なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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アレクサンドル2世は1818年4月29日(ユリウス暦4月17日)、ニコライ1世の第一皇子として生まれた。幼い頃から未来の皇帝の地位を約束されていたアレクサンドルは、有能な為政者になるべく帝王教育を受けた。帝国を統べるために必要なドイツ語・フランス語・英語・ポーランド語をマスターし、実際に政府機関に勤務して軍事・外交・財政などの政治的教養を身に付けていった。
1855年3月2日、クリミア戦争がセヴァストポリ要塞の激戦を迎えている最中にニコライ1世が崩御したため、アレクサンドルが皇帝の座についた。戦局は悪化の一途をたどり、翌1856年3月にロシアは敗北を認め、パリ条約を結んだ。
ロシアが、クリミア戦争で敗北したことは、ロシア陸軍の不敗―あのナポレオン戦争に勝利した―の神話をうち砕き、帆船を主体とした海軍は連合軍の蒸気船海軍に惨敗、ロシアの後進性が明らかとなった。
ロシアが、クリミア戦争で敗北したことは、ロシア陸軍の不敗―あのナポレオン戦争に勝利した―の神話をうち砕き、帆船を主体とした海軍は連合軍の蒸気船海軍に惨敗、ロシアの後進性が明らかとなった。
アレクサンドル2世が取り組まなければならない課題は、まず遅れたロシアの社会の近代化であった。アレクサンドル2世は一連の「大改革」といわれる改革に取り組むこととなった。
1861年2月19日、アレクサンドル2世は農奴解放令を公布した。農奴制は、自由な商業や産業の発達の足かせとなり、ロシア社会の後進性の原因であったので、その廃止は急務であった。これは農奴の人格的解放と土地所有を認めたものであったが、有償でしかも与えられる土地は個人ではなく農村共同体(ミール)であったので不十分であった。しかし、ともかくも制度としての農奴制が廃止されたことによって、ロシアは資本主義化の第一歩を踏み出すこととなった。
1861年2月19日、アレクサンドル2世は農奴解放令を公布した。農奴制は、自由な商業や産業の発達の足かせとなり、ロシア社会の後進性の原因であったので、その廃止は急務であった。これは農奴の人格的解放と土地所有を認めたものであったが、有償でしかも与えられる土地は個人ではなく農村共同体(ミール)であったので不十分であった。しかし、ともかくも制度としての農奴制が廃止されたことによって、ロシアは資本主義化の第一歩を踏み出すこととなった。
1864年には地方自治機関であるゼムストヴォを設置した。これは県と郡ごとに設けられた地方議会を兼ねる機関であり、財産資格による選挙によって参事会が選出され、地域の道路整備、医療、教育などに当たった。その基礎は伝統的な農村共同体である村と郷であった。このようにまず地方自治には一定の前進を見たが、中央での議会開設には至らなかった。
その他、「大改革」には治安判事と陪審員裁判を取り入れた司法制度の改革、士官養成や管区編成の変更などの軍事改革、初等教育・中等教育の充実などの教育改革などがおこなわれた。いずれも、ロシアにとっての課題であった近代化を、皇帝が上から実現を図る改革であり、それによって1860年代にはロシアの産業革命が始まった。
その他、「大改革」には治安判事と陪審員裁判を取り入れた司法制度の改革、士官養成や管区編成の変更などの軍事改革、初等教育・中等教育の充実などの教育改革などがおこなわれた。いずれも、ロシアにとっての課題であった近代化を、皇帝が上から実現を図る改革であり、それによって1860年代にはロシアの産業革命が始まった。
ナロードニキの逮捕
しかしその上からの改革は、ツァーリズムの圧政に対する反発を呼び覚まし、1860~70年代にはナロードニキ運動が盛んになった。当時、バクーニンのアナーキズムの思想の影響を受けた青年、学生などのインテリゲンツィアが、「ヴ=ナロード」(人民の中へ)を合い言葉に、農村の中に入り革命思想の宣伝に努めた。このスローガンから彼らはナロードニキと呼ばれた。
しかし、保守的な農民を動かすことが出来ず、次第に絶望して、一部はテロリズムに走り、一方ではニヒリズムに陥っていった。
しかし、保守的な農民を動かすことが出来ず、次第に絶望して、一部はテロリズムに走り、一方ではニヒリズムに陥っていった。
1863年1月にロシア支配下のポーランドで反乱が起こると、その自治を奪い、自国語の使用を禁止して弾圧を加えたので、かえって国内の地下革命組織を刺激し、アレクサンドル2世が暗殺されることになる。暗殺したのは、ナロードニキの流れをくむ「人民の意志」を名乗るテロリストたちであった。
テロリストの中心となったのはソフィア=ペロフスカヤという看護婦で、27歳という若さだった。彼女は貴族の出だったが、ナロードニキの運動に共鳴して家を出、農民を助けるために薬学を学び看護婦となった。労働者に対する政府の激しい迫害を体験し、社会変革のためには専制君主を暴力で倒すしかないと決意し、テロを実行することを決意したのだった。
1881年3月11日(ロシア暦3月3日)、ソフィアたちはかねて準備したアジトで宮殿に帰る途中のアレクサンドル2世を爆弾で襲撃。没落したシュラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグナツィ=フリニェヴィエツキの投じた爆弾により、アレクサンドル2世はその命を奪われた。ツァーリ殺害は世界中を驚かせ、政府は犯人逮捕に狂奔し、10日にソフィアも逮捕され、4月15日に仲間とともに処刑された。
アレクサンドル2世の後を継いだアレクサンドル3世は、ツァーリズム強化をめざし、反体制派の徹底した弾圧に乗り出した。また、暗殺をユダヤ人の犯行であると決めつけ、反ユダヤ主義の感情からユダヤ人に対する激しい迫害(ポグロム)を始めた。このころからロシアを逃れてアメリカなどに移住するユダヤ人が急増することになる。
マリア=アレクサンドロヴナ
ここで、アレクサンドル2世の女性遍歴について話をしよう。1841年、アレクサンドル2世はヘッセン大公ルートヴィヒ2世の末娘マリーと恋愛結婚した。マリーはその母親ヴィルヘルミーネの不義の子だったが、アレクサンドルはそれを承知の上で妻に迎え、マリーは改宗してマリア=アレクサンドロヴナと名乗った。
しかし結婚後、アレクサンドルの妻への愛情は急速に冷め、間に8人の子供をもうけつつ、他の貴族女性との性的関係を繰り返し、3人の私生児をつくった。また、1865年の皇太子ニコライの急死は皇帝をひどい鬱状態に陥らせ、妻や家族など周囲との溝をさらに深める原因となった。
しかし結婚後、アレクサンドルの妻への愛情は急速に冷め、間に8人の子供をもうけつつ、他の貴族女性との性的関係を繰り返し、3人の私生児をつくった。また、1865年の皇太子ニコライの急死は皇帝をひどい鬱状態に陥らせ、妻や家族など周囲との溝をさらに深める原因となった。
1866年、48歳のアレクサンドル2世は、没落貴族の娘でスモーリヌイ女学院の女学生だったエカチェリーナ=ドルゴルーカヤ公爵令嬢(愛称・カーチャ)と出会った。二人はカーチャがスモーリヌイ女学院を卒業するのを待って恋愛関係になり、4人の子供が生まれて幸福な「家庭」生活を築いた。当然ながらこの関係は明るみに出て、皇太子アレクサンドルを始めとする多くの人々の非難を受けた。
1880年5月に皇后マリアが没すると、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチャと再婚(貴賤結婚)するに至った。当然ながらこの結婚はロマノフ家の人々の容認するところとならず、皇帝の死後、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われた。
1880年5月に皇后マリアが没すると、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチャと再婚(貴賤結婚)するに至った。当然ながらこの結婚はロマノフ家の人々の容認するところとならず、皇帝の死後、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われた。
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ナポレオン3世は、プロイセン=オーストリア戦争に中立という「サーヴィス」を提供した対価として、プロイセンにライン左岸の割譲を求めたが、ビスマルクはビアリッツでの口約束を反古にし、皇帝の「チップ外交」を冷笑するのみだった。
ビスマルクは、プロイセンがドイツ統一を果たし中欧に覇権を確立する上で、最大の障害はフランスという認識を早くから持っていた。彼にとっては、プロイセン=オーストリア戦争もフランスを叩く上での布石であり、以後もナポレオン3世の「勇み足」をひきだすための仕掛けを練っていた。ルクセンブルクをオランダから買収しようとしたフランスに激しく抗議し、ロンドン列国会議で永世中立国とさせたのも皇帝のプライドをいたく傷つけた。
そこにスペイン王位継承問題がもちあがる。スペインでは1868年の革命でブルボン復古王政が倒れ、新たな立憲君主政の国王として、プロイセン王家であるホーエンツォレルン家の系統をひくレオポルドを推戴しようとした。フランスにとって、このことはプロイセン王家に挟み撃ちされることを意味し、ハプスブルクのカール5世がスペイン王カルロス1世を兼ねてフランスを挟撃した16世紀の悪夢を思い出させるものであった。
フランスの世論をあげての激しい攻撃に、一時は受諾に傾きかけていたホーエンツォレルン家も辞退を表明する。フランスとの開戦を望んで、王位受諾を働きかけていたビスマルクの野望はこれでついえたかに思われた。
フランスの世論をあげての激しい攻撃に、一時は受諾に傾きかけていたホーエンツォレルン家も辞退を表明する。フランスとの開戦を望んで、王位受諾を働きかけていたビスマルクの野望はこれでついえたかに思われた。
ここでナポレオン3世は勇み足をおかす。1870年7月13日、ナポレオン3世がプロイセン国王からスペイン王位問題を蒸し返さない確約をとるべく、温泉地エムスに滞在中のプロイセン国王ヴィルヘルム1世のもとに駐プロイセン大使ベネデッティを派遣した。
だが国王は、さすがにこの非礼に腹をたて、申し入れを拒否しただけでなく午後の引見予定をも取り消した。この経過は電報でベルリンのビスマルクに伝えられた。
だが国王は、さすがにこの非礼に腹をたて、申し入れを拒否しただけでなく午後の引見予定をも取り消した。この経過は電報でベルリンのビスマルクに伝えられた。
開戦準備怠りないビスマルクは、すでにバイエルンをはじめとする南ドイツ4邦国の支持をとりつけ、イギリス、ロシアからも好意的中立の感触を得ていた。モルトケ、ローンとの食事の席で、国王からの電文を受け取ったビスマルクは鉛筆を片手に電文を改竄し、ただちに新聞に発表させた。フランス大使の非礼に怒ったプロイセン国王は今後いっさいフランスとは交渉しない、という内容であった。有名なエムス電報事件である。
これを見たドイツの世論は沸き立ち、反フランスをバネとした国民意識がいっきに盛り上がった。他方、大使が侮辱されたとみたフランスの世論も猛反発し、「ベルリンへ!」「プロイセンを倒せ!」という声がパリ民衆の間で飛び交う。早くも7月14日開戦が閣議決定され、7月19日にはプロイセンに宣戦布告がなされた。ビスマルクの仕掛けた罠に、ナポレオン3世がまんまと引っ掛かったのである。
ビスマルクは王位継承といういかにも前近代的な王朝外交をテコにして、ドイツ統一、国民国家形成という19世紀ナショナリズム的課題の仕上げにとりかかった。かつてオーストリア側につき、反プロイセン分邦主義に立っていたバイエルン、バーデン、ヴュルテンベルク、ヘッセンの南ドイツ4邦国も、反仏ナショナリズムの波に乗せられてプロイセン軍と合流した。マイン河の南北で波風が立つことを期待したフランスにとって、これは大きな計算違いであった。
このいくさは普仏戦争と言われているが、実態は全ドイツとフランスとの戦い、まりつ独仏戦争であった。
このいくさは普仏戦争と言われているが、実態は全ドイツとフランスとの戦い、まりつ独仏戦争であった。
52万の兵力、質量とも優勢な火器、円滑な輸送・兵站など準備万端整えられていたドイツ軍に対して、大砲を半分以下しかもたぬ30万のフランス軍は、兵站部の準備が遅れたまま実戦に突入したが、ヨーロッパ最強という彼らの自負が虚構であったことを露呈するのに幾らもかからなかった。
降伏したナポレオン3世とビスマルク
8月、アルザス・ロレーヌに侵攻したドイツ軍は連戦連勝、月末にはフランスの主力軍をメッツとスダンに分断して追い詰め、包囲の態勢を整えた。9月1日スダンで総攻撃を受けたフランス軍は1万7000人の死傷者を出し、翌2日にはナポレオン3世は8万3000の将兵とともに降伏した。9月4日、この報を受けたパリでは蜂起が起こり、第二帝政はあえなく瓦解、穏健共和派を中心とした臨時国防政府が成立した。
ドイツ軍は侵入を続けてパリを包囲し、4カ月におよんだ。この間、国防政府のガンベッタは10月初め、熱気球でパリを脱出、義勇軍を編成してパリを救援しようとしたが敗れた。こうしてパリ市民の果敢な抵抗も寒気と飢餓のため潰えて、ついに1871年1月26日降伏。正規軍は全員捕虜となり、28日パリは開城された。
新たに行政長官に就いたティエールが交渉にあたり、2月26日仮講和条約が締結された。フランスは50億フランの賠償金を向こう3年間で支払い、アルザスの大半とロレーヌの3分の1をプロイセンに割譲するという条件を呑まざるをえなかった。
3月1日、勝ち誇ったプロイセン軍がパリに入城し、抗議の黒旗がたれ下がるシャンゼリゼを行進した。プロイセンは、ナポレオン1世の軍隊にベルリンを制圧された屈辱と怨念を、60数年かかってここに晴らしたわけである。
新たに行政長官に就いたティエールが交渉にあたり、2月26日仮講和条約が締結された。フランスは50億フランの賠償金を向こう3年間で支払い、アルザスの大半とロレーヌの3分の1をプロイセンに割譲するという条件を呑まざるをえなかった。
3月1日、勝ち誇ったプロイセン軍がパリに入城し、抗議の黒旗がたれ下がるシャンゼリゼを行進した。プロイセンは、ナポレオン1世の軍隊にベルリンを制圧された屈辱と怨念を、60数年かかってここに晴らしたわけである。
だが、過剰な報復はあらたな怨念を増幅させるだけである。実は、プロイセンはパリ入城より1カ月以上も前に、これ以上ない屈辱感をフランス人に味わわせていた。1871年1月18日、まだパリ市民が砲撃を浴び続けているさなかに、占領されたヴェルサイユ宮殿「鏡の間」では、なんとプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式が執り行われたのである。
フランスに対する怨念によって育まれたドイツ国民主義が本懐をとげるのに、これ以上相応しい場所はない。とはいえ、いささか悪趣味の謗りは免れまい。この屈辱によって屈折し、増幅されたフランスのナショナリズムは、1914年に爆発し、大戦後の過酷なヴェルサイユ講和条約をなって今度はドイツに跳ね返って来るのである。
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フランスに対する怨念によって育まれたドイツ国民主義が本懐をとげるのに、これ以上相応しい場所はない。とはいえ、いささか悪趣味の謗りは免れまい。この屈辱によって屈折し、増幅されたフランスのナショナリズムは、1914年に爆発し、大戦後の過酷なヴェルサイユ講和条約をなって今度はドイツに跳ね返って来るのである。
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ビスマルクは1815年にシェーンハウゼンでユンカー(領主貴族)の家に生まれ、ゲッティンゲン大学・ベルリン大学に学んだ。卒業後、一時軍務などについたが、父の死後は領地の経営にあたった。プロイセン連合州議会議員となって政界に入り、1848年の三月革命では反革命派として王政擁護に活躍。
1851年、フランクフルト連邦議会にプロイセン代表として参加し、小ドイツ主義の立場に立ち、オーストリアと対立した。その後はプロイセン大使としてロシア、ついでフランスに赴任し、外交経験を積んだ。
1862年9月、プロイセン議会は政府提出の軍備拡張を進める予算案を否決した。この窮状を打開するため、国王ヴィルヘルム1世はビスマルクを首相兼外相に任命した。時にビスマルク47歳。
就任1週間目の9月20日、ビスマルクは下院予算委員会で議員を前にして軍備の必要性を訴える演説を行った。
1862年9月、プロイセン議会は政府提出の軍備拡張を進める予算案を否決した。この窮状を打開するため、国王ヴィルヘルム1世はビスマルクを首相兼外相に任命した。時にビスマルク47歳。
就任1週間目の9月20日、ビスマルクは下院予算委員会で議員を前にして軍備の必要性を訴える演説を行った。
「ドイツの着眼すべき点は、プロイセンの自由主義ではなくその軍備であります。……プロイセンは今まで何回かの好機を失って来ましたが、これにかんがみてプロイセンは今後の好機に備えて力を結集しておかねばならないのであります。プロイセンの国境は健全な国家のそれにふさわしいものではありません。言論や多数決によっては現下の大問題は解決されないのであります。言論や多数決は1848年および1849年の欠陥でありました。鉄と血によってこそ問題は解決されるのであります。」
この演説によりビスマルクは鉄血宰相と呼ばれるようになる。言うまでもなく鉄とは大砲や銃・銃弾、軍艦などの武器を意味し、血とは兵士の流す血を意味している。つまり、ドイツの統一のためにはオーストリアとの戦いは避けられず、プロイセンの軍事大国化のためには議会や言論は無視することを宣言したのだった。
軍制改革・軍備拡張案が議会で否決されると、憲法には政府と議会の意見一致が見られななかった時の規定がないことを理由に、政府責任で強行し、議会が違憲を唱えると停会につぐ停会で答えた。
この演説によりビスマルクは鉄血宰相と呼ばれるようになる。言うまでもなく鉄とは大砲や銃・銃弾、軍艦などの武器を意味し、血とは兵士の流す血を意味している。つまり、ドイツの統一のためにはオーストリアとの戦いは避けられず、プロイセンの軍事大国化のためには議会や言論は無視することを宣言したのだった。
軍制改革・軍備拡張案が議会で否決されると、憲法には政府と議会の意見一致が見られななかった時の規定がないことを理由に、政府責任で強行し、議会が違憲を唱えると停会につぐ停会で答えた。
アルスを襲撃するプロイセン兵(デンマーク戦争)
まず、1864年にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題で、オーストリアと共同してデンマーク戦争を起こし、デンマークを破った。ビスマルクの当面の叩くべき相手は、ドイツ連邦の主導権を巡って対立が続くオーストリアである。実はデンマーク戦争を起こしたビスマルクの真の目的は二つあった。
一つはオーストリアと共同作戦をとることで、オーストリアの装備、指揮系統、指揮官の能力、兵士の士気など、オーストリア軍の内部事情を探ることにあった。そして、ビスマルクはオーストリア軍の装備から用兵までもがナポレオン時代から進歩していないことを知った。
一つはオーストリアと共同作戦をとることで、オーストリアの装備、指揮系統、指揮官の能力、兵士の士気など、オーストリア軍の内部事情を探ることにあった。そして、ビスマルクはオーストリア軍の装備から用兵までもがナポレオン時代から進歩していないことを知った。
戦後、シュレスヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアがそれぞれ統治することになった。しかし、ビスマルクは巧みにオーストリアを戦争に追いこんでいく。ホルシュタインの統治をめぐってオーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世を挑発し、戦争に持ち込んだ。これがビスマルクのもう一つの目的であった。
フランスのナポレオン3世は少年時代をバイエルンで過ごしたためか、親ドイツ的なところがあった。風貌もラテン的というより、どことなくゲルマン風である。生粋のプロイセン・ユンカー出身のビスマルクとは、彼が駐フランス大使であったころ顔見知りとなっている。この時すでに、ナポレオン3世はその「ひとの良さ」あるいは「性格の弱さ」をビスマルクに見抜かれていた。
ドイツ統一の主導権争いに決着をつけたプロイセン=オーストリア戦争では、ビスマルクの外交手腕が冴えわたった。ビスマルクは、1865年10月スペイン国境近くの保養地ビアリッツにナポレオン3世を訪ね、オーストリアとの開戦に際してフランスが中立を保つなら、ライン左岸のどこかを割譲してもよいとの意向をほのめかした。この口約束で好意的中立をとりつけたビスマルクは、さらにイタリアとも密約を結び、南からオーストリアの背後を牽制させた。
ドイツ統一の主導権争いに決着をつけたプロイセン=オーストリア戦争では、ビスマルクの外交手腕が冴えわたった。ビスマルクは、1865年10月スペイン国境近くの保養地ビアリッツにナポレオン3世を訪ね、オーストリアとの開戦に際してフランスが中立を保つなら、ライン左岸のどこかを割譲してもよいとの意向をほのめかした。この口約束で好意的中立をとりつけたビスマルクは、さらにイタリアとも密約を結び、南からオーストリアの背後を牽制させた。
こうした布石の一方で、参謀総長モルトケが着々と戦争準備を整えていた。兵員量、実戦経験などで優っていたオーストリアを下したのは、産業革命の賜である鉄道と電信をルフに活かした、迅速な兵力移送と作戦・指揮系統の効率化がものを言った。これに最新式の火器など、装備の近代化においてもオーストリアを上回っていた。
こうしてプロイセンは、南北二正面作戦を強いられたオーストリアを1866年7月サドワ・ケーニッヒグレーツに破り、積年の雄邦対立に決着をつけた。開戦からわずか7週間であった。
翌1867年のプラハ講和条約では、オーストリア主導のドイツ連邦が解体され、マイン河以北にプロイセンが22の邦国を統括する来たドイツ連邦が誕生した。さらに、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン・ハノーファー・ナッサウなどもプロイセンに併合された。以後、「ドイツ」の圏外に去ったオーストリアは国制を改革し、マジャール人の自立を認めてオーストリア=ハンガリー帝国として再出発することを余儀なくされる。
続いてビスマルクはナポレオン3世を翻弄し、フランスを戦争へと追い込んでいくことになる。(つづく)
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翌1867年のプラハ講和条約では、オーストリア主導のドイツ連邦が解体され、マイン河以北にプロイセンが22の邦国を統括する来たドイツ連邦が誕生した。さらに、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン・ハノーファー・ナッサウなどもプロイセンに併合された。以後、「ドイツ」の圏外に去ったオーストリアは国制を改革し、マジャール人の自立を認めてオーストリア=ハンガリー帝国として再出発することを余儀なくされる。
続いてビスマルクはナポレオン3世を翻弄し、フランスを戦争へと追い込んでいくことになる。(つづく)
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ガリバルディがカプレラ島で隠遁生活に入った頃から、情勢は大きく転換する。1852年にサルデーニャ王国の首相となったカヴールがクリミア戦争に参戦し、巧みな外交でフランスのナポレオン3世の信頼を得てプロンビエールの密約を結んだ上で、1859年4月、オーストリアに宣戦、イタリア統一戦争が始まった。
サルデーニャ・フランス同盟軍はミラノを解放し、ソルフェリーノの戦いでは大規模な戦闘となり大きな犠牲を出したが辛勝した。ガリバルディは熱烈な共和主義者であったので、カヴールの進めるイタリア統一には初め反対であったが、オーストリアからの解放の戦いが始まると積極的に参加、「アルプス猟兵隊」という義勇師団を率いてオーストリア国境でゲリラ戦を展開した。
しかし、突如ナポレオン3世がヴィラフランカの和約でオーストリアと単独講和したため、戦争は中断されることになった。ガリバルディもやむなく戦闘を中止した。その結果、ロンバルディアはサルデーニャに併合されたが、ヴェネツィアはオーストリア支配下にとどまることとなった。
しかし、突如ナポレオン3世がヴィラフランカの和約でオーストリアと単独講和したため、戦争は中断されることになった。ガリバルディもやむなく戦闘を中止した。その結果、ロンバルディアはサルデーニャに併合されたが、ヴェネツィアはオーストリア支配下にとどまることとなった。
1860年3月にはカヴールがトスカーナなど中部イタリアを併合を認めさせるため、フランスにサヴォイアとニースを割譲したことにガリバルディは激怒し、関係は悪化した。
「千人隊」の出発
ガリバルディは独自に事態打開のため行動を開始、1860年5月、「千人隊」を率いて、海路シチリア島に向かった。シチリア遠征は急に決まったため、ジェノヴァの近くの港を出たときの人数は1089名にすぎなかった。そこから「千人隊」の名称が付けられた。
またガリバルディの赤シャツ姿はすでに有名だったので「赤シャツ隊」とも言われたが、全員のユニフォームだったわけではなく、実際に赤シャツは50着しか用意されず隊員は普段着のまま参加した。ガリバルディの赤シャツは目立ちすぎて標的になたため、隊員はできるだけ彼の前に立ちはだかるようにした。
シチリア軍を破る千人隊
ガリバルディはシチリア島西岸に上陸して両シチリア王国のブルボン朝軍と戦い、パレルモに入城、シチリア島を占領した。
さらにガリバルディと千人隊はメッシーナ海峡を渡りイタリア本土に侵攻、9月7日にナポリに入城した。ガリバルディは市民から大歓迎を受け、国王フランチェスコ2世は退去した。こうしてブルボン家の支配する両シチリア王国は消滅、ガリバルディによって征服された。
ガリバルディの優れた軍事的指導力に驚愕したカヴールは、急遽シチリアと南イタリアで住民投票を実施、サルデーニャへの併合を可決させた。
ガリバルディは更にローマの教皇国家を解放することをめざし北上しようとしたが、それは教皇を護衛しているフランスとの決定的な対立となるので、カヴールはそれを阻止しようとし、またマッツィーニなども段階的な統一が現実的と考え、ガリバルディの北上に反対した。ガリバルディは軍事的には成功したが政治的には主導権を握ることはできなかった。
ヴィットリオ=エマヌエーレ2世も急遽半島を南下し、1860年10月25日、ナポリ北方のテアーノで両者は会見し、ガリバルディはシチリアとナポリの統治権を無条件で国王に献上した。これによってサルデーニャ王国主体のイタリアの統一が大きく進んだ。
ガリバルディは、熱心な共和主義者であったが、マッツィーニのような原理的なものではなく、政治的見識よりも「イタリアの統一」という民族意識を優先した。シチリア遠征を開始するにあたっての千人隊への演説でもこの戦いは「ヴィットーリオ=エマヌエーレとイタリア」のためだとしてそれを標語にした。イタリア統一のためには共和政の理念よりも国王の権威が必要と考えたものと思われる。
ガリバルディはさらに1年間の南部イタリアの支配、千人隊の正規軍への編入などを求めたがカヴールの反対で却下された。かわりに正規軍の将軍の地位や大勲章の授与、貴族の称号、城や船の供与などが国王から提案されたが、ガリバルディはそのすべてを拒否、11月にナポリを離れカプレラ島に帰った。これが事実上のガリバルディによるイタリア統一運動の終焉であった。
ガリバルディはさらに1年間の南部イタリアの支配、千人隊の正規軍への編入などを求めたがカヴールの反対で却下された。かわりに正規軍の将軍の地位や大勲章の授与、貴族の称号、城や船の供与などが国王から提案されたが、ガリバルディはそのすべてを拒否、11月にナポリを離れカプレラ島に帰った。これが事実上のガリバルディによるイタリア統一運動の終焉であった。
1861年3月、サルデーニャ王国は新たにイタリア王国として正式に発足した。ガリバルディの名声は衰えることなく、一時はイタリア王国の議会に議員として迎えられたが、激しくカヴールを批判して孤立し、国内では厄介者扱いされる状態となった。その後も残されたローマ併合と共和政に意欲を燃やしたが、共和政は実現することなく、1882年6月2日、ガリバルディは一族に見守られながらに75年の生涯を閉じた。
イタリア王国が正式に成立した1861年、アメリカ合衆国で南北戦争が始まった。大統領リンカンは、ガリバルディの軍人としての能力を高く評価していたので、北軍の司令官就任を要請した。しかし、ガリバルディは北軍の最高司令官に就任することと奴隷制の廃止という二つの条件を出した。リンカンは、軍隊の最高地位を外国人に与えることは不可能であり、奴隷制廃止には時間がかかるとして返答した。
南米では自ら奴隷制廃止のために戦い、1861年にはロシアで農奴解放令が出されたことを知っていたであろうガリバルディは、結局リンカンの要請を断った。
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南米では自ら奴隷制廃止のために戦い、1861年にはロシアで農奴解放令が出されたことを知っていたであろうガリバルディは、結局リンカンの要請を断った。
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ガリバルディは1807年にニース(当時第一帝政下のフランス領)で生まれた。彼の両親はそこで海上貿易に携わっており、彼も常に海の上で育ち、1832年には商船隊のキャプテンとなった。
マッツィーニと固い握手
ガリバルディは1831年に青年イタリアが結成されたことを知って感激し、1834年にマッツィーニに会って、二人は固い握手をした、とされている。この話はいくつかのガルバルディの伝記には取り上げられているが、本人の回想録には出てこない。どうやら1834年に二人が会ったというのは後日の創作らしく、二人が顔を合わせたのは1848年のミラノにおいてだった。
ガリバルディは運動の先駆者マッツィーニを常に高く評価していたが、どうやら人間的にはその禁欲的で理性的な感じは、思想よりは心情と行動の人であったガリバルディとは合わなかったらしい。
ガリバルディは運動の先駆者マッツィーニを常に高く評価していたが、どうやら人間的にはその禁欲的で理性的な感じは、思想よりは心情と行動の人であったガリバルディとは合わなかったらしい。
1834年、青年イタリアが崩壊してガリバルディもサルデーニャ海軍を脱走、イギリス人船員になりすまして1835年、マルセイユから乗船してブラジルのリオ=デ=ジャネイロに向かった。南米での亡命生活は28歳から40歳までの13年間に及んだ。
ブラジルに着いた頃、南部のリオ=グランデ=ド=スール地方で分離独立運動が起こっていた。ガルバルディはただちに運動に加わり、私掠船の船長となってブラジルと戦った。その大義名分は黒人奴隷制を続けているブラジルで、奴隷を解放することだった。
しかし、独立運動は内紛のために失敗に帰し、1841年、拠点をウルグアイに移し、首都モンテビデオでウルグアイ軍に投じてイタリア人移民を組織して「イタリア軍団」をつくり、アルゼンチンとの戦争を指揮した。ガリバルディのイタリア軍団は各地でアルゼンチン軍を破り、その報道はイタリアにももたらされ、知られるようになった。
ブラジルに着いた頃、南部のリオ=グランデ=ド=スール地方で分離独立運動が起こっていた。ガルバルディはただちに運動に加わり、私掠船の船長となってブラジルと戦った。その大義名分は黒人奴隷制を続けているブラジルで、奴隷を解放することだった。
しかし、独立運動は内紛のために失敗に帰し、1841年、拠点をウルグアイに移し、首都モンテビデオでウルグアイ軍に投じてイタリア人移民を組織して「イタリア軍団」をつくり、アルゼンチンとの戦争を指揮した。ガリバルディのイタリア軍団は各地でアルゼンチン軍を破り、その報道はイタリアにももたらされ、知られるようになった。
アニータ
この南米での亡命生活中、ガリバルディは三つの貴重なものを得た。一つはゲリラ戦の戦術であり、これは後のイタリアでの戦闘に大いに生かされた。後の南米の革命児チェ=ゲバラも彼の戦術を学んだといわれる。もう一つはブラジル人の妻アニータを得たことであった。アニータとの間には二人の男の子が生まれ、やがて母子を伴ってイタリアに帰り困難な闘いをともにすることとなる。最後の一つが「赤シャツの誕生」だった。
ガリバルディの代名詞でもある「赤シャツ隊」が、最初に現れたのは南米亡命中のウルグアイでのイタリア軍団だった。しかしその真相は次のようなことだった。
「イタリア軍団の制服は、後にガリバルディ伝説とも深くかかわる赤シャツであった。シャツといっても、ウールの長上着で、ベルトで締めるものである。赤は政治的な意味をもつものでも、革命をさすものでもない。いかにも派手で、人目につく、ガリバルディの義勇兵部隊の象徴となる赤シャツの誕生は、イタリア軍団の資金不足の結果であり、そこにはドラマもなにも存在しない。
血がついても汚れが目立たない、ブエノス・アイレスの食肉加工職人用の赤いシャツが戦争で出荷できずに、モンテビデオの倉庫に山積みになっていた。それを安く買いとって、イタリア軍団員の制服にしたというものである。」<藤澤房俊『ガリバルディ』中公新書 p.44>
「イタリア軍団の制服は、後にガリバルディ伝説とも深くかかわる赤シャツであった。シャツといっても、ウールの長上着で、ベルトで締めるものである。赤は政治的な意味をもつものでも、革命をさすものでもない。いかにも派手で、人目につく、ガリバルディの義勇兵部隊の象徴となる赤シャツの誕生は、イタリア軍団の資金不足の結果であり、そこにはドラマもなにも存在しない。
血がついても汚れが目立たない、ブエノス・アイレスの食肉加工職人用の赤いシャツが戦争で出荷できずに、モンテビデオの倉庫に山積みになっていた。それを安く買いとって、イタリア軍団員の制服にしたというものである。」<藤澤房俊『ガリバルディ』中公新書 p.44>
1848年革命の嵐がヨーロッパに巻き起こると、ガリバルディは直ちに帰国、6月23日にニースに着いた。奴隷から解放された黒人アギャールが副官として付き添っていた。彼は生涯をガリバルディの側で活動している。他に200人足らずの義勇兵が従った。ただちに激しい「ミラノの五日間」を戦ってオーストリア軍を撃退していたミラノ蜂起に加わり、マッツィーニと面会、サルデーニャ軍とともにその戦いに加わり1500名を率いて戦った。
この第1次イタリア独立戦争とも言われる戦いでは、サルデーニャ軍が敗れたため、ミラノが孤立し、間もなく臨時政府も崩壊した。しかし、ガリバルディは戦いを止めず、孤独な戦いを続け、各地を転戦した。
この第1次イタリア独立戦争とも言われる戦いでは、サルデーニャ軍が敗れたため、ミラノが孤立し、間もなく臨時政府も崩壊した。しかし、ガリバルディは戦いを止めず、孤独な戦いを続け、各地を転戦した。
翌1849年1月、ローマでも革命の動きが高まり、教皇ピウス9世が逃亡したとの知らせを受け、ガリバルディの赤シャツ隊は厳冬のアペニン山脈を越えてローマに向かった。2月9日にローマ共和国が成立、ガリバルディも議員として共和政議会に参加した。
カルロ=アルベルト
しかし、サルデーニャ王国軍は3月のノヴァーラの戦いでオーストリアに敗れ、国王カルロ=アルベルトは退位したため、ローマ共和国は危機に陥った。マッツィーニがローマに迎えられ、三頭政治を開始したが、今度はフランスで大統領となったルイ=ナポレオンが国内のカトリック勢力の支持を得ようとしてローマ教皇救済に乗り出し、4月にフランス軍がローマ共和国攻撃を開始した。
ガリバルディはローマ共和国防衛の戦いでも奮闘し、一時はフランス軍を撃退したが、追撃を主張するガリバルディに対し、マッツィーニはフランスとの妥協を図るなど対応が分裂し、ついにフランス軍の総攻撃によって陥落し、ガリバルディはヴェネツィアを目指して逃避行に入った。
ガリバルディはローマ共和国防衛の戦いでも奮闘し、一時はフランス軍を撃退したが、追撃を主張するガリバルディに対し、マッツィーニはフランスとの妥協を図るなど対応が分裂し、ついにフランス軍の総攻撃によって陥落し、ガリバルディはヴェネツィアを目指して逃避行に入った。
アニータの死
身重の妻アニータが一緒に行動したが、過労のため、途中のラヴェンナで力尽きて息絶えた。墓穴を掘る間もなくいたいに土をかけただけで急いで立ち去らなければならなかった。オーストリア軍とフランス軍の追跡は厳しく、ヴェネツィアに入ることはできず、荷馬車に隠れてトスカーナに逃れた。この悲劇的な逃避行も、後にガリバルディ神話の一つになる。
アニータは常に夫とともに前線で戦い、「イタリアのアマゾネス」と呼ばれた女傑であった。
アニータは常に夫とともに前線で戦い、「イタリアのアマゾネス」と呼ばれた女傑であった。
ジェノヴァに逃れたガリバルディは、1850年にはニューヨークに亡命、51年にかけて船乗りとして中国の広東やオーストラリアなどに出かけている。54年にジェノヴァに戻り、サルデーニャ島近くの小島カプレラ島を購入して隠棲生活に入った。(つづく)
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16世紀に北部アルスター地方に植民して以来、イギリスはアイルランドを植民地として支配し収奪した。アングロ=サクソン系でプロテスタントのイギリスと、ケルト系でカトリックのアイルランドという民族や宗教・文化の対立が、支配の強化と、それに対する自治や独立の要求運動にからんだ、アイルランド問題の解決は大英帝国にとって難問となり、「のどに刺さった小骨」と言われた。
ピューリタン革命時のクロムウェルによる征服と土地の没収以降、土地の80%以上がイギリス人不在地主に占有され、小作人となったアイルランド農民は、貧困と差別の中でジャガイモを常食とする苦しい生活にあえいだ。1801年にイギリスに併合されたのち、オコンネルらの運動によって宗教差別は緩和されたが、経済支配はさらに強化された。
ピューリタン革命時のクロムウェルによる征服と土地の没収以降、土地の80%以上がイギリス人不在地主に占有され、小作人となったアイルランド農民は、貧困と差別の中でジャガイモを常食とする苦しい生活にあえいだ。1801年にイギリスに併合されたのち、オコンネルらの運動によって宗教差別は緩和されたが、経済支配はさらに強化された。
アイルランドは、北緯50度を超える高緯度地方にあり、約1万年前まで全島を氷河が覆っていた。そのため土壌は薄く、しかも気温が低いために作物の生育に適した腐植土にも乏しい。そんな条件下でもジャガイモはよく育った。もともと大半のアイルランド人の主食はエンバクであり(これをオートミールにして食べていた)、バターなどの酪農品がそれを補っていたが、それでは冬に食べ物が乏しくなる。ジャガイモが注目されたのも当然だった。
しかし、アイルランドでジャガイモが受け入れられた背景はそれだけではない。支配者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ、自分たちが収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。小作人となったアイルランド農民は、農地の3分の2に小麦を植え、その収穫のほぼすべてをイングランドの地主に納めた。そして残り3分の1の劣悪な条件の土地にジャガイモを植え、主食として生き延びることができたのである。
小麦は粉にしてから、これを練って焼き、パンにしなければ食べられないが、ジャガイモは茹でただけで食べることが出来る。だから、ドイツではジャガイモのことを「貧者のパン」と言った。岩盤だらけのアイルランドの土地でも、ジャガイモはほとんど手入れなしで1ヘクタールの畑で17トンものイモが生産されるため「怠け者のベッド(苗床)」とさえ呼ばれた。
ジャガイモのビタミンと数頭の牛からのミルクやバターで農民の生活が保障されたため、この国の人口は1754年の320万人から、1845年には約820万人にまで膨れ上がった。
ジャガイモのビタミンと数頭の牛からのミルクやバターで農民の生活が保障されたため、この国の人口は1754年の320万人から、1845年には約820万人にまで膨れ上がった。
そこに襲いかかったのが「1348年の黒死病(ペスト)以降でヨーロッパ最悪の惨事」と言われる「ジャガイモ飢饉」。原因は「ジャガイモ疫病」。アメリカ起源のこの病気は、1845年7月にはベルギーで報告され、8月にはパリやドイツ西部にも広がり、同月末にはアイルランドに上陸。そして1849年まで5年間もこの病気はアイルランドで猛威をふるい続けた。200年近くもの間、ジャガイモの収穫だけを頼りに生活していた貧しい農民たちは、生き延びることさえ難しい状況に追い込まれていく。
病気が収束して飢饉が終わるまでに、この「大飢饉」によってアイルランドでの餓死者は100万人を超えた。あまりにも死亡者が多かったため棺桶も墓も間に合わずそのままの状態で荷車によって運ばれ、遺体はまとめて埋葬された。
それにしても、なぜアイルランドだけで「ジャガイモ疫病」が「大飢饉」を引き起こしたのか?それは、アイルラン人があまりにもジャガイモに依存しすぎた(しかも「ランパー」という「ジャガイモ疫病」の影響を受けやすい品種のみ栽培)せいで、飢饉のような非常時に代替作物がなかったからだ。
ダブリンの飢饉追悼碑
しかし、それだけではない。当時のアイルランドがおかれていた社会状況も考慮に入れなければならない。イギリス政府が十分な対応策を取らなかったのだ。食糧不足を解決するためには海外から安価な穀物を早急に輸入する必要があったが、「穀物法」(穀物の価格維持が目的)のために実行が困難だった。さらに、アイルランドから国外への輸出規制も行われなかった。驚くべきことに、飢饉が最も深刻な時でさえ、穀物を満載したアイルランドの船がイギリスに向かっていたのだ。
当時の民族主義活動家ジョン=ミッチェルは怒りもあらわにこう言った。
当時の民族主義活動家ジョン=ミッチェルは怒りもあらわにこう言った。
「神がジャガイモ疫病菌を遣わされたことはまちがいない。しかし飢饉を作り出したのはイングランド人だ。」
移民として旅立つ者を見送る人々
こうした状況にもと、疲弊したアイルランドに見切りをつけ、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民として新天地を求めて去っていくものが相次ぐ。「大飢饉」のあいだにアイルランドから去っていった人たちは150万人に達するとされる。アイルランドの人口停滞は続き、2019年現在でアイルランドの人口は490万人にすぎず、一方、アメリカには4300万人、全世界では7000万人のアイルランド系の人が住んでいるといわれる。
しかし、貧しく、手に職もない移民(実態は今日の「難民」)たちを待ち受けていたのは苦難の道だった。とくに、プロテスタントが大多数を占めるアメリカでは、カトリック系のアイルランド移民は肩身が狭かった。アメリカ社会では、アイルランド人であり、カトリックであるということは汚名であり、職を得ようとすれば彼らに対する偏見が立ちはだかった。
しかし、貧しく、手に職もない移民(実態は今日の「難民」)たちを待ち受けていたのは苦難の道だった。とくに、プロテスタントが大多数を占めるアメリカでは、カトリック系のアイルランド移民は肩身が狭かった。アメリカ社会では、アイルランド人であり、カトリックであるということは汚名であり、職を得ようとすれば彼らに対する偏見が立ちはだかった。
それでも、そのような苦難に満ちた社会の中から、成功するものも生まれる。その一人が、アメリカの歴代大統領45人の中で唯一カトリック信者であったケネディ大統領である。彼の曽祖父パトリック=ケネディは大飢饉が起こった1848年にアイルランドからアメリカに移住した人物であった。
ひとつこんなエピソードを紹介しておこう。
1845年、オスマン帝国のスルタン、アブデュル=メジト1世はアイルランド支援のために1万ポンドを送ると宣言したが、ヴィクトリア女王は2,000ポンドしか送っていなかったため、イギリスはスルタンに1,000ポンドしか送らないよう要求した。
スルタンは1,000ポンドを送り、密かに3隻の船を満杯にして送った。イギリスは船を封鎖しようとしたが、食料はアイルランドのドロヘダ湾に到達し、オスマン帝国の船員たちによってそこに残された。
人命よりもメンツを優先させたイギリス政府であった。
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エリザベス1世に続いて「女王陛下の下で栄える」を実現したのがヴィクトリア女王であった。
ヴィクトリア女王の63年7か月の治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれ、政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げた。この時代のものは、政治、外交、軍事、文学、科学、家具などいずれであれ、「ヴィクトリア朝の~」と形容をされることが多い。
ヴィクトリア女王の63年7か月の治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれ、政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げた。この時代のものは、政治、外交、軍事、文学、科学、家具などいずれであれ、「ヴィクトリア朝の~」と形容をされることが多い。
19世紀イギリスの高度成長期の開幕を告げたのが、1851年にロンドンのハイド=パークで開催された第1回ロンドン万国博覧会であった。
この万博は、その基金の全額が寄付によって賄われたとはいえ、ヴィクトリア女王の夫君アルバート殿下を総裁とするまさに国家的な大イヴェントであった。万博の象徴は、全館が30万枚のガラスで覆われた大展示館で、造園士のジョーゼフ=パクストンによって温床のイメージをもとに設計され、水晶宮(クリスタル=パレス)と呼ばれた。
この巨大な建物は、横1,848フィート、奥行き408フィート、高さ66フィート、中央の身廊部分は高さが108フィートあり、自然保護の見地からハイド=パークにあったニレの巨木をそのままその中に収めていた。
博覧会には世界30カ国以上が参加、出品者・団体は1万5000、持ち込まれた展示品は10万点にのぼった。イギリスは機械類の展示などで他国を圧倒し、6割以上の賞牌を獲得した。
この万博は、その基金の全額が寄付によって賄われたとはいえ、ヴィクトリア女王の夫君アルバート殿下を総裁とするまさに国家的な大イヴェントであった。万博の象徴は、全館が30万枚のガラスで覆われた大展示館で、造園士のジョーゼフ=パクストンによって温床のイメージをもとに設計され、水晶宮(クリスタル=パレス)と呼ばれた。
この巨大な建物は、横1,848フィート、奥行き408フィート、高さ66フィート、中央の身廊部分は高さが108フィートあり、自然保護の見地からハイド=パークにあったニレの巨木をそのままその中に収めていた。
博覧会には世界30カ国以上が参加、出品者・団体は1万5000、持ち込まれた展示品は10万点にのぼった。イギリスは機械類の展示などで他国を圧倒し、6割以上の賞牌を獲得した。
開会宣言はヴィクトリア女王が行った。女王暗殺を警戒して開会宣言を内輪で行うべきとの意見もあったが、最終的にはヴィクトリア自身が公開して行うと決めた。ヴィクトリアは万博開催中の数ヶ月間、気分が高揚してロンドン万博以外のことはほとんど頭になくなっていた。万博のすべてを見学しようと1週間に数回という頻度で水晶宮を訪れている。
開催機関は、5月1日から10月15日までの5カ月半、その間の観客数は延べ600万人(リピーターや外国人も含む)も訪れたという。これは当時のイギリス人の人口の3分の1に相当する。
その純益は17万ポンドに達した。この純益の一部はサウス・ケンジントンの土地86エーカーの購入にあてられ、やがてこの地に、今日もその威容を誇る大英博物館の自然史部門、ヴィクトリア&アルバート博物館、自然史博物館、アルバート・ホール、科学・技術教育のためのインペリアル・コレッジ(現ロンドン大学)などの科学・芸術・教育の諸施設が造られていった。
開催機関は、5月1日から10月15日までの5カ月半、その間の観客数は延べ600万人(リピーターや外国人も含む)も訪れたという。これは当時のイギリス人の人口の3分の1に相当する。
その純益は17万ポンドに達した。この純益の一部はサウス・ケンジントンの土地86エーカーの購入にあてられ、やがてこの地に、今日もその威容を誇る大英博物館の自然史部門、ヴィクトリア&アルバート博物館、自然史博物館、アルバート・ホール、科学・技術教育のためのインペリアル・コレッジ(現ロンドン大学)などの科学・芸術・教育の諸施設が造られていった。
また、トマス=クックが、折から確立された鉄道網を利用して全国各地から一般大衆の団体客を割引料金で万博見物に動員し、ロンドン万博の入場者の4%の人々はクックのツアーで見学したといわれる。
クックはその後、1855年のパリ万博、1869年の大陸横断鉄道やスエズ運河の開通を機に海外旅行も手がけ、庶民の娯楽としての旅行を定着させ、近代ツーリズムの祖とされている。
クックはその後、1855年のパリ万博、1869年の大陸横断鉄道やスエズ運河の開通を機に海外旅行も手がけ、庶民の娯楽としての旅行を定着させ、近代ツーリズムの祖とされている。
ヴィクトリア女王は在位初期の頃はホイッグ党の首相メルバーン子爵を偏愛したが、1840年に母方の従弟にあたるアルバート公と結婚してからは、その忠告に従って王権の中立化に努めるようになった。その後もしばしば政治に影響力を行使しながらも、基本的に議会の状況に基づいて首相を選出するようになった。
国王の政治的影響力の面ではアルバート公がヴィクトリアに代わって重きをなすようになっていったが、彼はその権威が絶対的になる前の1861年に満42歳で薨去した。これにより、イギリスに立憲君主政がさらに発展することになる。
国王の政治的影響力の面ではアルバート公がヴィクトリアに代わって重きをなすようになっていったが、彼はその権威が絶対的になる前の1861年に満42歳で薨去した。これにより、イギリスに立憲君主政がさらに発展することになる。
一方、悲しみにくれるヴィクトリアはその後10年以上にわたって服喪し、公務に姿を見せなくなったが、1870年代に保守党の首相ディズレーリに励まされて公務に復帰し、ディズレーリの帝国主義政策を全面的に支援し、大英帝国の最盛期を築き上げた。1876年には「インド女帝」に即位している。
ディズレーリを偏愛する一方、ディズレーリと並んでヴィクトリア朝を代表する自由党首相のグラッドストンのことは一貫して嫌悪して、グラッドストンのアイルランド自治法案の阻止に全力を挙げた。
ディズレーリを偏愛する一方、ディズレーリと並んでヴィクトリア朝を代表する自由党首相のグラッドストンのことは一貫して嫌悪して、グラッドストンのアイルランド自治法案の阻止に全力を挙げた。
ヴィクトリア滝
この時代、イギリスは世界各地を植民地化して、一大植民地帝国を築き上げた。その名残でヴィクトリア島(カナダ)、ヴィクトリア湖(ケニア・ウガンダ・タンザニア)、ヴィクトリア滝(ジンバブエ・ザンビア)、ヴィクトリア・ハーバー(香港)、ヴィクトリアランド(南極大陸)、ヴィクトリア(世界各地の都市名)、ヴィクトリア・パーク(世界各地の公園)など、女王の名にちなんだ命名も少なくない。歴史上彼女ほど多く地図にその名を刻んだ者は存在していない。
ヴィクトリアは帝国主義政策においては最強硬派・主戦論者として政府に発破をかける役割を果たすことが多かったが、彼女の「帝国の母」「慈愛」のイメージは世界各地の植民地の臣民たちを一つに結び付け、大英帝国の維持・拡大に大きな礎となった。
ヴィクトリアは帝国主義政策においては最強硬派・主戦論者として政府に発破をかける役割を果たすことが多かったが、彼女の「帝国の母」「慈愛」のイメージは世界各地の植民地の臣民たちを一つに結び付け、大英帝国の維持・拡大に大きな礎となった。
晩年には老衰で政治的な活動は少なくなり、立憲君主化が一層進展した。
ヴィクトリアは1900年4月のアイルランド訪問でだいぶ疲労した様子を見せるようになった。同年晩夏頃からは不眠症に苦しむようになり、やがて食事もあまり取れなくなっていった。さらに失語症を患うようになった。そのような状態でもヴィクトリアは日々増える南ア戦争の戦死者の遺族に慰問状を書く激務に励んだ。だが日記の中では「私もそろそろ休息が許されてもいい頃です。81歳でしかも疲れ果てているのですからね」と弱音を吐くこともあった。
1901年1月22日、ワイト島のオズボーン・ハウスでヴィクトリア女王は81年の生涯を閉じた。偶然ロンドンに留学していた夏目漱石は、庶民たちが「イギリスの20世紀はちょっと不吉な始まり方をした」と話しているのを耳にしている。
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ヴィクトリアは1819年5月24日にロンドンのケンジントン宮殿で生まれた。彼女の全名はアレクサンドリナ=ヴィクトリアで、イギリス人には馴染みの薄いロシア語とドイツ語の名前であるが、彼女が長期間在位したことによってヴィクトリアはイギリス人の名前として定着した。
父親はハノーファー朝第3代国王ジョージ3世の第4王子のケント公エドワード。3人も兄がいれば、自分の将来はどっちみち見えている。しかし、父エドワードの心には、あるジプシー女の占い師の言葉が妙にひっかかっていた。
父親はハノーファー朝第3代国王ジョージ3世の第4王子のケント公エドワード。3人も兄がいれば、自分の将来はどっちみち見えている。しかし、父エドワードの心には、あるジプシー女の占い師の言葉が妙にひっかかっていた。
「あなたはこれから幾多の苦難にあわれることでしょう。しかし死ぬときには幸福です。あなたの娘が偉大な女王になられるからです。」
ただどう考えてみても、娘とイギリスの王位との間には、あまりにも隔たりがありすぎる。父の胸中は穏やかではなかった。ヴィクトリアが生まれて8ヵ月、父エドワードは肺炎をこじらせてあっけなくこの世を去った。そしてその6日後には、晩年は精神錯乱に陥っていたジョージ3世が亡くなり、摂政王太子ジョージがジョージ4世として即位した。1820年1月のことである。
ただどう考えてみても、娘とイギリスの王位との間には、あまりにも隔たりがありすぎる。父の胸中は穏やかではなかった。ヴィクトリアが生まれて8ヵ月、父エドワードは肺炎をこじらせてあっけなくこの世を去った。そしてその6日後には、晩年は精神錯乱に陥っていたジョージ3世が亡くなり、摂政王太子ジョージがジョージ4世として即位した。1820年1月のことである。
1830年6月、ジョージ4世が子のないまま崩御した。国王の次弟ヨーク公は1827年に亡くなっており、3弟クラレンス公ウィリアムがウィリアム4世として即位した。ウィリアム4世は即位時すでに65歳であり、新しい嫡出子を儲けることはほとんど諦めており、ヴィクトリアが「暫定王位継承者」に認定された。1837年6月20日、ウィリアム4世が老衰で亡くなると、占い師が予言したとおり、王冠はヴィクトリアのもとに転がりこんできたのである。このとき彼女はまだ18歳であった。
運命のいたずらは彼女を、「世界の工場」という地位を固めつつあった最盛期のイギリスの王座につかせたのであった。
金髪で桜色の頬をした若き女王は、即位当初から国民の熱狂的な歓迎を受けた。初々しく控えめな少女だったことだけがその理由ではない。人々がヴィクトリアを慕ったのは、まず何よりも彼女の「きまじめさ」であった。王室に清潔な道徳的イメージを抱いていたイギリス人はそれまで誰一人いなかったと言ってよい。国王一族といえば、スキャンダラスな異性問題や金づかいの荒さが連想されるのが常だった。
しかし、ヴィクトリアは王室始まって以来の優等生であると言えた。幼い頃からきかん気で、思い込んだら夢中になる性分から、周囲を手こずらせることはあったにせよ、彼女は王たる者の義務を体得し、なおかつそれを衆目の見守るなかで威風堂々と「見せる」天性が備わっていたらしい。
国民にとっての女王像は、即位3年目に最愛の夫アルバート公を迎えたことで一層親しみを増した。アルバート公は、ドイツ人で女王と同い年のいとこにあたる。ヴィクトリアは17歳のとき、このハンサムでやさしい、「うっとりする」ような表情をするいとこにひとめぼれをした。その時の日記の中でアルバートを「髪は私と同じ褐色、目は綺麗な碧眼、美しい鼻と口。顔の表情は魅力的だ。同時に善良さと甘美さと知的さを持っている」と絶賛している。
アルバート公もまた、派手な社交生活は肌に合わぬという謹厳な性格で、女王にとってはまたとない伴侶であった。
ヴィクトリアとアルバートは1840年2月10日にロンドンのセント=ジェームズ宮殿で結婚式を挙行した。その翌日のベルギー王レオポルドへの手紙でヴィクトリアは「世界で私ほど幸せな人間はいないと思います。彼は天使のようです。昨日の披露宴は楽しくて熱気にあふれていました。ロンドン市内では群衆が果てしなく沿道に続いていました」と書いている。
ヴィクトリア女王は、当時はウェディングドレスとしては使用されることが稀であった白をドレスの色に選んだ。 白い花嫁衣装はファッションに敏感な当時の富裕層の花嫁たちにすぐに取り入れられた。『ゴーディズ・レディズ・ブック』はヴィクトリア女王の結婚式からの約10年後、ヴィクトリア女王の結婚以前では、白いウェディングドレスは稀にしか選ばれなかったにもかかわらず「素材は何であるにせよ花嫁が白を着る慣例はすぐに確立された。それは少女時代の純粋さ、無垢、そして、結婚する相手として選ばれた一人にだけ与える穢れ無き心の象徴なのである」と評している。
ヴィクトリアとアルバートは生涯仲睦まじい夫婦であり続け、4男5女の9人の子供を儲けた。国民の多くは、このロイヤル・カップルに初めて理想の夫婦・家庭像を見出した。アルバート存命期のヴィクトリアの絵画や写真はほとんどの場合アルバートや子供たちと一緒に映った物である。ヴィクトリア自らがこうした「幸せな王室一家」の構図を描くよう指示したという。
こうした家族団欒の光景は、資本主義の発展で貴族に代わって台頭した中産階級の道徳・価値観に沿うものであり、王室は中産階級の賛美の対象となっていった。ヴィクトリア朝の中産階級では、女性が働くことは下層民への転落の証として忌避され、結婚して家庭に専念することが女性の理想像とされていたのである。
こうした家族団欒の光景は、資本主義の発展で貴族に代わって台頭した中産階級の道徳・価値観に沿うものであり、王室は中産階級の賛美の対象となっていった。ヴィクトリア朝の中産階級では、女性が働くことは下層民への転落の証として忌避され、結婚して家庭に専念することが女性の理想像とされていたのである。
1861年、アルバート公が腸チフスのため42歳で急逝した。ヴィクトリアは冷たくなった夫の手をしばらく握り続けていたが、やがて部屋を飛び出して泣き崩れたという。
ヴィクトリアは叔父ベルギー王レオポルドに宛てて「生後8カ月で父を亡くした赤ん坊は、42歳で打ちひしがれた未亡人となってしまいました。私の幸せな人生は終わりました。私がまだ生きなければならないとしたら、それは父を失った哀れな子らのため、彼を喪うことで全てを失った我が国のため、また私だけが知る彼の希望を実現するためです。彼は私の傍らにいつもいてくれるのです。」と書いている。
ヴィクトリアの悲しみは深く、その後彼女は10年以上にわたって隠遁生活を続けた。アルバートを失った後のヴィクトリアの長い喪服も当時の未亡人の理想像といえるものであり、喪服によって王室に親近感を持つ国民も少なくはなかったのである。
ヴィクトリア女王は5人の娘達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、40人の孫、37人の曾孫が誕生し、「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるようになった。例えば、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世とロシア皇后アレクサンドラ(ニコライ2世妃)は孫にあたる。のちの第一次世界大戦は女王の子孫の間で戦われることになる。
ヴィクトリア女王の子孫の男子は血友病を発症して苦しむ者が多かった。恐らくヴィクトリア女王が血友病の因子を持っていたことが原因と考えられている。ヴィクトリアの4男レオポルドは血友病で苦しんだ。2女アリスと5女ベアトリスも血友病の因子を持っており、アリスを通じてロシア皇室ロマノフ家、ベアトリスを通じてスペイン王室ブルボン家にも血友病がもたらされた。
アリスの娘アレクサンドラはロシア皇帝ニコライ2世の皇后となったが、そのため皇太子アレクセイが血友病を持っていた。このことはニコライ2世とアレクサンドラがラスプーチンに入れ込む原因となり、ロシア宮廷を混乱させることになる。(つづく)
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ウィリアム=グラッドストンは1809年にリヴァプールで生まれた。父親は大富豪の貿易商人で、トーリ党議員も努めていた。11歳で名門イートン校に入学したが、後の政治家としての素質もこの時代から多く見せており、13歳の時に教師を相手にその不正義を追及している。
18歳でオックスフォード大学に進むと、ギリシアの古典研究に熱中し、学生自治会の議長を務めた。卒業後、兄と一緒にヨーロッパ旅行(グランドツァー)を経験したあと、1833年、23歳でトーリ党ピール派の議員となった。
18歳でオックスフォード大学に進むと、ギリシアの古典研究に熱中し、学生自治会の議長を務めた。卒業後、兄と一緒にヨーロッパ旅行(グランドツァー)を経験したあと、1833年、23歳でトーリ党ピール派の議員となった。
グラッドストンは1838年8月に再びイタリアを旅行し、ローマでキャサリン=グリンと知り合い、彼女と交際するようになった。1839年1月3日、月夜の夜にグラッドストンはコロッセウム遺跡で彼女に告白したが、彼女は返事をせず、その場を立ち去ってしまったという。
すでに2回振られた過去があったグラッドストンは「また振られた」と思い意気消沈したが、後日キャサリンから「貴方の申し出を受けるにはもう少しお互いをよく知らなければなりません」という手紙が送られてきて、交際を継続できたという。
すでに2回振られた過去があったグラッドストンは「また振られた」と思い意気消沈したが、後日キャサリンから「貴方の申し出を受けるにはもう少しお互いをよく知らなければなりません」という手紙が送られてきて、交際を継続できたという。
結局キャサリンがグラッドストンの求婚に応じたのはこの6カ月後の6月8日になってだった。その時の会話でキャサリンはグラッドストンがしばしば目上の者に対して使う「サー」という呼びかけは自分たちの階級では使わなくなっていることを指摘してくれたといい、これにグラッドストンは「自分の欠点を補ってくれる理想の女性が見つかった」と非常に喜んだという。
二人は1839年7月25日にハワーデン城で挙式した。キャサリンの兄サー=ステファン=グリン准男爵は病身で結婚しないまま没したため、後にハワーデン城はグラッドストン夫妻が相続し、夫妻はそこで暮らすようになる。
アヘン戦争
グラッドストンが結婚した翌1840年にアヘン戦争が勃発する。4月8日、弱冠30歳の野党のヒラ議員であったグラッドストンが、ホィッグ党政権のパーマーストン外相の対中国外交を批判する演説を行った。それはアヘン戦争の開戦の是非を採決する前に行われた。
「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだこともない。今私と意見を異にする紳士は、広東において栄光に満ちて翻った英国旗について言及された。だが、その旗こそは、悪名高い禁制品の密輸を保護するために翻ったのである。現在中国沿岸に掲揚されているようにしか、その旗が翻らないとすれば、われわれはまさにそれを見ただけで恐怖を覚え、戦慄せざるを得ないであろう。……確かに中国人には愚かな大言壮語と高慢の癖があり、しかも、それは度をこしています。しかし、正義は中国人の側にあるのです。異教徒で半文明的な野蛮人たる中国人の側に正義があり、他方のわが啓蒙され文明的なクリスチャン側は、正義にも信仰にももとる目的を遂行しようとしているのであります。」
しかし、採決の結果は、開戦賛成(政府支持)は271票、反対は262票、たったの9票差でイギリスはアヘン戦争に突入することとなった。
穀物法反対同盟の集会
グラッドストンは大学開学以来と言われた雄弁で政界に頭角をあらわして、ピール内閣のもとで商務大臣・植民大臣を務めた。しかし、穀物法廃止法案を1846年5月に下院で成立させたピールは、以後「ピール派」を結成してトーリー党を離脱したが、グラッドストンもこれに追随した。以後、次第に自由主義的傾向を強め、1859年に正式に自由党が結成された際にグラッドストンも自由党議員となった。
1867年にラッセルが引退してからは自由党党首として前後4回首相を務め、保守党のディズレーリを好敵手として議会政治の全盛期を飾った。
その業績は、イギリス国教会からのアイルランドの解放・アイルランド土地法による小作農の保護・小学校の義務教育制度・無記名投票制・第3回選挙法改正による農業労働者への選挙権拡大など、自由主義政策を実行したことにある。
平和外交を唱えたが、南アフリカやアイルランド・スーダンでの反乱には帝国主義的対応を余儀なくされた。
その業績は、イギリス国教会からのアイルランドの解放・アイルランド土地法による小作農の保護・小学校の義務教育制度・無記名投票制・第3回選挙法改正による農業労働者への選挙権拡大など、自由主義政策を実行したことにある。
平和外交を唱えたが、南アフリカやアイルランド・スーダンでの反乱には帝国主義的対応を余儀なくされた。
アイルランド問題解決は一貫して彼の課題だった。アイルランドの自治権拡大を主張するアイルランド国民党が第3次選挙法改正によって議席を増大したのを受けて、アイルランドに議会開設を認めるなどの第1次アイルランド自治法案を提出した。
しかし、自由党内のジョゼフ=チェンバレンらがアイルランドの自治に反対して脱党し、自由統一党を結成、自由党は分裂した。保守党も自治に反対したため法案は議会でも否決された。1886年7月の総選挙でもグラッドストン自由党は敗北し、第2次ソールズベリ保守党内閣に交替した。自由党は単独では過半数がとれず、アイルランド国民党と連立する道を選択する。
1892年8月の総選挙で自由党が僅差で第1党となり、グラッドストンは82歳となっていたが首相となった。4度めの組閣、82歳の年齢のいずれもイギリス史上初のことで「老大人 Grand Old Man」と言われた。翌年9月、グラッドストンは新たなアイルランド自治法案を議会に提出、下院では可決されたが、上院で保守党・自由統一党の反対で、大差で否決されてしまった。グラッドストンは上院改革を断行してでも法案を通すつもりであったが、高齢のため指導力が低下し、1894年3月、84歳で辞任した。
1892年8月の総選挙で自由党が僅差で第1党となり、グラッドストンは82歳となっていたが首相となった。4度めの組閣、82歳の年齢のいずれもイギリス史上初のことで「老大人 Grand Old Man」と言われた。翌年9月、グラッドストンは新たなアイルランド自治法案を議会に提出、下院では可決されたが、上院で保守党・自由統一党の反対で、大差で否決されてしまった。グラッドストンは上院改革を断行してでも法案を通すつもりであったが、高齢のため指導力が低下し、1894年3月、84歳で辞任した。
1897年11月にカンヌ滞在中に喉頭癌の最初の激痛に襲われた。カンヌは地中海から寒風が吹くことがあったため、周囲の薦めでイギリスのハワーデン城へ帰国した。
1898年初頭から体調が悪化した。5月に入るとすっかり精力が衰え、5月13日にローズベリー伯爵とモーリーが見舞いに訪れた際にはほとんど意識不明になっていたという。
5月15日に娘メアリーが「教会へ行ってきます」と述べた際にグラッドストンは「教会へ行くのか。素晴らしいことだ。愛するメアリーよ。私のために祈ってくれ。全ての同胞のために。全ての不幸で惨めな人々のために。」と呟いたという。
5月19日午前4時頃、夫人と子供たちが見守る中、また聖職者である次男スティーブンが祈りをささげる中、グラッドストンは眠るように死去した。享年88歳。
1898年初頭から体調が悪化した。5月に入るとすっかり精力が衰え、5月13日にローズベリー伯爵とモーリーが見舞いに訪れた際にはほとんど意識不明になっていたという。
5月15日に娘メアリーが「教会へ行ってきます」と述べた際にグラッドストンは「教会へ行くのか。素晴らしいことだ。愛するメアリーよ。私のために祈ってくれ。全ての同胞のために。全ての不幸で惨めな人々のために。」と呟いたという。
5月19日午前4時頃、夫人と子供たちが見守る中、また聖職者である次男スティーブンが祈りをささげる中、グラッドストンは眠るように死去した。享年88歳。
グラッドストンの遺体は棺に入れられた後、25日にロンドンに送られてウェストミンスター宮殿に安置された。一般国民の告別も許可された。棺の中には、彼が最後の力を振り絞ってトルコの暴政から守ろうとしていたアルメニアの教会から贈られた金の十字架が一緒に入れられた。
28日にグラッドストンの棺は葬列に伴われながらウェストミンスター寺院へ運ばれた。皇太子、ヨーク公、ローズベリー伯爵、首相ソールズベリー侯爵らが葬列に参加した。棺はウェストミンスター寺院の北側外陣の床に作られた墓所の中に入れられた。妻キャサリンは子供たちに支え起こされるまでその前に跪いて祈り続けたという。
ヴィクトリア女王
弔辞は世界各国から届いた。ヴィクトリア女王もグラッドストンへの弔辞を書いて新聞に掲載するよう周囲から求められたが、拒否している。また皇太子がグラッドストンの葬儀に参加したと聞いた女王は問い詰めるような電報を皇太子に送っている。
女王はグラッドストンのことは嫌っていたが、グラッドストン夫人のことは気にかけており、彼女に宛てて弔電を送っている。しかしそこでも「私は、私自身と私の家族の幸福に関することへの彼の献身と熱意を忘れません」という表現に留め、グラッドストンの国家への貢献を認めることはなかった。
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女王はグラッドストンのことは嫌っていたが、グラッドストン夫人のことは気にかけており、彼女に宛てて弔電を送っている。しかしそこでも「私は、私自身と私の家族の幸福に関することへの彼の献身と熱意を忘れません」という表現に留め、グラッドストンの国家への貢献を認めることはなかった。
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