なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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アンはカトリックに改宗しているが、ジェームズがカトリックを信仰するようになったのは、彼女の影響と考えられている。
ジェームズは海軍総司令官に任命され、組織改革をはかって英蘭戦争ではオランダ海軍を破る活躍をした。しかし、1671年、アンは娘のメアリとアンを残し、僅か34歳で乳ガンのため亡くなってしまう。
この年、40歳のジェームズはカトリックである15歳のメアリ=オブ=モデナと再婚したため、彼を王位継承者から排斥する法案が出されたが、上院でかろうじて否決された。この排斥法案に賛成したのが後のホイッグ党(自由党)、反対したのが後のトーリー党(保守党)である。
ジェームズの即位に反対し、チャールズ2世の庶子モンマス公が王位継承権を主張して反乱を起こすと、これを口実に常備軍を設置。さらに、カトリック教徒の文武官任用を復活させ、審査法を事実上廃止。1687年には信仰自由宣言を発し、カトリック教徒の聖職就任を許可した。翌年、礼拝で信仰自由宣言書を2度読むことを強制、反対したカンタベリー大司教ら7名を逮捕するなど、国民の支持を失った。
フランスでの亡命生活に戻ったジェームズは、1701年9月16日に脳出血で亡くなる。67歳であった。
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ブレダ宣言は、新しい土地所有者の所有権の保障、革命関係者の大赦、信仰の自由、軍隊給与の支払いの保証など、つまり絶対王政を復活させないことを約束したもので、議会はこの条件を入れてチャールズのイギリス国王即位を認め、王政復古となった。しかし即位後のチャールズ2世は、ブレダの宣言に反してカトリックの復興をはかるなど、議会に対立して絶対王政の復活を策した。
同じ日に戴冠式に先立ってウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は王殺しの罪で絞首刑に処されたのち、その首は晒しものとされた。
チャールズ2世には父チャールズ1世を破滅に導いたような神に対する王の政治責任という信念は少しもなかったが、従兄が持っているような無制限の権力を羨ましがった。宗教に関してもほとんど関心がなかったと言ってよいが、カトリックが君主にとって最も便利な宗教であると考え、出来れば、イギリスをカトリックの国にしたいくらいに思っており、密かにカトリックに改宗していたのだった。段階的なカトリック復帰を策したチャールズ2世は、1672年に「信仰自由宣言」を出し、カトリックを公認しようとした。
議会はチャールズ2世のカトリック復興策に反発して、1673年に審査法を制定、また1679年には人身保護法を制定して市民の権利の保護を図った。
しかし、一つだけ問題があった。彼は稀代の女好きであった。ブリュージュに亡命中にも、お気に召した女たちを左右に侍らせ、快楽に耽った。王政復古後の1662年5月21日にポルトガル王女キャサリンを王妃に迎えた。彼女はイギリス宮廷に茶を飲む習慣をもたらしたと言われているが、もう一つ大事なものをイギリスにもたらした。持参金として、イギリスの重要な植民地となったインドのボンベイ(現ムンバイ)を持ってきたのである。
王の熱意が通り、法案は否決されたが、議会はヨーク公は子がなく、死ねばオランダ総督に嫁いだメアリかデンマーク王子に嫁いだアンがいずれも新教徒なので、どちらかを迎えればよいとたかをくくっていたのである。安心したチャールズは1685年2月6日に世を去った。慎重だった彼は、死の床で自らがカトリックであることを告げ、息を引き取った、と伝えられている。
こうしてジェームズ2世が即位するが、議会との対立がさらに激化し、名誉革命が勃発することになる。
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チャールズ1世はこの王妃のカトリックの信仰とフランスの絶対王政に傾倒し、王と議会の争いがいよいよひどくなった。
それは、マグナ=カルタ以来のコモン=ローにもとづき、国王と言えども議会の同意なしに課税できない、理由を示さず逮捕できない、などの諸権利を認めることを迫る内容であった。チャールズ1世は怒って議会を解散し、請願の中心人物であったエリオットら9人の議員をロンドン塔に投獄した。エリオットは3年後に獄死している。チャールズ1世はその後、議会を開催せず、11年にわたって無議会の絶対王政を行うこととなった。
チャールズ1世は、政治を側近のカンタベリ大主教ロードとストラフォード伯の2人に任せた。大主教ロードは国教会の立場を強化しようとしてピューリタンを弾圧し、議会の承認を必要としない財源としてトン税・ポンド税などの関税の増税、特権商人への独占権の乱発、それまで港だけに課せられていた船舶税の全国への拡大などを画策した。反対派に対しては星室庁裁判所による裁判で取り締まった。
1637年にジョン=ハムデンというジェントリが船舶税は違法であると裁判に訴えたことから、反対の声が強まった。ジェントリは治安判事として無給で絶対王政を支え、議員に選出されていた。かつてテューダー朝時代の彼らは、議会を通じて王政に従順であったが、今や議会は国王の絶対王政を敢然と批判する姿勢に転じていた。
1639年、スコットランドの長老派(プレスビテリアン)が起こしたスコットランドの反乱を鎮圧するための課税の必要に迫られると、1640年春に総選挙を行って議員を選び、議会を11年ぶりに召集したが、ジョン=ピム議員らが激しく課税を批判したため、わずか3週間で解散した。これが「短期議会」である。
しかし、スコットランド軍が侵入してきたため、再度11月に議会を招集せざるを得なかった。この議会は形式的には1660年まで継続したので、「長期議会」と呼ばれ、イギリス革命の舞台となっていく。
議会は再びジョン=ピムらが発言し、王の側近ストラフォード伯と大主教ロードの逮捕・処刑を決議、さらに3年に1度は議会を開催すること、議会自身の決議がなければ解散できないことを定め、船舶税などの廃止、星室庁裁判所の廃止など、絶対王政を完全に否定する改革をめざした。しかし、この頃から改革を行き過ぎであると考える穏健派も生まれ、16411年にピムやクロムウェルが提出し、国王の執政を告発する大抗議書は、159票対148票というわずか11票差でようやく議会を通過した。
裁判の結果、「チャールズ=ステュアートは暴君、反逆者、殺人者、この国の善良な人々に対する公敵として斬首により死刑に処す」と言う判決が下された。1月30日、チャールズ1世は自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング=ハウス前で公開処刑となり、斬首された。まだ、48歳であった。
彼の最期の言葉は「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」であった。
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彼は弱体な議会軍を憂えて、ピューリタニズムを精神的絆とする騎兵隊を編成した。この騎兵隊はヨーマン(独立自営農民)を中核とし、訓練はこの上もなく厳格で、俸給をきちんと払い、王党軍のように酒を呑んだり賭けをしたり暴行をはたらいたりする者がなく、戦闘の前夜には全員が跪いて祈祷した。1644年7月のマーストン=ムーアの戦いで、クロムウェルの騎兵隊は大いに威力を発揮し、「鉄騎隊(アイアンサイド)」の渾名を得た。
権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。
この遠征は給与の不払いなどで不満を持つ軍隊に対する恩賞として、没収した土地が与えられた。没収地はロンドンの投機家たちにも与えられ、アイルランド人の土地の40%が奪われたという。これ以来、アイルランドはイギリスにとっての安価な食糧と原材料を供給する「植民地」と化した。
17世紀に海上貿易に進出したイギリスにとって、最大のライバルはオランダだった。1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの貿易競争で優位に立とうとした。
それに対してオランダは強く反発し、翌1652年から第1次英蘭戦争(イギリス=オランダ戦争)が始まった。イギリスは海軍が優位に立って戦いを進め、1654年のウェストミンスター条約で講和し、オランダに航海法を認めさせた。
左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。
議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。
その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動くことになる。
クロムウェルの遺体はウェストミンスター寺院に鄭重に安置された。ところが王政復古となり、クロムウェルが国賊として非難されると、その棺はあばかれ、遺体はタイバーン刑場で絞首刑の後斬首され、首は鉄の棒の先に突き刺されてウェストミンスター=ホールの屋根に掲げられ、その後24年間もさらしものにされた。
ところが1685年、大嵐がロンドンを襲い、クロムウェルの首は棒の先から落ちてしまった。守衛の一人がその首を自宅に持ち帰り、自宅の煙突のなかにかくし、娘にだけその秘密を明かして死んだ。どのような経緯か明らかではないが、1710年頃、この首が売りに出され、買い取ったものが見せ物にして金を稼いだという。
その後も何人かの手を経て、1814年ウィルキンソンという人が買い取って、家宝として保存、1960年にウィルキンソン家の当主がクロムウェルの出身校であるシドニー=サセックス大学に贈ることとし、現在では同校構内に埋葬されているという。
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イングランド王室とスコットランド王室は姻戚関係にあり、メアリの父ジェームズ5世はエリザベスの従兄にあたる。その関係から、エリザベスは後継にジェームズを指名して亡くなった。皮肉にもジェームズは自分の母親を処刑したエリザベスの後を継ぐことになったわけである。こうしてスチュアート朝が誕生し、イングランドとスコットランドは同君連合となった。
あまりに自己の権威に固執し、独断が多かったことから、イングランドの人々は彼を「キリスト教世界一の賢明な愚人」と呼んだ。
1620年9月、ジェームズ1世の迫害から逃れるため、ピューリタンなど102名を乗せたメイフラワー号がイングランドのプリマス港を出港した。彼らはアメリカのヴァージニア植民を目指したが、65日間の航海の末、ヴァージニアのかなり北方のケープ=コッドに到着する。
彼らによりアメリカ合衆国の基礎が築かれ、彼らは後に「巡礼者の始祖」の意味でピルグリム=ファーザーズと呼ばれることになった。
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裏切られたヴァレンシュタインは心に怒りの炎を燃やしながら、さすがにまだ皇帝に楯つく決心はつかなかった。彼は軍隊を解散してベーメンに帰り、ヨーロッパの戦雲のあいだに自分の運命の星がもう一度輝くチャンスを待った。
スウェーデンは当時フィンランドをも含む広い領土を持っていたが、人口はわずか150万、国は貧しかった。グスタフ=アドルフは16歳で王位を継いだが、幼少の頃から厳しい新教主義の訓育を受け、武術を磨くとともに、古典を学び、すぐに7カ国語を自由に操った。
彼はバルト海を中心に一大帝国を建設しようと夢み、デンマーク、ロシア、ポーランドと戦ったのち、ドイツへ英姿を現した。
慌てふためく皇帝側に残された道はただ一つ、ヴァレンシュタインの召還以外になかった。ヴァレンシュタインは先の罷免で懲りたのか、今度はドイツ全軍に対する無制限な指揮権と賞罰の全権という法外な条件をつけて、初めて受託した。こうなるとドイツ軍に対する統帥権は完全に皇帝から離れ、全軍がヴァレンシュタインの私兵と変わらなくなった。
ライプチヒに向かう街道をはさんで両軍あわせて4万が対峙した。晩秋の冷たい霧の晴れかかる午前11時ごろ戦闘が始まった。スウェーデン兵は「神明の加護あれ」、皇帝軍は「イエズス=マリア」の喚声をあげながら襲いかかった。やがて騎兵も歩兵もいり乱れ、凄まじい白兵戦となり、両軍とも総司令官が陣頭に立って戦った。
グスタフ=アドルフは負傷のため甲冑をつけられなかったので、皮の軍服にラシャの上着をはおり、馬にまたがって自軍の左翼を指揮していた。そのうち右翼が敵の攻撃に浮き足立ったとの報せを聞き、騎兵連隊を率いて味方を救いに駆けつけようとした。近視だった王は敵に近寄りすぎたため敵の小銃兵に狙われて左胸を撃たれた。さらに退く途中、第2弾を背にうけて落馬した。皇帝軍は彼の死体めがけて殺到し、スウェーデン軍もそれを奪い返そうと突撃したので、王の死骸は死人の山に埋まった。
ヴァレンシュタインが暗殺された年、スウェーデン軍もスペイン軍の援助を受けた皇帝軍にネルドリンゲンで決定的な敗北を喫した。
こうして三十年戦争は最後の段階を迎えた。すでにこの戦争は本来の宗教戦争の性格はもちろんのこと、1635年、皇帝と新教諸侯の間に妥協が成立してからは、国内戦争としての意味もほとんど失っていた。それはただヨーロッパの支配権を争う2つの強大なカトリック勢力、すなわちオーストリアとスペインの2つのハプスブルク家と、フランスのブルボン家との国際戦争としてだけ戦われ続けたのである。なお、スウェーデン軍も依然ドイツに留まっており、この4つの国の軍隊がドイツを戦場として戦った。フランス=スウェーデン軍がやや優勢とはいえ、たがいに決定的な勝利がないまま、これから10年以上もドイツの北から南まで押されてはまた押し返す死闘を繰り返した。
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地上20メートル、プラハの王宮フラチャニ城の塔にあった執務室の窓から、悲鳴をあげながら降嫁した3人は、城の濠にうずたかく積み上げられたごみ溜の中に着地し、奇跡的に一命をとりとめた。命からがら逃げ出そうとする3人にむかって、新教徒たちは、塔の窓からなおも小銃を発砲し続けた。
「プラハ王宮窓外放出事件」として知られるこの悲喜劇は、17世紀のヨーロッパ史上、もっとも有名なエピソードである。これがヨーロッパ全域を巻き込んだ一大戦役、三十年戦争の発端である。
もちろん、ハプスブルク家も、最初からベーメンにカトリック信仰を強制しようとしたわけではない。16世紀後半に皇帝となったルドルフ2世は、ハプスブルク家の首都をプラハに定めたが、新教徒が多数を占めるこの国の事情に配慮して、ゆるやかな宗教政策をとることで我慢した。ベーメン議会も、家督争いの絶えないハプスブルク家の弱点を巧妙に利用して、一時は完全な信仰の自由を国王に約束させたほどである。
プラハの放出事件は、たちまちベーメンの反乱に発展した。翌年、ベーメンの新教徒は、今や皇帝となったフェルディナント2世を王位から追放し、代わりにファルツ選帝侯をベーメン王に迎えた。が、ベーメン軍は翌年ドイツ皇帝軍に撃破され、敗れたファルツ選帝侯はじめ貴族らはライン地方へ逃れて、ひとます内乱は終結した。
デンマーク軍は最初の勢いもどこへやら、翌年ルッテルの戦いで大敗して、早くも帰国の途についた。クリスチャン4世の惨めな敗因の一つは、イギリスが約束した毎月30万フロリンの戦費の支払いを果たさず、兵士の給料が払えなくて軍の規律が頽廃したことにあったというが、これは当時の軍隊の性格をよく示している。
一番スケールの大きい戦争屋がヴァレンシュタインであった。シラーによると彼のプラハの邸館には、6つの門が通じ、日常の食卓は100皿を下ることがなく、旅行の際は6頭立ての馬車100台に召し使いや調度品を乗せ、王侯を凌ぐ勢いであったという。
その反面民衆からの略奪は猛烈を極めた。1631年、ティリーの率いた皇帝軍はハンザ同盟都市マグデブルクを食料や物資の調達目的で包囲した。半年におよぶ籠城の末、陥落したマグデブルクにおいて皇帝軍の傭兵隊は歯止めのない残虐行為を行った。3万人の市民のうち生存者はほぼ女性のみの5000人で、彼女たちも大半が軍に連れ去られたため、ウェストファリア条約締結時の人口は500人以下であった。
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少年時代のルイ14世は女性に関心を示さず、母后アンヌ=ドートリッシュを心配させるほどだったが、20歳頃の1658年に母后の侍女との最初の恋愛沙汰を起こし、結局その女性は修道院に送られている。
マザランは蓄財に余念がなかった。官職売買、不正取引、国税の使い込み等々によって莫大な財をなした。1661年に彼が死んだとき、5000万フラン、今日の10億フランに相当する財をなしたといわれる。マザランは蓄財のために、貴族との縁組の駒として姪たち7人をイタリアから呼び寄せていた。
青年期のルイ14世が恋した相手はマザラン枢機卿の姪だった。、ルイ14世はその一人のオリンピア=マンチーニに恋したが、彼女はすぐに嫁いでしまい、次いでマリー=マンチーニと交際するようになった。若いルイ14世は本気で彼女を愛してしまい、愛妾ではなく王妃として結婚しようとした。
中傷によってマリーと自分との仲を裂かれたことを知った時、ルイは再び動揺したが、マリーは予定通り結婚に踏み切った。そして彼女が宮廷を立ち去る時、王は馬車まで見送って行った。ルイはため息をついたが、一語も発しなかった。それから王は馬車の扉のところでマリーに敬意を表して一礼したが、彼女は涙にくれていた。そして、馬車は出て行った。
これは余談であるが、コロンナ伯が一驚したことに、その新妻はまだ処女であったという。
しかし、先王たちと違いあからさまに不仲であった訳ではなく、1683年に王妃が死去した時、ルイ14世は「王妃が私に悲しみを与えたのはこれがはじめてだった」と嘆いたという。
1661年の夏、ルイ14世は、かつて革命で処刑されたイングランド王チャールズ1世の王女で、王弟オルレアン公フィリップの妖艶な公妃アンリエット=ダングルテールに魅かれ、フォンテーヌブロー宮殿の森で密会を重ねた。オルレアン公は男色家であり、アンリエットに性的関心を示さなかったため、彼女は淋しさから国王との不倫に走ったのである。
しかし、22歳の王と17歳のオルレアン公妃は、ルイ14世とは従兄妹であり、義理の妹である。フォンテーヌブローでの若き王の振る舞いは、王妃マリー=テレーズや王弟フィリップも知るところとなり、アンリエットがその当時のイングランド王チャールズ2世の実妹なだけに、母后アンヌ=ドートリッシュを「せっかく築きあげた(王妃の、そしてアンヌ自身の実家でもある)スペインとの同盟がご破算になったら...」と心配させる事態になる。
自分との不倫をカムフラージュしようとアンリエットは同い年の侍女ルイーズ=ド=ラ=ヴァリエールを王の偽の相手役としたところ、皮肉にも国王はルイーズに心変わりしてしまい、スキャンダルが大事になる前に収まった。
ルイーズは純粋で信仰が篤く、始めからルイに対して思わせぶりな行動をとったのでもなければ、秘密の関係となるのに自ら興味を示したのではない。彼女にとって初めての真剣な愛であった。ルイ14世はルイーズを深く寵愛し、1664年にヴェルサイユ宮で催された大祝典『魔法の島の歓楽』は彼女に捧げられたものとされる。敬虔な彼女は王妃に対する罪に苛まれ、1662年2月、突然王宮を出て、修道院に閉じ籠もった。ルイ14世はそれを知ると、修道院の玄関で熱心にかき口説いた。そして、彼女を王宮に連れ戻した。
1666年頃、ラ=ヴァリエールはライバルの出現に驚かされた。モンテスパン侯爵夫人と呼ばれる仇っぽい、雪の肌をした豊艶な美女である。侯爵夫人は結婚生活に失敗した後、パリに出て、国王の寵愛を一身に集めようとする不逞なな野望を抱いた。彼女は自己の成功を勝ち取るために、祈祷師ラ=ヴォアザンの「黒いミサ」へ通った。このミサでは、幼児や胎児が生贄に供されて、その血で願いを叶えようとする、魔女の祭礼に似た、残虐な儀式が営まれた。
その効果が現れたわけでもあるまいが、まもなくルイ14世はモンテスパン侯爵夫人に心を奪われた。傷心したラ=ヴァリエールは何度か逃亡を試みた、やっと1674年に修道院に入るのを許された。彼女が宮廷を去る日、沿道の市民はみな目に涙を浮かべて、馬車を見送った。ルイ14世との間に3人の子をもうけた彼女であったが、1710年に亡くなるまで、二度と外へ姿を現さなかった。
モンテスパン侯爵夫人は8人の子を生み、1667年からおよそ10年間にわたり王妃をしのぐ権勢で宮廷社交界の花形として君臨した。しかし、 1679年からルイ14世はマリー=アンジェリク=ド=フォンタンジュを寵愛するようになった。彼女は若く美しい女性だったが知性には欠けていた。彼女は1680年に子を生み、フォンタンジュ公爵夫人の称号を与えられるが産後は体調を崩してしまう。ルイ14世の寵愛がマントノン夫人に移ったこともあり、宮廷を辞して修道院に入り1681年に20歳の若さで死去している。
その頃に祈祷師ラ=ヴォアザンが逮捕され、彼女のもとで「黒ミサ」の儀式が行われていたことが明らかになった。多くの貴族が彼女の顧客となり、その中にはモンテスパン侯爵夫人もおり、支配階級にも及ぶ大醜聞事件となった。フォンタンジュ公爵夫人の急死はモンテスパン侯爵夫人の毒殺によるものとの噂が立てられ、さらにはラ=ヴォアザンの娘がモンテスパン侯爵夫人はフォンタンジュ公爵夫人だけではなく国王の毒殺まで謀っていたと証言する。検察が早々に裁判を打ち切ってことは止み沙汰になったが、これを期にルイ14世はモンテスパン侯爵夫人を遠ざけるようになり、無視と軽蔑に耐えながらなお数年間宮廷にとどまっていた彼女が遂に修道院入りを決意すると、国王は喜んで彼女を送り出したという。
マントノン夫人は詩人で新教徒のアグリッパ=ドービニーの孫娘である。少女時代にカトリックに改宗し、16歳で42歳の流行作家ポール=スカロンと結婚した、しかし、8年後に寡婦となったため、宮廷に仕えて、モンテスパン侯爵夫人の子供たちの養育係を務めていた。美人ではないが教養のある知識人で控えめな女性だった。彼女にルイ14世は関心を持ち寵愛するようになり、侯爵夫人の称号を与えた。
1683年7月30日に王妃マリー=テレーズが世を去り、それから程ない同年10月9日頃にルイ14世はマントノン侯爵夫人と秘密結婚をした。この時、ルイ14世は46歳、マントノン侯爵夫人は3歳年上の49歳であり、王は若さや美しさとは別の点で彼女を愛していたと考えられ、この後、王の女性遍歴は止むことになった。
これら著名な愛妾以外にも、女優や掃除女とのゆきずりの性的な関係もあり、ルイ14世には20人を超える子供がいた。しかし、嫡出子のほとんどが幼少期に死んでおり、唯一成年に達した王太子ルイも1711年に死去してしまう。
ルイ14世は1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前に壊疽の悪化により死去した。男子の孫は一人も残っておらず、結局ひ孫のルイ15世がわずか5歳で即位することになった。
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この年の11月に宰相リシュリューが他界したが、およそ6カ月のち、1643年5月、ルイ13世の死が続いた。わずか4歳のルイ14世が即位し、王太后アンヌ=ドートリッシュが摂政となった。30余年前の危うい状況の再現である。
また、マザランは摂政アンに寵愛され、この両者は恋愛関係、あるいは肉体関係さえも憶測されている。
マザランは1648年10月の三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約でアルザスを獲得するなどの成功を収めた。しかし、前代のリシュリューに続き、国王の寵臣が強い権力を持つことに対して、貴族たちの反発も強まっていた。ましてや、マザランは外国人である。貴族たちは既得権の一つであった高等法院の法官が貴族以外の市民から採用(しかも売官によって)されていることにも反発していた。また都市の市民層や農民には、うち続く戦争の戦費を捻出するための重税に対する不満が強まっていた。
ちなみに、フロンドというのはこの頃パリの青少年の間で流行していた投石器のことである。警察が禁止して歩くと、少年たちは背後から石を飛ばした。その反抗的姿勢をもじって、政府反対派をフロンド党員と呼んだところから、フロンドの乱と呼ばれたとされる。
この反乱はマザランが、三十年戦争で軍功のあった大貴族コンデ公を抱き込み、コンデ公の軍隊がパリを包囲、高等法院も妥協して、翌年に鎮圧された。
この大令嬢がバスティーユの砲門をテュレンヌの王軍に開いてコンデ軍の退却を助けたのである。彼女は「マザランに対する反感と男勝りの冒険好きから、鎧に身を固めて反乱軍に荷担した」と言われる。しかし、マザランが言った「この砲撃が彼女の夫を殺したのだ!」という言葉は、公式には一生を独身で送った彼女にとって、何を意味するのか?
大令嬢は反乱失敗後もルイ14世の従妹であったためで宮廷に残ったが、人一倍勝ち気な性格で、各国宮廷との縁談があったがことごとく断り独身をつづけた。マザランの言葉は、彼女がこの事件によってルイ14世の王妃たるべき運命を失ったことを意味するのかも知れない。
1652年10月のルイ14世のパリ入城と翌年2月のマザランの帰還で、フロンドの乱はついに膜と閉じる。フロンドの乱の原因は、王権が中央集権化・官僚化を進めて強化されていくことに対する、既得権の喪失を恐れる貴族層の反乱であったが、それが全国的な内乱にまでなった背景には、都市の市民や農村の農民の重税に対する反発があった。そして当時のヨーロッパは「17世紀の危機」といわれる天候不順、凶作、不況と言った社会の疲弊があった。大きく言えば、中世封建社会から、近代市民社会への移行という大きな変化が始まった時期であった。
そして反乱が鎮圧された結果、貴族の没落は進み、その反面としてフランス絶対王政を確立していく契機となったのである。