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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーアフリカ南端発見・バルトロメウ=ディアス

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ジョアン2世

 アフリカ西岸の探検を続けてきたエンリケ航海王子は1460年に病没する。時の国王アフォンソ5世はあまり航海に熱意を示さなかったが、1481年、ジョアン2世の即位とともに、ポルトガルは再び活発なアフリカ探検を始める。ジョアンはエンリケの熱意を受け継ぎ、インド航路の発見に全力を尽くした。

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サン=ジョルジュ=ダ=ミーナ要塞

 ジョアン2世は1482年に黄金海岸(現在のガーナ)のエルミナに要塞を築いた。エル=ミナは「金鉱」のことで、エンリケが派遣した船乗りたちが、この地方で大量の金を手に入れたことから名づけられた。ジョアン2世はこの地にサン=ジョルジュ=ダ=ミーナ要塞を築き、金を渇望していたポルトガルの、西アフリカからの金積出しの重要拠点となり、17世紀には大西洋奴隷貿易の拠点となった。

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プレスター=ジョン

 ジョアン2世はさらにアフリカ西岸への艦隊の派遣を続けた。1485年にはコンゴ、86年にはベニンに到達した航海者から、アフリカ奥地のキリスト教徒の存在(おそらくはアビシニア、つまりエチオピアのキリスト教徒のことであろう)が報告され、プレスター=ジョンを求めるジョアン2世は2つのルートで探検隊を派遣することとした。

 ルートの一つ、地中海を横断して陸路をとってインドを目指したのがコヴィリャンであり、大西洋を南下してアフリカ南端を廻ってインド抜けるコースの探検に派遣されたのがバルトロメウ=ディアスであった。

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バルトロメウ=ディアス

 ディアスの一家は代々リスボンに住む航海者で、バルトロメウの祖父ジョアン=ディアスはボハドール岬を、父ディニシュ=ディアスはヴェルデ岬を発見している。

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 1487年8月、バルトロメウ=ディアスは50トン級の小型船3隻でリスボンを出航した。50トンと言えば、今日では内海航路にも使わぬような小舟である。2隻はカラベル船だったが、もう1隻はスピードの遅い食料補給船だった。ディアスはおそらくパルマ岬からコンゴ河口へ直行し、そこから海岸線に密着しながら南に向かった。当時の習慣で海岸の地形にその発見日にちなむキリスト教の聖人の名を付け、連れてきた黒人を上陸させてポルトガル人の来着を知らせ、あわよくば内陸にいると思われるプレスター=ジョンの耳にもとどけようとした。

 ディアスは現在のナミビアにあるクロス岬に達すると、注意深く今後の計画を立てた。彼はその南方のワルビス湾に船足の遅い補給船を留め、さらに650キロほど南下して、オレンジ川河口に最初の石柱を立てた。そこからさらに南進したが、2,3日後に烈しい嵐に遭い、13日間も南方に押し流された。嵐が静まると、ディアスは進路を東に向けた。ところがどんなに東に進んでもアフリカは見えず、水夫たちは不安になって騒ぎ出した。そこで船を北方に向けると、やがて陸地が見え、今のモッセル湾に着いた。ディアスはこの時、船は陸地の東側に回っていることに気がついた。喜んだディアスは上陸して石柱を建て(パドローネ岬)、さらにインドを目指そうとした。

 しかし乗組員は嵐の中の航海に疲れ果て、補給船にもはぐれてしまい、ほとんど反乱寸前の状態になり、ディアスに帰国を迫った。ディアスは譲歩を余儀なくされ、パドローネ岬約50マイルの地点で反転した。岬に建てた石柱を眺めたディアスは「その石柱が恰も永の遠島に処せられた息子ででもあるかの如く、声を放って慟哭した」という記録が残っている。

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現在の喜望峰

 帰国の途中、この小艦隊は、彼らが捜し索めていた偉大な岬を発見した。彼が遭遇した荒天にちなんでディアスはこれをカボ=トルメントソ(嵐の岬)と命名し、聖フィリップに捧げる石柱を立てるのに上陸した。

 12月、テージョ川に帰り着き、16ヶ月に及ぶ航海を終えた。ポルトガル宮廷におけるディアス歓迎や恩賞についての記録は何もない(ポルトガルの秘密主義)のは当然ながら、彼の航海こそ実にインドへの路を遂に現実のものに変えたのであり、国王ジョアン2世は自ら長年追求して来た願望の成就を見越して「嵐の岬」を「喜望峰(カボ=ダ=ボア=エスペランサ)」という人を鼓舞する、そして永続性のある名に改めたのである。

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 ちなみに、喜望峰がアフリカ大陸最南端だと思っている人がいるが、 アフリカ大陸の最南端、すなわち大西洋とインド洋の境目にあたるのは、喜望の岬より東南に位置するアグラス岬である。

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【 2019/11/27 05:39 】

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世界史のミラクルワールドー航海しない航海王子・エンリケ

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エンリケ航海王子

 エンリケはポルトガルの国王ジョアン1世の第3子であったが、兄・甥が王位を継いだので生涯王位にはつかなかった。

 1415年にエンリケは兄ドゥアルテ、弟ペドロと共に父ジョアン1世に従い、モロッコのセウタを征服した。この時にエンリケは非道い船酔いに苦しめられた。航海したことを後悔したエンリケは、その後二度と航海には出ることはなかった。

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 セウタはアフリカ北岸、ジブラルタル海峡に面し、サハラ南部からの金などが集積される商業都市の一つ。モロッコはすでにサトウキビの豊かな産地であった。この征服は、レコンキスタの延長であるとともに、封建領主層の領地獲得要求、ポルトガルのリスボンなどの商人の市場拡大要求などが背景にあり、また直接的には金の獲得が期待された。しかし、ポルトガルのモロッコ征服はイスラーム教徒の抵抗を受け、全土に及ばなかった。

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エンリケ航海王子とサグレス「航海学校」

 王子エンリケの知謀は閃いた。航海への突進である。エンリケは地方総監としてポルトガル最南部のサグレスにあったが、そこに1415年、大航海センターを設立する。サグレスはイベリア半島の西南の突出部、つまり大西洋へのとば口にある。航海はまだ「学」というには未整備だったが、練達の船乗りたちはすでに十分の知識と情報を持っている。

 エンリケの目的は、これを集大成し、さらに腕利きの航海者を養成することだ。造船術、海図制作術、それぞれの専門家が招きよせられた。サグレスはヨーロッパ最初の航学校の地となった。ポルトガル人だけではない。スペイン、イタリア、フランス、イングランド、それに北海、バルト海からも、教師と学生がやってくる。

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リスボンの「発見のモニュメント」

 「エンリケ航海王子」の名が、後にたてまつられる。サグレスからは、大西洋から世界の海に雄飛する船乗りたちが、あいついで輩出された。今なお、サグレスには、エンリケとポルトガル人の航海を記念する像がたち、沖を通過するポルトガル海軍の艦船では、水兵たちが舷【ふなべり】に整列し敬礼して、恩人に感謝をささげるのを常とする。

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海軍練習用帆船サグレス号

 巨大な海軍練習用帆船サグレス号は、現代ポルトガルの少年にとって、つきせぬ憧れの的である。

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 エンリケが派遣した探検隊は、まず1419年にマディラ島、1427年にアゾレス諸島に到達した。大きな転換点となったのは、1434年にエンリケが派遣した船隊がボジャドール岬を越えたことであった。さらにエンリケの派遣した船団は1441年にリオ=デ=オロに達し、その地で初めてアフリカの黒人を黒人奴隷として捕らえ、本国に連れ帰った。1445年にアフリカ最西端のヴェルデ岬を廻り、現在のギニア地方に至たり、47年にはサハラ南部の現在のシエラレオネに達した。またエンリケの派遣した船隊はアフリカ西岸に関する様々な情報をもたらし、大陸の南端を回ってインドに行くことができるかも知れないという可能性を明らかにした。


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プレスター=ジョン

 エンリケが船隊をアフリカ西岸に派遣の目的はインドへの新航路開発や香料貿易にあったのではなく、当初はアフリカの黄金の獲得、アフリカ西岸に存在すると信じられていたキリスト教君主のプレスター=ジョンを探すことにあった。

 プレスター=ジョンを捜し出すことは出来なかったが、シエラレオネまで到達し、イスラーム教徒を介さずに黒人社会に接触し、内陸の金・奴隷を獲得する契機となった。特に奴隷の獲得は早くもエンリケの時代からポルトガルのアフリカ進出の主要な目的となり、黒人奴隷貿易が開始された。さらにエンリケの死後、アジアとの香辛料貿易の可能性を探るべく、インド航路の開拓に主眼が移ることとなる。

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【 2019/11/24 05:38 】

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世界史のミラクルワールドー誇り高きターバン集団・シク教

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『KESARI/ケサリ 21人の勇者たち』より
 
 シク教はインドでヒンドゥー教を改革したナーナクがはじめた宗教。ナーナクはイスラーム教の影響を受けてヒンドゥー教の改革を掲げ、一神教信仰、偶像崇拝の否定、カーストの否認などを説いた。

 シク教はパンジャーブ地方では大きな政治勢力となり、ムガル帝国に抵抗し、さらにイギリスの侵略ともシク戦争を戦った。2019年公開のインド映画『KESARI/ケサリ 21人の勇者たち』は、イギリス統治下にアフガニスタンから攻めてきた1万人にのぼる軍と戦い、サラガリ砦で殉職した21人のシク教徒兵士を主人公とする物語だ。

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ナーナク

 ナーナクは1469年4月15日に現在のパキスタンのタルワンディーという小さな農村のヒンドゥー教徒の家庭に生まれた。家は上位カーストに属し、父はイスラーム教徒の地主の会計官を務めていた。ナーナクは8歳で村の学校に入れられたが、わずか10歳で形式的な教育に興味を失って学校を捨て「聖なるもの」を瞑想することに集中した。

 そのようなナーナクには奇跡を起こしたという伝承が数多く残されている。たとえば、ある日牛に牧草を食べさせながら瞑想にふけるうちに、牛が隣人の麦畑に入り、麦を食べてしまった。怒った隣人が村長に訴えたので皆で見に行ったところ、麦はすべて元通りになっていた。人々は驚き、神の奇跡だと認めた。

 またある夏の日、ナーナクは木の下で寝込んでしまい、太陽が真上で照らすまでになった。ナーナクがそれでも眠っていると、インドでもっとも恐ろしい毒蛇であるコブラが穴からはい出してきて鎌首をいっぱいにひろげ、ナーナクの顔を太陽の光から守ったのである。これを見た人が村の人たちに伝え、ナーナクは聖者と見られるようになった。

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  ナーナク自身はあるとき川に沐浴にゆき、形態がなく一切の事物を超越した「絶対真理」を体得し、その真理を人々に伝えることを天職とせよ、という声を聞く。かれは「ヒンドゥー教徒もイスラーム教徒もいない」人類すべてが分かち合える「唯一なる真理」のメッセージを人々に送るため、妻と2人の子をおいて旅に出て、それ以後25年間、インド中だけでなく、イラクからサウジアラビアまでを経巡り、イスラーム教の聖地メッカも訪れた。彼は他の宗教を否定するのではなくそれを超えた真理に従順になり、慈悲の心を持つことが大切であると説いた。彼の自由で、普遍的なメッセージに心酔した人々は、ナーナクをグル(師)とし、そのシーク(弟子)となったことから、シク教という宗教名が生まれた。

 ナーナクは晩年はパンジャーブに帰り、ラヴィ川の右岸で定住し、一つの村を起こして信者の共同体を作った。そこに集まった人々は誓願を立てたわけでもなく、僧や尼僧のような修行をしたわけでもなかった。シク教には僧院はなく、彼らの共同体は日常の職業に従事しながら互いに助け合う場所であった。その共同体生活のなかから、シク教では「平等・友愛・謙遜」という価値観が形成され、社会奉仕が重要な宗教的要素として発展していく。

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ハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)

 シク教の総本山はアムリットサールにあるハリマンディル・サーヒブで、日本では黄金寺院と呼んでいる。ここでは毎日10万食におよぶ食事が無料提供されている。この共同食道は「グルカ・ラングル」と呼ばれ、シク教の「カースト、肌の色、信条、年齢、性別、社会的地位に関係なく、すべての人は平等である」という教義を守るために500年間続けられている習わしだ。

 シク教は「人間が子宮の中にいるうちは、カーストなどありはしない」と教える。地位や性別、年齢に関係なく、ともに料理をし、同じ床に座って食べ、後片付けをする。誰もが公平に働き、おなかを満たし、幸せな気分になる。それ自体が「聖なること」なのだ。

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  シク教は既存教団や国家からは厳しい宗教的迫害を受けた。グルのなかには第5代のグル=アルジュンがムガル帝国のジャハンギール帝によって、第9代のテーグ=バハードゥルがアウラングゼーブ帝によってそれぞれ処刑された。特に17世紀にアウラングゼーブ帝のイスラーム教強制政策が始まると、シク教徒は自己防衛のために武装を開始した。1699年に第10代のグル=ゴービンド=シングは信者を一種の戦闘集団であるカールサー(清浄なる者たちの意味)を組織し、その構成員たちにシク教徒以外の者との違いを明確にするために5つのシンボルを与えた。

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 この5つのシンボルは頭文字がKで始まるので「5つのK」として知られ、現在でもシク教徒が守らなければならないこととされている。

 ①Kesh(ケーシュ):髪を切らず長く伸ばさなければならない。髪も髭も伸ばしたままにする。伸ばした髪は神が意図する姿の受容に対するシンボルである。

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 だから、髪の毛は写真のようにとんでもない長さになってしまうので、ターバンをしていないと纏まらないため、ターバンを着用するようになった。

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 ターバンは写真のように着用する。シク教徒の人口は2400万人で、インドの全人口の約2%しかいない少数派にも関わらず、日本ではインド人=ターバンというイメージが定着している。その理由は、シク教成立時から裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依者が多かったことから、世界的に活躍するシク教徒が多いため、職務等で海外に渡航したインド人にターバンを巻いたシク教徒を多く見かけたからだと言われている。

 ②Kangha(カンガー):身を整えるために木製の櫛を携行する。櫛は人々の身体と魂を清浄に保つシンボルである。

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 ③Kara(カラー):右腕に鋼鉄製の腕輪をつける。力強さと揺るぎない結束を象徴する。

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 ④Kachera(カッチャー):ゆったりした半ズボン状のズボン下を着用する。これは高潔な人生を歩み、レイプもしくはその他の性的搾取をやめることを人に思い出させる下着である。

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 ⑤kirpan(キルバーン):自分自身を防衛するとともに、宗教、人種、信条によらず他人を保護し、不正に対する闘争を象徴する剣を常に携行する。

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マンモハン=シン

 著名なシク教徒として、前インド首相のマンモハン=シン(任2004~14年)がいる。総選挙で勝利したインド国民会議総裁はソニア=ガンディーであったが、イタリア生まれであったことから首相就任を固辞したしたため、シンがインド独立以来初めてのヒンドゥー教徒以外の首相となった。

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タイガー=ジェット=シン

 もう一人、「狂える虎」と呼ばれた悪役プロレスラーのタイガー=ジェット=シンがいる。リング上でサーベルを振りかざす姿で一世を風靡した。

 二人とも「シン」という名前だが、実はシク教徒の男性はすべて「シン」(正しい発音はシング)という名字を持つ。「シン」は「獅子のような心を持った」という意味である。

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【 2019/11/20 05:38 】

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世界史のミラクルワールドー因果は巡る・ムガル帝国③

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ジャハンギール

 1605年に即位したジャハンギールであったが、1610年頃から病気の発作を起こすようになり、ムガル帝国の国政は宰相イティマード=ウッダウラや皇帝の妃ヌール=ジャハーン、その弟アーサフ=ハーンに握られていった。

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ヌール=ジャハーン

 1612年、宰相イティマード=ウッダウラが死ぬと、ヌール=ジャハーンが事実上の皇帝のように振舞うようになり、その専横が目立った。ジャハンギールは彼女を重用し、皇帝の勅令には彼女の名も記され、その名を刻んだ硬貨を鋳造させた。このように帝国の国政は乱れ、ジャハンギールの長男フスロー、次男のパルヴィーズ、3男のフッラム、4男のシャフリヤールの間で、帝位継承をめぐる争いが発生した。

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シャー=ジャハーン

 兄と弟を殺害し、熾烈な皇位継承争いを勝ち抜いたのが3男のフッラムで、1628年シャー=ジャハーンと名乗ってアグラで即位した。シャー=ジャハーンとは「世界の皇帝」の意味である。

 シャー=ジャハーンはイランのサファヴィー朝からカンダハルを一時奪回し、デカン高原にも版図を広げたが、これは一面で晩年の財政難を引き起こした。内政では灌漑事業を進め、官吏の綱紀を正し、財政を豊かにし、学者・文化人を保護して文化の発展に寄与するなど盛時を迎えたが、ヒンドゥー寺院を破壊し、イスラーム・ヒンドゥー両教徒相互の結婚を禁止するなど、イスラーム化を強行した。

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ムムターズ=マハル

 ムムターズ=マハルは宮廷の大富豪アーサフ=ハーンの娘で、本名はアルジュマンド=バーヌー=ベーグという。ムムターズ=マハルとはペルシア語で「愛でられし王宮の光彩」「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉であり、ジャハンギールから授けられた称号である。

 ムムターズ=マハルは17歳でシャー=ジャハーンに嫁いだ。夫に深く愛され、14人の子女をもうけ、1630年に第14子を生んだあと 産褥死してしまう。まだ36歳の若さであった。

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タージ=マハル

 シャー=ジャハーンはその死を大いに悲しみ、彼女の廟として建立したのがタージ=マハルである。 基壇の大きさは95m四方、本体は57m四方で、高さ67m、四隅のミナレットの高さは43m。それらすべての外壁が象嵌彫刻の施された白大理石で覆われている。1632年から22年の歳月をかけ、延べ2万人の職人によって造営されたと言われる。
 
晩年のシャージャハーン 
晩年のシャー=ジャハーン

 ムムターズ=マハルの死後、シャー=ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった。シャー=ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、1657年に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった。

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アウラングゼーブ

 シャー=ジャハーンは長男ダーラー=シコーを後継者としていたが、次男のベンガル太守シャー=シュジャー、3男のデカン太守アウラングゼーブ、4男のグジャラート太守ムラード=バフシュはこれを認めていなかった。

 1657年、父のシャー=ジャハーンが重病との報せが入ったとき、アウラングゼーブはデカン太守として都を離れていた。後継者争いは熾烈で、他の3人の兄弟の誰かがこのままでは皇帝になる。急遽都に戻ったアウラングゼーブは、ただちに父を監禁し、他の兄弟を殺して第6代の皇帝になった。父シャー=ジャハーンと同じ道を辿ったことになる。
 
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アグラ城から見たタージ=マハル

 廃帝シャー・ジャハーンは、1658年以降アグラ城のムサンマン=ブルジュ(囚われの塔)に幽閉され、亡き愛妃の眠るタージ=マハルを眺めながら、1666年に74歳で死去した。

 シャー=ジャハーンは自らの墓として「黒いタージ」を計画していた。鏡に映したかのように、ちょうどタージ=マハルのヤムナー河対岸に黒大理石で自らの廟墓を建て、その二つを大理石の橋でつなぐ予定であった。しかし、その夢は幻に終わってしまった。

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 シャー=ジャハーンの遺体は慣習に従い、王宮の壁が破られたのち、その破れ目から川の船に移された。そして、その遺体は川を渡って愛妃の眠るタージ=マハルに運ばれ、ムムターズ=マハルの遺体の横に安置された。(写真はレプリカ。本当の棺は地下に安置されている。)

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 アウラングゼーブは、熱心なスンナ派イスラーム信徒であったので、ムガル帝国のアクバル以来の方針を転換し、ヒンドゥー教徒との融和策を放棄、ジズヤの復活、ヒンドゥー寺院のモスクへの建て替えなどを強行した。(ヒンドゥー教だけではなく、イスラーム教以外の宗教、仏教やジャイナ教も否定され、寺院が破壊されたり仏像が壊されたりした。)その強硬姿勢は非ムスリムの激しい反発を買い、デカンのマラーター王国、パンジャーブのシク教などの勢力が一斉に反旗を翻した。

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シヴァージー

 マラーターの英雄といわれたのが、シヴァージーで、ゲリラ戦法によってムガル帝国に抵抗した。アウラングゼーブはマラーター王国討伐に全力を挙げ、自らもデカンに出兵した。シヴァージーは一旦捕らえられたが脱出し、マラーター勢力を結集してムガル帝国にあたるためヒンドゥー帝国の建設をめざし、1674年にマラーター王国をデカン高原西部に建国した。シヴァージーはムガル帝国との間で果敢な戦いを展開したが、1680年に赤痢が原因で死亡し、以後マラーター王国は急速に力を失っていった。

 1707年、デカン遠征の途中、アウラングゼーブは89歳で没した。その死後は、ムガル帝国の求心力は急速に失われ、イギリス・フランスの植民地侵略が始まる。


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【 2019/11/17 05:48 】

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世界史のミラクルワールドー偉大なる皇帝アクバル・ムガル帝国②

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アクバル

 ムガル帝国第3代皇帝アクバルは初代皇帝バーブルの孫にあたるが、父フマユーンが一時帝位を追われて亡命中に生まれた。1556年、父フマーユーンの急死を受けて即位した時は、まだ14歳たらずだった。その頃、その支配領域はパンジャーブの一部に限られ、カーブルやデリー、アグラには独立した勢力が存在していた。

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殺害されるバイラム=ハーン

 アクバルを助けたのがバーブル以来の家臣バイラム=ハーンであり、その計略によってデリーとアグラが奪回できた。その結果バイラム=ハーンの専横が目立つようになり、1560年後宮勢力に後押しされたアクバルの宮廷革命が成功し、バイラム=ハーンは追放された。バイラム=ハーンはメッカ巡礼のためアラビア半島をめざすが、彼に個人的な恨みを持つアフガン人によって殺害された。

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処刑されるアドハム=ハーン

 その後も乳母の一族アドハム=ハーンがアクバルの宮廷で宰相を殺害する事件が起きたが、アクバルは激怒してアドハム=ハーンをヴェランダから突き落とす刑に処した。こうして権臣や後宮の勢力を徐々に抑えたアクバルは次第に権力を掌中に収めた。

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ビハーリー=マルと面会するアクバル

 1562年1月、19歳のアクバルはラージャスタンのアジメールにある聖廟に参拝途上で、帝を待ちかまえていたアンベールの王ビハーリー=マルから臣従の誓いを受け、長女ハルカー=バーイーを嫁がせる申し出を受けた。アクバルはこれを受け容れ、参拝の帰途2月始めに結婚式が行われた。アンベールの王はラージャスタンのラージプートでムガル皇帝に臣従した最初の王となった。

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マリヤム・ウッザマーニー

 王女ハルカー=バーイーはイスラーム教のムガル帝国に嫁いだが、ヒンドゥー教から改宗することはなかった。とはいえ、彼女はムスリム風の「マリヤム=ウッザマーニー」(時代のマリヤ)の称号を名乗り、次の皇帝ジャハーンギールの母となった。また、その兄マーン=スィングはアクバルに仕え、他のラージプート諸侯征服戦の先頭に立って活躍し、アクバル帝の宮廷の「九つの宝石」の一つと言われた。

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アグラ城

 1565年、アクバルはアグラに遷都し、アグラ城を築いた。アグラ城は赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール=キラー)の名でも呼ばれている。イスラーム教とヒンドゥー教との融和を図ったアクバルらしく、アグラ城はイスラーム様式とヒンドゥー様式が融合した建築となっている。

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 1564年アクバルは人頭税(ジズヤ)を廃止するなど、ヒンドゥー教徒との融和を図る一方、1576年までにはベンガル王国を征服して北インドをほぼ平定した。1580年には中央アジア系の貴族の反乱を、ムスリムとラージプート豪族層を結集して平定し、強大な国家を築き上げ、さらに晩年には北部デカンも支配下においた。

 さらに1582年にはイスラーム教にキリスト教・ゾロアスター教などを取り入れた新宗教ディーネ=イラーヒー(神聖宗教)を宣言し、インドの統一的統治権を実現しようとした。文化にも深い理解を持ち、帝国に繁栄をもたらした英明な君主として、マウリヤ朝のアショーカ王と並び称される。まさにアラビア語で「偉大」を意味するアクバルの名にふさわしい、偉大なる帝王であった。


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ジャハンギール

 しかし、3人の男子のうち2人に先立たれ、長男サリームとは敵対するなど、家庭的には恵まれなかった。臨終に際してようやくサリームと和解、1605年10月27日に帝位を譲った。サリームは第5代皇帝ジャハンギールとして即位するが、「ジャハーンギール」は、ペルシャ語で「世界を征服する者」を意味する。

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アクバル廟

 アクバルの遺骸はアグラ近郊のシカンドラーに運ばれて葬られ、その地にアクバル廟が建設された。しかし写真で見ると、フマーユーン廟やタージ=マハルのような壮大なものではない。

 1687年、第6代皇帝アウラングゼーブのヒンドゥー抑圧政策とムガル帝国の地方官の収奪に抗して立ち上がったラージャルームの率いるジャート農民によって略奪され、アクバル帝の遺骨は焼き捨てられたのだという。ヒンドゥー教徒との融和をはかったアクバル帝にとってはひ孫のやったことでとんだとばっちりをうけたことになる。

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【 2019/11/13 05:38 】

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世界史のミラクルワールドーモンゴルの虎バーブル・ムガル帝国①

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バーブル

 バーブルはティムールの5代の孫であり、中央アジアのフェルガナの君主の子として生まれた。母親はモンゴル帝国のチンギス=ハーンの次男チャガタイ=ハーンの子孫であった。つまり、バーブルは「内陸アジアが産んだ2人の世界征服者、ティムールとチンギス=ハーン両者の血を引く、誇り高き王子であった」ことになる。

 民族としてはモンゴルの血筋を引くトルコ系民族であり、トルコ語を話し、ペルシア語・アラビア語にも通じていた。彼が創始した国家も、ティムール帝国の後継国家であると同時に、インドでは「モンゴル人の国」の意味で「ムガル帝国」と言われた。ちなみに、バーブルとは「虎」のことである。

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 バーブルは11歳の時、父が事故死したためフェルガナの君主となり、一族間の争いの中で生き残って、ウズベク人のシャイバニによってティムール帝国が滅亡すると、その再興をめざしてサマルカンドを2度にわたって奪還した。しかし、シャイバニ朝と抗争は激しく、1504年、21歳の時にサマルカンドを追われて南のアフガニスタンのカーブルに移り、そこに小王国を築いた。その後、カーブルを拠点にしばしば肥沃な地をねらって北インドに侵入し、勢力を扶植した。

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パーニーパットの戦い

 1526年、43歳になっていたバーブルは、パーニーパットの戦いでデリー=スルタン朝の最後の王朝ロディー朝の王イブラーヒームの軍を破り、デリーに入城しムガル帝国を建国し、初代統治者となった。パーニーパットの戦いでは騎兵に加えて鉄砲隊を編成して、勝利を得た。さらに1527年、ヒンドゥー教徒のラージプート連合軍をハーワヌの戦いで破り、支配権を広げた。

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カーブルの霊廟

  バーブルは1530年、47歳の時アグラで死去した。その遺体はデリーやアグラではなく、かつての根拠地カーブルに埋葬された。バーブルによって創始された段階のムガル帝国の支配領域は現在のアフガニスタンの東部カーブルと、北インドのデリー、アグラ周辺に限られ、またその統治も5年という短期で終わった。

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アクバルとフマユーン

 1530年、バーブルの跡を継いでフマユーンがデリーで即位した。ムガル帝国の支配力はまだ弱く、特にベンガル・ビハール地方のアフガン勢力が強大な敵対勢力であった。1539年と40年の戦いでフマーユーンは敗れ、デリーを放棄してシンド地方に逃れた。デリーにはアフガン系のスール朝が成立し、シェール=シャーがスルタンを称した。

 フマーユーンはシンドからイランに逃れ、サファヴィー朝のスルタンからシーア派の教義を受け入れることを条件に亡命を許された。1545年にシェール=シャーが暴発事故で急死し、スール朝が混乱した隙に、サファヴィー朝の軍事的支援を受けたフマーユーンはインド奪回に向かい、1555年にデリーを奪還した。こうしてインドでスール朝は滅び、ムガル朝が復活した。

 しかしその翌年、フマーユーンは礼拝の時を知らせるアザーンの声を聞いて、急いでモスクに向かおうとして、階段を踏み外して落ち、あっけなく死去してしまった。息子のアクバルが即位したが、まだ14歳の若さであり、ムガル帝国は滅亡の危機を迎えることとなった。

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サイ狩りの様子(『バーブル=ナーマ』の挿絵)

 バーブルは優れた軍事指導者であったが、母語であるチャガタイ=トルコ語の他に、ペルシア語・アラビア語に深い教養を持っていた。彼がチャガタイ=トルコ語で書いた日記風の回想録『バーブル=ナーマ』は、重要な資料であるとともに、トルコ語文学の傑作ともされている。『バーブル=ナーマ』とは「バーブルの書」の意味。

『バーブル=ナーマ』は日録風の自叙伝であるが、人間バーブルの日常生活や感情、その時々の心情が吐露されており、文学書としても優れている。また戦いでの敵の捕虜に対する残虐な仕打ちなど、時代の制約を受けた権力者の生々しい行為が淡々と記されており、興味深い。

 飲酒について次のような記述がある。

 少年時代には飲みたいとは思わなかった。酒の陶酔境をなお知らず、私の父がときどき私に酒を勧めたときにも、なんやかやといい訳をいって飲酒の禁を犯さなかった。……のちに、青年のいっぱん的にもつ強い欲望と、私の個人的にもつ欲求から酒を飲みたいという気持ちが強くなったときも、私にはだれ一人として酒を勧めてくれる者がいなかった。というより、私の心のなかにある酒に対する欲望を知っている者は一人もいなかった。私の心は酒を求めていたが、このような、従来してこなかったことを自分自身で始めることは難しかった。

 このようなモヤモヤした飲酒の欲望は、やがてサマルカンドに続いてヘラートを占領したときに、バーブルに「飲酒の決意」をさせることになる。

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【 2019/11/10 05:35 】

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世界史のミラクルワールドー壮麗王スレイマン・オスマン帝国③

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セリム1世

 オスマン帝国第9代スルタンのセリム1世は、首都のイェニチェリの支持を受けて父のバヤジット2世を廃位し、さらに父や一族近親を殺したので「冷酷者」と呼ばれる。

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チャルディラーンの戦い

 イランを統一したシーア派のサファヴィー朝の勢力がアナトリアに及んできて脅威となると、領内のシーア派に対する大弾圧を行い、さらに自ら大軍を率いて東征し、1514年タブリーズ西北のチャルディラーンの戦いでサファヴィー朝のイスマーイール1世を破り、その勢力をイラン高原に押し戻した。 

 さらに、1517年にエジプトのマムルーク朝を滅ぼした。この時、カイロに滞在したセリム1世のもとに、ヒジャーズの実力者でムハンマドの直系子孫とされていたシャリーフから聖地メッカとメディナの町の鍵が届けられ、セリム1世はこの二聖都の保護者となった。

 また、マムルーク朝に亡命していたアッバース朝のカリフからその地位を奪い、オスマン帝国のスルタンがカリフの地位を兼ねるスルタン=カリフ制が始まったとされるが、これは18世紀になってからスルタンの権威を強化するためにつくられた虚構である。

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スレイマン1世

 スレイマン1世はセリム1世の唯一の男児として生まれ、1520年に父の後を継いで第10代スルタンとなった。スレイマンはヘブライの王ソロモンのアラビア語形である「スライマーン」のトルコ語発音。 彼は46年の長期にわたる在位の中で13回もの親征を行い、帝国の最大領域を実現した。トルコ人は彼を「立法者」(カーヌーニー)と呼び、ヨーロッパ人は「壮麗者」と呼ぶ。

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ヒュッレム=ハセキ=スルタン

 スレイマン1世の皇后がヒュッレム=ハセキ=スルタン、本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ。本名でわかる通りスラヴ系であったので、ヨーロッパでは「ロシアの女」という意味のロクセラーナという通称でも呼ばれた。

 彼女はロシア南部のウクライナ・ルテニア地方ロハティンで生まれ、父親はギリシア正教会の司教をしていた。クリミア=タタール人に捕えられて奴隷としてイスタンブルへ売られ、スレイマン1世の大宰相パルガル=イブラヒム=パシャに買われた後、スレイマン1世に献上されたといわれる。当時まだ15歳に満たぬ少女であったとされるが、彼女の美声と機知に富む会話は周囲の者を明るくさせる不思議な魅力を備えており、「陽気」を意味するヒュッレムと名づけられた。

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ヒュッレム=ハセキ=スルタンの霊廟

  彼女はその美貌を武器にハレムでのし上がっていく。スレイマン1世との間に5人の皇子と1人の皇女をもうけ、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一妻の関係を築いた。スレイマン1世の後継争いに策動し、ハレムの住人が権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配する先駆けとなった。波乱の生涯を送った彼女の遺体はスレイマン=モスクの境内の霊廟に葬られている。

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 スレイマン1世は即位した翌1521年、ベオグラード(現在のセルビアの首都)を攻略しハンガリー進出の足場を築いた。ついで、東地中海で海賊活動を行い、地中海のムスリム商人の活動の障害となっていた聖ヨハネ騎士団の根拠地ロードス島を攻撃、1523年に制圧した。聖ヨハネ騎士団は島を立ち去り新たにマルタ島を基地としてオスマン帝国に抵抗を続ける。またエジプトの反乱にも手を焼いたが、それを鎮圧、オスマン帝国の重要な穀倉として支配した。

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モハーチの戦い

 1526年4月、スレイマン1世は6万以上の兵力と300門の大砲からなる大軍を率い、ハンガリーに進軍した。迎え撃つハンガリー軍は20歳の国王ラヨシュ2世率いる3万の軍勢とトランシルヴァニア侯サポヤイ=ヤーノシュの援軍3万、姻戚のハプスブルク家やボヘミアからの加勢からなっていた。

 ところが、オスマン帝国軍がドナウ川のほとりモハーチに姿を現すと、ハンガリー軍は援軍を待たずに戦いを挑んでしまう。オスマン帝国軍は組織的な戦術を展開し、騎士からなるハンガリー軍を誘導し一網打尽にした。ハンガリー軍は国王ラヨシュ2世が戦死したのをはじめ、壊滅的敗北を喫する。

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カール5世

 スレイマン1世がハンガリーを攻撃した理由の一つは、フランスのフランソワ1世からの救援を求める手紙であった。1521年、神聖ローマ皇帝カール5世に対抗してイタリアに出兵したものの失敗したフランソワ1世は、「異教徒と手を結んだ」との批判を覚悟でスレイマンに支援を求めた。スレイマンにすれば、「敵(ドイツとスペイン)の敵は味方」ということで、フランソワを支援することにした。

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フランソワ1世

 この時にスレイマン1世はフランソワ1世に対し、フランス商人の帝国内での居住などを認めたカピチュレーションを承認したとされている。これはスルタンの恩恵として出されたものであるが、オスマン帝国のヨーロッパ諸国への従属の第一歩となったものとしても注目されている。しかし、最近の研究では、カピチュレーションを出したのは次のセリム2世の時とも言われている。

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第1次ウィーン包囲

 ハンガリーの首都ブダを陥落させたオスマン軍は余勢を駆って、1529年9月、ウィーンに迫る。すなわち第1次ウィーン包囲であった。オスマン軍はイェニチェリ軍団と常備騎兵軍団(シパーヒー)、砲兵などからなる約12万の兵力を擁した。ウィーン防衛はカール5世の弟フェルディナンドが、5万数千軍で固めていた。

 しかし、オスマン軍の頼みの大砲が輸送困難で到着せず、さらに補給も困難になり、冬が近づいてきたのでスレイマン1世は10月14日に撤退を決断した。ウィーン攻略はならなかったが、ハプスブルク家の都が異教徒に包囲されたことは、1453年のコンスタンティノープル陥落と同じ衝撃をヨーロッパのキリスト教徒に与えた。

 その後、スレイマン1世は東に転じて1534~35年にはバグダードに遠征、イラク、アゼルバイジャンからサファヴィー朝の勢力を駆逐し、1538には艦隊をインド洋に派遣、ポルトガルのインド貿易に対抗してイエメンを支配し、その紅海とペルシア湾への侵入を許さなかった。西インドのポルトガルの拠点ディウの占領には失敗した。

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プレヴェザの海戦

 1538年9月28日、 スレイマン1世のオスマン海軍はアドリア海から西地中海の海域で神聖ローマ皇帝カール5世とローマ教皇、ヴェネツィアのキリスト教国の連合艦隊に攻撃を仕掛け、ギリシア東岸のプレヴェザ沖で大勝した。これによって制海権を西地中海にも拡大(クレタ島、マルタ島、キプロス島は除く)、この結果、地中海は「スレイマンの海」と化した。

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バルバロス=ハイレッティン

 プレヴェザの海戦で、オスマン海軍を指揮して勝利に導いたのは、海賊として恐れられていたバルバロスであった。本名をフズール、広くハイル=アッディーンとして知られたこの男はエーゲ海のレスボス島の出身で海賊となり、チュニスやアルジェリアを奪って拠点とし、西地中海を荒らし回り、バルバロス=ハイレッティンとして西欧人から恐れられていた。バルバロスとは、バルバロッサに同じく赤ひげのことである。

 彼が1533年、艦隊を率いてイスタンブルに現れ、帰順を申し出た。スレイマンは謁見して帰順を認め、彼をオスマン海軍の最高司令官に任命し、パシャの称号を与えた。これによってオスマン海軍は急速に強大となったという。

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スレイマン=モスク

 スレイマン1世が、建築家ミマール=シナンに建築させたのがスレイマン=モスク、トルコ語でスレイマニエ=ジャーミーである。1550年に建造を開始し、1557年に完成した。ハギア=ソフィア聖堂をモデルとして、さらにドームと半ドームを組み合わせた幾何学的な造形を作りだし、それ以後のイスラーム世界のモスク建築の手本とされた。モスクには学校、施療院、貧困者のための福祉施設、浴場、商店などが付属し、一大複合建築となっている。

 モスクの本体は、奥行き27.5m、幅が58.5mのほぼ正方形の上に、それぞれ向かい合って立ち上げられた一対の半ドームと一つのアーチ型の壁体によって、四方から直径27.5mのドーム天上を支えている。ドームを支える構造は聖ソフィア大聖堂とまったく同じである。

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ミマール=シナンの像

 シナンの出自はギリシア系キリスト教徒であったといわれている。1494年から99年頃の間に、小アジアのカイセリの近くで生まれたらしい。当時のトルコでは、ギリシア系住民の子弟から特にすぐれた人材を登用し、イスラーム教に改宗させて徴用するデウシルメ制度があった。その中核が、イェニチェリと呼ばれる、スルタン直属のエリート軍団であった。

 シナンはそのイェニチェリの中で、技術将校として才能を発揮し、スレイマン1世に認められ、宮廷の主任建築官にまでなった。「ミマール」とは「建築家」のことである。彼は81の大規模なモスク、50の小規模なモスク、55の学校、19の墳墓、32の宮殿、22の公衆浴場などを建て、100歳で亡くなった。彼の遺体はスレイマン1世やヒュッレム=ハセキ=スルタンと同じく、スレイマン=モスクの境内の霊廟に葬られている。

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【 2019/11/06 05:29 】

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世界史のミラクルワールドートルコ艦隊山を行く・オスマン帝国②

 メフメト2世
メフメト2世

アンカラの戦いの敗北で領土を失ったオスマン帝国であったが、メフメト1世、ムラト2世の2代で国力を回復した。ムラト2世は一度退位してメフメト2世にその位を譲っている。しかし、まだ12歳だったメフメトに国家運営は難しく、結局はムラト2世が復位し、その死に際して1451年に再びスルタンの地位に就任した。

 スルタンになった彼が最初にしたことは、弟アフメトの処刑であった。この時に、皇帝が決まると、その兄弟は殺されるというオスマン帝国の法ができたとされる。メフメト2世が「世界の秩序が乱れるより、殺人のほうが望ましい」というイスラーム法学者の意見を得て、兄弟殺しの法令を定めたと言う。しかし、皇帝の兄弟を殺すことはバヤジット1世の時にも見られ、オスマン皇帝の専制化が進む中で、皇位争いを防ぐために成立した慣行だった。

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コンスタンティノープル

 メフメト2世はその精力的な征服活動もあって、ヨーロッパ諸国からは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」などと恐れられているが、トルコ人にとっては偉大なる君主以外の何者でもないことはもちろんである。

 コンスタンティノープルの征服は彼の子供の頃からの夢の実現であった。それは、継母であるセルビアの旧封建領主の娘カラからコンスタンティノープルの絵を見せてもらったりして、早くからこの町になみなみならぬ関心を持っていたからである。

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ルメリ・ヒサル要塞

 メフメト2世は1452年にボスポラス海峡のヨーロッパ側、つまりコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、都市を陥落させるための足がかりとした。この城は「ローマの城」という意味のルメリ・ヒサルと呼ばれた。

 コンスタンティノス11世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めたもののその反応は鈍く、ローマ教皇ニコラウス5世はこれに応じる姿勢を見せたが実質的な進展はほとんど見られなかった。コンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアとジェノヴァは援軍を送り、ビザンツ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になった。

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テオドシウスの城壁

 「テオドシウスの城壁」は5世紀の皇帝テオドシウス2世の命によって建設された。濠と二重の城壁からなる三重構造の大城壁で、コンスタンティノープルの西側を覆うように7キロにわたって続く。コンスタンティノープルはこの「テオドシウスの城壁」を含む総延長26キロの城壁で囲まれており、難攻不落を誇り、コンスタンティノープルへと攻め寄せた敵を度々撃退した。

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ウルバン砲

 オスマン帝国側は、スルタン直属の最精鋭部隊であったイェニチェリ軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させた。またハンガリー人の技術者ウルバンを雇い、当時としては新兵器であった大砲を作らせた。それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。

 ただし、ウルバンの巨砲にも欠点はあった。「コンスタンティノープルのどこか」といったような、かなり大きな標的でさえも外すほど命中精度が低かったのである。さらに1回発射してから次の発射までに3時間かかった。砲弾として使える石が非常に少なく、射撃の反動が元で6週間使うと大砲が壊れるという始末であった。

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 実はウルバンが新式大砲の設計図を最初に持ち込んだのは、ビザンツ帝国だった。しかし、ビザンツ帝国には大砲鋳造の資金はおろか、彼を雇う金さえなかった。断られたウルバンはオスマン帝国に赴き、その結果、「ばけもの」と名づけられた大砲がコンスタンティノープルの城壁の前に並べられたのであった。

 メフメト2世は、コンスタンティノープルが唯一陸地に面する西側の城壁から攻撃しようとし、1453年4月2日の復活大祭の日に、都市郊外に軍隊を野営させた。7週間にわたり大砲により城壁を攻撃したが、十分に崩すことはできなかった。というのは、射撃間隔がとても長かったため、ビザンツ側はその損害のほとんどを回復することができたためである。

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 包囲されたビザンツ側の唯一の希望は海にあり、町の北側で細長く入り込んだ金角湾の入り口に鉄鎖を張り、敵の艦船の侵入を食い止めていた。途中、救援物資を積載したジェノヴァ船3隻とビザンツ船1隻が金角湾に来航し、オスマン艦隊と海戦になったものの、オスマン艦隊は彼らを拿捕することに失敗した。

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 オスマン帝国側は膠着状態を打開すべく、金角湾の北側の陸地(ジェノヴァ人居住区があったガラタの外側)に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え70隻もの船を金角湾に移す作戦に出た。「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの奇策は成功し、これによりジェノヴァ船による援助物資の供給は阻止され、ビザンツ帝国軍の士気をくじくことになった。しかし、陸上の城壁を破る助けとはならなかった。

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コンスタンティノス11世

 オスマン軍による包囲は2カ月続いたが、この間にコンスタンティノープル政府とメフメト2世との間で和平交渉が形式的に行われた。メフメト2世は降伏開城を呼びかけたがコンスタンティノス11世はこれを拒絶し、包囲戦は続行された。またオスマン陣営内でも和平派と主戦派が激論を戦わせる場面もあったようであるが、最終的には後者が勝り、メフメト2世は総攻撃を決定した。

 ビザンツ側も、最後を察知していた。5月28日の夜、コンスタンティノス11世は宮殿で大臣や将兵を前に最後の演説を行った。将兵たちは涙ながらに「キリストのために死ぬのだ!」と叫び、みなお互いに別れを告げあった。その後ハギア=ソフィア大聖堂で聖体礼儀が行なわれ、皇帝コンスタンティノス11世以下将官、市民など多くの人々が神に最後の祈りを捧げた。聖体礼儀が終わると、コンスタンティノス11世は臣下の一人一人に自らの不徳を詫び、許しを乞うた。その場にいたもので涙を流さない者はいなかったという。

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 5月28日の深夜からオスマン軍の総攻撃で城壁は破られ、5月29日夜明け前には城壁にオスマン帝国のクレセント(新月旗)が翻り、「千年の都」とともに、ビザンツ帝国1000年の歴史に終止符が打たれた。

 
コンスタンティノス11世は、最後まで前線で指揮を執り続けた。ドゥカスの伝えるところでは、城壁にオスマンの旗が翻ったのをみたコンスタンティノス11世は身につけていた帝国の国章(双頭の鷲の紋章)をちぎり捨て、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「誰か朕の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、親衛軍とともにオスマン軍の渦の中へ斬り込んでいったと言われている。

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【 2019/11/03 05:43 】

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