高さ64.5cm、幅138cmと、ヒトが被るにしては大きすぎる。その上、目玉が正面に向けて水平に14センチも飛び出しており、耳も「スターウォーズ」のヨーダのようにやたらに大きい。三星堆は宇宙人が造った遺跡か?
『華陽国志』蜀志には、古代の蜀における最初の王である蚕叢【さんそう】は「其の目は縦なり」と表現されている。「目が縦」とはどうゆうこと?いろいろ推測されていたが、縦目青銅仮面の発見によって明らかになった。縦目青銅仮面はまさしく蚕叢を表しているのである。
こんな縦目青銅仮面もある。
これは貼金銅人頭像。縦目青銅仮面と同様に、三星堆遺跡を紹介する際によく用いられる青銅頭像で、文字通り金箔が貼られており、種類が多く、様々なタイプの頭像が発掘されている。これらの金製品は大小すべてを総計して100点を上回っており、同時代の中国において類を見ないものとなっている。また、青銅器にばかり目を奪われてしまうが、玉石器も多く発見されており、総数300点を上回る。
黄河流域では「天帝」という抽象的な神を崇めるために供献用の青銅製容器が異常に発達したが、偶像はほとんど作られていない。それに対し、三星堆では青銅により神々は目に見える具体的な姿で表され、偶像崇拝という形で祀られたため、供物を捧げる容器は発達しなかった。
三星堆遺跡の最大の謎がある。それは、これらの貴重な財宝が2つの窮屈な土穴に埋められており、ほとんどの遺物が土穴に入れられる前に激しく打ち壊され、さらにひどく焼かれていたことである。その背景に政権交代があったことは明らかで、恐らく、三星堆を中心とする古蜀王国は成都西部を中心とする杜宇の新興勢力により覆され、蚕叢を祖とする王家は無惨にも滅ぼされ、神殿も容赦なく破壊されるという悲惨な結末を迎えたのである。
これは「青銅神樹」。高さが396cmもあり、中国で知られているうちでも最大の青銅鋳造遺物で、1986年に発掘された。
この神樹は中国の古典『山海経』【せんがいきょう】に描かれている扶桑【ふそう】樹ではないかと推測されている。扶桑樹は十の太陽が宿るところであり、太陽はそこからカラスに乗って順番に空へ巡回に出かけることになっている。神樹の枝には3階層にまたがるそれぞれの枝に計9羽ずつのカラスが装飾されている。幹の頂上部分は欠落しているが、そこにもカラスがとまっていたとすれば、ちょうど10羽になる。
中国神仙伝説の中で、西王母ほど知名度の高い神はいないであろう。『山海経』によれば、西王母は玉山と呼ばれる山を擁する崑崙之丘に住んでおり、「人間の姿で、虎の歯、豹の尾を持ち、よく吼える」とされ、恐怖を覚えさせる姿をした神であったが、時代とともに変遷し、冥界を支配する淑やかで容姿端麗な女神へと変貌していった。
一号坑から出土した13点ほどの青銅人頭像は抽象化した表現によるものがほとんどだが、写真の1点だけ写実的な手法で表現されたものである。かすかに笑みを浮かべながら、どこか気品と威厳を放っている女性に見えないだろうか?この特別な女性頭像が表す人物こそ西王母であり、ここ三星堆の古蜀王国が邪馬台国の卑弥呼のような女王が支配した国であったと推定する学者もおり、ますますロマンが広がっていく。
参考 徐朝龍著『三星堆・中国古代文明の謎 史実としての『山海経』』
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