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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー太子密建・雍正帝

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康煕帝

 康煕帝【こうきてい】には35人の男子があり、そのうち成年にいたったのは20人であった。康煕帝の皇太子問題は、彼の晩年に暗い影を落とすことになったのだが、その発端は、1667年、彼が22歳の時に、満1歳になったばかりの胤礽【いんじょう】を皇太子に立てたことに始まる。胤礽には兄の胤禔【いんし】がいたが、胤禔は皇后の子ではなかったため、康煕帝は嫡長子を皇太子に立てるという漢族王朝の伝統に従って、皇后から生まれた第2子の胤礽を皇太子としたのである。

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胤礽

 康熙帝は胤礽を非常に可愛がり、遠征中に自筆の手紙を何度も差し出したり、一緒に狩りに行ったりした。また、成年しても爵位や領民を与えず、部屋住まいにした。これは帝位を円滑に継がせたいための処置であった。ところが、ジュンガル部のガルダン=ハン討伐で他の皇子たちが功績を挙げたので、6人に爵位と八旗や領民を与えた。旗は元来はそれぞれ独立した部族集団であり、後金のハンや清朝初期の皇帝は満州族の部族長の合議で選ばれており、皇帝が皇太子と定めても帝位を継げる保証は必ずしもなかった。そのため、各旗の旗人は壮烈な党派争いを演じ、陰謀が巡らされた。また、満州族には長子相続という慣習がなく、中国式の皇太子の地位など皇子たちには納得がいかず、兄弟みな同格だと認識していた。

 一方、特別扱いされて成長した胤礽は、康煕帝の意に反して高慢貪欲で、徒党を集めて勢力を振るいたがり、康煕帝の身体の不調に際しても心配の色すら見せない。そうした胤礽の性格から父と子は次第に不和となっていった。

 そうした中、1703年に胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。1708年秋、内モンゴルに赴いていた際に、康熙帝は同行していた胤礽を跪かせ、泣きながら激しく叱責し、逮捕させた。康熙帝は、悲観のため不眠症となった。その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。

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第8皇子

 胤礽が廃された後、皇長子胤禔が第8皇子胤禩【いんす】を新たな皇太子に推薦した。しかし、胤禩が反胤礽の中心人物であったことを知り、康熙帝は怒って貝勒【ベイレ】の爵位を取り上げた。さらに、第3皇子胤祉【いんし】が、胤禔はチベット増に頼んで廃太子に呪詛を仕掛けたと直訴した。調べたところ、廃太子の部屋に呪詛の証拠が見つかり、胤禔は群王の爵位を取り上げられ、監禁された。

 その後、胤礽に会うと別人のように穏やかになっていたので、康熙帝は1709年春に再び胤礽を皇太子に立てた。しかし、胤礽が諸大臣との宴会を通じて皇太子党なるものを築いたことを知ると、康熙帝は歩軍総領トホチらを処刑し、胤礽は康熙1712年に再び廃されて幽閉された。これ以後、後継者問題に懲りた康熙帝は二度と皇太子を立てなかった。2度も皇太子を廃された奴は他にいないんじゃないかね。

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第14皇子胤禵

 その後康煕帝の死にいたるまで、次の皇帝の座をめぐって皇子たちの間には激烈な暗闘が行われた(九王奪嫡)。元々は皇后の産んだ第14皇子の胤禵【いんだい】が有力な帝位継承候補であったとされる。

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第4皇子胤禛

 その中で第4皇子の胤禛【いんしん】は有力候補にもはいらず比較的目立たなかったが、1722年、康煕帝の死後に後継者として発表された。皇太子を指名しないまま臨終を迎えた康煕帝は、側近の臣下の手をとり、その手のひらに四と書いた。それは第4皇子を指名したのであろうとされ、即位したのが雍正帝であった。実は十四と書いてあったのを、侍臣が指を曲げて隠したとか、なめて消してしまったとかの噂も流れ、「雍正簒位」として民間に広まることとなる。

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第13皇子胤祥
 
 即位後、雍正帝は兄弟のうち有力な者を捕らえ、第8皇子胤禩をアキナ(阿其那=犬)、第9皇子胤禟をサスヘ(塞思黒=豚)と改名して幽閉し冷酷に排除した。なんとも子供じみたことをやるよね。また、皇帝の諱を忌避する風習から、雍正帝に忠誠を尽くした第13皇子胤祥【いんしょう】除く兄弟の字を胤から允に改称させた。

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雍正帝

 皇位継承の暗闘を経験したことから、雍正帝【ようせいて】は皇太子を擁立しない方針を決めた。代わりの後継者指名法として、皇位継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後、紫禁城乾清宮の玉座の後ろにある「正大光明」と書かれた扁額(順治帝の揮毫)の裏に隠し、崩御後に一定人数が立ち会った上で勅書を開く、という方法を考案した。これを「密勅立太子法」(太子密建)と言う。

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 それまでは皇太子の周りに次代の権力の座を狙って集まって来る者が追従を繰り返すことによって皇太子の性格が歪んだり、皇帝派と皇太子派の派閥争いが起きる弊害があったが、こういった事態を封じ、皇帝の専制君主の座が確立した。この方法により、清代には暗愚な皇帝が比較的出なかったと言われる。

 雍正帝と言えば、「文字の獄【もんじのごく】」でも有名だよね。1726年、科挙の試験である郷試において、内閣学士の査嗣庭が出題した『詩経』の一節である「維民所止」(これ民のおるところ)という4字が、維は雍の、止は正の首をはねたものだとして、査嗣庭は投獄され病死、死体はさらし者とされた。さらにその息子も死刑、一族も投獄されたり、流罪に処されるという非常に厳しい処分を受けている。

 雍正帝は「歴史上まれにみる徹底した独裁君主」であったが、単なる恐怖政治家ではなく、史上まれに見る勤勉な皇帝でもあった。毎日夜遅くまで政務に当たり、大量の上奏文にいちいち目を通し、全て自分で硃批【しゅひ】(皇帝自身による朱墨による諾否、その他の書き込み)を満洲語で書かれた上奏文なら満洲語で、漢文で書かれた上奏文なら漢文で書き込み、一日の睡眠時間は4時間に満たなかったという。

 45歳で即位してから13年。1735年、働き続けた雍正帝は58歳で崩御した。仕事中毒とも言えるような働きぶりにからくる過労死だったかもね。

※肖像の写真は中国歴史ドラマ「宮廷女官若曦」から拝借しました。

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【 2019/01/31 17:53 】

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世界史のミラクルワールドー平戸の福松ちゃん・鄭成功

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鄭成功

 鄭芝竜【ていしりゅう】の通称は一官(老一官)で、外国人にはイークァンと呼ばれていた。鄭芝竜は福建省の出身で、泉州府の厦門【アモイ】島、金門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。まあ簡単に言えば海賊の親分なんだが、日本の平戸で田川七左衛門の娘マツと結婚した。1624年、二人の間に生まれたのが鄭成功【ていせいこう】で、幼名は福松と言った。福松ちゃんは幼い頃は平戸で過ごしていたが、7歳のとき、単身福建省の父の許におもむいて名を森【しん】と改めた。南京の太学で学び、15歳のとき、院考に合格し、泉州府南安県の生員になっている。

隆武帝
隆武帝

 1644年に崇禎帝が自殺して明が滅亡すると明の王室の一部は鄭芝竜を頼り、明の復興を策して清朝に抵抗した。鄭芝竜・成功親子は福建で明の皇帝一族の唐王・朱聿鍵【しゅいついん】を立てて隆武帝として擁立した。

 鄭成功が父の紹介で隆武帝に謁見した際に、朱姓を賜っている。隆武帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言ったという。彼は畏れ多いということで朱姓を使わず、鄭成功と名乗った(成功の名もこの時に賜ったもの)が、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺【こくせんや】」と呼ばれるようになる。

 隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、父鄭芝竜は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたが、鄭芝竜は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。

永暦帝

 その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫である朱由榔【しゅゆうろう】が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。鄭成功は、東シナ海・南シナ海での交易から得られる潤沢な資金を財政基盤として、1659年には長江をさかのぼって南京にまで迫り、海戦に慣れない清軍を悩ませた。

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 その間、鄭成功は5回にわたって日本の徳川幕府に手紙を送り、援兵を請うている。これを「乞師【きっし】」という。当初幕府の内部には出兵に賛成する者もいた。しかし、慎重論もあり、幕府は長崎の中国商人などから積極的に情報を集めた結果、清の優勢を知って、明清交代に介入しない方針に決定してしまう。何とも弱腰で情けないね。

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 海外貿易に依存する鄭成功の財源を断つため、清は1661年には遷界令【せんかいれい】を発して、福建・広東を中心とする沿海の住民を20キロ以上内地に強制移住させ、沿岸を無人地帯にして鄭氏勢力と住民との接触を絶とうとした。当時、内地の永暦政権も滅亡に貧しており、形勢の不利を見て取った鄭成功は、海外に新たな拠点を作るべく、1661年台湾に侵攻した。

 写真は2012年に台南市で復元された鄭成功時代の古帆船。長さ30メートル、幅7.6メートル、排水量138トンの大型ジャンク船だ。約1億台湾元(約2.7億円)の政府補助を受け、鄭成功の出生地である長崎県平戸市の松浦史料博物館にある「唐船の図」を元に復元した。竣工後に台湾一周、その後は長崎への航海も予定されていたんだけど、試験航行を行った際、主帆柱が折れてしまったため、計画はおじゃんに。修復されたという話も聞かないし、その後一体どなったんだろうね。

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ゼーランディア城

 当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していた。1623年に台湾に進出したオランダが最初に築いた要塞がゼーランディア城だ。ゼーランディアは「海の国」と言う意味で、ニュージーランドは「新しい海の国」という意味なんだよ、知ってた?

 鄭成功は1661年に澎湖諸島を占領した後に同3月30日からゼーランディア城を攻撃、翌1662年2月21日にこれを落としてオランダ人を一掃し鄭氏政権を樹立した。鄭成功はゼーランディア城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって支配の居城とし、「王城」と呼ばれるようになる。これにより、38年間に及んだオランダの台湾支配が終わり、オランダはバタヴィアへと撤退した。


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 日本の統治時代にオランダ時代に築城された城砦はほぼ完全に姿を消すこととなった。戦後、国民党政府は城址を安平古堡【アンピンコホウ】と命名し、僅かに残る城址を保護している。ちなみに、地図の中の年表にあるプロビンシア城(赤嵌楼【せきかんろう】)は、台湾統治の行政機関が置かれていた城。ご参考までに。

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康煕帝

 台湾に足場を築いた鄭成功であったが、わずかその4カ月後の6月23日に熱病で亡くなってしまう。39歳という若さだった。そのあとは子の鄭経【ていけい】が厦門から移って意志を継いだ。鄭氏台湾は3代、22年にわたったが、鄭成功の孫の代で内紛により弱体化し、1683年に康煕帝【こうきてい】によって征服されてしまう。1681年には三藩の乱も鎮圧されており、清に対する漢人の抵抗は終わった。

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近松門左衛門

 ところで、鄭成功の別名である国姓爺って聞いたことあるよね。そう、近松門左衛門の代表作『国性爺合戦』だ。「姓」の字が「性」になってるけどね。初めは人形浄瑠璃の作品だったけど、後に歌舞伎化された。

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「国性爺合戦」虎狩りの段

 『国性爺合戦』は鄭成功をモデルとする混血児和藤内(和でも唐でもないという洒落)の活躍を描いた戯曲は、平戸の和藤内が日本に逃れてきた明の皇女を助けて大陸に渡り、明の遺臣呉三桂と協力して韃靼兵(清軍)と戦い、明室再興の宿願を達成し、その功績によって国性爺といわれる、という話になっていて、史実とは随分違っている。1715年、大坂の竹本座で初演され、17カ月のロングランという大成功を収めた。僕も一度観てみたいと思ってるけど、なかなか実現しない。

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【 2019/01/28 16:51 】

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世界史のミラクルワールドー冠を衝く一怒は紅顔の為なり・呉三桂

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ホンタイジ

 ヌルハチの死後、ハンの位についたのは、ヌルハチの第8子、ホンタイジであった(ハンとしてはスレ=ハンという)。本名はヘカンというらしい。お母さんはヌルハチの3番目の正妃・エホナラ(葉赫那拉)氏。ずっと後に「葉赫那拉の呪い」が出てくるんで、ちょっと覚えておいてね。

 ところで、ホンタイジという名前は漢語の「皇太子(ホサンタイズ)」からきたと言われているが、これは彼の母が高貴な家柄の出身だったためで、彼が皇太子としてヌルハチから指名されていたということではない。そもそも漢族と異なり、北方民族にはハンが生前に皇太子を指名するという風習はなく、ハンが死んだあとの後継者は、有力な氏族長たちにより、もっとも有能な者が推戴されることになっているのである。

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歴代王朝の玉璽

 当時の後金は連年の戦争で生産が減少し、李朝(朝鮮)との交易が絶え、明とも交戦中という危機的状況であった。ホンタイジはモンゴル高原を迂回して明を攻める戦略をたて、内モンゴルを攻略してチャハル部を平定し、同部に代々伝えられてきた元朝の玉璽【ぎょくじ】を手に入れた。1636年、これを機に女真族の王朝である金の後継者という意味を込めた「後金」という国号を廃止し、新たに「大清」という国号を採用し、「皇帝」の地位に即いた。満州人、モンゴル人、漢人を包含する帝国の支配者たることを対外的にも宣言したのである。

 さらに李朝を服属させ、モンゴル諸部を平定。中国風の官制を導入し、漢人も登用して、清朝300年の基礎を築いた。こうして次第に女真社会の部族制の伝統から脱して、中国全土を支配する体制を整え、国力の充実を背景に明への圧力を強めた。1638年には征服地を管理する中央官庁として理藩院も設けられた。

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  その後、ホンタイジは一時的に侵攻して北京を脅かしたが、明側も山海関の防衛を固めたため、その支配は山海関の内側におよばなかった。山海関を境界とする明と清のにらみ合いは膠着状態となる中、ホンタイジは1643年8月9日に清寧宮で倒れ、急死した。51歳であった。恐らく脳出血だったろうと言われている。

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ドルゴン

 ホンタイジの後を継ぐ者として最も実力を有していたのはホンタイジの弟ドルゴンであり、これに対抗したのがホンタイジの長男ホーゲであった。ドルゴンはホーゲを蹴落とし、自らが実権を握るために、ホンタイジの第9子で僅か6歳のフリン(不倫を連想しちゃ駄目よ)を皇帝に推し、自らはその摂政となった。

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順治帝(フリン)

 こうして清の第3代皇帝に即位したのが順治帝【じゅんちてい】であった。治世の初めは叔父ドルゴンが専権を振るったが、1651年ドルゴンの死によって親政を開始し、漢人官僚を重用、儒教を国政の中心に据えるなど、中国的君主の色彩を濃くした。しかし、愛妃ドンゴ氏を亡くしてからは気落ちし、1661年に天然痘で急死する。24歳での若すぎる死であった。

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山海関

 話をもとに戻すね。摂政となったドルゴンは山海関【さんかいかん】に全軍を投入して明への侵入をはかった。山海関は「天下第一関」と称される、万里の長城の東端(本当は虎山長城なんだけどね)。この東の地域を「関東」と言って、日本の関東軍の名前はこれに由来するんだ。日本の関東地方とは関係ないからね。

 軍事要衝として山海関の防備はきわめて厳重で、1622年には駐屯する守備隊は兵79,869人、馬匹12,760頭の記録が残っている。不落の要塞で、東北方面から侵入する満州民族を防ぐ最後の砦だった。

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呉三桂

 当時この地の防衛を任されていたのが呉三桂だった(いくら探しても大きな画像は見つからなかった)。ところが、1664年李自成が反乱を起こし、40万の軍勢が北京に迫っていた。明の朝廷は呉三桂を平西伯に封じ、北京の防衛に当たらせることとした。そこで、呉三桂は山海関から北京に向かったが、途中で北京陥落の報を受け、山海関に引き返した。山海関において、西から李自成がしきりに呉三桂に投降を呼びかけ、東からドルゴン率いる清軍が迫っており、呉三桂は窮地に立っていた。まさに前門の狼、後門の虎である。さあ、呉三桂の決断や如何に。

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 この時、父の呉襄をはじめ呉三桂の一族は北京におり、父からの勧告を受けた呉三桂は一時は順への投降を決めていたが、急に翻意してドルゴンに書簡を送り助けを求めたのだ。「いま流賊李自成は天に逆らい皇城を犯しております。どうぞ亡国の孤臣呉三桂の忠義の言葉をお考え下され、速やかに精兵を選んでともに北京を攻め、大義を中国にお示し下さい。わが国もまた国土を割いて、清国に酬いましょう」、と。

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李自成

 ドルゴンは呉三桂の要請を受け入れ、自ら軍を率いて征服の途についた。「仁義の軍を率いて流賊を滅ぼす」という大義名分を得て、山海関内に導き入れられた清軍は、迎え撃った李自成軍に大勝し、北京に向けて進撃した。李自成は、形だけの皇帝即位式をあげたのも束の間、慌ただしく西に向けて北京を脱出せざるを得なかった。北京入城から40日という短い天下であった。李自成は翌年に農民の自警団によって殺害される。

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 呉三桂が崇禎帝の仇を討ち北京を回復するという噂を聞いて、これを歓迎せんものと待ち受けていた北京の人々の眼前に、5月2日現れたのは、見慣れぬ清の大軍と、それに従う辮髪【べんぱつ】にした呉三桂の軍隊であった。

 9月にはフリンちゃんが北京に入城し、皇帝として改めて即位式を行い、年号を順治と定め、北京への遷都を宣言、辮髪令が出された。辮髪はキン肉マンに出てくるラーメンマンのヘアスタイルなんで皆もよく知っていると思うけど、西洋人はこれをピッグテイル pig tail (豚の尻尾とは失礼な)と呼んだ。女真族固有のヘアスタイルだが、敵味方を区別するために、これを漢族にも強制した。漢族は抵抗したが、「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」と言われたように、従わない者は処刑された。

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珍円円

 では、呉三桂はなぜ異民族に中国を売り渡すようなことをしたのだろうか?いろいろ説はあるんだけど、実はたった一人の女のためだったんだ。その名を珍円円【ちんえんえん】という。蘇州の歌姫で絶世の美女と称せられた陳円円は、もともと崇禎帝のために皇后の父が買い求めたんだけど、皇帝の寵愛を受けないうちに呉三桂が見初めちゃった。陳円円は呉三桂の父親の屋敷に住んでいたが、北京が李自成軍に占領された際に、李自成の武将である劉宗敏に奪われてしまった。これを知った呉三桂は激怒して、態度を一変させ、清に投降して援軍を乞い、李自成軍に矛先を向けたという。同時代の詩人である呉偉業は「冠を衝く一怒は紅顔の為なり」(呉三桂の怒りは陳円円のためだ)と謡っている。

 清軍の北京入城の際に、呉三桂の父や家族らが李自成に殺されているが、その見返りとして呉三桂は平西王に封ぜられ、珍円円を伴って雲南に赴任した。まあ、漢族を裏切って女真族の支配に荷担したということだ。

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 30年ほど後に呉三桂は平南王の尚可喜【しょうかき】、靖南王の耿精忠【こうせいちゅう】らと三藩の乱を起こす。呉三桂は今度は辮髪を切って清を裏切ることになったのだが、かつて清を助けた呉三桂が今さら「反清復明」と叫んでも、「女のために清に荷担した奴が何言ってやがるんだ」と鼻でせせら笑われてしまう始末だ。反乱は9年に及んだが、自滅の形で失敗に終わった。

 陳円円は雲南の宮殿で自殺したとか、殺されたとか、あるいは裏切りを重ねる呉三桂に絶望して出家したなど、さまざまな風説が取りざたされている。

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【 2019/01/24 16:25 】

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世界史のミラクルワールドー満州の英雄・アイシンギョロ=ヌルハチ

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ヌルハチ

 清の太祖ヌルハチは女真族建州部のアイシンギョロ(漢字で愛新覚羅)氏の出身で1559年ヘトゥアラに生まれた。その出自については『満州実録』に次ぎのように書かれている。長白山の麓の湖で3人の天女の姉妹が水浴びをしていた時、鵲【かささぎ】の運んできた朱い果実が末の娘の喉にすべり込み、彼女は身籠もった。そして生まれた男の子、姓はアイシンギョロ、名はブクリ=ヨンションが、マンジュ(満州)の始祖である。何代か後のファンチャを経てその子孫のドゥドゥ=メンテムの時にヘトゥアラに居を構えた。メンテムの曾孫のフマンの6人の子供の4番目がギオチャンガの孫がヌルハチである、と。すごく高貴な生まれのように書かれているが、実際にはそんなに有力な家柄の出身ではなかったようだ。

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ヘトゥアラのヌルハチ像

 明は衛所制を通じて女真族を支配していたが、当時の女真族は4部に分かれており、部族ごとに辺境交易の勅書(交易許可証)を与えてい。しかし、16世紀になると辺境交易が活発化になり、交易権をめぐって部族相互が激しく争うようになり、騒乱の時代となった。ヌルハチもそうした時代の群雄の一人であったに過ぎない。ヌルハチが25歳の時にヌルハチの祖父と父が誤って明軍に殺され、これを機会にヌルハチは明からの代償として勅書30通を得て自立し、女真族の統一にいたる長い道程に踏み出していった。その時の彼の手勢はわずか100人程度。それが大帝国の基を築いていく。

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ヘトゥアラでの即位式(再現)

 ヌルハチはその後30年足らずで、海西女真など、他の女真の諸部族を次々と制圧して、1613年までにほぼ敵対勢力を討ち、女真族を統一。1616年正月、ヌルハチは貴族や重臣により、女真諸部族の長として「ゲンギュン=ハン(聡明なるハン)」の称号を贈られ、国号をアイシン、年号を天命と定めた。アイシンは彼らの言葉で「金」のことなんで、金国でいいんだけど、12世紀に完顔阿骨打の建てた金があるので、これと区別するため「後金」と呼んでいる。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラに置かれた。
 
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 これと前後して、ヌルハチは満州文字を作らせている。ヌルハチが国家機構を整備する上で文字が必要になったが、かつての女真文字はすでに使われなくなっていたからだ。写真は北京にあるチベット寺院の雍和宮本堂の扁額。一番右が満州文字で、モンゴル文字をもとにして作られた。一番左がそのモンゴル文字で、ともに縦書き。左から2番目はチベット文字だ。

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文殊菩薩

 ところで、満州って何だか知ってる?「マンジュ(=満州)」という言葉は文殊菩薩を意味するサンスクリット語の「マンジュシリ」から来ている。文殊菩薩信仰は、女真族のなかに深く広まっており、マンジュという言葉は聡明な者を意味した。「3人寄れば文殊の知恵」という諺があるよね。正確な時期は分からないけど、女真族は自らのことを満州と呼ぶようになったんだ。満州は地名だと思っている人が多いと思うけど、もともとは民族名だったんだよ。

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 あと、ヌルハチは八旗【はっき】と呼ばれる軍事制度を創設している。八旗は文字通り8種類の旗のもとに統率された軍団を指している。300人で1ニル(矢)、5ニルで1ジャラン(隊)、5ジャランで1グサ(旗)として編制されたんで、1旗は7,500人で構成される。だから、八旗は6万人の兵力になる。後にモンゴル八旗、漢人八旗も作られ、全24旗となった。

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瀋陽故宮 太政殿

 1618年、ヌルハチは従来の戦闘相手とはスケールの違う大敵、明との正面からの対決に乗り出すことになる。「七大恨」という7箇条を掲げて明に宣戦布告したヌルハチは、撫順【ぶじゅん】城を攻めて占領した。これに対し明は10数万の大軍を動員して巻き返しをはかり、4路に分けてヌルハチの本拠ヘトゥアラ城を目指した。ヘトゥアラの西北のサルホ山で両軍の主力は遭遇し、数にして半分くらいの後金軍が2日間の激戦の末に明軍を撃破した。1621年には、当時は遼東と言われていた遼河の東側全域(後の満州)を平定した。ヌルハチは遼陽、さらに1625年には瀋陽(満州国時代の奉天)に定め、盛京【せいけい】と称した。

 1626年、遼西地方に侵入して寧遠城を包囲したが、明の将軍・袁崇煥【えんすうかん】の守りに阻まれて失敗した。この時に活躍したのが明がイエズス会宣教師アダム=シャールに命じて造らせた大砲だった。この「神の福音を説く宣教師の作った大砲」は大いに威力を発揮し、ヌルハチの満州軍を破った。この戦いはヌルハチ最初にして最後の挫折と言えた。しかしこのまま引き下がると権威が失墜すると恐れ、ヌルハチは覚華島を攻撃したが、この戦いの最中に砲弾の破片で背中に傷を負い、1626年8月11日に没した。享年68であった。

 この前お話した通り、袁崇煥はその4年後に猜疑心の強い崇禎帝に謀反の疑いをかけられ処刑されてしまう。本当に崇禎帝は馬鹿だよね。

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【 2019/01/21 17:29 】

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世界史のミラクルワールドー賊が朕の屍を裂くにまかせよう・崇禎帝

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崇禎帝

 崇禎帝【すうていてい】は泰昌帝の第5子として生まれた。1627年に兄の天啓帝がわずか23歳で急死し、その男子がみな夭折していたため、翌年17歳で明の第17代皇帝となった。

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魏忠賢

 天啓帝の下で専横を振るった宦官が魏忠賢【ぎちゅうけん】だった。魏忠賢が何をしたかは、宦官の記事を読んでね。崇禎帝即位の2カ月後に魏忠賢はいっきに失脚。罪を糾弾され、逮捕されると知り首を吊って自殺。遺体は磔【はりつけ】にされ、首は晒し者にされた。

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 崇禎帝が抜擢したのが名臣として名高い徐光啓【じょこうけい】だ。この絵は世界史の教科書にも載っていたと思うけど、右が徐光啓、左が初めて中国にやって来たイエズス会士のマテオ=リッチだ。徐光啓はマテオの教えを受け、洗礼を受けてキリスト教徒になった。

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 当時、崇禎帝が日食の観測を誤ったとして天文台の役人を罰しようとしたところ、徐光啓は「これは郭守敬【かくしゅけい】の暦法による誤りである。元の時代にすでに、日食があるべき時に日食にならなかったことがあった。今日、天文台の観測が誤っても怪しむに足らない。暦法を修正しなければならないのである」と諫言した。そこで、崇禎帝は正確な暦の作成に力を入れることにした。後日、アダム=シャールが徐光啓の協力を得て完成させたのが、『崇禎暦書』だ。徐光啓はその他にも、『幾何原本』を漢訳したり、『農政全書』を編纂するなど、文化的功績を多く残した。

 話が逸れてしまったけど、崇禎帝は水利や綿作など農政に通じた徐光啓を用いて財政再建を図るなど、国政改革に取り組んだ。
当時は北に満州族の後金が進入し、南では農民の反乱が多発した、まさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。

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袁崇煥

 崇禎帝は天啓帝らと違い、政治に熱心であり、王朝最後の皇帝にありがちな色事にふけるようなこともなく、倹約を心がけていた。しかし、たった一つだけ欠点があった。それは、猜疑心が強く、臣下を信用できない悪癖を持っていたとういうことだ。即位直後から重臣を次々と誅殺してまわり、特に山海関で女真族からの防衛を一手に引き受けていた感のあった名将袁崇煥【えんすうかん】を誅殺したことは致命的となった。在位17年の間に、崇禎帝によって誅殺された重臣は総督7名、巡撫(省長)11名に上り、その他罷免された者も多数おり、このことが重臣達の著しい士気の低下を招くこととなった。

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李自成

 そんな中、農民反乱の指導者にのし上がったのが李自成【りじせい】であった。李自成は陝西のかなり裕福な里長戸に生まれたが、逃亡した里内の農民の賦役を連帯責任で負担させられて没落し、やむなく駅率(明は駅站と呼ばれる駅伝制度を敷いていた。駅卒はその労働者)となった。ところがリストラによって駅伝が廃止されて失業してしまう。1627・1628年に陝西で起きた大旱魃をきっかけに反乱が頻発し、李自成もそれに参加し、各地を転戦した。

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 「貴賤)にかかわらず田を均【ひと】しくし、3年間の徴税を免じ、百姓を殺さぬ」というスローガンと厳正な軍規により農民の支持を集め、李自成の率いる軍は一気に数10万の軍勢に膨れ上がり、1641年には洛陽を陥落させた。1644年、ついに西安に入った李自成は、国号を順(大順)とし、大順王を称した。

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 1644年2月、李自成軍は北京を目指して北伐を開始した。崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るが、その討伐軍を組織するため増税を行ったことにより、窮迫した民衆が李自成軍に加わる、という悪循環に陥ってしまい、3月19日に北京はついに陥落した。

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 前夜から、崇禎帝は3人の息子たちを紫禁城から脱出させ、側室と娘たちを自ら手にかけて殺害し、周皇后の自害を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官はすべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。兄の時代に専横を働いた宦官を殺して安定を図った崇禎帝が、死に際してアテにできたのは宦官一人というのは何とも皮肉なことだ。

 娘の長平公主を斬る時は、そなたはどうして皇帝の女に生まれてしまったのか!」と泣いたという。しかし、泣きながら振るった刀が急所をそれたため、公主は左腕に傷を負ったのみで一命をとりとめ、王承恩の機転で紫禁城を抜け出した。ここにいたって崇禎帝は紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。享年34歳。白衣に記された遺書には、「賊が朕の屍【しかばね】を裂くにまかせよう、ただし百姓万民を一人たりとも傷つけるなかれ」とあった。

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明思宗崇祯皇帝殉国处

 崇禎帝は少なくとも彼なりに国のことを案じて大変な努力をしていた。しかし、その猜疑心により全てが裏目に出て自滅してしまった。滅亡寸前の明朝の国力を回復させるために、国政改革に身を投じたものの、万暦帝らの悪政によって決定づけられた衰退の流れを止めることができず、最終的に痛ましい最期を遂げなければならなかった。不真面目な人間のほうが良かったのかも知れない。何とも哀れなことである。

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【 2019/01/18 16:02 】

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世界史のミラクルワールドー明の滅ぶは、実に神宗に滅ぶ・万暦帝

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万暦帝

 万暦帝【ばんれきてい】(神宗【しんそう】)は隆慶帝【りゅうけいてい】の第3子。隆慶帝が酒色に溺れ、享楽を求めた生活のため36歳で崩御し、1572年わずか10歳で即位した。当初は遺命によって張居正【ちょうきょせい】が政務を行い、さまざまな政治改革を実現した。

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張居正

 張居正は万暦帝の後見をめぐる政争に乗じ、それまで宰相であった高拱【こうきょう】を蹴落として、待望の宰相(主席大学士)の地位に就いた。彼は皇帝の師として万暦帝を厳しく教育し、自分の意のままに動かすとともに、国政刷新に乗り出した。内政では官吏の綱紀粛正・税法の改正・検地(土地測量)の実施・戸口調査の強化などを進めた。こうした努力の結果、財政状況は久方ぶりに好転した。張居正が政治を執っていた10数年に国庫に積み上げた金額が400万両と伝えられている。また、対外的には国境警備を強化してモンゴルの侵入(北虜)にほぼ終止符を打った。

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朝鮮の役

 1582年に張居正が死去すると、万暦帝は政治に興味を失い、張居正の厳しい指導のもと良き皇帝たらんと真面目に努力していた少年時代とは一転して、政務をサボタージュするようになった。鉱山開発や商税増徴などのために民衆の生活は困窮し(鉱・税の害)、各地に反乱や民衆暴動が起きた。また日本の豊臣秀吉が引き起こした朝鮮の役においては、宗主国として朝鮮を援助し、国内では寧夏のボハイの乱、播州の楊応龍の乱が起きた。朝鮮の役を含めて万暦の三大征と呼んでいる。これら同時期に行われた3つの大規模な軍事行動には多大な軍費が投じられ、実態は不詳ながら『明史』によれば、合計1,000万両を超えたとある。

 また、立太子問題から宮廷内の権力争いにからんで、東林・非東林の党争も激化して国力は急速に衰えた。

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万暦帝の地下宮殿

 国家にとって不可欠な出費を惜しんだ万暦帝であったが、私的な事柄には凄まじい贅沢をした。例えば鄭貴妃の子である福王を溺愛し、その結婚式のために30万両という金額を使っている。また、自らの墓である地下宮殿の建設に800万両をかけるなど、むしろ浪費に生き甲斐を見いだすようになった。

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明の十三陵

 地下宮殿は明の十三陵のうちの万暦帝の陵墓・定陵のことである。明の十三陵は天寿山にある明代の皇帝、皇后、皇貴妃と皇太子等の陵墓群のことで、永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。定陵は1583年から建設を開始され、6年の年月を費やして完成。万暦帝のほか孝端皇后,孝靖皇后も合葬されている。

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万暦赤絵

 万暦帝の時代は日本やメキシコの銀が大量に流入したことにより、経済界は好況に沸き、その影響で文化的には最盛期を迎えており、景徳鎮における万暦赤絵などの陶磁器の名品が生まれた。万暦帝はこのことに気を良くしていたのだろうが、明の衰退は明らかとなっており、明は万暦帝の死後20年余で滅びてしまう。これを『明史』は「明の滅亡は、実に神宗に滅ぶ」と評した。

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 定陵は 1956~58年にわたって発掘され,地下 27mの深さにある墓の内容が明らかにされた。中国最初の学術的古代皇帝陵墓発掘であったが、考古技術が未熟な中での発掘であったため、大量の文物破壊を招いた。そのため、これ以後、中国政府は21世紀の今日まで古代皇帝陵墓の発掘を許可していない。

 墓室は前中後左右の5つの室から成り,総面積は 1,195m2にも及ぶ巨大なもので,まさに地下宮殿と呼ぶにふさわしい。現在は人民を収奪した専制君主の贅沢のあかしとして公開されており、連日見学者で賑わっている。

 文化大革命初期の1966年8月24日、旧思想・旧文化破棄を掲げる紅衛兵らにより定陵で「批判会」が開かれ、紅衛兵の弾劾演説の後、保存されていた万暦帝の亡骸は孝端皇后・孝靖皇后の亡骸とともにガソリンをかけられ焼却された。なんとも哀れなことである。

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【 2019/01/15 12:44 】

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世界史のミラクルワールドーチンチンのない艦隊司令長官・鄭和

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鄭和

 馬三保、すなわち後の鄭和【ていわ】は、1371年に雲南省昆明に生まれた。先祖は元の時代に西域から雲南に移住したサイイド・アジャッルとされ、父の名は馬哈只【マハッジ】といった。姓の「馬」は予言者ムハンマドの子孫であることを示し、ハッジは聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称に由来している。まあ、要するに、鄭和はイスラーム教徒だということだ。

 鄭和が10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌1392年に雲南は滅亡。鄭和は捕らえられて去勢され、宦官として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された。 靖難の役で功績を挙げ、帝位を奪取した永楽帝より宦官の最高職である太監に任じられ、さらに鄭の姓を下賜された。

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 永楽帝は周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上、鄭和がその指揮官に抜擢された。彼がイスラーム教徒であったことが大きく関係していると思われる。1405年に始まった遠征は、永楽帝の治世中に6度に及び、対外拡張に消極的であった洪煕帝【こうきてい】はその中止を決定したものの、宣徳帝の時代に復活して第7回が行われた。前後30年近くに及ぶ大事業であった。

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 鄭和の南海遠征は「西洋下り」と呼ばれ、第1回(1405~07年)の航海では大船62隻、乗組員総数27,800名余りからなる大艦隊が、現在の上海付近の劉家港【りゅうかこう】から船出し、チャンパ、ジャワ、スマトラからマラッカ海峡を経て、インド西岸のカリカットに至って、帰国した。鄭和は大男で、身長180センチ、腰回り100センチあったというから、プロレスラーみたいな体格だ。でも、チンチンがないから声が甲高い。その甲高い声で、「野郎ども、出発するわよ!」って号令をかけた様子を想像すると、吹き出しそうになる。

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 鄭和艦隊は世界史上でも類いまれな大木造船からなる艦隊だった。艦隊の中心は大型艦船60余隻であったが、大型艦船だけでの航海は不可能だから、その周囲に100隻程度の小船が配され全体では200余隻の艦隊からなっていたとと考えるのが自然だ。これだけの大船団を迎えたほうはびっくり。明に「朝貢に来い」、と言われれば、すぐ「はい」となるよね。

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 艦隊の中核となった巨艦は、「宝船【ほうせん】」と呼ばれる横幅の広い安定した船で、「西洋宝船」、「西洋取宝船」などとも呼ばれた。その意味は「宝を取ってくる船」であり、各地の支配者に「皇帝からの贈り物」として与える諸貨物、各地の支配者から皇帝に献上された貨物などが搭載されたことからきていた。宝船は動きの鈍い巨艦であったが、大量の武器も装備されて軍事的能力も兼ね備えており、少なくとも400~500人、場合によっては1,000人に近い乗組員が乗り込んでいたのではないかと推測されている。『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、重量8000t、マスト9本であり、小さく見積もれば、長さは約61.2m、重量1170t、マスト6本という巨艦とも言われている。手前の小さい船がコロンブスの乗ったサンタ=マリア号だけど、長さ23mしかなくてミニチュアに見える。

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 これが、2010年に南京で復元された宝船。復元された宝船は全長71.1メートル、排水量1600トン、上から順に第二甲板、主甲板、舳と船尾の楼の甲板、操縦室甲板、操縦室天上板と合計5層からなり、マスト6本に帆6枚、メインマストは高さ38メートル。写っている人間と比較すれば、どんなに大きいか分かるよね。


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 第1回から第3回までの航海は、いずれもカリカットを目的地としており、インド西岸以西にゆくことはなかった。第4回(1413~15年)の航海では、マラッカ海峡を通って本隊はインド西岸からペルシア湾岸のホルムズに至り、別働隊はアフリカ東岸のマリンディにまで至り、アラビア半島のアデンなどを通って中国に帰った。

その84年後にマリンディにやって来たのがヴァスコ=ダ=ガマだ。彼は喜望峰を迂回してやっとの思いでマリンディに至り、ここでアラブ人の水先案内人を雇ってインドのカリカットに到達する。この時乗っていた船が100トンほど、170人の乗組員で出発したが、航海を終えてリスボンに帰ってきた時は44人だった。乗組員の多くがビタミンCの欠乏が原因の壊血病に倒れた。ところが、鄭和の艦隊で壊血病で死んだ者は一人もいない。船上でモヤシを栽培してビタミンを補っていたからだ。

 そんなに優れた航海技術を持っていたのなら、マリンディから喜望峰を迂回してヨーロッパにゆくことも可能だったはずだ。でも、鄭和の艦隊はヨーロッパに行ってはいない。なぜ?。ヴァスコ=ダ=ガマは香辛料を手に入れたくて、未熟な航海術で必死こいてインドを目指した。でも、鄭和はヨーロッパに興味も関心もなかったからだ。

 イギリスの作家ギャヴィン・メンジーズは2002年に刊行した『1421:中国が新大陸を発見した年』で、鄭和艦隊がコロンブスよりも以前にアメリカ大陸に到達し、マゼランよりも以前に世界周航を成し遂げたと主張した。この書籍は世界各国でベストセラーになったが、残念ながら歴史学者からは偽史とみなされている。


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 また、第5回航海の時は、ホルムズからライオンや豹、ブラワから駝鳥【だちょう】、モガディシオから縞馬【しまうま】などの珍しい動物を連れ帰っている。特に永楽帝を喜ばせたのはアデンから贈られたキリンだった。この動物は日本でもキリンと呼んでるけど、英語名は古代アラビアの呼称で「速く走るもの」を意味する言葉に由来するとされるジラフで、世界的にはこの名で呼んでいる。これをキリンと呼んでいるのは日本と韓国・朝鮮だけだ。


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 これが、中国で言う本来のキリン、漢字で麒麟だ。そう、皆さんご存じのキリンビールのロゴマークだ。麒麟は王が仁のある政治を行う時に現れる、伝説上の神聖な生き物。鄭和が永楽帝に献上する際に、ジラフを麒麟として紹介した。現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」が、伝説上の動物「麒麟」の音に似ていたことから、これが本物の麒麟だとして珍重された。それが日本や朝鮮半島にも伝わったわけだが、現在の中国では「長頸鹿」と呼んでいる。

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南京市牛首山の鄭和の墓

 鄭和の航海は、中国のプレゼンスを南シナ海・インド洋の各地域に示し、明への朝貢を促すことで明の国威を発揚するのが目的だった。朝貢貿易は明にとって経済的負担は大きいのだが、60にも及ぶ国々から朝貢使節がやって来れば、国民の目から見れば永楽帝は素晴らしい皇帝だという評価になる。前回書いた通り、永楽帝には簒奪者の負い目があり、それが南海遠征に繋がったと僕は思うけど、どうだろうか。

 靖難の変の際に南京から脱出した建文帝が南海に逃げたという噂があり、建文帝に生きていてもらっちゃ困る永楽帝が、その捜索・殺害を命じたんだという説がある。まあ、話としては面白いけど、たった一人の人間を捜索するのに27,800人は多すぎるよね。

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【 2019/01/11 17:29 】

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世界史のミラクルワールドー簒奪者の負い目・永楽帝

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朱棣(永楽帝)

 洪武帝の子供たちのうち、最も有能で武勇に優れていると評価されていたのは、第4子の燕王朱棣【しゅてい】である。元の大都時代の雰囲気を残す当時の北平(北京)は、モンゴル人、女真人、西域の人々の雑居する国際都市であった。21歳で北平に赴いた彼は、そこで一流の武将たちに鍛えられながら、対モンゴルの軍事演習に日を過ごした。燕王は兄の晋王と協力して数回にわたりモンゴルと交戦して勝利を収め、父の洪武帝をして「朕に北顧の憂いなし」と言わしめた。

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建文帝

 一方、皇太子の長男・朱標【しゅひょう】は学者肌の温厚な人物であったが、1392年、洪武帝の生前に38歳で亡くなった。その後継者に誰を立てるべきか、その選定には5カ月ほど時間がかかった。というのも、朱標の子供たちのうちで最年長の允炆【いんぶん】は若年で神経質な性格、それに対し燕王の武勇とリーダーシップは衆目の認めるところであったからである。洪武帝自身、燕王を後継者にと考えたこともあったが、臣下の反対を受けて、結局允炆が後継者とされた。1398年、皇帝の継嗣問題が起こることを恐れながら洪武帝は死去し、允炆は16歳で帝位に就いた。これが建文帝である。建文帝は性格的にも、政治や軍事の過酷な指導は無理と考えられていたが、長子継承の原則を守ろうとする黃子澄【こうしちょう】や斉泰【せいたい】など側近や方孝孺【ほうこうじゅ】などの儒学者がその政治を支えた。

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 建文帝の直面した最大の難題は、兵権を握って各地に分封されている叔父たちの処遇であった。特に北平の燕王が政権に野心のあることは早くから取り沙汰されており、もし放置しておくならば、南京の政権にとって脅威となることが予想された。しかし、直接当たることはで出来なかったので、同じような諸王たちに対し、さまざまな口実を設けて諸王の封地の取りつぶし(削藩)にかかった。南京の建文帝と北平の燕王との緊張は高まってくる。

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 1399年、燕王の謀反準備を理由として逮捕命令が出されると、燕王は「君側の奸を除き、帝室の難を靖んじる」というスローガンのもとに挙兵した。自らを「靖難の師」と呼んだので、この戦いは「靖難の役」と言われた。燕王は直ちに北平を固め、軍隊を南下させたが、南京の建文帝政府も北伐の軍を起こし、両者の戦いは一進一退を重ねながら3年におよんだ。燕王が軍事的に優勢でありながら、苦戦したのは挙兵に「大義名分」が無く、皇帝に対する謀反人と見られていたからであった。1401年6月、燕王は南京を陥落させ、建文帝は宮殿に火を放って自殺したとされるが、その遺体は見つかっていない。

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方孝儒

 それまで燕王を簒奪者として非難していた廷臣の多くはきびすを返して燕王に即位を要請する有様だった。燕王はその要望に応えるというかたちで永楽帝として即位すると、前皇帝に仕えた廷臣にそのまま新帝にも仕えることを許し、多くの廷臣はそれに応じた。しかし、燕王から「君側の奸」と名指しされていた黃子澄と斉泰などは建文帝に殉じて自殺した。建文帝の宮廷に仕え、高名な儒学者であった方孝儒に対しては、永楽帝は強く帰順を勧め、即位の詔勅を書くよう要請した。方孝孺はようやく筆を執って数文字を書いたと思うとたちまち筆をなげうち「詔を書くことはできません」と大声を張り上げて泣き出してしまった。紙を拾い上げてみるとそこには「燕賊、位を簒【うば】う」と書いてあった。永楽帝は怒り心頭に発し、その一族、門人のすべて873人を彼の面前で処刑し、最後に方孝孺を南京城の聚宝門外に引き出して死刑を執行した。これは、簒奪者の上に残忍な暴君という汚名を上塗りする結果となった。

 こうして即位した永楽帝は、建文帝の存在を歴史上から抹殺し、自らを第2代皇帝とした。建文帝が第2代皇帝として認められ、名誉が回復されるのは、清の乾隆帝の時代、1736年のことであった。

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 1403年、北平への遷都を決定したが、実際に遷ったのは1421年のことであり、この時これを改名して北京順天府とするとともに、1406から改築を進めてきた紫禁城を完成させ、ここに移った。遷都後わずか4カ月後に、完成したばかりの新宮殿に落雷があり3つの建物が火災で焼失した。これは天の警告と受け取られ、南京へもどるか北京にとどまるかをめぐって官僚の間で激しい論争が行われた。

 永楽帝は建文帝を倒さないと自分が殺されていたんで、仕方ないと言えば仕方ないんだけど、自分が簒奪者であることを過剰に意識していた。これには孟子の易姓革命の理論が影響している。「彼は皇位を横から奪ったが、それは天の命じるところであった。だから、彼は立派な政治をした」。簒奪者たちは後世の人にそのように評価されたいと考え、意識して立派な政治を行う。唐の李世民もそうだったよね。

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 永楽帝はモンゴルやベトナムに遠征して領土を広げ、大帝国を作り上げた。彼は中国史上最高の軍人帝王と評価されている。漢人の皇帝としては中国史上でただ1人、自ら大軍を率いて5度もモンゴリアを親征し、第5回目の遠征の帰途、1424年に内モンゴルの幕営で65歳の生涯を閉じている。また、明の国威を誇示するために鄭和【ていわ】に南海遠征を行わせているけど、これは次回お話するね。

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 写真は永楽帝が1420年に建設した天壇【てんだん】。手前が圜丘壇【えんきゅうだん】で奥の建物が祈年殿【きねんでん】。圜丘壇は天円地方の宇宙観に則り円形で、欄干や階段などが陰陽思想でいう最大の陽数である9や、その倍数で構成されている。ここは皇帝が天を祭るための儀式を執り行う場所で、毎年冬至に豊作を祈る儀式を行い、雨が少ない年は雨乞いを行った。

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祈年殿内部

 「年」の本来の意味は「みのり」のことで、穀物の収穫サイクルを1年と考えたことで、時を意味するようになった。だから、「収穫を祈る」ということで、祈年殿では皇帝が正月に五穀豊穣の祈りを捧げた。祈年殿は直径32m、高さ38m、25本の柱に支えられる祭壇で現存する中国最大の祭壇。内部の金の装飾がある4本の柱は、四季をあらわしており、その外側にある12本の赤い柱は、12か月=1年を表している。つまり、この空間は、天そのものを表しているわけだ。ここに入れるのは皇帝ただ一人。永楽帝は家臣たちが居並ぶ中、一人で入って天に祈りを捧げた。自分は簒奪者ではない、天によって認められた正統な天子であることを、知らしめるためのパフォーマンスだった。

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 永楽帝は文化的にも大編纂事業を行わせ、『永楽大典』『四書大全』『五経大全』『性理大全』などを編纂させ、文淵閣に保存させた。『永楽大典』は中国最大級の類書(百科事典)で、22,877巻・目録60巻・11,095冊からなる。ただ、これは学問を重視したというよりも、儒学者が建文帝について議論するのを事前に封じる意図があったと言われている。

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 永楽帝は自らの簒奪を隠蔽するために恐怖政治を実施している。そのために、かつて建文帝の側近である宦官【かんがん】たちを内通させて宮廷内の事情を探り出した経緯から、東廠【とうしょう】という宦官による秘密警察組織を作った。さっき書いたように、南京が陥落した時そこには建文帝の遺体は無かったよね。脱出してどこかに逃れているのではないか? そんな不安に駆られた永楽帝は東廠を使って国民の動向を監視しするようになった。ただ、あまりにも宦官を重用したことが、あとからボディブローのように効いてくる。

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【 2019/01/08 08:03 】

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世界史のミラクルワールドー乞食坊主から皇帝に・朱元璋

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朱元璋

 朱元璋【しゅげんしょう】は天暦元年(1328)、安徽省の貧しい農家の6人兄弟の末っ子として生まれた。従兄弟も含めて8番目の子であったため、重八と名づけられた。元末の飢饉の中で重八以外の家族は餓死し、17歳の時に食うために出家して皇覚寺に入ったが、寺も食料が乏しく、乞食僧となって放浪しなければならなかった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。

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 1351年、朱元璋が24歳の時に紅巾の乱が起きた。紅巾の乱は河南省などの農民が白蓮教のリーダー韓山童【かんざんどう】を押し立てて反乱を起こしたことに始まる。反乱軍は紅色の頭巾をつけて目印にしたので「紅巾の賊」といわれた。首謀者の韓山童はまもなく捕らえられ殺されたが、その子韓林児【かんりんじ】が引き継ぎ、反乱はかえって全国に拡がって大勢力となり、各地に呼応する反乱が各地に起こった。

  白蓮教は12世紀の南宋に始まる仏教系の秘密結社だが、イランの宗教であるマニ教の影響も受けているようだ。半僧半俗で妻帯の教団幹部により、男女を分けない集会を開いたことから、当初から国家や既成教団からも異端視されていた。呪術を取り入れて布教し民衆に広がり、社会不安と結びつくのを恐れた権力側から厳しく取り締まられた。もともとは浄土系結社であったが、元末には貧民を弥勒【みろく】菩薩が救済してくれるという、弥勒下生【げしょう】を願う反体制集団へと変貌を遂げた。

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  写真が弥勒菩薩だ。弥勒菩薩というと京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏像の厳かな姿を思い浮かべる方が多いと思うが、中国では元代以降になると布袋【ほてい】さんの姿で表すようになった。布袋さんは弥勒菩薩の化身なんだそうだ。ちなみに、布袋さんが担いでいる袋があの堪忍袋なんだよ。知ってた?

 弥勒菩薩はお釈迦さまが救えなかった人々を救うために未来に出現する仏さんで、今は兜率天【とそつてん】で修行されており、娑婆世界に生まれて竜華樹下で悟りを開くとされている。それがいつのことかというと、なんと56億7000万年後なんだ。そんなに待ってられないというので、今すぐに娑婆に生まれて我々を救ってください、というのが弥勒下生信仰だ。救世主待望論的な要素が強いため、反体制集団に発展しやすく、明末にも大反乱を起こしている。

郭子興 
郭子興

 話を紅巾の乱に戻そう。反乱軍に身を投じた朱元璋は郭子興【かくしこう】という武将の部下となり頭角をあらわしていった。郭子興は朱元璋の面構えを大いに気に入り、その養女の馬氏を朱元璋に嫁がせた。これが後の馬皇后である。馬氏の実父は殺人罪を犯して行方不明になった男である。

 やがて郭子興が死に、軍を引き継いだ2人の息子も元との戦いで戦死(朱元璋による陰謀との説もある)してしまう。この2人の軍も吸収して軍勢を拡大した朱元璋は、ついに1356年に旧都・建康を占領、応天府と改称した(後の南京)。 1364年には呉王を称して紅巾軍と袂を分かち、地主や知識人階級と結んで農民反乱の鎮圧側にまわり、白蓮教の指導者韓林児をだまし、長江に沈めて殺害。1367年、元を討つための北伐を開始、1368に南京で即位して、国号を明とし、洪武帝(太祖)となった。
 
 こうして朱元璋は日々の食事にも事欠く貧農の家に生まれて、しかも幼時に孤児となり、どん底からはい上がって皇帝となった。農民出身の皇帝というと中国にはもう一人漢の高祖・劉邦がいる。日本だと豊臣秀吉だ。二人とも絶大な人気を誇るが、朱元璋は全く人気がない。どうしてだろうか?

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胡惟庸

 賎民同然の身分だった朱元璋は、自分の部下となった知識人たちに、激しいコンプレックスを抱いていた。これが大粛清に発展する。まず犠牲になったのが、功臣であり中書左丞相(宰相)であった胡惟庸【こようい】である。1380年、朝廷で専権を極め、洪武帝すらも凌駕する権力者と化した胡惟庸が、洪武帝暗殺を謀ったとして、謀反の罪で逮捕され、処刑された。これが、以後10年に及ぶ大粛清事件となった「胡惟庸の獄」の開始で、結局15,000人以上が犠牲となった。ちなみに、胡惟庸らが処刑された翌日に中書省が廃止され、六部が皇帝直轄になっているので、皇帝専政を強めるために捏造した一大疑獄事件であった可能性が大である。
 
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馬皇后

 馬皇后は女性としての本分を守り、決して政治に口出しせず、周囲に常に温容であったが、ある時、民の暮らし向きを夫に尋ねてたしなめられると、「陛下は天下の父、私は天下の母ゆえ、子の安否を問うのは当然です」と言い切った。自らの日常ではきわめて質素な生活に終始し、贅沢を敵視さえしたという。

 こんな話も残っている。馬皇后が病に倒れたとき、朱元璋の性格を嫌と言うほどに理解していた皇后は医者を寄せ付けず、治療を全く受けなかった。結果として皇后は死ぬわけだが、なぜ皇后が医者を寄せ付けなかったか?それは、医者の診断を受けて自分が死ねば、その医者は夫によって殺されると思ったからだ。馬皇后は今際の際【いまわのきわ】に述べた言葉は「天下の賢才を求めて臣下の諫言を容れて下さい。子孫が賢明で臣民が所を得るのが望みです」であった。享年51歳。

 朱元璋と馬皇后は非常に仲が良く、皇帝となった後の朱元璋に物申せる唯一の人間だったそうだ。しばしば臣下の処刑を食い止めた馬皇后が1382年に崩御すると、洪武帝の暴走を止められる者はいなくなった。皇帝専制に向けて、洪武帝はさらなる官僚・地主への弾圧を仕掛けていく。

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 1393年には、大将軍・涼国公の座にあった藍玉【らんぎょく】が謀反の罪で突然逮捕され、処刑された。これを機に大粛清となり、15,000人から30,000人が犠牲となった。(藍玉の獄)いずれの事件もほとんど取り調べが行われないまま、関係者が即時処断されている。
 
 また、洪武帝には消さなければならない過去があった。それは自分がかつて乞食坊主であったことだ。その過去を抹殺しようとして、僧侶を思わせる文字、「光」や「禿」を特に嫌い、それら文字を使うことを禁止した。うっかりそれらの字を使ってしまうと厳罰が与えられた(文字の獄)。例えば、「天に道あり」と書くと、「道」は「盗」と同音であるから、皇帝を「盗人」と謗っている。「光天の下、天は聖人を生じ、世の為に則を作す」と書くと、「光」とは「坊主」を指し、皇帝が僧侶だった経歴を謗っている。また「則」は「賊」と同音である。皇帝を「賊」だと謗っている、などと言って難癖をつけた。

 洪武帝は同じ農民出身である劉邦をかなり意識して政治を行っているが、劉邦が粛清した数は30,000人ほどだ。洪武帝が粛清した数は恐らく10万人は下らないだろう。スターリンには遠く及ばないけど、中国史上最大の大粛清だ。

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 これ誰か分かる?実はこれも洪武帝の肖像なんだ。最初にあげた肖像は、厳粛で端正な顔立ちで、いかにも儒教の理想とする帝王らしい威徳をそなえたものだけど、こっちのほうは、馬のようにあごが発達し、見るから醜悪な人相をしている。どっちが、本人に近いと思う?誰が考えても、この肖像が実像に近いだろうね。

 建国以来の功臣であっても容赦なく粛清した結果、頼れる者は自分の身内だけになってしまった。で、24人の息子(親王)を要地に配置して権力の浸透を図ったが、これが裏目に出てしまう。

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【 2019/01/05 05:48 】

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世界史のミラクルワールドーマルコ=ポーロはスパイ?

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 ご存じマルコ=ポーロ。『東方見聞録』の著者として知らない人はいない。

 彼は1254年にヴェネツィアで生まれたが、その前年から話を始めなければならない。父ニコロとその弟マフェオは貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着いた。ここに6年もいたが、政変が起こると予測した彼らは、財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、クリミアへと向かった。ここでキプチャク=ハン国のベルケ=ハンに会って宝石を贈り、2倍の値打ちの商品を受け取った。1年ほど滞在し帰ろうとしたが、戦争により交通路が危険になったことなどで東へと向かい、なんと元の都・大都まで行ってしまった。

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ポーロ兄弟に金牌を与えるフビライ

 フビライはポーロ兄弟が話すヨーロッパの様子に大いに興味を持った。そこで、ローマ教皇宛ての親書を二人に渡し、学芸に通じるキリスト教の学者100名と、イェルサレムのキリストの聖墓に灯されているランプの聖油を持参して戻るように命じた。

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 こうして二人はフビライの正式の使者となり、金の牌子【パイザ】を与えられた。牌子はモンゴルの交通網である駅伝制で使用された通行証のことである。二人はアジア大陸を西に向かいパレスチナまで来たが、ローマ教皇が亡くなり、新しい教皇はまだ決まっていないことを知った。これではフビライの親書を手渡せない。そこで、二人は新教皇が決まるまで待機するために、いったんヴェネツィアに帰ることにした。なんと15年ぶりの帰郷であった。ニコロを待っていたのは、自分の出発後に生まれ、今は15歳になったマルコだけであった。妻は帰らぬ夫を待ちわびて、すでに世を去っていた。

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出発するマルコ=ポーロ

 2年が過ぎても新しい教皇が決まらない。もう待てないと判断したニコロは、1271年、17歳になったマルコを連れてイェルサレムに向かい、聖墓のランプの聖油を少しもらい受けた。ここで、運良く新教皇が決まった。教皇にフビライの親書を渡し、フビライ宛ての親書ももらった。100人の学者を希望されたが、どだい無理なので、たった2人のドミニコ会修道士が同行することになった。でも、この二人は途中で怖じ気づいて逃げ帰ってしまう。

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 結局3人でイラクを経てペルシア湾入り口のホルムズに至った。ここからは船で中国を目指すつもりであったが、船があまりにもみすぼらしいので航海に不安を持ち、陸路に切り替える。それからは3年半におよぶ過酷な旅が彼らを待ち受けていた。

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フビライに謁見するマルコたち

 パミール高原を越え、タクラマカン砂漠南側の天山南路を通って、フビライの夏の都・上都に着いたのは1274年の夏だった。フビライは彼らが約束通り戻って来たことを喜び、聖油と教皇の親書を持参したことでひとまず満足した。マルコを一目見て気に入ったフビライは、マルコに側近として仕えるように命じた。世界史で習ったと思うけど、マルコ=ポーロも色目人【しきもくじん】の一人になったわけだ。結局、マルコは17年間も中国に滞在することになってしまう。この間、マルコは中国各地に派遣されて報告書を提出、フビライの好奇心を満足させた。

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フビライ

 やがて望郷の念から帰国を望み、なかなか許されなかったが、元の皇女コカチン姫がイル=ハン国に嫁ぐ際、3人も随行団の一員として帰国が認められた。(ハイドゥの乱で陸路はとれなかった)1292年、一行は泉州(ザイトン)を出航し、マラッカ海峡を通ってイル=ハン国に至り使命を果たした後、1295年にヴェネティアに帰った。結局、マルコの旅は24年間、全行程15,000kmにも及んだ。帰国してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられて捕虜となり、1299年に釈放されている。釈放後の生活については不明なところが多いが、1324年、妻と3人の娘を遺して病死したとされる。

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『東方見聞録』

 これで終わったら、マルコの名前が世界に知られることはなかった。ジェノヴァの獄中で、マルコは暇つぶしに東方で見聞きしたことを語った。これが評判になり、同囚であったピサの物語作家ルスティアーノが一冊の本にまとめたのが、『世界の記述(東方見聞録)』である。その内容があまりにももの珍しいため、初めは信じられず、マルコには「イル・ミリオーネ(百万男)」というあだ名がつけられた。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたというが、まあ「大風呂敷」といった意味合いだろう。

 ご存じの通り、この書の中でマルコは日本を「黄金の国ジパング」として紹介した。ジパングは中国南部の発音で「日本国」を「ji-pen-quo」と呼んでいたものが訛ったもので、もちろんJapanのもとになった。

  「ジパングは東海にあるお大きな島で、大陸から1,500マイルの距離にある。…この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。…この国王の宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ている。屋根は全部純金で葺いてあり、宮殿内の数ある各部屋の床も、全部が指2本幅の厚さをもつ純金で敷き詰められている。」

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 なんと大袈裟な、嘘ばっかり、と思われるかも知れないが、これはマルコが直接見たわけではなく、モンゴル人から聞いた話として書いたもので、マルコがそれを本当に信じていたかどうかは怪しい。黄金の宮殿というと、奥州平泉の中尊寺金色堂が思い浮かぶけど(金閣寺はまだ建立されていない)、これが中国に伝わり、日本は黄金の国であるという伝説が生まれていたのかも知れないね。

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アントワープで刊行された活版印刷版『東方見聞録』(1485年刊)

 実際に自分で見聞していないものに関しては問題もあるが、その後多くのヨーロッパ人がアジアへ旅行するにつれて、『東方見聞録』の記事の正確さが知られるに至った。これはコロンブスのアメリカ発見の機縁となり、またヘディンやスタインは、その中央アジア探検に、この書を座右から離したことがなかった。

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 ここで、一つ大きな問題がある。中国の史書『元史』や『新元史』には、マルコ=ポーロの名前がどこにも出て来ないのである。フビライのもとで重要な役を果たしていた人物がなぜ中国の史書に登場しないのか。マルコのほうも、いつ、どんな要件でどこへ行き、どんな重要情報をフビライに提供したのか、という点になると、牢獄では何も語らなかった。史書にも記載されず、自分も口外出来ない仕事と言えば、そう、スパイしか考えられない。マルコ=ポーロは江戸時代の公儀隠密のような仕事をしてたの、かもね。

 また、マルコ=ポーロは中国に行っていないとおっしゃる学者もいる。史料に名前が出て来ない他に、17年も中国にいたのに、当時の中国の普通の習慣である茶・纏足【てんそく】のこと、また万里の長城などについても触れていないことが理由だ。そうすると、『東方見聞録』は複数の旅行者の情報をマルコ=ポーロという名に託して作り上げたということになるが、やっぱりマルコ=ポーロが実在したとするほうがロマンがあっていいよね。

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【 2019/01/01 14:48 】

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