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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー正義なき戦争・アヘン戦争③

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馬蹄銀

 アヘン流入量が急増すると同時に、アメリカ商人が銀ではなくアメリカ手形で茶貿易を決済するようになった結果、1827年頃から銀が中国から流出しだした。

 当時、中国には馬蹄銀のような秤量【しょうりょう】貨幣としての銀と、鋳造貨幣としての銅銭が流通し、法定レートでは、銀1両(約37.3グラム)が銅銭1000文に相当した。しかし、銀が中国から流出しだした結果、銀高銅安となり、銀1両=銅銭2000文となった。

 農民が作物を売って受け取る日常の通貨は銅銭であるが、地丁銀制により税は銀で納めることになっていた。したがって銀価の高騰は事実上の増税となって納税者を苦しめ、結局、税収の減少となって清朝の財政にも深刻な打撃を与えた。

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カントン港

 今や何よりも経済・財政上の大問題となったアヘン問題に対して、清朝は早急に解決策を見いださねばならなくなった。その解決策はまずカントンから提議された。カントンはもともと欧米諸国との貿易が認められた唯一の港であったが、1830年代に入るとアヘンの密輸場所はカントン沖合の島々ばかりでなく、海岸沿いに北上し、密貿易の50%を占めるようになっていた。

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ジャーディン(左)とマセソン

 この沿岸アヘン貿易を繰り広げたのは、ジャーディンとマセソンという二人のイギリス商人であった。二人は共同してカントンに商会をつくり、沿岸航海を行って、1839年までに長江河口一帯にかけてアヘン貿易の拠点を広げた。

 そこで、カントンの官僚、商人、知識人はアヘンがらみの利益を独占するために、アヘン貿易の合法化を構想するようになる。こうしたカントンのアヘン貿易合法化構想は1836年に太常寺少卿・許乃済【きょだいさい】によって正式に提案された。具体的には、アヘン貿易の物々交換方式による合法化、一般民間人によるアヘン吸引の合法化、国内におけるケシ栽培・アヘン製造の合法化が提案された。

 しかし、合法化提案はあまりにもカントンの利益を優先したものであったため、カントン以外からの賛成者を得ることができず、反対上奏が相次いで、結局、葬り去られた。


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黄爵滋

 その2年後の1838年に、今度は鴻臚【こうろ】寺卿・黄爵滋がアヘン吸引者死刑を提案した。彼によれば、アヘンを吸う者がいるから売る者がおり、売る者がいるからアヘンは輸入されて、その結果として銀が中国から流出している。

 したがって、アヘン吸引者をなくすことが大事で、そのためには1年の猶予期間を与えた上で、アヘン吸引者に対してアヘンの禁断症状よりもきつい刑罰、つまり死刑を設定するしかないと言う。

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道光帝

 提案を受けた道光帝は、アヘン吸引者死刑論に対する意見を総督、巡撫などの地方大官に求めた。その結果、合計29名から答申があったが、死刑論に反対が21名、賛成はわずか8名に過ぎなかった。

 反対の理由は、アヘンを吸引しただけで死刑というのでは、法体系上のバランスを欠くという法律論と、実際に何百万人ものアヘン吸引者を死刑にはできないという現実論であった。

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林則徐

 少数派の賛成者には、改革派の官僚が多かった。彼らはアヘン問題をむしろ国内問題、すなわち国内での諸改革を阻んでいる官僚の腐敗を是正するための突破口にしたいと考えていた。そうした改革派官僚のリーダー格だったのが、湖広総督の林則徐である。内容が非常に具体的で説得力のある林の賛成上奏を読んだ道光帝は彼を都の北京に呼びつけた。

 この時、道光帝はアヘン貿易の禁絶、つまり「外禁」を断行しようと決意していた。しかし、これまでの経緯から判断して、その任務をカントン官僚に期待できないことも道光帝は承知していた。アヘン問題に対して真面目に取り組んでいる林則徐以外に適任者はいない。

 彼はそう考えて、林則徐に欽差大臣(特命全権大臣)としてカントンに赴きアヘン貿易を禁絶せよと命じた。

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アヘンを処分する林則徐

 1839年3月にカントンに着任すると、林則徐は「外禁」を断行するために、アヘン商人に対して2つのことを要求した。第1に、現在持っているアヘンをすべて提出すること。そして第2に、将来、永遠にアヘンを中国に持ち込まないという誓約書を提出すること。

 最初は渋っていたアヘン商人も、林則徐が外国人居留区域を封鎖して圧力を加えると、ついに屈して2万291箱のアヘンを提出した。そこで林は珠江河口近くの高台に人口の池を2つ造り、そのなかでアヘンを塩水、石灰と混ぜて化学的に焼却する方法で、没収アヘン全部を20日あまりかけて処分した。

 アヘンの処分作業は衆人環視のもとで行われ、そのなかにはカントン滞在中の外国人の姿も見られた。また、珠江を上下する外国船の船上からも処分の模様が望視できるよう、林はわざわざ河口近くの高台を処分の場所に選んだのである。

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エリオット

 アヘンの提出という第1の要求事項が、思いのほか順調に進んだ結果、道光帝も林則徐も事態をやや楽観していた。しかし、現実は予想に反して、イギリス商人は第2の要求事項である誓約書の提出を頑なに拒否しつづける。

 イギリスの貿易監督官エリオットは、カントンのアヘン貿易合法化論が葬り去られた頃から、イギリス政府に砲艦政策を進言するようになっていた。そこに今回、林則徐によって「外禁」が断行されたのである。

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パーマストン

 アヘン商人がアヘン2万余箱の提出に応じた際、エリオットはその代価をイギリス政府が支払うと約束した。これは彼の越権行為であった。そこで、彼は外相パーマストンに対して、自分の行動を正当化するためにも、林則徐が取った一連の措置はイギリス人の生命と財産を危険にさらした不法なものであり、アヘンはいわば身代金として引き渡したと報告すると同時に、中国に対する砲艦政策の実施を進言した。

 その後、カントンではイギリス人による中国人殺害事件発生などもあって、海上での武力衝突が起こり、中英間の緊張はしだいに高まっていった。(つづく)

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【 2021/01/29 05:28 】

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世界史のミラクルワールドー正義なき戦争・アヘン戦争②

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アヘンを吸う中国人

 18世紀末にイギリスが中国に派遣したマカートニー使節団の主目的は条約を締結して茶貿易を安定させることだったが、じつはマカートニーには外相から次のような訓令も与えられていた。

 中国側からアヘン輸出の禁止を要求されたら、それに従え、ただし、その際にはアヘンの販路を他の地域に開拓しなければならない。

 実際には中国側からそうした要求は提出されなかったので、アヘン問題は交渉の対象にはならなかった。では、この訓令に登場するアヘンとは、イギリスの中国貿易にどう関係していたのだろうか。

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ロンドンのイギリス東インド会社

 イギリスの中国貿易は中国茶の輸入を中心に発展したが、その見返りとして輸出しようとした毛織物などは、あまり売れなかったから、イギリスのはその差額を銀で決済した。このように18世紀後半までのイギリスの中国貿易はイギリス側が一方的に中国茶を輸入する、いわゆる片貿易の状態にあった。

 ところが、18世紀後半にイギリスで産業革命が始まり国内での資金需要が高まると、毎年、輸入茶の支払いのため大量の銀を持ち出している東インド会社の中国貿易の在り方に対して、産業資本家や彼らの利益を代弁する議会の一部から批判が巻き起こった。こうして、東インド会社は銀に代わる決済手段を見いださねばならなくなった。

 窮地に立った東インド会社が目をつけたのが、インド産のアヘンである。
 
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ケシの子房(ケシ坊主)

 アヘンはケシの子房(いわゆるケシ坊主)から出る汁液が原料で、モルヒネを主成分とする麻薬である。人類とアヘンの関係はかなり古く、すでにギリシア時代の文献に登場し、精力剤・下痢止めとしてケシを食べたり、汁液を飲んだりしていた。薬用として使う分には問題がないが、これから取り上げる中国の場合は、アヘンの吸引であり、健康や経済の問題が生じる。

 通説によると、アヘンの吸引は比較的新しく、17世紀半ば、オランダの支配下にあったジャワ島で始まった。スモーキングという言葉から連想されるように、アメリカ大陸から世界に拡がったタバコと関係があり、最初はタバコにアヘンを混ぜて吸っていたようである。ついで、粘土状のアヘンを火にかざして出る煙をキセルで吸うようになった。

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骨と皮だけになったジャワ島のアヘン中毒者
 
 ジャワ島におけるアヘン吸引の風習は、17世紀中頃にやはりオランダ人の支配下に一時あった台湾を経由して、その対岸の福建省や広東省に伝えられたと考えられている。

 アヘン吸引の伝えられた17世紀中頃から約1世紀の間、中国にアヘンを運んだのはイギリス人ではなく、ポルトガル人である。ポルトガル商人はインド中部で生産されたアヘンをインド西海岸にあるポルトガルの植民地ゴア、ダマーンから積み出して、やはり当時、ポルトガルの事実上のであったマカオから中国側へ売り渡した。

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インドのケシ畑

 イギリスの東インド会社が目をつけたのは、こうした前史をもつアヘンであった。東インド会社はまず1773年に、インド植民地経営の根拠地ガンジス川下流域で生産されるアヘン、すなわちベンガル・アヘンを専売下に置いた。そして、1780年代から組織的に中国への販売に着手したのである。

 ところで、アヘンを実際に中国に輸送して販売したのは東インド会社ではなく、民間の商人であった。後述するように、当時、清朝中国はアヘン貿易を禁止していたからである。禁制品アヘンを販売した結果、茶を売ってもらえなくなることを東インド会社は恐れた。

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東インド会社のアヘン保管倉庫

 先に紹介したマカートニー宛の外相の訓令が、「中国側からのアヘン輸出禁止を要求されたら、それに従え」と指示した理由もそこにあった。また、18世紀末当時、ベンガル・アヘンの中国への年間流入量は約4000箱(40万人分)であったから、訓令が指示するように、中国に代わるアヘン販売市場を開拓することもまだ見込みがあった。

 ちなみに、アヘン戦争勃発の直前、1838年の流入量は約4万箱(400万人分)まで増大しており、それだけの市場を他地域に求めるのはもはや不可能になっていた。

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 それはさておき、こうして茶貿易の安定的継続を至上命令とされていた東インド会社は、カルカッタにおけるアヘン競売までを行い、あとは民間商人にゆだねたのである。

 この民間商人は地方貿易商人と呼ばれ、東インド会社からライセンスを得て、アジア域内に限って貿易を認められていたイギリス人やインド人の商人である。彼らはインド産のアヘンや棉花をカントン(広州のことだが、イギリス人はカントンと呼んだ。)で販売して銀を入手し、それを東インド会社のカントン財務局に払い込んで、東インド会社の為替手形を購入した。そして、東インド会社は彼らが払い込んだ銀で輸入茶の代金を払った。

 こうして、それまで片貿易だった中英貿易はm1780年代以降、イギリス、中国、インドを結ぶ、いわゆる「三角貿易」に再編された。端的に言えば、イギリスの中国貿易は、茶の輸入とアヘンの輸出だったのである。

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雍正帝

 清朝は1729年に雍正帝がアヘンの輸入を禁止して以来、アヘンを禁止する政策をとっていた。その禁止政策は大きく二つに分けることが出来る。一つは、アヘン貿易を禁止するもので、アヘンの流入を水際で防ごうとする政策である。仮にこれを「外禁」政策と呼ぼう。

 もう一つは、国内におけるアヘン関連諸行為、すなわち、アヘンの製造・販売・吸引、アヘン宿経営、アヘン吸引用キセルの製造・販売、アヘンの栽培などを禁止する政策である。これを「内禁」政策と呼ぶ。

 18世紀末以来、清朝は「外禁」と「内禁」の両政策でアヘンを禁止しようとしたが、その実効はなかなかあがらなかった。その理由を一言で言えば、官僚の腐敗につきる。まず、禁止政策を実施する立場の官僚、そして兵隊にアヘンの吸引者が少なくなかった。また、下級役人、兵隊がアヘン宿経営にかかわっていたことも指摘されている。

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カントンのファクトリー(夷館)

 もっとも問題なのは、「外禁」実施の最前線であるカントンの官僚・兵隊の腐敗である。カントン官僚は口ではアヘン貿易の禁止を唱えながら、実際には賄賂を得てアヘンの密輸を黙認していた。

 カントンにいた外国人が異口同音に述べており、アヘン1箱につき40ドルの黙認料が支払われていたという具体的な証言もある。こうして、カントンではアヘンはあたかも合法品であるかのよにう取引されていた。(つづく)


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【 2021/01/26 05:16 】

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世界史のミラクルワールドー正義なき戦争・アヘン戦争①

ロード 
白蓮教徒の乱

 清代中期には、領土も広がり、中国の人口は18世紀の100年間に1億数千万人から約3億人へとほぼ倍増した。しかし土地の不足による農民の貧困化や開墾による環境破壊が社会不安をうみだし、18世紀末には四川を中心とする新開地で白蓮教徒の乱がおこった。この反乱は10年近く続き、清朝財政を窮乏させた。

 一方、18世紀後半にヨーロッパ勢力が南北両面から東アジアに積極的な進出を始めたことは、清朝を中心とする従来の東アジアの国際秩序をゆるがせた。ロシアと清の間では、ネルチンスク条約やキャフタ条約に基づく国境での交易が行われていたが、ロシアはエカチェリーナ2世の使節ラクスマンを北海道の根室に派遣して日本との通商を求めるなど、極東での交易拡大をはかった。

マカートニー 
マカートニー

 1792年、イギリスはマカートニーを首席全権とする初めての中国訪問使節団を派遣した。総勢95名の使節団が搭乗する軍艦ライオン号は、9月21日にポーツマス軍港に近い停泊所を出航、大西洋・インド洋を経由した後、南シナ海・東シナ海を北上して、1793年7月24日、渤海湾にその勇姿を現した。

 マカートニー使節団派遣の主たる目的、それは中国と条約を締結して茶貿易を安定させることであった。

茶  
上流階級のティーパーティ 

 イギリスのアジア貿易を独占していた東インド会社の貿易船が、毛織物の販売を目的に中国に来航するようになるのは、17世紀後半のことである。期待に反して毛織物はほとんど売れなかったが、イギリスの中国貿易はその後、中国茶の輸入で発展していく。

 中国茶は17世紀中頃にイギリスに伝えられると、まず上流階級の間で、カリブ海の植民地からもたらされた砂糖を入れて飲まれるようになった。ついで茶(紅茶)は、しだいに庶民の間にも普及し、特に1785年に実施された減税法で茶の値段が安くなると、ポピュラーな飲み物としてイギリス人の生活に定着した。

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マンチェスター近郊の女工の昼休み

 上の絵にあるように、産業革命時代の女工たちは昼休みに茶を飲むようになった。絵のなかのほとんどの人が、ポットを持ってきている。こうして、イギリスは毎年、大量の茶を中国から輸入するようになる。

 このように、イギリスにとって中国は茶貿易の相手国として大変重要な存在となったが、その中国と一片の条約も締結していないことにイギリス政府は不安を感じていた。

 というのも。ヨーロッパにおいては三十年戦争を終結させたウェストファリア条約以来、二国間あるいは多国間の関係、つまり国際関係は条約に基づくというのが常識になっていたからである。マカートニー使節団の中国派遣も、こうした「条約体制」とでもいうべきヨーロッパの常識に基づいて決定された。

ロド 
華夷思想

 ヨーロッパの常識は皮肉にも、中国ではとんでもない非常識だった。中国を中心とする東アジアには、ヨーロッパの条約体制とは異なる「朝貢体制」が古くから存在していたからである。

 この朝貢体制を支える理念は、華夷【かい】思想(中華思想)という世界観である。世界は、その中心に位置して高い文化を誇る中華(中国)と、その周囲の野蛮な夷狄【いてき】(北狄【ほくてき】・南蛮・東夷・西戎【せいじゅう】)から成ると認識された。

 
こうした世界観に基づいて、中国周辺に位置する国々は、中国の王朝国家を宗主国とする属国として位置づけられた。属国の君主は中国の皇帝に臣従することによって初めて君主としての地位を承認された。(冊封【さくほう】)

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琉球の朝貢船(進貢船)

 また、属国の君主は宗主国たる中国王朝国家に定期的に朝貢使節を派遣し、朝貢品を献納した。これに対して中国皇帝は絹織物などを「回賜【かいし】)として朝貢国の君主らに下賜した。また、こうした朝貢に付随して中国の首都あるいは入国地点で民間レヴェルの交易も制限つきながら行われた。つまり、朝貢の関係は、朝貢貿易という一種の経済関係でもあった。

 このように中国の王朝国家と周辺諸国との間に、朝貢・冊封という政治・経済関係を結ぶ朝貢体制が成立していた。それが、中国を中心とする東アジアの常識だった。

 三跪九叩頭の礼
三跪九叩頭の礼

 したがって、条約締結を目的とするマカートニー使節団の派遣が、こうした東アジアの常識に対する挑戦だったことは明らかである。中国に上陸してまもなく、マカートニーはヨーロッパの常識が清朝中国には通用しないことを実感し始める。清朝皇帝に対する謁見儀礼の問題が発生したのである。

 朝貢使節は皇帝に謁見する際、「三跪九叩頭【さんききゅうこうとう】の礼」、すなわち3回ひざまづいて、その都度、3回(合計9回)頭を床につけるという、皇帝に対してのみ行う最敬礼をしなければならなかった。

 イギリスも清朝にとっては一つの朝貢国にすぎなかったから、マカートニー使節団は当然ながら朝貢使節として扱われた。そして、避暑のため熱河の離宮に滞在中の乾隆帝に謁見する際には、「三跪九叩頭の礼」をすることになると、マカートニーは清朝側から通告された。

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乾隆帝に謁見するマカートニー

 マカートニーが日記に詳しく記録したように、屈辱的であるとして「三跪九叩頭の礼」を拒否するイギリス側とあくまでも実施を求める清朝側のやり取りが続いた。結局、最後は乾隆帝が度量の広さを示し、イギリス流の片ひざをつくお辞儀での謁見が1793年9月14日に行われた。

乾隆帝 
乾隆帝

 なんとか謁見できたマカートニーも、主目的の条約締結についてはまったく相手にされず拒絶されてしまう。その点について乾隆帝はイギリス国王ジョージ3世に与えた勅諭のなかで次のように述べている。

 天朝の物産は豊かで無いものはなく、もともと外国産のものに頼って有無を通るず必要はない。ただ天朝に産する茶、陶器、生糸は西洋各国および汝の国の必需品であるから、恩恵を加え、マカオに洋行を開設して日用品を援助し、天朝の余沢に潤うことを認めているのである。にも拘わらず、今、汝の国の使節が定例に反することをいろいろと陳情するのでは、恩恵を遠人に加えて四夷を撫育するという天朝の意に対して無理解も甚だしいと言わなければならない。

 なお、イギリスが1816年に中国に派遣した第2回目のアマースト使節団も三跪九叩頭の礼を拒否した。当時の皇帝であった嘉慶帝があくまで三跪九叩頭の礼の実行を要求した結果、アマースト使節団は皇帝謁見も果たせず、この使節団派遣はまったく失敗に終わった。それから20年余り後にアヘン戦争が起こることになる。(つづく)

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【 2021/01/22 05:06 】

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世界史のミラクルワールドー1857年インド独立戦争・シパーシーの反乱

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シパーヒー 

 東インド会社のインド人傭兵をシパーヒーと呼び、約28万人が5万人弱のイギリス人将兵に率いられていた。シパーヒーにはヒンドゥー教徒もイスラーム教徒も含まれており、ヒンドゥー教徒のシパーヒーには上級カーストの者が少なくなかった。

 1857年には、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をきっかけに、待遇などの不満から反乱をおこし、デリーを占領した。反乱は北インド全域に波及し、広く民衆を巻き込む反英民族闘争へと発展した。

 この反乱をイギリスの支配者は「シパーヒーの反乱」(日本では「セポイの反乱」)と呼んでいたが、それはこの出来事をことさらにシパーヒーが起こした偶発的な出来事であったと強調し、民族反乱、独立戦争であったことを隠蔽する意図があった。しかし、反乱を起こしたのはシパーヒーだけではなく、さらに広範な領主層から民衆までを含む民族的反英闘争であったという主張がなされるようになり、現在では「インド独立戦争」や「1857年インド大反乱」など定義されるようになった。


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 メーラトで起きたシパーヒーの反乱

 1857年5月10日、デリーの北東約60キロにあるメーラトの東インド会社軍の基地で、シパーヒーが反乱をおこした。

ダウロード  
エンフィールド銃

 反乱の原因としては多くの事項が列挙されている。直接契機としてあげられているのは、彼らに新たに支給されることになっていた新式のエンフィールド銃の薬包に塗った油の問題である。

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 この薬包には湿気を防ぐために薬包の紙に牛脂・豚脂が塗られており、その端を歯で噛み切ってから装填することになっていた。それはヒンドゥー教徒にとっては聖なる動物の牛脂を口に触れることは許されないことであり、イスラーム教徒にとっては汚らわしい豚の脂が口に触れることになり、我慢できないことであった。シパーヒーの中にはヒンドゥー教徒もムスリムもいたので、彼らにとってそれぞれの尊厳を傷つけられることに強い反発が生じたのであった。

 そのほか当時のミャンマーで戦争を行っていたイギリスはシパーヒーをこれに派兵しようとしたが、ヒンドゥー教徒にあっては海を渡って海外に行くことは自己の所属カーストから離れなければならないという重大問題であったことも一因としてあげられている。


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 チャパティ

 この反乱が始まる少し前の1857年2月の早朝、デリー県インドラプートの村番が1枚のチャパティ(未精製の小麦粉で焼いたパン)を持ってパハルガンジの警察署長を訪ねて来た。そうしてこう言って去って行った。

 「同じようなチャパティを5枚焼いて、近くの5村に配れ。その際、今私が言ったことと同じ口上を述べよ」

 署長は不思議に思っていたところ、同じ日に「5枚のチャパティ配布」がデリー県の各地で発生していることが発覚した。

 チャパティの配布リレーはその後、恐ろしい勢いでインド各地に伝達されたが、誰が、いったい何にために行っているか一切不明。

 イギリス植民地当局は気味悪がり、チャパティの配布を禁止した。

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インド大反乱

 するとまもなく 、インド大反乱が勃発。

 反乱はチャパティの配布が行われた道筋をたどるように発生していった。「チャパティを配る」行為は、イギリス人には分からないがインド人には分かる暗黙のメッセージを含んでいたのである。

 またそのころ、街や村で預言者が異口同音に「1757年、プラッシーの戦いでイギリスはインドに覇権を確立した。あれからちょうど百年、百年目の今こそイギリスは滅び、イギリス人は皆、海に追いやられて死ぬ!」と予言した。

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バハードゥル=シャー2世

 シパーヒーの蜂起はインド全体の大反乱のきっかけとなり、各地で民衆が反乱に加わった。シパーヒーを中心とした反乱軍は、デリーに進軍、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して、デリーに政権をうち立てた。

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ラクシュミー=バーイー

  また反乱軍には、イギリスのとりつぶし政策に反発した藩王国も加わった。インド西部の小国の女王ラクシュミー=バーイーもその例であり、彼女は反乱軍の先頭に立って闘い、インドのジャンヌ=ダルクと言われた。こうして反乱は全インドに拡がり、各地に反乱政権が生まれた。

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インド総督カニング

 イギリスのインド総督カニングはボンベイ、マドラスの両管区から兵を召集、前年に反乱が終結していたイラン、太平天国の乱が下火になっていた中国から軍隊を移動させた。さらに、ネパールのグルカ兵(かつてグルカ戦争でイギリスと戦ったが鎮圧された)、パンジャーブのシク教徒(かつてシク戦争でイギリスと戦ったが、一方でイスラーム教徒と根深い対立関係にあった)を味方にし、近代的装備にものを言わせて反撃に移った。

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捕らえられたバハードゥル=シャー2世
 
反乱軍とイギリス東インド会社軍の戦闘は9月まで続いたが、東インド会社軍が態勢を整えたのに対し、反乱軍は横の連携もとれず、内部対立が生じ、またヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立もあってまとまらず、デリーが陥落。

 反乱は鎮圧され、皇帝バハードゥル=シャー2世は逃亡したが、捕らえられてミャンマーに流刑になった。これによって、ムガル帝国の滅亡は名実ともに滅亡した。また、デリーは陥落したが、各地の農民反乱はさらに1年以上にわたって続いたが、1859年1月に鎮圧される。


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反乱軍兵士を砲に縛り、弾丸を発射

 反乱軍の捕虜には、ほとんど裁判もなく死刑が宣告された。処刑の方法は、 反乱軍兵士を大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して身体を四散させるとか、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人かの罪人を立たせて枝から吊したロープに首を巻き、牛に車をひかせるとか、象を使って八つ裂きにするとかいろいろと‘趣向’がこらされた。

 アラーハーバード近郊の街路に沿って、樹という樹に死体が吊され、‘絞首台に早変わりしなかった樹は一本もなかった’ほどであった。それからヒンドゥー教徒の口に牛の血を、ムスリムの口に豚の血を流し込んで苦しめたり、……。また、反乱者を出したり、かくまったりした村や町には、四方から火が放たれ、火をくぐって逃げ出して来るものを、老若男女を問わず、待ちかまえていて狙い撃ちするといった手のこんだ演出までしでかした。

 これらの蛮行は、イギリスの軍人自身が‘誇らしげに’伝えた証言にもとづく事実である。

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【 2021/01/19 05:08 】

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世界史のミラクルワールドー近代のファラオ・ムハンマド=アリー

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ムハンマド=アリー

 ムハンマド=アリーは1769年に当時オスマン帝国領だったマケドニアのカヴァラという港町に生まれた。奇しくもこの年はナポレオンが生まれた年でもあり「私はアレクサンドロスの国にナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだという。

 
民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。いずれにしても欧州出身ということになる。

 ムハンマドの家は3代続いた下級軍人の家で、父親が不正規部隊(傭兵隊)の指揮官を務めながら、タバコ取引にも手を出していた。母親はカヴァラ市長官の親戚であった。幼い頃に父を失ったムハンマドは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだとされるが、その前半生は、みずから語ることはなく、伝説に過ぎないようだ。


海戦 
アブキール湾海戦

 ムハンマド=アリーが頭角を現すのは、エジプトを占領したナポレオンの支配を終わらせるために、オスマン帝国が派遣したアルバニア人不正規部隊の副指揮官に任ぜられた時だった。ムハンマド=アリーは、1798年8月にナイル河口のアブキール湾停泊中のフランス艦隊をイギリスのネルソン提督が撃沈している最中に、アルバニア人部隊の一部を指揮していた。その数ヶ月後、ナポレオンはエジプトを去ることになる。

 この混乱時に、彼はウラマー(イスラーム教の宗教指導者)を中心としたカイロ市民の人心を掌握したらしく、1805年にカイロ市民の支持を背景にエジプト総督(ワーリー)に就任し、パシャ(文武高官の称号)と呼ばれるようになった。

セリム 
セリム3世

 これは正式なものではなかったが、翌年にはオスマン帝国のスルタン・セリム3世からエジプト総督の地位を追認された。総督(太守とも訳す)は単なる地方官ではなく、大幅な権限が認められていたので、ムハンマド=アリーは実質的独立を勝ち取ったと言うことができる。

 その地位の世襲が認められるのは1841年であるが、実質的にはエジプトのムハンマド=アリー朝は1805年に成立したといえる。 


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マムルーク

  ムハンマド=アリーは、エジプトの実権を握ると、軍隊や国家の機構、経済などで近代化をはかる必要を感じたが、その際に障害となるのが、マムルークの勢力であった。

 マムルークは9世紀にさかのぼる、イスラーム世界における、主としてトルコ系からなる奴隷兵士のことであるが、彼らの勢力は13世紀のマムルーク朝以来、政治的な権力を握るほどになっていた。

 マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国はエジプトを統治する際にマムルークをそのまま存在させ、マムルーク=ベイと言われる有力者が実際のエジプトを統治し、そのもとでマムルークはさまざまな特権を有し、社会を押さえていた。

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シタデルの惨劇

 エジプト近代化のために、そのマムルークを一挙に叩こうとしたムハンマド=アリーは、奇計を用いた。1811年、マムルークの一党500名を、アラビア半島のワッハーブ派討伐軍派遣の壮行会と銘打ってカルファと称される居城に招いた。その帰途に城下に出る隘路で伏兵に狙撃させ一党を掃討した。これは、今のムハンマド=アリー=モスクのある城塞で、かつての十字軍時代の英雄サラディンの城址での強襲であった。これが、「シタデルの惨劇」や「城塞の謀計」と言われるマムルークの殲滅である。

 さらに、近代的な陸海軍の創設、マニュファクチュア・工場・造船所の建設、灌漑貯水池や道路の新設、綿花栽培の奨励、ヨーロッパ式の学校の設立、軍事技術研究のための留学生の派遣という意欲的な政策を推進した。

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イブラーヒーム

 19世紀初頭、オスマン帝国の領土内ではアラビア半島のワッハーブ派の蜂起と、バルカン半島におけるギリシア人・セルビア人の民族独立運動が始まっており、ムハンマド=アリーは当初はオスマン帝国に協力してこれらを抑える上で大きな力を発揮した。

 1818年 アラビア半島に進出、ワッハーブ王国(第一次)を滅ぼした。実際にはムハンマド=アリーの長男イブラーヒームが率いるエジプト軍が、近代的な装備によって、ワッハーブ王国の土豪軍を破った。


ダウ 
ナヴァリノの海戦

 オスマン帝国の要請により参戦したギリシア独立戦争は1829年に終わった。「帆船時代最後の大海戦」と目されるナヴァリノの海戦で、エジプトとオスマン帝国の連合艦隊は英仏露3国の艦隊に敗北した。そこでは4分の3の艦隊を失い、6000人の「トルコ人」が戦死している。

 しかし、長男イブラーヒームの勇戦などもあって、ギリシア独立戦争の主役としてのエジプトの名声はむしろ赫々と輝き、クレタ島・キプロス島を総督として支配する権利を得た。

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ナヴァリノの海戦敗北後、海軍の再建を支持するムハンマド=アリー

 ムハンマド=アリーは、最終的にオスマン帝国との戦争に踏み切った。オスマン帝国に対してギリシア独立戦争の際の出兵の代償としてシリアの行政権を要求し、それが拒否されたことから、1831年、長男イブラーヒームをシリア・アナトリアに進撃させた。こうして、第1次エジプト=トルコ戦争が始まった。

 ムハンマド=アリーは優位に戦い、シリア総督の地位をかねることをオスマン帝国に認めさせたが、イギリス・フランスなどがエジプトの台頭を警戒して干渉し、

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第2次エジプト=トルコ戦争の降伏交渉を行うムハンマド=アリー

 1839年、第2次エジプト=トルコ戦争となり、今度はムハンマド=アリーはイギリス軍に敗れた。1840年にロンドン会議が開催され、翌1841年、エジプトはシリアからは撤退する代わりに、ムハンマド=アリーはオスマン帝国からエジプトとスーダンの総督の地位の世襲権を認められ、ここに正式にムハンマド=アリー朝が成立した。

モスク 
ムハンマド=アリー=モスク

 ムハンマド=アリーはその後、一時精神を犯された時期もあったが引き続き政務を執った。しかし、1847年頃から老衰の兆しが見られるようになり、1848年4月5日に総督の地位を長男イブラーヒーム=パシャに譲った。

 しかし、イブラーヒーム=パシャは同年11月20日に結核により死去。その跡を継いだのは次男アフマド=トゥーソンの子アッバース=パシャであった。実孫アッバース=パシャに対するムハンマド=アリーの評価は極めて低く、イブラーヒーム=パシャの死を知ったムハンマド=アリーは、「これで、我々が築き上げてきたものはすべて台無しになるだろう」と嘆いたという。実際にアッバース=パシャはそれまで推し進められてきた近代化政策を否定する方針を打ち出した。

 ムハンマド=アリーは1849年8月2日、アレクサンドリアで死去。遺体はカイロのムハンマド・アリー・モスクに安置された。享年80歳。

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【 2021/01/15 05:14 】

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世界史のミラクルワールドー奴隷解放の父・リンカン②

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サムター要塞攻防戦

 1860年11月のリンカンの大統領当選に南部諸州は直ちに反応、12月に分離を決定し、翌年2月にはジェファソン=デヴィスを大統領に選出、「アメリカ連合国」を発足させた。アメリカ連合国の首都は初めはアラバマ州モントゴメリーであったが、間もなくヴァージニア州のリッチモンドに遷された。

 3月に合衆国第16代大統領として就任したリンカンは南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となり、1861年4月13日、サムター要塞の攻防戦で火ぶたを切り南北戦争へと突入、リンカンは軍の最高司令官として戦争指揮に当たることとなった。 


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南北戦争時のアメリカ合衆国

 リンカンは連邦政府による合衆国の統一を重視し、南部の分離独立を認めず、開戦に踏み切ったが、戦闘が始まってからも黒人奴隷解放には明確な態度を示さなかった。北部の急進的な奴隷解放論者はあいまいなリンカンの態度を非難している。

 リンカンの思惑の一つは、奴隷廃止を明確にしてしまうと、奴隷州でありながら中立を守っている南部4州(デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ)を敵に回してしまうことを恐れたことがあげられる。特にメリーランドは首都ワシントンの北にあるので、その帰趨は重大な意味を持っていた。1862年3月には、黒人奴隷制の漸進的廃止(1900年までに、有償で廃止)を打ち出し、南部諸州を引き留めようともしたが、それは中立4州の反対で実現しなかった。

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リー将軍

 はじめは、騎馬の戦闘力に長ける南部人を組織し、リー将軍などの有能な指揮官がいたので南軍が軍事的に優勢であり、北軍は苦戦を重ねた。リンカンは強硬な奴隷制即時廃止論者と中立諸州の奴隷制継続の要求にはさまれて、窮地に追いやられた。

 1862年のホームステッド法で西部農民の支持を取り付けることに成功したが、イギリスとフランスが非公然ながら南部を支持、支援する情勢であったので、不利な状況が続いていた。

 
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閣僚に奴隷解放宣言の初稿を提示するリンカン

 リンカンは戦争目的を単なる内戦ではない、大義名分を掲げる必要に迫られた。開戦から1年あまりたってから奴隷解放に踏み切ることを決断、1862年9月に「奴隷解放宣言の予備宣言」を公布し、翌1863年1月1日を以て、交戦中の南部諸州の黒人奴隷を無償で、即時に解放すること明らかにした。

 イギリスはすでに1833年に奴隷制度廃止を実現しており、大規模な奴隷制度を維持していた国は、先進諸国にはアメリカを除いてすでに無くなっていた。リンカンが奴隷解放を戦争目的に掲げたことによって、イギリスが南部支持から北部支持に転換するなど、ヨーロッパ諸国は明確に北部支持に踏み切ることができた。また、国際的な支援によって北軍の士気も上がり、リンカンの戦略は成功した。

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ゲティスバーグの戦い

 1863年7月、ペンシルヴェニア州のゲティスバーグで、南軍7万5000と北軍8万8000が激突した。3日間の激戦で南軍を撃退し、それによって北軍は南部への侵攻ルートを確保することができた。両軍の戦闘員16万3000人の、4分の1が犠牲となった。

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ゲティスバーグでの演説

 その戦いの4ヶ月後の1863年11月19日に行われた戦没者墓地奉献式で、リンカンは有名な演説を行った。このゲティスバーグ演説は、272語1449字という約2分間の極めて短いスピーチであったにもかかわらず、リンカンの演説の中では最も有名なものであり、また歴代大統領の演説の中でも常に第一に取り上げられるもので、独立宣言、合衆国憲法と並んで、アメリカ史に特別な位置を占める演説となっている。

 それはこの戦いでの戦没者を悼み、建国以来のアメリカ合衆国のなかでのこの勝利の意義を述べたもので、末尾を次のように締めくくった。

 「これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽くして身命を捧げた、偉大な大義に対して、彼らの後をうけ継いで、われわれが一層の献身を決意するため、これらの戦死者の死を無駄に終わらしめないように、われらがここで堅く決心するため、またこの国家をして、神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため、そして人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させないため、であります。」

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 リンカンの暗殺

 1864年の大統領選挙で再選されたリンカンは、1865年3月、二度目の就任演説で、「いかなる人にも悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって、神が示し給う正義によって、我らの着手した事業の完成に努力しようではありませんか。」と呼び掛けた。だが、これが彼の遺言となる。

 翌1865年4月9日、アポマトックスにおけるリー将軍の降伏で、ほぼ戦争は北軍の勝利に終わった。両軍併せて61万8000人、北軍は36万人、南軍が25万8000人の戦死者を出した。62万に近い死者の数は、第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万と比べてあまりも大きい。アメリカが体験した戦争の中でもずば抜けて大きな犠牲者の数であった。

 南北戦争が終了したそのわずか5日後の1865年4月14日、復活祭の前の金曜日(グッドフライデー)に、リンカン夫妻はワシントンのフォード劇場に「わがアメリカのいとこ」という喜劇を見に行った。ボックス席で観劇中に、密かに入り込んだ男が至近距離からピストルを発射、リンカンの頭部に命中した。

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ウィルクス=ブース

 犯人はウィルクス=ブースという俳優で、狂信的な南部の支持者だった。リンカンを殺し、ボックスを乗り越えて舞台に飛び降り「暴君の運命はこうだ!」と叫びながら、外に飛び出し、馬で逃亡した。4月25日、ヴァージニアで発見されたが抵抗したため撃たれ、翌日死亡した。

 この暗殺は単独犯ではなく、共謀した仲間は国務長官シューアードが自宅で寝ていたところを襲撃し重傷を負わせた。その仲間も逮捕され、裁判にかけられて死刑または投獄された。

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ケネディ

 在任中の大統領が殺害されたのはこれが初めてだったので、アメリカ全土が震撼した。リンカンが当選したのは1860年であったが、その100年後の1960年に当選したケネディ大統領も、同じように衆人環視の中で狙撃されて死んだ。その他、両者の暗殺にはいくつかの共通点があり、アメリカの歴史の一つの謎とされている。

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リンカン記念堂のリンカン像

 奴隷解放宣言と南北戦争の勝利により、リンカンは「偉大な解放者」the Grate Emancipator となり、アメリカ合衆国憲法修正第13条も各州で批准され、全アメリカで300万人と言われる黒人奴隷の解放は実現していった。

 しかし、アメリカの黒人奴隷解放は順調に進んだわけではなく、黒人差別が現実の問題として深刻となってゆき、現代においてもなお、真の解決には至っていない。

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【 2021/01/12 05:03 】

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世界史のミラクルワールドー奴隷解放の父・リンカン①

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リンカン

 エイブラハム=リンカンは1809年2月12日、ケンタッキーの田舎の丸太小屋で生まれ、川船乗り、製粉業、郵便局長などをしながら1834年ホイッグ党員としてイリノイ州議会の議員に当選、この間独学で法律を学び1836年に弁護士資格も取得した。1846年には連邦下院議員に当選、アメリカ=メキシコ戦争では戦争反対の演説をしたが、戦勝に沸く世論から非愛国者とみなされ、一時中央政界を退いた。

 その後の10年はイリノイ州のスプリングフィールドで弁護士を開業し、企業弁護士として活躍しながら正義感から貧者に対しても真剣な弁護に取り組み「正直者のエイブ」と言われた。

 1850年代に入ると、アメリカ合衆国の北部と南部で、奴隷制の拡大を認めるか阻止するかで激しい対立が生じた。リンカンは黒人奴隷制については奴隷制即時廃止論(アボリショニスト)には混乱を招くとして反対し、南部諸州の奴隷制維持は認めるがその北部への拡大には反対して漸進的に廃止に持っていくのがよいと考えていた。

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ストゥ

 そうした中で、1851年にストゥの『アンクル=トムの小屋』が発表され、1852年5月に単行本として出版されると、たちまちベストセラーとなって最初の10年で30万部を売り尽くした。黒人奴隷のおかれた状況を愛情を持って描いたこの作品は奴隷制反対運動の高揚をもたらし、政界から離れていたリンカンにも刺激を与えた。

 1854年、民主党の奴隷制拡大論者が提案したカンザス・ネブラスカ法が成立し、北部の新しい州に奴隷州を造ることはできないと定めたミズーリ協定が破棄されてしまう。こうして奴隷制拡大派が優勢になると、危機感を強めたリンカンは政界に復帰.。1854年、上院議員選挙にイリノイ州から立候補したが敗れてしまう。

 後日談になるが、リンカンが大統領になってから、ホワイトハウスに招かれたストゥは大統領から、次のような言葉で迎えられている。

 「あなたが、この大きな戦争をひき起こした本をお書きになった小さなご婦人なんですね――」と。

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綿花プランテーションの黒人奴隷

 リンカンは地方議会議員であったときからホイッグ党の党員であったが、ホイッグ党は黒人奴隷制問題が深刻となると、奴隷制度拡大反対か、即時廃止か、維持拡大容認か、などで党員の意見が割れ、内部が混乱して弱体化した。

 リンカンは、黒人奴隷制度の拡大を認めることは、アメリカ合衆国という国家の中に、相容れない社会が二つ固定されることになるとして否定し、「すべての人は平等に造られている」という独立宣言の原則で成り立っているアメリカ合衆国の統一を維持するために1856年、共和党の結成に加わった。

 このリンカンの理念をよく示しているのが、1858年6月のスプリングフィールドにおける共和党州大会での演説「分かれたる家は立つこと能わず」である。

 「この(奴隷制度)拡大運動はやむどころか、ますます昂じてきました。思うに、この動きは、将来危機にまで押し進められ、それを切り抜けるまではやむことがないでしょう。「分かれたる家は立つこと能わず」(マルコ伝3の25)、半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません――家が倒れるのを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。」

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大統領就任式

 1860年11月の大統領選挙で共和党候補として当選、翌年3月、第16代アメリカ大統領に就任した。共和党としては最初の大統領であった。

 当時、アメリカ合衆国はアメリカ独立革命ともいわれる建国以来80年に近づこうとしていたが、1840年代以来の急速な西部開拓によって国土が膨張した一方、工業化が進んだ北部と、黒人奴隷労働に依存する大農園を基盤とした南部との違いが明確となり、それに建国以来の連邦主義と反連邦主義(州権主義)の対立、保護貿易か自由貿易かという経済政策上の対立などが加わって南北の対立が鮮明となっていた。

 リンカンは北部を基盤とした共和党に属し、連邦主義、奴隷制度拡大に反対という政治的立場にたち、南部を基盤とし州権主義、奴隷制度維持を主張する民主党と対立したが、彼自身は南部の出身で中西部で育ち、極端な奴隷解放論者でもなく、分離主義者でもない中間的立場であったこと、民主党が奴隷制拡大を強硬に主張する南部民主党と奴隷制が維持できれば共和党と妥協してもよいと考える北部民主党に内部分裂していたことが大統領に当選できた理由であった。

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ジェファソン=デヴィス

 1861年3月4日、リンカンは大統領就任演説をおこない、そこで南部に対し黒人奴隷制廃止を迫る干渉はしないこと、自分の使命は合衆国を分裂の危機から守ることであることを訴え、最後に次のような言葉で結んだ。

 
「不満を抱く同胞諸君よ、内乱の重大危局(を避ける鍵)は、私の手にではなく、諸君の掌中に握られております。政府は諸君を攻撃しないでしょう。諸君自らが攻撃者となることがなければ、闘争は起こり得ないでしょう。諸君は、わが国の憲政(ガヴァメント)を破壊しようということを天に誓ったはずもなく、私は「憲法を維持し保護し擁護すべきこと」(憲法第2条1節8項)をきわめて厳重に、宣誓しようとするものであります。(中略)

 われわれは敵同士ではなく、友であります。われわれは敵であってはなりません。たとい感情の緊迫はあったとしても、それでもわれわれの愛の絆を断絶させてはなりません。神秘なる思い出の絃【いと】が、わが国のあらゆる戦場と愛国者の墓とを、この広大な国土に住むすべての人の心と家庭とに結びつけているのでありまして、(この絃が)必ずや時いたって、われわれの本性に潜む、よりよい天使の手により、ふたたび触れ(奏で)られる時、その時には連邦(ユニオン)の合唱(コーラス)が重ねて今後においても高鳴ることでありましょう。」

 
しかし、リンカンの大統領当選で危機感を強めた南部のプランター(農園主)に押された南部諸州が合衆国から離脱。1861年2月に、ジェファソン=デヴィスを大統領としてアメリカ連合国を結成、7月に南北戦争に突入することになる。

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大統領候補のリンカンの肖像

 ところで、リンカンについて我々の多くは顎髭を生やした肖像を思い浮かべる。だが、1860年の選挙戦の時までの彼は髭を生やしていない。

 ニューヨーク州ウェストフィールドでの選挙演説を観た11歳の少女グレース=ベデルの手紙に「貴方はとても痩せているので、顎髭があればもっと立派に見えるでしょ。そうすれば、女性達は夫に貴方に投票するよう勧めるでしょう」とあったため、大統領に当選した後に顎髭を生やし始めた。

 就任式のためにワシントンに向かう彼の列車がウェストフィールドに停車すると、リンカンはグレース嬢と会って、その頬にキスをしたという。(つづく)

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【 2021/01/08 05:12 】

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世界史のミラクルワールドーインディアンを憎んだ男・ジャクソン②

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ジャクソン

 ジャクソン大統領の時期に民主主義が進展したと言われている。それはアメリカでの白人男性普通選挙が各州で採用されるようになったことなどに現れており、ジャクソニアン=デモクラシー(ジャクソン民主主義)といっている。

 ジャクソンの推進した民主主義を支えたのは西部の独立した自営農民と東部の労働者層であり、自立を尊ぶ開拓者精神と権威(エスタブリッシュメント)を嫌う平等主義を共通の心情とするアメリカの「草の根民主主義」の源流であった。

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居留地に向かうインディアン

 しかしその一方で、ジャクソンは「彼らを絶滅から救うために、連邦政府は親切にも新しく居住地を提供し、移動と定着の全費用を支払う」と、人道的立場からの提案としてインディアン強制移住法を制定し、インディアンに対する苛酷な処置をとった。

 インディアン強制移住法は1830年6月23日、下院で賛成102、反対97で成立した。それによって、ジャクソン大統領は、ミシシッピ川以東に住む、チョクトウ、クリーク、チカソー、セミノール、チェロキー(いわゆる開化5部族)、約6万人のインディアンを、必要とあらば強制手段によってミシシッピ以西の地に移住させる権限が与えられた。

 ジャクソンは国防長官らを派遣して、部族ごとに交渉を開始、移住を強制した。まずチョクトウが同意し、続いてクリーク、セミノール、チカソーの各インディアンが相次いで屈服し、1831年暮れから移住が始まった。厳しい冬の集団移住は悲惨の一語につき、食糧も不足する中、氷の上を素足をひきずって幽鬼のような長い列が続いた。

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チェロキー族

 チェロキー達はその有様を知って、強く移住に抵抗するようになった。チェロキーは議会を有して法律を制定し、独立国家としての体裁をもつチェロキー=ネーションを成立させており、その大統領(!)に選ばれていた指導者ジョン=ロスはたびたびワシントンに赴いてアメリカ政府と交渉したり、裁判に訴えた。アメリカ世論の中にもインディアンに同情的なものもあったが、1832年の大統領選挙でジャクソンが再選され、インディアンの希望は潰えた。

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ジョン=ロス

 ジャクソンの姿勢は、合衆国の内部に別個のチェロキー=ネーションが存在することは許せないという政治的な面が強くなった。特にチョロキー=ネーションを抱えるジョージア州は強くその排除を連邦政府に迫った。そのような中で、チェロキー=ネーションの中に移住を承諾するかわりに良い条件を引き出そうという条件闘争派が生まれ、分裂した。

 条件闘争派はジョン=ロスが捕らえられている間に連邦政府と条約を結び、1837年元旦を期して第1陣が移住地目指して出発した。しかしこのグループはインディアンでも豊かな層で、大部分のインディアンは出獄したジョン=ロスに従って、チェロキー=ネーションを離れようとしなかった。

 1837年に大統領となったヴァン=ビューレンはジャクソンの子分だったのでチェロキーに移住を強く迫り、将軍スコットを派遣した。スコットは軍隊でチェロキーをいったん強制的に収容所に押し込んだ。収容所の惨状を見たジョン=ロスも、移住費用を政府が持つことでついに移住に同意した。

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オクラホマ

 チェロキー=インディアンの移住は1838年9月から1839年3月にかけて、アメリカ東南部のジョージアから、ミシシッピを越え、西部のオクラホマまでの1300キロの距離を、1万3000人を1000人ずつの13集団に分けて行われた。幌馬車が1集団あたり50台、1人に毛布1枚が支給され、途中の食糧調達用に1人あたり66ドルが当てられた。

 しかし、途中で彼等に食料を売りつけた白人の業者が不当に値段を上げたので、たちまち底をつき、インディアンは寒さと飢えでつぎつぎと病に罹った。80日間という移動期間が決められていたので、病人が出てもとどまることができず、うち捨てられた。この悲惨な旅路で、約4分の1が命を落としたという。ジョン=ロスの妻のクオティーも肺炎で死んだ。

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「涙の旅路」

 チェロキー=インディアンが泣きながらたどった西への1300キロの道程を「涙の旅路」 The Trail of Tears と呼んだが、原語では Nuna-da-ut-sun'y で「そこで人びとが泣いたふみわけ道」の意味である。旅路と言っても道があったわけではなく、原野を踏み分けていったので、「涙のふみわけ道」ともいう。

 1839年3月、彼等は目的地オクラホマに着いた。チョクトウ=インディアンの言葉でオクラは「人々」を、ホマは「赤い」を意味する、平原インディアンが生活している場所であった。

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 亡くなったジョージ=フロイドさん

 2020年5月のミネアポリスでの黒人ジョージ=フロイドさんが白人警官に殺害された事件に対する抗議行動は、暴動を各地で誘発しただけでなく、歴史的な人種差別主義への告発として広がっており、各地で歴史上の人物が差別主義者と糾弾され、引き倒されるなどの動きとなって続いた。

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ジャクソンの騎馬像を引き倒そうとするデモ隊
 
 それに対してアメリカのトランプ政権は神経を尖らせ、そのような破壊行動に対しては首謀者を割り出し、逮捕するという大統領令を出した。その一発目で、6月28日、アメリカ司法省はワシントンのホワイトハウス近くにある第7代ジャクソン大統領の騎馬像を引き倒そうとしたデモ隊のリーダー格4人を訴追した、と発表した。

 ジャクソンのインディアン強制移住法は最悪の人種差別政策として糾弾されるべきであろう。当時の事情から言って彼に人種差別の意図はなかった、という弁解論が当然あろうが、大統領という職務は歴史的審判を受けなければならないものだとすれば、現代の価値基準で彼を差別主義と糾弾するのもいたしかたないだろう。

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【 2021/01/05 05:19 】

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世界史のミラクルワールドー西部出身初の大統領・ジャクソン①

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ジャクソン

 1767年3月15日、アンドリュー=ジャクソンはスコットランド系移民の子として、西部辺境のサウスカロライナ州に生まれた。両親は1765年にアメリカに移住し、白人がまだ入り込んでいないインディアンの地で農業を営んでいたが、父親はジャクソンが生まれる3週間前に29歳で事故死している。ジャクソンは田舎の「古い」学校で学んだが、十分な教育が受けられなかった。

ブーツ
 ブーツを片付けるのを拒否する若きジャクソン

 アメリカ独立戦争が始まると、ジャクソンは13歳で急使として大陸会議軍に加わった。長兄のヒューはス1779年に高熱のため死亡し、ジャクソンと次兄ロバートはイギリス軍によって捕らえられ、囚人として拘留された。彼らは餓死する寸前であった。

 ジャクソンがイギリス軍将校のブーツを片付けるのを拒否すると、将校は彼を刀で切りつけた。ジャクソンは左手と頭に傷跡が残り、イギリス軍に対する激しい憎しみを抱くこととなった 。

 投獄されている間、兄弟は天然痘に罹患【りかん】した。母親が2人の釈放に務めたが、ロバートは容体が悪化し、釈放された数日後に死亡してしまう。母親はチャールストン港に停泊する船で捕虜の看護を申し出たが、そこで発生したコレラが原因で、1781年11月に亡くなってしまう。ジャクソンの肉親は戦争の間に全て死亡し、ジャクソンは14歳にして天涯孤独の身となってしまった。

テネシー 

 1781年、14歳のジャクソンは鞍職人の店で働き、その後ソールズベリーで法律を学んだ。法律知識は乏しかったものの、辺境地での弁護士としては十分な働きをみせ、混沌とした開拓時代の無秩序の中で、法律の名の元に、弁護士として頭角を現していく。

 1788年にウェスタン=ディストリクトの法務官に任用された。
1796年にテネシー州が成立すると下院議員に選出され、さらに1797年には民主共和党から上院議員として選出されるも、1年で辞任してしまう。

 ジャクソンは法律・政治上の経歴以外に奴隷主、農園主および商人としても成功している。
農園は1,050エーカー (425 ha)まで発展し、綿花栽培のために150名の黒人奴隷を所有しており、生涯最大で300名の黒人(混血も含む)奴隷を所有した。

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レイチェル=ジャクソン

 ジャクソンは、決闘好きで知られている。特に話題が妻のレイチェルにことに及ぶと決闘になることがよくあった。レイチェルは前夫のルイス=ロバーズと離婚してジャクソンと結婚したのだが、実はその時、まだ正式に離婚は成立しておらず、レイチェルは不倫したことになってしまったのである。

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ジャクソンとディキンソンの決闘

 夫人を中傷し、地元の新聞でジャクソンを「臆病者」と非難したチャールズ=ディキンソンは、怒ったジャクソンに決闘を申し込まれた。決闘は1806年5月30日に行われた。

 ディキンソンがまず発砲した。銃弾はジャクソンの胸に吸い込まれ、今度はジャクソンがディキンソン向けて発砲した。ディキンソンは倒れ、その夜に亡くなった。ジャクソンの胸の銃弾は心臓のすぐそばだったので摘出することができなかった。そのためジャクソンはそのまま銃弾を摘出せずに後遺症に苦しみながら残りの人生を過ごした。


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ニューオーリンズの戦い

 1812年に始まった米英戦争では司令官としてイギリス軍と戦い、特にイギリス側についたインディアンの制圧にあたった。しかし米英戦争は首都ワシントンがイギリス軍に焼き討ちされるなど、アメリカ軍の不利のまま進み、ようやく1814年にヨーロッパでナポレオン軍が敗れたことを受けて、同年12月にベルギーのガンで講和が成立した。

 ところが、講和成立の知らせが本国に届く前の1815年1月、ジャクソン将軍指揮のアメリカ軍がニューオーリンズのイギリス軍を攻撃して大勝したので、アメリカ国民は戦争に勝利したと思い込み、合衆国の危機を救ったジャクソン将軍の名声が高まった。

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ホースシューベンドの戦いの後、ジャクソンに降伏するクリーク族の酋長

 米英戦争の最中、イギリス側に付いたクリーク族はアラバマの砦を襲撃、250人の白人を虐殺した。報復としてジャクソン軍はクリーク族の村落を焼き払い男だけでなく女子供も殺害した。

 1814年、ジャクソンはホースシューベンドの戦いでクリーク族の伝統派抵抗戦戦士集団の赤い棒(レッド・スティックス)を打ち破った。実はジャクソンの勝利はチェロキー族に戦後の友好を約束して味方にし、白人部隊はクリーク族襲撃に失敗したものの、チェロキー族が川を泳いで背後からクリーク族を襲ったことでもたらされたものだった。

虐殺 
インディアンの虐殺

 クリーク族に対してジャクソン大佐は徹底的な大量虐殺を行った。男も女も、子供であってもジャクソンは容赦せず皆殺しにした。児童も含む約800名のクリーク族を殺し、殺したインディアンの死体から鼻を削ぎとらせて戦利品とさせた。インディアンの死体からは肉が剥ぎ取られ、それは細く切られ、天日で干して彼らの軍馬の手綱として再利用された。

 また、「女を生き残らせるとまた部族が増える」との考えから、特に女(乳幼児、女児を含む)を徹底的に殺すよう全軍に命じた。

 戦争が終わるとジャクソンはみずから条約交渉の役につき、クリーク族の土地の大半を取り上げる条約を結び、友人たちとその土地を買いあさった。土地を私有するという観念のなかったインディアンの社会の伝統はこの条約で破壊され、インディアン同士の対立が持ち込まれることとなった。ジャクソンはこの功績で少将に昇格している。
 
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ジャクソンの大統領就任式

 アメリカ合衆国では1801年からのジェファソン大統領以来、反連邦派の系列につながるリパブリカン党が政権を握っていたが、米西戦争や領土の拡張という時代に直面して、連邦主義的な政策に傾くこともあり、内部から分裂していった。

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ジャクソン大統領と閣僚たち
 
 そのような中で、米英戦争の英雄として人気が高かったジャクソンが、リパブリカン党の一部が結成した民主共和党の支持を受けて1828年の大統領選挙に出馬した。

  ジャクソンは、東部大都市の上層部という既成勢力(エスタブリッシュメント)に対する反発を強めていた西部の開拓農民、北東部の労働者、南部の奴隷農園主の支持を受けて当選、西部の農村出身の最初の大統領として人気が高かった。1832年に、民主共和党は正式に民主党と称することとなった。(つづく)
 
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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/01/01 06:06 】

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