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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー若ハゲの純潔王・ルイ13世

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即位した頃のルイ13世

 ルイ13世はアンリ4世と王妃マリ=ド=メディシスの長子として、1601年にフォンテーヌブロー宮殿で生まれた。

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マリ=ド=メディシス

 1610年、父アンリ4世が狂信的なカトリック教徒に暗殺されたことにより、ルイ13世は8歳で即位し、13歳になるまで母マリ=ド=メディシスが摂政を務めることになる。はじめは、摂政のマリとその一派(イタリア人コンチーニら)が実権を握ったが、大貴族たちは国王が幼少で摂政が女性であることをよいことに、さまざまな特権を国王に認めさせようと、1614年にブロワに三部会を招集した。しかし、三つの身分の利害の対立が明らかになり、なんら得るところなく終わった。これ以後、フランス革命の年、1789年まで三部会は開催されなかった。

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リシュリュー

 ルイ13世は成長するに従い、国王として親政を行うことを望むようになり、母后マリ=ド=メディシスを嫌うようになった。1617年にコンチーニらイタリア人の一派をクーデターで退け、さらにマリをブロワ城に閉じこめてしまった。しかし、権勢欲の強いマリは城を脱走してしまう。その後もさまざまな画策を行い、一時は国王派と母后派の両軍が対決することさえあったが、1621年に和解した。その両派の調停役として台頭したのがリシュリューであった。

 リシュリュー1624年からは、宰相として深い信任を受け、その後18年間にわたりフランスのかじ取りを行っていくことになる。

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ラ=ロシェル包囲戦

 新教徒(ユグノー)はナントの王令以後も、完全な信仰の自由を要求して、特にラ=ロシェルは新教徒の独立した共和国のような形勢をみせていた。ルイ13世とリシュリューは王権による統一を脅かす存在として1626年にラ=ロシェル攻撃を開始。14ヵ月の包囲戦の末、1628年にこれを屈服させ、アンリ4世によって与えられたユグノーに対する政治的、軍事的特権を撤廃させた。信仰の自由は引き続き認められたものの、これ以後はフランスの新教徒の勢力は弱体化していく。


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アカデミー=フランセーズ

 1635年、リシュリューはパリの文化人サークルを公認し、公立の機関としてアカデミー=フランセーズを設立した。当初の目的はフランス語を国語として統一、洗練することにあった。フランス語辞典の編纂は1694年に終え、ルイ14世に献呈されている。

 アカデミーは大革命期に一時解散したが、王政復古とともに復興、今日にいたっている。会員数は 40名に限られており、彼らは「不滅の人」と称される。欠員が生じた場合、全会員が候補者の資格、業績を審査、絶対多数を得たものを新会員とする。いわゆる「41番目の椅子」で待ったまま、会員になれず死去した著名人も数多い。デカルト、パスカル、モリエール、ルソーなども、その一人だ。

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三十年戦争

 一旦は和解したルイと母親マリだったが、1618年に始まった三十年戦争への参戦問題で再び対立した。フランスは当初、旧教の神聖ローマ帝国皇帝軍を支援していた。しかし、戦争が長期化するうちにリシュリューはヨーロッパの勢力関係でハプスブルク帝国に対する優位に立つチャンスと考え、新教徒を支援しようとした。マリはハプスブルク家やスペイン、ローマ教皇と手を結ぶことを主張し、新教徒を助けるのに反対した。この問題でマリと対立したリシュリューも一時は参戦をあきらめたが、ルイ13世の決断はリシュリューに軍配を上げた。その結果、マリは捕らえられ、コンピエーニュ城に再び幽閉された。彼女は今度も城を脱出することに成功したが、もはやフランスには戻ることなく、ネーデルラントやイギリス、ドイツを転々とした後、1642年、ケルンで寂しくなくなった。

 フランスは1630年に新教徒側を支援することを決定、スウェーデン国王グスタフ=アドルフに軍資金を提供した。しかし1632年、グスタフ=アドルフがリュッツェンの戦いで戦死したため、フランスは直接派兵をせまられることになり、1635年、フランスはオランダ・スウェーデンと同盟を結び、スペインおよびオーストリア(神聖ローマ皇帝)と戦うこととなった。

 フランスは国内では厳しく新教徒を弾圧していながら、ドイツでは新教徒軍を扶け、同じ旧教国であるスペインと戦うことになったわけである。

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アンヌ=ドートリッシュ

 三十年戦争参戦はルイの王妃アンヌ=ドートリッシュにとっては耐え難いことであった。アンヌ=ドートリッシュは1615年に14歳で同い年のルイに嫁いだのだが、彼女はスペイン王フェリペ4世の姉であった。

 もっともこの夫婦はルイがどうやら女性に興味がなかったらしく、仮面夫婦だったという。ルイ13世が愛人を抱えていた証拠はなく、そのため、彼は「純潔ルイ」のあだ名で呼ばれた。ホモセクシャルないしバイセクシャルだったのではないかとの噂が根強く残っている。

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幼少期のルイ14世

 それにも拘わらず何故か子供ができ、世間の人は不思議がった。何度か子供を流産した後は、2人が夜を過ごしたのは1回だけだったと言うが、そこで生まれたのがルイ、後のルイ14世になる人である。もっともアンヌはルイ14世が即位すると、やはりまだ若いことから姑のマリ=ド=メディシスと同じように摂政となり、息子の嫁に同じくスペイン王室からマリア=テレサを迎えることに成功する。

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ルイ13世

 1642年12月4日、リシュリューが57歳で亡くなると、そのあとを追うようにして、ルイ13世は1643年5月14日に41歳で亡くなった。そのあとを僅か4歳のルイ14世が継ぐことになるのだが、その話は次回に。

 写真は一番知られているルイ13世の肖像画だ。長いふさふさの黒髪だが、実はこれカツラ。ルイ13世は王妃の不貞などのストレスから若ハゲとなり、22歳でカツラを着用した。ところが、地毛との見分けがつきにくい現代のウイッグと違い、カツラであることは一目瞭然。かえってハゲていることを主張しているようなものだ。そこで、王さまがハゲであることを隠すために、王さまをとりまく貴族たちが全員カツラをつけた。皆でつければ、誰が本当のハゲか分からないとう訳だ。

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 ところが、カツラをつけてみると意外に格好いい。ということで、カツラがファッションとなってしまう。次第にカツラは華美になり、カツラを持つことがステータスと言わんばかりに、派手な作りとなっていった。

 
もともとはルイ13世の恥を隠すアイテムとして始まったカツラが、ヨーロッパのファッション界を一世風靡することになったのである。

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【 2020/05/29 05:33 】

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世界史のミラクルワールドー女たらしの国王・アンリ4世

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アンリ4世

 アンリ4世は1553年、ブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌとフランス王フランソワ1世の姪であるナヴァラ女王ジャンヌ=ダルブレとの間に生まれ、王位継承権を持つ親王家の筆頭であった。しかし、母の影響で新教徒(ユグノー)となり、新旧両派の対立からついにユグノー戦争が起こると新教派の中心人物として人望を集めることとなった。

マルゴ 
マルグリット(通称マルゴ)

 国王シャルル9世の摂政であった母后カトリーヌ=ド=メディシスは新旧融和策をとり、その証として娘マルグリットとアンリを結婚させたが、一方で新教派の台頭を恐れ、1572年、二人の結婚式を祝して全国からパリに集まってきた新教徒を襲撃して多数を殺害した。これがサンバルテルミの虐殺である。

 この時アンリは難を逃れたが王宮に囚われの身となり、強制的にカトリックに改宗させられた。その後も宮廷に監禁されていたが、ようやく1576年に脱走し、新教徒に戻り、ギュエンヌ地方を基盤に新教徒軍を率いて戦った。

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アンリ3世              ギーズ公アンリ

 1585年からブルボン家のアンリは国王アンリ3世、旧教派「カトリック同盟」のギーズ公アンリ、との「三アンリ」の戦いが続き、彼はパリにはいることができず、各地を転戦し、「勇者中の勇者」とも言われた。

アンリ3世とナヴァラ王の和解 
アンリ3世とブルボン家アンリの和解

 その後、アンリ3世とギーズ公アンリが対立したため、彼はアンリ3世に接近し、王に子がなかったので王の死後、1598年に即位してブルボン朝を開いた。

 しかし、彼はすでにローマ教皇に破門されており、パリ市民をはじめ旧教徒は彼を王として認めなかったため、「国家なき国王」として各地を転戦した。旧教派内部も大貴族間の争いが続いて統一されず、またこのような状況につけこんでスペインが介入してきたため、アンリ4世は国家の統一を守るために改宗を決意、1593年にカトリックに入信した。

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ガブリエル=デストレ(右)とその妹

 1593年7月23日付で、アンリ4世がその寵姫ガブリエル=デストレへ送った書簡が残っている。25日(日曜日)の改宗を前に目前に控えて、アンリは次のように書いた。

  『この日曜日に、私はひとつトンボかえりを打つことにしています。』

 伝説だが、アンリ4世は、「ひとつとんぼがえりをうつことにする。パリを手に入れられるのなら、ミサ聖祭(旧教の)ぐらい受けてやることにしてもよい」と言ったとも伝えられている。あまり穿ちすぎているようだが、アンリ4世の物を物と思わぬ不逞さが窺える言葉だ。

 1593年7月25日、アンリ4世はサン=ドニ大聖堂で司祭の祝福を受けてカトリックに改宗した

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パリ入城

 その後、アンリ4世はスペインと戦って破り、カトリック派も抵抗をやめてアンリ4世を国王と認めざるをえなくなった。1594年、アンリ4世はようやくパリに入城し、ノートルダム寺院で民衆から「国王万歳」の歓迎を受け、ようやく統一を回復した。

 一方の新教徒はアンリ4世の改宗を非難し、なおも武装をつづけていたので、新国王は交渉を重ね、ようやく1598年に「ナントの王令」を出してユグノーの信仰を認めるとともに、その活動を制限することに成功し、宗教対立の解消を一応実現し、ここにユグノー戦争は終結した。

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シャンプラン

 その後王権の強化と国庫の再建、商工業の奨励に務めた。ユグノーの新教徒は商工業者が多かったので、平和の実現とともに生産力も上がった。統一の実現した後、海外植民地獲得に乗りだし、1608年にシャンプランが北米大陸のセントローレンス川中流域を探検し、その地にケベックを建設し、北米大陸進出の足場をつくり、その地はフランス領カナダとなった。


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マリ=ド=メディシス

 アンリ4世はカトリーヌ=ド=メディシスの娘の王女マルグリット(通称マルゴ)と政略結婚した。しかし、この結婚は不幸だった。マルゴは母に似ず美しかったと言うが、夫を愛することができず「ピレネーの山男」とさげすみ、愛人をつくっていた。夫アンリもマルゴには目もくれず、これまた沢山の愛人をもっていた。

  さて問題は2人に子供がなかったことだった。アンリは国王になると、マルゴを離婚しようとした。ところがカトリック教徒になったのだから離婚は認められない。特別に離婚を認めてもらうにはローマ教皇から、この結婚が間違えていたものであると認めてもらう必要がある。アンリが妃にしたかったのはガブリエル=デストレという女だったが、身分の低い女であったので、マルゴはプライドからローマ教皇に裏から離婚を認めないよう画策した。問題がこじれていくうちにガブリエルが病死した。

 そこで浮上したのがイタリアのトスカナ大公の姪マリ=ド=メディシスだった。アンリはメディチ家からの借財もあり、メディチ家側もカトリーヌに続いてフランス王と縁戚になれば有利だからローマ教皇に働きかけてくれるだろう。アンリの思惑通り、ローマ教皇がマルゴとの離婚を承認、1600年にマリとの結婚が成立した。アンリ46歳、マリは26歳だった。

 
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アンリ4世と家族

 2人はまだ顔さえ知らなかったが、1600年11月、マリは2000人のイタリアからの付き添いを引き連れてパリにやってきた。マリはフランス語も話せず、夫のアンリは相変わらずの好色ぶりで他に多数の愛人をつくっていたが、2人の間には6人の子が生まれている。だが、政略結婚である2人の仲は決して円満ではなく、多情なアンリ4世は多くの愛人を持ち、その数は56人以上に及んだとされ、国民はアンリ4世を「ヴェール・ギャラン」と呼んだ。「好色男」「女たらし」の意味である。

 一方、離婚されたマルゴの方は、その後も自由気ままな生活を送り、愛人と暮らしながら68歳まで生きたという。

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アンリ4世の暗殺

 1610年5月14日、アンリ4世は馬車に乗ろうとした際に狂信的なカトリック教徒のフランソワ=ラヴァイヤックに刺殺され、56歳で亡くなった。アンリ4世はサン=ドニ大聖堂に埋葬され、8歳の王太子ルイがルイ13世として即位し、成人する1617年まで母后マリが摂政として政務を執ることになった。 

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アンリ4世の頭蓋骨

 2010年12月15日のAFPニュースによると、アンリ4世の頭蓋骨とされるミイラ化した頭部が、本人のものであると証明されたと、フランス法医学チームが発表したという。

 アンリ4世の遺体は、パリのサン=ドニ大聖堂のブルボン家墓所に葬られていたが、フランス革命中の1793年、墓所から遺体が引きずり出され、バラバラにされた上で土中に埋められた。その後、掘り出された頭蓋骨はさまざまな人の手に渡り、行方が判らなくなっていた。

 今回発見されたアンリ4世の頭蓋骨といわれるものを、フランスのレイモンド=ポワンカレ大学病院のフィリップ=シャルリエ氏率いる法医学チームが調査し、当時の肖像画との一致、1594年の暗殺未遂事件の時の傷跡、放射性炭素年代測定、3DスキャナーによるX線撮影などによって確証が得られたとして、イギリスの科学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに発表した。

 頭蓋骨は約200年ぶりにサン=ドニ大聖堂に戻された。アンリ4世は1610年に暗殺されているので、没後400年にして本来の墓地に帰ったわけだ。

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【 2020/05/26 05:22 】

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世界史のミラクルワールドー黒衣の王妃・カトリーヌ=ド=メディシス②

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シャルル9世

 フランソワ2世の王位は2年と続かなかった。1560年年末も近い晩秋、フランソワ2世は狩猟に出かけた帰りに耳の後ろに鋭い痛みを訴えて倒れ、中耳炎と診断された。侍医は開頭手術を提言したが母カトリーヌ=ド=メディシスはこれを拒絶、中耳炎は彼の脳葉にまで達し、脳炎を引き起こして1560年12月5日に死亡した。16歳であった。代わって10歳のシャルル9世が王位に就き、母カトリーヌは摂政となった。舞台は一変し、メアリ=スチュアートの退場とともに、ギーズ家も後退した。

 カトリーヌは王家存続のため、若い国王の摂政として権謀術数を駆使した。イギリス・スペインに対抗するためにはユグノー(カルヴァン派新教徒)の貴族と接近を図る一方、カトリックのギーズ家と接近したため、ついに新旧両教徒のの抗争による内乱、「ユグノー戦争」を誘発してしまう。

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ヴァシーの虐殺

 1562年3月、北フランスのヴァシーの町を通過したギーズ公の兵士が、礼拝中のユグノーへ攻撃をしかけた。74人が殺害され、104人が負傷した。それを聞くと、全国の新旧両派が武器をとり、フランスはたちまち騒乱に渦に巻き込まれた。

  それから1か月以内にコンデ公とコリニー提督は兵1800を動員した。彼らはイギリスと同盟を結び、フランス諸都市を占拠する。カトリーヌはコリニー提督と会見したが、彼は帰順を拒絶した。このため、彼女は「あなた達が軍隊に頼るならば、私たちのものもお見せしましょう」とコリニー提督に言い返した。国王軍はただちに反撃し、ユグノーの拠点ルーアンを包囲した。

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コリニー提督

 カトリック軍はルーアンを占領したが、その勝利の喜びは短かった。1563年、オルレアン包囲中にギーズ公が暗殺されると、カトリック教徒は息子のアンリを立てて、「邪教徒どもを焼き殺せ」と絶叫する。一方、ユグノーはコンデ公が戦死した後には、コリニー提督を指揮官にして抗戦を続けた。


 カトリーヌは、最初こそ新旧両派の対立を逆用して、二派を互いに噛み合わせ、王権の安泰を図ろうとした。が、内戦が長引くにつれて調停者の立場に転じた。1570年、両者は一時矛を収め、サン=ジェルマン=アン=レーの和議が成立し、ユグノーは大幅な信教の自由を認められた。

マルゴ 
マルグリット(通称マルゴ)

 カトリーヌは王室間結婚によってヴァロワ朝の権益をより一層確実なものとしようとした。1570年にシャルル9世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇女エリーザベトと結婚し、彼女はまた2人の王弟たちのいずれかをイングランド女王エリザベス1世と結婚させようともしている。1568年に長女エリザベートが出産の際に死去すると、末娘のマルグリットをスペイン王フェリペ2世の後添えにとしつこく勧めていたが、彼女はヴァロワ家とブルボン家の王位請求権を統合すべくマルグリットとブルボン家のアンリとの結婚を画策するようになった。

 だが、マルグリットはギーズ公アンリと密かに恋仲になっており、このことを知ったカトリーヌは激怒し、娘を寝室から連れて来させると、王とともに彼女を叩き、寝間着を引き裂き、そして彼女の毛髪をひとつかみ引き抜いたという。

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アンリ=ド=ナヴァル(アンリ4世)

 アンリの母ジャンヌ=ダルブレは息子がユグノーに留まることを条件として、最終的に息子とマルグリットとの結婚に同意した。ジャンヌは結婚衣装を買うためにパリを訪れた際に病に罹り、44歳で急死してしまう。カトリーヌが手袋に毒を仕込み、ジャンヌを殺害したとも言われているが、ともかく2人の結婚式は1572年8月18日にパリ市内のノートルダム聖堂で挙行されることになった。アンリ、マルグリット、ともに18歳である。 

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コリニー暗殺未遂事件

 カトリーヌはギーズ家の専横を許せなかったが、一方でユグノーのコリニー提督もカトリーヌの重荷となりつつあった。コリニーはギーズ家が宮廷から後退して以来、シャルル9世の心をとらえ、シャルルは母に隠れてコリニーと密会を続けた。そして、コリニーに曳きずられて、旧教国スペインとの戦争計画に熱中した。カトリーヌは祖国の危険を避けるためにも、今は一刻の猶予もないことを悟った。

 婚礼は予定通り8月18日に行われた。続いて祝祭の行事が数日も続き、貴族も市民もお祭り気分に浮かされた。カトリーヌはその中で、一人陰謀を巡らせた。彼女はコリニーをどうしても除こうと決意し、挙げ句の果てカトリック教徒のギーズ公に密使を送った。彼女は悪魔の手で、悪魔を厄介払いする方法を選んだ。

 8月22日、ルーヴル王宮を出たコリニーに、突然銃砲が火を噴いた。彼は腕に負傷した。その報せを聞くと、シャルル9世はすぐ犯人を捜すよう厳重に命令する。カトリーヌは絶望的な境地に立たされた。もしギーズ公が捕まれば、嫌疑は当然彼女にまで及ぶだろう。彼女はその瞬間重大な決意を抱いた。コリニーはじめ、彼の負傷にいきり立つユグノーをすべて抹殺して、自分の罪を消し去ることである。

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サンバルテルミの虐殺

 聖バルテルミの祭日に当たる1572年8月24日が、その実行日に選ばれる。その夜、ギーズ公の兵士はルーヴル宮を急襲して、コリニーと婚礼に参集したユグノー貴族数十名をまず血祭りにあげた。ユグノーがコリニー提督襲撃への復讐を求めて武装蜂起するという噂を利用したカトリーヌの策略だったとされている。だが、これで事件が終わったわけではない。その後3日間にわたってパリのカトリック教徒の民衆が、3000名ともいわれるユグノーを襲い、虐殺したからである。

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虐殺跡を視察するカトリーヌ

 政治的暗殺に続く、狂信的な大量殺戮。ニュースは国じゅうを駆け巡り、オルレアン、トロワ、リヨン……で同じ残虐行為が繰り返される。カトリック教徒が死体を引きずりまわし、切り刻み、川に捨てる。フランス国内での犠牲者は膨大な数にのぼった。

 ナヴァル王アンリは虐殺こそ免れたが、1572年9月にはカトリックへの改宗を強制され、王宮内に幽閉の生活を約4年間余儀なくされる。脱出したのは1576年2月3日であった。

アンリ3世 
アンリ3世

 サンバルテルミの虐殺は新旧両派の争いを再燃させた。憎悪と復讐心が狂信と絡み合い、ユグノーは国内に解放地区を形成し、カトリック教徒は同盟を結んで同胞相食む悲劇を続けた。シャルル9世はこの日以来すっかり生気を失い、2年後の1574年5月30日に23歳で世を去った。

 弟のアンジュー公は3か月前にポーランド国王の戴冠式を挙行していたが、ポーランド王位を放棄してフランスへ帰国、アンリ3世として即位した。アンリ3世は礼儀の正しい、とり澄ました宮廷人であったが、政治の面では深い識見を表した。ただ、彼にはお小姓趣味というあまり芳しからぬ奇癖があち、カトリーヌの頭痛の種を増やした。パリの美女数十人を集め、一糸も纏わぬ夜会を催したが、王の情欲をかきたてるまでには至らなかったらしい。アンリ3世はとうとう生涯王妃を娶らなかった。


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ジャック=クレマンに暗殺されるアンリ3世

 アンリ3世は長い宗教戦争を解決するため、ユグノーとの和解を図った。ところがカトリック側は王の融和策を裏切りとみなし、ギーズ公を中心に反王権闘争を開始した。アンリ3世は身の危険を感じて、パリからブロワの城へ逃亡するよりほかはなかった。1588年12月23日、アンリ3世はギーズ公アンリを言葉巧みにブロワへおびき寄せて、謀殺した。その報せを聞くと、各地のカトリック同盟はいっせいに憤激し、パリではアンリ3世の王位を否認する決議まで行われた。

 1年後の1589年8月1日、アンリ3世は狂信的修道士ジャック=クレマンの短剣の一撃で打ち倒された。死の床で、アンリ3世は王位を義弟のナヴァラ王アンリに譲ることを遺言した。こうしてヴァロワ朝に代わってブルボン朝が開始され、アンリ4世によって漸く長い戦争に終止符が打たれることになる。

 カトリーヌはそれに先立つ1589年1月5日、ブロワ城で69年に及ぶ人生を終えた。残虐な王妃としてその悪名が語り継がれているが、コリニー提督暗首謀者が彼女であったという確たる証拠はなく、彼女に嫉妬した者やユグノーたちによってそのようなレッテルが貼られただけなのかも知れない。

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【 2020/05/22 05:26 】

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世界史のミラクルワールドー黒衣の王妃・カトリーヌ=ド=メディシス①

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カトリーヌ=ド=メディシス

 カトリーヌ=ド=メディシスはメディチ家最盛期の当主ロレンツォ孫のウルビーノ公ロレンツォとフランス王フランソワ1世の従妹マドレーヌとの間で1519年に生まれた。つまりイタリア人であるがフランス人の血もひいていた。

 誕生直後に両親を失い、枢機卿ジュリオ=デ=メディチ(後の教皇クレメンス7世)の保護下にフィレンツェで育ち、イタリア戦争渦中の1529~30年のフィレンツェ包囲戦では共和国側の人質として尼僧院に幽閉された。共和派が敗れて救出され、11歳のカトリーヌはローマに移り、教皇クレメンス7世の宮廷で華やかな生活を送った。

  カトリーヌは、背が高く頑丈な身体の持ち主で、美貌ではないが、頭の回転が速い快活で精力的、知的好奇心も旺盛で古典や芸術の教養もあった。

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教皇クレメンス7世

 教皇クレメンス7世は、フィレンツェのメディチ家政権を安定させるため、ハプスブルク家のカール5世とフランス王フランソワ1世の双方との婚姻を考えた。カール5世の娘マルガレーテと自分の子のアレッサンドロ(フィレンツェ公)とを結婚させる一方、カトリーヌをフランソワ1世の王子のアンリに嫁がせようとした。フランスのヴァロワ朝フランソワ1世も、カール5世と対抗上、メディチ家と結ぶことを有利と考えた。14歳になっていたカトリーヌは従兄の枢機卿イッポリトと恋愛関係にあったが、クレメンス7世は強引に彼女をフィレンツェに戻し、アンリとの結婚に同意させた。

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アンリとカトリーヌの結婚

 1533年10月、クレメンス7世とフランソワ1世の交渉がまとまり、カトリーヌは10万エキュの持参金つきでフランスの王子オルレアン公アンリと結婚した。カトリーヌは「フィレンツェの商人の娘」と陰口をささやかれながら、義父フランソワ1世をはじめとするフランスの宮廷人に受け入れられ、「とりわけ、周囲の人たちを楽しくする彼女の快活な気質が、人びとの心を魅了」し、音楽や狩り、乗馬を楽しみ、イタリアの料理法で食卓を豊かにした。

 国王ですら手掴みで食事をしていたフランス宮廷に、カトリーヌはナイフやフォークを使った食事作法を伝え、ハンカチを使うマナーを伝えた。商家の娘とバカにしていたカトリーヌから、世界最先端の文化を教えられ、さぞやフランス貴族は悔しかったに違いない。

 
そしてもう一つ特記されるのが、フランスに菓子(アイスクリーム、マカロンなど)文化を持ち込んだことだ。以後、フランス菓子は洗練され確立されていくこととなり、パティスリーの世界ではカトリーヌを「氷菓の母」「カトリーヌ姫」と呼んでいる。

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アンリ2世

 しかし、夫アンリは20歳年上の愛人ディアヌ=ド=ポワティエに入り浸り、結婚生活は不幸であった。それでも結婚10年目、25歳の時から次々と7人の子どもをもうけ、この間、1547年に夫は王位についてアンリ2世となると、王妃としての立場を揺るぎないものにした。

 試合
馬上槍試合

 1559年、アンリ2世はスペインとカトー=カンブレジ条約を締結し、長期にわたったイタリア戦争を終結させた。条約では13歳になるカトリーヌの娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世との婚約が取り決められていた。同年6月22日にパリで挙行された代理結婚式は祭典や舞踏会、仮面劇そして5日間にわたる馬上槍試合で祝われた。

 アンリ2世はディアヌのシンボル・カラーである黒と白の羽根飾りを身にまとって馬上槍試合に臨んだ。アンリ2世はギーズ公とヌムール公を破ったが、若いモンゴムリ伯との試合の時に、偶発的にモンゴムリ伯の槍が国王の顔面を突き刺した。アンリ2世は落馬し、顔面からは血が噴き出し、「とても大きな」破片が目や頭に突き刺さっていた。 アンリ2世はトゥルネール城に運び込まれ、ここで5つの木片が頭から引き抜かれたが、そのうち一つは眼球を貫通して脳に達しており、7月10日に亡くなってしまった。

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黒衣のカトリーヌ=ド=メディシス

 アンリ2世の死後、カトリーヌは「これが私に涙と痛みをもたらした」と刻んだ折れた槍のエンブレムを用い、アンリ2世を悼む黒い喪服を常に着用するようになった。

 カトリーヌは長い間不遇な宮廷生活を送って来た。強靱な神経と冷静な頭脳を持ち、およそ感傷性のひとかけらも持ち合わせぬカトリーヌは、夫の愛人ディアヌが専横を振るうのにじっと耐えてきた。その忍従の長い年月の間に、彼女の人生体験は研ぎ澄まされ、同時に権勢欲も内面深く蓄えられていった。

  
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フランソワ2世

 アンリ2世の死後、長男のフランソワ2世が即位した。彼はわずか15歳の少年である上に、耳鼻咽喉科系の先天性の持病を持ち、病弱であったため、王権が著しく弱体化する。

 王妃メアリ=スチュアートの外戚という立場を利用して宮廷で実権を握ったのは、カトリック強硬派の名門ギーズ家フランソワと弟のシャルルである。これに、ユグノー(フランスのカルヴァン派)で聖王ルイの血を引くブルボン家の当主アントワーヌと弟のコンデ公ルイ、コリニー提督が対抗する。さらに、イタリア戦争の終結により無為を強いられることになった群小の帯剣貴族も二派に別れて、この権力闘争に参加する。

 カトリーヌが「イタリア式」権謀術数を弄して王国の統一維持に努め、対立の構図をいっそう複雑にする。この三つどもえの抗争はさまざまな社会勢力を巻き込みながら激化の一途をたどり、王国を解体の危機にさらすようになっていった。(つづく)

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【 2020/05/19 05:24 】

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世界史のミラクルワールドー悲劇の女王・メアリ=スチュアート

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メアリ=スチュアート

 メアリ=ステュアートは1542年12月8日、スコットランド国王ジェームズ5世の第3子として生まれた。ジェームズ5世はインランド国王ヘンリ7世の孫にあたるので、エリザベス1世の従兄ということになる。12月14日にジェームズ5世が30歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、わずか生後6日で王位を継承した。

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フランソワ2世

 当時スコットランドはフランスと同盟してイングランド国王ヘンリ8世と戦っていた。スコットランド併合を画策するイングランドはヘンリ8世の死後、若い国王エドワード6世の妻としてメアリを迎えようとしたが、断られるとスコットランドに再び侵攻した。そのためメアリは1548年にフランスのアンリ2世の皇太子フランソワ(1歳年下)と婚約、10年間フランス宮廷で養育された後、1558年に結婚した。

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フランスを去るメアリ

 フランソワは翌1559年に父アンリ2世が不慮の事故で亡くなると、15歳の若さでフランソワ2世として即位し、メアリはフランス王妃となった。しかし、彼女に不幸がつきまとう。フランソワは耳鼻咽喉科系の先天性の持病を持っており、始終耳から膿を吹き出し、口も半開きにすることが多く、咽頭扁桃肥大症(アデノイド)の症状を表していたという。1560年年末も近い晩秋、フランソワ2世は狩猟に出かけた帰りに耳の後ろに鋭い痛みを訴えて倒れ、中耳炎と診断された。侍医は開頭手術を提言したが母カトリーヌ=ド=メディシスはこれを拒絶、中耳炎は彼の脳葉にまで達し、脳炎を引き起こして死亡した。16歳であった。

 結婚してわずか2年、18歳で未亡人となったメアリには子供が無く、翌1561年8月20日にスコットランドに帰国した。
 
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ダーンリー卿

 しかしスコットランドはカルヴァン派の長老派(プレスビテリアン)による宗教改革が行われており、カトリック教徒のメアリに実権は無かった。その後、美しかった彼女の周辺にはスキャンダルが渦巻く。宮廷の有力者だったダーンリー卿と1565年に再婚した。ダーンリー卿はメアリの従弟でカトリック教徒だったので、メアリには都合が良かった。

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デイヴィッド=リッチオ

 しかし、両親から甘やかされてきたダーンリー卿の傲慢な性格がわかるにつれて、メアリの愛情も冷めていった。やがて音楽家で、有能で細やかな気づかいをする秘書のデイヴィッド=リッチオを寵愛し、重用するようになった。

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リッチオの殺害

 1566年3月9日、ホリールード宮殿で食事をとっている時、武器を手にしたルースベン=モートンなどの数人の貴族達がリッチオを拉致し、ダーンリー卿の部屋に近い謁見室、しかもメアリの目前で殺害するという事件が起きた。嫉妬に狂ったダーンリー卿が謀ったことだった。

 この時、メアリは流産の危機を迎えたが、6月19日無事に息子ジェームズを出産した。リッチオの子だと噂する者がいたため、メアリは床についたまま、ダーンリーの子であることを誓い、ダーンリーにも認めるよう迫った。しかし、ジェームズが大きくなっても、ダヴィデ(デイヴィッド)の子を意味する「ソロモン」と呼ぶ者がいたそうだ。

ボスウェル伯 
ボスウェル伯

 子どもは生まれたが、ダーンリー卿との仲は冷め切り、メアリはスコットランド軍を率いる有力者、ボスウェル伯に心を寄せるようになった。1567年2月10日、ダーンリー卿が何者かによって暗殺された。僅かその3カ月後の5月15日にメアリはボズウェル伯と結婚式を挙げた。当時、ダーンリー卿暗殺の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリであると見られていたにも拘わらずである。カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対した。

 やがて、反ボスウエル伯で結束した貴族たちの反乱が起こり、メアリは反乱軍に捕らわれ、ロッホ=リーヴン城に監禁され、7月26日に廃位された。

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エリザベス1世

 しかし、メアリの美しさに惑わされた城主の息子の手助けで、1568年5月脱出に成功。メアリは6000人の兵を集めて軍を起こしたがマリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に逃れた。エリザベス1世はメアリをかばい、スコットランドに引き渡さなかったが、イングランド王継承権を持つこの女性は危険な存在であった。カトリックの復権をもくろむ勢力やエリザベス1世を妬む勢力は、メアリを担ぎ出そうとしてたびたび陰謀事件が仕組まれた。

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メアリの処刑

 エリザベスはメアリを幽閉したが、処刑はせずに19年の月日が経ち、ついに1587年2月8日、女王殺害計画の罪で処刑した。メアリは運命にもてあそばれた44年の生涯を終えた。

 スペインのフェリペ2世は同じカトリックの立場からメアリの処刑に抗議し、1588年7月に無敵艦隊を派遣、アルマダ海戦となったのである。

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ジェームズ1世

  1603年、生涯独身を通したエリザベス1世が亡くなり、テューダー朝が断絶。彼女が生前に指名していたスコットランド国王ジェームズ6世がイングランド国王ジェーズム1世として即位し、両国は同君連合の形で統合されることになった。皮肉なことにジェームズ1世はメアリ=スチュアートの長子で、メアリの愛人の子ではないかと噂された、あのジェームズである。

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メアリの墓

 ジェームス1世は、国王就任後の1612年、母の遺体を母の仇であるエリザベス1世も安置されたロンドンのウェストミンスター寺院の地下墓地に移した。エリザベス1世の立派な墓の反対側に位置するメアリの墓は、エリザベスのものよりもさらに立派な装飾がされている。

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【 2020/05/15 05:34 】

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世界史のミラクルワールドー太陽の沈まぬ帝国・フェリペ2世

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フェリペ2世

 フェリペは1527年にカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の長男として生まれ、1556年カルロス1世の引退によって28歳でスペイン国王となった。父カルロス1世は「遍歴の国王」といわれ、スペインに留まらず広大な神聖ローマ帝国領の各地を移動していたが、フェリペ2世はほとんどスペインから離れず、カステーリャ語しか話さなかった。

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エル・エスコリアル宮殿

 1561年に宮廷をマドリードに定め、63年から王宮・修道院・墓所を兼ねたエル・エスコリアルを建設した(84年に完成)。「この樹木のない山腹から、余は2インチの紙片で世界の半分を統治している」と自ら語ったように、彼はここで当時としては最大級に整備された行政機構の頂点に立ち、広大な領土から送られてくる書類の山に相対する毎日を送った(書類の数は月に1000通、「勤務時間」はしばしば14時間に達したという)。このようはフェリペ2世を人は「書類王」とも「慎重王」とも称したという。

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メアリ1世
 前代からの広義のイタリア戦争でのフランスとの対立が続いていた。即位直後の1557年、サン=カンタンでフランス軍を破り、輝かしい勝利をおさめた。フェリペ2世は皇太子時代の1554年にイギリスのメアリ1世と再婚(メアリは11歳年上)していたので、イギリスにも出兵を要請、しかしイギリス軍は敗れて、翌58年にはフランス内のイギリス領カレーを失った。メアリのカトリック復帰強行が国民の多数が反発、イギリスとの関係は再び悪化した。同年にメアリが亡くなると、フェリペ2世は次のエリザベス1世にも結婚を申し込んだが断られ、イギリスは国教会に復帰することになった。こうしてフランスとの戦争を継続することが困難となり、1559年のカトー=カンブレジ条約で講和し、長期にわたったイタリア戦争はようやく終結した。

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エリザベート

 1559年、カトー=カンブレジ条約によりフランス王アンリ2世の長女エリザベートと3度目の結婚をした。 その祝宴の一環で行われたモンゴムリ伯との馬上槍試合において、アンリ2世は偶発的に右目を貫かれ、その傷がもとで亡くなってしまった。長男のフランソワフ2世が即位したが、まだ15歳。母親のカトリーヌ=ド=メディシスが王権強化のため、ユグノー(フランスのカルヴァン派)に対する抑圧を緩和する政策を行うが、これが裏目に出てユグノー戦争という大変な事態を引き起こすことになる。

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サンバルテルミの虐殺

 フェリペ2世は、自らカトリック世界の最高の保護者たらんとして、領内のカトリック以外の宗派には厳しい弾圧を加えた。ユグノー戦争の最中の1572年にサンバルテルミの虐殺が起こって、パリだけで約3000人の新教徒が殺害され、さらに虐殺は全土に及んで数万人が死んだ。その知らせを聴いたフェリペ2世は、それまで笑ったことのない冷酷な男だったが、生まれて初めて笑ったと伝えられる。
 
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レパントの海戦

 16世紀の地中海世界は、1538年のオスマン帝国海軍がプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア連合海軍を破ってから、オスマン海軍の支配下にあった。それに対して、フェリペ2世は1571年、教皇ピウス5世の提案にもとづき、教皇領・ヴェネツィアと連合して大小300隻よりなる艦隊を派遣した。10月7日、これを迎え撃とうとする250隻よりなるオスマン帝国海軍とギリシアのレパント沖で激突。4時間にわたる激戦の結果ついにこれを破り、キリスト教世界の救世主との名声を得た。

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レガスピ

 同じ1571年の5月16日、レガスピが230人のスペイン兵と600人以上の傭兵を乗せた20隻の船団でフィリピンのマニラに入港し、6月には恒久的な入植地を建設、本格的なフィリピンの植民地化が開始された。フィリピンは1541年にルソン島・レイテ島等を発見したコンキスタドールのスペロペス=デ=ビリャロボスラが、皇太子であったフェリペを称えて命名したもので、アジアにおけるスペイン唯一の植民ととなった。

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イサベル

 15080年、フェリペ2世はポルトガル王家が断絶したことにつけ込み、母イサベルがポルトガル王家出身であったことから王位継承権を主張。1581年にはコルテス(身分制議会)で即位を認めさせ、ポルトガル王としてはフェリペ1世となった。このポルトガルを併合によって、イベリア半島を統一的に支配し、さらにアフリカ・インド・東南アジア・中国に点在する海外領土を獲得して、フェリペ2世のスペインはまさに「太陽の沈まぬ国」を実現したのである。

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オランダ独立戦争

  「異端者に君臨するぐらいなら命を100度失うほうがよい」と述べたフェリペ2世は、カトリックによる国家統合を最も重視した。プロテスタントだけでなくユダヤ教徒、モリスコ(キリスト教に改宗したイスラーム教徒)の動きは厳しく告発され、何度も火刑が行われた。

 フェリペ2世はカルヴァン派の新教徒ゴイセンの多かったネーデルラントに対してもカトリックを強要した。それに反発して1568年にはネーデルラント独立戦争が始まると、その独立運動を厳しく弾圧し、さらにネーデルラントを支援するイギリスを討とうとして無敵艦隊を派遣した。

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アルマダ海戦

 1588年7月、3万の兵士を乗せた130隻の大艦隊を派遣した。スペイン自身はこの大艦隊を「最も幸福なる艦隊」と名づけたが、スペイン語「Armada Invencible」の訳である「無敵艦隊(アルマダ)」の名が広く知られている。

 無敵艦隊が英仏海峡に姿を現すと、戦局の行方についてヨーロッパ中に噂がとび、フランス人は会うペイン軍上陸の可能性を賭率6対1とした。銀行家たちはイギリスに勝算なしと断定する。アルマダの接近を知ったイギリス中はパニックに陥った。「腹をすかせたワニが小魚をひと呑みにする」とは誰しもが考える予想である。だが、結果はドーヴァー沖の海戦でイギリス艦隊の巧妙な作戦行動と正確な射撃に苦戦したアルマダが、避難した北海方面で嵐にあって大損害(難破・行方不明54隻)を出し、フェリペのイギリス作戦は10日で惨敗に終わった。

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 新大陸からの膨大な金・銀は戦費と奢侈のために消費されて晩年の国家財政は破綻に瀕し、アルマダの敗北で海上権を奪われ、この後スペインは没落の道をたどり始めるのであった。


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【 2020/05/12 05:34 】

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世界史のミラクルワールドー聖なる帝国の覇者・カルロス1世

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カルロス1世

 カルロス1世は1500年、ネーデルラントの領主フィリップ美公とカスティーリャ女王ファナとの間に生まれた。

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マクシミリアン1世

 父方の祖父母は神聖ローマ帝国の皇帝であるハプスブルク家のマクシミリアン1世と、かつてヴァロワ朝フランス王国とすら互角に渡り合った大国ブルゴーニュの女公マリー。

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イサベル1世

 さらに、母方の祖父母は結婚によって統一スペイン王国を誕生させ、のちにグラナダ王国を制圧しイベリア半島からイスラーム勢力を駆逐した「カトリック両王」ことアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王フェルナンド5世)およびカスティーリャ女王イサベル1世という、当時のヨーロッパ王族のサラブレッドともいうべき血筋の生まれであった。

 カルロスはドイツ王・神聖ローマ帝国皇帝を出したハプスブルク家の出身であったが、ハプスブルク家の全ヨーロッパに張り巡らした婚姻政策が続いたため、純粋なドイツ人とは言えなくなってしまっおり、3代前にさかのぼればカールにはドイツ人の血は8分の1しか流れていない。

 おまけに、カルロスが生まれたのは父の領地ブルゴーニュ公国のガンで、育ったのもブルゴーニュ(つまりフランス語文化圏)、スペインに初めて行ったのはスペイン王となった16歳の時だった。スペイン王となってから熱心にスペイン語を覚えたので、フランス語とスペイン語は話せたが、ドイツ語はほとんど話せなかったという。

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フランソワ1世

 1516年、カルロスは外祖父フェルナンド5世の死を受けてカスティーリャ王に即位。それは同時にアラゴン、ナバーラ、グラナダ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、さらにスペイン領アメリカにいたる広大な領域の統治者となったことを意味していた。
 
 1519年、祖父マクシミリアン1世の死によりドイツ王となったカルロス1世は、神聖ローマ皇帝選挙に名乗りをあげた。これに対抗してフランス王フランソワ1世も名乗りを上げた。選帝侯を買収するためにカルロスは金貨2トンを、フランソワは金貨1.5トンを用いたと言われている。カルロスは選挙資金をドイツの鉱山・金融王フッガー家に頼んで調達し、選帝侯全員一致をの支持を取り付け選出され、皇帝カール5世となった。

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  ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執があったが、フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になり、重大な脅威を受けることになったため、フランスは戦略上イタリアを確保することが必要になった。こうして始まったのが狭義のイタリア戦争(第3次イタリア戦争)であった。

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パヴィアの戦い

 1517年にルターの宗教改革が始まっており、ローマ教皇レオ10世はカール5世と同盟。カール5世の叔母キャサリンが嫁いでいたイングランド国王ヘンリ8世も味方につき、劣勢となったフランソワ1世は親征を決行したが、パヴィアの戦いで捕虜となったことで、戦争は終結を迎えた。

 この戦争の最中にカール5世のドイツ人傭兵がローマで狼藉を働いた。これが「ローマ劫掠」である。その結果、カール5世の軍勢を恐れた教皇クレメンス7世がヘンリ8世の結婚無効の申請を却下し、イングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。

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フランソワ1世とスレイマン1世

 ローマ皇帝として、カール5世は当時論議の的となっていたマルティン=ルターの扱いにも苦慮し、1521年ヴォルムス帝国議会に召喚し、帝国追放の処分をくだした。しかしスペインの統治・フランス王との抗争に忙殺される中でルター派は広がっていった。

 そうした中、フランソワ1世と同盟したオスマン帝国のスレイマン1世がドイツの背後をうかがったため、1526年にシュパイアー帝国議会を開催し、新教諸侯と妥協してルター派を承認した。

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第1次ウィーン包囲

 1929年、オスマン帝国軍の第1次ウィーン包囲をかろうじて撃退すると、第2回シュパイアー帝国議会で再びルター派を禁止したため、新教派はこれにプロテスト(抗議)し、やがて彼らはシュマルカルデン同盟に結集した。新教徒を「プロテスタント」と呼ぶのはこれに由来する。

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アウクスブルクの和議

 イタリア戦争は皇帝がやや有利のうちに講和したが、国内の宗教戦争では皇帝派の形勢は不利となり、1555年、アウクスブルクの和議が成立してルター派の信仰が認められた。これにより、カルロス1世は政治に対する意欲を失ってしまった。

 1556年、長年の痛風及び統治と戦争に疲れたカルロス1世は、帝位を弟のフェルディナント1世、スペイン王位を子のフェリペ2世に譲って退位し、スペインのユステ修道院に隠棲した。それから2年、修道院で失意の余生を送り、
1558年に58歳で亡くなった。


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【 2020/05/08 05:36 】

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世界史のミラクルワールドー大変な別れ話②

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エリザベス

 1533年9月、アン=ブーリンはヘンリ8世待望の子を産んだが、その期待に反して女の子であった。エリザベスと名づけられたこの子がヘンリ8世の世継ぎとされ、キャサリンの娘メアリ王女は庶子の身分となり、王位継承順でエリザベスの次位に下げられた。

 その後のアンは流産や想像妊娠を経るも、男子の誕生を求めるヘンリ8世の期待に応えることが出来ず、その強い性格と優れた知性で政治に介入し、多くの敵を作った。アンはまた贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石などに浪費した。一方、ヘンリ8世はアンの侍女の一人ジェーン=シーモアへと心移りし、次第にアンへの愛情は薄れていった。 

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アンの処刑

 1536年、アンが再び流産した直後にその没落は始まった。アンは国王暗殺の容疑、および不義密通を行ったとして、反逆罪に問われ、逮捕された。5人の男と姦通したとされたが、うち1人は実兄ジョージ=ブーリンだったとされる。1536年5月19日、反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。 王妃となって3年余り、「1000日のアン」と呼ばれることになる。

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ジェーン=シーモアとエドワード

 アン=ブーリンの処刑の翌日、ヘンリ8世はジェーン=シーモアと婚約し、10日後に結婚した。ヘンリ8世の女癖は治っていない。1537年にジェーンはエドワード王子を生んだが、ジェーンは産褥死した。ヘンリーは悲嘆にくれたが立ち直り、寵臣トマス=クロムウェル(姉の玄孫がピューリタン革命の指導者オリバー=クロムウェル)に次の王妃を探させた。
 
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アン(ホルバイン画)

 トマス=クロムウェルはカール5世に対抗するために、ドイツ貴族の娘アンを推薦し、ホルバインに肖像画を描かせた。その肖像画を一目で気に入り、若い使い走りの少年の姿に変装してこっそり彼女の姿を見に行ったが、ヘンリ8世は実際のアンナの顔を見て、「絵に描いてある女とは違う!」と激怒したという。結婚はしたものの、彼女が英語を話せなかったこともあり、わずか半年で離婚。

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キャサリン=ハワード

 1540年7月28日、ヘンリ8世はアン=ブーリンの従姉妹であるキャサリン=ハワードと結婚した。同じ日、トマス=クロムウェルは叛逆罪で処刑されている。ヘンリ8世は30歳も年の離れたキャサリンを「私の薔薇」「私の棘のない薔薇」と呼んで可愛がった。しかし、1年半後、姦通罪と叛逆罪で処刑されてしまう。

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キャサリン=バー

 ヘンリ8世は6番目の妻として富裕な未亡人であったキャサリン=バーを迎えた。過去に2人の妻との婚姻を無効とし、2人の妻を断頭台に送ったヘンリ8世の求婚にキャサリンは逡巡したが、結局1543年に31歳で王と結婚した。この時、ヘンリ8世は52歳。

 キャサリンは教養の深いプロテスタントであり、エドワード王子の教育を任された。また、メアリ王女およびエリザベス王女を庶子の身分から王女の身分に戻し、エドワード王子の下位ながら王位継承権を復活させた。

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エドワード6世

 ヘンリ8世はしだいに肥満して健康を害し、1547年1月28日、キャサリン=バーに看取られながら、55年の生涯を終えた。男子で唯一存命していたエドワードが、わずか9歳で即位した。マーク=トウェインの『王子と乞食』の主人公である。

 新教派の貴族が摂政となり、国教会にカルヴァンの教えを取り込んで教義を整備し、1549年『一般祈祷書』が作成された。

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メアリ1世

 エドワード6世は先天性梅毒により幼い頃から病弱で、在位わずか6年、1553年7月6日、16歳を前にして没した。エドワードはジェーン=グレイを後継者として指名していたが、民衆の支持を得た異母姉のメアリが、メアリ1世として1553年7月19日に即位した。イギリス史上初の女王の誕生である。

 彼女は母がスペインの王女キャサリンであり、熱心なカトリックの信者であったため、エドワード6世の治世には厳しい迫害を受けていた。はからずも女王となったメアリはカトリック教会を復活させた。さらに、狂信的なカトリック信者として知られるスペインの皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)と国民の不評をおして結婚。異端を禁止する法律を制定して数百人国教徒を処刑したため、「ブラッディ=メアリ(流血好きのメアリ)と呼ばれた。

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エリザベス1世

 メアリ1世は1558年11月17日、卵巣腫瘍により42歳で亡くなった。後継者は異母妹エリザベス以外にいなかったが、母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリはエリザベスのことを終生憎み続けており、死の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指するほどだった。
 
 こうして1558年11月18日、イギリス史上最も輝かしき女王としてエリザベス1世が25歳で即位した。反動と流血のメアリ1世時代のあとで国民の期待は大きく、メアリ1世のカトリック復興策を否定して父・弟の国主義を継承、首長令・礼拝統一令を発して、イギリス国教会制度を確立した。

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【 2020/05/05 05:23 】

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世界史のミラクルワールドー大変な別れ話・イギリス国教会①

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ヘンリ7世

  1485年、ヘンリ7世はバラ戦争を終結させ、テューダー朝を開いた。ヘンリ7世は、内戦のためにヨーロッパで地位を築けていなかった小国イギリスの国際的地位を築くことに腐心し、婚姻外交で成果を収めた。まず娘マーガレットをスコットランド国王ジェームズ4世の妻として送り、和平を実現した。

 ジェームズ4世とマーガレットの孫娘にあたるのがメアリ=ステュアートであり、その子ジェームス6世がイングランドのテューダー朝に替わるステュアート朝を開くジェームズ1世となる。

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皇太子アーサー

 1501年の秋、イギリス南部の港プリマスに、スペインから特別仕立ての豪華船団が入港した。スペイン王室の姫君が、イギリス王室へご降嫁になるべく、海路の旅の目的地に、いよいよ降り立たれることになった。

 花嫁一行はロンドンに入り、1カ月後、ご婚儀がセントポール大聖堂でにぎにぎしく執り行われた。花婿はテューダー家の皇太子アーサー殿下。御年15歳。ヘンリ7世にとっては期待の跡取り息子である。

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 キャサリン=オブ=アラゴン

 花嫁は、スペインの「カトリック両王」フェルナンドとイサベルの末娘カタリーナ(イギリスではキャサリン=オブ=アラゴンと呼ばれた)。御年16歳であった。二人は1489年婚約していたが、12年後にようやくこの日を迎えたのである。ところが、悲しいことに、アーサー殿下はこの結婚式の翌年の春、突然に亡くなってしまわれた。新婚の若妻は、5カ月足らずでやもめの悲劇。しかし、スペイン王室からいただいた大事な姫君、おめおめとお返しするわけにもいかない。

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ヘンリ8世

 ヘンリ7世は、次の跡取り息子ヘンリを説得して、姫との婚約を承知させた。11歳と腕白盛りのヘンリは、あまり乗り気ではない様子。おまけに兄嫁と結婚することはカトリックでは許されないことであった。だが周到な父王は、近親結婚の咎めを受けることのないよう、教皇ユリウス2世に特別許可をもらい、話しは決まった。

 1509年に18歳で国王になったヘンリ8世は、わがまま放題の、典型的な2代目のおぼっちゃま。長身のスポーツマンで、朗々たる美声で唄う。よく言えば天衣無縫、豪放磊落だが、短気、強情、責任感より見えが先に立ち、金銭感覚ゼロとなれば、尻ぬぐいの役は必ず誰かに回ってくる。ヘンリ8世の無謀な「国王道」の尻ぬぐいの役は、みな断頭台でその役を務めさせられた。生涯で6回結婚し、女癖の悪さではイギリス王室史上でも類を見ない。イングランド史上、これほど恐いもの知らずの国王はいない。

アン=ブーリン 
アン=ブーリン

 ルターの宗教改革が始まった時、ヘンリ8世はこれを激しく批判したことから、1521年に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を授かった。それほど熱心なカトリック信者であったヘンリ8世が教皇と決別することになったのは国王のこらえ性のない女性問題がきっかけであった。問題の女性は、王妃キャサリンの侍女であったアン=ブーリンである。アンは駐仏大使となった父に従ってフランスへ行き、一時宮廷に仕えている。

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国王との出会い

 1526年頃に帰国し、王妃キャサリンの侍女となったが、この時アンは25歳、ヘンリ8世は35歳であった。アンのぴちぴちした若さとフランス仕込みのコケットリーに魅了されたヘンリ8世は、アンに愛人になるよう求めた。しかし、アンは強硬に王妃の座を要求し、さもなければ肉体関係を拒否すると言い出した。

 一方、ヘンリ8世の6歳年上の王妃キャサリンは、スペイン王室から嫁いで十数年。7人の子供を産んだが女子のメアリ(後のメアリ1世)を除いていずれも早世し、年齢もすでに40の坂を下り始めており、もう子供は望めない。

 男の子の後継ぎが欲しかった国王は、1527年に王妃と離婚すると言い出した。厳密には離婚ではなく、兄嫁だったキャサリンとの結婚は無効だったという申し出をしたのだが、かつて父ヘンリ7世が特別赦免で認めてもらった結婚を、今度は息子が同じ理由で赦免の取消を要請したわけであるから、ずいぶん勝手な言い分であった。

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教皇クレメンス7世

 慌てたのは、申し出を受けた教皇クレメンス7世である。幸か不幸か、キャサリンは今をときめくヨーロッパの帝王カール5世の叔母である。血族による連帯を重視するカール5世が、身内に対するこのような恥辱を許すはずがない。

 イタリア戦争ですっかりカール5世にしてやられた教皇クレメンス7世は、やすやすと皇帝側についた。かくしてヘンリ8世の離婚のごたごたは、ローマ教皇とカール5世を真っ向から敵に回すことになってしまった。

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王妃の座を追われるキャサリン

 ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を合法化するため、1529年11月に議会を招集した。その後断続的に36年まで続いた議会を「宗教改革議会」という。1530年代にヘンリ8世は次々とローマ教会からの独立をはかる施策を議会で承認される中、32年暮れにアン=ブーリンの懐妊が判明した。

 このままだとアンの子は私生児となってしまうので、まず翌33年1月に秘密結婚し、4月にカンタベリー大司教トマス=クランマーによりヘンリ8世とキャサリンの結婚は無効とされ、6月にアン=ブーリンが王妃として戴冠、キャサリンは王妃の座を追われた。その後、キャサリンは囚人扱いを受けても離婚を認めず、あくまで王妃としての毅然たる態度でイギリスにとどまり、信仰篤い生活に明け暮れ、1536年に48歳で亡くなった。

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トマス=モア
 
  ヘンリ8世は1534年11月には首長法(国王至上法)を制定、国王をイギリスの教会の唯一最高の首長とする国教会制度をつくり、ローマ教会と絶縁してイギリス宗教改革を断行した。

 このヘンリ8世の王妃離婚をカトリックの教義の立場と、法遵守の立場から批判し、あくまで抵抗したのが大法官トマス=モアであった。ヘンリ8世はトマス=モアを反逆罪にあたるとして、1535年処刑した。


 さて、アン=ブーリンは1533年9月にヘンリ8世待望の子供を産んだのだが、男であったか女であったかは、次回お話ししよう。(つづく)

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【 2020/05/01 05:26 】

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