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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー3本足のカラス・高句麗

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朱蒙

 高句麗(コグリョ)は中国東北部から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の貊【はく】人により鴨緑江流域に建国された。朝鮮最古の歴史書『三国史記』によると、朱蒙【チュモン】(東明聖王)が前37年に建国したとされる。朱蒙の父は天帝の子・解慕漱【カイボソ】、母は河神の娘・柳花【ユファ】。柳花が日光に感じて朱蒙を生み、夫餘【ふよ】王に養われた。朱蒙は「弓の達人」という意味。弓馬の術に優れていたので、夫餘の王子たちに嫌われて南方に逃れ、高句麗を建国したという。

 もちろんこれは神話であるが、史実としての高句麗の政治的な結集はこれよりも早い。前1世紀の中ごろ、漢の置いた4郡の一つ玄菟【げんと】郡が衰えたことによって、高句麗が自立したと考えられている。

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 部族連合国家であった高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われて、209年、鴨緑江流域に移り、その北岸に丸都【がんと】城を築いた。これが実質的な建国である。中国が三国時代の分裂期にはいると勢力を強め、4世紀初頭、楽浪郡・帯方郡を占領した。しかしその跡、鮮卑族の前燕の侵略を受けて丸都城が陥落、さらに成長著しい百済との戦いで国王が戦死するなど、苦難の時代を迎えた。

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広開土王

 391年に第19代国王として18歳で即位したのが広開土王である。39歳という若さで亡くなるが、次の長寿王の治世と併せて100年間が高句麗の全盛期となった。広開土王の諱【いみな】は談徳【タムドク】。正式な称号は国岡上広開土境平安好太王で、略して広開土王と呼んでいる。領土を拡大した王という意味であるが、昔日本では好太王という言い方をした。しかし、これでは美称だけの略称になってしまうので、使わない方が良い。

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 広開土王と言えば、有名な広開土王碑だ。この碑は広開土王の死の2年後の414年に長寿王によって建立され、中国吉林【きつりん】省集安市に現存している。碑石は四角柱の角礫凝灰石【かくれきぎょうかいせき】で、高さ6.3メートル、幅1.3~1.9メートル。碑文の字数は総計1775字で、文字の大きさは平均12センチメートル平方。1880年に発見され、84年に日本陸軍の砲兵大尉・酒匂景信【さかわかげあき】がその拓本を入手し、参謀本部で解読したが、この碑文の倭関係記事の改竄【かいざん】、異なった解読、釈文、欠字推定などの問題が提起されている。

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 さて、この碑文で最も重要なのが戦争の記録である。即位4年後の395年、契丹族の稗麗【ひれい】に親征。396年は王が百済に親征して、治世最大の戦果をあげた。398年、軍隊を遣わして粛慎【しゅくしん】族を討った。399年、新羅の要請で倭人の撃退策をねった。翌400年、新羅救援軍を遣わし、倭人と安羅【あら】人を撃った。404年、王は親征して倭と海上で戦った。407年、兵を遣わして、たぶん百済と戦った。最後は410年、東夫餘に親征した。

 さて、ここで問題となるのが、「辛卯【しんぼう】年条」のうち、欠損により判読できない記述のある、「倭以辛卯年来渡〔海〕破百残■■新羅以為臣民」の19字である。■は欠損部分、〔海〕も風化が進んでいて、「海」と読む人と、読めないという人がいて決着がつかない。

 韓国・北朝鮮の学会の異説はあるが、「倭が辛卯年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった」という日本学会の通説が 正しいと僕は思う。素直に読めば、それ以外の読み方は出来ない。また、帝国陸軍による改竄説については、酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見されており、偽造・改竄は完全に否定されている。

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 ところで、韓国のテレビドラマ『朱蒙』をご覧になった方はご存じだと思うけど、写真は高句麗のシンボルマークの三足烏【さんぞくう、サムジョゴ】。中国神話に登場する烏で、太陽に住むとされ、太陽を象徴している。高句麗では天孫の象徴であるとされ、古墳壁画などにも描かれている。

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 この絵は「日神・乗鳳凰図」。中央の円の中にカラスがいるよね。足の数を数えてみて。はい、ちゃんと3本あるよね。サムジョゴだ。

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 実はこの3本足のカラスは日本にもいる。写真は熊野本宮大社の提灯に描かれた三足烏。これを八咫烏【やたがらす】と言って、熊野大神に仕える神として信仰され、熊野のシンボルになっている。咫は長さの単位で18㎝のこと。8咫は144㎝になるけど、ここでは単に「大きい」という意味で使っている。

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 日本神話では、神武天皇御東征の際に、高御産巣日神【たかみむすびのかみ】によって八咫烏が神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和の橿原【かしはら】まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。知ってるとは思うけど、神武天皇は日本の初代天皇。橿原宮で辛酉年1月1日に即位した。この日を現在の暦になおすと、前660年2月11日。これが「建国記念の日」になったわけだが、「建国記念日」じゃないから、要注意。前660年はまだ縄文時代で、天皇がいるはずがない。あくまでも神話なので、この日に日本が建国されたわけじゃない。だから、「建国を記念する日」にしてるんだ。

 ちなみに、池井戸潤の小説『下町ロケット』にも「ヤタガラス」が登場するよね。帝国重工宇宙航空部が進める「スターダスト計画」の宇宙開発ロケットの名前だ。
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 もっと他にも八咫烏がいるんだけど、みんな気がついてるかな?そう、日本サッカー協会(JFA)のエンブレムにも八咫烏がデザインされている。JFAのホームページには、「三本足の烏は、日の神=太陽を表しています。光が輝いて四方八方を照らし、球を押さえているのは私たち日本のサッカー界を統制・指導することを意味しています。」と書かれている。

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 ところで、2018年12月20日、日本の排他的経済水域 (EEZ) 内の能登半島沖で、海上自衛隊のP-1哨戒機が韓国の駆逐艦から火器管制レーダーの照射を受けて問題になっていることは知ってるよね。この駆逐艦の名前がクァンゲト・デワンだ。これ広開土大王という意味なんだよ、知ってた?照射したことは明らかなのに、韓国政府は「やってない」としらばっくれている。ええ加減にせーや。

※朱蒙と広開土王の肖像は、韓国テレビドラマから拝借しました。

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【 2019/03/31 08:26 】

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世界史のミラクルワールドー仏さんの首切ったのだ~れ?・アユタヤ朝

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 タイ原産の猫はタイ猫じゃなくて、シャム猫と呼んでるけど、タイ人のことを昔はシャム人と言った。タイ人は今タイに住んでるけど、もとからタイに住んでいたわけじゃない。もともとは中国の四川地方や雲南地方に住んでいたんだ。それが、13世紀にモンゴルの南下に押されてインドシナ半島に移住し、先住民と同化しながら定住したとされる。

  はじめカンボジア(真臘)のアンコール朝に従属していたが、1257年ごろにスコータイを都としてスコータイ朝を起こした。スコータイは「幸福の夜明け」の意味だ。

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ラーマカムヘーン王

 第3代国王がラーマカムヘーン王。「ラーマのような強者」の意味で、ラーマはもちろん『ラーマーヤナ』の主人公ラーマのことで、理想の君主を意味する。その業績からタイ史上最高の王(タイ3大王)の1人に数えられ、大王(マハーラート)の尊称で呼ばれ、2013年から発行されている20バーツ紙幣の裏面にその肖像が使用
されている。

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 彼の最大の功績は1283年に、カンボジアの文字をもとに独自のタイ文字をつくったことだ。また、王はスリランカの大寺派仏教に深く帰依し、上座部仏教を立国の精神に掲げた。王は民衆に仏教の教えを説くことともに、自身も寄進を行い、僧侶たちの説法にも耳を傾けた。こうした仏教の保護事業は、スコータイ以後のタイの諸王朝にも引き継がれた。

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 しかし、スコータイ朝は1351年に南のアユタヤにアユタヤ朝が起こると次第に衰退し、15世紀には地方政権として存続するだけとなった。

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ラーマーティボーディー1世

 アユタヤ朝の建国者ウートンは即位してラーマーティボーディー1世を名乗った。チャオプラヤ川下流のアユタヤは水上交通の要衝である。米・獣皮・象牙・綿花・香辛料などの輸出を盛んに行い、チャオプラヤ川に面した港からバンコク湾にでて南シナ海からベンガル湾を通じてインドと、さらに中国とも交易を行った。典型的な港市国家である。また、上座部仏教を保護し、都のアユタヤをはじめ各地に仏教寺院が建設された。

 1432年に東のアンコール朝を壊滅させ、1438年には北方のスコータイ朝を併合して強大となり、16世紀からはポルトガルとの交易も始まった。さらに、17世紀中頃までに、オランダ、フランスも加えてさかんに貿易が行われ、1680年代には親フランス政策をとりルイ14世の宮廷に使節を派遣している。

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日本人傭兵隊

 アユタヤは国際商業の中心地として栄え、日本人町も建設された。アユタヤ日本人町は14世紀頃に始まったと思われるが、日本の戦国時代には主君を失った浪人が流れてくるようになり、急激な膨張がみられるようになった。この傾向が特に強くなるのが関ヶ原の戦い、大坂の役などの後である。

 当時ビルマのタウングー朝からの軍事的圧力に悩まされていたアユタヤは、このような実戦経験豊富な日本人兵を傭兵として雇い入れることでこれを阻止しようとしたねらいがあり、これが浪人のアユタヤ流入を生んだ。この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、政治的にも大きな力を持つようになった。

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日本人町跡

 このような軍事的背景とは別に日本は朱印船貿易により、貿易面においてもアユタヤ日本人町は発展を遂げ、アユタヤ日本人町の人口は8000人程と考えられている。

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山田仁左衛門長政

 タイで活躍した日本人として知られているのが山田長政である。長政は駿河の人で、沼津藩の駕籠かきをしていたが、1612年頃にタイに渡った。近隣諸国と戦火を交えていた国王を援助し、国王ソンタムの信任を得てアユタヤの日本人町の頭領となり、1628年にはタイで最高の官位であるオヤ・セナピモクとなった。国王が没したあと王位継承争いに巻き込まれ,南方のリゴール太守に左遷され、隣国パタニの侵入軍と戦ったが負傷。タイ人がその傷口に塗った毒薬で殺されている。

 1639年、江戸幕府の鎖国令により日本人の海外渡航が禁止され、母国との連絡を絶たれたアユタヤの日本人町はその後衰退の一途をたどることになった。

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ワット・プラ・シーサンペット 

 1752年にビルマを統一したコンバウン朝が勢力を強め、再び隣接するタイに侵攻、1767年にアユタヤの王宮はコンバウン軍に破壊され、アユタヤ朝は滅亡した。

 アユタヤは400年にわたり、都として繁栄し、仏教文化が花咲いたが、このときのビルマの侵攻によって徹底的に破壊されてしまった。ワット・プラ・シーサンペットはアユタヤ王宮内にあった最も重要な寺院で、1448年に建立された。寺院のシンボルである3基の仏塔は3人の王の遺骨が納められている。1767年のビルマ軍による第2次アユタヤ侵攻で破壊されたが、戦後に修復された。

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 アユタヤの象徴とも言えるのが、ワット・マハタートにあるこの仏頭。1600年代中頃に胴体から地面に落ちたと言われている。その後、木の成長とともに根元にとり込まれ、現在の姿となったと伝えられているが、地面に落ちた理由は分からない。

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 この仏頭よりも人間の愚かさを示しているのが、敷地内のいたる所にある破壊された仏像だ。頭がことごとく切り落とされている。仏像を破壊した犯人として、われわれがすぐ思い起こすのがイスラーム教徒だ。2001年にターリバーンによってバーミヤン大仏が爆破されたことは記憶に新しい。

 しかし、ワット・マハタートの仏像の頭を刎ねたのはイスラーム教徒ではない。仏教国であるビルマのコンバウン朝だ。イスラーム教徒ならまだしも、仏教徒でありながら犯した暴挙は許せない。

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【 2019/03/27 15:47 】

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世界史のミラクルワールドーパゴダ建て過ぎちゃった!・パガン朝

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 1044年、ビルマ人による、ミャンマー初の統一王国が誕生した。それが、パガン朝だ。首都はイラワディ川上流のパガン。パガンの名称は「ピュー・ガーマ(「ピュー人の村落」の意味)」が転訛【てんか】したものと言われる。

  ビルマ人は南詔【なんしょう】国(雲南を支配した国。902年滅亡し、938年これに代わり大理国が成立した)の支配下にあり、ミャンマーは前3000年頃に定住したモン人やピュー人が治めていた。
しかし、832年頃に南詔国がピュー人の王朝を滅ぼしたことで有利となったビルマ人が、しだいに南下してピュー人やモン人を駆逐あるいは吸収していった。

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アノーヤター王

 パガン朝の建国者がアノーヤター王(在位1044〜1077年)である。アノーヤター王の最大の功績は、モン人高僧シン=アラハンの勧めによりパガンに上座部仏教を導入したことであった。それまで上ビルマでは、大乗仏教のアリー派が信仰され、権勢を得ていた。このアリー派は密教的ないかがわしい呪術儀礼などを執り行っていたという。王はタトゥンからシン=アラハンを招き、説法を聞いて上座部仏教に帰依し、アリー派を一掃した。

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 シン=アラハンは高僧としてビルマ仏教の礎を築き、仏舎利と三蔵を入手するために下ビルマ征服を進言した。王は1057年に下ビルマのモン人の拠点タトゥンを攻略し、そのマヌハ王と約3万人のモン人をパガンに連行した。彼らによりパーリ語一切経の招来、仏教倫理の伝授、文字表記の習得、建築工芸の基礎知識などモン文化がもたらされ、パガンの王宮内ではモン文化が風靡していた。

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シュエジーゴン・パゴダ

 アノーヤター王はスリランカに使節を派遣し、有名な仏歯を招来してシュエジーゴン・パゴダに祀ったと言われている。パゴダはミャンマー式の仏塔(ストゥーパ)を意味する言葉だが、これ実は英語なんだぜ。ミャンマー語では「尊敬されるべきもの」を意味する「ゼーディー」又は「プドゥー」と呼ばれている。ミャンマーの人々にとって、パゴダはブッダがいなくなって以来、ブッダに代わるものであり、「ブッダの住む家」であるとされる。従ってパゴダを建てることは、ミャンマーでは「人生最大の功徳」とされ、そうすることにより幸福な輪廻転生が得られるとされている。

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アーナンダー寺院

 シュエジーゴン・パゴダを完成させたのが、第3代目のチャンシッター(在位1084~1112年頃)で、彼はパガン朝の最盛期を現出させた。王はモン人とビルマ人の融和統合に努め、仏教を篤く信仰し、ビルマ寺院建築の最高傑作アーナンダー寺院を建立した。

 1190年にモン人僧侶チャパタがスリランカから4人の僧侶を伴って帰国し、上座部仏教のマハー・ヴィーラ派(大寺派)を伝えた。それまではタトゥン派の上座部仏教が勢力を有していたが、王家が大寺派に帰依することにより、同派を受戒する僧侶が多数にのぼるようになった。その結果、大寺派がそれ以外の派を駆逐してビルマに定着し、ビルマを拠点としてこの大寺派の上座部仏教がシャム(タイ)・カンボジア・ラオスへ陸路や河川路などを通じて積極的に伝播し、どこでも一般大衆の篤い信仰を獲得していくことになるのであった。13世紀は。これまでの東南アジア大陸部の各民族の精神価値体系を上座部仏教に塗り替えてしまうほどの大変革の時代であった。

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 パガン朝の多くの王は仏教に篤く帰依し、僧院生活を送ったり、寺院建立に打ち込んだ。その結果、首都はパゴダで埋め尽くされていった。その数は3000を超えるとも言われる。しかし、こうした出費は国力をおおいに消耗させた。

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フビライ

 最後の王ナラティハパテ(在位1254~87年)は、6年かかって1284年にミンガラーゼー・パゴダを建立したが、「仏寺成って国亡ぶ」と民衆から言われた王であった。当時中国の元のフビライは雲南地方の大理国を併合し、4回にわたりパガン朝にも入貢と臣服を求めてきた。王はこれを拒絶した。そのため元軍が1287年パガンを攻略し、約250年続いたパガンは崩落した。その後のパガンの王は元朝に従属するかたちで統治を許されたが、シャン丘陵から進出してきた新興勢力のシャン人が上ビルマの政治の実権を握り、パガン朝は1314年に滅亡した。

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 下ビルマはそれに先立ちモン人が勢力を盛り返し、ペグーを拠点とするペグー朝(1287~1539年)の支配が行われた。 ペグー朝は明やヨーロッパとの通商で繁栄した。象牙、宝石などを輸出し、ヨーロッパからはビロードが、中国からは磁器や香料が、インドからは織布が輸入された。1452~59年には、ビルマ史上唯一の女王シンソーブも誕生し、栄華を極めたが、上座部仏教の平和的な教えもあり次第に軟弱化して行った。

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【 2019/03/24 05:59 】

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世界史のミラクルワールドーボロブドゥールの謎

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 シャイレンドラ朝は8世紀後半、中部ジャワで有力となった大乗仏教王国。シャイレンドラはサンスクリット語で「山からの王」「山の王家」という意味。扶南も「山の王」という意味だったから、何か関係があるのかもね。

 海上貿易に従事する港市国家として栄え、一時はベトナム、カンボジアにも進出し、隣接するスマトラ島のシュリーヴィジャヤとも連合したことがあったらしい。また同じ8~9世紀のジャワ島中部にマタラム王国(古マタラム王国)というヒンドゥー教を信奉する国があり、プランバナンという石像のヒンドゥー寺院を築造している。しかし、文献資料が少なく、シャイレンドラ、シュリーヴィジャヤ、マタラムの関係はまだわからないことが多い。

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 有名なボロブドゥールはシャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王の統治下で、775年頃から建設が始まったとされる。最近の研究では最初はシヴァ教の寺院として計画された可能性が高いそうだ。795年から始まった第2段階で大乗仏教のストゥーパとして建設することになり、820年頃には完成したらしい。建設途中で目的や設計にかなりの変更があったために現在のような複雑な構造になった。


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  須弥山【しゅみせん】って知ってる?お寺の本堂で仏さんが安置されている壇を須弥壇【しゅみだん】と言うんだけど、この須弥山に由来する名前だ。須弥山はスメール山の音訳で、宇宙の中心に聳える山のこと。ジャワ島には本当にスメル山という山がある。須弥山の周りに4つの大陸があって、僕らが住んでいる世界は南の閻浮提【えんぶだい】というところだ。 ボロブドゥールの最終的な設計がこの須弥山【しゅみせん】を中心とする仏教的な宇宙を表現することを目的としていたことは確かなようだ。

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 ボロブドゥールの総面積は約1.5万㎡あり、平原の中央の丘に盛り土をして造られた。石材は一定の大きさの安山岩のブロックを組み合わせ、接着剤は一切使わず、ほぞなどで組み合わせ、さらに積み上げて建てられており、内部空間を持たないことが大きな特徴となっている。創建当時はこの安山岩の表面に白色の漆喰が塗られ、さらに彩色もされていたと想像されており、鮮やかな寺院であったようだ。

 構造は全9層にまたがっていて、階段ピラミッドのような造りをしている。9層の内訳は1辺120mの基壇1層、方形壇5層、円壇3層となっていて、この基壇・方形壇・円壇は、仏教の「三界」、つまり欲界・色界・無色界を表しているとされ、人は下から上へ登っていくにつれ、欲望にあふれ罪悪に満ちた世界から、禅定に達した世界へと移っていくものとされる。

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 方形壇には51の回廊があり、その総延長は5kmにも及ぶ。そこに、仏教説話にもとづいた1460面におよぶレリーフ(浮き彫り)やインド神話の伝説の鳥獣が刻まれており、インドのグプタ美術の影響が見られる。なんと、仏教説話のレリーフの人物の総数は1万人ほどにも及ぶと言われる。第2回廊と第3回廊のレリーフは『華厳経』の基づいており、善財童子が53人の賢者を歴訪する旅が描かれている。

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 仏像は第1回廊から第4回廊の壁龕【へきがん】(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており、いずれも一石造りによって等身大につくられ、計504体を数える。

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 ストゥーパ72基は、全体では三重の円を描くように並び、下層より32基、24基、16基あって、釣鐘状の部分が格子のようになっていて、中に祀られた仏像を拝むことができる。

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 頂上にはひときわ大きなストゥーパがあり、天上をめざしている。この中心塔には仏像は安置されておらず、空洞になっている。何者かが持ち去ったのかと思うかもしれないが、創建当初から空洞であったようだ。これは、大乗仏教の真髄である「空【くう】」の思想を強調していると考えられている。

 ボロブドゥールはサンスクリット語で「ブーミサンバラ・ブダラ」(「悟りの因を助ける種々の善法」)と呼ばれていたのが、赤字部分が訛ったものとされる。東の入り口から入り、時計回りに回廊を廻りながら仏教説話を学び、504体の仏像を拝しながら上へ登って行き、最後「空」の思想に触れるという一大宗教世界であったわけだ。

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シンガポールに建つラッフルズ像

 しかし、10世紀にジャワ島中部のムラピ火山が大噴火を起こし、人々が住めない状況となったため、ボロブドゥールの存在も忘れられ、密林に埋もれてしまった。1814年に当時ジャワ総督代理であったイギリスのラッフルズによって発見され、その後はオランダ植民地政府によって修復が進められたが、かえって遺跡を崩壊させることになり、最近ではユネスコの手で修復工事が行われている。

 ところで、ラッフルズと言えば、1819年にジョホール王からシンガポールを買収した人物としても知られているよね。彼の名がつくラッフルズ・ホテルはシンガポールの最高級ホテルで、日本軍統治下では「昭南旅館」と呼ばれた。僕は泊まったことはないけど、テラスでビールを飲んだことはあるよ。

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【 2019/03/20 17:07 】

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世界史のミラクルワールドー祇園精舎と間違えちゃった・アンコール=ワット

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 扶南【ふなん】は東南アジア最古の王朝と考えられる、紀元1世紀末にメコン川下流の現在のカンボジアからベトナム南部にかけて成立した王朝である。クメール語の山を意味するプノムの古語プナムからきた言葉で、その地方の王が「クルング=プナム」すなわち「山の王」と言われていたのを中国人が扶南と書き写したものとされている。建国者はクメール人かマレー人かはっきりしない。

 扶南はカウンディンヤというインド人バラモンの王子が、南方より海路やってきて、その地の人民を服従させ、柳葉【りゅうよう】という名の女首長と結婚した、という伝承がある。その後、4~5世紀にヒンドゥー教・シヴァ神信仰・サンスクリットなどを取り入れ、インド化が進んだ。

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聖山バテ山の手前が港市

 扶南はタイ湾に面し、当時の海上交易上の最も大きな都市であり、さらにメコン川デルタの肥沃な平野を後背地に抱えていて、地理的条件が非常に良かった。外港であったオケオは現在のベトナム南部にあり、海岸から25キロ内陸に入った地点にある。扶南はメコン川を利用してオケオに内陸の物資を集積し、それを南シナ海交易圏でインドや中国と交易して利益をあげる港市国家であった。

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ローマ金貨

 オケオは1940年代にフランス人考古学者マルレにより発掘されたが、遺跡からはインド製の仏像やヒンドゥー教の神像、後漢時代の鏡、ローマ帝国の五賢帝時代の金貨などが出土している。

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 クメール人は6世紀以降有力となり、カンボジア王国(クメール王国ともいう)を建設した。中国ではこの王国を真臘【しんろう】と言っている。7世紀に扶南を滅ぼしたが、8世紀に南北に分裂した。802年にアンコール朝のジャヤヴァルマン2世の下で再統一され、26代600年以上繁栄が続いた。

 アンコール朝の代々の都であったアンコールは、東南アジア最大の湖トンレサップ湖の北岸にあたる。アンコールは「都市」を意味するサンスクリット語「ナガラ」がクメール語化したもの。9世紀以降、アンコール朝の諸王はこの地を中心にインドシナ半島を広範囲に支配し、道路網を築いた。都の周辺にはバライという貯水施設を多数建設し、水路をめぐらしていた。

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 アンコールの中心部には都城であるアンコール=トムがあり、その南にアンコール=ワットの巨大な石造建築群が残っている。アンコールとは「都市」、ワットが寺を意味するので「首都の寺」となる。12世紀前半、最大の領土を誇ったスールヤヴァルマン2世が30余年の歳月をかけて建立したものである。その境内では、王はヴィシュヌ神の姿相をもって神格化され礼拝されていた。ということは、アンコール=ワットはヒンドゥー教の寺院だね。

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『マハーバーラタ』の一場面

 中央と四隅に塔を持ち、周囲の回廊の壁面には『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』の物語が細かにレリーフされており、見る人を圧倒する。

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バイヨン寺院のジャヤヴァルマン7世像

 1177年にアンコールはチャンパーによりを占領されたが、ジャヤヴァルマン7世が1181年に奪回、首都アンコール=トムを復興させ、アンコール朝全盛期を迎えた。ジャヤヴァルマン7世は仏教を厚く信仰するようになり、アンコール=ワットも仏教寺院として用いられるようになった。

 ジャヤヴァルマン7世は国内に道路網を整備し、その道沿いに102の施療院(アーロギャーシャーラ、「病人の家」の意味)を建て、王みずから病人の世話に関わり、年に3回薬や薬草を供与していたという。伝説に拠れば、彼自身が癩【らい】病(ハンセン氏病)を病み、若くして死んだというが、確証はない。  

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 アンコール=ワットは東南アジアの文明を代表する遺跡であり、現在のカンボジア王国の国旗にも用いられている。

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 ジャヤヴァルマン7世の死後、アンコール朝の衰退が始まった。14世紀にはタイのアユタヤ朝が勃興し、その侵攻を受けるようになり、1432年にアンコールを放棄してプノンペンに首都を遷した。そのため、アンコール=ワットは荒廃し、ジャングルの中に埋もれてしまい、さらにカンボジア内戦期(1970~80年代)にはポルポト派による破壊が行われ、荒廃が一層進んだ。現在はユネスコを中心とした保存・修復事業が展開されている。
 
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 実はアンコール=ワットには日本人の落書きが14カ所も残っている。その一人の「肥州の住人藤原朝臣森本右近大夫一房」は、父儀大夫の菩提を弔い、老母の後生を祈るため、はるばる数千里の海上を渡り、寛永9(1632)年正月にこの寺院に到来し、仏像4体を奉納した、と墨書している。上の写真は見にくいけど、その落書き。森本右近大夫の子孫は岡山に現存し、彼の墓も京都で見つかったが、位牌には森本左大夫となっている。彼が落書を残した1632年には日本人の海外渡航禁止令が出されており、彼も帰国後は名前を変えなければならなかったらしい。

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 当時は徳川家康の朱印船貿易が盛んに行われ、カンボジアにもたくさんの日本町がつくられていた。日本人はこの地を「祇園精舎」と思い込んでいたようで、水戸の彰考館には「祇園精舎の図」としてアンコール=ワットの図面が残されている。

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【 2019/03/17 08:15 】

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世界史のミラクルワールドースーパー爺さん・法顕

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 法顕【ほっけん】は南朝の東晋で337年に生まれた。3歳で出家し、20歳で具足戒を受け、正式に僧侶となった。仏教の学究を進めるにしたがい、経典の漢語訳出にくらべて戒律が中国仏教界において完備しておらず、経律ともに錯誤や欠落があるのを嘆き、399年、慧景、慧応、慧嵬、道整等の僧と共に長安からインドへ求法の旅にたった。この時すでに64歳。年齢を考えれば無謀な計画であった。三蔵法師で知られる玄奘がインドに向けて旅立つ230年前のことである。

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 長安を出た法顕は、砂漠の東端に位置する敦煌【とんこう】から流沙地帯を西に進み、途中タクラマカン砂漠を横断するという無茶苦茶なルートを通っている。

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 タクラマカンはウイグル語の「タッキリ(死)」「マカン(無限)」の合成語と言われ、「死の世界」「永遠に生命が存在し得ない場所」とされる。法顕は『仏国記』の中で、「沙河には悪霊、熱風多く、皆死に絶え一人も生命を全うするものはない。上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし。見渡す限り渡ろうとせん所を探すも何もなし。死者の枯骨を道標にするだけ」と書いており、行程中の苦しさは何事にも比べられないほどだったようだ。その苦しみに耐え抜き、ようやく西域南道のオアシス都市ホータン(于闐【うてん】)に辿り着いた。 その後、「世界の屋根」と言われるパミール高原を越え、ガンダーラを経て中インドに到達したが、6年もかかる苦難の道のりであった。

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アショーカ王宮殿跡の法顕

 法顕が訪れたのはグプタ朝のチャンドラグプタ2世の時代であった。法顕は王舎城などの仏跡をめぐり、『摩訶僧祇律【まかそうぎりつ】』などを収集し、さらにスリランカに渡り、「五分律」や「長阿含経【じょうあごんきょう】などを得た。法顕は都パータリプトラで3年間、スリランカに2年滞在し、ようやく旅の目的を達した法顕は、海路をとってマラッカ海峡を通り、413年青州に帰国した。帰国できたのは法顕のみであり、法顕はすでに78歳であった。法顕は著書『仏国記』(『法顕伝』)の中で、チャンドラグプタ2世を超日王【ちょうにちおう】と記している。

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 インドで仏教研究の中心と言えばナーランダー僧院だが、この僧院は427年にクマーラグプタ1世により創建された。残念ながら法顕帰国後のことであり、法顕はここで学ぶことは出来なかったが、玄奘や義浄はここで学んでいる。仏教学だけではなく、バラモン正統派の教理や哲学、文法学、医学、天文学、数学を学ぶ総合大学で、最多で1万人の生徒と、1,500人の教員がいたというが、1193年にイスラーム勢力によって破壊された。

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 この時期の仏教美術は、優雅なグプタ式仏像彫刻のような純インド的な仏教美術が完成をみた。教科書的にはマトゥラーで造られたブッダ立像が有名だが、写真はブッダ初転法輪の地サールナートで造られた説法するブッダ像で、仏教美術の最高峰に位置する傑作である。

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 グプタ様式というと、忘れてはならないのがアジャンター石窟だ。前1世紀のサータヴァーハナ朝に始まるが、本格的に開削が行われたのはグプタ朝と縁戚関係にあったヴァーカータカ朝のもとでのことであった。開削は7世紀頃まで続き、ワゴーラー川沿いの断崖に幅約550mにわたって30の石窟が彫られている。

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 アジャンター石窟は仏教の衰退とともに忘れ去られていたが、1819年4月、イギリス人士官ジョン・スミスによって偶然発見された。スミスはハイダラーバード藩王国の藩王に招かれて虎狩りをしていたのだが、蔦に覆われた崖に逃げ込んだ虎を目で追っていると、生い茂る蔦の隙間から馬蹄形の窓のようなもの見つけた。ただちに多くの人が動員され、蔦を取り除くと、そこから崖の中腹をくり抜いた多くの石窟が現れた。今でこそ世界遺産となり、たくさんの観光客が押し寄せているが、発見当時はコウモリの住み処となっていたそうだ。見にくいけど、写真よく見てもらうと、ジョン=スミスとサインしてあるのがわかると思う。彼が記念に第10窟の壁面にしたサインなんだけど、当時は貴重な文化遺産に落書きするのは屁でもなかったんだね。

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 アジャンター石窟で一番有名なのが第1窟の蓮華手菩薩だ。右手に黄色い蓮の華を持ってるので、そう呼ばれている。チャイティヤと呼ばれる塔院の本尊であるストゥーパの左側に侍り、S字型体にひねった姿勢をとって描かれている。顔よりも大きな宝冠やネックレスが印象的な装身具、隈取りや巧みな肉感表現で、この画法はアジア各地に伝播し、その後の仏教絵画に多大な影響を与えた。

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法隆寺金堂6号壁阿弥陀浄土図

 法隆寺の金堂壁画はアジャンター石窟と作風が類似していることでも知られるが、直接影響を受けたものではなく、敦煌莫高窟の影響によるものと思われる。しかし、残念なことに1949年1月26日、不審火によって金堂が炎上。壁画は焼け焦げてその芸術的価値は永遠に失われてしまった。この事件をきっかけに文化財保護法が制定され、壁画が焼損した1月26日は文化財防火デーとなっている。

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 アジャンター石窟の70km南にあるのがエローラ石窟。アジャンター石窟は仏教のみの遺跡であるが、エローラ石窟は8世紀を中心とした仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の遺跡である。写真はヒンドゥー教寺院のカイラーサナータ寺院。エローラ石窟の第16窟だが、石を積み上げて造ったのではなく、一つの岩山を100年かけて掘り抜いて造ったというから、びっくりだよね。

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【 2019/03/13 15:45 】

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世界史のミラクルワールドーヒンドゥー教の神々・グプタ朝

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 前180年にマウリヤ朝が滅亡して以来、インドは約500年の分裂状態が続いたが、4世紀に入り、マウリヤ朝と同じマガダを拠点としたグプタ朝が起こった。その創始者もマウリヤ朝と同じ、チャンドラグプタ1世を名乗っている。都も同じパータリプトラ。チャンドラグプタ1世は320年にガンジス川流域を統一、「インドのナポレオン」と呼ばれた第2代のサムドラグプタは北インドをほぼ統一し、続くチャンドラグプタ2世の時には、かつてのアショーカ王の支配領域と同じ広さを支配し、全盛期を迎えた。

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『ラーマーヤナ』

 クシャーナ朝の異民族支配を一掃したグプタ朝の下で、民族意識の高まりとともに、一時影響力を失いかけたバラモンが復活し、インド古典文化の黄金時代を迎えることになった。宮廷ではサンスクリット語が公用語とされ、カーリダーサがサンスクリット語で戯曲『シャンタラーク』を著すなど、サンスクリット文学が盛んになった。また、『マヌ法典』によりヴァルナ制が強調され、サンスクリットの二大叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などが長い時間をかけてほぼ現在伝えられるような形に完成した。

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ハヌマーン

 『ラーマーヤナ』の主人公はコーサラ国の王子ラーマ。ランカ島(スリランカ)に住む魔王ラーヴァナに妻シータ姫を奪われたが、猿王ハヌマーンの助けを得てこれを取り返すというお話。猿・犬・雉を連れて鬼ヶ島に鬼退治に行った桃太郎のお話の原形ではないかとも言われている。この猿王ハヌマーンはヒンドゥー教の神となって信仰され、インドの街角に赤い顔をして立っている。

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ブラフマー神

 さて、そのヒンドゥー教はバラモン教に仏教や先住民の土着信仰が融合されて成立したもので、いわゆる三大神を見るとそれがよく分かる。まず、その一つが創造神のブラフマー神。ウパニシャッド哲学でいう宇宙の根本原理であるブラーフマナーが神格化したもので、バラモン教出身の神さまだ。三大神に数えられてはいるが、その重要性は低くあまり人気がない。その理由は後でね。

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ヴィシュヌ神

 次に、ヴィシュヌ神は宇宙を護持する神として崇拝されている。慈悲深い神で、仏教の慈悲の影響も考えられる。主要な土着神を化身として取り込んだので、クリシュナを始めとしてたくさんの化身を持っており、先ほどのラーマは7番目、わがブッダは9番目の化身である。だからヒンドゥー教徒の立場からすれば、僕たちはブッダの姿をとったヴィシュヌ神を拝んでいることになる。

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         タイの国章               インドネシアの国章 
 
 ヒンドゥー教の神さまにはヴァーハナという乗り物があり、ヴィシュヌ神のヴァーハナはガルーダという鷲だ。タイとインドネシアではガルーダが国章となっており、インドネシアの国営航空会社はガルーダ・インドネシア航空だ。このガルーダが仏教の守護神となったのが迦楼羅【かるら】といって、これが天狗になったとも言われている。

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シヴァ神

 さあ、そして三大神の中で最大、最強の神がシヴァ神だ。シヴァ神はインダス文明の頃から信仰されていたようで、土着信仰出身の神だ。宇宙を破壊し焼き尽くす役割を演ずるとともに、破壊した宇宙を再び創造する慈悲深い神でもある。つまりブラフマー神の役割まで取っちゃったわけだ。ブラフマー神が要らなくなったわけだ。

 シヴァ神はヒマラヤ山中で苦行しつつ天の聖河ガンガーの水を頭髪の中に受け止めて、大洪水から人間世界を守る神である。その頭髪を伝わって落ちた水がガンジス川なんだそうで、頭の天辺から噴水みたいに吹き出しているのがそうだ。

 シヴァ神のヴァーハナ、乗り物は左にいる白い牛のナンディ。最も崇拝するシヴァ神の乗り物だから牛も神さま扱いされて、インド人は絶対に牛を喰わない。

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 シヴァ神は舞踏の創始者ともされ、ナタラージャ(舞踏者の王)の別名でも呼ばれていて、世界史の教科書に載っているのはこっちの姿がほとんど。この写真は4本腕、3眼のシヴァ神が陶酔状態でエネルギッシュに踊る姿を現している。踊るシヴァ神を取り巻く円形の火炎は宇宙の破壊を、手の形は保存を、右手に持つ小太鼓は創造をそれぞれ意味し、宇宙の破壊・維持・創造が永遠に繰り返されていくという宗教思想がこの像に表現されている。

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        カーリー                 パールヴァティ

 シヴァ神は地方的に信仰を集めていた多数の神を自分の一族として抱え込むという方法で、信者の輪を広げた。シヴァ神の奥さんとして有名なカーリーはもともと地母神であり、髑髏のネックレスをしているように、シヴァ神の恐ろしい面を代行した。また、もとヒマラヤ山脈の住民に信仰されていた山の女神パールヴァティも妃神とされたが、彼女は優しい豊穣の女神である。

 カーリーを祀った寺院がコルカタ(カルカッタ)にあり、コルカタはカーリーが訛った地名である。この寺院の近くで「死を待つ人々の家」を開設し、道端で亡くなっていく人々に救いの手を差し伸べ、ノーベル平和賞を受賞したのがマザー=テレサであった。

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 シヴァ神とパールヴァティーの息子で、学問・商売の神として日本でも人気のあるのがガネーシャだ。なんで像の頭になったかは省くとして、足許に鼠がいるのにお気づきだろうか。ガネーシャのヴァーハナ、乗り物は鼠だ。像が鼠に乗るというのは違和感があるが、崇拝する鼠を食べる猫をインド人は嫌う。だから、インドで猫を見かけることはめったにない。ちなみに、ガネーシャは仏教とともにわが国に渡来し、歓喜天【かんぎてん】になっている。

 長くなったので、グプタ朝時代の仏教については次回お話するね。

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【 2019/03/10 08:14 】

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世界史のミラクルワールドーガンダーラ美術の誕生

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 クシャーナ朝の時代にギリシア文化(ヘレニズム文化)の影響をうけて、ブッダの彫像が出現したことはよく知られている。いわゆるガンダーラ美術の誕生だ。ブッダが亡くなって500年後のことである。それまで仏像は存在しなかった。仏教はユダヤ教やイスラーム教のように偶像崇拝を禁止しているわけではないが、恐らく、ブッダがあまりにも尊くて、像には表現できないと考えたんだろう。じゃあ、仏教徒は何を崇拝の対象にしていたのだろうか?

 写真はブッダが悟りを開いたブッダガヤにある仏足石。ブッダの足跡を石に刻んだものだ。お花が供えられているように、今でも信仰の対象になっている。

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 もう少し分かりやすいように、拓本の写真を挙げてみた。扁平足だけど、これはブッダの身体的特徴の一つなんだ。いろんな模様が描かれている。真ん中にあるのが、前にもお話したブッダの説法を表す法輪だ。初期の仏教徒はこれをブッダだと思って拝んでいたんだ。 

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 この写真は有名なサーンチーのストゥーパ。世界史の教科書にも写真が掲載されているよね。前3世紀にアショーカ王が建立したものだけど、四方に塔門が配置されている。なんだか、日本の鳥居に似ているけど、その起源ではないかとも言われているんだ。この塔門にブッダの伝記や本生図(ブッダの前世でのエピソード)が彫られている。

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 写真は降魔成道【ごうまじょうどう】といって、ブッダが悟りを開くのをマーラ(悪魔)が邪魔しようとしているところだ。さて、ブッダはどこにいるでしょうか?はい、一番左のほうに丸いものがあるよね。これ実は菩提樹なんだ。ブッダは菩提樹の下で悟りを開いたんだったよね。菩提樹でブッダをシンボライズしたわけだ。

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 有名なアジャンター石窟の第9窟と第26窟。右の第26窟はストゥーパの前に仏像が安置されているけど、左の第9窟は仏像がないよね。ということは、仏像が誕生する前に第9窟が造られたということで、この時代はストゥーパをブッダそのものとして礼拝していたわけだ。こうして初期の仏教徒は仏像ではなく、仏足、法輪、菩提樹、ストゥーパをブッダとして拝んでいた。

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 それが1世紀になっていよいよ仏像が登場してくるわけだけど、それにはギリシア人が大きく関わっていたようだ。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王は各地にアレクサンドリアを建設し、ギリシア人を集団移住させた。大王の死後、多くのギリシア人は帰国したが、前250年頃ディオドトスがセレウコス朝から独立し、バクトリア王国を建設する。

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メナンドロス

 前200年頃に即したデメトリウス1世はマウリヤ朝の滅亡で混乱するインドに侵入し、ガンダーラ地方を制圧した。これ以降、インドにおけるギリシア人勢力をインド=グリーク朝と呼ぶが、メナンドロスのもと最盛期を迎えた。メナンドロスはローマ世界でも知られ、プルタルコスもストラボンも偉大な王として記述している。また、インドではミリンダ王といわれ、仏僧ナーガセーナに宗教論争を挑んで破れ、仏教に帰依したと伝えられる。

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 写真は2006年にガンダーラを訪ねた時に、地元の農民から買ったコインで、デメトリウス2世のものと思われる。

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 このコインを買った場所がタキシラのシルカップ遺跡だ。ギリシア人が建設した都市遺跡で、アクロポリスにみたてたハティヤール山の麓に碁盤の目状に都市がレイアウトされており、仏教寺院のほかに、ジャイナ教・ゾロアスター教の寺院もある。

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 タキシラのジョーリアン遺跡のメインストゥーパやその周りにある奉献ストゥーパの基壇には漆喰【しっくい】で造られたストゥコ像が溢れている。上の段はブッダ像であるが、下の段にいるのは天を背負う役目を負わされたギリシアの神アトラスで、インドとギリシアの融合がみられる。

 バラモン教にはカースト規制があるから異邦人である彼らは信仰出来ない。そこで、ガンダーラに入ったギリシア人たちは次第に仏教を信仰するようになった。ブッダの像が欠けた仏伝図は不自然である。そこで、ブッダの像はストゥーパや僧院の装飾として彫られた仏伝図の中に、弟子や信者らに混じってごく自然に姿をみせるようになった。

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 その後、ブッダの姿が他の人物より大きく彫られるようになり、さらに単独のブッダ像の出現となった。緑灰色の硬い石に彫られたブッダや菩薩の像には、彫りの深い顔、流れるような頭髪、衣のひだの線など、ギリシア的な技法の影響が強く認められる。

 これをアレクサンドロス大王の東方遠征の影響とするのはフランスの美術史家フーシェの説だが、今日ではすでに時代遅れである。ガンダーラ美術が誕生するのは東方遠征から400年も後のことである。現在の研究では、ガンダーラの仏教美術にはギリシア、イラン、ローマという三つの文化が影響を与えていると見るのが有力である。

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 また、ガンダーラ仏の誕生とほぼ同じ時代に、ガンジス川上流域のマトゥラーにおいても、赤砂岩という特産の石を材料とした純インド風の仏像彫刻が出現した。このマトゥラーにおける仏像の出現をガンダーラに先行するとみる学者もいるが、ガンダーラで1世紀末にまず仏像が造られ、そのニュースを聞いたマトゥラーの住民が、2世紀初頭に、インドの伝統技術を用いて仏像製作に踏み切ったとするのが自然だろうね。

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【 2019/03/06 10:02 】

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世界史のミラクルワールドー大乗仏教の成立・クシャーナ朝

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  クシャーナ朝は中央アジアの大月氏国の支配を脱した同じイラン系民族のクシャーナ族が、西北インドに侵入してつくった国家であり、中国の史書(漢書)にも貴霜として現れる。
 
 月氏はもともと中国の西、陝西・甘粛地方に住んでいたが、前2世紀後半に匈奴に敗れて西方のバクトリア(現在のアフガニスタン)に大移動し、大月氏国を建てた。漢の武帝が同盟しようとして張騫を派遣したあの大月氏国である。

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クジューラ=カドフィセス

 大月氏国は国土を有力な5諸侯に分けて統治させていたが、この5諸侯については、大月氏の一族と見る説と、土着のイラン系有力者と見る説とがある。そのうちの一つであるクシャーン人の首長クジーュラ=カドフィセーとが1世紀の中ごろ、他の4諸侯を制圧して王を名乗り、西方のパルティアと戦った。

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 続いて北インドのインダス川流域にも進出し、ガンダーラ地方を制圧した。大月氏はイラン系の遊牧民であったが、ガンジス川流域に支配を及ぼすことによって、次第にインド化し、仏教も取り入れるようになった。

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カニシカ王

 2世紀半ばに即位し、クシャーナ朝全盛期を築いたのがカニシカ王である。彼は首都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現ペシャワール)に置き、中央アジアからガンジス川中流域にいたる広大な領土を統治した。また一族郎党を引き連れて、夏はアフガニスタンの高原へ、冬はインド平原へと移動したという。ガンジス川上流域の都市マトゥラーは副都となった。

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 写真はマトゥラー近郊の遺跡から出土したカニシカの銘をもった石彫立像である。頭部を欠いてはいるが、中央アジア風の外套を身につけてベルトをしめ、フェルトの長靴を履いており、「遊牧民らしい出で立ち」となっていてクシャーナ朝が本来遊牧国家であったことをよく示している。

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 ところで、クシャーナ朝では2代目のウィマ=カドフィセース以後、それまで高額貨幣として使われてきた銀貨に代わり金貨が大量に発行されるようになった。当時、ローマは「パクス=ロマーナ」の時期でインドとの貿易が最盛期であった。ところが、南インドからは大量のローマ金貨が出土するが、北インドからはほとんど発見されない。ということは、クシャーナ朝の金貨はローマ金貨を鋳なおして発行したと推測される。

 上に並べたのは金貨の裏面に登場する神々である。左からブッダ、シヴァ神、イラン系のマオ(月神)。カニシカ王はミトラ神などのイラン系を中心に、ギリシア・ローマ系、インド系の神々を採用していて多彩であり、宗教的には寛容策が取られていたようである。

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 カニシカ王は初め仏教を軽視していたが、後に心を改め、首都の近郊に大塔を建立し、またカシュミールで開かれた第4回仏典結集を援助したと伝えられている。さらに、ガンジス川中流域に兵を進めた際、莫大な貢納金を免除するかわりに学僧として名高いアシュヴァゴーシャ(馬鳴【めみょう】)を譲り受けて、都に伴い厚く敬ったという。

 カニシカ王の大塔については、法顕や玄奘も旅行記の中で記している。法顕によれば、塔の高さは40余丈、宝石で飾りたてられ、インドで最も壮麗な仏塔であったという。1909年、直径86メートルもあるこの大塔の遺跡から写真の仏舎利容器が発見された。

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 クシャーナ朝により、仏教にとっては新天地であったインダス川流域にも仏教が広まっていった。こうした時代背景の中で、それまでの出家者中心の仏教に対抗するかたちで、在家信者の立場を重視する大乗仏教の運動が興った。大乗仏教の成立については、従来は平川彰の仏塔(ストゥーパ)信仰の集団から誕生したという説が有力であったが、最近はこれに対する異論も多く、さらなる研究の成果が待たれる。

大乗

 新しい仏教を推し進める人々は、自分たちの仏教を、万人の救済をめざす大乗(マハーヤーナ)、「救済のための大きな乗り物」と称した。「マハー」はジャイナ教の開祖マハーヴィーラのところで出て来たが、「大きい」と言う意味だ。「摩訶不思議」という言葉の「摩訶」はマハーの音訳だ。彼らは、自己の解脱【げだつ】をめざす伝統的な仏教を、独善的な小乗(ヒーナヤーナ、小さな乗り物)と呼んで軽蔑した。初期の大乗仏教徒はえらい好戦的だったんだね。

 小乗仏教という言い方が有名だけど、これは大乗仏教からの蔑称だから、現在は使わない。伝統的仏教は20の派に分かれていたんで部派仏教と呼ぶことにしており、スリランカに伝わったのはそのうちの上座部だ。部派仏教には説一切有部なんてのもあって、部派仏教=上座部じゃないよ。

 大乗運動を担ったのは、菩薩と自称する者たちであった。菩薩とは「ボーディ(悟り)を求めて努力するサットヴァ(存在)」という意味を持つサンスクリット語の音を漢字に写したものだ。部派仏教にも菩薩はいるが、それは悟りを開く前のブッダのことで、当然一人しかいない。でも、大乗仏教では悟りを求めて努力する人はみんな菩薩だ。そして、その努力とは自分を犠牲にして他人の利益に務めること(利他行【りたぎょう】)であると主張した。

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 菩薩というと、一番有名なのが観音菩薩だよね。写真は法隆寺夢殿の救世観音だけどね。その他に「三人寄れば文殊の智慧」の文殊菩薩、弥勒菩薩、普賢菩薩などたくさんの菩薩がいる。こうした菩薩が生み出されたのは、自己を犠牲とする菩薩行の実践は、普通の人間にはきわめて困難だからだ。そこで、菩薩行をすでに十分に積んだ偉大な菩薩を生み出した。その慈悲におすがりして、現世・来世の利益を得ようとしたわけだ。

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 写真はササン朝のナルセ1世のレリーフで、真ん中に国王を挟んで、右が太陽神のミスラ、左が慈悲の女神で水の神であるアナーヒターだ。ともにゾロアスター教の神としてササン朝で厚く信仰された。弥勒はマイトレーヤの音写でミスラ(ミトラ)と語源が同じなので、弥勒菩薩の救世主的性格はミスラから受け継いだ可能性がある。また、観音菩薩はしばしば水瓶【すいびょう】を持つ女性的な姿で表現されることから、水の神アナーヒターに関係すると見られる。

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阿弥陀仏

 それから、僕たちの住む娑婆世界ではブッダはすでに世を去り、次のブッダである弥勒の出現には56億7000万年という気の遠くなるような年月を待たねばならない。そこで、阿弥陀仏をはじめとしてたくさんのブッダも考え出された。

 この阿弥陀も「アミターバ(無量光)」ないし「アミターユス(無量寿)」と呼ばれ、光明を信仰するゾロアスター教の影響で誕生した可能性がある。「空【くう】」の思想で大乗仏教を理論化したナーガルジュナ(竜樹)が南インドの出身なので、南インドで大乗運動が展開されたとみるむきもあるが、西方宗教の影響を強く受けたと考えれば、西北インドが大乗仏教発祥の地であると僕は考えている。

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 この大乗仏教は中央アジアを経て中国・朝鮮・日本にもたらされたので、北伝仏教と呼ばれる。一方の上座部仏教は、スリランカからミャンマー・タイ・カンボジアに伝わったので南伝仏教と呼ばれるが、それは11世紀以降のこと。義浄の『南海寄帰内法伝』によれば、シュリーヴィジャヤでは大乗仏教が信仰されていたし、ジャワのボロブドゥールは大乗仏教の遺跡なので、東南アジアに先に伝わったのは大乗仏教だったんだよ。ああ、それとスリランカにも大乗仏教が伝わってるので、注意しとこうね。長くなったんで、ガンダーラ美術については次に書くね。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/03/03 08:17 】

古代インド史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
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