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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー素足の皇帝・カノッサの屈辱

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クリュニー修道院

 西欧封建社会では、王権が貧弱で統一的権力になれなかったのに対し、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパ世界全体に普遍的な権威を及ぼした。教皇を頂点とし、大司教・司教・司祭・修道院長など、聖職者の序列を定めたピラミッド型の階層制組織がつくられ、大司教や修道院長などは国王や貴族から寄進された荘園を持つ大領主でもあった。高位の聖職者が諸侯とならぶ支配階級となると、皇帝や国王などの世俗権力は、しばしば本来聖職者ではない人物をその地位に任命し、教会に介入するようになった。

 高位聖職者になれば所領や豊かな財力を持つことが出来たため、。聖職者の地位を金銭で売買する、いわゆる「聖職売買」(シモニア)が次第に行われるようになった。また、聖職者の中には、俗人と同じように妻を持ち、信仰心が深くなくとも高い地位を買うことがあった。こうした教会の堕落した状況を変えようとしたのが、フランス中東部のクリュニー修道院を中心とする改革運動であった。

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グレゴリウス7世

 1073年に即位したグレゴリウス7世はこの改革を推し進め、教会内部にあっては聖職売買や聖職者の結婚の禁止を厳命し、違反者を容赦なく追放した。外部に対しては世俗権に対する教皇権の優位とその不可侵性を主張、特に国王など俗人による聖職者の任命を禁止した。

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ハインリヒ4世

 これに激しく反発したのが神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世であった。ハインリヒ4世は父の急死によりわずか6歳で即位、15歳で親政を開始したが、父王の時代に抑圧された諸侯・聖職者の反乱にあい、困難な統治が続いていた。ハインリヒ4世はオットー大帝以来の帝国教会政策を維持して領内の司教などの聖職者の任命権を行使し、教会を通じての統治を続けていた。

 1075年、グレゴリウス7世が俗人による聖職叙任の禁止を通告してきたが、ハインリヒ4世は、北イタリアへの勢力拡大をはかって、子飼いの司祭たちをミラノ大司教・フェルモ司教・スポレト司教などに次々と任命していった。グレゴリウス7世は、司教の叙任権が王でなく教会にあることを通達したが、ハインリヒ4世は聞き入れようとしなかった。

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 1076年1月、全面的対決を決意したハインリヒ4世はヴォルムスで帝国議会を開き、グレゴリウス7世が不正な方法で教皇に即位したとしてその無効を宣言し、対抗する教皇を選出した。それに対し、グレゴリウス7世は復活祭前の公会議でハインリヒに破門を宣告し、彼とキリスト教徒の交わりを断ち、臣下の彼に対する忠誠を解除した。

 かねてからハインリヒ4世への敵対意識の強かったザクセン公はじめドイツの諸侯たちは、この機会をとらえてハインリヒ4世に反旗を翻した。ハインリヒが1年以内に破門を解除されないならば、破門の一周年にあたる1077年2月、教皇が主催するアウクスブルクの帝国議会で帝位を追われるものと決議した。

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モン・スニ峠

 情勢のこの急変には、さすが強気のハインリヒも打つべき手に窮した。そこで彼は、先に出した教皇罷免の命令を撤回して恭順の意を表し、アウクスブルク帝国議会での裁きに従おうと宣言した。

 しかしその後、彼はアウクスブルクでの結末に不安を感じ、黙って裁きを待っているよりは、すすんで運命を開拓した方が良いと考え、ドイツからの脱出を謀ったのだった。数々のアルプスの峠はもう教皇側の諸侯の手に落ちていたので、残ったのはモン・スニ峠だけだった。こうして、厳冬のモン・スニ越えという冒険が敢行されたのである。

 たださえ困難な冬季のアルプス越えを。異例の厳冬に、しかも女子供づれでやるというのは、ほとんど捨て身のやり方だった。年代記はこの峠越えの難渋をきわめて生き生きと描いている。ともかくも皇帝一行はアルプスを越え、ロンバルディアに向けて降った。ここでの事情はドイツとは違っていた。ハインリヒはゆくゆく彼の同情者を集め、その一行はやがて遠征軍にも変わらないほどに膨張した。

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カノッサ城

 驚いたのは教皇グレゴリウス7世だった。おりから彼はアウクスブルクの帝国議会に臨むため、イタリアを北上中だったが、この報せに急遽予定をかえ、信任厚いトスカナ伯夫人マティルドの堅城、アペニン山脈北端の要害カノッサに閉じ籠もった。

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ハインリヒ4世(中央)、クリュニー修道院長(左)とマティルド

 このとき以来何回かの使節が教皇と皇帝の間を往復した。皇帝の懇願にも拘わらず、教皇は頑として接見を拒んだ。しかし、マティルド夫人やクリュニー修道院長ユーグの懇請などもあって、最後に教皇は皇帝に譲歩した。

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 ハインリヒはカノッサ城外で痛悔の実を示すことを求められた。彼はただ一人、三重の城門の第二門の中に入ることを許され、無帽、裸足、わずかに粗毛の修道衣を纏っただけで、三日間雪の上に立ち、涙とともに赦免を乞い続けた。

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 こうして皇帝ハインリヒ4世は最後に城内に招き入れられ、告解を行い、諸侯との争いの解決を教皇の裁定に委ねることを条件に破門を解かれた。これが皇帝権の悲劇、「カノッサの屈辱」として知られている事件である。

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グレゴリウス7世の客死

 ハインリヒ4世は帰国後、対立皇帝ルドルフを破ったが、教皇との紛議が再発して再び破門されると、1081年イタリアに侵入しローマを囲んだ。教皇のもとにいた13人の枢機卿達は逃亡し、新教皇クレメンス3世が即位、改めてハインリヒは帝冠を受けた。教皇グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に追い込まれたが、ロベール=ギスカールの率いる南イタリアのノルマン人に救出されたがサレルノに配流となり、「正義を愛し、不正を憎んだがゆえに配流に死す」と言い残して同地に没した。

 ハインリヒ4世はその後も教皇ウルバヌス2世から破門され、「神の平和(休戦)」による最初の帝国平和令を公布した。しかし、諸侯と結ぶ息子のハインリヒ(後のハインリヒ5世)などの諸反乱に苦しめられ、捕らえられて退位し、失意のうちに翌年リエージュで没した。享年55歳。

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【 2019/07/31 05:16 】

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世界史のミラクルワールドー征服王ウィリアム

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クヌート

 デーン人(ヴァイキング)のイングランド王国侵攻は、アルフレッド大王によって一時抑えられたが、11世紀にふたたび活発になった。エセルレッド王は同じくデーン人に侵攻されていたノルマンディー公と結んでこれに対抗しようとし、1002年にイングランド中のデーン人を皆殺しにする命令を出した。オックスフォードでは聖堂に逃げ込んだデーン人を町民が焼き殺すという惨事も起こった。激怒したデンマーク王スヴェンが、翌年大軍を率いてイングランドに上陸すると、エセルレッド王はノルマンディーに亡命、イングランドの有力貴族はスヴェンを国王として認めた。

 スヴェンが急死したためその子クヌートがイングランド王位を継承、旧王勢力を撃破して、改めて1016年にイングランド王に即位した。デーン朝の成立である。
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 クヌートは、1019年に兄のハーラルが急逝したためデンマーク王も兼ね、イングランドとデンマークにまたがる北海帝国の盟主となった。デンマークの強大化を恐れたノルウェーとスウェーデンが連合軍を作りそうな動を見せると、機先を制してノルウェーを撃破し、スウェーデンの一部も支配下においた。こうしてクヌートは北海に面したほぼ全地域をおさえ、イングランドは北海商業圏の一角を占めることで、都市と商業が大きく成長することとなった。

エドワード懺悔王 
エドワード懺悔王

 しかし、1035年にクヌートが死ぬと、デーン朝はその広大な領土を維持することが出来ず、急速に分解した。イングランドも混乱が生じ、有力貴族たちは、デーン朝の国王に代わって、1042年にエゼルレッド王とノルマンディー王女エマとの間に生まれたエドワードを迎え、アングロ=サクソン人の王位を復活させた。

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ウェストミンスター寺院

 エドワードは白子(アルビノ)で柔弱な性格であったそうだが、信仰心は厚く1045~50年にテムズ河上流にウェストミンスター寺院を建立したことから、懺悔王の名で呼ばれている。ウェストミンスター寺院では1066年以降、「エドワード懺悔王の礼拝室」でイギリス国王の戴冠式が行われており、また、13世紀~18世紀のイギリスの王は、リチャード3世ら数人を除き、ほぼこの寺院に埋葬されている。

 エドワードはアングロ=サクソンの有力貴族ゴドウィンの娘エディスと結婚したが、形式として婚姻関係を結んだにすぎず、エドワード自身は修道士としての純潔にこだわったため、後継ぎをもうけることがなかった。

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ハロルド2世

 1066年にエドワードが後継者を指名せずに死去すると、王位を自称するものが複数で争い、そのうちの一人、エドワードの義兄であるゴドウィン伯のハロルドがハロルド2世として即位することになった。これに対し、ノルマンディー公ウィリアム(フランス語表記ではギョーム)が、エドワードの従兄弟(エドワードの母エマの甥)に当たることから王位継承を主張、イングランドに侵入する構えをみせる。 

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ノルマンディー公ウィリアム

 ハロルドの即位に反対する弟トスティは、イングランドへの侵入を窺うノルウェー王ハラール3世の軍隊に協力してヨークの東方のスタムフォード=ブリッジに兵を進めた。ハロルド2世はウィリアムの侵攻に備えて南部に終結していた精鋭を急遽北上させ、この連合軍と戦闘を交え、大勝してトスティを戦死させた。

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へースティングズの戦い

 この間手薄を狙うウィリアムはスタムフォード=ブリッジの戦いから3日後の9月25日、サン=ヴァレリー港を出港した。ウィリアムの率いる約5000人の船隊は9月28日難無くイングランドのペヴンシーに上陸し、彼は浜辺の砂を口に含んでイングランド征服の誓いを新たにした。戦場に選ばれたのはへースティングズの北方であったが、ハロルド軍は北部の戦闘に次ぐ南下に兵力を消耗していたため、騎兵を中心とするウィリアム側がわずか1日で勝利し、ハロルドは戦死した。

 1066年12月25日、ウィリアムはウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。こうしてウィリアム1世はフランス王臣下にしてイングランド王の地位を得たのである。

 面白いお話を一つ。ノルマン朝の支配者はフランスからやって来た連中でフランス語を話し、征服されたアングロ=サクソン系の人々は英語を話していた。元々、イングランドでは生きている牛も食肉となった牛もcowやoxと呼んでいた。ところが、支配階級のフランス人は牛をboef(ボフ)と呼んでいたので、テーブルに牛肉として出す時はボフと言って出した。このboef(ボフ)がbeff(ベフ)になり、beef(ビーフ)になったと言われている。ピッグとポークも同じ関係だ。これ以外にも英語の単語の3割ほどがフランス語に由来すると言われている。

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【 2019/07/28 05:23 】

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世界史のミラクルワールドーイギリス班蛭ガ小島・アルフレッド大王

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 北ヨーロッパに住んでいたゲルマン人の一派はノルマン人と呼ばれ、375年に始まるゲルマン人大移動の時にはまったく移動しなかった。しかし、彼らの一部は8世紀後半から、商業や海賊・略奪行為を目的として、ヨーロッパ各地に本格的に海上遠征を行うようになった。彼らはヴァイキングと呼ばれ恐れられたが、ヴァイキングは入り江(ヴィーク)に住む人々」という意味である。

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 ヴァイキングの使用した船、ヴァイキング・シップには、「ロング・シップ」(長い船)と呼ばれる、喫水線が浅く、船腹の狭い、速度が速いので主として戦闘用に使われた軽舟と、「クナル」と呼ばれる、容積も大きく交易用に使われた大型船の二種類がある。いずれも樫その他の木材で造られ、甲板はなく舷側は二枚張りで、人力による櫂と風力を利用する帆を併用した。ヴァイキング・シップは喫水線が浅いので、河川をさかのぼって内陸深く侵入することが可能だっだ。
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 これらの船を利用して、彼らは入り江を拠点に盛んに外洋を航行する船舶を襲うようになり、さらに人口増加の圧力から各地への植民に乗り出した。10世紀初めロロが率いる一派は、北フランスに上陸してノルマンディー公国を建てた。ここからさらに分かれた一派は、12世紀前半、南イタリアとシチリア島に侵入し、両シチリア王国を建国した。また、ノルウェーのヴァイキングはアイスランド、グリーンランドからさらにアメリカ大陸にまで到達した。

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 大ブリテン島では5世紀に移住して来たアングロ=サクソン人によって七王国(ヘプターキー)が成立していたが、8世紀の末頃からデンマークを本拠とするデーン人の侵攻に脅かされるようになった。

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エグバート(「ヴァイキング ~海の覇者たち~」」より)

 ウェセックスの王家出身のエグバートは王位争いに敗れ、大陸に亡命してフランク王国のカール大帝に保護された。諸制度について学び帰国して勢力を回復し、829年、アングロ=サクソン系の七王国をすべて支配下において、イングランドを統一した。イングランド王国の誕生である。

 しかし、その死後20年のうちに、ウェセックスを除く中・北部の領土はすべてデーン人の占領下に奪われ、ロンドンもその支配下に入った。これに敢然と立ち向かったのがエグバートの孫アルフレッドである。

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アルフレッド大王

 871年、アルフレッドが即位した時、デーン人の勢力はウェセックスの東部にまで広がっていた。アルフレッドは何度か彼らに敗れて、ついに南西部に追い払われ、エセルニーという小さな島に立てこもらなければならなくなった。平治の乱に敗れて伊豆の蛭ガ小島に流された源頼朝の話は、300年後のことであるが、配所にあって隠忍自重し、機会をつかんで反撃に立ち上がり、やがて天下を統一するところはアルフレッドの場合とよく似ている。

 伝説によると、この島で王の一行はとある農家に宿を借りた。その家のお婆ちゃんは、まだショックから立ち直れないアルフレッドを見て、呆れたように言った。

 「いい若いもんが、ぼさっとして。宿を借りるなら手伝いでもしてくれよ。今からパンを焼くから、焦げないように見張るんだ」

 「あっ、はい」

 アルフレッドはお婆ばちゃんに言われるがまま、パンを入れた炉の前に座った。しかし、ヴァイキング対策で頭がいっぱいで、パンのことはすっかり忘れてしまった。
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 帰宅したお婆ちゃんが焦げ臭さに顔をしかめ、あわてて炉に駆け寄った。

 「ちょっとあんた、パンを見てろって言ったのを聞いていなかったのかい!」

 「あっ、すんません」

 「すんませんじゃあないよ! この焦げたパンはあんたが責任持って食べなよ。アツアツでさぞ  うまいだろうさ」

 そう言うとお婆ちゃんは、箒でバシッと王を叩いた。

 「無礼者! 王に何をする」

 家臣があわてて咎めると、お婆ちゃんはびっくり仰天。即座に謝まった。

 しかしアルフレッドは、「いや、約束を破ったのは自分だから。パンを焦がしてしまってすまなかった」

 そう告げると、唖然とするお婆さんを後にして農家を立ち去ったという。

 その後、878年、アルフレッドはエディントンの戦いにデーン人を破り、イングランド王国の再建を成し遂げ、886年にはロンドンを奪回することに成功した。アルフレッドはデーン人との間でイングランド北東部の統治権(デーンロー)を認める条約を結び、戦闘を終結させて、自らはイングランド南西部の支配権を保持した。

 アルフレッドはまた学芸の保護にも力を注ぎ、ラテン語古典の翻訳や法典、歴史の編纂が行われた。カール大帝の起こしたルネサンスがここでも実を結んだのである、

 そのため、アルフレッドは「イギリスのカール大帝」と言われ、イギリス史上唯一の「大王(グレート)」と称されるのである。 

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【 2019/07/24 05:02 】

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世界史のミラクルワールドーカールの戴冠・カール大帝

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トゥール・ポワティエ間の戦い

 フランク王国メロヴィング朝の宮宰職を担うピピン2世(中ピピン)の息子カールは、714年の父の死後おこった後継者争いを勝ち抜き、アウストラシア・ネウストリアをはじめとするフランク王国内の平定を進めた。732年には10年ほど前から地中海沿岸やピレネー地方を劫略していたイスラーム教徒の騎馬部隊がアブド=アッラフマーンに率いられて北上したのを、トゥールとポワティア間に撃退した。

 その後730年代を通じてミディ地方やプロヴァンスに対して度重なる遠征を行ったために、後に南仏の人々から「マルテル(鉄槌)」の渾名を与えられ、畏れられることになる。こうした頻繁な遠征・イスラーム騎馬軍との対決という状況の中で、カールは教会・修道院領を強制的に収公し、これを封土として家臣に与え、機動力の高い封臣軍を作り上げた。この教会領の強制還俗のために、カールには「教会泥棒」というイメージが定着した。

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ピピン3世(小ピピン)

 カール=マルテルの死後、その息子カールマンとピピン3世(小ピピン)が王国を宮宰として二分した。しかし、747年カールマンが突如俗世を捨て、モンテ=カシノ修道院に隠棲すると、ピピンはメロヴィング家の国王キルデリク3世を廃位して自ら王位にのぼる野心を抱く。

 751年、ローマ教皇ザカリアスの承認を得たうえで、ピピンはソワソンに参集したフランク人によって国王に推戴され、司教たちから塗油をうけた。カロリング朝の始まりである。西ゴート王国ではすでに国王の即位の際に塗油の儀式を持ち込んでいたが、フランク王国では初めてのことであり、フランク王権が聖なる性格を帯びることになった。

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ピピンの寄進

 さらに754年には教皇ステファヌス2世をパリ郊外のサン=ドニ修道院に迎え、息子カール、カールマンとともにあらためて塗油を受けた。756年には教皇の一連の厚意にこたえるべく、都市ローマの宗主権やランゴバルトから奪還したラヴェンナ太守領をはじめとする領土を教皇に献上し、寄進状をペテロの墓に捧げた。

 「ピピンの寄進」によりローマ教皇領が成立し、教会国家の基盤が築かれる一方、旧約聖書のダヴィデを模して塗油され、ローマ教皇と分かち難い絆で楠ばれたキリスト教的王権の新たな姿であった。

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カール大帝

 カール大帝はヘラクレスの異名をもつピピン3世を父とし、ハンガリー王女「大足のベルトレド」を母として生まれた。1feetという単位はカール大帝の足をもとにして決められたという。feetはfoot(足)の複数形だが、そうするとカール大帝の足の大きさは30,48cmということになり、随分大きな足だ。おそらく母の大足が遺伝したのであろう。

 アインハルトによれば、小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かかったという。馬術、狩猟、水泳などに長じており、特に水泳はアーヘンの宮廷に大きな温泉プールを設けるほど愛好したが、誰もカールの右に出るものはいなかったほどであった。プールでは一族や従臣とともに泳いだが、その数は100人に達することもあったという。焼肉が大好物であったが、酔っぱらいが嫌いで酒はあまり飲まなかったという。

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 768年、ピピン3世の死で弟カールマンと共治となった。771年、弟の死で単独支配者となり、在位46年の間に53回も出征した。苛烈なサクソニア戦争を戦ってザクセン地方を征服、バイエルンを併合して後のドイツ国の基礎をなし、教皇の要請でイタリアのランゴバルト王国を滅ぼした。スペインに出征して、イスラーム教徒と戦い、スペイン辺境伯領をおいた。また、アジア系のアヴァール人を討ってドナウ川のほぼ中流域まで支配を拡大した。こうして西はスペインのエブロ川、東はエルベ川、北は北海、南はイタリア中部におよぶ大領域に、イングランド・スカンディナヴィアを除く全ゲルマン民族と旧西ローマ帝国の住民を加えた約1500万の人口を支配した。

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アルクイン

 名実ともにローマ教皇の守護者となったカールは、やがて宮廷学校長にイギリスの神学者アルクインを招いてキリスト教と学芸の保護・発展に尽力する。日頃、語彙も豊かで淀みなく話したカールだが、文字の読み書きは出来なかった。ただし、戦場にあっても夜な夜な石板に手習いをし、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、ギリシア語も聞いてわかる程度にはなった。食事中は好んで歴史書を読ませたが神学者アウグスティヌスの著作も好み、『神の国』は何度も読ませたという。

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レオ3世

 一方、聖画像崇拝の可否を巡って混乱するビザンツ帝国では797年、レオン4世の未亡人で摂政のイレネ后が息子のコンスタンティノス6世を殺して初の女性皇帝を号した。教皇レオ3世はこの機をとらえて女性による皇帝を無効として空位を宣言、皇帝権の西方復帰を画策する。

 800年11月、カールはサン=ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール(少年王)、高位の聖職者、伯、兵士達からなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇レオ3世より直々の出迎えをうけた。そして、サン=ピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、レオ3世はカールを大聖堂の中へ導いた。
 

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 12月25日、カールはサン=ピエトロ大聖堂の祭壇に跪いて祈っていた。ミサが終わって立ち上がろうとしたカールの頭上に、燦然と輝くローマ皇帝の黄金の冠がそっと載せられた。驚いて目を見張るカールに向かって、堂内に居並んだ人々の口から、「尊厳なるカール、神により加冠され、偉大にして平和なローマ人の皇帝に、長き命と勝利あれ!」と祝賀の叫びがあがったという。

 世俗権力と教権の二つの中心が並立する新しいヨーロッパの誕生であった。

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【 2019/07/21 05:21 】

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世界史のミラクルワールドー「神の災い」と呼ばれた男・アッティラ

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 フン人は4~5世紀にヨーロッパに侵入したアジア系遊牧民。昔はフン族と呼んでいたが、最近の高校世界史教科書ではフン人と呼ぶ。中国の歴史書に現れる匈奴が前1世紀に漢に討伐され、南北に分裂し、その北匈奴が西方に移動したのがフン人であると言われるが、不明なことも多い。実態はトルコ系・モンゴル系を含む遊牧・騎馬民族と考えられる。

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 フン人は2世紀頃、バイカル湖方面から西方に移動を開始し、4世紀には南ロシアのステップ地帯に入った。370年頃ヴォルガ川を越えてゲルマンの一部族東ゴート人の居住地に侵攻し、東ゴート人の大半がフン人に服従した。フン人はさらに西方の西ゴート人を攻撃したため、375年西ゴート人は移動を開始、376年にドナウ川を越えローマ領内に侵入、ゲルマン人の大移動の引き金となった。

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ブレダ(左)とアッティラ

 アッティラは406年頃、フン人の王ルーアの弟、ムンズクの息子として生まれた。434年、ルーアが死去し、フン人全体を統べる者として甥のブレダとアッティラが共同統治者として即位した。441年ビザンツ帝国のトラキア・マケドニア方面に侵入、ビザンツ帝国から賠償金と貢納金を得た。

 445年頃にブレダが死去する。狩猟中の事故で死んだともされるが、真相は不明であり、一般的には弟のアッティラによって殺されたと信じられている。ブレダの死により、彼に従属していた諸部族はアッティラの支配下に入り、アッティラがフン人唯一の王となった。

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アッティラ

 アッティラはブルグンド人などのゲルマン諸族を征服し、パンノニア(現ハンガリー)に本拠を置いてビザンツ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築き上げた。

 歴史家プリスクスによると、448年のこと、ある羊飼いが土中から剣を掘り出しアッティラへ献上した。アッティラはこれを喜び、これを軍神マルスの剣であると信じ、自分は全世界の支配者になる運命であると自信を持ったという。

 
449年、ビザンツ皇帝テオドシウス2世はアッティラの元へ使節を送ったが、その中に歴史家プリニクスがいた。彼はアッティラの外見について次のように語っている。「背は低いが筋肉質で、頭が大きく、顔色はくすんだ黄色。両目おもに斜視で、蓄えられた顎髭には白髪が混じっている。低い鼻と浅黒い肌は、彼の出身を表しているように思える」と。この時、テオドシウス帝は使節の中に刺客を潜ませていたが、暗殺は失敗に終わっている。

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カタラウヌムの戦い

 西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉である野心家のホノリアは、弟にとって最悪の敵の妻となることで、政治的権力を得たいと考え、450年にアッティラに手紙を出した。「私と結婚したら、持参金として西ローマ帝国の領土を譲ります」、と。

 451年、軍神マルスの化身となったアッティラは、花嫁ホノリアと結婚するため50万人の大軍を率いて西進を開始、ライン川を越えて北ガリア(フランス)を襲った。アッティラはランス司教ニカシウスを教会の祭壇で虐殺し、6月にはオルレアンを包囲する。6月20日、西ローマ帝国近衛司令官アエティウスの率いる西ローマ・西ゴート・フランクの連合軍とカタラウヌムで激突した。この戦いでアッティラは自殺を覚悟する程の敗北を喫し、撤退した。

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レオ1世とアッティラの会見

 452年、体勢を立て直し、皇女ホノリアとの結婚を改めて主張したアッティラは、北イタリアに侵攻。道々で略奪を行い、ミラノ、アクイレイアなどの諸都市を攻略してローマを窺ったが、ウァレンティニアヌス帝の望みによりアッティラと会見した教皇レオ1世の説得で、アッティラはローマを去ることになる。恐らく、疫病と飢餓がアッティラの陣営で発生しており、戦う余力が無かったものと思われる。

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 453年、パンノニアの本拠地まで引き返したアッティラは、ゴート人の美女イルディコを娶った。婚礼の宴が終わり、二人は寝室に向かいました。そして同衾中、新婦の悲鳴が響きました。なんとアッティラは、夫婦の営みの最中に鼻血を噴いて、突然死してしまったのである。「神の災い」や「神の鞭」と呼ばれ、恐れられた男のあまりにもあっけない死であった。伝説によればアッティラの遺体は征服で得た戦利品とともに金、銀、鉄の三重の棺に安置された。男たちが川の一部の流れを変えて棺を川底へ埋めて流れを元に戻し、彼らは埋葬地の正確な場所の秘密を守るために殺されたという。偉大な指導者を失ったフン人の帝国は一挙に崩壊し、歴史の彼方に消えてしまった。

 ちなみに、現在のパンノニアに住むハンガリー人を、フン人の後裔とする説明があるが、それは誤り。ハンガリー人はフン人とは異なるアジア系遊牧民マジャール人の後裔であり、ハンガリーの正式国名はマジャールオルザーク、「マジャール人の国」である。じゃあ、なぜヨーロッパの他民族が彼らをハンガリーと呼ぶようになったのか?二つ説があって、一つは、ヨーロッパの人たちが、5世紀にこの地方に侵入したフン人と、9世紀に侵入してきたマジャール人を混同し、フン人の Hun に、人を意味する gari がついてハンガリーというようになった、と言う説である。もう一つの説は、この民族が故郷のウラル山脈を出て、9世紀にこの地に移動してきたとき、トルコ系のオヌグール(Onugur)人と密接な関係になったので、他の民族からはオヌグールが変化してハンガリーと言われるようになった、というものである。日本ではハンガリーのハンをフンからきた、という説明をよく見かけるが、現在では後者のオヌグール=ハンガリー説の方が有力な説となっている。


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【 2019/07/17 06:11 】

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世界史のミラクルワールドー「クォ・ヴァディス・ドミネ」・ペテロ

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ペテロ 

 ペテロはガリラヤ湖畔ベッサイダの漁夫。弟アンデレと漁をしている時にイエスに声をかけられ、「これからは魚でなく人間を取る漁師になるのだ」と諭され、最初の弟子となったとされる。本名はシモンと言ったが、イエスが弟子たちに「私を何ものだというのか」と尋ねた時、「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」と答えたことに対し、イエスが「あなたはペテロ、私はこの岩の上に私の教会を建てよう。私はあなたに天国の鍵を授ける。」と言った、ということでついた渾名だ。

 ちなみにペテロはギリシア語で「岩」のことで、イタリア語ではピエトロ、英語ではピーター、ドイツ語ではペーター、スペイン語・ポルトガル語ではペドロ、ロシア語だとピョートルと発音される。

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 ご存じレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』。イスカリオテのユダの裏切りでイエスが祭司長らに連行される前に、弟子12名と共にした最後の夕食の1シーン。「この中に私を裏切ろうとする者がいる」とイエスが予言し、弟子達に動揺が走った瞬間を切り取った絵画だ。

 イエスの向かって左に座っている3人を拡大したものだが、 自分のことが言われていると分かっているのか、身を引いているのが裏切り者のユダで、 右手には報酬の銀貨30枚の入った袋を握っている。 ペテロはというと、立上ってナイフを握る右手を腰にあてている。このナイフの角度が不自然だということで、物議を醸しているが、この話はここでは取り上げない。そして、キリストの右隣に座る人物が 12使徒のうち一番年少のヨハネ。どうみても女性に見えるので、『ダ・ヴィンチ・コード』ではマグダラのマリアで、イエスの妻であるとされたが、教会はもちろん認めていない。

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「ペテロの否認」

 最後の晩餐を終え、別れ際に、イエスはペテロに対し、「あなたは鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と予言をした。ペテロは「絶対にあり得ない」と否定したが、翌日イエスが連行され、ペテロがその様子をうかがっていると、周囲から「おまえもイエスの弟子だろう」と詰め寄られると「違う」と否認してしまう。ペテロは再三問われ、3度目に否認した直後、鶏が雄たけびを上げ、その声を聞いてペテロはイエスの予言を思い出し、涙にくれた。

 こうしてイエスを否定したペテロは他の弟子たちと共にイェルサレムから逃走した。しかし、処刑後に復活したイエスを目の当たりにして、イエスは自分を赦してくれたと信じ、以後は死を恐れぬ指導的使徒として伝道に生涯をかけた。

 ペテロは復活したイエスから「私の羊を飼いなさい」と言われ、イェルサレムに最初の教会を建てている。やがてヤコブ(イエスの姉弟)がイェルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめると、ペテロはイェルサレムを離れ、各地を巡回するようになる。

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ネロ帝

 ペテロはやがてローマに赴き伝道活動を始めたが、64年ネロ帝によるキリスト教徒への迫害が始まった。キリスト教徒への迫害は日を追うごとに激しくなり、虐殺を恐れた者たちが国外へ脱出する事も当たり前になっていた。ペテロは最後までローマにとどまるつもりであったが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れるのに同意した。

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 夜中に出発してアッピア街道を歩いていたペテロは、夜明けの光の中に、こちらに来るイエスの姿を見る。ペトロは驚き、ひざまずき、尋ねた。

 Quo vadis, Domine? (主よ、どこに行かれるのですか?)

 イエスはこう答えた。「そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。」

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 その言葉を聞いたペテロは逃げようとしていたことを恥じ、「それでは、私も帰ってあなたとごいっしょに十字架にかけられます」と言った。するとイエスは、彼の見ている前で天に昇って行った。ペテロはしばらく気を失っていたが、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返し、ネロの兵士たちに逮捕された。処刑のときには、イエスと同じ十字架刑では畏れ多いとして、逆さ十字架にかかって殉教したと伝えられている。

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サン・ピエトロ大聖堂

 聖人とされて「聖ペテロ」と言われるようになった彼の遺骸が埋められたとされる所に、後にコンスタンティヌス帝が建てた教会がサン・ピエトロ大聖堂である。その後、ペテロが初代ローマ教皇に擬せられサン・ピエトロ大聖堂を中心とした一角はローマ教皇庁が置かれ、現在、ヴァチカン市国となっている。

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 高さ132.5メートル、幅42メートルのクーポラ (円蓋)の 淵に沿って、「あなたはペテロ、私はこの岩の上に私の教会を建てよう。私はあなたに天国の鍵を授ける。」と書かれている。初めのほうで書いたように、イエスがペテロに語った言葉だ。イエスから天国の鍵を授かった特別の存在ということで、ペテロが初代ローマ教皇とされた。

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 だから、ローマ教皇の紋章には鍵が描かれている。一つは金の鍵,一つは銀の鍵で、英語ではクロス・キーズcross keysと呼ぶ十字架の形を表し,教皇には天国の扉の開閉権が与えられていることを示している。

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 写真はベルニーニ作の大天蓋「バルダッキーノ」で、教皇だけがミサができる「教皇の祭壇」を覆っている。そして、祭壇下にはペトロの墓所があるという伝承が伝えられていたが、実際はどうだったのかは長きにわたって謎とされていた。

  しかし、1939年以降、ローマ教皇ピウス12世は考古学者のチームに地下墓所の学術的調査を依頼した。すると2世紀につくられたとされるトロパイオン(ギリシャ式記念碑)が発見され、その周囲に墓参におとずれた人々のものと思われる落書きやペテロへの願い事が書かれているのが見つかった。さらにそのトロパイオンの中央部から丁寧に埋葬された男性の遺骨が発掘された。この人物は1世紀の人物で、年齢は60歳代、堂々たる体格をしていたと思われ、古代において王の色とされていた紫の布で包まれていた。

 1949年8月22日のニューヨーク・タイムスはこれこそペテロの遺骨であると報じて世界を驚かせた。さらに1968年にパウロ6世はこの遺骨が「納得できる方法」でペテロのものであると確認されたと発表した。もちろん考古学的には上記の「状況証拠」しかないので、真偽については半世紀以上が経過した2010年代になっても論争が続いている。

 当該遺骨は発掘後、専用の棺が作られてそこに納められた上で、地下墓所に設けられた専用の施設に安置されている]。通常は一般には非公開であるが、教皇フランシスコはこの公開を許可し、2013年11月24日、前年10月から行われていた信仰年の締めくくりミサの中で、この棺が初めて公開された。


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【 2019/07/14 05:07 】

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世界史のミラクルワールドーマザコン青年の末路・暴君ネロ

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クラウディウス帝

 ローマ帝国第4代クラウディウスは生涯に4人の妃を娶ったが、あとの二人はなかなかの代物だった。第3の妃メッサリナは情欲の権化で多くの男と情事を重ねて浮き名を流したが、48年までは表沙汰にならないでいた。しかもこの間に彼女に逆らった者は容赦なく処刑され、元老院議員が35名、騎士が300名に及んだと伝えられるが、その数はかなり誇張されていよう。

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メッサリナの最期

 48年、彼女は愛人の富裕な貴族シリウスと正式な結婚を思い立ち、クラウディウスを除こうとする陰謀を企てた。しかし、解放奴隷のナルキッススに探知され、ついに彼女は愛人とともに処刑されたのである。

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小アグリッピナ

 クラウディウスがバラスの勧めで新しく妃としたのは姪の小アグリッピナで、母アグリッピナの野心に燃えた血をうけ、それを着々と実行に移す女であった。クラウディウスはメッサリナとの間に一男一女、すなわちブリタニクスと娘オクタウィアをもうけ、ブリタニクスは元首(プリンキパトゥス)の後継者とみなされていた。

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ネロ

 しかし、小アグリッピナは夫を説きつけて、自分と前夫との間の子をクラウディウスの養子とし、未来の元首とすることに成功した。これがネロであった。さらに小アグリッピナは息子をオクタウィアと結婚させたが、彼女はそれでも安心しなかった。ナルキッソスが依然ブリタニクスの肩を持っていたからである。ついに54年、彼女は他人に心を動かされやすい夫の気持ちが変わるのを恐れて、茸料理に毒を盛り込んだ。しかし、それに失敗すると、彼女は皇帝の主治医を買収し治療処置と見せかけて毒を塗った鵞鳥の羽を夫の喉に差し込ませ、ついに64歳の皇帝をあの世に追いやった。

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ネロとセネカ

 ネロの即位は小アグリッピナが近衛軍にうまくわたりをつけていたお陰で、たいした支障も無く実現した。このまだ17歳の新君主には近衛長官ブルスと哲人セネカという賢明な後見人がつけられ、彼の治世は順調にスタートした。ブルスやセネカは小アグリッピナに推挙されたのであるが、彼らはローマ婦人がヘレニズム諸王国の女王のように政治に深く介入し、摂政となったり外国使節を引見したりすることに反対した。ネロも母が「君主らしくありなさい」「政務に励みなさい」と説教を繰り返すのが煩わしくなった。ネロは本来可愛げのある子であるが、母の血を受けて好き嫌いの感情が強く自制心に乏しく、ただ大きな図体が彼の弱い意志をカムフラージュしていた。趣味はスポーツ、音楽、文芸であった。

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ブリタニクスと小アグリッピナ

 ネロを愛する以上に権勢欲にとりつかれていた彼の母は、ネロが後見人と示し合わせて彼女の言動に耳を貸さなくなると、いままで疎んじていたブリタニクスがにわかに可愛くなり、彼のために一肌脱ごうという気になっていた。しかし、まもなくブリタニクスはネロに毒殺された。

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小アグリッピナの死

 やがて、後の皇帝オトーの妻ボッパエア・サビナがネロの愛人となり、気位の高い母を消すことを唆した。解放奴隷あがりの海軍司令官が悪役を引き受け、彼女をナポリ湾に招待し、転覆しやすいボートに乗せて人知れず溺死させようとしたが、この時は失敗に終わり、後に彼女の家を襲って惨殺した。59年のことであった。小アグリッピナがネロの命を窺っていたためだと公表し、元老院や輿論の前を取り繕った。彼女の過去を知る世人はこの説明に半信半疑であった。

 ついでネロはオクタウィアを離婚し、オトーをイスパニアのルシタニア知事に体よく赴任させてボッパエア・サビナと結婚した。オクタウィアは初めカンパーニャに追放されたが、民衆の同情が寄せられると、不義と反逆の罪をきせられて、パンダテリア島に流され、後についに処刑された。

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ボッパエア・サビナ

 こうしてすべての邪魔者を除いたネロは、22歳になるとみずから政治にあたろうと思った。62年にブルスが病死し、セネカもボッパエアに煙たがられネロの信頼を失って引退すると、そのあとの主な相談相手はボッパエアの他にはブルスの跡を継いだ佞臣ティゲリヌスで、政治は次第に乱れた。乱費で大きく穴の開いた財政を、有力者の処刑、追放、財産没収で償いをつけたが、犠牲者の中には、かつて彼の即位に尽力したバラスもいた。ネロと仲睦まじかったボッパエアも65年に死んだ。その真相は不明でいろいろ取り沙汰された。

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 64年7月、ローマ市は下町から出た怪火によって数日間燃え続け、市街の大半が焼失した。ネロはこの時ローマ市南方の海岸都市アシティウムの離宮にいたが、すぐ帰還して消火と罹災者救護、さらに市街の復興に努力した。しかし、彼の平生の行いが悪いためか、彼が市街の燃えるさまをバルコニーから眺めトロイア滅亡の詩を口ずさんだとか、また新市街建設で名をあげるため旧市街に放火して焼き払わせたとかいう忌まわしい噂がたち、民衆が暴動を起こしそうになった。

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 ネロに罪があったかどうか真相は不明だが、ネロはこの噂を消すため側近の進言によって、放火をキリスト教徒のせいにし、彼らを十字架につけたり、火あぶりとしたり、獣の皮をかぶせて猛犬に噛み殺させたりした。ネロはこの見世物のために庭園を開放し、競馬を催し、おどけた服装をして野次馬に加わり、自分で戦車を走らせたりした。したがって、暴君ネロの名を高からしめたこの迫害はキリスト教の信仰のせいではなく、放火罪が表向きの理由となっているわけである。キリスト信者は、密かに集まって礼拝をし、一般のローマ人と親交や社交を共にしなかったので、陰謀を企み、魔術を行い、人肉を食い、近親姦にふけっているとローマ人に誤解され、ローマの伝統と良俗の敵であるとして憎まれていたのを利用したのであろう。この迫害でペテロもパウロも殉教している。

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セネカの最期

 翌65年には元老院議員ピソの陰謀が暴露し、かつてのネロの指南番セネカとその甥の詩人ルカヌス、ネロの親友で小説『クォ・ヴァディス』の主人公として理想化された「優雅の判定人」ペトロニウスもそのうちに数えられた。人生の短さと無欲を説くストア哲人で同時に南海貿易などで巨富をなしたセネカは、入浴して血管を太くし、毒を注射してわが生命のおもむろに消えゆくさまを書記に筆記させた。ルカウスは自作の詩『ファルサリア』の中の死にゆく兵士の条【くだり】を口ずさみながら死んだ。

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 政治に飽きたネロは、ギリシア文化の愛好者として、ローマにスポーツや芸術のコンクールを導入した。彼自身、稀有の天才詩人と信じ込み、とりまき連のおべっかだけでは満足せず、民衆の喝采を求めて歌手として劇場に出演したりした。66年末から翌年にかけてギリシアを巡遊し各所旧跡を訪ねた。ギリシアの4大祭典がこの1年間にまとめて開催され、ネロは戦車競争に出場して失敗したが、八百長で優勝者になった。

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ネロの最後

 しかし、暴君の支配も長くは続かなかった。68年にはガリア知事ヴィンデクスが反乱を起こした。彼はまもなく敗死したが反乱は各地の軍隊に広まり、ネロは失脚し、イスパニアのタラコネンシスの知事ガルバが皇帝に担ぎ上げられた。近衛軍はネロを見捨て、元老院は彼を公敵と宣言した。ネロはローマ市を脱出したが、ついに観念して忠実な解放奴隷の介錯を受けて喉を突いた。彼が最後に残した言葉は、「なんと私とともに芸術家が消え去ることよ!」であった。享年30歳。

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【 2019/07/10 05:23 】

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世界史のミラクルワールドーブルートゥスよ、お前もか!!!・カエサル③

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カエサル

 カエサルはファルサロスの勝利後は1年任期の独裁官(ディクタトル)、ポンペイウス派の残党を破ったタプソスの勝利後は10年任期の独裁官、内乱終結後の前44年2月以降は終身の独裁官になることになった。それとともに、さまざまな栄誉や特権が与えられる。全軍指揮、国庫管理、和戦決定、風紀取り締まり、推薦選挙などの権限が認められ、ローマ古来の王に由来する凱旋将軍の衣装をいつでも着てよかったし、神殿に彫刻まで建てられた。かつて一人の人物にこれほどの栄誉と権力が集中することはなかった。さらに、政敵の恩赦・貧民救済・ローマ市民権付与などに積極的にとりくみ、元老院の議席を増やして広く人材を登用する。それに加えて、前45年1月1日から太陽暦(ユリウス暦)を採用したことは周知のことである。

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カエサルの肖像を刻んだ貨幣(前44年発行)

 ところで、ある高名な学者は貨幣に刻まれたカエサルの顔に注目する。前44年に鋳造されたものであるが、この横顔には死相があらわれているという。カエサルの究極の狙いはどこにあったのか。彼は一人支配の君主たらんとしたのか、その問題はすでに同時代の人びとの懸念にまでさかのぼる。しかし、並ぶ者なき権勢を誇ったカエサルは、まさにその頂点をきわめながら、暗く疲れ果てていたように見える。

 もはやカエサルの独裁が一時的なものという幻想はくだけた。元老院保守派は共和政国家の名のもとに団結する。前44年、パルティア遠征への出発を3日後にひかえた3月15日、元老院の会議がポンペイウス議場に招集された。

 ある占い師はカエサルに、「3月15日まで注意してください」と忠告していた。当日、カエサルはその占い師に向かって、「この詐欺師め、何事もなく3月15日が来たではないか」とからかう。占い師は「でも3月15日はまだ過ぎていません」と答えたという。まるでゴシップ週刊誌の記者のようにスエトニウスはその話を伝えている。

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 1カ月前の2月15日のルペルカリア祭の際に、民意打診の奇妙な演出が行われている。フォルムに集まった民衆を前に、コンスルのアントニウスがカエサルにうやうやしく王冠を捧げた。ところが予期された民衆の拍手は起こらなかった。カエサルはとっさの気転で王冠を辞してその場をつくろった。

 それから1カ月、カエサルはイタリア内では独裁官、イタリアの外では王になる、という妥協案を出すつもりでいた。彼の着席するのを待って一人の嘆願者が進み出た。願いを容れられないで、彼はカエサルの衣を捉えた。それを合図に、共謀者の一味が取り囲み、剣をふりかざしてカエサルに襲いかかった。傷にひるまずに身をかわして抵抗したカエサルであったが、ブルートゥスを認めた時、顔を上衣で覆い、「お前もか、わが子よ」と叫び、力尽きて政敵であったポンペイウスの立像の下に斃れた。

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ブルートゥス

「わが子よ」と叫んだことから、ブルートゥスはカエサルが愛人との間にもうけた実子だという説があるが、ブルートゥスは前85年の生まれでそのとき41歳、カエサルは56歳だったから、カエサルが15歳の時の子と言うことになるので、無理がある。

 実はカエサルとポンペイウスが対立した時、ブルートゥスはポンペイウス側につき、ファルサロスの戦いの後、カエサル軍に捕らえられている。しかし、カエサルはこれを許し自分の部下として、わが子のように可愛がった。懐の深さを物語るカエサルの態度であるが、そんなことから「わが子よ」という言葉になったのかも知れない。

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 ブルートゥスとカッシウスを首謀者に60人以上の同志を集めた暗殺計画は見事に成功した。元老院は自由の再来に沸きかえり、陰謀の仲間は共和政擁護の英雄として歓呼されるーブルートゥスやカッシウスのこの目算は誤りであった。

 20日、カエサルの葬儀がフォルムで行われた。カエサルの受けた傷は23カ所。民衆はその血まみれの外衣を見て昂奮した。アントニウスの追悼演説と、彼が発表したカエサルの遺言は、いっそう民衆を動かした。市民のめいめいに相当の遺贈が約束されていたのである。独裁官への追慕は暗殺者への憤りにかわった。カエサルの屍を焼く火は、暗殺者たちの家の焼き打ちの火になりかねなかった。ひどい見込み違いにブルートゥスとカッシウスの一味はローマを逃げ出さねばならなかった。ブルートゥスは前42年、フィリッピの戦いでオクタウィアヌス・アントニウス連合軍に敗れ、自刃する。

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アントニウス

 追同演説を行ったアントニウスはカエサルの右腕のような男だったから、すぐにカエサル派の主導権を握ることになる。しかし、カエサルの遺言では、後継者たる養子には甥の息子である弱冠18歳のオクタウィアヌスが指名されていた。
 
 十分に経験を積んだ38歳のアントニウスは、力づくで権力を握ろうとしているかのようだった。共和政国家を堅持する元老院保守派は警戒心を強める。なかでも喜び勇んで政界に復帰したキケロは、アントニウスへの誹謗の熱弁をふるった。その『フィリッピカ』と呼ばれる演説の狙いは、脅かされる自由を守り共和政国家を甦らせることにあった。だが、底流にはアントニウス個人へのひどく感情的な嫌悪感が流れている。

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キケロ

 しかし、その演説はキケロにとって致命的だった。カエサル殺害者の処刑をめぐってオクタウィアヌスと元老院との対立が明らかになると、カエサルの武将だったレピドゥスの仲介でオクタウィアヌスとアントニウスは和解に達する。前43年、三者会談の結果、第2回三頭政治の密約が生まれた。彼らが共通の敵とする「処刑者リスト」の中にキケロの名が記されていた。首都を逃亡したキケロにアントニウスの刺客が追いすがり、キケロは64歳の生涯を閉じる。

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オクタウィア

 戦歴にまさるアントニウスの活躍は目覚ましいものがあった。アントニウスの名声が高まったが、武勲に劣るオクタウィアヌスの評判はかんばしくなかった。そのせいで両者の溝が深まる。しかし、前40年エトルリア貴族出身で仲介の名手マエケナスのとりなしで、両者の和解が成立した。

 その頃たまたま妻を失ったアントニウスにオクタウィアが嫁ぐ。オクタウィアはオクタウィアヌスの姉であり、寡婦だったが、美人の誉れ高い女性だった。この結婚によって両者の結びつきはますます強まるかに思えた。しかし、この姻戚関係のおかげで、かえって両者は亀裂を深めることになる。歴史は思わぬところに落とし穴を仕掛けるものである。

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 カエサルが殺害されると、クレオパトラは息子カエサリオンを連れ急いでエジプトに戻った。カエサリオンのためにエジプト王国を守ること。そのためには世界の趨勢を的確に読みとらなければならない。恐らくそれが彼女の念頭に去来する思いだったのではないだろうか。

 そのころ名声の高いアントニウスが、クレオパトラをキリキアのタルソスに呼び寄せる。中年で男盛りのアントニウスもまた、すぐに華麗なクレオパトラの魅力にとりつかれてしまった。彼女にうつつを抜かし、アレクサンドリアに同行、政治のことなどすっかり忘れてしまったかのようだった。二人の間には3児が生まれる。そんな噂はたちまちイタリアにも届く。しかし、妻オクタウィアは夫の不実をとがめず、弟に哀願して両者の間をとりなした。前37年、タレントゥムの契りが約束されたが、それも束の間のことだった。翌年頃から夫の態度はますます冷淡になり、前35年にはるばる会いに来たオクタウィアを拒否するほどだった。

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セクストゥス・ポンペイウス

 この頃、オクタウィアヌスには、もう一つ厄介な仕事があった。ポンペイウスの遺児の一人セクストゥスがローマ海軍を手に収めていた。しかもシチリア島を拠点に海賊行為によって穀物輸送を脅かすのである。海賊退治で勇名を馳せた武将の息子が海賊として有名になったのだから、皮肉と言えば皮肉である。幸いオクタウィアヌスには、有能な部下にして親友のアグリッパがいた。このアグリッパの艦隊が前36年の海戦でセクストゥスを破る。この大勝利によってオクタウィアヌスの声望が高まった。西地中海の制海権を手に収め、やがてレピドゥスをも失脚させてしまう。三頭政治は消滅し、イタリアと西方属州のすべてがオクタウィアヌスの手の中に転がり込んでしまった。

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オクタウィアヌス

 もはや広大な地中海世界にあってオクタウィアヌスに対抗しうる者は、姉婿アントニウス以外にいなかった。前34年、そのアントニウスがこともあろうにローマの東方属州の要地をクレオパトラに寄贈することが白日のもとにさらされる。それはローマ市民に対する裏切り以外の何物でもなかった。前32年、ついにアントニウスのオクタウィアとの離縁が伝えられると、彼の遺言状なるものが公表された、そこにはクレオパトラの子を相続人に指名すると書かれていたという。ローマの民衆は怒り狂い、憤慨の炎が燃える。さまざまな噂が飛び交うなか、反アントニウスと反クレオパトラの嵐はオクタウィアヌスを支持する声のうねりとなっていく。

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アクティウムの海戦

 前31年、オクタウィアヌスは宣戦布告に踏み切る。しかし、アントニウスを公敵と呼ぶのがはばかられたのか、賢明にもクレオパトラへの宣戦であった。9月2日、ギリシア西北岸のアクティウム沖が決戦の舞台となる。この海戦は天下の覇権に雌雄を決する大事件のごとく語られているが、合戦の経過は意外なほどあっけないものだった。アグリッパの指揮するオクタウィアヌス軍を前にして、クレオパトラの率いるエジプト艦隊は早々に逃亡し、アントニウスもその跡を追ってしまったのである。

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 翌年、オクタウィアヌスはアレクサンドリアを陥落させる。アントニウスは自殺し、クレオパトラも捕虜としてさらし者になることを恐れ、自害して果てる。毒蛇に胸を噛ませたという伝説は彼女の死の直後から生まれている。やがてクレオパトラの遺児カエサリオンも殺され、プトレマイオス朝エジプトは滅亡した。それは、ローマにおける100年の内乱に終止符を打つものでもあった。

 共和政末期の最後の局面において、夫と弟の間で揺れ動いたオクタウィアの気持ちはどんなものであったのだろうか。彼女は何も語っていない。しかし、伝えられるところでは、彼女はアントニウスの血が流れる子供のすべてを引き取って育てたという。自分の産んだ子はもちろんのこと、アントニウスの前妻との子供も、そしてクレオパトラとの間に生まれた子供ですらも例外ではなかった。流血の激動期に一輪の花が咲くように、その美談は人の心を打つのである。

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【 2019/07/07 05:19 】

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世界史のミラクルワールドー賽は投げられた・カエサル②

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クラッスス

 前54年、ポンペイウスに嫁いだカエサルの娘ユリアが死亡すると、二人を結ぶ個人の絆は切れてしまった。クラッススもまたまた武勲を欲し、軍隊を率いてパルティア帝国へ遠征した。もともと無謀な戦いだったが、前53年、クラッススは屈辱的な敗北の中で戦場の露と消える。いまやローマおよび地中海世界は二人の強者の手中にあった。かつての軍功によって偉大なる名声を保つ年長のポンペイウスと、華々しい戦勝を重ねてガリアを平定しつつある昇り龍のカエサル。

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カエサルの軍門に降るウェルキンゲトリクス

 カエサルはさらに征服を進め、ブリテン島にも2度ほど渡った。前53年にはガリア北部のトレウェリ族やエブロネス族を討伐する。前52年、アルウェル族のウェルキンゲトリクスに率いられた原住民部族の蜂起はガリア全土をまきこんだ。だが、カエサルはアレシアの包囲戦において絶妙な用兵戦略でほぼ制圧してしまう。翌年にも戦闘はくすぶっていたが、そこでローマの対ガリア戦争は終結した。今やカエサルは戦利品と徴税で膨大な借財に対処できるばかりか、大富豪となったのである。政界工作の費用と子分のごとき軍隊の維持費。そのための資金はもはや十分だった。

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ポンペイウス

 カエサルのガリア遠征中、ポンペイウスはほとんどローマにいた。閥族派はもはやカエサルこそが元老院体制を脅かしているのだと気づくようになる。彼らはしだいにポンペイウスに好意を寄せる。首都ローマの混迷が深まる中で、閥族派の支持を集めてポンペイウスは前52年には三度コンスルに選出された。しかも、その非常事態のためか、共和政の歴史のなかでも前例のない同僚なしのコンスルであった。

 これに対して、カエサルの軍事指揮権はもはや終わりに近づいていた。その任期が切れれば、彼は武装解除しなければならない。軍隊を解散してただの一市民としてローマに帰還するか、それとも元老院の命令を無視して武力に訴えるか。道は二つに一つであった。

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ルビコン川

 ルビコン川という小さな川は、ガリアとイタリアの境界をなしている。そこを越えればカエサルの軍事指揮権は消える。「運命の寵児」を自負したカエサルは、運命の導きに託して「賽(サイコロ)は投げられた」と言いつつ、前49年1月10日、ルビコン川を渡る。それはローマ国法の蹂躙【じゅうりん】であり、内戦の火ぶたを切るものであった。なお、匙を投げるのは、お医者さんです(笑)。

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 カエサルのおそるべき進軍のなかで、ポンペイウスの呼びかけに応じ抵抗する者はほとんどなかった。元老院の保守支配体制にイタリア中があきあきしていたのかも知れない。イタリア全土で後退を余儀なくなせ、イベリア半島における忠実な軍団もカエサル軍の手によって打倒される。ポンペイウスはもはや東方に拠点を移さざるを得なかった。やがて前48年冬、カエサルの率いる軍団もアドリア海を渡る。軍勢にまさるポンペイウス軍は簡単な相手ではなかった。苦戦を強いられながら、その年の夏、最後の決戦はギリシア北部のファルサロスの野になる。

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ファルサロスの戦い

 ポンペイウス軍の歩兵5万、騎兵700、これに対して、カエサル軍の歩兵2万2000、騎兵1000。2倍以上の軍勢を敵にまわしておきながら、カエサルは戦略にまさった。特に騎兵に対して槍を投げずに敵の顔を狙って突き上げる作戦はめざましい効果をおさめる。若さと美貌が売り物の馬上の貴公子たちは顔を狙われてはたまらんとばかり逃げ出してしまった。戦いの大勢は決まる。カエサル軍の大勝利だった。敗走したポンペイウスはかつて恩をかけたことのあるエジプトのプトレマイオス朝に保護を求めて逃れる。しかし、ローマの内乱にまきこまれるのを忌避して、エジプト王は上陸するとすぐにポンペイウスを殺させた。

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クレオパトラ7世(イメージ)

 プトレマイオス朝のエジプト支配は前2世紀以来、王家内部の争いと原住民の反抗運動により弱体化の一途をたどっていた。早くからローマの属国化し、その併合も時日の問題となっていた。この頃プトレマイオス13世と、その姉クレオパトラ7世が、この王朝の奇妙な伝統により、実の姉弟でありながら夫婦で共同統治者となっていた。この二人が不和になり、アレクサンドリアの市民が弟王の側についていたところに現れたのがカエサルであった。

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 クレオパトラは絨毯にくるまって廷臣の目を欺し、アレクサンドリアの王宮にいたカエサルの前に現れた。もともと女に甘いカエサルはすっかりその虜となり、アレクサンドリアの市民を相手に戦う始末となった。この時の様子は、プルタルコスの『対比列伝』には次のように書かれている。

 「そこでクレオパトラは、腹心のなかからシシリーの人アポロドロスのひとりだけを伴って小舟に乗り込んで、あたりが暗くなったころ王宮に舟をつけた。しかも、他に人目を忍ぶ手立てもなかったので、寝具袋にもぐりこんでその身を長くのばし、アポロドロスがその袋を革紐でしばって、戸口からカエサルのもとに運び入れた。カエサルがこの女性の虜になってしまったのは、蠱惑【こわく】的な姿であらわれるというクレオパトラのこのまず第一の術策のためであったといわれている。」

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クレオパトラ7世(前40年頃)

 楊貴妃と並んで絶世の美女とうたわれる彼女だが、彫刻や貨幣の肖像で見る限り必ずしもそうは見えない。それでも、古代の作家たちの伝えるところでは、彼女は多数の外国語を流暢にしゃべれたし、聡明で教養があり、特に声に魅力があったという。見てくれだけではなく中身の勝負というなら、優れて知的な女性であったらしい。まさしくいま風の美女であったのだろう。

 カエサルはクレオパトラの後見人として実権を握り、また愛人として宮廷生活を送る。二人の間にはカエサリオンも生まれた(カエサルの実子ではないという説もある)。カエサルのアレクサンドリアでのクレオパトラとの生活は9ヶ月に及んだ。彼はいつまでも続けたいと思ったであろうが、その留守中のローマでは従軍の報酬をまだ受けとっていない兵士の不満が強まり、カエサルへの非難が高まっていた。また各地のポンペイウス派の残党の動きが再び強くなっていた。さすがにカエサルはローマへの帰還の声に応えて出発しなければならなくなった。

 前47年6月、嘆き悲しむクレオパトラをあとに、カエサルは小アジアのポントス王などを討ってローマにもどり、さらに北アフリカのポンペイウス派の残党を打ち破って、翌年ローマで凱旋式を挙行、そのとき約束通り、クレオパトラをローマに呼んだ。しかし、正妻のカルプルニアがいるのでティベル川の河畔に屋敷を与えて住まわせた。

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【 2019/07/03 05:21 】

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