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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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古都バガン②ーシュエジーゴン・パゴダ

8月19日(月)

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 午前10時5分にニャンウー市場を出て、5分ほどでシュエジーゴン・パゴダに着いた。

 パゴダをミャンマー語だと思っている人もいると思うが、実は仏塔(ストゥーパ)を意味する英語。ミャンマー語ではパヤーと言うので、ミャンマー語ではシュエジーゴン・パヤーと呼ぶ。「シュエ」は金、「ジーゴン」はパーリ語の「勝利、栄光、祝福された土地」と言う意味だ。

 パゴダはミャンマーのストゥーパを指す言葉として定着してしまっているので、このあとはパヤーではなくパゴダを使わせてもらう。

 ブッダの涅槃後にブッダの遺骨(仏舎利)を納めるための塚を造ったのがストゥーパの始まりで、次第に巨大化しインド・サーンチーのストゥーパなどが生まれ、日本にも伝わって五重塔などになった。もちろんすべてのストゥーパに仏舎利が納められているわけではない。しかし、たとえ仏舎利が納められていなくても、ミャンマーではパゴダ=「ブッダの住むむ家」として神聖視されている。だから、パゴダを建てることは、ミャンマーでは「人生最大の功徳」とされ、多くのパゴダが建てられてきた。

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アノーヤター王

 シュエジーゴン・パゴダの建設を始めたのはバガン朝の創始者アノーヤター王である。モン人のタトゥン王国を征服した後の1059年に建設に着手した。

 アノーヤター王の大きな功績はバガンに上座部仏教を導入したことであった。それまで上ビルマでは大乗仏教のアリー派が信仰され、権勢を得ていた。このアリー派は密教的ないかがわしい呪術的儀礼などを執り行っていたという。王はタトゥンからモン人高僧シン・アラハンを招き、説法を聞いて上座部仏教に帰依し、アリー派勢力を一掃。王はスリランカに使節を派遣し、仏歯を招来し、この仏歯を祀るためにシュエジーゴン・パゴダの建設を志したと言われている。

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 しかし、規模が大きかったためか、結局王の在位中には完成せず、次王のチャンスィッターの治世の1090年にようやく完成した。最初はイラワディ川の岸に建てられたが、水害がひどいので後に現在の場所に移された。

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  仏堂の一つから中に入る。

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 中には黄金のブッダが。パゴダの四方には仏堂が建ち、その中にはそれぞれ一体ずつ立ち姿の仏像が置かれている。これらの仏像は「過去四仏」を表したものであり、東はコーナーガマナ仏(倶那含牟尼仏)、西は釈迦牟尼仏(釈迦如来)、南はカッサパ仏(迦葉仏)、北はカクサンダ仏(倶留孫仏)に相当する。仏像はインドのパーラ朝の技術を取り入れており、表情、衣服の表現にパーラ式仏像の影響が見られる。しかし、どの方角の仏堂から入ったのか分からないので、この仏像がどなたなのか分からない。

 過去仏というのは釈迦が悟りを開く以前に悟りを開いたブッダのことで、僕らも仏教を学ぶ中で「過去七仏」というのを習った。過去四仏に、もっと古い時代に悟りを開いたビバシ仏(毘婆尸仏)・シキ仏(尸棄仏)・ビシャフ仏(毘舎浮仏)の3仏を加えたものだ。でも、それは知識として知っているだけで、それを仏像化したものがミャンマーにあるということすら知らなかった。以前スリランカに行ったけど、過去仏の話はいっさい聞かなかった。ミャンマーだけで崇拝の対象となっているのだろうか。

 ちなみに、「七仏通戒偈」というのがあり、僕らも時々お唱えする。七仏通戒偈は過去七仏が説いた共通の普遍的な教えのこと。「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教(悪い事はしない。善い事をする。すると心は清らかになる。これが仏の教えである」。みんなも、是非唱えてね。

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 こちらの仏さまは降魔成道印を結んでいらっしゃるから釈迦牟尼仏かな。

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 シュエズィーゴン・パゴダに祀られているのはブッダだけではなく、37体のナッ神が祀られている。ナッ神はミャンマーに仏教が伝来する以前から民間で信仰されていた土着の神のことだ。アノーヤター王はナッを排除しようとしたが失敗し、従来民衆の間で信仰されていた36のナッ神の上に仏教の守護神タジャーミン(帝釈天)を置いてナッ信仰を認めた。そして37体の像をシュエズィーゴン・パゴダに建て、ナッ信仰が仏教を支えるものであることを強調した。

 写真はパゴダ南西の堂に祀られているナッ神像で、子が上座、父がその下に置かれている、珍しい様式になっている。

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 シュエズィーゴン・パゴダは三層構造の方形の土台の上に、高さ約40mの塔が建てられている。パゴダには金箔が張られ、塔の周囲には本生譚が描かれた陶器の板がはめ込まれている。青空であれば金がもっと映えるんだろうけど、今は雨季だからしようがない。スコールにあわないだけでも良しとしなければね。

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 パゴダの四隅には神獣が鎮座してパゴダを守っているが、これはライオン。

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 ミャンマーのパゴダや僧院をお参りする時は裸足にならないといけない。インドやスリランカでも同じだけど、スリランカの時と違って、地面が熱くないからいい。みなさん砂地のところを歩いているのは、石畳が雨に濡れていて滑るからだ。

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 撮影に余念のない僕の後ろ姿。いつも通り、背中には「南無妙法蓮華経」のお題目が。無言の布教をしているというわけだ。

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 熱心にお参りする人々。ミャンマーは国民の9割が仏教徒だからね。

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 このおばちゃんも何を祈っているのかね。どこの国でも祈る人の姿は美しい。(つづく)


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【 2020/01/29 05:38 】

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古都バガン①ーニャウンウー市場

8月19日(月) 

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 午前8時57分、ほぼ定刻通りにバガン・ニャウンウー空港に到着。

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 バガン・ニャウンウー空港の玄関はミャンマーの伝統的建築様式で造られており、なかなか趣きがある。午前9時23分、近くにあるニャンウー市場に向かう。

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 午前9時35分、ニャウンウー市場に到着。胸につけている緑色の丸いものは、飛行機の乗る時に貼られたワッペン。ヤンゴン航空のシンボルワークである羽の生えた象が描かれている。飛行機を乗り間違えないようにするためらしい。

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 今回の旅ではトラベルイヤホン受信機を使った。ガイドのゼイヤ君の説明を離れていても聞くことが出来るので便利だ。ただし、お寺での説明では有効だが、市場だと役に立たない。

 ゼイヤ君の近くにいる人は売っている商品を見ながら説明を聞いているから分かるけど、離れている人は結局何の説明をしているのか分からない。おまけに「声はすれども姿は見えず」で、ゼイヤ君がすぐ近くにいるように聞こえていても、本人がどこにいるのかさっぱり分からない。

 まあ、文句言ってないで、市場に入ろう。

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 さっそく、「タナカ」を塗ったお姉さん。「タナカ」はミャンマーで使われている天然化粧品で、日焼け止めの効果もあるそうだ。なんかユーモラスな顔で吹き出してしまいそうだけど、みんなで塗れば恥ずかしくない。僕もあとで塗ってもらうから、お楽しみに。

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 これが市場に売っていた原料となる「タナカ」の木。これを少量の水と共に、挽き臼ですり潰して顔に塗る。日本へのお土産としても人気があるらしいけど、植物防疫法にひっかかりますよ。税関で見つかると没収されるかも知れないので、ご注意を。原木ではなくクリームタイプのものか、石鹸を買いましょう。

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 おやっ、この坊やは頭全面に塗ってますね。髪の毛剃ってるから、日焼けするもんね。

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 薔薇を売るおばさん。

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 こちらは野菜売り場です。日本でも馴染みのある野菜がたくさん。右手にはカリフラワー、トマト、キャベツ、大根。オクラはえらいでかいですね。おやっ、瓢箪があります。果肉を食べるんですね。

 左手には人参に、隠元かな。これはまたえらく長い隠元だ。どじょう隠元ならぬ、蛇隠元?

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 えらく混んで来て、ガイドのゼイヤ君は遙かかなたに。

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 こちらは魚の干物。エーヤワディ川で採れた川魚でしょうね。海老の干物もあります。

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 こちらは魚の干物に塩漬け。

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 こちらは生の魚に小海老。地べたで商売です。

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 おや、珍しいおもちゃが売っています。僕らの子供の頃には「パチンコ」と呼んでいたスリングショットだ。Y字型の木にゴム紐を張って、小石とゴム紐を一緒につまんで引っ張り手を離すと、小石が飛んでいく仕組みで、自分で作って遊んだもんだ。

 フランスでは「フロンド」といって、ルイ14世の子供の頃に起きた貴族の反乱である「フロンドの乱」の名前の由来となった。

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 こちらは鶏肉屋さん。ミャンマーの人はあまり牛肉を食べない。仏教国だから宗教的理由からだと思ってしまうが、実はミャンマーの仏教徒はどんな肉でも自由に食べてもいいそうだ。じゃあ、なんで牛肉を食べないのか?現在でもミャンマーでは牛を使って米を作ったり、またはその耕す牛から牛乳をもらったりして生活する人が殆どだ。そのため、農民はもちろん殆どの人は牛肉を食べるのは牛に申し訳ない気がするので牛肉を拒むのが普通のことになっているんだって。

 牛肉を食べる人があまりいないので、牛肉が一番安くて、鶏肉が一番高いんだってさ。

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 もやしに豆腐も売ってる。

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 仏像まで売ってますよ。上段で横になっているのは涅槃像でしょうか。亡くなられたブッダにしては、目がパッチリと開いてますね。スリランカで寝釈迦像があるというのを初めて知ったんだけど、その場合は緊張感を持って足の指がきっちり揃ってなくては駄目だ。この釈迦像の足は揃っていない。あまけに赤いペティキュアをしてるよ。涅槃像か寝釈迦像か、どっちだ?

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 これは、タックンコッカという紙でできた傘蓋【さんがい】で、お寺へお供えするそうだ。

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 タクシーが停まっている。インドでいうオートリクシャだね。

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 おばちゃん、大丈夫?重い荷物を頭に載せて、おまけに手にはキャベツを4個も入れた袋まで持って。腰曲がっちゃってるよ。それにしてもニャウンウー市場の売り子はすべて女性。ミャンマーの母ちゃんたち、頑張ってるね。

 以上、ニャウンウー市場からの報告でした。(つづく)

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【 2020/01/26 05:38 】

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古都バガンへ

8月19日(月) 

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 午前5時55分、ホテルを出て専用バスでヤンゴン空港に向かう。ホテルの玄関に高さ3メートルほどもある気味の悪いでっかい人形が。なんだ、こりゃ?

 帰国してから調べてみたら、ミャンマー版のダルマさんで、「ピッタインダウン」というものらしい。「ピッタインダウン」は直訳すると「投げるたびに立つ」という意味で、ミャンマー人にとっての縁起物。何度投げられても立ち上がり、笑顔を見せることの大切さを伝えているそうだ。

 七転び八起きという意味では、ダルマさんというより、日本の「起き上がり小坊師」だね。このあと土産物屋で小さなものをたくさん見かけた。ひとつ買おうかとも思ったが、お顔があまり好きになれず、やめた。

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 午前6時前の出発だから、朝食はホテルのお弁当。パンとゆで卵とバナナ。空港に向かうバスの中で、ともかく胃袋に流し込んだ。

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 ここでちょっとミャンマーの歴史を勉強しておこう。現在のミャンマーの人口の6割をしめるビルマ人はもとチベットから中国甘粛省のあたりに居住し、南詔に属していたらしいが、8、9世紀ごろから南下し、次第に国家を形成させた。
 
 ビルマ人が南下する以前は、8世紀頃からエーヤワディー川(イラワディ川)中流でピューと呼ばれるシナ=チベット系の民族が国家を建設した。中国の史料では「驃」という字があてらている。インドの影響を受け、仏教が広がっていたが、9世紀に中国南部に起こった南詔に圧迫されて衰え、史料から姿を消した。

 また、イラワディ川下流から海岸部にはオーストロネシア語族のモン人が仏教文化を生み出していた。モン人は、ベトナム人やクメール人と同じく、オーストロアジア語系に属し、現在のタイのチャオプラヤ川流域やエーヤワディー川下流域に居住していた。河川交通を利用した交易で栄え、タイで6~7世紀にドゥヴァーラヴァティ王国を建設した。

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 イラワディ川中流域に南下したビルマ人の最初の統一王朝がバガン朝である。1044年、バガンに都を置いたアノーヤター王がモン人のタトゥン王国を征服し、バガン朝を建設した。モン人はスリランカの高度な上座部仏教の文化の影響を受けていたので、バガン朝はそれを取り入れ、首都バガンに多くのパゴダ(仏塔)を建造し、建寺王朝と呼ばれた。

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今回の旅ではバガンを皮切りに、ミャンマー中央部を時計回りに旅をする。ヤンゴン →バガン→マンダレー→ヘーホー→ヤンゴンと、国内線に4回も乗る贅沢な旅だ。旅費が高つくが、バスだと時間がかかるのでしようがない。


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 25分ほどかかってヤンゴン空港国内線ターミナルに着いた。僕たちが乗るのは、午前7時30分発のヤンゴン航空917便。使用機材はATR 72 (XY-AIM)。ATR 72はフランスとイタリアの航空機メーカーが合弁事業で興したATR製のターボプロップ双発旅客機で、定員は72名。

 定刻よりやや遅れて、午前7時44分テイクオフ。

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 僕のシートは9D。目の前にプロペラがあり、五月蠅い。

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 午前8時10分、朝食が出た。

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 中身はメロンパンとチョコレートパンにビスケット。さっき弁当を食べたばかりだが、完食。あと、50分ほどで、いよいよバガンだ。(つづく)

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【 2020/01/22 05:40 】

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アウンサン将軍のこと知ってる?

8月18日(日)

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 午後4時20分に空港を出て、45分ほどで夕食会場の「ハウス・オブ・メモリーズ」に着いた。

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 150年以上前に建てられたコロニアル様式の屋敷を改装したレストランで、総チーク造りの建物はイギリス植民地時代のクラシカルな雰囲気が色濃く残されている。

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 何はともあれ、無事到着を祝ってビールで乾杯!ミャンマー・ブルワリー製造のビールで、銘柄は直球ど真ん中に、そのままミャンマー・ビール(Myanmar Beer)。1997年から販売が始まったミャンマーではそれなりの歴史があるビールブランドで、過去にモンド・セレクションも受賞し、国際的な認証も得ているそうだ。

 「アジアで最も美味しいビール」と脚光を浴びているそうだが、アルコール度数は5%だけど、薄く感じると言うか、味がさっぱりしていていると言うか、パンチがないと言うか。まあ、飲みやすいので、どんどん喉に入っていく。ちなみに、ミャンマー・ブルワリーは2015年にキリン・ホールディングスに買収されたそうだ。

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 充分に喉を潤したところで、いよいよミャンマー料理だ。隼人瓜の天ぷらに始まって、マンゴーと豚肉のカレー、ビーフカレーなどと続き、〆のデザートはココナッツのかかった白玉団子のようなお餅。どれもこれも不味くはないが、特別美味しいわけでもない。外国人観光客向けにアレンジしてあるようで、食べやすいのは食べやすいのだが、これがミャンマーだという主張がない。

 ミャンマー料理は辛いだろうという先入観があったが、ミャンマーでは残念ながら香辛料はとれないそうで、インドやタイのようにパンチが効いていない。

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 誰かに見られているような視線を感じてふと見上げると、優しいお顔のブッダが。口元は法隆寺の救世観音に似ておられる。このお屋敷の仏間らしいが、撮影は禁止だ。

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アウンサン将軍

 この写真の人物をご存知かな?「ビルマ独立の父」と仰がれているアウンサン将軍だ。アウンサンは1938年から「われらビルマ人協会」のリーダーとして活躍した。この協会はビルマではビルマ人がタキン(主人)であるとして、党員すべてが自分の名前にタキンを冠して呼び合ったので、タキン党と呼ばれるようになった。 タキン党は反英独立闘争を展開し、日本軍の援助で1941年にタイのバンコクでビルマ独立義勇軍を創設した。

 太平洋戦争の開戦後、1942年、日本軍がビルマ侵攻を開始すると、日本軍とともにビルマに進軍し、日本軍政下で表面は協力しながら地下活動の共産党などと連絡を取り、密かに抗日運動を準備した。43年、独立義勇軍も参加して反ファシスト人民自由連合を結成、45年3月から反日闘争を開始した。

 1945年8月、日本軍敗退後は、再び植民地支配を行おうとしたイギリスと戦い、47年イギリス首相アトリーの間で独立協定に調印した。1948年1月に独立宣言が発表されることになっていたが、その直前の47年7月に政敵ウーソオによって暗殺された。

 ウーソオは直後に政府首班となったウーヌーにより逮捕され、裁判で死刑判決を受け1948年に処刑された。死ぬ間際に「嘘!」と言って死んだというのは、嘘。ウーソオは自分の野心のためにアウンサン将軍を暗殺したとされているが、日本と組んだアウンサン将軍を許せないイギリスが黒幕だったという話もある。

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 実はこのお屋敷はアウンサン将軍が独立運動の指揮を執っていた建物をそのままレストランにしたもので、2階にはアウンサン将軍の執務室がそのまま残されている。デスクには実際に使用されていたタイプライターが置かれるなど、当時の姿を今に伝えている。

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 不謹慎かとは思ったが、僕もアウンサン将軍になったつもりで、座ってみた。タイプライターをうつホンジュン将軍です。(笑)

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 部屋には歴史を物語る数々の写真も展示されており、中でもアウンサン将軍と子供達を写した写真が目を引いた。アウンサン将軍の子供は2男2女。現在ミャンマー国家顧問のアウンサンスーチーは長女なので、左の女の子が彼女だ。やっぱり髪にはトレードマークの花をさしてる。

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アウンサンスーチー

 アウンサンスーチーはミャンマー民主化運動のリーダーとして、1991年にノーベル平和賞を受賞。「人権の女神」と呼ばれていた彼女だが、最近はロヒンギャ問題に対する対応で国際的に非難を浴び、このところの人気凋落ぶりは凄まじい。

 国際的には評価の高かった彼女だが、実際のところミャンマーの国民はどう思っているのだろか。というのは、彼女の夫であった故マイケル=アリス氏はイギリス諜報部の幹部であった。民主化の名の下にミャンマーを資本主義化して、豊富な天然ガスの権益を取ろうとする英・米が送り込んだ謂わばスパイだ。「チベット研究家」とされているが、本当は英国諜報部MIー6のメンバーで、ある確かな意図を持って彼女に近づいたのは明白である。

 そんな男と結婚したスーチーを国の指導者として認めているのだろうか。本当はその辺のところの本音をゼイヤ君に聞いてみたかったのだが、神経質な問題でもあるので結局聞けなかった。

 ちなみに、アウンサンスーチーがアウンサンの娘だから、アウンサンが名字だと思っている人がいると思うけど、実はミャンマー人には名字がない。だから、アウンサンスーチーも全てがファーストネームなんだ。そのため、「家」の概念も希薄で、「祖先を祀る」や「家が絶える」「嫁に入る」といった東アジアの考え方とは程遠い価値観を持っているんだ。

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 午後6時40分に食事と見学を終え、ホテルに向かう。途中でバスを停め、ライトアップされたシュエダゴン・パゴダの撮影。暗闇に浮かぶ黄金のパゴダが美しく、神秘的だ。

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 午後7時30分、ホテルに到着。今晩泊まるホテルはスカイ・スター・ホテル(写真は翌朝撮影したもの)。空港とヤンゴン市内の中間に位置したホテルだ。厳重なボディチェックを受けてフロントへ。

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 なかなか小綺麗なホテルだが、今回は寝るだけ。

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 僕の部屋は902号室。部屋のカードキーは使い回しなので、紛失すると10ドルの罰金だ。

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 ん、部屋の片隅に見慣れないものが。「过滤式消防自救呼吸器 TZL30」。火災の時に自分を救うために使うガスマスクだとは分かるが、最初の「过滤」の簡体字2文字が読めない。帰国してから調べた。繁体字で書くと「過濾」になり、要するに濾過【ろか】のことだ。つまりフィルター式ガスマスクだが、ガスマスクを置いてあるホテルは初めてだ。

 でも、こんなんで火災の時に本当に助かるんかいな。だいたい中国語で書いてあるから使い方分からんだろうが。

 明日は午前7時30分発の国内線でバガンに向かうので、朝が早い。もう寝ましょ。おやすみなさ~い。(つづく)

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【 2020/01/19 05:40 】

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な、な、なんと、 ヤンゴン空港に北鉄バスが!!!!

8月18日(日)

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 午前9時15分、第1ターミナル南ウイングBCカウンター前に全員集合。金沢から来た12名に、愛知から2名、東京・神奈川から4名、それにいつもの添乗員O君を入れて、総勢19名が揃った。初めてお目にかかるのは5名だけ。あとはいつもの呑兵衛たちだ。

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 午前11時30分発の全日空813便でヤンゴンに向かう。使用機材はボーイング767-300。

 そうそう、ヤンゴンの昔の名前はラングーンで、ビルマの首都だったよね。1989年に国名をビルマからミャンマーに変更した時に、ヤンゴンに改称されたんだ。ミャンマーの首都だと思っている人が多いと思うけど、2006年から首都はネピドーに遷っている。

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 僕のシート番号は26Hで、また翼の上。午前11時30分、定刻通りにテイクオフ。

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 3年前のインドの旅では日本航空を利用したが、日本の航空会社を使うメリットは、何と言ってもエンターテインメントだ。日本語だから長時間のフライトも苦にならない。ウィスキーのダブルのロックをお願いし、笑福亭鉄瓶の「野ざらし」を聴きながらチビリチビリ。

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 午後1時30分、待望の昼食だ。「シーフードのトマト煮込みバジルソース」か「長野県産リンゴジュースでマリネした照焼チキンカレー」を選べる。ミャンマーでの食事はカレーが多くなるとは思ったが、僕はカレーを選んだ。

 このあとデザートにハーゲンダッツが出て、さらに「茅乃舎【かやのや】」のスープまで出た。全部美味しかったけど、太巻きは余計だったかな。  

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 予定よりも30分早く、午後3時35分ヤンゴン空港に到着。ミャンマーと日本との時差は2時間30分だから、日本時間では午後6時5分。フライト時間は6時間35分だ。

 おやっ、空港内に見慣れたオレンジ色のストライプのバスが停まっている(シャッターチャンスが無かったので、写真はネットからの借り物)。よく似たデザインのバスもあるもんだと思って、よくよく見ると、乗降口に「出口」と書いてあるではないか。そう、わが石川県の北陸鉄道のバス、それも「北鉄奥能登バス」だ。

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 このあと北鉄のバスを見かけることはなかったが、ミャンマーの街中にはほぼ当時のラッピングのままの日本の中古バスが溢れていた。パキスタンでも日本語が書かれた中古バスが走っていたけど、ミャンマーはその比じゃない。まるで昭和時代の日本製中古バスの博物館だ。

  もちろん塗装に金をかけたくないからそのまま使っているんだろうけど、それだけではないような気がする。ミャンマーの人々はきっと日本のことも、日本語も好きなんだ。日本での役目を終えたバスたちが、ミャンマーの人々に愛されて第二の人生を送り、ここで終焉を迎える。なんか涙が出そうになる。

 ミャンマー政府は2018年に右ハンドルの中古車の輸入を禁止した。あっ、ミャンマーは右側通行、左ハンドルね。だから、これだけ多くの日本の中古バスがミャンマーの道路を走っているのを見られるのは、あと数年の間だけなのかも知れない。

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ガイドのゼイヤ君

 午後4時7分、入国審査完了。空港で僕らを出迎えてくれたガイドさんはゼイヤ君。東京に留学した経験のある38歳の青年。日本語はまずまずかな。

 さっそく聞いてみたら、ミャンマーを走っている車の9割は日本車だそうだ。新車販売ではスズキがシェア52%と頑張っている。スズキはインドでもシェア50%以上を誇っており、なんともアジアに強いメーカーだ。

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 今回は特に欲しいものも無いし、ドルは持って来なかった。となると、チャット頼みなので、早速ゼイヤ君に両替してもらった。5000円札1枚がこれだけのお札になって、なんか得した気分。

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 これが計算書。5000円が65,000チャット(KS)。13チャットで1円。腹も減ったし、両替も済んだし、さあ晩飯喰いに行こうぜ。(つづく)


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【 2020/01/15 05:42 】

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パゴダの国ミャンマーへ

8月17日(土)  

 2017(平成29)年8月にスリランカを旅してからまる2年。どこかに行きたくてうずうずしていたところに、F上人からのお誘いがあって今回はパゴダの国ミャンマーへの旅となった。

 8月18日午前11時25分成田発の全日空813便でヤンゴンに向かうのだが、小松成田便は午後にしかなく、やむなく前日の17日に成田へ飛ぶことになった。ところが成田便の席がとれず、結局羽田に飛んでリムジンバスで成田空港第2ターミナルに着いたのが午後7時27分、ホテルに到着したのは7時50分になってしまった。

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 ホテルは成田エアポートレストハウス。2013(平成25)年にトルコ・ウズベキスタンの旅の時にも利用したホテルだ。その時の晩飯はわざわざ成田空港第1ターミナルまで出かけて行って、「京成友禅」という店で大宴会となったのだが、今回は時間が遅い。出かけて行く元気もないので、ホテル内のレストランでの晩飯となった。

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 同行の皆さんの多くはカレーなんぞを食べておられるが、僕はなまぐさ坊主だから、晩酌をせずに寝るわけにはいかない。刺身の盛り合わせ、唐揚げ、ガーリックシュリンプを肴に手酌酒。酒は地元千葉・飯沼本家の「甲子【きのえね】」。印旛沼のほとりの町・酒々井【しすい】で造られた酒で、12代目当主が甲子の年の生まれだったことからつけられた名前だそうな。辛口でなかなかいける。

 さあ、これで今夜はぐっすりと眠れるぞ。(つづく)

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【 2020/01/12 05:40 】

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世界史のミラクルワールドー波瀾万丈の人生・セルバンテス

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セルバンテス

 セルバンテスはイダルゴ(下級貴族)の家の次男として、1547年9月29日にマドリード近郊のアルカラ=デ=エナーレスで生まれた。父は外科医であり、祖先を1492年以前にさかのぼるとユダヤ人だったとして、セルバンテスはコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)もしくは新キリスト教徒ではないかという研究者もいる。

 少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれていれば手にとって読むほどの読書好きであったが、父の仕事がうまくいかず、バリャドリード、コルドバ、セビーリャと各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかった。だが1564年ごろ、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス=デ=オヨスに師事する。オヨスは1568年に出版された詩文集にてセルバンテスを「わが秘蔵の弟子」と呼び、高く評価した。

 1569年に教皇庁の特使であったアックアヴィーヴァ枢機卿の従者としてローマに渡り、ナポリでスペイン海軍に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。

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レパントの海戦

 1571年、24歳の時にスペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦に参加したが、被弾して左腕の自由を失った。しかし、その後も4年間従軍を続け、チュニスへの侵攻にも参加している。

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バルバリア海賊との海戦

 ところが、本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となってしまう。このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送った。この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、定かではない。

 三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に最初の作品牧人小説『ラ=ガラテーア』を出版するが、あまり評価されなかった。

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アルマダ海戦

 1585年に父親ロドリーゴが亡くなると、セルバンテスの家庭は本人・姉・妹・姪・妻・娘(私生児)の6人家族となり、稼ぎ手の少ない家計は逼迫した。18歳年下の富農の娘と結婚したが、妻に嘲られて文筆生活を中断し、生計のために無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発したかどで投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失ってしまった。

 その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、併せて負債として30倍の追徴金を背負わされ、未納金につき1597年に投獄される。

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『ドン=キホーテ』の表紙

 1605年、獄中で執筆したと思われる『才気あふれる郷士ドン=キホーテ=デ=ラ=マンチャ』をマドリードで刊行して一躍有名となった。『ドン・キホーテ』は出版されるやいなやたちまち大評判となり、同年中に6版が重ねられた。『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、版権を安く売り渡していたため、生活面での向上は得られなかったが、その後も創作活動は続けられた。

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『ドン=キホーテ』の挿絵

 この不朽の名作『ドン=キホーテ』は、政治・道徳の退廃した時代にあっては、崇高な理想も現実と衝突して無惨に敗北することを風刺したもので、騎士ドン=キホーテと従者サンチョ=パンサの2人を巧妙に描き分けた。笑いとペーソスに満ち、豊かな筋・場面の急速な転換・669人という多数の登場人物の描き分け・各地の地理や風俗描写など、スペインのルネサンス文芸を代表するとともに、近代小説の祖となった。ただ、セルバンテス自身は詩人を志したといわれ、これがいわば手すさびの作品であったことは皮肉である。

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シェークスピア

 セルバンテスは1616年4月23日に亡くなったが、イギリスのシェークスピアと死亡した日が同じであるとされることが多い。しかし、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる暦を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年にローマ教皇がユリウス暦からグレゴリウス暦へ暦の変更を決定し、大陸のカトリックやプロテスタントの国々が順次変えていったのに対し、当時のイギリスは、カトリック教会の権威が及ばないイギリス国教会が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからである。

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【 2020/01/08 05:35 】

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世界史のミラクルワールドーわが命つきるとも・トマス=モア

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トマス=モア(ホルバイン作)

 トマス=モアは1478年、ロンドンで弁護士・判事の子に生まれ、オックスフォード大学で神学を学んだが、父の希望で弁護士となった。

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エラスムス(ホルバイン作)

 モアは若い頃、ロンドンにきたエラスムスと知り合い、生涯の友情を結んだ。エラスムスの『愚神礼賛』はロンドンのモアの家で書かれ、モアに献呈されている。エラスムスは旅行中に着想した諷刺文をわずか1週間程度の短期間で一気に書き上げたと言われている。

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ホルバイン

 ちなみに、トマス=モアとエラスムスの肖像は、どちらもドイツ生まれの画家ホルバインの作である。スイスのバーゼルでエラスムスと出会ったホルバインは、1526年にエラスムスの紹介で、トマス=モアを頼ってロンドンへ渡り、1536年には年30ポンドの契約でイングランド王ヘンリ8世の宮廷画家となった。ホルバインはヘンリ8世から大いに気に入られたようで、ヘンリ8世自身の肖像画をはじめ宮廷の関係者たちの肖像画を多数製作している

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『ユートピア』

 その後モアは政界に入って下院議員・ロンドン副長官を務め、ヘンリ8世の信任を得てナイトに叙された。1515年、外交交渉の一員としてオランダに渡り、アントウェルペンに滞在中に『ユートピア』を書き始め、翌年ロンドンで発表した。『ユートピア』は理想社会を託した架空の島名で、「どこにもない」の意味である。

 モアは『ユートピア』でイギリス社会の不合理・不正、特に当時の「エンクロージャー(囲い込み)」を激しく批判し、「優しい羊どもが人間を喰い荒らしている」と表現した。

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ヘンリ8世(ホルバイン作)

 『ユートピア』を発表した翌1517年、ルターが「九十五カ条の論題」で教会・教皇を批判し宗教改革が始まった。宗教改革の嵐がイギリスまで及ぶと、宗教界は大きく揺らぎ始めた。司法関係の要職に就いたモアは、ローマ教皇から「信仰擁護者」とされたヘンリ8世を支持し、宗教上の異端を激しく糾弾、カトリック思想への強烈な忠誠を尽くした。

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カザリン

 ところが、ヘンリ8世は男子世継ぎを得るため王妃カザリンとの離婚騒ぎを起こす。1529年、王の離婚許可を教皇に交渉して失敗したウールジーの後を受けて、モアは俗人としては初めて大法官に就任、ますますヘンリ8世の信任は深まった。

 しかし、モアはローマ教会の認めない離婚は不可であるとし、さらにヘンリ8世がローマ教会からの分離を図った首長法(国王至上法)の制定に対しても、俗人が教会の首長となることは不可能であるとして賛成せず、1532年に大法官を辞任した。

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ロンドン塔

 その後もモアは王の設立した国教会や首長法に反対したため、査問委員会にかけられ、反逆罪とされて1534年4月17日、ロンドン塔に幽閉された。

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モアの逮捕と処刑

 1535年7月6日、15ヶ月近く幽閉されていたため見るかげもなくやつれていたモアはついに処刑のために塔から引っ張り出された。その朝、ヘンリの使いが来て、刑場で群衆に向かって余り物をいわないようにとの命令を伝えた。

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「モア家の人々」(ホルバイン作)右から2人目がマーガレット

 途中で長女のマーガレットはモアの姿を群衆にまじってじっと見ていた。その際やせ衰えたモアに一人の婦人がすすみよって葡萄酒をすすめたが彼はそれを辞退した(マーガレットその人であったかもしれない。)モアはゆっくり断頭台にのぼり、ひざまずいて・・・・「詩編」51編を誦した。いよいよ最後になった時、モアはその場にいた人々に向かって「どうか私のために祈って下さい、そして私が聖なるカトリック教会の信仰を持ち、またその信仰のために、ここに死刑に処せられると言うことの事実の証人となって下さい。」といった。

 また伝説的な物語として、一度首きり台に首を横たえてから、また急に首斬人に向って「一寸まってくれ、髯をのけるから。この髯だけは大逆罪を犯していないからね。」といったという話がある。かくして、「法の名の下に行われたイギリス史上最も暗黒なる犯罪」が行われた。

 モアの頭はロンドン橋の上に曝された。モア家には、こういう話が伝わっている。ある日、彼の娘のひとりが橋の下を通りすがりに、父親の頭を仰ぎ見て、こう言った。「あのおつむりは、なんど私の膝の上で眠ったことでしょう。どうか神様、下を通ります私の膝に、あのおつむりを落として下さいませ。」彼女の願いは叶えられて、頭は彼女の膝の上に落ちた。そして今は、カンタベリー大聖堂の納骨所におさめっれている。

 モアは1935年にカトリック教会の殉教者として列聖され、死後400年を経て聖人となった。

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【 2020/01/05 05:33 】

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世界史のミラクルワールドーそれでも地球は動く・ガリレイ

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ガリレオ=ガリレイ

 ガリレイは1564年にトスカーナ大公国領ピサで生まれた。ガリレイ家はフィレンツェに古くから伝わる名家ではあったが、ガリレオが生まれたころは裕福とはいえなかった。 有名な音楽家であった父の医学を学ぶようという希望から17歳でピサ大学に入学したが、のち数学・物理学に転向した。

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 1583年、大学在学中のガリレイはピサ大聖堂内部のランプが揺れるのを見て、振り子の長さが同じ場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じだ、と気づいた。「振り子の等時性」の発見である。しかし、これは後世に伝わる逸話で、どのような状況で発見したかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。

 1589年、25歳でピサ大学教授となったガリレイは、当時物理学の分野で最高権威とされたアリストテレスの著作を批判する見解を発表したが認められず、1592年にヴェネツィア共和国内のパドヴァ大学教授に転じた。

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ピサ大聖堂と斜塔

 1605年、「落体運動の法則」を発見する。 落体の運動は、アリストテレスによって「落ちる物体の速度は、その物体の重さに比例する」とされており、いかなる学者もこれを否定することがなかった。 なぜなら鳥の羽がゆっくり落ちることは視覚的に確認でき、これが大きな説得力になっていたためである。 ガリレイは空気の抵抗に着目し、表面積が大きく軽い物体は空気抵抗によりゆっくり落ちるのだろうと仮定した。

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 ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せ、これを証明した。アリストテレスの間違いがこれほどはっきり照明されたことは、かつて一度もなかった。しかし、この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ=ヴィヴィアーニの創作で、実際には行われていないとする研究者も多い。

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  1609年の夏、45歳のガリレイは、オランダで発明された望遠鏡に2つの凸レンズを組み合わせて天体観測に使えるように改良した。ガリレイがその望遠鏡を天空に向けたとき、宇宙に関する古い観念を捨て去り、コペルニクスの理論を一層有利にする事実が明らかになった。例えば、完全な球体と考えられていた月の表面はでこぼこした不規則な形をしていた。金星を観測すると、月と同じように満ち欠けが見られ、自分で光っているのではなく太陽の光が反射していることが判った。そして、それは地球ではなく太陽の周りを回っていることの証であった。

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木星の衛星

 望遠鏡による最も大きな発見は、木星の4つの衛星の発見であった。それは、全ての天体が地球の周りを回っているとした天動説が誤っていることを指摘し、 星々が動いているのではなく地球が動いているのだとしてコペルニクスの地動説を支持するものであった。彼は様々な発見を含む観測結果をまとめて『星界の報告』を発表した。

 さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった。ちなみに、ガリレイは晩年に失明しているが、望遠鏡で太陽を観察したのが原因であったと考えられている。

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ジョルダーノ=ブルーノの火刑

 ガリレイは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。しかし、木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレイは、この後、地動説に言及することが多くなった。しかし、それはガリレイに危険が迫ることでもあった。

 1600年には地動説を主張したために、ドミニコ派の修道士ジョルダーノ=ブルーノが宗教裁判にかけられ、異端として火刑に処せられている。

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ガリレオ裁判
 
 1616年、ガリレイはローマの異端審問所に召還されて第1次宗教裁判にかけられ、ガリレイは自説の発表と教授を禁止され、あわせてコペルニクスの地動説もローマ教皇の禁書目録に加えられることになった。しかし、ガリレイは、聖書に書いてあることは古代のヘブライ人の見解にすぎず、キリスト教の教えそのものではないと割り切り、自己の研究を続け、1632年には『天文対話』を発表した。その書は天動説と地動説に立つ二人の学者の対話を通じて、天動説を批判し、地動説の正しさをわかりやすく論証したものであった。彼はこの書を、学者だけでなくあらゆる人たちが読めるようにイタリア語で出版した。

 それに対してイエズス会の宣教師たちはガリレイが1616年の裁判の決定を守っていないとして、強硬に非難した。そのため翌年、ローマで第2次宗教裁判にかけられることとなり、すでに70歳になっていたガリレイはローマに連れて行かれ、監禁状態で裁判が進められた。本人欠席のまま審理が進められ、ほとんど弁解の機会は与えられず、1632年6月22日の判決はガリレイの説を異端説であると断定し、『天文対話』も禁書目録に入れられ出版が禁止された。ガリレイは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた後、「それでも地球は動く」と呟いたと伝えられるが、これは伝説である。

 ガリレイは1642年に77歳で息を引き取ったガが、家族の墓地に葬ることも、弔辞を読むことも、碑を建てることも禁止された。

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ヨハネ=パウロ2世
 
 1979年11月10日、ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世は、アインシュタイン生誕100年の祝典のなかで、「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」と題する講演を行い、ようやくガリレオ裁判の見直しに着手した。そして、1983年に裁判が誤りであったことを表明、翌年調査委員会も同様の結論に達し、ガリレイは約350年ぶりに無罪が確定した。

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【 2020/01/01 06:13 】

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