なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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太宗
唐の第2代皇帝の太宗・李世民は、その威風堂々たる風采、迷信を排斥し、儒教の精神をもって政治の方針としたこと、人材を集めたこと、そして何よりも臣下の諫言を素直に受け入れたことから、中国史上有数の名君の一人と称えられる。そして、中国の皇帝が一番失敗する女性に関しても、己を厳しく律して臨んだ。しかし、女禍の種は太宗本人が蒔くことになる。
太宗は長孫皇后が亡くなった翌637年に、山西出身の14歳の美しい娘を後宮に迎えた。武照、後の則天武后である。ほどなく宮廷に「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。649年、太宗の崩御にともない、武照は太宗から受けた寵愛の思い出を胸に抱きしめて、感業尼寺の尼になった。
太宗崩御の後、第9子の李治が即位し高宗となった。実は、太宗は自分の後継ぎのことでたいそう苦労している。当初立太子されたのは長男の李承乾であったが、太宗は第4子の李泰を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を企てたとして廃された。しかも、喧嘩両成敗で李泰も追放されたため、結局おとなしくて気の弱い李治が皇太子に選ばれたのだが、これが武照が台頭する要因となった。すでに、太宗に殺害されることを恐れた武照に籠絡された李治は、妄信的に武照を寵愛するようになっていたのである。
高宗が父帝の菩提を弔うために、後宮の美女たちが出家している感業尼寺に行幸すると、武照は帝を前に声をあげて泣いた。深く感動した高宗はこれをいたわり、彼女を再び後宮に迎え入れた。この時、武照は33歳、高宗は28歳だった。これが、せっかく檻の中に繋いだ牝のライオンを連れ出してきたような結果になってしまう。
これ、よく考えてみれば、お父さんのお妾さんを自分のお妾さんにした訳だ。儒教道徳を重んじる漢族なら不道徳極まりないことで考えられないことだが、李氏は北方民族出身だから、そんなの関係ね~。
王皇后
実は高宗に武照の入宮を推薦したのは王皇后である。高宗の寵愛を蕭淑妃【しょうしゅくひ】からそらすためだった。武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。
やがて武照は女児を産んだ。嫉妬している皇后がその室に見舞いに行った。武照はわが子を殺して褥【しとね】で覆い高宗の来御【らいぎょ】を待った。高宗が褥をとると、児は死んでいた。武照はさっき皇后が見えた時には元気であったのにと驚きかつ悲しみ泣いた。高宗の武照への愛情はいよいよ深まり、王氏を廃して武照を冊立しようとした。
これに反対したのは、高宗の伯父にあたる長孫無忌【ちょうそんむき】と褚遂良【ちょすいりょう】の二人だけであった。褚遂良は南朝の出身で虞世南【ぐせいなん】、欧陽詢【おうようじゅん】とともに初唐三大家の一人とされ、写真の「雁塔聖教序碑【がんとうせいきょうじょひ】」は楷書の傑作として有名だ。僕も書道を習っていた時はこれを臨書したもんだ。
655年、武照を皇后に冊立する詔書が出され、「陰謀下毒」の罪により王皇后と蕭淑妃の2名は庶民に落とされ、諫言した長孫無忌と褚遂良を蹴落とされた。あとは宮廷内部の真空地帯である。何一つ妨げになるものはなかった。皇太子であったおのれの実子二人をはじめ、太宗、高宗の兄弟一族70余人、宰相・大臣級の高官36人を皆殺しにしてしまった。
655年、武照を皇后に冊立する詔書が出され、「陰謀下毒」の罪により王皇后と蕭淑妃の2名は庶民に落とされ、諫言した長孫無忌と褚遂良を蹴落とされた。あとは宮廷内部の真空地帯である。何一つ妨げになるものはなかった。皇太子であったおのれの実子二人をはじめ、太宗、高宗の兄弟一族70余人、宰相・大臣級の高官36人を皆殺しにしてしまった。
年下の夫を持った女の嫉妬心を怖ろしい。高宗が廃皇后の幽閉の室を見舞ったことを知ると、武后は怒って、廃皇后を鞭打ち、手足を切って酒樽に放り込ませ、「骨まで酔わせてあげよう」と言った。蕭淑妃も同様の憂き目にあった。蕭淑妃は、「願わくば阿武(武后)老鼠【ろうそ】となれ、われ猫となってその喉を食らわん」と罵った。武后はその後、宮中で猫を飼うことを禁じたそうだ。これって、漢の呂后の真似したんだよね。なんとも怖ろしい。中国三大悪女に数えられるわけだよね。
664年、武后の宮中での専断に怒った高宗が廃后を画策して失敗して以来、高宗が政務を執る時は武后が背後の簾の内からそのすべてに関与するようになった。いわゆる垂簾【すいれん】政治である。
664年、武后の宮中での専断に怒った高宗が廃后を画策して失敗して以来、高宗が政務を執る時は武后が背後の簾の内からそのすべてに関与するようになった。いわゆる垂簾【すいれん】政治である。
683年、生来、癲癇【てんかん】に苦しんでいた高宗が56歳で没すると、武后が産んだ中宗が即位した。しかし、彼は武太后の怒りに触れて僅か54日の後に廃されてしまう。
武太后は中宗の弟を睿宗【えいそう】として即位させたが、政治には関与させず、簾中から政治を執り行った。690年、関中の人民900余名の嘆願によるかたちで国号を周と改めて自ら聖神皇帝を称し、睿宗を後嗣とした。いわゆる「武周革命」であり、中国史上唯一の女帝の出現であった。女帝を嫌う中国では、皇帝になっても則天武后と読んできたが、最近は武則天と呼ばれることが多い。
※人物の肖像は主に中国テレビドラマ『武則天』から拝借しました。
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父・文帝を弑逆【しいぎゃく】して帝位についた煬帝は、皇帝の威光・権力を天下に誇示するため、大土木工事を驚くべき物力・人力を投じて行っていく。先ず、毎月200万人を動員して旧洛陽城の西方に東京を築いた。「とうきょう」じゃなくて、「とうけい」。日本の東京も明治の始め頃は「とうけい」と呼んでたんだよ。
続いて大運河だ。文帝の時代にすでに淮河【わいが】と長江を結ぶ山陽瀆【さんようとく】(
まず初めに黄河と淮河を結ぶ通済渠【つうさいきょ】が造られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠【えいさいきょ】、そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河が完成した。完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。通済渠の工事には100万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて僅か5か月で完成した。中国史上、女性まで労役にかり出した皇帝は他にいない。なお、永済渠はあとで話す高句麗遠征のためのものだ。
大運河が完成した605年8月、煬帝は洛陽の顕仁宮から江都までの最初の行幸を行った。大運河沿いには40の離宮が建設されており、文武百官や女官を伴い大運河を遊覧しながら江都まで下って行く。近衛兵を加えると全部で約20万人が随行した。煬帝の乗る龍船は高さ13m、長さ60m、4層造りで、上層には正殿・朝堂があった。護衛船も含めて5100艘余りに上る大船団の長さは90キロに及んだという。
船には動力が無いので、民衆に命じて船を曳かせたが、そのために沿道の住民8万人が動員された。その上、沿道250キロ以内の州と県に飲食の提供を命じ、食べきれないものは河岸に埋めたという。このようなぜいたくや浪費は、沿道の官吏や民衆に大きな苦痛を与えた。煬帝は冬を気候の暖かい江都で過ごし、翌年4月に洛陽に帰った。煬帝は江都が大のお気に入りで、3度江都行幸を行ったが、最後に江都で殺されることになる。
612年、煬帝は113万をこす大軍を率いて高句麗親征を敢行した。山東半島では300隻の船を急造し、河南・淮南・江南は兵車5万台の供出の命を受けた。兵以外の軍役労働者の徴発は230万人という数にのぼった。山東の造船工人は悲惨の極みで、昼夜兼行の水中作業で腰から下が腐爛して蛆が生じ、10人に3,4人も死んで行った。こんな残忍な人民酷使をして敢行した対高句麗戦争は、遼東城で前進を阻まれ、退却の際に莫大な損害を被って帰還した。敗戦の報が伝わると、中国各地に反乱が起こったが、そのような情勢を無視して、第2次、第3次の遠征が行われた。しかし、ことごとく失敗に終わり、隋の威信は失墜、急速に民衆の支持を失っていった。
616年7月、煬帝は周囲の反対を押し切って、3度目の江都行幸を強行する。江都の宮殿では佞臣の献上する江淮の美女で満ち酒宴続きである。反乱軍の進撃、官軍の敗退の報は次々に江都に報ぜられたが、煬帝は千余の美女に囲まれて王杯を離さなかった。ついに、親衛隊の長官であった宇文化及【うぶんかきゅう】兄弟が背いて皇帝に刃を向けた。煬帝は皇帝らしく毒酒による自害を望んだが、身につけていた絹で絞め殺された。
隋が短命に終わってしまった理由は、ひとえに煬帝の悪政の結果であるが、数字をあげるとこれがはっきりとする。父・文帝は自ら質素倹約て国政を指導した結果、全国の戸数は890万戸となった。これが、煬帝亡き後には僅か200万戸にまで減ってしまっている。ここから彼の諡号が煬帝となったのであるが、「煬」という字には「天に逆らい民を虐げる」という意味がある。
616年7月、煬帝は周囲の反対を押し切って、3度目の江都行幸を強行する。江都の宮殿では佞臣の献上する江淮の美女で満ち酒宴続きである。反乱軍の進撃、官軍の敗退の報は次々に江都に報ぜられたが、煬帝は千余の美女に囲まれて王杯を離さなかった。ついに、親衛隊の長官であった宇文化及【うぶんかきゅう】兄弟が背いて皇帝に刃を向けた。煬帝は皇帝らしく毒酒による自害を望んだが、身につけていた絹で絞め殺された。
隋が短命に終わってしまった理由は、ひとえに煬帝の悪政の結果であるが、数字をあげるとこれがはっきりとする。父・文帝は自ら質素倹約て国政を指導した結果、全国の戸数は890万戸となった。これが、煬帝亡き後には僅か200万戸にまで減ってしまっている。ここから彼の諡号が煬帝となったのであるが、「煬」という字には「天に逆らい民を虐げる」という意味がある。
煬帝が江都で50年の生涯を終えた頃、すでに長安は李淵【りえん】によって占領されていた。李淵は煬帝が殺されたことを知ると、恭帝(隋第3代皇帝・煬帝の孫)から禅譲を受けて自ら皇帝となり、唐を開いた。
誰かが歌い出した。「江【かわ】の南でやなぎが散れば 河北【きた】じゃすももの花ざかり」
煬帝の姓である楊は「やなぎ」のこと。柳という字もあるが、これは「しだれ柳」のこと。楊は中国では「カワヤナギ」のことで、楊枝【ようじ】の材料となる。自らの姓が「やなぎ」だから、煬帝は運河沿いに日よけのために柳の木を植えた。一方の李淵の李は「スモモ」のこと。「桃李もの言わざれども下自ら蹊【こみち】を成す」という言葉があるよね。『史記』李将軍伝賛に出てくる言葉で、徳望のある人のもとには人は自然に集まることの喩えで、俳優の松坂桃李の名前はお父さんがこの言葉からつけたんだけど、知ってた?
話が横道に逸れてしまったけど、中国の皇帝はヤナギさんからスモモさんに代わったって訳だ。
元貞太后
李淵の母親である元貞太后の父は独孤信。独孤と言えば前回登場した文帝の皇后であった独孤伽羅がいたよね。彼女は元貞太后の妹なんだ。
系図を見ての通り、独孤信の長女は北周の明帝の皇后、4女は唐の高祖の皇太后、7女は隋の文帝の皇后になってるから凄いすよね。李淵と煬帝は従兄弟どおしだったから、文帝に寵愛されて16歳で隋に仕官し、出世を重ねた。李淵の祖父は西魏に仕えた豪族であり、漢化の進んだ鮮卑系と考えられる。北魏から隋唐にいたる王朝は、王室も外戚もいずれも北魏を建てた鮮卑系拓跋【たくばつ】部の有力者の出身であり、拓跋国家と呼ばれる。
李世民
ところで、李淵に挙兵を勧めたのは次男坊の李世民【りせいみん】であり、父を助けて創業の大功を挙げた。唐が開かれると李世民は宰相となり、軍事的にも大きな功績をあげた。
李建成
こうなると、黙ってはいられなかったのが兄の李建成【りけんせい】だ。長男なので皇太子に立てられてはいたが、いつ何時その地位を弟に奪われるかも知れない。そこで、たびたび李世民を父に誣告【ぶこく】し陥れようとした。
ところが、626年6月4日、長安の宮城北門の玄武門で、先手を打った李世民に襲撃され、弟の李元吉とともに李世民に射殺されてしまう。3日後の6月7日には李世民は皇太子となり、2ヶ月後の8月9日には帝位について父の高祖は太上皇帝に祭り上げられてしまった。こうして即位したのが唐の第2代皇帝の太宗【たいそう】であり、「貞観【じょうがん】の治」と呼ばれる唐帝国繁栄の時期を出現させることになる。
次男坊が兄弟を殺し、父親を排斥して帝位に就いたのは煬帝と同じじゃないか。煬帝を暴君に仕立て上げたのは、自分を正当化するために太宗がやったことかも知れないね。
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鮮卑族の王朝である北周の第4代皇帝の宣帝、名は宇文贇【うぶんいん】。北魏の太武帝に続き仏教を弾圧(三武一宗の法難)したことで知られる武帝の長男で、578年に20歳で即位した。宣帝は周囲から皇太子としての資質を疑問視されており、父武帝から厳しい教育を受けた。酒を禁じられ、過ちがあると仮借なく鞭の折檻を加えるなど冷酷なまでに厳しく育てられた。そんな父親を心の底から怨んでいた宣帝は、武帝が死ぬや、父から受けた鞭で打たれた傷痕を撫でながら、「死ぬのが遅い」と罵ったという。また武帝の通夜が済まないうちから、武帝の宮人たちに淫行を迫ったともいう。
楊麗華
宣帝の皇后となったのが楊麗華【ようれいか】。楊堅【ようけん】と独孤伽羅【どっこから】の長女である。
楊堅
楊堅は後漢の名門楊氏を遠祖とすると伝えられるが、北方異民族の血も混ざっていると推測されている。父親の楊忠は西魏の八柱国大将軍・独孤信に従った軍人で、やがて自らも八柱国大将軍に次ぐ十二大将軍となった。独孤信の七女が独孤伽羅である。楊堅は娘・麗華が皇后になったことで、自身は上柱国・大司馬となって権力を振るった。
一方、宣帝は在位1年にも満たない579年に、位を7歳の太子にゆずって静帝(お母さんは楊麗華ではない)とし、自ら天元皇帝と称した。天子たる責任を回避して道楽に専念するためである。5人の皇后を立后し、酒色に走った。人民は皇帝の奢侈淫蕩のための土木工事に労役として駆り立てられた。580年、無軌道な隠居皇帝が22歳で死ぬと、外戚楊堅に実権が帰したのみならず、国民の信望すら彼に移っていった。
581年2月、楊堅は静帝から禅譲させて即位した。これが隋の初代皇帝・文帝である。文帝という諡はその政治が儒教理念からみて高く評価されたためであり、仁慈の君とされているが、即位した翌月には静帝を殺している。わずか9歳であった。もちろん北周の皇族の宇文氏一門を皆殺しにしてしまうことも忘れなかった。
文帝は589年に南朝の陳を滅ぼして、約370年ぶりに南北統一に成功。内政では新都・大興城【だいこうじょう】(長安)の造営・運河の開削、均田制・府兵制・租庸調制の体系化、九品中正を廃止し科挙を創設するなど、中央主権化に努めた。また、倹約を旨に政務に励み、国力を充実させて、その治世は「開皇の治」と称された。
ちなみに、楊堅の北周時代の爵号は隨国公なので国号は「隨」となるのが本来であった。しかし、「隨」に含まれる辵(しんにょう)部に「走る」という意味があるので、王朝が走って早く滅びてしまうと、楊堅は縁起を担いで辵部を取ってしまった。それが「隋」という字なんだ。知ってた?ところが、隋は南北統一からたった30年で滅びてしまう。
それもこれも、こいつのせいだ。文帝の次男坊の楊広、後の煬帝【ようだい】である。楊広は幼い頃から気どりやの美男で賢く、陳討伐の際には、討伐軍の総帥として赫々たる武勲を残したこともあり、お母さんの自慢の息子であった。お母さんは誰だっけ?
そう独孤信の娘・独孤伽羅だったよね。14歳で楊堅に嫁ぎ、楊堅が皇帝となり皇后に立てられた。文帝には男の子が5人いたんだけど、全員独孤皇后の産んだ子だ。これ中国では大変珍しいことなんだけど、それにはもちろん訳がある。
独孤皇后は楊堅に嫁いだ時、自分以外の女に子を生ませぬよう、夫に誓約させた。皇帝となった文帝がある女性を寵愛したことがある。ところがそれを知った皇后が密かにその女を殺してしまった。文帝は嘆き怒って、単騎で宮中を飛び出し、山谷の間に入ってしまう。嫁さんを追い出したのではなく、自分が家を出てしまったわけだ。何とも情けない。侍臣が皇帝を追いかけて、「陛下は一婦人のために天下を軽んじられますな」と諫めた結果、文帝は宮廷に戻り、皇后も泣いて詫びたので、二人は仲直りをした。そんな事件もあったので、文帝は後宮に寵愛したい美人がいても、皇后の監視が厳しくて手が出せなくなったという訳だ。
独孤皇后は楊堅に嫁いだ時、自分以外の女に子を生ませぬよう、夫に誓約させた。皇帝となった文帝がある女性を寵愛したことがある。ところがそれを知った皇后が密かにその女を殺してしまった。文帝は嘆き怒って、単騎で宮中を飛び出し、山谷の間に入ってしまう。嫁さんを追い出したのではなく、自分が家を出てしまったわけだ。何とも情けない。侍臣が皇帝を追いかけて、「陛下は一婦人のために天下を軽んじられますな」と諫めた結果、文帝は宮廷に戻り、皇后も泣いて詫びたので、二人は仲直りをした。そんな事件もあったので、文帝は後宮に寵愛したい美人がいても、皇后の監視が厳しくて手が出せなくなったという訳だ。
皇帝だけではない。皇后は自分の王子でも家臣でも、妾に子を産ませた者を憎み卑しんだ。楊広は蓄妾を憎む母の前では、後宮の女に子が出来てもすべて育てず、王妃以外に女なしと装っていた。一方、皇太子であった長男坊の楊勇と言えば、母がもらってやった妃元氏を疎んじて、他の女に熱中するようになった。おまけに妃元氏が急死する事件が起きたことで、独孤皇后は太子が豚犬にも等しい女を可愛がって妃元氏を毒殺したと思い込んでしまう。こんなことで、楊勇を廃嫡して庶民の身分に落とし、楊広を皇太子とした。
602年、厳格な独孤皇后が50歳で亡くなると、文帝は長い間窮屈な思いをして皇后に頭があがらなかったのが、今こそ解放されたと思い、若い江南の美人二人を寵愛した。その一人宣華夫人は南朝陳の宣帝の娘だ。しかし、文帝はすでに60歳を越えていた。無理が祟ったのか、2年して病気に罹り危篤となり、仁寿宮で病床についた。
宣華夫人と楊広が夜を徹して看病していたが、朝になって着替えに出た宣華夫人に楊広が関係を迫り、陳氏はこれを拒んで文帝のところに逃げ帰った。文帝が怪しんで問い質すと、宣華夫人は楊広の無礼を訴えた。文帝は「畜生、何ぞ大事を付するに足らん。独孤、誠に我を誤てり」といって激怒し、侍臣に廃太子の楊勇を召し出すよう命じた。
これを聞いた楊広は腹心の者を病室に入れ、夫人をはじめ看病している後宮の者をみな別室にさがらせた。その後で、俄に文帝は崩じたのであった。時に64歳。その夜、楊広と宣華夫人は関係した。こうして即位したのが第2代皇帝の煬帝であり、即位後、文帝の遺詔と称して楊勇を自殺させ、10人の子もことごとく殺害され、楊勇の血筋は断絶した。
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266年、司馬炎【しばえん】が魏を滅ぼして晋【しん】を建国し、武帝となった。司馬炎は諸葛亮と5度に渡って戦った司馬懿の孫にあたり、祖父さんの遺産で皇帝になったようなもんだ。晋は280年に呉も滅ぼして三国時代に終止符を打ち、中国の再統一を果たした。
魏は建国わずか46年で滅びたわけだが、武帝はその原因を王室の一族を政権から遠ざけていたことだと考え、司馬氏一族を各地に封建して王とした。しかし、これが裏目に出てしまう。
魏は建国わずか46年で滅びたわけだが、武帝はその原因を王室の一族を政権から遠ざけていたことだと考え、司馬氏一族を各地に封建して王とした。しかし、これが裏目に出てしまう。
せっかく統一を果たしたが、その後が良くない。武帝は国政に関心を示さなくなってしまう。女子の婚姻を禁止して、自分の後宮に入れるための女子を5000人選んだ。さらに呉の後宮にいた5000人も自分の後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、武帝は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に塩を盛っておいた。羊が塩をなめるために止まるからである。よく料理店の店先に人寄せのための縁起担ぎとしての盛り塩がしてあるけど、これが起源なんだってさ。
司馬衷(恵帝)
武帝は長年の荒淫がもとで病没し、息子の司馬衷【しばちゅう】(恵帝)が即位したが、これがまたお馬鹿さん。ある時、華林園で蛙の声を聞くと、恵帝は側近の者へ「この蛙は公事のために鳴いているのか、それとも私事のために鳴いているのか」と尋ねた。すると、ある者がからかって「公有地にいる時は公のために、私有地にいる時は私のために鳴いているのですぞ」と返したという。
また、天下が荒れ果てて民衆が飢餓に瀕している時、恵帝は「(穀物がないのならば)何故肉粥を食べぬのか」と言ったと伝えられてる。これ、ヴェルサイユ宮殿に押しかけて、「パンよこせ」と騒いでいるパリの母ちゃん連中に、「パンがないなら、ケーキを食べなさいよ」と言ったマリ=アントワネットと一緒じゃん。
そんなわけで、政治の実権は皇后である賈南風【かなんぷう】とその外戚が掌握した。この女、容貌醜く背が低く色が黒い上に、嫉妬深いときているから始末が悪い。恵帝がまだ皇太子の時代に、恵帝の子を妊娠した妾に嫉妬し、胎児ごと殺してしまった。皇后となってからは、邪魔な奴は皆殺し、思うがままに政治を操った。淫乱も凄まじく、街中で美少年を見つけると竹箱に入れて誘拐し、これと交わった後は、ことの発覚を恐れて彼らは殺された。
300年、趙王・司馬倫が賈南風を殺害し、帝位を簒奪したが、翌年に一族の諸王も各地で兵を挙げ大混乱に陥り、洛陽は廃墟と化した。いわゆる八王の乱である。面倒臭いが、いちおう8人の名を挙げておこう。
①趙王・司馬倫(司馬懿の9男) ②汝南王・司馬亮(司馬懿の3男)③楚王・司馬瑋(司馬炎の5男) ④斉王・司馬冏(司馬炎の同母弟) ⑤長沙王・司馬乂(司馬炎の6男) ⑥成都王・司馬穎(司馬炎の16男) ⑦河間王・司馬顒(司馬懿の弟の孫) ⑧東海王・司馬越(司馬懿の弟の孫)
300年、趙王・司馬倫が賈南風を殺害し、帝位を簒奪したが、翌年に一族の諸王も各地で兵を挙げ大混乱に陥り、洛陽は廃墟と化した。いわゆる八王の乱である。面倒臭いが、いちおう8人の名を挙げておこう。
①趙王・司馬倫(司馬懿の9男) ②汝南王・司馬亮(司馬懿の3男)③楚王・司馬瑋(司馬炎の5男) ④斉王・司馬冏(司馬炎の同母弟) ⑤長沙王・司馬乂(司馬炎の6男) ⑥成都王・司馬穎(司馬炎の16男) ⑦河間王・司馬顒(司馬懿の弟の孫) ⑧東海王・司馬越(司馬懿の弟の孫)
この時、諸王は華北に浸透していた匈奴など異民族と勝手に手を組み、その軍事力を利用したことから、異民族の台頭を招き、匈奴・羯【けつ】・鮮卑・氐【てい】・羌【きょう】のいわゆる五胡【ごこ】が華北に進出。次々と建国し、その数は16カ国となったので、五胡十六国時代というが、うち3カ国は漢族の国なので、正確には五胡十三国である。
「胡」は中国の北方・西方の異民族に対する蔑称で、日本語では「えびす」と読む。この他に異民族に対する蔑称として「四夷」がある。北狄【ほくてき】・西戎【せいじゅう】・南蛮【なんばん】・東夷【とうい】で、総称して「夷狄」とも言う。漢字を見ての通り、獣や虫けら扱いだ。

胡がついた言葉をあげると、胡瓜・胡桃・胡椒・胡麻・胡坐などたくさんあるが、これらはすべて異民族由来のものである。皆さん読めますか?読み方は一番最後に挙げておくね。
306年に恵帝が中毒死し八王の乱は終結し、恵帝の弟が即位して懐帝となる。しかし、晋の国力衰退は明らかであり、これを好機とみたのが匈奴の劉淵【りゅうえん】であった。身長190cmもある大丈夫であった彼は八王の1人であった司馬穎に従い鄴【ぎょう】に駐屯していたが、304年に山西で自立して匈奴大単于を名乗った。劉淵は、かつて冒頓単于が漢と兄弟の契りを結び漢の皇族を妻に娶っていたことから、匈奴と漢とは甥の関係であるとし、自らを前漢・後漢・蜀漢の後継者と称した。そのため、国号を漢と名乗った(劉淵死後に改称して前趙となっている)。この年は、四川地方で五胡の一つ、氐族の李氏が成国を建てており、五胡十六国時代の始まりとされる。
司馬騰を破り山西省南部を勢力範囲に収めた劉淵は、308年に平陽を都にして帝位につき、異民族出身者として初めての皇帝となった。しかし、洛陽の陥落を見ることなく、310年に60年の生涯を終えた。
劉聡
劉淵のあと長男の劉和が後を継いだが、人望が無く異母弟の劉聡【りゅうそう】が取って代わった。311年、劉聡は石勒・劉曜・王弥らの大軍を洛陽に差し向け、洛陽は略奪暴行の限りが尽くされて都市は焼き払われ、皇族・貴族・市民ら何万人もが殺戮された。懐帝の皇后羊氏はなんと劉曜の妻とされるありさまであった。懐帝は玉璽と共に平陽に連行され、劉聡から屈辱を受け続けて2年後の313年に処刑され、永嘉の乱は終結し、晋は事実上滅亡した。懐帝の後を受けた甥の愍帝【みんてい】は漢に抵抗したが、316年に長安も陥落し晋は名実ともに滅びた。愍帝は懐帝と同じ扱いを受けた上、317年に劉聡によって処刑されたが、わずか18歳であった。
晋(西晋)の滅亡後も、華北では五胡の建てた国が乱立し、この情勢は439年に北魏の太武帝による統一まで続く。一方が江南では、晋の王族であった司馬睿【しばえい】が318年に建康を都として晋を再興(東晋)した。東晋は383年に中国統一をめざして南下した前秦の苻堅【ふけん】を淝水【ひすい】の戦いで破り、以後は淮河【わいが】を境界とした南北で対抗するという形勢が定まり、この状態は隋による統一まで続くことになる。
※胡瓜【きゅうり】・胡桃【くるみ】・胡椒【こしょう】・胡麻【ごま】・胡坐【あぐら】
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鳩摩羅什【くまらじゅう】、サンスクリット語でクマーラジーヴァ。後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、玄奘【げんじょう】とならび二大訳聖としてその名を知られている。
羅什の父・鳩摩羅炎【くまらえん】(クマーラヤーナ)はカシミールの生まれで、天竺【てんじく】国(インド)で代々宰相をつとめる名家の出身であった。しかし、彼は宰相の地位を辞退して出家し、葱嶺【そうれい】(パミール)を超え、亀茲【きじ】国(現在のクチャ)にたどり着いた。彼に一目惚れしたのが亀茲国王・白純の妹の耆婆【ぎば】(ジーヴァ)であった。白純に懇願された鳩摩羅炎は還俗し、耆婆と結婚。二人の間に生まれたのが鳩摩羅什である。西暦350年のことであった。
羅什の母・耆婆は羅什が5歳の時に出家している。夫の鳩摩羅炎も兄である亀茲王・白純も猛烈に反対したが、彼女の意志を覆すことは出来なかった。僧侶であった鳩摩羅炎を還俗させてまで結婚に踏み切った彼女が、なぜ出家したのであろうか?羅什には弗沙提婆【ふさだいば】という弟がいたが、幼くして亡くなったようで、それが動機であったのかも知れない。鳩摩羅炎は再び僧侶となることも許されず、王室の庇護も失い、どこともなくその姿を消すことになったと伝えられている。
羅什も7歳で出家しているが、母の強い願いによるものであった。そして、9歳の時に母とともに辛頭河(インダス川)を渡り、罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)に留学している。罽賓国で3年間小乗仏教を学んだ羅什は、亀茲への帰途立ち寄った疏勒【そろく】国(現在のカシュガル)で須利耶蘇摩【すりやそま】と出会い、大乗仏教を学んだ。羅什は、「私が昔、小乗を学んだのは、黄金を知らない人が鍮石【ちゅうせき】(真鍮のこと)をもって最高と思い込んでいたようなものだ」と嘆じ、大乗仏教に目覚めた。須利耶蘇摩は左手に法華経を持ち、右手で少年羅什の頭を3回撫でながら、こう言ったという。
『仏日西に入って遺耀【いよう】まさに東に及ばんとす。この経典東北に縁あり。汝慎んで伝弘せよ』
亀茲国に戻った羅什は、雀離【じゃくり】大寺(昭怙厘【しょうこり】大寺)で大乗仏教を講義し、その名声はやがて中国にも知られるようになった。現在のキジル千仏洞がその雀離大寺であると考えられている。キジル千仏洞はムザト川沿いに3.2kmにわたって開削され、現在、236窟が確認されている。平成12年と18年に2度、この地を訪れることが出来たことは、無上の喜びであった。
写真はスバシ故城。ここも雀離大寺の候補にあがっているが、はっきりとしたことは現在でも分かっていない。
前秦の国王苻堅【ふけん】が将軍呂光【りょこう】に亀茲国征討を命じた目的は、領土の拡大とともに名僧として名高い羅什を国師として長安に迎えることにあった。呂光によって亀茲国が滅びた時、羅什は34歳。生来、粗暴であった呂光は羅什がまだ若年であるのを知り、羅什をあなどり、彼を跪かせるため邪悪な企みをしかけた。彼に仏の戒律を破らせようと、亀茲王女と結婚するよう強要したのである。羅什は激しく拒んだが、呂光は羅什に無理やり酒を飲ませ、王女とともに密室に閉じ込めてしまった。羅什がはたして本当に女性と関係を持ったのか。真相は羅什本人にしか分からない。しかし、破戒僧の烙印を押されたことだけは紛れもない事実なのである。
羅什は恥辱にまみれて中国へと連行されることになった。ところが、一行が涼州に至った時、呂光は国王苻堅が殺害され、前秦が滅びたことを知る。帰るに帰れなくなった呂光は、涼州にとどまり自ら後涼を建国する。涼州で幽閉生活を送ること15年。後涼が後秦の姚興【ようこう】に滅ぼされ、羅什は51歳にしてようやく長安に入った。
羅什は恥辱にまみれて中国へと連行されることになった。ところが、一行が涼州に至った時、呂光は国王苻堅が殺害され、前秦が滅びたことを知る。帰るに帰れなくなった呂光は、涼州にとどまり自ら後涼を建国する。涼州で幽閉生活を送ること15年。後涼が後秦の姚興【ようこう】に滅ぼされ、羅什は51歳にしてようやく長安に入った。
それから59歳で亡くなるまでの8年の間に、『妙法蓮華経』『阿弥陀経』をはじめとする35部294巻の翻訳にあたった。『法華経』の訳出は56歳の時。13歳の時に須利耶蘇摩から法華経の原本を手渡されてから、実に43年の歳月が流れていた。後秦の姚興は10人もの女性を侍らせ、羅什の優秀な頭脳を受け継ぐ子を残させようとしたとも伝えられている。
羅什は毎朝、弟子たちに講説するたびに、こう述べていたという。「たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥をとることなかれ」
羅什の遺骨は長安郊外の草堂寺に葬られた。写真が羅什の舎利塔であるが、中国仏教界に大きな影響をもたらした偉大な訳経僧のものとしては、あまりにも小さい。破戒僧だからであろうか。
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2世紀半ばから匈奴【きょうど】にかわってモンゴル高原を支配した鮮卑【せんぴ】は、五胡【ごこ】十六国時代には五胡の一つとして内モンゴル・華北に侵入し、慕容【ぼよう】氏の前燕などいくつかの国を建てたが、396年には拓跋【たくばつ】氏の拓跋珪【たくばつけい】(道武帝)が北魏を建国した。439年には第3代の太武帝が北燕、北涼、夏を併合して華北を統一、五胡十六国時代に終止符を打った。太武帝は寇謙之【こうけんし】を重用して道教を保護し、中国史上初めて仏教を弾圧(廃仏)したことで知られる。
太武帝は452年に宦官に殺害されて45歳の生涯を終え、亡き皇太子の嫡男であった拓跋濬【たくばつえい】が文成帝として即位した。文成帝は仏教弾圧を廃止し、曇曜【どんよう】に命じて都の平城【へいじょう】(現在の大同)の郊外に雲崗石窟の造営を始めたことで知られる。
しかし、465年に文成帝はわずか26歳で亡くなってしまう。彼女は悲しみのあまりに文成帝の遺体を火葬する際に火中に身投げしたが救出されて一命を取り止めた。
献文帝
文成帝の子・拓跋弘(母は李皇后)が即位して献文帝となり、文明皇后は皇太后となった。以後は馮太后【ふうたいごう】と呼ばれることになる。文成帝はわずか11歳で即位したので、馮太后が実権を握り垂簾聴政【すいれんちょうせい】を行った。
しかし、献文帝が成長するにつれて対立が生じ、皇太后は献文帝を脅迫して471年に献文帝の息子・拓跋宏に譲位させた。これが、わずか5歳で即した第6代皇帝の孝文帝である。馮太后はその5年後には献文帝を毒殺して、北魏の全権を掌握、事実上の女帝として政治改革を断行した。均田制や三長制は孝文帝の政策として高校世界史では教えているけど、実は彼女が行ったことなんだ。高校世界史では教えないけど、馮太后は唐を滅ぼして皇帝となった則天武后なみの政治手腕を発揮した女傑なんだ。
ところで、北魏では外戚の専横を避けるために、皇太子をたてた場合、その生母が殺されることが常であったため(子貴母死)、孝文帝の生母である李氏も、469年に自殺させられており、馮太后と献文帝の対立の直接の原因となっている。
もうひとつ、孝文帝は馮太后の義理の孫にあたるわけだけど、二人は本当の母子だったとする説がある。孝文帝は献文帝が13歳の時の子なんで、子を作るには早すぎるとかいった理由などがあげられてるけど、じゃあ孝文帝の父親は誰だ?ってことになる。でも、謎のままで分かっていない。
馮太后は490年に49歳で亡くなった。その時の孝文帝の悲しみようは尋常のものではなく、5日は悲しみのあまり食事を取らず、4ヶ月の間、政務を取らなかったと言う。これも、馮太后が孝文帝の実母ではないかと疑わせることになった。
ところで、北魏では外戚の専横を避けるために、皇太子をたてた場合、その生母が殺されることが常であったため(子貴母死)、孝文帝の生母である李氏も、469年に自殺させられており、馮太后と献文帝の対立の直接の原因となっている。
もうひとつ、孝文帝は馮太后の義理の孫にあたるわけだけど、二人は本当の母子だったとする説がある。孝文帝は献文帝が13歳の時の子なんで、子を作るには早すぎるとかいった理由などがあげられてるけど、じゃあ孝文帝の父親は誰だ?ってことになる。でも、謎のままで分かっていない。
馮太后は490年に49歳で亡くなった。その時の孝文帝の悲しみようは尋常のものではなく、5日は悲しみのあまり食事を取らず、4ヶ月の間、政務を取らなかったと言う。これも、馮太后が孝文帝の実母ではないかと疑わせることになった。
馮太后が亡くなって孝文帝の親政が始まった。基本的には馮太后が手がけた改革を継承し、より一層の漢化政策を進めた。漢化政策は簡単に言えば、漢民族に憧れて漢民族になりきろうとした政策のことだ。まず、493年には平城から洛陽への遷都を強行した。この時に孝文帝は反対のあることを予期して、南朝の斉への遠征であるとして洛陽に至った。そこで諸将から南征を諌められるが、それに従う代わりの交換条件と言う名目を持って遷都を実行した。
無茶苦茶なのは鮮卑の言語・姓名・服装を禁止して中国風に改めさせたことだ。宮廷では鮮卑語の使用は禁止。30歳以下の官吏が鮮卑語を使ったら左遷された。征服した側が自らの言語を強制したというのなら話は分かるが、これじゃあべこべ。それから、姓も漢風にしろってんで、自ら「拓跋」から「元」に改め、臣下たちに対しても半ば強制的に漢風の姓を与えた。
鮮卑は騎馬民族だ。だから馬に乗りやすい服装をする。
筒袖の上着にズボン、これにベルトをして、ブーツを履くというのが騎馬民族のスタイルだ。これを中国では胡服と言った。これがヨーロッパに入って、それから日本に入って来たんで、日本では洋服と言う。これが野蛮な服装だと言うんで、止めさせた。
で、こんな格好になったって訳だ。
じゃあ、何故そんなに漢民族になりたかったのか?孝文帝は自分たちが漢民族じゃないということは、もちろん分かっている。でも、現実に中国を征服しちゃった。そうすると、なぜ俺たちは中国の皇帝になれたのだろうか、という自分たちの正統性について疑義が生じてしまう。漢民族だったら、自分が皇帝になったのは、前の皇帝が悪政を行なったので、天が怒って風水害を起こし人民を蜂起させて、自分を皇帝に指名してくれたんだ。だから皇帝の姓が変わったんだ。すなわち、易姓革命であるという、大義名分が成立する。だけど、自分たちは漢民族じゃないんで、中国を治める正統性の根拠について悩んだ。その結果、「そうだ、漢民族になりきってしまえばいいんだ。そうしたら易姓革命で天が命じて皇帝になったと、言えるじゃないか」と考えて、強引な漢化政策を進めたという訳なんだ。
でも、この無茶苦茶な漢化政策に不満を持つ者が反乱を起こす。これは何とか鎮圧したが、孝文帝の死後に六鎮【りくちん】の乱が起き、北魏は東西に分裂することになる。やはり行き過ぎは駄目ですね。
写真は文成帝が造営を始めた雲崗石窟第20窟の如来座像で、北魏初代皇帝の道武帝の姿を模したものと言われている。曇曜が建立した大仏はこれをこれを含めて5体あるが、北魏の初代から文成帝までの5人に擬した巨仏とした。これは太武帝の廃仏に懲りた曇曜が、たとえ北魏の皇帝の気が変わっても破壊されないようにするためだったんだってさ。見るからに西域の香りがして、ガンダーラ・グプタ様式の影響が色濃く見られる。
雲崗石窟の造営は孝文帝が洛陽に遷都したことで工事が中断され、新たに洛陽郊外の竜門石窟の造営が始まった。孝文帝が漢民族になろうとしたことを受けて、竜門石窟にはインド・西域の影響は希薄となり、中国風の意匠となった。写真は唐の時代に造られた奉先寺の盧舎那仏【るしゃなぶつ】像で、その顔は則天武后の容貌を写し取ったものという伝説があるが、現在では否定されている。
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袁紹【えんしょう】を討って華北の平定に成功した曹操は、208年丞相【じょうしょう】(君主を補佐する最高官)となり、南下して劉表の領土になっていた荊州【けいしゅう】を攻めた。劉表の子は曹操に降り、劉表の客分であった劉備は、いったん南に逃れたが、諸葛亮の活躍で孫権との同盟に成功した。孫権の部下のなかには曹操に降伏しようと説く者もあったが、周瑜【しゅうゆ】、魯肅【ろしゅく】が孫権に、劉備と同盟して荊州を占領することを勧めたのである。
劉備・孫権の同盟軍と曹操軍が208年12月に長江の赤壁【せきへき】(現在の湖北省)で激突した。
『三国志演義』では、曹操軍は荊州の軍と併せて約100万、これに対して呉軍は約10万、劉備軍は約3万となっている。しかし、史実では曹操軍約20万、孫権軍約2万、劉備軍約2,000であり、『三国志演義』ではかなり誇張されているが、連合軍が劣勢であったことに変わりはない。
赤壁の戦いは2008年に「レッドクリフ」のタイトルで映画化されたので、内容をご存じの方も多いと思うので、簡単に説明させていただく。曹操は荊州から長江沿いに南下、ここから夏口に軍を進めようとしたが、水上と陸上から東へ進軍する曹操軍内では、慣れぬ南方の風土と食べ物が原因で疫病が蔓延する。そこで曹操は一気に夏口を攻略することを諦め、長江に面し崖の土が赤いことから「赤壁」と呼ばれる場所で軍を停止させる。曹操軍は赤壁の対岸の烏林に野営地を築き、水軍は流されないよう鎖でつなぎ、水上の要塞を作り上げた。
曹操軍停止を知った孫権軍の周瑜【しゅうゆ】率いる3万は、ただちに赤壁に集結した。この時、周瑜の部将の黄蓋【こうがい】は敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を提案する。黄蓋は自ら火船隊を率い、投降すると見せかけて曹操軍に接近した。黄蓋の裏切りを信じた曹操軍は、火船隊の接近を許してしまう。
ところが,、問題なのは風向き。南から攻めていこうとする孫権軍にとって、火攻めをするために必要なのは東南の風なのだが、この季節、北風ばかりが吹いている。そこに登場するのが諸葛亮。急ごしらえの祭壇を造り、七星壇と名づけた場所で祈祷を行い、いつも手にしている羽毛扇を振るやいなや、東南の風が吹き始める。諸葛亮は「嵐を呼ぶ男」だ。
東南の風が吹き始めると、黄蓋は油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。さらに、陸に逃げた曹操軍も関羽の軍に破られ、曹操は南下を断念した。ここに孔明の構想した「天下三分の計」が実現し、曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の三国が鼎立する三国時代となった。
220年、曹操が亡くなり、曹丕【そうひ】が魏王となり丞相職を継承。さらに、献帝に禅譲を迫って皇帝(文帝)の座に即いた。これに対抗して、翌221年に劉備が蜀漢の皇帝(昭烈帝)に即位、222年には孫権も呉の皇帝となり、名実ともに三国時代となったのである。
劉禅
221年、劉備は関羽の仇を討つべく、呉への親征を行った。しかし、夷陵の戦いに大敗を喫し、223年6月、逃げ込んだ白帝城で63年の生涯を失意のうちに終えた。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子・劉禅が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わず君が国を治めてくれ」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。その結果、劉禅が17歳で蜀漢第2代皇帝として即位した。
益州南部4郡を平定した諸葛亮は227年にいよいよ魏に対する北伐を開始した。北伐にあたり劉禅に上奏したのが有名な「出師の表【すいしのひょう】」だ。(師は軍隊のこと)古来から名文中の名文とされており「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」と言われたほどだ。諸葛亮は228年にも「出師の表」を上奏したとされ、これを「後出師の表」というが、どうも偽作らしい。
写真は成都にある武侯祠(諸葛亮と劉備の墓)に遺された岳飛【がくひ】による「出師の表」の石碑からとった拓本。岳飛についてはまた改めて書くけど、女真族の金と幾度も戦い勝利を収めた南宋の将軍で、中国史上最も愛された最強の英雄だ。以前成都に行った時に拓本を買って来た。ご覧の通り素晴らしい書なんで、臨書しようと思って買ったんだけど、残念ながらまだ臨書してない。
「臣、亮、言【もう】す。先帝創業未【いま】だ半【なか】ばならずして、中道に崩殂【ほうそ】せり。今、天下三分し益州は疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋【とき】なり。然れども待衛【じえい】の臣、内に懈【おこた】らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋【けだ】し先帝の殊遇を追い、これを陛下に報いんと欲すればなり」で始まり、劉禅に人材の重要性を説いた後、自分が単なる処士に過ぎなかったのに、先帝である劉備が3回(三顧の礼)も訪れて自分を登用してくれたことに感謝していると述べ、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、逆賊たる魏王朝を破り、漢王朝を復興させようとしているという決意を述べ、最後をこう結んだ。
「臣、恩を受けて感激に勝【た】えず。今、遠く離るるに当り、表に臨んで涕泣【ていきゅう】し、云う所を知らず。」
「臣、亮、言【もう】す。先帝創業未【いま】だ半【なか】ばならずして、中道に崩殂【ほうそ】せり。今、天下三分し益州は疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋【とき】なり。然れども待衛【じえい】の臣、内に懈【おこた】らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋【けだ】し先帝の殊遇を追い、これを陛下に報いんと欲すればなり」で始まり、劉禅に人材の重要性を説いた後、自分が単なる処士に過ぎなかったのに、先帝である劉備が3回(三顧の礼)も訪れて自分を登用してくれたことに感謝していると述べ、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、逆賊たる魏王朝を破り、漢王朝を復興させようとしているという決意を述べ、最後をこう結んだ。
「臣、恩を受けて感激に勝【た】えず。今、遠く離るるに当り、表に臨んで涕泣【ていきゅう】し、云う所を知らず。」
司馬懿
北伐は5度にわたって行われたが、諸葛亮と激しく戦ったのが魏の将軍・司馬懿【しばい】で、字は仲達【ちゅうたつ】。諸葛亮は234年2月、5度目の北伐を行った。諸葛亮は持久戦の構えをとって五丈原【ごじょうげん】で司馬懿と長期に渡って対陣したが病に倒れ、8月陣中に没した。54歳という若さだった。恐らく、過労死だろうね。
司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたが、蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。後世の人はこれを、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言った。
諸葛亮が没して30年余り後の265年、司馬懿の孫が魏を滅ぼし、晋(西晋)を建国することになる。
※人物の肖像は中国テレビドラマ『三国志 Three Kingdoms』から拝借しました。
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司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたが、蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。後世の人はこれを、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言った。
諸葛亮が没して30年余り後の265年、司馬懿の孫が魏を滅ぼし、晋(西晋)を建国することになる。
※人物の肖像は中国テレビドラマ『三国志 Three Kingdoms』から拝借しました。
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後漢末の中平6(189)年、将軍・董卓【とうたく】は、霊帝のあとを継いで即位したばかりの少帝弁を廃して、異母弟の陳留王協(献帝)を立て、自ら宰相となって専横暴虐を極めた。そのため天下は乱れて、しばらく群雄割拠の時代が続いたが、次第に天下の趨勢【すうせい】は曹操【そうそう】(魏)、孫権【そんけん】(呉)、劉備【りゅうび】(蜀)に三分され、いわゆる三国鼎立【ていりつ】の時代に移っていった。
劉備
この中で最も立ち遅れていたのは劉備であった。すでに曹操が江北を平らげ、孫権が江東に勢いを得ている時、劉備にはまだ拠るべき地盤がなかった。彼のもとには関羽【かんう】、張飛【ちょうひ】、趙雲【ちょううん】らの勇将はいたが、ともに事をはかるべき策略の士がいなかった。それを痛感した劉備が、彼こそと見込んだ人物が諸葛亮【しょかつりょう】であった。
諸葛亮は字【あざな】は孔明【こうめい】、伏龍や臥龍【がりゅう】とも呼ばれる。三国志で一番有名な人物で、世界史好きでなくても、その名を知らない人はいないだろう。
孔明は早くに父を失い、戦乱の世を避けて、襄陽【じょうよう】の西、隆中山の臥龍岡【がりゅうこう】という丘に草廬【そうろ】を結び、晴耕雨読の毎日を送っていた。一方、劉備は袁紹【えんしょう】の陣営を離れて劉表【りゅうひょう】を頼り、荊州【けいしゅう】北部の新野【しんや】に居城を貰っていた。孔明の友人の徐庶【じょしょ】が劉備の下に出入りして、孔明のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「孔明は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は孔明のもとに足を運ぶことにした。
この時、劉備は47歳。その上、漢の皇帝の末裔で、左将軍の地位にある。そんな人物が27歳の無位無官の若造に会いに行くなどということは常識では考えられない。おまけに、地図で見ると近そうだが、新野から襄陽の隆中山までの100キロほどもある。その道をはるばる訪ね、高鳴る動悸を抑えながら門を叩いた劉備は、若い女性に出迎えられた。「諸葛亮先生にお会いしたいのですが」、劉備は笑顔をつくる。「主人なら、今日はお留守ですが」。落胆して劉備は帰るしかなかった。数日後、劉備はまた訪ねて行ったが、やはり会うことは出来なかった。
しかし、何故にそれほどまでに身を屈するのかと咎【とが】める関羽と張飛をおしとめて、劉備は三度孔明を訪ねてようやくその目的を果たした。
「すでに漢室は傾き、奸臣が天下を盗んでおります。私は身の程もわきまえず、天下に大義をのべようと志しながらも、知力あさく、これという働きも出来ないまま今日に至りました。しかし、まだ志は捨てておりません。どうかお力添えをいただきたいと存じます。」
いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したのだった。孔明もその知遇に感じ、草廬を出て劉備のために事を謀る決心をした。草廬に世を避けていたとはいいながら、孔明の時勢に対する眼は劉備の期待を裏切らず鋭かった。劉備の問いに答えて、孔明は漢室復興の大計をこう述べた。
「すでに漢室は傾き、奸臣が天下を盗んでおります。私は身の程もわきまえず、天下に大義をのべようと志しながらも、知力あさく、これという働きも出来ないまま今日に至りました。しかし、まだ志は捨てておりません。どうかお力添えをいただきたいと存じます。」
いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したのだった。孔明もその知遇に感じ、草廬を出て劉備のために事を謀る決心をした。草廬に世を避けていたとはいいながら、孔明の時勢に対する眼は劉備の期待を裏切らず鋭かった。劉備の問いに答えて、孔明は漢室復興の大計をこう述べた。
「荊州と益州の要害を抑えてここを根拠地とし、西方南方の蛮族を慰撫して後顧の憂いを絶ち、内は政治をおさめて富国強兵をはかり、外は孫権と結んで曹操を孤立させ、機を見て曹操を伐つ、これが私の考えている漢室復興の大計です。」いわゆる「天下三分の計」である。劉邦の臣となった孔明はこの基本政策に従って着々を漢室復興の歩を進めていった。
孔明を得た劉備は、その才幹に傾倒して孔明を師として敬い、寝食を共にした。孔明も全能力をしぼって劉備のために尽くした。ところが、これを快く思わない者がいた。
孔明を得た劉備は、その才幹に傾倒して孔明を師として敬い、寝食を共にした。孔明も全能力をしぼって劉備のために尽くした。ところが、これを快く思わない者がいた。
張飛
その一人が張飛【ちょうひ】、字は益徳。身長は8尺(約184cm)。人並み外れた勇猛さで知られた猛将である。
もう一人が関羽【かんう】、字は雲長。身長は9尺(約208cm)。見事な鬚髯【しゅぜん】(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、美髯公【びぜんこう】とも呼ばれ、 人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は敵の曹操からも称賛された。悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝と呼ばれる道教の神となった。関帝は旧くは武神として、現在は主に商業の神として信仰され、横浜や神戸の中華街にも祀られている。
劉備、関羽、張飛の3人は黄巾の乱の義兵として立ち上がった時、張飛の屋敷の裏の桃園で義兄弟の誓いを交わしている。「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれことを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。皇天后士よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮【りく】すべし。」これを「桃園の誓い」という。
一番早くから劉備に従って来た2人にしてみれば、若輩の孔明に対する劉備の傾倒ぶりが気にくわない。ある時、孔明を妬んで「孔明を敬いすぎる」と劉備を非難した。その時、劉備は言った。
「この孔明あるは猶【なお】魚の水あるがごとし。願わくは復【また】言うこと勿【なか】れ。」孔明を得たことを、自分は、魚が水を得たとでも喩えたいほどだ。二度とそんなことは言うな。」
ここに、「水魚の交わり」という喩えが生まれた。
※人物の肖像は中国テレビドラマ『三国志 Three Kingdoms』から拝借しました。
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一番早くから劉備に従って来た2人にしてみれば、若輩の孔明に対する劉備の傾倒ぶりが気にくわない。ある時、孔明を妬んで「孔明を敬いすぎる」と劉備を非難した。その時、劉備は言った。
「この孔明あるは猶【なお】魚の水あるがごとし。願わくは復【また】言うこと勿【なか】れ。」孔明を得たことを、自分は、魚が水を得たとでも喩えたいほどだ。二度とそんなことは言うな。」
ここに、「水魚の交わり」という喩えが生まれた。
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宦官【かんがん】は去勢(性器を切除し、生殖不能とする)された官吏のことで、その源流は牧畜における家畜管理の技術にあると言われる。メソポタミア・エジプト・ペルシアなどに古くから存在したことが知られており、またギリシア・ローマ、さらにムガル帝国やオスマン帝国や朝鮮でも存在したが、中国の宦官は皇帝の側近として政治に深く関与する場合がままあり、歴史上多くの役割を果たした点でとりわけ有名である。
中国史に記録された最初の宦官は、紀元前1300年ごろの殷王朝の遺跡から出土した甲骨の解読により、すでに宦官が存在していたことが判明している。写真の甲骨文字がその証拠になるが、明らかにチンチンの切除を意味している。
西太后と宦官たち
その後、1912年の清朝滅亡まで約3300年間、宦官は中国歴代王朝に存在し続けた。
最初は刑罰しての宮刑があり、死刑に次いで重い刑罰であった。宮は性器のことを意味しており、宮刑は去勢する刑罰であり、腐刑ともいった。普通の男性を宮廷で働かせると、後宮【こうきゅう】(日本でいう大奥)で皇后や側室と不祥事を起こす可能性がある。皇帝の女に手を出されたら困るので、宮刑に処せられた者や異民族の捕虜を去勢して宮廷で使うようになったのが、始まりとされる。宮刑は隋代に廃止されたため、唐代からは民間で去勢された人物を地方ごとに献上させるようになった。
宋代になると自主的に去勢して宦官を志願する者が増加するようになるが、これを自宮【じきゅう】という。中国で官僚になるためには、厳しい試験で有名な科挙に合格しなければならない。才能はもちろん、勉強し続けられる財力が必要で、一般庶民にはとうてい無理。そこで、貧困から脱出するために、子孫を残すことを諦めて、チンチンを切るわけだ。しかし、現在のような医療技術がある訳もなく、去勢した後の傷口から細菌が入って3割は死んだそうだから、宦官になるのも命がけだった。自宮は何度も禁令が出されたが、希望者は後を絶たなかったそうだ。
最初は刑罰しての宮刑があり、死刑に次いで重い刑罰であった。宮は性器のことを意味しており、宮刑は去勢する刑罰であり、腐刑ともいった。普通の男性を宮廷で働かせると、後宮【こうきゅう】(日本でいう大奥)で皇后や側室と不祥事を起こす可能性がある。皇帝の女に手を出されたら困るので、宮刑に処せられた者や異民族の捕虜を去勢して宮廷で使うようになったのが、始まりとされる。宮刑は隋代に廃止されたため、唐代からは民間で去勢された人物を地方ごとに献上させるようになった。
宋代になると自主的に去勢して宦官を志願する者が増加するようになるが、これを自宮【じきゅう】という。中国で官僚になるためには、厳しい試験で有名な科挙に合格しなければならない。才能はもちろん、勉強し続けられる財力が必要で、一般庶民にはとうてい無理。そこで、貧困から脱出するために、子孫を残すことを諦めて、チンチンを切るわけだ。しかし、現在のような医療技術がある訳もなく、去勢した後の傷口から細菌が入って3割は死んだそうだから、宦官になるのも命がけだった。自宮は何度も禁令が出されたが、希望者は後を絶たなかったそうだ。
浅田次郎の『蒼穹の昴』はテレビドラマ化もされたので、ご覧になった方も多いと思う。主人公の李春雲は架空の人物だが、実在した最後の宦官・小徳張の逸話が取り入れられている。李春雲は糞拾いで生計を立てていた貧民の子だったが、自宮して老公胡同【ラオコンフートン】で宦官に必要な全てを教え込まれ、紫禁城に入り西太后に仕える。ドラマでは宦官とは言わずに、太監という言い方をしている。
ここで、清代の去勢の方法を紹介しようね。自分で切ると言っても、自分の手で切るわけではない。刀子匠【タオツチャン】と呼ばれる政府公認の専門家が数人いて、一人銀6両【テール】(現在の日本円で約3万円)を支払えば最後まで責任を持って手術してくれたそうだ。
北京にある宦官文化陳列館の像
手術の方法は、まず白いヒモ或いは紐帯で被手術者の下腹部と股の上部あたりを堅く括って止血を行い、次に熱い胡椒湯で3回念入りに消毒を行う。この後、被手術者に「本当に切っていいんだな」と執行の確認をする。切ってしまってから後悔しても、もうどうにもならんからね。さあ、これで準備完了だ。
執刀者は鎌状に少し湾曲した小さい刃物でチンチン、キンタマもろともに切り落とし、その後に、白蝋の針、または栓を尿道に挿入し、傷は冷水に浸した紙で覆い、注意深く包む。尿道に栓をしておかないと、傷が盛り上がって来て尿道を塞いでしまうので、死んじゃうからね。それが終わると二人の助手に抱えられて2~3時間部屋を歩き回った後に横臥させられる。手術後、水を呑まないまま3日間寝たままで過ごし、3日後にその栓を抜いた時に噴水のようにおしっこが出れば成功、出ないと失敗で死んじゃう。でも、失敗することはほとんど無かったそうだ。だけど、麻酔してないし痛かっただろうね。
で、結果こうなるわけだ。大事なところを切ってしまうと、色々変化が起きる。例えば、尿の射出方向を調整出来なくなり、女性の排尿と一緒で座って排尿しなければならない。男なのに立って出来ないのが屈辱となった。成人になってから去勢した場合、尿管の長さがチンチンが無くなった分半分以下の長さになるため、尿意のコントロールが効かずしばしば尿を漏らしてしまう。それから、去勢されても性欲は残るが、残念ながら出来ない。そこで、宦官の性行為では多量の汗をかき、相手や物に噛み付くなどして性欲を発散させたらしい。
去勢の影響で男性ホルモンが分泌されなくなるので、女性的な体型になり、髭が生えないし、眉毛も抜けてしまい、ゆで卵のようなつるんとした顔になる。声も甲高い声になる。若いうちはでっぷりと肥えるが、年をとると肉が落ちてしまい、太った宦官はいなくなる。急激に痩せたぶん無数の皺【しわ】がより、40歳にもなると皺くちゃで60歳以上に見える。歩き方もチョコチョコと小股になり、やや前かがみで遠目から見ても一見して判るようになる。
切り取られたあとの男性器は「宝」【パオ】と呼ばれ、これが宦官にとっては一生ついて回るある意味やっかいな代物になる。宦官は出世をして階級が上がる時、自分の「宝」を上司に見せなければならない。これを「験宝」と言うが、手術が終わった後でうっかり「宝」を刀子匠から受け取るのを忘れたり「験宝」を知らないで宦官になる者も多かったそうだ。昇進の時にあわてて刀子匠を訪れ、自分の「宝」を返してもらったそうだが、その時代金を請求される。これが、なんと多い時には銀50両(25万円)という例もあったそうだ。そのほかにも無くしたり盗まれたりといったこともあったので、他人の物を刀子匠から購入したり借りたりすることもあったそうで、この「験宝」が、刀子匠にとっては大きな収入源ともなった。
宦官にとって「宝」が大事な理由はもうひとつ、宦官が死んで埋葬される時に一緒に棺に入れてもらうためだ。あの世ではもとの男性に戻りたいという希望と、もし「宝」がなかったら来世で雌【めす】の騾馬【らば】(雄のロバと雌の馬の交雑種)に生まれ変わってしまうと信じられていたんだってさ。
漢代の呂后や、唐の則天武后の例をあげるまでもなく、中国の王朝史には「外戚」の専横や「女禍」による政治の乱れは多く、これと並んで後漢・唐・明では宦官による内廷の政治闘争が頻繁にみられた。宦官は外戚などと違い、皇帝に対抗する子孫を持たず、かつ卑賤身分出身の宦官は常に皇帝の見方として振るまい、皇帝は彼らに助けられて政権欲や物欲の強い官僚を抑えた。結果、宦官は財政や軍事の権限を持つようになったわけだ。後漢の桓帝・霊帝の時には宦官勢力が強大な力を持つようになり、党錮【とうこ】の禁で多くの官僚が宦官によって弾圧され、政治は大混乱した。その一方で、宦官の中には優れた教養と政治能力を発揮した者も多くいた。始皇帝亡き後、秦の政治を牛耳った趙高と司馬遷については前にお話したので、そのほかの有名な宦官を簡単に紹介しておこう。
後漢の和帝の時代に製紙法を改良した蔡倫【さいりん】。それ以前も紙はあったが、包装紙として使われており、書写材料には不向きであった。105年、樹皮・麻くず・魚網などを材料に作った紙を和帝に献上、蔡侯紙と呼ばれ広く普及するようになり、751年のタラス河畔の戦いを機に世界中に広まった。蔡倫は安帝の祖母を陥れたとの罪に問われ、服毒自殺したとされる。
唐の玄宗の腹心として仕え、権勢を振るった高力士。安史の乱で玄宗らが長安を脱出した際に、禁軍の求めに応じて玄宗を説得し、楊貴妃を縊死【いし】させた奴だ。
明の永楽帝に仕えた武将の鄭和【ていわ】。本名は馬三保といい、雲南出身のイスラーム教徒だったが、永楽帝から鄭の姓を下賜された。1405年から7回にわたり南海大遠征をやってのけた。
中国最悪の宦官と言われた魏忠賢【ぎちゅうけん】。もともとチンピラだったが、賭博に負けたのが原因で、自分のチンチンを切って宦官となった男だ。宦官として出世街道をひた走り、明の天啓帝の乳母であった客氏と手を組み(実は二人は夫婦になっている)、皇帝を傀儡にして実権を握った。非東林党の首領として東林党の官僚を徹底的に弾圧、全国にスパイを放ち、自分を批判する人間を見つけたら、拷問して殺してしまう。少しでも悪口を言った者がいたら、生皮を剥ぐ、そんな恐怖政治をおこなった。
権勢を完全に掌握しただけでは飽き足らず、さらに民衆に対して「九千歳」と唱和させた。「万歳」が使えるのは皇帝だけ。なんぼ魏忠賢でも「万歳」は使えず、1万から千引いて9千だ。朝鮮の国王ですら「千歳」で唱和したというのに、こいつは「九千歳」だ。これが、さらにエスカレートして「九千九百歳」までランクアップしたというから、もう笑い話だね。
天啓帝が死去し弟の崇禎帝【すうていてい】が即位すると、魏忠賢はいっきに失脚。罪を糾弾され、逮捕されると知り首を吊って自殺。遺体は磔【はりつ】にされ、首は晒し者にされた。さらに、彼の一族と客氏も処刑され莫大な全財産は没収、部下たちは殺害、追放された。崇禎帝は李自成の反乱の際に首を吊って自殺し、明は滅びてしまう。崇禎帝に落ち度は無かったので、結局は魏忠賢が明を滅ぼしたわけだ。
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天啓帝が死去し弟の崇禎帝【すうていてい】が即位すると、魏忠賢はいっきに失脚。罪を糾弾され、逮捕されると知り首を吊って自殺。遺体は磔【はりつ】にされ、首は晒し者にされた。さらに、彼の一族と客氏も処刑され莫大な全財産は没収、部下たちは殺害、追放された。崇禎帝は李自成の反乱の際に首を吊って自殺し、明は滅びてしまう。崇禎帝に落ち度は無かったので、結局は魏忠賢が明を滅ぼしたわけだ。
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西域都護【さいいきとご】として有名な後漢(中国では東漢)の武将・班超【はんちょう】。父・班彪は『史記』の補充を行い『史記後伝』を編集した歴史家で、兄も妹も歴史家という学者一家に班超は生まれた。だから、班超も少年時代、多くの歴史書を読んだ。その中に登場する先人達のうち、とくに心惹【ひ】かれたのは、西域に使節として出かけ、漢と西域各国との交流をもたらした人々のことだった。班超はいつか自分も彼らのようになりたいと、幼い胸に熱い憧れを抱いていた。
西暦62年、兄が校書郎(文書編集官)に任命され、班超一家は首都洛陽に移った。膨大な資料集めに家産を傾けていこともあり、彼らの家はひどく貧しかった。班超も役所の臨時書記として働き、母を養っていた。彼は毎日、書類の中に埋もれ、長い年月、苦労を重ねていた。ある日、班超は同僚と一緒に昼飯を食べている時に、ため息混じりに「俺は筆を持って一生を終えたくない」と漏らした。「じゃあ、何になりたいんだ」と同僚に聞かれ、「俺は西域を見聞して武帝にその功績を認められた張騫のようになりたい」と答え、同僚に嘲り笑われたこともある。こんな調子だから、小役人など尋常に勤めあげられようはずはない。ついにある事件に連座して首になった。浪人生活に入ってからは、西域往来の商人や気概を尊ぶ遊侠の士と交わり、静かに機会の来るのを待っていた。
ようやく班超にチャンスがめぐってきたのは、西暦73年、数えですでに42歳の時である。後漢第2代皇帝の明帝は西域を回復するため、竇固【とうこ】を大将とする北匈奴討伐軍を送ったが、この時に班超は仮司馬(連隊長代理)として従軍した。この戦いで軍功をあげた班超は鄯善【ぜんぜん】国(前漢時代の楼蘭【ろうらん】に向かう正使の役職を命じられた。
最初のうち鄯善から手厚い待遇を受けた班超の一行は、ある日手を翻すように悪くなった彼らの扱いを、どう解していいのか分からなかった。給仕女に至るまで、目の青い美女から婆さんに代わっているではないか。一同ただあっけにとられてブツブツ不平を並べているばかりだったが、班超ははたと膝を叩いて、「われわれには秘しているが、さては匈奴の使者が来たに相違ない!」
班超は鄯善の接待担当者を呼び、いかにも知っているふりをして尋ねた。 北匈奴の使者は来てから数日になるが、今はどこに泊まっているのだ?」 接待担当者は驚いて言った。 「来てから三日になりますが、ここから12キロほどのところに宿営しております」 そこで接待担当者を監禁してから、漢の使節団36人をすべて集め、酒宴を開いた。酒が盛り上がったころ、班超は彼らをわざと挑発した。
「今、われらはともに絶域にある。北匈奴の使節が数日前に来た。そのため、鄯善王はわれらに無礼な態度を示している。匈奴の使節が鄯善王に、われらを捕らえて匈奴に送るよう命じれば、われらは山犬や狼の餌食となってしまうぞ。みなは、いかにすべきか!」
部下たちは一斉に叫んだ。
「今、わたしどもは危機の地におります。われらが生死は班超さまにおあずけします!」
班超は言った、「虎穴に入らずんば虎児を得ず!今唯一の方法は、闇夜にまぎれて匈奴の使節たちを火攻めにする。われらの人数は匈奴の奴らにはわからず、かならず大混乱になって殲滅【せんめつ】できる。」
班超は鄯善の接待担当者を呼び、いかにも知っているふりをして尋ねた。 北匈奴の使者は来てから数日になるが、今はどこに泊まっているのだ?」 接待担当者は驚いて言った。 「来てから三日になりますが、ここから12キロほどのところに宿営しております」 そこで接待担当者を監禁してから、漢の使節団36人をすべて集め、酒宴を開いた。酒が盛り上がったころ、班超は彼らをわざと挑発した。
「今、われらはともに絶域にある。北匈奴の使節が数日前に来た。そのため、鄯善王はわれらに無礼な態度を示している。匈奴の使節が鄯善王に、われらを捕らえて匈奴に送るよう命じれば、われらは山犬や狼の餌食となってしまうぞ。みなは、いかにすべきか!」
部下たちは一斉に叫んだ。
「今、わたしどもは危機の地におります。われらが生死は班超さまにおあずけします!」
班超は言った、「虎穴に入らずんば虎児を得ず!今唯一の方法は、闇夜にまぎれて匈奴の使節たちを火攻めにする。われらの人数は匈奴の奴らにはわからず、かならず大混乱になって殲滅【せんめつ】できる。」
その夜、班超は部下たちを率い、北匈奴使節の宿営地へ走った。その夜は、大風が吹いていた。班超は風上から火を放つとともに、太鼓を鳴らし、鬨【とき】の声をあげて、部下を突撃させた。匈奴の使節たちは驚いて大混乱におちいった。班超はみずから格闘して3人を倒し、部下たちも匈奴の随官ら30余人を斬った。その他の匈奴兵100余人はみな焼け死んだ。鄯善国が漢に降伏したのは、言うまでもない。
その後、班超は于闐【うてん】(ホータン)、疏勒【そろく】(カシュガル)、莎車【さしゃ】(ヤルカンド)などを制圧、クシャーナ朝のヴィマ・タクト王をも破った。西暦91年に和帝から西域都護に任命されてからも遠征を続け、西域50余国を漢に服属させた。西暦97年には部下の甘英を大秦国(ローマ)に派遣し、国交を求めようとした。甘英は安息国(パルティア)を経て条支国(シリア)に至ったが、大海(地中海かペルシア湾)を前に渡航をあきらめ帰国した。
カシュガルには1996年に完成した班超記念公園があり、36人の勇者とともに巨大な班超像が建っている。ウイグル族の中国からの独立運動を押さえつけるために、「ここは2000年も前から中国の領土だったんだ」と言わんばかりである。班超は中国にとっては英雄でも、ウイグル族からすれば単なる侵略者にすぎない。
ところで、班超の兄・班固は父親の遺志をついで歴史書を編纂していたが、「ひそかに国史を改作しようとしている」と告発されて投獄された。班超が明帝に上書した結果、冤罪として班固は許され、その後20年ほどかけて『漢書』を基本的に完成させた。しかし、大将軍竇憲【とうけん】の罪に連座し、獄死してしまい、『漢書』は未完に終わってしまう。
これを完成させたのが班固・班超の妹の班昭。『漢書』のうち、8編の『表』と『天文志』とが彼女の手になる。それにしても凄い3兄弟だよね。
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