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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー禿の女たらし・カエサル①

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カエサル

 カエサルは前100年7月13日に、ローマの貧民街スブラのなかにある邸宅で、名門ではあるが貧乏な貴族(パトリキ)の子として生まれた。カエサルは子宮切開によって生まれたので、「帝王切開」の帝王とはカエサルのことであるとする説がある。しかし、古代ローマの帝王切開は、妊娠末期に妊婦が死亡した場合、胎児を助ける目的で行われたものだが、カエサルの母はカエサルが40歳を過ぎるまで生きていたので、この説はただの俗説だ。

 カエサルの正式名はガイウス・ユリウス・カエサル。ローマ市民の正式名は個人名・氏族名・家族名の3つを順に用いるので、カエサルは日本風に言えば、ユリウス氏族のカエサル家のガイウス君、ということになる。カエサルはエジプトの太陽暦をもとにユリウス暦を定めたが、腹心のアントニウスに提案させて、自分の生まれた月に自分の氏族名Juliusの名をあてはめさせた。だから、英語で7月は July となった。

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カエサル

 スエトニウスの伝記によれば、カエサルは長身で均斉のとれた身体であった。しかし、禿げ上がった大きな頭と張り出たえら、口をへの字に曲げ下唇が突き出ていて、決して美男ではなかった。月桂冠を被ると禿げ頭が隠れたので、被ると喜んでいたそうだ。でも、女性にはもてたらしく、やや誇張と思われるが、一説によれば元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られたと伝えられている。そんなわけで、政敵どころか部下にさえ「禿げが来たら妻を隠せ!」なんて言われていたそうで、部下はカエサルのことを「禿の女たらし(モエクス・カルウス)」と呼んだ。そう呼ばれても、カエサルは笑っているだけで、怒らなかったというから、男らしい。

 でも、カエサルは女たらしでありながら、バイセクシャルのいかがわしい噂は絶えなかった。ある演説の中で、「あらゆる女の男であり、あらゆる男の女よ」と揶揄されている。それに借金するのもうまかったらしい。限りなく俗っぽいのだが、物事を成し遂げる決断力と行動力は限りなく卓越していた。

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スラ

 カエサルは最初の妻コルネリアを31歳の時に病で亡くし、33歳でスラの孫娘ポンペイアと結婚している。スラは閥族派の首領で平民派のマリウスと激しい争いを展開した。マリウスはカエサルの義理の叔父であったので、カエサルはその命をスラに狙われ、ローマを逃げ出したこともあった。

 その孫娘と結婚したのは、どうも財産目当てだったようで、その財産を買収や陰謀に使った。ところが、ポンペイアは浮気性で、クロディウスという青年と密通、それが発覚したのでカエサルは38歳の時、ポンペイアを離婚した。なんと、カエサルはこのクロディウスを腹心の部下としてしまった。いかにカエサルが人心をつかむ能力に優れていたかがわかる。

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 カエサルは当初、ごくありふれた公職経歴を踏襲していたが、30歳頃から平民派支持の姿勢を鮮明に出すようになる。カエサルは弁舌にも優れており、彼の堂々とした話しぶりは多くの人々を引きつけ、大神祇官、法務官を歴任し、そののち属州ヒスパニアで戦果をあげて、前60年ローマに帰還した。閥族派の嫌がらせにあって、利害を一にするポンペイウス、クラッススと協調の密約を結ぶことになる。第1回三頭政治の始まりである。両人の後押しで、カエサルは前59年のコンスルに就任した。

 ローマの年号は慣例でコンスル両名の名前で表す。しかし、この年は「ユリウスとカエサルがコンスルの年」と言って、ローマ人はふざけたらしい。同僚コンスルのビブルスはあまりにも格が違いすぎ、不吉なお告げなどを持ち出してへまばっかりしていた。挙げ句の果てに自宅に閉じこもってしまった。だから、すべてをカエサルが取り仕切ったというから、この年をカエサルの氏族名と家族名で記して面白がっていたのである。

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カティリーナを非難するキケロ

 カエサルの娘ユリアがポンペイウスに嫁ぎ、両者の絆は深まる。コンスルの任期終了にともない、5年間にわたるコンスル代行の指揮権を獲得した。カエサルの腹心の部下クロディウスは護民官に就任し、ローマ市民を訴訟手続きなしで死刑にした者は追放されるべしという法案を通過させる。それまで野心家クロディウスはキケロに裁判で苦杯をなめさせられていた。そこで好機到来とばかり、カティリーナ一味の裁判でのキケロの主張を逆手にとったのである。キケロは1年間の亡命生活を余儀なくされる。

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ポンペイウス

 前58年、獲得した指揮権にもとづき、カエサルは一路ガリアに向かう。彼にとって何よりも欲しいものはポンペイウスを凌ぐほどの武勲であった。ポンペイウスはと言えば、地中海の海賊を一掃、スパルタクスの反乱を鎮圧し、ミトリダテス戦争にも勝利している。それを凌ぐ武勲が欲しい。

 その後の征服戦争の模様は自著『ガリア戦記』をひもとけばいい。彼のラテン語は簡潔にして要を得ているばかりか、虚飾や情念のまじらない名文の模範と言われる。キケロすら何ら手を加える余地はないと絶賛するほどだった。

 当時ガリアの地に住むのはケルト人であり、まだローマの勢力は及んでいなかった。最初の3年間は、不穏な動きをみせるヘルウェティイ族やライン川を越えて侵攻するゲルマン人を撃退する戦いだった。それらの中でも勇猛なベルガエ族を打ち破ったことで、カエサルの名声は高まる。さらに、戦利品の収益がカエサルの財源をうるおし、それをローマ政界にばらまきながら勢力地盤を掌握していった。

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キケロ

 同時に勢いづくカエサルへの対抗の動きも目立ってくる。その基板となる三頭政治の同盟関係をぶち壊そうと懸命になっていたのが、復権したキケロであった。カエサルはそうした危険な匂いをすぐに嗅ぎつけ、数日のうちにポンペイウスとクラッススに会見している。前55年、ポンペイウスとクラッススは再び一緒にコンスル職に就き、その後5年間の指揮権をも獲得する。カエサルもまた5年の指揮権を延長され、ここに三頭政治は更新されることになった。

 しかし、その関係が決裂する日は着実に近づいていた。

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【 2019/06/30 05:23 】

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世界史のミラクルワールドーグラディアトル・ローマの剣闘士

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カプアの闘技場跡

 前73年、南イタリアのカンパーニャ地方で気味の悪い騒動が起こった。ローマ人はエトルリア人から、奴隷の真剣勝負を見て楽しむという悪趣味を覚えていたが、この頃には個人でそのための奴隷、いわゆる剣闘士(グラディアトル)をたくさん抱えていた者もあったし、これの特に流行したカンパーニャのカプアではレントゥルス・パティアトゥスなる者が剣闘士の養成所までつくっていた。そこの奴隷の多くはガリア人とトラキア人であった。彼らは、非があるからというわけでなく買主の邪【よこしま】な考えによって無理やりに一緒に閉じ込められ、剣技に携わっていた。

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 そこの奴隷200人が逃亡を謀ったのである。密告が行われた。前もってそれを知り、いち早く行動を起こした78人の者たちが、台所から包丁や焼串を取って跳びだした。道でよその町に剣闘士の武器を運んで行く何台かの車に出くわしたので、それを奪って武装した。そして屈強の場所を占拠すると3人の首領を選んだ。

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 その筆頭格がスパルタクスであった。彼はトラキアのマイドイ族の出で、勇気と力とに優っていただけでなく、知恵も温和な人となりも彼の境遇に比すれば立派であり、その生まれた種族よりむしろギリシア人に似ていた。

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 彼についてはこういう言い伝えがある。初めローマに売るために連れてこられたとき、眠っている彼の顔に蛇が巻きついているのが見えた。予言を能くしディオニュソスの秘儀によって霊感を受ける、スパルタクスと同族の婦人がいたが、その語るところでは、これは彼が偉大なおそるべき勢力となってやがて不幸な結末に至る前兆なのであった。この女は、反乱当時、彼と同じ屋根の下にいて、脱走するのも一緒だった。

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 スパルタクスを首領にする反乱はまたたくまに広がり、農園や牧場から逃亡して反乱軍に加わる奴隷が続出した。彼らは略奪にかまけず、武器の製造や獲得に努め、獲物は公平に分配したという。さらには貧農や脱走兵なども参入して、総勢6万人とも12万人とも伝えられている。やがて冷静なスパルタクスの率いる奴隷軍はローマ軍の追撃を斥け、北イタリアに向かう。伝記作家プルタルコスの描写に耳を傾けてみよう。

 スパルタクスはローマ軍を打ち負かすことを期待せずに、軍隊を率いてアルプスに向かうのだった。アルプスを越えてある者はトラキアに、ある者はガリアにと、それぞれ故郷に赴くべきだと考えていたのである。ところが数を頼んで勢いが強く意気も盛んな一党は、この考えに耳を貸さず、イタリアを横切りながら荒らしていった。

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 この問題は、スパルタクス軍の行動のなかでも最大の謎と考えられている。もちろん北イタリアに達したとき秋も深まり、アルプス越えの困難な状況もあっただろう。しかし、最大の障害は、北イタリアの地にはまだ奴隷制ラティフンディアが根付いていなかったことが指摘されている。多数の奴隷がいる社会であれば、奴隷が馳せ参じ、食糧や武器の補給などの支援も受けられる。でも、奴隷が少ない社会ではそれも期待できない。つまり、奴隷の反乱は奴隷制社会の枠内でしか勢いづかないのである。これもまた歴史の皮肉あるいは逆説なのだろうか。

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クラッスス

 前72年末、法務官クラッススの率いるローマ軍が鎮圧に向かう。スパルタクスは南イタリアにとどまり、かつての奴隷反乱の記憶も生々しいシチリア島に渡ろうとした。しかし、海賊たちの裏切りで狙いははずれてしまう。

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 もはや反撃の余力はなく、前71年スパルタクスは勇敢に戦ってアプリアの戦場に倒れる。これにより奴隷軍は総崩れとなり、捕らえられた奴隷の磔刑【たっけい】の柱6000本がアッピア街道に並んだと伝えられている。北方に逃亡した5000人ほどの一隊は、ちょうどセルトリウスを討って帰国中のポンペイウスによって全滅した。

 スパルタクスは古代ローマ人からは「ローマの敵」と見なされために悪名が語り継がれ、中世には忘却された。しかし、近現代になるとスパルタクスは再評価され、カール・マルクスは「古代プロレタリアートの真の代表者」と評し、スパルタクスは抑圧から解放を求める労働者階級の英雄と見なされるようになった。

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 共和政時代から帝政に移行してからも剣闘士の見世物は続き、紀元80年、ティトウス帝の時にローマの円形闘技場が完成する。正式にはフラウィウス円形闘技場と呼ばれたが、もともとここにあったネロの巨大な銅像をコロッススと言っていたことから、中世以降はコロッセウムというようになった。これを英語で言うとコロシアムになり、競技場を指す。こうした円形闘技場はローマ帝国内に250カ所もあり、いかにローマ人が剣闘士の試合を好んだかがわかる。

 コロッセウムは古来、ローマの象徴とされており、「コロッセウムが立つ限り、ローマも立つであろう。コロッセウムが倒れるとき、ローマも倒れるであろう。ローマが倒れるとき、世界も倒れるであろう。」とうたわれてきた。その観客席に5万の観衆をのんだ、この闘技場で、いったいなにが行われていたのであろうか。

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 コロッセウムの落成式がおこなわれたとき、時のローマ皇帝ティトウスは100日間にわたって各種の競技をおこなった。剣闘士同士の血なまぐさい競技もあったし、たった1日の間に人間と猛獣の格闘のなかで、あらゆる種類の5000頭もの猛獣が殺されるということもあった。ちなみに、猛獣は地下の小屋に入れられており、人力エレベーターで試合会場に登場して来た。

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 剣闘士同士の試合は相手を殺すか負傷させるかして無力化させるまで続く。試合を終わらせたければ人差し指を高々と上げるか、盾を放り投げると「降伏」の意思表示になり、降伏した相手を傷つけるのは卑しい行為とされた。そして決着がついた後、試合の敗者については観客が助命か処刑かを選択できた。一般的には敢闘したとして助命(ミッスス)するなら親指を上に、見苦しい負け方をしたとして止めを刺すなら親指を下にするのが合図であったとされるが、現代の研究者たちは親指を突き上げた拳とともに「殺せ!」と叫べば処刑、親指を下げれば助命だったと考えている。

 歴戦の剣闘士であれば、観客に死を宣告されるような見苦しい負け方はしないように特訓されている。それまでに大金をかけて養成した剣闘士を失うのは経営者にとっても大きな損失であるため、剣闘士が観衆の希望により木剣(ルディス)を授けられて自由になるか、重傷を負って戦えなくなるか死んだ場合、主催者は市場価格に見合った金額を興行師に支払わねばならなかった

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 また、この闘技場を水で満たして人工の湖をつくり、3000人もの剣闘士を動員する模擬海戦もおこなわれた。

 ローマ帝国の各地からやってきた大観衆を前にして、このような人間と猛獣の数知れない死によって血ぬられたコロッセウムは、その後、404年の剣闘士試合の中止、523年の猛獣演技の廃止にいたるまで、毎年のように残酷な死のゲームを、熱狂した観客に提供し続ける場となったのであった。また、キリスト教徒が迫害された時代には、信者をライオンの犠牲にするなどの処刑も、「見世物」として興行された。 

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コンモドゥス帝

 剣闘士の中には奴隷だけではなく、みずから望んで剣闘士となった騎士たちも試合に出場するようになった。皇帝の中にも剣闘士試合に熱中する者が現れた。コンモドゥス帝は、自ら剣闘士となり、伝えられるところによれば、剣闘士試合を計1000回闘い、象を含む何千頭もの野獣を殺したとされる。さらに彼は剣闘士の訓練所に部屋を持ち、そこに泊まり込むこともあった。

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マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝

 コンムドゥスは五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の息子である。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝はストア派の哲学者で、『自省録』を著したことでも知られる人物。その後継者が剣闘士の試合に熱中する馬鹿息子であったから、五賢帝の時代は終わりをつげることになった。コンムドゥス帝は192年12月31日、自らの妾妃と親衛隊司令官とが企てた陰謀によって、いつも練習の相手を務めさせていたお抱えの剣闘士によって絞殺されている。

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マキシマス将軍
 このコンムドゥスを描いた映画が『グラディエーター』であるが、ラッセル・クロウが演じた主人公のマキシマス将軍は架空の人物である。

※前半は映画『スパルタカス』、後半は映画『グラディエーター』の画像を拝借しました。
 
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【 2019/06/26 05:20 】

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世界史のミラクルワールドー地上から消えたカルタゴ・ポエニ戦争③

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ハンニバル

 カンナエの戦い以後も、ハンニバルは南イタリア全域とカンパニア地方の中心都市カプアを占領する。カルタゴ本国とも連絡をとり、マケドニアおよびシラクサとも同盟関係を結び、地中海の東西にまたがる対ローマ包囲網を形成しようと画策する。しかし、前212年夏、ローマ軍はシラクサを占領する。このとき防衛兵器を考案してローマ軍を苦戦させた物理学者アルキメデスも、ローマ兵の刃に倒れた。

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 アルキメデスはシラクサの出身で、アレクサンドリアで学んだ自然科学者。あまりにも有名でその名を知らない人はいないだろう。アルキメデスにまつわる最も有名なエピソードといえば、「黄金の王冠」の話であろう。「アルキメデスの原理」とも言われる「浮体の原理」の発見である。

 シラクサのヒエロン2世は、神殿に黄金の王冠を奉納するために、ある金細工師に必要な量の黄金を渡したという。出来上がった王冠は見事なものであったが、この王冠には、黄金が抜き取られ、その代わりに同重量の銀が混入されているとの噂が入ってきた。そこで、ヒエロン2世はその真偽を確かめるとともに、王冠を構成する金と銀との割合を見いだすよう、アルキメデスに依頼したのである。

 アルキメデスはこの問題に思いをめぐらしているとき、たまたま浴場に行き、そこで浴槽つかったとき、その中に沈んだ自分の身体の体積だけ水が浴槽から溢れ出ることに気づき、問題解決のヒントを得たという。彼は喜びのあまり「ヘウレーカ!ヘウレーカ!(「わかった!わかった!」)」と叫びながら、裸のままで街を走って帰ったと言われている。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ、不正がばれた金細工師は、死刑にされてしまった。

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 アルキメデスと言えばもう一つ、「てこの原理」の発見がある。「われに支点を与えよ、しからば地球を動かして見せよう」の言葉は有名だ。実は先ほど話したローマを悩ませた防御兵器というのは、このてこの原理を応用したもので、アルキメデスの鉤爪と呼ばれている。クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものだった。

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 シラクサを占領したローマのマルケッルス将軍はアルキメデスの評判を知っていたので、彼には危害を加えないように命令を出した。アルキメデスの家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは中庭で砂に描いた図形の上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していたアルキメデスが無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したという。

 「わしを殺す前に、おまえさん」とアルキメデスは嘆願した。「どうかこの円を描き終わらせてくれ。」兵士は待たなかった。アルキメデスは死ぬ間際にこう言った。「わしの体はくれてやる。だがわしの魂はわしのもんじゃ。」

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スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)

 話が本題から逸れてしまったけど、前211年にはローマ軍はカプアも陥落させ、もはや戦争の主導権はローマの手に移った。ハンニバルは応ずる術もなく、南イタリアを占領し続けるだけで、いたずらに時を過ごした。

 この頃ローマの指導者層に、スキピオという名の若者が彗星のごとく登場する。軍人として民衆の絶大な人気を浴び、弱冠26歳にしてイベリア半島における軍事指導権を任されるのである。この地における敵の本拠地カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)を奇跡のごとき引き潮のおかげで占領すると、スキピオは神々の寵愛を受けているという伝説すら生まれた。彼の手腕と魅力はローマ兵のみならず、原住部族民の族長たちをもとらえ、あいつぐ戦勝をものにして、前205年ローマに帰還した。

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 あくまでイタリアにおける決戦を唱える元老院保守派の声を無視して、スキピオは敵の本国たるアフリカへの遠征を画策する。そこにおけるローマ遠征軍の勝利が重なり、前203年、ハンニバルは本国に召還された。スキピオとハンニバルの間に決戦の気運が高まる。

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ザマの戦い

 前202年春、カルタゴ西方のヌミディア領におけるザマが決戦の舞台となった。ハンニバルの戦略を十分に研究していたスキピオは、カンナエの轍を踏まないようにする。しかし、本国で迎え撃つだけあって、今度はカルタゴ軍歩兵は3万6000。これに比べて、ローマ軍歩兵は2万2000に過ぎなかった。騎兵においてはカルタゴ軍4000、ローマ軍6000。歩兵の戦列はにらみ合ったままだったが、両翼の騎兵戦はローマ側ヌミディア騎兵の機動力もあってスキピオに有利に展開した。ヌミディア騎兵がカルタゴ軍の背後にまわり、カルタゴの劣勢は決定的になる。ハンニバルはカンナエの作戦のお株を奪われた形で、大敗を喫したわけである。

 この後、スキピオは英雄と讃えられ、アフリカ征服者(アフリカヌス)の異名を戴き、大スキピオとも呼ばれるようになる。ハンニバルの人望は本国でも衰えなかったが、親ローマ派による危険を察知すると、まずシリア王国へ、ついでビティニア王国へ逃れた。しかし、スキピオは一族の醜聞のために失意のうちに没し、ハンニバルもローマの手に追い詰められて自殺した。両者が亡くなったのは奇しくも同年の前183年だった。スキピオ享年52、ハンニバル享年64。古代地中海世界の命運を決した英雄と闘将のあまりにも悲しい結末である。

 ローマは第2回ポエニ戦争でカルタゴに厳しい講和条件を押しつけたが、この時点ではそれを滅ぼすのではなく、交易相手として存続させる意向が強かった。しかし、第2回ポエニ戦争までに、シチリア島・ヒスパニアが海外領土である属州となったの続き、前167年までにマケドニア戦争が終わり、その属州支配が東地中海にまで及ぶと、大量の奴隷と安価な穀物の流入は、ローマにおける中小農民の没落をもたらし、その一方で元老院議員のラティフンディアや徴税請負人となった騎士階級(エクイテス)の経済的進出がすすみ、ローマ共和政の社会の矛盾が深まっていった。

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カトー

 そんな中でカルタゴの脅威にとりつかれた男が登場する。マルクス=ポリキウス=カトー 、一介の農民から弁護士として世に出、コンスル・元老院議員に上り詰めた保守頑迷の雄である。彼はスキピオ家の権勢への反感に燃え、その不正を弾劾したが、晩年のカトーにはもっと気がかりなことがあった。あのカルタゴの復興である。カルタゴはすべての海外領土とほとんどの軍船をローマに奪われながら、敗戦後も商業交易によって再び繁栄し、50年分納の賠償金の残金を一括して払いたいと申し出るほどになった。カルタゴの復興を目にしたカトーは、どんな話題の戦説であっても、結びは「それにしてもカルタゴは滅ぼされるべきである」で締めくくった。そんな男の執念が実り、前149年カルタゴへの宣戦が布告される。それはカトーが人生の幕を閉じる直前だった。

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 ヌミディア王マッシニッサ

 カルタゴの隣国にあるヌミディアの王は、怪人マッシニッサである。怪人と呼ぶのは、86歳で末子をもうけ、86歳でも騎馬軍の陣頭で指揮にあたるほどの人物だったからだ。カルタゴがローマの許可なく戦争が出来ないのをいいことに、たびたび領土を侵犯してカルタゴを悩ませていた。やむなく分納にされた賠償金を完済した年に、カルタゴはたまりかねてヌミディアと開戦する。それはローマにとって望むべくもない宣戦の口実だった。

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スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)

 当初は和議を求めたカルタゴも、ローマの過酷な要求に戦意を固める。ローマの意図するところはカルタゴそのものの壊滅であった。だから、もはや徹底抗戦するほかはない。国民の総力をあげて短期間で武器を製造し、都市そのものが堅固な城塞と化した。市外に出没するゲリラ部隊がローマ兵の手を焼かせる。しかし、海陸両面からのローマ軍の包囲は3年も続いた。

 前146年春、ローマ軍が市内になだれこむ。なお1週間ほど市街戦が繰り返され、やがてカルタゴは煙と炎に包まれた。カルタゴの人口50万人のうち、生き残った者5万5000人は捕虜となり、奴隷として売り飛ばされた。町は17日間燃え続け、一木一草も生えないほどの廃墟と化した。さらにローマ人のカルタゴへの敵意は凄まじく土地を塩で埋め尽くし、不毛の土地にしようと試みたとされている。

 火焔に包まれ滅びてゆくカルタゴを見つめながら、ローマもまたいつの日か滅亡の運命をまがれないのだろうか、と嘆く勝利者がいた。ローマ軍を率いる将軍スキピオ・アエミリアヌス。アフリカ征服の英雄スキピオの長男の養子である。両者を区別するために、後者を大スキピオといい、前者を小スキピオと呼ぶ。この二人によって、カルタゴは地上から姿を消した。

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【 2019/06/23 05:26 】

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世界史のミラクルワールドーアルプスを越えた象軍団・ポエニ戦争②

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ハンニバル

 第1回ポエニ戦争でシチリア島の覇権をローマに割譲せざるを得なかったカルタゴは、さらに、傭兵隊の反乱による内紛のせいで、国力を弱めたためサルデーニャ島をもローマに譲り渡すことになる。

 カルタゴはある種の危機の時代に陥った。やがて傭兵隊の反乱を鎮圧した将軍ハミルカルは、バルカ一族を率いてイベリア半島の経営に乗り出す。この地は銀鉱に恵まれ、伝来の覇権地域の喪失分は新しく征服する内地の開発で十分に補うことが出来る。婿のハスドルバルと長子ハンニバルはハミルカルを助け、諸部族未統合の現地住民を撃破し征服してしまう。しかし、ハミルカルもハスドルバルも没する運命にあった。前221年、イベリア半島のカルタゴ軍を率いる将軍にハンニバルが選ばれる。このとき彼は弱冠25歳にすぎなかったが、すでに全軍が信頼を寄せる人物だったという。

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 イベリア半島におけるカルタゴ勢力の北限はエブロ川である。もともとローマは、イベリア半島におけるカルタゴの活動にはそれほど関心をいだいていたわけではない。しかし、旧来からローマとの親交の深かったマッシリア(現マルセイユ)らの要請もあって、エブロ条約が締結される。前220年、エブロ川の南の町サグントゥムで内紛が起こり、ローマに救援を求めた。ハンニバルが翌年これを囲んで陥落させたことにより、前218年春、ローマとカルタゴは再び戦火を交えることになった。カルタゴ内部には有力な親ローマ派があり、ローマ市民にも開戦には反対の声が強かったが、片方はハンニバル、片方は元老院の態度に引きずられて、古典古代の最も大規模な戦争が始まった。

 ハンニバルはアレクサンドロスに比肩する古今の名将と言われる。この戦いに、彼はきわめて大胆な戦略を立てて臨んだ。すでに海軍力ではローマが優勢だったから、海上からイタリアに攻め入ることは問題外だった。陸路北イタリアに侵入し、ローマが征服したばかりのケルト人を味方につけ、ローマの「同盟者」を「解放」するのが狙いだった。

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ローヌ川の戦い

 このため有名なアルプス超えの強行軍となった。ピレネー山脈を越えたハンニバルは、海岸線沿いに南フランスを進み、ローヌ川の戦いでローマ守備隊を破って渡河に成功、9月いよいよアルプス越えに挑んだ。

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 ハンニバルが率いるのは約40,000名の兵士と30頭の戦象だ。登りは土民が狙って落とす落石に悩まされ、下りは凍りついた万年雪にひどく苦しめられた。季節は10月の末であったが、もう雪が降り始めていた。なにしろ雪は生まれて初めてというアフリカ出身の兵士を大勢引き連れ、それに巨象までが急峻な岩道をよじ登ったというのだから、その苦労と損害は想像を絶する。それでも半月ほどで天下の嶮を通り抜け、2万6000の部下とともにポー川流域に着いた。30頭いた戦象の多くは谷底に転落するなどして、僅か3頭となっていた。

 この意表をついた途方もないアルプス越え作戦の成功は、世界史の中でいつまでも記憶されるに違いない。戦略の天才ハンニバルは、敵地イタリアを舞台とした最初の2年間、トレビアの戦い、トラシメヌス湖畔の戦いなどとほとんど連戦連勝だった。トラシメヌス湖畔の戦いでハンニバルはコンスルのガイウス・フラミニウス指揮のローマ軍と戦ったが、この戦いでローマのコンスルとハンニバルとはアマとプロくらいの実力差のあることが実証された。ローマ軍は完全に包囲されて全滅し、フラミウスも陣没した。

 緒戦の大敗に、ローマでは、名門出のファビウス・マクシムスを独裁官(ディクタトル)に選んだ。彼はハンニバルと四つに組むことの愚かさを見抜いて決戦を避け、ただいつも彼の跡を離れないという作戦に出た。この作戦のために、彼は臆病者の渾名をつけられ、不人気のうちに任期を終えた。

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カンナエの戦い

 決戦を求める民衆の輿論により、元老院はファビウスの任期切れと同時に、ハンニバルとの決戦に挑んだ。前216年8月のカンナエの戦いであるが、この戦いはハンニバルの名を不朽のものにする。

 ローマ軍は重装歩兵5万5000、軽装兵1万5000、騎兵6000。これに対するカルタゴ軍は重装歩兵3万、軽装兵1万、騎兵1万。ハンニバル軍は歩兵能力に劣るとはいえ、両翼に配した優勢な騎兵力を大胆に駆使してローマ軍を包囲してしまう。気づいた時には、もはやローマ軍はなす術もなかった。ローマ兵の死者5万人以上、全軍は壊滅状態だった。この戦いは、完全包囲を成功させた最初の戦例であり、さらにまた自軍に倍する敵軍を包囲殲滅した稀有な戦例である。

 しかし、この大勝利もハンニバルの期待した、ローマの同盟市の大量の離反という結果を生まなかった。もちろん、南イタリアではカンパーニャのカプラ次にはタレントムゥのようにローマに背くものも出たが、ローマのイタリア統治の卓越はこの最大の危機にあって見事に証明された。ハンニバルは個々の戦いに勝ちながら戦略の基本線において大変な錯誤を犯したのであった。

 ローマ市民はこの大打撃に意気消沈するどころか、祖国愛に燃え従軍志願者が続出する。富裕市民もすすんで奴隷を兵役に差し出したという。かくして、前216年のうちにローマは敗戦前と同じ兵力を出すことが出来た。かつてピュルロスの使者はその王に、ローマ軍は一頭を切れば二頭を生ずるギリシア神話の大蛇(ヒュドラ)のようだと報告したというが、カンナエの大敗後はまさにこの比喩の通りさった。

 戦いはこの後15年も続いた。しかし勝負のヤマは、実は前216年で見えたのであり、これから後のハンニバルは次第にジリ貧になっていった。

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【 2019/06/19 05:24 】

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世界史のミラクルワールドー農民の海軍・ポエニ戦争①

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 伝承によれば、カルタゴは前814年、フェニキア人の都市国家ティルスの王の妹エリッサ(アエネイスと愛し合った、あのディドーのこと)が建設したとされているが、確証はない。チュニス湾内の一角に建設されたこの都市は、「新しい都市」を意味するカルト・ハダシュトと呼ばれたが、ギリシア語風にはカルケドン、ラテン語風にはカルタゴと呼ぶ。

 カルタゴは海に近い標高70mのビュルサの丘を中心に建設され、復元図にあるように円形の軍港を持ち、船舶の理想的な停泊地となっていた。

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 カルタゴはシチリア島とは一衣帯水、東西貿易の最も良い位置を占め、一路発展の道を進んだ。前6世紀の後半、ギリシア人の西地中海における植民活動を抑え、サルデーニャ島、コルシカ島、イベリア半島東南岸、それにアフリカ北岸の西半分を勢力圏に収めて多くの植民市を設け、「地中海の女王」と呼ばれるようになった。

 ギリシア人が「ヘラクレスの柱」と呼んだジブラルタル海峡も、この頃は、通航を許されるのはフェニキア人だけという有様だった。この海峡のかなたにこそ最も有利な産物があった。錫は青銅の製造には無くてはならぬものだが、地中海岸には出ず、ブリタニア(今のイングランド)から得られる。アフリカの西海岸を南にくだると黄金や象牙が豊富だった。カルタゴはエトルリア人と結んでギリシア人を撃退したのであったが、エトルリア人は前5世紀以来衰退していったから、ローマ人がイタリアの経営に一生懸命である限り、貿易独占で繁栄を続けられた。

 ローマとカルタゴは友好条約を結び、長いあいだ平和共存を確認し合って来たのだが、ついに刃を交えることになった。ポエニ戦争の始まりであるが、その戦いの場所はまさしく地中海の真ん中に位置するシチリア島であった。なお、ポエニはラテン語でフェニキア人のことである。

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 前264年、シチリア島の東北端にあるメッサナ(現在のメッシナ)の使節がローマにやって来て、ローマとの同盟を求めた。メッサナはギリシアの植民市であるが、この頃はマメルティニ(軍神マルスの子ら)と呼ばれたイタリア出身の傭兵どもの手にあった。彼らはシラクサの王ヒエロン2世が攻撃して来た時、カルタゴに来援を求めたが、気を変えてローマとの同盟、つまり援軍派遣を求めたのであった。

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 イタリア内部の外交、戦略にかけては自信満々の元老院も、これにはすこぶる当惑した。救援に起てば富強を誇るカルタゴの海上勢力との大戦争に発展する恐れがあるし、応じなければイタリアとは目と鼻の先の要衝にカルタゴの根拠地をつくらせることになる。元老院の意見がまとまらないまま、問題は民会に委ねられた。ここで、コンスルたちの「市民各自への大きな利益」をほのめかす演説によって、ついに援軍派遣が決定された。

 このようにして、ローマもカルタゴも予測していなかった戦いが、4分の1世紀近くにわたって戦われた。シチリア島の戦いでは、ローマは島の南端のギリシア都市で、それまでカルタゴとの貿易により最も栄えたアクラガスを占領するのに成功したが、カルタゴの本拠を衝かないことには決定的な勝利は得られぬことがはっきりした。

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カルタゴの五段櫂船

 それには海軍が必要なのだが、カルタゴは五段櫂船を120隻も備えているのに対し、ローマは言うに足る海軍はまだ持っていなかった。海戦の経験も絶無である。しかし、大砲の無い時代で、海戦は船と船のぶつけ合いか、時には乗組員同士の甲板での格闘が勝敗を決するのであったから、工夫の余地が無いではなかった。

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 急いで建造されたローマの軍船には前代未聞の装置が付いていた。先端をマストから綱で釣った一種の桟橋であり、その端には強力な鉄の鉤【かぎ】が付いている。この装置をコウルスと言った。コウルスはラテン語でカラスのことだ。カラスが餌を啄む姿に似ていることから、こう呼ばれた。敵船に近づいた時に綱を緩めて、この桟橋を敵船に打ち込み、乗組員を敵船に一挙に送り込もうというものであった。前260年シチリア島北岸で行われた海戦に、相手を侮って来たカルタゴ海軍はこの新型艦のために大敗を被り、農民の海軍は大いに自信をつけた。

 勢いを得たローマはアフリカへ上陸するが、前255年にスパルタ人の傭兵隊長クサンティッポ率いるカルタゴ軍にチュニスの戦いで大敗し、さらに撤退の最中に海難事故にあい6万の兵を失なった。 前249年、カルタゴはハミルカル・バルカ将軍(ハンニバルの父)をシチリアに送った。ハミルカルは勝利を重ねほぼシチリア島全土の支配を獲得した。

 こうして一進一退と言うよりも、完勝完敗の戦いが続き、両国とも長年の戦いに疲弊の色が濃かった。しかし、ローマ市民は私財を投げ出して200隻の艦隊を造ったのに対し、カルタゴはそれに対抗しうる海軍を用意していなかったため、シチリア島西端沖の海戦にカルタゴは完敗。ついにカルタゴは前241年に無条件降伏を申し入れ、第1ポエニ戦争が漸く終わった。 その結果、ローマはまずシチリア島の西部を中心として支配下に収め、前227年からは総督を置いて統治し、ローマ最初の属州とした。こうしてローマは大帝国への道を歩み始めたのであった。

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【 2019/06/16 05:24 】

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世界史のミラクルワールドー狼に育てられたロムルスとレムス・ローマ建国伝説

カピトリーノの牝狼 

 写真はローマのカピトリーノの丘にある美術館が所蔵する「カピトリーノの雌狼」で、世界史の教科書や資料集には必ず掲載されている像なので、皆さんも一度は目にされたことがあると思う。ロムルスとレムスの双子の兄弟が狼の乳房から乳を飲んでいる。今回はこの二人の兄弟の話をしよう。

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 ミケーネの王アガメムノンの率いるギリシア軍が小アジアに遠征、トロイアとの10年にわたる戦争の後、その都を攻め滅ぼした。このお話は前にしたが、実は話には続きがある。灰燼に帰したトロイアにあっても、生き残った僅かばかりの人びとがいる。その中に王族の血を引く武将アエネイスがいた。トロイアの英雄ヘクトルの亡霊が夢に現れ、祖国の祭祀を守ってほかの地に新しい都を建てるように諭す。

アエネイス 
トロイアを脱出するアエネイス

 父を背負い、息子の手を引いて、旅立つアエネイス。母たる美の女神ウェヌスは彼を見守るのだが、トロイアを恨む女神ユーノーはその陥落後も執念深く落人をすら苦しめる。アエネイスは多年にわたって地中海世界を放浪し、艱難辛苦の冒険の末にイタリア半島にたどり着いた。北上してラティウムに達し、テヴェレ川をさかのぼってラテン人の住む土地に迎えられる。しかし、トロイア人とラテン人の間ではもめ事が度重なった。長く激しい戦いの末に、やがて平和が訪れる。アエネイスはラテン人の王の娘ラウィニアを娶り、新しい都を建設する。その都は妻の名にちなんでラウィニウムと名づけられた。

ヴェルギリウス 
ウェルギリウス

 ここまでが、ウェルギリウスの建国叙事詩『アエネイス』で語られる。それ以後の伝説では、アエネイスの息子アスカニウスがアルバ・ロンガに都を遷し、アエネイス王家は長くラテン人を支配した。やがておよそ200年後のアルバ王プロカスは、二人の息子のために遺産を財宝と王国の二分。兄ヌミトルは王国を選び、弟アムリウスは財宝を選ぶ。しかし、腹黒い弟は兄の王位を奪い、兄の子孫を根絶やしにしようとした。男子は殺され、娘のレア・シルヴァはウェスタ女神の巫女【みこ】にされた。この巫女は生涯を処女で過ごさなければならなかった。

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 でも、森の川辺で居眠りをしていたレアを、通りかかった軍神マルスが見初めて犯してしまう。やがて身籠もったレアは双子の兄弟を産んだ。アムリウスは怒り狂い、彼女の双子をテヴェレ川に流す。

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 だが双子を入れた籠は無花果【いちじく】の枝に引っかかって漂着。そこに一匹の雌狼が近づき、双子に乳を与えた。

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 その後、双子は羊飼いに発見され、羊飼いの夫婦は双子が狼の乳房(ルーマ)から乳を飲んでいたところから、双子をロムルスとレムスと名づけて育てた。

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 彼らは成人すると自分たちの素性を知り、若者を率いてアルバ・ロンガを攻略、祖父ヌミトルに復位してもらう。しかし、彼らの野望はそれに留まらなかった。自分たちが拾われた場所に新しい都を建てることにする。ロムルスはパレティーノ丘を選び、レムスはアヴァンティーノ丘を選んだ。どちらが新都の支配者となるべきか。彼らはその決定を鳥占いの神意に仰ぐ。曙のさすころ鷹が現れ、アヴァンティーノ丘には6羽、パレティーノ丘には12羽がとまる。神意はこの地の支配者にロムルスを選んだのである。

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 ロムルスは2頭の牛に引かせた犂【すき】で都の聖域(ポメリウム)を決め、そこに周壁をめぐらした。神意の賭けに不満だったレムスは周壁を壊して飛び越えてしまう。

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 怒ったロムルスはレムスを殺し、聖域を侵す者は死刑にすると宣告した。絶大なる支配者をなったロムルスにちなんで、この新都はローマと名づけられたという。ということは、ローマは乳房、つまりおっぱいの変形だということだ。

 この伝説上の出来事は前753年4月21日のこととされる。いまでもこの日は、ローマの住民にとって永遠の都の誕生を祝う祭りの日に当たる。

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 ここまでは、あくまで伝説だが、歴史家が考えるローマの建国は150年ほど後のことになる。イタリアでは前1000年頃に鉄器時代が始まるが、テヴェレ川河畔の7つの丘にしだいに集落が発達し、前600円頃にこれらの集落が合体して都市を形成したと考えられている。

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パレティーノの丘

 テヴェレ川と7つの丘に守られた地域が古代ローマの中心地になり、パレティーノの丘の北に、ローマの政治・経済の中心となる広場フォロ・ロマーノが築かれた。この小さな都市が地中海世界を支配する大帝国へと発展していくのである。


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【 2019/06/12 05:13 】

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世界史のミラクルワールドー大図書館と大灯台・アレクサンドリア

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 アレクサンドリアはエジプト第2の都市で、エジプト第1の商港でもある。アレクサンドリアは「アレクサンドロスの都」の意味で、アラビア語の文語では地図にある通りアルイスカンダリーヤになる。「イスカンダルの町」ということなのだが、イスカンダルと言えばご存じ宇宙戦艦ヤマトにに登場する架空の惑星の名前だ。実は、アレクサンドロス大王をペルシア語・アラビア語で呼ぶとイスカンダルになる。

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 そのアレクサンドロス大王が前332年エジプト征服後、ナイル川デルタの西端、ラコティスの漁村近く、北にファロス島をひかえ、南にマレオティス湖を湛えた地を選び、建築家のディノクラテスに命じて都市を建設したのが、この都市の始まりである。大王は将来この都市を世界貿易の中心にしようとし、死後、彼の遺体はこの地に葬られた。

 アレクサンドリアは大王の意図に違わず、やがて「世界の結び目」として、地中海世界とアラビア、インド貿易の中心地となり、数世紀にわたり、「人の住む世界最大の貨物集散地としての地位を確保し、「アレクサンドリアにないものは雪だけ」と言われたほどだ。最盛期の人口は50万とも、100万とも言われている。

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プトレマイオス1世

 アレクサンドロスの死後にエジプトの地方長官となったプトレマイオス1世は、前305年から王の称号をもってエジプトに君臨した。プトレマイオス朝の始まりである。大王の幼なじみで、ともにアリストテレスに教育を受け、アレクサンドロスの伝記を著す文人でもあった、あのプトレマイオスである。その末裔が有名なクレオパトラであり、プトレマイオス朝最期の国王となったことは、皆さんご存じの通りだ。

 プトレマイオス1世はこの都市にムセイオンという研究施設を作り、天文台などを設けたため、アレクサンドリアはヘレニズム時代の自然科学、人文科学の中心地となった。ムセイオンは古代ギリシアで信仰された学術・芸術の女神ムーサイの祀堂であったものが、学堂として発展したものといわれ、英語で博物館、美術館を意味するミュージアムの語源となった。ムセイオンには地中海地域の各地から100人もの研究員が招かれ、ここで研究と討論に従事した。いかにもかつてアリストテレスから教えを受けたプトレマイオスらしい事業である。アレクサンドロスも長命であればしたかったことかも知れない。

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大図書館復元図

 プトレマイオス2世の建てた大図書館は蔵書数50万部ないし70万部と言われ、古代の図書館中最大なものの一つに数えられる。大図書館はムセイオンに付属し、プトレマイオス3世は、書物をもってアレクサンドリアを訪れた者は、原本を大図書館に寄託し、代わりに写本を受け取るように命じたところから、大図書館は別名を略奪文庫とも言われた。

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羊皮紙

 当時、小アジアのペルガモンにも、ユーメネス2世の造った立派な図書館があり、同図書館の司書のアリストファネスの争奪をめぐって、アレクサンドリア図書館を争いがあり、それが原因でペルガモンはエジプトから書写材料のパピルスをの供給を受けることが出来ず、その代用として羊皮紙が開発されたと言われている。名前の通り羊の皮を使うことが多いが、山羊・牛など多様な動物が使われる。英語でパーチメントと呼ぶのは高品質な羊皮紙を生産していたというペルガモンに由来している。

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大図書館跡

 前48~47年のアレクサンドリア戦役の折、ユリウス・カエサルの率いるローマ軍の戦火で焼失したが、その後、クレオパトラと熱き恋を燃やしたローマの将アントニウスが、ペルガモン図書館の蔵書を贈って再建させた。この図書館は640年、イスラーム教徒によるアレクサンドリア攻略の際に、再び壊滅に帰した。この時、正統カリフのウマルは「もし、図書館の蔵書がイスラーム教の聖典コーランの趣旨に反するならば、それは有害である。もし、コーランと同一であるならば必要である」と言って焼却を命じた。蔵書は市中4カ所の浴場で燃料としたが、全部を燃やすのに半年を要したという。
 
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新アレクサンドリア図書館

 それから1300年余り、2001年に新アレクサンドリア図書館として甦った。古代の学問の中心地であった当時の栄光を再現するとして、ユネスコとエジプト政府が世界中からコンペを募って共同で建設したものだ。11階建ての巨大な図書館で、壁には世界各国の文字が記されている。歴史上のアレクサンドリア図書館の最盛期より少ない蔵書数40万冊からの出発だが、最終的には800万冊の大図書館を目指しているという。

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アレクサンドリアにはフィロによって世界の七不思議の一つに選ばれた、高さ180メートルの大灯台が立っていた。この都市の周辺は平坦な土地が広がっており、沿岸航行や入港の際に陸標となるものが何もなかった。そのためプトレマイオス1世は陸標となる灯台の建設を決定し、クニドスのソストラトスに建造を命じた。アレクサンドリアはヘプタスタディオンと呼ばれる1キロ余りの堤防でファロス島と繋がれていたが、そのファロス島の東端に、古代技術の精を尽くし、建立された。

 灯台は大部分大理石で造られ、上にゆくに従ってだんだん細くなるという様式ではなく、今日の摩天楼のような格好をし、頂部だけが丸くなっていた。頂上には大きな火桶があって絶えず燃やされていた。燃料が木材であったか、油類であったかははっきりしないが、ランプの後ろに強力な光を投射する巨大な反射鏡のあったことだけははっきりしている。これこそ灯台(ファロス)の原型であり、ヨーロッパでは今でも「ファロス」の語が灯台を意味する。

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 この灯台については色々の伝説が伝えられている。アラブ人は7世紀以後エジプトを征服したが、彼らの語るところによれば、燃える火が反射鏡で照らし出されると、43キロ先の海上のものを見ることが出来、晴れた日にはマルマラ海の向こう側にあるコンスタンティノープルの町の様子が反射鏡に映り、また日光を反射させると、160キロ先の船を焼くことが出来たという。これらにどれほどの信憑性があるか分からないが、ソストラトスがある種の強力な光を反射するレンズを考案したのは間違いなく、近代レンズの創意を先見したことは疑う余地がない。

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 ファロスの灯台はかなり長い間建っており、カエサルやクレオパトラらの船のために灯台の役目を果たしたに違いない。その歴史に終止符を打ったのはアラブ人の軽挙と貪欲に他ならなかった。

 エジプト人がアラブ人の手に移っても、ファロスの灯台は大事に保管され、海上交通の力強い助けとなっていたが、850年頃、コンスタンティノープルのビザンツ帝国とアッバース朝の間に戦争が始まった時、ファロスの灯台はイスラーム軍にとってはなはだ好都合だったが、キリスト教軍にはそれだけ不都合だった。そこでキリスト教徒側は当時アレクサンドリアを支配していたカリフに密使を送り、灯台の下には途方もない財宝が埋めてあるというデマを飛ばさせた。欲の深いカリフはまんまとこの罠にひっかかり、早速、部下に灯台の取り壊しを命じた。カリフが罠であることに気づいた時、灯台の大半は壊されてしまっていた。カリフは灯台の再建を命じたが、これはアラブ人の手に余る仕事だった。反射鏡をもとの場所に戻そうとしても、誤って地面に落として、壊してしまった。しかも新しく造る術を彼らは知らなかった。反射鏡のない灯台はイスラーム教のモスクとして利用するしかなかったのである。

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カーイト・ベイ要塞

 その後アレクサンドリアの町はカイロの建設とともにすっかりさびれ、灯台は下の部分だけが寂しく立っていたが、1375年にデルタ地帯を襲った大地震のために、完全に崩壊してしまった。1480年頃、跡地に灯台の残骸を利用してカーイト・ベイ要塞が建造され、大灯台は完全に消滅した。それから忘却の時代が続き、ファロスは名ばかり残り、その遺跡は皆目分からなくなっていたが、20世紀の初め、ドイツの考古学者達がカーイト・ベイ要塞の近くで、灯台の所在の跡を確かめ、今日では一般にそこがアレクサンドリアのファロスの跡として認められている。

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  ところで、1994年に海底で偶然石材が発見された。これがきっかけとなり、1995年に海洋研究者と考古学者たちによって本格的な調査が開始され、その結果アレクサンドリアの海底からは巨大な石材や彫刻品の欠片と思われる品々が陸揚げされた。

 1996年には古代遺跡の跡も発見され現在も調査中であるが、プトレマイオス宮殿(クレオパトラが住んでいた)の可能性もあり、さら周辺には5000を超える古代エジプトの遺物が眠っていることがわかっている。今後の研究の成果が待ち望まれている。

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【 2019/06/09 05:16 】

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世界史のミラクルワールドー東の果てへ・アレクサンドロス大王③

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アレクサンドロス大王

 地中海岸の制圧を終えたアレクサンドロスは、前331年春いよいよ敵国の心臓部に向けて出発した。

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 同年10月、ティグリス川の向こうのガウガメラ(アルベラ)でペルシア軍との大会戦となった。ダレイオスが率いるのは20数万の歩兵と騎兵、15頭の象、200台の鎌付き戦車という大軍であったが、激戦の後ダレイオスはまたも戦場から逃げ出し、ペルシアの敗北は決定的となった。アレクサンドロスは逃げるダレイオスを多数の馬を乗り継いで猛追跡したが、ついに取り逃がした。

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 アレクサンドロスが象に乗って壮麗な古都バビロンに入城すると、市民たちは彼を王として迎え、これに応えてアレクサンドロスはバビロンの神々へ参拝した。また、バビロンの地方長官であったマザイオスをその地位にとどまらせ、他にもペルシア人を重要な行政職に任命した。これは従来の方針の転換であり、以後、アレクサンドロスは征服地の重要な地位をペルシア人に委ねるようになった。すでに征服者ではなくアジアの王としての自覚を彼がもったということだろう。

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ペルセポリス

 アレクサンドロスはさらに進軍し、スサを占領して歴代のペルシア王の財宝貯蔵庫を接収し、財政的不安から解放された。ついでペルセポリスに入城し、ここでも莫大な財宝を獲得した後で、宮殿を焼き払った。前480年にクセルクセスによりアテネが焼かれたことへの報復だったと言われている。

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 アレクサンドロスはダレイオスを追ってエクバタナからバクトリアへと進み、そこで出会ったのが、バクトリアの地方長官ベッソスに裏切られ、殺されかけて虫の息のダレイオスだった。自分の腕の中で息を引き取ったダレイオスの遺体を丁重に埋葬したアレクサンドロスは、ベッソスに王位簒奪者の汚名を着せ、自分自身は王の後継者を名乗ることができた。どこまでも運の強いことである。

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 アレクサンドロスは旧ペルシア帝国の東の辺境であるバクトリアとソグディアナの平定に3年の歳月を費やさねばならなかった。堂々の会戦と違いゲリラ風に抵抗するイラン人にはすこぶる悩まされたが、兵の装備を軽くしたり、小部隊に編成替えをしたりして、ついにこれを征服した。その間、交通の要衝に鎮撫の目的でアレクサンドリアの名の都市をしばしば建設しており、その中には今日まで繁栄しているものがある。

ロクサネ 

 ソグディアナの平定後、アレクサンドロスは帰順したこの地方の有力者オクシュアルテスの娘ロクサネを妃とした。アレクサンドロスがバビロンで死去した後、ロクサネは彼の子を産み、アレクサンドロス4世と名づけられた。二人はマケドニアで大王の母オリュンピアスに保護されたが、そのオリュンピアスが暗殺され、その後二人はカッサンドロスにより殺害される。アレクサンドロス4世は14歳であった。カッサンドロスはアレクサンドロスの遺族をほぼ根絶やしにして王位を奪っており、大王を暗殺した疑いももたれているが、確たる証拠はない。

 これまでの全行程を合計したら1万キロをはるかに超えているであろう。それに比べれば、ヒンドゥークシュ山脈からインドまでの距離は物の数ではない。インドはヘロドトスの『歴史』の中にも、砂金に富む地域で珍しい動植物の世界として誌されている。アレクサンドロスが軍の進路を東に向けたのはしごく当然であった。

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ヒュダスペス河畔の戦い

 その頃のインド西北部は政治的な統一がなく、アレクサンドロスはそれを利用して有力な王と同盟関係を結んでから、前327年にパンジャーブ地方に軍を進め、タキシラの町に入った。タキシラは後に仏教の一大中心地となり、現在ダマルラージカ・ストゥーパやジョーリヤン遺跡が残っている。

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 翌前326年、有力な王ポロスとインダス川の一分流ヒュダスペス川の畔で一大会戦となった。ポロスの軍にはおびただしい象が配置されていたが、アレクサンドロスは巧みな機動作戦でこの新しい兵器に打ち勝った。象はこのように必ずしも強力な戦闘力とはならなかったが、新しい兵器としてヘレニズム時代には地中海方面でもしばしば戦場に姿を現した。

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ガンジス川

 ここでアレクサンドロスは土民から東方にガンジスという大河があって大海に注いでいることを知った。当時のギリシア人の知識では旧大陸を実際よりもはるかに小さく考え、その周りを大洋が取り囲んでいるとしていた。してみれば、アジア大陸の東の果てまでは今一息なのだ。全世界の征服者という比類ない名誉が手の届くところにあるのだ。こう考えてアレクサンドロスは軍隊に東進を命じたが、インドの長期の豪雨な中を行軍して疲労しきった軍は初めて反対の意志を表明した。

 今や大軍の兵士は進軍途中で調達されたさまざまな民族の出身者で、出発地のギリシアから約2万キロの行程をアレクサンドロスに付き従ってきた兵士は、わかず334名になっていた。途中で戦死したり病死したりした者、置き去りにされた者はどれほどいたことか。兵士たちの望郷の思いはつのるばかりである。愛馬ブケファラスも老衰で死んだ。

 アレクサンドロスは譲歩を決意した。前326年の秋だった。帰路の行軍も困難をきわめ、数千もの兵士が命を落とした。スサに全軍が辿り着いたのは前324年の5月、前331年にバビロンを出てから8年の歳月が流れていた。

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 スサでアレクサンドロスはダレイオスの娘スタテイラと結婚し、同時に側近のマケドニア貴族たち80名もペルシアの高貴な女性たちと、将兵1万人もそれぞれペルシア女性と結ばれ、合同の結婚式が行われた。このような集団の結婚は、マケドニアの貴族とペルシア貴族が協調してこそ帝国の支配は維持される、とアレサンドロスが考えた結果だった。スタテイラはアレサンドロスの子ヘラクレスを産んでいるが、アレクサンドロス4世と同じく、カッサンドロスにより殺害されている。

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 アレクサンドロスは、次にはアラビア遠征を計画し、その準備を進めながら、帝国内の行政組織の整備にも謀殺された。祭りなどさまざまな行事にも出席しなければならない。前324年秋には親友ヘファイステオンが急死し、翌年春にはギリシアで反乱に向けて不穏な動きが生じていた。

 そんな時にアレクサンドロスは急に熱病に襲われた。だいぶ続け様に酒を飲んだあとのととであるが、宮廷日誌に基づく伝承は、神となった世界の征服者が10日ばかりの熱病で、苦しみながら弱っていった様を細かく伝えている。それでも目前の大計画やその他政務について病床から指図していた。マケドニア兵たちが側近の制するのを聞かずに病室に入って寝台のわきを列を作って通った時、頷いて見せたのがアレクサンドロスの最期であった。前323年6月13日のことであった。敵の刃にはあれほど運の強かった幸運児も、恐らく1匹のマラリア蚊のために32歳の若さで斃れたのであった。

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【 2019/06/05 05:08 】

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世界史のミラクルワールドー神の子・アレクサンドロス大王②

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愛馬ブケファラスに乗るアレクサンドロス大王

 アレクサンドロスは暗殺された父の葬儀をアイガイで立派にすませて、王位継承者であることを周囲に明示した。20歳で王となったアレクサンドロス(正式にはアレクサンドロス3世)は、フィリッポスの死を契機に王国北部のトラキアやイリュリアに起こった反乱をまず鎮圧し、その間に反乱を起こしたギリシアに電撃的攻撃を加えて制圧。テーベを徹底的に破壊させ、その住人を見せしめとして奴隷として売り飛ばした。

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 この頃、アレクサンドロスがコリントスに訪れた際に、「樽のディオゲネス」とか「狂ったソクラテス」とか異名を持つディオゲネスと会っている。彼はソクラテスの孫弟子で、樽の中に住んでいた。ディオゲネスが挨拶に来なかったので、アレクサンドロスのほうから会いに行った。

 ディオゲネスはいつも通り日向ぼっこをしていた。アレクサンドロスが近寄り、「何か欲しいものはあるか?」と尋ねると、ディオゲネスは、「陽の光が当たらないから、そこをどいておくれ」と答えたそうな。これにはアレクサンドロスも苦笑い。帰る途中、お付きの者たちに、「私がもしアレクサンドロスではなかったら、ディオゲネスでありたい」と漏らしたそうでだ。

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 前334年、アレクサンドロスはマケドニア軍にギリシア諸国から送られてきた兵を加えてアジア遠征に出発した。父の遺志を継ぐ、という大義名分が彼にはあった。アレクサンドロスの東征につき従ったのは、1800名ちかい騎兵(ヘタイロイ)と3万の歩兵、それにギリシア諸国からの600の騎兵と7000の歩兵、加えてテッサリアから1800の騎兵部隊などであった。この大軍のための食糧と戦費は1カ月分にようやく届くかという程度に過ぎず、アレクサンドロスは占領地で物資を調達しようともくろんでいた。一方、本国マケドニアの留守を守るアンティパトロスには、守備兵として1万2000の歩兵と1500の騎兵が残された。

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グラニコス川の戦い

 
東征最初の本格的な戦いは、遠征軍が現在のダーダネルス海峡から小アジアに渡りグラニコス川に到達した時に始まった。アレクサンドロスはこの戦いで危機一髪のスリルを味わっている。彼を狙ってきた敵将2人の打ちおろした刀は、アレクサンドロスの兜を傷つけただけだった。彼の槍がこの敵の胸甲を貫いて胸倉深く刺さった瞬間に、もう一人の敵が後ろから太刀を振りかざした。友人のクレイトスがこの敵の手を刀ぐるみ肩から切り落とさなかったら、アジア遠征がこの先どうなったか分からない。

 アレクサンドロスが最も恐れたのは、ペルシア艦隊を率いていたロードス出身のメムノンがその策にもとづき、戦争をギリシア本土に移し後方攪乱を行うことだった。小アジア西岸の諸都市は概ねアレクサンドロスを解放者として迎えたが、前面の島々はメムノンの工作に動かされていた。ところが、ここにまた大きな幸運が降って湧いた。その知謀を最も警戒せねばならぬメムノンが前333年春病死し、ペルシア国王ダレイオス3世が三軍を叱咤することになったからである。

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1831年ポンペイ出土のモザイク画

 この年の秋、小アジアの内地を経てキリキアに出たところでアレクサンドロスとの会戦となった。イッソスの戦いである。この戦いにギリシア側の一翼は苦戦に陥ったが、4頭立ての戦車の中で指揮していた総大将ダレイオスがアレクサンドロスの突進に恐れをなして逃げ出し、これが勝敗を決定した。ポンペイの「ファウヌスの家」の床を飾るモザイク画は、ダレイオスに肉迫するアレクサンドロスを見事に描いている。
 

 ダレイオスは逃亡の際に巨額の財宝を置いていったばかりではなく、母や妃や二人の娘も置き去りにしたが、それは非常に貴重な捕虜となった。しかも、ダレイオスの妃は絶世の美人、娘たちもそれに似ていた。アレクサンドロスは僕と同じで酒で随分失敗をしているが、白面【しらふ】だと克己心の強い人だった。この時も悲嘆にくれる王族の婦人を丁重にいたわり、一指も触れなかったのはさすがであり、アレクサンドロスの寛大さと気位の高さを物語る行動である。

ダレイオスの家族

 実はこんな話が残っている。アレクサンドロスと友人のヘファイスティオンが連れ立って、捕えられたダレイオスの母親と妃の許を訪れている。その時、ダレイオスの母シシュガンビスは2人のどちらが王であるか見分けがつかず、より上背のあるヘファイスティオンの前に跪いてしまった。しかしアレクサンドロスは「お気になさるな。この男もまたアレクサンドロスなのだから」と笑って咎めなかったという。

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ヘファイステオン(映画『アレキサンダー』より)

 ヘファイスティオンは前324年、エクバタナで突如病に倒れ、7日ほどで病死している。この時、アレクサンドロスは非常に嘆き悲しみ、投薬を誤ったかどで医師を処刑し、3日間にわたって食事もとらず衣服も整えずにひきこもり、バビロンに1万タラントンを費やして巨大な火葬壇を築き、彼を神として祭るように命じたという。実はこの二人は「Greek love 」の関係、つまり同性愛関係にあったようだ。父親のフィリッポスもそうであったように、ギリシア世界ではごく普通に同性愛が行われていた。ただ、現代のゲイとは違い、女性と普通に結婚もし、子供ももうけている。

 話が逸れてしまったが、イッソスの大勝利の後、アレクサンドロスはダレイオスの申し出た和議を一蹴したが、すぐにペルシアの中心部には進まず、昔からペルシア海軍の主力を供していたフェニキアの征服にかかった。必死に抵抗したティルスに対し攻城の技術を総動員して7カ月かかってこれを降した後、前332年11月、何らの抵抗なしにエジプトに入った。

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アレクサンドリア

 ペルシア支配からの解放者として迎えられたアレクサンドロスは、エジプトの神々に生け贄を捧げて民心を把握し、ファラオの地位に即いた。そして、ナイルのデルタの西部海岸で、ナイルの土砂に煩わされぬうまい地点に目をつけて、都市アレクサンドリアの建設にとりかかった。アレクサンドリアは後にヘレニズム世界最大の都市となり、また、学芸を愛好したアレサンドロスに相応しく学問の都として名を馳せた。

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シヴァのアモン神殿
 彼が次に西方約400キロにあるシヴァ・オアシスにあるアモン神殿の神託を求めに行ったのは、直接には遠征に関係のない事だけに最も不可解である。というのは、その間は完全な沙漠で、行軍は困難なばかりか大きな危険も伴うものだったからである。このエジプト古来の太陽神は、ギリシア人のゼウスと考えられ、その神託はギリシア世界に早くから有名だった。

神託 


 鴉【からす】の群れに導かれて無事に目的地に着いた時、神託の予言者が彼を人々の前で「アモンの子」と呼びかけたことが、彼に自分を「ゼウスの子」で神の特別の加護を受けているという神秘的な信念を植えつけたと解されている。

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【 2019/06/02 05:00 】

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