なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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前330年にアケメネス朝ペルシアを滅ぼしたアレクサンドロス大王は、さらに東方遠征を進め、ヒンドゥークシュ山脈の北のバクトリアとソグディアナを征服した。その後かれは南に向かい、3万の部隊を率いてインドに入り、前326年2月にインダス川を渡ってタクシラに入城した。タクシラ王は戦わずして軍門に降ったのである。続いてアレクサンドロスは土着勢力を服従させたり滅ぼしたりしながら、パンジャーブの東端近くにまで進軍した。インド軍の主力である象軍には、騎兵隊の敏捷な動きで対抗している。象の群れは騎兵隊の奇襲を受けて混乱し、味方の兵を踏みつけながら逃走した。
その頃、ガンジス川流域を支配していたのは、マガダ国のナンダ朝であった。ナンダ朝は巨富と軍事力によって近隣の諸国を倒し、ついにガンジス川の全流域を支配下に置いた。シュードラ出身とされるこの王朝は旧来の身分秩序を崩し、マウリヤ朝による帝国建設の露払いの役割を果たした。
チャンドラグプタ
前320年ころのマガダ国の辺境で兵を挙げたチャンドラグプタは、都のパータリプトラに攻め込んでナンダ朝を倒し、マウリヤ朝を創始した。彼はその後ただちに西方に進軍して、アレクサンドロスの死後の混乱状態にあったインダス川流域を併合し、さらにデカン方面へも征服軍を送った。ギリシア側の文献によると、チャンドラグプタの軍隊はナンダ朝の軍隊の約3倍、歩兵だけでも60万、騎兵は3万、象は9000、戦車は数千であったという。ここにインド史上初めて、ガンジス・インダス両大河の流域とデカンの一部を合わせた帝国が成立した。
チャンドラグプタはさらに、前305年ころアレクサンドロスの東方領の奪回を目指して侵入してきたセレウコスの軍を迎え撃ち、その進軍を阻んだ。そして、講和条約を結んで、500頭の象と交換に現在のアフガニスタン東部の地を獲得した。4年後にこの象の大部隊は、西アジアの覇権をかけたイプソスの戦いにおいて、セレウコスの勝利に貢献することになる。
また、この講和を機に、セレウコスの娘がマウリヤ朝の後宮に迎えられ、さらに使節の交換も行われた。この時インドに派遣された使節が『インド誌』の著者メガステネースであった。この世の生涯を永遠に輪廻転生する霊魂の一時的な通過期間とみたことから、インド人は歴史書をまったく残さなかった。歴史の記述に情熱を傾けた中国人とは対照的である。そのため、古代インドの歴史については不明な点が多かったのだが、『インド誌』の中でサンドロコットスと呼ばれている人物がチャンドラグプタに比定されたことにより、インドの歴史研究の幕が開けられた。
紀元前304年頃アショーカはマウリヤ朝第2代ビンドゥサーラ王の多数の王子の一人として生まれた。成年に達したアショーカはタキシラで起きた反乱を鎮圧して功績をあげ、父王の死で長兄らとの王位争いに勝って即位した。この時、99人の異母兄弟を殺したと言われる。即位後も暴虐な王として恐れられ、王の通った所はすべて焼き払われ草木が1本も生えていない、と言われるほどの暴君だったと伝えられている。
そんなアショーカ王にとって転機となったのが、即位8年に行われたデカン高原東北部のカリンガとの戦争だった。カリンガを征服したものの、両軍あわせて数十万の犠牲者を出すという、壮絶な戦いとなった。このことを悔いたアショーカ王は仏教に深く帰依し、征服戦争を放棄すると、仏教の理想を実現するための政策を行った。高校の世界史ではダルマ(法)を理想とする統治を行った、と習ったよね。
仏教に改宗したアショーカ王は、全土を仏塔で飾ろうと思い立ち、ブッダの没後に建てられた8つの仏塔のうちの7塔から仏舎利【ぶっしゃり】(ブッダの遺骨)を取り出して、新たに建立した8万4千の塔に分納した。仏教では「八万四千の法門」なんて言い方もするけど、84,000は「たくさん」という意味で、実際に84,000建てたという意味じゃないよ。
ついで、高僧に案内されてブッダの生涯に関係する聖跡を巡り、石柱や岩壁に法勅を刻んだ。玄奘は『大唐西域記』で、130以上のアショーカ王建立の塔について記しているが、全部がアショーカの塔であったとは考えられない。写真の左はブッダ生誕の地ルンビニーの石柱法勅、右はヴァイシャリーの石柱法勅。ほとんどの石柱法勅は倒壊してしまっており、ヴァイシャリーのものだけが唯一立った状態で残っている。
磨崖法勅は辺境地帯に造られたのでなかなか見ることができないが、平成18年にパキスタンのシャーバーズ・ガリのものをようやく写真におさめることが出来た。
第3回仏典結集の地クムラハールの遺跡
アショーカ王が仏教を大いに保護するのを見て、異教徒や不純な思想を抱く者たちが教団に入って来たため、正しい修行が出来なくなった。そこでアショーカ王は、長老のモッガリプッタを援助して異端的な僧侶を追放させている。教団を浄化したモッガリプッタは、1000人の高僧をパータリプトラの鶏園寺に集めて第3回の仏典結集【けつじゅう】を開催し、そこで確認されたブッダの正説を広めるため、アフガニスタン・シリア・エジプト・マケドニアなどに仏教伝道師を派遣したとされているが、残念ながらこれらの地域に仏教が広まることはなかった。
唯一伝道に成功したのがスリランカ。出家した王子マヒンダと4人の長老が派遣され、スリランカは上座部仏教の中心地となり、ここから東南アジアへと仏教が広まって行った。
アショーカ王は「全ての人民はわが子である」と宣し、民族・宗教・階級を超えて帝国の全構成員に接近しようと試みた。そして、人民を階級に分断するヴァルナ制度や、異民族を劣等視するアーリヤ至上主義は無視した。パレスチナのユダヤ教徒とイスラーム教徒の争い、シリアやイラクにおけるシーア派とスンナ派の争いなど、世界中で宗教の違いから来る紛争が続いているけど、そんな今こそアショーカ王の統治方法を見習ってもらいたいもんだ。
写真はアショーカ王がサールナートに建てた石柱法勅の柱頭部。世界史の授業で習ったよね。サールナートって覚えてるかな。そう、ブッダが初めて5人の修行者に説法した場所だったよね。これを初転法輪【しょてんぼうりん】という。車輪が転がるようにブッダの教えが弘まっていくということで、ブッダの説法を転法輪と言っていて、ライオンの足許の法輪(ダルマ・チャクラ)がそれを表している。
4頭背中合わせの獅子の彫刻は、ブッダの教えが四方に行き渡ることの象徴。ブッダの説法は獅子吼【ししく】とも言われるので、ライオンがそのシンボルだということだね。この柱東部は現在インドの国章として用いられており、10ルピー紙幣の左下にも描かれている
これはご存じインドの国旗だ。中央にある輪は、永遠の真理・正義を表現したものなんだけど、もちろん石柱法勅の法輪を写したものだ。ダルマによる統治というアショーカ王の理想が2200年後のインドで蘇ったということだ。
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父シッダールタと母トゥリシャラー
ヴァルダマーナは、ガンジス川中流域のヴァイシャーリー市近くのクンダプラに、クシャトリヤに属する豪族の子として生まれた。父親は高貴な氏族の族長シッダールタ、母親はヴァイシャーリー王の妹トゥリシャラーであった。両親ともジャイナ教の前身にあたるニガンタ派に帰依していた。生没年については前444年(中村元の説)など諸説あるが、仏教の開祖ガウタマ=シッダールタと同時代の人らしく、六師外道( 仏教の立場からみて異端とされた自由思想家)の一人とされ、ニガンタ=ナータプッタと呼ばれている。ナータプッタは「ナータ族の子」の意味で、彼がナータ族の出身であることから呼ばれた別名である。
ヴァルダマーナ
結婚して一人の娘をもうけるが、30歳の時に両親との死別に直面し出家。ニガンタ派の修行者の群れに入り、13カ月の瞑想を経てすべての衣服と履き物を捨てて裸形となった。12年間激しい苦行と瞑想にその身を捧げ、42歳の時にリジュクラ川の河畔ジュリンビカ村での修行を完成し、2日半にわたる瞑想のあとの夏の夜、ジュリンビカの沙羅樹(ブッダはこの樹の下で亡くなったんだったよね)の下で最高智に達して悟りを開いた。その後は、マガダ国の都ラージャグリハを中心に修行と教化の日々を送り、72歳で没したという。
悟りを開いたあと、ヴァルダマーナはジナ(煩悩に打ち勝った勝利者)、マハーヴィーラ(偉大な英雄)などの尊称で呼ばれた。ジャイナとは「ジナの教え」、またその教えの信者という意味である。ジャイナ教の伝承によれば、ジナはティールタンカラと呼ばれる24人の救済者(祖師)の最後の聖者であるという。つまり、彼は当時ニガンタ派の改革者とみられていたということで、ユダヤ教の改革者であるムハンマドと立場は同じだ。
イスラーム教でもアダムやノアなど25人の預言者がいて、ムハンマドを最後にして最大の預言者としている。写真はカルナータカ州にある聖地シュラヴァナ・ベルゴーラにある第2代祖師ゴーマテーシュヴァラの立像。高さ17.5メートルもある。不謹慎だけど、チンチンもさぞかし大きいんだろうなあ~。
ジナの教えはブッダの教えと重なるところが多いが、ジナも生きることを「苦」と考え、その苦から脱する道を求めた。彼によれば、その苦の原因は、霊魂が行為(カルマ・業)の結果に縛られて、地獄、畜生、人間、天界という迷いの世界の中で生死を繰り返すところにある。天界も安住の場所ではなく、そこに生まれた者もいずれ別の世界に墜ち、苦しみを味わうことになる。
その苦から脱するためには、世俗の束縛を断ち、出家して沙門となり、最高智を求め、また苦行によって霊魂を浄化せねばならない。完全に浄化された霊魂は、もはや輪廻転生(サンサーラ)することはないからである。これがジナの説く解脱の状態である。修行生活の最終段階では、あらゆる行為をやめて断食死することが理想とされた。今日でも老齢のジャイナ行者で、こうした死を選ぶ者は多い。
ジナの許には、彼に従って修行し解脱をえようとする者が集まり、ここにジャイナ教団が成立した。教団に入った者には、不殺生、真実語、不盗、不淫、無所有という五大戒律を厳守することが求められた。仏教の五戒は不殺生、不偸盗【ちゅうとう】、不邪淫・不妄語・不飲酒だから、不飲酒にかえて無所有が置かれている。
このうち無所有は衣服をまとうことの禁止にまで及んでおり、出家者とくに空衣派では写真のように一糸まとわないことを意味する。在家信者の場合は裸になる必要は無く、自ら設定した限度以上に得た財貨の全額を教団に寄付することが無所有の意味だ。この戒律はお寺にとっては最高だよね。いちいち寄付を頼まなくてもいいもんね。
ジャイナ教の不殺生のシンボルマーク
あと4つの戒律は仏教と同じなんだけど、ジャイナ教の不殺生(アヒンサー)は仏教よりも徹底していて、とにかく絶対に命を奪ってはいけない。だから、ジャイナ教徒は動物を絶対に殺さない。だから、肉はもちろん禁止だし、牛から乳を搾ることも、牛に対する暴力にあたるため、乳製品も一切食べない。また、卵を食べることも、卵から育つはずのニワトリを殺すことになるので駄目。まあ、結局植物しか食べないんだけど、ジャガイモ・レンコン・ゴボウなどの根菜は駄目。それを抜く時に虫を傷つけるからだそうで、なんせ徹底的にアヒンサーを貫き通す。
写真はジャイナ教の信者さん達だけど、みんなマスクしているよね。2009年に日本でも新型インフルエンザが大流行した時にみんなマスク着けてたけど、この人達はインフルエンザ対策じゃないし、埃対策でもない。なんと、羽虫などの空中の小さな生き物を誤って吸い込まないようにするためなんだ。
それから、このジャイナ教の坊さん達は手に箒【ほうき】みたいな物を持ってるよね。これ払子【ほっす】といって、僕ら仏教の坊さんも使うんだけど、僕らは形式的に使ってるに過ぎない。でもジャイナ教の坊さんにとっては必須アイテムだ。「出家者は路上の生物を踏まぬように箒を手にする」と書いてあることがあるけど、レレレのおじさんじゃあるまいし、道路の掃除はしない。椅子などに座る時にこれを使って椅子を入念に掃いて、椅子にいた虫の上に座って虫を殺すことがないようにするためのものなんだ。どう、この徹底ぶりは。
イエズス会宣教師がジャイナ教徒に顕微鏡で普段飲んでいる水を見せたところ、それを見たジャイナ教徒は飲み水に微生物があふれていることを知り、飲むよりは衰弱死を選んだという話も残っている。このアヒンサーの影響を強く受けたのが、インド独立の父マハトマ=ガンディーなんだ。
ジャイナ教の教団内部では、ジナの死後かなり早くから厳格派と寛容派の対立があった。伝説によると、北インドに大飢饉が発生した時、一部の行者は南に移って厳格主義を貫いたが、北に残った者たちは白衣を着るなど戒律を少し緩めたという。両派は1世紀のころ最終的に裸形【らぎょう】(空衣【くうえ】)派と白衣【びゃくえ】派という二大宗派に分裂した。
ジャイナ教はその後、インド亜大陸の各地に伝えられて根を下ろした。カーストとヴェーダの権威を否定した仏教とジャイナ教であったが、仏教は13世紀までに亜大陸からほぼ姿を消した。しかし禁欲的なジャイナ教団は庶民に支持され、医療や福祉などの社会活動を通じて民衆生活と密着していたため、独自の信仰集団としてイスラーム教徒支配時代にも生き延び、今日に至った。
アーディナータ寺院
ジャイナ教の在家信者は、彼らなりに不殺生戒を守っており、したがって小動物を殺す可能性のある農業や牧畜業を嫌い、多くは商業に従事してきた。ただし、交易商は荷車で虫などを殺す恐れがあるため好まれず、一般には小売商や金融業を営んだ。
今日ジャイナ教徒は、インド共和国人口の0.5%弱、450万人を数える。人口比率は小さいんだけど、インドのジャイナ教寺院はみんな超豪華に造られている。何故かというと、ジャイナ教徒の商人はインド全域の都市に住み、それぞれの地の実業界で大きな力を持っていて、お金持ちが多い。その上、さっきの無所有戒があるので、ぼんぼん寺院に寄付をするからなんだ。うちのお寺にもぼんぼん寄付して欲しいな~。
今日ジャイナ教徒は、インド共和国人口の0.5%弱、450万人を数える。人口比率は小さいんだけど、インドのジャイナ教寺院はみんな超豪華に造られている。何故かというと、ジャイナ教徒の商人はインド全域の都市に住み、それぞれの地の実業界で大きな力を持っていて、お金持ちが多い。その上、さっきの無所有戒があるので、ぼんぼん寺院に寄付をするからなんだ。うちのお寺にもぼんぼん寄付して欲しいな~。
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ブッダは姓をガウタマ、名をシッダールタという。日本で用いられるシャカはシャーキヤ族の聖者を意味する尊称シャーキヤムニの略称である。中村元先生の説では前463年の生まれだが、前563年生まれなど諸説ある。誕生日も諸説あるが、日本では4月8日とされ、花祭りが行われる。だが、非常に残念なことにイエスの誕生日クリスマスは盛大に行われているが、花祭りはほとんど行われておらず、日本人はいつからキリスト教徒になってしまったのだろうか。
まあ、愚痴はそこまでにしておいて。シッダールタは現在のネパール南部、ヒマラヤ山麓カピラヴァットゥのスッドーダナ王とマーヤー夫人の子として生まれた。
摩耶夫人像
お産のために実家に帰る途中、ルンビニーの苑で休息していたマーヤーは、アショーカ樹(無憂樹)の花があまりにも美しく咲いていたので、一枝折ろうとして右手を伸ばした。その時、シッダールタはマーヤーの右脇から「オギャ~」と、この世にお生まれになられた。写真を見てもらうと、摩耶夫人の右袖から赤ん坊が顔を出してるよね。偉大な方は普通には生まれない。イエスさまは処女懐胎だしね。
シッダールタは誕生してすぐに四方に7歩ずつ歩き、右手で天を、左手で地を指して、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言ったといのは有名な話だよね。もちろん後世の人がブッダがこの世に誕生された意義をわかりやすく人々に教えるために考えたエピソードなんだけど、なぜ脇から生まれたのか?
『リグ=ヴェーダ』
『リグ=ヴェーダ』では原人プルシャから人間が生まれたとし、4つのヴァルナが生まれた由来を次のように説明している。「その口はバラモンとなれり。その両腕はラージャニヤ(クシャトリヤ)となれり。その両腿からはヴァイシャ、その両足からはシュードラ生じたり」。ブッダはクシャトリヤだから、腕の付け根から生まれたという訳なんだ。
釈迦苦行像
シッダールタは生後7日にして母マーヤー夫人を失い叔母に育てられた。16歳でヤショーダーラーと結婚、ラーフラという男の子も生まれ、地位・物質・愛情に恵まれて何不自由ない生活を送っていたが、人間の老・病・死をみて無常観にとらわれ、29歳で出家した。極限まで自らを追い込んだ苦行の結果、シッダールタは立つことすら出来なくなってしまう。写真はパキスタンのラホール博物館にあるガンダーラ出土の釈迦苦行像だ。 眼は大きく落ちくぼみ、身はやせ細り、お腹の部分は木の空洞のように深くくぼんでしまっている。肋骨が一本一本浮き出ていて、血管が走り、腕はまるで枯れ枝のようになってしまってる。
ブッダガヤ スジャータ寺院の祠内部
あらゆる苦行も解決にならなかったので、シッダールタは苦行林を出て、セーナー村に行った。この時たまたま通りかかったのが村の娘スジャータから乳がゆの供養を受け、体力を回復する。
スジャータって、聞いたことある?「褐色の恋人スジャータ」のキャッチコピーで知られる、「めいらくグループ」が発売しているコーヒーフレッシュだ。社長さんが仏教に造詣が深くて、乳つながりで命名されたそうだ。
スジャータは古代インドの女性名で、“良い生い立ち、素性”を意味するそうだが、僕は世界史の授業で彼女をシュードラの娘として紹介していた。前回お話したけど、ヴァルナ制では穢れということを重視するので、階級の違うものが同じ場所で食事をしたり、階級の下位の者から食事を受け取ってはならない。シッダールタはもちろんクシャトリヤだから、シュードラの娘スジャータが差し出す乳がゆを受け取って食してはならない。だから、乳がゆを食べたということは、ヴァルナ制、つまりカーストを否定したということだ。人間はすべて平等である、という宣言であった。ブッダは『スッタニパータ』の中でこう言っている。「生まれによってバラモンとなるのではない。行いによってバラモンとなる」と。

乳がゆで体力を回復したシッダールタは、近くを流れるネーランジャラー河で身を清め、ブッダガヤの菩提樹の下で座禅して瞑想すること1週間。一切の苦悩を解消し、最高の真理を得て解脱に達し、成道【じょうどう】にいたってブッダ(目覚めた人の意味)の自覚を持った。35歳の時であったとされる。
ヴァーラナシー(ベナレス)郊外のサールナートで5人の修行者を相手に初めての説法を行い、ここに仏教教団が誕生した。サールナートはアショーカ王のところでもう一度出てくるので覚えておいてね。
クシナガラ涅槃堂の涅槃像
それから45年間、ガンジス川中流域を中心に遍歴修行をしながら布教活動を行い、クシナガラの地で入滅(死亡)する。80年の生涯であった。この時、ブッダは頭を北、顔を西に向けて亡くなられた。そこから北枕は遺体を安置する時に限り、普段北枕で寝るのは縁起が悪いとされるようになった。でも、インドではヒマラヤの方角、つまり北を枕にして寝ることは当たり前のことなんで、ただの迷信だから気にしなくていいよ。
ブッダは人間の絶対平等を説きカーストを否定した。しかし、そのためにインド社会から一旦は消滅してしまう。その代わり、アジアに広まり世界宗教となった。その逆の歴史を歩んだのが次回お話するジャイナ教だ。(ブッダの教えについては省略しました)
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インドの身分制度として知られるカースト制度だが、これはもとからインドにあった言葉ではない。15世紀末にインドにやってきたポルトガル人が、インド人の間に特異な身分制度があることに気づき、これをcasta(カスタ)と呼んだのが起源とされる。カスタとは「血統」のことである。カーストに対応するインド在来の概念としてはヴァルナとジャーティがあるのだが、ポルトガル人はこれを同一視してカーストと呼んだ。
左 アーリヤ人 右 ドラヴィダ人
ヴァルナは日本では「種姓【しゅせい】」と訳されるが、サンスクリット語で「色」を表す言葉で、肌の色による差別体系のことを指す。もともとは白色系人種であるアーリヤ人がインド西北部に侵攻してきた 際にインドの先住民族であるドラヴィダ人等の有色人種と自らを区別するために作り上げた制度だ。アーリヤ人がガンジス川流域に進出した頃には、先住民との混血も進み、肌の色と身分・階級との対応関係はほとんど無くなったが、ヴァルナという語はそれ以後も、身分・階級の意味に用いられ続け、4つの階級を生み出した。世界史の授業で習った、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの4階級である。
バラモン
第1のバラモンはヴェーダの聖句に備わる呪術的な力「ブラフマン」を持つ者、つまりヴェーダ聖典を伝持し、ヴェーダの祭祀を執り行う者を意味しており、司祭階層のことだ。原語はブラーフマナで、漢訳仏典では「婆羅門」と音写され、この漢字音のカタカナ表記がバラモンだ。
クシャトリヤ
第2のクシャトリヤは、クシャトラ(権力)を持つ者という意味で、戦士階層のこと。政治・軍事の職を独占し、バラモンとともに支配階層を形成した。写真はムンバイにあるシヴァージー像。17世紀にマラーター王国を建国した英雄だ。
これに対し前代の一般部族民ヴィシュは、上位の両ヴァルナから切り離され、生産と貢納を役割とする第3のヴァルナとなった。これがヴァイシャであるが、後世になると商人を意味するようになる。
これに対し前代の一般部族民ヴィシュは、上位の両ヴァルナから切り離され、生産と貢納を役割とする第3のヴァルナとなった。これがヴァイシャであるが、後世になると商人を意味するようになる。
ここまでの3ヴァルナはアーリヤあるいは再生族(ドヴィジャ)と称され、これらに属する男性は10歳前後に再生(二度目の誕生)のための入門式を挙げ、アーリヤ社会の一員としてヴェーダの祭式に参加する資格が与えられる。これに対して、再生の儀式を挙げることが出来ない一生族(エーカジャ)とされ、再生族から宗教上、社会上、経済上の様々な差別を受けたのが、第4のヴァルナである隷属民階層のシュードラである。アーリヤ人の支配下に置かれた先住民であるが、後には農耕民・牧畜民もシュードラとされ、上位3ヴァルナに奉仕する義務を持たされた。奴隷と混同されるが、奴隷とは異なり自分の家庭を持ち、僅かながら財産も所有している。
さらに、ヴァルナの枠外におかれ最も差別された不可触民がいる。英語に訳せばアンタッチャブル、その他チャンダーラ、アチュート、アウトカーストとも呼ばれ、不可触民は自分たちをダリットと呼ぶのを好んだ。ガンディーは「神の子」の意味でハリジャンと呼んだが、これはむしろカーストを認めることになるとして反対も多い。
不可触民
『ダルマ=スートラ(律法経)』には次のように定められている。「チャンダーラに触れるとき、かれらと言葉を交わしたとき、かれらを見たときには、穢【けが】れを受ける。その際には浄化儀礼をしなければならない。かれらに触れたときには全身の沐浴、言葉を交わしたときにはバラモンに話かけること、見たときには太陽、月などの光を見ることである」。
まさしく、触れてはいけない人々、不可触民なのである。こうした集団が生み出されたのは、後期ヴェーダ時代になって浄・不浄の観念が発達し、排泄、血、死などに関する行為や物が不浄視されるようになった結果、それらに関わる職業に従事していた人々が、不可触民の地位に落とされたのである。日本の部落問題と同じく作り出された被差別階級であった。
彼らには清掃、体刑執行、屍体処理などの仕事が割り当てられ、町や村に住むことを禁止された。後世の『マヌ法典』は彼らに対し、死者が身につけていた衣を着ること、壊れた食器と鉄の装身具のみを用いることなどを命じ、また夜間に町や村にはいることを禁じている。不可触民の存在は、ヴァイシャとシュードラにある種の優越感を持たせ、経済活動の担い手である彼らと支配階級との間に生ずる緊張関係を緩める効果をもっていた。これ以後、不可触民制は、ヴァルナ・カースト社会の安定的な維持に不可欠な装置として発達することになった。
後世、4ヴァルナに区分された社会の内部に、血縁や職業で結ばれた排他的な集団が生まれた。各集団はそれぞれ独自の職業を世襲的に伝えるとともに、結婚や食事なども集団内部でのみ行った。こうした集団をインドでは「生まれ(を同じくする集団)」を意味するジャーティという語で呼んだ。各ジャーティは4ヴァルナのいずれかに属し、不可触民の間にも多数のジャーティが存在し、その数は約3000あると言われる。一般的にカーストと呼んでいるのは、このジャーティのことである。
ジャーティがインドの社会秩序においてどのような地位を占めるかの基準は、人格や専門性などではなく、その職業をおこなうにあたっての接触する物体の浄・不浄の度合いによって決められているとされる。写真はムンバイの洗濯屋さんだが、洗濯人(ドービー)、汚物清掃人(バンギ)、皮なめし職人(チャマール)などは、不浄なものに触れやすいとして、特に低い地位におかれている。
アンベードカル
インドでは、1950年に制定されたインド憲法の17条に、不可触民を意味する差別用語は禁止、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記された。この憲法を起草したのがアンベードカル博士だ。
アンベードカルは不可触民の子として生まれ、刻苦勉励して、コロンビア大学とロンドン大学の博士号及び弁護士資格を取得した。インド独立後は法務大臣となり、憲法起草委員会委員長として
彼は不可触民差別の根源はヒンドゥー教にあるとして、1956年に数十万の不可触民とともに仏教に改宗している。
しかし、憲法で禁止されていながらも、カーストは無くなっていない。インドの新聞の日曜版には、子どもの結婚相手を募集する広告が、数ページにわたって掲載されている。写真を見てお分かりの通り、職業別・出身地別・宗教別とともにカースト別の広告があり、カースト間通婚禁止が今でも生きているのである。Caste No Bar と書かれ、カーストは気にしませんという広告もあるが、本音と建て前は違うようだ。あと、誇大広告が多いのでお見合いしてもなかなか上手くゆかず、インドの若者は何回もお見合いすることになる。
インドと言えばカレー。インド人はなぜカレーを手で食べるのだろうか?もちろん、今の時代インド人でもスプーンで食べる人はいる。でも多くのインド人は手で食べている。理由はいくつかあるようで、手で食べたほうが断然美味い。インドの米は粘りが無いので、カレーと米を手で捏ねて粘りを出すと美味い。それから、凄く熱い物を直接口に入れないので、口や胃に優しい。
そして、何と言っても手で食べたほうが安全だ。自分の前にこのスプーンを使った奴が下位カーストだったら、スプーンは穢れてしまっている。なんぼジョイで洗っても穢れは取れない。だったら、手で喰ったほうがいいということだ。そんなことを現在のインド人は考えていないかも知れないが、身体に染みついてしまってるんだろうね。
もう一つ、インド人の水の飲み方は変わっている。写真のようにペットボトルに口をつけずに飲む。僕も真似してみたけど、外にこぼれたりしてなかなか上手くいかない。これも穢れと関係あるのかもね。
人間の絶対平等を掲げ、カーストを否定したのが、次にお話するブッダだ。
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1786年、カルカッタ高等法院の判事であり、アジアの古代言語の研究者でもあったウィリアム=ジョーンズはベンガル・アジア協会における講演で、サンスクリット語がペルシア語・ギリシア語・ラテン語・ゲルマン語・スラヴ語などと親縁関係にあることを指摘した。インドで使われていたサンスクリット語とラテン語が親縁関係と言われても俄には信じられないと思う。だけど、サンスクリット語でお父さんはピーター、お母さんはマーター、兄弟はブラーター、これがラテン語だとそれぞれ、ペテル、マーテル、フラーテル、と語彙が似通っている。ウィリアム=ジョーンズはそれに気がついたわけだ。
これが一つのきっかけとなって諸言語の比較研究が盛んになり、19世紀に入るとジョーンズの指摘の正しいことが証明された。インド=ヨーロッパ語(印欧語)比較言語学の誕生である。
次に学者たちは、それらの言語の祖語の話されていた地、つまりインド=ヨーロッパ語の故郷の探検を始めた。そしてその探索は、動植物の単語で東西の諸言語に共通するものを拾い出すという作業によって進められた。その結果、スカンディナヴィア説、南ロシア説、カスピ海沿岸説などさまざまな説が出されている。
前2000年頃、インド=ヨーロッパ語に属する言語を話し遊牧生活を送る一団が、中央アジアに移住し、自らをアーリヤと称し優れた血統を誇った。アーリヤとは「高貴なる者」という意味である。そして、牧畜に適したこの地で人口を増加させるとともに、民族としての独自性を育んだ。
前1500年頃、そのアーリヤ人の一部が南下を開始し、ヒンドゥークシュ山脈(ヒンドゥークシュは「インド人殺し」の意味)を越えてインドに入った。移動の原因としては、人口の増加や気候の乾燥化による牧草地不足、部族間の抗争などが考えられる。
インド=アーリヤ人 イラン人
インドに入った者たちは、今日インド=アーリヤ人と呼ばれている。一方、中央アジアからイラン方面へのアーリヤ人の大規模な移動が、前1000年頃から始まった。彼らの自称「イラーン」は「アーリヤ」と語源が同じだ。僕には詳しいことは分からないけど、アーリヤ Arianaの母音が動いて、Iraan イランになったそうな。だから、アーリヤ人とイラン人はかなり近い親戚だ。だから、ゾロアスター教の神さまとヴェーダの神さまには共通するものが多い。写真のイラン人はみんなも知ってると思うけど、日本で活躍するサヘル=ローズさん。
アーリヤ人は前1500年頃カイバル峠を越えてインド西北のパンジャーブ地方に入った。彼らは先住民であるドラヴィダ人を「ダーサ」(やがて奴隷の意味になる)と呼び、騎馬戦士と戦車を使ってその多くを支配下においた。彼らはパンジャーブ地方で牧畜民の生活から農耕技術を身につけ、より肥沃な土地への移動をもとめたらしく、前1000年頃からガンジス川流域に移住し始め、農耕社会を形成していった。
この間のアーリヤ人の歴史は、神々への讃歌を集めた『リグ=ヴェーダ』から知ることが出来る。リグは「讃歌」を、ヴェーダは「(聖なる)知識」つまり「聖典」を意味している。このヴェーダの神々への信仰からバラモン教が生まれ、そこからヒンドゥー教が発展していく。
この中には遠く日本にまで伝わり信仰の対象となっているものも多いので、そのいくつかを紹介しょう。『リグ=ヴェーダ』 に収められた1,028の讃歌のうち、最も多くを捧げられているのは雷神かつ軍神のインドラで、全体の4分の1を占めている。全身茶褐色で,巨大なからだによって宇宙を圧し,2頭の名馬の引く戦車で天空を駆けめぐる。アーリヤ戦士の理想像として崇拝された。神酒ソーマで英気を養い,バジュラ (金剛杵【こんごうしょ】) で敵を粉砕する。
金剛杵は金剛(ダイヤモンド)で出来ていて雷を操る。日本でも真言宗や天台宗などの密教の坊さんが儀式で使っている。もちろん雷は操れない。
このインドラが 仏法の守護神となって日本に入ると、帝釈天【たいしゃくてん】あるいは釈提桓因【しゃくだいかんにん】と呼ばれるようになる。帝釈天というとフーテンの寅さんの口上にも出てくるよね。「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」。この帝釈天は柴又の題経寺に祀られていて、江戸時代から大変な信仰を集めた。
インドラの次に多くの讃歌を捧げられているのは火神アグニで、祭火として、また火中に投ぜられた供物を天上に運ぶ神、敵の城塞を焼き払う神として崇拝された。赤色の体に炎の衣を纏い、二面二臂で七枚の舌を持つ姿で描かれる事が多い。仏教では火天と呼ばれる。
死者の国の神ヤマ。ヤマの王国は後世には地獄を指すようになるが、『リグ=ヴェーダ』の段階では、善良な人がおもむく楽園とされている。
ヤマは日本ではもちろん閻魔大王だ。ちなみに、地獄のことをナラカと言うんだけど、「奈落の底」というのはここから来ている。その他に、サラヴァスティーは知恵と弁舌と財宝の神である弁財天として知られている。また、さきほどの火神アグニである火天・太陽神スーリヤは日天・風神ヴァーユは風天・律法神ヴァルナは水天……等々とされ、世界守護・徐災招福の「十二天」に属する神々として信仰されている。
韋駄天
なお、この「○○天」という「天」はサンスクリット語の「デーヴァ」に相当し、「神」つまりインド伝来の神を意味する。「天」がついているというと、毘沙門天や持国天などの四天王が有名だよね。あと、烏賊天・海老天・牛蒡天。まあ、これは冗談だけど、韋駄天【いだてん】って知ってるかな?ブッダが入滅した時に、その遺骨(仏舎利【ぶっしゃり】を盗んだ捷疾鬼【しょうしつき】を追いかけて取り返したというので、足の速い神とされ、足の速い人のたとえにされる。2019年のNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」のタイトルにもなってるよね。
ちなみに、韋駄天がブッダのために方々を駆け巡って食物を集めたとの俗信に由来して、御馳走【ごちそう】という言葉が生まれたんだよ、知ってた?
ヴェーダの祭祀の中心である火に供物を捧げる儀式はホーマと呼ばれるが、これもまた仏教とともにわが国に伝来し、真言密教の「護摩【ごま】」となった。
クンビーラ神
先住民の信仰と関係するものとしては蛇(ナーガ)崇拝があり、わが国の竜王・竜神信仰はここに起源の一つをもっている。香川県の琴平町に祀られている金比羅【こんぴら】は、ガンジス川のワニ(クンビーラ)に由来する竜神なんだよ。これも知ってた?なんせ、日本の神さまにはインド出身の神さまが多いということだ。
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1921年、植民地インド政庁の考古調査局の一員であったインド人考古学者サハニが、パンジャーブ地方のハラッパーにおいて、青銅器時代の都市遺跡を発見した。こうした大発見はえてして続発するものであり、翌22年には同じ考古調査局のインド人学者バネルジーが、約600キロ西南方の「死者の丘」を意味するモエンジョ=ダーロ(モヘンジョ=ダロ)で、クシャーナ時代の仏塔を調査中に、ハラッパーのものとよく似た都市遺跡を掘り出した。
両遺跡の発見に驚いた考古調査局では、さっそく局長のマーシャルが指揮を執り、1924年からモエンジョ=ダーロの大規模な発掘を行った。前2600年ころ興ったこの都市文明は、中心地域を流れる大河の名をとってインダス文明と呼ばれ、また最初に発見された遺跡の名にちなんでハラッパー文明と呼ばれる。
両遺跡の発見に驚いた考古調査局では、さっそく局長のマーシャルが指揮を執り、1924年からモエンジョ=ダーロの大規模な発掘を行った。前2600年ころ興ったこの都市文明は、中心地域を流れる大河の名をとってインダス文明と呼ばれ、また最初に発見された遺跡の名にちなんでハラッパー文明と呼ばれる。
謎その1 インダス文明にはなぜ神殿がないのか?
モエンジョ=ダーロの都市は、最初の段階から一定の計画に基づいて建設されている。都市の西北地区には、泥レンガの基台の上に築かれた城塞部と呼ばれる小高い丘があり、ここに大浴場、穀物倉、集会堂などの公共の建物が集中している。だが、メソポタミアやエジプトと違い大規模な宮殿・神殿・王墓・王像・戦勝記念碑などは存在しない。大浴場(写真の手前にあるプール状の遺構)は焼レンガ造りの立派なもので、タテ・ヨコ12×7メートル、深さ2.5メートルあり、南北に階段がつけられている。水は隣接する部屋の井戸から汲み上げられ、使用済みの水は排水口から流し出された。ここは恐らく宗教的な沐浴【もくよく】の場であった。沐浴は水に浸かって穢れを取り除くことで、日本でも禊【みそ】ぎというのがある。
ヒンドゥー教徒は今でも沐浴を重視していて、インド観光で必ず訪れるのがヴァーラーナシー(昔のベナレス)のガンジス川での沐浴見学だ。1995年に制作された映画『深い河』では秋吉久美の沐浴シーンが話題になったよね。インド人は5000年も前から沐浴する習慣があり、今でも続いているわけだ。モエンジョ=ダーロには神殿がないから、恐らく沐浴場が神殿の代わりを務めていたんだろうね。
排水溝
謎その2 水洗トイレがあったって本当?
市街地には、直角に交わる大小の道路が通じており、それらの道路の多くは焼レンガで舗装されている。道路で区切られた各ブロックには、焼レンガ造りの住宅が並んでいるが、侵入者に対する警戒心からか、戸口は大通りにではなく小路に向かって開かれている。各家には浴室と給水・廃水の施設を供え、使用された水は小路の排水溝を通って大通りの溝に流れ込むようになっており、清掃用のマンホールもあった。腰掛け式のトイレと汚物の沈殿槽も見つかっているが、排水溝が整備されていることから「水洗式トイレ」と考えられる。僕の家のトイレが水洗になったのは40年程前で、それまでは汲み取り式だった。今から4000年も前のインダス文明では100%水洗化が実現されてたなんて、驚きだよね。

謎その3インダス川流域ではないのにインダス文明?
インダス文明というとモエンジョ=ダーロとハラッパーが断トツ有名だけど、1990年代にその存在が明らかになったドラーヴィーラー遺跡は、それまでの古代文明観に一石を投じた。それは、この文明がインダス文明に属していると考えられるにもかかわらず、地図を見ておわかりの通りインダス川から300キロほど離れており、そこから河水をひいた形成はないことである。つまり、古代文明は大河の流域に出現したという常識に反していたのである。
じゃあ、どうやって水を確保したのか?遺跡の中で目立つのが都市を取り囲むように造営されている多くの貯水槽だ。この貯水槽は近くの枯れ川とつながっている。この枯れ川はモンスーン(雨期)になると水量の多い川になる。そこから水を引いて貯水槽に溜めて乾期に備えたと考えられる。つまり、この文明は大河でなくモンスーンがもたらしたものだったんだ。
メヘルガル遺跡出土のテラコッタ
謎その4 インダス文明の起源は?
インダス文明の起源については西方文明の影響が指摘されてはいるが、詳しいことはわかっていない。しかし、最近イラン高原とインダス平原の境界地域にあるメヘルガル遺跡の調査で、前7000年頃にさかのぼる農耕文化が存在していることが明らかになってきた。メヘルガルでは小麦・大麦の栽培、羊・山羊・牛の飼育を始めており、金属器も使用、さらに前3000年頃には印章、男女のテラコッタ像など原ハラッパー文化のものと言えるような遺物が出土している。ところが、この地の集落は前2500年頃突然放棄されてしまう。ということは、イラン高原東端部で集落を築いていた人々が、なんらかの事情で東方の平原地帯に移り、都市文明を誕生させたということになる。この農耕文化とインダス文明の連続性を示すものとして双方の遺跡、遺物に見られる牛の崇拝があげられている。
謎その5 インダス文字は何語?
写真は都市遺跡から出土した凍石製の印章。恐らく商人が帳簿の押印に用いたり、財産や商品に泥で封をしたあとの押印に用いたんだろう。押印は呪術的な行為であるため、印章の面には牡牛、象、虎など神聖視される動物や神像らしきものが彫られている。牛を神聖視することは現代まで続いており、インドでは牛が大事にされてるので、街中牛だらけで、うっかり歩いていると牛のウンチを踏んでしまう。そして、これらの動物と一緒に象形文字が刻まれいるが、これがインダス文字だ。文字の種類は全部で400程あるが、残念ながらまだ解読されていない。なんせテキストが印章のような短文がほとんどで、最も長いものでもわずか27文字しかない。文字の配列をコンピューター処理するなどしてドラヴィダ系らしいというところまでは分かってきたようだ。
踊り子像
謎その6 インダス文明を築いた民族は?
インダス文明を築いた人々がどのような民族であったかは、文字が解読出来ていないので正確なことは分からない。だけど、モエンジョ=ダーロ出土の「踊り子像」の唇が厚く、はれぼったい目をしていることから、イラン南部に住んでいたドラヴィダ語系民族だろうと推察されている。
インダス文明を築いた人々がどのような民族であったかは、文字が解読出来ていないので正確なことは分からない。だけど、モエンジョ=ダーロ出土の「踊り子像」の唇が厚く、はれぼったい目をしていることから、イラン南部に住んでいたドラヴィダ語系民族だろうと推察されている。
タミル人
ドラヴィダ語系民族は現在は南インドに居住し、全インドの5分の1を占めている。その言語であるドラヴィダ語はインド=ヨーロッパ語族にも、南アジア語族にも属さない。西方からインドに移住し、先住民を征服してインダス文明を築いたと考えられている。しかし、前1500年頃に西北からインドに入ってきたアーリヤ人に押され南インドに追われ、南インドでサータヴァーハナ朝、チョーラ朝、パーンディヤ朝など、独自の文化を持つ国家を展開させた。現在、南インドのタミル人のタミル語はドラヴィダ語を継承しており、彼らはアーリヤ系インド人とは異なるドラヴィダ系インド人として残っている。
謎その7 インダス文明はなぜ滅びたのか?
以前はアーリヤ人の侵入説が有力であったが、年代測定法が発達したことにより、アーリヤ人の侵入と都市文明の終末との間に200年以上の開きがあるとわかり、現在ではほぼ否定されている。それに代わるインダス文明衰退の原因については、大洪水、地殻の隆起による大氾濫、主要河川の流路変更に文明衰退の原因を求める説が出た。しかし、文明圏は広大なので全体が影響を受けることは考えられないし、被害にあった住民がなぜ移住して新しい都市を造らなかったのか、文明圏からすべての都市が消えたのは何故か、という疑問が残る。
気候の乾燥化と塩害(地中の塩分の増加による肥沃土の低下)とが重なって、農業生産の減退がもたらされたとする説もある。乾燥化の原因としては過度の放牧や焼レンガ製造のための樹木伐採があげられ、人為的な自然破壊が文明を消滅させたとして、自然環境保護の運動家から支持されている。しかし、これにも異論がある。メソポタミアとの貿易の衰退が都市の衰退をもたらしたとする説もあるが、それが都市の消滅をもたらすほど致命的だとも考えられない。
まあ、結局都市文明消滅の決定的な原因は現在のところ不明である。そんなんでいいんかい?いインダス。

謎その8 インダスって何?
ところでインダスの意味をご存知だろうか?これがラテン語になるとIndusだ。でも、この川はもともとはサンスクリット語で単に「大きな川」という意味のShindhu(シンドゥ)で呼ばれていた。それをこの地にやって来た西方の連中が地名と勘違いし、インダス川下流域をシンドゥと呼んだ。だから、教科書の地図を見てもらうと、モエンジョ=ダーロがある場所はシンド地方になってるよね。やがてSがとれてHindhu(ヒンドゥ)となり、さらにHがとれてIndhu(インド)になった。だから、シンドもインダスもヒンドゥーもインドも同じ意味で、もともとは川のことなんだけど、地名となったというわけだ。
ちなみに、インドの正式名称はサンスクリット語で「バーラト・ガナラージャ」で、インドではないんだ。『マハーバーラタ』はバーラタ族間の戦いを描いた叙事詩だけど、インド人はそのバーラタ族の子孫を自認していて、「バーラタ族の国」という意味で自分たちの国を呼んでいる。知ってた?インドではインドのことをインドと言わないなんて、インド人もびっくりだね。
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チベット仏教は大乗仏教がチベット固有の土着宗教であるボン教という呪術的な宗教と融合して独自に発達したものである。以前はラマ教と呼ぶ場合が多かったが、「仏教の堕落した形態」とか、「民間信仰の混淆したもの」というニュアンスがあり、偏見に満ちた蔑称なので使うべきではない。
7世紀にチベットを統一した吐蕃【とばん】で国教とされていたが、13世紀にモンゴルのフビライによって征服されてからは元の宮廷によって保護された。フビライの国師となったのが、サキャ派の指導者パスパで、彼がチベット文字をもとに作成したのが写真のパスパ文字である。
ツォンカパ
15世紀初めにツォンカパがチベット仏教の改革を行った。それまでのチベット仏教はボン教の要素が強く、呪術的な現世利益を求めるものであったのに対し、戒律を厳しくし仏教本来の倫理性を強めた。
この教派は戒律を守っていることを示すために、写真のように黄色い帽子を被っていることから、黄帽派(ゲルグ派)と言われた。これ帽子と言ってるけど、坊さんが帽子を被るということはないと思うので、僕ら日本の坊さんが被っている燕尾【えんび】と同じ性格の物だと思う。この黄帽派に対して従来のチベット仏教を紅帽派、ボン教の呪術を続けているのを黒帽派と呼んでいる。
16世紀にモンゴル高原で再び勢力を持つようになったモンゴル人の中のタタール部を率いたアルタン=ハンは、黄帽派の僧ソナム=ギャムツォに深く帰依し、彼にダライ=ラマの称号を与えた。
ダライはモンゴル語で「広大な海」、ラマはチベット語で「師」を意味する。ゲルグ派の宗祖ツォンカパの弟子を1世としたので、ソナム=ギャムツォは最初のダライ=ラマなんだけど、ダライ=ラマ3世とされている。ゲルグ派では妻帯が禁止されているので、ダライ=ラマは転生と言って先代が死んだ時に生まれた者の中から選ばれて継承され、現在は写真のダライ=ラマ14世である。
どうやって次のダライ=ラマを決めるのかというと、ダライ=ラマが没すると、その遺言や遺体の状況などを元に僧たちによって次のダライ=ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。その場所に行って子どもを探し、誕生時の特徴や幼少時の癖などを元にして、その予言に合致する子どもを候補者に選ぶ。その上でその候補者が本当の化身かどうかを前世の記憶を試して調査する。例えば、先代ゆかりの品物とそうでない品物を同時に見せて、ダライ=ラマの持ち物に愛着を示した時、あるいはその持ち物で先代が行っていたことと同様の癖を行ったりした場合に、その子どもがダライ=ラマの生まれ変わりと認定される。
ダライ=ラマ14世も4歳の時にダライ=ラマとして認定され、1940年に即位した。写真はその時のもので、 まだあどけない少年だ。
17世紀中頃のダライ=ラマ5世の時には高僧でありながら同時に政治的統治者でもある地位を占めるようになり、ラサにポタラ宮殿を建造してそこに住むようになった。何でポタラ宮殿というのか知ってる?実はダライ=ラマは観音菩薩の化身とされてるんだけど、観音菩薩の住む聖地をサンスクリット語でポータラカと言って、これのチベット訛りがポタラだ。ポタラ宮殿は観音菩薩の住む聖地ということだね。
ところで、写真は「日光見るまで結構言うな」で知られる日光東照宮だよね。実はこの日光も観音菩薩の住む聖地なんだ。ポータラカを漢字で補陀落【ふだらく】と表記したんだけど、これが訛って二荒【ふたら】、これを音読して「にこう」、ついで別の字が当てられて「日光」となった。
その証拠に日光東照宮のお隣に「二荒山神社」がある。昔は二社共通の拝観券があったんだけど、喧嘩でもしたのか、現在は共通券はない。
チベット仏教のNO1がダライ=ラマなら、NO2がパンチェン=ラマ。チベット第2の都市シガツィエのタルシンポ寺(写真)の高僧で、こちらは阿弥陀如来の化身とされており、もっぱら信仰上の指導者として崇拝されてきた。NO1が菩薩の化身で、NO2が如来の化身だというのは、なんか逆転してるみたいだけどね。パンチェン=ラマも、ダライ=ラマと同じように不死不滅の活仏として転生を繰り返しており、現在は11世なのだが、実はここに大きな問題がある。
そのパンチェン=ラマ10世が1989年に53歳という若さで急死したのである。暗殺されたという話もあるが、ご覧の通りかなりのメタボであり、心筋梗塞か脳梗塞による急死と考えられる。死因はまあともかく、6年後の1995年5月、ニマという当時6歳の少年が、ダライ=ラマ14世により、その生まれ変わりと認定された。ところが、その3日後にニマ少年は何者かによって誘拐され、今もって行方不明なのである。
同じ年の11月に中国政府がノルブ少年をパンチェン=ラマ11世と認定したことで、誘拐犯は明白である。現在北京で教育を受けているノルブ少年(もう29歳だから少年じゃないか)は、この後、中国政府の意向に添いながらチベットに君臨するのだろうが、卑劣な中国共産党には心底腹が立つ。

そんなこともあり、2014年9月、ダライ=ラマ14世は「私はもう生まれ変わらない」と宣言した。だから、14世が亡くなったら、チベット人の心の拠り所であるダライ=ラマはいなくなってしまう。
※チベットは現在、中国共産党による不当な支配を受けている。本来なら中国史に入れるべきではないが、諸般の事情により近世中国史として扱った。
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乾隆帝
雍正帝は1735年に在位13年で亡くなり、第4子弘暦【こうれき】が跡を継いだ。最盛期の清朝を統治したのが第6代乾隆帝【けんりゅうてい】である。雍正帝の精力が主に内政に集中されたのに対し、乾隆帝の時代は再び外征に力が注がれた。
彼は晩年、自らを「十全老人」と称したが、これは彼がその治世に10回の戦争を行い、それにすべて勝利したことを自賛したものである。彼の言う「十全の武功」とは、①1754年のジュンガル部出征、②58年のジュンガル部への再征、③59年のウイグル族征服、④49年の苗【ミャオ】族制圧、⑤76年の苗族への再征、⑥69年のビルマ遠征、⑦88年の台湾の反乱の鎮定、⑧89年のベトナムの服属、⑨90年のネパールの征討、⑩92年のネパールへの再征、の10回の軍事行動を言う。ところがこの10回とも乾隆帝は一度も出陣していない。自ら軍隊を率いて出征した康煕帝とはだいぶちがっていた。またこのうち実質的な勝利といえるのは①②③、つまり後年の新疆【しんきょう】省設置につながる戦役くらいで、その他は人命と莫大な戦費を費やしながら勝利とは言えない、実質を伴わないものだった。それでも現在の中国が領土権を主張する範囲は全てこの時の大清帝国の領土に入っている。
清では3年に1度、八旗兵を総動員した閲兵式【えっぺいしき】、軍事演習が行われた。この行事に招いた藩部・属国の代表に清の勢力の偉大さを見せつける目的もあった。上の図は即位4年目の1739年、完全武装で閲兵式に向かう29歳の乾隆帝の姿を描いたものだ。威風堂々と馬を進ませる乾隆帝の自信に満ちあふれた表情をよくとらえている。
鎧には黄色の地に竜など瑞祥を示す多くの模様が施されているが、描かれている竜は5本の爪と2本の角を持っている。5本爪の竜は皇帝しか用いることは出来ない。また、黄色は皇帝のシンボルカラー。だから、庶民が黄色の衣服を着ることは厳しく制限されていた。あっ、そう言えば、紫禁城の瓦も黄色だよね。
カスティリオーネ
この絵を描いたのがイタリア出身のイエズス会士カスティリオーネ、中国名は郎世寧【ろうせいねい】だ。1724年雍正帝はキリスト教を禁止し、宣教師をマカオに追放したが、北京の宮廷にいる宣教師は引き続き仕えることができたので、カスティリオーネも残り、1766年に北京で亡くなっている。
カスティリオーネと言えば円明園【えんめいえん】の設計に加わったことでも知られてるよね。円明園はフランスのヴェルサイユ宮殿を範としたバロック式庭園として建造され、中国最初の噴水を持つ庭園として貴重な文化財となった。しかし、1860アロー戦争の時、北京を攻撃したイギリス・フランス軍が北京を占領した際、跡形もなく焼き払われた。両軍兵士は略奪の痕跡を消すために火をつけたというから非道い話だ。円明園は長い間廃墟として放置されててきたが、最近はイギリス・フランス軍の蛮行の歴史的な記録として破壊された状態のまま整備され、公開されている。
また、乾隆帝は詩作を好み、生涯の詩作10万首と言われるが、学問も非常に大切にし、学者を総動員して大部の書物を編纂させた。中でも圧巻は『四庫全書』である。全国の書物を提出させ、4部門(経書・史書・諸子・文集)に分類して筆写したもので、紀昀【きいん】をはじめ360余人の学者が編纂に当たり、10年の歳月を費やして完成させた。なんと全部で79,070巻、230万ページ、36,382冊もあり、文字数にして10億字という、気の遠くなるような分量だ。これを7部作らせたんだけど、印刷じゃないよ、全部手書き。ただ残念なことに、太平天国や義和団事件などの戦乱によって失われたものが多い。
四庫全書編纂のために全国から書籍を集めたとき、江南地方からの提出が少なかった。明朝の基盤であった地域なので、反清朝の文言のある書物が多いためではないかと疑った乾隆帝は、さらに強く書物の提供を命じた。その結果、多数の反清朝の言辞や文言が見つかり、それらはすべて焼き捨てた。ということは、『四庫全書』編纂の目的には、反満州人、反清朝の書物を探し出し、取り締まるという文字の獄につながる目的もあったということだ。
ヘシェン(和珅)
これらの軍事的・文化的な成功により康煕・雍正・乾隆の三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。乾隆帝は1796年、在位60年で祖父康煕帝の在位を越えるのをはばかって嘉慶帝【かけいてい】に譲位したが、太上皇帝としての訓政3年を加えると63年となり、中国史上最も長期間君臨した皇帝となった。その一方で退廃の芽生えもあった。乾隆帝は奸臣のヘシェン(和珅)を重用し続けた。
ヘシェンは宮廷で乾隆帝の輿【こし】の担ぎ手として仕えた際に、その好男子ぶりが皇帝の目に留まり、スピード出世を果たした。1776年には軍機大臣に任ぜられ,爾来20余年その地位にあった。その間多くの要職を兼ね,乾隆帝の娘を息子の嫁に迎え、貪欲な収賄を続け、官界を汚職の巷【ちまた】と化した。1799年乾隆帝が死ぬと直ちに罪を問われ,自殺させられた。在職中多額の賄賂をむさぼり取り,没収された財産は8億両にのぼったという。なんと国家予算の15年分だ。当時、「和珅がころんで嘉慶帝が腹一杯」という民謡がはやったんだってさ。 中国では2015年に周永康が汚職で失脚してるけど、昔から汚職天国だったんだ。
写真は「国よりも豪邸」と言われたヘシェンの邸宅跡。この豪邸は当時「和第」と呼ばれていたが、1851年、咸豊帝【かんぽうてい】の弟にあたる恭親王奕訢【えききん】が持ち主となりその時に名が「恭王府」と改められた。
「恭王府」内部
恭王府の敷地面積は約3.1万㎡。な、な、なんと、9,400坪だよ。これが全部賄賂で造られたんだから、嫌になりますね。
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