なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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やむなく彼が寝所に呼んだのが王政君だった。たった一度の関係で王政君は劉驁【りゅうごう】(後の成帝)を妊娠、出産した。すごい命中率だね。
紀元前33年に元帝が没し、成帝が即位する。成帝はダンサーあがりの美女を皇后に据え、さらにその妹に心を移すなど、淫蕩にして無能な放蕩天子だった。皇帝が遊び呆けている間に、王政君は皇太后として世上の尊敬を一身に集める立場となる。この頃から、彼女の兄弟や甥達が政治の中枢に関与することとなり、王氏一族は、わが世の春を迎える。しかし、成帝が急死し、哀帝が即位すると、哀帝の外戚が政治に関与するようになり、王氏一族は権力を削られてしまう。ところが、哀帝がわずか25歳で崩御してしまう。
なぜ赤なのか?他の色では駄目なのか?ーこれが赤でないと意味がないんですな。なぜかと言うと……。
鄒衍【すうえん】が大成した陰陽五行説では、万物生成やその変化を陰陽という二気と木・火・土・金・水の五要素(五行)の消長・関連から説明するんだけど、これを歴史の場に適用し,王朝の交代を理論づけた。いわゆる五徳(五行のパワー)終始(循環の意)説で、一代の帝王は五行のどれかひとつの徳をそなえ,王朝は五徳の順序にしたがって交替すると説いた。これには五行相剋(相勝)説と五行相生説がある。
五行相剋説では、水は火を消し、土は水をふさぐというふうに、火→水→土→木→金の順序のもとに,それぞれ前者に打ち勝ちつつ現れるとする。これに対して、五行相生説では、木は燃えて火を生み、物が燃えればあとには灰が残り、灰は土に還るというふうに、木→火→土→金→水の順序のもとに次々と生成するとする。漢の武帝の頃は相剋説で説明され、周(火徳)→秦(水徳)→漢(土徳)の順だったが、王莽の時代には相生説で説明され、周(木徳)→秦(正統でないとし除く)→漢(火徳)→新(土徳)の順となった。火の色は赤だよね。赤眉の乱が赤をシンボルカラーとしたのは、漢を復興するという意志を示したものなんだ。
赤眉の乱や緑林の乱などの農民反乱や豪族の反抗によって、新は西暦23年に滅びてしまう。新はたった15年しか続かなかったわけだ。
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王昭君って知ってますか?男じゃないよ、女だよ。それも春秋末の西施【せいし】・唐の楊貴妃・三国時代の貂蝉【ちょうせん】らと共に中国四大美女の一人と謳われた絶世の美女だ。(貂蝉は架空の人物)
王昭君の名は嬙【しょう】、昭君は字【あざな】。知ってるとは思うけど、中国人は2つ名前を持っている。本名は諱【いみな】といって、親や主君が諱で呼びかけることは許されるけど、それ以外の人が諱で呼ぶことは失礼とされる。それで、普段使うのが字だ。例えば、有名な諸葛孔明の孔明は字で、諱は亮だよ。
王昭君は今の湖北省興山県の庶民の家に生まれた。よほど美しい少女だったんだろうね、14歳の時に漢の第10代皇帝・元帝【げんてい】の宮女として後宮【こうきゅう】に入った。後宮は日本で言えば江戸時代の大奥で、何千人という女性が仕えており、皇帝の目に留まり、寵愛を受けることは大変なことだった。その中には、一度も皇帝に会うこともなく、寂しくその一生を終えた女が沢山いた。
元帝は画家の描いた肖像画によって後宮の女性を召し出していた。後宮の女性たちは何としてでも美しく描いてもらい皇帝の目にとまりたいと願い、画家に賄賂をたっぷりと渡した。しかし、王昭君だけは賄賂を贈らなかった。貧乏でお金が無かったのか、自分の美貌に自身があったのか、不正を嫌う真っ直ぐな性格だったのか、さほど寵愛を受けたいとは思っていなかったのか、理由は分からないが、ともかく賄賂を贈らなかったために、醜く描かれてしまった。当然、皇帝からの指名がかかることは無かった。
一方、武帝の攻撃を受けて弱体化した匈奴は紀元前60年に東西に分裂し、そのうちモンゴル高原に残ったのが東匈奴と言った。東匈奴の呼韓邪【こかんや】単于【ぜんう】は、西匈奴との戦いを有利にしようとして、紀元前53年に漢に投降してその保護を受け、紀元前51年には呼韓邪が自ら漢の宣帝を甘泉宮に訪れて拝謁し、藩臣と称した。
紀元前36年、西匈奴が漢に攻め滅ぼされた。喜ぶとともに漢の力を恐れた呼韓邪は、漢と姻戚関係を結ぼうと考え、紀元前33年に漢の王族の娘の降嫁を願い出た。元帝は王族の娘をとてもそんな野蛮な国に嫁がせられないと考え、代わりに後宮の宮女を送り出すことにした。そこで、例の肖像画をもとに醜い10人を選んだ、とされている。でも、そんなブスばっかり送ったら呼韓邪は怒るだろうから、まあ自分の好みでない女性を選んだんだろうね。で、その中に王昭君もいたわけだ。
匈奴に旅立つ当日、元帝はこの哀れな女性たちに別れのねぎらいの言葉の一つでもかけてやるつもりで謁見した。元帝は王昭君を見て驚いた。肖像画とは似ても似つかぬ絶世の美女だったからだ。「これほどの美女は見た事がない。後宮中を探してもこんな美女は見つからない!」しかし、後悔しても後の祭り。この時点で変更すれば匈奴との外交上大問題となる。やむなく、涙を呑んで、王昭君を漠北の地に送り出した。王昭君は19歳だった。
王昭君は、馬に揺られて匈奴の地まで2千キロもの道のりを旅したという。その長旅は、山超え、砂漠を超え、草原を超え、延々2か月以上もかかる辛いものであった。その際、彼女は怨思【えんし】の歌という歌をつくり、元帝に贈ったということである。その歌には、一度も寵愛されることがなく、異境の地に赴かねばならなかった怨みの思いが綴られている。顔立ちも異なり、言葉も通じず、衣食住などの文化にもほとんど共通点のない所に、親兄弟知人友人ひとりなく連れていかれるというのはどれほど心細かったことであろうか。
王昭君は呼韓邪単于の閼氏【あっし】(匈奴の言葉で君主の妻)として一男を儲けた。その後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若鞮【ぶくしゅるいにゃくたい】単于の妻になって二女を儲けた。漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、このことも王昭君の悲劇性を高めた。
王昭君の悲劇性を決定的にしたのが馬致遠【ばちおん】作の元曲『漢宮秋』で、今でも京劇で演じられている。賄賂を贈らなかったため醜く描かれたのは同じで、王昭君は宮廷に入った後も元帝の目にとまることは無かった。ところが、ある日元帝は城内を歩いている時に彼女が琵琶を弾いているところに出くわし、彼女を寵愛するようになる。画家・毛延寿【もうえんじゅ】は自分の悪事がバレるのを恐れ匈奴に逃亡。そこで単于に王昭君の美しい肖像画を見せ、この美しい妃を手に入れるよう唆【そそのか】す。この策略にのった単于が漢を攻め、元帝に王昭君を差し出すよう要求。元帝は泣く泣く愛妃・王昭君を彼に渡すのだが、彼女は匈奴に行く途中、黒河(エチナ河)に身を投げてしまう。ってな訳で、王昭君は死んでしまうんだ。(ちなみに、史実では多額の賄賂を取り立てていた画家は、不正が発覚して処刑され、毛延寿もこの事件で処刑されたらしい。)
でも、王昭君は本当に悲劇の主人公なのだろうか。王昭君の墓は複数あるのだが、一番有名なのが内モンゴルのフフホト。そこには写真にあるように、王昭君と呼韓邪単于がともに馬にまたがり、寄り添うように並んでいる像が建てられている。実在の王昭君は悲劇の女性などではなく、自分で道を切り開いていくことができる強く美しく、そして幸運で案外幸せな生涯を送った女性だったのかもしれない。
ちなみに、これも王昭君と名づけられた品種。バラのように見えるかもしれないけど、椿だよ。
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中国最初の正史である『史記』を著し、「中国の歴史の父」と呼ばれる司馬遷。彼にはチンチンが無かったって知ってる?
司馬遷は現在の陝西省出身。周代からの史官の家柄で、父の司馬談は太史令(天文・暦学や修史を扱う役所の長官)であった。そのため司馬遷も10歳の頃から古書籍を読み、また暮らしのため畑仕事や家畜の世話などもし、壮健な身体を育んでいった。
司馬遷は20歳の頃に父の命令で中国各地を訪ねる大旅行を行っている。旅程は分かっているが、旅の目的や同行者の存在が不明という不可思議な旅だが、恐らく修史のための記録収集が目的だと思われる。この旅の記録を書いていれば、玄奘の『大唐西域記』に匹敵する大旅行記になっただろうが、司馬遷は歴史記録にしか興味が無いのか、残念ながら旅行記は残していない。
この旅では、司馬遷は好んでその土地の古跡を訪ね、古老から昔話を聞き取り、その土地独自の伝説を収集して歩いた。故事伝説だけではなく、地方住民のリアルな風俗や人柄を調べ、地理をその足で確認しながら旅を続けたそうだ。この経験が『史記』を著す下地となったことは、言うまでもない。
司馬遷は23歳頃、郎中(皇帝の身辺警護の侍従職)に任官して武帝に仕え、巡幸に随行した。病を得た父が臨終の床で、「お前は第二の孔子となり、先祖の志を継ぐのだ」と遺言し、修史事業の継続を命じた。3年間は父の喪に服したあと、その遺志に従って郎中から転じて太史令となり、さらにその4年後にいよいよ『史記』
の執筆に取りかかった。
執筆を始めて5年後に事件が起きた。紀元前99年、武帝は李広利将軍を総大将とする3万の騎兵隊を出陣させた。帝国の総力をあげての匈奴潰滅戦争であった。その折、輜重【しちょう】隊長(武器・弾薬、食料の輸送にあたる隊の長)の役には満足できなかった李陵【りりょう】は、自ら武帝に申し出て、配下の歩兵5000人を率いて別働隊を組織し、西北ゴビの城塞・居延【きょえん】から北に向かった。
しかし、不幸なことに、3万を超える敵の主力軍と遭遇し、包囲されてしまう。李陵軍は獅子奮迅の働きを見せ、六倍の相手に一歩も引かず8日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵1万を討ち取った。だが、さすがに李陵軍も矢尽き刀折れ、ついには投降の道を選んだ。
武帝の方針に反して申し出た戦いに敗れた限り自刃すべきところを、李陵が投降したという報に触れ、怒った武帝は臣下に処罰を下問した。皆が李陵を批判する中、司馬遷はただ一人彼を弁護したのである。
司馬遷は、李陵の人格や献身さを挙げて国士だと誉め、一度の敗北をあげつらう事を非難した。5000に満たない兵力だけで匈奴の地で窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた彼には、過去の名将といえども及ばない。自害の選択をしなかった事は、生きて帰り、ふたたび漢のために戦うためであると述べた。
しかし、これは逆効果だった。意に反する李陵の擁護が投げかけられた上、司馬遷が言う「過去の名将」のくだりを、武帝は対匈奴戦で功績が少なく、李陵を救援しなかった李広利を非難しているものと受け止められた。武帝の命によって、即座に彼は獄吏に連行された。高官であったが、司馬遷には賄賂を贈れる程の財力は無く、友人の中にも手を差し伸べる者はいなかった。
だが、翌年になると武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ったがこれは成功しなかった。ところが、ある匈奴の捕虜から、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施しているとの誤報がもたらされ、事態は一変した。反逆と見なされた李陵は、反逆罪に対して設けられた族刑(父母妻子兄弟が連坐して斬首となる)が適用され、家族は誅殺されてしまう。李陵はそれを機に、実際に匈奴の側に寝返ってしまい、祖国には二度と戻らなかった。
その頃、やはり匈奴の捕虜となっていた蘇武【そぶ】という男がいた。匈奴は彼を脅して帰順させようとしたが屈しなかったため、彼は穴蔵に飲食物もなく捨て置かれた。それでも、雪を囓【かじ】り、節の飾りについている毛を食べた生きながらえた。やがて、蘇武は北海(現在のバイカル湖)のほとりに移されたが、匈奴から「オスの羊が乳を出したら帰してやる」と言われてしまう。彼はそこで、野鼠の穴を掘り、草の実を食うなどの辛酸をなめたが、単于【ぜんう】(匈奴の王)の弟に気に入られて援助を受けて生き長らえ、匈奴に屈することがなかった。
蘇武はかつて李陵と共に侍中を務めた仲であり、20年来の友であった。今では匈奴に降って厚遇されていた李陵が降伏するよう説得したが、それでも蘇武は屈しなかった。抑留20年、武帝の死後に彼は許されて漢に帰還することになる。ゴビを舞台とした二人の対称的な生き様、友情と別離を綴ったものが、「漠北悲歌」すなわち中島敦の『李陵』である。是非、一度読んでもらいたい。
話が横道に逸れてしまったが、李陵一族が皆殺しにされた時、累は司馬遷にも及び彼に死刑が宣告された。死刑を免れる方法として金銭か宮刑があるが、金銭の無い司馬遷は宮刑を選択するしかなかった。詳しいことは宦官【かんがん】のところで話すが、宮刑は男性性器を切除してしまう刑罰、つまりチンチンや睾丸を切り取ってしまうわけだ。当時は儒教全盛期だから、子孫を残せないことは先祖を蔑【ないがし】ろにすることになり、大変な屈辱だった。しかし、ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走れなかった。彼は父の遺言でもある『史記』の完成という使命を前に、耐えて生きる道を選んだ。牢獄に繋がれてから4年後、大赦によって司馬遷は釈放され、中書令の任が下った。中書令は皇帝の秘書長官の役で、太史令よりも遥かに重要なポストだったが、宦官が担う役職であるこの任は司馬遷にとって屈辱であった。
しかし、この屈辱に耐え、6年後についに『史記』130巻を完成させた。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻からなる紀伝体の歴史書で、文字数にすれば52万6,500字。
『史記』には武帝の逆鱗に触れるような記述がある為に隠されることになり、司馬遷はすでに楊家に嫁いでいた娘にこれを託した。『史記』が世に広められたのは、武帝没後のこと。宣帝の時代になって、孫の楊惲より世に広められた。
えっ、チンチン切られた司馬遷に子供がいたんか?って。切られる前につくった子が何人かいたんですよ。
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漢の頃まで、万里の長城の西は謎だった。砂嵐のふく砂漠の北には匈奴【きょうど】がおり、時に南下して中国を侵した。甘粛【かんしゅく】には月氏【げっし】の国があった。その南にはチベット系の羌【きょう】が遊牧していた。だが、砂漠を越えた煮にに何があるかは、ほとんど分からなかった。その頃、遙か製法に旅してその状況を伝えた者がある。その名を張騫という。
こうした状況を打開しようとしたのが、漢の第7代皇帝・武帝であった。そんなときに武帝は匈奴の捕虜の話に心を動かされた。月氏が匈奴のためにもと住んでいた土地を追われて遠く西に移り、匈奴の老上単于は殺害した月氏王の頭蓋骨を盃にして酒を飲んでおり、月氏は深く匈奴を憎んでいるというのだ。
頭蓋骨を盃にしたものを髑髏杯【どくろはい】という。気持ち悪いと思われるかもしれないが、今でもチベットではこれを密教法具として使っている。(写真がチベットの髑髏杯であるカパーラ)。
紀元前139年、張騫は従者100余人を連れて、長安を出発した。
めざす月氏は西方のイリにいるとしか分からぬまま、一行は西に進んだ。だが、隴西【ろうせい】を出ると、彼らはたちまち匈奴に捕らえられてしまった。これから、長い匈奴生活が始まる。からりとした気性を愛されて、匈奴の娘を妻にあてがわれ、子までできた。だが、張騫は漢の使者の符節【ふせつ】を身につけ、じっと機会を待っていた。捕らわれて10余年、彼はついに妻子と従者を連れ、西方に脱出した。聳え立つ天山山脈の南に沿って、オアシスをちりばめたタリム盆地を横切り、大宛【だいえん】国に着いた。今のフェルガナ地方で、葡萄酒と名馬を産する地である。ところが、月氏はすでにそこにおらず、烏孫【うそん】に追われて、さらに西方へ移動していた。張騫は康居【こうきょ】を通り、やっとアム川上流にある月氏の宮廷に着いた。
張騫はすぐに月氏の王に会って、武帝の意を伝えた。だが、事情は変わっていたのである。月氏はここに移ってから、すでに南の大夏【だいか】(バクトリア地方)を属国にし、土地の豊かさと、敵のいないことに満足しきっていた。旧怨を雪【すす】ぐために、遙か遠くの匈奴と戦うなど、愚かなことであった。張騫は大夏までも出かけて画策したが、月氏を動かすことは出来なかった。
月氏を出発した張騫は、今度は崑崙【こんろん】山脈の北に沿って帰ったが、また匈奴に捕らえられた。1年余りして、彼は匈奴の内紛に乗じて脱出し、ついに長安に帰った。出発してから13年、初めの一行のうち彼とともに帰ったのは一人だけだった。
その一方で、張騫の帰りを待っていた武帝だが、待てど暮らせど張騫は帰って来ない。業を煮やした武帝は寵姫の弟である衛青【えいせい】将軍を匈奴討伐に送り込んだ。
さらに、衛青の甥にあたる霍去病【かくきょへい】将軍を送り込んだ。霍去病はわずか24歳で病死したが、この二人の活躍で匈奴の本拠地は撃破された。
張騫は当初の目的も達成出来ず、その後おめおめと帰って来たわけだが、計り知れぬものを中国に与えることになった。武帝は張騫の報告に基づき西域を征服、東西の交通がここに開けたのである。西方の国からは葡萄や名馬、宝石、石榴【ざくろ】、西瓜、楽器の琵琶等々、そして漢からは金や絹などが、天山の道を運ばれ始めた。いわゆる絲綢【ししゅう】之路、シルクロードである。
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呂后【りょこう】は本名を呂雉【りょち】といい地元の名士であった呂公を父として生まれた。呂公は近隣の沛という地方の県令(県知事)と親しい間柄で、その県令に招かれた呂一家のために県内の有力者を集めての歓迎の宴が開かれることとなった。その宴は祝儀の多寡により座敷に上がるものとそうでないものが分けられ、その額が千銭以上のものだけを正規の招待客として扱うことになっていた。
そこに劉邦という男が現れると一銭も持参していないというのに、奉加帳に一万銭と書き込み座敷へと上がり込んだ。あまりの振る舞いに当然世話役が押し返そうとしたが、主賓である呂公はそれを制し、自分の側に座らせた。人相を見ることに長けていた呂公は、劉邦に並外れた相が出ていると読み、呂雉を劉邦に嫁がせることにした。
当時の劉邦は亭長という宿場の管理と治安維持を仕事とするような、しがない役人で、酒と女が大好きで、傍若無人に振る舞うのが常な人間だった。しかし、なんとなくおおらかな雰囲気があり、妙に人を惹きつけるところがあったという。劉邦は居酒屋でいつも文無しで飲み続けてその場で眠ってしまうのだが、その劉邦が店にいる間はなぜか店が大繁盛するので、そのツケがいつもチャラになったそうだ。そんな男に大事な娘はやれないと呂公の奥さんは猛反対したが、呂公は一切取り合わず、二人を結婚させた。
しかし、結婚してからも劉邦は相変わらず酒や女に興じる生活を送っていた。亭長の給料は安く、家計を支えるために呂雉は慣れない野良仕事や土木作業で、劉邦との間にもうけた魯元【ろげん】という娘と、盈【えい】という息子を苦労しながら育てた。いわゆる糟糠の妻というやつだ。
劉邦が項羽との楚漢戦争を戦い抜いている時期も、呂雉は家を守り内助の功を尽くした。途中、舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ、2年ほど捕虜として苦しんだ時期もあった。しかし、紀元前202年、ついに劉邦が皇帝となったことで、呂雉は皇后、息子の盈は太子となり、今までの苦労もすべて報われるはずだった。
ところが、劉邦は皇帝となっても女癖が一向に直らず、特に戚【せき】夫人という若い側室を寵愛した。戚夫人は上体を後ろに大きく反らす楚舞(イナバウアーみたいなもんかな)を得意とし、劉邦とは遠征中に碁を打ったともいわれる。劉邦が親征する時にも同伴させるなど、格別の寵愛を与えていた。それに対して呂后は女性としての魅力が薄れてくる年齢となり、いつも留守番をさせられていた。そうすると劉邦と会うこと自体も少なくなり、ますます疎遠となっていった。
呂后はこうした劉邦の女遊びの多くには目をつむり我慢するしかなかったが、この戚夫人に対してだけは訳が違った。戚夫人はその寵愛をいいことに、自身が産んだ如意という子を太子にしてほしいと懇願したからだ。もともと劉邦は柔和で弱々しさのある盈を自分の跡継ぎとして考えた時に、あまりいい印象をもっていなかった。対して戚夫人との子である如意はなかなか利発で、大物の片鱗を伺わせるところがあり、劉邦としては建国間もない国を如意に任せたかったようだ。しかし、呂后としては我が子の盈が廃立させられるなど許せるわけがない。この危機に際して呂后は劉邦を支え続けてきた軍師の張良を頼り、その張良の知恵によって何とか息子の地位を守りぬいた。
紀元前195年に劉邦が亡くなり、盈が二代皇帝恵帝として即位した。我が子が帝位につき、皇太后となった呂后は権力を振るい始めるようになる。
手始めに行ったことは、憎き戚夫人への復讐だった。ここから先は残酷なので、嫌な人はスルーしてね。劉邦が死んだ翌月、呂后は戚夫人に罪を着せ投獄した。坊主頭にし、ボロ着を与え、手足に枷【かせ】をはめてひたすら奴隷のように扱い、四六時中石臼をひかせた。
そして戚夫人の息子である如意を、殺すために都へと呼び寄せた。母の企みを察知していた恵帝は、実の兄弟のようにかわいがっていた如意を守るため常に一緒に行動するようにした。しかし、ある冷え込みの厳しい朝、恵帝はよく眠っている如意を起こすのが可愛そうになり、一人で狩りにへと出かけてしまった。恵帝が見せた一瞬のスキを見逃さなかった呂后は、その狩りの最中に如意を毒殺してしまう。如意は13歳だった。
呂后は如意が悶え苦しんで死んだ様を、獄中の戚夫人に事細かに話して聞かせた。そのことに嘆き悲しむ戚夫人を見ると、続いて呂后は宦官【かんがん】に命じて彼女を裸にさせ、両足を広げさせた。そしてむき出しになった陰部を指さし「これが先帝を迷わせた穴か」と言うなり強く踏みつけた。続いて数日後、凶悪な殺人犯を何人も連れ出してくると、代わる代わる強姦させた。その後、ぐったりとした戚夫人に劇薬を飲ませ声を出なくさせると、次いで手足を切り落とし、両目をえぐり、耳には硫黄を流し込んで、厠【かわや】へと放り込んだ。
古代中国では豚便所といって、豚小屋と便所は一体化されていた。豚小屋の上に落下式便所を設け、人が用を足すと豚が人の大便を餌として食べるというわけだ。戚夫人が便所に放り込まれたということは、豚小屋に放り込まれたということで、戚夫人は糞まみれになった。呂后は恵帝を呼び寄せると、「人豚がいますよ」と厠へ向かうよう指示した。豚と一緒になって何かがもぞもぞと動いている。恵帝はその肉の塊が最初なんなのか分からなかったが、それが戚夫人の変わり果てた姿だと分かると、あまりの衝撃で頭が悩乱し、寝込んでしまった。恵帝はこれ以降政務に携わろうとせず、酒に身を任せる日々を送るようになってしまう。その酒と心労が身体を蝕んだのか在位わずか7年、23歳の若さでこの世を去った。
代わって皇帝となったのが、恵帝の子とされた少帝恭【きょう】である。ところが、少帝恭は呂后がかつて少帝恭の実母を殺害していたことを知る。少帝恭が呂后を憎むようになると、呂后は少帝恭を獄に閉じ込め、暗殺してしまう。これで、呂后の暴走はいよいよ止まらなくなった。幼少の皇帝をたてて傀儡【かいらい】とし、呂后一族で政権を独占し、劉邦の一族を次々と殺害した。
始皇帝は皇帝の権威を誇示するとともに、各地域の視察を兼ねて、中国統一の翌年から5度にわたり天下巡遊を行い、そのために馳道【ちどう】と呼ばれる幹線道路を6,000キロにわたって整備させた。その幅は約70メートルで、そのうち7メートルは天子道と呼ばれ、皇帝しか通行出来なかった。もちろん、いざという場合には馳道は軍用道路にもなる。
蒙恬は偽詔であることを看破し、その旨を扶蘇に進言したが、「疑うこと自体義に反する」と述べてそれを受け入れず、偽命に従って扶蘇は自決、秦の命運はここにつきた。蒙恬はなおも抵抗したが、結局は毒を飲んで自決した。
咸陽に戻った趙高は丞相【じょうしょう】の李斯【りし】と共謀し、自身が教育係を務めていた末子の胡亥【こがい】を二世皇帝に担ぎ出した。胡亥は公子高ら兄弟を含む皇族や重臣を粛清。始皇帝の死によって中断していた阿房宮の建築を再開したが、この大規模な工事には国中から人夫が集められ、その数は累計数百万人にまで及んだそうだ。さらに驪山陵や万里の長城の建築を推進し、匈奴の侵攻に備えるべく大規模な徴兵を行なったことで人心の離反を招いた。
紀元前209年、河南の貧農であった陳勝と呉広による乱が勃発。陳勝は悲劇の皇太子である扶蘇を名乗り、民衆の支持を集めた。陳勝の言葉「王侯将相いずくんぞ種あらんや」は、人間の平等を主張したものとして有名だよね。彼らが反乱を起こすとたちまち中国全土で秦の圧政に対する不満が噴出して、反乱は全土に波及したが、反乱軍は内紛によって瓦解し、反乱は半年余りで鎮圧された。
皇帝は笑って、「丞相は間違えたな。鹿のことを馬と言いおったわ!(鹿を指して馬と為す)」と左右の侍臣たちに問いかけた。
左右の者たち、ある者は黙ったまま何も言わず、ある者は「いえいえ、陛下、これは馬でございます」と言って趙高におもねり、ある者は「陛下のおっしゃるとおり鹿でございます」と言った。
趙高はこれを聞いて、「鹿だ」といった者を密かに合法的に罪に陥れた。こうして、秦国内では誰も趙高には逆らわないようになったそうだ。
これが、「馬鹿」の語源とされている(馬鹿の語源には諸説ある)。
紀元前207年になると、秦軍は各地で反乱軍に敗退、中でも劉邦の軍は咸陽の近郊まで進軍してきた。ようやく状況の悪化を知った二世皇帝は趙高の責任を追及し、粛清を恐れた趙高は一族を率いてクーデターを敢行。その結果、二世皇帝は捕らえられ、自殺させられた。趙高は自分が死に追いやった扶蘇の子供である子嬰【しえい】を立てて三世皇帝とするが、結局はこの子嬰に殺されてしまう。本当、馬鹿だね~。
その後、阿房宮は攻め込んできた項羽【こうう】軍によって焼き払われ、その火は3ヶ月間鎮火することが無かったと、『史記』項羽本紀は伝えている。このような人々の怨嗟の元となり、国が疲弊していく原因ともなった阿房宮が転じて、愚かなさま、行動を「阿呆」と言うようになったんだってさ。
ただし、2003年に「項羽によって焼かれたのは咸陽宮であって、阿房宮は焼かれていない」という説が公表されている。
※人物の肖像は中国テレビドラマ『項羽と劉邦 King's War』から拝借しました。
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秦末の混乱の中で、二人の人物が天下をめぐって激しく戦うことになった。項羽【こうう】は楚の将軍の家系の出身で、紀元前206年には秦を滅ぼし、一時「西楚の覇王」と称した。戦いにはめっぽう強かったが、性格的は部下の意見を聞かず、何でも自分が先頭になってやらねば気が済まない、しかも喜怒哀楽が激しい人物であった。
これに対し、劉邦【りゅうほう】は沛県の農民の出身で、おおらかで大酒飲みの遊び人であったが、他人の意見によく耳を傾けることから多くの人に好かれ、韓信などの優秀な人材が彼のもとに集まった。この違いが二人の命運を決める。
項羽は戦いに敗れて、兵少なく、食尽きていた。やがて夜になった。するとどこからともなく歌声が起こってきた。あるいは遠く、あるいは近く、東からも、西からも、北からも、南からも、歌声は起こってくるではないか。耳を傾けると、それは楚の歌声なのだ。張良の計略だった。果たして楚の出征兵ー農民たちは、懐かしい故郷の歌声を聞いて、望郷の思いにかられ、戦意を挫かれて脱落していった。漢軍に下った楚の九江の兵たちが歌ったのだった。
項羽は四面楚歌するのを聞いて驚いて言った。「漢はもう楚を取ってしまったのか。なんというおびただしい楚人だ!」
四面楚歌ー孤立無援の重囲に陥ったのだ。もはやこれまでと思った項羽は、起きて帳【とばり】の中に入り、訣別の宴を張った。
項羽の軍中に虞美人【ぐびじん】という寵姫がいて、影の形に従うごとく、いつも項羽の側を離れなかった。また、騅【すい】という駿馬【しゅんめ】がいて、項羽はいつもこれに乗っていた。項羽は虞美人が哀れであった。彼は悲歌慷慨【ひかこうがい】し、自ら詩を作って歌った。
力、山を抜き、気、世を蓋【おお】う。
時、利あらず、騅、逝【ゆ】かず。
騅、逝かず、奈何【いかに】すべき。
虞や、虞や、若【なんじ】を奈何せん。
反復して歌うこと数回。虞美人も別れの悲しみをこめて絶え入らんばかりに和して歌った。
漢兵已【すで】に地を略す、
四方楚歌の声、
大王意気尽きぬ、
賤妾【せんしょう】何ぞ生に聊【やすん】ぜん。
鬼おもひしぐ項羽の顔に幾すじかの涙が流れた。左右の者もみな泣き、誰一人として顔を上げうる者はいなかった。悲愴の気、堂に満ち、虞美人はひしとばかり項羽に取りすがる。だがもはや如何ともしがたい。
「なんでおめおめ生きておりましょう」そう歌った虞美人は果たして項羽に宝剣を乞うて柔肌に突き立てて自決してしまった。
その夜、項羽は残る800余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、5,000騎の兵を率いてこれを追った。800の兵は次第に数を減らし、東城に辿りついたときには項羽に従う者わずか28騎になっていた。
項羽たちはさらに東へ逃れ、烏江という長江の渡し場に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。しかし、挙兵した自分がおめおめ江東へ戻ろうとした心を恥じた項羽は、漢軍に突入。項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢は私の首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前にひとつ手柄をやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽31歳であった。
※人物の肖像は中国テレビドラマ『項羽と劉邦 King's War』から拝借しました。
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秦の第31代国王の嬴政【えいせい】。紀元前221年に斉を滅ぼし中国統一を成し遂げると、自ら始皇帝と名乗った。
それまで中国の支配者は王を名乗っていたが、戦国時代になると諸国の支配者がみな王を名乗り、王の称号は馬の糞、価値のないものとなっていた。前にも書いたけど、王の名前は諡号【しごう】といって、生前の事績への評価に基づいて死後に贈られていた。政はこれが気にくわない。なぜなら、臣下が君主の名をつけることになるからだ。そこで、「王」に替わる称号として新たに「皇帝」の称号を用いることにした。「皇帝」には三皇五帝の徳を兼ね備える者という意味や、光り輝く帝王の意味がある。政はどの君主をも超えた存在として「皇帝」を称し、自らがその初めであるから始皇帝と名乗り、あとは二世皇帝・三世皇帝と称すればよいとした。さまざまな改革を断行し、現在の中国の礎を築いたことは、みんなもよく知ってるよね。
始皇帝の父の諱【いみな】は異人といい、安国君(後の孝文王)の子であった。安国君には20数人の子があった上に、異人の母・夏姫【かき】は安国君からの寵愛を失っていたことから、彼は太子にたてられる見込みもなく、趙に人質として捨て駒のごとく出され、貧しい生活を送っていた。
趙の都・邯鄲【かんたん】に呂不韋【りょふい】という大商人がいた。ある日、呂不韋は邯鄲の路上でみずぼらしい格好をした人物を見かけ、これが安国君の子であると知ると、こう言った。
呂不韋は異人の屋敷を訪れ、名を売るための資金として彼に大金を与え、趙の名士たちと積極的に交流するよう勧めた。こうして異人は名声を高め、彼の評判は秦にまで伝わった。
次に呂不韋は秦へと向かい、安国君が最も寵愛する華陽【かよう】夫人と接触した。安国君に寵愛されていた華陽夫人だが、2人の間には未だ子が無く、このまま年をとって色香が衰えたときに自らの地位が危うくなる事を恐れていた。そこに目をつけた呂不韋は、華陽夫人に異人を養子として迎えるよう勧めた。
華陽夫人は異人を養子として迎えることを決め、安国君に彼を世継ぎとするよう求めて、安国君はそれを受け入れた。こうして安国君の後継者となった異人は、養母である華陽夫人の出身である楚に因【ちな】んで名を子楚【しそ】と改め、呂不韋を後見として迎えた。
紀元前252年、安国君が孝文王として即位、子楚が太子となった。孝文王はわずか1年で没し、子楚が荘襄王【そうじょうおう】として即位、呂不韋が丞相となった。その荘襄王も在位わずか3年で没し、紀元前246年に政はわずか13歳で即位した。呂不韋は丞相として秦の全権を握ることに成功。彼の投資は見事成功したわけである。
『呂氏春秋』という政治のための百科全書のようなものがあるが、これは、呂不韋が富と権力にまかせて中国全土から学者を呼び集めて作らせたものである。
ところで、呂不韋は政が即位した後も趙姫と密通していたが、これは元々好色で、荘襄王の死後に男なしでは居られなくなった趙姫からの誘いであった。しかし、今や国母となった太后との不義密通を続けるのはいくらなんでも危ないと感じた呂不韋は、趙姫を除くために嫪毐【ろうあい】という巨根の男を宦官になりすませて後宮に送り込んだ。嫪毐と太后との間に男児2人が生まれたが、やがて事が露見し、二人は子ともども処刑された。政の即位10年のことであった。
うまく趙姫を除くことに成功したが、事件の背景調査により呂不韋の関与が明らかとなった。本来なら死罪となるところを、過去の功績が考慮されて、呂不韋は免職の上流刑となり、翌年服毒自殺を遂げている。
始皇帝は本当に呂不韋の子であったのか?異論を唱える学者もいるが、真実を知るのは呂不韋と趙姫のみである。
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その後、十余年の歳月が経った。秦は婚姻を餌に懐王を秦の地に招いた。屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが、懐王は親秦派の公子である子蘭に勧められて秦に行き、監禁されて、翌年客死した。
楚では頃襄王【けいじょうおう】が即位し、弟の子蘭が宰相となった。屈原は懐王を死に至らしめた子蘭の責任を問うたが、それは逆に讒言される結果となり、長沙(現在の湖南省)に左遷・追放されてしまった。時に46歳であった。
屈原は限りない悲しみを胸に抱き、国外に亡命することもなく、洞庭湖あたりを彷徨っていたが、愛国の情熱にかきたてられて、『離騒』『九歌』『九章』などすぐれた憂国、憂民の詩歌をつくりだした。これらの詩は『楚辞』に収められている。
紀元前278年に秦の軍隊は郢都【えいと】を攻略し、楚の国の滅亡は旦夕【たんせき】に迫った。屈原は恨みを呑んで汨羅【べきら】の淵に、石を抱いて身を投じ、失意のうちに一生を終えた。62歳であった、と伝えられる。
また、屈原が川に身を投じた知らせを耳にした人々は、四方八方から馳せさんじて、船を出してその屍体を捜したが、水にそって流れ去ったのか、どうしても見つからなかったそうだ。この伝承から始まったのが、龍舟競漕(ドラゴンレース)なんだって。長崎ではペーロン(白龍)競争と呼ばれてるよね。
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即位3年に褒姒【ほうじ】に初めて出会った時、幽王の口から「おお!」と軽い嘆声が洩れた。その緑の黒髪は畳々【じょうじょう】としてしなだれ、その瞳は滴々【てきてき】と潤い、その唇は孜々【しし】たる色香を秘めながらも、楚々としたその姿の美しさに息を呑んだ。
ま、余談はさておき、幽王は直ちに褒姒を後宮に迎え入れ、下にも置かぬほど溺愛した。やがて子供が生まれ伯服と名づけられた。幽王には申后という皇后がいて、その子の宜臼【ぎきゅう】はすでに立太子の式を済ませていたが、幽王は申后と太子宜臼を廃して、褒姒を皇后に伯服を太子とした。申后とその一族が腹を立てたのは言うまでもない。これが大変な事態をひき起こすことなるのだが、それはもう少しあとで。
ところで、褒姒は笑わない女だった。生まれた時から一度も笑ったことがなかったそうだ。(この女が笑えばどんなに美しいことだろう)、それを想像するだけで幽王はからだの芯から顫【ふる】えるのだった。そこで、あの手この手で褒姒を笑わそうとするが、褒姒はニコリともしなかった。
ある時、なにかの手違いで、烽火台から狼煙【のろし】があがってしまった。中国では、藁【わら】などに狼の糞を混ぜて焼くと煙が垂直に上がるといって用いられたところから、狼煙と書くらしい。
周の封建制度では諸侯に軍役の義務があり、狼煙を見た諸侯は、「すわっ、一大事!」と軍を動員して幽王のいる王城のもとに馳せ参じた。ところが、何のことはない、訓練ミスであったとは!諸侯は拍子抜けしてポカンとした顔をする。武装兵たちは兜を地面に叩きつけて憤慨するやら、へなへなと座り込んでしまうやら。
ところが、今度は本当に塞外の遊牧民族が侵入して来ることになる。申后の父・申侯は娘が皇后の座を追われたことで、幽王と褒姒に深い怨みを抱き、領土の割譲を餌に犬戎【けんじゅう】を抱き込み、着々と復讐の準備を進めていた。そして、ついに紀元前771年、犬戎が都・鎬京【こうけい】へと攻め込ん来たのである。
幽王は狼煙をあげて諸侯に急を告げたが、誰一人駆けつけることなく、幽王は太子・伯服とともに驪山【りざん】の麓で殺害され、褒姒は犬戎に連れ去られてしまう。幽王の死後、申侯は廃太子となっていた宜臼を平王として立てた。しかし兵乱により都は破壊されていたため、平王は東の洛邑へ遷都し、東周の始まりとなった。
褒姒の笑顔を見たいばかりにしょっちゅう嘘をつき、オオカミ少年、いやオオカミ中年になってしまった幽王。彼の死によりいよいよ春秋時代が始まることになる。
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