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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー蒼き狼・チンギス=ハン

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ブルカン山

 モンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』の書き出しは次のように始まる。「上天より命【みこと】ありて生まれたる蒼【あお】き狼(ボルテ・チノ)あり、その妻なる惨【なま】白き牝鹿(コアイ・マラル)ありき。大いなる湖を渡りて来ぬ。オノン河の源なるブルカン岳に営盤【いえい】して生まれたるバタチカンありき。」

 ここから、「蒼き狼」はモンゴル部族やチンギス=ハーンを指すようになった。

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チンギス=ハーン

 チンギス=ハーン、謎の男である。残された彼の肖像画はこの1枚だけ。わずか800年前の人物なのにである。それも後の想像図なので、中国化して描かれているのは間違いない。ある史書には、髪の毛の薄い大男だったと述べられている。

 
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 チンギス=ハーン、本名はテムジン(鉄木真)。テムジンはモンゴル語で「鉄の男」という意味なので、日本風に言えば鉄男君だ。テムジンはモンゴル部のボルジギン氏族の長・イェスゲイと妻ホエルンの長男として生まれた。
 
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9歳の時に、母方の一族であるコンギラト部のボルテと婚約した。遊牧民族の間では婚約が成立すると、男の子を女の子の父親が育てるという習慣があったので、イェスゲイはテムジンをボルテの父に預けて帰路についた。しかし、その途中タタール部の宴会に遭遇し、毒入りの馬乳酒を勧められて殺されてしまった。テムジンは急遽家に戻ったが、タイチウト氏族をはじめとする被支配氏族が離反し、テムジン一家は部族から追放されてしまう。

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 モンゴル高原の過酷な自然環境の中で部族を離れ、家族単位で生活することは至難の業である。6人の弟達と母親を率いる家長となったテムジンでは苦難の道を歩んだ。牧草地を追われての生活は食べ物にも事欠く日々の連続だった。ある時、獲物の分配をめぐり兄弟喧嘩となり、テムジンは2人の弟を殺している。この苦難がこの男をどこまでも辛抱強く、負けず嫌いに、勇敢に、戦闘的に仕立てていった。

 成人したテムジンはボルテと結婚したが、結婚早々にメルキト部の襲撃を受け、ボルテが略奪されてしまう。実は、テムジンの母ボルテはメルキトの男と結婚していたのを、イェスゲィが略奪して来て自分の嫁さんにしたんで、その仕返しだった。テムジンの盟友(アンダ)であったジャムカなどの協力でボルテを取り返したのだが、その直後に長男が生まれた。当然、メルキトの子ではないのかと疑われた。長男の名前はジュチ。ジュチはモンゴル語で「お客さん」の意味。大事な長男にそんな変な名前つけないよね。きっとテムジンも自分の子では無いと思ってたんだろうね。でも、テムジンはジュチをあくまで長男として扱ったんだよ。

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オノン川

 その後、テムジンはジャムカやケレイト部のオン=カンの援助を受けて状況を好転させた。ジャムカとは決別したが、テムジンは、まもなくモンゴル部族長となり、タイチウト氏・タタール部・ケレイト部・西方のナイマン部・北方のメルキト部を撃破。宿敵ジャムカを処刑し、オングート部を服属させ、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。1206年、オノン河畔でクリルタイ(部族長会議)を開き、9本の白いトゥク(日本の馬印)を打ち立て、諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開き、チンギス=ハーンを称した。テムジン46歳であった。「チンギス」はシャーマニズムの最高神「光の神」の意味とされる。

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 チンギス=ハーンは1211年から国家の存亡をかけた対金戦争を開始。5年間にわたり本拠地に帰ることなく、一枚岩となってひたすら金を攻撃し続け、その首都・燕京を陥落させ、燕雲十六州を支配下に置いた。その後、チンギス=ハーンは西方攻撃に転じ、西遼(カラ=キタイ)を滅ぼしたナイマン部のクチュルクを討ち、西遼に服属していた西ウイグル王国もモンゴルの支配下に入り、ウイグル人はモンゴル帝国を支える官僚層となった。

 1218年、モンゴルの通商使節が虐殺されたオトラル事件を機にホラズムに遠征して、サマルカンド・ブハラを破壊、ホラズム=シャー朝を征服。ホラズム=シャー朝の君主アラーウッディーン=ムハンマドは西方に逃れたため、チンギス=ハーンはジェベとスベエデイにこれを追撃させた。アラーウッディーンはカスピ海の島で窮死するが、ジェベ・スベエデイはカフカスを越えて南ロシアにまで侵入した。

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 チンギス=ハーンの本隊はアラーウッディーンの子ジャラールッディーンを追って南下し、インドに侵入したが、苦戦を強いられて帰還した。その後、ホラズム遠征に対する援軍を拒否した西夏に侵攻し、1227年にこれを滅ぼし、モンゴルへの帰途に就いた。しかし、西夏攻撃中の落馬による怪我がもとで、1227年8月18日、チンギス=ハーンは黄河上流の六盤山【ろくばんざん】の麓で没した。66歳であった。

 彼の遺体は故郷のブルカン山に運ばれて葬られたが、その上を騎兵隊が往復して土を踏み固め、墓石も目印も立てずに立ち去った。これが当時の遊牧民の習わしであった。そのため、チンギス=ハーンの墓のありかは現在にいたるまで現在謎のままである。

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 これ、誰か分かる?そう、源義経だね。義経は、兄の頼朝に追い詰められ、さらに奥州藤原氏の裏切りにあって、文治5(1189)年に平泉・衣川方面で死んだ、というのが通説だ。ところが、これには異説がある。義経は死んでおらず、北海道から樺太を経て大陸に渡ってチンギス=ハーンになったと言うんだ。

 平泉を脱出した義経が十数年かけてモンゴルで力を得たとすれば、年代的なつじつまは合う。さっき書いたように、チンギス=ハーンの即位式には九棹の白旗が立てられた。これは、義経が清和源氏(源氏の旗は白)であることと、「九郎」であることを示したと考えられると言う。また。チンギス=ハーンの称号は、「源義経」を音読みにしたゲン・ギ・ケイがモンゴル風に言い換えられたものだと。これには、ちょっと無理があるように思うけどね。

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 これを最初に説いたのは、シーボルトの大著『日本』だ。その他、小谷部全一郎などいろんな人が義経=チンギス=ハーン説を唱えているけど、どれもこれもこじつけ理論ばっかりだ。これは明治以降、日本が大陸に進出しようとするうちに、これを正当化しようとする人たちが、この義経伝説を利用し、義経のように大陸に渡って活躍する夢を国民に植え付けようとしたしたんだと思う。特に満州事変で日本が満州を侵略しようとした時には、盛んに流布されるようになった。権力者が意図的に広めた伝説だったわけだ。

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 北海道名物ジンギスカン鍋。名前の由来については諸説あるけど、残念ながらチンギス=ハーンともモンゴルとも何の関係もない。

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【 2018/12/29 09:30 】

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世界史のミラクルワールドー世紀の受験地獄・科挙

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隋文帝

 中国では官吏を選任することを、「推挙された者を選挙する」意味で選挙といわれた。漢の武帝の時代の郷挙里選、三国時代の魏の九品中正は他薦制のため、有効な人材登用には至らなかった。そこで隋の文帝は、門閥貴族による高級官僚独占の弊害を改めるため九品中正を廃止して、学科試験による官吏登用制度を始めた。その制度が唐の時代に「科目による選挙」という意味で「科挙」と言われるようになった。

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宋太祖(趙匡胤【ちょうきょういん】)

 科挙が、誰でも受験でき(と言っても、もちろん男性だけだが)、公平で客観的な官吏登用制度としての形態を整えたのは宋の時代であった。宋の科挙制の特徴として、それまでの明経科などの諸科が廃止され、進士科に統一された(王安石の改革)こと、試験内容が経義(経書の解釈)・詩賦(作詩)・論策(論文)の三分野となったこと、厳格な試験体制の整備(不正防止の徹底)がなされたことなどがあげられるが、最も重要な意味を持ったのは最終試験としての殿試が設置され、三段階選抜方式が完成したことである。

 殿試が始まったきっかけは973年の科挙だった。この年の合格者を講武殿で太祖が謁見した際、中にはなはだ不作法・無教養な者が2名おり、そのうちの1名は試験の総責任者・李昉【りぼう】と同郷であり、しかも不合格者から李昉は不正をしているとの提訴があったことから、全面的な再試験となり、太祖自らがこれに臨んで先の省試の不正が明らかになったことに始まる。宮廷の殿中で行われることから殿試と呼ばれ、清代の1905年に科挙が廃止されるまで続いた。

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殿試の風景

 皇帝が合否の最終決定権をもったことは、及第者がその恩義に感じ、天子の門下生として終生忠誠をつくすことにつながり、官僚制下の集権体制の確立と皇帝独裁の強化に大きく貢献した。

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 科挙に合格し順調にいけば政府高官として国政に参加できる。そうなると、実入りも多い。だから、みんな試験に狂奔したため、たいへん狭き門であった。それだけに受験勉強も半端ではない。男の子は3歳には、もう母親から漢字を教えられ、6歳からは塾で『四書五経』を丸暗記させられた。これらの文字の数は43万字にものぼり、これを全部暗誦【あんしょう】してしまうと、この数倍の注釈や、目を通すべき歴史・文学などの書物を勉強し、その上、作詩・作文を練習し、問題の解答練習もやった。

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 これは清代の乾隆37(1772)年の殿試において「第一甲第一名進士」に合格した金榜【きんぼう】という人物の答案。どう、素晴らしい達筆ですよね。実はこれも合格の条件。字の汚い奴は絶対合格しない。だから、習字の勉強もしなければならない。

 ちなみに、他の行より2文字飛び出ている行が4行あるけど、これを擡頭【たいとう】と言う。「皇帝」とか敬意を表さなければならない言葉が文中に出て来たら、改行した上で通常の行よりも2字分上から書き出すのが決まり。下の方にあると恐れ多いということだ。
 
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貢院の号舎

 さあ、しっかり勉強して自信がついたら、いよいよ受験だ。時代によって試験の回数が違うので、最も過酷だった清の時代で説明しよう。基本的に試験は3年に1回しか実施されないから、不合格だったら3年浪人だから辛いよ。

 まず、国立学校を受験する。試験は3段階の学校試と、県試・府試・院試がある。院試に合格すると「生員」となり、これで科挙の受験資格が与えられる。

 さあ、いよいよ科挙に挑戦だ。まず地方試験である郷試。郷試は各地の貢院で行われた。貢院は各省の省府にある常設の建物で、内部には「号舎」と呼ばれる長屋みたいな建物があり、これが連続している。

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 号舎は写真のように人がやっと一人入れるくらいの独房みたいな部屋の連続で、部屋の一方の壁はない。試験は3日がかりで行われ、科目ごとの制限時間は特になく、3日以内に全科目の答案を作成すればよいい。

 貢院に到着した受験生たちは、まず見張りの兵士によって所持品検査を受ける。もちろん、四書五経の持ち込みは禁止。所持品検査は厳重を極め、筆の軸を割って中を調べたり、食料として持参した饅頭を割って中を調べたり、お尻の穴まで調べられた。所持品検査を終えて入門を許された受験生は一人ずつ号舎に入れられ、試験が終了するまで3日間、号舎から出ることを禁止された。貢院の門はいったん閉められると、試験が終了するまでいかなる理由があっても開かれず、急病で死者が出た場合には塀を越えて搬出しなくてはならなかった。

 2泊3日の試験を3回やって、これに合格すると、その翌年に挙人覆試・会試・会試覆試・殿試を受験して、殿試に合格すると「進士」の学位がもらえ、官僚の卵となる。「生員」から「進士」になる倍率はなんと3000倍だった。

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 これは1256年の科挙合格者名簿。この年にトップ合格したのは、南宋末の宰相として有名な文天祥だったんだけど、成績第一位の者を「状元」【じょうげん】と言う。ただ、これは慣習として呼ばれていた名称で、正式には写真にある通り「一甲第一名」と言う。第2位が榜眼【ぼうがん】、第3位が探花【たんか】。郷試、会試、殿試の全ての試験においてトップ合格だった者を三元と呼ぶんだけど、麻雀の役である大三元は、ここに由来しているんだよ。

 それと、名簿には生年月日や出身地だけじゃなく、系図まで記入してあるよね。実力主義だといいつつも、出自が問われているということで、名も無き庶民はいつの時代も不利なんだよな。

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 これ金榜【きんぼう】と言って、殿試の合格者名を記した黄金の札。金の字が写ってないけどね。金榜と言えば、さっきの答案用紙を書いた人物だったよね。乾隆37年のトップ合格者、つまり状元だ。合格者名簿と同じ名前。金榜(掲示板)に金榜(人名)という名を連ねることになった。しかも、トップで。きっと親は科挙合格を祈ってこんな名前にしたんだろうけど、それを実現しちゃうなんて、凄いよね。

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 合格者発表の様子を書いた絵だ。合格発表の時には有力者がテントを張り、優秀な人をみつけて婿に迎え入れようとした。そこで、こんな会話がかわされたようだ。「なに、結婚している。では、手切れ金を出すから、是非うちの娘を。その後の援助は惜しみませんよ」。結婚しているからと憮然として断ったという話が伝わるところをみると、ただちに乗り換えた者が多かったみたいだ。

 合格は未来への保障でもある。だから、みんなが殺到する。宋の信宗が自ら言っている。いい女性と結婚したければ勉強しろ。金を儲けたければ勉強しろ、と。だが、金榜に名を連ねるのは至難の業だ。時代によって違うが、その平均年齢はおおむね36歳前後。中には曹松【そうしょう】のように70歳を過ぎてようやく合格できた例もあった。曹松は合格してまもなく死んでいる。何のために勉強してきたんだろうと、虚しくなってしまう。

 無論、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって受験を断念したり、過酷な勉強と試験の重圧に耐えられず精神障害や過労死に追い込まれたり、失意のあまり自殺したという鍾馗【しょうき】の逸話など悲話も多い。鍾馗さんは学業成就の神さまとなって端午の節句に飾られるけど、なんで不合格者が学業成就の神さまになっちゃったんだろうね。
 
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 合格したい、でも難しい。そこで、こんなカンニング用品を作った奴がいる。手のひらに収まるほどの小さなカンニング用の豆本や、数十万字に及ぶ細かい文字をびっしりと書き込んだカンニング用の下着が現代まで残っている。厳しい所持品検査が行われるのに、こんな物を試験会場に持ち込めたということは、当然賄賂を使ったということだ。

 科挙は皇帝が直々に行う重要な国事だったため、その公正をゆるがすカンニングに対する罰則は極めて重く、犯情次第では死刑に処される場合もあった。賄賂で試験官を買収した大がかりな不正により、多数の関係者が集団死刑にされた事件などの記録も残っている。しかし、科挙に合格できれば官僚としての地位と名声と富が約束されるとあって、科挙が廃止されるまでの約1300年間、厳重な監視にも関わらず様々な工夫をこらして不正合格を試みる者は後を絶たなかった。

 幼い頃から勉強するにも金がいる。賄賂を贈るにも金がいる。だから、受験し得る者はいきおい経済力のある者となり、新興地主・富商階層の子弟がその試験を受け、官吏となった。官吏を出した家は官戸といわれ、三代にわたって多くの特権が与えられた。結局、貧乏人は貧乏人のままだ。

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【 2018/12/26 12:32 】

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世界史のミラクルワールドー最後の英雄・岳飛

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秦檜

 北宋を滅ぼした金だが、華北を自力で支配し続ける力も自信もない。そこで、華北に漢人である張邦昌の楚や劉豫【りゅうよ】の斉などの傀儡政権をおいて、ここを統治し、1134年には金・斉連合軍による南伐が行われた。北方の軍事的圧力が高まる中で、南宋では和平派と主戦派が対立するようになった。

 和平派の代表政治家が秦檜【しんかい】だ。秦檜は靖康の変の時に、徽宗・欽宗らとともに北方に連行されたが、和平派の金の将軍ダランとの間の黙契によって3年後に南宋に帰国した。ただ一人金の内情を知る者として高宗の信頼を受けて宰相となり、対金和平論を唱えた。

 彼は金のもとで暮らした経験があるから、新興国家金の勢い、質実さ、強さを充分見ている。秦檜に言わせれば、金と戦って領土を奪還するなんていうのは、話としては景気がいいが全く不可能。そんなことをしては南宋まで滅びることになる。南北で金と南宋は棲み分けをして、友好関係を築くのが現実的な選択だという訳だ。

 秦檜のいうことは、それなりに説得力はあるが、一つ大きな問題があった。それは金の捕虜になっていた秦檜がなぜ南宋に帰ってくることを許されたのか、という疑惑がもたれていたんだ。要するに秦檜は対南宋和平工作のために金から送り込まれたエージェントではないか、ということだ。さらに、秦檜の和平の主張がいくら理にかなっていても、国の半分を奪った相手と仲良くしようというのは、いかにも弱腰でなさけない。

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岳飛

 これに対して、あくまでも戦って領土を奪還しようという主戦派の主張は勇ましいから人気があった。この主戦派の代表者が岳飛【がくひ】だ。岳飛は河南省の農民の子に生まれた。幼い頃に父を亡くし、生母の由氏に育てられたという。

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岳王廟の壁画より

 岳飛は若い頃に母の手で背中に入れ墨を彫ってもらった。「尽忠報国」の4文字である。この言葉を胸に宋を救うべく、21歳の時、開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、北宋滅亡後の1134年には節度使に任命された。岳飛は軍事上の才能では、当時の諸将中匹敵する者が無かったが、朝廷からすれば、最も有能な将軍ほど、また最も危険な存在でもあった。
 
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 諸葛亮のところで紹介した成都にある武侯祠の「出師の表」だけど、これは岳飛の書だ。他の将軍はみな文盲であったが、岳飛は文学の才もあり学者を優遇した。朝廷の最も恐れたのは、このような文武の官僚を併せ指揮する能力を持つ人物である。秦檜は和平交渉を進めるため、岳飛ら主戦派の将軍に対し、それぞれの家軍を解体して中央軍に再編することを伝えた。他の将軍がそれに応じるなか、岳飛は頑強に拒否した。

 主戦派の筆頭で民衆に絶大な人気を誇った岳飛は高宗・秦檜にとって危険な存在であり、1141年に秦檜は岳飛とその子・岳雲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見したが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)。この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。

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 こうした犠牲を払うことにより、1142年、南宋と金の間で紹興【しょうこう】の和議が成立した。その条件は、淮河を境とし、南宋は金に臣礼をとり、毎年、銀25万両・絹25万疋を支払うということであった。国内の主戦派が排除された南宋はこの条件を受けいれ、和平が成立、華北を放棄したことを代償に、平和を実現させた。

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 浙江省杭州市(南宋の都・臨安)にある岳王廟。岳飛の死から約80年後の1221年、智化寺という寺院に「岳廟」として建てられた。1918年に「岳王廟」として大々的に再建されて、文化大革命中に完全に破壊されたが、正殿などが1979年に再建された。

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 平成23年に天台山に参詣した折に、岳王廟を訪れ、岳飛の墓に手を合わせた。右手は岳雲の墓。

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 岳王廟の岳飛像。秦檜により謀殺されたが、のち無実が明らかとなって鄂王【がくおう】を追封され、忠臣として崇められ、関羽とならぶ民族的英雄とされた。坐像の上部には「還我河山」(われに国土をかえせ)の巨額がある。

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 岳王廟には、後ろ手に縛られ、鎖に繋がれて跪かされている秦檜夫婦の石像がある。岳飛を逮捕したものの、さすがの秦檜も釈放するか処刑するか決めかねていた時、妻の王夫人が「さっさと殺せ」と煽動し、秦檜はやっと決心がついたそうだ。そんなの訳で夫婦揃って土下座している。秦檜は高宗の信任を盾にして反対派を弾圧しては一族の繁栄を図ったため悪評をかい、死後、姦臣・売国奴との烙印を押された。そのため、岳王廟に参詣に来た人々はこの石像を足蹴にし、痰や唾を吐きかける習慣があったそうだ。

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 しかし、近年は痰や唾を吐くことは禁止されている、と世界史の資料集に書かれている。岳王廟を訪れた最大の目的は、これが事実かどうかを確認することだった。確かに石像の後ろの石垣には「痰を吐くな」と書いてあるし、石像には冊がされている。訪問した日は日曜日だったので大変な数の参詣者がいたが、石像の前でどんな行動をするか、30分ほど観察していた。すると、その中の何人かが大声で秦檜像に向かい凄い剣幕で怒鳴りつけて、痰・唾こそ吐かなかったが、頭を思いっきり引っぱたたいていた。岳飛が殺されてから800年も経ってるのに、中国人というのは恨みを決して忘れないんだね。

 秦檜に対する評価は近年大きく変わって来ている。現在は、当時の情勢からすれば秦檜の判断はむしろ正しく、対金講和によって南宋150年の基礎を築いた有能な政治家として評価されている。しかし、無実の人間に謀反の汚名を着せて殺していいはずがない。

※岳飛と秦檜の肖像は中国テレビドラマ『岳飛伝 THE LAST HERO』から拝借しました。

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【 2018/12/23 05:18 】

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世界史のミラクルワールドー亡国の天子・徽宗

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完顔阿骨打

 完顔阿骨打【わんやんあくだ】は女真族の完顔部の族長である。女真(ジュルチンの漢訳)はツングース系民族で、松花江中流域で半農半狩猟生活を送っていた。1019年に女真は50余隻で対馬・壱岐に襲来し、島民を殺害、連行するという事件を起こしたが、日本ではこれを刀伊の入寇と言った。高麗で蛮族を意味する刀伊が女真であることは、当時の日本人は誰も知らなかった。

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 女真を統一した阿骨打は遼からの独立をめざし、1115年に遼軍を破り、国号を金として皇帝となった。遼に苦しめられてきた宋は阿骨打の威勢を聞いて遼を挟撃しようと図り、1120年に金と海上の盟といわれる同盟を結んだ。地図を見てお分かりの通り、海上ルートを使わないと宋と金は秘密交渉が出来なかったから、海上の盟という。遼が滅びた暁には、長城以北の占領は金にまかせるが、長城以南つまり燕雲十六州は宋がもらう。そして、今まで遼に贈っていた歳弊の絹30万匹・銀20万両は今後は金に贈るという内容だ。

 交渉が纏まらないうちに金は軍事行動を開始し、破竹の勢いで遼軍を破り、遼の西京つまり大同を陥れた。宋による燕京への攻撃が同時に開始されるはずだったが、宋軍は方臘【ほうろう】の乱など国内の内乱鎮圧に振り向けられていたため到着が遅れた上に、弱体化した宋軍は連戦連敗。結局、金に援軍を要請するはめになった。金軍はこの要請に応え、たちまち燕京を陥落させてしまい、宋軍は何の役にも立たなかった。で、結局宋が手に入れたのは、金に略奪されて空城になった燕州など6州のみで、その上燕京攻撃の代償として金に対して銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を支払うことになった。それでも都では国初以来の宿願の一部が達成されたというわけで、お祭り騒祝宴が開かれた。

 なお、金は1125年に今度は西夏と同盟して遼を滅ぼしている。

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徽宗

 この時の宋の皇帝が徽宗【きそう】である。徽宗と言えば、風流天子として知られ、書・画に優れ、院体画の第一人者として史上に不朽の名作を残している。

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 世界史の教科書にも掲載されている「桃鳩図」は徽宗の代表作だ。これ中国にあると思ってる人が多いと思うけど、実は日本の国宝なんだぜ。かの足利義満や井上馨も所蔵していたことがあり、現在は個人の所蔵となっている。贋作だという話もあるけどね。

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花石綱

 絵画についてはプロ級の腕前の徽宗だが、政治には熱意がなく、明代の小説『水滸伝』における悪役として有名な蔡京【さいけい】を宰相に任じ、自らは書画・骨董に凝り、美女を漁り、道教を信じて豪奢な生活で国費を乱費した。(『水滸伝』については明史で書く予定)また、紙幣の乱発・重税の加徴・専売の強化・花石綱【かせきこう】(庭園を造るために江南から調達させた珍花・名木・奇石などのこと)などで国民に負担を強いたため、農民反乱である方臘の乱も起きた。

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欽宗

 燕雲16奪還に失敗した宋は、金に占領された残りの州の奪還を計画し、こんどは遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。伝統の「「夷を以て夷を制する」策略である。しかしこの陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗(呉乞買・ウキツバイ)が首都・開封【かいほう】を攻撃してきた。徽宗は「己を罰する詔」を出して長男の欽宗に譲位し、鎮江まで逃げ出す始末だ。しかし、後に開封に連れ戻されて幽閉されてしまう。

 
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 欽宗は首都を包囲した金軍と、領土の割譲、賠償金の支払いなど屈辱的な内容の講和を結んだ。しかし、これに反発する主戦派により講和が守られなかったため、金軍は総攻撃を命じた。40日間余りの攻防戦の結果、1126年11月に開封が陥落。徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、3000余人が捕らえられて北方に連行(二帝北行)され、1127年北宋は滅びた。これが「靖康の変」である。徽宗・欽宗は五国城(黒竜江省)に幽閉されたまま帰国の願いもかなわず没し、徽宗の遺体は南宋と金の和平成立で返されたが、欽宗の遺体が返されることはなかった。また、同じくこの事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設の妓楼である「洗衣院」に入れられて娼婦となった。

 こうして、宋はいったん滅亡したが、この変の際に都にいなかった欽宗の弟の康王が江南に逃れて即位し(高宗)、都を臨安(現在の杭州)に定めた。これを南宋という。南宋は豊かな江南の経済力と地の利、その後の金の軍事力の弱体化に助けられて、その後1世紀半ほど生き延びることができた。

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 NHKドキュメンタリー「中国王朝 よみがえる伝説」で紹介されたように、徽宗は美におぼれて政治をおろそかにした「亡国の天子」として蔑まれてきたが、最近その実像に新しい光が当たりつつある。徽宗は、福祉の充実に力を注ぎ、身分の低い高齢者のための養護施設「仁先院」、貧困者の医療施設「安済坊」、身分の低い人たちの共同墓地「漏沢園」を各地に造るなど、国民思いの皇帝でもあったのだ。

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【 2018/12/20 08:15 】

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世界史のミラクルワールドー遼と西夏・莫高窟第17窟の謎

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耶律阿保機

 耶律阿保機【やりつあぼき】は契丹【きったん】の8部族の一つ、迭刺【てつら】部の族長。本名はチュエリだが、「簒奪者」を意味するアブーチと呼ばれるようになり、その音訳が阿保機である。耶律はヤールートの音訳で、契丹の氏族名である。頭が禿【はげ】てるように見えるけど、これは契丹族のヘアースタイル。日本の侍も兜で頭が蒸れないように天辺を剃ってるから、同じようなもんだ。

 契丹(キタイ)は遼河上流のシラムレン川とラオハムレン川流域で活動していた遊牧狩猟民族で、イスラーム圏やヨーロッパではキタイが訛ったカタイ(Khatai)の名で中国を呼んだ。これが、英語で「中国」を意味する Cathay の語源となった。Cathay はあまり使わないけど、香港の航空会社キャセイパシフィックがあるよね。

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 阿保機は他の7部族の族長を次々とだましうちにして契丹族を統一し、916年に皇帝(カーン)を称して、契丹国を建国した。さらに、阿保機は周辺の征服に乗り出し、突厥、タングート、ウイグルなどの諸民族を制圧、926年には渤海を滅ぼし、中国への進出を図ったがその年に病没した。

契丹文字 

 また、阿保機は920年に契丹文字を作成している。これは唐王朝が滅亡し、周辺諸民族が独自の文化を形成していった中で起きた文化現象の一つで、日本でも漢字をもとに仮名文字の作られている。契丹文字も漢字を参考に作られた表意文字だが、現存する資料が少なく、解読はまだ完全には行われていない。

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石敬瑭

 阿保機が渤海を滅ぼした頃、中国北部 を支配していたのが五代の後唐である。936年に 石敬瑭【せきけいとう】が後唐を滅ぼして後晋を建国したが、この時に契丹の援助を受け、見返りとして燕雲十六州(先の地図も参考)を割譲し、絹布30万匹の贈与を約束した。ところが、次の皇帝が約束を守らなかったため、契丹は後晋を攻撃し、946年にこれを滅ぼしてしまった。

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 燕雲十六州を獲得し中国の一部を支配することなった契丹は、937年に国号を中国風に遼と改めた。彼らの出身地は遼河上流だからね。燕雲十六州は万里の長城の南側にあるため軍事上の要地であり、またこの地域は良質の鉄鉱石と石炭の両方を産出したため、経済的価値も小さくなかった。そこで、後周や宋は何度かこの地域の奪回を試みたが、失敗した。結局、1004年に宋の真宗は遼の聖宗と澶淵【せんえん】の盟を結び、国境を現況で確定するとともに、宋が遼に対して兄となること、 毎年絹20万疋・銀10万両を歳幣として遼に贈ることを約束させられた。まあ、簡単に言えば、金で平和を買ったわけだ。

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李元昊

 その頃に、さらに宋を圧迫する奴が登場してくる。李元昊【りげんこう】だ。李元昊はチベット系のタングート族だが、ご先祖さんが唐に降って李姓を賜った。李元昊は1038年に興慶【こうけい】を都として皇帝を名乗り、大夏(中国は西夏と呼んだ)を建国した。大夏の攻撃に手を焼いた宋は、1044年に慶暦【けいれき】の和約を結び、宋を君、西夏を臣と位置付け、宋は毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈ることなどを約束した。遼と大夏に贈る莫大な歳弊が宋の財政を圧迫し、やがて王安石の改革が実行されることになるが、この緊張状態は女真族の登場によって新たな段階に入っていく。

西夏文字 

 李元昊も漢字の要素を組み合わせて西夏文字を作ったが、契丹文字と違いほぼ解読されている。中国人を意味する「漢人」に当たる文字は、「小偏に虫」という差別的な構成で表記される。中国人を「小さい虫」と呼んで馬鹿にしている態度は、北魏の孝文帝と比べると雲泥の差があるよね。

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  このポスター覚えてる?1988年に公開された日中合作の映画『敦煌』のポスターだよね。ご覧になりましたか?李元昊の役を渡瀬恒彦が演じていたの覚えてる?この映画は井上靖の同名の小説を映画化したものだけど、クライマックスは主演の佐藤浩市演じる行徳が敦煌の文化遺産を戦乱から守るために、貴重な書籍や経典を敦煌郊外の石窟寺院に運び出していくシーンだ。実はこの小説は史実をもとにしたフィクションだ。

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 敦煌の莫高窟【ばっこうくつ】には492の石窟があるが、そのうちの第17窟は現在、蔵経洞と呼ばれている。正面に坊さんの像があるけど、もともとは高僧の像を安置する御影堂として造られた窟だった。この窟が見つかったのは1900年のことで、それまでは壁に封じ込められていた。

 当時、王圓籙【おうえんろく】という道教僧が、飢饉のため流浪したすえに莫高窟にたどり着き、そこに暮らしながら、石窟に積もる流砂をほうきで掃き出したり、寄付を募っては修復を加えるなどして過ごしていた。ある時不謹慎にも第16窟の入口付近で煙草を吸っていたら煙が壁に中に吸い込まれていった。変に思って、キセルで甬道を叩いた時に空洞のような響きが返って来た。

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 そこで、壁を壊してみると、なんと壁の向こう側には古文書類が天井まで積み上がった小窟があった。これが第17窟で、蔵経洞と呼ばれるようになった。この発見のうわさは徐々に広まり、1907年に莫高窟を訪れたイギリスの探検家、オーレル=スタインは文書類が予想以上に貴重なものであることを理解すると、王圓籙に僅かな金を渡して数千点もの文書や絵画を手に入れ、自国に持ち帰った。その後、フランスのペリオ、日本の大谷探検隊、ロシア隊などにより、多くの文書類がまたたくまに国外に流出していった。こうして貴重な遺物のほとんどは現地を離れてしまったが、このことが逆に、敦煌に関する研究が「敦煌学」という国際的広がりをもつ研究分野に発展してゆく機縁ともなった。

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 さあ、そこで問題になるのが、いつ、誰が、どのような事情で、ここに大量の経典や絵画を積み上げ、壁をつくって封じたのかということだ。ペリオが唱えた説は、西夏を建てたタングート族が敦煌へ侵入する直前に、敦煌の仏教徒が襲撃に備えて大事な文書類を小さな洞窟に封じ込めた、というものだった。井上靖もこの説に基づいて小説を書いているので、映画でもそのように描かれていた。

 しかし、西夏の支配者は厚く仏教を信奉しており、むしろ莫高窟の造営に力を注いでいるので、この説は疑わしい。そこで出された説は、西夏が攻撃したのではなく、むしろ西夏がイスラームのカラハン朝の侵攻から経典類を守るために封じたという説である。また、蔵経洞から発見された文書類は、経の断片や残巻、紙の両面を使用したものが多いため、焼却するに忍びない使い古された経巻や文書、幡画、仏画を、ひとところに集めて封じ込めたのではないかとする廃棄説もある。結局、決め手となる証拠は見つかっておらず、現在でも謎のままだ。

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 ところで、写真は撮影セットとして日本が敦煌市近郊に造った敦煌古城だ。広さは何と1万㎡もあり、映画の時代背景を出来るだけ忠実に反映して造られた。契約では日本側の条件が他の企業による転用を防ぐため焼却処分するとなっていたのを、現地官庁が「燃やすのなら灰一つ残さず持ち帰れ」とごねて燃やすのを阻止したという話だ。現在は映画やドラマのロケ地に使われたり、観光客から30元の入場料を取って見せたりしているそうだ。ちゃっかりしてるよな。

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【 2018/12/16 09:38 】

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世界史のミラクルワールドー夫の父と再婚・文成公主

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ソンツェン=ガンポ
 
 ソンツェン=ガンポはラサ南東のチンワで部族長ナムリ=ソンツェンの子として生まれた。本名はティ=ソンツェン。ソンツェン=ガンポは後世の人間による尊称。後のダライ=ラマと同じく観音菩薩の化身とされた。政敵に毒殺された父に代わって王位に就き、ガル=トンツェンという知謀の宰相を得て勢力を拡大、チベット高原全体をほぼ征服し吐蕃【とばん】王朝を確立した。

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 634年にソンツェン=ガンポは初めて唐に入貢して公主の降嫁を願い出、当初は唐の太宗も王女の入嫁に同意していた。しかし、吐谷渾【とよくこん】(黄河上流青海地方にあった国で、鮮卑族出身者がチベット人を支配していた)に親唐の政策を採る政権が樹立されると唐はチベットへの入嫁を拒否し、吐谷渾に王女を送った。これに怒ったソンツェン=ガンポは吐谷渾を攻撃し、638年には唐にも侵入した。結局、唐と吐谷渾は賠償金を支払って謝るはめになった。

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文成公主

 638年、ソンツェン=ガンポの息子グンソン=グンツェンが即位し、640年に唐の太宗は文成公主をその妃として降嫁させた。皇帝の娘を公主と言うんだけど、太宗の実の娘ではない。降嫁した文成公主は王子マンソン=マンツェンを産むが、結婚して3年後に旦那が落馬が原因で23歳で急死。お父さんのソンツェン=ガンポが復位して、3年後に公主と再婚した。息子の嫁さんと再婚するなんて儒教道徳ではあり得ないことだが、チベット人には関係ねぇ~。

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 文成公主が旦那の死後に建てた寺がラモチェ寺(中国名は小昭寺)で、唐から連れてきた工匠たちによって建設されたという。

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 ラモチェ寺の本尊が文成公主が中国から持参したという黄金の釈迦牟尼仏像で、12歳のお釈迦さんの姿をかたどったものとされる。でも、お顔があまりにもチベット的で、中国から持って来たという話はかなり怪しい、と僕は思う。実は、文成公主が中国から密かに持って来たものがある。それは繭だ。これによってチベットで養蚕が始まったんだってさ。他にも、文成公主とともに製粉、紙作り、酒造りなどの技術を持つ中国人職人がチベットに移り住んだので、多くの中国の文物がチベットにもたらされた。だから、文成公主は仏さまみたいにお祀りされており、チベット人の厚い信仰の対象となっている。

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 黄金の釈迦牟尼仏像はラモチェ寺からトゥルナン寺に移されて、トゥルナン寺の本尊として祀られている。トゥルナン寺は一般的に本堂に相当する部分の名称であるジョカンと呼ばれることが多く、中国名では大昭寺。ラサの中心にあり、いつも五体投地する信者さんで溢れている。

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 この写真もソンツェン=ガンポなんだけど、両側に王妃がおいでになる。向かって右手が文成公主で、左手はネパールから嫁に来たティツィン王女(赤尊公主)だ。トゥルナン寺を建てたのがティツィン王女で、文成公主がこれを助けたと伝えられている。こうしてチベットには中国仏教とインドの仏教が持ち込まれ、両者が混合した独自のチベット仏教が成立することになる。


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 これチベット文字でオムマニベメフムと書いてある。オムマニベメフムは、「蓮華にある宝珠に幸いあれ」という意味の呪文で、チベットの人はしょっちゅうこれを呟いている。かのオウム真理教の「オウム」と「オム」は同じ意味だ。

 ソンツェン・ガンポが、自国の文字を造るために人材をインドに派遣した伝承が残っている。その旅路は苦難に満ちたものであり、チベット人にとってインドの文字は難解だったが、知識を会得して帰国した大臣トンミ=サンボータがインドのブラーフミー文字をもとにチベット文字を発明したと伝えられてる。

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唐蕃会盟碑

 8世紀に起きた安史の乱を自力で鎮圧できなかった唐は、ウイグルの力を借りてやっとのことで反乱鎮圧に成功する。ところが、これが周辺民族に唐の弱体化を露呈することになり、吐蕃は唐に侵入し、一時長安を占領した。そうした緊張状態が半世紀余り続いたのだが、821年に両国は和解した。これを記念して建てられたのが「唐蕃会盟碑」で、トゥルナン寺の前にある。平成15年にトゥルナン寺を参詣した際に見ようと思いながら、チベットの子供達と遊んでいて見るのを忘れたという苦い思い出がある。

 この碑文は対等な両国関係をうたっているが、実質的は唐が下手に出て結んでもらった平和条約だ。こうして富強を誇った吐蕃であったが、9世紀後半には王家が東西に分裂して衰退し、877年に滅亡した。

 中華人民共和国は「チベットはもともと中国の領土だった」としてチベットを力ずくで支配しているが、チベットは紛れもない独立国である。

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【 2018/12/13 16:05 】

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世界史のミラクルワールドー不東・玄奘

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玄奘

 602年に河南省で生まれた玄奘【げんじょう】は、5歳の時に母、10歳の時に父を亡くした。11歳の時、すでに出家していた兄を頼り洛陽の浄土寺に身を寄せ、13歳で出家。各地の寺に師を求めて仏教教義を研究したが疑問が多く、ついに、直接インドに赴くことを決意し、隋に替わって新しく成立した唐に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から何度申請しても出国の許可が下りなかった。

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 629年8月、玄奘は国禁を犯して密かに出国、単身インドに向けて出発した。玄奘28歳。役人の監視を逃れながら河西回廊を西に進み、玉門関の手前、瓜州【かしゅう】を発ち草原に入った時、年老いた胡人に西域行きを止められた。玄奘は言った、「貧道爲求大法 發趣西方 若不至婆羅門國 終不東歸 縱死中途 非所悔也」(私は大法を求めんがために西方に発とうとしているのです。もしバラモン国に至らなければ、けっして東に帰って来ません。たとえ中途で死んでも悔いはありません)と。

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 玉門関を過ぎると、広大なゴビ砂漠が広がる。食糧も水も底をつき、魑魅魍魎【ちみもうりょう】に襲われるが、奇跡的にゴビ砂漠を抜けた。

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 高昌故城

 その年の暮れに、高昌【こうしょう】国(トルファン)に至った。熱心な仏教徒であった国王の麹文泰【きくぶんたい】は、玄奘の講義を受け、その学識の高さに感銘。「国民全員が帰依するから国師として一生留まって欲しい」と懇願したが、玄奘が断ると、一室に閉じ込めてしまった。何としても旅立つ玄奘の決意は変わらず、断食で抵抗すると、王は根負けして、インドからの帰りには3年間高昌国に立ち寄るという約束で、出発を許してくれた。
 
 王は20年間の旅費を布施し、玄奘を抱きしめて泣きながら見送ってくれたが、この約束はついに果たされることはなかった。やがて玄奘がインドでの学びを終え帰路につく1年前に、高昌国は唐に滅ぼされ、王も死んでしまっていたのである。
 

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天山山脈

 
 鳩摩羅什【くまらじゅう】の故国・亀茲【きじ】国(クチャ)に2カ月滞在した後、玄奘は西域の商人らに混じって天山山脈に挑んだ。天山は夏でも雪がとけない極寒の氷山。強風が吹けば、砂や石が飛んでくる。眠ろうにも渇いたところはない。遭難覚悟の7日間の旅であった。

鉄門

 命からがら天山山脈を越えた玄奘は、イシク・クル湖に出た。さらにシルクロードを西へ進み、石国(タシケント)・康国(サマルカンド)を通り、鉄門にさしかかる。鉄門はサマルカンドとトハリスタンとの間にある狭く険しい道のこと。インドに至る要害で、両側の崖が鉄色を帯び、鉄の門を設けてあった。

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平山郁夫筆「大唐西域壁画」より「バーミアン石窟」  

 鉄門を抜けて現在のアフガニスタンに入った玄奘はバーミヤンを訪れている。玄奘は『大唐西域記』に、「二体の大仏は金色に輝き、王城や伽藍が甍を連ねており、300メートルもの巨大な涅槃像があった」と記している。僕も一度は見たいと思っていた大仏だが、2001年にターリバーンにより爆破されてしまった。クソッ

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平山郁夫筆「大唐西域壁画」より「ナーランダの月」

 玄奘はさらにガンダーラを通って、インダス河を渡り、カシミールに入った。鳩摩羅什も若い頃に仏教を学んだ地だ。その後、祇園精舎やカピラ城、ルンビニー園などのブッダゆかりの地を巡礼した後、目的地であるナーランダ僧院に辿り着いた。玄奘31歳の時である。

 ナーランダ僧院では5年間にわたり、シーラバドラ(戒賢)に師事して唯識【ゆいしき】の教学をきわめ、ハルシャ=ヴァルダナ王にも会見。さらにインド各地に求法と仏蹟巡礼の旅を続けた。645年、膨大な経典をたずさえて再び陸路で帰国したが、長安を出て17年の歳月が流れていた。

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 写真は世界史の資料集にもよく掲載されている玄奘の像だけど、恥ずかしながら長い間中国で描かれたものだと思い込んでいた。ところがこれ鎌倉時代の日本で描かれたもので、東京国立博物館が所蔵している。経典をぎっしり積み込んだ笈【おい】を背負って、脚絆【きゃはん】を着け、草履を履いた旅姿で描かれている。よく見て欲しいんだけど、首に髑髏【どくろ】を繫【つな】いだ首飾りを下げ、腰には刀を差し、右手には払子【ほっす】、左手には経巻を持ってるよね。それじゃ、上部の円形の大きな笠から吊り下げられている物は何だ?分かるかな?これ、香炉なんだ。背中に背負ってる経典が虫に喰われないように香を焚きながら帰ったんだってさ。

 でも、この絵は間違い。玄奘が持ち帰った経典は背中に背負って運べるような分量じゃなくて、馬20頭が必要だったんだって。

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 そのころ太宗は国勢発展を意図して641年からヴァルダナ朝に外交使節を送っていた。643年にはインドに派遣していた王玄策らがブッダ説法の遺跡などを巡礼し仏典を得て帰朝し、インドブームがわき起こった。その直後に思いも掛けない玄奘からの手紙が届いたる。「私は国禁を犯して出国しましたが、おびただしい書籍や珍宝をもって、ただいま于闐【うてん】(ホータン)まで帰ってまいりました。」これを読んだ太宗はたいそう(駄洒落)喜んで、早速迎えの者を遣わした。


 太宗はその労をねぎらって玄奘三蔵の号を贈るとともに、勅命によって経典の翻訳にあたらせた。玄奘がモデルになった『西遊記』があるから、三蔵法師というと玄奘のことだと思ってるかも知れないけど、三蔵法師は固有名詞じゃない。経・律・論の三蔵に通達している学僧に対する尊称だから、三蔵法師は何人もいて、鳩摩羅什も三蔵法師だよ。

 玄奘は持ち帰った経巻の訳業を太宗に願い出たが、許可に当たって西域の詳細な報告書を提出するよう命じられ、編纂したのが『大唐西域記』であり、帰国の翌年に成立している。玄奘が歴訪した110カ国および伝聞した28カ国の事情が述べられており、貴重な史料となっている。

 また、玄奘は亡くなるまでの約18年間に、『大般若経』600巻を含めて75部1335巻の漢訳を完成させた。羅什の訳が35部294巻だから、いかに大規模な翻訳事業か分かると思う。玄奘の訳風は逐語訳で「新訳」と称され、羅什のものを「旧訳」【くやく】と読んで区別する。

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 翻訳事業はまず弘福寺、ついで大慈恩寺で行われたが、大慈恩寺は648年に皇太子の李治(後の高宗)が亡き母の追善供養のために建てた寺で、玄奘が上座として迎えられた。652年、玄奘がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために境内に大雁塔【だいがんとう】が建てられた。長安のシンボルとも言えるこの塔は当初5層であったが、武則天の時代に改修されて、現在は7層64メートルある。木製の階段が螺旋状に頂上まで続いていて登ることが出来る。階段は般若心経の文字数と同じ265段。平成12年に上まで登ったが、二日酔いで傾斜のきつい階段を登るのはえらく大変だったのを今でも覚えている。

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 平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」を2枚紹介したけど、この壁画どこにあるか知ってる?写真は薬師寺の玄奘三蔵院伽藍の玄奘塔。その北側にある大唐西域壁画殿に描かれた全長約37メートルという大壁画で、壁面13面に7場面が描かれている。構想30余年、実制作20年という期間を経て、平成12年12月に完成させた超大作だ。玄奘塔は玄奘三蔵の頂骨を真身舎利【しんじんしゃり】として安置したお堂で、正面の扁額には「不東」の文字が刻まれている。

 じゃ、なんで玄奘三蔵が薬師寺に祀られているか分かる?薬師寺の宗派は法相宗【ほっそうしゅう】だけど、法相宗は唯識宗【ゆいしきしゅう】とも言って、玄奘がインドから唯識説を中国に伝え、その弟子の慈恩大師基が開いた宗派なんだ。だから、薬師寺にとって玄奘は事実上の宗祖なんだよね。

 じゃあ、なんで薬師寺に玄奘の頭蓋骨があるのか?

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さいたま市慈恩寺の玄奘塔

 玄奘の遺骨は長安・興教寺の舎利塔に納められてたんだけど、宋の時代に長安から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になっちゃった。ところが、日中戦争最中の1942(昭和17)年南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に玄奘の頭骨を納めた石棺を発見した。頭骨は当時の南京政府との間で応酬を経た後、分骨することで決着を見、日本では現在、さいたま市の慈恩寺に奉安されている。その一部が1981(昭和56)年に薬師寺に分骨され、玄奘塔に安置されたってわけだ。薬師寺に行くことがあったら、是非玄奘三蔵院にもお参りしてね。

 ちなみに、遺骨発見当時の南京政府の主席は汪兆銘【おうちょうめい】。日本の傀儡政権が分骨を認めたんであって、俺たちゃ決して認めないぞ、ということで、現在の中国は玄奘の遺骨を返せと言っている。どうする?

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【 2018/12/10 09:11 】

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世界史のミラクルワールドー楊貴妃と赤ちゃんごっこ・安禄山

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玄宗と楊貴妃
 
 玄宗は宮廷の女禍を一掃し、意気と情熱に燃えて政治の革新に乗り出して、「開元の治」と称揚される実績をあげた。しかし、開元の年号が29年で終わりを告げる頃には、玄宗もいつしか遊惰安逸に流れ、奢侈を好む凡庸な君主になりさがっていた。

 玄宗は寵愛した武恵妃が没すると、武恵妃の産んだ息子・寿王【じゅおう】の妃であった楊玉環【ようぎょっかん】に目をつけ、740年に息子と離縁させる。玄宗55歳、楊氏21歳の秋であった。いったん女冠(道教の尼)として改めて後宮に召して太真の名を与え、745年には貴妃(後宮で皇后に次ぐNO2)の称号を与えて溺愛したのは745年のことであった。息子の嫁さんを取り上げて自分のものにするなんて不道徳なことは漢民族はしない。玄宗も北方民族の出身だから、そんなの関係ね~。

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 楊貴妃は美貌に加えて歌舞音曲の才能が溢れていたから、色好みの玄宗は楊貴妃との逸楽に溺れた。白居易の『長恨歌』にいう、「(楊貴妃は)天生の麗質、自ら棄て難く、一朝、選ばれて君王の側に在り、 眸【ひとみ】を迴らせひとたび笑えば百媚【ひゃくび】生じ、 六宮【りくきゅう】の粉黛【ふんたい】も顔色なし。春寒くして浴を賜う華清の池 、温泉の水、滑にして凝脂に洗ぐ。侍児、扶け起こすも嬌々として力無く、始めて是、新たなる恩沢を承【う】けん時ぞ……」と。

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楊国忠

 玄宗が楊貴妃を溺愛したため、楊貴妃の一族はみな高位にのぼった。なかでも、又従兄弟の楊国忠は 学問を好まずに酒とばくちを好み、一族の嫌われ者であったが、楊貴妃のお陰で出世を重ね、752年に李林甫を蹴落として宰相の地位に上り詰めた。

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安禄山 

 安禄山【あんろくざん】は本姓を康という。康国はサマルカンドのことなので、父親はイラン系のソグド人と考えられる。母親はトルコ系の突厥【とっけつ】人だが、子供がないことを悲しみ突厥の戦神・軋犖山【アツルクザン】に祈って生まれたので、幼名を軋犖山と名づけた。父に早く死別し、母が突厥人の安氏と再婚したので、連れ子だった彼も安姓を名乗ることになった。

 6カ国語に通じる商人であったが、節度使(辺境の募兵集団の指揮官)の幕僚となって武人として台頭、中央の官僚に賄賂を贈って昇進を重ねた。政敵を追いやることしか考えていない時の宰相・李林甫は、中国人高官が節度使として辺境で勢力をもつことを恐れた。そこで、節度使にはことさらに異民族や身分の低い者を登用したので、742年安禄山は平盧【へいろ】節度使となった。

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 安禄山は超メタボで、腹の肉は膝まで垂れ下がり、330斤(195キロ)あったというから、逸ノ城なみだ(ちなみに逸ノ城は227キロある)。彼が帯を締める時は、3,4人の附人が手助けをし、附人の2人はその巨大な腹を持ち上げ、宦官の豬児【ちょじ】が頭でそれを支えている間に締めたという。その巨体でよたよた歩く姿が、なんとなくおかしいということで、楊貴妃はじめ女官たちには大ウケ。

 ところが、こんなデブのくせに、玄宗の前でテンポの速い胡旋舞【こせんぶ】を舞う時は、まるで疾風のようだったという。逸ノ城も見習わねばね。

 また、こいつは口が上手い。そのでかい腹を見て、ある時玄宗が訊ねた。「お前の腹の中には何が入ってるんだ?」

 禄山は、「ただ赤心(忠誠)のみが入っています。」と答え、玄宗はたいそう喜んだそうだ。

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 安禄山が14歳も年下の楊貴妃の養子になりたいと願い出ると、玄宗は喜んでこれを許した。昔の中国には、洗児【せんじ】という行事があった。これは、生まれて3日目の赤ちゃんを湯に入れて、お客様を招き誕生を祝う宴のことだ。751年1月3日に宮中でこの洗児が行われた。金銀刺繍で飾られた豪奢なオムツをはかされ、官女たちがかつぐ輿に乗せられて登場したのが、なんと安禄山だ。彼の誕生日は1月1日。母となった楊貴妃が息子のために洗児をやったということだ。いい年をした200キロもある巨体のおっさんがオムツ姿で官女に担がれた輿に乗っかっている。安禄山は芸人じゃないよ、今で言えば国境警備軍の隊長の地位にある軍人だよ。ところが、それを見た玄宗は怒るどころか、ご褒美に金銀財宝や豪邸をプレゼントしたんだって。本当に世も末だね。

 それ以後、安禄山が頻繁に楊貴妃の居室に出入りして二人で夜を明かすこともあり、二人の醜聞が世間に流れていても、玄宗は全然疑おうとはしなかった。それも安禄山を信じていたというより、愚直な蕃人だからと安心してたんだろうね。


 玄宗と楊貴妃に取り入った安禄山は、751年に平盧の他に范陽、河東の節度使にも任命され、10カ所に置かれた節度使のうち3つを兼ねることになった。しかし、752年に宰相となった楊国忠と次第に対立するようになった。

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  754年、玄宗が安禄山を宰相に任用しようとしたが、楊国忠の反対にあって実現しなかった。これを恨んだ安禄山は、755年11月、玄宗より逆賊・楊国忠を討てとの密使を受けたと称し、史思明【ししめい】らとともに、20万の兵を率いて立ち上がった。安史の乱(755~763年)の始まりである。

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 范陽で兵を挙げた反乱軍は僅か1月で唐の副都である洛陽を陥落させ、756年1月、安禄山は大燕聖武皇帝を名乗り燕国の建国を宣言した。唐軍は洛陽から潼関まで退いたが、司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。高仙芝といえばタラス河畔の戦いでアッバース朝と戦った高句麗出身の武将として有名だよね。

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 写真は楷書の四大家の一人である顔真卿【がんしんけい】の「千福寺多宝塔碑」。当時、楊国忠と対立して平原郡太守に左遷されていた顔真卿は、義勇軍を率いて反乱軍と戦い、唐朝のために気を吐いた。剛直な性格のために、時の権勢家と合わず、安史の乱後の785年には、藩鎮・李希烈の反乱に際し使者となった。李希烈は自分の部下になるよう再三にわたって説得したが、断固これを拒否したため殺され、中国史でも屈指の忠君とされる。

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 ちょっと話が逸れちゃったので、本題に戻そう。やがて潼関が陥落し、反乱軍が長安に迫ると、玄宗は慌てふためいて西方に逃れ、蜀をめざして都落ちした。756年6月13日の黎明、玄宗は楊貴妃、楊国忠、宦官の高力士らを従えて近衛兵に守られて宮門を出た。翌日、長安から西へ75キロの馬嵬【ばかい】に至ったが、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた兵士達は、楊国忠を惨殺、さらに「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意し、最後の別れをした。楊貴妃は 高力士に伴われて仏堂に入り、仏前で高力士によって絞殺された。ときに楊貴妃37歳。

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史思明

 決起以来、目が悪くなっていた安禄山は、この頃に失明してしまう。超メタボだったから、糖尿病からくる網膜症だろうね。その上、悪性のできものまで出来て、そのストレスから周りの人間に当たり散らすようになり、部下に見放されてしまう。757年1月5日、安禄山は二男の安慶緒【あんけいちょ】によって大きな腹をブスリと刺されて、あっけない最期を迎えた。皇帝を名乗ってから一年、55歳であった。

 これに反発した安禄山の盟友・史思明は唐に寝返って節度使に任じられた。しかし、758年に再び背き、安慶緒を殺して大燕皇帝を称した。ところが、761年、末子の史朝清を後継ぎにしようとしたために長男の史朝義によって殺されてしまう。

 762年10月、ウイグルの援軍を得た唐は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れようとしたが、763年1月に追撃され、自殺。こうして8年に及ぶ安史の乱はようやく終結した。

 唐はその後も1世紀に渡って存続するが、安史の乱以後は各地の節度使(藩鎮)が自立し、朝廷の力は弱体化した。

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【 2018/12/07 08:48 】

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世界史のミラクルワールドー女禍はまだ続く・韋后

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 武周革命の陰の立役者は薛懐義【せつかいぎ】という謎の怪僧である。洛陽の薬売りから,武后の愛人となり,その勧めで僧侶となった男で、洛陽の白馬寺を修復してその寺主となった。彼は「大雲経」を偽作し、「太后は弥勒仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位に即くべし」と宣伝し、全国の各州に「大雲経」を奉安する大雲経寺を造らせた。

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 竜門石窟の奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏【るしゃなぶつ】の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天をモデルにしたと言われている。だが、彼女は弥勒仏の生まれ変わりとされたので話がおかしい。

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 写真は武則天が作成させた、いわゆる則天文字。今使っているのは、水戸光圀の「圀」という字だけだ。これは本来の「國」という字が、「もんがまえ」の中の「或」が「惑」に通じるというので、これを嫌って「八方」に変えた。武則天自身の名前「照」は「 」となった。「空」の上に「日」「月」であり、この字は武則天のためだけの文字である。「〇 」は何かわかる?これ、ゼロじゃなくて、星のことだよ。

 武則天は改元好きでも知られており、皇帝時代だけでも13回改元している。普通元号は漢字2文字だが、天冊万歳・万歳登封・万歳通天と4文字のものもある。日本の元号にも天平感宝とか天平勝宝とか4文字の元号があるけど、この時の天皇は誰?そう、聖武天皇や孝謙天皇だ。聖武天皇の皇后で孝謙天皇のお母さんは誰?

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 そう、藤原不比等の娘の光明子、光明皇后だ。聖武天皇のやったことは?はい、東大寺の大仏(盧遮那仏)造立、国分寺・国分尼寺の建立だよね。武則天のやったことに似てない?恐らく光明皇后が武則天の影響を受けて、真似したんだね。

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 性格は残忍で品行もおさまらず、悪く言われることの多い武則天だけど、門閥貴族に替えて優れた科挙官僚を採用し、多くの書籍を編纂させるなど、優れた政策を行っている。その辺は正当に評価すべきだね。

 晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった。705年1月、中宗を復位させ、ついに皇帝の座を降りた。67歳で即位してから15年、齢83歳となっており、同年12月に亡くなった。

王皇后
韋后

 武則天の死により女禍が去ったかと思われたがそうはいかなかった。第2の武則天になろうとする女が現れる。中宗の皇后である韋后【いごう】だ。中宗は母親の怒りに触れて僅か54日で皇帝の座から引きずり下ろされ、湖北に流され幽閉された。怖い母親はいつ何時刺客を送ってくるかも知れない。恐怖心から自殺しようとしたこともあった。そんな時、いつも中宗を励まし、ともに泣いてくれたのが韋后だった。中宗は「また陽の目を見ることがあったら、お前の望みは何でも叶えてやろう」と約束していた。

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安楽公主

 ついにその日が来たのである。韋后は何を望んだのか?「私もお母さんのようになりたい」。710年、ついに娘の安楽公主とともに中宗を毒殺、韋后の実子を帝位につけて政権を独占したのである。

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李隆基(玄宗)

 第2の女禍に対して立ち上がったのが、中宗の弟・睿宗の三男坊・李隆基であった。クーデターを起こし、韋后はじめ韋氏一族やその与党をみな殺しにした。その結果、睿宗が再び皇帝の座につき、隆基はこのときの功績により皇太子に立てられた。これが唐の第9代・玄宗である。

 女禍(武韋の禍)を一掃して帝位についた玄宗であったが、彼もまた晩年に女禍に苦しむことになる。言うまでもなく、楊貴妃のことだ。
 
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【 2018/12/03 12:11 】

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