なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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「九十五カ条の論題」を発表したルターは単なる神学上の論争の範囲にとどまると考えていたが、その思惑とは別にルターの論題は活字印刷されて流布し、大きな反響を呼び、教会の支配に疑問を持っていた農民や、諸侯にも支持が拡がった。
ルターは1518年8月、ローマに2カ月以内に出頭すべしとの命令を受けるが、これを拒否。同年10月、教皇使節の枢機卿カエタヌスの審問で自説の取り消しを頑強に拒んだ。続いて翌1519年にライプツィヒで公開討論を行い、ルターは教会神学者のヨハン=エックを対決することになった。ルターはそこで自説を展開したが、エックの誘導尋問により、フスを認める発言をした。フスは異端として処刑されていたので、それによってルターの主張も異端であると断定される危険が出てきた。
ルターは『キリスト者の自由』の中で、聖書では聖職者とは単に奉仕者、僕、執事として信仰に導くための説教をするものとされており、一般信者との差別を認めていないにもかかわらず、「然るに今やその執事職から現世的外的な、輝かしい威厳ある主権と権力とが発生し、正当な地上の権威でさえどんな方法をもってしてもこれと匹敵することができなくなり、平信徒のごときはほとんどキリスト教的信徒とは別の者でもあるかのようにされるにいたった。」と批判した。
カール5世は「帝国追放」の刑を宣言したが、密かに脱出したルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、ヴァルトブルク城にかくまわれた。ルターはそこでエラスムスのギリシア語テキストをもとに、『新約聖書』のドイツ語訳を完成した。これによって民衆が聖書を手に、聖書にもとづく信仰が可能となって、宗教改革は急速に広がった。
ルターの宗教改革が始まると、その支持派とカトリック教会擁護派の双方とも当時普及した印刷術を利用して多数のパンフレットやビラを作成し、激しい宣伝合戦をおこなった。上の木版画はルター派のビラで、「ルターの首引き猫」と言われる図である。首引き猫とは二人の人が輪にした綱に首を通し、引っ張り合って相手を倒す一種の遊び。ここでは左のルターと右のローマ教皇が首引きをしているが、ルターがキリストの架かった十字架を支えにしっかりしているのに対して、ローマ教皇はゆがんだ表情でその冠ははずれ、その首から下がっている袋からは金貨がこぼれている。そして教皇が倒れないように支えている修道士たちは豚や犬の顔を持っている。これは、ルターの勝利を描いた、ルター派のパンフレットの表紙である。
ルターの結婚は1525年6月、ルター42歳、カタリーナ26歳だった。ルターは彼女に好意を持っていたのではなく、義務感から結婚したのだが、それでも三男三女(ヨハネス、エリーザベト(生後8か月で死去)、マグダレーナ(13歳で死去)、マルティン、パウル、マルガレーテ)をもうけた。家庭は円満だったという。
1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民たちが、賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こし、これは隣接地域へ瞬く間に広がっていった。これが1524年から1525年にかけて起こったドイツ農民戦争である。ルターは初めはローマ殲滅戦を煽動していたが、次第に路線をめぐり党派に分裂するなか、ルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について暴徒の鎮圧を求め、民衆には平和な抵抗を訴えるようになる。
ルターは路線変更後の1525年、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し、刺し殺せ。…狂犬を撲殺しなけらばならない」と農民の殺害を煽動するほどであった。ルターの鎮圧支持を受けた領主たちはシュヴァーヴェン同盟を中心として徹底的に農民暴動を鎮圧し、首謀者たちを殺害し、ミュンツァーも捕らえられて処刑された。数十万の農民が命を落とし、農民の地位は悪化、諸侯による支配は一層強固になった。農民はルターを「裏切り博士」「嘘つき博士」と呼んだ。
ルターがカタリーナと結婚し、世間をあっと言わせたのは、そんな混乱の最中であった。
ルターは若い頃から病気持ちだった。腎臓結石・胃潰瘍・不眠症・痔・痛風など様々な病気を抱えていた。しかし、同時に彼は生きる楽しみを満喫し、美食・大食・飲酒も相当であった。飲酒に批判的な友人に対して、「20年間もカトリックの修道士をやってきて神さまを裏切ったのさえ神さまは忠留してくださるのだから、神さまの健康を祝してビールを飲むくらいは許してくださる」と言った、と伝えられる。健康が悪化した晩年は「怒りっぽく、横柄で、毒舌で、下卑たところさえある老人」とは友人の言である。ルターは1546年、急性心筋梗塞により63歳でこの世を去った。
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父の願いに沿う形で、ルターは勉学に取り組み、エルフルト大学で文学を学んだ後、同大学で法律の学位を取得した。これは青年ルターの将来が世俗的意味で約束されたことを意味し、父親ハンスは、以後マルティンを「お前」(du)ではなく「あなた」(Ihr)と呼ぶことにすると言ったほど喜んだ。
1505年、帰省中の実家から大学に戻る途中、ルターはエルフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨に遭った。一緒にいた友人は落雷により絶命し、落雷の恐怖に死すら予感したルターは、「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」と叫んだという。この事件をルターは自身の罪に対する神の怒りとして受け止め、親の猛烈な反対を押し切ってエルフルトのアウグスティヌス会修道院に入って修道僧になってしまう。
神は人間の敬虔な「行い」、または善き「行い」とは無関係に恩恵を与える。人間はアダムが犯した原罪のゆえに徹底的に堕落した存在であり、そのいかなる努力も空しい。十字架にかけられたイエス=キリストの憐れみを信じることによってのみ、人間は神の前で正しいとされる。このようにルターは、キリストの憐れみに対する信仰のない「行い」の無意味さを認識した。ここから当然、免債による罪の赦免に対する、彼の激しい批判が出てくる。
当時マグデブルク大司教であったホーエンツォレルン家のアルブレヒトは弱冠23歳にしてマインツ大司教も兼任することになった。本来、大司教位は30歳以上でないと認められないし、大司教位の兼任は禁止されている。それがまかり通ったのは、アルブレヒトがブランデンブルク選帝侯の実弟だったからだ。つまり、ホーエンツォレルン家の金と政治力の結果であった。
驚いたことに、これを教皇レオ10世が許可した。もちろん金と引き替えであった。金貨にして約1万4000枚。神聖ローマ帝国の歳入に匹敵する額だった。アルブレヒトにそんな資産があるはずもない。そこで、お決まりの借金をすることにした。当然、アウクスブルクの大富豪フッガー家からである。
この収入のうち、半分はアルブレヒトの取り分となり、もう半分はマインツ大司教の贖宥状販売を許可した教皇の取り分となる。ただし、アルブレヒトの取り分は、大司教叙任時の上納金のための借金の返済のため、そのままフッガー家へ渡る。教皇レオ10世はサン=ピエトロ大聖堂の建築資金をフッガー家から借りていたので、教皇の取り分も結局フッガー家へ渡る。これらの金の流れは帳簿上で行われるのであって、実際に金で一杯になった代金箱はフッガー家の者が持っていくのである。
ドイツにおける贖宥状販売の中心人物であったドミニコ修道会のテッツェルは、次のよなう宣伝口上を唱えたと言われる。
「 聖母マリアを犯して身篭らせたとしても、贖宥状を買えば許される」「
自分の代わりに聖ペテロが贖宥状を売りに来たとしても、自分の方がより多くの許しを与えることができる」「おまえの母親は今、煉獄で何千年にも渡って焼かれている。贖宥状を買うやいなや、おまえの母親は天国に入る」
そして、最後に「グルデン金貨が「チリン」と鳴れば、たちまち「スポン」と天国へ」と付け加えた。
1517年10月31日、ルターは「九十五カ条の論題」をヴィッテンベルク城に附属する教会の門扉に貼り出した。この文書はラテン語で書かれており、学者にしか読めないものだった。つまり、ルターには社会に向かって大々的に贖宥状を批判しようという意図はなかった。ルターは当時の学者の週間に従い、「罪」と「罰」の関係、贖宥の教理についてドミニコ修道会との学術討論を呼びかけたのであり、この文書は討論会の開催案内に過ぎないものだった。
ルターは当初は贖宥状の発行を批判したのであって、ローマ教皇や教会の存在、制度、その権威そのものを否定したのではなかった。しかし、論争が激化する過程で、ルターは自分の意図に反して教会批判そのものに向かわざるを得なくなるのである。(つづく)
2階建ての建物とその周囲には1000を超える店舗が所狭しと並んでいて、迷子になりそうだ。日本人女性がミャンマーの伝統菓子をアレンジしたクッキーが有名らしく、皆さんその店に行ってしまった。僕はまったく興味がないので、奥さんとブラブラ。チャットがまだ余っているので、欲しくもないのに、シュエダゴン・パゴダのマグネットを1,300チャット(100円)、Tシャツを5,000チャット(385円)で買った。
肉じゃがかな。
昆布のスープ。
鶏の蒸し料理。
椎茸と豆腐のあんかけ。
瓢箪か?
海老の塩茹。どれもこれも美味い。ミャンマーで食べた料理の中で中華料理が一番美味かったというのは、なんとも皮肉なもんだ。
午後7時30分、夕食を済ませ空港へ。午後9時45分、全日空814便は定刻通りテイクオフ。
午後10時30分、軽食。ポテトチップスをつまみにウィスキーのロックをダブルで。ほろ酔い加減で、おやすみなさ~い。
夜が明けて来ました。午前7時に成田到着。羽田を経て、午前11時30分、小松に到着。濃密な一週間でした。次回はベトナムとカンボジアとのこと。期待してお金を貯めましょう。でも、2021年にコロナ騒ぎが終息してるのかな~。(おわり)
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鐘を衝く奥さん。
『小部経典』の「無礙解道【むげげどう】」に、ブッダが力をはたらかせる時、ブッダの体から青・赤・白・樺(橙)および「輝き」の6色の光が放たれる、と書かれていることに由来するデザインなんだけど、知ってた?
深々と頭をさげて、何をお祈りしているのだろうか。
本当は年齢の数をかけるのが正式らしいが、66杯のかけると時間がかかるので、1杯を10杯分として、12杯水をかけた。次に仏像の背後に安置されている守護神に水かける。
最後に守護動物に水をかけてお参りして、お終い。昨年は喉頭蓋炎などというとんでもない病気にかかり、喉に穴を開ける羽目になったので、無病息災をお祈りした。
1時間ほどかかって1周したが、何体の仏像があったのだろうか。腹一杯になっちゃった。ゲップ。さあ、あとは買い物だけだ。(つづく)
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午後1時、シュエダゴン・パゴダに到着。シュエダゴン・パゴダはヤンゴンの北、シングッダヤの丘の上に立つ。南参道口から104段の階段を歩いて上るか、エスカレーターやエレベーターを使って上る。僕らはエスカレーターを使った。
歴史的にはあり得ない話しだが、ミャンマーの人々はかたく信じて疑わない。考古学の研究によれば6〜10世紀の間に建立されたと考えられている。何度もの地震に耐えてきた現在の仏塔の原形は、15世紀中期に時の権力者でバゴーの女王シンソープによって完成されたとされる。
仏塔を取り巻く回廊に出た。まず目に飛び込んで来たのが見事な菩提樹。シュエダゴン・パゴダには全部で6本の菩提樹があるそうだ。なんか、ミャンマーに来て初めて菩提樹を見るよなう気がするが、あっても気づかなかっただけかな。
天を衝くような大仏塔は高さ99.4m、基底部の周囲は433m、使われている金箔の数だけでも8688枚と言われている。
総額、いくらぐらいかね?検討もつかないが、盗まれる心配はないのかな~。ミャンマーの人でそんな罰当たりはいないだろうけど、国際窃盗団なんかが狙わないかね。まあ、もっとも、誰の目にも入らずに、99mの塔を上って、盗めるかが問題だけどね。
どの宗教も祈る姿は美しい。
このおばちゃんはお供えを載せるのに、携帯用テーブルまで持って来ている。
このおじさんはえらい分厚いマットを持ってのお参りだ。五体投地でもするんかな。
これも面白いね、ブッダ像がライオンに守られてるけど、両側の柱の脇に立つ人物?が問題。右側は上のほうにBrafmaと書いてあるので、インドのブラフマー神、日本では梵天【ぼんてん】の名で知られる、仏教の守護神だ。帝釈と並んで釈尊の脇侍になることが多いので、左側は帝釈天【たいしゃくてん】ということになる。帝釈天は蓮の花を手に持ってるよね。
面白いのは、右側の梵天だ。子供を抱いてるよね。子供を抱いた仏像と言えば鬼子母神が一般的。水子観音を思い浮かべる方もいると思うが、あれは最近登場してきた観音さんで、本来あんな観音さんは存在しない。
子供を抱いた梵天なんで初めて見たよ。男の子が欲しければこの像に祈るんだってさ。女こ子が欲しければ蓮を持っている帝釈天に祈るそうだ。
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午前7時、ヘーホー空港に向けてホテルを出発。1時間余り走ったところで、踏切でストップ。遮断機が下りている。ということは列車が通過するということだ。ゼイヤ君の話では列車に遭遇することは滅多にないそうで、非常にラッキーだとのこと。全員バスから降りて列車が来るの待つ。
ちなみに、ミャンマーはインド・中国など5カ国と隣接しているが、どこの国とも鉄道は繋がっていないそうだ。軍事政権が長く続いたからなんだろうけど、まるで鎖国だね。
午前8時45分、ヘーホー空港に到着。ヤダナポン航空132便でヤンゴンに帰る。ヤダナポン航空のワッペン。行って来たあとだから、マンダレーの王宮がデザインされているって分かる。
ミックス・ベジタブル・スープ。パクチー入り。

数々のパゴダを巡って来たが、これから、ミャンマー最後の巡礼地にして、ミャンマー最大の聖地シュエダゴン・パゴダに向かう。(つづく)
午後3時40分にガーペー僧院を出て、20分でファウンドーウー・パゴダに着いた。ファウンドーウー・パゴダはガーペー僧院と同じく水上僧院だが、規模がまったく違い、こちらは随分大きい。「ファウンドーウー」というのは「筏」のことで、バガン時代に王が筏でやってきて降りた場所とされている。
安置されている仏像は13世紀のものということで、かなり古いパゴダなのだが、建物そのものは1952年に建てられた新しいものだ。とは言っても僕の生まれた年だから、67年も前のことになる。
実は、これが昔の仏像の写真。なんとか仏像の原形は留めているが、金箔が貼られて顔なんかノッペラボウになっている。そう、この後もどんどん金箔を貼られて、その結果、ダルマさんみたいになっちゃったという訳だ。マハムニ僧院の仏像も金箔貼られ過ぎてぼこぼこになってたけど、この仏像も凄い。ミャンマーの人はどんだけ金箔貼りが好きなんだろうね。
以前は、5体とも載せて湖を巡っていたらしいが、1965年の祭りの時に、途中で船が転覆し、1体が行方不明になっちゃった。ところが、翌朝、行方不明になった仏像が頭に水草を付けた状態で寺院に戻っていたんだってさ。で、それ以降、1体の仏像は門外不出にしたそうだが、ファウンドーウーパゴダには不思議な力があると信じられるようにり、超人気のお寺になったらしい。
しかし、近年、合成洗剤やシャンプーの使用など生活様式の変化、浮畑栽培で使用される化学肥料や農薬等による水質汚染が進み、その水質は生活・飲料水に適さないようになって来ているそうだ。
ミャンマーの民主化が進めば、この地域にも近代化の波が押し寄せて来る。便利さを追い求めるようになれば、彼らの生活も一挙に崩壊してしまうかも知れない。
先ずはインレー湖で採れた蓮の茎を折って引っ張り、粘りけのある繊維を取り出す。
蓮布の値段は1m290ドルと弱冠安くはなっているが、それでも高くて買えない。その上、布にはまったく興味がないので、時間をつぶすのに苦労した。
蘭の一種だろうか。うす紫の花が美しい。
こちらがレストラン。
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午後2時55分、ボートに分乗してインデインを出発。ここでも子供たちが働いている。ミャンマーの義務教育は小学校の5年間だけ。向こう側の子は年齢的に小学生みたいだけど、家の都合で学校に行ってないのかな。貧困から抜け出すには、頑張って勉強しなければならないのだが、人の子ながら心配になる。
本堂内部に入る。今まで見て来たパゴダや僧院はほとんどが石造りや煉瓦造りで、なんとなく落ち着かなかったが、木造寺院は心が落ち着く。やはり、日本文化は木の文化なんだよね。さっき見たパゴダのような形の厨子が並んでいて、中に仏像が安置されている。
本堂全体に対して須弥壇【しゅみだん】部分が広く、シャン、チベット、バガン、インワの各スタイルの仏像が安置されている。東大寺法華堂(三月堂)に安置されている仏像は10体。それでも堂内にひしめき合っている感があるが、ガーペー僧院に安置されている仏像は約30体で法華堂の3倍もあって、重圧感がある。
ただし、法華堂の場合は不空羂索観音が本尊で、梵天・帝釈などその他の仏像は本尊を守護する役割を果たしているが、ミャンマーでは本尊というものがない。確認はしていないが、すべて釈迦牟尼仏なんだろう。
こちらの左側の仏像はチベットっぽいけど、ちょっと待てよ。チベットは大乗仏教だよね。大乗仏教の仏像が上座部仏教の僧院に安置されている。なんで?お分かりの方おいでましたら、ご教授ください。
一つは服装。偏袒右肩【へんだんうけん】になっていない。偏袒右肩というのは、左肩に袈裟を掛け、右肩をあらわにすることで、坊さんは皆この袈裟の着方をし、ブッダ像もこの形をとるのが普通だけど、この仏像はそうなっていない。
で、今まで紹介して来た仏像をもう一度確認してみたら、偏袒右肩じゃない仏像もあったので、上座部仏教はその辺にはあまり拘らないのかも知れない。
もう一つおかしい点は頭。この仏像は王冠を被っておられる。大乗仏教では菩薩像は王冠などの装飾品を身につけているが、仏像はいっさい装飾品をつけないのが決まりだ。悟りを開いた身に飾りは要らない。
降魔成道印を結んでいるから、この像は間違いなく悟りを開かれたブッダなのだが、王冠を被っている。さっきのチベット風の仏像も王冠を被っているから、ミャンマーでは仏像を世俗的なもので飾ることに抵抗がないのかも知れない。
残念ながら8月に祝日はないが、ミャンマーでは仏教と結びついた祝日がたくさんある。「タバウンの満月のお祭り」パゴダの建立に良いとされる日のお祭り、「カゾンの満月のお祭り」はブッダが悟りを開いたとされるお祭り、「ワソの満月のお祭り」は、雨季(雨安居【うさんご】)の始まりのお祭りで、ここからおよそ3カ月の雨季の間、僧侶は寺院で修行をする。
日本でお釈迦さまの誕生日というと「花祭り」の4月8日だけど、ミャンマーでは2月の満月の日。
ということで、ミャンマーでは満月が重視されている。で、世界史の教材に使えるなと思ったわけなんだが、もう必要ないことに気づいた。僕の海外旅行は世界史の教材を探す旅でもあったので、いつまで経っても癖が抜けない。もうほとんど病気ですね。(笑)(つづく)
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