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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー稲妻王バヤジット1世・オスマン帝国①

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オスマン=ベイ

 13世紀の小アジア(アナトリア)西部は、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していたが、十字軍運動の侵攻を受けて衰退、さらに東方からのモンゴルの侵入を受け、1242年その属国となった。ルーム=セルジューク朝の弱体化に伴い、小アジアにはトルコ人のイスラーム戦士の集団であるガーズィーが無数に生まれ、互いに抗争するようになった。その中で有力なものがベイ(君侯)を称し小規模な君侯国を創っていった。

 オスマン帝国の創始者オスマン=ベイもそのようなベイの一人であり、彼は自分の名を部族名とし、他のトルコ系部族と連合しながら周辺のキリスト教国を征服し、1299年に小アジア西部の小君侯国として独立した。後にオスマン帝国に発展してから、その始祖としてオスマン1世と言われるようになった。彼は、ビザンツ帝国領のブルサ攻撃にとりかかり、勝利したが入城直前に病没した。

オルハン 
オルハン=ベイ

 息子のオルハン=ベイが1326年にブルサに入って新首都と定め、それまでの遊牧部族の部隊を正規軍団に編制し、初めて貨幣を発行するなど、オスマン国家としての形態を整えた。オルハン=ベイは征服活動を再開し、キリスト教の聖地ニケーアを攻略し、コンスタンティノープルと指呼の間に軍を進めた。そのころビザンツ帝国は皇帝位を巡って二派が対立する内紛が起こっており、カンタグゼノス家のヨハネスはオルハンを味方につけようとして、1346年に娘テオドラと結婚させ、その後にビザンツ帝国皇帝ヨハネス6世となった。 

 オルハンの率いる軍団はビザンツ帝国に招き入れられる形でヨーロッパ側のバルカン半島に入り、1354年にダーダネルス海峡の要所ガリポリ(トルコ語ではゲリボル)を獲得した。これ以後、オスマン国家の勢力圏はバルカン半島に広がっていく。

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ムラト1世

 1361年、ムラト1世がアドリアノープルを攻略、1366年に新首都エディルネと改称した。

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コソヴォの戦い

 オスマン帝国のバルカン征服の過程で行われたいくつもの戦いの中で、とりわけ重要なのは1389年6月15日のコソヴォ(コソボ)平野の戦いである。オスマン側の指揮をとったのはムラト1世であるが、バルカン側はブルガリア人、セルビア人、ハンガリー人などからなる連合軍で、セルビア王ラザールが指揮をとっていた。この戦いでオスマン側が勝利したことは、そのバルカン支配の大きな節目となった。だが、ムラト1世は、戦いの最中に一人のセルビア人に切りつけられ、戦後すぐに死去した。

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 オスマン側はその報復としてセルビア王ラザールをはじめ多くのセルビア人領主を処刑した。その結果オスマン側の報復を恐れたセルビア人が大挙コソヴォ地方を捨てて、北方へ移動したため、やがてこの地方にはアルバニア人が多く入植した。

 この地方は2008年にコソヴォ共和国として独立したが、セルビア人主導の旧ユーゴスラヴィア以来のセルビア共和国中央政府との間にさまざまな紛争を起こして来たことは周知の事実である。一方、コソヴォの敗戦はセルビア人にとって耐え難い屈辱として記憶された。

 バヤジット1世
バヤジット1世

 ムラト1世の死後、王位はただちに息子のバヤジット1世によって受け継がれた。彼はイェニチェリ軍団を編成し、常備軍を整備し強力な君主権を創りだし、領土拡張をさらに精力的に推し進めた。彼は片目がつぶれていたとも、やぶ睨みだったとも伝えられているが、イルドリム(稲妻)とあだ名されるほど迅速に行動する軍事的な天才だった。

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ジギスムント

 バルカンでは、ハンガリー国王のジギスムント(後に神聖ローマ皇帝となりコンスタンツ公会議を主催する)を中心に対オスマン「十字軍」が結成された。これには、フランス、イングランド、スコットランド、フランドル、ロンバルディア、ボヘミア、ドイツの各地からやって来た騎士や貴族も加わっていた。

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ニコポリスの戦い

 ジギスムントはオスマン軍を出来るだけハンガリーの首都であるブダに引きつけて長い行軍に疲れさせる考えであった。しかし、聖地イェルサレムへ向かおうとする十字軍意識に高揚したフランス軍はバルカン内部への進軍を主張した。こうしてドナウ河畔へと軍を進めた「十字軍」とオスマン軍は、1396年9月、ブルガリアの最北部にあるドナウ沿岸のニコポリスで激突した。結果は「十字軍」側の大敗北であった。
 
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 この戦いの勝利によってオスマン帝国のバルカン領土は一挙にドナウ河畔まで拡大した。これに気をよくしたバヤジットは、一転アナトリアへと軍を進めた。1397年の暮れには最大の強敵であった南東アナトリアのカラマン侯国を、翌98年には黒海沿岸のイスラーム法官であるカーディ=ブルハネッディンの国家をも併合し、ここにオスマン帝国の国境はドナウ河からユーフラテス川にいたる一大帝国となった。有名なイェニチェリ軍団はすでに父ムラトの時代に創設されていたが、バヤジットはこれをさらに組織化し、その軍勢は5000人に達していた。

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ティムール
 
 バヤジットがコンスタンティノープルを包囲攻撃していた1399年、サマルカンドを首都にソグディアナからイラン、イラク、アフガニスタンにいたる大帝国を築き上げたティムールがアナトリアへと軍を進めて来た。両軍は1402年7月にアンカラ郊外のチュプク平原で激突した。バヤジット側はカラマン侯国のほかに西アナトリアのトルコ系諸侯国およびバルカンのキリスト教徒従属国の兵士たちからなっていた。しかし、戦いのさなかにアナトリアの兵士たちがティムール側に寝返ったため、バヤジット側の敗北は決定的となった。

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捕虜となったバヤジット1世

 バヤジットは捕虜となり、ティムールはアナトリアのすべてのトルコ系君侯国を復活させた。ティムールは約8カ月ほどアナトリアに滞在した後、バヤジットを伴ったままサマルカンドへ帰還の途についたが、その道中でバヤジットは1403年3月8日に自害した。こうしてバヤジット1世の「帝国」は瓦解し、オスマン帝国は、以後約10年間空位時代を経験することになる。それにも拘わらず、王位継承戦を勝ち抜いたメメトフ1世と、つづくムラト2世の時代にオスマン帝国は急速に立ち直り、アナトリアとバルカンで喪失した領土を回復していった。

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【 2019/10/29 04:35 】

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世界史のミラクルワールドーイスファハーンは世界の半分・サファヴィー朝

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イスマーイール1世

 イスマーイールはアルダビールで神秘主義教団の教主の子として生まれ、苦難のうちに成長した。やがてトゥルクメン系の7部族の支持で、アナトリア東部に勢力を張っていたトゥルクメンの君公国白羊朝を倒して1501年にタブリーズで即位、シャー(国王)としてイスマーイール1世を称し、サファヴィー朝を建国した。この時、イスマーイールは僅か14歳であった。

 イスマーイールはタブリーズのモスクでシーア派の一派である十二イマーム派を信仰することを宣言した。十二イマーム派はシーア派指導者であるイマームの地位は、初代アリーから12代目までムハンマドの子孫によって継承されたが、それ以降は「隠れイマーム」となり人々の前から姿を消したとする。隠れイマームは最後の審判の日に再臨するが、それまではサファヴィー朝のシャーが「隠れイマームの代理」として統治するものとされた。

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  キジルバシュ

 サファヴィー朝はその後10年間で全イランをほぼ統一して、ササン朝滅亡以来7世紀半ぶりにイラン民族国家を建設したが、その原動力となったのがトルコ系遊牧民の騎兵部隊であったが、彼らは赤い心棒にイマームの数に由来する12の襞がある布を巻きつけたターバンを被ったことから、トルコ語で「赤い頭」を意味するキズルバシュの名で呼ばれた。 キジルバシュは教主イスマーイールを救世主と信じており、教主のもとでの死は殉教死となるため、彼らは死を恐れずに戦った。死を恐れずに戦い、密集した陣形を取って敵に突撃を繰り返すキズルバシュの騎兵は、他国の兵士から恐れられたである。

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チャルディラーンの戦い

 1514年、アナトリア高原東部のチャルディラーンの野で、セリム1世のオスマン帝国軍と、イスマーイール1世のサファヴィー朝軍が激突した。結果的にはオスマン軍のイェニチェリ軍団が鉄砲などの新しい武器を利用し、サファヴィー朝のキジルバシュの突撃を食い止め、オスマン軍の勝利となった。鉄砲という新しい武器の前でキジルバジというトルコ系騎兵に依存する軍事力の限界が示された。その後もシリア、イラクをめぐってオスマン帝国とサファヴィー朝は攻防を繰り返すこととなる。

 チャルディラーンの戦いの後、政治への興味を失ったイスマーイール1世は酒に溺れ、失意の中で1524年に37歳で亡くなった。第2代のシャーとなった息子のタフマースブ1世はわずか10歳で、抑えを失ったキズルバシュは君主の後ろ盾の座を巡って有力部族同士で内紛を繰り返し、サファヴィー朝は王朝最初の危機を迎えた。

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小姓と戯れるアッバース1世

 サファヴィー朝を再建したのが16世紀末に現れたアッバース1世である。彼はまずキジルバシュ勢力を抑えるため、奴隷兵などからなる常備軍を整備し、また親衛隊を育成して皇帝権力を強め、側近を各地に派遣して中央集権体制を回復させた。

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 国力を回復させたアッバース1世は、アゼルバイジャンのタブリーズやイラクをオスマン帝国から奪還し、また当時始まっていたポルトガル人の侵出により奪われていたペルシア湾入口のホルムズ島からその勢力を駆逐した(その際にはイギリス東インド会社の助力を得たとされている)。

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イスファハーンのイマーム=モスク

 1597年、アッバース1世はガズヴィーンからペルシア中部のイスファハーンに遷都し、イスファハーン旧市街の郊外に王宮を中心に、「王のモスク」(現イマーム=モスク)などのモスクが立ち並ぶ公共空間が建設された。ペルシア系、テュルク系の宮廷の人々のほか、アルメニア商人やインド商人など遠隔地交易に従事する多くの異郷出身者が住み着いたイスファハーンの人口は50万人に達し、「イスファハーンは世界の半分」と言われるほどの繁栄ぶりを示した。

 1673年、ここを訪れたフランスの宝石商人シャルダンの報告『ペルシアの都イスファハーンの描写』は、当時なお盛時の面影を残すこの都市の詳細な記録を今日の我々に教える貴重な史料である。

 旧市街と新市街の接点に新設された東西180m、南北550mの「王の広場」は、二層のアーチ式回廊に囲まれ、その表面は青・赤・黄などの彩釉タイルの幾何学模様の装飾が施されている。公式行事が行われる日を除けば、この広場には露店のテントが並び、回廊にも工房や商店が入っていた。外国使臣などが訪問すれば、回廊の前面に5万個に及ぶ小さな灯油ランプが灯されたという。電気のない当時にあって想像を絶する光景であろう。

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 「王の広場」の西側に王宮地域がある。王宮といっても西欧のゴシック建築のような豪壮な建築物はなく、せいぜい東屋程度である。だが、王族の贅沢は建物ではない。塀に囲まれた内部のほとんどは庭園であり、水と緑にあふれていた。沙漠の遊牧民にとって水と緑こそ最高の贅沢であったのだ。新市街には庭に恵まれた高官・貴族の屋敷が立ち並んでいた。「イスファハーンは世界の半分」と豪語されたのもむべなるかなである。

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【 2019/10/27 05:31 】

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世界史のミラクルワールドー呪われた棺・ティムール朝②

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永楽帝

 ティムールが出現して西アジアの大半を征服したのと同じ頃、東アジアに登場したのが朱元璋であった。ティムールは明が元を滅ぼし、モンゴルを北辺に追いやったことに対し復讐を宣言し、その明で太祖洪武帝が死に、靖難の役の内乱が勃発したことを好機と捕らえ、アンカラの戦いから転じて20万の大軍を東に向け、パミール高原を越えて進軍させた。

 そのままいけば、モンゴル帝国の再現をめざすティムールと中華帝国の建設をめざす永楽帝という英雄同士の戦いとなるところであったが、ティムールは途中のオトラルで1405年2月18日に病死(異常な寒さをしのぐため酒を飲み過ぎたためといわれる)し、対決は実現しなかった。
 
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グリ=アミール廟

 ティムールが眠るのがサマルカンドのグリ=アミール廟。もともとは彼の最愛の孫で王位継承者であったムハンマド=スルタンが建てたメドレセ(マドラサ)があったが、1403年に彼が29歳の若さで戦死すると、ティムールは隣に廟を建設した。ティムールがオトラルで亡くなった時、すでに生まれ故郷のシャフリサブスにティムールの廟は築かれていた。しかし、シャフリサブスへの道が雪で閉ざされていたため、遺体はサマルカンドに運ばれ、グリ=アミール廟で孫と一緒に眠ることになった。

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 中央の黒緑色の墓石がティムールの墓。その東側にムハンマド=スルタン、西側にティムール朝3代目のシャー=ルフ、南側にシャー=ルフの子で4代目のウルグ=ベク、北側にティムールの師ミルサイード=ベリケが眠る。しかし、これらはみな墓の位置を印した墓石で、亡骸は地下3mの墓室に葬られている。これはアグラのタージ=マハルと同じ構造。観光客が見ているシャー=ジャハーンとムムターズ=マハルのお墓には遺体は入っておらず、二人は地下に眠っている。ちなみに、タージ=マハルを建てたシャー=ジャハーンはティムールの子孫だ。

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ティムール

 1941年6月19日、ソ連のミハイル=ゲラシモフという学者がティムールの棺をあばいて学術調査を行っている。ゲラシモフは棺の内側に文章を発見し、解読した結果、「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」という言葉が刻まれていた。しかしグラシモフは別段気にすることもなく、棺の蓋は開けられて調査が実施された。

 さらにゲラシモフは棺の内側に文章を発見し、そこには、「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」と書かれていた。そして、その言葉通り、6月22日にナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始、ソ連になだれ込んで来た。棺に刻まれていた言葉が真実となったのである。ティムールの遺体はイスラーム教式の丁重な葬礼で再埋葬された。

 この時の学術調査の結果、ティムールはやはり右足が不自由だったことが判明した。ティムールは略奪などをして生計を維持していた青年時代に、右手、右足に終生の障害を負った。そこから彼に敵意を抱く者がペルシア語で「ティムーリ=ラング(びっこのティムール)」と呼び、これが西欧では訛って「タメルラン」となったとされていたが、学術調査により歴史記述が正しかったことが証明された。写真のティムール像はゲラシモフが頭蓋骨から復元したものだ。

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シャー=ルフ 

 ティムール朝第3代君主のシャー=ルフはティムールの第4子であったが、ティムール死後の混乱を収束させる。彼は帝国の都を自らの本拠地ヘラート(現在のアフガニスタン西部)に移し、サマルカンドには息子のウルグ=ベクを知事として統治させた。またイラン、アフガニスタン方面にも息子達を分封し、一族による帝国支配を体制を固めた。その上で対外的には平和外交の路線を打ち出し、父ティムールが遠征を志した明との関係も修復し、両国間にしばしば使節の交換が行われた。その40年に近い治世は、ティムール朝を通じて、もっとも安定した時代となった。

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ウルグ=ベク
 
 15歳からサマルカンドの知事を務めたウルグ=ベクは、学芸を保護・奨励し、首都サマルカンドには天文台やメドレセ(学校)が建てられたため、サマルカンドはイスラーム文化の中心地として栄えた。

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ウルグ=ベク天文台

 彼の天文台では高度な観測が行われ、みずからも天体観測を行い、それをもとに作られた『キュレゲン天文表』はアラビア語やトルコ語に翻訳され、イスラーム世界に広く用いられた。

 1908年、ロシアの考古学者V.ヴャトキンによって、巨大な六分儀の地下部分11メートルが発見された。全体では40メートルあったらしく、いかに巨大な六分儀であったかがわかる。ウルグ=ベクがこの六分儀を使った太陽の観測記録から割り出した1年の長さが365日6時間10分8秒。現在コンピューターを使って割り出した365日6時間9分9.6秒とたった1分しか違わない。

 しかし、ウルグ=ベクの天文学研究やメドレセにおける男女の教育の実施などは、ブハラをはじめとする聖職者層からはイスラームの教えに反するものという反発が強くなった。1447年、父の死のより即位したが、たちまち内乱が生じ、それに乗じた中央アジアのトルコ系ウベクズ人が侵入、彼自身も1449年に長男アブドゥル=リャティフに殺されるなど、約50年後に帝国の滅亡をもたらす素地をなした。

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サマルカンドのティムール像

 現在、ティムールはトルコ系民族の英雄として、特にソ連滅亡後独立したウズベキスタン共和国では国民統合の象徴とされ、タシケント、サマルカンド、生まれ故郷のシャリサーブズに銅像が建てられ、その遺跡が復興されている。

 しかし、ティムール朝を滅ぼしたシャイバニー朝はウズベク人の国家であり、ティムール朝を滅ぼした集団の名前を冠する民族がティムールを称賛しているのには、大きな矛盾がある。

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【 2019/10/23 05:38 】

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世界史のミラクルワールドー風雲児ティムール・ティムール朝①

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ティムール

 1336年、ティムールはサマルカンドの南、ケシュ(現在のシャフリサーブス)の近郊に、トルコ化しイスラーム化したモンゴル族の一つ、バルラス部の一員として生まれた。ティムールとはモンゴル語でもトルコ語でも「鉄」の意味。チンギス=ハンの本名であるテムジンは「鉄の男」の意味なので、二人の名前は共通する。

 彼の5代前の先祖はカラチャル=ノヤンというモンゴル人で、13世紀の初頭にチャガタイ=ハンとともにモンゴリアから中央アジアに移住し、ハンの補佐役としてハン家内部の諸問題を取り扱った有力者であった。しかし、この一族はティムールの曾祖父の時代になると、もはや昔日の有力者としての立場を失ってしまっていた。

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 1370年、ティムールはチャガタイ=ハン国のハンの一族の一人フセインの軍を破り、フセインを殺害してマー=ワラー=アンナフル(ソグディアナ)唯一最高の実力者であることをクリルタイで承認された。ティムール朝の成立である。

 ただしティムールは、自らがチンギス=ハン家の出身者ではないことを考え、名目的なハンの位にはチンギス=ハン家の王子を擁立し、自らはチンギス=ハンの血をひく女性をめとって、ハン家の女婿(キュレゲン)としての立場に身をおくことで満足した。そして、この時以降ティムールは終生ハンを称さず、常にアミール・ティムール・キュレゲンと(「チンギス=ハン家の女婿、遊牧貴族ティムール」の意味)を名乗った。

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タシケントのティムール像

 ティムールはチンギス=ハンの子孫と称し、その事業を再現することをかかげ、たびたび自らが軍隊を率いて遠征を行った。1380年にはイランに侵入してイスファハーンを占領、すでに衰えていたイル=ハン国を吸収し、イラン高原に支配領域を広げた。さらに北西に向かい、ロシアに入り旧キプチャク=ハン国の都サライを略奪してその領域も併合した。

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 ティムールとマフムードの戦闘

 1398年、ティムールは方向を転じて南方に向かい、インドに侵入しトゥグルク朝の都デリーを襲撃した。偶像崇拝の異教徒(ヒンドゥー教徒)を甘やかしているインドのムスリム王権に鉄槌を下すという大義名分を掲げていたが、狙いは「インドの富」にあり、同年12月17日にデリー郊外でトゥグルク朝スルタンのマフムードの軍を一蹴して翌日デリーを占領、その時捕虜約10万を足手まといとして虐殺した。デリーで破壊と略奪をほしいままにし、わずか15日間とどまっただけで、翌年1月1日に膨大な戦利品と多数の捕虜を連行してサマルカンドに向かった。

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ビビハニム=モスク

 このときサマルカンドに連行された多数の職人・技術者はサマルカンドのビビハニム=モスクの造営に充てられた。ビビハニムとは“第一婦人”のことで、本名はサライ=ムルク=ハーヌムといい、チンギス=ハンの末裔だ。ビビハニム=モスクはその第一婦人がティムールのインド遠征の凱旋にこたえて贈ったモスクだそうで、中央アジア最大の広さを誇り、サッカー場がすっぽり入る敷地に巨大な建築群が立ち並ぶ。

 ビビハニム=モスクは1399年に着工し、ティムールの死の1年前、1404年に異例の早さで完成した。しかし、落成後まもなくから煉瓦の落下が始まり、落下はとどまることなく、しだいに廃墟と化したそうである。あまりにも工事を急ぎすぎてしっかり基礎を造らなかったことと、あまりにも巨大過ぎたその構造に問題があったようだ。

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アンカラの戦い

  1400年、ティムールはマムルーク朝と対決するためシリアに侵攻、アレッポはあっという間に陥落し、頭蓋骨の山になった。さらにティムールはダマスクス郊外に全軍を展開した。ダマスクス側は和平交渉のため使節団を派遣したが、その中に歴史家イブン=ハルドゥーンがいた。ティムールとハルドゥーンの会談は35日にも及んだが、この間にダマスクス市内では征服軍による略奪や放火や殺人が容赦なくおこなわれ、ダマスクスは壊滅した。次いで小アジアに入ったティムールはアンカラでオスマン帝国との決戦に望んだ。

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捕虜となったバヤジット1世

 小アジアに侵入したティムールを迎えたのが、1396年のニコポリスの戦いでヨーロッパ十字軍に大勝したバヤジット1世である。ティムール軍はインド象軍を含む20万、これに対しオスマン帝国軍は12万。両者は7月20日、アンカラ北方のチュブク草原で激突した。早朝から夜にかけて行われた戦いは、オスマン帝国の大敗に終わった。

 バヤジット1世は退却しようとしたが、落馬して捕虜となってしまった。ティムールはバヤジット1世を格子付きのかごに乗せ、多くの捕虜とともにサマルカンドに連行するつもりであったが、これを知ったバヤジット1世は服毒して自殺した。この敗戦の結果、オスマン帝国は一時中断することになる。

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【 2019/10/20 05:34 】

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世界史のミラクルワールドー4人のイブン・イスラーム文明

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イブン=シーナー

 イブン=シーナーは980年に中央アジアのサーマーン朝が治めるブハラ近郊で生まれた。幼いころからコーランを学び、10歳ですでにコーランを暗誦することが出来たという。15歳のとき独学でアリストテレスの『形而上学』に取り組み、40回読み返し、ほとんど暗記してしまった。しかしそれでも理解できなかった。絶望して「この本を理解する手だてはない」と自分自身に言って諦めかけた、そんなとき、ブハラのバザールで一人の商人に一冊の本を買わないかとすすめられた。買ってみるとそれは『形而上学』の注釈書だった。家に帰って急いで読んでみると、それまで難解で判らなかったところが理解できるようになった。うれしくなって翌日、神に祈り、貧しい人々に多くの施しをしたという。

イブン=シーナー 

 その後、キリスト教徒の医学者サフル=アル=マスィーヒーに師事し、自然学、形而上学、医学を学び、16歳の時にはすでに患者を診療していたと言われる。サーマーン朝の宮廷の侍医として仕えていたが、999年サーマーン朝がカラ=ハン朝に滅ぼされ、またまもなくガズナ朝が侵攻してくるなどの混乱の中でブハラを離れた。中央アジアから西アジアの各地を放浪し、ホラズムを経てイランに移り、ハマダーン(かつてのメディア王国の都、エクバタナ)のブワイフ朝君主の宰相を務めた。

 諸学に精通し、その著作は100を越え、「学問の長老」と称された。『治癒の書』は哲学の百科全書で、アリストテレスの哲学を基礎とし、ギリシア哲学とイスラーム神学の融合をはかった。また『医学典範』はアラビア医学の大系化を試みた書で、イブン=シーナーの主著に数えられている。両書とも12世紀頃からラテン語に翻訳され、16世紀にいたるまで中世ヨーロッパのスコラ哲学や医学の教科書として用いられ、イブン=シーナーはラテン名でアヴィケンナと呼ばれた。

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イブン=シーナーの霊廟

 1037年、イランのハマダーンで死去し、1980年にはイラン=イスラム共和国によって墓所に霊廟が建立された。

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イブン=ルシュド

 イブン=ルシュドは1126年にコルドバの代々のカーディー(法官)の家に生まれ、最初は法学を修めた。27歳でモロッコのマラケシュに赴いてムワッヒド朝の君主に謁見した。セビリャや頃ドバで法官となり、のちムワッヒド朝君主の主治医となった。一時、イスラーム信仰に反するとしてコルドバで投獄されたが、最後はモロッコに迎えられて同地で没した。

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 彼の葬儀に際して、馬の背中の片側に棺が、もう片側に彼の著書が積まれてやっと平衡を保っていたという逸話が伝えられるほ多数にのぼったその著書は、アラブよりもむしろイベリアでユダヤ教徒によってヘブライ語に翻訳され、ヨーロッパに多くの影響を与えた。特にアリストテレスに関する研究・註釈は中世ヨーロッパの学界におけるアリストテレス研究の出発点となり、「自然はアリストテレスによって、アリストテレスはアヴェロエスによって解釈された」と言われるほどである。

 また『医学概論』も中世ヨーロッパでは著名で、彼のラテン名アヴェロエスが広く知られた。

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イブン=バットゥータ

 イブン=バットゥータは1304年にモロッコのタンジールで、アラビア化したベルベル人として生まれた。22歳の時、イスラームの聖地メッカの巡礼を志して故郷を出発した。本来は往復16ヶ月の道程である。しかし、彼が再びモロッコの地を踏むのは24年後となった。

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 陸路エジプトを経てシリアからメッカに巡礼した後、イラク・小アジアを旅して1333年から8年余りデリーに滞在した。ついでスマトラ・泉州を経て元朝治下の大都(北京)に至り、再びイラク・エジプトを通って1349年、46歳でいったんモロッコに戻った。その後、イベリア半島のグラナダを訪問、帰途サハラ砂漠を越えてニジェール川流域の黒人王国、マリ王国を訪れた。1354年にモロッコに帰ってさしもの大旅行を終えた。

 移動距離は延べ約 12万km、地球3周分にも及ぶ。その間トゥグルク朝の王ムハンマド=ビン=トゥグルクをはじめ,少なくとも 60人のスルタンら君主のほか,多数の政府高官,行政官,大使らと出会い,彼の記録によるとその数は 2000人以上に上った。これらの旅行で得た見聞はイブン=ジュザイによって口述筆記され、1356年に『都市の不思議と旅の驚異をみる者への贈物(三大陸周遊記)』と題する旅行記が完成した。

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イブン=ハルドゥーン

 イブン=ハルドゥーンは1332年にハフス朝時代の北アフリカのチュニスで、ベルベル人ではなくアラブ人の貴族の子として生まれた。20歳で政治生活に入ってからチュニスやモロッコのスルタンに秘書として仕え、一時は宰相に地位にも衝いた。しかし、変転極まりない政治世界の現実に裏切られて絶望し、42歳のとき突然北アフリカの山中にこもって『歴史序説』の執筆を開始した。その完成後は引き続き世界史の本論を書きすすめ、1382年からはマムルーク朝治下のカイロに居を移して、歴史学を講ずるかたわらマーリク派の裁判官を務めた。1401年ダマスクスを包囲したティムールと和平交渉のため会見した後カイロに戻り、1406年そこで没した。
 
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ティムール

 64歳のティムールと68歳のイブン=ハルドゥーンとの会見はダマスクス近郊のグータの森でおこなわれた。会談の途中で、英雄ティムールはこの希代の碩学にサマルカンドへの同行をしきりに求めた。しかしイブン=ハルドゥーンは征服者の厚意に感謝しつつも、結局、最後には家族や友人のいるカイロへの帰還を希望したと伝えられる。両者の会談は35日にも及んだが、この間にダマスクス市内では征服軍による略奪や放火や殺人が容赦なくおこなわれたと伝えられる。

 以上の4人はイスラーム世界で4大イブンと呼ばれている。イスラームにはイブンさんがやたらに多いが、「イブン」はアラビア語で「息子」のこと。ウサマ=ビン=ラーディンの「ビン」も同様に「息子」のことで、「ラーデンの息子のウサマ」というように苗字のように使われているので、イブンだらけ、ビンだらけになってしまうという訳だ。

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【 2019/10/16 05:45 】

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世界史のミラクルワールドー史上最大の資産家・マンサ=ムーサ

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 マリ王国は西アフリカ内陸部、ニジェール川湾曲部を中心に、12世紀ごろ建設されたマンディンゴ人の王国。伝承によれば、紀元後数世紀に建設され繁栄したガーナ帝国の支配下にあったマリは、ガーナ帝国の勢力の衰退につれてトンブクトゥを中心に台頭した。

 スンディアタ王のもと、西はガンビア、東はニジェール川沿岸のガオ、北はサハラ南縁のサハラを越えてくるアラブ人隊商の基地、南はニジェール川上流のバンブフ、ブレの金鉱まで、広大な地域を支配下に収め、ガーナ帝国にかわってサハラ縦断交易を独占することになった。

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サハラ砂漠の岩

 サハラ縦断交易では、主に北アフリカのベルベル人などのムスリム商人と西アフリカの黒人などとの間で交易が行われ、北からの塩や馬,南からの金や黒人奴隷などの取引が行われた。なかでも、サハラの塩と西アフリカの金が最も重要な交易品だった。西アフリカでは金が豊富に産出されたが、これは北西アフリカのイスラーム国家において金貨の鋳造などのために強く求められた。逆に西アフリカが最も必要としていたのは塩であったが、北西アフリカの商人はサハラ砂漠で採取された岩塩を持ち込んだ。

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  1352年にマリ王国を訪れたイブン=バットゥータによれば、岩塩と金についで重要性の高い交易商品は奴隷であり、その他に南からはコーラの実が、そして北からは奴隷交易用ビーズ やタカラガイの貝殻 (貨幣として使用された) が運ばれ、ガオ やジェンネ を含むニジェール川湾曲部の都市が繁栄した。とりわけ、トンブクトゥがその大いなる富でヨーロッパ全体で知られるようになり、「黄金の都」と呼ばれるようになった。

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コーラの木

 コーラの実はその名前の通り、コカ・コーラなどの原料である。コーラの種子はコーラ・ナッツと呼ばれ、少しずつ噛み砕いて楽しむ嗜好品として用いられる。嗜好品の多くが禁じられているイスラーム文化においては、コーラ・ナッツは唯一許された興奮剤であった。そのため、産地である熱帯雨林地帯ではほとんど消費されず、古くからサハラ交易においてもっぱら注目されて取引されていた。

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玉座に座るマンサ=ムーサ

 マリ王国最盛期の国王が第9代のマンサ=ムーサ(在位1312年~1337年?)である。マンサはマンディンゴ語で「王の中の王」の意味、「ムーサ」は旧約聖書の預言者モーセのセム人風の呼び名で、カンカン=ムーサとも呼ばれる。

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 ムーサは敬虔なムスリムで1324年にメッカへの大巡礼を行った。その際、人夫6万人にそれぞれ3キロずつの黄金を運ばせていた。これだけで黄金180トンになる。ムーサは、その黄金は全てトンブクトゥで入手したと語ったという。

 豪華なムーサの一行は周辺の国家にマリ王国の富裕さを知らしめた。巡礼の帰途、マムルーク朝のカイロで莫大な黄金をばらまいたのである。

 ウマリーは『諸王都の国土における洞察の小道』で次ぎのように伝えている。

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 私が初めてエジプトに来て逗留していた頃、このスルタン・ムーサが巡礼にやって来た話を聞かされたものだが、カイロの住民たちは彼らの見たこの人々の豪勢な金遣いの話でもちきりだった。私はミフマンダールを努めるアミール、アブー・アルアッバース・アマドフ・インブ・アルハーキーに話を聞いた。……「この人はカイロで贈り物をばらまいた。宮廷のアミールや王室の役職者で、彼からなにがしかの黄金をもらわなかった者は一人もいない。カイロの住民は彼とその供回りの者たちから、買ったり売ったり、もらったり取ったりして存分に儲けた。彼らはエジプトの金の価値を低めるほど金を交換し、金の価格を下落させた」。

 金相場が暴落したことにより、10年以上の間インフレーションが続いたとされる。

 ムーサが保有していた総資産は現在の価値にして約4000億ドル(約35兆円)、もちろん人類史上最高額である。2019年世界の長者番付トップのAmazon創業者ジェフ=ベゾスの総資産は1310億ドルだから、ムーサーの足許にも及ばない。

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ジンガリベリ・モスク

 巡礼から帰ったムーサはトンブクトゥの3大モスクの1つ、ジンガリベリ・モスクを建造した。もとは屈指のマドラサ(学校)だったジンガリベリ・モスクは、建設費に200キロもの黄金が使われたと言われている。ただし、建物自体はワラと泥が材料で金は使われていない。

 2012年に入り、トンブクトゥは2つの武装グループ、「アザワド解放民族運動(MNLA)」と「アンサール・ディーン(Ansar Dine)」に占領されており、ユネスコは2012年6月、トンブクトゥにあるジンガリベリ・モスクなど5つの世界遺産を「危機遺産」リストに追加した。

 建造から700年を経たジンガリベリ・モスクは、今最大の危機にある。

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【 2019/10/13 05:41 】

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世界史のミラクルワールドー知られざるイスラームの英雄・バイバルス

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バイバルス

 アイユーブ朝スルタンのトゥーラーンシャーは、フランス王ルイ9世の起こした第6回十字軍を撃退し、ルイ9世自身を捕虜にするという成功を収めたが、その戦いの主力となったマムルーク軍を次々と逮捕・投獄してその勢力の削減をはかった。これに対してマムルーク(奴隷兵士)も、バイバルスを中心にして密かにスルタンの暗殺計画を練り上げていた。

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マンスーラの戦い

 バイバルスは南ロシアの草原の遊牧民クマン族の人であったが、モンゴルの侵入の混乱で奴隷として売られ、アイユーブ朝のスルタン・サーリフに買われてそのマムルークとなった。マムルーク部隊の中で頭角を現してスルタンの親衛隊隊長となり、1250年2月のマンスーラの戦いでルイ9世を捕虜にする功績を挙げ、マムルークのリーダーとなった。

 1250年5月、トゥーラーンシャーはマムルークの武将たちに襲われ、上着についた火を消すためにナイル川へ飛び込んで溺死してしまった。これが、サラディンから80年にわたって続いたアイユーブ朝の終焉であった。

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ローダ島でくつろぐシャジャル=アッドゥッル

 トゥーラーンシャーを殺害したマムルークは、アイユーブ朝の権威を利用しようとし、トゥーラーンシャーの父スルタン・サーリフの妻シャジャル=アッドゥッルをスルタンに推戴した。西アジアにおける最初の女性スルタンの誕生である。彼女のスルタン位就任によって、エジプトにトルコ人奴隷兵を基板とするマムルーク政権が成立した。

 シャジャル=アッドゥッルはかつてはアッバース朝最後のカリフ・ムスタースィムの宮廷に買われた女奴隷であった。シャジャル=アッドゥッルとは、アラビア語で「真珠の樹」を意味するが、むろんこれは本名ではなく、カリフから与えられた妻妾としての名前である。出自はトルコ人ともアルメニア人とも言われる。

 即位後、彼女はルイ9世以下十字軍捕虜の釈放問題について十字軍側と粘り強い協議を続け、結局80万ディーナールの身代金と引き替えに、すべての十字軍捕虜を解放することで決着をつけた。美しい美貌に加えて、マムルーク騎士を統率し、外交問題をこなす政治的な手腕を備えていたのであろう。

 しかし、女性スルタンの登場はイスラーム世界にさまざまな波紋を引き起こしたため、シャジャル=アッドゥッルは同年7月、マムルーク出身のアイバクと結婚し、スルタン位を夫に譲り渡した。彼女がエジプトの王位にあったのは、わずか80日間に過ぎなかった。

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フラグの西征開始

 しかし、アイバクが第2代スルタンに就任すると、アラブ遊牧民が「よそ者の奴隷」の支配に服することは出来ないと反乱を起こした。この反乱は鎮圧されたが、そんな時、モンゴル帝国のフラグの西アジア遠征軍が姿を現し、大きな脅威となり始めた。

 1253年、1万2000の前衛隊を率いて西征を開始したフラグは、まずイランのイスマーイール派の討伐に向かった。1256年、イスマーイール派の教主がアラムート山城を出て降伏すると、フラグは高らかな勝利宣言をイスラーム諸国に送付したのである。

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モンゴル軍によるバグダード攻略

 1258年1月、東西からバグダードを包囲したモンゴル軍は、投石機を用いて総攻撃を開始し、20日間にわたる間断ない攻撃の後、2月10日、ついにカリフ・ムスタースィムはフラグの前に投稿した。カリフは、貴人を殺す時には血を流さないというモンゴルの習慣にしたがって、皮袋に入れられ、軍馬に踏みつけられて殺害された。ムスタースィムの死によって、600年余りにわたって続いてきたカリフ制度に終止符が打たれたのである。

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 バグダードを攻略したフラグは、当初の征服計画にしたがって、イラクからシリアへと軍を進めた。ユーフラテス川を渡ったモンゴル軍は、1260年1月、シリア北部のアレッポを陥落させ、男子を虐殺した後、およそ10万の婦女を子供を捕虜として奴隷商人に売り払った。

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アレッポの城塞

 モンケはさらにダマスクスも陥落させたが、この時フラグのもとに兄モンケの死を知らせる手紙が届けられた。モンケは次のハーンを選ぶクリルタイに出席すべく、後事を将軍キトプカ=ノヤンに托して帰国した。キトプカはダマスクスからさらに南へと軍を進め、その先遣部隊はエジプト国境に近いガザまで進出した。

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アイン・ジャールートの戦い

 モンゴルはカイロに使節団を派遣し、無条件降伏を促した。マムルーク朝第4代スルタン・クトズは使節団の全員を処刑し、エジプト軍に戦闘準備に入ることを命令した。1260年9月3日早朝、両軍はヨルダン川西方の小村アイン・ジャールートで激突。エジプト軍はバイバルス率いるマムルーク軍の活躍によって、夕方には敵の総司令官キトプカを殺害し、モンゴル軍に壊滅的な打撃を与えて敗走させた。

アイン・ジャールートの戦いは、ムスリム軍にとってはイスラーム世界の砦を守り抜いた輝かしい勝利の戦いであり、逆にモンゴル軍にとっては東西の征服戦争で初めて味わう苦い敗戦であった。

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バイバルス

 この戦いの後、バイバルスとクトズは対立し、バイバルスはエジプトに凱旋する直前のクトズを殺害し、自らマムルーク朝第5代スルタンに就任した。バイバルスは、この時およそ33歳であった。1260年9月、カイロの城塞に入ったバイバルスは、アミールたちからの臣従の誓いを受け、武人のスルタンにふさわしく「勝利の応」(マリク・アッザーヒル)と称した。


 1261年5月、バグダードで殺害されたアッバース朝の最後のカリフ(ムスタースィム)の叔父と自称する人物がダマスクスに逃れてきた。バイバルスはその人物をカイロに招き、裁判官や学者に調べさせた上で、この人物を新カリフ・ムスタンスィルとして擁立することを決めた。数週間後、バイバルスは新カリフを伴ってカイロ市中の広場へ赴き、アッバース家を象徴する黒色のターバンと紫色のガウンをカリフから授けられた。これによってバイバルスはカリフの代理のスルタンとしてイスラーム世界に承認されたことになる。

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 ハーキム 

  さらにバイバルスはバグダードでカリフ制度を再建する口実で、新カリフをモンゴル占領下のバグダードに送り出した。ところがその護衛兵士はわずか300騎だけであったので、新カリフはユーフラテス川を渡ったところでモンゴル軍に捕らえられ、殺されてしまった。バグダードにカリフ政権が復活するとバイバルスの権力は危うくなると考えた措置であろう。

 新しく擁立されたカリフ・ハーキムはカイロ市民と接触することは禁じられるというまったく「道具」として存在するだけであった。それでもカイロのカリフはオスマン帝国に征服される1517年まで240年にわたって続くことになる。

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【 2019/10/09 05:40 】

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世界史のミラクルワールドーウマル=ハイヤームと2人のハサン・セルジューク朝

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 946年、アッバース朝の都バグダードは、シーア派を奉ずるブワイフ朝に占領され、ブワイフ朝の君主はカリフから大アミールの称号を与えられ、実権を掌握した。しかし、その統治は安定にはほど遠い状態で、大アミールはバグダードの治安を維持することすら出来ず、時代は混沌とした様相を呈していた。

 バグダードがこのような混乱状態にあった時、セルジューク族が西進して首都を目指しているとの報が伝えられた。セルジューク族はもとはオグズ族といわれるトルコ系民族で、アラル海に注ぐシル川の下流(現在のカザフスタン)から勃興し、スンナ派イスラームを信奉していた。

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トゥグリル=ベク(トルクメニスタン紙幣)

 カリフを取り巻くウラマー(知識人)は、これをカリフ権回復のための絶好の機会と考えた。この期待に応えるかのように、セルジューク家のトゥグリル=ベク(「鷹の王」の意味)は、1038年にイラン東部のニシャプールでセルジューク朝の建国を宣言し、1055年12月にはカリフに迎えられてバグダードに入城した。

 バグダードに入城したトゥグリル=ベクはカリフからスルタンの称号を授けられ、以後スンナ派の諸王朝では世俗的・軍事的な権力者としてスルタンの称号が一般化する。

 バグダードのウラマーたちが期待したように、このとき形の上ではシーア派の大アミールにかわって、スンナ派のスルタンによる統治が実現した。しかし、スルタンの保護下におかれたカリフは、実権をもつスルタンにイスラーム法執行の権限を委ね、みずからは「スンナ派ムスリムの象徴」としての弱い立場に甘んじなければならなかった。

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アルプ=アルスラーン

 トゥグリル=ベグの死後、スルタン位継承をめぐる同族争いが勃発した。これに勝利したのが甥のアルプ=アルスラーン(「ライオンのごとき英雄」の意味)であった。 アルプ=アルスラーンは小アジア(アナトリア)に進出し、1071年、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍を破り、皇帝ロマノス4世を捕虜とした。

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マンジケルトの戦い

 8月19日の決戦の日、幕僚たちに裏切られたロマノス帝は、あくまでも勇敢に戦い抜いたが、馬は殺され、みずからも傷つくありさまで、ついには囚われの身をアルプ=アルスラーンの前に引き立てられた。スルタンは敗軍の将を手厚くもてなした。それがひとたび釈放されると、ビザンツ帝国の連中は、政治的な憎悪心に駆られて、皇帝の両眼をくりぬいてしまったという。

 この戦い以降、小アジアのトルコ化が進み、ビザンツ帝国にとって大きな脅威となり、皇帝アレクシオス1世は教皇に救援軍を要請した。これを機に200年に及ぶ十字軍の遠征が始まることになる。

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ニザーム=アルムルク

 アルプ=アルスラーンには少年時代からハサン=イブン=アリーというイラン人の学者が傅役(アター=ベグ)としてつけられていたが、スルタンとなったアルスラーンは彼を宰相に任じ、ニザーム=アルムルク(「国家の柱石」の意味)の称号を与えた。

 彼はバグダード、ニシャプールなどの諸都市に自らの名を冠したニザーミーヤ学院(マドラサ)を建設した。これはイスマーイール派の活発な布教活動に対抗して、スンナ派の神学や法学を振興し、有能な官吏を養成することが目的であった。

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マリク=シャー

 1072年、アルスラーンの急死を受けて、王子マリク=シャーが即位した。新スルタンはまだ17歳。宰相ニザーム=アルムルクを「師父」と呼び、絶大な信頼を置いた。マリク=シャーは狩りを偏愛し、朝から夜まで野山を駆け巡っていた。だから、帝国はすべて宰相の掌握するところとなり、この偉大な宰相のもとでセルジューク朝は最盛期を現出したのである。

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サマルカンドのウルグ=ベク=マドラサ

 11世紀の初め頃、イランのニシャプールに一つのマドラサがあった。まだセルジューク朝が建国される前のことである。この学院で仲のいい3人の少年がイスラーム諸学の修得に励んでいた。名前をハサン、ハサン=サッバーフ、ウマル=ハイヤームといった。彼らはこの学院で誓いを結び、将来、幸運に恵まれた者が、他の二人の面倒をみることにしようと約束した。

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ウマル=ハイヤーム

 3人のうち、もっとも早く出世したのは政治に身を投じたハサン、すなわち宰相ニザーム=アルムルクであった。彼は宰相に就任すると、昔の約束を思い出し、ウマル=ハイヤームにはニシャプールとその近郊の管理を任せようと提案した。しかし、生来おとなしい性格で、哲学の思索にふけり、数学や天文学の研究を好むウマルには、政治がからむ地方統治に手をそめる気持ちはなかった。彼は土地のかわりに年金だけの受け取りをニザーム=アルムルクに求めた。

 ただし、これはラシード=ウッディーンの『集史』に記された伝説であり、現実のウマルはマリク=シャーの宮廷に登用される。彼はメルヴの天文台で暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。ジャラリー暦は33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった。

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『ルバイヤート』

 また、ウマル=ハイヤームは人生のはかなさを歌い、イスラームの道徳に挑戦したイラン文学の傑作『ルバイヤート』(四行詩集)を残し、83歳で亡くなっている。

 一方、野心家のハサン=サッバーフはセルジューク朝の宮廷に仕えることを希望したので、ニザーム=アルムルクはこの望みをすぐにかなえてやった。しかし宮廷での旧友の権勢をねたんだハサン=サッバーフは、スルタンに財政調査の必要を説き、自らこの役を買ってでた。しかし密かに手をまわしたニザーム=アルムルクは、このもくろみを失敗に終わらせ、ハサンを宮廷から追放した。

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アラムートの山城

 イランを後にしたハサン=サッバーフは、1078年、イスマーイール派の宣教員としてファーティマ朝治下のカイロへ赴いた。エジプトから帰国すると、イラン北部の険しい山岳地帯にあるアラムート(「鷹の巣」の意味)の山城によって勢力を拡大し、各地に暗殺者を送りこんでスンナ派の要人を暗殺した。

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ニザーム=アルムルクの暗殺

 その最初の犠牲者がニザーム=アルムルクであった。ニザーム=アルムルクはスルタンの後継問題から、マリクの妃テルケン=ハトゥンの遣わした刺客により、1092年10月14日に暗殺された。

 マリク=シャーはその死を知って悲しんだが、同年に無理を押して出陣を強行し、陣中で病に倒れてニザームの後を追うように37歳で急死した。ニザーム=アルムルク殺害からわずか1カ月、11月19日のことであった。マリク=シャーの死後、セルジューク朝の衰退が始まる。

 十字軍の騎士たちもこの一派の行動に恐れをいだき、「山の長老」ハサンは若者たちに大麻(ハシーシュ)を吸わせた上で、彼らを刺客として送り出すという伝説をヨーロッパに広めた。英語の「アサッシン」(暗殺者)は、「大麻を吸う者たち」を意味するアラビア語「ハシーシーユーン」に由来している。

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【 2019/10/06 05:39 】

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世界史のミラクルワールドーシーア派の成立

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 632年のムハンマドの突然の死により、イスラーム教団は分裂の危機に瀕したが、その友人であり義父にもあたるアブー=バクルが「神の使徒の後継者」として初代カリフに選出されたことにより、教団の分裂は辛うじて回避された。634年には、やはりムハンマドの義父であるウマルが第2代カリフに選出された。ウマルはジハード(聖戦)を展開し勢力を拡大、シリア・エジプト・イランを征服する。

 644年、第3代カリフとなったウスマーンはムハンマドの教えとして伝えられたことがらを整理、統一する必要を感じ、『コーラン』としてまとめる編纂事業を開始した。現在見るコーランはこのとき原型が作られた。征服活動が一段落したこの時代は、前代のウマルの時に戦利品の分配方式から俸給(アター)に切り換えられたことや、ウスマーンがウマイヤ家の出身者を優遇したことなどから、イスラーム国家の最前線であるイラクのクーファやバスラ、エジプトのフスタートに駐屯する戦士は不満をつのらせていた。

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伝『血染めのコーラン』

 656年、不満の限界に達した戦士たちはメディナのカリフ邸に押しかけ、コーランを読誦中のウスマーンを襲撃し殺害してしまった。ウスマーンが暗殺されたとき読誦していた『コーラン』は、現在もイスタンブルのトプカプ宮殿に『血染めのコーラン』として陳列されているという。

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アリーの就任

 第4代カリフには混乱の中でハーシム家出身のアリーが選出されたが、もともとムハンマドには敵対していたメッカの大商人ウマイヤ家の出身であったウスマーンの暗殺は、アリーが黒幕ではないかとの疑いがかけられた。ウスマーンを支持した人々はムハンマドの未亡人であり、アブー=バクルの娘でもあるアーイシャを担ぎ出し、同年12月、両勢力はバスラ郊外で衝突し、第1次内乱が始まった。

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ラクダの戦い

 アーイシャは、「きっとウスマーンの血の復讐をとげてみせよう」と決意を表明し、自らラクダに乗って出陣した。そこからこの戦闘は「ラクダの戦い」と呼ばれている。結局敗れたアーイシャは丁重にメディナに護送され、それ以後は「信者の母」としてムハンマドの言行を語り伝えながら、静かに余生を送ったという。

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 ウマイヤ家のウスマーンが殺害された後、その家長の地位を継承したのはシリア総督のムアーウィヤであった。シリアのアラブ戦士はムアーウィヤへの忠誠を固く守り、ウスマーン殺害後の復讐を誓いあっていた。アリーはムアーウィヤに書簡を送り、カリフへの忠誠の誓いを求めたが、ムアーウィヤはこれをにべもなくはねつけた。これに激怒したアリーはシリアへと軍を進め、657年7月、双方の軍はユーフラテス川上流のスィッフィーンで衝突した。

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スィッフィーンの戦い

 戦いははじめアリーの軍に有利に展開したが、ここでムアーウィヤ軍の一武将が奇策を思いついた。彼は槍先に『コーラン』を掲げ、アリー軍に武力による決着を中止するよう提案した。「錦の御旗」の効果は絶大であり、アリーは軍を引いた上で、話し合いに応ずることを決定した。

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アリーの殉教

 この『コーラン』による裁定に不満な戦士の一部は、「裁定は神にのみあり」として話し合いによる決着を否定してアリーの陣営を離脱した。これをハワーリジュ派(離脱者たち、の意味)と呼ばれ、妥協の産物のカリフ・アリーを激しく非難した。アリーはハワーリジュ派の殲滅を試みたが、逆に661年1月、クーファのモスク近くでハワーリジュ派の刺客の手にかかり暗殺された。これによって第1次内乱は終結したが、同時に正統カリフ時代も終わった。

 アリーが暗殺されたことによってただ一人カリフとして残ったダマスクスのムアーウィヤがイスラーム世界の統治者となった。その地位はウマイヤ家に世襲されることとなり、ウマイヤ朝が開始されるが、それを認めずに、「アリーが友とする者を自らの友とする」ことを誓い、あくまでも預言者ムハンマドの従弟アリーへの忠誠を守りぬいた人々があった。彼らを「アリーの党派」(シーア・アリー)といい、のちに一般化する「シーア派」はこの「アリー」を省略した呼称である。

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シーア派指導者ホメイニ(1902~1989年)

 アリーの子孫のみをイスラームの指導者(イマーム)であるとするシーア派と、ウマイヤ家のカリフを認めるスンナ派が対立するようになり、イスラーム世界は二分されることとなる。

 アリーにはファーティマとの間に生まれたハサンとフサインの二人の息子があった。アリーがハワーリジュ派の凶刃に斃れると、シーア派の人々はその長子ハサンに望みを托した。しかし、ハサンには、彼らの要求に応え、ムアーウィアから政権を奪い返そうという野心はまったくなかった。ハサンはカリフ位を放棄するするかわりに、ムアーウィアから巨額の報酬と年金を受け取る道を選び、メディナに隠棲して気ままな一生を送った。その享楽的生活は、45歳で没するまでに100回以上の結婚と離婚を繰り返し、「離婚の達人」(ミトラーク)と渾名されたことによく示されている。

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カルバラーのモスク

 一方、弟のフアインもムアーウィアの治世中は、兄と同じくメディナでひっそりと暮らしていた。しかし、680年にムアーウィアが没し、息子のヤズィードがカリフ位を継承すると、フサインはこれを拒否する態度を公し、この機会にメディナからメッカへと居を移した。同年9月、フサインは武装した約70名の一族郎党と女・子供を率いて密かにメッカを抜け出した。しかし、メッカを出て幾日もしないうちに、偵察のために送り込んだムスリム殺害の報がもたらされた。さらにクーファからやってきた詩人のファラズダクは、フサインに向かって「イラクの人々の心はあなたと共にあるが、しかし彼らの剣はウマイヤ家と共にある」という不吉な言葉を残して立ち去った。しかし、ヤズィードのカリフ位を否定し、すでにメッカを脱出したフサインには、クーファの人々を信じて先に進むより他に道はなかった。

 これより先、クーファの不穏な動きを事前に察知したヤズィードは、ウバイド=アッラーフをクーファ総督に任じて、シーア派ムスリムの運動弾圧に乗り出した。クーファの民は新総督に動きを封じられ、再三にわたって勧誘しておきながら、結局、フサインに呼応して決起することができなかった。ウバイド=アッラーフは、4000の兵力を動員し、ユーフラテス川の西岸、クーファ西北部のカルバラーに布陣してフサインの到着を待ちかまえていた。

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カルバラーの悲劇

 両者の戦いは、ヒジュラ暦61年ムハッラム月10日(西暦680年10月10日)に行われた。70余名のフサイン軍と4000のウマイヤ朝軍では、勝負の結果ははじめから明らかであった。しかもユーフラテス川への道を断たれたフサイン軍はひどい渇きに苦しんでいた。朝からはじまった戦いは昼過ぎには終わり、女・子供を残して、フサインとその従者は全員が殺された。

 フサインの首級はダマスクスへ送られ、首実検がすんでから40日後にカルバラーへ戻された。その遺体はフサインの血を吸った戦場に葬られ、やがてそこにはモスクが建ち、シーア派の人々がお参りする聖なる墓所として現在に伝えられている。 

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アーシューラーの哀悼祭

 預言者の血をひくフサインの悲壮な殉教は、多くのシーア派ムスリムにある種の原罪感を植えつけるのに十分な事件であった。自ら誘っておきながら、どうして決起することができなかったのか。彼らにとっては、どんなに悔やんでも悔やみきれない背信行為として心の底に刻みこまれた。いっぽう、スンナ派カリフに対する復讐の念は、やがて王朝末期の反ウマイヤ家運動として実を結ぶことになる。

 フサインの殉教を悔やむ人々は、やがてその殉教の日(ヒジュラ暦のムハッラム月10日)、つまりアーシューラーの日が来ると、その死を悼んで哀悼祭を催すようになった。

アーシュラー 

 現地のカルバラーやシーア派の国イランでは、鎖で背中を打ち、ナイフで額を割る荒行も行われる。また、渇きに苦しみながら、ウマイヤ朝騎士の刃に斃れるフサインの殉教を再現する演劇も各地で催されてきた。少数派のシーア派ムスリムにとっては、歴史をこえてフサインの無念を思いおこし、同胞意識をさらに高める年中行事となっているのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/10/02 05:23 】

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