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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー聖母の画家・ラファエロ

ラファエロ 
ラファエロ 

 ラファエロは1483年に中部イタリアのウルビーノに生まれた。。父親はウルビーノを治めていたモンテフェルトロ家に仕える画家兼詩人であったが、ラファエロ11歳の時に亡くなった。その母もすでに8歳の時に亡くしている。孤児になったラファエロは若くしてペルージャの画家ペルジーノの工房に入り徒弟となった。ペルジーノはフィレンツェのヴェロッキオ工房に学び、レオナルド=ダ=ヴィンチの兄弟子にあたる人であった。
 
 1504年、21歳のラファエロはフィレンツェに移住した。そのころのフィレンツェは独裁者メディチ家を追放し、共和政国家を再建、ダ=ヴィンチ(51歳)とミケランジェロ(28歳)が活躍しているルネサンスの最盛期であった。

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「ベルヴェデーレの聖母(牧場の聖母)」

 ラファエロはダ=ヴィンチやミケランジェロの影響を強く受け、一連の『聖母子像』を描いて、「聖母の画家」としての名声を確立した。

 ラファエロは短期間に作品を仕上げる天才(その点でダ=ヴィンチが遅筆であったことと対照的)とされ、多くの注文主が殺到した。『聖母子像』など大量に残る作品はそのような注文によって描かれたものであるが、それはラファエロの工房で分業制によって描かれたものであった。

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教皇ユリウス2世

 1508年の終わりごろにラファエロはローマへと居を移し、結果として残りの生涯をローマですごすこととなった。ラファエロがローマを訪れたのは、ローマ教皇ユリウス2世からの招きによるものであり、おそらくは当時サン=ピエトロ大聖堂の建築を任されていた建築家で、ウルビーノ近郊のラファエロの遠縁ではないかと考えられているブラマンテからの推挙によるものだった。ローマ教皇の招致を受けてからも数ヶ月間ローマで逡巡していたミケランジェロとは違って、ラファエロはすぐさまヴァチカンへと向かい、ヴァチカン宮殿のローマ教皇の専用図書室のフレスコ壁画制作依頼を受けた。このローマ教皇からの絵画制作依頼は、ラファエロにとってそれまでにない程の極めて重要なものだった。

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教皇アレクサンデル6世

 専用図書室には複数の部屋があり、すでにほかの画家が弟子たちとともに内部装飾を手がけている部屋もあった。これらの部屋には、枢機卿時代のユリウス2世と激しく対立していた先々代のローマ教皇アレクサンデル6世の出資による壁画や紋章などがすでに描かれていた。ユリウス2世による図書室の装飾は、これらアレクサンデル6世の痕跡をヴァチカン宮殿からすべて消し去ることを目的としていた。

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「アテナイの学堂」

 ラファエロは26歳で「署名の間」に『アテナイの学堂』を完成させた。『アテナイの学堂』は盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化した作品であり、そこにラファエロは多くのギリシアの学者を描き込んだ。中心の二人はプラトンとアリストテレスで、左のプラトンは右手で天上を指し「イデア論」を主張していることを示しており、アリストテレスはそれに対して右手で地を指し示し「形相」を説いたことを示している。またラファエロはこれらの歴史上の人物を描くのに、同時代の芸術家をモデルにしている。例えば、プラトンはレオナルド=ダ=ヴィンチ、哲学者ヘラクレイトスはミケランジェロ、数学者エイクレイデス(ユークリッド)はブラマンテをモデルにしたと言われている。

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 一般的に知られている人物に番号を付した。(  )内でラファエロがモデルにしたと思われる人物名を示した。ただし、この人物比定はラファエロ自身が言っているのではなく、あくまで推定である。さらに詳細に否定を行っている美術史家もいるが、ここではよく知られた人物に絞った。

①プラトン(レオナルド=ダ=ヴィンチ)  ③ソクラテス  ④エピクロス  ⑤ピタゴラス  ⑥ヒュパティア:4世紀、アレクサンドリアの女性数学者、415年、キリスト教徒に虐殺された。(一説にこのモデルはラファエロの愛人マルガリータだという)  ⑦パルメニデス  ⑧ヘラクレイトス(ミケランジェロ) 

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 ②アリストテレス  ⑨ディオゲネス  ⑩エウクレイデス(ブラマンテ)  ⑪ゾロアスター:天球儀を持って、プトレマイオスと対話している。⑫プトレマイオス:地球儀を持っている。  ⑬プロティノス  ⑭ラファエロ本人が顔を出している

 
 依頼主であるユリウス2世は1513年に死去したが、ラファエロはメディチ家出身の次代ローマ教皇レオ10世ともさらに良好な関係を築き上げ、壁画制作も引き続きレオ10世のもとで続けられた。

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サン=ピエトロ大聖堂

 1514年のブラマンテ死後はサン=ピエトロ大聖堂の建設の指揮を執り、建築家としても才能を発揮した。  1515年にはレオ10世から「古代遺物監督官」に任命され、古代ローマの建築物の発掘と調査、現物の保存と図面の記録など、現在でいえば文化財保護の仕事もしている。

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「キリストの変容」

 ラファエロは1520年4月6日に37歳で早世した。ほぼ完成に近い状態にあった「キリストの変容」が遺作となった。その死んだ日が自身の誕生日であり、しかも聖金曜日であったことから彼の神格化が始まり、ラファエロの死の瞬間にヴァチカン宮殿の壁にひびが入ったといった伝説も生まれた。

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ラファエロとメディチ=ビッビエーナの墓

 その墓はローマのヴァチカン宮殿の中のパンテオンに作られており、1833年9月に行われた調査ではラファエロの身長は166センチだった。

  ラファエロは生涯結婚していないが、1514年に枢機卿メディチ=ビッビエーナの姪にあたるマリア=ビッビエーナと婚約はしている。この婚約は個人的にも友人だったメディチ=ビッビエーナに押し切られた結果と考えられており、ラファエロ自身はあまり気乗りがしないものだった。その後マリア=ビッビエーナは1520年に死去し、婚礼は行われないままとなったが、ラファエロの隣に葬られた。

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「ラ=フォルナリーナ」

 一方でラファエロは多くの女性と関係を持っていたといわれており、中でもローマ時代のラファエロにつねに寄り添っていたのが、シエーナ出身のパン職人フランチェスコ=ルティの娘マルガリータ=ルティで、「ラ=フォルナリーナ」のモデルは彼女だと考えられている。

 マルガリータ=ルティとの過度な情事が原因で熱病に罹患したが、体調を崩した理由を主治医に説明しなかったために誤った治療を受けたことが死因だとしているが、異論も多い。

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【 2019/12/29 05:25 】

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世界史のミラクルワールドールネサンス最大の巨人・ミケランジェロ

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ミケランジェロ

 ミケランジェロは1475年、フィレンツェ近郊の村で役人の子として生まれ、13歳の時、父の反対を押し切ってフィレンツェのギルランダイオという親方の工房に入り、石工となった。メディチ家の管理する古代彫刻庭園に出入りできるようになり、そこで見た古代の彫刻に見せられるようになり、少しずつ大理石を刻むようになった。

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ロレンツォ

 その時、メディチ家の当主ロレンツォの目にとまり、その館に住み込んで修業することが許された。そこでメディチ家に集まる、フィッツィーノやピコ=デラ=ミランドラなどの著名な人文学者から知的な刺激を受けたようだ。フィレンツェはルネサンスの爛熟期を迎えていた。若きミケランジェロは彫刻の前提として人体研究に興味を持ち、18歳ぐらいから人体解剖を始めている。

  ロレンツォが死んだ後、1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵入、イタリア戦争が始まる。フィレンツェではサヴォナローラがメディチ家を激しく批判し、追放してしまう。保護者を失った19歳のミケランジェロもフィレンツェを脱出し、ボローニャに逃れた。一旦フィレンツェに戻った後、後に教皇ユリウス2世となる枢機卿に招かれ、1496年にローマに向かった。

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「ピエタ」
 
 ローマ滞在中の24歳のミケランジェロが製作した大理石彫刻のピエタは、その生き生きとしたマリアと死せるイエスの像が忽ち評判となり、鮮烈なデビュー作となった。イエスの母にしては若すぎるマリアであるが、悲しみを湛えて美しく、その衣服の下の身体は「古典的な女性美の頂点」と評される。イエスは左足をやや持ちあげており、死体であることがわかり、解剖学の知見によって生み出された「人間」の姿として横たわっている。

  この「ピエタ」のマリアが肩からさげる帯には全ミケランジェロ作品中唯一となる署名がある。ミラノから来た見物人がミラノの彫刻家の名前を挙げて自慢しているのを耳にしたミケランジェロが、夜こっそり自分の名前を刻み込んだという。

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「ダヴィデ像」

  フィレンツェではサヴォナローラが異端とされて処刑された後、動揺が続いていた。ようやく1502年、共和政体の維持を掲げたソデリーニが終身執政官に就任して安定を取り戻した。ミケランジェロもその前年にフィレンツェに戻っており、共和国政府から「ダヴィデ像」の政策を委嘱された。ずいぶん前から大聖堂(ドゥオーモ)に放置されていた巨大な大理石を使い、三年がかりで1504年に完成させた。ミケランジェロはまだ29歳であった。

 4メートルを超える巨像は、伝統にとらわれない姿――ヘブライ王国(イスラエル)を侵略しようとするペリシテ人の巨人ゴリアテを一騎打ちで倒した少年ダヴィデの像であるが、ゴリアテを組み伏せている図ではなく、右手に石を持ち、左手で投石用の革紐を肩に掛け、決然と敵を睨んでいる、戦う前の姿であり、しかも裸で立つという――だった。

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 出来上がった「ダヴィデ像」を見上げて、ソデリーニが「すばらしい、しかしちょっと鼻が大きすぎないか」と言ったところ、梯子を架けて上っていったミケランジェロは、鑿をたたくふりをしてあらかじめ掌に握っていた大理石の粉をパラパラと落とした。降りてきて、「あれでどうたい?」と尋くと、ソデリーニは「すごく良くなった」と満足した、という。

 ダヴィデ像は、メディチ家を追放し共和政を守ろうとするフィレンツェ民衆のシンボルとして、政庁(パラッツォ=ヴェッキオ)前のシニョリーア広場に置かれた。しかし1873年にアカデミア美術館の室内に移され、現在シニョリーア広場に置かれているダヴィデ像はレプリカである。


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教皇ユリウス2世

 「ピエタ」と「ダヴィデ像」で若くして名声を得たミケランジェロは、1505年にローマ教皇ユリウス2世に招かれてローマに行き、その墓廟を制作することになった。そのためのさまざまな彫刻をつくっており、『モーセ像』などが残っている。しかし、ユリウス2世は移り気な人で、墓廟用の大理石の代金を支払わず、ブラマンテに委嘱していたサン=ピエトロ大聖堂検知器に回してしまった。嫌気のさしたミケランジェロは、1506年、ローマからフィレンツェに帰ってしまう。

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システィナ礼拝堂

 墓廟に興味をなくしたユリウス2世は今度はヴァチカン宮殿の一部のシスティナ礼拝堂の天井画を描くことを思いつき、ミケランジェロに依頼した。ミケランジェロは本業は彫刻であるとしてラファエロを推薦するなどしたが、教皇は受け付けず、結局1508年5月~1512年10月までかかりっきりで完成させた。

 旧約聖書の創世記から、光と闇の分離、天体と植物の分離、地と水の分離、アダムの創造、イヴの創造、原罪と楽園追放、ノアの燔祭、大洪水、ノアの泥酔(?)とされる天地創造9場面を中心に、周りをさまざまな人物で埋め、フレスコ画の技法で描かれており、「描かれた大理石像」と呼ばれる。

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システィナ礼拝堂天井画

 システィナ礼拝堂の高さ21メートルの天井いっぱいに絵を描くことは想像以上に難事業であった。彼は足場台を工夫しなければならず、それには建築家としての技能が役立った。この天井画は天井全体を立体的に構成しており、絵画と建築、彫刻の総合芸術だったと言うことができる。4年もの間、天井を向いていたために、仕事が終わってからも手紙を読む時などは、みな頭の上にかかげて見なければならなかったという。

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「アダムの創造」

 天井画のうち最も良く知られているのが「創世記」のうちの「アダムの創造」である。神がアダムに向かって手を差し伸べ、神の手がアダムに生命を吹き込む場面が描かれている。このアダムについて、ミケランジェロの弟子ヴァザーリは述べている。「その美しさ、そのポーズと輪郭とは、あたかも人類創造のその瞬間、最初にして至高の創造主によって形造られたかのように見え、神ならぬ1人の人間が絵筆をもって描いたものとは見えない」。
 
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 写真は1982年公開のアメリカ映画『E.T.』のポスター。『E.T.』はスティーヴン=スピルバーグ監督の出世作となった作品。E.T.を乗せて空へと駆け上がる自転車、ふれあう指の先と先.....。もうお分かりだと思うが、監督は明らかに「アダムの創造」からヒントを得て、このシーンを考え出した。

クレメンス  
教皇クレメンス7世

 1513年、次の教皇となったレオ10世はメディチ家の出身であったので、ミケランジェロにフィレンツェに帰り、メディチ家礼拝堂(サン=ロレンツォ教会)を制作せよと命じた。その制作は延々と続き、1523年に教皇となったクレメンス7世(同じくメディチ家出身)の時にも継承された。

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「最後の審判」

 1533年、教皇クレメンス7世は、ミケランジェロにシスティナ礼拝堂の奥の壁に「最後の審判」を描くことを依頼した。1534年、58歳になっていたミケランジェロはフィレンツェを離れ、ローマに居を移した。この年、ローマ教皇はパウルス3世(トリエント公会議の主催など対抗宗教改革を推進した教皇)のもとで作業が進められることとなり、1541年に完成した。

 この壁画は、それまでにない巨大さと、ダイナミックな人物表現で人々を驚かせ、現代の見る人々をも驚嘆させている。中央のイエスとマリア以外にそれぞれ十二使徒など聖書の登場人物を描いていると思われるが、説明的ではないので誰が誰であるかは結局はわからない。

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ミノス

 この「最後の審判」のフレスコ画がほぼ出来上がったとき、それを見に行ったパウルス3世から意見を求められたヴァチカン宮殿の式典長ピァージョ=ダ=チェゼーナは、こんな性器を露出した裸体ばかりの絵は神聖な礼拝所にふさわしくないと非難した。それを聞いたミケランジェロは、地獄の番人ミノスの顔をこの式典長に似せて描いたというのである。異様な耳をしたミノスは全裸であるばかりでなく、大蛇に身体を縛られ、ペニスは蛇に喰いつかれている。ミケランジェロの陰惨なユーモアとしかいいようがない。

 ミケランジェロの「最後の審判」に対し、殉教者や聖なる処女を娼婦のような裸体で描いているという非難はその後も続いた。その非難はミケランジェロがルター派的であるというものだった。しかし、ローマ教皇パウルス4世が、もとのかれの弟子ヴォルテッラに命じてこの壁画の裸体に布を描きそえさせたとき、ミケランジェロは何も言わなかった。民衆は、それからヴォルテッラを“さるまた屋”と呼んだ。後に教皇クレメンス8世がまたこの壁画を塗りつぶさせようとしたときは、ローマの聖ルカのアカデミアが抗議して、これを行わせなかった。

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バルトロマイ

 中央のイエスの右下に描かれているのは、イエスの使徒の一人であるバルトロマイ
皮剥ぎの刑で殉教したといわれ、ミケランジェロも剥がれた自分の皮とナイフを持った姿で描いているが、この皮の顔はミケランジェロの自画像になっている。

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サン=ピエトロ大聖堂

 1546年にミケランジェロは、それまでブラマンテ、ラファエロらが40年以上にわたって続けてきた、ヴァチカンのサン=ピエトロ大聖堂改築の設計とドームのデザインを一任された。最終的にミケランジェロはドームの完成を待たずしてこの世を去っているが、存命時にはドーム下部と支持環まで着工済みであり、ドーム全体の基本的なデザインはすでに完成していた。

 ミケランジェロは1564年、88歳でローマで死去した。フィレンツェを愛したミケランジェロの遺言どおりに、遺体はローマからフィレンツェへと運ばれて、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。

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【 2019/12/25 05:58 】

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世界史のミラクルワールドー万能の天才・レオナルド=ダ=ヴィンチ

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レオナルド=ダ=ヴィンチ

 レオナルドは1452年4月15日、フィレンツ郊外の小さな村、ヴィンチ村で生まれた。その生家と言われる家が今でも残っている。

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ヴィンチ村にあるレオナルドが幼少期を過ごした家

 “ダ=ヴィンチ”とは、「ヴィンチ村の」の意味で、父親は公証人のピエロといい、レオナルドはその私生児であった。そのため満足な初等教育を受けられなかったらしく、左利きも矯正されず続き、彼自身も生涯ラテン語の理解には苦しんだという。

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ヴェロッキョ

 そのような境遇であったからか、彼は1469年ごろにフィレンツェに出てヴェロッキョの工房の徒弟として絵画、彫刻の修行をはじめた。そのころフィレンツェ共和国では、ロレンツォ=ディ=メディチの統治が始まっており、ルネサンスは後期の爛熟期となっていた。徒弟時代には、ブルネレスキが建設したフィレンツェのサンタ=マリア=フィオーレ大聖堂で未完のままであった約100mの高さの頭頂部に約2トンの青銅球を設置する仕事に成功し、工学的な経験を積んだ。また絵画でも師の作品を手伝い、技術を磨いた。そのころボッティチェリが『春』を発表して、一躍人気作家となっていたが、ダヴィンチは寡作であったためか評価は低かった。

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ロドヴィコ=スフォルツァ

 ダ=ヴィンチは30歳ごろ、失意のうちにフィレンツェを去り、ミラノに赴いた。ミラノは当時、ヴェネツィアと並ぶ強国で、ロドヴィコ=スフォルツァが政権を握っており、多くの学者や芸術家、技術家をその宮廷に抱えていた。ダ=ヴィンチは軍事技術者として自薦状を提出してミラノ公に仕えることとなり、あるときは音楽家(リラ演奏家)や余興係、あるときは都市計画者あるいは軍事技術者か水利工事監督者として活躍した。それらの仕事を完璧にするための思索ノートは後に『レオナルド=ダ=ヴィンチの手記』として出版されている。

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『最後の晩餐』

 芸術家としては、ミラノ公の先祖の騎馬像と聖フランチェスコ教会の「岩窟の聖母」の製作にあたったが、最も重要な作品、聖マリア=デッレ=グラツィエ聖堂の食堂壁画に『最後の晩餐』が描かれたのがミラノにおいてであった。縦4.2m、横9.1mの巨大な壁画で、遠近法を採り入れた緊張感ある画面となっている。

 1943年8月、ファシスト政権ムッソリーニに対抗したアメリカ軍がミラノを空爆し、スカラ座を含むミラノ全体の約43%の建造物が全壊する。その際にこの食堂も向かって右側の屋根が半壊するなど破壊されたが、壁画のある壁は爆撃を案じた修道士たちの要請で土嚢と組まれた足場で保護されていたこともあって奇跡的に残った。その後3年間屋根の無い状態であり、風雨にさらされないよう、また、壁だけで倒れないようそのまま土嚢を積まれてはいたが、この期間にも激しく損傷を受けている。
 
 1977年から1999年にかけて大規模な修復作業が行われた。この修復は洗浄作業のみで、表面に付着した汚れなどの除去と、レオナルドの時代以降に行なわれた修復による顔料の除去が行なわれた。その結果、後世の修復家の加筆は取り除かれ、レオナルドのオリジナルの線と色彩がよみがえった。

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シャルル8世

 1499年、イタリア戦争のさなか、フランス王シャルル8世がミラノに侵攻、そのときレオナルドが製造中の大騎馬像のための青銅は急遽大砲用に転用され、出来上がっていた原寸大模型はフランス兵の試し撃ちの標的にされ破壊されてしまった。ミラノはフランス軍の手に落ちロドヴィコ=スフォルツァは逃亡、途中捕らえられて哀れな死を遂げた。

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ミケランジェロ

 ミラノを離れたレオナルドは、ヴェネツィアなどを経てフィレンツェに戻り、メディチ家を追放して共和政を復活させたフィレンツェ共和国政府から、1503年に政庁の大広間に壁画「アンギアーリの勝利」の製作を依頼された。その時、同じ建物反対側の壁画は後輩のミケランジェロが「カッシーナの戦い」を制作することになり、二人の巨匠の対決となった。ミケランジェロは大作『ダヴィデ像』に取り組んでおり、若くして大家の仲間入りしていた。この二人の競作は、ダ=ヴィンチが画法で悩んで進まないうちに、ミケランジェロもローマに招かれたためにいずれも中断し、決着がつかずに終わった。

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『モナ=リザ』

 一方同じ1503年にはダレオナルドは『モナ=リザ』の製作を開始した。この作品は、そのモデルが誰か、何のために描いたのかなど、多くの疑問が残されている。また、4年ほどで完成したとされているが、レオナルドはこの絵を生涯放さず手もとに置き、いつも筆を加えていたという。フランソワ1世に招かれてフランスに行ったときにもレオナルドは『モナ=リザ』を携えている。現在のところ、モデルはリザ=デル=ジョコンダという商人の妻であったという説が有力である。

 1507年、フランス王ルイ12世はミラノに入城し、レオナルドは王室附画家に任命されて再びミラノに行った。この時期は平穏で、もっぱら科学研究と『聖ヨハネ』、『聖アンナ』などの作品に専心した。1512年にフランス軍がミラノから敗退、翌年レオナルドはローマ教皇レオ10世の弟ジュリアーノ=デ=メディチに仕えるためローマに赴いた。

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フランソワ1世

 1516年、ジュリアーノが亡くなったので、レオナルドはアルプスを越えてフランスに向かい、フランソワ1世の宮廷に仕えることとなり、アンボアーズ郊外のクルー城に住んで、フランス王の祝典の余興を考えたり、運河工事にあたったりした。

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『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』 ドミニク=アングル

 1519年5月2日、レオナルドはアンボアーズで客死し、同地のサン=フロランタン教会に葬られた。

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解剖図

 レオナルドは科学者、あるいは土木建築家としての一面もあり、潜水艦や飛行機、ヘリコプター、戦車などを構想し、人体の解剖も行った。また「リラ」という楽器の演奏にすぐれた音楽家でもあったとされており、ルネサンスの典型的な「万能人」であった。

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レオナルドのノート

 レオナルドの謎に「鏡文字」がある。彼が残した13,000ページにも及ぶノートすべてが、鏡に写した時の文字のように、裏返しの文字で書かれているのである。なぜそんな七面倒臭い書き方をしたのか。一つには彼が左利きだったでその方が書きやすかった、という理由があげられる。また、純粋に私的なノート、覚え書きだったので、あまり他人に読まれたくなかったから、という理由も考えられる。

 さらには、
「裏返し」になっていたのは文字だけではなく、図面やイラストもまた左右逆に描かれていたという事実から、初めから印刷されることを想定して書いたという説もあり、最近では彼が発達障害の一つであるスレクシア(失読症)であった可能性も高いと考えられおり、その謎はいまだ解明されていない。

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【 2019/12/22 05:27 】

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世界史のミラクルワールドー華麗なる一族・メディチ家

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メディチ家の紋章

 フィレンツェの大富豪メディチ家は、13世紀ごろからフィレンツェで薬屋を営み財をなしたらしい。その紋章の赤い6つの玉は、丸薬を示す看板だったと言われている。

 14世紀末には銀行業を営み、全ヨーロッパにも知られ、主要な町に支店を置くようになっていた。特にローマ教皇の管財人となりその財産の管理にあたり名声を高め、またフランス王やドイツの諸侯などにも融資している。後にその紋章の6つの赤い玉の上に、フランス王家の紋章である百合の花をつけることを許されている。

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ジョバンニ=ディ=メディチ

 ジョバンニ=ディ=メディチは、共同経営者の一人としてローマで金融業を営んでいたが、1397年に故郷のフィレンツェに本拠を移し、資本金1万フィオリーナで銀行商会を設立した。これがメディチ銀行の実質的な創設であり、1420年までにローマ、ナポリ、ガエータ、ヴェネツィアなどに支店を設け、事業を拡大していった。当時は他にペルッツィ商会とバルディ商会の方がイタリア外にも支店を持って大きかったが、メディチ銀行は独自の経営形態を組織して、次第に大銀行に成長していった。

 メディチ銀行の最大の顧客はローマ支店が窓口となったローマ教皇庁であった。教皇庁からの収益は、1435年までの銀行の年収益の50%をつねに超え、1397~1420年までの純利益は7万9000フィオリーノにのぼっている。当時のローマ教皇庁は大シスマの渦中にあり、メディチ銀行は対立教皇の政治資金に融資し、双方から利益を得た。メディチ銀行は教皇庁の徴税事務や資金輸送を請け負い、ローマ支店長は教皇庁財務管理者に任命されてその財政に深く関わるようになった。

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ブルネレスキ

 ジョバンニは銀行業の利益を毛織物業に投資し、またその名声からフィレンツェ市政にも関与し、芸術を保護するパトロンとしても活躍し、サンタ=マリア大聖堂の大円蓋を完成させたブルネレスキなどが、その委嘱を受けて作品を製作した。ジョバンニはこのようにルネサンスの保護者としてのメディチ家の基礎を築いた人物であり、その仕事は子のコジモと孫のロレンツォに継承される。

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コジモ=イル=ヴェッキオ

 1429年にジョバンニが死去すると、新興勢力であるメディチ家に反発したフィレンツェの大商人たちが全市民大会を開いて、その子コジモを政府転覆の陰謀ありという口実で追放してしまった。しかしわずか1年で市民大会はコジモの召喚を決議、1434年にコジモはフィレンツェに復帰し、かえってメディチ家の支配権力が確立した。

 権力を握ったコジモは、メディチ銀行の支店をジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドン、アビニョンに置き、毛織物・絹織物の事業を拡大、さらにヨーロッパ各地の商品を扱う総合商社としてその全盛期を迎えた。コジモは揺るぎない財力を背景に、彫刻家のドナテルロ、画家のボッティチェリなどの芸術家を保護し、また古典文芸の保護につとめてプラトン=アカデミーを創設した。

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メディチ=リッカルディ宮殿

 このとき一家は、フィレンツェのただなかに邸宅を構える。建築家ミケロッティ=ディ=バルトロメオに命じて完成した館は、今ではメディチ=リッカルディ宮殿として、偉容を誇る。その邸宅の一室に、画家ゴッツォリに注文した「三賢王の行列」フレスコ画が燦然と輝く。イエスの誕生を祝福すべく巡礼する賢王(マギ)と、それに従う群衆が描かれる。

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「三賢王の行列」

 3人の賢王は、それぞれメディチ家の3代の当主があてられる。中央左の白馬にまたがり赤い帽子を被っているのが老コジモ、ついでその子ピエロが、ともに騎乗して進む。制作当時の1459年、まだコジモは在世中であった。孫ロレンツォは、この時まだ10歳、ほんの少年である孫は、もっとも美麗な乗馬姿であらわされる。黄金につつまれたロレンツォに、メディチ家の遠大な希望が託されていたことがわかる。その通りになった。

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ロレンツォ=イル=マニフィコ

 ロレンツォは1469年に「国家の長」の地位についたが、一時反メディチ勢力による襲撃事件などもあって動揺した。しかし祖父の財力と名声でフィレンツェの実権を握り、またギリシア・ローマの文芸や芸術作品を収集するなど、ルネサンスのパトロンとして重要な働きをした。

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サヴォナローラの火刑

 1492年にロレンツォが43歳という若さで病死すると、フィレンツェでは反メディチ家を掲げる共和派が発言権を増し、しかもルネサンス的な華美な風潮を非難するサヴォナローラが登場して不安を煽るようになった。おりから、1494年にイタリア戦争が勃発、フランス王シャルル8世がフィレンツェを攻撃したため、メディチ家はフィレンツェから追放され、サヴォナローラの神権政治が行われる。しかし、サヴォナローラはローマ教皇から異端と断定されて急速に民衆の支持を失って火刑に処せられた。

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ジョヴァンニ(教皇レオ10世)

 メディチ家が再び戻るのは、1512年である。苦難は絶えなかった。一族の努力がみのって、ロレンツォの次男ジョヴァンニがローマ教皇レオ10世として即位するのは、1513年。ようやくメディチ家は国際政治での認知を保証される。

 レオ10世は1517年、サン=ピエトロ大聖堂の修築のためにドイツで贖宥状を発売し、それを批判したルターによる宗教改革が始まることとなる。また、そのころフランス王と神聖ローマ教皇の対立が激化してイタリア戦争が再燃、ローマ教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)がフランス王と結んだことから、1527年に神聖ローマ皇帝カール5世による「ローマの劫略」が行われれた。フィレンツェでも共和派が決起し、再びメディチ家が追放されたが、1530年フィレンツェに帰還し、再度復権する。

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 ピッティ美術館

 この頃、一族は手狭になったメディチ宮殿をリッカルディ家に譲り、アルノー川の対岸に新居を購入する。ピッティ家が所有する館である。これに大幅に改修をくわえて、フィレンツェ随一の宮殿に仕立てる。現在、ピッティ美術館となり、ラファエロの名作で知られる。

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ウフッツィ宮殿

 やがて、メディチ家は都市の共和制を廃止して、1569年にはトスカナ大公に即位する。王侯の地位におさまったのである。そのころウフッツィ宮殿が竣工した。メディチ家は、ピッティからウフッツィにいたる数百メートルに、専用通路を設けさせた。

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ヴァザーリの回廊

 暗殺の危機を防止するためと伝えられる。危機を危うくも逃れおおせたメディチ家らしく、僭越にして細心な手法である。この通路は「ヴァザーリの回廊」と呼ばれ、ヴェッキオ橋の二階部分をつらぬき、今も薄暗い回廊のまま保存されている。

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【 2019/12/18 05:39 】

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世界史のミラクルワールドーミイラになった征服者・ピサロ

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フランシス=ピサロ

 フランシスコ=ピサロの素性はよくわかっていないが、1478年にスペインのエストレマドゥラで私生児として生まれた。父ゴンサロ=ピサロは歩兵大佐であったが、母は街の売笑婦であったと伝えられている。彼は偶然コルテスと同郷であった。しかし、コルテスが貴族の生まれで、ともかく大学で勉強したのに、彼は読み書きを習ったことが無く、豚飼いが本職であった。

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バルボア

 コロンブスによる「発見」以来、一旗あげようという連中が続々と新大陸にわたったが、ピサロもその一人となった。パナマで太平洋の発見者バルボアの部下となったが、バルボアが1515年に逮捕された時に総督と知り合う機会を得て、バルボア死後は総督の軍事遠征に加わり、頭角を現した。

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ディエゴ=デ=アルマグロ

 ペルラス諸島滞在中に黄金郷ペルーの情報を得て、探検家ディエゴ=デ=アルマグロと共に、1524年と1526年の二度にわたり南アメリカを探検し、苦労の末、都市トゥンベスまで進んだ。その都市は、広大な領土を保有する国の一部であることを発見した。

 「黄金郷」インカ帝国の存在を確信したピサロは、1528年いったんスペインに戻り、国王カルロス1世にペルーのことを報告した。カルロス1世は大変喜んで、征服に成功したら彼をペルーの総督にし、入手した財宝の1割を与えようと約束した。1530年にピサロはパナマに帰り、コルテスと相談した。彼の話を聞いたコルテスは多くの援助を与え、インディオの攻め方をいろいろ教えてくれた。

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アタワルパ

 1531年2月、ピサロは3隻の船に180人の兵士と27頭の馬を乗せ、パナマからペルーに向かった。目的地はトゥンベスだったが逆風のため進めず、兵士はサンマテオ湾から海岸沿いに南下し、サンミゲルに基地を建設した。インカ帝国は高度な国家機構を持ち、道路網も整備されていたので、ピサロの率いるスペイン軍も進撃しやすかった。

 その頃、インカでは第11代の皇帝ワイナ=カパクの死後、王子のワスカルと側室の子アタワルパの間で王位を巡る争いが起こり、アタワルパが勝利を収めた直後であった。彼はワスカルを捕らえてクスコに幽閉し、新しく都をカハマルカに建設した。

 ピサロはコルテスの例にならい、まず皇帝アタワルパを捕らえようと考え、1532年11月15日、歩兵110人、騎兵67人を連れてカハマルカに向かった。ピサロは皇帝に使者を送り、スペイン軍は皇帝の勝利を祝い、ペルーに真の宗教を教えるために来たと述べ、どうかスペイン軍を訪問するとうにと勧めさせた。

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 そこで、翌11月16日、アタワルパは5000人の護衛兵を連れて豪華な輿に乗り、接見の場にやって来た。周りには3万人のインディオ兵が控えていた。しかし、彼はまんまとピサロの罠にはまったのだ。従軍司祭がアタワルパにキリストの教えを受け入れるかと問い、聖書を手渡した。アタワルパが憤然として聖書を投げ捨てると、この「冒涜」を口実に、火砲で武装したスペイン騎兵の攻撃が開始され、銃声と馬の蹄の音がカハマルカの町を振るわせた。インディオの大軍はバタバタと斃れ、あたりは血の海になった。

 信じられないことが起こった。わずか200人のスペイン兵が5000人のインディオ兵をなぎ倒したのだ。小銃と騎兵の威力がこれほどはっきり示された戦いは、かつてなかった。ピサロは玉座に躍り上がってアタワルパを虜にした。

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 こうしてアタワルパは囚われの身となったが、その取り扱いは決して厳しくなかった。アタワルパはピサロに、「もし私を自由にしてくれるなら、この部屋を黄金でいっぱいにしてやる」と申し出て、黄金を積み上げる高さを示したと言われている。ピサロは2ヶ月間に集めるという条件で、この申し出を認めた。皇帝の身代金として一部屋分の貴金属が運び込まれた。

 ピサロは集まった財宝を戦利品として分配した。このとき溶解された貴金属は金塊が132万6539ペソ、銀塊が5万1610マルコ(1マルコは230グラム)であった。ここからカルロス1世の取り分を除き、ピサロには5万7220ペソの金塊と2350マルコの銀塊が配分された。ピサロはまたアタワルパが使用していた黄金の輿(純金製で重さが83㎏)を自分のものにした。その後、首都クスコでも太陽の神殿などの財宝を奪い、他の町でも略奪を行った。これらの略奪された財宝は溶解された金塊・銀塊として大西洋を越えてセビリアにもたらされた。

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アタワルパの死

 アタワルパは釈放を要求したが、ピサロはインカの人々の復讐を恐れて釈放できなかった。ピサロの弟のフェルナンドらは、すぐ釈放すべきだと言ったが、ピサロは結局、兄弟殺しの罪と反乱罪で、1533年7月26日、アタワルパを絞首刑にした。アタワルパは自身を「太陽の子」と信じ、いつか復活して報復すると誓いつつ死んで行ったと言う。

 これによりインカ帝国は滅亡した。その年の11月、ピサロは480人の兵士を率いて首都クスコに入城した。美しいクスコの町は、たちまち略奪と暴行の町になった。神殿も王宮も町の家々も荒らされ、金目のものは皆剥ぎ取られた。ピサロはクスコの統治は弟たちに任せ、自らは海岸地方に下りて新都リマを建設した。

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処刑されるアルマグロ

 ピサロの盟友アルマグロは、1535年からチリ遠征に出かけたが、チリにはめざす金銀もなく、2年後にやっとクスコに帰ってきた。アルマグロはインディオの反乱軍を破ってクスコを占領し、リマに本拠地を置くピサロと対立するようになった。1538年、ピサロとアルマグロは、クスコ近くのラスサリナス平原で雌雄を争った。いざとなるとスペイン兵の多くはピサロにつき、アルマグロは敗北を喫して捕らえられ、絞首刑に処せられた。

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ピサロの棺

 戦いに勝利したピサロではあったがスペイン本国の支持を失い、1536年にはカルロス1世にアタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告され、結局1541年6月26日にアルマグロの遺児ディエゴとその仲間にリマで暗殺された。埋葬されなかったピサロの遺体はロマの大聖堂にミイラとして現在も残されている。 

 この血なまぐさい殺し合いは果てしなく続いた。ディエゴはピサロの弟ゴンサーロに殺され、ゴンサーロは本国から送られたガスカに殺された。探検と遠征に死に物狂いで戦ったコンキスタドール(征服者)たちは、こうして互いに殺し合い、結局、植民地はスペイン王室の手中に帰したのである。

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【 2019/12/15 05:36 】

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世界史のミラクルワールドーアステカを滅ぼした男・コルテス

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ベラスケス

 コロンブスの西インド発見以後、スペイン人は黄金を求めて、次々に周辺を探検していった。1517年、キューバ総督のベラスケスはコルドバやグリファルパを送って、メキシコの探検を始めたが、インディオの猛烈な抵抗に追い返された。

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コルテス

 そこでベラスケスは強力な遠征隊を送ることとし、ヘルナン=コルテスを隊長に、帆船11隻、兵士500人、馬16頭、銃50丁、大砲10門からなる遠征隊を出発させた。

 コルテスは貧困貴族の家に生まれ、18歳で海を渡ってサント=ドミンゴ・キューバなどで働き、当時はベラスケスの秘書官を努めていた。

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コルテスの遠征路

 1519年4月、コルテスはアステカの都に近い海岸に上陸し、ここにメキシコ最初の基地ベラクルス(真実の十字架)を建設した。コルテスは劇的効果を狙った深謀遠慮を以て乗ってきた船を悉く焼き払って背水の陣を敷き、8月の半ばに僅か400人の兵士を率いて未知の大敵に挑むべく壮途に就いた。

 まず好戦的なアステカ人の宿敵であるトラスカラ人と3度にわたって戦ってそれを屈服させて味方につけた。トラスカラ人はこの時以来、スペインの征服者たちの忠実な友人となった。当時、過酷な税制によってアステカ支配下の諸民族は不満を強めており、これがコルテスらの軍と同盟を結ばせる動機となった。彼らの助力なしには、コルテスは決してアステカを打倒できなかったと言ってよい。

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チョルーラの虐殺

 コルテスの率いるスペインの遠征軍は、抵抗するインディオを排除しながら進撃したが、その過程での虐殺行為は同時代の宣教師ラス=カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』によって告発されている。スペイン人たちが行った数々の虐殺の中で、とりわけ有名なのは3万人以上の人々が暮らしていたチョルーラという大きな町で行なわれたものである。

 チョルーラおよびその周囲の(インディオの)領主たちはみな、大神官が率いる神官全員の行列を先頭にして、丁重に、しかも、恭しくキリスト教徒たちを出迎えた。……スペイン人たちはその場で彼らを虐殺、(スペイン人の言葉を借りれば)懲らしめようと心に決めた。司令官のコルテスは、荷担ぎ人足という口実で5000~6000のインディオを邸の中庭に集め、恥部を皮で覆い隠しただけのほとんど裸同然で子羊のようにじっと屈んでいるだけの彼らに対し、スペイン人たちに襲いかかるよう命令した。インディオが突き殺されていく間、コルテスは「ネロはタルピアの丘より炎に包まれているローマの光景を眺める。老いも若きもみな救いを求めて泣き叫ぶ。だが、ネロはいささかの憐れみの情も抱かない」と口ずさんでいたそうである。


 チョルーラの虐殺にアステカは震え上がった。
 
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 同年11月初めに都テノチティトランに到着、湖の上に築かれた壮大な都市を見て兵士は仰天する。町の入口には、国王モクテスマがみずから金の輿に乗り、多くの廷臣を従えてキリスト教徒の到着を待っていた。王はコルテス一行を平和裡に迎え、歓呼の声で市内に入った。しかしコルテスは、奸計を以て王の身柄を抑え、スペイン兵の監視下に置き、全土から莫大な量の金銀の細工品を集めさせた。

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テノチティトラン

 ところが、ここでコルテスは危機に見舞われた。キューバ総督は、コルテスがベラクルスで独立したので、ナルバエスに1000人の兵士を与えて追討させたのだ。しかし、コルテスは追討軍を打ち破り、その大部分を味方にして、またテノチティトランに引き返した。しかし、この間にコルテスに兵120名とともに留守を任されていたアルバラードたちが、祭典中のアステカ人たち600人を虐殺したことから、激怒したアステカ人たちが反乱を起こしていた。1520年6月29日、コルテスは反乱を起こしたアステカ人たちを国王モクテスマに説得させようとした。モクテスマは王宮の塔に出てアステカの兵士の前に立ったが、雨のような石と投げ槍が投げられ、国王の頭部や胸部を直撃した 。最初は致命傷には見えなかったが、翌日には傷が元で息を引き取った。

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モクテスマ
 モクテスマの死はコルテスにとって手痛い誤算となった。彼を喪っては、全市を敵に回して孤立した侵略者の一団に残された路は只一つ、一刻も早く逃げ出すことしかなかった。この脱出行は莫大な損害を被りつつ遂行された軍事史上最も困難な作戦の一つであった。西側堤道を本土へ向けて突破する夜間行軍では、スペイン人とその同盟者トラスカラ人は1フィートごとに猛り狂った敵の包囲攻撃を受けた。この夜(1520年6月30日)は余りにも凄惨を極めたたため、以後長く《ノーチェ・トリステ》(悲嘆の夜)として知られ、約1000人のスペイン人が死亡している。

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クアウテモック

 テノチティトランを脱出したコルテス一行は、7月7日オトゥンバ谷で追撃してきたアステカ軍に追いつかれるが、逆にこれを大破し、アステカ軍はテノチティトランに引き返した。7月12日、トラスカラに到着したコルテスはテノチティトラン再征服の為の軍備を整えた。 

  一方アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王クイトラワックを選んで団結していたが、スペイン軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、10月には在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、かわって25歳の勇敢な戦士クアウテモックを王に推戴した。
 
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 1521年の始めコルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末、8月13日にテノチティトランは陥落し、クアウテモックは捕らえられた。

 クアウテモックはコルテスの短刀を指さして自分を殺すように言ったが、コルテスは彼を殺さず、勇者として手厚くもてなした。しかしそれは始めのうちだけで、黄金の場所をつきとめるためにコルテスは彼を拷問にかけた。1525年2月28日、反乱を企てたとの疑いにより、クアウテモックはコルテスによって絞首刑に処された。

 コルテスは、1523年、国王カルロス1世(カール5世)からヌエバ(ノヴァ)=イスパニア(メキシコ)総督に任命され、副将アルバラードにグアテマラ征服を命じ、さらにオリードをホンジェラスに派遣した。しかし、オリードが反旗を翻すなどの事件があって免職され、26年に一時スペインに帰国した。その後ノヴァ=イスパニアにもどり、1533年には太平洋岸を北上し、彼の派遣した艦隊がカリフォルニアを発見、1536年には自ら航海に参加してカリフォルニア半島の南東部にラ・パスの町を建設した。1540年にスペインに帰国してからは、その功績も忘れられ、1547年、失意のうちにセビリアの近くで病死した。

  コルテスの征服者としての成功体験は、約10年後のピサロによるインカ帝国の滅亡にも生かされていた。あるときピサロが先輩コルテスにインディオとの戦いのコツを聞いたところ、コルテスはまず王を殺すことだ、そうするとインディオは抵抗しなくなる、と教えたという。

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【 2019/12/11 05:42 】

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世界史のミラクルワールドー未知なる大陸への挑戦・マゼラン

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マゼラン

 マゼランはポルトガルの下級貴族であったが、初代インド総督アルメイダの指揮下で軍務についてインド・東南アジアに赴き(1505~11年)、ポルトガルがインド洋の制海権を得たディウ沖海戦にも参加した。帰国後、モロッコ遠征に参加して負傷したが、現地人との違法取引を国王マヌエル1世に疑われて(真相は不明)昇進も年金増額も拒否されたため、ポルトガルを離れてスペインに渡った。

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カルロス1世(皇帝カール5世) 

 1517年の秋、マゼランはスペインのカルロス1世に会い、西回りでモルッカ諸島に行くことを提案した。若いカルロス1世は大いに喜んで、この男の冒険に賭けることにした。コロンブスの発見したアメリカは香辛料を提供せず、ライバルのポルトガルは着実にアジアに進出、1514年からモルッカ諸島での香辛料貿易を開始している。スペインにとってポルトガルによる香辛料独占は、とうてい我慢のできるものではなかった。1494年のトルデシリャス条約には地球の裏側での取り決めは含まれておらず、アジアは依然として未知の地であった。トルデシリャス条約での分界線を東半球に延長すれば、モルッカ諸島はスペイン圏に入るのではないかと考えたのである。

 カルロス1世はマゼランとの間に、①マゼランは西回りでモルッカ諸島に達すること。②成功したら、マゼランとその子には提督の称号を与える。③新発見の島の収入の1/20を与える。④政府は5隻の船と船員、2年分の食料を準備する等の調印を交わした。

トリニダート号 
トリニダート号

 1519年9月20日、マゼランは5隻の船を率いて、スペインのサン=ルカール港を出帆した。旗艦トリニダート号(120トン)にマゼランが乗り込み、サン=アントニオ号(120トン)、コンセプション号(90トン)、ヴィクトリア号(80トン)、サンチャゴ号(70トン)がこれに続いた。船は老朽船で船員の国籍もまちまちだったが、マゼランは成功の確信を持っていた。

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 カナリア諸島までの6日間の航海は順調だったが、やがて10週間がかりの大西洋横断で最初の反乱が起こった。反乱はポルトガル人であるマゼランとスペイン人船員との間の不和と対立が原因であった。途中烈しい嵐にも見舞われたが、12月の中頃にリオデジャネイロに着き、さらに南下して翌年初めにラプラタ湾に入った。マゼランは初めここから太平洋への水路があると考えていたので、23日間も探検したが無駄だった。そのまま南下して3月末にサン=フリアン湾に着き、ここで越冬することにした。

 サン=アントニオ号のカルタヘーナは越冬に反対して反乱を企てたが、マゼランは断固として鎮圧し、カルタヘーナを奥地に追放して決意の固いことを示した。

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 船団は5カ月間もサン=フリアン湾に釘づけされていた。南半球の冬が終わると、マゼランはまずサンチャゴ号を偵察に南下させたが、船は急な潮流に流されて舵をとられ、岩にぶつかって大破してしまった。8月24日、船団は南下を始めたが、サンタ=クルス川でさらに2カ月停泊し、水や魚を補給した。10月18日に再び南進し、3日後に奥深い湾を発見した。マゼランはトリニダート号とヴィクトリア号を一組とし、サン=アントニオ号とコンセプション号を一組として迷路の奥を探検したが、ここでサン=アントニオ号は密かに脱走して帰国してしまった。

 全長560キロの細長く曲がりくねったこの海峡の突破は、なかなか大変だった。さすがのマゼランも11月21日には引き返そうかと考えたほどだった。しかし、2隻のボートはついに太平洋への出口を発見した。11月28日、とうとう船団は最後の岬を突破し、当時は「南の海」と呼ばれていた広大な海に滑り出た。マゼランは喜びのあまりはらはらと涙を流し、この岬に「待望岬(カボ=デ=セマード)」と名づけた。

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 こうして残った3隻の船はついに未知の大洋に入ったが、歓喜の後には恐ろしい苦難が待ち受けていた。マゼランは寒い南極圏から逃れるため、南米の西岸沿いに1600キロ北上し、そこから西北に進路をとった。マゼランは、このヨーロッパ人が初めて乗り出した海で、大きな嵐に遭わなかった幸運を喜び、この海を「平穏の海」と呼んだので、太平洋(マール・パシフィコ)と名づけられた。しかし、不幸なことに、彼は広い太平洋をほとんど海ばかりのコースを進み、マリアナ群島まで、ついに98日間も島らしい島にぶつからなかったのだ。

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 かくて恐ろしい飢えと渇きの航海となった。暑さは烈しく、船のアスファルトは溶け、飲料水は桶の中で腐った。新鮮な食料は何も無くなり、ビスケットは粉屑で、蛆虫がうじゃうじゃしていた。帆桁の牛皮、鼠が高い値段で取引された。ビタミンC不足からくる壊血病に見舞われ、19人が死に、30人が重病で、完全な人はほとんどいなかった。

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グアム島のマゼラン上陸記念碑

 1521年3月6日、マゼランはマリアナ群島を発見し、現在のグアム島でバナナや椰子の実を食べ、ほっと一息ついた。島民は親切だったが何でも手当たり次第盗むので、この島に泥棒島と名づけた。ここに3日いて充分に水と食料を積み、さらに西方に向かい、3月16日にフィリピンのサマル島、3月28日にレイテ島南方のマッサワ島に着いた。

 ここで船に近づいてきたカヌーの男たちと、マゼランがかつてマラッカから連れてきた奴隷エンリケはすぐ言葉が通じた。この男は、地球を一周して、再び自分の言葉のわかる地域に帰り着いたのだ。それは人類史上、忘れることのできぬ重要な瞬間だった。この瞬間にマゼランは航海の成功が目前にあることを知ったのである。

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  4月7日セブ島に達したマゼランはまずは大砲を撃ってセブ島民を驚かせ、上陸したマゼランはセブ王が付近の王たちの中でも有力であることを見て熱心に布教を始める。マゼランが熱心に説くキリスト教の教えにセブ王をはじめ500人が洗礼を受けた。また、マゼランとセブ王は何度も抱き合うほど親しくもなり、このことに気を良くしたマゼランはセブ島周辺の王たちにもキリスト教への改宗と(先にキリスト教徒になった)セブ王への服従を要求するようになる。いわば現地の政治情勢に到着したばかりのマゼランが首を突っ込んでしまったのである。

 セブ島に3週間滞在しセブ王の王宮にもたびたび招かれ食料を補給し多くのセブ島民を改宗させたマゼランだが、何故か目的のモルッカ諸島へ向かわず布教を続けている。セブ島民を改宗させたことで気をよくしたマゼランは強硬になり布教に当たって武力をちらつかせるようになった。セブ島周辺の王たちのほとんどはマゼランに従ったが、改宗と服従を強要するためにセブ島対岸の小島マクタン島では町を焼くこともしている。

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マクタン島のラプ=ラプ像

 このことでマクタン島民は反感をつのらせたようである。その後マゼランは4月27日マクタン島に突然出撃した。艦隊に同行したピガフェッタによると、マクタン島の王の一人ズラは「マゼランの要求に従う気はあるが、もう一人の王ラプ=ラプが従わないので困っている。小艇に兵を満載して救援に来てほしい」と伝えてきたからだとしている。

 これを聞いたマゼランはラプ=ラプ王を従わせようと3隻の小艇に60名の兵を乗せてマクタン島に乗り込んだのだが、ラプ=ラプ王は既にこれを察知しており、60名の内11名を小艇の警護に残して上陸したマゼランの49人に対して1500人の軍勢を配置していた。

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 しかし、マゼランは圧倒的に多数の敵を前にして部下に 、「諸君、われらの敵であるこれらの住民たちの数に恐れをなしてはならない。神が我らを助け給うであろうから。諸君、思い出すがよい、あのエルナン= コルテス隊長がユカタン地方で、200人のエスパニャ人でもって、しばしば20万、30万の住民たちを打ち破ったということを我々が耳にしたのはつい最近のことではないか」と演説し、寡兵にもかかわらず戦闘に突入した。

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 しかし、30倍の数の敵に対しマゼランの兵はやがて敗走、マゼランの周りにはピガフェッタやエンリケを含め6から8人ほどが踏みとどまって戦うだけになる。多勢のラプ=ラプ王の兵の竹槍はマゼランたちの甲冑に通じず戦いは1時間に及んだが、ラプ=ラプ勢は防具をつけていない足に攻撃を集中し始め、遂にマゼランは戦死した。僅か41歳だった。

 マゼランの死後、艦隊はマゼランの親族に当たる者を後継の指揮官にしていたが、後継の指揮官を含め艦隊幹部24人のほとんどが、気の変わったセブ王に殺された。もはや艦隊には115人しか残っていなかった。そこで、コンセプション号は焼き捨て、トリニダート号とヴィクトリア号だけで南進し、1521年11月6日、やっとモルッカ諸島に着いた。

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復元されたヴィクトリア号

 12月18日、2隻の船はモルッカから出帆しようとしたが、トリニダート号は積荷の丁字(クローブ)が重すぎて浸水したため、修理のために54人の乗組員と島に残り、ヴィクトリア号だけが47人の船員と現地人10数人を乗せて出帆した。

 ポルトガル船の襲撃を恐れ、インド洋の南を迂回したヴィクトリア号は、5月6日にやっと喜望峰を回ったが、この辺りはどこもポルトガル領だったので寄港できず、飢えと壊血病でさらに21人が死んだ。

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マゼランとデル=カーノ

 ヴェルデ岬諸島で、とうとう食料と水の無くなったヴィクトリア号は入港した。指揮官のデル=カーノはブラジルの帰りだとポルトガルの役人を信用させたが、ある水夫の不用意な話からマゼランのことがばれ、デル=カーノは上陸した13人の水夫を置き去りにして出帆した。

 1522年9月6日、一行はようやくの思いで、サン=スカール港に入港した。彼らの出発は1619年9月20日だったので、この最初の世界周航はほとんど丸3年かかっており、5隻265人のうちで、ヴィクトリア号1隻と18人の人が奇跡的に助かったのである。

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【 2019/12/08 05:22 】

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世界史のミラクルワールドーインディアスの発見・コロンブス

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コロンブス

 コロンブスはユダヤ系の毛織物業者の長男としてジェノヴァに生まれたとされるが、生年をはじめ、幼年時代の詳細は明らかではない。イタリア語ではクリストフォロ=コロンボ、英語ではクリストファー=コロンブスと表記する。
 
 出奔して水夫となり、ポルトガルのリスボンに住み、各地を航海するうちに地球球体説を確信するようになった。地球球体説は検証はいたって困難だが、当時の船乗りたちのあいだでは、さほどの奇説ではなかった。すでに知識人のあいだでも囁かれている。

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トスカネリ

 その一人がフィレンツェの地理学者トスカネリであった。トスカネリは1474年にポルトガル国王に当てた手紙の中で、ヨーロッパから西航してインドに到達する可能性があることを示唆している。リスボンでトスカネリと知り合う機会を得たコロンブスは、彼と手紙の交換をしているうちに、その学説に心酔していった。こうして、コロンブスは地球が球体であれば、インドへ行くにはヨーロッパから真っ直ぐ西に行くのが近道だと考えるようになった。

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マルティン=ベハイムの地図

 コロンブスがこう考えたのは、一つにはマルコ=ポーロの『世界の記述』の影響である。彼はその名の通り敬虔なクリスチャンで(クリストフォロは「キリストを運ぶ者」の意味)、聖書の経外書エスドラス書に、「3日目には汝は水を大地の第7の部分に集め、残りの6つの部分を乾き上がらせよ」とあることから、地球の表面の6/7は陸地で、海は残りの1/7だけだと考えていた。

 彼はマルティン=ベハイムの世界地図から計算して、地球の円周360度のうち、280度がアフリカからアジアに至る陸地で、大西洋は残りの80度足らずであり、カナリア諸島から東アジアまでは、約6400キロと考えた。

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ポルトガル国王ジョアン2世

 1484年頃、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を請うたが、王は表面ではこれを拒み、密かに彼の部下をしてコロンブスの提案した航海計画を実施、功を奪おうとした。これは失敗に終わったが、コロンブスはこの裏切りに憤慨し、弟バルトロメウをイギリスに送り、ヘンリ7世の援助を求めたが成功しなかった。

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イサベル女王とフェルナンド5世(カトリック両王)

 1486年、コロンブスはコルドバでフェルナンド5世とイサベル女王に謁見した。コロンブスの話にフェルナンド5世はあまり興味を持たなかったが、イサベルは引きつけられた。しかし、当時グラナダ攻撃に費用がかかり、財政的に余裕がなかったので取り上げられなかった。

 そのグラナダが1492年1月2日についに陥落する。これで勢いを得たイサベルはフェルナンド5世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。この時、スペイン王室を説得することを諦めたコロンブスは、まさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、ピノス=エンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。

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サンタ=フェ契約

 1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ=フェでコロンブスはスペイン王室と契約を結んだ。その内容は、① コロンブスは発見された土地の終身提督となり、この地位は相続される。②コロンブスは発見された土地の副王及び総督の任に就く。③提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。④提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。⑤コロンブスが今後行う航海において費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする、というものだった。

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 サンタ=マリア号

  1492年8月3日、3隻の船団がパロス港から西方に向かった。旗艦サンタ=マリア号(100トン)には40人、続くピンタ号(60トン)に26人、ニーニャ号(50トン)には24人、合計90人が乗り込んだ。

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 一行はいったんアフリカ海岸を北緯28度まで南下し、
カナリア諸島のゴメラに寄港。そこの女領主ベアトリスの協力を得て、大航海の準備を整えた。再出港は9月6日である。西航すること30日余り、副官のピンソンを初め船員たちは、疑いをいだきつつも、コロンブスの厚い保証を信頼して、大西洋を西航した。

 しかし、藻に取りつかれて船足は遅く、羅針盤も狂って、船員の間には次第に不安が募っていった。コロンブスの第1回の航海図を見ると、新大陸に近づくにつれ、それまでの真西一直線の進路が急に乱れて急角度のジグザグ形になっている。海の果てには大洋の水が全部滝のようになって奈落へ落ちるとか、ずべての船を飲み込む大渦が巻いていると信じていた船員が、コロンブスを剣で脅して航路を曲げさせたからである。

 
10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。そして10月11日の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫がついに陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン=サルバドル島と名づける。「サン=サルバドル」は「聖なる救世主」とう意味で、まさにコロンブスにとっては救世主となった島であった。コロンブスはこの地をインディアスの東のはずれにある半島状の土地であると確信し、現地人をインディオと呼んだ。

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ハイチに上陸するコロンブス

 コロンブスはピンソンらを率いて上陸し、十字架とスペイン王旗を立て、大地に跪いて神に感謝した。この瞬間が彼の生涯における最良の一刻だった。それから約2カ月間、彼はカリブ海のキューバやハイチなど各地を探検し、特に後者はジパングと考えた。

 11月21日、ピンタ号が脱走した。ハイチ島滞在中、サンタ=マリア号が大破し、彼は船材を引き上げて要塞を造り、40人余りの部下を残して引き揚げることにした。リスボンに帰着し、両王を追ってバルセロナに回航し、航海の成功を報告したのは、翌93年の1月である。大喜びの二人は、コロンブスに、本人の希望通り「大洋の提督」と「インド副王」の称号を与えた。

 ところが実は、パロス港に着く9日前に、コロンブスはポルトガルに寄り、先にジョアン2世に「インド発見」の模様を語っているのだ。スペイン国王のために行ったこの航海の成功を、なぜライバルのポルトガル国王に真っ先に報告したのか。その謎は分からない。確かなことは、まだアフリカ回りのインド航路を発見していないポルトガルが焦りだしたということだ。

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 他方、スペイン国王は、ポルトガルに出し抜かれるのを恐れ、半年後の9月25日にはコロンブスに第2回航海を行わせた。今度は、17隻、乗組員は1500人。聖職者・官吏・技術者・職人・植民者などが船員以外に加わった。明らかに、スペイン人の植民と住民のキリスト教への改宗、という事業を考えた航海であった。

 エスパニョーラ島に到着してみると、残留部隊は全滅していた。またエスパニョーラ島の奥地まで進んだが、黄金も見つからず、開拓もままならなかった。コロンブスは小アンティル諸島・ドミニカ・ジャマイカなどに到達したが、現地人虐待の疑いで本国に召還された。

 コロンブスは罪を免れたものの、コロンブスの率いるスペイン軍が現地人に対して徹底的な無差別殺戮を繰り返したのは事実である。まるでスポーツのように、動物も鳥も現地人も、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。

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ジェノヴァのコロンブス像

 1498年5月、コロンブスは6隻の船を率いて第3回の航海に出発した。一行は8月にサンドミンゴに入港したが、留守中、コロンブスの代理で残っていた弟バルトロメウに対する入植者の不満が高まっていた。思ったほどの富が無く、食糧も不足してからである。弟にはそれを収める力が無く、反乱状態となっていた。その状態は本国にも知らされ、国王は99年に現地調査官としてポバディリャを派遣した。ポバディリャは提督の館に乗り込みコロンブスを逮捕し、コロンブス兄弟は鎖に繋がれて1500年に本国に送り返された。コロンブスの必死の訴えで西インドに戻ることは許されたが、提督の地位は剥奪され代わりにオバンドが任命された。

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バルセロナのコロンブス像
 
 失意の中、1502年僅か140人でカディス港を出港、最後の航海に向かった。サンドミンゴへの入港は禁止されていたさらに西に向かい、大陸へのルートを探り、現在のコスタリカとパナマ沿岸を探検、一時はパナマ地峡にも上陸したが、ついに新大陸であることは気づかなかった。嵐や座礁など難航を続けてジャマイカを経て帰途につき、1504年11月に帰国した。

 その直後の11月20日、彼の最大の理解者であったイサベル女王が亡くなり、その後にコロンブスと面会したフェルナンド5世は冷たい態度だった。コロンブスは国王に裏切られた思いを抱きながら、1506年5月20日、セビリャの侘びしい船員宿で、マラリヤの後遺症と通風のため54歳で亡くなった。

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アメリゴ=ヴェスプッチ

 コロンブスは、自分の到達した土地はアジアであり、現在のインドよりも広い概念としてのインド、つまりインディアスと信じていた。しかし、同じころスペイン王・ポルトガル王の派遣した船団で何度かこの地を探検したアメリゴ=ヴェスプッチは、この地がアジア大陸とは別な大陸であると主張し、1507年にはこの地はアメリカ大陸といわれるようになった。

 しかし、大陸の発見者はコロンブスであるという認識も強く、アメリカ大陸のことをコロンビアということも多い。なお、アメリカの首都をワシントンD.C.(Washingon District of Columbia )というのもコロンブスの名に由来する。またシモン=ボリバルが建国した南米の国家にも大コロンビアという名が付けられた。

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【 2019/12/04 05:40 】

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世界史のミラクルワールドーインド航路の完成・ヴァスコ=ダ=ガマ

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 1488年、ディアスが喜望峰に達した時、もうインド航路の完成は近いと思われた。しかし、ポルトガル王は国内の政治不安に悩まされ、インド洋航海にゴーサインを出すことが出来なかった。

 それどころか、コロンブスの西回り航路の発見によって、ライバルのスペインがアメリカを獲得してしまう。スペインとポルトガルの両者は1494年のトルデシリャス条約で、アフリカ西岸のヴェルデ岬から370レグア(約2000km)西の子午線(西経46度30分)の西をスペイン、東をポルトガルの権利とする協定を成立させた。そこでポルトガルは東回りでアジアに到達することを急がねばならなくなった。

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ヴァスコ=ダ=ガマ

 1495年、ジョアン2世が死んで、従弟のマエルヌ1世がポルトガル国王となった。功名を急ぐこの26歳の青年王は、アフリカ周りのインド探検隊を編成し、その総司令官には、サンディエゴ修道会のヴァスコ=ダ=ガマを選んだ。

 ガマはポルトガル南部海岸のシネスの役人の子であったが、航海者としての実績は判っていない。当初はディアスが船団編成の責任者となったが、結局ガマが司令官となり、ディアスは途中のギニア突出部まで同行し、そこからエル=ミナに向かったところをみると、ガマは既に相当の実績を持つ人物だったと考えられる。その船団にはディアスの航海に加わっていたベテランの船乗りも加わり、またスペイン系ユダヤ人アブラハム=ザクートは天体観測の実習を乗組員に施したり、「万年暦」や赤緯表など遠洋航海術で協力した。

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サン=ガブリエル号
 
 1497年7月8日、ガマは4隻の船を率いてインドに向かった。彼が乗ったサン=ガブリエル号は120トン、弟のパウロはサン=ラファエル号(120トン)、他に50トンのカラベル船と、200トンの運送船を従え、乗組員は全部で170人だった。乗組員の中には、黒人の給使や水先案内人、特赦の代償に危険な任務を負う10数名の元死刑囚もいた。

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リスボンを出港するガマ

 ガマは勇敢な航海者だった。7月15日カナリア諸島を出発すると、濃霧のため4隻の船はバラバラになったが、8月3日にヴェルデ岬沖で合流し、そこからは大胆にも大西洋の真ん中を突っ切って喜望峰に向かった。彼はギニア湾の凪と逆風の貿易風を避けたのだ。なぜなら、船上での生活が長引けば、ビタミンC不足から壊血病となり、下手をすると命取りになるからだ。しかし、物凄い嵐に襲われ、不平を言う水夫をなだめるのに一苦労した。

 彼はそのまま南緯30度まで南下すると、東進してセント=ヘレナ湾に着いた。ここまでの航海に3カ月かかり、7000キロの大航海だった。コロンブスの大航海も約4000キロだから、これからさらにアフリカの東岸を周り、インドに達したガマの航海は人類最初の大洋航海と言ってよい。

 セント=ヘレナ湾でしばらく休養したのち、ガマはさらに南下して、11月22日に喜望峰を通り、モッセル湾に上陸した。ここで運送船がボロボロになったので廃棄し、食料は各船に分配した。

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モザンビークに上陸

 アフリカ東岸北上の旅も楽ではなかった。ナタール沖では潮流に押し流され、翌年1月23日にやっとソファラに着き、3月1日にはモザンビークに入った。沖合にマダガスカル島を見るこの港には、多数のアラビア商船が錨を下ろし、金、銀、香料、ルビー、真珠など、ずっと東方から運んできた商品を取引していた。

 ガマの一行はこの町の住民の多くがアラビア語を話すムスリムであることに気がつき警戒を強めた。1492年にグラナダを征服し、イスラーム教徒の王を海の向こうに追い払ったばかりのイベリア半島からやってきたポルトガル人たちは、アラビア語を話すムスリムに対し妄想に近い強い警戒感を持っていたのである。

 案内人と水と食料を確保するための交渉は思うように進まず、とうとうガマは武力の行使により水を奪うことを決意した。そして水場を守るモザンビークの人々にいきなり砲撃を浴びせ、抵抗を突破、地元の人2人を殺し、何人かを捕らえ人質にした。また、地元の船2隻とその積み荷も奪った。翌日、意気揚々と再び水場を訪れたポルトガル人は無抵抗で水を手に入れると、そのまま市街に入ってその中心で銃を何発か放った。暴力的に必要な物資を調えた船隊は、その翌々日に風を得て北へと去った。この水域の慣行を無視し、港の使用料を払わないままだった

イブン=マージド 
イブン=マージド

 ガマはモザンビークからさらに北上してモンバサにより、そこから僅か3日でマリンディの港に着いた。ここで彼は土地の王に親切に迎えられた。また、アラブ人の水先案内人であるイブン=マージドを雇った。彼はインドのグジャラートの生まれで、インド洋全域の航海に通じた最高の水先案内人となったされる。しかし、イブン=マージドを雇ったことには異論もある。

 また、国王へ要請していたキリスト教徒の水先案内人を得たが、実態はヒンドゥー教徒のインド人だった。

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 こうして1498年4月24日、ガマの船隊はマリンディからインドに向かった。アラブ人とインド人の水先案内人がついてはいたが、未知のインド洋航海は心細かった。壊血病がはびこって、多くの水夫が死んだ。マリンディを出発した一行は、不安と壊血病に苦しめられながら、東北方に進んだ。

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カリカット到達

 5月18日の朝、「もうそろそろインドだ!」とインド人の水先案内人がガマに言った。まもなく前方に陸地が見え、長い苦労はやっと稔ろうとしていた。それから一行は南に進み、5月21日、ついにカリカットに着いた。

 ガマがインドに到達した1498年は、ムガル帝国のインド制圧(1526年)の28年前にあたっている。当時のインドは、北インドとデカン高原にいくつものイスラーム教国があったが、南インドはヒンドゥー教国であるヴィジャヤナガル王国が存在していた。ヴィジャヤナガル王国の統治圏内には多くの小さな藩国があり、互いに争っている状態であった。

 カリカットはサムリ(ザムリン)という藩王が支配していたが、その地の貿易はイスラーム教徒であるアラブ人やペルシア人に握られていた。彼らイスラーム商人らはダウ船を操り、ホルムズを拠点とし、アラビアのアデン、アフリカ東岸のマリンディやモンバサ、モザンビークとインド西岸のカリカットやセイロン島を結ぶアラビア海の季節風貿易を抑え、香辛料や宝石、奴隷、馬などの交易を行っていた。彼らはさらにベンガル湾からマラッカ海峡までを活動範囲としており、マラッカには中国商人がジャンク船を操ってやって来て、絹織物や陶磁器をもたらし、イスラーム商人と盛んに取引を行っていた。

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カリカット藩王との面会

 沖合に艦隊を停泊させたガマは、まず一人の使者をボートで陸に向かわせた。この使者は危険な見知らぬ地で最初に陸に上がらせるためにポルトガルから船に乗せてきた囚人たちの一人だった。彼はスペイン語を話す2人のイスラーム商人の所へ連れて行かれ、商人たちをびっくりさせた。話し合いの結果、ガマは5月28日に藩王に面会した。

 ガマは12反の綿布、帽子6個、洗面器6個、砂糖入れ1個、鈴の珊瑚の数珠を献上したが、藩王は唾をペッと壺に吐いて、「メッカのどんな貧しい商人ももっと良い物をくれる」と嘲笑した。ガマは「私は商人ではなくて大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私の贈り物なのだ。王が贈り物をするならもっと豪華なものになるはずだ」と苦しい言い訳をした。

 ガマは、ここで多くの香辛料を買い集め、10月にゴアの南方からアフリカに向かった。帰りの船旅は行きよりもっと苦しく、逆風のためにインドからアフリカまで3カ月もかかった。その間に30人の乗組員が壊血病で死んだ。弟のパウロも病死し、船員も少なくなって、3隻の船は動かせなくなった。

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ガマの帰還

 サン=ガブリエル号とバリオ号が喜望峰を回ったのは、3月下旬だった。ここからヴェルデ岬沖に直線コースで進んだが、2隻の船は嵐のために離ればなれになった。3万8000キロの大航海が終わったのは、1499年9月18日のことだった。ガマは弟のパウロをはじめ、100人以上の乗組員を失い、リスボンに着いたのはたった55人だった。

 しかし、ガマのインド航路の発見は、文字通り大成功だった。ガマがインドから持ち帰った胡椒・肉桂・薄荷を初めとする東方物産は、約60倍の価で売れたという。そして、とうとうインドと香辛料貿易を結ぶ未知が開かれたのだ。マヌエル1世はガマを貴族にし「ドン」の称号と3000デュカットの年金を与えた。あとはこの成功をどう発展させるかにかかっていた。

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カブラル

 1500年、カブラルがヴァスコ=ダ=ガマの航路を採って南南西に向かい、その途中でブラジルを発見し、一時上陸した。そこから大西洋を横断、喜望峰を回ってインド洋を航海し、カリカットに到着。その南のコチンの領主から大量の香辛料を買い取ることに成功したが、カリカット藩王との通商条約締結には失敗した。

 1502年、ポルトガルは再びガマに20隻の船を率いて、インドに赴かせた。ガマは同年10月にカリカットに着き、ここで数百人の乗客を乗せたイスラーム船を焼き討ちしたり、インド人50人を虐殺したりした。そこで1503年2月には、インド・アラブ連合艦隊が押し寄せてきたが、ガマは大砲の威力でこれを撃破し、コーチンの王と通商条約を結び、同年10月、リスボンに帰った。

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ジェロニモス修道院

 その後、インド、東南アジアでは、アルメイダとアルブケルケが大活躍するが、その死後インド方面は大混乱に陥った。そこでポルトガル王は1524年にガマをインド総督としてゴアに派遣した。インドのポルトガル基地は再び復活し、香辛料貿易も盛んになった。

 しかし、病魔が彼を捉えた。悪性の腫瘍がひどくなり、烈しい痛みに苦しみながら、その年の暮れに彼はインドで死んだ。インド航路の発見者であるヴァスコ=ダ=ガマは、彼の輝かしい誇りの国で、その一生を終えたのだった。

 彼の遺体は今、リスボンのジェロニモス修道院に眠っている。

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【 2019/12/01 05:25 】

近世ヨーロッパ史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
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