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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー「嘘つきの父」・タレーラン

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タレーラン

 タレーラン(正式にはタレーラン=ペリゴール、これで姓になる)は1754年に伯爵家の長男として生まれた。フランスでは貴族の子弟が名誉と金銭を得る途は、軍人か聖職者(僧侶)になるしかなかった。いわゆる「赤と黒」(スタンダール)である。

 タレーランの父は軍人であった。しかし、タレーランは子供のころの事故で片脚が不自由になったため、父の指示で聖職者の道を進んだ。神学校とソルボンヌで学んだ後、一族の影響力によって順調に出世し、1788年にルイ16世によってブルゴーニュのオータン司教に任ぜられた。

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1789年の三部会

 1789年、三部会が招集されると、オータンの聖職者代表として選出され、第一身分に属しながら国民議会の設立に賛同した。国民議会は最も重要な財政問題の解決に苦慮していたが、タレーランは聖職者でありながら、教会財産の国有化を提案し、改革派の聖職者としてにわかに脚光を浴びた。万国共通の単位(国民公会でメートル法として制定される)の制定を提案したのもタレーランであると言われている。

 さらに1790年には聖職者基本法に賛成し、みずから司教職を返上し、国家への服従を宣誓した。しかし、こうした反カトリック教会的な行動を咎められて、教皇ピウス6世により破門された。その一方で、この間の混乱を利用して私腹を肥やし、悪評をかっている。

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立法議会の議場(屋内馬術練習場)

 「1791年憲法」で立憲君主政が実現、立法議会が成立するとタレーランはフイヤン派の論客としてジロンド派と対立した。ジロンド派が対外戦争をあおるなか、親英的であったタレーランはたびたびイギリスに渡り外交折衝を重ねた。

 1792年、「八月十日事件」でフイヤン派は勢力を失ったため、同年9月にイギリスに亡命した。しかし、1793年、ルイ16世の処刑を理由にイギリスが対仏大同盟を結成して断交したため、ピットによってイギリスを追われ、アメリカに渡った。タレーランはアメリカ滞在中にも投機でさらに私財を増やした。

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 スタール夫人

 1794年7月、テルミドールのクーデタでジャコバン派が没落、代わって総裁政府が成立すると、タレーランも亡命先のアメリカから戻った。総裁バラスに取り入り、当時愛人だったスタール夫人の口利きで1797年に外務大臣となった。

 スタール夫人はフランス革命勃発の直前に財務長官を罷免されたネッケルの娘で、ロマン派の作家としても知られている。

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ナポレオン

 外務大臣時代のタレーランは、後に歴史を塗り替えることとなる一人の青年と知り合った。それが、一青年士官にすぎなかったナポレオンであった。タレーランはナポレオンの軍人としての才能を知り、彼をバラスに紹介、さらにエジプト遠征を吹きかけ、ナポレオンが世に出るきっかけを作ったのだった。

 1799年、ナポレオンが「ブリュメール18日のクーデタ」で権力を握り、統領政府が成立すると一時退いていた外務大臣に復帰、さらにナポレオンが皇帝となってからもその下で外交交渉に当たり、侍従長も兼ねた。ヨーロッパ列強の勢力均衡を図ろうとする彼の考えと、ナポレオンのヨーロッパ支配の拡大戦力とは相容れず、侵略戦争に反対して1809年に罷免された。

 ナポレオンとタレーランは、互いの天才的な才能を認め合ったが、必ずしも親しい関係ではなかった。タレーランの老獪な政治手法をナポレオンは「絹の靴下の中の糞」とこき下ろすこともあった。

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ルイ18世

 1814年、ナポレオンが退位し王政復古によりルイ18世が即位すると、タレーランも外務大臣に復活した。ウィーン会議では「正統主義」を唱えて列強の利害対立を利用し、巧みな外交手腕でフランスの国益を守った。「タレーランは、金儲けに精を出していない時は、陰謀を企んでいる」と酷評されたが、一方で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで、敏腕政治家・外交家としての評価が高い。

 ナポレオンの百日天下の時期はパリを離れたが、、ワーテルローの戦いの後に国王とともにパリに戻り、1815年7月、今度は総理大臣となった。しかしすでに60歳を超え、その後の活動は衰え、別荘で静かに暮らすことが多くなった。

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ルイ=フィリップ

 復古王政のルイ18世、シャルル10世が絶対王政に戻そうとして次第に議会と国民から離れていくと、タレーランは立憲君主主義者としての原点に返ったのか、議会つまりブルジョワと協調できる開明的な国王としてオルレアン家のルイ=フィリップに期待し、その担ぎ出しに一役買った。その功績で1830年、七月革命が成功し、七月王政が成立すると、タレーランは75歳で駐英大使に任命された。5年後に80歳で政界から引退。死の直前に教会と和解し、1835年、カトリック教徒として84歳で死去した。

 フランス革命・ナポレオン時代・復古王政・七月王政の激動期に、消えては現れる、「クセ者的な政治家」だった。基本的な政治姿勢は自由主義にあるが、変わり身が早くて私益の追及にも貪欲であったから、「近代ブルジョワ外交の祖」と言われる一方で、「嘘つきの父」とも酷評され、無節操の典型とされる。

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「民衆を導く自由の女神」

 上の絵画は七月革命を題材とした、ルーブル美術館の至宝「民衆を導く自由の女神」である。

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ドラクロワ(自画像)

 作者はフランス=ロマン主義の代表的作家であるドラクロワである。彼が実はタレーランの隠し子であるという噂がある。当時、社交界で伊達男として名を知られたタレーランが、前外務大臣ドラクロワの夫人と不倫関係にあり、その間に生まれたのだという。

 その容貌・容姿が酷似していることや、フランス政府が彼を保護していることなどから、かなり信憑性のある噂のようだ。

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【 2020/10/30 05:12 】

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世界史のミラクルワールドーウィーン体制の仕掛け人・メッテルニヒ

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メッテルニヒ 

 1773年にライン地方の名門貴族の家に生まれたメッテルニヒは、16歳でフランスのストラスブール大学に入学して外交学などを学んだ。フランス革命が勃発すると、その革命軍がアルザスやラインラントを占領した。この経験は、その後激化するナポレオン戦争とあわせ、メッテルニヒのナショナリズムに対する強い警戒心を育むことになった。

 22歳の時に前宰相カウニッツ伯の孫娘と結婚、高位官職への道が開けて職業外交官となった。駐ドレスデン公使・駐ベルリン公使を経て、駐フランス大使となり、ナポレオン1世の帝政をつぶさに観察した。

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神聖ローマ皇帝フランツ2世

 1808年、スペインでの反ナポレオン蜂起に乗じてオーストリアも開戦したが敗れ、神聖ローマ帝国は消滅し、フランツ2世はオーストリア皇帝フランツ1世を称するだけとなった。事実上、ナポレオン帝国の属国のような状態になるなかで、フランツ1世はメッテルニヒをオーストリア大使としてパリに送り、その折衝に当たらせた。

 メッテルニヒはオーストリア皇帝フランツの娘マリ=ルイーズをナポレオンと結婚させ、その懐柔を図った。正妻ジョセフィーヌに子供がいないことから離婚したばかりのナポレオンは、ハプスブルク家の女性を妻に迎えることで皇帝としての箔がつくので大いに喜んだ。

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ライプチヒの戦い

 ナポレオンがモスクワ遠征を計画すると、メッテルニヒはオーストリアからも兵士を出す姿勢を見せながら、密かにナポレオンに和平を促した。そしてそれが受け容れられないと知って、ナポレオンを見限り、ロシア・プロイセンと同盟することを決断、1813年に反ナポレオンの同盟軍とナポレオン軍の決戦ライプチヒの戦いとなり、同盟軍が勝利してナポレオン時代は実質的に終わりを告げることとなった。

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ウィーン会議

 1814年9月、ウィーンに各国代表が集結、ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序の再建に向けての一大国際会議であるウィーン会議が開催された。ロシア、イギリス、プロイセン、オーストリアの四大国からなる委員会が任命され、満場一致でメッテルニヒがその議長に選出された。

 メッテルニヒが最初に行ったことは、フランス代表のタレーランを参加させることの同意を委員からとることだった。メッテルニヒの提案通り、タレーランはフランス代表として会議に参加することとなった。敗戦国の代表を最初から加えたところにメッテルニヒの現実的な外交手腕を見ることができる。

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ウィーン会議の風刺画

 フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパを、それ以前の状態に戻すこと(正統主義)を理念として会議が始まったが、実際には各国とも領土の拡張と有利な条件の獲得を狙って腹を探り合い、なかなか進捗せず、代表たちは舞踏会などでいたずらに時間を浪費したため『会議は踊る、されど進まず』と揶揄された。

 しかし、1815年2月ナポレオンのエルバ島脱出の報を受けて、列国は合意の形成を急ぐこととなり、1815年6月にウィーン議定書の調印にこぎつけた。

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ウィーン会議の風刺画

 上の風刺画では各国が領土再編をめぐって、腹を探り合っている。ナポレオンはフランスを切り取ろうとしている。フランスはこの時敗戦国であったが、「正統主義」を掲げたために一役買うことができた。

 地図
ウィーン体制下のヨーロッパ

 舞台裏の外交交渉を取り仕切ったメッテルニヒによって、ヨーロッパの地図は新しく書き換えられた。フランス、スペイン、ポルトガル、ナポリなどに旧君主が復位した。とりわけフランスを1790年段階の国境に戻らせ、そのうえで列強に獲物の分け前を分配する。ワルシャワ大公国の大部分はポーランド王国と改称してロシアのものに。プロイセンにはラインラント、ヴェストファーレンとザクセンの北半部。イギリスには大陸外のマルタ島、イオニア諸島、セイロン島、ケープ植民地。オーストリア自らはベルギーを放棄してオランダ王国に合わせ、かわりに北イタリアのロンバルディア、ヴェネツィアを獲得する。また中欧には35のドイツ諸邦国と4自由市からなるドイツ連邦を重ねた。

 オーストリア帝国はドイツ連邦の議長国としてその主導権を握り、連邦諸国内の自由主義・ナショナリズム運動弾圧の中心にたち、全ヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制の柱と見なされた。メッテルニヒは秘密警察を駆使して、反体制の取り締まりに当たり、その触手はヨーロッパ全域に及んだ。彼のオーストリアにはドイツ人が20%強しか住んでおらず、14%のハンガリー人ほかスラヴ系など11民族が寄り合う大複合国家である。「民族の方舟」と評されるこの帝国で、民族単位の国民国家形成などとうて容認できるものではなかった。

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ブルシェンシャフト運動

 ドイツの学生生活は、それまでは郷土的な結合である学生組合(ランツマンシャフト)に支配されており、その実態は下級生いびりと酒、そして決闘の刃傷沙汰であった。しかしナポレオンとのライプチヒの戦いなどの解放戦争に参加し、狭い郷土を越えた「祖国」ドイツのために戦ううちに、そのような学生組織は時代遅れに思われるようになった。そんなとき、1815年6月体操家ヤーンを精神的指導者として、戦場帰りの学生を中心にイエナ大学に新しい学生組合ブルシェンシャフトが創立された。

 1817年10月、宗教改革300年祭とライプチヒの戦勝記念祭を兼ねた祝祭を11大学500人の学生を集め、ルターゆかりの古城ヴァルトブルク城で開催した。それは宗教改革者マルティン=ルターが新約聖書のドイツ語訳を完成させた場所として知られていた。学生と教授たちはこの記念大会の席上で、黒色・赤色・金色からなる三色旗を掲げながら、自由ドイツ、統一ドイツの実現を強く訴えた。学生たちは中世の古衣装を身に着け、剣を捧げて練り歩いた。

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ヴァルトブルク祭の焚書事件

 祝祭を終えた夜、一部の学生はプロイセン軍の兵士服、オーストリア軍の指揮棒などとともに警察の法令集やナポレオン法典などの書物(の名を書いた紙束)を火に投じ焚書の儀式を行った。

 この学生組合の行動に驚愕したメッテルニヒは「ジャコバン主義」として禁圧を命じた。そんな中に起こった学生による劇作家コツェブー暗殺は、メッテルニヒに全面的弾圧の口実を与えた。メッテルニヒは1819年、カールスバートに連邦の主要国の大臣会議を招集し、いっさいの学生団体は禁止、大学への監督官の常駐、出版物の検閲、などの言論統制と大学への監視強化を要請した。これはカールスバートの決議と言われ、9月20日にドイツ連邦議会で採択された。これによって、ドイツのブルシェンシャフト運動は厳しく弾圧されることとなり、衰退を余儀なくされた。

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逮捕されたカルボナリ

 メッテルニヒがカールスバート決議を成立させたのは、ドイツだけでなく、全ヨーロッパでウィーン反動体制に対する自由主義、ナショナリズムの運動が高揚しつつあったことへの対応であった。このあと、1820年にイタリアではカルボナリ(炭焼党)は北イタリアをオーストリア支配から解放し、イタリアの統一を求めて蜂起した。オーストリアは武力でその反乱を鎮圧した。

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デカブリストの反乱

 同年、ブルボン王朝支配下のスペインではスペイン立憲革命が起こった。1825年には保守反動勢力の中心勢力とみなされヨーロッパの憲兵と言われていたロシアでデカブリストの反乱が起こった。オーストリアは領内のポーランド人やハンガリー人の独立運動も抱えており、自由主義・ナショナリズムの高揚には神経をとがらさざるを得なかった。事実、1830年にフランスで七月革命が起きるとその影響が広がり、ポーランドの反乱、ドイツの反乱、イタリアの反乱が相次いで起きている。

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1848年革命の波及

 メッテルニヒの権力はさらに1840年代まで続いたが、ついに1848年革命がヨーロッパ各地で勃発、フランスの二月革命がウィーンにも飛び火し、ウィーン三月革命が勃発した。その打倒すべき最大の標的とされたメッテルニヒは、かろうじて「洗濯物を積んだ荷車に身を潜めて」ウィーンを脱出し、イギリスに亡命した。

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晩年のメッテルニヒ

 ロンドンに亡命したメッテルニヒは、革命情勢が収まるまで待ち、1851年にウィーンに戻った。それ以後、1859年まで生き延び、引退しながらも86歳で亡くなるまで黒幕として活動を続けた。

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【 2020/10/27 05:10 】

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世界史のミラクルワールドーナポレオンが愛した3人の女性・ナポレオン⑥

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ジョゼフィーヌ

 1795年、ナポレオンは自身の指導者であり総裁政府のリーダー格であったバラスが主催するパーティで、ジョゼフィーヌと出会い恋に陥ってしまう。この時、ナポレオンは26歳、ジョゼフィーヌは32歳であった。ナポレオンの熱烈なプロポーズを受けて、翌年2人は結婚したが、ナポレオンは初婚、ジョゼフィーヌは再婚で、2人の子連れであった。

 ジョゼフィーヌは1763年にフランス領西インド諸島マルティニーク島に3人姉妹の長女として生まれた。生家は貴族といっても名ばかりで、その上父親はギャンブル中毒で家は貧しかった。

 16歳の時にボアルネ子爵と結婚し、1男1女をもうけたが、当初から夫婦仲は悪く、4年後に離婚してしまう。後にボアネル子爵は、フランス革命さなかの1794年に反逆罪でギロチンで処刑されてしまうが、ジョゼフィーヌは幸運にも刑を免れている。

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バラス

 その後、ジョゼフィーヌは生活のためにバラスの愛人となり、社交界の花形となって、「陽気な未亡人」と呼ばれた。しかし、バラスはジョゼフィーヌに飽きてしまっており、ナポレオンに押しつけたとも言われる。結婚はしたものの、ジョゼフィーヌはナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。そうしたこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。

 ナポレオンはエジプト遠征中にジョゼフィーヌと美男の騎兵大尉イッポリト=シャルルとの浮気を知り、その事を嘆く手紙をフランスに送ったが、手紙を載せたフランス艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載されてしまう。大恥をかいたナポレオンは離婚を決意し、妻が戻る前に家から荷物を叩き出してしまった。

 しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まった。この頃
から徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていった。

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オルタンス

 なお、ジョゼフィーヌの娘オルタンスは、ナポレオンの弟ルイと結婚してオランダ王妃となり、後に皇帝ナポレオン3世となるルイ=ナポレオンら3人の男子を生んだ。1810年にオルタンスはルイ=ボナパルトと離婚し、三男のルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。

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「皇帝ナポレオンと1世とジョゼフィーヌの戴冠」ダヴィド画

  1804年12月、ナポレオンが「フランス人の皇帝陛下」として即位すると、ジョゼフィーヌにも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられた。

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ポレオン1810年1月には嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁した。離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だったという。

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マルメゾン城のナポレオンの居室

 それ以後、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送ったが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァール女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許された。マルメゾン城のナポレオン居室は、皇帝が去ったままの状態でジョゼフィーヌの手によって保たれ、彼女はこの部屋のものを「聖遺物」と称したという。離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、ナポレオンの後妻マリ=ルイーザが嫉妬するほどだった。

 ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、彼が百日天下でパリに帰還するのを待たず、1814年5月29日に肺炎で急死した。50歳であった。この報せを聞いたナボレオンは数日間ふさぎこんでいたという。
 そのナポレオンが配流先のセントヘレナ島で死去した際の最期の言葉は「フランス、アルメ(軍隊)、テーテ(戦闘)、ジョゼフィーヌ…」であった。

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マリア=ヴァレフスカ

 1786年にポーランド貴族の家に生まれたマリアは、16歳の時に名門貴族であるヴァレフスカ伯爵から求婚された。夫は46歳も年上の62歳。父親の借金の肩代わりのための結婚であったが、マリアは家を救うために、これを承知した。

 不幸な結婚をしたマリアだったが、やがて転機が訪れる。1806年、ナポレオンはプロイセンに続き、ロシアを撃破するためにポーランドに軍を進め、12月18日にワルシャワに入った。ナポレオンとフランス軍は、ポーランドの救い主として熱狂的な歓迎を受けた。1807年1月7日、フランス外相タレーラン主催の舞踏会にマリア=ヴァレフスカは夫と共に出席し、ナポレオンと出会った。美しい伯爵夫人にナポレオンは一目ぼれしたナポレオンは早速、花束や手紙を贈らせて彼女に求愛したが、信仰心が強く貞淑な彼女はこれをことごとく無視した。

 
しかし、ナポレオンにポーランド復興の期待をかけた人々がヴァレフスキ伯爵の邸を訪れ、ポーランドのためにナポレオンの求愛に応えてくれるようマリアに頼んだ。夫のヴァレフスキ伯爵も承諾し、マリアはナポレオンの愛人になった。ナポレオンは40歳、マリアは21歳であった。マリアがナポレオンの愛人になったことが、ワルシャワ大公国の成立に繋がったと言われる。

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アレクサンドル=ヴァレフスキ

 自ら愛人になることを望んだわけではなかったが、次第にマリアはナポレオンを本当に愛するようになっていった。彼女はおだやかで慎ましく、欲がなく純真な性格で、ナポレオンもそれまでの愛人たちとは違う彼女を深く愛するようになり、彼女を「ポーランドの妻」と呼んだ。

 1809年、9月にマリアから妊娠を告げられたナポレオンは自らの生殖能力に自信を抱き、ヨーロッパ君主の皇女たちと縁組することを考え始めた。マリアはナポレオンがジョゼフィーヌと12月に離婚した後、オーストリア皇女マリー=ルイーズと結婚するつもりでいることを知った。マリアは彼の計画の邪魔になってはとポーランドに帰った。ナポレオンは自分の野心のためにマリアを捨てたのであった。

 マリアは1810年5月4日、息子アレクサンドルを出産した。この子供はヴァレフスキ伯爵の子供として認知されることになった。後に、アレクサンドルはフランス市民権を得て、ナポレオン3世下で外相を務めている。

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神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)

 マリア=ルドヴィカは1791年にフランツ2世の長女として生まれた。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度にわたって追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた。彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。

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マリ=ルイーズ

 ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌには長らく子が誕生しなかったが、ナポレオンのポーランド滞在中にマリア=ヴァレフスカを懐妊させたことを契機に、名家との婚姻を熱望するようになる。

 当初ロシア皇帝アレクサンドル1世の妹のアンナ=パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。そこで、名門ハプスブルク家の皇女マリア=ルドヴィカ(フランス語でマリ=ルイーズ)に白羽の矢が立った。この決定はオーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。ナポレオンと結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたという。

 
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ナポレオンとマリの結婚式 

 1810年4月1日、マリ=ルイーズはルーヴル宮殿の礼拝堂で皇帝ナポレオンと結婚式を挙げ、皇后となった。ナポレオンは40歳、マリは18歳。マリは大叔母マリ=アントワネットを処刑した国の皇后となったわけである。

 しかし、ナポレオンと共に日々を過ごすようになってみると、自分に対してとても優しかったため、マリ=ルイーズは心を許し、ナポレオンを愛するようになっていった。ナポレオンは彼女をけっして失いたくないと、彼女の機嫌を損ねないように必死だったのである。

 彼女は後に友人に宛てて「ウィーンでは私が不安の中で暮らしていると思っていることでしょう。でも、事実は違うのです。私は少しもナポレオンを怖いとは思っていません。むしろ、ナポレオンが私を怖がっているのではないかと最近思い始めました」という手紙まで書いている。

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ナポレオン2世の誕生

 1811年3月20日、マリ=ルイーズは男子を出産した。ナポレオン2世である。この時、大変な難産で母子のどちらかしか助けられないかもしれないと医師から聞かされたナポレオンは、ためらわず「母を救え!」と言ったという。

 
パリでは皇太子誕生を祝って101発の祝砲が鳴り響いたが、それは「ナポレオンの夢の完成を告げると同時に、転落の始まりを表す砲声だった。」ナポレオン2世は生まれてすぐの6月9日にローマ王とされた。ナポレオンはこの息子の誕生を大喜びし、とても可愛がった。

 
マリ=ルイーズはナポレオン失脚後はオーストリアに帰り、イタリアに領地を得て、廷臣のナイベルク伯爵と再婚した。

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ナポレオン2世

 母とともにオーストリアにナポレオン2世(本名はフランソワ)は、ナポレオンの残党による誘拐を恐れたメッテルニヒにより、ほとんど監禁同然の身となった。母親は再婚し、孤独な少年時代を送っている。

 1821年5月5日、幼い時に別れたまま一度も再会することがなかった父ナポレオン1世がセントヘレナ島で死去した。父の死を知ったフランツは、椅子に身を投げ出し泣いたという。
 
 1832年7月22日、フランソワは21歳という若さでこの世を去った。(おわり)

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【 2020/10/23 05:17 】

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世界史のミラクルワールドー日は沈む、大西洋の彼方に・ナポレオン⑤

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ルイ18世

 エルバ島に流刑になったナポレオンではあったが、まだ終わりではなかった。ヨーロッパの秩序再建を討議するウィーン会議は、いっこうに進む気配がなかった。フランス国内では、亡命貴族と帰国したルイ18世の王政復古に不満と不安が生じていた。革命の成果が帳消しにされるのではないか。またぞろ、窮屈な身分制度が復活するのではないか。兵士たちには解雇後の心配もあった。ナポレオンは、地中海の生まれ故郷コルシカ島に近いエルバ島にいても、ヨーロッパの情報を的確につかんでいた。

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エルバ島よりの帰還

 1815年2月26日、1000名たらずの手勢を率いたナポレオンは7隻の船で島を脱出、3月1日にカンヌ近くに上陸した。その後20日間でパリまで駆け上がったナポレオンたちの足取りは、まさに「天かける鷲」のごとくであった。王党派の襲撃を警戒してローヌ川沿いを避け、グルノーブルを通る迂回ルートが選ばれたが、道々、農民や労働者までもが、ナポレオンを歓迎した。兵士たちは「皇帝万歳」を歓呼して、彼の復帰を迎えた。

 その間の彼の動静を伝える新聞報道の変化を見出しで拾ってみると面白い。

「怪物、流刑地を脱出」→「コルシカの狼、カンヌに上陸」→「猛虎ガップに現れ、討伐軍派遣さる」→「専制皇帝リヨンに入る。恐怖のため市民の抵抗はマヒ」→「僭主、パリより50マイルの地点に迫る」→「ボナパルト、北方へ進撃中。進撃の速度増すも、パリ入城は不可能か」→「ナポレオン、明朝を期してパリへ」→「皇帝、フォンテーヌブローへ入らせられる」

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元帥ネー

 ナポレオンのフランス上陸がパリに伝わったのは、3月5日。軍はもはや復古王政のもとにある、と信じていた国王たちには動揺はなかった。ところが、軍の内部には不服従が広まって、司令官アルトワ伯の手にはおえなくなる。かつてナポレオンとともに転戦した歴戦の勇士、元帥ネーは、フランス中部のオーセールにナポレオンを迎え撃つはがず出迎え、ナポレオンの軍勢がふくらむ。19日夜半、国王はひそかにテュイルリー宮を出て、ベルギーのガンへ向かって再び亡命の旅路についた。

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テュイルリー宮のナポレオン

 3月20日夜9時、「皇帝万歳」の歓呼のなか、ナポレオンがテュイルリーに戻り、三色旗がひるがえった。誰もがわが目を疑った。このナポレオンの復帰は、ブルボン朝復活に不安をいだく農民、労働者、そして軍の力によるものであった。それをナポレオンも無視できない。前年ルイ18世が制定させた憲章に自由主義的改編を施し、いわゆる自由帝政といわれる新憲法を発布し、得意の国民投票で承認をうける。だが、投票率の低さは、みかけほど彼が歓迎されていないことを如実に示した。

 ブルジョワ名士層も、戦争の危険をもたらす男に、いまでは冷ややかな目しか向けていない。ナポレオンには、もはや切り札はなかった。ウィーン会議に集まっていた諸国は、ナポレオンのエルバ島脱出を知ると、今度こそは決定的にたたくことを取り決めた。妥協を模索したナポレオンの動きは無視された。2年遅すぎた。

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ワーテルローの戦い

 覚悟したナポレオンは、最後の賭けに出る。全ヨーロッパを敵にまわしての戦いだ。運命の決戦は、6月18日、ワーテルローで行われた。12万500の軍勢を率いてベルギーに攻め込んだナポレオンは、オーストリアとロシアの援軍が来ない前に、ウェリントン率いるイギリス軍9万と、ブリュッヒャー率いるプロイセン軍12万を別個にたたこうとして、ますイギリス軍にねらいを定めた。しかし、イギリス軍はよく持ちこたえた。

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ウェリントン

 ナポレオンは味方のグルーシー将軍率いる援軍を待った。しかし姿を見せたのは、プロイセン軍であった。戦線の混乱と壊滅、ナポレオンはかろうじて脱出し、6月21日、パリに帰還した。

 もう戦争を避けたい議会は、抗戦を主張するナポレオンを退け、退位をせまる。街頭に出たパリの民衆は「皇帝万歳」を叫び、ナポレオン支持を表明していた。しかしナポレオンは、最後まで、民衆のうえにたってのみ行動することを嫌った。「一揆の王になることは、余の望むところにあらず」。

 すべては終わりだった。翌22日、ナポレオンは退位に同意する。豹変する無節操な策士フーシェとタレーランが暗躍して、またも王政復古となる。ナポレオンの復帰は「百日天下」に終わった。

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セントヘレナに向かうナポレオン

 まだ軍の一部によって抵抗を続けようとしたナポレオンは、今度は遠くアフリカの沖合の孤島セントヘレナ島に文字通り流刑となった。ナポレオンはごく少数の従者とともに、島内中央のロングウッド・ハウスで生活した。高温多湿な気候と劣悪な環境はナポレオンを大いに苦しませたばかりか、その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、常時行動を監視され、さらに乗馬での散歩も制限されるなど、実質的な監禁生活であった。

 ナポレオンは特に島の総督ハドソン=ローの無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振る舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。


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ナポレオンの死

 そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し、スペイン立憲革命やギリシャ独立戦争で欧州全体が動揺する中、1821年5月5日に52歳で死去した。彼の遺体は遺言により解剖されて胃に潰瘍と癌が見つかり、死因としては公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘された。

 ナポレオンの最期の言葉は、「フランス!…アルメ!(軍隊)…テーテ(戦闘)…ジョゼフィーヌ!」であった。

ナポレオンの棺 
ナポレオンの棺

 その遺体がフランスに返還されたのは、第二共和政下の1840年であった。パリ民衆の歓呼に迎えられた彼の遺体は、16頭立ての馬車に乗せられ凱旋門をくぐってパリに入った。

 「余の遺骸はセーヌ川の辺に埋めよ」の遺言にもとづき、現在はパリのオテル=デ=ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。(つづく)

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【 2020/10/20 05:14 】

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世界史のミラクルワールドー帝国の崩壊・ナポレオン④

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ジョゼフ=ボナパルト

 ナポレオンの没落は実はスペインから始まっている。スペインは、1796年以フランスの同盟国だったが、その王位継承にからむ内紛に乗じたナポレオンは1808年、王位を奪い取り、兄のジョゼフをスペイン国王に任命した。昔日のおもかげもなく衰退したスペインなどひとひねり、そう考えたに違いない。実際、王族たちをたぶらかすのは簡単だった。ところが抵抗は思わぬところからやってきた。市民や農民たちが、各地で激しく抵抗したのである。

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抵抗するマドリード市民

 特に農民たちを中心にしたゲリラ戦は、戦力集中型の電撃戦を得意とするフランス軍を困惑させた。「ゲリラ」とはスペイン語で「民衆」の意味である。スペインの農民たちは、ナショナリズムに燃えて蜂起したわけではない。むしろ「よそ者」どもが入り込んでくることへの自己防衛的反応であった。ところが、自由主義的考え方を持ち込んでくるフランス軍に対して反発していたスペインの封建貴族たちが、農民の抵抗を利用するかたちで、ゲリラ戦は広まっていった。

 1808年夏、アンダルシアでフランス軍が敗北した。11月、16万の大軍を率いたナポレオンは、みずからスペインに侵攻し、自由主義的な改革などの施行を宣言した。だが、ゲリラ戦は止むことがなかった。フランス軍内部でも、士気に乱れが生じた。しかもナポレオンは1809年1月、ドイツやオーストリアの情勢の変化を受けて、パリへ戻らざるをえなかった。スペイン情勢は泥沼化した。

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「1808年5月3日」ゴヤ画

 上の絵は、スペイン最大の画家と言われるゴヤの描いた「1808年5月3日」という作品である。1808年5月2日夜間から翌5月3日未明にかけてマドリード市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍銃殺執行隊によって400人以上の逮捕された反乱者が銃殺刑に処された場面を描いている。

 背後の暗闇に王宮が浮び上がる中で、明るく照らされた一人の男に処刑隊の銃弾が向けられた瞬間が描かれている。両手を大きく広げた白い服の男性の右手には聖痕が描かれているが、これは磔刑となったイエスと同じように民衆側が正義をつらぬく殉教者であることを示している。処刑を命じられたフランス兵は、誰一人として市民を直視することができず、全員が目を伏せている。

 スペインでの挫折は、むなしく多大な戦費をフランス国庫に赤字として残した。イギリスは、イベリア半島の港を通じて交易の糸口を回復し、ナポレオンの25万の大軍が半島に釘づけになっているすきに大陸では、密貿易が容易になされた。のちにセントヘレナ島でナポレオンは、「この不幸なスペイン戦争は、ほんとうに痛手であった。フランスの不幸の第一の原因だ」と述懐するが、すでに遅い。

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ナポレオン軍

 スペインでの混乱に乗じて反攻に出たオーストリア軍を、ナポレオンはなんとか制圧した。正規軍どうしの戦闘では、依然ナポレオン軍は強かった。一方で、ロシアの対外政策は、あちこちでナポレオンのそれとぶつかっていた。ナポレオンがバルト海の都市を制圧することは、ロシアの喉元に銃口がむけられたようなものだ。ナポレオンはイスタンブルへの侵攻も念頭にあるらしい。地中海への出口を制圧されることは、ロシアにとって認めがたい。周辺への布石を打ったナポレオンの野望のなかで、ロシア侵攻作戦がふくらむ。それは、大陸体制の完成をめざした行動であった。

 きっかけを与えたのは、1811年の経済危機であった。この危機は、大陸封鎖が完全に実行されていないからだ。そうみなしたナポレオンは、イギリスへの穀物輸出をやめようとしないロシアに、制裁の実力行動をかけようと作戦を練った。

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ボロディノの戦い

 1812年6月、予定通りナポレオン指揮下の主力軍が、バルト海方面からニエーメン川、ロシア語でいうネマン川を渡河してロシアへの侵攻を開始した。予想に反し、ロシア軍は直接の戦闘を避け、ひたすら退却した。追うナポレオン軍。ロシア軍の手で焼き払われたスモレンスクの町まで侵攻したのは、8月半ばであった。

 ロシア軍によって焼き払われた大地を進むナポレオン軍のなかに、赤痢が広まり、糧食の補給は困難をきわめた。ナポレオンが集めた67万5000の軍勢のうち、フランス兵は約30万にすぎない。あとは、オーストリア、プロイセンをはじめとした同盟国や従属国からの寄せ集めで、士気は上がらない。脱走兵も出る。すでに15万の兵力が、戦闘のないまま手元から落ちていた。

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クトゥゾフ

 なおも行軍を続けるナポレオン軍は、9月7日、モスクワてまえのボロディノで、はじめて将軍クトゥゾフの率いるロシア軍と会戦した。激戦で3万の兵士を失いながらも、ナポレオン軍は突破に成功した。

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炎上するモスクワ

 9月14日、ついにモスクワに入城。だが兵士たちの疲弊はひどく、しかも、ほとんどの市民が脱出してもぬけの殻となった町には、火が放たれていた。町の4分の3は焦土と化した。

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モスクワから退却するナポレオン

 モスクワとパリでは、連絡に15日を要した。本国からあまりにも遠く来すぎたナポレオンは、冬将軍の到来を前にして、モスクワ越冬の道はとらず、退却を指令した。10月19日、大軍の撤退が始まった。往路とは別のルートをとれば、糧食の確保も可能だったかも知れない。

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退却するナポレオン軍

 しかし、ロシア軍の攻撃で、結局は同じ道をひたすら退却するのみとなる。ひどい寒さが襲った。敵軍と農民ゲリラの奇襲におびえながら雪原を後退する軍には、もはや士気もなにもあったものではなかった。

 退却途上のナポレオンに、パリでのクーデタ未遂の報が届く。遠征失敗が伝われば、さらに混乱の危険は高い。ナポレオンが軍勢をおいて、パリへと急いだ。残された軍はばらばらになりながら、やっと12月半ば、ニエーメン川を渡ってロシアを脱出した。死者、捕虜、脱走をあわせ、じつに38万の兵力損失が見積もられている。

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ライプチヒの戦い

 ロシアの雪原からパリへ向かう途上、ナポレオンは同行した腹心にこう語っている。「われわれの壊滅は、とんでもない反響を引き起こすだろう。しかし、わたしが戻れば、まずいことにならずにすむさ」

 ナポレオンは過信していた。帝国崩壊の危機を理解しようとしない。ロシア、プロイセンの軍勢からの攻撃を、1813年5月に破った時も、ナポレオンは妥協に応じようとしなかった。オーストリア、プロイセン、ロシアの同盟が復活し、スウェーデン、シレジア、ボヘミアなどの軍勢も加わった。8月、戦闘は再開された。

 10月16日から19日にかけて、ナポレオン軍16万はライプチヒで、同盟軍32万の大軍と戦火をまじえた。ナポレオン側についたザクセン、ヴィッテンベルクなどの軍勢が離脱し、ナポレオン軍は敗走を余儀なくされた。ライプチヒでの敗戦の報は、それまでフランスの支配下におかれてきたところでいっせいに反旗を翻させた。オランダ、イタリアは、あいついでフランスの手から離れた。なぽれおんは、イギリス軍の攻勢が強まるなか、ついにイベリア半島からの撤退も決意さざるをえなかった。

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 タレーラン

 1813年末にライン川を越えた同盟軍は、年がかわると一気にフランス領内に攻め込んだ。15万の同盟軍に立ち向かうナポレオン軍は、もはや8万ほどでしかない。装備も糧食も不十分にか残されていない。1814年3月末、ついに同盟軍は、ロシア皇帝とプロイセン王を先頭に、パリに入城した。

 パリが陥落した時、ナポレオンは軍勢とともに、パリ南郊のフォンテーヌブロー宮にいた。彼はまだあきらめてはいなかった。「パリへ」という声も、兵士の間からはあがっていた。しかし、変わり身の早い政治家たちは、すでにナポレオンを切り捨てに入っていた。その筆頭は策謀の士、タレーランである。


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退位後のナポレオン

 4月2日、元老院は皇帝の廃位を宣言し、6日にはルイ18世の即位を決定する。王政復古だ。ナポレオンは、地中海のエルバ島の支配権と戦費の支給を同盟国から承認されるという条件で、みずからの皇帝退位を認めざるをえなかった。事実上の流刑である。

 4月20日、フォンテーヌブローを出発するナポレオンは、すすり泣く兵士たちに最後の言葉を告げた。

 「20年来、諸君は私とともに名誉と栄光の道をともにしてきた。さらば、わが子らよ。できることなら、諸君をみな胸に抱きしめたい。せめてものしるしに、諸君の軍旗を抱くことを許されたい」(つづく)

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【 2020/10/16 05:17 】

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世界史のミラクルワールドー大陸を制覇せよ!・ナポレオン③

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ナポレオン1世

 革命フランスが、旧体制のヨーロッパ諸国を制圧して文明的な変革を与える、というイメージは、ジャコバン支配の時代にも革命家がいだくものであったが、ナポレオンもそれを受けついでいる。少なくとも大義名分としては十分であった。しかし、諸国のほうが、はいそうですかと従うわけはない。

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トラファルガー海戦

 1805年秋、ナポレオンはイギリス本土を直接たたく準備にかかった。1803年5月にイギリスがアミアンの和約を破棄した結果、両国は戦争状態にもどり、1805年の8月には第3回対仏大同盟が、イギリス、オーストリア、ロシアの間で結ばれていたのである。

 1805年10月21日、フランスとスペインの連合艦隊はネルソン提督ひきいるイギリス艦隊と、スペインのトラファルガー沖合で激突した、連合艦隊は「ビューサントル号」を旗艦とする33隻、これに対してイギリス艦隊は「ヴィクトリー号」を旗艦とする27隻。激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、制海権をとられてしまった。ナポレオンはイギリス本土侵攻作戦を放棄せざるをえないことになる。

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ネルソン

 この海戦で、ネルソンが戦闘に先立ち、麾下の艦隊に送った「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」は今日でも名文句として知られる。 海戦史上まれにみる大勝利をおさめたネルソン提督であったが、フランス艦ルドゥタブル号の狙撃兵の銃弾に倒れた。ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して絶息したと言われている。

 ネルソンの遺骸は腐敗を防ぐために、乳香と樟脳を入れた当時最高級のコニャックの樽に入れられ、ヴィクトリー号が曳航された先のジブラルタルにてワインを蒸留したスピリッツで満たされた棺に入れ替えられ、大事に鉛で密封されて本国まで運ばれた.。

  死後、遺体保存のため、ラム酒の樽に漬けられたが、偉大なネルソンにあやかろうとした水兵たちが盗み飲みしてしまい、帰国の際に空っぽになっていたという。このためラム酒が「ネルソンの血」と呼ばれるようになったという有名な逸話があるが、どうも史実と異なるようだ。

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トラファルガー広場の中央に建つネルソン記念柱

 宮中で報告を心待ちにしていた国王および貴族は、空前の大勝利とネルソンの死を聞きつけ、また、その死にざまに衝撃を受けた。翌年、君主以外では初となる国葬としてセント=ポール大聖堂に葬られた。

 この戦勝を記念して造られたのがロンドンのトラファルガー広場で、中央には高さ5.5mのネルソン記念柱が建っている。

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アウステルリッツの戦い

 ナポレオンはトラファルガー海戦の敗北の後、戦闘の焦点を大陸に集中した。ミュンヘン、ウィーンへと攻め込んだナポレオン軍は、1605年12月2日、奇しくもナポレオンの戴冠1周年の日に、アウステルリッツでオーストリアとロシアの両皇帝軍と会戦してこれを撃破した。

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フランツ1世

 オーストリア皇帝はフランツ1世。神聖ローマ皇帝としてはフランツ2世であるが、1804年からオーストリア皇帝フランツ1世も名乗っていた。

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アレクサンドル1世

 ロシア皇帝はアレクサンドル1世。アウステルリッツでは敗北したが、1812年にナポレオン軍を撃退し、これがナポレオン没落の始まりとなる。

 3人の皇帝が一つの戦場に会したことから、アウステルリッツの戦いは三帝会戦とも呼ばれる。この戦いの結果、オーストリアは和平を余儀なくされ、ロシアも翌年6月には和平を結んだ。

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エトワール凱旋門

 ちなみにパリのエトワール凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものだが、完成はナポレオン死後の1836年のことである。

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ナポレオンのベルリン入城

 アウステルリッツの戦いにより第3回対仏大同盟は崩壊したが、すぐに第4回の同盟が成立する。今度はオーストリアにかわりプロイセンが参戦してきた。フランスの従属下に、西南ドイツに結成されたライン同盟に、危機を感じたからである。

 はじめ攻勢に出たのはプロイセンであったが、1806年10月ナポレオン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに大勝してベルリンを占領し、さらにポーランドに侵攻してワルシャワを制圧した。ポーランドの人たちは、国家再建のきっかけにしようと、ナポレオン軍の侵攻をむしろ歓迎した。翌1807年、雪解けとともに攻勢を再開したナポレオン軍は、6月には東プロイセンでロシア軍と戦火をまじえ、これを破る。破竹の勢いだった。

 7月、ロシア国境に近いプロイセン東部のティルジットで講和条約が結ばれた。ロシアはナポレオンの大陸政策を承認せざるをえず、プロイセンは、賠償金の支払いのほかに、エルベ川以西の土地をフランス軍占領下に置くことに同意さざるをえなかった。

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 ナポレオンによる支配は、1812年にはまさにヨーロッパを席巻したかたちになった。彼が率いるフランス帝国は、オランダ、北西イタリアなどを併合して130県にふくれあがったばかりでなく、西ドイツ、イタリア、スペインには傀儡的な従属国家をおき、プロイセン、オーストリアを同盟国とした。完全な独立状態を維持していたのは、北ヨーロッパを除けば、ロシアとオスマン=トルコの両帝国、そしてイギリスのみであった。だが、この大帝国はもろい、みせかけだけのものだった。

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【 2020/10/13 05:15 】

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世界史のミラクルワールドー皇帝ナポレオンの誕生・ナポレオン②

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「アルプスを越えるナポレオン」ダヴィド画

 統領政府の第一統領となり政権の座に就いたナポレオンであるが、内外に問題は山積していた。まずは第2回対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。

 まず、イタリアの再獲得を目指した。当時のイタリアへの進入路は主なものが4つあったが、これらはすでに以前の戦役での侵攻作戦で使用していたため、3万7000の兵を率いるナポレオンはアルプス山脈をサン=ベルナール峠越えで北イタリアに入る奇襲策をとった。

 ナポレオンは皇帝になる前から、自らの「英雄」的資質を人々に印象づけるための肖像画を制作させていた。上の「サン=ベルナール峠を越えるナポレオン」は ダヴィドの描いた数あるナポレオンの肖像画の中で、英雄としてのナポレオンの視覚的イメージが最も強く表現された作品である。足元の岩には、ボナパルト、ハンニバル、カール大帝の名が刻まれており、ナポレオンが、古代カルタゴの名将ハンニバル、中世フランス王国のカール大帝に続く、近代のアルプス越えの英雄であることが示されている。

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 「アルプスを越えるボナパルト」ポール=ドラローシュ画

 ポール=ドラローシュの作品「アルプスを越えるボナパルト」では、防寒服に身をつつみ、寒さに耐えつつラバで峠を越えるナポレオンが描かれている。恐らくこれが実際の姿であったのだろうが、さっそうと愛馬にまたがり、先頭に立って軍を指揮している姿にかえることで、ダヴィドは救国の英雄としてのナポレオンのイメージを国民に伝えた。

 ナポレオンは肖像画や記録を数多く残させ、それをプロパガンダの手段として有効に活用した。一介の軍人が短期間で皇帝に登りつめた背景には、こうしたメディア戦略もあった。

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セント=バーナード

 写真はアルプスの雪中遭難救助犬として知られるセント=バーナード。実はこの犬、17世紀中頃からサン=ベルナール峠にある修道院で飼われていたもので、20世紀初頭に至るまでに2500名もの遭難者を救助したそうだ。サン=ベルナールの英語読みがセント=バーナードだ。

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マレンゴの戦い

 サン=ベルナール峠を越えたナポレオン軍2万8000は、ジェノヴァを包囲していたオーストリア軍の背後に不意に姿を現し、1800年6月14日ジェノヴァの北にあるマレンゴで3万1000のオーストリア軍と激突した。ナポレオンが敵情を誤認し作戦指揮を誤ったため劣勢に陥ったが、ドゼー将軍の部隊が救援に駆け付け、フランス軍がからくも勝利した。フランス軍の辛勝であったが、ナポレオンは大勝利と喧伝し、その名を愛馬に与えた。

 12月には、ドイツ方面でもフランス軍がオーストリア軍に大勝し、翌年2月にオーストリアは和約に応じてライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第2回対仏大同盟は崩壊する。

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アミアンの和約の風刺画「10年ぶりのキス」ジェームズ=ギルレイ画

 第2回次対仏大同盟の崩壊により、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。

 これにより、1792年より続いた戦争状態に終止符が打たれ、10年ぶりに全般的平和がヨーロッパに回復し、ナポレオンの名声はいやが上にも上昇した。

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コンコルダートに署名する教皇ピウス7世

 イギリスとの和平交渉と同時に、国民公会時代にキリスト教が廃止されて以来、敵対関係にあったカトリック教会とも和解の模索が続いていた。1801年7月、ついに和解の協約、コンコルダート(宗教協約)が結ばれることになる。フランスにおけるカトリック教会の復権が承認され、かわりに革命政府が没収した教会領などは返還しないことを確認した。これにより、信仰と農地の保障を与えられた農民たちはナポレオンに絶対的な信頼を寄せることになる。

 統領制になったあと、護民院という立法議会に拠点をおいていた議員の抵抗も、院外に支持がない以上、ナポレオンには、ほとんど赤子の手をひねるようなものだった。1802年8月、国民投票によりナポレオンは終身統領となった。

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クリスマスイブのナポレオン暗殺未遂事件 

 ナポレオンが統領政府の第一統領となったときから彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月24日には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンガン公ルイ=アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになる。

 ちょうど経済も安定を取り戻し、失業も少なく、パンの価格も落ち着いていた。ナポレオンは、王党派の策謀が革命の成果を脅かしている、と巧みに情報を流す。

 「余の命を狙う多くの陰謀には、余はなんら恐れは感じない。だが、もし先般の陰謀が成功していたら、この偉大な民がおかれたであろう状況を考えると、余は深く耐え難い気持ちにとらわれざるをえないのだ」


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皇帝ナポレオン1世

 こうして、世襲皇帝のみが革命の成果を護る力を持っている、という彼の主張が受け入れられていった。「共和国政府は、フランス人の皇帝、という称号をとる皇帝に委ねられる」。この称号をとるのは、ナポレオン=ボナパルトである。この皇帝位は、皇帝の直径子孫によって世襲される。1804年5月18日、ついに「世襲皇帝ナポレオン」が誕生した。

 国民投票の結果は、賛成357万票余りに対して、反対票はわずか2567票。圧倒的多数で皇帝ナポレオンの誕生を歓迎した。旧王政を思わせる国王ではなしに、中世ヨーロッパの覇者シャルルマーニュ、つまりカール大帝を思わせる「皇帝」の称号があえてとられた。みずからのもとで革命フランスがヨーロッパを制圧する、というイメージが、ナポレオンにはあった。

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教皇ピウス7世

 カール大帝がローマ教皇レオ3世によって戴冠されたように、戴冠の儀式が構想された。ときの教皇ピウス7世は、教会に有利な状況がつくれるかも知れない、という期待をもって、ローマからはるばるパリに来ることに同意した。

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「皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 」ダヴィド画

 1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂をうめつくした政治家、外交官、市民たちの前で、教皇立ち会いのもと戴冠式が行われた。

 しかし、戴冠は教皇の手によってではなく、ナポレオン自身の手によってなされた。突然の思いつきではない。 この行動には、ヨーロッパに自由の革命精神を根づかせるに当たって、帝冠は血筋によってではなく努力によって戴冠される時代が来たことを示すという事と、政治の支配のもとに教会を置くという事との二つの思惑が絡んでいると考えられる。ついでナポレオンは、やはり自分の手でジョゼフィーヌの頭上に冠を置いた。有名なダヴィドの絵が、その場面を描いているように。

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 上記の絵の一部を拡大してみた。観覧席の左に座っている女性はマリア=レティツィア=ボナパルト。ナポレオンの母である。教皇よりも重要な位置に座り、式典を眺めているが、これは嘘。母マリアはナポレオンが皇帝になることには反対で、式典には出席していない。

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交響曲第3番の浄書総譜表紙

 上の浄書総譜はウィーン楽友協会が所蔵しているものだが、表紙に書かれた「ボナパルト」という題名とナポレオンへの献辞をペンでかき消した上に「シンフォニア・エロイカ」と改題され、「ある英雄の思い出のために」と書き加えられている。交響曲第3番「英雄(エロイカ)」の浄書総譜である。

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ベートーヴェン

 作曲したのは、いうまでもなくベートーヴェンである。 ベートーヴェンの交響曲第3番はナポレオンへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンは、「奴もまた俗物に過ぎなかったか。これから、人々の人権を踏みにじって自分の野心のためだけに奔走し、誰よりも自分が優れていると誇示する暴君になるのだろう」と言い、献辞が書いてある表紙を破り取ったという。弟子フェルディナント=リースの回想に基づく有名なエピソードが伝えられている。

 しかし実際は、浄書総譜には表紙を破り取った形跡はなく、書き直しただけであり、このエピソードが
事実であるかどうか疑いが持たれている。ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し献呈を取り止めたという説もある。(つづく)

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【 2020/10/09 05:20 】

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世界史のミラクルワールドーラパイヨネ(鼻先の藁)から若き英雄に・ナポレオン①

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ナポレオン=ボナパルト

 ナポレオンは1769年8月15日、コルシカ島のアジャクシオに生まれた。カルロ=ブナオパルテと妻レティツィア=ラモリノの間の12人の子供のうち第4子として生まれた。ブオナパルテ家の先祖は中部イタリアのトスカナ州に機嫌を持つ、古い血統貴族であった。それがジェノヴァ共和国の傭兵隊長としてコルシカ島に渡り16世紀頃に土着した。

 ナポレオンの出生時の洗礼名はナポリオーネ=ブオナパルテであったが、1794年頃よりフランス風のナポレオン=ボナパルトに改名している。ちなみに、ナポレオンは「荒野のライオン」の意味である。

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コルシカ島

 コルシカ、四国の半分ほどもない地中海のこの小島は、ヨーロッパの政治情勢の変化に従ってめまぐるしく支配者が変わった。ルソーが『社会契約論』(1762年)に、「いつかこの小島がヨーロッパを驚嘆させるであろう」という予言的な一節を書き加えた時、コルシカの住民はジェノヴァ共和国に対する勇敢な独立運動を戦っていた。だが、独立運動に手を焼いたジェノヴァの元老院は、1768年にこの島をフランスに売り渡し、パスカル=パオリを首領とするコルシカ独立運動は、1769年、ちょうどナポレオンが生まれた年にフランスの軍隊に決定的敗北をこうむって解体する。

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父カルロ=ブナオパルテ

 ナポレオンの父カルロ=ブナオパルテはパオリとともに戦った有力な仲間の一人で、パリオは少年時代のナポレオンの理想像であった。だが、独立運動の崩壊後、パオリがイギリスの援助を求めたの対し、カルロはフランス側に接近した。

 1778年、一家の期待をになったナポレオンは、兄ジョゼフとともに9歳でフランスに送られ、一人の異邦人として旧制度下の兵学校で学ぶことになる。ナポレオンははじめ修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、1779年に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校へ国費で入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。

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フランス砲兵隊

 1784年にパリの陸軍士官学校に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。大砲を用いた戦術は、のちの彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11か月で必要な全課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。

 幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作などを精読し、無口で友達の少ない小柄な少年であった。学校ではコルシカなまりを馬鹿にされ、ナポレオーネに近い音でラパイヨネとあだ名された。ラパイヨネは「鼻先にぶら下がった藁」、つまり「田舎者」という意味である。

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 パスカル=パオリ

 1789年、革命が勃発した時、ボナパルト中尉はフランスの職業軍人というよりは、外国人の傭兵として、冷ややかな目で事件を眺めている。ナポレオンにとっては、フランス革命よりもコルシカの独立の方が重要な関心事であった。

 しかしながら、ルソー、ヴォルテールなどを乱読し、18世紀啓蒙哲学の強い影響を受けていたナポレオンは、革命の進行とともに自己を革命の側に位置づけ、1791年にはジャコバン=クラブに加入した。こうしたナポレオンの政治的立場は、反革命の側のパオリとの決定的な対立をもたらし、パオリがボナパルト家に「永久の呪いと汚名」をきせたため、1793年6月ナポレオンの一家はフランスへの移住を余儀なくされた。

 
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ロベスピエールの逮捕

 1793年8月、イギリスの援軍を得た王党派がトゥーロンを占領。ナポレオンは国民公会軍の砲兵隊の指揮官に任命され、間断ない攻撃でイギリス軍を悩ませ、12月19日ついにトゥーロンに入城した。この包囲戦で認められてわずか24歳で准将に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭りあげられた。

 しかし、1794年7月27日(テルミドール9日)、山岳派を率いるロベスピエールがクーデタにより処刑されると、ナポレオンはロベスピエール派とみなされ、8月6日に陰謀と叛逆の嫌疑で逮捕された。9月14日に釈放されたが部隊には復帰しなかった。その後も、彼の強い野心と山岳派との関係を懸念されて、満足すべき司令官の地位に就くことができなかった。


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バラス

 ナポレオンがテルミドールのクーデタの際に問題視されたのは、トゥーロン解放の際の活躍でロベスピエールの弟オーギュスタンに注目されて、ロベスピエール派に近づいたからである。しかし、トゥーロンでナポレオンに注目したのは、オーギュスタンだけではなかった。

 その敵テルミドール右派として、総裁の一人となるバラスもまたその一人だった。これが1795年ヴァンデミエールの王党派蜂鎮圧へのナポレオン起用につながったのだから、人生なにがどう作用するかわkらないものである。
 

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ヴァンデミエールの反乱

 革命暦4年ヴァンデミエール(葡萄月)13日(1795年10月5日)、ナポレオンは防衛作戦を指揮し大砲を配備して、国民公会に反対して行進する反乱軍の隊列に砲撃を加えた。首都の市街地で一般市民にも被害が及ぶ可能性があったが、この大胆な戦法により鎮圧に成功した。危機から国民公会を救ったため、ナポレオンは中将に昇進したが、政敵からは嘲笑されて「ヴァンデミエール将軍」と呼ばれた。

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イタリア遠征

 1796年3月、総裁のバラスによりイタリア遠征軍司令官に任命されたナポレオンは、オーストリア軍に連戦連勝。総裁政府に断ることなくカンポ=フォルミの和約を結び、これにより第1回対仏大同盟は崩壊した。これにより5年間続いた戦争は収拾され、1797年12月パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。

 イタリア遠征から凱旋した、わずか29歳の青年将軍ナポレオンは、1798年春、タレーランの示唆に従ってエジプト遠征を総裁政府に提唱した。これは「インドへの道」を断ち切り、イギリス経済に打撃を加えるためであったが、総裁政府としては民衆に人気のあるナポレオンを敬遠する意味もあった。

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ピラミッドの戦い

 1798年6月10日、マルタ島に上陸、マルタ騎士団団長ホンペッシュは降伏。フランス共和国に島を30万フランの年金と引換に譲渡。ナポレオンは人権宣言の原則を実施するため、そしてイスラーム諸国の受けを良くするため、マグレブ地方の2000人の奴隷を解放した。

 7月1日、アレクサンドリアに上陸して占領し、ピラミッドの戦いでオスマン帝国の太守の支配下にあるマムルークを主体としたオスマン軍を破り、カイロに入城した。決戦の時、ナポレオンは「見よ、ピラミッドの上から4000年の歴史が諸君を見下ろしている」と演説した、と言われる。

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ロゼッタ=ストーン

 1799年7月15日、エジプト遠征軍の参謀ブーシャールが、アレクサンドリア近郊のラーシードという町で兵士に堡塁の造築作業をさせていた時、兵士たちが大きな黒い玄武岩に古い絵文字がきざまれているのを発見した。ラーシードの町をヨーロッパ人はロゼッタとよんでいたので、この石はロゼッタ=ストーン と言われるようになった。言うまでもなく、この石を手がかりにフランスのシャンポリオンがヒエログリフ解読に成功する。

 エジプト遠征軍は、13隻の戦艦、7隻のフリゲート艦とコルヴェット艦、37隻の軽装艦、27隻の輸送船に5万4000の人員、1200頭の馬、171門の砲の他に、175名の学術調査団を乗せいていた。調査団は、さまざまな分野に及ぶ第一級の人物で構成されていた。その分野は、天文学、幾何学、化学、物理学、機会、建築、地理、造船、動物、植物、医学、薬学、美術、音楽、文学、経済、印刷に及び、専門のオリエント学者も含まれていた。この中には、初めて本格的にスエズ地峡を調査し、後にスエズ運河建設の技術責任者になる技師ルペールもいた。ナポレオンは、スエズ地峡に運河を建設することを考えており、実際そのための調査もオスマン軍との戦闘の合間を縫って行われ、ナポレオン自身が古代エジプト時代の運河の跡を発見したと言われている。ロゼッタ=ストーンを発見したのは一兵士であるが、それがヒエログリフの解読につながったのは偶然ではなかったのだ。

 ロゼッタ=ストーンは初めカイロのエジプト研究所-ナポレオンの遠征を期に設立された研究所-に入れられたが、1801年9月、アレクサンドリアでフランス軍がイギリスに降伏したため、フランスが獲得したほかの古代エジプトの文化財ごとイギリスに引き渡され、ロンドンに送られ、現在では大英博物館の収蔵品となっている。だから、シャンポリオンの解読作業は 写本を使って行われた。


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アブキール湾の海戦

 カイロに入城したナポレオンであったが、その直後の1798年8月2日、アブキール湾でネルソンの率いるイギリス海軍によって壊滅的打撃を受け、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。

 アブキール湾の海戦はナポレオンが不敗でないことをヨーロッパに示し、これを機に第2回対仏大同盟が結成され、フランス本国は危機に陥った。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。シリアのアッコンの砦での敗北もあり、これを知ったナポレオンは、自軍を次将のクレーベルに託し、エジプトに残したまま側近のみを連れ単身フランス本土へ舞い戻った。 将軍としてあるまじき行動である。

 エジプトに残されたフランス軍5万4000は炎天と疫病に苦しみ、1801年9月、アレクサンドリアでイギリスに降伏した。

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ブリュメール18日のクーデタ

 ナポレオンはイギリス軍の拿捕を逃れて、10月9日にフレジュスに上陸し、14日パリに到着した。フランス民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。

 ナポレオンと結託してクーデタの計画を練ったのが、新総裁の一人シエイエスであった。『第三身分とは何か』を革命の直前に出して、革命の陰の指導者であったシエイエスは、最後に革命の終焉を計画実行する。王政復古を防ぐには軍事独裁しかないとの確信からであった。

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第一統領ナポレオン

 クーデタはブリュメール(霜月)の18~19日(1799年11月9~10日)に実行された。総裁たちは辞任を迫られ、立法院議員は解散させられ、統領政府が新しく樹立された。ナポレオンと辞任した二人の元総裁シエイエスとロジェ=デュコの3人が統領となった。ナポレオンは第一統領となり、事実上フランスの支配者となった。

 もしこのクーデタが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪および国家反逆罪により処刑される可能性もあったのである。(つづく)

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【 2020/10/06 05:11 】

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世界史のミラクルワールドー清廉の士・ロベスピエール

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ロベスピエール

 ロベスピエールは1758年5月6日、弁護士の長男として、フランス北部のアルトア州アラスに生まれた。早くに母を亡くし、その後父が失踪するなど家庭環境が動揺するが、母方の祖父母に育てられた。リセ=ルイ=ル=グランの奨学金を得て1780年に大学に進んだが、天才的な頭脳を持つ学生で、翌年にはすでに法学修士号を得、アラスに帰って弁護士となった。

 1788年6月に全国三部会招集が布告されると、選挙制度改革を求めた「アルトア州民に訴える」と題する文章を発表し、1789年5月、第三身分の代議員として全国三部会に選出された

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球戯場の誓い

 1789年5月5日、三部会が開催されたが、議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立した。6月20日、第三身分の議員たちは自分たちが真の国民を代表する国民議会であると宣言し、ヴェルサイユ宮殿の室内球戯場で「憲法制定までは解散しない」ことを誓ったが、ロベスピエールもこれに参加している(前列右から5人目の黄色い服の男)。

 憲法制定国民議会ではジャコバン派に属して演説能力を高め、リベラル政治家として活躍をみせた。


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ルソー

 1789年8月26日、人権宣言が発せられると、ルソーを崇拝するロベスピエールはこれを歓迎した。また、1791年5月には新しく設けられる立法議会への現職議員の再選禁止を提案し、可決に持ち込んだ。同年6月のヴァレンヌ逃亡事件後、ロベスピエールは国王裁判を要求したが失敗した。

 1791年9月30日、91年憲法の成立により憲法制定議会が解散された。これは、フイヤン派にとっては革命の終了を意味したが、彼はこの席で「私は革命終われりと信じるものではない」と演説している。その直後、パリ民衆は彼に「清廉の士」という渾名をつけて、熱狂的な歓迎ぶりを示した。

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屋内馬術練習場に置かれた立法議会

 1791年10月1日、立法議会が成立したが、ロベスピエールの提案で現職議員の再選が禁止されたので、745名の議員はほぼ全員が新人議員という経験に乏しい議会となった。これが混乱の大きな原因となり、立法議会は1年も続かずに短命に終わってしまう。

 立法議会の成立によりロベスピエールは一時下野したが、八月十日事件以後は山岳派(いわゆるジャコバン派)を指導して政局を掌握し、1792年9月5日、国民公会選挙でパリ市内の選挙区から立候補してトップ当選を果たした。

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国王裁判

 1792年9月20日に国民公会が招集されると、山岳派を率いるロベスピエールは多数派のジロンド派により「独裁をめざす党派の首領」として告発され、12月に始まった国王裁判は両者の戦いを激化させた。この裁判中、ロベスピエールは、「祖国が生きるためには、ルイ16世が死ななければならない」と宣言して、国王と王妃の死刑を求めた。

 1793年1月21日の国王の処刑は、ジロンド派と山岳派の戦いに決着をつけるにいたらず、この間、食糧不足と物価の高騰は、民衆の間にさらに革命感情を育てつつあった。1793年6月2日、ロベスピエールは、パリ民衆の蜂起を背景に、ジロンド派の指導者追放に成功し、山岳派が権力を握った。

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エベール

 1793年7月27日から公安委員会のメンバーに加わったロベスピエールは、王党派や反革命派の策謀や外国の干渉という革命の危機から革命を防衛するためとして、厳しく反対派を粛清した。同じ山岳派に対しても容赦なく、1794年3月24日には貧しい人々を欺いて利益を得たという理由で、エベール派19名が処刑された。

 エベールは美貌と巧みな演説で女性にもてた革命家で、革命理念を徹底するために、神にかわる理性崇拝を進めるなど、急進的な主張を展開した。

 エベール派粛清の後、ロベスピエールは民衆の支持を得るために、反革命容疑者の財産を没収して貧しい人々に分配するという「バントーズ(風月)法」を定めた。

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ダントン

 最後にロベスピエールは、平和を求め、恐怖政治の緩和を唱える寛容派に攻撃の矛先を向け、この派の一員であったダントンとデムーランを4月5日にギロチンに送った。

 ダントンは裁判で持ち前の雄弁をふるい、判事も無罪に傾きかけたが、弁論を妨害されるなどの圧力がかかり、結局死刑の判決を受けた。ギロチンへの道すがらロベスピエールの下宿の前を通りかかると、「ロベスピエール、次ぎはお前の番だ!」と叫び、最後まで堂々とした態度で処刑された。享年34歳。最後の言葉は、「俺の頭を後で民衆によく見せてやれ。これだけの頭は、滅多にないぞ!」であった。

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最高存在の祭典

 1794年6月8日、ロベスピエールは非キリスト教化を主導して「最高存在の祭典」を挙行するなど、革命政府の中核的存在になった。6月10日、革命裁判を再編成してスピードアップさせるという法案がロベスピエールによって提案され、可決された。これにより審理を経ない略式判決が許されたため、恐怖政治が最高潮に達した。

 パリで革命裁判所が仕事を始めた1793年4月から1794年6月10日までに、1251名が処刑されたのに対し、6月11日から7月27日、つまりテルミドール9日までのわずか47日間で、パリの断頭台は1376名の血を吸い込んだのだった。

 現在の研究では、恐怖政治のために反革命容疑で拘束された者は全国で約50万人、死刑の宣告を受けて処刑された者が約1万6000人、それに内戦地域で判決なしに殺された者の数を含めれば約4万人にものぼる。と見積もられている。

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国民公会でのロベスピエールの打倒

 この頃、すでに過労がロベスピエールの健康をむしばんでいた。彼は次第に短気になり孤立していった。また、容赦のない弾圧への反発が強まり、国民公会での彼の立場は悪化してゆく。同時に彼は、フランス革命戦争の勝利にもかかわらずいつまでも続く生活難のために、民衆の支持をも失い始めていた。

 こうしてテルミドール9日がやってくる。共和暦の熱月、1794年7月27日、公民公会はロベスピエールとその弟、そしてサン=ジュスト、クートン、ルバの計5名のロベスピエール派議員逮捕を決議した。5名は保安委員会へ連行され、市内の監獄に分散留置された。

 この国民公会での最後の一撃は、むしろロベスピエール派の動きから始まった。前日の26日、ロベスピエールは久しぶりに議場に姿を現し、彼をとりまく陰謀を告発し、「裏切り者」の逮捕と公安委員会、保安委員会の粛清を要求する。うまくロベスピエール派のペースになるかと思われた時、左右両派からロベスピエール攻撃の狼煙があがった。
 「国民公会の意志を麻痺させた男はただ一人。その男、それはロベスピエールだ」
 こう発言したのは、ダントンに近かった議員のカンボン。彼は財政の責任を問われて、ロベスピエールから攻撃されているのが明らかだった。敗ければギロチンが待っている。公安委員会左派のビヨ=ヴァレンヌが続く。
 「仮面を剥がさねばならぬ。わたしの屍が権力の亡者の王座になるくらいなら、沈黙したまま、奴の言う大罪の共犯でいたほうがましだ」

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演壇を占領し弾劾を続けるテルミドール派

 自分がやられるか、相手が倒されるか。妥協の余地すらみえない亀裂が広がっていた。

 議会は紛糾したまま翌日に持ち越された。左右の反ロベスピエール派議員は一致して、サン=ジュストやロベスピエールの発言を怒号で妨げる。まず国民衛兵司令官のアンリオと、革命裁判所長デュマの逮捕が決定された。ロベスピエールをからめ手から武装解除しよう、というねらいだ。ついで決定されたのが、5名の議員の逮捕拘留であった。

 国民公会の文句なしの勝利、と思われた。しかし、市内の監獄に分散留置されたロベスピエールたちは、パリのコミューンによって釈放され、市庁舎に迎えられた。パリの市議会はロベスピエール派が掌握していたからである。ロベスピエールも、リュクサンブールの監獄から市庁舎に到着した。全員がそろった時には、夜の11時になっていただろうか。

 もしこの時、彼らが国民衛兵を動員して、ただちに武装攻撃を国民公会にかけていたとすれば、事態はまた変わっていたかも知れない。しかし、ロベスピエールには、あくまで自分を蜂起の側に置くことはためらわれたようだ。

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 ロベスピエールの逮捕

 国民公会はロベスピエール派議員5名の釈放を知ると、彼らを法の保護からはずす決定をした。非合法化したのである。コミューンが動員した国民衛兵は、夜の7時ごろには3000人もいたとみられていが、る指令が出ぬまま、午前1時すぎまでにはみなグレーヴ広場をあとにした。雨が降り始めていた。その直後、午前2時すぎのことだった。国民公会側の武装衛兵が、大砲を曳いて市庁舎を制圧しに来たのは。

 制圧はほとんど無抵抗だった。ルバがピストルで自殺。ロベスピエールも自殺しようとしたが、顎を砕いただけで、失敗。血まみれの彼をはじめ、全員が逮捕された。

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ロベスピエールの処刑

 7月28日の朝があけ、革命裁判所では、22名のロベスピエール派の人物確認のみがなされた。その日の午後7時、夏の日がまだ暮れないなか、22名の処刑が行われた。ついにロベスピエールは倒され、恐怖政治に終止符が打たれた。

 ロベスピエールは秩序と道徳を重んじ、私生活はいたって質素であった。テルミドールのクーデタで処刑された時には、下宿していたデュプレ家に借金が残っていたとも言われる。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/10/02 05:19 】

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