なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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前5、4世紀のギリシア人にはマケドニアの生活習慣は粗野で遅れていると見えたようで、彼らをバルバロイ(異民族に対する蔑称)と呼んでいたが、このマケドニア人がドーリア系ギリシア人であったことは、ほぼ間違いない。前2000年前後から原ギリシア人の移動の過程で北部山岳地帯に定住した一派だったのだろう。以来、北方のイリリュア人、トラキア人との接触が多かったマケドニア人は、バルカン半島を南下していち早く先進文明に出会ったドーリア人とは異質の社会を形成していった。
ちなみに、現在のマケドニアに住んでいるマケドニア人は、南スラヴ系のスラブ人種が多数を占めており、古代マケドニア王国と民族的には直接的な関係はない。だから、ギリシア人は「あんたら古代マケドニア人の子孫じゃなないだろう」ってんで、マケドニアを名乗ることに猛反発して来たが、2018年6月にマケドニアは国名を北マケドニア共和国とすることでギリシアとの政府間合意がようやく成立した。
ちなみに、現在のマケドニアに住んでいるマケドニア人は、南スラヴ系のスラブ人種が多数を占めており、古代マケドニア王国と民族的には直接的な関係はない。だから、ギリシア人は「あんたら古代マケドニア人の子孫じゃなないだろう」ってんで、マケドニアを名乗ることに猛反発して来たが、2018年6月にマケドニアは国名を北マケドニア共和国とすることでギリシアとの政府間合意がようやく成立した。
フィリッポス2世は前382年、マケドニア国王アミュンタス3世の第3王子として首都ペラ(現在はギリシア領)で生まれた。15歳から人質として3年間テーベに滞在したが、当時のテーベは前371年のレウクトラの戦いでスパルタに勝利し、ギリシアの覇権を握っていた時期だ。才能を見込まれたフィリッポスは斜線陣の考案者である将軍エパメイノンダスの家で教育を受け、この間にファランクス(密集部隊戦法)や斜戦陣戦法を学んだとされる。帰国後、兄の子の摂政を経て、前359年に23歳の若さで王位についた。
フィリッポスは自由農民による長槍歩兵のファランクスを完成し、常備軍を創設した。ギリシアのファランクスは8列×8列の64人の密集方陣であったが、マケドニアはこれを改変して16列×16列の256人とした。これがサリッサと呼ばれる長槍を持って戦う。ギリシアの長槍はせいぜい2.7mだが、マケドニアのものは6mもある。マケドニアのファランクスはまるで巨大なハリネズミのようなものであった。
フィリッポスはこの密集部隊を使って領土の拡大を図り、金鉱山を確保して財力を高め、巧みな外交政策によってマケドニアを強国とした。攻略した都市をフィリッポイと命名したが、都市に個人名をつけた最初の例である。
カイロネイアの戦い
フィリッポス2世はギリシア諸ポリスの神聖戦争に介入、ついで前338年カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、スパルタを除く全ギリシアを糾合したヘラス連盟(コリントス同盟)の盟主となった。カイロネイアの戦いはアレクサンドロス大王の初陣としても有名である。
フィリッポス2世の墓?
ギリシア北部ビエリア山脈の山麓ヴェルギナは、ペラの前に首都が置かれていたアイガイがあったところと推定されているが、そのヴェルギナで1976年に発見された墳墓から見事な黄金の副葬品が多数出土して、世界をわかせた。副葬品の中の陶器から墳墓の年代は前4世紀半ばとみられる。被葬者はフィリッポス2世であろうと推定されていて、この推定を疑問視する見解もあるが、それを否定する材料は今のところ現れていない。
アレクサンドロス
フィリッポス2世は全部で7人の妻をめとったが(マケドニアは一夫多妻制)、4番目の妻オリュンピアスとの間に生まれたのが、後に大王と呼ばれるアレクサンドロである。伝承によると、フィリッポス2世の祖先はヘラクレス、オリュンピアスの祖先はアキレウスで、血統的にはアレクサンドロスはギリシア世界のサラブレッドだ。また、オリュンピアスはフィリッポス2世との結婚の前夜、子宮を雷で撃たれた夢を見た。そのことから、彼女は息子アレクサンドロスのことを「ゼウス神の子」と呼び、とても可愛いがった。
それに対し、フィリッポス2世は大人しいアレクサンドロスに、それほど将来性を感じていなかったようだ。ところが、アレクサンドロスが11歳のころ、フィリッポス2世がアレクサンドロスの評価を改める出来事が起きる。
商人がとても良い馬を売りにやって来たが、非常に気性が荒く、誰一人乗りこなすことが出来なかった。フィリッポス2世はこの馬を買うのをやめようと思ったが、アレクサンドロスがこう言った。
「私が上手く乗りこなせたら、あの馬を私に買っていただけますか?」
フィリッポス2世は「面白い」と思い、アレクサンドロスにやってみさせた。すると、大人ですら乗りこなせなかったに、アレクサンドロスはこれを見事に乗りこなしたのである。
これにフィリッポス2世は興奮して立ち上がり、こう叫んだ。
「息子よ、マケドニアはお前には狭すぎる。お前に見合う王国を探すが良い!」
この馬はブケファラスと名づけられ、アレクサンドロスの愛馬としてアジアへの遠征にも同行することになる。
フィリッポス2世は息子の教育にも熱心で、よい家庭教師を求めたが、その中の一人がアリストテレスだった。「万学の祖」とも言われるあの大哲学者である。この時、アレクサンドロスは12歳、アリストテレスは41歳であった。フィリッポス2世はミエザに学園をつくり、ヘファイスティオンやプトレマイオスなど貴族の子弟と共にアレクサンドロスにギリシア的教養を身につけさせた。アリストテレスに3年間学んだアレクサンドロスの学問とギリシア文化への愛好は、終生変わることはなく、共に学んだ「学友」たちは、後にアレサンドロスを支える将軍となった。
さて、前336年春、フィリッポス2世は次なる大目標であるペルシア遠征に着手、重臣のパルメニオンらの率いる先遣部隊を小アジアに上陸させ、次々とギリシア諸都市を解放していった。いよいよ本隊を率いて出発する前に、フィリッポスは娘クレオパトラ(母はオリュンピアス。アレクサンドロスの妹)と隣国モロッソイの王子アレクサンドロス(同じ名前ばかりで頭が混乱)との結婚式を挙行した。初夏の古都アイガイでの祝典はペルシア遠征の壮行会を兼ね、盛大に行われた。ところがその翌日、劇場で行われた結婚披露の音楽競技会の開会式典で、フィリッポスは護衛の貴族パウサニアスの凶刃に倒れてしまう。
実行犯パウサニアスは劇場を飛びだし、逃走用に用意してあった馬に向かって走り出したが、護衛兵たちが追いかけ、彼を取り押さえて槍で殺した。劇場の観衆の目前で白昼堂々と行われた暗殺劇。栄光の絶頂から一瞬にして奈落の底へ。フィリッポス2世は47歳。まさに人生の盛りにおける不意打ちの如き最後だった
オリュンピアス
真犯人は誰だ?オリュンピアスとその子アレクサンドロスの陰謀だったという説がある。その理由はフィリッポス2世が前337年にマケドニアの大貴族の娘クレオパトラ(さっきのクレオパトラじゃないよ)に恋して、彼女を7番目の妻とすると、フィリッポスとアレクサンドロス母子との間の軋轢が生じ、母と子はオリュンピアスの故国エペイロスに帰ってしまった。この里帰り事件を根拠に二人が真犯人だといういう説が真実味を帯びて唱えられた。もし二人の間に男の子が生まれれば、アレクサンドロスの王位継承権が奪われるかもしれないという恐れがあったからだが、現在までの研究ではほぼ否定されている。
実は暗殺者パウサニアスには王を殺す個人的な理由があった。同性愛関係のもつれが原因でフィリッポス2世に恨みを抱いていたのである。たったそれだけで、と言われそうだが、ギリシアと同じく男性間の同性愛が普通だったマケドニアでは、けっして珍しい事ではない。事実、前5世紀末のアルケラオス王も、同性愛が原因で若い愛人(もちろん男性)に殺害されている。王族同士の血なまぐさい争いや粛清が日常茶飯だった世界では、王の暗殺すら突出した出来事ではなかったのである。
まあ何れにしても、フィリッポス2世の東方遠征という事業は、息子のアレクサンドロスが継承することとなったのである。
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マラトンの戦いから10年後の前480年、ペルシアは再びギリシア征服を試みた(第3回ペルシア戦争)。ダレイオスはすでに亡く、息子のクセルクセスがじきじきに遠征軍の指揮をとっての大事業であった。ヘロドトスの記述によれば歩兵170万、騎兵8万、戦車隊など2万に加え水軍51万7000以上(これは三段櫂船1207隻、その他の船舶・輸送船3000隻からなる)これらにヨーロッパ各地からの援軍を加えた総計は528万3000以上という大規模なものであったというが、これはもちろん誇張された数字で、実際には多くても20万程度と考えられる。
この遠征では陸海の大軍はエーゲ海の北岸沿いに進み、ギリシアへと侵入してきた。ギリシア側の最初の作戦では、北方から中部ギリシアへ入る際の関門であるテルモピレーでペルシア陸軍を撃退するのはスパルタを中心とするペロポネソス同盟軍であり、他方、ペルシア海軍はエウボイアのアルテミシオン沖でアテネを中心とするギリシア連合艦隊が撃退することになった。
テルモピレーでのスパルタ陸軍の勇敢にして悲壮な戦いぶりは、ヘロドトスの史書の白眉の一つと言える。
ペルシア軍の一部が間道を通って背後に回ったため、前後を挟み撃ちにされると覚ったギリシア軍兵士のあいだには、もはやこれまでと撤退しようという意見が出てきた。
レオニダス
スパルタ王レオニダスは、撤退を希望する者にはそれを勧め、自分と部下300人、それに彼らと運命をともにする決意をしたテスピアイ人がとどまり、ペルシア軍を迎え撃ったのである。兵士たちは槍が折れれば、刀で戦い、最後には短剣や素手で、さらには歯で噛みついて戦ったが、ついにペルシア軍の矢の攻撃のまえ、全員が討ち死にした。ペルシア軍の損失も大きく、クセルクセスの兄弟2人もこのときに戦死している。のちにスパルタ兵士のために戦場跡に立てられた墓碑に刻まれた碑銘を、ヘロドトスは引用している。
外【と】つ国の方よ、スパルタびとに伝えてほしい。おん身らの命に従いて、われらはここに討ち果てたと。
全員討ち死にしたため、戦死の報せを通りすがりの他国人に託さなければならない。そのようなスパルタ軍の壮烈な戦いぶりを、この碑銘は悲壮な響きをもって伝えている。
ペルシア陸軍がテルモピレーを突破したという報せは、アルテミシオンのギリシア海軍にその日のうちに到着した。陸上の防衛線が破られたならば、海上での防衛も意味がないということで、ギリシア連合艦隊もアルテミシオンを撤退し、ほぼ4日でサラミスへと戻った。
ペルシア戦争の趨勢を決定づけたサラミス海戦に先立ってこんな話が残っている。ギリシアの人は神託が大好きである。神託所はいくつかあったが、なかでもいちばん尊崇されたのは、デルフィのアポロン神の神託だった。ペルシアとの戦いに際しても、もちろん神託は行われ、アポロン神のお告げは、「木の砦で戦え!」と出た。「木の砦」とは一体何のことだ?昔、木の柵をめぐらしていたアクロポリスのことだという者もいた。
そうした中、前483年にラウレイオン銀山で新たな銀の鉱脈が発見された。アテネにとってこうした臨時の収入があった場合、市民に平等に分配することになっている。しかし、「木の砦」とは軍艦のことだと解釈したテミストクレスが、臨時収入でペルシアの来襲に備えて軍艦を建造することを提案し、多くのアテネ人の賛同を得て、この案は民会を通った。その結果、アテネの軍船は70隻から200隻に増加した。
さて、第1の防衛線を突破したペルシア軍はらくらくとボイオティアを南下し、9月にはアッティカに侵入した。アッティカではすでに住民はトロイゼンやサラミス島に疎開していたため、ペルシア軍は難なくアクロポリスまで到達し、そこを攻略した。アテナ女神の聖財を守るために籠城していた財務官と女性神官らは抵抗を試みたが、それも空しく、ついに落城。アクロポリスに保管されていた聖財や奉納品は掠奪され、諸神殿は炎上した。
テミストクレスは逆スパイをペルシア側に送り、ギリシア艦隊はペロポネソス方面へ逃げようとしているから、その前に、サラミス島の近くに集結しているところを一挙に襲うのがよいと、言わせた。これを聞いたクセルクセスは夜のうちに1000隻にも及ぶペルシア海軍に300隻からなるギリシア連合艦隊を包囲させた。
対決の場となったのは、アッティカ半島とサラミス島の間に横たわるサラミス水道の東西7キロ、南北2キロの狭い海域であった。ギリシア船に比べてペルシア船は大型であったが、これが狭い水道での戦いには不利になった。ギリシア船は体当たりで、敵艦の船腹に突っかけた。ペルシア船は大型のうえに多数なので、方向転換もうまく行かず、味方同士でぶつかり、沈没するものも多かった。まごまごしている船には、ギリシア船が舷【げん】を近づけ、そこから兵士が飛びこんで、斬りこんだ。そのうえ、午後には西風が強く吹きはじめ、嵐になり、ペルシア艦隊はますます混乱した。外海に逃れ出ようとするペルシア船を、ギリシア船は追い、海戦の勝敗は夕方までに決まってしまった。
ペルシア海軍は翌日に撤退を開始、クセルクセスも帰国の途についた。翌年には、プラタイアの平野でペルシア軍とギリシア連合陸軍が対決し、ギリシア側が辛うじて勝利し、ペルシアとの戦争はほぼ帰趨が決し、ペルシア軍が再びギリシア本土に侵攻することはなかった。
サラミス海戦で活躍したギリシア船は三段櫂船【さんだんかいせん】(トリエレス)という。乗員200名中180名までが上下3段に設営された板に腰かけて、合図にあわせていっせいに櫂を漕いだ。高速のまま舳先【へさき】で敵船に体当たりして、沈没させる。漕ぎ手は武器、武具を必要としないから、貧しい市民、最下層の市民でも漕ぎ手として戦争に参加し、勝利を国にもたらすことができた。200隻の三段櫂船に必要な漕ぎ手は3万6000人であるが、それはアテネの市民全員が乗り込んでも欠員が出る数だった。アテネ居住のメトイコイ(在留外人)や他国からの応援で、全船が充当されたのであろう。
アテネ海軍は漕ぎ手である下層市民なくしては成り立たない。こうして下層市民の発言権が高まり、徹底的な民主政へと移行し、将軍ペリクレスの時代にその完成を見ることになったのである。
※画像の一部は映画「300」から拝借しました。
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小アジアのエーゲ海に面するイオニア地方は早くから商業活動が活発で、経済的に豊かであった。そのため、前6世紀前半にミレトスに自然哲学が興り、タレースらの哲学者を輩出するなど、ギリシア世界の中でも先進地域であった。しかし、前6世紀の半ばにアケメネス朝のダレイオス1世の攻撃を受け、その支配下に入ってしまった。
イオニア地方の諸ポリスは貿易活動を制限されことなどへの不満が強まり、ついに前499年、ミレトスの音頭取りでペルシアへの反乱を起こした。ミレトスから支援を要請されたギリシア本土では、アテネとエレトリアがそれぞれ20隻と5隻の軍船を送ったが、前494年、ミレトスが陥落してこの反乱は失敗に終わった。
ダレイオス1世
援軍を送ったことが気に食わないダレイオス1世は、前492年、懲罰の意味でアテネとエレトリアに軍隊を送った。これがペルシア戦争の始まりである。第1回のペルシア戦争でペルシアはトラキア地方を侵略したが、海軍がエーゲ海北岸のアトス岬で暴風にあって壊滅、失敗に終わってしまう。憤懣やる方ないダレイオスは前490年、大遠征軍を再度ギリシアに派遣した。
ペルシア海軍は今度はエーゲ海の島々をぬって航行し、エレトリアを陥落させた後、アッティカの東岸マラトンに上陸した。迎え撃ったミルティアデス指揮のアテネ軍は重装歩兵部隊の目覚ましい戦いぶりでペルシア軍を敗走させた。この戦闘での死者は、ヘロドトスによれば、アテネ側が192名、ペルシア側が6400名だった。
かの軍事大国スパルタは何もしなかったのか?いや、そうではない。スパルタはアテネから援軍派遣を求められたものの、満月まで出動してはならないという掟のために援軍出発が遅れ、マラトンに到着したのは戦闘の1日後だった。アテネがスパルタの支援なしでペルシアの大軍を撃退したことで、ギリシア世界におけるアテネの評価が高まることになった。
この戦闘の後、アテネの元老に勝利を伝えるために伝令のフィディピディスがマラトンからアテネまでを一気に駆け抜け、「我勝てり」とアテネの勝利を告げると同時に息絶えた。これを記念してオリンピック競技の中に、マラトンとアテネ間の距離を約40キロを走るマラソン競技が始まったと言われるが、これは嘘。
ヘロドトスの『歴史』には、フィリッピデスという伝令が、マラトンの戦いの直前に、アテネから2日間で走ってスパルタに援軍を要請したという話は出てくるが、勝利を報告してバッタリ倒れた、という話は出てこない。また、古代オリンピックの長距離走は4600m走で、40キロも走っていなかった。
実はこの話は、
なお、マラソンの距離は大会ごとにまちまちで、だいたい40キロで行われていた。42.195キロを走ったのは、1908年の第4回ロンドンオリンピックの時が最初で、1924年の第8回パリオリンピック以降この距離に統一された。だから、NHK大河ドラマ「いだてん」の金栗四三が出場したストックホルム大会の時も42.195キロではなく、40.2キロだった。日射病で途中棄権しちゃったけどね。
ギリシアのポリスと言えば、すぐに思い浮かぶのがアテネとスパルタだろう。アテネはイオニア人のポリスで歴史が古いのに対して、スパルタを建設したのはドーリア人でギリシアでは新参者だ。ドーリア人は前12世紀にピンドス山あたりから移動して南下し、先住アカイア人を征服してペロポネソス半島一帯を占拠した。
エウロタス河畔に4つの集落を建設して定住したドーリア人が近隣のアカイア人を支配下におさめ、さらにアカイア人の最大拠点アミクライを攻略して第5の集落として併合し、前8世紀半ばに5つの集落でスパルタは成立した。
ラコニア全体を征服したスパルタは、さらに重装歩兵の密集部隊戦術を採用してメッセニアへの侵略を果たし、ギリシア世界の中でいち早く大国化を実現させた。この征服過程で、自分たち以外のドーリア人やアカイア人の一部をペリオイコイ(周辺の民という意味)という商業に従事する身分にし、他をヘイロータイと呼ばれる農業奴隷とした。ペリオイコイは自由身分ではあったが、参政権は認められていなかった。しかし、スパルタの国名は正式にはラケダイモンといい、ラコニアのペリオイコイはラケダイモンの成員とみなされ、いざ戦争となれば従軍義務があった。
スパルタに征服されたメッセニア人のほとんどはヘイロータイとなり、スパルタに強い敵意を抱いていたが、その人口は14~20万人で完全市民(スパルティアイタイ)の10倍を超えていた。もしヘイロータイが一致団結して反乱を起こしたならば、それは国家崩壊につながりかねない。スパルタ人はヘイロータイが反乱を起こさないように警戒態勢の強固な国家を作り上げた。それがリュクルゴス体制と呼ばれる国制であり、リュクルゴスが作り上げたとされているが、なかば神話的な人物であって実在は疑わしい。
メッセニアを征服したスパルタは、その土地をスパルタ市民に分配し、すべての市民が土地所有者となった。土地はヘイロータイが耕作したから、市民は農業労働から解放されて軍事に専念することがことが可能だった。市民には相互に貧富の差があるにはあったが、政治的平等を実現し、互いにホモイオイ(同等者)と認め合ってポリスの運営にあたることになった。互いに同等の者であるならば、集団生活も共同の軍事訓練も秩序をもって維持していける。これがリュクルゴス体制を支える基本的条件である。
しかし、経済活動の活発化により貧富の差が拡大していけば、相互の関係の均衡は崩れてしまう。そこで、経済を停滞させて秩序の維持をはかるために、金銀の貨幣を廃止し、鉄の貨幣のみを使用し、また外国から魅力的な物資が入ってきて経済を刺激しないよう、また、欲望をかきたてないよう、鎖国政策がとられた。
そして、強靱な戦士を育てるために行われたのが、いわゆる「スパルタ教育」であった。野球の鬼である星一徹はわが子・飛雄馬をスパルタ教育で育て上げ、飛雄馬はまさに「巨人の星」となったが、元祖スパルタ教育はあんなもんじゃなかった。
スパルタではまず、親は自分の子供を自由に育てる権利を持っていなかった。「子供は都市国家スパルタのもの」とされ、生まれた子供はすぐに長老の元に連れて行かれた。そこで「健康でしっかりした子」と判定されれば、育てる事が許される。病身でひ弱な子供は、ターユゲトンのもとにあるアポテタイの淵に投げ捨てられた。
男の子は7歳になると親もとを離れて集団生活に入る。大人の監督と指導のもとに、年齢別の集団養育を受け、年齢を超えて編成された集団での共同生活を続けた。その集団生活においては、肉体的にも精神的にも苦難に耐える優秀な戦士を養成するための共同訓練が日々続けられた。子供たちは互いにいじめや挑発し合ったり、喧嘩したりするよう推奨される。子供たちの間で口論が起きようものなら、監督官は拳で決着をつけるよう促した。
読み書きは生活するうえで最小限必要な程度に教えられるが、その他の学問は必要ない。兎に角、体育訓練と軍事訓練の毎日である。年齢とともに訓練の厳しさは増し、少年たちは髪の毛を剃り、裸足で歩き、裸で遊ぶことに慣れていった。12歳にもなれば下着なしで生活し、1年に1枚の上着が支給されるだけで、沐浴も禁止された。食事も生きる上で最低限の量しか与えられなかった。屈強な肉体を作るためなら鱈腹食わせれば良さそうなものだが、食べ過ぎれば太るし、欠乏状態を経験しておけば、戦時におけるいかなる状況にも耐えることが出来る、と考えた。また、腹が減って耐えられなければ盗んで食うことが奨励された。勿論見つかればひどい鞭打ちを食らうが、盗む訓練は戦闘訓練になると考えられていた。
20歳になると一人前の兵士として軍隊に編入され、60歳に兵役は解除された。しかし、集団の生活は30歳になるまで続いた。スパルタの成年男子は20歳を過ぎて間もない頃には結婚したが、結婚後も30歳までは集団生活を続けなければならない。夜間にこっそりと自宅へ戻り、妻と短い時間を過ごし、子供をつくった。
また、スパルタでは色白の肌と肥満は禁じられていた。それは鍛錬を怠った男子の証拠とされたからだ。成人男子は必ず10日に一度、衆人環視の中で、監督官の前に裸をさらさなければならず、鍛練のあとがみられる頑丈な体であれば表彰され、怠惰のため脂肪がついて多少ともふくれあがっていたり、四肢のどこかに弛緩した軟弱な部分があった場合には、鞭で打たれて処罰された。
30歳になったら自宅での生活が許されるが、一家団欒で夕食という訳にはいかなかった。市民は毎日の夕食を、1グループ15人位が各自食糧をもちよって共同でとった。市民間の連帯感や仲間意識を維持するためであったが、貧しい者には食糧の持参は大きな負担だった。でも、食糧を用意できない場合は市民資格を失ってしまったそうだ。
こうして訓練されたスパルタの軍隊は、個々人が戦闘能力に秀でているだけでなく、団結力においてもギリシア最強を誇ったのである。だから、スパルタは城壁は必要ないとして造ることはなかった。
強靱な戦士をつくるためには、まず丈夫な子を産まなければならない。そのため、「強い子供を産める母体の育成」が必要であり、女性も男性同様に幼少期から厳しい体育訓練を受けた。15歳位になると親が決めた30歳位の男性と結婚させられたが、戦死することが多かったスパルタでは、兄弟で一人の女性を妻に迎えたと伝えられる。
女性の場合、戦争に赴くことはなかった。しかし出産で死んだ女性には、戦死者と同じ敬意が払われ、墓石が与えられた。スパルタ人にとって、その女性は新しい戦士を生み出すために戦い、惜しくも命を落としたのと同義だった。民主政の発達したアテネの女性の地位は低く、まさに「奥さん」で家庭の奥に籠もって一生を送ったの対し、スパルタの女性は自由で誇り高く生きていたのである。
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シュリーマン
シュリーマンはこれら出土品に「プリアモスの財宝」と名づけ、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。シュリーマンは「プリアモスの財宝」をオスマン帝国政府に無断で持ち出し、1881年、「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き替えに祖国ドイツに寄贈した。ベルリンにあったこの「財宝」は1945年いらい行方不明になっていた。それがモスクワのプーシキン美術館で発見され、1996年から同館で公開されている。ベルリン陥落の際のどさくさに紛れてソ連が盗んでいったんだ。
現在、トルコ、ドイツ、ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていない。
トロイア遺跡は9層から成っているが、シュリーマンはその第2層をホメロスの時代の遺跡と考えたが、現在は第7層がそれにあたることがわかってきた。ところが、肝腎の第7層はシュリーマンの発掘の時、ほとんど削り取られて消えてしまっているという。この商人あがりの考古学者は世界の学会を驚倒させたのではあるが、素人であり、発掘技術も進んでいなかった時代とは言え、残念なことである。
1876年、シュリーマンはミケーネの発掘に取りかかった。遺跡そのものの存在は古くから知られていたが、問題は王墓の所在である。古代の記録はいろいろな墓の存在を誌しているが、その正確な場所については一言も触れていない。
学者達はそれらの墓を獅子門より外の下町にあると推測していたが、ここでもシュリーマンはほとんど直覚によって獅子門の内側に狙いをつけた。
彼の狙いに狂いはなかった。石板に囲まれた円形墓域の5つの竪穴から出たおびただしい副葬品。特に王冠その他の純金の装身具の豪華さはトロイアの出土品を遙かに凌ぎ、発掘者を驚喜させた。総量10キロを越す黄金製品は「黄金に富むミケーネ」というホメロスの詩句が詩人の空想ではないことを見事に実証した。
中でもいちばん珍しいのは6個の黄金の仮面である。一つは判別出来ぬほど破損し、一つは頭蓋骨の上に置かれていたが獅子の面であった。他の4つは明らかに男子を表し、その立派な鼻筋からシュリーマンはギリシア人の肖像だと確信した。そのうちの一つはピンと跳ね上がった口髭と豊かな顎髭を示している。シュリーマンはこれがアガメムノンのものであると無邪気に信じて、「アガメムノンの仮面」と名づけた。彼はこの見事な髭によってミケーネの人々がオリーブ油を使っていたと推測した。それは全く正しかった。しかし、仮面の髭は、発掘者の気づかなかったもっと大きな役割を後に果たすのである。
実はシュリーマンはクレタ島の発掘も企てている。発掘地点は当時オリーブ畑になっていたが、1889年、その土地を4万フランで2500本のオリーブの木ごと買い取ることになった。地主は発掘にオリーブの木は不要だろうと、代価を取りながら、木の大半を別の畑に移植してしまった。シュリーマンはがんらい商人であったからこの地主の処置をひどく怒り、遂に交渉は決裂してしまった。翌年、シュリーマンは死んだので、クノッソス宮殿発掘の栄誉をエヴァンズに譲ることになった。
そのエヴァンズが1936年にロンドンで公開講演会を行った。演題は「誰にも読めない文字の話」。クノッソスの発掘では文字の刻まれた大量の粘土板も出土し、注目を集めた。しかも、その文字は従来知られているどの文字とも異なっていた。エヴァンズはクレタの文字を3種類に分類し、それぞれ絵文字、線文字A、線文字Bと名づけた、これらの文字を解読しようと研究者達の試みが始まったが、それは困難を極めた。エヴァンズはこれらの文字の話をしたのである。
ハインリヒ=シュリーマンは1822年、北ドイツの貧しい牧師の子として生まれた。彼の著書『古代への情熱』によれば、子供の頃に誕生日のプレゼントとして『子供のための世界史』を父親から贈られた。その中にあったトロイア落城の挿画を見て、その場所を父親に聞いたが、それは架空の話だからと教えられた。それでも遺跡の実在を信じたシュリーマンは、遺跡の発掘を生涯の念願としたという。
楽しかった少年の頃、そこにはミンナ=マインケがいた。この子だけは彼に共鳴して、「一緒にトロイアを掘る」と約束してくれた。やがて、一家の没落。最も苦しかった雑貨屋の小僧の時代。南米航路の船の給仕になってたちまち難船し、命からがらオランダのアムステルダムに辿り着き、ある商会に勤めた。このあたりから彼の異常な個性が現れてくる。仕事の余暇に、独創的なやり方でヨーロッパの7カ国語を自分のものにしてしまったのだ。僕なんか英語の一つもマスター出来なかったのに。
楽しかった少年の頃、そこにはミンナ=マインケがいた。この子だけは彼に共鳴して、「一緒にトロイアを掘る」と約束してくれた。やがて、一家の没落。最も苦しかった雑貨屋の小僧の時代。南米航路の船の給仕になってたちまち難船し、命からがらオランダのアムステルダムに辿り着き、ある商会に勤めた。このあたりから彼の異常な個性が現れてくる。仕事の余暇に、独創的なやり方でヨーロッパの7カ国語を自分のものにしてしまったのだ。僕なんか英語の一つもマスター出来なかったのに。
1846年、すでに地位も安定した彼は、長年音信不通のミンナに結婚を申し込んだ。彼女が数日前に他の男と結婚したと知った時のショックは大きかった。ミンナと一緒に掘る楽しみは永久に失われたが、商売のほうはトントン拍子にいった。クリミア戦争、アメリカの南北戦争は、インド藍や木綿を取引していた彼の財産を急速に大きくしていった。
彼は最後にギリシア語の勉強にかかった。ギリシア語を最後にしたのは、その魅力があまりに大きく商売が留守になるのを恐れたからだった。この仕事熱心と、時には奇跡ともいえる幸運によって巨富を築いたシュリーマンは、1864年、41歳で事業から身を引いて2年におよぶ世界漫遊の旅に出、維新前夜の日本も訪れている。その後はパリに落ち着き、初めて考古学の勉強に身を入れた。しかし、長続きせず、1868年、オデュッセウスの故郷イタキ島の発掘にチャレンジしたが、ものの見事に失敗に終わった。
彼は最後にギリシア語の勉強にかかった。ギリシア語を最後にしたのは、その魅力があまりに大きく商売が留守になるのを恐れたからだった。この仕事熱心と、時には奇跡ともいえる幸運によって巨富を築いたシュリーマンは、1864年、41歳で事業から身を引いて2年におよぶ世界漫遊の旅に出、維新前夜の日本も訪れている。その後はパリに落ち着き、初めて考古学の勉強に身を入れた。しかし、長続きせず、1868年、オデュッセウスの故郷イタキ島の発掘にチャレンジしたが、ものの見事に失敗に終わった。
トロイア遺跡
これでめげるようなシュリーマンではない。1870年、いよいよトロイアの発掘に乗り出した。当時、トロイアの遺跡の候補地として古代のスカマンデル川に沿う2つの丘が有力だったが、学者達はそのうちの海からだいぶ離れた方をトロイアの跡と見ていた。シュリーマンはホメロスの詩には「海の見えるトロイア」と詠われていることから、トロイアはもっとずっと海に近いはずだと直感し、1873年に大城壁を持つ都市とおびただしい財宝を掘り出すことに成功した。
シュリーマンはこれら出土品に「プリアモスの財宝」と名づけ、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。シュリーマンは「プリアモスの財宝」をオスマン帝国政府に無断で持ち出し、1881年、「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き替えに祖国ドイツに寄贈した。ベルリンにあったこの「財宝」は1945年いらい行方不明になっていた。それがモスクワのプーシキン美術館で発見され、1996年から同館で公開されている。ベルリン陥落の際のどさくさに紛れてソ連が盗んでいったんだ。

現在、トルコ、ドイツ、ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていない。
トロイア遺跡は9層から成っているが、シュリーマンはその第2層をホメロスの時代の遺跡と考えたが、現在は第7層がそれにあたることがわかってきた。ところが、肝腎の第7層はシュリーマンの発掘の時、ほとんど削り取られて消えてしまっているという。この商人あがりの考古学者は世界の学会を驚倒させたのではあるが、素人であり、発掘技術も進んでいなかった時代とは言え、残念なことである。

1876年、シュリーマンはミケーネの発掘に取りかかった。遺跡そのものの存在は古くから知られていたが、問題は王墓の所在である。古代の記録はいろいろな墓の存在を誌しているが、その正確な場所については一言も触れていない。
ミケーネの獅子門
学者達はそれらの墓を獅子門より外の下町にあると推測していたが、ここでもシュリーマンはほとんど直覚によって獅子門の内側に狙いをつけた。
彼の狙いに狂いはなかった。石板に囲まれた円形墓域の5つの竪穴から出たおびただしい副葬品。特に王冠その他の純金の装身具の豪華さはトロイアの出土品を遙かに凌ぎ、発掘者を驚喜させた。総量10キロを越す黄金製品は「黄金に富むミケーネ」というホメロスの詩句が詩人の空想ではないことを見事に実証した。
中でもいちばん珍しいのは6個の黄金の仮面である。一つは判別出来ぬほど破損し、一つは頭蓋骨の上に置かれていたが獅子の面であった。他の4つは明らかに男子を表し、その立派な鼻筋からシュリーマンはギリシア人の肖像だと確信した。そのうちの一つはピンと跳ね上がった口髭と豊かな顎髭を示している。シュリーマンはこれがアガメムノンのものであると無邪気に信じて、「アガメムノンの仮面」と名づけた。彼はこの見事な髭によってミケーネの人々がオリーブ油を使っていたと推測した。それは全く正しかった。しかし、仮面の髭は、発掘者の気づかなかったもっと大きな役割を後に果たすのである。
実はシュリーマンはクレタ島の発掘も企てている。発掘地点は当時オリーブ畑になっていたが、1889年、その土地を4万フランで2500本のオリーブの木ごと買い取ることになった。地主は発掘にオリーブの木は不要だろうと、代価を取りながら、木の大半を別の畑に移植してしまった。シュリーマンはがんらい商人であったからこの地主の処置をひどく怒り、遂に交渉は決裂してしまった。翌年、シュリーマンは死んだので、クノッソス宮殿発掘の栄誉をエヴァンズに譲ることになった。
そのエヴァンズが1936年にロンドンで公開講演会を行った。演題は「誰にも読めない文字の話」。クノッソスの発掘では文字の刻まれた大量の粘土板も出土し、注目を集めた。しかも、その文字は従来知られているどの文字とも異なっていた。エヴァンズはクレタの文字を3種類に分類し、それぞれ絵文字、線文字A、線文字Bと名づけた、これらの文字を解読しようと研究者達の試みが始まったが、それは困難を極めた。エヴァンズはこれらの文字の話をしたのである。
ヴェントリス
この会場に、誰も読めそうもない文字の話に一生懸命に聞き入る一人のイギリス人少年がいた。すでに7歳の時にエジプト象形文字についてのドイツ語の本を勉強したというこの少年は、この講演を聴いて必ずこれらの文字を解読してみせるとの決意を固めた。少年の名前はマイケル=ヴェントリス、当時14歳であった。しかし、彼は考古学者としての道を歩むことはなく、建築家となった。
第二次世界大戦後、仕事の傍ら線文字の解読に取り組むようになった。当時はエーゲ考古学の大家であったエヴァンズが、クレタやミケーネの文明は非ギリシア人の文明であり、彼らの文字もギリシア語とは関係がないと主張し、それが通説となっていた。
しかし、ヴェントリスは研究をするめるうちに線文字Bで書かれているのは古いギリシア語ではないかと気がついた。若い言語学者チャドウィックの協力を得て研究を進めたところ、ギリシア語として解読できることをついに証明し、1953年に学会で発表し、大きな反響を呼んだ。解読を志してから17年後のことであった。ミケーネの人々がギリシア人だと考えたシュリーマンの直感は見事に当たっていたのである。
線文字Aの解読にも期待がかかったが、ヴェントリスはその研究を完成することなく、1956年わずか34歳で交通事故で亡くなっている。
ともあれ、エーゲ文明は偉い学者先生ではなく、シュリーマンとヴェントリスという素人によって解明されたわけだ。この二人は子供の頃に夢を持つ大切さを教えてくれる。
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第二次世界大戦後、仕事の傍ら線文字の解読に取り組むようになった。当時はエーゲ考古学の大家であったエヴァンズが、クレタやミケーネの文明は非ギリシア人の文明であり、彼らの文字もギリシア語とは関係がないと主張し、それが通説となっていた。
しかし、ヴェントリスは研究をするめるうちに線文字Bで書かれているのは古いギリシア語ではないかと気がついた。若い言語学者チャドウィックの協力を得て研究を進めたところ、ギリシア語として解読できることをついに証明し、1953年に学会で発表し、大きな反響を呼んだ。解読を志してから17年後のことであった。ミケーネの人々がギリシア人だと考えたシュリーマンの直感は見事に当たっていたのである。
線文字Aの解読にも期待がかかったが、ヴェントリスはその研究を完成することなく、1956年わずか34歳で交通事故で亡くなっている。
ともあれ、エーゲ文明は偉い学者先生ではなく、シュリーマンとヴェントリスという素人によって解明されたわけだ。この二人は子供の頃に夢を持つ大切さを教えてくれる。
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人間ぺーレウスと海の女神テティスが結婚、盛大な披露宴が開催され、すべての神々が招待された。しかし、争いの女神エリスだけは招かれなかった。怒ったエリスは、「一番美しい女神へ」と書いた一個の黄金のリンゴを宴の間に投げ入れた。
「これは私の物よ」と、3人の女神がリンゴを取り合って大喧嘩を始め、宴会は滅茶苦茶になってしまった。自信過剰の3人の女神はゼウスの妻ヘラ、知恵と戦いの女神アテナ、美の女神アフロディーテである。ところがななかなか決着がつかない。そこで3人はゼウスのところに行って、「誰が一番きれい?」って聞いた。困ったゼウスはこの厄介な審判を自分でくだすのを避け、羊飼いの少年パリスに任せた。パリスは人間だよ。
女神たちはパリスのところに行って買収工作をする。ヘラは、私を選んでくれたら、「世界の支配者にしてあげる」。アテナは「あらゆる戦での勝利があなたのものに」。アフロディーテーは「人間の中で一番の美女をあなたの妻に」。さあ、パリスは誰を選んだでしょうか?
はい、アフロディーテを選びました。で、約束通り、世界で一番美しいヘレネーをパリスがもらうことになった。と、と、ところが、ヘレネーはスパルタ王メネラーオスの妻だったんだ。にも拘わらず、パリスはアフロディーテの手引きで彼女をさらって自分の妻としてしまう。
ヘレネーとパリス
ところで、パリスは実はトロイアの王子だった。妻を掠われたメネラーオスは当然怒るわな。妻を取り返すため、兄のミケーネ王アガメムノンに助力を頼んだ。そこで、アガメムノンは弟の嫁さんを奪還するために、英雄オデュッセウスらと海を渡ってトロイアに攻め込んだ。これがトロイア戦争で、ヘラ、アテナ、ポセイドンの神々がギリシア側に、アポロン、アルテミス、アレス、アフロディーテの神々がトロイア側に味方した。
アキレウス(映画『トロイ』より)
アガメムノンを総大将とするギリシア軍はトロイア近くの砂浜に上陸し、待ちかまえていたトロイア軍と激突。お互いの力は拮抗し、決着が付かないまま10年が経過、パリスの兄でありトロイアの武将ヘクトルは英雄アキレウスによって討ち取られてしまう。
ところで、アキレウスは戦争の発端となった女神テティスと人間ペーレウスの間に生まれた子だ。テティスは死すべき定めにある人間の息子を不死身にするために、生まれたばかりのアキレウスを不死の泉に浸けた。ところが、その時テティスはアキレウスの足首をつかんでいたので、そこだけが不死の泉につからず、彼の唯一の弱点となってしまう。言うまでもなく、アキレス腱だ。
アキレウスはパリスによって弱点のかかとを射られて命を落としまう。こうして双方多大な犠牲を出しながら、戦争は続けられた。
戦線が膠着する中で、オデュッセイウスが考え出したのが、有名な「木馬の計」だ。ギリシア軍は撤退するふりをしてトロイアの海岸から引きあげて、浜辺には大きな木馬だけが残っている。実は木馬にはギリシアの戦士が密かに隠れているのだ。
ヘレニズム彫刻のラオコーン
だが、この計略をトロイアの神官ラオコーンが見破ってしまう。しかし、女神アテナによって遣わされた海蛇に襲われて2人の息子と共に殺されてしまった。
何も知らないトロイアは、海岸に残された木馬を戦利品として城内に持ち込んで、夜になったらどんちゃん騒ぎの勝利の宴会だ。トロイアの兵士たちが飲みつぶれたのを見計らって隠れていたギリシア兵が木馬から出て来る。そして、内側から城門を開き、外の兵と合流してトロイアの兵士を殺しまくった。トロイアは炎上して滅び、長きに渡った戦争は終結を迎えたのである。
トロイア争が始まって10年目、戦争の最終段階をアキレウスを主人公に描いたホメロスの叙事詩『イーリアス』のお話でした。
19世紀の半ばころまで、人々はこの伝説に半信半疑だった。ミケーネはともかく遺跡の場所は分かっていたが、トロイアの場所は分からないし、トロイア戦争の言い伝えそのものがまったくのフィクションかも知れなかった。それを考古学者でもない一介の素人が明らかにするのであるが、長くなったので、続きはまた今度。(つづく)
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クレタ島の王ミノスの息子アンドロゲオスがアテナイ(アテネ)で横死を遂げるという事件があった。その復讐のためミノス王は大海軍をアテナイに派兵し、これを服属させると、9年に一度、7人ずつの少年少女をクレタ島に送るよう命じた。この少年少女を待ち受けていたのがミノタウロスである。
ミノタウロスは人間の体に牛の頭が乗った怪物である。実は、ミノタウロスはミノス王の妃パーシパエーの子なのだが、どうしてこんな怪物が生まれたのか、だ。
ミノスはゼウスとエウロペの子で、クレタ王アステリオスの養子とされ、のちにその王位を継いだ。王位継承の資格を裏づけるため、ポセイドンに犠牲の牛を海から出現させてくれるよう彼が祈ると、白い雄牛が贈られてきた。しかし、雄牛の美しさに夢中になった王は、ポセイドンとの約束を違え、別の雄牛を生け贄として捧げ、白い雄牛は自分の物にしてしまう。これに激怒したポセイドンはパーシパエーに呪いをかけ、パーシパエーが白い雄牛に性的な欲望を抱くように仕向けた。
悩んだパーシパエーは名工のダイダロス(太陽に接近し過ぎたために蝋が溶けて翼がなくなり、墜落して死んじゃったイカロスのお父さん)に命じ、密かに雌牛の模型を作らせる。そして彼女は自ら模型の中へと入って雄牛に接近し、思いを遂げた。
結果、パーシパエーはミノタウロスという怪物を産んでしまった。ミノスはこれを恥じたが、自分が ポセイドンを裏切ったことが原因でもあり殺すことが出来ず、ダイダロスにつくらせた迷宮ラビリントスに閉じ込めてしまう。毎年、アテナイから送られてきた少年少女はこのミノタウロスの餌食とされていた。
アテナイの英雄テーセウスは3度目の生け贄として自ら志願し、クレタ島に渡った。ミノス王の前に引き出されたテーセウスを見て一目惚れしてしまったのが、ミノスの娘アリアドネである。どうしてもテーセウスを助けたいアリアドネはダイダロスに相談し、ラビリントスに入るテーセウスに短剣と糸玉を渡した。
糸玉を繰りつつラビリントス奥深くに入ったテーセウスは渡された短剣でミノタウロスを倒し、再び糸玉を繰って無事ラビリントスを脱出、待ち受けていたアリアドネとともにクレタ島から逃亡した。
有名なギリシア神話の一つであるが、すべてフィクションであると考えられてきた。
しかし、すべてが作り話ではなく、一部に史実が繁栄されていることをを証明したのがイギリスの考古学者アーサー=エヴァンズである。彼は私財25万ポンド(当時2億2千万円)を投じて発掘を行った。次回お話するシュリーマンの助手を務めたこともあったエヴァンズは、1900年からクレタ島のクノッソスを発掘し、エーゲ文明の最古の段階であるクレタ文明の存在を明らかにした。エヴァンズはミノス王の文明という意味で、この文明をミノア文明と名づけている。
遺跡の中心であるクノッソス宮殿は中庭の周辺に多数の建物が配されており、城壁はめぐらされていない。また神々の偶像や人物像は見つかっていない。
斜面を利用して造られた宮殿の一辺は160m以上あり、部屋は1200個以上、部分的には4階建ての建造物すらもあったとされる。1階だけでも小部屋が100以上もある複雑な構造をしており、今日の観光客もどの順で見たらよいか思案するようなこのややこしい大宮殿が、古代のギリシア人に迷宮ラビリントスとして受け継がれたのは不思議ではない。
クノッソス遺跡では両刃斧(labrys)のモチーフが見られるが、このラビリスを飾った部屋があり、これをラビリントスと呼んでいた。やがてギリシア人は建物全体をラビリントスと呼ぶようになり、そこからミノタウロス伝説を生み出した、と考えられる。ちなみに、英語で「迷宮」のことはLabyrinth(ラビリンス)と言う。
1986年に制作されたアメリカ映画に『ラビリンス/魔王の迷宮』というのがあったよね。
写真はクノッソスで見つかった蛸をモチーフにした壺だが、なんとも現代的なデザインだし、この文明を築いた人々が悪意のない人々だということが伝わってくる。城壁がないことからの非常に平和的な人々だったと考えられるが、やがてギリシア人にあっけなく征服されてしまう。
これもクレタ文明では有名なイルカが描かれた壁画だ。もちろん復元されたものなんだけど、ひとつ問題がある。壁画にはエヴァンズの想像で書き込まれた部分が多く、「エヴァンズの作品」だという批判がある。また、エヴァンズは当時の最新技術だったコンクリートなどを使って修復・復元しており、だからクノッソス宮殿は世界遺産になれないのだとも言われている。
それ以上にエヴァンズが批判されるのは、彼の収集した遺品には線文字Aと線文字Bなどが書かれた大量の資料があったが、それを公開せず、自分の所有物にしてしまったことだ。そのため、解読は50年遅れたと言われている。線文字Bの解読については次回お話するね。
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前550年にアケメネス家のキュロス2世はメディアを滅ぼして独立王国を樹立、さらにリディア・新バビロニアを滅ぼした。続くカンビュセス2世が前525年にエジプトを征服し、オリエント統一を成し遂げた。
ダレイオス1世の謁見図
アケメネス朝全盛期の国王がダレイオス1世である。中央集権体制を確立し、エーゲ海からインダス川にいたる最大領土を実現した。帝国を20の州にわけ、サトラップを任命して統治させ、「王の目」「王の耳」と呼ばれた巡察使を派遣して、サトラップの動向を監視させた。
幹線道路の整備にも力を入れ、「王の道」と呼ばれた。都のサルデスから小アジアのサルデスに至る道路は約2500kmにもおよび、111の宿駅が設けられた。普通は90日かかる行程を早馬では7日で飛ばすことが出来たという。
ダレイオス1世が建設したのがペルセポリスの宮殿。アケメネス朝の王は春はスサ、夏はエクバタナ、冬はバビロンで過ごし、その度に宮廷も宝物庫も王とともに移動した。ペルセポリスの用途はよく分かっていないが、新年の祝い(イランの新年は春分の日に始まる)を執り行う場であり、諸民族からの貢納を受け取り、アケメネス朝の王権が神から与えられたことを確認する聖域であったと言われている。この宮殿はアレクサンドロス大王によって焼かれた後は使われることはなく、廃墟となってしまった。現在立っている柱の多くは修復されたものである。
ダレイオス1世というと、ローリンソンが楔形文字を解読する際に手がかりとしたベヒストゥーン碑文が有名である。写真はダレイオス1世の戦勝記念碑文のレリーフ。左から3番目がダレイオス1世で、誰かを踏みつけているのが分かるかな。
実はカンビュセス2世の没後、王統が絶えたため、帝国のあらゆることろで、自ら王と称して反乱をを起こす者が続出した。ダレイオスはこの反乱を鎮圧して、王位を簒奪した。ダレイオスが踏みつけているのが反乱軍の王ガウマータで、右には首に縄をかけられて引き据えられた9人の王が描かれている。
その上に彫られている像があるんだけど、見難いので、別の画像で説明するね。羽根の真ん中に光輪があって、そこにおっさんがいるけど、これがゾロアスター教の最高神であるアフラ=マズダだと言われてきた。でも、ゾロアスター教を国教としたササン朝ではこの像は描かれておらず、またヘロドトスもペルシア人は寺院も建てず神像も持たないと言ってるから、どうも違うみたいだ。
ただ、この碑文では、彼がアラフ=マズダに深い帰依を表明し、自分が王位に就いたのもアフラ=マズダの恵みだと述べているので、アフラ=マズダを信仰していたのは確実だ。
ゾロアスター教は、基本的には光明神(善神)であるアフラ=マズダを最高神とする一神教である。また、偶像ではなく、火を最高神の神聖な象徴として崇拝するので拝火教とも言われる。光明神アフラ=マズダに対して常に敵対するのが暗黒神(悪神)であるアーリマンだ。世界を善神と悪神の戦場とみるから、昼と夜の交替もこの2神の抗争と考える。世界の歴史は1万2000年続き、やがて終末には救世主が現れて最後の審判が下され、アーリマンは打ち負かされるとする。そのような世界観はその後のユダヤ教やキリスト教などの一神教に影響を与えたと考えられている。
ちなみに、哲学者ニーチェの著書『ツァラトゥストラかく語りき』のツァラトゥストラはこの宗教の創始者であるゾロアスターのことだよ。
タタ・モータースのトラック
ササン朝の滅亡後、イランではイスラーム教が主流になり、ゾロアスター教はほぼその力を失った。しかし、その一部がインドに逃れ、ムンバイを中心にパールスィーと呼ばれる独自のカーストを形勢している。パールスィーはペルシア人という意味だ。現在、パールスィーは約25万人ほどいる。彼らは経済活動に優れており、インド最大の財閥であるタタ=グループの創始者ジャムシェトジー=タタもゾロアスター教徒だ。タタ=グループは現在はムンバイを中心に100社、58万人を雇用、製鉄・自動車・電力会社を主力に約10兆円を売り上げている。
ゾロアスター教では、死体は不浄なものとされる。だから、ササン朝時代には死体は路傍に放置し禿鷹に食わせるか、カラカラに乾燥させるかして骨だけにしてから、摩崖横穴に放り込む曝葬が行われていた。でも、現在ではさすがに路傍に放っておけないので、死体を高い塔の上部において禿鷹が出入りできるような施設が造られている。これを「ダフマ」、英語では「沈黙の塔」という。気持ち悪~。
ゾロアスター教は日本に何の関係もなさそうだけど、それがそうでもないんだ。写真は東大寺二月堂の「お水取り」(正式には修二会【しゅにえ】)のシンボルのような行事で、二月堂の舞台で火のついた松明を振り回す「お松明」だ。火の粉が散って迫力があるよね。これどうもゾロアスター教の影響らしい。推理作家の松本清張が『火の路』で唱えた説なんだけど、僕は正しいと思ってる。
僕らぐらいの年配の人だったら、「東芝のマツダランプ」という電球があったのを覚えていると思う。子供心に東芝なのに、なんで松田のランプなんだと思っていたら、これが何とMAZDA Lampで、MAZDA はアフラー=マズダのことなんだ。アメリカのゼネラル・エレクトリックからライセンスを得て、東芝が販売していた。アフラ=マズダは光の神だから、電球にはばっちりのネーミングだ。
MAZDAと言えば、このエンブレムを思い出すよね。ご存じの通り、自動車メーカーのマツダ株式会社のものだ。創業者である松田重次郎の姓と、アフラ=マズダにちなみ自動車産業界の光明となるよう願って綴られたんだってさ。日本にも結構ゾロアスター教の影響があるんだね。
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ヘブライ人は「川の向こうから川を超えて来た者」という意味の他称で、自らはイスラエル(「神に勝つ者」の意味)と称した。ユダヤ人と呼ぶ場合が多いが、これは民族名ではなく、ユダヤ教の信者のことである。
『旧約聖書』では、族長アブラハムに率いられ、ウルを出てパレスチナに定着したと書かれている。パレスチナで牧畜に従事していたヘブライ人は飢饉に見舞われたため、その一部は豊かなエジプトに移動して、農耕生活を営むようになった。しかしエジプトのファラオが彼らを奴隷として都の造営などに使役するようになり、彼らは苦しい境遇に置かれるようになった。ヘブライ人をその窮地から救ったのがモーセである。
『旧約聖書』では、族長アブラハムに率いられ、ウルを出てパレスチナに定着したと書かれている。パレスチナで牧畜に従事していたヘブライ人は飢饉に見舞われたため、その一部は豊かなエジプトに移動して、農耕生活を営むようになった。しかしエジプトのファラオが彼らを奴隷として都の造営などに使役するようになり、彼らは苦しい境遇に置かれるようになった。ヘブライ人をその窮地から救ったのがモーセである。
写真はミケランジェロ作のモーセ像だが、頭に角が2本生えている。こんなことになったのは、ヴルガタ訳の描写をもとにしたためだと言われている。正しい訳は「モーセは光輝いていた」なのだが、ヘブライ語には母音を表す文字が存在せず、ヘブライ語で「輝く」を意味する語は「角」という意味にも解釈できるそうで、「モーセには角が生えていた」という訳になっちゃったんだって。
さあ、いよいよ「出エジプト」(イクソダス)のお話だが、ここからは1956年製作のハリウッド映画「十戒」の画像を中心にしてお送りする。モーセを演じたのは往年の大スターであるチャールトン=ヘストンだ。
『出エジプト記』によれば、モーセはヘブライ人のレビ族の父アムラムと、アムラムにとって叔母にあたる母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、ヘブライ人が増えすぎることを懸念したファラオはヘブライ人の男児を殺すよう命令した。出生後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、パピルスのかごに乗せてナイル川に流された。
たまたま水浴びしていたファラオの王女が彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ヘブライ語で「引き上げる」の意味)にちなんで「モーセ」と名づけた。
成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、ヘブライ人を助けようとしたが、はからずもエジプト人を殺害してしまう。これが発覚し、ファラオに命を狙われたモーセは逃れてミディアンの地(アラビア半島)に住んだ。
ミディアンではツィポラという羊飼いの女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴のなかから神に語り掛けられ、ヘブライ人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。神からの啓示を受けたモーセは、ヘブライ人を率いパレスチナを目指してエジプト旅立つ。
これを逃がすまいとしてファラオの軍があとを追うのだが、ファラオの名はラメセス。ラメセス2世のことだろうが、これを演じたのがユル=ブリンナーだ。ヘブライ人たちはやがて「葦の海」に出る。恐らく今の紅海のことだろうね。前は海、後ろにはファラオの軍が迫って来る。絶体絶命のピンチだ。
しかし、モーセが神に祈ると、神は火の柱でラメセスの軍の進攻を妨げ、その後海を二つに割り、ヘブライ人たちをその海の中にできた廻廊を歩かせて対岸まで逃れさせた。暫くして火の柱が消え、道が開けたエジプト軍がヘブライ人を追って、海の中にできた廻廊を進むと、モーセは再び神に祈りを捧げ、今度は廻廊が海に戻り、あっと言う間にそこは海の中となってラメセスの軍は彼だけを残して波間に消えていった。公開当時はこの特撮シーンが話題になったんだけど、今観るとちんけだ。まあ、60年も前の映画だから仕様がないけどね。
その後、モーセは40日間シナイ山に籠り、やがて光が岩に十の戒めを刻んでいく。こうして、モーセは神ヤハウェから「十戒」を授かった。
1.汝は私の他に、何者をも神としてはならない。
2.汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない。
3.汝は、汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。……
5.汝の父母を敬え。
6.汝殺すなかれ。
7.姦淫をしてはならない。
8.汝盗むなかれ。
9.隣人について偽証してはならない。
10.汝の隣人の家をむさぼってはならない。
その後数十年にわたりシナイ半島の荒野を彷徨った後に、120歳(?)になったモーセは自分の後継者としてヨシュアをたてて亡くなる。指導者となったヨシュアはジェリコ(エリコ)の戦いに勝利してカナーンを征服し、ヘブライの12部族にくじ引きで定住地を与えたという。
その後ヘブライ人はそれぞれの族長に率いられて統一国家をつくることはなかったが、海の民の一派であるペリシテ人が現在のガザを中心とした東海岸に侵入してヘブライ人を圧迫するようになった。それに対抗するため、ヘブライ人の統一が進み、前11世紀末にサウルによって統一されてヘブライ王国が成立した。
前1000年に第2代の王となったダヴィデがペリシテ人を破り、さらに周辺を征服した。ヘブライ王国は次のソロモン王の時に全盛期となり、王はイェルサレムにヤハウェ神殿を建設したが、その死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国も新バビロニアのネブカドネザル2世に滅ばされてしまう。
ユダヤ人は前6世紀末にイェルサレムの神殿を中心に神政政体を確立。さらに前2世紀に再び王国(ハスモン朝)を建設したが、前63年以来ローマの支配下に入った。その後、ローマと戦ったが(ユダヤ戦争)、70年にイェルサレムが陥落、ユダヤ人は各地に離散(ディアスポラ)した。この時に神殿も破壊され、現在は「嘆きの壁」と呼ばれる神殿の外壁だけが残っている。
余談になるが、2017年5月、アメリカのトランプ大統領がこの「嘆きの壁」を訪問、さらに2018年5月にはアメリカ大使館をテルアビブからイェルサレムに移した。アメリカ国内のユダヤ人の協力なしでは選挙に勝てない。そのために親イスラエル政策をとるトランプだが、これでは、いつまで経っても中東に平和が訪れることはない。

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