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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドースエズ運河を盗れ・ディズレーリ

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ディズレーリ

 ベンジャミン=ディズレーリは1804年に、イタリア系ユダヤ人の文筆家アイザック=ディズレーリの長男として生まれた。13歳の時に父親のすすめでイングランド国教会に改宗した。15歳の時に学校を退学になり、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし事務所の業務に関心が持てず、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出すも失敗して破産した。22歳の時に処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ』を出版して評判になったが、激しい批判を集めた。

 その後しばらく南欧や近東を旅行したが、1832年にイギリスへ帰国。帰国後も小説を執筆する一方でしばしば下院議員選挙に出馬するようになり、4度の落選を経て、1837年の解散総選挙で初当選を果たした。

 急進派からトーリー党(保守党)に転じたため無節操を非難された。ピール党首とは政治的立場を異にし、党内に「青年イギリス」を組織する一方、政治小説の形で「トーリー民主主義」を主張。またピールの産業資本家的保守主義に対する地主的保護貿易主義に立って穀物法廃止に反対した。

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ダービー首相

 1852年、ダービー保守党内閣の蔵相として初の入閣を果たした。1858年に第2次ダービー内閣が成立した際にも蔵相となり、保守党の指導者としての地位を固めるとともに、翌1859年穏健な内容をもつ選挙法改正を提案した。この提案は議会で敗れ、総選挙後、自由党内閣が誕生した。1866年、自由党内閣の選挙法改正法案を否決に追い込み、第3次ダービー内閣の蔵相として返り咲くと、翌1867年には第2回選挙法改正を保守党政府の手で実現した。この歴史的な難問解決の主導権を保守党の手で握り、1846年の穀物法廃止以来、万年少数党の立場に置かれてきた保守党の起死回生を図ろうとしたのである。

 都市労働者に選挙権を与えたこの改革は「暗中飛躍」とよばれる大胆なもので、大衆民主政治の出発点となった。大衆との一致を目ざした青年イギリス派の「トーリー・デモクラシー」の理念が実現をみたともいえよう。

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グラッドストン

 1868年、第1次ディズレーリ内閣を組閣したが、それはアイルランド問題で暗礁に乗り上げ、すぐに辞任して短命に終わった。その後、第1次グラッドストン自由党内閣が様々な改革を行ったが、1874年の選挙は変化を望んだ選挙民に指示され、第2次内閣を組織することとなった。

 自由党のグラッドストンは好敵手であり、交互に政権を担当して二大政党制を展開したが、それは新たな選挙法で選挙権を獲得した都市労働者の大票田をどちらが獲得するか、という競争であった。

 ディズレーリの第2次内閣では、労働者の支持を得るためもあって、公衆衛生法や労働組合法など社会政策に力を入れ、この保守党の労働者よりの政策は「トーリ=デモクラシー」と言われた。しかし、ディズレーリ内閣の特質はその外交政策に現れる。

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スエズ運河開通式

 1869年11月17日、スエズ運河開通式が華々しく挙行された。エジプト副王イスマイール=パシャは、この栄えある開通式に、ヨーロッパ諸国の元首と名士を招待した。オーストリア皇帝やフランス皇后らを乗せた80隻の船が、前日の朝ポートサイド沖に着いた。

 17日午前8時、大砲が鳴り、汽笛がエジプトの空に吸い込まれ、フランス船を先頭に48隻の各国の船が、ポートサイドから運河に入る。フランス船には、ナポレオン3世の皇后ウジェニーが、頬を上気させて甲板に立つ。同時刻、スエズからはエジプトの軍艦が運河に入る。北と南からの船は、中間地のチムサ湖で一緒になった。その夜は、湖近くに新設された都市イスマイリアで、6000人の人々を集めて大祝賀会が催された。

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レセップス

 イスマイル=パシャとレセップス、そしてフランスは、その日、栄光の絶頂にあった。

 フランス人レセップスはかつてのナポレオンの構想などに刺激を受け、スエズ地峡への運河敷設を1854年にエジプト副王サイードに提案した。レセップスは外交官としてエジプトに滞在したことがあり、サイードとも親しかった。

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サイード=パシャ

 当時エジプトは、宗主国であるオスマン帝国から自立する道を模索していたので、副王サイードはレセップスに許可を与え、同年12月にレセップスとの間で契約を取り交わし、「国際スエズ運河会社」を設立、フランスとエジプトが株を引き受け、エジプトは毎年その利益の15%を受け取ることとした。

 スエズ運河建設はエジプトにとって最も重要、かつ問題の焦点となる施設であったが、イギリスは運河建設の先進国でありながらこの運河開削は不可能と判断し、インドからの物資は紅海からスエズに陸揚げし、鉄道を建設してカイロ-アレキサンドリアに運ぶことを考えていたのでレセップスの構想には乗らなかった。工事が進むと、イギリスは宗主国のオスマン帝国を動かし、その同意がないとして盛んに工事の進捗を妨害しようとした。

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工事中の写真

 建設工事は1859年に着工。掘削工事は4万人のエジプト農民が動員され、無償労働で行われた。しかし、工事は難航を極め、2万人の死者を出して、ようやく1869年に完成した。地中海側の入り口には新たに港が建設され、副王サイードの名からポートサイドと命名され、中間地点にもイスマイリア(次の副王イスマイールの名から命名された)というあたらしい都市が建設された。

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ヴィクトリア女王

 あれほど反対していたイギリスであったが、スエズ運河が完成し、喜望峰まわりの半分の距離でインドに達することが出来るようになった今、これまでのような態度をとり続けるわけにはいかなくなった。1870年、レセップスはロンドンで大歓迎を受け、ヴィクトリア女王から叙勲された。また、スエズ運河を利用する船舶も、毎年一番多いのはイギリス船であった。

 そこで、イギリスは運河会社の株を買い入れるチャンスが到来するのを虎視眈々と狙っていたのだが、そのチャンスは劇的なかたちでやって来た。エジプトのパシャが持ち株を売りに出したのである。

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イスマイール=パシャ

 パリで法律学を学んだことのあるイスマイールは、エジプトの「文明開化」に熱心であった。行政・司法・法律の整備に努め、鉄道・運河・電信の建設に熱中し、カイロやアレクサンドリアにガス燈をともしてフランス風の都市にした。他方、領土を広げるため、スーダンその他へ遠征軍を送るなど、軍事的膨張も忘れなかった。

 しかし、こういう事業には、イスマイールのまわりで利権を狙う、ヨーロッパの銀行家などの入れ知恵や投資が働いていた。事業が増えるとともに、エジプト政府の負債はかさむいっぽうであり、1873年にはその額が約6850万ポンドにものぼった。人口550万のエジプト国民が、50%も引き上げられた税金を翌年分まで支払っても、大半は負債の利子となって消えてしまうありさまであった。

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ナポレオン3世

 とうとうイスマイールは、負債を返す資金を得るため、1875年11月、スエズ運河運河会社の株17万6602株を売り出すことにした。この意向が、レセップスを通じてフランス政府に伝えられた。だが、フランスの事情は、スエズ運河開通1年後に大きくかわってしまっていた。

 1870年7月、ナポレオン3世はプロイセンと開戦したが大敗し、9月、帝位を退いた。フランスは第三共和政になったが、プロイセンのビスマルクは追撃の手を緩めず、結局、フランスは降伏して賠償金50億フランを支払わされることになった。

 レセップスを支えた皇帝はもはやなく、フランスの政情は5年後になってもなお不安定であった。こういう中では、巨額のエジプトも持ち株を買い取る余裕はどこにもなかった。

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ライオネル=ロスチャイルド

 1875年11月14日、日曜日の夕刻、ロンドンのライオネル=ロスチャイルド邸では、首相ディズレーリがライオネルと夕食をともにしていた。ロスチャイルド家は、パリ、ウィーンにも同族の商会を持つユダヤ人の大富豪であり、ユダヤ系のディズレーリ首相とライオネルとは親しい仲であった。

 ちょうど食事にさしかかった時、お盆に電報を載せて執事が入って来た。ライオネルは電報にすばやく目を通すと、一息いれてから、ディズレーリに向かって電文の要点を読み上げた。

 「エジプト=パシャはフランス政府に運河会社の株の売却を申し込んだが、フランス側はその条件をのむにいたっていない」

 ロスチャイルド家がパリに置いている情報提供者からの電報であった。

 首相は間をおいてから一言、「いくら?」と聞く。

 ライオネルはすぐパリ宛に問い合わせの電報を打った。

 二人とも食欲がなくなり、デザートもそのままさげられた。ブランデーを飲むことになった時、また電報を乗せたお盆が運ばれて来た。パリからの返事には、1億フラン(400万ポンド)と記されてあった。

 「よし、買おう」と首相は言った。ライオネルは「そう……」とだけ呟いた。

 翌月曜日、ディズレーリは首相官邸で閣議を開いた。議会は休会中のため予算として通すことは出来ない。ディズレーリはロスチャイルド家から借用することに決め、閣僚の委任を取り付けた。そのあと直ちに秘書の馬車がライオネルのもとに走った。首相からの伝言は短かった。

 「政府は明日までに400万ポンドを是非とも必要としております。よろしく。」

 ちょうどマスカットを食べていたライオネルは、この伝言を聞き、1粒を2秒で食べ終わると答えた。

 「よろしい、ご用立てしましょう。」

 そして、上品に種子をはき出した。

 48時間後には、パシャ所有のスエズ運河会社の株はイギリス政府の所有に移った。

 こうして、イギリスは、本国とインド、いや西洋とアジアを結ぶ正規の大動脈を手に入れてしまった。

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『パンチ』の風刺画

 ついで翌1876年3月、ディズレーリはヴィクトリア女王にせがまれて国王尊称法を成立させ、彼女をインド皇帝に推戴した。自由党はこれに反対し、外国の外交官たちはこれを笑ったが、帝国と君主制の象徴的効果を信ずるディズレーリにとって、インドを帝国化しこれを王冠と結びつけることはきわめて有意義な帝国統合化政策であった。この小説家でもあるユダヤ人宰相の帝国主義には、このように個人プレー的で情緒的なところがあり、それが彼の帝国主義の一特色であった。

 なお、デズレーリは歴代首相の中で、ヴィクトリア女王にもっとも愛された総理大臣であった。

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【 2020/11/27 05:07 】

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世界史のミラクルワールドークリミアの天使と悪魔・クリミア戦争②

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フローレンス=ナイティンゲール

 フローレンス=ナイティンゲールは名前の通りフィレンツェで生まれたが、両親はイギリス人で、2年も続いた長い新婚旅行の途中だった。父のウィリアムはジェントリ階層で財産家だったので、イギリスに戻ったフローレンスも何不自由なく生活することができた。父と母は彼女を社交界にデビューさせ、幸せな結婚をさせることを望んだが、一風変わった少女であったフローレンスは17歳の時「神のお告げ」を受けたと言い出し、貧しい人たちの役に立つ生き方をぼんやりとだが考えるようになった。やがてこの親子のズレは決定的になっていく。フローレンスが看護婦になりたいと言い出したのだ。

 看護婦といっても現在のようなイメージではない。1840年代のイギリスでさえ、まだ看護婦の仕事は確立していなかった。看護婦どころか、現在のような病院も存在していなかった。上流階級の人々が病気になれば医者が家まで来て診察し、家で療養し、亡くなっていたし、都市の下層階級の人々には家で看病する人がいなければ病院に入ることになるが、それは粗末なベットがぎっしりと並び、風通しが悪く、暖房もない建物で、衛生状態は極端に悪かった。つまり病院は極貧の人が最期に収容されて死を待つところにすぎなかった。

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ロンドンにあるナイティンゲールの銅像

 看護婦はいたが、彼女たちは私生児を産んだり何らかの事情で家を出た人たちであり、病院に住み込んでいた。彼女たちの仕事は看護というより売春だった。患者たちはアルコールで憂さを晴らし、女を巡って争った。ロンドン警察は病院での殺人や争いをなくすために作られた。ナイティンゲールのような上流の女性が看護婦になるなど、考えられない時代だったのだ。

 彼女は両親や周辺の強い反対を押し切って、看護婦になろうとしたが、その道も開けず悶々とした青春を過ごした。美しかった彼女にはジェントルマンの青年の何人かが結婚を申し込み、彼女も好意を持った男性もいたが、彼女は結婚しなかった。断わられた青年の一人はその後自殺したという。彼女は看護婦となって医療を改革しようと決心し、その結果、生涯を独身で通すこととなる。


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クリミア戦争

 彼女が初めて本格的に看護の経験を積んだのは、30歳の時、単身ドイツに行ってカイザーヴェルトの病院においてであった。紆余曲折の後、33歳となった1853年、ロンドンのハーリー街の病弱貴婦人のための療養施設で本格的な看護の仕事を開始した。

 翌1854年、イギリスがクリミア戦争に参戦すると、ロンドンの新聞タイムズが連日戦場の悲惨さを伝え、義捐金を募集し始めた。世論に押されて政府は義捐金を元に看護婦を派遣することにし、ナイティンゲールはそれに応募し、修道女と看護婦の総数38人の看護団を組織して、イスタンブールに向かった。ナイティンゲール自身は国教会信徒であっても宗教には寛容であったが、参加したカトリック修道女の中には看護よりも伝道を使命と考える者もいて、彼女はメンバーをまとめることに苦労することとなる。

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兵舎病棟

 看護団は11月にイスタンブルに着き、対岸のスクタリの兵舎病院に入った。近くに陸軍病院があったが、9月にクリミアから送還されたコレラ患者で一杯になり、急遽ょトルコ軍砲兵隊の兵舎を転用し、10月末のバラクラヴァの戦闘で負傷した兵士を収容するために作られた兵舎病棟だった。急な険しい山道をのぼったところにあり、病院とは名ばかりの荒れはてた建物で、しかも周りにはテントや掘立小屋が立ち並んでいた。それらは兵士たちをあてこんだ飲み屋や売春宿だった。兵舎の部屋は掃除もされず、ノミがはね、ネズミが走り回り、ある部屋にはトルコ兵の死体が放置されていた。

 しかし、現地にはさらに大きな敵が存在していた。それはロシア軍ではなくイギリス陸軍だった。イギリス陸軍は最初から戦場に看護婦を派遣することに大反対だった。理由は単純で、軍隊の気風が乱れる、ということにあった。そのため現地の将軍もナイティンゲールたちに冷淡というよりも拒絶の態度を隠さず、初めは彼女たちの看護活動を許可しなかった。病棟に前線から負傷兵が担ぎ込まれるようになっても、看護活動が認められないので、ナイティンゲールたちは病棟の掃除や三角巾を作る仕事くらいしか与えられなかった。

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傷病兵を看護するナイティンゲール

 ところが、戦況の悪化から戦傷者は増える一方であった。ナイティンゲールが冷静に観察すると、兵士のほとんどは戦場の怪我で死ぬのではなく、病院の手当が行き届かず、その環境の悪さから死んでいくのがほとんどだった。陸軍の軍医もついにおれてナイティンゲールたちの看護活動を認めた。

 それからのナイティンゲールの献身的な看護は、後世の語りぐさになるものだった。まずスクタリのシラミとノミ、ネズミの巣だったバラック病院を清潔にし、壁を白いペンキで塗り、風通りをよくして菌の繁殖を防いだ。看護婦たちには茶色い制服と白い看護帽をかぶせた。病院の内外にいる売春婦(兵士について歩き、生きるために売春する女たち)と区別するためだった。また、協力者を得て、彼女たちに仕事を与えるように援助した。またロンドンから志願してきた腕利きの料理人に頼んで病院の食事を一変させた。こうして白いシーツの上で横たわり、熱いスープを口にした兵士たちは、戦場から天国に来た思いを抱いたのだった。

看護婦として戦傷兵を見舞うナイチンゲール(1855年) 
見回りをするナイティンゲール

 タイムズ紙の基金責任者で彼女の協力者であったマクドナルドは書いている。

 「(いささかの誇張でもなく、病院の中で)彼女は〝世話をする天使〟です。彼女のすらりとした体が、病棟を静かにすべるがごとくに通っていくと、すべての気の毒な人たちの顔が彼女を見て、感謝の思いでやわらぐのです。軍医たちが、夜になってみんな引き上げてしまい、静かさと暗さが数マイルに及ぶ打ちのめされた病人たちのベッドをおおうしじまの中で、フローレンスがただひとり、小さいランプを手にして、ひとりぼっちの見回りをしているのが見られるでしょう。」

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アンリ=デュナン

 ナイティンゲールの活動に刺激を受け、国際的な救援機関として国際赤十字社の設立を提唱したのがアンリ=デュナンである。1859年6月、イタリア統一戦争の時、北イタリアのソルフェリーノでサルデーニャ・フランス連合軍とオーストリア軍が衝突した。その時、ジュネーヴ出身のデュナンが従軍し、戦死者や負傷者が放置されている悲惨な現実を見、その体験を1862年に『ソルフェリーノの思い出』として書き、敵味方を越えた負傷兵の救援団体の必要を世に問うた。

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それがきっかけとなり、1864年にデュナンの呼び掛けで国際赤十字運動が始まった。スイス連邦政府が後援し、ヨーロッパ116カ国とアメリカ合衆国の署名を得た「ジュネーヴ協定」ができ、国際赤十字が誕生した。設立へのスイスの功績を認めて、赤十字の旗はスイス国旗の赤地に白十字を裏返したマークに定められた。

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赤新月旗
 
 ただし、イスラーム圏の諸国が赤十字に参加するようになると、十字に対する反感からこれらの国では赤新月旗を用いている。


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シュリーマン

 一方、この戦争で「死の商人」としてボロ儲けしていた人物が二人いる。一人がトロイアの発掘で有名なドイツ人のシュリーマンだ。トロイア発掘はクリミア戦争でロシアに武器を密輸して得た巨額の資金で行われたことを知る人は少ない。

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ノーベル

 もう一人がダイナマイトの発明で有名なアルフレッド=ノーベルの父イマニュエル=ノーベルだ。彼はクリミア戦争の際機雷の製造で大儲けをした。ところが1853年の戦争終結と同時に注文が止まり、逼迫した末に破産。しかし、それでも息子のアルフレッドは父の事業と同じ爆弾製造の研究の道に進み、1867年にダイナマイトの発明に成功する。彼はダイナマイトを武器として各国に売り込み富を築き、「地上で最も危険な男」と言われた。

 彼の遺言により1901年からノーベル賞の授与が始まったが、第1回平和賞を受賞したのは国際赤十字社の設立を提唱したディナンであった。(おわり)


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【 2020/11/24 05:05 】

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世界史のミラクルワールドー壮絶な包囲戦・クリミア戦争①

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 実質はロシア軍対フランス・イギリス連合軍の戦闘となったこの戦争は、ヨーロッパ中心部からは遠く離れたクリミア半島を戦場として行われたが、ヨーロッパでナポレオン戦争後、約40年にわたって続いた列強のバランスが、いわゆる東方問題の中で利害が対立したために起こった。

 ギリシア独立戦争では共同歩調をとったロシア、フランス、イギリスであったが、ロシアが南下政策を強めた事に対し、他の二国がそれを阻止するために、「ヨーロッパの病人」といわれたオスマン帝国を助けることを口実に参戦したものである。

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アブデュル=メジト1世

  オスマン帝国はエジプト=トルコ戦争に敗れ、領土を失いつつあり、国力を回復するため、スルタン・アブデュル=メジト1世による上からの改革であるタンジマートが1839年から始まっており、その進行中であった。

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ナポレオン3世

 オスマン帝国の弱体化に乗じ、黒海から地中海・中近東方面への南下政策を強めるロシアに対し、イギリスとフランスが警戒した。

 まず、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に対し、イェルサレム(パレスティナ)の聖地管理権を要求し、それを認めさせた。ナポレオン3世が支持基盤の一つであるカトリック教会の歓心を買うためであった。

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聖墳墓教会

 パレスティナのイェルサレムはオスマン帝国領内に取り込まれていたが、その地の聖墳墓教会やベツレヘムの聖誕教会などのキリスト教聖地の管理権は、オスマン帝国がフランスに対して認めたカピチュレーションを根拠に、16世紀以降、フランス王が持つようになった。

 しかし、1808年、フランス革命の混乱の中でフランスが後退したすきに、ロシアに支援されたギリシア正教徒がその管理権をオスマン帝国に認めさせた。

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ニコライ1世

 1852年、皇帝に就任した直後のナポレオン3世が聖地管理権を獲得することに成功すると、これに猛反発したのがロシアのニコライ1世であった。ニコライ1世はオスマン帝国に対し聖地管理権の復活と、ギリシア正教徒の保護を口実に同盟を申し込んだ。

 しかし、オスマン帝国はロシアの申し出を拒否。1853年7月、ロシアはオスマン帝国に宣戦、ロシア領ベッサラビアからオスマン帝国を宗主国とするモルダヴィア公国・ワラキア公国のドナウ下流域に侵攻し、戦闘が始まった。

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パーマストン

 1854年3月、イギリスは戦争担当の内相パーマーストンが主導し、ナポレオン3世にはかり、オスマン帝国を支援するため参戦した。その意図は、ロシアがオスマン帝国を破って黒海から地中海方面に進出すれば、イギリスのインドなどアジア地域へのルートを断たれる恐れがあると危惧したからであった。

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カヴール

 またサルデーニャ王国の首相カヴールがフランスの好意を得ようとして英仏側に参戦した。こうして戦争は、ロシア対オスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ王国の図式となった。

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セヴァストーポリ攻防戦

 1854年9月14日、フランス、イギリス、オスマン帝国、サルデーニャ王国の連合軍がクリミア半島に上陸した。フランス軍が3万2000、イギリス軍2万6000、オスマン軍7000、さらにサルデーニャ軍1万5000を数え、対するロシア側のクリミア防衛軍は約5万人であった。

 この時、セヴァストーポリ要塞は、ほとんど無防備の状態だった。緊急に、長い要塞線が建設された。また、何隻かの軍艦を沈めて港湾への入り口を塞いだ。

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セヴァストーポリ陥落

 連合軍の司令部は、1週間でセヴァストーポリを奪取することを計画していたが、11カ月間持ちこたえた。都市の守備隊には、黒海艦隊の水兵だけでなく、市民も加わった。戦病者も含め両軍で20万人以上の死者を出した後、ようやく1855年9月8日、戦略拠点として知られるマラホフ砲台が占領され、349日間に及んだ籠城戦に終止符が打たれた。

 ロシアの勢力圏であったクリミアで、遠くからの遠征軍であるイギリス・フランス連合軍にロシア軍が敗れてしまったのは、軍の組織や装備の古さだけでなく、鉄道が未発達など、近代化の遅れに原因があったことがあげられている。

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トルストイ

 26歳の青年トルストイは、砲兵少尉としてセヴァストーポリ要塞の激戦に参加した。その時の体験をもとに発表したのが『セヴァストーポリ』である。そこには生々しい戦場体験が物語られており、その筆力は当時大いに称讃され、彼のデビュー作となった。

 3つの短編から構成されており、第1編はいわば戦場ルポルタージュで、負傷者のうめきが充満する繃帯所が描かれている。第2編は爆弾が目の前で爆発するわずか1秒の間の心の葛藤を描き、第3編で愛国心から戦場に来た青年将校兄弟が、フランス軍の総攻撃に遭う……いう内容になっており、早い時期に近代戦争の真実を描いたものとして重要である。

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カーディガン卿

 「この戦争は、実にひどい条件の中で戦かわれた、とびきりひどい戦争だった。連合国側が優勢だったけれど、損失は大きかった。ある時など、軽装軍団の司令官カーディガン卿が、バカだからバラクラバの戦いで、銃剣と大砲の弾のどっちが強いか、試してやろうと思ったんだ。おかげで何千人ものイギリス兵が、とんでもない目にあった。殺されなかったものも、食糧不足と、凍りつくような寒さとで、ひどい苦しみを味わった。馬でさえ、着るものがなくて(ああ!)死んじゃったんだから。さらに追い討ちをかけたのがコレラの流行で、死者は、一日百人を上まわった。」

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『遙かなる戦場』のポスター

 ここに出てくるカーディガン卿がどんな狂気の指揮をしたか、そしてその戦争がどんな悲惨な結末となったかを描いたのが、1968年のイギリス映画、トニー=リチャードソン監督の『遙かなる戦場』。名優トレバー=ハワードがカーディガン卿を快演している。

 なお、このカーディガン卿、名前の通り、カーディガンを発明した人。何でも、戦場で怪我をした兵士に着せる簡便な医療用として発案したらしい。セーラー服(水兵服)とカーディガンは、ともに戦場で生まれたファッションアイテムである。(つづく)

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【 2020/11/20 05:05 】

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世界史のミラクルワールドー捕虜になった皇帝・ナポレオン3世③

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ナポレオン3世

  ナポレオン3世の政治は、小農民層の支持を受けて大国フランスの威信を発揮することによって支えられていたので、対外戦争の連続であった。

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クリミア戦争

 まず皇帝となった翌1853年にはクリミア戦争を仕掛け、大勝して名声を挙げ、次いでサルデーニャ王国の首相カヴールとプロンビエールの密約を結び、オーストリアに宣戦(イタリア統一戦争)し出兵した。これは当時の大国オーストリアに対抗して、フランスの地位の復活を目指したものであったが、サルデーニャによるイタリア統一はローマ教皇の立場を弱めることになるので国内のカトリック教会は積極的ではなかった。

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ソルフェリーノの戦いの指揮を執るナポレオン3世

 1859年、ナポレオン3世はみずから大軍を率いて遠征し、マジェンタの戦いとソルフェリーノの戦いに勝利を収めた。もかかわらず、突如オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世と交渉して単独講和(ヴィラフランカの和約)に応じたため、サルデーニャの反発を買い、国内でもその一貫しない外交政策に批判が強まった。

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メキシコ皇帝マキシミリアンの処刑

 ナポレオン3世の外交政策の誤りがはっきりしたのが次のメキシコ出兵(1861~67年)であった。これはアメリカ合衆国の南北戦争に乗じてラテンアメリカに足場を築くことを狙ったものであったが、メキシコ民衆の激しい抵抗を受け、またアメリカの反発もあって撤退を決定、みずからがメキシコ皇帝として送り込んだマクシミリアンを見殺しにするという失態となった。

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アルジェリア独立運動家アブド=アルカーディルを引見するナポレオン3世

 この間、植民地の拡大につとめ、アジア方面でも中国とのアロー戦争、さらにインドシナ出兵に続くベトナムなどの植民地化を行った。他にもアフリカでのアルジェリアの反乱鎮圧、セネガルの獲得など、この時代にフランス植民地帝国が形成された。

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スダンの戦いのナポレオン3世

  当時ドイツの統一を目指して目覚ましく台頭したプロイセン王国のビスマルクは、フランスとの衝突を不可避として軍備を整えていた。スペイン王位継承問題で対立した両国は、ついに1870年、ビスマルクがエムス電報事件でナポレオン3世を挑発して普仏戦争の開戦となった。

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投降したナポレオン3世

 1870年9月3日、スダンのナポレオン3世からパリのテュイルリー宮殿のウージェニー皇后のもとに電報が届いた。

 「軍は敗れた。我が兵士たちの間で戦死することあたわず、軍を救わんがため、捕囚となる道を選んだ」

 ウージェニー皇后は一読するや顔面蒼白になり、わめき散らした。「なんで、自殺しなかったのよ、あの人は! 自分の名誉を汚すことになるのに気がつかなかったの? 息子に、いったい、どんな名前を残すつもりなの?」

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ガンベッタ

 9就き4日の朝、パリの民衆は「共和国万歳!」と叫んで立法議会になだれ込み、ガンベッタを議長席にあげ、帝政の廃止を宣言させ、パリ軍管区司令官ロンシュ将軍を首班とする臨時政府を成立させた。ウージェニーは宮殿から脱出しイギリスに亡命、その地から皇帝復位を画策したがいずれも失敗した。

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晩年のナポレオン3世

 捕虜となったナポレオン3世はカッセルの近郊で優雅な捕囚生活を送っていたが、その間、1871年1月にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が即位、3月に正式に講和が成立した時点で解放され、イギリスに渡った。

 もとナポレオン3世、つまりルイ=ボナパルトとウージェニー、息子のルイの3人はドーバー海峡に面したヘイスティングスの郊外で生活、なおも本国のナポレオン派が帝政復活の策謀を計画したが、すでに持病が悪化して行動に移れず、1873年1月9日、64歳でこの世を去った。

 息子のルイはイギリス軍に志願し、1879年アフリカでズールー族との戦争に参加し23歳にして戦死した。彼には子がなかったためナポレオン3世の直系は絶えた。妻のウージェニーは1920年まで生き、94歳で亡くなっている。(おわり)

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【 2020/11/17 05:04 】

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世界史のミラクルワールドー馬上のサン=シモン・ナポレオン3世②

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ルイ=ナポレオン 

 大統領ルイ=ナポレオンは、共和政尊重の姿勢を示して共和派と協力したが、議会内には王党派などの右派、急進的な共和派などが対立し安定しなかった。また議会の保守派が結んで、選挙制度の改悪(選挙権を居住3年以上に限定して移動の多い季節労働者などから選挙権を奪おうとした)などの決めたことで労働者の不満が強まったことを背景に、権力強化に乗り出し、4年に限定されていた大統領任期の延長を企てた。

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1851年のクーデタ

 1851年12月2日早朝、ルイ=ナポレオンはクーデタを決行。議会の解散と普通選挙の復活が布告されると同時に、警察が大物議員たちの寝所を襲い次々と逮捕していった。ティエールやシャンガルニエ将軍、カヴェニャック将軍などが逮捕された。議会から共和派が追放され、パリで起こったクーデタ反対の市民蜂起が鎮圧された。

 ちなみに、12月2日はナポレオン1世の戴冠式が行われた日であり、アウステルリッツの戦いに勝利した日でもあり、ボナパルト家にとっては栄光の日である。

 
さらに「大統領ルイ=ナポレオンの権威を認め、任期延長を支持するかどうか」についての「ウィ」か「ノン」かを問う国民投票を実施、714万票対59万票の大差でそのクーデターは承認を受けた。それをうけて翌1952年1月には新憲法を制定して大統領任期を10年に延長し、さらに立法権の一部を付与するなど権限を強化した。また大統領には議会に諮らずに国民投票で案件の可否を問う権限が与えられた。

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サン=クルー城からパリに入ったナポレオン3世

  クーデターと新憲法で実質的な独裁権を握ったルイ=ナポレオンは、議会内のボナパルト派の支持を受け、彼らから皇帝就任の要請を出させた。1852年10月9日のボルドーでの演説で、「フランスは帝国に戻りたがっているように思います。……一部の人々が抱く不安には私は応えなければなりません。彼らは挑戦的な意図をもって言います。『帝国、すなわちそれは戦争ではないか』と。私はこう言いましょう。『帝国とは、平和だ』と。……」と述べた。

 同年11月7日、元老院は86対1で帝政復活を決議。さらに、11月21日と22日に国民投票が実施され、賛成782万4000、反対25万3000(投票率75%)の圧倒的な差で国民に承認された。12月2日クーデタ記念日にルイ=ナポレオンはサン=クルー城を出てパリに入り、ナポレオン3世として帝位に就き、第二帝政が始まった。

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皇帝ナポレオン3世

  皇帝即位時のナポレオン3世はすでに44歳になっていたが、彼はこの年になってもまだ結婚していなかった。第二帝政の正統性を確保するためには他のヨーロッパ君主家から皇后を迎える事が望ましかった。各国と折衝したが、クーデターによって皇帝に即位したという微妙な経歴が災いし、どこの君主家からも皇后を出すことを拒否された。

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ウジェニー皇后

 とはいえ、愛人ミス=ハワードと結婚するわけにもいかなかった。彼女は元娼婦であり、そのような女性を皇后に迎えたら国内外から笑い物にされるのは必定だった。結局貴族から皇后を見つけるしかなくなり、ナポレオンびいきだったスペイン貴族の娘であるエウヘニア=デ=モンティホ(フランス語読みでウジェニー=ド=モンティジョ)と1853年1月22日に婚約し、30日にノートルダム大聖堂において挙式した。

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ハリエット=ハワード 

 彼はこれを機にミス=ハワードを追い払おうとイギリスでの任務を与え、更にその留守を狙って彼女の家を家宅捜査させ、全てのラブレターを回収している。ミス=ハワードはこの処遇に怒り、ナポレオン3世から預かっていた私生児2人とともに宮廷を立ち去った。

 ウジェニー皇后は1853年2月末に懐妊したが、流産した。一方ナポレオン3世は新婚から3カ月とたっていないこの頃から再び漁色家に戻っていた。失意のウジェニーを気にする様子もなく、宮殿やの私邸に女優、女官、社交界の女性、高級娼婦などを続々と招いて放蕩生活を送った。

 一度は縁を切ったミス=ハワードともいつの間にかよりを戻していたが、その件についてはウジェニーも激怒し、ナポレオン3世が寝室に入ってくることを拒否するようになったため、ナポレオン3世はやむなくミス=ハワードをイギリスへ帰している。

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ナポレオン4世

 1856年3月17日、ウジェニーが待望の男子(ナポレオン=ウジェーヌ=ルイ=ボナパルト、ナポレオン4世)を産んだ。ナポレオン3世はこれに大いに喜び、クーデターの際に投獄されたり、国外追放になった者たちのうち3000人ほどを対象に恩赦を行った。

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馬上のナポレオン3世

 ナポレオン3世の政治は、前半の1850年代の「権威帝政」といわれた権威主義的な独裁政治が前面に出た時期と、60年代の「自由帝政」といわれれた自由主義的な改革を採り入れた時期とに区分される。権威帝政の時期はクリミア戦争の勝利という外交の成功によって権威を高め、皇帝批判の言論や自由な政治活動を抑えることができたが、彼自身が亡命時代に共和政、自由主義、サン=シモン主義の洗礼を受けていた(当時ナポレオン3世は「馬上のサン=シモン」と言われた)こともあって、60年代から改革的な動きを示すようになる。それは1860年以降の議会での請願権を認めたこと、ストライキ権の承認、言論・結社の自由の一部承認などに現れた。

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第1回パリ万博「産業宮殿」

 ナポレオン3世は、帝政の基盤を強固なものにするために、民衆の支持を必要としていた。1851年のロンドン万国博の成功はナポレオン3世を強く刺激し、彼は「帝国の栄光という夢で国民を恍惚とさせること」の必要を直感的に感じ取り、それがミシェル=シュヴァリエに代表されるサン=シモン主義者の産業社会実現の夢と合致して、パリ万国博覧会が実施されることになったと言える。

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「産業宮殿」の内部

 この第1回のパリ万博は、パレ=ランデュストリ(産業宮殿)を本会場に、1855年5月1日に開催された。34カ国が参加し、会期中516万人が来場したが、1851年開催のロンドン万博の604万人には及ばなかった。

 しかし、産業機械を実際に動かして見せたり、生活関連展示を多くしたことにより、民衆に産業発展が生活向上に結びつくことを無意識のうちにすり込んでいく効果は十分にあった。それが1860年の英仏通商条約締結による自由貿易の実現に結びついた。この条約により
フランス産業はイギリス工業製品との競争にさらされ、手工業的中小企業は淘汰され、技術革新と資本の集中が一段と進み、銀行の設立・鉄道の普及などの金融・社会資本(インフラ)の整備も進んで、フランスの産業革命が完成した。

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第2回パリ万博の鳥瞰図

 シュヴァリエらは、サン=シモン主義のユートピアの実現を目指し、1867年のパリ万国博覧会を準備した。メイン会場はシャン=ド=マルスの丘に、巨大な楕円形の展示場が設けられ、テーマは同心円状に、国と地域は放射線状に配置され、産業の象徴でもある鉄と鉄鋼で造られた。まさにそれは「サン=シモンの鉄の夢」の実現であった。同時に宇宙と社会の縮図というコンセプトになっており、見学者は一体化した世界を実感できるしくみになっていた。

 
会場の周囲のレストランではボルドーのワインが評判を呼び(フランスがワイン輸出国としての名声が高まったのもこのときからである)、ドイツのビールも好評でフランス人にもビールを飲む習慣が始まった。またトルコのコーヒーや中国の茶などを味わうことができた。機械ギャラリーでは工業国が競って巨大な機関車や大砲を展示し、電信、ミシン、織機などの機械が実演つきで並べられた。

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各国から来た人々を歓迎するナポレオン3世

 1851年のロンドン、1855年のパリは万国と言いながら、実態はヨーロッパ諸国に過ぎなかった。しかし、1867年パリ万国博覧会は、参加42カ国。中近東、アジア、ラテンアメリカ諸国も参加し、名実ともに万国博覧会となった。日本は幕末の政治情勢が深刻であったが、薩摩・長州がイギリスの支援を受けていたのに対して幕府はフランスと結んでいたので、その要請を受けて展示を行い、将軍の名代として徳川昭武を使節とする代表団を派遣した。

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3人の柳橋芸者

  第2回パリ万博の各国パビリオンはさながら人種博覧会の観を呈した。江戸幕府は、浅草の商人瑞穂屋卯三郎が「水茶屋」を造り、柳橋の芸者かね、すみ、さとの三人が「髪は桃割れ、友禅縮緬の振袖に丸帯を締め、長いキセルで煙草盆の火をつけて煙草を吸ったり、手まりをついたり、客が望めばリキュールそっくりの味醂酒のお酌をしたり、茶を饗したりした」他にチョンマゲの男と作男姿の男二人が農作業をして見せていた。
 
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19世紀半ばのパリのシテ島

 ナポレオン3世は、若い頃からロンドンに倣ってパリ改造を意図していた。大統領就任直後に、パリ改造の構想をこう語っている。「パリはフランスの心臓である。この大都市を美化しその住人の境遇を改善し、……新しい街路を開こう、空気が通らず光の射しいらない人口の多い地区を清潔にしようではないか、太陽の恵み多い光がいたるところわれらの壁のなかにまで射し入るようにしようではないか。」

 当時のパリの都市衛生がいかにおぞましかったかは、当時の小冊子に次のように書かれている。

 「そこには百万人もの人間がひしめきあっている。空と言えば、煤煙から生じた健康に悪い臭気が立ちこめて、ほとんど太陽を覆い隠すほどである。この素晴らしいパリのほとんどの通りが悪臭にみち、じめじめした不潔な路地ばかりとなっている。……病を患い、やつれ果てた人々が、これらの路地を絶えることなく群れをなしている。歩けば汚水溝に足を突っ込みそうになり、鼻をつく病原菌の感染にさらされながら、どこを向いても実に厭わしいゴミの山ばかり……」

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バリケード

 ナポレオン3世にとっては貧民街は不衛生と犯罪、コレラとバリケードの巣窟以外のなにものでもなかった。1832年のコレラの大流行はもちろん、七月王政下の六月蜂起にいたる壮絶なバリケード市街戦などは、これらの都市環境と無縁ではなかった。

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ナポレオン3世とセーヌ県知事オスマン

 麻痺した都市の機能を回復し、コレラとバリケードの病巣を取り除く。この厄介な外科手術に挑んだのが、ナポレオン3世とオスマンのコンビであった。1853年セーヌ県知事に登用されたオスマンは、皇帝の支持を背景につぎつぎと大規模な都市改造に着手した。

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オペラ通り

 彼はまず、市中心部の曲がりくねった街路やシテ島の貧民窟を一掃し、広い直線的な大通りを東西南北に貫通させ、道路交叉網を徹底的に整備した。また、ルーヴル宮や新オペラ座、中央市場といった公共建築を建造するとともに、街路照明を大幅に建設したりアパルトマンの高さを一定に規制するなど、都市景観にも細かく配慮している。暴動が発生した時に鎮圧部隊がすぐに現場に急行できるという治安維持の目的もあったが、クリーンな空気を街に供給する大きな森、公園もあちこちにつくられた。

 あの「ガス灯ゆらめくパリ」の基本的景観は、この第二帝政期に生み出された。1867年の万国博覧会に参加した幕府と薩摩のサムライ代表団を魅了したパリは、後世に評判芳しからぬナポレオン3世のこのパリだったのである。(つづく)

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【 2020/11/13 05:06 】

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世界史のミラクルワールドー脱獄囚から大統領に・ナポレオン3世①

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ルイ=ナポレオン

 ルイ=ナポレオンの父はナポレオン1世の弟でオランダ王だったルイ。その3男がルイで、母はナポレオンの前妃ジョゼフィーヌと前夫(革命で処刑された)との間に生まれたオルタンス=ド=ボアルネ。つまり、ナポレオンの甥にしてジョゼフィーヌの孫にあたる。

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オランダ王ルイ=ボナパルト

 父ルイ=ボナパルトは1806年にナポレオンからオランダ王位を与えられていたが、兄の傀儡になるつもりはなく、オランダ人の利益を優先する独自路線をとろうとしたため、ナポレオンの圧力で1810年に退位させられた。

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オルタンス

 一方、母オルタンスは熱狂的なナポレオン崇拝者であり、ボナパルト家は常にヨーロッパ人民に依拠せねばならないと主張していた。ルイ=ナポレオンは母の影響を強く受けて育った。

 実はルイ=ナポレオンの出生には疑惑がある。彼の父と母は仲が悪く、2人の男子を儲けた後に1807年まで別居状態になり、その間に母は何人かの男性と愛人関係を持っていたためである。ただ、1807年中にわずかな期間だが父と母が同居していた時期があり、懐胎の時期と符合するため、やはりルイ=ボナパルトが父親とする説の方が有力であるという。

 いずれにしても、ルイ=ナポレオンはナポレオンと似ていなかったこともあり、この噂は後々まで付いて回った。

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ストラスブール一揆を起こすルイ=ナポレオン

 1815年、ナポレオン1世の退位とともにフランスを追放され、母オルタンスと共にスイスで亡命生活に入った。アウクスブルクで教育を受けた後、たびたびイタリアを訪ね、兄のルイとともに愛国的貴族と近づきカルボナリに参加し、イタリアの独立運動にかかわった。

 ルイ=ナポレオンの亡命中、フランスでは1830年の七月革命でルイ=フィリップの七月王政が成立した。若きルイ=ナポレオンは陰謀を企み、1836年にはストラスブールから支持者と共にフランス帰還を試みたが失敗し、ロンドンやアメリカを転々とし、その間、見聞を広めた。

 1839年、『ナポレオン的観念』を執筆して、ナポレオン1世を神格化する「ナポレオン伝説」を煽った。


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ブーローニュ一揆

 1840年8月、ナポレオンの遺骸がパリに帰還したのに乗じ、突如ブーローニュに上陸、蜂起を企てるが再び捕らえられ、終身犯としてパリ北東のアム要塞に監禁されたが、その5年に及ぶ獄中生活で、イギリス古典派経済学やオーウェンやルイ=ブランなどの社会主義の書物を読んで影響を受け、1844年には『貧困の絶滅』という著作を発表している。

 1846年5月25日ルイ=ナポレオンはみずから注文した部屋の改造工事を利用して、脱出しようとした。要塞内で働く労働者の姿に身をやつし、髭を剃り、足に木靴、頭にハンチング帽、肩に顔を隠すための板を担いだ格好で、看守の注意をひくこともなく中庭を横切る。外に出ると仲間が彼を待ちかまえていた。作戦は周到に準備されていたので、予想通り展開した。日が落ちる頃、彼はベルギーに逃れ、そこからロンドンにたどり着いた。ロンドンでは父と母の遺産を使い切ってしまった。

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二月革命

  1848年の二月革命でルイ=フィリップの七月王政が倒れ、フランス復帰の機会が訪れた。さらに労働者の六月蜂起が鎮圧されて共和派が一掃された後の9月の立憲議会補欠選挙に立候補し当選し、ようやくパリに戻った。

 その時すでにナポレオンの子供(ナポレオン2世)は死に、伯父たちもほとんど亡くなっており、彼がナポレオンの唯一の後継者であったので、次第に国民的な人気を獲得することになった。


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大統領選挙の様子を描いた絵

 1848年12月の大統領選挙では、六月蜂起を鎮圧した軍人カヴェニャック(上の絵では、ナポレオンのポスターを持った子供と、カヴェニャックのポスターを持った子供が喧嘩している)、ブルジョワ共和派のラマルティーヌ、社会主義共和派のラスパイユ、正統主義者のシャンガルニエらの対立候補を破り、547万票(投票総数の4分の3)で当選した。かくして、二年前に脱獄囚だった男がいまやフランス大統領になったのである。

 「赤い妖怪」と言われた社会主義に怯え、経済不況にもてあそばれた農民、債権に苦しむ小商店主、小工場主などが彼を支持した。また、銀行家・産業家もルイ=ナポレオンが財産・宗教・家族の尊重など社会秩序を約束したので彼を支持した。大統領選挙は第二共和政憲法に基づいたものであり、当選したルイ=ナポレオンはフランスで最初の男子普通選挙によって撰ばれた大統領となった。(つづく)

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【 2020/11/10 05:05 】

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世界史のミラクルワールドー株屋の王・ルイ=フィリップ

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ルイ=フィリップ

 ルイ=フィリップはオルレアン公ルイ=フィリップ2世(平等公)の長男として1773年に生まれた。1793年、フランス革命中の父の刑死によって20歳で公位を継ぎ、ブルボン家の分家の当主となった。

 当時は共和主義者を装ったこともあるが、結局亡命、ナポレオン1世の没落で一時帰国したが、1815年「ユルトラ(過激王党派)」を攻撃してイギリスに亡命し、自由主義者に接近してブルジョワ風に振る舞った。

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七月革命

  1830年、七月革命が起こると、銀行家ラフィトらはルイ=フィリップを国王に推挙、共和派はラ=ファイエットを大統領とする共和政を主張したが、ラ=ファイエットはフランス革命の時のように共和政のもとでジャコバン化することを恐れて、君主政がいちばん良いのだ、と言って逃げた。

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パリ市民にルイ=フィリップを紹介するラ=ファイエット

  ルイ=フィリップは「ブルボンを倒せ!」という市民の声に対して、市庁の広間で三色旗につつまれ、ラ=ファイエットと抱き合ってみせ、8月1日には人民主権・上院廃止・行政粛正等とともに、「共和的な制度につつまれた民衆的玉座」を約束。2日、シャルル10世は退位を宣言してイギリスに渡り、9日ルイ=フィリップはブルボン宮で「フランス人の王」となった。

 14日には憲法を制定、七月王政が始まった。国王ルイ=フィリップとしての統治はもっぱら銀行家などの上層ブルジョアジーの利益の保護にあたり、「株屋の王」と揶揄された。



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画家ドーミエが描いたルイ=フィリップ『梨王』

 ルイ=フィリップは「株屋の王」の他にも、「梨王」と渾名された。それは彼の風貌が梨(日本でいう洋梨)にそっくりだったから。このころ石版画による絵入りの新聞や雑誌が刊行されるようになり、盛んに風刺画の対象とされた。とくに、ドーミエは次々とルイ=フィリップを揶揄する絵を発表し、たびたび罰金刑に処せられた。


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ドーミエの作品『ガルガンチュア』

 画面左で玉座に座る巨人は、国王ルイ=フィリップだ。ドーミエは、ラブレーが著した『ガルガンチュア物語』に着想を得て、そこに登場する中世巨人(ガルガンチュア)に国王ルイ=フィリップを見立てている。

 梨型の頭、突き出た腹をして玉座につく国王は、市民から徴収した金を吸い上げようとしている。画面右下には、わずかな金を差しだす極貧に苦しむ市民の姿を描いている。小人と化した労働者は必死に抗っているが、王の家来たちがそれを制圧している。

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ギゾー

 ルイ=フィリップは「フランスの王」(roi de France)ではなく「フランス人(フランス国民)の王」(roi des Français)と称したが、個人的権力に執着し、共和運動が高揚すると、これを弾圧。1840年以降は腹心のギゾーを事実上の首相として反動政治を展開した。ギゾーは『ヨーロッパ文明史』などを著した歴史家としても知られる。

 ルイ=フィリップは銀行家や産業資本家の利益保護を第一に掲げ、同時に海外への進出を図ったが、国内の貧富の差の拡大、労働者・農民の不満が次第に高まり、特に普通選挙の実現を求める政治運動の高まりへと結びついていったが、ギゾーは「選挙権が欲しければ金持ちになることだ」と放言したと言われる。



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改革宴会 

 1847年夏以来、政府反対派は各地に「改革宴会」と称する集会を催して選挙法の改正を政府に要求したが、1848年2月22日を期してパリのシャンゼリゼ街に全国的な大改革宴会を開くことを要求した。ギゾー内閣はその危険性を恐れて前日禁止令を出した。

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二月革命

 しかし、すでに全国からの代表はパリに集まり、集会を開き、それが23日市街戦に発展した。ルイ=フィリップは最初孫に王位を譲って王政を維持しようとしたが、民衆は24日市庁舎に集まって臨時共和政府の樹立を宣言した。

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亡命中のルイ=フィリップ

 武装した市民がテュイルリー宮殿前で守備兵に阻止されている間にに、ルイ=フィリップは王宮から脱出を図った。王は妃の助けをかりて重い軍服を脱ぎ、せきたてられて、フロックコートとシルクハットをつける。折りかばんに鍵をかけ、「時計!時計!ああ、自分で持っていた」という慌てかただった。王妃は「裏切り!、裏切り!」と、自分に言いきかせるように、つぶやいていた。コンコルド広場まで、王家の一同は歩いていったが、手配した御者は銃弾にたおれて来ていなかった。幸い、粗末な二台の馬車があったので、一行はサン=クルーへ脱出した。

 こうして、市民にとって“用なし”になった王は、ロンドンに亡命。ヴィクトリア女王からクレアモントの居館をあてがわれたが、2年半後に76歳で客死した。

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【 2020/11/06 05:11 】

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世界史のミラクルワールドー「事実は小説よりも奇なり」・バイロン

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アルバニア風衣装のバイロン

 ジョージ=ゴードン=バイロンは1788年にジョン=バイロン大尉とキャサリン=ゴードンの間にロンドンで生まれ、2歳の時にスコットランドのアバディーンに移った。

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ニューステッド=アビー

 1798年に従祖父の第5代バイロン男爵が亡くなり、他に相続人がいなかったため、10歳にして第6代バイロン男爵となり、従祖父が遺した土地と館ニューステッド=アビーを相続するため、ノッティンガムへ移った。

 スコットランドで貧しく暮らしていたバイロン母子は、思わぬ遺産に喜んで引っ越して来たが、あまりにも荒れ果てていたため、知人に貸し、二人はロンドンに住んだ。

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バイロン

 1805年、ケンブリッジ大学に入学した。しかし、バイロンは片足が不自由な障害者ではあったが、父親譲りの美貌で知られ、学業を顧みず放埒な生活を送り、最初の詩集『懶惰【らんだ】な日々』は冷評を受けて、1808年ケンブリッジを去った。

 その後1811年までポルトガル、スペイン、ギリシアなどを旅し、この旅に取材した『チャイドル=ハロルドの巡礼』で、生への憧憬と倦怠を奔放な詩風および異国情緒豊かに表現し、一躍詩壇の寵児となった。彼自身「一夜目覚めてすでに天下の詩人」とノートに記した。

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アナベラ=ミルバンク

 バイロンは社交界の寵児として恋に憂き身をやつしたが、1815年1月2日にアナベラ=ミルバンクと結婚し、12月10日には娘のエイダ=ラブレスが生まれている。

エイダ=ラブレス 
エイダ=ラブレス

 「平行四辺形のプリンセス」とも称された数学者である母の影響で、エイダも数学に高い興味を持ち、結婚後もそのことが彼女の人生を支配した。同僚のチャールズ=バベッジが創案した計算機を計算だけではなく、何か別のことにも応用できるではないかと考えた最初の人物で、世界初のプログラマーとされている。

 1816年1月16日、アナベラは突然、生後1カ月の娘エイダを連れて、バイロンのもとを去ってしまう。バイロンは4月21日、離婚書証にサインした。

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オーガスタ=リー

 アナベラとの離婚の裏にはオーガスタ=リーの存在があった。オーガスタ=リーはバイロンの父の最初の夫人の一人娘、つまりバイロンの腹違いの姉である。1804年、バイロンが実母キャサリンを亡くして悲嘆にくれていた時、書き送った同情に溢れた手紙が二人を寄せ合う原因となった。

 オーガスタとバイロンは連れだっていても傍目には肉親に見えなかった。彼らが愛し合っているのは、誰の目にも明らかだった。バイロンの結婚が破綻するのも、彼が国を捨てて出国したのも、彼女との近親相姦の噂に押しつぶされたからだった。当時、近親相姦のスキャンダルは、社会的地位も何もかも失うことと相違なかった。

 1814年の春、オーガスタは三女エリザベス=メドラ=リーを出産した。出産の数日後、バイロンは姉の自宅を訪問した。彼は赤ん坊と会い、自分の子だと確信したといわれている。親しい友人であったレディ=メルバーンに、彼は手紙を書き送っていた。「ああ、しかし猿ではないよ。幸運なことにね。」(近親相姦で生まれた子供は猿のようなものだと、当時言われていた。)

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 シェリー

 1816年、離婚やその奔放な女性関係を非難されて祖国を去り、スイスのジュネーヴでロマン派の詩人シェリーに会い、ともにスイス各地を巡遊し、その後ヴェネツィア、ラヴェンナ、ピサ、ジェノヴァを放浪した。

 ヴェネツィアでは既婚のマリアンナ=セガティ、22歳のマルガリータ=コーニと関係を持った。コーニは読み書きが出来なかったが夫の家を離れ、バイロンと同居した。二人はしばしば争い、バイロンは自身のゴンドラで夜を過ごすことが多かった。その後、彼がコーニに家を出て行くよう言い放ち、彼女は運河に身を投げた。ラヴェンナではグッチョーリ伯爵夫人テレサと関係を持つなど、退廃した生活を続けた。

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ミソロンギに到着したバイロン

 1823年ギリシア暫定政府代表の訪問を受けたバイロンは、2年前から始まったギリシャ独立戦争へ身を投じることを決意。1824年1月、沼に囲まれたみすぼらしい町ミソロンギへ到着する。彼は21発の礼砲をもって正式に歓迎され、直ちに5000人の部下を持つ指揮官に任命された。

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バイロンの死

 バイロンはコリンティアコス湾の要衝、レパントの要塞を攻撃する計画をたてた。しかし、この戦争好きの詩人は一度も部下を率いて戦場で活躍することはなかった。

 ミソロンギに到着して3カ月後、乗馬に出かけて豪雨に遭遇。高熱を発したバイロンは、4月19日に僅か36歳でこの世を去った。

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【 2020/11/03 05:07 】

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