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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー断頭台に消えた国王・ルイ16世③

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ルイ16世(ルイ=カペー)

 幽閉されたルイ16世は家族との面会もかなわず、名前もルイ=カペーと呼ばれ、不自由な生活を強いられることになる。

 1792年12月11日から始まった国民公会の法廷でのルイ=カペーの裁判は、ジロンド派と山岳派(いわゆるジャコバン派)の間ではげしく議論された。ジロンド派は処刑による外国の感情悪化を恐れ、まだ外交上の手札とできると考えて処刑に反対した。それに対して山岳派は、共和政・人民主権の立場から国王処刑を主張した。

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サン=ジュスト

 弱冠25歳の山岳派サン=ジュストは「人は罪なきものとして王たりえない」つまり、王であること自体が悪であると主張し、「この男は、王として統治すべきか、それとも死なねばならない」と断じた。ロベスピエールはルイは裁判の対象にさえならない、共和政の樹立されたことは王の存在は許されないとして「祖国は生存すべきものだから、ルイは死すべきである」と述べた。

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最後の証言に立つルイ16世

  1793年1月14日、各議員が登壇して意見を述べるという形式で最終決定が行われた。ルイの有罪は全員一致で認められ、人民への上訴は否決された。

 16日夜、その刑罰を決める投票が始まり、24時間続いた。721人の議員のうち、死刑賛成387、反対334となった。賛成者の中の26名は、執行猶予について検討すべきと言う条件を付けた。この26票を反対側に数えると、361対360の1票差となる。そこで執行猶予についての投票が18日に行われた結果、380対310で否決され、死刑は確定した。

 タンプル塔に幽閉されていたルイ16世に判決が伝えられた。処刑は、21日朝、革命広場で。現在のコンコルド広場、革命以前はルイ15世広場である。ルイ16世がまだ即位する前、マリ=アントワネットとの婚礼の馬車が民衆の歓呼に包まれて通過したのも、この広場であった。その時、近い未来に同じ広場で断頭台の露と消えようとは、本人ならずとも誰が想像できたでであろうか。

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処刑される直前のルイ16世

 1793年1月21日午前10時22分、シャルル=アンリ=サンソンの執行によりギロチンで斬首刑にされた。これに先立って、革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのは、錠前作りによって工学的知識、金属器の知識を持っていたルイ16世本人だった。

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ギヨタン

 ところで、断頭台のことをギロチンと呼ぶが、これは発案者であるギヨタンに由来している。ギヨタンは初審裁判所の検察官の息子で、サントに生まれ、イエズス会修道士から初等教育を受けた。聖職に就くつもりでボルドーの修道院に入ったが、まもなく神学を捨てて文学修士の予備学位を取り、続いて医学博士号を取った。1789年にはパリの医師会の理事であり、首都におけるもっとも繁昌し、治療費の高い医者となっていた。

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ギロチン


 ギヨタン はフランス革命がはじまって発足した国民議会(憲法制定議会)の議員であった。人権宣言が発布されたことを受け、それまで貴族は斬首、平民は縛り首というように身分によって異なっていた処刑方法を平等にし、あわせて苦痛を伴わず、迅速に処刑できる方法の採用を訴え、新しい断頭施設を考案した。

 1792年に立法議会はその処刑法を採用、広く行われるようになり、人々は、この処刑具を「ギヨタンの子供」と言ったような意味でギヨティーヌ(その英語発音がギロチン)と呼ぶようになった。ギヨタンはこの断頭台をギロチンと呼ぶことに再三異議を申し立てたが、結局聞き届けられず、自ら改姓することで諦めた。

 ギロチンによる死刑の執行は、フランス以外でも行われるようになり、さらにフランスでは革命後もギロチンによる公開処刑が続いた。次第にその残忍さが認識されるようになり、公開処刑は行われなくなったが、フランスでは非公開のギロチンによる処刑は、1970年まで行われており、1981年の死刑廃止まで存在した。

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斬首後、革命派によって民衆に示されるルイ16世の首

 大デュマは処刑当日の様子を次のように記述する。

 朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。

 王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」
という、フランスへの思いが込められた一言だった。しかし、その言葉を聞いてもなお、涙するものはなかった。

 処刑されたルイ16世の首が掲げられると、革命広場につめかけていた群衆から「国民万歳」の叫びがいっせいにあがった。

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サン=ドニ大聖堂のルイ16世の慰霊碑

  遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られた。後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。

 発見されたルイ16世の亡骸は一部であったが掘り起こされ、その22回目の命日である1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に妻マリー=アントワネットと共に改葬された。

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【 2020/09/29 05:26 】

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世界史のミラクルワールドー断頭台に消えた国王・ルイ16世②

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ルイ16世とマリ=アントワネット

 1791年4月2日のミラボーの急死の頃より国王の逃亡は、民衆に警戒されており、4月18日に国王がパリ郊外のサンクルー離宮で復活祭を過ごすと称して出発しようとした時、その馬車は群衆と国民衛兵のために阻止された。

 これにより国王一家は自分たちが実際には囚人であることを確認した。最初乗り気でなかったルイ16世も真剣に逃亡計画に耳を傾けるようになった。

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レオポルド2世

 王妃の実家オーストリアに逃亡する計画が立てられたが、王妃が主導したために、いくつもの問題が生じた。ます計画の中心人物が王妃の愛人であるスウェーデン貴族のフェルセンであり、ルイ16世の臣下ではなかった。

  また王妃の無理な主張にも振り回され、馬車は8頭立てのベルリン型の大型馬車の新品とすることになって、内装を特注し、さらに美しい服を新調したことなどによって、宮殿脱出は当初の予定より1カ月以上も遅れることになった。

 6月6日に王妃は兄のオーストリア皇帝レオポルド2世と連絡して国境に1万5000の軍隊を待機させ、20日夜、フェルセンが手引きして、国王一家は大型馬車で、サン=マルタン門からパリを出た。

 6月21日朝7時、テュイルリー宮殿の国王の寝室が、もぬけの殻なのが発見された。王妃や王子もいない。ただちにラ=ファイエットらが対応に動いた。彼らには、国王逃亡計画があるという情報は事前に流れていたらしいが、詳しいことはわからない。国民議会にとっては、立憲王政の憲法がまとまりかかっていた時期だ。国王が亡命したということになれば、すべてが再び混乱するのは目にみえていた。

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大型馬車で逃亡する国王一家

 国王一家を乗せた馬車はマルヌ川に沿ってひたすら東に走り、シャロンまでは無事にきた。しかし、その先では、国王を迎える手筈だった護衛の兵士たちが、不審の目を引いていた。見とがめた農民たちは、それが領主の逆襲ではないかと疑い、こぜりあいが起こる。護衛はそれ以上目立つのを恐れ、撤退した。

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捕まって悲嘆にくれる王妃

 国王一行は、途中で道草などを食っていささか緊張感に欠けていたが、迎えて護衛がいないのに不安を覚え、先を急いだ。偽りの旅券を持つ一行が国境の連絡地まで近づいた時、かつてヴェルサイユ宮殿の番兵をしていた駅伝頭に見破られ、間道を行った彼はヴァレンヌの町に連絡して国王を待ち伏せして捕らえた。21日夜、10時半過ぎであった。

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パリに帰還するルイ16世

 翌22日、国王逮捕の報せを受けた国民議会は、国王をパリに連れ戻すためにバルナーヴら3人の使節を派遣した。国王一行がパリに戻ったのは、25日だった。

 国王逃亡の情報は、21日から各地に伝わった。反応は当然ながら、国王に対してきついものであった。ある国民衛兵は「われわれに国王がいたなんて忘れよう」と叫んだ。ロベスピエールは「国王は、王国筆頭の公務員として、法に従わねばならない」として、国王の裁判を求めた。


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嘲笑される国王一家

 上は「小屋に連れ戻される豚の家族」と題する作者不詳の絵だが、ヴァレンヌ逃亡事件から国王に対する評判が、動物に擬して描かれることが流行った。ほんとうの豚には気の毒なことだが、「ぶた」というのはフランスでも相手を馬鹿にする罵り言葉であるからだろう、ルイ16世はしばしば豚として愚弄されている。それまではまだ信望をつないでいた国王の評判は、民衆の間でも地に堕ちたのである。

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シャン=ド=マルスの虐殺

 国王の帰還後民衆は国王の廃位を要求したが、議会は国王の無実を宣言した。そこで、コルドリエ=クラブ、ジャコバン=クラブが中心となり共和政樹立の請願運動を起こし、これに反対のジャコバン右派(ラ=ファイエットら)は分裂してフイヤン派をつくった。

 7月17日民衆がシャン=ド=マルス広場の陳情大会に集まった時、ラ=ファイエット指揮の国民衛兵はそれに発砲して弾圧した。治安維持の法律が公布され、民主主義者と共和主義者は逮捕された。ダントンはイギリスに亡命、マラーは地下にもぐり、ただロベスピエールほか、数人の代議員のみが残った。

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八月十日事件

 1792年4月20日、ジロンド派内閣はプロイセン・オーストリアに宣戦布告した。開戦以来、主戦場の東北戦線は、貴族出身の将軍連のサボタージュによって敗退を続け、パリでの諸党派の闘争は激化した。7月、立法議会は祖国の危機を宣言し、地方からの義勇軍は続々パリに集結した。ジャコバン派は義勇軍と提携をはかった。

 7月30日にはマルセイユの義勇軍が到着した。8月1日の対仏連合軍司令官ブルンスウィク公の「フランス王に危害を加える者は銃殺し、報復としてパリを焼き払う。連合軍の目的は王の救出である」という宣言は、王室と敵との通牒と信じられた。

 9日夜、警鐘の乱打でパリ民衆と義勇軍の武装蜂起が開始され、10日、テュイルリー宮殿は占領され、国王一家はタンプル塔に幽閉され、王権は停止された。またしても、民衆の運動が革命の新たな展開を促したのであった。

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【 2020/09/25 05:17 】

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世界史のミラクルワールドー断頭台に消えた国王・ルイ16世①

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ルイ16世 

 1754年8月23日、ルイ16世はルイ15世の長男ルイ=フェルディナント王太子の3男として誕生した。兄が夭折し、1765年に父の死により10歳で王太子となった。

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マリ=アントワネット

 1748年、オーストリア継承戦争に敗北したマリア=テレジアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようと、宿敵であるブルボン家との政略結婚の話を進めた。その結果、紆余曲折はあったものの、マリア=テレジアの末娘のマリ=アントワネット(ドイツ語名はマリア=アントーニア)がフランス王太子のもとに嫁ぐことになった。

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ルイとマリの結婚式

 1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿で豪華絢爛な二人の結婚式が挙行された。ルイは15歳、マリは14歳であった。その4年後の1774年5月16日、ルイは祖父ルイ15世の死によりルイ16世として即位した。


 1777年4月、なかなか子供が生まれず性生活を疑ったマリア=テレジアが、マリの長兄ヨーゼフ2世が若い夫妻の元に遣わされた。夫妻それぞれの相談に応じ、ルイ16世は先天的性不能の治療を受けた。また、若くして結婚したため、子作りの方法を知らなかった国王夫妻は、ヨーゼフ2世より子作りの仕儀を授けられたという。その甲斐あって結婚7年目の1778年には長女マリ=テレーズ、1781年長男ルイ=ジョゼフ(夭折)、1785年次男ルイ=シャルル(後のルイ17世)、1786年次女ソフィー(夭折)が誕生する。

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三部会開催 1789.5.5

 即位後まもなく起きたアメリカ独立戦争に介入したため、フランスの財政は危機に瀕し、アンシャン=レジームは(旧制度)は完全に行き詰まった。1780年代のフランスの財政赤字は45億リーブル、当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実に歳入の9年分の赤字を抱えていたことになる。ルイ16世はテュルゴー、ネッケルらの重農主義者として知られた人物を相次いで財務長官(当時は事実上の宰相)に任命して改革への出口を求めたが、生来、優柔不断のため、特権にあぐらをかく貴族の反対を受けると二人を罷免するなど首尾一貫しなかった。

 1788年に財務長官に再任されたネッケルが貴族への課税案を提出すると、反対する貴族に圧されて175年ぶりに三部会をヴェルサイユに招集した。

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バスティーユ牢獄襲撃事件

 しかし、ここでも傍観者的態度をとる一方、第三身分の勢力が台頭してくると、その弾圧に踏み切り、事態を悪化させて、1789年7月14日、パリ市民によるバスティーユ牢獄襲撃を招き、フランス革命の火はやがて全国に広がった。ルイ16世は、ことの重大さを、14日にはまだ十分につかんではいなかったようだ。これについては、よく二つのエピソードがひかれてきた。

 夜半に侍従のリアンクール公に起こされたルイ16世は、パリの状況を聞かされて、尋ねた。「なに、暴動か」。リアンクール公は答えた。「いえ陛下、革命でございます」と。

 しかし、ルイ16世はパリの状況を知った国民議会の代表から、すでに夕刻に報告を受けていたのだから、会話の場面は正しくない。この話は、状況を正しく革命と捉えていたリアンクール公の慧眼を褒め称えるためか、あるいは、ルイ16世の政治感覚の鈍さを笑うための話として流布されてきたのである。

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ルイ16世のメモ

 もう一つのエピソードは、もっとルイ16世をこきおろす内容だ。

 ルイ16世には、日々の細かなことを手帳に記すメモ魔のところがあった。そのメモの7月14日の欄には、「リアン」とそっけなく書かれている。つまり、あれだけの出来事が生じた日について「何もなし」というわけだ。このエピソードの指摘には、なんと馬鹿な、という、苦々しい感情がともなわれているのが一般的である。

 しかしこれも、解釈としてはもう少しデリケートでありたい。「リアン」とメモされているのはその通りだが、この表現は、狩り好きのルイ16世が、ほとんど毎日のように行っていた狩猟の獲物について記すためのものだったからである。


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国王一家はテュイルリー宮殿に移される

 バスティーユ牢獄襲撃事件以後、事態は息もつかせぬ感じでめまぐるしく展開した。8月4日夜には封建的特権の廃止が宣言され、8月26日には「人権宣言」も公布された。10月5日、女性を中心とするパリ市民がヴェルサイユ宮殿に押しかけ、国王にパリへの帰還を要求するとあっさりこれを受け入れ、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に移った。

 1790年7月14日に、ルイ16世は「革命記念祭」に出席し、民衆は「国王万歳」を叫んだ。国民議会は改革事業を進め、立憲君主政に基づく憲法も作られつつあった。そのまま行けば決して断頭台に登ることはなかったのだが、1791年4月2日、ルイ16世の運命を大きく変える出来事が起きた。ミラボーの死である。

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ミラボー 

 ミラボーはその巨体と長い髪の鬘、天然痘のあばた顔で目立っていたらしい。美男子ではなかったが、女性とのスキャンダルが絶えなかった。ミラボーは第三身分代表として選出されたが、もとは伯爵家の出で貴族だった。しかし父親に反発して無軌道な生活に入り、怒った父から廃嫡され、おまけに王に働きかけた父によって投獄されてしまった。各地で獄中生活を味わい、出獄後も駆け落ちしたりという波乱の人生を歩んだ。そんなことから貴族としては立候補できず、平民として立候補、持ち前の弁舌で当選してしまった。三部会議員となってからは、球戯場の誓いや国民公会で活躍し、「革命のライオン」と言われ、雄弁と、その開放的な庶民性から国民に絶大な人気があった。

 ミラボーは立憲君主主義者で王政変革の意志はなく、議会派と国王の融合に尽力し、やがて宮廷に革命派の内情を通報して財政援助を受けるようになり、王妃マリ=アントワネットとの愛人関係も取り沙汰されるようになった。

 ミラボーは青年時代の放蕩生活と議会での激務で病を得、4月2日に42歳で急逝した。毒殺の噂があったが、実際には化膿性心膜炎または当時は診断も治療も不可能であった虫垂炎と思われる。「私の死はフランス王政の崩壊だ」が臨終の言葉であった。

 ミラボーという強力な王政護持論者の死によって、王室は立憲議会との太いパイプを失った。革命の進展に対する不安に駆り立てられたルイ16世と王妃マリ=アントワネットが事件を起こすことになる。

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パンテオン
 
 国民の深い哀悼のうちに、ミラボーの遺体はパンテオンに葬られた。しかし、「八月十日事件」のおり、ルイ16世と交わした書簡と多額の賄賂の存在実証する書類がテュイルリー宮殿から発見され、名声は地に落ちることになり、国民公会の命令で遺体はパンテオンから除去された。

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【 2020/09/22 05:28 】

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世界史のミラクルワールドー両大陸の英雄・ラ=ファイエット

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ラ=ファイエット

 ラ=ファイエットは1757年9月6日、オーベルニュ地方のシャヴァニアック城で富裕な名門貴族の家に生まれた。本名はマリー=ジョゼフ=ポール=イヴ=ロシュ=ジルベール=デュ=モティエで、ラ=ファイエットは侯爵名である。

 ラ=ファイエットの先祖は代々軍人で戦死が多く、彼の父も彼が2歳の時七年戦争に従軍し、先祖たちと同様に戦死した。ラ=ファイエットがアメリカ独立戦争に身を投じることになったのは、父親がイギリスとの戦いで戦死したことによる反英感情もあったようだ。

 父と同じ道を選んだ彼は、14歳で軍隊に入隊。16歳で2歳年下のノアイユ公の娘と結婚し、若い廷臣たちの仲間入りをしたが、やがて宮廷生活になじまないものを感じ、軍人としての栄誉を求めるようになった。

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フランクリン

 若い貴族ラ=ファイエット侯爵は、ブルボン朝フランスの膠着した社会を改革することを夢見ていた。

 そこに1775年、アメリカ独立戦争が始まった。支援を求めて来仏したフランクリンに会って、その考えに共鳴したラ=ファイエットは周囲の反対を押し切って自費を投じて船を購入し、1777年12月スペインのパサヘス港から出航、義勇兵としてアメリカに渡った。19歳の時のことである。

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ワシントン邸を訪ねたラ=ファイエット

 ラ=ファイエットは1777年7月27日、フィラデルフィアに到着し、7月31日アメリカ大陸会議によって陸軍少将に任命され、独立戦争の渦中に立った。初めは指揮権も手当も与えられない一人の義勇兵として戦うことを求められたが、1777年9月11日、初戦であるブランディワインの戦いで功を立て、これにより一部隊の指揮権を与えられた。ラ=ファイエットはワシントン将軍の家族の一員として迎えられ、以後ワシントンを養父と呼び、終生変わらぬ尊敬を捧げたのである。

 ラ=ファイエットのアメリカでの活躍ぶりは、祖国で彼の人気を高め、フランスにおける親米感情の高揚と米仏同盟の締結に寄与した。

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ヨークタウンの戦いで降伏するコンウォリス将軍

 1779年に一旦帰国したラ=ファイエットは、1780年、援軍派遣の知らせを持って帆船「エルミオンヌ号」でアメリカに戻った。ラ=ファイエットは1781年4月からヴァージニア軍を指揮し、米・仏陸海軍の合同作戦に参加、イギリス軍をヨークタウンに封じ込めた。艦隊からの補給路を断たれたイギリス軍のコンウォリス将軍は同年10月19日に降伏した。

 翌年、帰国したラ=ファイエットは「新大陸の英雄」と称えられ、フランスの陸軍少将に昇進した。
 
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フランス人権宣言

 1784年以後、ラ=ファイエットはフランスの社会・政治改革に身を投じた。1789年5月、三部会の第二身分(貴族)の代表として選出された。アメリカ独立戦争を戦った彼は、フランスの絶対王政を立憲君主政に変革すべきだという信念を持ち、第二身分でありながら第三身分(平民)の側に立って議会政治の実現に向けて行動した。

 1789年7月9日、憲法制定国民議会が成立すると、7月11日、アメリカ独立宣言をモデルとする「人権宣言」の第1次草案を提出し、2日後、議会の副議長に選出された。「人権宣言」は、正式には「人間と市民の権利の宣言」と言い、8月26日に憲法制定国民議会によって採択された。

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フランス国旗(トリコロール)

 ラ=ファイエットはバスティーユ牢獄襲撃の翌7月15日にパリ市民軍の総司令官となった。彼はこの軍隊を精悦な国民衛兵軍として組織し、軍の帽章に赤、白、青の三色を採用した。これが現在のフランス国旗となった。青と赤はパリ市の標章として用いられていたものであり、白はブルボン家の象徴である白百合に由来する。したがって、この時点では王政が倒されることはなかった。

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ヴェルサイユ行進

 革命勃発当時のフランスでは、前年の凶作や政情不安のため穀物の売り渋りが横行し、パンをはじめとする食料品の価格高騰にパリ市民は苦しんでいた。庶民の生活が窮乏する中にあっても、ヴェルサイユ宮殿では豪奢な宴が催された。更にその席上、近衛兵が国王ルイ16世の面前で三色帽章を踏みにじった。革命の否定を示すこの報が伝わると、民衆の間に怒りが広がった。

 10月5日の早朝、パリの広場に集まった約7000人の主婦らが「パンを寄越せ」などと叫びながら、国王と議会に窮乏を訴えるため、ヴェルサイユに向かって行進を開始。ラ=ファイエットの率いる2万の市民軍が後を追った。降りしきる雨の中、約20kmの道のりを6時間かけて行進してヴェルサイユ宮殿に到着した。各々が武器を取り、大砲まで持ち出して行進したといわれる。

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バルコニーに立つルイ14世と王妃

  狩りを好んで行った国王はこの日も狩りに出ており、民衆は更に4時間近くの待機を強いられた。狩りから戻った国王は宮殿に集った大勢の民衆に恐れをなし、パンの配給を表明した。これにより民衆の興奮は幾分治まったが、王妃マリ=アントワネットが放った「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃないの」の一言が、民衆を激怒させたと言われている。

  翌6日未明、武装した市民の一部が宮殿に雪崩れ込んで略奪を行うと共に、国王を拘束した。民衆は国王に対しパリへの帰還を迫り、その日の午後に国王一家をパリに連行した。

 国王と議会がパリに移ると、ラ=ファイエットは国王によりパリの国民衛兵軍およびパリ正規軍の指揮官に任命された。続く2年間、彼は公共の秩序維持に努め、穏健派の指導者として国民議会で強い発言権を持った。彼はその時、フランスで国王に次ぐ人気と勢力を誇る人物となっていたのである。

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ジェファソン

 第3代アメリカ大統領となったジェファソンは、独立戦争を通じてラ=ファイエットを良く知っており、「ラ=ファイエットの弱点は人気と評判に対して飢えきっていることである」と評している。

 「両大陸の英雄」と称賛されたときから、いつも人々の注目を浴びることを願い、それがその後の彼の行動を律したといわれている。

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8月10日事件

 1790年7月14日、バスティーユ襲撃1周年を記念した武装市民集会で、ラ=ファイエットは「国と法と国王」に対する忠誠の宣言を行ったが、これが彼の人気と政治力の頂点であった。やがて議会内での彼の立場は、王党派からは革命派として、また急進派からは穏健派として攻撃されるようになり、1791年10月、立法議会が成立すると、革命は終わったと判断してオーベルニュに隠退した。

 しかし、1792年4月、ジロンド派内閣が対オーストリア開戦に踏み切ると、ラ=ファイエットは国民軍総司令官として国王に呼び戻され、、オーストリア・プロイセンの連合軍と戦う前線に向かったが、各地の敗戦を聞いて進軍中止を命じた。

 「8月10日事件」が起き、パリで国王が捕らえられ、王権が停止された。その知らせを聞くと、鎮圧して国王を救出しようとしたが、時すでに遅く、ラ=ファイエットはパリに戻ることをあきらめ、国境を越えてオーストリアに亡命しようとして、投降した。しかしオーストリア軍は「立憲王政」と「共和政」の違いを理解できず、彼を革命の首魁として捕らえ、以後9月18日から5年間牢獄に繋いでしまった。

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ブリュメール18日のクーデタ

 1799年、ナポレオンがブリュメール18日のクーデタで権力を握ると、ラ=ファイエットは帰国し、当初は協力した。しかしナポレオンが皇帝に就任することに反対して遠ざかり第一帝政から離れた。

 さらにナポレオンが没落し、ブルボン朝の復古王政になっても協力せず、フランス革命の理念を象徴する人物として存在し続けた。1830年に復古王政が倒された七月革命が起きると、再び政治の表舞台に復帰し、パリ国民軍司令官となった。しかし、まもなく1834年5月20日に77歳で没した。史上希にみる息の長い革命家であった。

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【 2020/09/18 05:18 】

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世界史のミラクルワールドー立志伝中の人・フランクリン

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ベンジャミン=フランクリン

 フランクリンは、1706年1月17日マサチューセッツ植民地ボストンで生まれた。石鹸や蝋燭の製造業者であった父ジョサイアは、1683年に妻のアンとともにイギリスから移住してきた。1689年に7人の子を残してアンが亡くなったあと、ジョサイアはアバイアと再婚した。ベンジャミンはジョサイアの17人の子女のなかの第15子(10男)であった。

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兄のもとで印刷術を学ぶ

 フランクリンは小学校に入ったが、父親の家業を手伝うために僅か1年で退学を余儀なくされた。しかし、大の読書好きだったことから、11歳の時に印刷業を営んでいた兄ジェームズの徒弟となり、印刷技術を習得するとともに、時間を見つけ独学に励んだ。1721年、兄ジェームズは『ニュー=イングランド=クーラント』という新聞を創刊した。同紙の自由主義的論調により兄が投獄された時には、代わりに発行人となったこともある。

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フランクリンの印刷所
 しかし、ベンジャミンは兄との何度かの喧嘩の末に縁を切り、17歳でボストンを去り、フィラデルフィアに向かった。ベンジャミンの手持ちの金はオランダ=ドル1枚だけだったが、キーマーの印刷所に就職し、印刷出版業で順調に業績を伸ばすことができた。

 18歳の時に、植民地総督の勧めでロンドンに渡り、植字工として働いた。20歳でフィラデルフィアに戻り、再びキーマーの印刷所で働いた後、自らの印刷所を開業した。
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デボラ=リード

  1730年9月1日、フランクリンはデボラ=リードと内縁関係に入った。30年から31年にかけての冬に、デボラ以外の女性との間にウィリアムをもうけたが、ウィリアムの母親の名は生涯明かさなかった。

 デボラとの間には1男1女があったが息子は夭折し、庶出のウィリアムを家庭に引き取って育てた。デボラとの生活は、彼女が1774年に亡くなるまで続いた。

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フランクリン=ストーブ

 1729年から発行した週刊新聞『ペンシルヴェニア=ガゼット』は、彼自身の常識哲学と気のきいた警句も掲載して人気を高め、後にはアメリカで最初の雑誌を発行するなど、一流の経済人となった。巡回図書館、アメリカ哲学協会を設立し、ペンシルヴェニア大学設立を援助するなど、多くの公共事業に貢献した。

 フランクリンは少年の頃から自然科学に強い好奇心を持っていたが、1740年に発明したのがペンシルヴェニア型暖炉である。燃焼効率の良いストーブで、一般にはフランクリン=ストーブと呼ばれている。その他に遠近両用眼鏡、グラスハーモニカなどを発明したが、これらの発明に関する特許は取得せず、社会に還元した。
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雷の実験をするフランクリン
 
 1748年にフランクリンは印刷業を他人に譲って研究に専念するようになったが、1752年には凧の実験で雷の正体が電気であることを証明したことは有名である。

 雷雨の中、針金をつけた凧を揚げたところ、針金が電気を引き、凧糸が毛羽立ち、凧糸の下に取り付けた鍵を通してライデン瓶(蓄電池が発明される前の電気を蓄える装置)に電気を蓄えることができた。雷が電気であることを証明したフランクリンは、建物を雷から守る避雷針を発明した。また、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性があることも確認したといわれている。

 この命がけの研究結果によってフランクリンはロンドン王立協会の会員となった。

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独立宣言起草委員会

 1757年、植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣されたが、この時に彼の科学的な業績を称えオックスフォード大学から名誉学位を授与されている。これからほぼ20年間、フランクリンはヨーロッパでアメリカ外交の主要なスポークスマンとして活躍した。かつまた、ロンドンを本拠に16年ほど、いくつかのアメリカ植民地の代表として働き、印紙法を廃止に追い込むなどの成果をあげた。

 1775年3月、フランクリンはイギリス本国とアメリカ植民地の開戦は必至とみてアメリカに帰り、第2回大陸会議の代議員となって、独立宣言の起草に助力した。

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ルイ16世に謁見

 独立戦争が勃発すると、大陸会議はフランスに経済・軍事の援助を求めるため、フランクリンをフランス大使として派遣した。

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ヴェルサイユ宮殿におけるフランクリン

 科学者としてすでに名を知られていたフランクリンは、パリの社交界を中心に活動したが、新世界の大衆指導者として、かつまた気取りのない高潔さにより、セレブ女性の人気を得た。この際、当時のマナーである鬘を着けず、田舎風の毛皮の帽子をかぶりパリの社交界に現れたとされているが、これはフランス人のもつ「古い文明に毒されない素朴な人々」というアメリカ人のイメージを利用したという逸話がある。その後欧州諸国との外交交渉に奔走。独立戦争へのフランス王国の協力、参戦と、他の諸国の中立を成功させた。

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パリ条約の調印

 フランクリンはその後1785年まで、アメリカの政治的利害の代表者としてフランスに留まったが、81年にヨークタウンでアメリカ側が決定的な勝利を得てからは、大陸会議の和平交渉使節団の一人となり、イギリスが敗北を認め、アメリカの独立を承認することになった1783年のパリ条約に調印した。彼は引き続き2年間フランスに滞在して、フランスとアメリカとの通商条約の締結に努力した。 

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 合衆国憲法に署名するフランクリン

 1785年に帰国したフランクリンは、まもなくペンシルヴェニア議会の議長に選ばれ、3年間在職した。1787年には憲法制定会議の代議員に選ばれている。「老人は泣いた」と題される上の絵には、合衆国憲法に署名するときに涙を流すフランクリンの姿が描かれている。

 独立宣言、フランス同盟条約、パリ条約、合衆国憲法の4つの文書に署名したのは、建国の父の中で唯一フランクリンだけである。

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フランクリン

 フランクリンは1790年4月17日、84歳で死去したが、彼の死はアメリカだけでなく、フランスにおいても深く惜しまれた。フィラデルフィアでの葬儀には2万人が参列した。

 『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つである。

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【 2020/09/15 05:21 】

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世界史のミラクルワールドー黒人奴隷を愛人とした大統領・トマス=ジェファソン

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トマス=ジェファソン

 トマス=ジェファソンは1743年4月2日、ヴァージニアの大農園主の子として宇生まれた。10人兄弟の3番目であった。14歳の時に父が死に、約5000エーカーの領地と数十人の奴隷を相続した。トマスはそこに家を建て、それが後にモンティチェロ(イタリア語で「小さな山」の意味)と呼ばれるようになった。

 トマスは大学卒業後に弁護士となり、ヴァージニア植民地議会議員(1769年~)を経て、アメリカ独立戦争が始まった直後の1775年6月、第2回大陸会議のヴァージニア代議員の一人となった。出席した代表中2番目の若さだったにもかかわらず、大陸会議は彼にイギリス首相フレデリック=ノース卿からの和解の提案に対する拒否など、いくつかの重要文書の起草を委任した。


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左からフランクリン、ジョン=アダムズ、ジェファソン

 6月10日、大陸会議はジェファソン、ジョン=アダムズ、フランクリンを含む5名を独立宣言の起草委員に選んだ。本来ならフランクリンが第一稿を書くのが当然だったが、当時彼は病床にあった。

 ジェファソンはすでに名文家として知られていたが、わずか33歳に過ぎなかったので、先輩のアダムズが引き受けるべきだと述べた。アダムズはそれを断り、この仕事はヴァージニア人が先頭に立つべきで(アダムズはマサチューセッツ代表)、ジェファソンは私より人気があり、10倍も文章がうまいといってその仕事をジェファソンに譲った。

 ジェファソンは「なるほど、貴方が心を決めてしまったのなら、私はできる限りやりますよ。」と答え、6月11日から自分の下宿に籠もり、僅か2週間で原案を書き上げた。

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5人委員会が草稿を大陸会議に提出

 ジェファソンは北アメリカ植民地の独立を、ジョン=ロックの社会契約論に依拠しながら、政府を樹立するのは個人の自由や権利を守るためであるので、政府が権力を乱用しその目的を破壊する場合には、人民に政府を改廃する革命権があることを根拠に正当化した。ジェファソンは個人の権利の内容を、ロックの「生命、自由、財産」から、「生命、自由、幸福の追求」へと変更した。それによって独立宣言は、財産権にとどまらない、時代を超える価値を付与されたのである。

 ジェファソンの書き上げた草案は、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委員会案とされた。6月28日、大陸会議は委員会案を詳細に検討し、削除・修正を加え、独立宣言は7月4日に公布された。

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アメリカ独立宣言(1823年の複写)

 独立宣言への署名は1人目のジョン=ハンコックが8月2日に大書し、56人全員の署名が終了したのは11月の終わりだった。

 ジェファソン自身は大農園主で奴隷を所有していたが、奴隷貿易には反対し、黒人奴隷制度は徐々に消滅させていくことを主張していた。自ら起草した独立宣言の原案にも、国際的な奴隷貿易を非難する一文を入れていたが、その部分は議論の過程で削除された。独立後も彼はアメリカの黒人奴隷制問題に発言を続け、奴隷貿易の禁止を実現させ、奴隷制度の拡張には反対したが、彼自身が南部人であり奴隷所有者であることとの矛盾は覆い隠せなかった。

 その後ヴァージニアに戻ったジェファソンは、ヴァージニア議会で活動し、信仰の自由などを実現するなどの改革を行い、1779年にはヴァージニア知事となり、この間の体験をもとに、『ヴァージニア覚え書』を1785年に発表している。1783年から再びヴァージニア州代表として中央政界で活動するようになり、共和政の確立に尽力し、また西方への植民計画を立案した。また翌年からはフランクリンに次いで駐フランス大使となってパリに滞在した。

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ワシントンの大統領就任式

 アメリカ合衆国が発足し、1789年ワシントンが初代大統領になると、請われて初代の国務長官となったが、フェデラリスト(連邦派)の財務長官ハミルトンと対立、自らリパブリカン党(民主共和党)を創設して国務長官を辞任した。1796年の大統領選挙でアダムズに敗れて副大統領・上院議長となったが、1800年の選挙では連邦派を破って大統領となり、「1800年の革命」と言われた。

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マーサ

  私生活では、ジェファソンは1772年、28歳の時に23歳の未亡人マーサと結婚したが、わずか10年後に亡くし、ショックを受けてもう二度と結婚しないと決心した。

 しかし、女性との関係はなかなか華やかで、フランス公使をしていた1786年、43歳のジェファソンは27歳の人妻マリア=コズウェーと恋愛関係になり、二人で散歩中に調子に乗って柵を跳び越えようとして右手をくじき、麻痺が残った。

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サリー=ヘミングス

 また、自分の奴隷だった30歳も年下のサリー=ヘミングス(4分の1が黒人の血)とは、38年間も愛人関係が続き、子供が数人できたといわれている。そのうちの一人は、20世紀末に行われたDNA鑑定でジェファソンの子であると確認された。

 奴隷制に反対していたジェファソンだが、サリーを解放することなく奴隷のまま愛人にしていたわけで、公的な信念とは矛盾した私生活であった。

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トマス=ジェファソンの墓

 1826年6月、ジェファソンはアメリカ合衆国独立50周年の記念日に向けての声明文を書き「すべての目が人間の権利に向かってすでに見開かれ、あるいは、今見開かれつつあるのは」7月4日のゆえであると書いた。

 ジェファソンの旧友で、時には政敵でもあったジョン=アダムズは、7月4日に死の床にあり、心は動乱の革命の日々をさまよい、「トマス=ジェファソンはまだ生きている」との言葉を残して死んだ。ちょうどその数時間前、同じように、奇しくも彼の多くの貢献で特別の存在となった日の50周年記念日に、ジェファソンもまたこの世を去った。

 その5年後の7月4日、第5代大統領モンローも亡くなったことで、7月4日はさらなる神聖さを獲得し、アメリカ独立記念日となったのである。

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【 2020/09/11 05:20 】

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世界史のミラクルワールドー我に自由を与えよ、然らずんば死を・パトリック=ヘンリー

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パトリック=ヘンリー

 パトリック=ヘンリーはスコットランドから入植したジョン=ヘンリーの息子として、1736年にヴァージニア植民地の農園において誕生した。パトリックは幼い頃から本に慣れ親しむというよりは、むしろヴァージニア植民地の森や川といった自然に親しんでいた。このようなパトリックにラテン語、ギリシャ語、さらには数学を教え込んだのは、牧師をしていた伯父と教養豊かな父親であった。 

 1754年、ヘンリーはサラ=シェルトンと結婚することになり、双方の両親は若い2人に6人の奴隷つきの300エーカーの農園を買い与えた。だがその仕事に向いていなかったヘンリーは、2年後にはその農園を売却してしまった。

 
その後ヘンリーは独学で弁護士となり、成功を収めた。というのも、頭脳明晰にして、弁舌爽やかというよりはむしろ舌端火を吐く激しい弁舌に長けていたからである。1760年に弁護士の口頭試問に合格すると、3年も経たないうちに、ヘンリーは1185件もの訴訟を処理する忙しさとなり、しかもそのほとんどの訴訟において勝訴を勝ち取った。

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植民地餓議会において印紙法反対の演説を行うヘンリー

 1763年、パトリックはイギリス国教会牧師の報酬にあてられていたタバコの価格決定権は、ヴァージニア自由人の権利だと雄弁に論じて名声を博し、1765年に植民地議会の議員に選出された。新人議員であったパトリックは、116人の議員中39人しか出席していない会期末の5月29日に、5つの決議を提案した。

 植民地人は本国人と同等の権利を有する事、「代表なくして課税なし」はイギリス憲政の本質である事、ヴァージニアに課税する権限を持っているのはヴァージニア議会だけである事などであり、そのうち印紙法を無効とする決議は、東部の特権的プランターの反対があったが、20対19でかろうじて可決され、この決議が「革命への信号」となった。

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タウンゼンド財務大臣

 イギリス政府は翌1766年3月に印紙法を廃止した。しかし、イギリス政府は名誉革命後、国王、貴族院、庶民院からなる議会の主権を唱え、植民地にもその権限が当然及ぶと考えていた。したがって、イギリス政府は植民地に対して立法権があることを確認する宣言法を、それと同時に採択し、翌1767年6月にはタウンゼンド諸法によって植民地の茶、ガラス、紙などの輸入に関税を再び課した。

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ボストン茶会事件

 タウンゼンド諸法は植民地側の抵抗に会い、1768年にはイギリス軍がボストンを占拠する事態にいたり、やがて1770年のボストン虐殺事件に発展した。ボストン虐殺事件の結果、本国議会はタウンゼンド関税の一部撤廃の動議を諮った。そして新しく導入された税のほとんどは撤廃されたが、茶への課税は継続された。本国政府は植民地の同意を得ないままに課税することを試み続けたが、結局、ボストン茶会事件が起き、そして、1775年4月にアメリカ独立革命が始まるのである。

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「自由か死か」演説を行うヘンリー

 パトリック=ヘンリーの最も有名な「自由か死か」演説は、1775年3月23日にヴァージニア州リッチモンドのセント=ジョン教会で行われた。ヘンリーはヴァージニアはイギリスの支配に異議を唱えるニューイングランド地方の抵抗運動に参加すべきことを訴えて、特に有名な次の発言を演説の結びとした。

 「Is life so dear, or peace so sweet, as to be purchased at the price of chains and slavery? Forbid it, Almighty God! I know not what course others may take; but as for me, give me liberty or give me death!」

 「鎖と隷属の対価で購われるほど、命は尊く、平和は甘美なものだろうか。全能の神にかけて、断じてそうではない。他の人々がどの道を選ぶのかは知らぬが、私について言えば、私に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ。」

 特に最後の最後の「自由を与えよ。然らずんば死を」という発言は人々を独立へと奮い立たせることになり、歴史に記憶される名文句となったのである。

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板垣遭難の図

 1882年4月6日、自由民権運動を進める自由党党首板垣退助が岐阜の自由党懇親会の演説を行った。演説を終えた板垣が暴漢に襲われた時に、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだというのは有名な話である。

 諸説あるが、実際には「痛い、医者を呼んでくれ」と言っただけで、有名な文句は発していないようだ。「新派劇の父」とされる川上音二郎が「板垣君遭難実記」の中で板垣に言わせたというのがどうも真相らしく、パトリック=ヘンリーの「我に自由を与えよ、然らずんば死を」にヒントを得たものであったようだ。

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【 2020/09/08 05:12 】

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世界史のミラクルワールドーインディアンの姫・ポカホンタス

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ジェームズタウン

 北アメリカ大陸において、イギリスによる本格的な植民が始まったのは、16世紀末である。ウォルター=ローリーにより、1585年と1587年にロアノーク島への植民の試みがなされた。ローリーはアメリカ植民地を建設する計画を宣言し、国王エリザベス1世から土地を与えられた。彼はその土地を、処女王エリザベスにちなんで「ヴァージニア」と命名した。しかし、ロアノーク島に送り込まれた入植隊はその後、行方不明となり、計画は失敗に終わった。

 1606年、新たにヴァージニア会社が設立され、同年12月、最初の植民者105人を北アメリカ大陸に送った渡航者104名(1名は死亡した)を乗せた3隻の船は、翌1607年4月26日、ヘンリー岬に到着した。植民者たちは入植に適した土地を求めてジェームズ川をさかのぼり、5月13日、河口から約48キロメートルさかのぼった地点に上陸した。彼らはそこを入植地と定め、国王ジェームズ1世にちなんでジェームズタウンと命名した。

 入植からわずか半年あまりで、入植者は飢えとマラリアで半分以下に減少した。1608年には38人にまで減少した。そのような混乱の中にあった入植者を救ったのは、ポウハタン族インディアンであった。ポウハタン族は「すべてを分け合う」というインディアンの理念に基づき、飢えた白人侵略者たちに食料や水を与え、彼らを援助した。

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ポカホンタス

 ポカホンタスは1595年ごろ、ジェームズタウン一帯を領土とする「ポウハタン連邦」の高名な調停者ポウハタン酋長(本名はワフンスナコク)の娘として生まれた。本名はマトアカ(またはマトワ)で、「ポカホンタス」とは「お転婆」を意味する幼少時のあだ名である。

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ジョン=スミス

 ヴァージニア植民地の植民請負人は、ジョン=スミスというイギリス人であった。スミスは元兵士で船乗りであり、ヴァージニア会社に参加してジェームズタウンの建設にかかわり、その後植民指導者になった人物である。

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ポカホンタスがスミスを救う

 スミスはポカホンタス死後の1624年以後「1607年12月に、川を遡ってインディアンの土地を物色していたところ、ポウハタン族に拉致連行され、ポカホンタスの父ポウハタン酋長に処刑されかけたが、その時酋長の娘ポカホンタスが彼の前に身を投げ出して命乞いをしてくれ、おかげで無事生還できた」という武勇伝を書くようになったが、おそらくスミスの作り話だと考えられている。
 このインディアンの社会システムを無視した「美談」は合衆国の教科書にまで載せられ、現在もあたかも真実のように語られている。これ以降、ポカホンタスは「白人を救った“良いインディアン”」の象徴として祭り上げられ、インディアンたちに現在も禍根を残している。

 スミスが植民地報告書に書いた「美談」は、ロンドン政府にジョン・スミスを部族の「友人」として納得させるための象徴的なエピソードとして使われた節があると主張する者もいる。19世紀までに「野蛮な酋長から白人を救った」ポカホンタスはアメリカ合衆国において重要な象徴的存在となり、彼女を巡る多くのロマンス小説は、洗礼前から「自分たちの文化と似通った振る舞いをする友好的なネイティブアメリカン」として彼女を描いた。

 ヴァージニアの入植者は当初は友好的であったが、食糧危機に直面した1610年からインディアンの村を襲撃するようになり、インディアン側も反撃したが次第に排除されていった。 

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美化されて描かれたポカホンタスの洗礼

 1612年、植民者たちはポウハタン酋長の娘であるポカホンタスを人質にとれば、ポウハタン族は屈服するだろうと考え、ポウハタン族に捕らわれたジェームズタウン入植者の身代わりとしてポカホンタスを誘拐した。ジェームズタウンで人質となった彼女の解放条件として侵略者たちがポウハタン族に提示したのは「イギリス人捕虜の解放」「盗まれた武器の返還」「トウモロコシによる多額の賠償の支払い」という条件だった。

 彼らはポカホンタスを通訳として役立てようと、解放の条件として英語を教えた。さらにジェームズタウンにキリスト教教会を2棟作ったアレクサンダー=ウィテカーよりキリスト教の洗礼を受けさせられた。

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ジョン=ロルフとポカホンタス

 人質だったこの時期に、ポカホンタスはヴァージニアにタバコ会社を設立した白人のジョン=ロルフに目をつけられた。ロルフは妻を亡くし、独り身だった。

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ロルフとの結婚式

 1614年4月5日、ポカホンタスはロルフと結婚し、マトアカの名を「レベッカ=ロルフ」と変えた。らはジェームズ川のヘンリカス入植地の対岸にあるロルフのプランテーション「ヴァリナ農場」で生活した。ロルフはポカホンタスに助けられ、ジェームズタウンで初めてタバコの栽培と乾燥に成功する。彼らの結婚生活は白人が期待した捕虜の奪還につながらなかったが、それでもジェームズタウンとポウハタン族の間に数年間の和平をもたらした。

 ヴァリナ農場で、ポカホンタスはトーマス=ロルフを生んだが、ポカホンタスは姉たちに「トーマスはロルフの実子ではない」と説明している。

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ポカホンタス(ディズニーアニメより)

  ヴァージニア植民地の出資者たちは、ジェームズタウンでの入植事業が困難になったことを悟った。そこでポカホンタスを「マーケティングのための材料」にした、これが後世に渡って彼女の知名度が高い理由の一端でもある。1616年、彼女と夫ロルフは大英帝国に連れられ、1617年までの間ブレントフォードに住み、ジェームズ1世とその家臣たちに謁見した。彼女はそこで「ネイティブアメリカンの姫」と紹介され、大英帝国にセンセーションを巻き起こした。ポカホンタスは、「新世界アメリカ」の最初の国際的有名人となった。

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「聖ジョージ教会」に建てられた銅像

 ロルフはヴァージニアに戻ってタバコ栽培をすることを熱望した。ロルフ一行がジェームズタウンへ帰る船旅の途中イギリスのケント州グレーブゼンドでポカホンタスは病気になり23歳前後で死去した。病気は天然痘・肺炎・結核など資料により異なる。

 ポウハタン族とその氏族のひとつマッタポニ族はポカホンタスの死因について、当時の状況から毒殺された形跡を指摘している。ロルフはポカホンタスを妻にしたが、息子のトーマスは彼の実の子ではなかったし、ロルフは病身のポカホンタスにさっさと見切りをつけてイギリスを離れたがっていたとされる。


 ポカホンタスの葬式はグレーブゼンドの「聖ジョージ教会」で1617年3月21日に行われた。のちに教会が改装される際に彼女の墓は壊され、現存していない。現在、同教会の敷地には、彼女の銅像が設置されている。ポカホンタスの葬式が終わると、ロルフは幼いトーマスをイギリスに独り残し、単身ヴァージニアに戻り再婚した。

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【 2020/09/04 05:21 】

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世界史のミラクルワールドー震える人々・クウェーカー教徒

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ジョージ=フォックス

  クウェーカーは17世紀にピューリタン革命(イングランド内戦)の中で発生したプロテスタントの一派で、ジョージ=フォックスによって興された。正式名称はキリスト友会(Friends)で、 教会の制度化・儀式化に反対し、神を知り、神を信じるには教会も牧師も儀式もいらないと主張した。

 また霊的体験を重んじ、激しい熱情をもって祈り、神の言葉を直接聞いて感動に身を震わせる(quake)という信仰の形態から、クウェーカー(震える人)と呼ばれるようになった。

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18世紀のロンドンにおけるクウェーカーの集会

 ピューリタン革命後のイギリスで、1660年にチャールズ2世が即位して王政復古の時期となると、イギリス国教会が権力を回復し、ピューリタン各派の信仰は再び認められなくなったが、特にクウェーカーは厳しく弾圧された。教会制度と儀式を重んじる国教会が、それらを否定するクウェーカーを最も嫌ったからであると同時に、クウェーカーが社会の最下層民に拡がっていたからであった。

 1662年にはクウェーカー法が発布され、5人以上のクウェーカーが集会すれば処罰されることになった。彼らの集会は軍隊によって追い散らされ、ある時は男も女も上衣をはがれ、町のなかで裸の背中を打たれた。ロンドンだけでも1年に2000人以上のクウェーカーが投獄された。
 
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武具を身に着けた22歳のウィリアム=ペン

 クウェーカーはイギリス本国だけでなく、北アメリカでもニューインゴランドやニューヨークでも投獄され、殴打された。マサチューセッツ湾では信仰を捨てなかったために処刑されたクウェーカーもいる。

 クウェーカーが安全に暮らし信仰を守れる安住の地として、ペンシルヴェニア植民地を建設したのがウィリアム=ペンである。

 ウィリアム=ペン(1644~1718年)は有名な海軍提督の息子で名門の子弟であったが、23歳の時にクウェーカーの信仰に入り、1668年に国教会を批判するパンフレットを書いて逮捕・投獄され、翌年7月にチャールズ2世・ヨーク公兄弟の取り成しで釈放されるまでの7ヶ月間ロンドン塔に監禁された。


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チャールズ2世

 クウェーカーに対する迫害が厳しくなる中、イギリスから離れて北アメリカに新しい自由な新天地を求める気持ちが強くなったペンは、1680年6月にチャールズ2世に手紙を書いて提出した。チャールズ2世はペンの父に1万6000ポンドもの借金があり、そこに狙いをつけたペンは借金の代わりにアメリカの土地を譲渡してもらうように願い出たのである。

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 数ヶ月におよぶ会議や委員会を通し、ヨーク公やサンダーランド伯など友人の支持もあり、1681年3月4日に2900万エーカーにもなるニュージャージーの広大な西部地区と南部地区を保証することで弁済に当てたチャールズ2世の国璽付き特許状がペンに送付され、晴れてこの地の領主となった。

 ペンはこの領地をシルヴェニア(Sylvania、ラテン語で「森の国」)と名付けたが、チャールズ2世は彼の父に敬意を表してこれを「ペンシルヴェニア(ペンの森の国)」と改めた。ペンシルヴェニアはペン家を領主とする領主植民地であり、入植者はペン家に地代を支払わなければならなかった。

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インディアンと条約を結ぶペン

 1682年11月、総督として新天地に到着すると、デラウェア川のほとりでインディアンの首長と会見し、友愛をもって共存すること、武器を取って争わないという条約を結び、事実ペンシルヴェニアではその後もクウェーカーの血は一滴も流されなかった。

  ウィリアム=ペンは国家による宗教の強制を嫌い、住民への信仰の自由と経済活動の自由を認め、みずから先頭に立って開拓にあたった。そのため、クウェーカー教徒の他に、ドイツやオランダ、スコットランドなどからプロテスタント系の移民が多数、入植した。

 また、ペンはインディアンに対しても同等の人間として接し、暴力でその土地を奪うことはなかった。彼が建設した州都がフィラデルフィアであり、それは「友愛」と言う意味のギリシア語にちなんでいる。

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新渡戸稲造

 イギリスのクウェーカー教徒は、18世紀後半に盛んになった黒人奴隷貿易禁止運動を起こし、1807年にそれを実現させた。現在でも世界に約60万、アメリカ合衆国に12万、イギリスに4万の信者がいる。日本人では国際連盟の事務局次長を務め、『武士道』などの著作でも知られる新渡戸稲造が知られている。

 なお、クウェーカー教徒は徹底した平和主義を貫き、たとえ徴兵されても絶対に武器を取らないとう姿勢は、多くの苦難を浴びることとなったが、1947年にはノーベル平和賞を受賞している。

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【 2020/09/01 05:36 】

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