なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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彼はまた、聖職にある身としてはめずらしいほどの現実主義者であり、また、「最後の審判」は存在しないと信じていた。敬虔な人から悩みを打ち明けられても、「イエス=キリストはわれらと同じただの人間である」と述べ、「自分の身さえ救うことのできなかった男が他人のために何をしてくれようか」と公言してはばからなかったともいわれている
彼はあらゆる種類の罪悪を一つ一つ丹念に実行した。まず大食の罪。断食の日に6種類しか料理を出さなかったといって料理人を叱責した。つぎに食欲と贅沢の罪。衣服に宝石をいっぱいに縫いつけ、食卓には15本の純金の棒を使っていた。その上かれは迷信家で妖術を信じていた。ナイフの柄に蛇を彫らせ、ポケットに常にエジプト金の円盤を持ち、指には皇子マンフレデイの死屍から奪った指輪をはめていたが、いずれも厄除けのまじないである。賭博も好きで、黄金のさいころを常用し、その性急さで相手を辟易させていた。教皇庁はまるでカジノのようであったという。性的には精力絶倫で、あやしげな男女が毎晩のように教皇の寝所に出入りしたともいわれている。
だが、この教皇がもっとも渇望していたのは、もちろん権力である。教皇に選出された日、教皇帽を冠るとすぐ、私を地上における神の代理人と認めるかと、なみいる枢機卿に尋ねた。皆がそれを認めると、今度は王冠を冠り抜き身の剣を持って、では私を皇帝と認めるか、と聞いた。人柄が人柄だけに、だれもあえて否とは答えなかった。彼の政治はこのジェスチュアで始まった。
1296年、フランスのフィリップ4世が戦費をまかなうために教会法に反して聖職者・修道院に課税すると、これを激しく非難したが、結局禁止できなかった。ローマの貴族コロンナ家と争ってその本拠地を焼き払い、所領を奪って一族で分配したこともある。
しかし、イギリス王のスコットランド遠征に干渉してイギリス議会の手痛い反撃を受け、フィリップ4世が不遜な言動をとった教皇使節を逮捕・審問したことに抗議したところ、この教書が歪曲されて発表されたことから、フランス国民の反教皇の民族意識を刺激、1302年にフィリップ4世は初めて聖職者・貴族・市民の3身分からなる三部会をノートルダム大聖堂招集して国内の支持を固めた。
教皇は教書『ウーナム=サンクタム(唯一の聖なるもの)』で教皇権の至上性を主張したが、王は三部会の支持を背景に腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム=ド=ノガレに命じ教皇の捕縛を命じた。ノガレの両親はかつて異端審問裁判で火刑に処せられていたためローマ教皇庁に対する復讐に燃えていた。いっぽう、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家は、フィリップ4世にかくまわれていた。ノガレは、コロンナ家がフランスの法廷で証言した各種の情報をもとに、教皇の失点を列記した一覧表を作成し、これを公表した。
教皇が「余の首を持っていけ」と言い放ってこれを拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教皇の三重冠と祭服を奪った。これについては両者の思惑が異なり、シアッラは教皇を亡き者にしようと考えていたが、ノガレは逃れられないよう教皇をつかまえてフランスに連行して会議に出させ、いずれは退任させる腹づもりであった。2人は激しい言い争いになり、それが翌日までつづいたが、そうしている間にローマから駆けつけた教皇の手兵によりボニファティウス8世は救出された。
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カタリ派はペルシアのマニ教の流れをくみ、善 (神、霊魂) 、悪 (悪魔、肉体) の2原理,2創造主の存在を信じ,不殺生,菜食主義,私有財産と結婚の否定など厳格な戒律をもった。『神の国』を著したアウグスティヌスが若い頃に信仰したことでも知られる。
この教えはトゥールーズ伯レーモン6世、彼の封臣フォア伯、ベジェ副伯ら南フランス諸侯の熱烈な支持を受けて 12~13世紀にトゥールーズ、アルビ地方に広まった。これに対しインノケンティウス3世は教皇特使ピエール=ド=カステルノーの暗殺 をきっかけとして、北フランス諸侯に十字軍を要請、北フランスの諸侯の多くが参加し、指揮官がシモン=ド=モンフォール(イングランドで国王ヘンリー3世に反旗を翻し議会の開設に貢献した同名の人物の父親)のもとで激しい攻撃が行われた。
アルビジョワ派は20年にわたって抵抗を続けたが、ルイ9世の時の1229年、トゥールーズ伯レーモン7世とパリ条約を締結し、アルビジョア十字軍は終結した。これによってフランス国内の異端は殲滅され、南フランスまでフランス王権が拡大され、フランスの統一が進んだ。
ルイ9世は1239年、コンスタンティノープルのラテン帝国皇帝ボルドワン2世に対して3万5000リーブルもの大金を支払って、キリスト受難の貴重な聖遺物である荊冠を購入している。そうした聖遺物のコレクションを納めて礼拝するために建設したのがサン=シャペル大聖堂で、パリ最古のステンドグラスを誇る。
国内外の平和を取り戻すと、ルイ9世はかねてから悲願の十字軍(第6回十字軍)の遠征を計画し始めた。1244年にイェルサレムは再びイスラーム教勢力により陥落していたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はローマ教皇インノケンティウス4世と対立しており、イングランド王ヘンリー3世は国内の反乱の対処で忙しく、西欧で十字軍に行ける余裕があるのはルイ9世だけだった。
こののち、ルイ9世は聖地イェルサレムへ巡礼の旅に出ている。その一方でイスラーム教勢力に対する同盟国を見つけるため、1253年にフランシスコ会修道士ウィリアム・ルブルックをモンゴルへ派遣した。ルブルックはコンスタンティノープル・クリミア海岸・ドン川・ヴォルガ川を経て約8000キロを踏破、カラコルムに達してモンケ=ハンに謁見したている。
これが最後の十字軍となり、西アジアにおけるキリスト教勢力は、わずかにアッコンを残すのみとなったが、そのアッコンも1291年にイスラーム教徒に占領され、十字軍時代は完全に終わりを告げた。
生涯をキリスト教に捧げたルイ9世は、死後27年の1297年にカトリック教会により列聖され、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。皇帝・国王で列聖されたのは、彼ただ一人である。ちなみに、アメリカのセントルイスはSaint-Louisの英語読みである。
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こうした時、インノケンティウスの脳裏にはウルバヌス2世と同じく、十字軍の大義を説いてヨーロッパを統合させ、その上に教皇の覇権を樹立しようというアイデアが閃いた。彼は機敏な外交家だったので相争う諸国をたくみに操縦しながら、結局一種のヘゲモニーを樹立するのに成功したのだったが、諸国の王を十字軍に糾合することにはまったく失敗した。
彼の呼びかけに応じたのは、シャンパーニュやフランドルの伯を中心とした、主に北フランスの騎士たちだった。ところが、この騎士たちの十字軍は、驚くべき方向転換をやってのけたのである。
この第4回十字軍については、シャンパーニュ伯に仕えた高位の騎士で、自らも参戦したヴィルアルドアンの素朴だが生き生きとした記述がある。それによると、イスラーム教徒の本拠地であるエジプトのカイロを海路で攻撃する(洒落ではありません)こととした十字軍将兵は、輸送をヴェネツィアに依頼した。
1201年に十字軍参加者はヴェネツィアに集結し始めたが、予定した3万人の約1/3しか集まらなかった。このため、参加者の有り金を全部集めてもヴェネツィアに支払う船賃が大幅に不足し、出航できなかった。
ヴェネツィア商人は、少し前ハンガリー王に奪われたアドリア海の都市ザラを取り返してくれたら、不足分は帳消しにしようと申し出た。カトリックであるザラの攻略には、十字軍内にも大きな抵抗があったが、十字軍将兵はやむなく承知した。怒ったのは教皇インノケンティウスで、ローマ教会の忠実な子ハンガリー王に十字軍を向けるとはもってのほかとばかり、十字軍将兵を破門にした。ここに破門された十字軍という前代未聞の遠征が始まったのである。
ザラは簡単に墜ちた。そこで十字軍将兵は今度こそはエジプトへと希望に胸を膨らませて、ザラを出帆した。すると、予めヴェネツィア側と打ち合わせのあった十字軍の指導者たちは、エジプトの代わりにコンスタンティノープル行を提案した。ヴェネツィア商人にとってカイロは重要な貿易相手であり、コンスタンティノープルは商売仇だったからだ。人々はびっくり仰天したが、北フランスの騎士とヴェネツィア人の説得にあって、これも同意してしまった。
1203年6月にコンスタンティノープルに到着した十字軍は、アレクシオスを帝位に就けるよう要求したが拒絶され、7月に攻撃を開始した。コンスタンティノープルはそれまで数々の攻撃を防いできた難攻不落の城塞都市であったが、十字軍はヴェネツィアの優勢な海軍力を生かして海側から攻撃を仕掛けると同時に、陸上からフランス騎士隊が攻撃をかけた。攻防の途中でアレクシオス3世は逃亡し、残された者はイサキオス2世を復位させて、城門を開いた。
しかし、父イサキオス2世とともに共同皇帝として即位したアレクシオス4世は十字軍との約束を果たせなかった。東ローマ帝国の国庫にはそれだけの金がなく、東西教会の合同にも正教会側の激しい抵抗があったからだが、その結果、両者は決裂し、1204年4月、十字軍は再びコンスタンティノープルを攻撃することになった。今度は東ローマ側も慣れてきており、十字軍側の苦戦が続いた。しかしコンスタンティノープル城内にはヴェネツィアの居留民が大勢住んでおり、彼らが東ローマへの抵抗に回ったため、12日コンスタンティノープルはついに陥落した。市内に乱入した十字軍は破壊と暴行の限りを尽くした。ハギア=ソフィア大聖堂に立てこもった者も含めた聖職者、修道士、修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦された。
こうした第4回十字軍の東ローマの分配は、金時計を拾った野蛮人のやり方に似ている。1人が黄金のケースを、1人がぜんまいを、そしてもう1人が針を取る。しかし、東ローマは時計と同じく全体一つで初めて機能する。十字軍領主下でばらばらの領邦に分割されたラテン帝国が、かつての東ローマ帝国に匹敵するような有力な政治的・経済的存在となることはなく、わずか60年足らずで滅びてしまう。
ところで、コンスタンティノープル征服で困ったのは教皇インノケンティウス3世だった。破門した十字軍が奇妙な大成功を遂げるのを見て、途端に手を替え、この成功を東西教会の合同として祝福したのである。
この欲にまみれた大人達の行動が、少年十字軍という悲劇を引き起こすことになる。
1212年の夏のこと、北フランスのある村の羊飼いの少年エティエンヌは神をみた。貧しい巡礼の姿をした神は、彼に一片のパンを乞い、聖地の奪回と聖墓の解放を記した一通の手紙を与えた。それから暫くして、少年は追っていた羊の群れがいっせいに彼に跪くのを見た。ここで彼は神の使命をさとり、一心に神のお告げを広めて歩いた。まもなく何千もの少年少女が彼の伝道に従うようになった。同じような使命を自覚した少年が、国のあちこちに現れ、みな合同して、エティエンヌを統率者に仰いだ。彼らの年齢は一番年かさで12、3歳だった。
子供達の両親や司祭達は、もちろん彼らの冒険を思いとどまらせようと懸命になった。そのため一部は脱落したが、大部分は決心を変えなかった。一般民衆にいたっては奇蹟の出現に驚きかつ感動し、物や金を恵み、人目でも神の使いのエティエンヌを見んものと方々から集まり、その身体に触れ、衣服の一片を聖遺物にと切り取った。
このような興奮が為政者の耳に入らぬはずがない。国王フィリップ2世は司教やパリ大学の博士達の意見を聞いて、少年達に帰宅を命じたが、従う者は少なかった。教皇インノケンティウス3世はこの噂を聞いて、「我々は少年達に恥じる。我々が眠っている間に、彼らは悦ばしげに聖墓の解放におもむく」と感動の言葉を漏らした。
この感慨は第4回十字軍に裏切られたインノケンティウスとしては当然のものだったろう。だが少年十字軍は彼にとって他人事ではない。実は彼こそ最後の責めを負うべき人であった。第4回十字軍に失敗した後、彼は新しい十字軍を起こすため、全ヨーロッパに説教師を派遣した。その結果ヨーロッパには、一種独特の興奮した空気が漂っていたのだろう。女性は男性よりも感じやすく、子供はさらにいっそう感じやすい。
フランスに起こったのとまったく同じような少年十字軍が、偶然同じ1212年にドイツにも起こっている。彼らはケルンのニコラウスと呼ばれた10歳の少年に従って、ジェノヴァから南イタリアのブリンディシの港に着いた。しかし、ここで彼らは司教の強力な阻止にあい、故郷に送り返されてしまった。往路の元気はもはやなく、衣服は裂け、靴は破れ、乞食のようになった子供達が、再びアルプスを越えて帰るさまは、痛ましい限りだった。人が彼らになぜ十字軍に行ったのか尋ねた時、夢から覚めた子供達は、狐につままれたように、ただ、「分からない」と答えただけだった。
17年後、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がアレクサンドリアのスルタンと和を結んだとき、少年十字軍に加わり奴隷として売られていたうちの何人かが解放された。それでも700人が奴隷としてアレキサンドリアに残っていたという。
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エジプト・シリアを併せて支配し、西アジアで最大の勢力を持つに至ったサラディンであったが、なお脅威として残っていたのが十字軍国家の存在であった。
昔イエスが住んだナザレ村の真北15キロの所にヒッティーンという丘がある。1187年7月、このガリラヤ地方の小さな丘が、3万余のサラディンの軍勢と1万数千のキリスト教徒軍の激闘の場所となった。
すでにシリアのダマスクスをおさえたサラディンは、本拠地のエジプトから攻め上る軍団とでイェルサレムを挟み、キリスト教徒どもを海中へ叩き落とそうとしたのだ。そのための戦略的な拠点となるガリラヤ湖岸のティベリアに矛先をのばした。
ヒッティーンの西南15キロのサッファリア城にいたイェルサレム王ギーは、サラディン軍の出方を待つという初めの作戦をかえて、7月3日の朝、ティベリア救援のため、全軍に出撃を命じた。翌朝、イェルサレム王国の軍勢は、ヒッティーンの2つの丘の間の岩肌ばかりの山道をくだり、ガリラヤ湖に進もうとして、長蛇の隊列を東斜面に並べた。
イェルサレム王ギーや王弟をはじめ、王国の指導者たちはみな捕虜となった。十字軍将兵の約半数はこの戦いで死んだ。
その後2カ月の間に、イェルサレム王国が支配していたアッコン・ヤッファ(テルアビブ)・ベイルートなどの海岸都市が次々にサラディン軍に占領された。そして、9月20日、イェルサレム城もついに降伏し、88年ぶりにイスラーム側がイェルサレムを奪還した。
サラディンは、守りの手薄なイェルサレム城の守備隊長が町に火をかけるつもりであることを知り、身代金と引き替えに、城内のキリスト教徒をすべて許し、イェルサレムを焦土寸前で救った。キリスト教寺院の上にあげられていた十字架が地上に落とされたほかは、何一つ打ち壊されなかった。
「十字架が地上に落下した時、そこにいたすべての者は大声を張り上げて叫んだ。イスラーム教徒は「アッラーの神は偉大なるかな!」と叫び、フランク人(キリスト教徒のこと)は悲しみの声を発した。このどよめきのために大地はゆり動いたかのようであった。」と、イスラーム教徒の『年代記』はその日のイェルサレムの光景を描いている。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世も教皇の呼びかけに答え、十字軍の第一陣として1189年に出発した。第3回十字軍の始まりである。フリードリヒは赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、バルバロッサ(赤髭王)と呼ばれた。フリードリヒは翌年にイコニウムの戦いでアイユーブ朝軍を打ち破るという大戦果を収めたが、6月10日、小アジア南東部キリキアのサレフ河で溺死するという意外な最期を遂げた(これには諸説があり、フリードリヒは脳卒中のために溺死したとも、暗殺されたともいわれる)。フリードリヒを失ったことから、ドイツ軍は早くも解散してしまう。
リチャード1世(獅子心王)
1191年4月、フィリップ2世はドイツの敗残兵を加えてアッコンの攻囲を開始し、6月にはヘンリーの死後に即位したリチャード1世(獅子心王)の軍が包囲に加わった。アイユーブ朝軍は包囲を破ろうと試みたが撃退され、7月12日アッコンは陥落した。
しかしその後、十字軍側の3人の司令官の間に内部抗争が起きた。ドイツ人たちの司令官であったオーストリア公レオポルド5世はは、リチャードやフィリップと同列に扱われることを欲し自身の旗を掲げたが、リチャード側はこれを撤去したため、激怒したレオポルトは十字軍から離脱し、帰路についた。一方フィリップは、病気を理由に7月末に帰国し、リチャードは十字軍でただ一人残ったキリスト教国の君主として戦うはめになった。
9月末、リチャードはイングランドに向けて出発し、第3回十字軍は終了した。しかし、リチャードは単身帰国途上のドイツで捕らえられ、2年間の抑留ののち釈放される。当時流行った身代金目的の営利誘拐であった。リチャード1世のあと、かのジョン王が登場することになる。
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1096年秋、前年のクレルモン宗教会議でのウルバヌス2世の十字軍運動の呼びかけに応じたフランス・ドイツ・南イタリアのノルマンの諸侯たちが参加して、第1回十字軍が編制された。ロレーヌ地方のゴドフロワとボードワンの兄弟の率いる軍団はドイツから陸路ハンガリーを通り、フランドル地方を中心としたフランス軍団とノルマン騎士たちはイタリアから船でバルカン半島にわたり、ローマ教皇特使アデマールを戴く南フランスの騎士たちはアドリア海岸を南下して、同年12月にコンスタンティノープルに集結した。ここで東ローマ皇帝アレクシオス1世は必要な軍資、軍隊を与える約束をしていたのである。
アジアに渡った十字軍兵士の数は、中世風の誇張では数十万となっているが、実際は騎兵5000、歩兵1万5000、イェルサレム攻城の際にはその3分の2だったといわれる。
イェルサレムは、海抜800メートルほどのモリアー山とシナイ山の上にあり、深い谷と厚い城壁に囲まれていた。十字軍将兵は約1ヶ月の包囲のあと、7月13日夜半から総攻撃を開始した。この時イェルサレム城を守っていたのは、トルコ人ではなく、エジプトのアラブ人であったが、彼らは城壁から矢や岩塊を雨あられと降らせ、科学兵器の「ギリシア火」を吹きつけた。
「ギリシア火」は東ローマ帝国時代に用いられた火器で、7世紀にシリアの技師カリニコスが発明したとされる。自然硫黄、酒石、樹脂、松、精製岩塩、軽油および精製油を混ぜ合わせた半液体状のもので、これを麻くずで点火し、ポンプ状の筒から敵船などの攻撃物に向かって発射した。水で消火することができなかったので、海戦ではとくに効果をあげた。
殺されたのはイスラーム教徒ばかりではなかった。7月16日の朝、十字軍の将兵は、市内にいるユダヤ教徒を会堂(シナゴーグ)に集めたあと、外から密閉し、火をかけて全員焼き殺した。ヨーロッパをたつ時、景気づけにユダヤ人を襲ったやり方を、ここでも彼らは実行したに過ぎなかったのだろう。
サラセン人(イスラーム教徒)が生きているあいだに、そのいやらしい喉の中に飲み込んだ金貨を、腸【はらわた】から取り出そうと、屍【しかばね】の腹を裂いては調べまわり、……同じ目的で屍を山と積み上げ、これに火をつけて灰になるまで焼き、もっと簡単に金貨を見つけようとした。
しかし、この大運動を起こし、その総指揮をとったウルバヌス2世は、虐殺された人々の無念の思いに呪われたのか、聖地奪回の報が届く直前、7月29日にローマで息を引き取っている。
イェルサレム陥落後に、住民の家に隠されていたという十字架が発見された。十字架ならばどれも「聖なる十字架」だが、これだけは格がちがう。イエス=キリストが磔になったという十字架なので、人々は迷わずに「真なる十字架」と名づけた。彼らにすれば、黄金や銀で作られた十字架よりも、断じて価値があったのだから。その人々の意を汲んで、1000年もの歳月放って置かれた木の十字架が原型を保っていられるのかなどという、ヤボは言わないことにしよう。
しかし、感涙にむせんでいる戦士たちもこの直前までは、敗者となったイェルサレム在住のイスラーム教徒たちを目を背けたくなるほどの残酷さで殺しまくっていたのである。聖地解放とは、自らも血を流すが敵にも流させる中で進められていくことなのであった。
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十字軍は遠い昔、遙かなる国で起こった騎士道華やかな戦争絵巻物としてのみ回想されるべきではない。それはヨーロッパが一つのまとまった世界として、受け身の立場を捨て、積極的に海外へ進出し始めたことを示す最も明らかな証言でもある。それは、ヨーロッパの「成人」を物語る事件であった。
フランス生まれで、クリュニー育ちのウルバヌスは背の高いスマートな体格をもち、立派な髭をたくわえ優雅な態度の持ち主で、その弁舌はことのほか爽やかであったという。人々は魅せられたように、その演説に聴き入った。
私の最愛の兄弟たちよ、私はあなた方に聖なる勧告をするためここに来た。すなわち主があなた方に托された羊飼いの任務を果たすように勧めるためである。それには盲人が盲人の手をひくことがないように、あなた方自身が方正でなければならない。その上で教権を俗権から解放するため、私的聖職任命をやめさせよ。公安を保つため「神の休戦」を勧め、私的な闘争を中止させよ。
諄々と教会改革を説いた後、ウルバヌスはいよいよ十字軍の勧説にとりかかる。
今ここにもう一つ重大な提案がある。東方のトルコ人がローマ領に侵入し、キリスト教徒の土地を奪い、人々を殺し、教会を焼き、神の王国を滅ぼそうとしている。私はあなた方がすべての人々に十字架をとって立ち上がるよう勧めることを切に望むものである。
ヨーロッパ内部の改革と団結とを条件とし、東方の同胞の援助を大義名分として、全キリスト教徒の決起を促した時、会衆の中から期せずして、「そは神のみ旨なり!」という叫びが上がり、堂内にどよめき渡るうち、ル=ピュイ司教アデマールが遠征軍総司令官に任命され、一同声高らかに告白の祈りを唱えつつ散会となった。一瞬にしてこの遠征が承認され、場外にいた群衆を興奮の渦に巻き込み、電撃のように西欧各地に伝わったこの衝動は世に「クレルモンの神秘」と言われている。2世紀間にわたる大遠征の幕はいよいよ上がろうとしている。
「クレルモンの神秘」に魂を奪われて、その場から取るものも取り敢えず先発隊となって飛び出して行ったのは、アミアンの隠者ピエールという狂信的な修道士の率いる庶民の一隊であった。計画も準備も、規律も装備もないこの烏合の衆は、東進の途上でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国や東ローマ帝国内で衝突を繰り返しながら小アジアに上陸した。

「ニカイア近郊における民衆十字軍の壊滅」
しかし、ルーム=セルジューク朝のクルチ=アルスラーン1世によって蹴散らされ、ほとんど全滅の憂き目を見ながらも、情熱一筋にイェルサレムを遠望するところまで行きついた。そこで後続の正規遠征軍の到着を待って、第1回の攻城戦に参加したのであるが、その凄惨な戦闘に恐れをなして、戦場から逃亡する兵士が続出した中に、この憐れな隠者の姿があったということである。
この十字軍は民衆十字軍と呼ばれ、十字軍の回数には数えない。正規の遠征軍ではないということもあるが、あまりにもみっともないからであろう。
しかし、教皇ウルバヌスの胸中に熟していた大計画はそんな即興的なものではなかった。皇帝ハインリヒ4世の全盛時代に即位した彼は、宗敵クレメンス3世がいるローマに入れず、フランス各地をうろついて歩く影の薄い存在であったが、10年後には戦争一つやらずにローマの主となり、檜舞台から全ヨーロッパに号令をかける大立者になっていた。そこに彼のなみなみならぬ頭脳と手腕とがあったわけである。クリュニーの理想は抱いていても、グレゴリウス7世の単純な強引さをとらなかった。
まず、トルコ人による被害を誇張することによってヨーロッパの耳目を東方へ引きつける。実は東ローマ皇帝アレクシオス1世からの援助要請は少数の傭兵の派遣ということであった。そこへ大遠征軍を送ることは「牛刀をもって鶏を裂く」ようなものである。これには東方教会を教皇権に下に併合しようという下心がある。
次にフランス人をおだてて遠征の主役を務めさせることである。「フランス人による神のみわざ」という言葉が当時の十字軍の呼び名になっている。これはフランス人によってドイツ帝権を牽制しようという腹である。
同時にそれは好戦的で、領地の不足のため私闘に明け暮れる封建騎士の精力を異教徒との戦いに転ぜしめる方便ともなる。そして、総司令官を教皇の代理と定め、遠征参加者はすべて聖職者の許可を受けさせ、教会の指導性を確立しようとする。その代わり十字軍には罪の許し、留守中の家族の生活・財産の保証を与え、戦死者には永遠の生命を約束する。諸侯たちには領地征服をすら認めてやる。
ウルバヌスの魂胆はかくも複雑なものだったのである。
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ユスティニアヌスの名を不滅のものとしたのは『ローマ法大全』である。法学を学んだこともある彼は、即位の半年後に新法典編纂のための10人委員会を設置した。委員長となったのはトリボニアヌスという法学者で、首都の法学校の教授たちが編纂委員となった。
編纂委員会は精力的に仕事を進め、1年余りで、歴代皇帝の法令をまとめた『勅令集』を完成させた。もっとも急ぎすぎて手落ちがあったのか、編纂作業をやりなおし、534年11月に改めて『勅令集』を刊行している。
ローマ帝国では、法学者たちの法解釈・学説もまた法として機能していた。編纂委員会の次の仕事は、2世紀のガイウスや3世紀のウルピアヌスら、著名な法学者の註釈・学説の整理であった。今回もトリボニアヌスを委員長とし、ベイルートの法学校の教授も招いて作業は進められた。こうして533年12月に『学説彙纂』ができた。同時に欽定の教科書として『法学提要』も刊行された。
この後ユスティニアヌス自身が出した法令が、彼の死後に『新勅令集』としてまとめられた。『勅令集』『学説彙纂』『法学提要』『新勅令集』をまとめて『ローマ法大全』と呼んでいる。
ユスティニアヌスは建築事業にも熱意を示した。その治績を記したプロコピオスが、わざわざ『建築について』という作品を著しているほどである。皇帝が最も力を注いだのはハギア=ソフィア聖堂であった。『建築について』の第1巻第1章はハギア=ソフィア聖堂について詳しく記し、その壮麗なドームを「黄金の鎖で……天から吊されているようだ」と称えている。
コンスタンティノープルの象徴であるハギア=ソフィア聖堂は、532年のニカの乱ーこの市民暴動についてはのちほど述べるーによって焼失してしまった。災いを転じて福となすとばかり、ユスティニアヌスは反乱が終結してわずか39日後に復旧に着手する。神の栄光を称え、自分の栄華を永久に伝えるために、もとの教会よりもはるかに壮麗なものをと、まずは周辺の土地の買収にとりかかった。
用地買収は難航した。拡張予定地に家を持っていた未亡人は、85ノミマス(金貨85枚)という買収価格を提示され、金50ポンド(金貨3600枚)でも売らないと言い張った。彼女を説得したのは、「いずれあなたをこの教会に葬ってあげよう」というユスティニアスヌの言葉であった。
宦官のアンティオコスという者も予定地に家屋を持っていた。彼も買収に非協力的であった。買収担当の財務官は、この男が競馬好きなのを知って、競馬の開催日直前に彼を勾留した。競馬の日になると、彼は「競馬を見たい、だから皇帝のいう通りにする」と折れて出た。彼は皇帝観覧席へ連れてゆかれ、競馬を見ながら売却契約書に署名したという。
資材と職人を世界中から集め、5年半の歳月をかけてハギア=ソフィア聖堂は完成した。その壮麗な姿は、旧約聖書「列王紀」のソロモン王の大神殿もかくやと思わせた。537年12月の竣工式、教会の祭壇に立ったユスティニアヌスは両手を差し伸べると、「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ。ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだ。
ユスティニアヌス即位当時、北アフリカはヴァンダル王国、イタリアは東ゴート王国、そしてイベリア半島は西ゴート王国と、旧西ローマ帝国領はゲルマン人の支配下にあった。これらの地方を奪回し、ローマ帝国を再興することがユスティニアヌスの夢であった。
ヴァンダル王国は、建国者王ガイセリック王の時代、強勢を誇っていた。455年には海を越えてローマを略奪したこともあった。しかし523年、ガイセリックの孫ヒルデリックが王となった頃には昔日の面影はもはやなかった。ローマ遠征の際に捕虜とした西ローマ皇女を母にもつ彼は、王国のローマ化を進めたが、ヴァンダル貴族の反発に遭い、530年一族のゲリメルによって王位を追われた。
これをみたユスティニアヌスは、533年、ベリサリウス将軍に1万6000の軍勢を与えて、海路ヴァンダル王国へ送り出した。ベリサリウスは都カルタゴの東南に上陸し、海岸沿いに進撃した。都を追われたゲリメルは翌年に降伏し、ヴァンダル王国は100年の歴史を閉じる。コンスタンティノープルに戻ったベリサリウスは競馬場で凱旋式を行った。破格の待遇であった。
自信を持ったユスティニアヌスは、535年こんどはイタリアへ遠征軍を送る。テオドリック大王のもとで繁栄した東ゴート王国も、その晩年には、国内のゲルマン人とローマ人の反目に悩まされていた。ベリサリウス将軍はシチリア島から南イタリアに上陸し、ナポリ、続いてローマを占領、このたびの戦争も短期間で終わるかと思われた。ところがヴァンダル人とは違って、東ゴート人はこのあと20年にわたって執拗に抵抗する。戦況は一進一退を繰り返し、都府ローマはそのたびに支配者を替えた。最終的にローマを占領したのは552年、イタリアを完全支配するのは555年のことである。この間にユスティニアヌスは、西ゴート王国の内紛に乗じて、イベリア半島の東南部を征服することに成功した。こうして地中海は再び「我らの海」となった。
ユスティニアヌスは誇らしげに征服称号を帯びる。
インペラトール、カエサル、フラヴィウス、ユスティニアヌス。アラマン人の、ゴート人の、フランク人の、ゲルマン人の、アント人の、アラン人の、ヴァンダル人の、アフリカ人の、敬虔な、幸いある、輝かしい、勝利者、凱旋者、永遠のアウグストゥス
旧ローマ帝国領の奪回のためには莫大な戦費が必要であった。アナスタシウス帝の残した剰余金でも足りないと、即位直後からユスティニアヌスは、片腕の財務長官ヨハネスを使って軍資金を着々と貯える。ヨハネスは財政にかけては有能で、なにかと名目をつけては新規の財源をみつけてきた。特に有名なのは「空中税」である。プロコピオスによると、正規の税ではなく、勝手に「まるで空から降ってくる」ように課されたからこの名がついたという。実際には、首都の高層住宅に住む者を対象とした新税らしい。
事態に絶望したユスティニアスヌは逃亡を決意する。港には船も用意された。男たちがうろたえる中、動物の調教師の娘で踊り子上がりの皇妃テオドラがみごとな演説をしたことはあまりにも有名である。
たとえそれによって命ながらえるとしても、今は逃げる時ではありません。この世に生まれた者が死ぬのが定めとはいえ、皇帝であった者が亡命者となるのは耐えられますまい。……生き延びたいとお思いでしたら、陛下、難しいことではありません。お金もたっぷりあります。目の前は海、船も用意されています。けれどもお考えください。そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるようなものでしょうか。私は古の言葉が正しいと思います。「帝衣は最高の死装束である」。
天晴れな妃テオドラ。彼女がいなければ、ユスティニアヌスも即位数年にして帝位を追われた無能な皇帝としか歴史に名を残さなかったであろう。妃の言葉に勇気を取り戻した皇帝は、たまたま東方戦線から戻っていたベリサリウス将軍に最後の作戦を命じる。ベリサリウスは競馬場に向かうや、対立皇帝を捕らえるのは後回しにして、歓呼の声をあげていた市民にみさかいなく襲いかかった。3万人が虐殺され、さしもの大反乱も終わった。
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