なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ブッダが予言したと言われる場所が、標高 236 メートルのマンダレーヒルのふもとである。ミンドン王は、その予言を実現させることを決意し、アマラプラの王国を統治していた1857年1月13日に、新たな王国を創設する勅令を発した。登位記念式典は1858年1月に挙行され、それまでの王都アマラプラは解体されて、象によりマンダレーヒルのふもとの新立地に運ばれた。
マンダレーの町は1859年5月23日に完成し、翌1860年にアマラプラからの遷都が行われた。しかし、1885年の第3回ビルマ戦争に敗れたミャンマーはインド帝国に併合され、この町はわずか26年で王都としての歴史を閉じた。
入り口の石柱には「Golden Palace Monastery(黄金の宮殿の僧院)」の文字が。シュエナンドーとは「黄金の宮殿」という意味があり、その名の通り当時は建物に金箔やガラスのモザイク装飾が施され黄金に輝いていたそうだ。
ミンドン王を継いだティーボー王は建物を王宮の城壁外である現在の場所へと移し、個人的な瞑想の場所として使った。マンダレーの王宮は1945年にイギリスの空爆で焼失してしまうが、シュエナンドー僧院は移築したおかげで戦災を逃れる事が出来た。現在残るミャンマーの伝統的な様式の建築物の中でも歴史的価値の高い貴重な建物と言える。
ティーボー王の隣に座っているのが王妃のスパラヤットだが、異母妹だと聞いて、開いた口が塞がらなかった。いくら母親が違うと言っても、妹と結婚する奴がいるか?おとうさんよりももっと不道徳ではないか。
これは明らかなる政略結婚で、力が弱く瞑想に耽ってばかりいる若いティーボーを国王にしておいて、スパラヤットを含む保守派が巻き返しを図るためであったようだ。これにより、王位継承資格者約80人が捕えられて処刑され、王国の近代化は挫折した。
おやっ、日本のお寺で言えば内陣にあたる所に「女人禁制」の札が。
そんなわけで、仏像に近づけたのは、男だけ。ミャンマーの女性達は素直に従っているのだろうが、今時ね~。上座部仏教の教団は女性差別ではないと言っているようだが、明らかに女性差別ですよ。もし、禁制を犯して女性が内陣部分に足を踏み入れたら、どうなるんかね。不謹慎だけど、抗議の意味を込めて一度やってみても、いいんじゃない。
1885年、コンバウン朝は滅亡し、ティーボー王と王妃はインドに追放された。インドのラトナギリには現在でもティーボー王の子孫が暮らしているそうだ。
この仏像はコンバウン朝の最後を見ていたのだろうか?悲しみに沈んだお顔のようにも見えるが、気のせいだろうか。(つづく)
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ウー・ベイン橋はタウンタマン湖をまたいで架かる全長1.2kmの橋。ここアマラプラの南にあるインワという町の歴史は古く、1364年にシャン族の都となって以来、約400年間ビルマ人王朝の都として栄えた。コンバウン朝もインワに都を置いたことがあるが、1841年にターラーワディー王がアマラプラに遷都し、その後都がこの地へ戻ることはなかった。
この橋は1849年にアマラプラの市長にあたる人物であったたウー・ベイン(ウーは敬称なので、ベイン氏)がイ、ンワの旧王宮のチーク材を再利用して造った。ということは、今から170年も前に造られた、世界最長の木造の歩道橋ということになる。
なんと、1086本の木製の橋脚がこの橋を支えている。水面から橋床までは5mくらいの高さがあり、幅員は3m程でやや狭く欄干はない。アマラプラの町で飲んで帰る時は気をつけないと、タウンタマン湖に落ちてしまう。橋床はスノコ状のチーク材で、3cm位の隙間が空いていて、下が丸見え。高所恐怖症のお方はちょっと辛いかも。

30分程ウー・ベイン橋を見学した後、近くの絹織物工房へ。薄暗い室内で大きな織機に二人ずつタナカを塗った姉ちゃんがついて、一生懸命に機を織っている。
食事が終わって紅茶を頼んだら、白湯の入ったカップとティーバッグが出て来た。長いこと海外を旅して来たけど、こんな手抜きは初めて。もっとちゃんとやれや。

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ここが食事会場なんだけど、「撮影禁止」と書いてある。以前は撮影可能だったらしいけど、マナーを守らない人が多くなって、禁止になったみたいだ。マナーを守らないのは、どこの国の奴だ?そりゃあ当然、ゼイヤ君も言ってた「かの国」の人ですよ。
そこで、こっそり撮らせていただいたんだけど、結構豪華な食事のようだ。途中でお菓子なんかも布施してもらってるんで、量的には充分過ぎるほどあるように見える。坊さんは余った食料を保存することも戒律違反になる。そこで、坊さんは食料を寺男であるカッピヤに放棄し、カッピヤが保存して次の日にお布施するという形をとれば問題ないそうだ。
「もしご飯が余っているようでしたら、是非私たちに布施してください」とばかりに、集まって来ている人がいた。でも、誰一人あげている様子はなかった。
私も欲しいワン。
おや、僧院の門のライオンの像の下に猫が。私ご飯なんか要らないから、寝かせてくれ。観光客が五月蠅くて、寝られん。
坊さんが洗濯物を干してあったので、ゼイヤ君が説明してくれた。さて、これは衣でしょうか?袈裟でしょうか?袈裟が正解です。ミャンマーのお坊さんは衣を着ていない。ブッダが定めた袈裟を今でも変わらず纏っている。
袈裟はサンスクリット語の「Kasaya」を音訳したものだが、もとの意味は「混濁色」のことだ。捨てられたぼろ布、死体置き場におかれた死者の衣服などの端布を拾い集め、綴り合せて、身を覆う布を作り、草木や金属の錆を使って染めたので、混濁色になった。もちろん欲望を捨てるためにブッダはそう定めたのだが、われわれ日本の坊さんは赤だの紫だのカラフルな袈裟を着ける。欲を捨てたはずの坊さんが、位に応じた色の袈裟を着け、名誉欲丸出しなのは何とも恥ずかしい限りだ。
上座部仏教の坊さんは三種類の袈裟を身に纏う。腰から足首にかけて着る「下衣」、身体全体を覆う「上衣」、そして肩からかける「大衣」である。「大衣」は寒い時などに覆うものであるが、今では儀式などの時に左肩に乗せる装飾となっている。「衣」と言ってるけど、あくまでも「袈裟」だからね。物干しに干してあるのは「上衣」だね。
ブッダは初め女性の出家を認めていなかったが、養母のマハーパジャーパティのたっての願いと、アーナンダの取りなしで、女性の出家を認め、比丘尼サンガが生まれた。しかし、比丘尼サンガは早い時期に消滅してしまったそうだ。ブッダの教えに新しく加えず、取り除かずという上座部仏教の大原則から、比丘尼サンガが再興されることはあり得ないんだって。
ということで、ピンクの袈裟を着けている女性は、ビルマ語で「戒を保つ者」を意味するティラシンと呼ばれている。彼女たちは8戒しか義務づけられておらず、律を守る必要はない。だから、金銭を扱うことや料理などの日常の雑事に携わるなど、男性僧侶の生活を補助している。
そうだ、ブッダもチュンダの供養したスーカラマッダヴァを食べて腹を壊したとされている。スーカラマッダヴァを毒キノコだと言う人もいるが、豚肉のことだ。ブッダが自らすすんで肉を食べることはなかったが、供養されたものを断ってはいけないので、ブッダも肉を食べていた。そのことを知りながら、上座部仏教の坊さんは肉を食わないという思い込みがあった。
ミャンマーのお坊さんは、僕と一緒で生ぐさなんだ。鶏肉だけじゃなくて、牛だって豚だって食べていい。食べていけないのは、自分のために殺されたのを直接見たり、殺されている動物の鳴き声などを聞いたり、自分のために殺されたのではないかと疑いのある肉。だから、市場で売っている肉は不特定多数の人々に用意されたものなので、食べてもいいことになる。
その他に食べてはいけない肉は次の10種類。馬、象、ライオン、豹、虎、熊、犬、ハイエナ、蛇、それに人だって。僕の周りには「人を食ってる」坊さんいっぱいいるけどね。

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おはようございます。昨日は長い一日でしたが、今日も長い一日になります。飛行機のフライト時間が早いので、午前6時に朝食です。
チケットにはシートナンバーが書いてない。この飛行機は自由席だ。こんな機会はめったにないと1Aに座った。そう一番前の席だ。こんなこと人生で初めてと喜んだのだが。午前8時48分、マンダレー空港に到着。
ところが、周りの人をみても降りる様子がない。何分経っても下りる気配がないので、後ろを振り向いたら、半分以上の人が降りてしまっている。その時、気づいた。この飛行機はマンダレー空港が終点ではなく、ヘーホー空港まで行くんだ。慌てて降りた。
下手するとヘーホーまで行くところだった。危ない、危ない。添乗員のO君の「遅かったですね」と言われたが、知らん顔しておいた。
コンバウン朝はタイに侵攻し、1767年にアユタヤ朝を滅ぼす。アユタヤ遺跡の仏像の首を刎ねたのは、コンバウン朝なんだ。
コンバウン朝は何度か都を変えているが、1860年にミンドン王が新たに建設したのがマンダレーで、ビルマ王朝最後の首都となった。
午前10時、話をしているうちにマハーガンダーヨン僧院に着いた。この僧院には明日来る予定だったんだけど、天気予報で明日は雨だというので急遽予定を変更することになった。何故かはもう少ししたら分かる。
たくさんの人(おおかた中国人)が道路の両側に並んで、今か今かとその時を待っている。まだ、少し時間がかかりそうだから、話を続けよう。
マハーガンダーヨン僧院はマンダレーの南11kmのアマラプラという町にある、ミャンマー最大級、最高位の僧院で、全国から集まった1500人の僧侶が修行生活を送っている(ガイドのゼイヤ君によれば、現在は600~700人らしい)。アマラプラはパーリ語で「不死の町」という意味で、ボードパヤー王とターラーワディー王の時にコンバウン朝の都が置かれたこともある。
ボードパヤー王はコンバウン朝ビルマの第6代国王で、歴代のコンバウン朝の国王が進めてきた対外膨張政策の絶頂期を作った王だ。1784年に現在のミャンマー南西部にあったアラカン王国を征服し、さらに東北インドのアッサムとマニプールの藩王にも忠誠を誓わせた。結局これがインドを支配するイギリスを刺激してイギリス=ビルマ戦争に繋がり、ビルマがイギリスの植民地となる遠因となってしまう。
ボードパヤー王は征服欲だけではなく性欲も相当なものだったようで、62人の息子と58人の娘をもうけているそうだ。すっげぇ。

午前10時を少し過ぎた頃、みなさんのお目当てが現れました。そう、この僧院に住む坊さんたちが托鉢にやって来ます。
ぞくぞくとやって来ます。見物客は規制ロープから身を乗り出して、写真を撮るのに懸命です。これで、もし雨が降っていたら。そうです、見物客がみんな傘を広げたら何も見えなくなってしまいますよね。
臙脂色の衣に混じって白い袈裟の少年がいますが、僧侶見習いですかね。上座部仏教を信じるミャンマ-人にとって子供(男の子)を僧侶にさせることは最高の功徳を積むこととされる。男の子は自分の身の回りの世話ができる年齢になったら(5、6歳から、通常は10歳前後が多い)見習い僧として、1週間程度、僧院での生活を経験するそうだけど、多分その見習い僧だろう。この時の僧侶になるための儀式が「得度式」だ。
ミャンマ-の人達は、結婚するとすぐに、得度式のために貯金を始めるというくらいで、大金を使って盛大に得度式を行うことが名誉なことと考える。得度式では、王子シッダールタがカンダカという馬に乗ってお城を出て出家修行者になったことから、馬に乗ってお寺に向かうのが伝統になっている。王子さまでしたから、衣装もその真似をして豪華でだ。
出家して僧侶になれるのは20歳以上の男性で、20歳未満は沙弥【しゃみ】と呼ばれる。ちなみに上座部仏教では剃髪して、袈裟を身に着け僧侶になると、僧院で生活期間は私物は持てなくなる。師となる僧から戒律(十戒と227の律)を授けられ戒律を厳守して修行を行うことになる。実際のところどうかといえば、一般の人と大きく異なるのは食事。食事は早朝、正午前の2回だけで、昼以降は一切食べることができなくなる。
飲酒はもちろんだめ。酒飲んだ坊さんは寺を追い出される。でも、坊さんは辞めなくていいんだ。何でかと言うと、「酒を飲まない」というのは「戒」であって、「律」ではない。「律」には罰則があり、違反したら坊さんを辞めなくてはいけないけど、「戒」は自分に対する戒めなので、罰則はない。懺悔さえすればいいんだ。だから、僕も毎日懺悔しながら酒を飲んでるよ。
その他に音楽やテレビ鑑賞もできない。竹山道雄の『ビルマの竪琴』という作品知ってるよね。1956年には安井昌二、1985年には中井貴一の主演で映画化もされた。出家し僧になった主人公の水島上等兵が竪琴を奏でるシーンがあるけど、ミャンマー仏教ではあり得ないことだ。坊さんは楽器の演奏をしてはいけない。もし袈裟をつけて竪琴を奏でているとしたら、それは偽坊主だ。
ミャンマー人はサッカーだ大好きらしいけど、坊さんはワールドカップをテレビで観ることも出来ないし、自分たちがサッカーをすることも出来ない。また、ヨーロッパの修道院では「祈り、働け」と農作業が盛んに行われたが、ミャンマーの坊さんは畑を耕すなどの生産活動は一切してはいけない。
左から3番目の坊さんの托鉢用の鉢(ダヴェイ)の上に紙幣が乗ってるの分かる。恐らく中国人観光客のおばちゃんが、「まあ、この坊さん、可愛い」ってんで、お札を布施したんだろうけど、もしこの坊さんがこの紙幣に触ったら重大な戒律違反となる。坊さんはお金に触れたり、物品の売買をしてはいけないんだ。だから、僧院にはカッピヤという寺男がいてお金を管理している。だから、この子もカッピヤにお金を預かってもらって、必要な仏教書を買うことになる。
227も律があって、もうそんなのとても守れないと思ったら、坊さんを辞めて還俗すればいい。そして、「よし、今度こそ戒律を守って生活するぞ」と決意できたら、また出家すればいんだって。もし、僕が還俗して、また坊さんに戻ろうと思ったら、一から試験を受けて修行もしなければならない。こんな年とってから、まあ無理だね。その点、ミャンマーでは気軽に出家、還俗が出来る。
ぞろぞろ並んでやって来た坊さんたちは、ここでご飯とおかずを鉢に入れてもらい、いよいよ今日最後の食事となる、1000人分の食費がいくらほどかかるかゼイヤ君に聞いてみたら、日本円で20万円くらいだって。これだけの食費が毎日毎日365日、全部お布施だ賄われているって、凄いね。ゼイヤ君の一度お布施したことがあるそうだ。その時には家族・親戚もみんな呼んで、坊さんと同じ食事を食べるんだって。それによって功徳が積まれ、。来世に良い立場で生まれることだぞ出来る。
ミャンマーの坊さんは約50万人。ミャンマー国民100人に1人の割合だ。だから、1人の坊さんの生活が99人の在家の人々の布施によって支えられている。でも、ミャンマーの近代化がこれから進み、資本主義的な考え方を身につけたミャンマーの人々が、果たしてこのシステムを維持していけるのか、心配だ。
さあ、これからいよいよ食事だけど、話が長くなったので続きはまた今度ね。(つづく)
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午後5時45分、アーナンダ寺院を出て、バガン遺跡地区の東の外れに建つバガン・ビューイング・タワーへ。20分ほどで着いた。
以前はパゴダや寺院に登ることが赦されており、バガンの全景を写すことが出来たが、現在は遺跡保護のために禁止されている。そこで、2005年にオープンしたのがオウリウム・パレス・ホテルの入り口に建つ高さ約60mの展望台だ。開館当初の入館料は10ドルもしたそうだが、閑古鳥が鳴いたため一挙に半額の5ドルになったらしい。
1階は土産物屋やギャラリーがある。11階の展望レストランまでエレベーターで直行。その後、レストランから螺旋階段で上まで上がり、窓無しのオープンスペースで360度のパノラマ風景が楽しめる。
パガン朝の寺院建築は、マルコ=ポーロの『東方見聞録』にも、「太陽の光に触れては燦然と輝き、はるか彼方からでもその光輝を望見できる」と、美しい大塔のことを伝えている。王たちは仏教に深く帰依し、自ら僧院生活を送り、寺院建築に打ち込んだ。最後の国王となった第11代ナラティハパテ王も6年かかってパゴダをつくったが、民衆から「仏寺成って国滅ぶ」といわれた王であった。
しかし仏塔・寺院の建造に力を入れすぎて13世紀後半には国力は衰亡し、雲南地方を併合した元のフビライはバガン朝に対して4度にわたり入貢と臣従を要求したが、ナラティハバテ王はそれを拒絶した。そのため元軍は1287年に首都バガンを攻撃して占領、約250年続いたバガンは崩壊した。その後、バガンの王は元に従属するかたちで統治をゆるされたが、上ビルマ地方の新興勢力のシャン人が実権を握り、バガン朝は消滅した。
30分ほどバガンの景色を楽しんだ後、午後7時にレストランへ。「ウェルカム ティピカル フードハウス」という民家風のレストランで、趣はある。かなり広いレストランだが、お客さんは我々だけで貸し切り状態。
人形劇が終わると、今度は素人っぽい女性達による踊りが始まったが、やはり誰も観ていない。可愛そう。ほんなら、お前観ろや。いやいや、食べるのに忙しくて。
いつものようにミャンマービールの乾杯に始まって、いつものようなミャンマー料理が出てくる中、パゴダ風のフードカバーに隠された料理が。きっと凄い料理に違いない。期待してフードカバーを取って、唖然。
ただのライスでした。大袈裟な。

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午後4時5分、ホテルを出て近くの漆工房へ。ミャンマーの漆器はバガン王国が栄えていた頃から少し後の時代、14世紀から18世紀頃にかけて、タイ北部から漆器作りの技法が伝わり、定着したらしい。エーヤワディー川流域で豊富な竹と、シャン丘陵で採れる漆を組み合わせて作られる。
チャンスィッター王は国内の政治的統一を維持し、バガン朝の最盛期を現出させた王である。王はモン人とビルマ人との融和統合に努め、仏教を篤く信仰した。しかし、王宮内では祭儀にはバラモン僧が関与し、王もヒンドゥー教などの供儀を執り行っていたようである。都城下ではヴィシュヌ信仰、大乗仏教、それにタトゥンからの上座部仏教が共存し、モン文化の影響が濃厚であった。


アーナンダ寺院の本堂中央にはシュエジーゴン・パゴダと同じように、「過去四仏」の立像がそれぞれ四方を向いて収められている。高さは9.5mもある。
この仏像は西を向いておられるGotama(釈迦牟尼仏)だ。右手は施無畏印で、左手は与願印。お釈迦さまの代表的なハンドサインで、「施無畏印」は相手の畏れをなくすサインで、「与願印」は相手の願いを聞き届けようという姿勢を表している。
仏像の前には1対の金箔の貼られた造花。ミャンマー版の常花だろうね。うちのお寺のご本尊にも常花が供えられている。日本の常花とデザインは違うけど、蓮の花だよね。
回廊の壁面には天井近くまで多くの壁龕【へきがん】があり、仏像が安置されている。その数1500というから、驚く。
実は白い壁の下には壁画があるんだって。第二次世界大戦中に農民がこのお寺に逃げてきて、ここで煮炊きしたので壁全体が痛んでしまったそうだ。それを戦後修復の知識がなかったので、とにかく真っ白に漆喰を塗ってしまったそうだ。
この像は降魔成道印を結んでいるから、ブッダが悟りを開くところだね。ということは、両腕を引っ張っているのは悟りの邪魔をしようとしているマーラ(悪魔)だろうね。
この像は転法輪印(説法印)を結んでいるから、ブッダがサールナートで初めて説法をしているところだ。でも初転法輪はコンダンニャをはじめ5人の修行者に対して行われたのに、説法を聞いている修行者は4人しかいない。一人足りないよ。
南を向いておられるKassapa(カッサパ仏=迦葉仏)。さっきの釈迦牟尼仏と印相が違うよね。両手を絡めておられるけど、こんな印相は見たことがない。どなたか、ご存じの方がおいでたら、教えてください。
下に写っている人間を比べて仏像の大きさが分かると思うけど、その大きさといい、美しさとい、圧巻でした。
最も特徴的なのは、中央にそびえる高さ51mの尖塔の黄金に輝く美しい「シカラ(sikhara)」だ。北インドをルーツとしているシカラからも、インドから影響を受けていることが分かる。また、シカラすべての側面には、仏像が安置されている5つの壁龕があり、さらにそのトップには傘型の尖塔装飾品である「hti(ティ)」が飾られている。
バガンで最も美しく中心的な建造物とされて、その圧倒的な印象から「ビルマのウェストミンスター寺院」とも称されているのだそうだ。
珍しい花を見つけた。これ何の花かわかる?沙羅双樹の花なんだって。ブッダは沙羅双樹の下で亡くなったんだよね。平家物語の冒頭部、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」でも有名だ。
沙羅双樹の花の色は白だそうだ。でも、この木の花は赤い。不思議に思って調べたら、この木は沙羅双樹ではなく、ホウガンノキといって、南米ギアナ原産の木なんだってさ。それが何故か、ミャンマーだけでなくスリランカ、タイ、カンボジアで崇められている。それも入滅の時の聖木ではなく、ブッダ聖誕の木としてね。
もう一つ、ブッダにまつわる木と言えば、お悟りを開いた時の菩提樹。スリランカでは菩提樹が崇拝の対象となっていて、ストゥーパ(スリランカではダーガバと言う)はあまり重視されていない。ところが、同じ上座部仏教の国でありながら、ミャンマーはパゴダだらけだけど、菩提樹を見かけることはなかった。
お国によって随分違いがあるもんだね。(つづく)
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午後12時40分、レストランに到着。レストランは「Sunset Garden Restaurant(River Side BAGAN)」。
店内はオープンテラスになっており、名前の通り、目の前にはエーヤワディ川が滔々と流れている。西に面しており、日没時には幻想的な景色を楽しめそうだが、残念ながら今はお昼の真っ最中。でも、川からの風が頬を撫で、気持ちがいい。
お隣のラオスでは「チャンパー」と呼ばれ、国花となっているそうだけど、2~17世紀にベトナム中部に栄えたチャンパー王国と関係あるんかな。
昔、ブッダの信者にカピラーという女性がいた。彼女はコーサラ国の首都シュラヴァスティーのバラモンの大金持ちの召使で、ジャスミンの花園で働いていた。カピラーは、顔は不器量だったが心のきれいな女性で、花園でパセナディー国王と出会い、見初められてその夫人となった。奴隷身分から王妃となったカピラーは心の美しさと、王と出会ったジャスミンの花園にちなみ、「マツリカ」と呼ばれるようになったそうだ。全国の茉莉さん、あなたのお名前はジャスミンのことなんですよ。知ってた?
僕のルームナンバーは616号室。パゴダの形をしたルームキーがでかい。
まずはインスタにシュエジーゴン・パゴダの写真をアップ。
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午前11時35分、ティーローミンロー寺院を出てタマヤンジー寺院に向かう。道すがら多くの寺院やパゴダが見える。
なぜ、これだけロンジーがミャンマー国民に愛されるのか?実用的に優れていることや、長らく続いた輸出入の統制のために外国製の衣服の入手が困難だったこともその要因だろうけど、やはり伝統文化への愛着が強いからだろう。
金沢でも最近和服を見かけることが多くなったが、これはインスタ映えを狙った観光客がレンタルして、町を闊歩しているからだ。どいつもこいつも全然着物が似合っていない。たまに着ても駄目。毎日のように着ていないと、しっくりこないもんだ。
馬車がいっぱい停まっている。大型バスでバガンを周るよりも、馬車のほうがのんびりしていていいよね。1日のチャーター料が3万チャット、2,300円位だから安い。ただし、ぼったくりの馭者もいるらしいから気をつけてね。あと、レンタサイクルとEバイク(電動自転車)があるそうだ。
この寺院を建てたのはバガン朝第5代国王のナラトゥー(在位1167~1170年)なのだが、こんなエピソードが残っている。
しかし、王位に就くことを待ちきれなかったナラトゥーは、1167年に重病に罹った父王をシュウェグージー寺院に幽閉。寺に運ばれた父が意識を取り戻した事を知ると、進退窮まった彼は寺に赴き、自らの手で父を窒息死させた。ナラトゥーが政変を起こした直後にミンチンソウが軍を率いてバガンに進攻し、ナラトゥーは大僧正のパンタグと協議してミンチンソウを王位に就けた。
しかし、その夜にナラトゥーはミンチンソウを毒殺して自ら王位に就き、彼の背信行為に憤慨したパンタグはセイロン島に出奔した。こうして、父と兄を殺害して即位したのがナラトゥーだが、こんな話はどこの国でも起きた血生臭い王位継承争いで、ムガル帝国のシャー=ジャハーンやアウラングゼーブも同じことをしている。
その後、ナラトゥーの行為は、王朝の威信を下げ、多くから不評の声が上がり、自らも罪悪感による重圧を抱え、宮殿に閉じ込もってしまう。罪の意識にさいなまれたナラトゥーが、罪滅ぼしのためにそれまでで最大で、最も細工が細かく、最も変わった形の寺院を建て始めた。しかし、工事は遅々として中々進まず、またナラトゥーが煉瓦と煉瓦の間に針が入るほどの隙間があるという理由で左官を処刑した噂も立った。そして、ナラトゥーは即位して3年後の1170年に何者かに暗殺されてしまう。
バガン王家に嫁いでいた娘を殺害されたパティカヤ王の報復であったとも言われ、パティカヤ王は8人の刺客を送り込み、彼らはバラモンに扮してナラトゥーを刺殺したと伝えられているが、セイロン島のシンハラ王朝の攻撃によって戦死したという説もある。
ナラトゥーの死によってタマヤンジー寺院の工事は中断した。ナラトゥーの評判は生前から悪く、その後工事をする人も現れず、寺院は荒れるがままになって行った。現在でもこの寺院は未完のままで、地元では夜になると幽霊が出ると言われ、心霊スポットになっているそうな。
未完ではあるが、仏像はいくつか収められている。この仏像はティーローミンロー寺院の仏像とそっくり。と言うか、ティーローミンロー寺院の建立のほうがあとだから、ティーローミンロー寺院がダマヤンジー寺院の真似をしたんか。
インドのブッダガヤ大塔のお釈迦さまもクシナガラの涅槃像も金ピカにしたのはミャンマーの人たちだ。金箔貼り過ぎてもっと大変なことになった仏さんを後で紹介するから楽しみにしといてね。
回廊の壁龕【へきがん】(仏像を安置するため壁の窪み)はほとんど空だけど、この壁龕には涅槃像が。
これは珍しい二尊仏ですね。みんなも知っている通り、普通は三尊仏だよね。釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩や阿弥陀如来と脇侍の観音・勢至菩薩が有名な三尊仏だ。二尊仏というのは初めて見たと思ったんだけど、よく見ると仏像の背後のストゥーパは3つあるよね。真ん中にストゥーパがあって、両サイドに仏像がある。あれっ、これ僕が毎日拝んでいる「一塔両尊と同じ形式じゃないか。真ん中にお題目が書かれた塔があって、向かって左に釈迦如来、右に多宝如来。日蓮宗のご本尊だよだ。
ダマヤンジー寺院では法華経が信仰されていた、という妄想が脳裏をよぎったが、この2体の仏像はナラトゥーが暗殺した父と兄を祀るために造られたそうだ。
回廊から外に出ると、雨季とは言え光が眩しい。いつも通り門前の土産物屋。めぼしいものは一つもない。たくさんの操り人形が木に吊されており、風が吹くたびに揺れている。
ミャンマーの操り人形が有名だとは、この時はつゆ知らず、晩飯の時にその人形劇を見せられることも知らなかった。
今は晩飯のことより、昼飯だろうが。レストランに急ぐぞ。(つづく)
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午前10時55分にシュエジーゴン・パゴダを出て、15分でティーローミンロー寺院に着いた。
父王のナラパティスィードゥーが5人の王子の中から後継者を選ぶ際、傘が倒れた方向に座っていた者を選んだというエピソードが残されており、ナンダウンミャー王は別名ティーローミンロー(傘の王)と呼ばれていた。そのため、この名称がついたといわれている。
バガンには3000を越えるパゴダがあると言われ、この地震で倒壊したパゴダも数多くある。ミャンマー政府は順次修復を進めているらしいが、財政的問題からなかなか難しいようだ。
1階部分には東西南北に向かって4体の仏像が安置されている。印相は右手指を下に向け地面に触れている降魔成道印だ。ブッダが悟りを開こうとする時に邪魔をしようとした悪魔を追い払った姿を表している。
これが最後の仏さま。お供えされている花は睡蓮だね。2階にも4体の仏像が安置されているらしいが、現在は2階に上がることは出来ない。
このお寺でミャンマーに来て初めて買い物をした。たった3.4センチしかない、小さなブッダ。これで3,000チャット。日本円でたったの230円。僕の守護仏にします。
もう一つ、お寺に入る前に土産物屋で買った砂絵。他にもいろんな絵があったんだけど、みんなに置いて行かれそうになって、慌てて決断した。向こうの言い値は22,000チャット(1,700円位)だったけど、12,500チャット(960円位)に負けさせてゲットした。40%オフだから、まずまずの買い物だ。今までの旅行では生徒達へのお土産で随分悩んだけど、退職したからその必要がなくなり、こんな楽なことはない。
ところで、この絵が何か分かるかな?これ、ミャンマー伝統の「八曜」の象徴となる動物を表した絵なんだ。「八曜」はミャンマーに古くから伝わる占星術の一種で、ミャンマーの人たちにとっては今でも生活の一部となっているそうだ。ミャンマーの人たちは、自分が何曜日に生まれたのかを必ず知っている。1週間は7日なのに、なんで8曜なの、と思うよね。実は、水曜日が午前と午後に分けて考えられているので、8つの曜日が存在するんだ。
「八曜日」には各々定められた方角、星座、守護動物が割り当てられており、ミャンマーの人たちは、自分の誕生日の曜日を非常に⼤切にしている。血液型占いのように、生まれた曜日によって、その人の基本的な性格や人生、さらには他人との相性なども決まってくると考えてるんだってさ。
ゼイヤ君に教えてもらった僕の誕生日は日曜日。日曜日の方角は北東、星は太陽、守護動物は鳥(ガルーダ)だって。砂絵は上が北になっていないので、北西の方角、左斜め上の絵が鳥だ。ガルーダと言えばヴィシュヌ神の乗り物でインドネシアやタイの国章になっている。なんか嬉しくなるね。
ネットで誕生日を入力すると自分の誕生日が分かるサイトがあるから、興味があったら試してみて。ちなみに、僕の性格は「自立心が旺盛な合理主義者」。日曜日生まれのあなたは物事に積極的に関わるタイプ。面倒見がよく、周囲の人々から頼られる存在ですが、少々自信過剰でお節介な所が玉に瑕。贅沢を好む傾向にあり、散財にはご注意を!!と出ました。
ほぼ、当たってますね。だけど、なまぐさ坊主ではあるが、決して贅沢は好みません(笑)。(つづく)
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