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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー我ここに立つ・マルティン=ルター②

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ライプツィヒ論争

 「九十五カ条の論題」を発表したルターは単なる神学上の論争の範囲にとどまると考えていたが、その思惑とは別にルターの論題は活字印刷されて流布し、大きな反響を呼び、教会の支配に疑問を持っていた農民や、諸侯にも支持が拡がった。

 ルターは1518年8月、ローマに2カ月以内に出頭すべしとの命令を受けるが、これを拒否。同年10月、教皇使節の枢機卿カエタヌスの審問で自説の取り消しを頑強に拒んだ。続いて翌1519年にライプツィヒで公開討論を行い、ルターは教会神学者のヨハン=エックを対決することになった。ルターはそこで自説を展開したが、エックの誘導尋問により、フスを認める発言をした。フスは異端として処刑されていたので、それによってルターの主張も異端であると断定される危険が出てきた。

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教皇の勅書を焼くルター

 ルターは1520年に『キリスト者の自由』などの著作を発表し、教会批判を展開した。ローマ教会は教皇の勅書を発し、その主張の撤回を迫ったが、ルターはその勅書をヴィッテンベルクの広場で焼き捨て、学生たちも教会法典やスコラ神学の書物をその火中に投げ込んだ。ローマ教皇はついにルターを異端と断定し、1521年初めに破門とした。

 ルターは『キリスト者の自由』の中で、聖書では聖職者とは単に奉仕者、僕、執事として信仰に導くための説教をするものとされており、一般信者との差別を認めていないにもかかわらず、「然るに今やその執事職から現世的外的な、輝かしい威厳ある主権と権力とが発生し、正当な地上の権威でさえどんな方法をもってしてもこれと匹敵することができなくなり、平信徒のごときはほとんどキリスト教的信徒とは別の者でもあるかのようにされるにいたった。」と批判した。

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ヴォルムス帝国議会

 1519年に神聖ローマ帝国皇帝となっていたカール5世は、皇帝の立場で教会の論争を収束させようとしてヴォルムス帝国議会を召集、ルターを召喚し、その説の放棄を迫った。ここでもルターは自説を曲げず教皇と公会議の権威を認めないと公言し、最後に「良心に背くことは出来ない……我ここにこ立つ、他には何事もなしえない。神よ我を助けたまえ」と言ったとされる。

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『新約聖書』を翻訳するルター

 カール5世は「帝国追放」の刑を宣言したが、密かに脱出したルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、ヴァルトブルク城にかくまわれた。ルターはそこでエラスムスのギリシア語テキストをもとに、『新約聖書』のドイツ語訳を完成した。これによって民衆が聖書を手に、聖書にもとづく信仰が可能となって、宗教改革は急速に広がった。

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 ルターの宗教改革が始まると、その支持派とカトリック教会擁護派の双方とも当時普及した印刷術を利用して多数のパンフレットやビラを作成し、激しい宣伝合戦をおこなった。上の木版画はルター派のビラで、「ルターの首引き猫」と言われる図である。首引き猫とは二人の人が輪にした綱に首を通し、引っ張り合って相手を倒す一種の遊び。ここでは左のルターと右のローマ教皇が首引きをしているが、ルターがキリストの架かった十字架を支えにしっかりしているのに対して、ローマ教皇はゆがんだ表情でその冠ははずれ、その首から下がっている袋からは金貨がこぼれている。そして教皇が倒れないように支えている修道士たちは豚や犬の顔を持っている。これは、ルターの勝利を描いた、ルター派のパンフレットの表紙である。

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カタリーナ=フォン=ボラ

 聖書には論拠はなかったが、カトリック教会では伝統として聖職者の独身が守られてきた。そのため司祭であったルターも独身生活を続けていたが、徐々にその意義について疑問を持つようになった。ルターは肉体的欲望そのものは罪であり悪いことであると考えていたが、結婚によって肉体的欲望は正当化され罪にならなくなると考えるようになった。また修道者のように神のために結婚しないことをよいものであると認めていたが、その反面、常に肉体的欲望に悩まされるのなら結婚するべきだと思うようになった。結果としてルターは数多くの修道者たちに結婚を斡旋するようになった。

 1523年のある日、ヴィッテンベルクの近くの修道院の修道女たちが抜け出したいとルターに訴えてきた。修道女の脱走を手助けすると罪になるので、ルターは夜中に馬車を用意し、ニシンの空樽にかくまって12名の修道女を脱出させた。ルターは彼女たちを次々と結婚させたが、その中の一人カタリーナは早くに母に死に別れ、父が再婚する際に修道院に入れられた女性であった。ただ一人結婚話がまとまらなかったカタリーナは、ルター博士なら結婚してもいいというので、ルターは彼女と結婚することにした。

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ルターの家族

 ルターの結婚は1525年6月、ルター42歳、カタリーナ26歳だった。ルターは彼女に好意を持っていたのではなく、義務感から結婚したのだが、それでも三男三女(ヨハネス、エリーザベト(生後8か月で死去)、マグダレーナ(13歳で死去)、マルティン、パウル、マルガレーテ)をもうけた。家庭は円満だったという。
 
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トマス=ミュンツァー

 「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農民に希望を与えることになった。そもそも農民が領主に仕えることも聖書に根拠を見出せないというのである。かつてルターの同志であったトマス=ミュンツァーはこういった人々のリーダーとして社会変革を唱えるようになっていた。ドイツの農民暴動自体は15世紀後半から頻発していたが、ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、ルターはミュンツァーと農民たちを批判し、二人は互いに攻撃しあうようになった。さらに再洗礼派の過激な教説も農民暴動の火に油を注ぐ結果となった。
 
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ドイツ農民戦争

 1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民たちが、賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こし、これは隣接地域へ瞬く間に広がっていった。これが1524年から1525年にかけて起こったドイツ農民戦争である。ルターは初めはローマ殲滅戦を煽動していたが、次第に路線をめぐり党派に分裂するなか、ルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について暴徒の鎮圧を求め、民衆には平和な抵抗を訴えるようになる。

 ルターは路線変更後の1525年、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し、刺し殺せ。…狂犬を撲殺しなけらばならない」と農民の殺害を煽動するほどであった。ルターの鎮圧支持を受けた領主たちはシュヴァーヴェン同盟を中心として徹底的に農民暴動を鎮圧し、首謀者たちを殺害し、ミュンツァーも捕らえられて処刑された。数十万の農民が命を落とし、農民の地位は悪化、諸侯による支配は一層強固になった。農民はルターを「裏切り博士」「嘘つき博士」と呼んだ。

 ルターがカタリーナと結婚し、世間をあっと言わせたのは、そんな混乱の最中であった。


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マルティン=ルター

 ルターは若い頃から病気持ちだった。腎臓結石・胃潰瘍・不眠症・痔・痛風など様々な病気を抱えていた。しかし、同時に彼は生きる楽しみを満喫し、美食・大食・飲酒も相当であった。飲酒に批判的な友人に対して、「20年間もカトリックの修道士をやってきて神さまを裏切ったのさえ神さまは忠留してくださるのだから、神さまの健康を祝してビールを飲むくらいは許してくださる」と言った、と伝えられる。健康が悪化した晩年は「怒りっぽく、横柄で、毒舌で、下卑たところさえある老人」とは友人の言である。ルターは1546年、急性心筋梗塞により63歳でこの世を去った。

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【 2020/04/28 05:25 】

ヨーロッパ近世史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

世界史のミラクルワールドー信によりてのみ義とされる・マルティン=ルター①

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マルティン=ルター

 ルターは1483年、ザクセンのアイスレーベンの鉱山労働者ハンスの子として生まれた。洗礼を受けた日がトゥールのマルティヌスの祝日であったことにちなんで、マルティンと名づけられた。もともと農夫から身を起こした父は、上昇志向が強く、子供たちにもさらに上を目指すよう常に要求していた。

 父の願いに沿う形で、ルターは勉学に取り組み、エルフルト大学で文学を学んだ後、同大学で法律の学位を取得した。これは青年ルターの将来が世俗的意味で約束されたことを意味し、父親ハンスは、以後マルティンを「お前」(du)ではなく「あなた」(Ihr)と呼ぶことにすると言ったほど喜んだ。

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 1505年、帰省中の実家から大学に戻る途中、ルターはエルフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨に遭った。一緒にいた友人は落雷により絶命し、落雷の恐怖に死すら予感したルターは、「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」と叫んだという。この事件をルターは自身の罪に対する神の怒りとして受け止め、親の猛烈な反対を押し切ってエルフルトのアウグスティヌス会修道院に入って修道僧になってしまう。

 修道士ルターが自らに課し、その答えを求めて悩み苦しんだ根本的な問いは、いかにすれば自身の魂の救いが得られるかであった。彼は宗教上の勤めを忠実に実践し、祈り、断食を行い、深い瞑想にもふける。しかし、どれほど努力しても魂の奥底に欲望がうごめき、悪徳が芽生えるのを感じて絶望する。

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アウグスティヌス

 この間ルターにたえず影響を与えていたのは、救いにおいて神の恩恵を重視する教父、聖アウグスティヌスであった。彼はまた、神の善き行いにより救いを得させようと促すが、誰を救うかは神が自由に決めることとする、ドイツのガブリエル=ビールの神学にも感化された。そしてついに聖書の中のパウロの言葉「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」にヒントを得て、「信仰のみ」の思想に到達した。これが「塔での回心」と言われるルターの回心の経験であった。

 神は人間の敬虔な「行い」、または善き「行い」とは無関係に恩恵を与える。人間はアダムが犯した原罪のゆえに徹底的に堕落した存在であり、そのいかなる努力も空しい。十字架にかけられたイエス=キリストの憐れみを信じることによってのみ、人間は神の前で正しいとされる。このようにルターは、キリストの憐れみに対する信仰のない「行い」の無意味さを認識した。ここから当然、免債による罪の赦免に対する、彼の激しい批判が出てくる。

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レオ10世の贖宥状

 1515年、ローマ教皇レオ10世は、サン=ピエトロ大聖堂建設の資金を得るため贖宥状の販売を始めた。贖宥状がドイツで大々的に販売されたのには裏話がある。

 当時マグデブルク大司教であったホーエンツォレルン家のアルブレヒトは弱冠23歳にしてマインツ大司教も兼任することになった。本来、大司教位は30歳以上でないと認められないし、大司教位の兼任は禁止されている。それがまかり通ったのは、アルブレヒトがブランデンブルク選帝侯の実弟だったからだ。つまり、ホーエンツォレルン家の金と政治力の結果であった。

 驚いたことに、これを教皇レオ10世が許可した。もちろん金と引き替えであった。金貨にして約1万4000枚。神聖ローマ帝国の歳入に匹敵する額だった。アルブレヒトにそんな資産があるはずもない。そこで、お決まりの借金をすることにした。当然、アウクスブルクの大富豪フッガー家からである。

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贖宥状販売団 

 こうしてマインツ大司教となったアルブレヒトは借金返済のため教皇レオ10世から独占販売権を認めてもらい、フッガー家とタッグを組んで贖宥状の販売に乗り出した。実際に贖宥状をドイツ各地に売り歩くのはドミニコ修道会の役目である。これにフッガー家の帳簿係が同行し、売上の記録をつける。売上の一部は、手数料としてドミニコ修道会の利益になる。残りはアルブレヒトの収入となる。

 この収入のうち、半分はアルブレヒトの取り分となり、もう半分はマインツ大司教の贖宥状販売を許可した教皇の取り分となる。ただし、アルブレヒトの取り分は、大司教叙任時の上納金のための借金の返済のため、そのままフッガー家へ渡る。教皇レオ10世はサン=ピエトロ大聖堂の建築資金をフッガー家から借りていたので、教皇の取り分も結局フッガー家へ渡る。これらの金の流れは帳簿上で行われるのであって、実際に金で一杯になった代金箱はフッガー家の者が持っていくのである。

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テッツェル

  ドイツにおける贖宥状販売の中心人物であったドミニコ修道会のテッツェルは、次のよなう宣伝口上を唱えたと言われる。

 「 聖母マリアを犯して身篭らせたとしても、贖宥状を買えば許される」「
自分の代わりに聖ペテロが贖宥状を売りに来たとしても、自分の方がより多くの許しを与えることができる」「おまえの母親は今、煉獄で何千年にも渡って焼かれている。贖宥状を買うやいなや、おまえの母親は天国に入る」

 そして、最後に「グルデン金貨が「チリン」と鳴れば、たちまち「スポン」と天国へ」と付け加えた。

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ヴィッテンベルク教会

 1512年からヴィッテンベルク大学神学教授を勤めていたルターは、贖宥状を買ったというヴィッテンベルクの庶民からテッツェルの様子を聞き、素朴な疑問をもった。贖宥状のことは聖書に書いていない。それによって人は本当に救われるのだろうか…。悩んだすえルターは贖宥状販売が誤っているという結論に達し、テッツェルがヴィッテンベルクに近づいた1516年7月、ルターは贖宥状の有効性に疑問を呈する説教を始めた。しかしこれが大きな問題となったのは翌1517年秋のことである。 

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 1517年10月31日、ルターは「九十五カ条の論題」をヴィッテンベルク城に附属する教会の門扉に貼り出した。この文書はラテン語で書かれており、学者にしか読めないものだった。つまり、ルターには社会に向かって大々的に贖宥状を批判しようという意図はなかった。ルターは当時の学者の週間に従い、「罪」と「罰」の関係、贖宥の教理についてドミニコ修道会との学術討論を呼びかけたのであり、この文書は討論会の開催案内に過ぎないものだった。


 ルターは当初は贖宥状の発行を批判したのであって、ローマ教皇や教会の存在、制度、その権威そのものを否定したのではなかった。しかし、論争が激化する過程で、ルターは自分の意図に反して教会批判そのものに向かわざるを得なくなるのである。(つづく)
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【 2020/04/24 05:28 】

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さよならミャンマー

8月23日(金)


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 午後3時20分、アウンサン・マーケットへ。正面中央のドームのある入口の建物は、イギリス植民地時代の1926年に建てられたそうだ。

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 2階建ての建物とその周囲には1000を超える店舗が所狭しと並んでいて、迷子になりそうだ。日本人女性がミャンマーの伝統菓子をアレンジしたクッキーが有名らしく、皆さんその店に行ってしまった。僕はまったく興味がないので、奥さんとブラブラ。チャットがまだ余っているので、欲しくもないのに、シュエダゴン・パゴダのマグネットを1,300チャット(100円)、Tシャツを5,000チャット(385円)で買った。

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 奥さんも同様にチャットを無くすために、チンロン・ボールと竹編みの籠を買った。

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 その後、向かいにあるスーパーマーケットへ。皆さんへのお土産用にアラビカコーヒーなどを買い、空港へ。

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 午後6時、空港前にある「シーズンズ・オブ・ヤンゴン・ホテル」内にある中華料理店「多縁閣」で夕食。

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 まずは、魚の蒸し料理。

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 肉じゃがかな。

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 昆布のスープ。

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 鶏の蒸し料理。

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 椎茸と豆腐のあんかけ。

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 瓢箪か? 

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 海老の塩茹。どれもこれも美味い。ミャンマーで食べた料理の中で中華料理が一番美味かったというのは、なんとも皮肉なもんだ。

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 午後7時30分、夕食を済ませ空港へ。午後9時45分、全日空814便は定刻通りテイクオフ。

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 午後10時30分、軽食。ポテトチップスをつまみにウィスキーのロックをダブルで。ほろ酔い加減で、おやすみなさ~い。

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 おはようございます。軽い朝食は、「鶏肉と野菜煮」か「プレーンオムレツ グリルベーコン添え」を選べますが、僕はオムレツをチョイス。

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 夜が明けて来ました。午前7時に成田到着。羽田を経て、午前11時30分、小松に到着。濃密な一週間でした。次回はベトナムとカンボジアとのこと。期待してお金を貯めましょう。でも、2021年にコロナ騒ぎが終息してるのかな~。(おわり)

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【 2020/04/21 05:24 】

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シュエダゴン・パゴダ②

8月23日(金)

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 暫く休んだんで元気出ました、次行きましょうか。こちらではお説教ですね。聴衆がえらいたくさんいて、静かに耳を傾けていますね。僕もたまに説教するけど、これぐらいいてくれると張り合いがありますね。

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 なかなか偉いお坊さんみたいですね。長老と呼ばれる坊さんなんでしょうか。日本でも最近テーラワーダ仏教の名で上座部仏教の人気が上昇して来ている。瞑想も人気あるしね。でもね、上座部仏教ではブッダになることを目指さない。それはやはりブッダ釈尊の本意ではないと思うよ。

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 少しお話しを聴いてみた。でも、ミャンマー語だから分かる訳がない。大きな図も示されているけど、文字も読めない。右上が1で時計回りに1→2→3→4となってるから、「生老病死」の話しか、「苦集滅道」の四諦の話しかね。なんも分からないんで、5分ほど聴いて諦めた。

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 鐘を衝く奥さん。

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 僕は写真を撮るのに余念がない。

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 お顔の白いブッダ像。

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 こちらは寝釈迦。足許が見えないから断定できないけど、目をパッチリ開けておいでだから、涅槃像ではなく、横になっているブッダだ。日本には寝釈迦像はないけど、スリランカでもたくさん見た。ここも信者さんでいっぱいだ。

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 大仏塔。何遍見ても飽きることはない。

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 こちらの祠にはたくさんの仏旗がかかっている。仏旗は世界仏教徒連盟(WFB)が結成され、スリランカでの第1回世界仏教徒会議が開かれた1950年に、正式に「国際仏旗」として採択された。

 『小部経典』の「無礙解道【むげげどう】」に、ブッダが力をはたらかせる時、ブッダの体から青・赤・白・樺(橙)および「輝き」の6色の光が放たれる、と書かれていることに由来するデザインなんだけど、知ってた?

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 深々と頭をさげて、何をお祈りしているのだろうか。

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 こりゃまた、でかい銅鑼だね~。

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 高さ10m以上もあるブッダ像。紐を引っ張ると、ブッダの頭の上にある布が前後に揺れて、ブッダに風を送る。僕も紐を引っ張って、ブッダを煽いであげた。

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 シュエダゴン・パゴダの北東に安置されているガルーダ。僕の誕生曜日である日曜日の守護動物だ。ガイドのゼイヤ君に正式なお参りの仕方を習って、やってみた。

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 まずは祭壇に置かれた仏像に水をかける。

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 本当は年齢の数をかけるのが正式らしいが、66杯のかけると時間がかかるので、1杯を10杯分として、12杯水をかけた。次に仏像の背後に安置されている守護神に水かける。

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 最後に守護動物に水をかけてお参りして、お終い。昨年は喉頭蓋炎などというとんでもない病気にかかり、喉に穴を開ける羽目になったので、無病息災をお祈りした。

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 若いカップルが花を手に一生懸命祈っている。子供が授かるようにお願いしているのかな。


 1時間ほどかかって1周したが、何体の仏像があったのだろうか。腹一杯になっちゃった。ゲップ。さあ、あとは買い物だけだ。(つづく)

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【 2020/04/17 05:34 】

パゴダの国へ  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

シュエダゴン・パゴダ①

 8月23日(金)

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 午後1時、シュエダゴン・パゴダに到着。シュエダゴン・パゴダはヤンゴンの北、シングッダヤの丘の上に立つ。南参道口から104段の階段を歩いて上るか、エスカレーターやエレベーターを使って上る。僕らはエスカレーターを使った。

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 黄金に輝くシュエダゴン・パゴダが見えてきた。青空ならもっと黄金が映えるだろうに、残念ながら今日は厚い雲が空を覆っている。まあ、今は雨季だから雨が降らないだけでも、良しとしなければね。

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 この仏塔の歴史は、今から2600年以上も昔に遡ると言われている。言い伝えによれば、タポゥタとパッカリという兄弟の商人が、インドでブッダと出会って8本の聖髪をもらい受け、紀元前585年にこの地に奉納したのがシュエダゴン・パゴダの起源とされている。

 歴史的にはあり得ない話しだが、ミャンマーの人々はかたく信じて疑わない。考古学の研究によれば6〜10世紀の間に建立されたと考えられている。何度もの地震に耐えてきた現在の仏塔の原形は、15世紀中期に時の権力者でバゴーの女王シンソープによって完成されたとされる。

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 仏塔を取り巻く回廊に出た。まず目に飛び込んで来たのが見事な菩提樹。シュエダゴン・パゴダには全部で6本の菩提樹があるそうだ。なんか、ミャンマーに来て初めて菩提樹を見るよなう気がするが、あっても気づかなかっただけかな。

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 林立する仏塔。この写真だと、どれが中心の仏塔か分からないと思うけど、左から2番目がそうだ。

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 こうして見るとよく分かる。中心の大仏塔を取り囲む仏塔は、大小60余りもある。彦摩呂風に「パゴダの宝石箱や~」(古いか)。

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 天を衝くような大仏塔は高さ99.4m、基底部の周囲は433m、使われている金箔の数だけでも8688枚と言われている。

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 スリランカ最大の仏塔はアヌダーラプラにある写真のルワンウェリ・サーヤ大塔。創建時は110mあったそうだが、現在は55m。シュエダゴン・パゴダの高さはその約2倍もある。

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 驚くのは高さだけではない。塔の最頂部には1個76カラットのダイヤモンドをはじめ、総計5451個のダイヤモンドと1383個のルビー、他にも翡翠などの宝石がちりばめられているんだってさ。すべてこの国の善男善女の寄進によるもんだってんだから、この国の人々の信仰心がいかに厚いかということだ。

 総額、いくらぐらいかね?検討もつかないが、盗まれる心配はないのかな~。ミャンマーの人でそんな罰当たりはいないだろうけど、国際窃盗団なんかが狙わないかね。まあ、もっとも、誰の目にも入らずに、99mの塔を上って、盗めるかが問題だけどね。

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 大仏塔の周りを右回りにお参りする。これ、右繞【うにょう】と言って、インドから伝わった風習で、敬意を払う対象に対しては必ず右肩を向けて、時計回りで周り礼拝する。前も話したっけね。

 どの宗教も祈る姿は美しい。


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 このおばちゃんはお供えを載せるのに、携帯用テーブルまで持って来ている。

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 このおじさんはえらい分厚いマットを持ってのお参りだ。五体投地でもするんかな。

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 空が少し明るくなって来た。僕のお経の力だ。南無妙法蓮華経。

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 両側に立つ白い基壇を持つ建造物は花のようにも見えるけど、日本でいう常花なのかなあ?仏塔ではないよね。

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 これも面白いね、ブッダ像がライオンに守られてるけど、両側の柱の脇に立つ人物?が問題。右側は上のほうにBrafmaと書いてあるので、インドのブラフマー神、日本では梵天【ぼんてん】の名で知られる、仏教の守護神だ。帝釈と並んで釈尊の脇侍になることが多いので、左側は帝釈天【たいしゃくてん】ということになる。帝釈天は蓮の花を手に持ってるよね。

 面白いのは、右側の梵天だ。子供を抱いてるよね。子供を抱いた仏像と言えば鬼子母神が一般的。水子観音を思い浮かべる方もいると思うが、あれは最近登場してきた観音さんで、本来あんな観音さんは存在しない。

 子供を抱いた梵天なんで初めて見たよ。男の子が欲しければこの像に祈るんだってさ。女こ子が欲しければ蓮を持っている帝釈天に祈るそうだ。

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 2人の人間?いるの分かるかな。

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 拡大したのが、この写真。尻尾も生えているし身体はどう見てもライオンだ。顔は人間で身体はライオンと言ったら?そう、スフィンクスだよね。ミャンマーにスフィンクスがいた~~~。

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 これは前にもお話しした過去仏のKawnagammana(コーナゴン)仏だ。

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 ここでも熱心にお参りしている。これで、ようやく半分ほど回ったことになる。もう疲れたんで、続きはまた今度ね。(つづく)

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【 2020/04/14 05:34 】

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再びヤンゴンへ

8月23日(金)

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 今日は朝早い飛行機でヤンゴンに戻るので、午前6時15分に朝食。シャンヌードルなるものを頼んでみた。麺は米の麺でもちもちしていて美味い。本当は屋台なんかで食べたほうが美味いんだろうけど、グループ旅行だとなかなかそうはいかない。

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 シャンヌードルはこの兄ちゃんに作ってもらった。

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 その他に焼きそば、ソーセージ、ポテト、オムレツ、クロワッサン。欲張って取って来たけど、半分しか食えなかった。

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 午前7時、ヘーホー空港に向けてホテルを出発。1時間余り走ったところで、踏切でストップ。遮断機が下りている。ということは列車が通過するということだ。ゼイヤ君の話では列車に遭遇することは滅多にないそうで、非常にラッキーだとのこと。全員バスから降りて列車が来るの待つ。

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 ミャンマーではバスと同様、鉄道でも日本で不要となった中古車両が数多く譲渡されているそうだが、このディーゼル機関車はどうなのだろうか?鉄道オタクなら分かるんだろうけどね。

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 写真を写すのに夢中で気づかなかったが、前の車両の窓を開けて外人さんが手を振っている。あっ、僕らも外人か。もとい、欧米人が手を振っている。

 ちなみに、ミャンマーはインド・中国など5カ国と隣接しているが、どこの国とも鉄道は繋がっていないそうだ。軍事政権が長く続いたからなんだろうけど、まるで鎖国だね。

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 午前8時45分、ヘーホー空港に到着。ヤダナポン航空132便でヤンゴンに帰る。ヤダナポン航空のワッペン。行って来たあとだから、マンダレーの王宮がデザインされているって分かる。

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 チケットにもマンダレー王宮のデザイン。また自由席だから、乗り過ごさないように注意しなきゃね。あっ、ヤンゴンは終点か。

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 午前9時45分、予定より少し早くテイクオフ。ヤンゴン空港には午前10時50分に着いた。折角早く着いたのだが、なかなか荷物が出て来ず、空港を出るのに1時間近くもかかってしまった。

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 30分ほど走り、シュエダゴン・パゴダ近くの「Padonmar Restaurant(パドンマー レストラン」へ。

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 緑に覆われた落ち着いた佇まいのレストランだ。

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 店内の雰囲気もいい。

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 豆腐の煎餅。これがなかなかいける。これをつまみに、まずはミャンマービール。
 
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 ミックス・ベジタブル・スープ。パクチー入り。

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 お茶の葉のサラダ。

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 空芯菜の炒め物。

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 ビーフカレー。
 
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 瓢箪とチキンのカレー。

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 デザートは焼きバナナのケーキと西瓜。今までと余り変わりのない料理だが、これが最後のミャンマー料理。まあ美味しかった。

 数々のパゴダを巡って来たが、これから、ミャンマー最後の巡礼地にして、ミャンマー最大の聖地シュエダゴン・パゴダに向かう。(つづく)

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【 2020/04/10 05:27 】

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インレー湖④ーファウンドーウー・パゴダ

8月22日(木)

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 午後3時40分にガーペー僧院を出て、20分でファウンドーウー・パゴダに着いた。ファウンドーウー・パゴダはガーペー僧院と同じく水上僧院だが、規模がまったく違い、こちらは随分大きい。「ファウンドーウー」というのは「筏」のことで、バガン時代に王が筏でやってきて降りた場所とされている。

 安置されている仏像は13世紀のものということで、かなり古いパゴダなのだが、建物そのものは1952年に建てられた新しいものだ。とは言っても僕の生まれた年だから、67年も前のことになる。

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 まずは花を買い求める。最近墓参りするのに花持って来ない人が増えたけど、花・線香・蝋燭は墓参りの必須アイテムですよ。

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 2階中央の祭壇(と『地球の歩き方』に書いてあるけど、仏像が安置されているのだから須弥壇が正しい)に、ミャンマーで超人気の仏像が5体安置されている。光って良く見えないので、前に出てみよう。

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 おっとっと、こんな看板が。また女人禁制かよ。もうそろそろ、女性差別は止めなさいよ。女性を禁止する明確な理由なんかないでしょ。伝統だから、というのは理由にならないよ。

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 プラスチックのカバーが光って、良く見えないね。

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 仕方ないんで、皆さんに良く分かるようにネットから拝借して来た。有り難い仏像だと聞いていたけど、金色のダルマじゃないか。なんで、こんなものが有り難いんだ。

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 実は、これが昔の仏像の写真。なんとか仏像の原形は留めているが、金箔が貼られて顔なんかノッペラボウになっている。そう、この後もどんどん金箔を貼られて、その結果、ダルマさんみたいになっちゃったという訳だ。マハムニ僧院の仏像も金箔貼られ過ぎてぼこぼこになってたけど、この仏像も凄い。ミャンマーの人はどんだけ金箔貼りが好きなんだろうね。

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 毎年10月の満月に合わせてファウンドーウー・パゴダ祭りが行われる。伝説の鳥カラウェイを模した黄金の船に4体の仏像を載せて、インレー湖周辺にある20の村々を巡回するそうだ。

 
以前は、5体とも載せて湖を巡っていたらしいが、1965年の祭りの時に、途中で船が転覆し、1体が行方不明になっちゃった。ところが、翌朝、行方不明になった仏像が頭に水草を付けた状態で寺院に戻っていたんだってさ。で、それ以降、1体の仏像は門外不出にしたそうだが、ファウンドーウーパゴダには不思議な力があると信じられるようにり、超人気のお寺になったらしい。

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 午後4時20分にファウンドーウー・パゴダを出て、蓮の織物工房に向かう。インレー湖の浅瀬には高床式の水上家屋が続く。インダー族の家屋は藻や水草が集まってできた浮き島(チュン・ミョー)を集めたものを土台とし、その上に湖岸の土や固定の泥を載せて水中に沈め、浮き島に杭を立てて家屋を建てる。

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 水上生活者は15万人。生活用水はもちろんインレー湖の水だ。洗面、沐浴、炊事、洗濯などはすべて水上の家から下へ降りて来て行なわれる。トイレも水洗といえば、聞こえは良いが、そのままインレー湖に流される。それが、魚の餌になったり、畑の肥料になったり。
 
 しかし、近年、合成洗剤やシャンプーの使用など生活様式の変化、浮畑栽培で使用される化学肥料や農薬等による水質汚染が進み、その水質は生活・飲料水に適さないようになって来ているそうだ。

 ミャンマーの民主化が進めば、この地域にも近代化の波が押し寄せて来る。便利さを追い求めるようになれば、彼らの生活も一挙に崩壊してしまうかも知れない。

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 そんなことを考えているうちに、20分ほどで蓮の織物工房に着いた。蓮の布は50年ほど前に、古くから高貴な花である蓮で作った僧衣を高僧へ寄進するために開発されたそうだ。近年、イタリアのファッションブランドがこの生地を使ったことで、人気爆発。もともと高価だったものが、どんどん値上がりして、現在は1m300ドルもするそうだ。

 先ずはインレー湖で採れた蓮の茎を折って引っ張り、粘りけのある繊維を取り出す。

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 この繊維を何本も縒りあわせて糸を作る。

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 これを昔ながらの機織機で織って出来上がる。蓮の生地は1メートルの布を作るために約1万本の蓮の茎が必要なために、大量生産ができない非常に難しい貴重な生地で1年間に約400メートルしか生産出来ないそうだ。

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 おやっ、シャトルだ。日本語だと杼【ひ】。経糸【たていと】の間に緯糸【よこいと】を通すのに使われる道具だが、1733年にジョン=ケイは「飛び杼」(flying shuttle)を発明し、産業革命がおおいに進展した。このシャトルを1ついただければ、産業革命の授業に使えるのになあ。あっ、そうか。もう引退したんだった。

 蓮布の値段は1m290ドルと弱冠安くはなっているが、それでも高くて買えない。その上、布にはまったく興味がないので、時間をつぶすのに苦労した。

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 午後5時15分に工房を出て、20分あまりでホテルに着いた。ミャンマー最後の宿は「Amata Garden Resort 」。

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 ホテルはインレー湖の東岸にあり、緑に囲まれている。

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 蘭の一種だろうか。うす紫の花が美しい。

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 おやっ、タケノコが生えている。季節は夏なのにね。調べてみたら、ミャンマーのタケノコは雨季の始まりと共に芽を出し、本格的な雨季となる6月上旬から9月下旬が最盛期なんだって。

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 こちらがフロント。見事な鉢に蓮が植えてあり、羨ましい。うちのお寺でも蓮を育てているが、今年は紅蓮は花をつけたが、白蓮は花をつけなかった。

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 こちらがレストラン。

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 なかなかゴージャスだ。

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 午後7時30分より夕食。この地方のシャン料理ということだが、やはり不味くはないが、美味くもない。これからミャンマーの観光客は増えていくだろうから、誰でも口に出来る料理よりも、これがミャンマーだという個性を協調したほうがいいと思うけどな。(つづく)

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【 2020/04/07 05:38 】

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インレー湖③ーガーペー僧院

8月22日(木)

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 午後2時55分、ボートに分乗してインデインを出発。ここでも子供たちが働いている。ミャンマーの義務教育は小学校の5年間だけ。向こう側の子は年齢的に小学生みたいだけど、家の都合で学校に行ってないのかな。貧困から抜け出すには、頑張って勉強しなければならないのだが、人の子ながら心配になる。

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 20分ほどでガーペー僧院に到着した。ガーペー僧院は写真の通り、湖上に立つ木造寺院で、1844年に建てられた。ちなみに僕のお寺は天正13(1585)年の創建で、現在の本堂は文化6(1809)年に再建されているから、僕のお寺のほうが35年も古い。

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 本堂内部に入る。今まで見て来たパゴダや僧院はほとんどが石造りや煉瓦造りで、なんとなく落ち着かなかったが、木造寺院は心が落ち着く。やはり、日本文化は木の文化なんだよね。さっき見たパゴダのような形の厨子が並んでいて、中に仏像が安置されている。

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 本堂全体に対して須弥壇【しゅみだん】部分が広く、シャン、チベット、バガン、インワの各スタイルの仏像が安置されている。東大寺法華堂(三月堂)に安置されている仏像は10体。それでも堂内にひしめき合っている感があるが、ガーペー僧院に安置されている仏像は約30体で法華堂の3倍もあって、重圧感がある。

 ただし、法華堂の場合は不空羂索観音が本尊で、梵天・帝釈などその他の仏像は本尊を守護する役割を果たしているが、ミャンマーでは本尊というものがない。確認はしていないが、すべて釈迦牟尼仏なんだろう。

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 こちらの左側の仏像はチベットっぽいけど、ちょっと待てよ。チベットは大乗仏教だよね。大乗仏教の仏像が上座部仏教の僧院に安置されている。なんで?お分かりの方おいでましたら、ご教授ください。

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 これはまた立派なお厨子ですね~。

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 中に安置されている仏像もいいですね。このむっちりした体格はシャン様式特有らしいのですが、この仏像にはおかしな所が2点あるのですが、お分かりですか?

 一つは服装。偏袒右肩【へんだんうけん】になっていない。偏袒右肩というのは、左肩に袈裟を掛け、右肩をあらわにすることで、坊さんは皆この袈裟の着方をし、ブッダ像もこの形をとるのが普通だけど、この仏像はそうなっていない。

 で、今まで紹介して来た仏像をもう一度確認してみたら、偏袒右肩じゃない仏像もあったので、上座部仏教はその辺にはあまり拘らないのかも知れない。

 もう一つおかしい点は頭。この仏像は王冠を被っておられる。大乗仏教では菩薩像は王冠などの装飾品を身につけているが、仏像はいっさい装飾品をつけないのが決まりだ。悟りを開いた身に飾りは要らない。

 降魔成道印を結んでいるから、この像は間違いなく悟りを開かれたブッダなのだが、王冠を被っている。さっきのチベット風の仏像も王冠を被っているから、ミャンマーでは仏像を世俗的なもので飾ることに抵抗がないのかも知れない。

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  ほら、この仏像も頭に何かつけてるしね。これらの仏像はかなり大きいサイズだが、竹と漆で作られており、とても軽いそうだ。

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 熱心にお参りする人たち。奥のほうに猫が1匹いるよね。実はこの僧院は、輪くぐりをする猫「ジャンピング・キャット」がいるお寺としても有名だったらしい。しかし、猫たちに芸を仕込んだお坊さんが2012年に亡くなったので、今では芸を見ることは出来ない。芸をしなくなった猫たちは僧院の中を歩き回ったり日向ぼっこしてのんびりと過ごしているそうだ。ニャントいう、いいご身分。

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 仏像が置かれた基壇の周囲は広い空間になっている。柱は全部で664本もあるそうだ。床は板張りだし、ややひんやりとしている。湖面から気持ちのいい風が吹いてくる。毎日早起きの連続で、やや疲れ気味。ここで昼寝した~い。

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 ミャンマーのカレンダーが掛かっている。お店にあれば買いたかったんだけど、もう8月だからどこにも売っていなかった。なぜ、こんなものが欲しかったかというと、日本のカレンダーとちょっと違うからなんだ。ぱっと見て違い分かる?そう、15日に赤丸、29日に黒丸がついてるね。赤丸は満月、黒丸は新月を表している。

 残念ながら8月に祝日はないが、ミャンマーでは仏教と結びついた祝日がたくさんある。「タバウンの満月のお祭り」パゴダの建立に良いとされる日のお祭り、「カゾンの満月のお祭り」はブッダが悟りを開いたとされるお祭り、「ワソの満月のお祭り」は、雨季(雨安居【うさんご】)の始まりのお祭りで、ここからおよそ3カ月の雨季の間、僧侶は寺院で修行をする。

 日本でお釈迦さまの誕生日というと「花祭り」の4月8日だけど、ミャンマーでは2月の満月の日。

 ということで、ミャンマーでは満月が重視されている。で、世界史の教材に使えるなと思ったわけなんだが、もう必要ないことに気づいた。僕の海外旅行は世界史の教材を探す旅でもあったので、いつまで経っても癖が抜けない。もうほとんど病気ですね。(笑)(つづく)

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【 2020/04/03 05:34 】

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