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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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インレー湖②ーインデインのパゴダ群

8月22日(木)

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 午後1時30分に食事を終え、歩いてインデインの遺跡に向かう。スコールの後なので道がぬかるんでいて滑る。おまけにビールを飲んでいるので、やや足許がふらつく。ここで転んだら大変なので、皆さんそろりそろりと忍び足。

 パオ族の住居だろうか、竹で造られている。右手の小さい建物は恐らくトイレだろう。そのすぐ横に畑があるというのは、なんとも合理的だ。

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 ゆるい勾配の回廊がずーーっと続く。その長さ660m。浅草雷門から続く仲見世通りは250m。だから、その3倍ちかくもある。ギリシア風の白い柱が延々と続いているが、その数403本もあるそうだ。

 参道の両側には土産物屋が並んでいるが、ほとんど客がおらず、閑古鳥が鳴いている。

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 10分以上歩いて、ようやくパゴダの立ち並ぶエリアに出た。白いパゴダはまだ新しいようだが、その他のパゴダはかなり崩落が進んでおり、植物に覆われてしまった物も点在している。

 この遺跡は長年外国人の立ち入りが認められていなかったが、遺跡の維持や修復のために外貨が必要となり、比較的近年に観光が認められたそうだ。まったくと言っていいほど整備が進んでいないが、かえって趣きがあり、雰囲気はいい。

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 インデインではブッダ入滅後200年頃に、アショーカ王が聖骨を祀るためにこの地に仏塔を建立したと言われている。なんぼ多くのストゥーパを建てたアショーカ王でも、ミャンマーまで来て仏塔を建てたはずはない。しかし、ミャンマーの人はそれを信じて疑わないようだ。実際には、概ね14世紀から18世紀に建てられているそうなので、タウングー朝(1531~1752年)時代のものが中心になっているようだ。

 様式もバガンのものとは全く違うものもあり、ヨーロッパのゴシック建築のように天に突き刺すように尖塔が聳えている。途中で折れ曲がっている姿が痛々しい。

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 こちらのブッダ像は比較的新しいもののようだ。

 ここまで来るとリタイア組が増えてきた。なにせスコールの後なので蒸し暑い。その上、食事の際にいつも通りビールを飲んでいるから、息が切れる。「もう充分見たから、ここで待ってる」と、階段に腰をおろして動こうとしない。もうあと一息で一番上にあるパゴダ群に出る。僕は自分に鞭を打って、重い足を引きずりながら階段を上った。

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 階段を登り切ったところにパゴダが林立している。まるで剣山のようだ。
 
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 インデインのパゴダの数は1054。バガンのその数は3000とも言われているが、インデインのほうが密度が濃い。途中で諦めた連中にその素晴らしさを説明しても、どうせ「そう」の一言だろうな。

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 インデインのパゴダは個人が寄進したものだそうで、このパゴダが古いものを修復したのか、最近新しく寄進されたものなのか、区別がつかない。遺跡群の中に新しいものを建てることは、文化財保護の観点から見れば御法度だ。だけど、ミャンマーの遺跡は、現在も生き続けている聖地なのだ。

 パゴダを修復すると功徳が積めると、ミャンマーの人は考えている。15万円も出せば、中規模のパゴダを1基修復出来るそうだ。修復すると大理石のプレートに名前書いてもらえるらしい。僕も1基修復しようかとも考えたが、自分のお寺を修復するのに莫大な金が要り、そんな余裕はないと気づいた。

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 その聖地でインスタ映えを狙って、ふざけている奴がいる。(笑)

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 インデインで見つけたガルーダ。日曜日生まれのシンボル。なんか鶏みたいだ。

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 汗だくになってレストランに戻った。便意をもよおし、お店のトイレを借りた。

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 おやっ、トイレットパーパーが切れてる。

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 僕に与えられたのはバケツに入った水だけ。手動ウォシュレットだ。これで自らのウンを掴めってか。冗談じゃない。次のチャンスを待つことにした。クソッ。(つづく)

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【 2020/03/31 05:40 】

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インレー湖①ーパオ族の少女

8月22日(木)

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 今朝も出発は早い。午前6時15分、朝食。レストランに行くと、麺コーナーがある。

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 迷ったあげくに、ワンタンを作ってもらった。

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 この兄ちゃんにお願いして、目玉焼きを作ってもらう。

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 今朝はこの目玉焼きに、ワンタン、あとソーセージにクロワッサンと、軽めに済ませておいた。

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 午前7時35分、ホテルを出発してマンダレー空港へ。1時間ほどかかって空港についた。ヤンゴン航空917便でヘーホー空港に向かう。雨季にもかかわらず、昨日まではなんとか天気はもっていたが、今日は朝からどんよりと曇っていて、スコールが来そうな空だ。

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 座席は今日も自由席。同じ失敗をしないよう、今日は後ろのほうに座る。定刻よりやや早く、午前9時13分テイクオフ。

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 午前9時38分、わずか25分で、ヘーホー空港に着いた。シャン高原にあるヘーホー空港の標高は1,176m。マンダレーと比べると、弱冠涼しい。バスでボート乗り場のあるニャウンシュエに向かう。

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 インレー湖は、南北約22km、東西約12kmの細長い淡水湖。ただし、これは雨季の時の広さで、乾季には南北15km、東西6kmほどになる。

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 午前10時にヘーホー空港をバスで出発し、50分ほどでニャウンシュエのボート乗り場に着いた。

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 4隻のボートに分乗して、湖の南にあるインデインをめざす。僕のボートには、奥さんと、T君、Tさん、添乗員のO君が乗った。インデインまでは直線距離で約30km。約1時間30分のボートの旅だ。
 
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 午前11時3分、ニャウンシュエを出発。実は星稜高校が甲子園で快進撃を続け、今日の午後2時から優勝旗を賭けて大坂の履正社と激突する。ミャンマー時間だと午前11時30分から。ちょうどボートに乗っている時間と重なる。後ろに乗っているT君が海外WiFiをレンタルして来ているので、彼に実況中継してもらうことにした。

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 インレー湖のボートは船頭さんが最後尾にいて操縦し、水飛沫をあげながら、湖面を滑走するように走る。そのエンジン音が五月蠅くて、T君の言っていることがよく聞こえない。間にいる奥さんに情報を伝えてもらいながら、ボートは進む。(残念ながら、星稜は負けた)。

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 雨季だから湖水はコーヒー牛乳のような色をしている。

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 途中でインダー族の漁師さんに出会った。細長い小舟の先端に片足で立ち、もう一方の足で櫂を操る独特の漕法が珍しく、『地球の歩き方 ミャンマー』の表紙も飾っている。こうすると両手が自由になるので、漁の際に便利なのだそうだが。なんとも器用なもんだ。

 ここで出会った漁師さんは漁をしているわけではないそうだ。被写体になることで、チップを稼いでいるんだって。ボートは少しスピードを落としてくれたが、なかなかうまく撮影出来ない。

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 これはネットから拝借してきた写真。こんな写真が撮れたら、チップをあげなくちゃいけない。

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  ボートは順調に進んで行ったが、11時30分を過ぎた頃から、南の方角の雲行きが怪しくなって来 た。

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 ボートはやがて浮き草の間の水路に入った。もうそろそろ陸に上がれるだろうと思ったが、正午頃についにスコールがやって来た。ボートには傘が用意してあったので、傘を開こうとしたが、駄目。

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 鞄から用意しておいた使い捨てポンチョを取り出して被ろうとしたが、先頭に座っているので風当たりが強く、ポンチョが風に流されて被ることが出来ない。やっとのことで、ポンチョを被った頃には、全身ずぶ濡れ。スコールが来ることが分かっていたら、始めから被っていたのにと後悔しても、もう遅い。

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  午後12時20分、やっと「Golden Kite Restaurant」に着いた。

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 飯を食おうと席についたら、目の前に何かぶら下がっている。水が入ったただの透明なビニール袋だ。ガイドのゼイヤ君に聞いたら、蠅よけだとのこと。

 そんなもんで蠅よけになるかと思い、知恵袋系ウェブサイトの「The Straight Dope」で調べてみたら、次のように書いてあった。

 「イエバエのように捕食性で無防備な昆虫は、神経質です。またそのような昆虫は近くに何か動いているものがいる場合、じっとしていることを好みません。なぜならその動いているものが、自分の捕食者である可能性があるからです。水を入れたビニール袋はレンズのような働きもします、つまり、ビニールの周辺で動き回っている人々がビニール袋に映し出されるのです。実際には、人の位置が遠すぎてイエバエには見えない場合でも、イエバエにはビニール袋に映る光と影の移り加減は見えています。その動きがイエバエには、すぐ近くのもののように見えるため、ビニール袋から遠ざかっていくのです。」

 へぇ~。効果あるんだ。是非皆さんもやってみて。と言っても、日本の家庭にはもう蠅はいないか。

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 蠅のことはどうでもいいとして、さあ飯だ。トマトのスープに、アボガドのサラダ。これが結構いける。

 インレー湖上の「浮き畑」では野菜や果実が栽培されており、特にトマトが特産だそうだ。湖底に根を張ったホテイアオイなどの水草を土台として湖の泥を積み上げて浮き畑を形作り、流されないように竹竿で水底に固定している。生活の知恵だね。

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 メインデッシュのピザの盛り合わせ。この後、パスタも出たが、これが美味い。まさか、ミャンマーでイタリアンを食べるとは思ってもみなかったが、毎日毎日同じような料理ばかり食べた来たから、涙が出るくらい美味い。

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 何か変な気配を感じて、テーブルの下を見たら、かなりの大型犬がじっとこっちを見ている。「私もピザ食べたいワン」と言っているようだ。仕方ないから1切やった。ここの店の犬か野良犬か知らないけど、毎日ここで客からピザを貰って生活しているとは、なんと贅沢な犬だ。

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 ん、何か視線を感じる、と思って見たら、可愛い子が笑顔で僕のほうを見ている。頭にバスタオルみたいな物を巻いているからパオ族の女の子だ。

 ミャンマーには人口の7割を占めるビルマ族の他に134の少数民族がいる。パオ族はシャン州に暮らす山岳少数民族。少数民族とは言っても、人口は250万人もいる。頭に巻いているのは、実はターバンで、竜の頭を表現しているそうだ。というのも、パオ族は竜の母親と超人の父親から生まれたという伝説があるからだ。

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 店の周りにはそんな子ばかり。みんな手にいっぱいターバンに使う織物を持っているから、買って欲しいんだろうけど、僕はそんな物要らないしな~。これがインド人だったら、もっと強引に売ろうとするんだろうけど、彼女たちはじーっとこっちを見ているだけ。

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 食事の後、店に荷物を預けて、インデインの仏塔群を見学しに行った。店に帰って来たら、諦めずに彼女たちがまだ待っていた。不憫に思った何人かが織物を買おうと品定めを始めたら、もう大変。彼女たちが豹変、いや猫変して、大変な騒ぎになった。

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 この子は買ってくれとも言わずに、ニコニコ笑って、僕を見つめるので、奥さんに頼んで2枚買って貰った。名前を聞きたかったが、奥さんの手前、聞くのを憚られた。おいっ、爺さん、鼻の下伸びてるぞ。(つづく)

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【 2020/03/27 05:23 】

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マンダレー⑧ー王宮

8月21日(水)

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 午後2時40分にマハムニ・パゴダを出て、5分程で旧王宮に着いた。ミャンマー最後の王朝となったコンバウン朝の王宮である。

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 敷地はほぼ正方形をしており、一辺は約3km、周囲の濠は幅70m、高さ8mの城壁に囲まれ、広さは日本の皇居の6倍もある。東西南北計4本の橋で市街と結ばれており、入り口は東西南北で4箇所あるが、外国観光客が入れるのは現在東門のみだ。

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 橋を渡り真っ直ぐ進むと、王宮の正面に出る。王宮跡は現在ミャンマー中央軍の司令部が置かれており、指定された場所以外に入ることは禁止されている。門前に厳つい大砲が置かれているが、レプリカらしい。

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 建物に入ると、すぐ目の前に謁見の間。光が反射して見難いが、王さまと王妃さまが座っておられる。

ミンドン 
ミンドン王

 詳しいことはマンダレー④で書いたが、この王宮はミンドン王が1857年から建設を始め、4年がかりで完成させた。完成当時はこの国の建築技術の粋を集めた、見事なものだったという。

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ティーボー王と王妃

 しかし、1885年にこの地を占領したイギリスはティーボー王をインドへと追放し、 ミャンマーはイギリスの植民地となった。イギリスは旧王宮をDufferin 要塞と改名し、イギリスとインドの軍隊が宿営するために使い、多くの財宝が略奪された。その中で最も優れたものの一部は、大英帝国に還送され、今なおロンドンの「ヴィクトリア&アルバート美術館」で見ることができる。

 第二次世界大戦中、日本はビルマに進攻し、マンダレーを1942年5月2日に占領した。王宮を含む要塞は日本軍の兵站部に転用され、イギリス軍がラングーン(現ヤンゴン)の都と港とを奪回するための地上作戦の一部として1945年3月にマンダレーを解放したのに先立って、激しい爆撃にさらされた。

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 王宮は完全に焼失し、王立造幣局と時鐘塔のように一対の石造りの建物を組み合わせた王宮は、石造りの台座を残すのみとなった。当時のまま残されているのは城壁だけだ。

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 その後、ネ・ウィンが1980年代に忠実に復元したそうだが、文化財保護の観点から見ると問題がありそうだ。

 北陸新幹線の開通に合わせるように、金沢城の復元事業が始まった。菱櫓と五十間長屋を皮切りに、現在は鼠多門の復元中。最近、谷本知事は二の丸御殿の復元について言及した。もちろん観光客目当ての事業である。県民の多額の税金を使っての事業に批判もあると思うが、中途半端なことをやらず、やるなら忠実な復元をお願いしたい。

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 そんな訳で旧王宮には興味がわかず、その上今日の日差しはかなり厳しく、ただ惰性で見て回る。宝物館にも一応行って見る。

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 王さまの寝台。なかなか立派なもんだが、王さまな小柄だったようで、ベッドがかなり小さい。町をゆくミャンマーの人たちを見ても、背の高い人はほとんどいない。最後の日にアウンサン市場でTシャツを買った。Lを試着してみたら少し小さかったので、2Lにしたんだけど、帰国して着てみたらそれでも小さかった。ミャンマー人はどんだけ小柄なのかね。

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 右手の尖った建物が監視塔だ。螺旋階段で登ることが出来、高さ24メートルの塔からは王宮の敷地内が見渡せるそうだ。希望者だけが登ることになったが、流石の僕もこの暑さの中を登るに気にならず、断念した。
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 午後3時55分に旧王宮を出て、一旦ホテルに入り休憩。小一時間休んで、旧王宮の南にある「Royal Mandalay Cafe & Restaurant」で夕食。

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 まずはミャンマービールで乾杯。今日はいっぱい汗をかいたので、沙漠に水が染みいるように、ビールが喉に入っていく(前にも同じ表現したかな)。グビッグビッグビッ。プハー。

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 昨晩に続き、今晩も中華料理。春巻に始まって、次々に出てくるけど、ミャンマー料理と中華料理の区別が出来ないほど、ほとんど一緒。

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 午後8時、夕食を終えてホテルに戻った。ホテルの部屋に置かれていたスナック菓子に目がいった。「Oishi」、「おいしい」と書いてあるではないか。

 袋を開けて食べはしなかったんだけど、
帰国してから調べてみたら、、「おいしい」はフィリピン生まれの会社で、60年以上もの歴史のある老舗だそうだ。社名の「Oishi」は、もちろん日本語の「美味しい」から。1970年には日本の技術指導を取り入れてOishi Prawn Crackers(おいしい 海老せんべい)を新発売したところ、爆発的な売り上げとなり、中国を皮切りにアジア諸国に販路を拡大したそうだ。

 Calbeeの「かっぱえびせん」のパクリじゃん、と思ったけど、食べてないから何とも言えない。さあ、明日はいよいよインレー湖だ。(つづく)

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【 2020/03/24 05:28 】

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マンダレー⑦ーマハムニ・パゴダ

8月21日(水)

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 午前11時40分に再びトラックバスでサガインヒルを後にして、「Sagaing Hill Restaurant」へ。10分ほどで到着。

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 民家風の造りで、なかなか趣きがある。

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 書かなくてもいいくらいだけど、まずはミャンマービールで乾杯。料理はフライドポテトにオクラ・玉葱・ジャガイモのカレースープ。

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 ピーマンの炒め物と空豆の炒め物。


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 ポークカレーに野菜炒め。ヘルシーな食事でしたが、毎回同じような料理で、そろそろ飽きてきました。

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 午後1時10分、レストランを出て再びマンダレーに戻った。午後1時50分、マハムニ・パゴダに到着。マハムニ・パゴダはマンダレー最大にして、最も重要なパゴダだ。

 このパゴダは、1784年にコンバウン朝第6代のボードーパヤー王が、当時の王宮からこのパゴダに向かう道に石畳を敷き始めることによって建設が開始された。しかし、100年後の1884年に発生した火災で焼けてしまったので、建物そのものは新しい。

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 参道の土産物屋さんには金ピカの仏像がいっぱい。それにしてもミャンマーの人は金ピカが好きだね~。

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 こちらの仏像はちょっと趣きが違いますね~。


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 おやっ、可愛い尼さんが柱の影で涼んでます。正式には尼さんじゃなくて、ティラシンだった。雨季だというのに、今日は日差しカンカンだもんね。

 そう言えば、ミャンマーに来た日は雨が降ってたけど、それ以後1回も降ってない。雨男がいるんだけどなあ。そんなこと考えていたからか、次の日大変なことになる。

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 これはまた、立派な象の像ですね。このでかい青銅器の像が6体ある。もともとはカンボジアで造られたもので、アンコールワットに置かれていたそうだ。

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 それを1431年にタイの軍勢が持ち去り、1564年にはアユタヤに攻め込んだモン人の王バイナウンの軍勢がバゴーへと奪い去った。1600年にはヤカインのラザヂー王がバゴーを侵略してこの像を持ち去ったが、1784年にボードバヤー王が奪い返し、マハムニ・パゴダに収めた。

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 まあ、あちこちを転々としてきた、彷徨える像だね。この像には、自分の具合が悪い部分と同じ場所をなでると体の調子が良くなるという言い伝えがあるらしい。頭の部分をなでようと思ったが、透明なプラスチックのフェンスがあって、手が届かなかった。残念~。

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 いよいよ、本堂に入る。本堂の中は金ピカ。

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 ここの仏さん人気あるんだね~、信者さんでいっぱいだ。あれっ、女の人ばっかり。男はどこへ行ったんだ?

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 男どもはこんなとこにいたよ。順番ついて何してるんかなあ?えっ、仏像に金箔を貼ってるって?

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 なるほど、貼ってる貼ってる。

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 たくさんの信者さんがいて、仏さんがよく見えないので、ネットから借りてきた。これがマハムニ・パゴダのご本尊さんにあたるマハムニ仏で、高さ4m、重量は6.5トンもあるそうだ。サンスクリット語で「マハー」は「大きい」という意味だ。摩訶不思議の「摩訶」はマハーの音訳。「ムニ」は釈迦牟尼の牟尼で、「尊い人」の意味。

 この仏像はボードーパヤー王の手によってヤカインから運ばれて来たという伝承がある。1884年にこの寺は火災に遭っているが、マハムニ仏は金属製だったために難を逃れ、現在は人々の寄進による金箔で覆われている。お顔以外はぶつぶつになってるけど、信者さんたちが貼った金箔が積もり積もったものだ。なんか、身体中に蕁麻疹【じんましん】が出ているようで、気持ち悪い。

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 ビフォアー&アフターの写真が貼ってある。左が1901年の写真で、普通の仏像だ。それが積もりに積もった金箔でぼこぼこになった。その厚さは15cmにもなるそうだ。金箔の厚さは0.1μm(ミクロン)だそうだから、15cmになるには15万枚の金箔が必要になる。これがほぼ全身に貼られているから、いったい何枚の金箔が貼られたことだろうか。

 自分の身体の悪いところに金箔を貼ると、マハムニ仏の御利益で治るそうで、皆が押しかけるというわけだ。

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 そう聞いたら、僕も貼らないわけにはいかない。早速、金箔を買った。この小さいサイズの金箔が5枚入って、2,500チャット(約192円)。

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 金箔を買って、列に並んだ。残念ながら金箔が貼れるのは男だけ。ここでも、女人禁制だ。金箔を寄進したい女性は旦那や兄弟など男の人に頼んで貼ってもらう。その様子をモニターで見ることが出来る。さっきいっぱい並んでいた女性陣はそのモニターを見ていたわけだ。
 
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 マハムニ仏は人の背丈ほどもある台の上に安置されているので、階段を上って仏像に前に出た。柵がないので後ろに転がり落ちそうだ。転げ落ちたところをモニターに映され、ミャンマーの人々に見られたら、日本の恥になる。後ろにばっか神経が行ってしまう。

 本当は頭に貼りたいが届かないので、マハムニ仏の股間のあたりに貼った。何でかって?前立腺肥大なんですよ。もう、高齢者の仲間入りした去年から病気ばっかり。嫌になってしまう。

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 前立腺肥大が前立腺ガンになりませんように。マハムニさん、お願いしまっせ。

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 金箔を貼り終えてパゴダを出ようとしたら、仏さんに水を掛けている連中が。例の八曜日の仏さんに水を掛けると御利益があるそうな。日本で言えば、洗い仏の「上行菩薩」かね。

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 これが僕の誕生曜日、日曜日の仏さん。たっぷり水をお掛けして無病息災をお願いいておきました。(つづく)

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【 2020/03/20 05:23 】

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サガイン②ーサガインヒルの「日本パゴダ」②

8月21日(水)

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 サガインヒルの頂上に立つ「日本パゴダ」。高さ20mはあるだろうか。

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 「日本パゴダ」建立の由来が書かれた碑文。少し長いが、読み辛いと思うので全文をあげておく。

「第二次世界大戦に於いて祖国日本の護りとして派遣された若き戦士たちが愛国の至誠に燃えてこの地ビルマに斗いましたが戦時に利あらず国と家郷の弥栄を願いながらこの山河の中に屍を横たえてゆきました。戦後30年を経てこの地を訪れた生還者たちが野をこえ山をこえて喚び交わす亡き戦友たちの望郷と愛国の願いの声を耳底にはっきりと聞きました。その純粋な願いを更に耳を澄まして聞き其の徳を讃えるために塔の建立を決意し3年の工期を経て昭和51年1月一応の落成を見ました。是の工事を担当したのは烈第138連隊の生存者たちでありました。然し英霊は一つであり138連隊の者は全英霊に捧げる塔と考えています。塔はもとより仏舎利を安置するものであります。戦友たちの心の仏陀にまで昇華されんことを願いつつこの章碑を建てます。1976年春 烈第138連隊 戦友遺族一同」

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 烈138連隊こそサガインヒルに立てこもっていた部隊で、昭和20年3月10日、最後にエーヤワディ川南岸に撤退した。お蔭で仏都サガインは戦火に見舞われずにすんだらしい。138連隊は奈良の連隊だ。
日本の古都奈良と仏都サガインの交流、「日本パゴダ」はこの地にふさわしい姿で立っている。 

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 基壇の白塗りの壁に戦没者と寄進者の氏名がずらっと並んで刻まれていた。

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 「日本パゴダ」の左に立つ礼拝堂。

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 「礼拝堂建立の記」によれば、パゴダ建立の後に礼拝堂がないことを惜しむ声があり、昭和56(1981)年に電信第19連隊戦友会が浄罪を募り建立したと書かれている。

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 卒塔婆が供えられているが、最近誰かがお参りした気配がなく、花も供えられていない。しまった、さっきの慰霊碑に全部お供えしちゃった。もう花の売り子の姿も見えないし。誤りながら手を合わした。

 実はこの礼拝堂にペットボトルなどのゴミが散乱していた。10年ほど前までは日本から慰霊団がやって来たそうだが、遺族の高齢化により最近はめっきり減ってしまったそうだ。悲しいことだ。僕を含めて、日本人のほとんどがこの地に慰霊の塔があることすら知らない。決して戦争を風化させてはいけないと思う。それを子供たちに伝えて行くのが教師の努めだと思うのだが。
 
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 礼拝堂の上部の壁には「塔を建てる心」の碑が。
 
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 礼拝堂の左手にはミャンマーの人々に対するお詫びの碑も立っていた。

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 このパゴダからエーヤワディ川が見える。左手のほうに先ほど通った鉄橋が見えるから、この方角の先にインパールがある。

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 太平洋戦争は泥沼に陥った日中戦争を終わらせる目的で始まったのだが、イギリスの最前線基地であるインドのインパールを包囲することで、援蒋ルートを断とうとしたのがインパール作戦であった。援蒋ルートとは連合軍による蒋介石の重慶政府に対する補給ルートのことである。

 しかしビルマからインパールへ侵攻するには、チンドウィン川という巨大な河川やアラカン山脈といった標高3000メートルを超える規模の山脈を越える必要があった。そうした中で前線部隊へ弾薬や食料などの物資を補給することは不可能な状況であることはどの将校にも一目瞭然であった。

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牟田口廉也中将

 ほとんどの将校が反対する中、1944年3月、インパール作戦は牟田口廉也【むたぐちれんや】中将により強硬に進められた。最前線への補給路は険しい山道のため、車両は通行できず、徒歩による行軍しかない。そこで、牟田口中将は現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を考案した。

 結果、チンドウイン川では牛の半分以上が溺死し、残りの牛も山越えはかなわず、物資毎、消失してしまいました。また3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの物資が散逸した。このため糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を大きく消耗する結果を招いた。


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 この作戦にかり出されたのが第15軍の3師団で、さっきの慰霊碑にあった第15師団(祭)・第31師団(烈)・第33師団(弓)であった。この無謀な作戦は悲惨な失敗に終わり、日本軍参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り、戦病者は4万人以上を出して終結したが、戦病死した将兵の大半が餓死であったとされる。

 退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「白骨街道」と呼ばれた。

 終戦から70年以上たった今なお4万5000柱が未帰還のまま。長らく外国人の立ち入りが規制されていた現地では、今でも旧日本兵の遺留品が数多く残され、日本に帰れない遺骨が眠ってるそうだ。牟田口中将の責任が重大であるのは勿論だが、そうした人物を生み出してしまった日本の組織の在り方にこそ問題があるように思える。

 異国の地に果てた多くの将兵に深く哀悼の誠を捧げる。合掌。(つづく)

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【 2020/03/17 05:20 】

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サガイン②ーサガインヒルの「日本パゴダ」①

8月21日(水)

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 サガインの町外れにあるサガインヒルには150以上のパゴダと僧院が点在しており、約6000人の僧侶が暮らしているそうだ。カウンムードー・パゴダを午前11時に出発し、途中トラックバスに乗り継いで、15分でサガインヒルの頂上に着いた。頂上にはサンウーポンニャーシン・パゴダがあるが、僕たちはこれを目当てにこの丘に来たのではない。

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 女の子たちが花を売りに来た。

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 まずは花を買い求めた。実はこの丘にはビルマ戦線で命を落とした日本兵の慰霊碑・慰霊塔がある。今回の旅の最大の目的は、日本のために若き命を犠牲にした英霊をご供養することであった。たくさんの慰霊碑があるので、順に手を合わせていこう。

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 第33師団(通称は弓)と並んでビルマ戦線の主的存在だった四国の第55師団(通称は壮)の碑は、善通寺法主の筆で「慰霊」と刻まれている。合掌

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 「鯨・烈山砲戦友会」建立の碑。「鯨」は壮兵団と同じ善通寺で編成された第40師団の通称で、本体は中支の南昌で終戦を迎えたが、これに所属した山砲兵第40連隊だけはビルマへ転進し、烈兵団の指揮下で山砲兵第31連隊と改称して戦った。

 「鎮魂 戦没戦友の皆さま 安らかにお眠りください」と書かれている。合掌

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 菊兵団の慰霊碑。菊兵団とは第18師団のこと。皇室の紋章である「菊」を与えられたことから「国軍最強」を自負し、他の兵団からも一目置かれていた。第18師団のビルマ方面参加兵力は31,444名であったが、20,000名以上が戦死している。慢性的な物資欠乏の影響はどの部隊でも同様であったが、ビルマ方面に展開していた連合軍が「菊」の名を冠する第18師団との交戦を名誉としていたことも戦死者を増大させた一因とされている。合掌

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 ビルマ人犠牲者の慰霊碑。合掌。

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 団長のF上人を導師に全員で自我偈とお題目を唱え、故郷を遠く離れた異国の地で果てた英霊の方々をご回向した。「鯨・烈山砲戦友会」建立の碑に向かって手を合わせているのは、こちらの方角がインパール方面だからだ。

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 お題目を唱えているうちに自然と涙がこぼれてくる。20歳前後の若者たちが、どんな思いで最後の時を迎えたのだろうか?誰の名を最後に呼んだのだろうか?

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 父や母の思いはどうであったろうか?わが子を遠い戦地に送り出し、一日千秋の思いで息子の帰国を待ったあげく、一通の戦死公報が届いた時の母の思いは。それも敵弾に当たり命を失ったのならまだ納得もいくだろう。しかし、ビルマで戦死した兵士の多くは餓死であった。

 息子が命を落とした地を訪ね、せめて花と線香をたむけてやりたい。親であるならば当然の思いであるが、戦後しばらくの間は外国人の立ち入れは規制されていた。遺族の思いがようやく稔ったのは昭和51(1976)年のことである。(つづく)

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【 2020/03/13 05:35 】

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サガイン①ーおっぱいパゴダ

8月21日(水)

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 昨日泊まったのは「メルキュール・マンダレー・リゾート」。マンダレーヒルの麓に立つマンダレーの最高級ホテルだが、昼間に小休憩をとったのと、あとは寝ただけ。今回の旅では、朝早くにホテルを出て夜9時頃に次のホテルに入る、の連続なので、ホテルの中を見て回る時間がない。

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 今日も朝6時50分に朝食。焼きそばにベーコン、サラミ、ソーセージ、卵という、何の変哲もない食事をとって、午前9時ホテルを出発してバスでサガインに向かう。

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 サガインはマンダレーの南西約15kmにある。そもそもは1322年、バガン王朝が滅びた混乱に乗じてシャン族の王がここを都と定めたが長くは続かず、1364年にはインワに遷都されてしまった。その後、1760年から1764年の短い期間、アウランパヤー王の後を継いだナウンドージー王によって、一時的にコンバウン朝の王都となったが、その後顧みられることはなかった。しかし、パゴダや僧院は次々に建設され、現在では仏教修行の中心地となっている。

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 午前9時50分、エーヤワディー川を渡り、サガインの町に入る。マンダレーとザガインを結ぶ約1.2kmのインワ(アヴァ)鉄橋は、1934年にイギリスが建設したが、第二次世界大戦中の1942年、侵攻してきた日本軍に利用されないようにとイギリス軍の手で爆破された。戦後10年近く経過した1954年、中央に単線の鉄道線路、その両側が1車線ずつ走る共用橋として再建された。老朽化が進んだため、2008年にはこの橋の北側に新しい鉄橋が建設されたが、僕らが渡っているのは新しい橋のようだ。

 右手前方にサガインヒルが見えている。 

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 午前10時6分、カウンムードー・パゴダに到着。高さ45mもある、サガインで最大の仏塔だ。1636年にインワ王であるターロン王が建てたそうだが、別名「おっぱいパゴダ」。確かに女性の胸に見えないことはない。それもそのはず、インワ王の王妃の胸をモデルにして造られたという話がある。

 新たなパゴダの設計の命を王から受けた設計士がいた。ところが、どのような形にしようか迷い、なかなか決められないでいた。そんなある日、たまたま彼の目の前で王妃のロンジーがはだけて、彼女の乳房が見えてしまった。その美しい乳房の形を目にした、設計士はこの形にすることを思いついたんだってさ。

 この話を現地の日本語男性ガイドが、日本から来た男性観光客たちに面白おかしく「おっぱいパゴダ」と紹介してしまったために、日本人の間ではその名が流布してしまったらしい。

 でも、添乗員のO君によると話はぜんぜん違う。第二次大戦中、日本軍はイギリス領インド帝国への侵入をめざしインパール作戦を実行した。詳しいことは次回お話しするが、この作戦に失敗し、インドからビルマに敗走した日本兵が「おっぱいパゴダ」と呼んだそうだ。ミャンマーにはパゴダが山ほどあるが、どれもこれもよく似た形をしている。でもこのパゴダだけ形が違っていて、敗走する日本兵とって重要な目印となった。「おっぱいパゴダ」を目指して懸命に逃げる日本兵にとっては、母親のもとに逃げるような思いもあったのかも知れない。そう考えると、嫌らしい名前じゃなく、悲しい名前だよね。

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 でも、「おっぱいパゴダ」などけしからんと言った奴がいる。ミャンマーの軍事政権の連中だ。そこで、2010年に政府高官が参拝するのにあわせて、サガイン管区政府が3億5400万チャット(約2500万円)もの巨費を投じ、金色へ塗り替えてしまった。それが、この写真だ。

ミャンマーでは通常、数年おきにパゴダの外壁を塗り替える。これはスリランカも一緒。パゴダをピカピカの美しい状態に保つことは仏教徒として功徳を積むことになり、多額の寄付を投じる人も多い。歴史あるパゴダであっても色を変えるというのもよくある話だ。とりわけ、金色への塗り替えは好まれる。
 
 ところが、カウンムードー・パゴダについては違った。地元住民を中心に「白いのが伝統」「急に金色になって落ち着かない」、そして「何より、王妃の胸を金色に塗るなんて失礼だ」などといった大ブーイングが起きたのだ。さらには、「ブッダや王妃が夢に現れ『白に戻してほしい』と訴えてきた」と主張する市民が次々現れるまでに。このような話がSNSを通じて拡散したことも相まって、ついには60を超える市民団体が署名運動を行うに至り、2018年1月に政府へ嘆願書を提出した。サガイン管区政府も高まる反対の声に抗しきれなかったのだろう。ついに塗り替えることとなり、2018年12月から工事を始め、僕らが今見ている白に戻った。

 前置きがながくなってしまった、さあ中に入ろう。

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 銀ピカピカの参道。ミャンマーの人は金ピカが好きなのに、参道が銀ピカなのには何か意味があるんかね。土産物屋さんが軒を連ねているけど、売り子の姿があまり見えない。インドの土産物屋はしつこくまとわりついて来るが、ミャンマーの土産物屋は、「売る気があるの?」と聞きたくなるほど大人しい。

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 花屋さん。日本と違い花束ではなく、花びらを糸で繋いだレイ状のものを売っている。

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 おじさんがひれ伏すようにお祈りしている。

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 ミャンマーにしては珍しく、日本人好みのする落ち着いた仏像だ。大乗仏教なら文殊菩薩と普賢菩薩を脇侍とした三尊像だが、3体とも降魔成道印を結んだブッダだ。上座部仏教には菩薩像はない。

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 ミャンマーの賽銭箱。日本と違い、透明で中身が丸見え。たくさんのお札が入っている。これ見せ金になって、案外いいかもね。うちの賽銭箱も透明なプラスチック製にしよう。


この賽銭箱がいくつもあって、どれに入れるか迷ってしまう。ビルマ文字だから読めないけど、上と下では書かれている内容が違う。ゼイヤ君が「賽銭箱によって行き先が違います」と言ってたけど、全部がこのパゴダの収入になるのではなさそうだ。

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 建物から外に出ると、目の前におっぱいが、いやパゴダが。
高さ46mもあるから、スケールが違う。パゴダの周りを時計回りに歩きながら、参拝していく。

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 こちらは単独のブッダ像。姿が美しい。

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 パゴダを取り囲むようにして土産物屋が軒を連ねている。こちらの店にはたくさんのタナカの木が積んである。このパゴダの周辺で採れるタナカは、質がよいと評判なんだそうだ。

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 こちらは白いお顔のブッダ像。

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 この仏像の前にいる動物は虎だから、月曜日の祭壇だ。奥さんは月曜日生まれなんだ。

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 前にも書いたけど、僕は日曜日生まれ。日曜日を象徴するガルーダだけど、クドードゥ・パゴダと同じように弱々しいガルーダだ。

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 パゴダ建築の由来を書いた石碑だけど、ビルマ語なのでまるっきり読めやしない。欧米人観光客が増えれば、英語表記のものも設置されるだろうけど、僕は英語も読めないしな。学生時代にもっと勉強しときゃ良かったよ。後悔先に立たず、だ。

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 こちらはお参りの準備ですかね。全員ロンジー姿です。

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 こちらはお参りの最中。お経本を開いて読んでますね。
 
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 ちょっと覗き込んでみましたが、何が書いてあるのやらさっぱり。うちのお寺にも毎日これだけの信者さんが来てくれたらねえ。羨ましいよ。おっぱいパゴダからの中継でした。(つづく)

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【 2020/03/10 05:24 】

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マンダレー⑥ーマンダレーヒル

8月20日(火)

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 午後5時45分、マンダレーヒルに向かう。マンダレーヒルは標高236mで、丘全体が寺院となっているマンダレー最大の聖地だ。歩いて登れば1時間ほどかかるらしいが、そんな時間はないので、2班に分かれて乗合ピックアップトラックの荷台に乗せられた。

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 かなり急な坂道なんだが、運ちゃんは猛烈な勢いで運転する。対向車が来ようが構わない。おまけに後ろのトラックがクラクションをけたたましく鳴らして煽ってくる。今日本で流行の「あおり運転」だ。運ちゃん、抜かれまいとしてスピードをあげる。前から別のトラックが来て、急ブレーキ。その度に我々の身体は前後左右に揺すぶられて、荷台から放り出されそうになる。頼みの綱はつり革だけ。奥さんは楽しそうだが、Wさんの顔色は悪真っ青。

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 恐怖の10分間を耐え抜いて、終点に到着。さあ、これからはエスカレーターで頂上にあるスタウンビー・パゴダに向かう。

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 でも、ここはすでに寺院の敷地内だ。ブッダの住む家なので靴も靴下も脱がなければならない。入り口で靴を預けて裸足になる。生まれて初めて裸足でエスカレーターに乗った。足の裏がこそばゆい。

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 あっという間にマンダレーヒルの頂上に建つスタウンビー・パゴダに着いた。マンダレーヒルで最も古いパゴダだ。

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 夕日を受けて金ピカに輝くタイルが美しい。

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 テラスに出ると、360度のパノラマ。マンダレー市街が一望できる。

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 エーヤワディー川の向こうに夕日が沈もうとしている。

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 記念写真を撮ってもらったが、逆光で顔がよく見えない。まあ、出っ張ってる腹も見えないから、いいか。

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 僕らはエスカレーターを使ったが、エレベーターもあるみたいだ。

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 降魔成道印を結んだブッダ像。相変わらず電飾が点滅している。

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 仏教の本家本元のインドではサヘート(祇園精舎)以外に鐘はない。でも、これは鐘がないと祇園精舎だと納得できない馬鹿な日本人が造ったもの。インド仏教には鐘は存在しなかった。ところが、ミャンマーのパゴダには必ず鐘がある。日本と同じように中国の影響を受けたものなんだろうね。

 ミャンマーの鐘は功徳を積んだ人が衝いてよいとされているそうだ。鐘を鳴らすことで誰かが功徳を積んだことを周囲の人に知らせることができ、聞いた人は「誰かが功徳を積めたのだなぁ、良かったなぁ」と幸せな気持ちになれるんだそうだ。これにより、鐘を衝いた人はさらなる功徳が積めるのだとか。

 奥さん、功徳を積んでもいないのに、鐘を衝いている。

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 ん、お札を咥【くわ】えたでっかいコブラが2匹もいる。ムイヂーナッカウンと言うんだそうだ。ムイは蛇、ヂーは大きい、ナッカウンは2つのという意味。ミャンマー人に人気のある像で、有名な歌の歌詞にも出てくるそうだ。

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 パゴダをバックにヨガのポーズで、名僧が瞑想中。いや、迷僧か?それとも、謎僧か?

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 午後6時45分、またもトラックの荷台に詰め込まれ、恐怖のスピードでマンダレーの丘を降り、夕食会場の「Ko's Kitchen Tahai Restaurant」へ。

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 もちろん、ビールで乾杯!!  タイ風春巻き。毎日同じようなミャンマー料理の連続に飽きていたので、中華風の味付けが美味い。

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 お次は焼き鳥。これも美味い。

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 別のテーブルで作って取り分けてくれたので、鍋料理らしく写っていないけど、メインはタイ風海鮮鍋、タイスキ。

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 〆はもちろんラーメン。大変美味しゅうございました。明日はいよいよ今回の旅のメインであるサガインの日本兵慰霊塔を訪ねる。(つづく)

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【 2020/03/06 05:36 】

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マンダレー⑤ークドードォ・パゴダ

8月20日(火)

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 シュエナンドー僧院を20分あまり見学して、クドードォ・パゴダへ。3分ほどで到着した。マンダレーヒルの南東の麓にあるこのパゴダは、1859年にミンドン王によって建立された。

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 このパゴダには2013年にユネスコの世界記憶遺産に登録されたものが保存されている。

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 これが世界記憶遺産に登録されているパーリ語仏典が刻字された大理石の石版だ。高さ2m、幅1mくらいかな。ブッダが悟りを開いてから入滅されるまでの説教を刻んであるそうだが、これが何と729枚もある。

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 この石版が白い小仏塔に1枚ずつ納められている。

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 730番目の石版には、この「世界最大の経典」が造られた経緯が刻まれているので、730もの小仏塔が整然と並ぶさまは見事と言うしかない。出来るならば仏塔群だけを写真に収めたいのだが、インスタ映えを狙う中国人のカップルがポーズをとりながらうろちょろしている。こらっ、邪魔だ、どけよ。

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 全体像が見えないので、模型が展示されている。中央に黄金に輝くパゴダがあって、その周りを730もの真っ白な小仏塔が埋め尽くしている。ミンドン王は2400人もの僧を集め、仏典を完全な形で大理石に刻ませる作業をさせた。小仏塔群は1860年に建設が開始され、昼夜の別なく突貫作業が行われて、1868年にようやく完成したとされる。

 やたらに2400にこだわっているが、1856年がミャンマーの仏暦で2400年にあたるからだ。仏暦は東南アジアなどの仏教国で使われている暦法で、ブッダが入滅したと信じられている西暦紀元前543年を紀元元年とする。ちなみに、ミャンマーやスリランカでは2020年は仏暦2564年だよ。

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 「世界最大の経典」を作成したミンドン王はその締め括りとして、1871年にマンダレーで第5回仏典結集を行ったそうだ。スリランカ、東南アジア各国から僧侶2400人が集められ、高僧たちによりこの経典が承認された。もちろん、ミンドン王の政治的宗教的立場を誇示するためのパフォーマンスだ。

 高校の世界史ではアショーカ王がパータリプトラで開催した第2回結集と、カニシカ王がプルシャプラで開催した第3回結集は習う。僕は坊さんだから、これにラージャグリハ郊外の七葉窟で開かれた第1回結集も教えていた。

 大乗仏教と上座部仏教では回数の数え方が違うが、2017年にスリランカに行った時に、アルヴィハーラ石窟寺院で第4回仏典結集が行われたという事を初めて知ったのだが、第5回結集もあったんだね~。それどころか、驚いたことに、1954年にミャンマーのヤンゴンで第6結集も行われているそうだ。

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 大理石に仏典を刻んだ文字は写真のビルマ文字だ。もともと先住のモン人が使っていた文字だそうだが、なんだか視力検査表みたいだね。スリランカで使われているシンハラ文字と同じく、全体的に丸っこい形なのには訳がある。

 ミャンマーもスリランカも昔はヤシの葉で作った貝葉に経典を記録していた。貝葉に鉄筆で文字を刻む時、直線だと裂けてしまうので、必然的に丸い文字になったそうだ。これ、孫のなっちゃんに習いました。

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 中央のパゴダが青空に映えて美しい。

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 これまた煌びやかな仏像。金ピカの上に、後ろの後背には赤や緑の電飾が点滅している。パチンコ台じゃあるまいし。日本人には違和感があって、むしろ仏像がちんけに見えてしまうのだが、所変わればで、ミャンマーの人にとっては有り難いんだろうね。

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 このパゴダ、どっかで見たことがあるような。そう、バガンで見たシュエズィーゴォン・パゴダにそっくりだ。それもそのはずで、このパゴダはシュエズィーゴォン・パゴダを模して造られたそうだ。

 ここで、ガイドのゼイヤ君からミャンマーの八曜日について教えてもらい、自分の誕生曜日も教えてもらった。前にお話したんだけど、覚えているかな?曜日ごとにそれぞれに方角と象徴である動物が決まっているんだったよね。パゴダには必ずそれぞれの方角には八曜日の祭壇があって、ミャンマーの人は自分の誕生曜日の祭壇にお参りするそうだ。

 僕は日曜日の生まれ。さっそくパゴダの周りをぐるぐる周りながら、日曜日の象徴であるガルーダ(鳥)を探した。


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 やっと見つけたのが、これだ。ヴィシュヌ神の乗り物であるガルーダにしては、なんとも弱々しく情けないお姿だが、まあ兎も角も手を合わせ拝んでおいた。(つづく)

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テーマ:海外旅行 - ジャンル:旅行

【 2020/03/03 05:29 】

パゴダの国へ  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
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