なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ヒッタイト人は古代オリエント世界に登場する最古の印欧語族である。その故郷は不明であるが、前1900年頃、西アジアに起こった広範囲な民族移動の動きの一つとしてアナトリア中部に移住したようだ。
ハットゥシャシュの獅子門
前1680年頃、ハットゥシリ1世がハットゥシャシュ(現在のボアズキョイ)を首都として王国を建設した。1905年から翌年にかけて、ヴィンクラーが率いるドイツの調査隊がトルコの首都アンカラの東のボアズキョイを発掘。巨大な建造物の遺構とともに大量の粘土板文書も発見された。それを解読することによって、この遺跡がヒッタイトの都、ハットゥシャシュであること判明したのだが、詳しいことは後でお話する。
ヒッタイトは世界史上初めて鉄を生産した民族としてその名を知られているが、1938年にトルコのアランジャホユックの遺跡から黄金で装飾された鉄剣が発見され、この定説が覆された。材料は「隕鉄」つまり隕石だと考えられるが、前2300年頃のもので、ヒッタイト人がアナトリアに入植する以前のことである。世界最古の鉄を製造したのはハッティ人だった。
ハッティ人は『旧約聖書』のヘテ人をもとにイギリスのアッシリア学者が命名したものだが、ヒッタイト人以前にこの地に住んでいた人々を指し、彼らは印欧語ではない言葉を使っていたようだ。ヒッタイト人はこのハッティ人の製鉄技術を受け継いで、前1200年頃に「海の民」に滅ぼされるまで、これを独占した。
ハッティ人は『旧約聖書』のヘテ人をもとにイギリスのアッシリア学者が命名したものだが、ヒッタイト人以前にこの地に住んでいた人々を指し、彼らは印欧語ではない言葉を使っていたようだ。ヒッタイト人はこのハッティ人の製鉄技術を受け継いで、前1200年頃に「海の民」に滅ぼされるまで、これを独占した。
前1595年にムルシリ1世がバビロン第1王朝を征服、西アジアに鉄器をもたらした。ヒッタイトの強大な軍事力の原動力となったのが鉄製の剣と戦車だった。
写真は前にもお話ししたシュメール人の戦車だ。シュメール人の戦車は2枚の板を接合した車輪を用いた4輪戦車で、4頭のロバの一種が引いていた。これだと、儀式の行進に使われる程度で実戦にはむかない。
それに対してヒッタイトの戦車はというと、写真を見てお分かりの通り、6本スポークの車輪を使用し、2頭立ての馬に引かせた軽快な2輪戦車だった。この馬と戦車がヒクソスによりエジプトにもたらされた。後に、ミタンニから独立したアッシリアは、スキタイ人など遊牧民から騎馬先述を取り入れて軍事大国となり、前7世紀に初の「世界帝国」を形成することになる。
ヒッタイトは前1286年にシリアに進出したエジプト新王国とシリアのカデシュで激突した。古代オリエント最大の戦いであるカデシュの戦いである。
アブ=シンベル神殿のラメセス2世像
カデシュはエジプトとヒッタイトの勢力圏のちょうど中間に位置し、東地中海世界の交易の要衝であった。当時のエジプトのファラオはラメセス2世、これを迎え撃ったヒッタイト王はムワタリだった。
エジプト軍は50人で編成された小隊を基本に、5小隊で中隊、20中隊つまり5000人で1師団が組織され、ラメセス軍は4師団、総計2万の編成であった。ラメセス2世は直属師団を率い、捕虜の偽情報をつかまされてカデシュの北に進出した。東側から現れたヒッタイトの戦車隊2,500両がエジプトの後続師団を急襲、エジプト軍は混乱に陥った。しかし、海岸部からの援軍が駆けつけ、なんとか危機を切り抜けた。
戦車に乗り弓を引くラメセス2世
この勝利をアメンの加護として、ラメセス2世はアブ=シンベル神殿を含む5つの神殿の壁面に詳細な碑文を残した。また、神殿の壁画には巨大なラメセス2世が敵を討つ姿が描かれた。
ラメセス2世のミイラ
ラメセス2世の誇張にもかかわらず、現代の評価では戦争の結果は引き分け程度であったとされている。ヒッタイト側は王子を含む多数が戦死し、カデシュから撤退したが、エジプト側もカデシュを取り戻すことはできなかった。戦闘後、実質的にカデシュを管理下に置いたのはヒッタイトの方であった。
前1269年、ラメセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世との間で、シリア・パレスティナとそこを通る交易ルートの支配権を分割保有することに同意する公式の平和条約が締結されたが、これが世界史上初の平和条約である。
1887年、前回お話したテル=エル=アマルナで、地元民が楔形文字の刻まれた多数の粘土板を偶然発見した。発見当初は価値の無いもの、あるいは偽物ではないかと思われていたが、大英博物館のW=バッジが購入、彼の卓見によって後に古代オリエント史上最高の資料の一つであることが分かった。「アマルナ文書」である。
平和条約の内容はカルナック神殿の壁面に彫り込まれているが、「アマルナ文書」の中にもハッティ国とエジプト新王国の間で交わされた書簡が見つかり、長い間忘れられていたヒッタイトの存在が朧気ながら浮かび上がった。
世界最古の平和条約
ボアズキョイを発掘したのはヴィンクラーだったよね。アッカド語で書かれた1枚の粘土板を読み始めた彼は、一瞬、我を忘れてしまう。なんと、粘土板文書は世界最古の平和条約に関するものだった。ヴィンクラーはその条約文が、「アマルナ文書」やエジプトのカルナック神殿の壁面に刻まれているものとほぼ同一であることを発見、ここに幻のヒッタイト帝国が甦ったのである。
ちなみに、ラメセス2世には100人の子供がいて、90歳で死んだんだってさ。
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ちなみに、ラメセス2世には100人の子供がいて、90歳で死んだんだってさ。
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アメンホテプ4世はエジプト新王国第18王朝のファラオ(在位前1364年頃~1347年頃)である。アメンホテプ3世の子として10歳で即位したが、首都テーベの神官勢力が王権を凌ぐようなありさまであった。
ラー
古王国時代は首都メンフィスの守護神である太陽神ラーが盛んに信仰された。ファラオはラーの化身とされ、ラーを祀る祭殿として巨大なピラミッドが造営された。
アメン(アモン)
それが、中王国時代にテーベに首都が遷されると、テーベの地方神であったアメンが国家神として崇拝されるようになり、新王国時代にはアメンがラーと一体化して、アメン=ラー信仰(アモン=ラー)が起こった。
カルナック神殿のアメン大神殿
アメン神の加護は、遠征の勝利と史上空前の大帝国の建設をもたらした。ファラオたちはアメンのの恩恵に対する感謝のしるしとしてカルナック神殿へのさまざまな寄進と増改築を行った。その結果、急激に増大した宗教的権威と経済力を背景に、アメン神官団は国政に対する発言権を強め、王位継承をも左右する力を持つようになって行った。このようなアメン神とその神官団の影響力に対して、王権に対抗する勢力と認識したファラオ側の反発が生まれていった。
ファラオと神官団の緊張関係が頂点に達しようとした時に即位したのがアメンホテプ4世であった。アメン神官団の存立基盤は国家神としてのアメンだから、これに代わる国家神を作り出せばいいということで、選ばれたのが太陽神アトン(アテン)だった。写真を見てお分かりの通り、もともとは夕日を神格化したものだった。太陽円盤から光が放射線状に出てるよね。アトン信仰を国民に強制し、他の神々の祭祀を停止し、偶像を破壊するなどしたため、多神教ではなく一神教の様相を呈するにいたった。当時、ヘブライ人はエジプトにいたので、アトン一神教をヒントにヤハウェ一神教が生まれた可能性がある。
そうすると、アメンホテプの名前がまずい。なにしろ、「アメンが満足する」と意味だからね。そこで、自らの名をイクナートン(「アトンにとって有用な者」の意味)に変更した。都も神官団の拠点であるテーベからアケート・アトン(「アトンの地平線」の意味)に遷した。日本でも寺院勢力が強くなったことから、平城京から平安京に遷都しているけど、それと同じことをやろうとしたわけだ。
王妃ネフェルティティ
前1364年の冬、イクナートンは王妃ネフェルティティ、長女メリトアテン以下、廷臣たちを従え、新都建設予定地を訪問、建築工事起工の儀式を行った。都にはアトン神の神殿とともに、王宮、王墓、中央官庁街が2年ほどで建設された。現在この地はテル=エル=アマルナと呼ばれている。
しかし、イクナートンの死後、その改革が否定されると、この都は王一代で終わり、次の王朝によって破壊され、現在は遺跡が残るのみとなっている。
アトン信仰は自然神でありながら、愛によって人々を救済するという、普遍的な宗教であり、エジプトと西アジアという異なる民族と文明を内包する地域を支配する専制君主に適した新しい宗教として創り出された。イクナートンはその信仰に基づき、独自の美術表現を推奨し、それはアマルナ美術と言われた。アマルナ美術は写実性を特徴としており、さっきのネフェルティティ像がその代表とされる。
イクナートンの死後、僅か9歳で即位したのがトゥトアンクアトン(「アトンの生ける像」の意味)であった。えっ、これ「ツタンカーメンの黄金のマスク」じゃないの?って。そう、ツタンカーメンなんだけど、即位したときは、ツタンカートンだったんだ。即位後まもなく、摂政のアイや将軍ホルエムハブなど側近の意向によってか、名前をトゥトアンクアメン(「アメンの生ける像」の意味)に変えさせられ、都をメンフィスに戻し、アメン神信仰を復活させ、アメン神官団も復職させ、アマルナ革命が挫折してしまった。トゥトアンクアメンを何度も早口で言ってごらん。ほうら、ツタンカーメンになったでしょ。
写真はツタンカーメンの玉座に施されたレリーフで、王妃が王に香油を塗ってあげている仲睦まじい様子を表したものだ。ところで、2人の足元をよく見ると、2人とも片方しかサンダルを履いていない。これは「仲のよい2人が1足のサンダルを片方ずつ履く」という当時のエジプトの習慣なんだってさ。
写真のツタンカーメンは杖を突いてるけど、彼は身体が弱かったようだ。ファラオは神だから、人間とは結婚出来ない。そのため、近親結婚が行われていた。ツタンカーメンは近親結婚が原因の数々の遺伝的疾患に苦しめられたことが最近の研究で分かってきている。
彼は左足に先天性内反足の変形を患い、右足も極端な偏平足だったとみられているそうだ。足の変形に加えて無血管性骨壊死といい、徐々に骨が損なわれていく恐ろしい病気にも罹患していたことが最近の研究で分かって来た。その上、マラリアにも罹患していたと考えられるそうだ。
ツタンカーメンは世継ぎにも健康にも恵まれないまま僅か18歳でこの世を去った。彼と彼の実の妹でもあった妃との間に授かった2人の娘たちは死産。ツタンカーメンの家系は途絶え、歴史からも抹消されてしまう。
ところが、1922年11月、テーベの近くの「王家の谷」といわれるエジプト新王国のファラオたちの王墓が集中している一角で、全く未知の王墓が発見された。それは王墓の中でも小規模なものであったので、盗掘を免れていた唯一の王墓であった。出土したミイラの名札からそれがツタンカーメン王のものであることがわかった。その墓室からはほとんど埋葬時そのままの王のミイラ、それを覆う黄金のマスク、王の玉座、さまざまな装飾品、武器など、5,398点にのぼる副葬品が見つかり、世紀の大発見と言われた。
発掘に成功したのは、ハワード=カーターというイギリス人であった。彼はカーナヴォン卿というスポンサーの出資によって16年前からエジプトで発掘に従事していたのだった。ところで、エジプトには、ファラオの墓を暴いた者は呪われるという言い伝えがあった。このツタンカーメン王の発掘でもスポンサーのカーナヴォン卿が翌年4月に急死したほか、関係者が数年の間に相次いで死んだので「ファラオの呪い」ではないか、と話題になった。でも、カーター自身は1939年に病死してるんで、本当にファラオの呪いなんかあるんかね。
写真は戦車にまたがり、弓を引くツタンカーメンの姿だ。従来は病弱な少年王が戦場に出たとは考えられず、この絵はツタンカーメンを美化するために描かれたものだとされてきた。しかし、この通説をくつがえすかもしれない発見があった。それはツタンカーメンの墓が発見された当時から埋葬品のひとつとして収容されたものの、今まで研究対象になっていなかった革製の鎧だ。
バビロンは現在のイラクの首都バグダードの南方90㎞に位置し、ユーフラテス川をまたぐ都市である。「神の門」を意味するマルドゥク神の神殿があった宗教都市であったが、アムル人のバビロン第1王朝(古バビロニア)の都となってから繁栄した。
ハンムラビ王
バビロン第1王朝の第6代国王がハンムラビ王(在位前1792年頃~1750年頃)である。彼は全メソポタミアを統一、運河を含む交通網を整備し商業を発展させ、バビロン第1王朝の全盛期をもたらした。
ハンムラビ王と言えば、中学生でも知っているハンムラビ法典である。以前は「世界最古の法典」と言われたが、現在、世界最古の法典とされているのは、ウル第3王朝のウル=ナンム王が制定したもので、その後もシュメール人は数々の法典を編纂した。ハンムラビ法典はこれらのシュメール法典を集大成したものである。
1901年、フランスの調査隊によりスサで発見されたため、現在はルーヴル美術館が所蔵している。高さ 2.25mの玄武岩の石碑に、楔形文字を用いアッカド語で282条の条文が刻まれている。本来はバビロンにあったものを、エラム人がバビロンを征服した時に戦利品として持ち帰ったようだ。でも、フランスの調査隊も持ち帰っていいんかい。本当はあかんでしょ。
最上部に刻まれたレリーフを拡大した。右が普遍的な正義の神でもある太陽神シャマシュで、左に立っているのがハンムラビ王である。シャマシュが手に持っているのがハンムラビ法典で、この法典はシャマシュがハンムラビに授けたものであることを示している。メソポタミアの国王は神の代理人として君臨していたため、「神の掟」としての法律が必要で、数々の法典が作られた、しかし、エジプトでは王は神そのものであったため、「神の掟」は必要ない。だから、エジプトでは法律は制定されなかった。
ハンムラビ法典というと、「目には目を、歯には歯を」の復讐法で知られている。量刑が厳しかったように感じるだろうけど、やられたことと同じ仕返しをしろ、それ以上の仕返しはするなということだ。半沢直樹のような「倍返し」は許さない、非常に公平な裁きである。
後書きでは「強者が弱者を損なうことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために、……、虐げられた者に正義を回復するために、わたしはわたしの貴重な言葉を私の碑に書き記し……」と述べており、現代の被害者救済法にあたる条文もあり、社会の弱者の救済を意図する内容を持っていたことは是非知っておいて欲しい。
バビロン第1王朝がヒッタイトに滅ぼされた後、バビロニア地方はカッシートの支配を受け、前8世紀の終わり頃にアッシリア帝国に征服された。アッシリアは武断政治を行ったため支配は長続きせず4王国分立の時代となり、バビロニア地方には前625年にカルデア人により新バビロニア王国が建設された。
ネブカドネザル2世
新バビロニア王国の第2代国王がネブカドネザル2世。ネブカドネザルは首都バビロンを大規模に拡張し、全市を全長18㎞におよぶ二重の城壁で囲み、その数カ所にいくつかの豪華な飾りを持つ城門を設け、南北に縦断する幹線道路を造った。
その門の一つ「イシュタル門」は現在、ベルリンのペルガモン博物館に復元されている。
ネブカドネザル2世は前586年にヘブライ人のユダ王国を滅ぼすと、住民をバビロンに強制連行した。有名なバビロン捕囚だ。この事件を英語で、「the Exile 」と言う。そう、エグザイルだ。あの人気グループがなんで EXILE と名乗ったのか?理由は分からない。
捕囚は新バビロニアが滅びる前538年まで約50年程続いた。ヘブライ人はアケメネス朝のキュロス2世に許されてイェルサレムに帰還し、ヤハウェの神殿を再建。ここにユダヤ教が成立するが、これ以降は彼らをユダヤ人と呼ぶ。
この事件は『旧約聖書』にしか記述がないので、被害者側の証言しかないから、鵜呑みには出来ないが、奴隷のような過酷な状態ではなかったようだ。
それでも、異国の地に連れて来られれば、やはり辛い。故郷を遠く離れて生活していたヘブライ人が涙ながらに見上げる空には、天にも届くような聖塔が聳えていた。新バビロニアはシュメール人の真似をしてジッグラトを建設し、ネブカドネザルの時に完成した。その名は『エテメンアンキ』。シュメール語で「天地の基礎となる建物」という意味だ。最下層は正方形で一辺がおよそ90m、全高90mとされている。このジッグラトを見ていたヘブライ人が思いついたお話が、「バベルの塔」らしい。
ご存じだとは思うjけど、旧約聖書』の創世記に出てくる「バベルの塔」の話は次のようなものだ。人間が天まで届く塔を建て始めたことに立腹した神は、人々の言葉が一つであるからこのようなことを始めたと考え、「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と、彼らをそこから全地に散らされたので、彼らは建設を止めた。世界中に色んな言語があるのは、そのためなんだというお話だ。主が言葉を混乱(バラル)させたので、この町をバベルと呼ぶようになった、と言うんだが、バベルは恐らくバビロンのことなんだろうね。
ネブカドネザルが建てたもう一つ有名な建築物が「空中庭園」だ。古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ世界の七不思議の一つに数えられている。
ネブカドネザルの王妃アミティスはメディアから嫁いで来ていた。メディアは現在のイランだから、山脈もあり緑が豊かな土地だ。ところが、メソポタミアは見渡す限り茶色の土しかない。望郷の念に囚われたアミティスは、自分の故国メディアの緑の丘や谷を懐かしみ、ホームシックになっちゃった。そこで、ネブカドネザルは彼女の感傷を癒やすためにこの庭園を建設したという。
遠くから見ると空から吊り下げられているよに見えたというので、「吊り庭」とも言われているが、実際には何層もの階段上に庭園が配置され、様々な種類の樹木、つる植物を植えて、人工の山を造ったようだ。ただ、問題が一つある。庭園の上部までどうやって水を揚げたのかと言うことだが、その仕掛けは分かっていない。
ネブカドネザルなんて虐められたユダヤ人以外にはあまり知られていないけど、現代にその名を復活させ、世界中に知らしめたのがイラク大統領だったサダム=フセインだ。1990年、フセインがクェートに侵攻して湾岸戦争が始まった。この時に、フセインは自らを「現在のネブカドネザル王である」と言ったという。ユダヤ人の国、現代のイスラエルを敵視したアラブの独裁者らしい言い方であり、自らを現代のバビロン捕囚を実行できる王であると表明したことになる。だが、イラク戦争でついに捕らえられ、2006年に処刑されちゃった。「おごれる人も久しからず」だ。
写真はイシュタル門だけど、屋外にあるし、ベルリンにあるのとちょっと違うよね。おまけにアメリカ兵が写ってる。実はこれ、サダム=フセインが古代バビロン遺跡の地に復元したもで、ベルリンのものの半分の大きさしかない。
2003年3月にイラクに進攻したアメリカ軍が遺跡付近を駐屯地にしてしまい、取り返しのつかない被害がもたらされたと言われている。現状についての情報はないが、戦争で文化遺産が失われることほど悲しいことはない。
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メソポタミア文明最初の形成者であるシュメール人は、前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられており、 写真のように目が異様に大きい人々である。自らを「黒頭の民」と呼んだが、セム語とは違う言語(日本語に近い膠着語に属する)を用いており、民族系統は現在のところ不明である。宇宙から来たなどという荒唐無稽の話もあるが、創世記では洪水後シナル(シュメール地方)に住み着いたのは「東からやってきた人々」とされており、言語的また容貌的観点からモンゴロイドである可能性もある。
われわれは「シュメール」と呼んでるけど、原音に近い表記では「シュメル」だそうだ。第2次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行したので、シュメル学の先達の中原与茂九郎先生が混同されないように音引きを入れて表記したんだってさ。今でもネットで検索すると、日本人シュメール起源説がいっぱい出てくるけど、誇大妄想だね。
われわれは「シュメール」と呼んでるけど、原音に近い表記では「シュメル」だそうだ。第2次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行したので、シュメル学の先達の中原与茂九郎先生が混同されないように音引きを入れて表記したんだってさ。今でもネットで検索すると、日本人シュメール起源説がいっぱい出てくるけど、誇大妄想だね。
彼らは前3500年頃にメソポタミア南部に、ウル・ウルク・ラガシュなどの都市国家を形成した。メソポタミアはギリシア語で「川の間の土地」という意味で、ティグリス・ユーフラテス両河の流域地方をさしている。地図を見てお分かりの通り、現在は合流してシャトルアラブ川になってるよ。
彼らの残したウルなどの都市遺跡にはジッグラトと呼ばれる聖塔が建設された。ジッグラトは「高い所」を意味し、神が降臨する人工の山である。写真はウルのジッグラトだが、前2100年頃、ウル第3王朝期の建設で、もちろん復元されたものだ。メソポタミアは沖積平野であるため石材はなく、泥を固めた日干し煉瓦を積み上げ、アスファルトを接着剤としていた。焼成煉瓦ではないから、長い年月風雨に曝されると、元の泥に戻ってしまう。
その規模は第一層が底面62.5m×43m、高さ11m、第二層が底面38.2m×26.4m、高さ5.7mで、最上部に月神ナンナを祀る神殿を載せていた。正面の階段はまっすぐに最上部まで達していた。
ウルで発見されたもので有名なのが、大英博物館が所蔵している写真の「ウルのスタンダード」と呼ばれる、王家の墓から見つかった高さ22㎝、長さ50㎝の木製の箱だ。「スタンダード(軍旗)」と通称で呼ばれているが、楽器の共鳴箱であった可能性が高い。ラピスラズリなど贅沢な素材が使用され、ウルが経済的に豊かで盛んな交易を行っていたことがわかる。
左手も王墓から見つかった「茂みの山羊」と呼ばれる遺物で、牡の山羊が樹木に脚をかけている。この樹木は「生命の樹」であり、復活・再生を表しているという説がある。
「ウルのスタンダード」の片面は「平和」あるいは「饗宴」の図、もう片面には「戦争」の図がモザイクで描かれているが、「戦争」の図を拡大してみた。戦車が描かれているが、それを牽いている4頭の動物が議論のまととなっている。馬じゃないのと思うかも知れないけど、この頃は馬はまだメソポタミアにいなかったんだ。じゃあ、何かということだが、捕獲され、訓練されたアジアノロバの一種という説があるが、これに反対する説もあり、まだよく分かっていない。
シュメール人の文化というと、六十進法や1週7日制など現代まで残ったものがあるが、何と言っても楔形文字の発明である。前3100年頃、ウルクで粘土板による記録システムが発明され、。楔形文字はその後もオリエント世界の諸民族の言語を書き表す文字として共通の文字とされ、アケメネス朝ペルシアまで続いた。
その解読に着手したのはドイツ人のグローテフェントであった。彼はイランのペルセポリスの遺跡から出土した碑文を研究し、ペルシア語の解読に成功した。さらに、アッカド語を解読したのがである。イランのザクロス山脈中のベヒストゥーンの絶壁に、巨大なレリーフ像と多くの楔形文字が彫られていることは早くから知られていた。ローリンソンは険しい絶壁に何度もよじ登り、そこに彫られた文字を書き写し、1847年ついに解読に成功した。その結果、この巨大なレリーフと碑文は、ペルシア帝国のダレイオス1世の戦勝を記念するものであることが判明した。
写真は現存する最古の文学作品と言われている「ギルガメシュ叙事詩」を刻んだ粘土板である。この叙事詩はウルク第1王朝時代の実在の王ギルガメシュを主人公に、シュメール語で物語られていた伝承が、その後のメソポタミアのバビロニア、アッシリア、ヒッタイトなどの諸民族の言葉に翻訳され、楔形文字で粘土板に書き残された。
写真はアッシリア宮殿のレリーフで、ライオンを捕獲し、征服王らしく彫られたギルガメシュである。叙事詩は彼を通して神と人間の交流や英雄の姿を物語る。
フンババ
ギルガメシュは友人となったエンキドゥと冒険の旅に出て、レバノン杉の森の番人フンババを神に逆らって殺した(森を開いて文明化することを暗示)。さらに美の女神イシュタルの求婚を拒否し、女神が送り込んだ牡牛を殺したため神の怒りに触れ、エンキドゥは神に殺された。失意のギルガメシュはさらに冒険の旅を続け、箱舟をつくって大洪水を逃れ、永遠の命を得たウトナビシュテムと出会い不死の薬草を手に入れたが不運にもこれをヘビに食べられてしまう、というお話だ。
1872年、ジョージ=スミスというアッシリア学者が発表した論文は世界を驚かせた。スミスは、アッシリア帝国の都ニネヴェの図書館跡から見つかった2万数千点の粘土板の中に、洪水の話が出て来るのを興味を持って解読を進めたところ、聖書の「ノアの方舟」の話とおなじような物語が含まれていることに気づいた。さらに解読したところ、この物語はギルガメシュという英雄を主人公にした叙事詩の一部であることが判った。それまでヨーロッパの人びとは『聖書』が世界最古の本であると信じていたので、それに先行する物語の原型があったことに驚いたのである。
メソポタミアでは洪水によってできたと考えられる沖積世地層が発見されており、ある時期にかなり大きな洪水があったことは確かだ。その記憶が長く伝承に残され、さらに『旧約聖書』に影響を与えたということだね。
ところで、大洪水が終わった後、「ノアの箱舟」がどこに流れ着いたか知ってる?写真はトルコ共和国の東端にある標高5,137mのアララト山。その山頂から見つかった古い時代の木の化石や、航空写真から見出だした方形の船の跡らしいものをノアの箱舟の痕跡だとし、ノアの箱舟伝説が実証されたと主張する人もいるんだけど、信じるか信じないかは君しだいだ。
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明の征服をくわだてた豊臣秀吉は、1587年に対馬の宗氏に命じて、朝鮮国王の入貢と明への先導を求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は出兵の準備を始め、1592年4月、加藤清正ら西日本の大名を主力とする15万余の大軍を釜山に上陸させた。文禄の役の始まりである。この戦役を朝鮮では壬辰【じんしん】倭乱と呼ぶ。
この戦争に大義名分はなく、戦国時代の日本を統一した豊臣秀吉が、更なる領土拡張をめざして朝鮮を侵略したものであり、さらに秀吉の構想では明を征服し、天皇を北京に移すというものだった。豊臣秀吉の個人的な野望から始まった侵略戦争であったが、その背景には天下統一によって部将たちが新たな恩賞を得ることができず、不満が生じることを恐れた事が考えられる。豊臣政権は戦争を継続して新たな恩賞を与えることで成り立っていた。
朝鮮側の不意をついたことと、鉄砲の威力で日本軍は圧倒的に優勢で、まもなく漢城を陥れ、加藤軍は登満江【とまんこう】まで進出した。しかし、朝鮮の民衆も加わって抵抗が激しくなり、両班層や僧侶が指導する義兵が挙兵して抵抗し、明が援軍を派遣して平壌を奪還したため、前進が止まり、苦戦に陥った。碧蹄館の戦いで勝った日本軍は戦線を持ちこたえたが、戦線は膠着し、長期戦に転じた。
釜山・龍頭山公園の李舜臣像
その間海上では李舜臣【りしゅんしん】の指揮する朝鮮水軍が日本の水軍を各地で破り、制海権を握ったため、日本軍は補給に苦しむこととなった。
この海戦で活躍したのが亀甲船【きっこうせん】である。もともとは接舷して切り込んで来る倭寇への対策から開発されたものであったが、李舜臣が改良して実戦に使えるようにした。尖った鉄錐【てっすい】を植えた厚い木材の屋根で亀の甲羅のように甲板が覆われていたことから、この名がある。
屋根を被せることで敵が乗り込めないようにし、船の左右にたくさんの櫂をつけて速力を早めて敵に近寄り、無数の銃眼から鉄砲や矢を射るようにした。さらに、舳先には口を開けた竜頭をすえ、上からも砲火を浴びせられるようにした。李舜臣はこの亀甲船と、潮の流れをうまく利用して日本海軍を翻弄した。李舜臣は1598年の海戦で戦死したが、現在にいたるまで救国の英雄として尊敬されている。
秀吉は明との講和を図ったが、秀吉の講和条件は無視されて交渉は決裂。秀吉は1597年に再び14万余の兵を送った(慶長の役、朝鮮では丁酉倭乱)。しかし、日本軍は苦戦をしいられ、翌年秀吉が病死したため全軍撤退した。
京都に「耳塚」という塚があり、五輪塔が建っているのをご存じだろうか?しかし、これは「耳塚」ではなく「鼻塚」である。国内の戦いの場合は論功行賞の証拠品として首を塩漬けにして持ち帰り、首実検がおこなわれる。でもこれだと、朝鮮半島から持ち帰るには嵩張ってしまうので、秀吉は鼻を持ち帰るように命じた。耳だと二つあるから駄目。持ち帰った鼻の数によって何人の敵を倒したか分かるというわけだ。ところが、誰の鼻かは分からない。そこで、殺した兵士だけでなく、生きている捕虜や一般人の鼻をそいで日本に送ったと言うんだ。そのため戦争後も鼻なして歩いている人がいた、と言うから残酷な話だ。その鼻を供養したのが「耳塚」、いや「鼻塚」だ。
李参平
日本兵が朝鮮半島から持ち帰ったのは鼻だけじゃない。日本兵は引き上げるに際して5~6万の朝鮮人を捕虜として連行したが、その中には優れた陶工や活版工が含まれ、日本の文化の発展に寄与することとなった。特にこの戦争は「やきもの戦争」とも云われ、有田焼、唐津焼、萩焼、薩摩焼などはこのとき連れてこられた朝鮮陶工が始めたものである。その一人、李参平は佐賀の有田に移り住み、1616年に日本で初めて磁器を製造した。これが有田焼の始まりで、日本の陶磁器の歴史で重大な変化の一つとされている。
その他にも織物や金属活字、儒学などが日本にもたらされるているが、これは「文化の略奪」である。われわれ日本人はそのことを真摯に受け止め、反省しなければならない。
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高麗は元に服属していたので、元が明に滅ぼされそうになると、高麗内部でも親元派と親明派の対立が生じた。また海岸部は倭寇の侵略を受け、高麗政府にはそれを鎮圧する力がなく、人民の中に不満が高まっていた。
李成桂
高麗の武将・李成桂は元朝末期の紅巾軍の一部が高麗に及ぶとこれらを撃退し、南方海上での倭寇の討伐に功績をあげて名声が高まった。1388年、高麗の政権を握っていた親元派は、倭寇の鎮圧で人望のあった李成桂に命じて国境の明の拠点を攻撃させることとした。李成桂は反対したが、やむなく出征した。
鴨緑江までくると夏の増水期のため濁流が渦巻いていた。ようやく中州の威化島【ウィファド】まで渡ったが、次々と兵士が流されていくのを見て、全軍に撤退命令を出し、急遽都・開京(開城)にもどり、親元派政権を武力で倒し新しい王を立てた。これが李成桂の「威化島の回軍」である。
威化島の回軍
李成桂は直ちに土地改革に取り組み、高麗の貴族の私有地を没収、権力を集中した上で、1392年王位につき(太祖)、都を漢城(漢陽・現在のソウル)に定め、国号を朝鮮とした。朝鮮という国号は明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、高麗は成立時から明を宗主国とし、その属国という立場をとった。
高麗の第4代国王が世宗。名君の誉れが高く、大王と称せられ、現在韓国の1万ウォン紙幣の肖像に使われている。李成桂は高麗の国教が仏教であったことから、儒教を崇拝し、仏教を弾圧した。この政策は血みどろの後継者争いに苦しんだ李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断されたが、世宗の時代に本格化され、激しい廃仏政策が行われた。その結果、新羅・高麗時代に国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった。
復元された集賢殿
世宗は太宗の3男で、王位に就くはずではなかったが、優れている世宗に王位を継がせたいと考えている父親の気持ちを察した兄2人が王位を譲ったという。1418年、21歳という若さで即位した世宗が最初に行った仕事が、集賢殿【チッピョンジョン】という研究機関の設置であった。
集賢殿という名の官庁は高麗時代にもあったが、諸官庁の統廃合を経て、長く有名無実化していた。世宗は、これを学問を研究する官庁として復活させ、若く学識に富んだ官員たちを送り込んだ。王が設置したアカデミーのような知の機関が誕生したのである。
世宗自らも学問研究の中心にいて、部下に命じて研究させるだけでなく、世宗自身がその課題に夢中になり、研究の進捗に胸を踊らせた。研究に一定の成果が出ると、知識は天下に広く明らかにされ、まさに、世宗ルネサンスとも呼ぶべき絢爛たる科学文化の華が開いたのである。その中から、天文観測器、日時計、水時計がつくられ、気象台も設けられた。雨量を図る測雨器も発明された。
集賢殿という名の官庁は高麗時代にもあったが、諸官庁の統廃合を経て、長く有名無実化していた。世宗は、これを学問を研究する官庁として復活させ、若く学識に富んだ官員たちを送り込んだ。王が設置したアカデミーのような知の機関が誕生したのである。
世宗自らも学問研究の中心にいて、部下に命じて研究させるだけでなく、世宗自身がその課題に夢中になり、研究の進捗に胸を踊らせた。研究に一定の成果が出ると、知識は天下に広く明らかにされ、まさに、世宗ルネサンスとも呼ぶべき絢爛たる科学文化の華が開いたのである。その中から、天文観測器、日時計、水時計がつくられ、気象台も設けられた。雨量を図る測雨器も発明された。
世界初の金属活字を使用したのは高麗であったが、その素材は分かっていない。1403年に李朝第3代の太宗の命令で、官立の鋳字所が建てられた。素材は銅・鉄・鉛が用いられた。世宗の時代には活字・印刷技術がさらに発展し、『高麗史』『治平要覧』『八道地理志』などが編纂された。
世宗の最大の功績が朝鮮の国字である「訓民正音」【くんみんせいおん】の制定である。世宗は儒教経典をひろめ、民衆を朱子学で教化しようとして、漢字の音だけで朝鮮語をあらわす吏読【イドウ】という方法で印刷をしていたが、庶民は漢字が読めなかった。そこで世宗は、朝鮮語をそのまま文字に表すことができるよう、新たな文字を作るように集賢殿の学者に命じた。この世宗自身のアイディアから始まったのが訓民正音の創造であった。
写真は1446年に公布された「訓民正音」の序文であるが、その中で世宗は、「わが国の語音は中国とは異なり噛み合っていないので、愚かな民たちは言いたいことがあっても書き表せずに終わることが多い。予はそれを哀れに思い、新たに28文字を制定した。人々が簡単に学習でき、また日々の用に便利なようにさせることを願ってのことである」と述べている。
世界でも非常に珍しい文字の誕生である。何が珍しいのかって?世界中で使われている文字は自然に発達していったもので、誰がいつ発明したのかなんて分かっていない。誰がいつ、どんな意図で作り出したかという記録が残っているのは、訓民正音だけですからね。
「訓民正音」は「民を訓【みちび】く正しい音」の意味で、主に民衆の間で使用された。しかし、中国の従属下にあり漢字が重視されたため、当初は公文書に採用されることはなく、使用者に対する弾圧も起きた。1894年にようやく公文書に採用され、20世紀初頭になってハングルと呼ばれるようになった。ハングルは「偉大な文字」という意味だよ。
韓国の町並み ちょっとだけ漢字
ちなみに、韓国では今でも漢字を使ってるけど、北朝鮮では漢字は廃止されてしまっている。もともと漢字文化圏だった中国・朝鮮・日本のなかで、まともに漢字使ってるのは日本と台湾だけ。中国は漢字似て非なる簡単体字使ってるしね。東アジアがみんな漢字を使えばもう少し意思の疎通も出来そうだと思うけど、悲しいね。
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王建は朝鮮半島の西南海岸地方で商業・貿易にかかわった地方豪族で、開城【ケソン】に生まれた。新羅末期の反乱軍の指導者・弓裔【きゅうえい】の武将として頭角を現し、弓裔が地方政権を樹立するとその首相格となった。弓裔が暴君化して部下の人望を失うと、周囲から推されて918に王位に就き、高麗を建国、開城を都とした。935年に新羅を滅ぼし、936年には百済の残存勢力を平定して朝鮮半島を統一した。
開城は1945年以降、北朝鮮統治下にある。板門店の北8㎞にあり、南北共同の工業団地「開城工業地区」が2004年から運営されていた。しかし、長距離ミサイル発射・核開発を受けて南北関係が悪化し、2016年に韓国側に閉鎖措置にとられため、同地区で韓国企業による工業生産は停止している。
高麗は高句麗の再興という意識からつけられた国号で、かつて日本では高句麗とともに高麗を〈こま〉と呼んだ。英語のKoreaは高麗の朝鮮語音コリョのなまったものである。
初期の高麗は豪族の連合政権としての性格が強かったが、10世紀末頃の成宗時代には政治の基礎も固まった。しかし、固定し貴族化した官人層は互いに派閥を形成し、反乱が相次いだ。この間に外には契丹や女真の圧力が加わり、特に契丹軍は一時王都を陥落させたこともある。こうした内外の政情は次第に武人の勢力を高め、なかでも崔【さい】氏一族は国王の権威をしのぐほどの有力者になった。王氏政権が武人崔氏によって左右されていた頃、侵入したのがモンゴル軍であった。
崔氏は国王を連れて1232年に都を開城から江華島に移した。モンゴル軍が海戦には不向きと判断したためである。しかし、3年間も徹底抗戦を行ったため、国土と国民はモンゴル軍に蹂躙され、荒廃してしまう。
1247年の第4次侵攻を皮切りにモンゴル軍の侵入は毎年継続して行われた。高麗は徹底交戦をしたものの、結局、1259年に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏した。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わり、高麗はモンゴルの属国となった。1269年、元宗は江華島を退去して開城に還都し、ここに約40年にわたった江華島政権も終了した。
しかし江華島からの退去に従わない武人は、1270年に新たに珍島を本拠地に抵抗を続けた。三別抄【さんべっしょう】の乱である。別抄とは臨時編制の精鋭部隊のことで、崔氏政権が警護のために組織した左右の二別抄と、モンゴル軍の捕虜となりながら脱出してきたものを集めて編成した神義軍をあわせて三別抄と呼んだ。
モンゴルは高麗政府軍と連合して1年にわたる猛攻により、1271年に珍島を陥落させたが、三別抄の残党はなおも南の済州島に移ってさらに抵抗した。
三別抄は日本にも救援を要請したが、鎌倉幕府は事情を理解できず、協力することはなかった。反乱は1273年、モンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵)・高麗軍の併せて1万の総攻撃を受け、済州島が陥落し、あしかけ4年にわたった反乱は収束する。そしてその翌年、元は同じく漢軍・高麗軍を動員して、最初の日本遠征を実行した。
三別抄の乱が、モンゴルの日本征討を大幅に遅らせ、また征討軍を疲労させて日本に向かう勢いを弱めたことは間違いない。神風だけで日本が助かったわけじゃない。
高麗では、仏教が護国の宗教として厚く保護され、歴代の国王も深く帰依して各地に寺院を建立し、仏教は隆盛をきわめた。写真は高麗版大蔵経だ。大蔵経とは一切経とも言われ、経(ブッダの教え)、律(僧侶の生活規範)、論(経の注釈書)の「三蔵」と解説書などをすべて含む仏教典籍の総称である。
高麗版大蔵経は第8代顕宗の時代に着手され、60数年を経て第13代宣宗の1087年に完成した。ところがその版木は、1232年のモンゴル軍侵攻の際にすべて焼失してしまった。
そこで、崔氏政権が1236年に着手し、16年がかりで高宗時代の1251年に完成させたのが、世界遺産になっている高麗版大蔵経で、現在は海印寺の大蔵経経板閣に保管されている。
坊さんが手に持っているのが高麗版大蔵経で、縦が約24cm・横が約70cm・厚さが約4cmの白樺でできた版木で、なんとこれが81,258枚もある。そのため、八萬大蔵経とも呼ばれている。
モンゴルの第3次侵攻により国土と国民が蹂躙され、荒廃した大変な時期に、なぜ版木の復元を行ったのだろうか?それは国家滅亡という最大の国難を前にし、ブッダの力を借りてモンゴル軍を撤退させようとしたからなんだ。最初の刊行の時には60数年もかかっているのに、戦時中でありながらたった16年で彫り上げたパワーには驚かされるが、残念ながらブッダの加護は得られなかった。
※王建の肖像は韓国テレビドラマ『太祖王建』から拝借しました。
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新羅は習慣的に「しらぎ」と呼んでいるが、本来は「しんら」で、朝鮮語では「シルラ」。『三国志』魏志東夷伝によれば朝鮮半島南東部には3世紀頃辰韓諸国があったというが、356年にそのなかの一国・斯盧【しろ】 国が中心となり部族連合的国家が成立、同世紀 70年代には新羅と称した。『三国史記』では前57年の建国としているが、これは伝説であって史実性は低い。韓国の国定教科書はこの説を採用しており、400年も鯖を読んでいる。都は現在の慶州で、新羅では金城と称した。
法興王
新羅は6世紀初頭まで高句麗・百済と対立しつつ統一国家形成をはかった。新羅王国の最初の基礎を定めたのは法興王 (在位 514~540年) で、対外的には任那の中心金官加羅を合せて日本に脅威を与え、中国南朝の梁に朝貢して高句麗に対抗し、国内的には律令や年号を制定して王権の強化をはかった。
次の真興王 (在位 540~576年) は積極的に対外発展を進め、百済と戦って554年に聖明王を殺し、また残存任那を 562年打倒して日本の朝鮮支配を阻止した。聖明王と言えば、日本に仏教を伝えた百済王としてその名が知られている。日本への仏教伝来の年については戊午説(538年)と壬午説(554年)があるが、当時の状況から考えれば、当然、壬午説に軍配があがる。聖明王は日本の援助を期待して仏教を伝えたわけだ。
善徳女王
632年、新羅初の女王として即位したのは善徳女王(在位632~647年)であった。先王・真平王には男子が無く、3人の娘がいた。当時の新羅の王室では、父と母の両方の家系に王系の血縁を持っている貴族を「聖骨」といい、彼らが王になれる最優先権を持ってた。それが有名な特権的身分制度である骨品制だ。骨品には聖骨と親の片方だけが王族の血縁である「真骨」、そしてその下は、六頭品から一頭品までの六つの貴族階級があった。聖骨の男子がいなかったことと、呪術者的性格を有していたことから、徳曼【トンマン】が王位を継いで、善徳女王となった。
642年に百済と高句麗が同盟を結び、国際的に孤立した新羅は唐に救援を求めたが失敗に終わった。その後、国内では親唐派と反唐派の対立が起き、毘曇【ピダム】が女王の廃位を求めて内乱を起こした。女王は陣中で没し、従妹の真徳女王(在位647~654年)が即位した。
642年に百済と高句麗が同盟を結び、国際的に孤立した新羅は唐に救援を求めたが失敗に終わった。その後、国内では親唐派と反唐派の対立が起き、毘曇【ピダム】が女王の廃位を求めて内乱を起こした。女王は陣中で没し、従妹の真徳女王(在位647~654年)が即位した。
武烈王
654年、新興貴族階級の支持で武烈王(在位654~661年)が即位する。660年、唐の高宗は百済征討の軍を起こし、新羅にも従軍を命じた。唐軍は水・陸から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍、唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった。660年7月、ついに百済は滅亡した。
しかし、鬼室福信【きしつふくしん】らによって百済復興運動が展開され、日本に救援を求めて来た。日本は積極的にこれに応え、662年に船170艘、兵5000余人を送ったが、唐の水軍と戦って大敗した。これが名高い「白村江【はくそんこう】の戦い」である。
白村江の戦いは663年8月27日から翌日にかけて行われた。当時の世界帝国・唐と戦ったという点で、日本史上でも特異な体験の一つである。『旧唐書』には、「その舟400艘を焚【や】き、煙焔【えんえん】は天に漲【みなぎ】り、海水はみな赤く、賊衆は大いに潰【つい】ゆ」とある。完敗であった。
文武王
これに先立つ661年、武烈王は唐の高句麗遠征に呼応して北上する途上で没し、長子の文武王(在位661~681年)が即位している。666年、文武王は唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、668年に高句麗を滅ぼすことに成功。さらに半島を直接支配下におこうとする唐に抵抗して唐の勢力を退け,676年半島の事実上の統一を完成した。
左が釈迦塔、右が多宝塔
武烈王以後約1世紀は新羅の全盛期で,735年には大同江以南の支配を唐に承認させ,領域の拡大をみた。首都慶州は国家の展開とともに、一大文化都市として繁栄した。なかでもめざましいのは、仏教文化の精華であった。仏国寺は751年に建立が始まった。大雄殿(本堂)前方の左右に多宝塔と釈迦塔が建つ。これは、法華経の世界を表していると僕は思っている。仏国寺は石造建築として有名だが、木造部分は豊臣秀吉の侵略の時に焼き払われてしまった。
もう一つ慶州で有名な石窟庵は仏国寺付属の石窟で、4㎞ほど離れた吐含山の麓にあり、自然の巨岩を背景に築かれた。石窟と言っても岩山を開削したわけではなく、ドーム状の主室は花崗岩を組み合わせて人工的に造られている。平成10年に拝観した時は坊さんだということで一般人が入れない主室に入れてもらい、本尊である如来座像を間近で拝むことが出来た。
栄華を誇った新羅であったが、9世紀にはいると唐の衰退に従って新羅も衰退し、各地に地方政権が現れ、910年にはその一人の王建が高麗を建国した。935年、敬順王は高麗に帰順し、56代、992年続いた千年王国もついに滅亡した。
※法興王と善徳女王の肖像は、韓国テレビドラマ『善徳女王』から拝借しました。
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