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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーイギリス最後のカトリック王・ジェームズ2世

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ジェームズ2世

 ジェームズ2世は1633年にチャールズ1世とアンリエッタ=マリとの間に生まれた。1640年、7歳の時にピューリタン革命が始まると、一家で王党派の拠点オックスフォードに移った。内戦は国王側の敗北に終わり、オックスフォードも1646年に陥落した。ジェームズはセント=ジェームズ宮殿に監視つきで幽閉されたが、1648年、15歳のジェームズは女装してオランダのハーグへと逃れた。

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アン=ハイド

 1660年、王政復古で兄とともに帰国。兄チャールズ2世には庶子は多くても嫡出子がなく、ジェームズが推定王位継承者となった。1660年9月、26歳のジェームズは兄の腹心のエドワード=ハイドの娘アンと結婚した。ハイドは後にクラレンドン伯爵に叙されるが当時はまだ平民であり、イギリスではこのアンが平民の娘として次代の王位継承予定者に嫁した初例となった。

 アンはカトリックに改宗しているが、ジェームズがカトリックを信仰するようになったのは、彼女の影響と考えられている。

 ジェームズは海軍総司令官に任命され、組織改革をはかって英蘭戦争ではオランダ海軍を破る活躍をした。しかし、1671年、アンは娘のメアリとアンを残し、僅か34歳で乳ガンのため亡くなってしまう。

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メアリ=オブ=モデナ

 1673年、国教徒でなければ公職に就任できない審査法が成立し、公職に就く者は国教会の聖餐を受けるなどの手続きが必要になった。ところが、ジェームズは海軍総司令官の職を続けるにあたって、これらの手続きを求められ、拒絶して職を辞した。これによってジェームズのカトリック信仰は公然の秘密となった。

 この年、40歳のジェームズはカトリックである15歳のメアリ=オブ=モデナと再婚したため、彼を王位継承者から排斥する法案が出されたが、上院でかろうじて否決された。この排斥法案に賛成したのが後のホイッグ党(自由党)、反対したのが後のトーリー党(保守党)である。

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モンマスの処刑

 チャールズ2世は1685年、死の床でカトリックに転向した後、公式な次代国王を決めずに死去した。当時51歳のジェームズが即位したが、兄以上の反動的な政策を展開していく。

 ジェームズの即位に反対し、チャールズ2世の庶子モンマス公が王位継承権を主張して反乱を起こすと、これを口実に常備軍を設置。さらに、カトリック教徒の文武官任用を復活させ、審査法を事実上廃止。1687年には信仰自由宣言を発し、カトリック教徒の聖職就任を許可した。翌年、礼拝で信仰自由宣言書を2度読むことを強制、反対したカンタベリー大司教ら7名を逮捕するなど、国民の支持を失った。

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メアリ(メアリ2世)

 ジェームズ2世には先妻との間に娘が2人いた。2人とも父と違ってプロテスタントの国教会信者となった。長女メアリはオランダのウィレム3世に嫁ぎ、妹のアンは独身(後にデンマークの王族と結婚)だった。

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老僭王ジェーズム

 ところが、1688年6月に後妻のメアリがジェームズ待望の男子を出産した。ジェームズ=フランシス=エドワード=ステュアート、後に老僭王と呼ばれることになるが、この子にカトリックの洗礼を受けさせた。議会は、将来は国教会信徒のアンが即位するという期待を抱き、ジェームズ2世の暴政に我慢していたが、次の王がまたカトリック信徒ではカトリック復帰が本格化する怖れが出てきた。しかるべき手を打たなければならない事態に追い込まれた議会のトーリ党とホイッグ党は、カトリック復帰阻止の一点で手を結び、ジェームズ2世追放を決意した。

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ウィレム3世(ウィリアム3世)の上陸

 1688年11月5日、議会が招聘したオランダのオレンジ公ウィレム3世とその妻メアリが、アルマダ海戦を凌ぐ5万の軍勢を従えて上陸、もう一人の娘アンも議会側に走ったのでジェームズ2世は孤立し、12月23日にイギリスを離れてフランスに亡命、ルイ14世の提供してくれたサン=ジェルマンの隠れ家に身を寄せた。これが名誉革命といわれる政変で、ウィリアム3世とメアリ2世による共同統治が始まることになる。

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ボイン川の戦い

 ジェームズは、フランス王ルイ14世に保護され、イギリス復帰の機会を待った。アイルランドはカトリック教徒が多く、ウィリアム3世を国王と認めなかったので、翌年、ジェームズはフランス軍の支援を受けてアイルランドに渡り、再起を図ったが、乗り込んできたウィリアム3世のイギリス軍との1690年のボイン川の戦いに敗れた。

 フランスでの亡命生活に戻ったジェームズは、1701年9月16日に脳出血で亡くなる。67歳であった。

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【 2020/06/30 05:43 】

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世界史のミラクルワールドー稀代の女好き・チャールズ2世


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チャールズ2世

 チャールズ2世は1630年にチャールズ1世の次男として生まれたが、兄は幼くして亡くなったので、実質的な嫡男だった。ピューリタン革命の危険が高まったため、1646年に母たちとフランスに亡命したが、イングランドに残った父チャールズ1世は、1649年1月30日に処刑された。

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 ウースターの戦い

 革命に反対するスコットランドは1649年2月5日、チャールズをスコットランド王として推戴すると宣言したため、6月にスコットランドに上陸。1651年1月1日にスクーンで正式に戴冠式を挙げた。しかし、同年にスコットランドへ侵攻してきたクロムウェル軍にウースターの戦いに敗れ、再びフランスに亡命、その後ネーデルラントのブリュージュに移った。

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チャールズの帰還

 1658年にクロムウェルが死去すると、息子のリチャード=クロムウェルが後を継いだが、混乱を収拾できずに1659年に辞任。スコットランド駐留軍の司令官ジョージ=マンクがスコットランドから進軍して1660年3月16日に長期議会を解散、チャールズら王党派と連絡を取り復帰を要請した。これを見てチャールズは、ブリュージュからブレダに移り、4月4日にブレダ宣言を発して復位を提案、この宣言が4月25日に選挙で王党派が多数派になった仮議会に受諾され、チャールズは5月29日にロンドンに入城してイングランド王チャールズ2世となった。
 
 ブレダ宣言は、新しい土地所有者の所有権の保障、革命関係者の大赦、信仰の自由、軍隊給与の支払いの保証など、つまり絶対王政を復活させないことを約束したもので、議会はこの条件を入れてチャールズのイギリス国王即位を認め、王政復古となった。しかし即位後のチャールズ2世は、ブレダの宣言に反してカトリックの復興をはかるなど、議会に対立して絶対王政の復活を策した。

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ウェストミンスター寺院

 翌1661年4月23日にウェストミンスター寺院でチャールズ2世は正式に戴冠式を挙行したが、ピューリタン革命で中世以来受けつがれてきた王冠、王笏、宝珠はすべて溶かされ貨幣として鋳造されてしまっていたので、すべて新たに造り直さなければならなかった。

 同じ日に戴冠式に先立ってウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は王殺しの罪で絞首刑に処されたのち、その首は晒しものとされた。

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ドーヴァー城

 チャールズ2世は、1665年からは第2次英蘭戦争を起こした。1665年にはペストの流行、1666年はロンドン大火が続いたが、この頃までは議会とも協力して難局を乗り切った。しかし、1670年5月22日、チャールズ2世はフランスのルイ14世と「ドーヴァーの密約」を結んだ。この密約によって、フランスから多額の資金援助を受ける代わりに、フランスのオランダ侵略を支援することや、チャールズ2世が適当な時にカトリックであることを宣言することが約束された。

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ルイ14世

 チャールズ2世の母親はアンリ4世の娘なので、ルイ14世とは従兄の関係になる。つまりチャールズ2世は従兄を頼ってフランスに亡命したわけだ。自分の父親は国民に裁かれて処刑されたのに対し、ルイ14世は絶対王政の全盛期である。

 チャールズ2世には父チャールズ1世を破滅に導いたような神に対する王の政治責任という信念は少しもなかったが、従兄が持っているような無制限の権力を羨ましがった。宗教に関してもほとんど関心がなかったと言ってよいが、カトリックが君主にとって最も便利な宗教であると考え、出来れば、イギリスをカトリックの国にしたいくらいに思っており、密かにカトリックに改宗していたのだった。段階的なカトリック復帰を策したチャールズ2世は、1672年に「信仰自由宣言」を出し、カトリックを公認しようとした。

  議会はチャールズ2世のカトリック復興策に反発して、1673年に審査法を制定、また1679年には人身保護法を制定して市民の権利の保護を図った。

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キャサリン

 チャールズ2世は父チャールズ1世のような野心は抱かず、日々の政治は大臣や議会に任せた。議会は一度を除き、毎年開催した。その治世には、ペストの流行、ロンドン大火、オランダとの戦争などの苦難があったが、議会の協力で乗り切った。

 しかし、一つだけ問題があった。彼は稀代の女好きであった。ブリュージュに亡命中にも、お気に召した女たちを左右に侍らせ、快楽に耽った。王政復古後の1662年5月21日にポルトガル王女キャサリンを王妃に迎えた。彼女はイギリス宮廷に茶を飲む習慣をもたらしたと言われているが、もう一つ大事なものをイギリスにもたらした。持参金として、イギリスの重要な植民地となったインドのボンベイ(現ムンバイ)を持ってきたのである。

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バーバラ=パーマー

 部類の女好きチャールズ2世は多くの愛人を持った。結婚前からシャティヨン公爵夫人イザベル=ド=アンジェリク、ルーシー=ウォルター、エリザベス=キリグリュー、キャサリン=ペッグ、バーバラ=パーマーなど数多くの愛人があり、以後もネル=グウィン、ルイーズ=ケルアイユ、オルタンス=マンチーニ、フランセス=ステュアート、モル=デービスなど多くの愛人を持った。また、認知しただけでも14人の庶子があり、愛人及び彼女たちが産んだ庶子たちに大盤振る舞いの叙爵や屋敷をあてがい「陽気な王様」の渾名を取った。

 なお、あまりの艶福家だった王を見かねた殿医のドクター・コンドームが王のために牛の腸膜を使った避妊具を開発したのがコンドームの始まりと言われているが、そんな医師がいたという史料は存在しない。

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ジェームズ2世

 愛人との間にはたくさんの子を造ったが、肝心のキャリン王妃との間には世継ぎが生まれなかった。庶子には王位継承権がないので、弟のヨーク公爵(後のジェームズ2世)が王位継承者となった。しかし、彼は公然たるカトリック教徒であったため、議会ではカトリック教徒の王位継承を認めないという法案が上程された。「怠惰王」とも渾名されていたチャールズ2世であったが、この時だけは貴族院に足繁く通い、法案を阻止しようとした。

 王の熱意が通り、法案は否決されたが、議会はヨーク公は子がなく、死ねばオランダ総督に嫁いだメアリかデンマーク王子に嫁いだアンがいずれも新教徒なので、どちらかを迎えればよいとたかをくくっていたのである。安心したチャールズは1685年2月6日に世を去った。慎重だった彼は、死の床で自らがカトリックであることを告げ、息を引き取った、と伝えられている。

 こうしてジェームズ2世が即位するが、議会との対立がさらに激化し、名誉革命が勃発することになる。


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【 2020/06/26 05:31 】

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世界史のミラクルワールドー国王の首が飛ぶ・チャールズ1世

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チャールズ1世

 1625年、チャールズ1世は父ジェームズ1世のあとを継ぎ、スチュアート朝第2代国王となった。チャールズ1世は「謹厳、真面目、柔和」な人物で、立派な容貌を持ち、威厳に満ちていた。美術を愛好し、ファン=ダイクやルーベンスを宮廷に招いた。王子には良き父、王妃には忠実な夫であったが、洞察力とユーモアを欠き、来るべき大嵐にはまったく無防備であった。感情と偏見によって動き、よく気が変わった。不幸の源は王の性格にも存していたといえる。

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アンリエット=マリ

 王妃はフランスの王女で、カトリック教徒のアンリエット=マリ。1625年、15歳の時に即位したばかりのチャールズ1世に嫁いだ。「フランス生まれの王妃で、かつてイングランドに大きな幸福をもたらした者はなかった」と、ある新教徒が記している。

 チャールズ1世はこの王妃のカトリックの信仰とフランスの絶対王政に傾倒し、王と議会の争いがいよいよひどくなった。

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権利の請願

 1618年に始まっていたドイツにおける三十年戦争は、次第に国際的な紛争の観を呈してきていた。フランスはチャールズ1世の即位した1625年に新教徒支援に転じていた。チャールズ1世はカトリック教国スペインとの戦費を得るため、新たな課税を行おうとしたが、議会はそれに反対して1628年、「権利の請願」をチャールズ1世に提出した。

 それは、マグナ=カルタ以来のコモン=ローにもとづき、国王と言えども議会の同意なしに課税できない、理由を示さず逮捕できない、などの諸権利を認めることを迫る内容であった。チャールズ1世は怒って議会を解散し、請願の中心人物であったエリオットら9人の議員をロンドン塔に投獄した。エリオットは3年後に獄死している。チャールズ1世はその後、議会を開催せず、11年にわたって無議会の絶対王政を行うこととなった。

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ストラフォード伯

 チャールズ1世は、政治を側近のカンタベリ大主教ロードとストラフォード伯の2人に任せた。大主教ロードは国教会の立場を強化しようとしてピューリタンを弾圧し、議会の承認を必要としない財源としてトン税・ポンド税などの関税の増税、特権商人への独占権の乱発、それまで港だけに課せられていた船舶税の全国への拡大などを画策した。反対派に対しては星室庁裁判所による裁判で取り締まった。

  1637年にジョン=ハムデンというジェントリが船舶税は違法であると裁判に訴えたことから、反対の声が強まった。ジェントリは治安判事として無給で絶対王政を支え、議員に選出されていた。かつてテューダー朝時代の彼らは、議会を通じて王政に従順であったが、今や議会は国王の絶対王政を敢然と批判する姿勢に転じていた。

 1639年、スコットランドの長老派(プレスビテリアン)が起こしたスコットランドの反乱を鎮圧するための課税の必要に迫られると、1640年春に総選挙を行って議員を選び、議会を11年ぶりに召集したが、ジョン=ピム議員らが激しく課税を批判したため、わずか3週間で解散した。これが「短期議会」である。

議会 
  長期議会

 しかし、スコットランド軍が侵入してきたため、再度11月に議会を招集せざるを得なかった。この議会は形式的には1660年まで継続したので、「長期議会」と呼ばれ、イギリス革命の舞台となっていく。

  議会は再びジョン=ピムらが発言し、王の側近ストラフォード伯と大主教ロードの逮捕・処刑を決議、さらに3年に1度は議会を開催すること、議会自身の決議がなければ解散できないことを定め、船舶税などの廃止、星室庁裁判所の廃止など、絶対王政を完全に否定する改革をめざした。しかし、この頃から改革を行き過ぎであると考える穏健派も生まれ、16411年にピムやクロムウェルが提出し、国王の執政を告発する大抗議書は、159票対148票というわずか11票差でようやく議会を通過した。

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ジョン=ピム

 チャールズ1世は議会派を叩く好機と考え、ピムら5人の議員をスコットランド軍の侵入をたすけ、騒乱を招いたかどで逮捕するため、400名の兵士を引き連れ、自ら議会に乗り込んだ。しかし、ピムらは既に逃れ、議長も議員の身柄引き渡しを拒否したため、空振りに終わった。チャールズ1世は王妃と共にロンドンを離れ、ヨークに向かい、国王と議会の武力衝突は避けられない情勢となった。

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ネーズビーの戦い

 王党派と議会派の対立は1642年10月、ついに武力衝突に発展、ピューリタン革命が始まった。当初は王党派が優勢であったが、クロムウェルの指揮する議会軍が鉄騎隊を組織して闘い、形勢は逆転し、1645年にはネーズビーの戦いで国王軍は敗北した。チャールズ1世は1647年1月に捕らえられた。

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クロムウェル

 クロムウェルは独立派を率いて革命の主導権を握ったが、革命勢力の中には国王に妥協的な長老派と、さらに革命を社会改革にまで進めようという水平派があり、内部対立が激しかった。再起をうかがっていたチャールズ1世はハンプトンコートの監禁室から巧みに姿を消し、イギリス海峡のワイト島に逃れ、そこでスコットランドと軍事上の密約を交わし、王党派の決起とスコットランド軍の南下を促し、1648年に第2次内乱となった。しかし、革命の危機に議会派が結束し、クロムウェルと水平派の指導者リルバーンも和解したため内乱は鎮められ、チャールズ1世も再び捕らえられた。

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チャールズ1世の処刑

 その後もチャールズ1世は独立派と長老派、水平派の対立を煽る策謀を続けた。もともと立憲君主主義者であったクロムウェルも、チャールズ1世に対する断固たる措置が必要と考えるようになり、まず1648年12月、議会から王権に妥協的な長老派を追放し、独立派支配を確立、1649年1月、国王を裁くための特別な高等裁判所を設置した。

 裁判の結果、「チャールズ=ステュアートは暴君、反逆者、殺人者、この国の善良な人々に対する公敵として斬首により死刑に処す」と言う判決が下された。1月30日、チャールズ1世は自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング=ハウス前で公開処刑となり、斬首された。まだ、48歳であった。

 彼の最期の言葉は「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」であった。


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【 2020/06/23 05:36 】

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世界史のミラクルワールドー王になりそこねた男・クロムウェル

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クロムウェル

 「私は生まれながらのジェントルマンである」とみずから称したように、クロムウェルはハンティントンの裕福なジェントリ(郷紳)の家に生まれた。ピューリタニズムの強いケンブリッジ大学に進んだが、父の死により1年で中退し、ロンドンに出て法律を勉強した。学生時代のクロムウェルは聖書をあらゆる書物に勝るものと考え、繰り返しこれを読んで、自分で解釈し、聖書の言葉がそのまま彼の言葉となった。

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エリザベス

 21歳の時エリザベスと結婚した後、故郷に帰り、父の残した所領の経営に従事し、議会に出たこともあったが、11年間の無議会政治の時代にはジェントルマンとして表面静かな田園生活を送っていた。しかし、彼はこのころ信仰上のスランプに陥り、医師から憂鬱症という診断を稀有、「癇癖【かんぺき】が強く、妄想に囚われている」とされた。これは彼の霊的な苦悶の結果で、深い罪の意識が彼の霊を根本から脅かしたからだ。しかし彼は祈り、聖書を読み、説教を聞くうちに、信仰に目覚め、一人の確信あるピューリタンとして立つことになった。そして、彼はこの感謝の念を公の実践によって示そうとした。

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鉄騎隊

 1640年、41歳でケンブリッジ市から庶民院(下院)議員に選出され、長期議会の議員として活躍した。1642年、内乱の勃発は彼に軍人としての使命を負わせた。

 彼は弱体な議会軍を憂えて、ピューリタニズムを精神的絆とする騎兵隊を編成した。この騎兵隊はヨーマン(独立自営農民)を中核とし、訓練はこの上もなく厳格で、俸給をきちんと払い、王党軍のように酒を呑んだり賭けをしたり暴行をはたらいたりする者がなく、戦闘の前夜には全員が跪いて祈祷した。1644年7月のマーストン=ムーアの戦いで、クロムウェルの騎兵隊は大いに威力を発揮し、「鉄騎隊(アイアンサイド)」の渾名を得た。

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ネーズビーにおけるクロムウェル(馬上左の人物)

 「鉄騎隊」にならって編成された「新型軍」は、1645年6月のネーズビーの戦いで決定的な勝利を勝ち取り、チャールズ1世は議会軍にひき渡された。1649年、クロムウェルは国王チャールズ1世を処刑、イギリスに最初で唯一の共和政(コモンウェルス)を実現させた。
 
 権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。

チャールズ 
 チャールズ2世

 チャールズ1世が処刑され、その子チャールズがフランスに亡命すると、アイルランドでは彼を国王チャールズ2世として迎えると宣言した。クロムウェルは国内で水平派を武力で押さえた後、1649年夏、アイルランドの王党派を掃討するという名目でみずから1万2000の軍を率いてダブリンに上陸し、王党派・カトリック勢力を弾圧した。その際、一般市民も含む大量虐殺が行われた。

 この遠征は給与の不払いなどで不満を持つ軍隊に対する恩賞として、没収した土地が与えられた。没収地はロンドンの投機家たちにも与えられ、アイルランド人の土地の40%が奪われたという。これ以来、アイルランドはイギリスにとっての安価な食糧と原材料を供給する「植民地」と化した。

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ウースターの戦い

 チャールズ2世がスコットランドに渡って拠点を作り、イングランドへの南下の動きを示すと、クロムウェルは同じく王党派の撃滅を口実に、1650年にスコットランド遠征を行い、1651年9月のウースターの闘いでスコットランド軍を破った。これによってスコットランドはイングランドに吸収され、1654年4月には合邦が宣言された。

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第1次英蘭戦争(スヘフェニンゲンの戦い)

 17世紀に海上貿易に進出したイギリスにとって、最大のライバルはオランダだった。1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの貿易競争で優位に立とうとした。

 それに対してオランダは強く反発し、翌1652年から第1次英蘭戦争(イギリス=オランダ戦争)が始まった。イギリスは海軍が優位に立って戦いを進め、1654年のウェストミンスター条約で講和し、オランダに航海法を認めさせた。
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長期議会解散

 ピューリタン革命を勝利に導いたクロムウェルは1653年、長期議会を解散させ、議会の定めた「統治章典」を受諾して護国卿となってから、1658年の死まで独裁者としてイギリスに君臨した。

 左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。


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リチャード=クロムウェル

  議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。


 その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動くことになる。

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クロムウェルのデスマスク

 クロムウェルの遺体はウェストミンスター寺院に鄭重に安置された。ところが王政復古となり、クロムウェルが国賊として非難されると、その棺はあばかれ、遺体はタイバーン刑場で絞首刑の後斬首され、首は鉄の棒の先に突き刺されてウェストミンスター=ホールの屋根に掲げられ、その後24年間もさらしものにされた。

 ところが1685年、大嵐がロンドンを襲い、クロムウェルの首は棒の先から落ちてしまった。守衛の一人がその首を自宅に持ち帰り、自宅の煙突のなかにかくし、娘にだけその秘密を明かして死んだ。どのような経緯か明らかではないが、1710年頃、この首が売りに出され、買い取ったものが見せ物にして金を稼いだという。

 その後も何人かの手を経て、1814年ウィルキンソンという人が買い取って、家宝として保存、1960年にウィルキンソン家の当主がクロムウェルの出身校であるシドニー=サセックス大学に贈ることとし、現在では同校構内に埋葬されているという。

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【 2020/06/19 05:20 】

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世界史のミラクルワールドー賢明なる愚人/ジェームズ1世

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ジェームズ1世

 1603年4月、スコットランドの首都エディンバラから南下する美々しい行列があった。折からの春風に吹かれながら馬を巧みに操っているのがスコットランド王ジェームズ6世。同年3月「よき女王ベス」として国民敬愛のうちに没したエリザベスのあとを受けて、イングランド王ジェームズ1世となった彼が、戴冠式をあげるためロンドンに向かう途中である。


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メアリ=ステュアート

 ジェームズはスコットランド女王メアリ=ステュアートとダーンリー卿の長子であるが、メアリの愛人の子ではないかと噂された。

 イングランド王室とスコットランド王室は姻戚関係にあり、メアリの父ジェームズ5世はエリザベスの従兄にあたる。その関係から、エリザベスは後継にジェームズを指名して亡くなった。皮肉にもジェームズは自分の母親を処刑したエリザベスの後を継ぐことになったわけである。こうしてスチュアート朝が誕生し、イングランドとスコットランドは同君連合となった。
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 イングランドはすでに16世紀以来アイルランドと同君連合となっていたので、ジェームズ=ステュアートのもとで、歴史上初めてイングランドとスコットランドとアイルランドは、同君連合の形で統合されることとなった。ジェームズ1世治世当時の人口は、イングランドは411万、スコットランド80万、ウェールズ29万、アイルランド140万、合計は一挙に660万となり、キリスト教世界でも有数の国家となった。

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ジェームズ1世

 イングランド王となったが、ジェームズ1世はイングランドにとっては外国人である。ロンドンに向かう一行がニューアークに着いた時のこと、1人の現行犯のスリが捕まった。すると王は裁判にも付せずに、いきなり命令を下して犯人を絞首刑に処した。イングランドではスリは王が裁く対象ではなく、法が裁く対象である。この事件は、王がこれから統治すべきイングランドの法についていかに無知であるかを暴露したもので、イングランド人に不快と不安の念を与えた。

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『自由な君主国の真の法』表紙

 ジェームズ1世は教養もあり、みずから『自由な君主国の真の法』を著し、王権神授説を理論づけるような論客でもあった。しかし、「自由なる君主国」とは要するに、その欲するところを自由になしるう君主国という意味で、「王は議会のなんらの助言なく、日々法律や勅令を制定することができる」と主張した。議会演説では「王は地上において神にも類する権力を行使しているのだから神と呼ばれてもよい」とか「王は生殺与奪の権・臣民を形成し廃棄する取捨の権を有していて、神に対してしか責任を負わない」と繰り返し、たちまち議会や国民と衝突した。

 あまりに自己の権威に固執し、独断が多かったことから、イングランドの人々は彼を「キリスト教世界一の賢明な愚人」と呼んだ。

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メイフラワー号

 ジェームズ1世は宗教問題でも、国民と衝突した。イングランドでは、ヘンリ8世からエリザベス1世にかけて、国教会が国家宗教として公認されたが、なおそれに反対するカトリック教徒やピューリタン(カルヴァン派新教徒)も決して少なくなかった。ジェームズ1世は自己の政治理念から国教会を強化しようとして、他の2派を弾圧したため、しばしば国民の不満を招いた。

 1620年9月、ジェームズ1世の迫害から逃れるため、ピューリタンなど102名を乗せたメイフラワー号がイングランドのプリマス港を出港した。彼らはアメリカのヴァージニア植民を目指したが、65日間の航海の末、ヴァージニアのかなり北方のケープ=コッドに到着する。

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ピルグリム=ファーザーズ

 最初の冬は穏やかだったので乗りきったが、次第に病気が広がり、最初の1年間で移住者の約半数が亡くなるという苦労を味わったが、彼らはプリマス植民地を建設し、政治的・宗教的に自立した社会を作り上げていった。

 彼らによりアメリカ合衆国の基礎が築かれ、彼らは後に「巡礼者の始祖」の意味でピルグリム=ファーザーズと呼ばれることになった。

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【 2020/06/16 05:28 】

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世界史のミラクルワールドー北方の獅子王グスタフ=アドルフ・三十年戦争②

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ヴァレンシュタイン

 デンマークとの戦いに活躍したヴァレンシュタインであったが、皇帝の権力強化を恐れた諸侯は彼の罷免を求めた。自分の子供を帝位につけるため諸侯の好意を必要としていた皇帝は、1630年、ついにこの圧力に屈服した。

 裏切られたヴァレンシュタインは心に怒りの炎を燃やしながら、さすがにまだ皇帝に楯つく決心はつかなかった。彼は軍隊を解散してベーメンに帰り、ヨーロッパの戦雲のあいだに自分の運命の星がもう一度輝くチャンスを待った。

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グスタフ=アドルフ

 ヴァレンシュタインが皇帝にもう一度自分を必要とする時が来ると確信していたのには理由があった。それはスウェーデン王グスタフ=アドルフが大軍を率いて6月24日に北ドイツに上陸していたからである。

 スウェーデンは当時フィンランドをも含む広い領土を持っていたが、人口はわずか150万、国は貧しかった。グスタフ=アドルフは16歳で王位を継いだが、幼少の頃から厳しい新教主義の訓育を受け、武術を磨くとともに、古典を学び、すぐに7カ国語を自由に操った。

 彼はバルト海を中心に一大帝国を建設しようと夢み、デンマーク、ロシア、ポーランドと戦ったのち、ドイツへ英姿を現した。

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ティリー

 グスタフの軍隊は、たちまち中部ドイツに侵入し、翌1631年秋にはブライテンフェルトで不敗の将軍ティリーの率いる皇帝軍を散々に打ち破った。あとは遮るものもなく西へ進んでライン中流地方を占領、32年には南ドイツに入って旧教連盟の指導者バイエルン選帝侯の都ミュンヘンを陥れた。ここから皇帝の領土オーストリア国境まであと100キロとは離れていない。

 慌てふためく皇帝側に残された道はただ一つ、ヴァレンシュタインの召還以外になかった。ヴァレンシュタインは先の罷免で懲りたのか、今度はドイツ全軍に対する無制限な指揮権と賞罰の全権という法外な条件をつけて、初めて受託した。こうなるとドイツ軍に対する統帥権は完全に皇帝から離れ、全軍がヴァレンシュタインの私兵と変わらなくなった。

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グスタフ=アドルフの戦死

 グスタフとヴァレンシュタインは、それぞれ6万を越える大軍を率いて南ドイツのニュルンベルクで戦ったが、双方とも半分以上の兵を失い、戦場は再び中部ドイツに移された。その年の11月中旬、2人の英雄は全ヨーロッパの注目のうちにリュッツェンの決戦に臨んだ。

 ライプチヒに向かう街道をはさんで両軍あわせて4万が対峙した。晩秋の冷たい霧の晴れかかる午前11時ごろ戦闘が始まった。スウェーデン兵は「神明の加護あれ」、皇帝軍は「イエズス=マリア」の喚声をあげながら襲いかかった。やがて騎兵も歩兵もいり乱れ、凄まじい白兵戦となり、両軍とも総司令官が陣頭に立って戦った。

 グスタフ=アドルフは負傷のため甲冑をつけられなかったので、皮の軍服にラシャの上着をはおり、馬にまたがって自軍の左翼を指揮していた。そのうち右翼が敵の攻撃に浮き足立ったとの報せを聞き、騎兵連隊を率いて味方を救いに駆けつけようとした。近視だった王は敵に近寄りすぎたため敵の小銃兵に狙われて左胸を撃たれた。さらに退く途中、第2弾を背にうけて落馬した。皇帝軍は彼の死体めがけて殺到し、スウェーデン軍もそれを奪い返そうと突撃したので、王の死骸は死人の山に埋まった。

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ヴァレンシュタインの暗殺

 戦いは夜に入って、スウェーデンの勝利に帰したが、敵も味方も奔命に疲れ、まもなくヴァレンシュタインはベーメンへ帰郷した。帰郷するや、彼は突然転向し、皇帝を無視して単独で新教側との和平をはかろうとしたが、1634年に部下にそむかれて暗殺された。その強大化を恐れた、皇帝が暗殺を命じたとの説もある。

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スウェーデンに運ばれるグスタフの遺体

 リュッツェンの曠野にはスウェーデン軍4000、皇帝軍6000の死体が累々と残されていた。だが、勝ったとはいえ、スウェーデン軍の痛手もあまりにも大きかった。彼らの王の遺体は、長い間探したあげく、折り重なった死体の下から、見分けられぬほど変わり果てた姿で引き出された。王冠を戴く身でありながら、こんな勇敢な兵士のような死を遂げた王も珍しい。「獅子王」の名にふさわしい最期であった。

 ヴァレンシュタインが暗殺された年、スウェーデン軍もスペイン軍の援助を受けた皇帝軍にネルドリンゲンで決定的な敗北を喫した。

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リシュリュー

 ところで、フランスのリシュリューは、三十年戦争を宿敵ハプスブルク家を苦しめるための最上の機会と考えて、長いあいだ自国を戦いに巻き込まずに、戦争を長引かせることに秘術を傾けてきた。彼はそのために、ドイツの新教徒を援け、またグスタフ=アドルフにも密かに資金を提供し続けた。が、今やスウェーデンが敗北し、スペイン軍が勝利を欲しいままにすると、ついに1635年、自国の軍隊を動員して、ドイツ・スペインに宣戦を布告した。

 こうして三十年戦争は最後の段階を迎えた。すでにこの戦争は本来の宗教戦争の性格はもちろんのこと、1635年、皇帝と新教諸侯の間に妥協が成立してからは、国内戦争としての意味もほとんど失っていた。それはただヨーロッパの支配権を争う2つの強大なカトリック勢力、すなわちオーストリアとスペインの2つのハプスブルク家と、フランスのブルボン家との国際戦争としてだけ戦われ続けたのである。なお、スウェーデン軍も依然ドイツに留まっており、この4つの国の軍隊がドイツを戦場として戦った。フランス=スウェーデン軍がやや優勢とはいえ、たがいに決定的な勝利がないまま、これから10年以上もドイツの北から南まで押されてはまた押し返す死闘を繰り返した。

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傭兵軍による掠奪

 この間、戦争に飽いた傭兵軍の掠奪暴行はますます激しくなるばかり、町や村も荒廃し尽くした。1648年のウェストファリア条約で三十戦争は終決したしたものの、ドイツに取りついた死に神の鋭い爪は、深い深い傷痕を残したのである。

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【 2020/06/12 05:24 】

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世界史のミラクルワールドー戦争屋ヴァレンシュタイン・三十年戦争①

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ファルツ選帝侯フリードリヒ

 ドイツの宗教戦争は17世紀に入って再び重大化した。ドイツでの新旧両教徒の争いは、1555年のアウクスブルク和議以後もやむことなく、新教徒は1608年ファルツ選帝侯フリードリヒを盟主として新教連合(ウニオン)を結成した。これに対して旧教側は翌1609年にバイエルン選帝侯マクシミリアンのもとに旧教連盟(リガ)を形成し、それぞれが外国勢力とも連絡を保ちつつ、敵意を燃やしていった。

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プラハ城

 チェコの首都プラハは、独特の香気を放つ古都である。1618年5月23日、ベーメン王国の首都プラハも、静かな朝を迎えていた。9時を過ぎた頃、プラハ城におかれた王宮に集まっていた顧問官たちは、時ならぬ騒ぎに気づいた。200人ほどの武装した新教徒たちが、いきなり王宮に侵入して来たのだ。侵入者は最初から語気荒く、怒りをあらわにしている。 

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プラハ王宮窓外放出事件

 侵入者たちは、時のベーメン国王の宗教政策に抗議して、顧問官たちに激しく詰め寄った。押し問答を繰り返すうちに、激昂した新教徒たちは、突然、執務室の窓から、2人の顧問官を外に放り出した。「何をするのか」と抗議した秘書官も、同じように放り出された。

 地上20メートル、プラハの王宮フラチャニ城の塔にあった執務室の窓から、悲鳴をあげながら降嫁した3人は、城の濠にうずたかく積み上げられたごみ溜の中に着地し、奇跡的に一命をとりとめた。命からがら逃げ出そうとする3人にむかって、新教徒たちは、塔の窓からなおも小銃を発砲し続けた。

 「プラハ王宮窓外放出事件」として知られるこの悲喜劇は、17世紀のヨーロッパ史上、もっとも有名なエピソードである。これがヨーロッパ全域を巻き込んだ一大戦役、三十年戦争の発端である。

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ルドルフ2世

 神聖ローマ帝国に属するベーメンは、15世紀にヤン=フスの宗教改革を経験して苛、複雑な宗教構成を持つ王国として知られた。放出事件が起こる17世紀初頭には、ルター派、カルヴァン派、カリクスト派(フス派の一部)、再洗礼派が共存し、カトリックは少数派。この王国を、神聖ローマ皇帝にしてカトリックの王者たるハプスブルク家が支配するようになったことが、放出事件の遠因である。

 もちろん、ハプスブルク家も、最初からベーメンにカトリック信仰を強制しようとしたわけではない。16世紀後半に皇帝となったルドルフ2世は、ハプスブルク家の首都をプラハに定めたが、新教徒が多数を占めるこの国の事情に配慮して、ゆるやかな宗教政策をとることで我慢した。ベーメン議会も、家督争いの絶えないハプスブルク家の弱点を巧妙に利用して、一時は完全な信仰の自由を国王に約束させたほどである。

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フェルディナント2世

 この微妙な関係を崩したのが、1617年にベーメン国王になった、ハプスブルク家のフェルディナント。次の神聖ローマ皇帝を狙う、野心家のカトリックの強硬派である。新国王の態度に新教徒弾圧の兆しを感じ取った議会は、信仰の自由を認めたルドルフ2世の約束を再確認すべし、いきり立つ。だがフェルディナントは、ウィーンに出かけて留守だ。では、留守を預かる顧問官に直談判するしかあるまい……。これがプラハ放出事件のいきさつである。

 プラハの放出事件は、たちまちベーメンの反乱に発展した。翌年、ベーメンの新教徒は、今や皇帝となったフェルディナント2世を王位から追放し、代わりにファルツ選帝侯をベーメン王に迎えた。が、ベーメン軍は翌年ドイツ皇帝軍に撃破され、敗れたファルツ選帝侯はじめ貴族らはライン地方へ逃れて、ひとます内乱は終結した。

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クリスチャン4世

ところが、1625年になって、デンマーク王クリスチャン4世が新教徒6万を率いてドイツへ侵入したため、再び事態が重大化した。旧教連盟はバイエルンの名将ティリーのもとに兵を集め、さらにヴァレンシュタインを起用してデンマークに当たった。

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  ヴァレンシュタイン

 ヴァレンシュタインはベーメンの新教徒の貧乏貴族に子に生まれ、ドイツ・イタリアの大学に学んだが、素行不良で放校されたこともある。軍人としてハプスブルク家に仕え、この間、カトリックに改宗。ベーメンの反乱では皇帝を支持して反乱を鎮圧し、ベーメン北部の土地・財産を没収して巨富を積んだ。1625年、皇帝の依頼により5万の傭兵を自費で募集、皇帝軍司令官としてデンマーク軍にあたった。

 デンマーク軍は最初の勢いもどこへやら、翌年ルッテルの戦いで大敗して、早くも帰国の途についた。クリスチャン4世の惨めな敗因の一つは、イギリスが約束した毎月30万フロリンの戦費の支払いを果たさず、兵士の給料が払えなくて軍の規律が頽廃したことにあったというが、これは当時の軍隊の性格をよく示している。

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傭兵

 封建貴族がすすんで君主のもとに馳せ参ずる中世の軍隊から、絶対主義国家の常備軍形勢までの過渡期であるこの時代には、金につられて集まるにわかづくりの傭兵隊が軍の主力であった。ここに、兵隊を集めて自分ごと君主に売り込む戦争屋、傭兵隊長が活躍する原因があった。

 一番スケールの大きい戦争屋がヴァレンシュタインであった。シラーによると彼のプラハの邸館には、6つの門が通じ、日常の食卓は100皿を下ることがなく、旅行の際は6頭立ての馬車100台に召し使いや調度品を乗せ、王侯を凌ぐ勢いであったという。

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ジャック=カロ「被絞首刑者の生(な)る樹」

 戦争屋である傭兵隊長にとっては、戦争こそが生活の基礎であり、出世の梯子であった。彼らを動かすものは大義名分ではなくて、支払われる報酬の多寡であり、支払いが遅れれば、ただちに「金がなくては戦はできぬ」とばかり陣列から引き揚げるのである。

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ジャック=カロ「農家の略奪」

 その反面民衆からの略奪は猛烈を極めた。1631年、ティリーの率いた皇帝軍はハンザ同盟都市マグデブルクを食料や物資の調達目的で包囲した。半年におよぶ籠城の末、陥落したマグデブルクにおいて皇帝軍の傭兵隊は歯止めのない残虐行為を行った。3万人の市民のうち生存者はほぼ女性のみの5000人で、彼女たちも大半が軍に連れ去られたため、ウェストファリア条約締結時の人口は500人以下であった。 

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【 2020/06/09 05:30 】

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世界史のミラクルワールドー華麗なる女性遍歴・ルイ14世

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ルイ14世

 少年時代のルイ14世は女性に関心を示さず、母后アンヌ=ドートリッシュを心配させるほどだったが、20歳頃の1658年に母后の侍女との最初の恋愛沙汰を起こし、結局その女性は修道院に送られている。

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マリー=マンチーニ

 マザランは蓄財に余念がなかった。官職売買、不正取引、国税の使い込み等々によって莫大な財をなした。1661年に彼が死んだとき、5000万フラン、今日の10億フランに相当する財をなしたといわれる。マザランは蓄財のために、貴族との縁組の駒として姪たち7人をイタリアから呼び寄せていた。

 青年期のルイ14世が恋した相手はマザラン枢機卿の姪だった。、ルイ14世はその一人のオリンピア=マンチーニに恋したが、彼女はすぐに嫁いでしまい、次いでマリー=マンチーニと交際するようになった。若いルイ14世は本気で彼女を愛してしまい、愛妾ではなく王妃として結婚しようとした。

マリ=テレーズ 
マリー=テレーズ

 1648年のウェストファリア条約成立により三十年戦争が終結したが、その後もスペインのハプスブルク家はフランスと戦い続けていた。この戦争もテュレンヌの活躍によりフランスの勝利に終わり、1659年に結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈を境界とするフランスとスペインの国境を確定、ルイ14世の王妃としてスペイン国王フェリペ4世の王女、22歳のマリー=テレーズがパリを訪れた。ルイとマリー=マンチーニは泣いたり、訴えたりしたが、結局、国家の要請するところに従わなければならなかった。

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ルイ14世の結婚式

 こうして1660年6月、ルイ14世とマリー=テレーズとの結婚式が挙げられた。そして結婚後もマリー=マンチーニへの恋情を断ち得ないルイに向かって、マザランも母后アンヌも口をそろえてマリー中傷をおこなった。一変した王の態度を悲しみつつ、マリーは反動的にイタリア貴族コロンナ伯との結婚を承諾した。この結婚は彼女をフランスから追い出すために、かねてからマザランが計画していたものである。

 中傷によってマリーと自分との仲を裂かれたことを知った時、ルイは再び動揺したが、マリーは予定通り結婚に踏み切った。そして彼女が宮廷を立ち去る時、王は馬車まで見送って行った。ルイはため息をついたが、一語も発しなかった。それから王は馬車の扉のところでマリーに敬意を表して一礼したが、彼女は涙にくれていた。そして、馬車は出て行った。

 これは余談であるが、コロンナ伯が一驚したことに、その新妻はまだ処女であったという。


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王太子ルイ 

 王妃マリー=テレーズは信仰心に篤く慎ましい女性で、王太子ルイ(グラン=ドーファン)をはじめとする6人の子を生んだが、ルイ14世が彼女を愛することはなかった。彼女はスペイン訛りが抜けずに正しいフランス語が話せず、会話でルイ14世を楽しませることができなかった。もっとも王妃を愛さなかったのはルイ14世に限ったことではなく、祖父のアンリ4世そして父のルイ13世ともに王妃とは不仲であった。

 しかし、先王たちと違いあからさまに不仲であった訳ではなく、1683年に王妃が死去した時、ルイ14世は「王妃が私に悲しみを与えたのはこれがはじめてだった」と嘆いたという。

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アンリエット=ダングルテール

 1661年の夏、ルイ14世は、かつて革命で処刑されたイングランド王チャールズ1世の王女で、王弟オルレアン公フィリップの妖艶な公妃アンリエット=ダングルテールに魅かれ、フォンテーヌブロー宮殿の森で密会を重ねた。オルレアン公は男色家であり、アンリエットに性的関心を示さなかったため、彼女は淋しさから国王との不倫に走ったのである。

 しかし、22歳の王と17歳のオルレアン公妃は、ルイ14世とは従兄妹であり、義理の妹である。フォンテーヌブローでの若き王の振る舞いは、王妃マリー=テレーズや王弟フィリップも知るところとなり、アンリエットがその当時のイングランド王チャールズ2世の実妹なだけに、母后アンヌ=ドートリッシュを「せっかく築きあげた(王妃の、そしてアンヌ自身の実家でもある)スペインとの同盟がご破算になったら...」と心配させる事態になる。

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ルイーズ=ド=ラ=ヴァリエール

 自分との不倫をカムフラージュしようとアンリエットは同い年の侍女ルイーズ=ド=ラ=ヴァリエールを王の偽の相手役としたところ、皮肉にも国王はルイーズに心変わりしてしまい、スキャンダルが大事になる前に収まった。

 ルイーズは純粋で信仰が篤く、始めからルイに対して思わせぶりな行動をとったのでもなければ、秘密の関係となるのに自ら興味を示したのではない。彼女にとって初めての真剣な愛であった。ルイ14世はルイーズを深く寵愛し、1664年にヴェルサイユ宮で催された大祝典『魔法の島の歓楽』は彼女に捧げられたものとされる。敬虔な彼女は王妃に対する罪に苛まれ、1662年2月、突然王宮を出て、修道院に閉じ籠もった。ルイ14世はそれを知ると、修道院の玄関で熱心にかき口説いた。そして、彼女を王宮に連れ戻した。

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モンテスパン侯爵夫人

 1666年頃、ラ=ヴァリエールはライバルの出現に驚かされた。モンテスパン侯爵夫人と呼ばれる仇っぽい、雪の肌をした豊艶な美女である。侯爵夫人は結婚生活に失敗した後、パリに出て、国王の寵愛を一身に集めようとする不逞なな野望を抱いた。彼女は自己の成功を勝ち取るために、祈祷師ラ=ヴォアザンの「黒いミサ」へ通った。このミサでは、幼児や胎児が生贄に供されて、その血で願いを叶えようとする、魔女の祭礼に似た、残虐な儀式が営まれた。

 その効果が現れたわけでもあるまいが、まもなくルイ14世はモンテスパン侯爵夫人に心を奪われた。傷心したラ=ヴァリエールは何度か逃亡を試みた、やっと1674年に修道院に入るのを許された。彼女が宮廷を去る日、沿道の市民はみな目に涙を浮かべて、馬車を見送った。ルイ14世との間に3人の子をもうけた彼女であったが、1710年に亡くなるまで、二度と外へ姿を現さなかった。

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マリー=アンジェリク=ド=フォンタンジュ

 モンテスパン侯爵夫人は8人の子を生み、1667年からおよそ10年間にわたり王妃をしのぐ権勢で宮廷社交界の花形として君臨した。しかし、 1679年からルイ14世はマリー=アンジェリク=ド=フォンタンジュを寵愛するようになった。彼女は若く美しい女性だったが知性には欠けていた。彼女は1680年に子を生み、フォンタンジュ公爵夫人の称号を与えられるが産後は体調を崩してしまう。ルイ14世の寵愛がマントノン夫人に移ったこともあり、宮廷を辞して修道院に入り1681年に20歳の若さで死去している。

 その頃に祈祷師ラ=ヴォアザンが逮捕され、彼女のもとで「黒ミサ」の儀式が行われていたことが明らかになった。多くの貴族が彼女の顧客となり、その中にはモンテスパン侯爵夫人もおり、支配階級にも及ぶ大醜聞事件となった。フォンタンジュ公爵夫人の急死はモンテスパン侯爵夫人の毒殺によるものとの噂が立てられ、さらにはラ=ヴォアザンの娘がモンテスパン侯爵夫人はフォンタンジュ公爵夫人だけではなく国王の毒殺まで謀っていたと証言する。検察が早々に裁判を打ち切ってことは止み沙汰になったが、これを期にルイ14世はモンテスパン侯爵夫人を遠ざけるようになり、無視と軽蔑に耐えながらなお数年間宮廷にとどまっていた彼女が遂に修道院入りを決意すると、国王は喜んで彼女を送り出したという。


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マントノン夫人

  マントノン夫人は詩人で新教徒のアグリッパ=ドービニーの孫娘である。少女時代にカトリックに改宗し、16歳で42歳の流行作家ポール=スカロンと結婚した、しかし、8年後に寡婦となったため、宮廷に仕えて、モンテスパン侯爵夫人の子供たちの養育係を務めていた。美人ではないが教養のある知識人で控えめな女性だった。彼女にルイ14世は関心を持ち寵愛するようになり、侯爵夫人の称号を与えた。

 1683年7月30日に王妃マリー=テレーズが世を去り、それから程ない同年10月9日頃にルイ14世はマントノン侯爵夫人と秘密結婚をした。この時、ルイ14世は46歳、マントノン侯爵夫人は3歳年上の49歳であり、王は若さや美しさとは別の点で彼女を愛していたと考えられ、この後、王の女性遍歴は止むことになった。

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ルイ15世


 これら著名な愛妾以外にも、女優や掃除女とのゆきずりの性的な関係もあり、ルイ14世には20人を超える子供がいた。しかし、嫡出子のほとんどが幼少期に死んでおり、唯一成年に達した王太子ルイも1711年に死去してしまう。

 ルイ14世は1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前に壊疽の悪化により死去した。男子の孫は一人も残っておらず、結局ひ孫のルイ15世がわずか5歳で即位することになった。

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【 2020/06/05 05:26 】

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世界史のミラクルワールドー雅なる反乱・フロンドの乱



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ルイ14世

 1635年以来、フランスはスペイン・ドイツと全国境にわたる戦争を続けていた。戦線はフランスに有利で、1642年にはかなり深く敵の領地へ食い込んだ。

 この年の11月に宰相リシュリューが他界したが、およそ6カ月のち、1643年5月、ルイ13世の死が続いた。わずか4歳のルイ14世が即位し、王太后アンヌ=ドートリッシュが摂政となった。30余年前の危うい状況の再現である。

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アンヌ=ドートリッシュ

 アンヌはスペイン国王フェリペ3世の長女で、14歳の若さでルイ13世に嫁いだ。カトリックの篤信家として、ハプスブルク家の敵、ドイツの新教徒にテコ入れするフランスの対外政策を憂い、スペイン戦争では母国に情報を送っている。リシュリューを嫌って宰相打倒の陰謀にも荷担した。だが、流産を重ねたのち、未来の国王ルイを出産するに及んで、フランス王妃としての義務に目覚める。摂政に就任してからは宰相マザランを懸命に支えた。

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マザラン

 ルイ13世はその死の前に宰相の後継者として、枢機卿マザランを招いていた。無論、すでにリシュリューによっても認められていた人物である。イタリア出身で本名はジュリオ=マッツァリーニ。37歳の時にフランスに帰化した。マザランは、聖職者であるという点を別として、およそ前任者とは対照的であった。冷徹峻厳、「鉄の爪」を持ったリシュリューに比して、マザランは顔つきも人ざわりも穏やかで、人を「籠絡し、買収し、騙すこと」を得意とし、「霊妙な知恵才覚」を備えた器用人であった。

 また、マザランは摂政アンに寵愛され、この両者は恋愛関係、あるいは肉体関係さえも憶測されている。

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市中のバリケード

 マザランは1648年10月の三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約でアルザスを獲得するなどの成功を収めた。しかし、前代のリシュリューに続き、国王の寵臣が強い権力を持つことに対して、貴族たちの反発も強まっていた。ましてや、マザランは外国人である。貴族たちは既得権の一つであった高等法院の法官が貴族以外の市民から採用(しかも売官によって)されていることにも反発していた。また都市の市民層や農民には、うち続く戦争の戦費を捻出するための重税に対する不満が強まっていた。

 マザランが三十年戦争による財政危機の克服のため、高等法院法官の俸給の4年間据え置きを発表すると、法官たちの反対運動がおこった。政府が法官を逮捕に踏み切ると、重税政策に反発していたパリ市民が1648年8月26日に蜂起し、市内各所にバリケードを築いた。こうして「高等法院のフロンド」が始まった。

 反乱軍はパリを包囲し、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入。ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたとされているが、翌1649年1月にルイ14世とマザランはパリを一時退去、サン=ジェルマン=アン=レーへ避難せざるを得なくなった。ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれている。
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フロンド

 ちなみに、フロンドというのはこの頃パリの青少年の間で流行していた投石器のことである。警察が禁止して歩くと、少年たちは背後から石を飛ばした。その反抗的姿勢をもじって、政府反対派をフロンド党員と呼んだところから、フロンドの乱と呼ばれたとされる。

 この反乱はマザランが、三十年戦争で軍功のあった大貴族コンデ公を抱き込み、コンデ公の軍隊がパリを包囲、高等法院も妥協して、翌年に鎮圧された。

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コンデ公

 「高等法院のフロンド」は終わったのだが、1650年、今度は大貴族コンデ公が恩賞の少なさに不満を持って王室に反旗を翻し、多くの貴族も同調した。パリはコンデ公の指揮する反乱軍に占拠され、封建領主である貴族の基盤である地方で農民の反乱を扇動し反乱は全国に広がった。ルイ14世、摂政アンヌはパリを捨て、宰相マザランはドイツに亡命した。

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テュレンヌ将軍

 こうして「貴族のフロンド」はマザランを排除することに成功したが、貴族側も統一歩調がとれずに分裂していた。国王側はコンデ公と対抗できる三十年戦争の時の将軍テュレンヌを抱き込み、1652年夏にはパリ郊外で両軍の決戦が行われ、フロンド派が勝利した。しかし、コンデ公がスペインに援軍を頼んだことはパリの民衆の反発を受けて、高等法院の法官(法服貴族)も大貴族(軍服貴族)の復活を警戒して反乱は尻すぼみになり、1652年9月、コンデ公はパリを放棄して亡命、「貴族のフロンド」は終わった。

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グランドマドモワゼル

 1652年7月、フロンド派と国王派の決戦となったパリのサン=タントワーヌ門の戦いでは、フロンド派の女傑、25歳のモンパンシエ嬢(ルイ14世の従妹でグランドマドモワゼルといわれた)がひときわ人びとの目を引いた。

 この大令嬢がバスティーユの砲門をテュレンヌの王軍に開いてコンデ軍の退却を助けたのである。彼女は「マザランに対する反感と男勝りの冒険好きから、鎧に身を固めて反乱軍に荷担した」と言われる。しかし、マザランが言った「この砲撃が彼女の夫を殺したのだ!」という言葉は、公式には一生を独身で送った彼女にとって、何を意味するのか?

 大令嬢は反乱失敗後もルイ14世の従妹であったためで宮廷に残ったが、人一倍勝ち気な性格で、各国宮廷との縁談があったがことごとく断り独身をつづけた。マザランの言葉は、彼女がこの事件によってルイ14世の王妃たるべき運命を失ったことを意味するのかも知れない。

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ルイ14世のパリ入城

 1652年10月のルイ14世のパリ入城と翌年2月のマザランの帰還で、フロンドの乱はついに膜と閉じる。フロンドの乱の原因は、王権が中央集権化・官僚化を進めて強化されていくことに対する、既得権の喪失を恐れる貴族層の反乱であったが、それが全国的な内乱にまでなった背景には、都市の市民や農村の農民の重税に対する反発があった。そして当時のヨーロッパは「17世紀の危機」といわれる天候不順、凶作、不況と言った社会の疲弊があった。大きく言えば、中世封建社会から、近代市民社会への移行という大きな変化が始まった時期であった。
 
 そして反乱が鎮圧された結果、貴族の没落は進み、その反面としてフランス絶対王政を確立していく契機となったのである。
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【 2020/06/02 05:31 】

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