なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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清は朝鮮に対して伝統的な宗主国としての影響力を強く維持しており、それに対し日本は江華島条約以来、経済的進出を強めていた。朝鮮王朝内部にも清との関係を重視する保守派(事大党)と、日本に倣って改革を実現しようとする改革派(独立党)が争っていたが、1884年の甲申政変で独立党のクーデターが失敗し、保守派と結ぶ王妃閔妃と閔氏一族が権力を握っていた。
朝鮮での主導権を清に握られた日本は、勢力回復の機会を探っていた。その間、朝鮮では日本資本主義の経済進出によって物価騰貴、穀物不足が続き、外国に従属する閔氏政権への不満が高まっていった。
1889年には凶作が重なり、朝鮮政府が防穀令を出して穀物の日本輸出を禁止したことに対し、日本が貿易に対する妨害であると厳しく抗議して紛争となった防穀令事件が起こった。
崔済愚
1894年3月、朝鮮の全羅道で東学という教団に率いられた農民たちが地方官の圧政に反抗して蜂起し、やがて反乱は全国に拡大した。
日本では「東学党の乱」と言われていたが、東学は党としての組織をもっていたわけではないので、現在では党を付けず「東学の乱」と呼ぶのが一般的で、甲午農民戦争とも呼ばれる。
東学は1860年に没落両班【やんばん】の崔済愚が創始した宗教で、儒教・仏教・道教を融合させ、西学(天主教=カトリック教)に対抗する意味で東学と名づけられた。東学の教徒となって真心込めて呪文を唱え、霊符を飲めば、天と人間が一体となり、現世において神仙となることができると説いた。大院君政権は思想統制を強め、東学を弾圧、1863年崔済愚を逮捕し、死刑とした。
日本では「東学党の乱」と言われていたが、東学は党としての組織をもっていたわけではないので、現在では党を付けず「東学の乱」と呼ぶのが一般的で、甲午農民戦争とも呼ばれる。
東学は1860年に没落両班【やんばん】の崔済愚が創始した宗教で、儒教・仏教・道教を融合させ、西学(天主教=カトリック教)に対抗する意味で東学と名づけられた。東学の教徒となって真心込めて呪文を唱え、霊符を飲めば、天と人間が一体となり、現世において神仙となることができると説いた。大院君政権は思想統制を強め、東学を弾圧、1863年崔済愚を逮捕し、死刑とした。
1880年代には、外国貿易による物価高などもあって排外思想が強まる中で、東学も再び活発となり、第2代教主の崔時亨のもとで組織化が進み、「斥倭洋」をかかげ、激しく日本と西洋諸国の排斥を求めるようになった。
全琫準を指導者とする農民軍が5月末に道都の全州を占領すると、これに驚いた閔氏政権は袁世凱に清朝軍の派遣を要請した。その結果、6月に清朝軍が牙山に上陸した。清朝軍の朝鮮出兵は1885年の天津条約の規定に基づいて日本政府に通告された。そして、日本政府もただちに朝鮮に派兵し、そのことをやはり清朝に通告した。
ところが、6月11日に閔氏政権と農民軍は全州で「和約」を結び、農民軍が要求する改革の実行と農民軍の撤収を互いに認めた。こうして、日清両国は朝鮮出兵の大義名分を失うことになった。
全琫準を指導者とする農民軍が5月末に道都の全州を占領すると、これに驚いた閔氏政権は袁世凱に清朝軍の派遣を要請した。その結果、6月に清朝軍が牙山に上陸した。清朝軍の朝鮮出兵は1885年の天津条約の規定に基づいて日本政府に通告された。そして、日本政府もただちに朝鮮に派兵し、そのことをやはり清朝に通告した。
ところが、6月11日に閔氏政権と農民軍は全州で「和約」を結び、農民軍が要求する改革の実行と農民軍の撤収を互いに認めた。こうして、日清両国は朝鮮出兵の大義名分を失うことになった。
出兵の理由がなくなったことで、日清両国は交渉の上、6月に同時に撤兵することで合意した。
しかし、陸奥宗光外相は朝鮮をめぐる日清間の対立に決着をつけるため、日清同時撤兵拒否し、大鳥圭介公使に対し「いかなる手段を取ってでも開戦の口実を作るべし」と指令した。大鳥公使は閔氏政権に対して内政改革案を突きつけながら、清朝との宗属関係の廃棄を迫った。(つづく)
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1882年の壬午軍乱以後、清は6000名の軍隊を朝鮮に駐屯させ、その軍事力を背景に、閔氏【びんし】政権に対し宗主権強化策を進めた。それに反発して、開化派の中の急進派である金玉均・朴泳孝らが、清が清仏戦争にかかわっている間をねらい起こしたクーデターが甲申政変である。
壬午軍乱後に日本を訪れた金玉均は福沢諭吉と会い、日本の明治維新以後の発展と資本主義文明の成果を見て、日本の後援で朝鮮の国内改革をやろうと決意した。そのためには親清派である閔氏一派の政権を倒さなければならぬと考え、クーデター計画を福沢諭吉と後藤象二郎に相談した。
この動きは外務卿井上馨も知ることとなり、井上は福沢・後藤とともに金玉均を扇動してクーデターを日本軍の武力に頼っておこなうことにさせ、ソウル駐在の日本公使館竹添進一郎公使との間で詳細な計画が練られた。当時のソウルでは日本軍はわずか1個中隊にすぎないのに清軍は1500名の兵が駐留していたが、竹添公使は少数の日本兵で清国兵を蹴散らすことができると金玉均をけしかけた。
この動きは外務卿井上馨も知ることとなり、井上は福沢・後藤とともに金玉均を扇動してクーデターを日本軍の武力に頼っておこなうことにさせ、ソウル駐在の日本公使館竹添進一郎公使との間で詳細な計画が練られた。当時のソウルでは日本軍はわずか1個中隊にすぎないのに清軍は1500名の兵が駐留していたが、竹添公使は少数の日本兵で清国兵を蹴散らすことができると金玉均をけしかけた。
福沢諭吉
福沢諭吉は1880年に朝鮮の金玉均が日本に派遣した開化派と会って以来、その運動に協力し、朝鮮人青年を留学生として慶応義塾にうけいれた。1883年には金玉均の世話で44人の青年が慶応義塾に学び、その後陸軍戸山学校に入学しているが、彼らは甲申政変で行動隊として参加し、その後の朝鮮の開化運動の指導者となっていった。また福沢諭吉は、留学生が朝鮮に帰ってから近代的新聞『朝鮮旬報』を刊行することに協力している。このように福沢諭吉は朝鮮の開化派の運動の理解者、協力者であった。
しかし、福沢諭吉の朝鮮問題にかんする議論は、詳細に見るとその独立を支援する側面と、日本の国権を朝鮮に広げようという意図を最初から認められる。朝鮮に対しては日本は常に優位に立つべきであり、「かの人民、果たして頑陋【がんろう】ならば之に諭して之に説く可し」(1882年『時事新報』3月11日付「朝鮮の交際を論ず」)と言っている。
しかし、福沢諭吉の朝鮮問題にかんする議論は、詳細に見るとその独立を支援する側面と、日本の国権を朝鮮に広げようという意図を最初から認められる。朝鮮に対しては日本は常に優位に立つべきであり、「かの人民、果たして頑陋【がんろう】ならば之に諭して之に説く可し」(1882年『時事新報』3月11日付「朝鮮の交際を論ず」)と言っている。
竹添進一郎
1884年12月4日、ソウル郵便局の落成式に閔氏一派の要人が参加して祝宴が開かれている間に、王宮で放火し、祝宴会場から王宮に駆けつけようとする要人を途中で殺害するという計画であったが、王宮放火に失敗したため、急遽作戦を変更し、金玉均らは国王を清国軍が攻めてくるとだまして王宮から景祐宮に移し、日本軍にその周囲を警備させた。
要人が急いで景祐宮に駆けつけると金玉均は閔氏一派だけに入門の許可を出し、一人ずつ門内にひっぱりこんで次々と殺害した。その上で金玉均は朴泳孝ら親日派による政権の樹立を宣言したが、国民にその意図や方針を発表することはなかった。
要人が急いで景祐宮に駆けつけると金玉均は閔氏一派だけに入門の許可を出し、一人ずつ門内にひっぱりこんで次々と殺害した。その上で金玉均は朴泳孝ら親日派による政権の樹立を宣言したが、国民にその意図や方針を発表することはなかった。
翌日朝、金玉均のクーデターを知った袁世凱の率いる清国軍は国王の救出を廷臣から要請されたとして、景祐宮を守備する日本軍を攻撃、三時間で勝敗は決し、混乱する中、国王は清軍に保護され、親日派の何人かが殺害された。金玉均、朴泳孝ら9名が辛くも王宮から脱出し、日本船に収容されて日本に亡命した。
こうしてクーデターは僅か3日で失敗に終わり、翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告などを取り決めた。
こうしてクーデターは僅か3日で失敗に終わり、翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告などを取り決めた。
金玉均の暗殺(当時の錦絵)
朴泳孝らは一時アメリカに向かったのに対し、金玉均は日本にとどまる道を選んだが、その約10年に近い亡命生活の境遇は悲惨なものがあった。金玉均は岩田周作と名乗って東京に潜行したが、日本政府はやっかい者扱いし、外務卿井上馨などは会おうともしなかった。
ようやく当時は朝鮮の開化を応援していた福沢諭吉が金玉均らを自宅に招いてその労をねぎらった。その後金玉均は日本政府の命令によって遠く小笠原に移送され、そこで体調を崩したために北海道に移され、幽閉生活を送った。
その間も朝鮮政府閔氏一派は刺客を送り、その機会をうかがっていた。金玉均は朝鮮独立の志は一日たりとも忘れてはいなかった。ようやく東京に戻った金玉均は、清国北洋大臣直隷総督李鴻章に会い、朝鮮改革を訴えようと上海に渡った。上海に着いた翌日の1894年3月27日、日本人経営の宿「東和洋行」で三発の銃弾を受けて倒れた。犯人の洪鐘宇は日本で金玉均に近づいて信頼され、上海までついてきた男だったが実は、閔氏一派が送り込んだ刺客だった。
李鴻章
李鴻章は金玉均の屍体を刺客洪鐘宇とともに北洋艦隊の軍艦で朝鮮に送った。朝鮮政府は漢江の江岸にある楊花鎮で屍体に「凌遅処斬」(あらためて体を切り刻むこと)の惨刑を加え、「謀叛大逆不道罪人玉均」と記した札を立てて、さらしものにした。日本では〝親日派〟金玉均の死は大々的に報じられ、追悼義金の募集などが始まり、清国の処置に非難が高まった。そしてその5ヶ月後に日清戦争が勃発する。
しかし、金玉均の死を日清戦争に直接結びつけることはできない。また彼を〝親日派〟と持ち上げることは当時も、現在も日本の中でかなり根強い見方だが、その見方も間違っている。金玉均は日本に裏切られたのだった。金玉均の交友関係は広く、また書家としても名高くその書は生活の費えとしたので日本人もあらそって買っているので、日本人にも知己は多かった。しかし金玉均は日本の、特に政府、有力政治家には裏切られたという意識を強く持っていた。
彼を上海に行かせたのは危険なことはわかっていたが、日本政府はそれを黙認した。また上海で刺客に襲われたとき、付き添っていたただひとりの日本人和田延二郎の証言によると、和田は遺体を日本に運ぼうとしたが、日本領事が妨害し、その棺を居留地警察の手から清国官憲の手に渡してしまったのだという。
しかし、金玉均の死を日清戦争に直接結びつけることはできない。また彼を〝親日派〟と持ち上げることは当時も、現在も日本の中でかなり根強い見方だが、その見方も間違っている。金玉均は日本に裏切られたのだった。金玉均の交友関係は広く、また書家としても名高くその書は生活の費えとしたので日本人もあらそって買っているので、日本人にも知己は多かった。しかし金玉均は日本の、特に政府、有力政治家には裏切られたという意識を強く持っていた。
彼を上海に行かせたのは危険なことはわかっていたが、日本政府はそれを黙認した。また上海で刺客に襲われたとき、付き添っていたただひとりの日本人和田延二郎の証言によると、和田は遺体を日本に運ぼうとしたが、日本領事が妨害し、その棺を居留地警察の手から清国官憲の手に渡してしまったのだという。
甲申政変が失敗した後、彼は有名な『脱亜論』を『時事新報』(1885年3月16日付)に発表し、「我国は隣国の開明を待てともに亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従いて処分す可きのみ」と主張するに至る。
日本では一万円札にも肖像が用いられ、国民的な偉人とされているが、韓国では今でも日本の一万円札を見ると不快になるという人がいるほど、福沢の人気は伊藤博文に次いで悪い。(つづく)
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アヘン戦争の結果として南京条約を締結し、中国との自由貿易が形の上では始まったが、イギリスは、取引が上海などの5港だけに限定され、中国のどこでも自由に取引ができるわけではなかったこと、特に首都の北京での清朝政府との交渉が出来ないことなど、自由貿易としては不十分であるという不満が強まっていた。
そのような時に持ち上がったのがアロー号事件であった。
そのような時に持ち上がったのがアロー号事件であった。
1856年10月、広州港に停泊中だったアヘン密輸船のアロー号が、海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人船員12名が拘束され、うち3名が逮捕された。イギリスのカントン領事パークスは両広総督葉名琛に対して、アロー号は香港船籍の船、つまりイギリス船であり、臨検の際にイギリス国旗が引きずり降ろされたのはイギリスに対する侮辱であると抗議した。
実際にイギリス国旗が引きずり下ろされたかどうかははっきりしない。しかも、イギリス側は最後まで隠し通したが、アロー号の香港船籍登録はすでに期限切れになっており、アロー号にはイギリス国旗を権利はなかった。
実際にイギリス国旗が引きずり下ろされたかどうかははっきりしない。しかも、イギリス側は最後まで隠し通したが、アロー号の香港船籍登録はすでに期限切れになっており、アロー号にはイギリス国旗を権利はなかった。
しかし、イギリス政府にとっては、事件の真相などはどうでも良かった。アヘン戦争後の対中関係に不満を抱き、1854年に試みた条約改正交渉もクリミア戦争の勃発で失敗に終わっていたイギリス政府は、何か大義名分さえあれば、再び遠征軍を派遣して対中関係の懸案を一挙に解決するつもりだった。
パーマストン
こうしてパーマストン首相は、アロー号事件という国旗侮辱問題を理由に中国に対する武力行使を決定した。その議案は上院を通過したが、下院では否決されてしまった。そこで、パーマストンは下院を解散して総選挙を行い、ようやく議案を通過させることに成功、兵士5000名からなる遠征軍を派遣した。

ナポレオン3世
イギリス政府はナポレオン3世治下のフランスに共同出兵を持ちかけた。この機会にインドシナへの進出を企図したナポレオン3世は、1856年に広西省でフランス人宣教師シャプドレーヌが殺害された事件を理由に、イギリス政府の出兵要請を受け入れた。
なお、ロシアとアメリカもイギリス政府から共同出兵を要請されたが、両国は出兵には同意せず、戦後に予定された条約交渉にだけ参加することを決定した。
なお、ロシアとアメリカもイギリス政府から共同出兵を要請されたが、両国は出兵には同意せず、戦後に予定された条約交渉にだけ参加することを決定した。
また、イギリス遠征軍は途中、インドで発生したイギリス支配に抵抗するシパーヒーの反乱の鎮圧に投入されたため、中国への到着が遅れた。
1857年12月29日、英仏連合軍のカントン占領で、アロー戦争(第2次アヘン戦争)は開始される。拝外派として外国側から嫌われていた両広総督葉名琛は捕虜となり、護送先のカルカッタで客死する。
翌年2月には英仏米露の全権大使連名により清朝に対して条約改正交渉を求めた。しかしこれに対する清の返答に不満を持った連合軍は再び北上して渤海湾に現れ、さらに大沽【タークー】から白河をさかのぼって北京に近い天津に迫ると、太平天国の内乱にも苦しんでいた清朝は連合軍との和平交渉に入った。
こうして1858年6月に、清朝は英仏米露との間に4つの天津条約を締結して、外国側の諸要求を認めた。この条約の内容は公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金などである。またこの条約による関税率改定により、アヘンの輸入が公認化された。
ところで、当時の北京政府内には和平派と主戦派の対立があった。連合軍の軍事的圧力が強まると和平派の立場が強くなり、逆に弱まると主戦派の立場が弱くなった。和平派には、 咸豊帝【かんぽうてい】の異母弟である恭親王奕訢【えききん】、彼の岳父である桂良らがいた。対立する主戦派には、咸豊帝、懿貴妃【いきひ】(のちの西太后)、粛順らがいた。
さて、諸外国が天津条約を締結して退去すると、北京政府内ではまた主戦派が台頭した。その結果、天津条約の批准書交換のために訪中した各国全権に対して、清朝の対応はかなり強硬なものになっていた。
1859年6月17日、英仏の艦隊は天津の南の白河口に来た。陸路で北京へ行くよう清朝側が要求したにもかかわらず、英仏全権は白河溯流を強行しようとしたのである。白河には遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを取り除いている最中に、強化していた大沽の砲台から清軍の攻撃を受けた英仏艦隊はモンゴル人将軍センゲリンチンの軍に敗れて上海へ引き返した。この勝利は主戦派の立場をますます強くした。
占領された直後の大沽砲台
翌1860年夏、英仏軍は大艦隊と約1万7000人の兵隊という大軍で再度進軍して清の大沽砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらが清国皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は一路、北京に向けて進軍した。
連合軍の進京を目前に、9月、咸豊帝と粛順ら主戦派は後事を和平派の恭親王に託して熱河へ避難した。
連合軍の進京を目前に、9月、咸豊帝と粛順ら主戦派は後事を和平派の恭親王に託して熱河へ避難した。
10月7日、英仏連合軍は円明園に侵入し、史上悪名高い略奪を行った。金目のもののほとんどを略奪したのはフランス軍であった。連合軍司令官エルギン伯は7日夕方、円明園から引き上げてすぐに、その有様を「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない。フランス軍は織物を引き裂き、工芸品を壊して回り、尚且つ略奪した。」等と記している。
円明園・長春園にある西洋楼遺址区の廃墟
10月13日、北京は連合軍に開城した。ついで、10月18日、19日、イギリス軍は先に清朝側に捕虜となっていた者が虐殺されたことに対する報復措置ということで、円明園は破壊し火を放った。本当の理由は略奪を隠蔽するためだったとも言われている。フランス軍とイギリス軍は、フランス軍による略奪とイギリス軍による焼き払いを、互いに非難し合った。
北京条約の調印
英仏全権と恭親王ら清朝全権との交渉の結果、10月24日にイギリスと、翌25日にフランスと北京条約が締結されて戦争は終決した。これにより、アヘン貿易がついに合法化された。アヘンは名を「鴉片」から「洋薬」と改めて輸入が合法化され、100斤(アヘン1箱の重さ、約60キロ)につき銀30両の輸入税が課されることになった。当時の清朝は太平天国の反乱に苦しんでおり、その鎮圧に要する軍事費をアヘン課税で補うために、ついに合法化に踏み切ったのである。
なお、アヘン貿易の合法化にともなって、官僚・宦官・兵隊を除き、一般民間人のアヘン吸引は原則として解禁された。
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太平天国が内部崩壊を始めた頃、太平天国をとりまく軍事情勢も代わった。無気力な正規軍に代わって、湘軍が向かって来た。
湘軍は湖南省出身の役人曾国藩【そうこくはん】が編成した郷勇で、地主の自警団である団錬よりもよく訓練され、団結も固かったから、太平軍はしだいに守勢に立たされることになった。
曾国藩の部下の安徽省出身の役人李鴻章【りこうしょう】も、まもなく淮軍を組織して太平天国を攻め立てる。太平天国側の指導者の争いと統率力の衰えは、敵に有利な情勢をつくっていく。
欧米諸国の動きも見逃せなかった。アヘン戦争後の10年間は、有利な貿易条件にもかかわらず、綿織物などイギリスの商品の売れ行きはかんばしくなかった。開港場を長江流域や華北にもっと増やそう、というのがイギリス及び、イギリスと同様の条約を結んだアメリカ・フランスの望みであった。清と太平天国の戦いをおおいに利用しようと、機会をねらっていたのは当然である。
欧米諸国の動きも見逃せなかった。アヘン戦争後の10年間は、有利な貿易条件にもかかわらず、綿織物などイギリスの商品の売れ行きはかんばしくなかった。開港場を長江流域や華北にもっと増やそう、というのがイギリス及び、イギリスと同様の条約を結んだアメリカ・フランスの望みであった。清と太平天国の戦いをおおいに利用しようと、機会をねらっていたのは当然である。
各国は初め太平軍の鎮圧に力を貸そうか、と清に申し入れたが、清は太平天国と同じキリスト教徒は油断ならないと考えて拒絶した。
次に、太平軍が南京を占領すると、イギリスは太平軍に使者を送って探りを入れた。太平天国の方針は明白であった。アヘン貿易や不平等条約は認めない、それを止めるなら外国人との自由な貿易をしよう、というのであった。これは列国が受け入れるつもりがない。
結局、列国は太平天国の要求に応じて、初めは中立の態度をとった。
次に、太平軍が南京を占領すると、イギリスは太平軍に使者を送って探りを入れた。太平天国の方針は明白であった。アヘン貿易や不平等条約は認めない、それを止めるなら外国人との自由な貿易をしよう、というのであった。これは列国が受け入れるつもりがない。
結局、列国は太平天国の要求に応じて、初めは中立の態度をとった。
アロー戦争
しかし、1856年広州で起きたアロー号事件という、領事裁判権にからむ出来事から、イギリスはフランスとともに清朝と開戦した。このアロー戦争が再び清の敗北となって終わった1860年以後、太平天国は苦境に立つことになる。
1860年、太平軍が丹陽・常州・無錫・蘇州などを陥落させると、英・仏両国公使は上海防衛を宣言し、上海の中国商人の斡旋でフィリピン人を集めて洋式軍隊を編成してアメリカ人ウォードを隊長とした。当初は洋槍隊と称したが、やがて中国兵も加えて数千人規模となった1862年に常勝軍と改め、1863年にイギリス人ゴードンが隊長に招かれた。
ゴードンは戦規に厳しく、淮軍とともに蘇州を占領した際、降伏した太平軍兵士は殺さないと約束したにもかかわらず淮軍の指導者李鴻章が捕虜を皆殺しにしたことを怒り、短銃を持って李鴻章を追い回し、李鴻章はかろうじてこれを逃れたという。
太平軍の滅亡間近になると、清朝正規軍に鎮圧の功績を譲るべくゴードンは常勝軍を解散したが、湘軍を率いた曾国藩も同様な判断のもとに湘軍を解散している。
ゴードンは戦規に厳しく、淮軍とともに蘇州を占領した際、降伏した太平軍兵士は殺さないと約束したにもかかわらず淮軍の指導者李鴻章が捕虜を皆殺しにしたことを怒り、短銃を持って李鴻章を追い回し、李鴻章はかろうじてこれを逃れたという。
太平軍の滅亡間近になると、清朝正規軍に鎮圧の功績を譲るべくゴードンは常勝軍を解散したが、湘軍を率いた曾国藩も同様な判断のもとに湘軍を解散している。
天京事件以後、洪秀全はより一層神を拠り所として混乱した体制の立て直しと維持をはかろうとした。国号を一時「上帝天国」とか「天父天兄天王太平天国」と改めたのもその現れであった。
神の加護だけでなく、すでに死亡した南王・西王・東王らが洪秀全の夢に出て来て助けるということもあった。
神の加護だけでなく、すでに死亡した南王・西王・東王らが洪秀全の夢に出て来て助けるということもあった。
李秀成は天京を放棄して再起をはかることを進言したが、洪秀全はこれを拒絶した。天京には餓死者・逃亡者が続出した。洪秀全は雑草を甜露【てんろ】と称して上帝の奇跡を願ったが、1864年6月1日、天父・天兄の遣わす天兵に希望を託しつつ服薬を拒んで病死した。
そのあと、7月20日、湘軍によって天京は陥落した。最後まで戦って脱出した李秀成は、捕らえられて曾国藩の軍営に引き渡され、取り調べののち処刑された。
こうして、太平天国は金田村の蜂起いらい13年余りの短い歴史をとじた。しかし、生き残った農民・鉱夫などの貧しい兵士たちは、人間らしく生きることが出来た十数年の経験を、ここかしこに潜みながら、後の世のために語り伝えた。
太平軍の残党である機織り爺さんのその話を、四川の村で聞いた少年の一人朱徳が、やがて中国紅軍の建設者となるであろう。(おわり)
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1853年3月に南京を占領した太平軍は、南京に太平天国の首都「天京」を造営した。天王・洪秀全は清朝の両江総督が使っていた官署に入り、そこを改築して「天王府」とした。その他の諸王もそれぞれ壮麗な王府を築いた。
広西の山中で苦しい生活をしていた彼らが、天下の半分を奪い取り、王を名乗って宮殿に住むことになったのである。
広西の山中で苦しい生活をしていた彼らが、天下の半分を奪い取り、王を名乗って宮殿に住むことになったのである。
玉座に座る洪秀全
「宮禁」と呼ばれた天王府には、「金竜城」という内城と「太陽宮」という外城が造られ、金竜城には「金竜殿」という金色に輝く宮殿が造営された。この宮殿の奥深くに住んだ洪秀全は、もはや社会の動きに直接触れることはなかった。煩瑣な儀式を経て天王に会えるのはごく少数の指導者だけとなった。
洪秀全の女たち
太平天国は、一般には女性問題に厳しい姿勢を要求していながら、洪秀全は天京の宮殿に60人の美女をはべらせて享楽の日々を送ったという。
楊秀清
天王府がもっとも壮麗な宮殿であったことは言うまでもないが、東王以下の諸王も同様に王府を造営して、天京の中にあたかもいくつかの独立国があるかのようであった。中でも楊秀清の東王府は天王府に匹敵するほどの規模であったが、天京に首都を造営してからの体制づくりはこの楊秀清の指導力のもとで行われ、天王・洪秀全の動きはあまり目立たなくなってしまう。 1848年のことであったが、拝上帝会の幹部の馮雲山が清朝の官憲に捕われると、洪秀全は救出のために広州に赴いた。これにより会員に動揺が広がったため、楊秀清は独断でヤハウェの託宣(「天父下凡」)、次いで蕭朝貴がイエスの託宣(「天兄下凡」)を行ったところ人心を静めることに成功した。馮雲山の釈放により広西に戻ってきた洪秀全は楊の「天父下凡」と蕭の「天兄下凡」を認め、この二人が拝上帝会の指導権を握ることになった。
拝上帝会の実質的な創始者である馮雲山がいちはやく戦死し、「天兄」の言葉を伝えた西王・蕭朝貴が死亡すると、「天父」の言葉を伝える機能を認められている楊秀清の力は、天王の権威によってもとうてい抑制しえなくなった。
楊秀清は「天父下凡」を行うことによって、諸王や高位の官員を叱責し、処罰することがあった。天王・洪秀全も、下凡した天父には逆らうことはできない。最後の下凡は1856年8月のことであった。天王は東王の宮殿に呼びつけられ、そこで、信仰の足りなさを責める「天父」の言葉を伝えられた。天王が他の王の館に出向くのは異例なことであった。清軍との戦いの全体を指揮し、天国の行政を支配していた東王は、天王と並ぶ権威を求めていた。それから半年余り経った9月2日、天京に大事件が発生した。
拝上帝会の実質的な創始者である馮雲山がいちはやく戦死し、「天兄」の言葉を伝えた西王・蕭朝貴が死亡すると、「天父」の言葉を伝える機能を認められている楊秀清の力は、天王の権威によってもとうてい抑制しえなくなった。
楊秀清は「天父下凡」を行うことによって、諸王や高位の官員を叱責し、処罰することがあった。天王・洪秀全も、下凡した天父には逆らうことはできない。最後の下凡は1856年8月のことであった。天王は東王の宮殿に呼びつけられ、そこで、信仰の足りなさを責める「天父」の言葉を伝えられた。天王が他の王の館に出向くのは異例なことであった。清軍との戦いの全体を指揮し、天国の行政を支配していた東王は、天王と並ぶ権威を求めていた。それから半年余り経った9月2日、天京に大事件が発生した。
北王・韋昌輝の部隊が東王府を襲撃し、楊秀清を殺害するとともに、その配下の兵士や関連のある者2万人を皆殺しにしたのである。地主と炭焼きという二人の出身階級の違いが投影されていたのだろうか。こうして、東王に代わって北王の恐怖政治が行われた。
この残虐を責めた翼王・石達開をも北王は粛清しようとし、翼王が逃げると、彼の母・妻子ほか何十人もの人々を殺害した。洪秀全はこれらをただ眺めているだけであった。
韋昌輝の恐怖政治は2カ月間続いたが、石達開が4万の兵をもって天京に迫ると、人心を失っていた北王はあえなく倒され、処刑された。その首は翼王に届けられ、その身は2寸(約6センチ)四方に細切れにされたという。9月から11月までの間に東王、北王の配下の老若男女、約4万人が命を失ったと言われる。
ところが、この石達開も洪秀全に嫌われ、失望した彼は『三国志』の時代の蜀のような独立国をつくろうと、四川へ去った。こうして5人の王はすべて洪秀全のもとから消えた。その後の太平天国を、忠王・李秀成のような若い指導者が支えるが、かつての活力はだんだん衰えていくのだった。(つづく)
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最初の布教から3年ほど経った1847年頃、桂平県の紫荊山を根拠地にして「拝上帝会」が正式に結成され、会員は約2000人になった。洪や馮と並んで幹部となった炭焼きの楊秀清【ようしゅうせい】や簫朝貴【しょうちょうき】は、この初期の入会者である。
同じ幹部でも、韋昌輝【いしょうき】や石達開などは、有力な地主であった。
同じ幹部でも、韋昌輝【いしょうき】や石達開などは、有力な地主であった。
地主は村の指導層であり、経済的には裕福であったが、清朝の厳しい税の取り立てに反発し、地方役人を憎む者が多かった。そこで、アヘン戦争の前後から、中国の各地で、私兵をかかえた地主と県の役人との武力抗争が続発した(これを「抗租・抗糧闘争」という)。上帝会はこういう地主にも働きかけた。本気で拝上帝教を信じない地主でも、反清朝の立場から参加する者があった。
農民たちは「上帝を敬わないと蛇や虎に噛まれる。敬えば災難や病気を免れる」という上帝会の宣伝に惹かれ、また神像や仏像を破壊してもなんの祟りもないと分かると、安心して入会した。貧しい彼らに、俺たちは上帝のお力で平等になれるという信念が強まっていった。
農民たちは「上帝を敬わないと蛇や虎に噛まれる。敬えば災難や病気を免れる」という上帝会の宣伝に惹かれ、また神像や仏像を破壊してもなんの祟りもないと分かると、安心して入会した。貧しい彼らに、俺たちは上帝のお力で平等になれるという信念が強まっていった。
1850年に入ると、楊秀清や馮雲山ら少数の幹部たちは、新しい国をおこそうと遠謀を練り始めた。6月、各地の会衆はお触れにしたがって紫荊山の麓の金田村にぞくぞくと集まった。彼らは家や土地を売って手に入れた金や現物を公有の倉庫(聖庫)に納め、その上で一律平等に衣食を支給される、平等な共同生活を営み始めた。
すでに会衆は、洪秀全が「モーセの十戒」にならってつくった、博打・殺人・飲酒・吸煙・姦淫などをいっさいしないという「十款の天条」を守る生活を始めており、金田村での共同生活も極めて厳しいものであった。
すでに会衆は、洪秀全が「モーセの十戒」にならってつくった、博打・殺人・飲酒・吸煙・姦淫などをいっさいしないという「十款の天条」を守る生活を始めており、金田村での共同生活も極めて厳しいものであった。
金田蜂起
金田村へは、貴県から、本地人と開墾地の所有権を争って敗れた3000余人の客家、1000余人の鉱夫、そのほか上海に貿易の中心が移ったことで物資輸送の仕事をなくした運送人たちが、平等な共同生活を頼ってやって来た。あわせてその数約1万人。
このような形勢を見て、大地主は団錬と呼ぶ自警団を、政府は正規軍を派遣して金田村の包囲に取りかかった。これに対抗して上帝会は、会衆を年齢別・男女別に分けて軍団に編成し、蜂起の形勢を整えた。
そして、洪秀全の36回目の誕生日である1851年1月11日(陰暦の1850年12月10日)、上帝会は正式に蜂起を宣言した。
すべての人が太平を楽しめる新国家「太平天国」の建設に向かって、革命軍団は出発した。蜂起の直前、清軍のうちの数千が太平天国側に寝返ったが、そのほとんどが客家の出身者であったという。
太平天国軍(以下「太平軍」と記す)は北に向かった。9月、永安城を占領、ここで太平天王洪秀全のもとに、東王楊秀清、西王簫朝貴、南王馮雲山、北王韋昌輝、翼王石達開という最高指導部の陣容が整った。
東王以下の5人の王は、それぞれ1万3000余人の兵士を率いる将軍であるが、楊秀清はヤハウェの、簫朝貴はイエスの託宣を伝える人物として、洪秀全に次ぐナンバー2、ナンバー3の権威を持った。
岳州の戦い
半年後、清軍の包囲を破って永安城から北上し、以後いくつもの城市を攻め落としてはすぐそこを離れ、湖南省を進んで洞庭湖に出た。そこから、1852年末、長江に通じる岳州を攻め、大量の武器弾薬と船を獲得した。これは、太平軍のその後の行動をきわめて有利にした。
すでに湖南を北上する中で、清朝に反攻する他のいくつもの秘密結社(たとえば「天地会」など)が協力し、太平軍の軍勢は膨れ上がっていた。太平軍が長江の流れにのって翌1853年1月、漢陽・漢口・武昌のいわゆる武漢三鎮を占領した時には、総数50万にのぼった。
ただ、見落とせないのは、この時までに洪秀全は、最初の同志・馮雲山と妹婿・簫朝貴が戦死したことで孤立しだし、ナンバー2の楊秀清の権力がますます強まったことである。後の内紛がここに芽生えた。
ただ、見落とせないのは、この時までに洪秀全は、最初の同志・馮雲山と妹婿・簫朝貴が戦死したことで孤立しだし、ナンバー2の楊秀清の権力がますます強まったことである。後の内紛がここに芽生えた。
南京城玄武門
2月、太平軍は水陸両路に分かれて武昌をたち、わずか3週間で南京城下に殺到した。
太平軍が進撃して来ると、民衆はどこでもこれを歓迎し、日頃の恨みをはらすのだと、県庁や質屋に集団で押しかけ、放火・物品略奪を行ったり、あるいは牢獄の囚人を救い出したりした。また抗租・抗糧闘争が燃え上がり、地主に対する小作(佃戸)の反抗が激しくなった。
太平軍が進撃して来ると、民衆はどこでもこれを歓迎し、日頃の恨みをはらすのだと、県庁や質屋に集団で押しかけ、放火・物品略奪を行ったり、あるいは牢獄の囚人を救い出したりした。また抗租・抗糧闘争が燃え上がり、地主に対する小作(佃戸)の反抗が激しくなった。
他方、太平軍の軍規は厳しく、民家に侵入して略奪したり飯を炊かせたり、あるいは荷物を運ばせたりした者は、上帝への反逆として処刑された。夫といえども妻のいる女子軍に近づくことは許されず、立ち小便や日中裸体をさらす者も姦淫とみなされ、禁を犯せば死刑にされた。民衆の支持を受ける太平軍の姿を、政府側の記録も、次のように認めない訳にはいかなかった。
「賊は初めもっぱら城市をかすめ取り、村民から略奪しなかったばかりか、行軍の道々、城市で奪った衣服を貧者に分け与えた。また、流言をまきちらし、将来は租税・賦役を免除すると宣伝した。村民はこれを徳とし、富者が城中で困っていても平気で、一銭の援助を与えようともしなかった。」
約3万の清軍に守られた南京城は、十数日におよぶ激戦のすえ陥落した、時に1853年3月20日。以後、太平天国では、これを天京と改めて首都とし、ようやく腰をすえて国造りのかまえをとった。(つづく)
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「賊は初めもっぱら城市をかすめ取り、村民から略奪しなかったばかりか、行軍の道々、城市で奪った衣服を貧者に分け与えた。また、流言をまきちらし、将来は租税・賦役を免除すると宣伝した。村民はこれを徳とし、富者が城中で困っていても平気で、一銭の援助を与えようともしなかった。」
約3万の清軍に守られた南京城は、十数日におよぶ激戦のすえ陥落した、時に1853年3月20日。以後、太平天国では、これを天京と改めて首都とし、ようやく腰をすえて国造りのかまえをとった。(つづく)
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洪秀全
アヘン戦争が終わって数年後のことである。30歳をちょっとこしたぐらいの男が、広州から50キロ余り北の花県地方を行商しながら、「上帝」を崇拝しようと説教し回っていた。
璽太平天国の玉
その男は、自分は上帝すなわちヤハウェの子であり、イエスの弟だとも称した、後に使用した太平天国の玉璽にも、「天兄基督」と記されている。
その説教というのは、「土地も食物も衣服もみな天主である上帝のもので、上帝はこれらを誰にも平等に分け与えてくださるのだ。だから、上帝を信じれば貧乏人はいなくなり、生きているうちは地上の天国に暮らせるし、死んだら天上の天国に昇れるのだ。」という教えであった。
男の名は洪秀全といった。広東省花県の貧しい村に生まれた。

科挙の合格発表
洪秀全は小さい頃から賢かった。大きくなると村の塾の先生をしながら、役人になるために科挙を3度受けた。だが、みな失敗し、1837年の3度目の失敗のあと落胆のあまり高熱を出し、40日も寝込んでしまった。
この時、彼は夢を見た。……天上の立派な宮殿に連れて行かれると、金髪の老人がいた。老人は、世界の人類はみな自分の子で、自分が養っているのに、それを忘れて悪魔をを崇拝している。おまえは、これでその悪魔を退治せよう、と言い、一振りの剣をくれた……。
病気が治ると、洪秀全はこの夢のことを忘れ、塾の教師と、4度目の科挙の受験勉強で6年が過ぎた。その間にアヘン戦争が起こり、中国は敗れて不平等な条約を押しつけられた。その1843年、洪秀全は広州で4度目の試験を受けたが、またも落第した。
病気が治ると、洪秀全はこの夢のことを忘れ、塾の教師と、4度目の科挙の受験勉強で6年が過ぎた。その間にアヘン戦争が起こり、中国は敗れて不平等な条約を押しつけられた。その1843年、洪秀全は広州で4度目の試験を受けたが、またも落第した。
情けないやら腹立たしいやらで、やりきれない毎日をおくっていた洪秀全は、ある日、以前に広州の街頭でプロテスタント宣教師から貰った『勧世良言』という題名の、中国語で書かれたキリスト教入門書を何気なしに読んだ。ところが、そこに書かれてある話は、なんと病気の時に見た夢とよく似ているではないか。
驚きが静まったあと、洪秀全は自分に悪魔を退治せよと語った、あの夢に現れた老人は上帝ヤハウェであり、老人の側にいて自分を励ましてくれた人がイエスなのだ、そして、自分はヤハウェの第二子なのだと信じるようになった。
以上の話は、香港に住んでいた宣教師ハムバークの『洪秀全の幻想』(1854年)によって、世に知られるようになった。
さて、このように考え出した洪秀全には、役人になることも、そのための受験勉強をすることも、もう無意味になった。人々に偶像崇拝を止めさせ、上帝だけを信仰するようにするのが自分の使命だと、かたく信じた。
さっそく塾の孔子像を取っ払った。それを非難され、村を追われた。だが、それぐらいではくじけはしない。親戚の洪仁玕【こうじんかん】や、科挙に失敗を重ねて不平の塊になっていた馮雲山【ふううんざん】を仲間にして布教を始めた。しかし、花県での反響は少なかった。
さっそく塾の孔子像を取っ払った。それを非難され、村を追われた。だが、それぐらいではくじけはしない。親戚の洪仁玕【こうじんかん】や、科挙に失敗を重ねて不平の塊になっていた馮雲山【ふううんざん】を仲間にして布教を始めた。しかし、花県での反響は少なかった。
そこで、彼らは隣の江西省の南東部に移った。そこは山間の僻地で、客家【はっか】と呼ばれる貧農や炭焼き・鉱山労働者など、他所からの移住者が多かった。客家の者は、古くから住む本地の人々に蔑まれることが多く、客家と本地人の衝突がよく起こった。
洪秀全や馮雲山も広東省の客家の出身であるだけに、彼らの説く「拝上帝教」は、広西の客家の間に浸透していった。(つづく)
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パーマストン外相は、カントン体制の打破を大義名分として、遠征軍の中国派遣を決定した。そのため、イギリス政府は遠征軍の中国派遣にともなう特別財政支出の議案を議会に提出する。
議案はまず、下院で審議された。この時、のちに首相になるグラッドストンは、演説の中で次のように述べて戦争に反対した。
その原因がこれほど不正義で、また、わが国にこれほど永遠の不名誉を残すことになる戦争を、私はこれまで聞いたことがないし、また、読んだこともない。……イギリス国旗は悪名高いアヘン密輸貿易を保護するために掲げられている。もし、イギリス国旗が今、中国の沿岸に掲げられているようにしか掲げられないならば、それを見るだけで我々は恐怖におののくだろう。
イギリス国内には、このグラッドストン演説に代表される反アヘン輿論もかなりあったが、1840年4月7日、反対動議案は271票対262票、わずか9票差で否決され、政府案が可決された。ついで政府案は上院でも可決された。
ところで、議会での審議に先立って、遠征軍はすでに中国に向けて出発していた。インドで主力が編制された遠征軍の第1陣は、6月にカントン海域に到着した。以後、夏の終わりまでに中国海域に集結した遠征軍の陣容は、軍艦6隻、輸送船27隻、東インド会社の武装汽船4隻、陸軍約4000名である。
遠征軍はカントンの海上封鎖を宣言してから北上し、7月5日には舟山島を占領、さらに北上して渤海湾に入り、8月9日に白河口沖に到着した。そして、パーマストン外相の中国宰相宛の書簡を清朝官憲に手渡して回答を求めた。
遠征軍はカントンの海上封鎖を宣言してから北上し、7月5日には舟山島を占領、さらに北上して渤海湾に入り、8月9日に白河口沖に到着した。そして、パーマストン外相の中国宰相宛の書簡を清朝官憲に手渡して回答を求めた。
この書簡の中でパーマストンは、引き渡したアヘン代価の賠償、中英両国の対等交際、海島の割譲、公行制度の廃止などを要求すると同時に、カントンにおける林則徐の行動を強く非難していた。
さて、イギリス遠征軍が北京に近い渤海湾に出現したことに驚愕し、うろたえた道光帝は、書簡で強く非難されていた林則徐を罷免し、西域辺境の新疆イリに左遷した。そして、新たに欽差大臣に任命する琦善【きぜん】とカントンで交渉することをイギリス側に提案して同意を得た。
さて、イギリス遠征軍が北京に近い渤海湾に出現したことに驚愕し、うろたえた道光帝は、書簡で強く非難されていた林則徐を罷免し、西域辺境の新疆イリに左遷した。そして、新たに欽差大臣に任命する琦善【きぜん】とカントンで交渉することをイギリス側に提案して同意を得た。
道光帝
しかし、カントンで行われた琦善とイギリス側の交渉も、香港島の割譲をめぐって決裂し、イギリス軍による虎門砲台の占領が知らされると、道光帝は1841年1月27日にイギリスに対して宣戦布告の上諭を発した。
ついで、イギリス軍による香港島占領の報に接すると、琦善はその責任を問われて罷免され、財産を没収された。こうして、戦争は再開される。
中国兵船を砲撃するネメシス号
戦局は圧倒的な軍事力を誇るイギリス側の優勢のもとに推移した。特に、メネシス号をはじめとする東インド会社の武装汽船の活躍は、目をみはるものがあった。その経験から戦後、イギリス海軍は軍艦の汽走化に本格的に着手することになる。
ところで、イギリス側に勝利をもたらした原因は、必ずしも軍事力だけではなかった。確かに個々の戦闘で清朝側が勝利を収めることは難しかっただろう。ただ、もし清朝が持久戦、ゲリラ戦に打って出たら、イギリス軍としても苦しい局面を迎えたはずである。
ところで、イギリス側に勝利をもたらした原因は、必ずしも軍事力だけではなかった。確かに個々の戦闘で清朝側が勝利を収めることは難しかっただろう。ただ、もし清朝が持久戦、ゲリラ戦に打って出たら、イギリス軍としても苦しい局面を迎えたはずである。
中国のジャンク船を沈めていくイギリス海軍
しかし、そうした作戦を清朝はとることが出来なかった。それは、清朝が漢民族ではなく、満州族が支配者の征服王朝だったからである。戦争の過程で、イギリスに協力する漢民族がかなりいた。清朝は彼らを「漢奸」と読んで嫌悪し、その存在を恐れた。
勝てない戦争の続行が反乱を誘発して支配体制が動揺することを、満州族王朝たる清朝の中枢部は何よりも恐れていた。清朝にとって、真の敵はむしろ国内にあったのである。
勝てない戦争の続行が反乱を誘発して支配体制が動揺することを、満州族王朝たる清朝の中枢部は何よりも恐れていた。清朝にとって、真の敵はむしろ国内にあったのである。
こうして1842年7月21日、長江を遡航したイギリス軍が中国経済の大動脈とも言うべき大運河を、長江との合流点である鎮江で封鎖し、ついで、やや上流の南京に対する攻撃を最後通告すると、清朝は敗北を認めてイギリスとの和平交渉に入った。
大運河封鎖の戦略上の重要性については、かのマカートニーが北京からの帰途、大運河を南下して鎮江を通過した時にすでに指摘していた。
大運河封鎖の戦略上の重要性については、かのマカートニーが北京からの帰途、大運河を南下して鎮江を通過した時にすでに指摘していた。
和平交渉の結果、8月29日、南京沖の長江に碇泊するイギリス軍艦コーンウォーリス号上で、いわゆる南京条約が調印され、アヘン戦争は終決した。
南京条約全13条の主な内容は、
①カントンに加えて厦門・福州・寧波・上海の計5港の開港とそこでの領事駐在。
②香港島の割譲。
③引き渡したアヘンの賠償金600万ドルの支払い。
④公行制度の廃止と公行の債務300万ドルの支払い。
⑤イギリスの戦費1200万ドルの支払い。
⑥イギリス軍に協力した漢奸として逮捕されている清朝臣民の釈放。
⑦中英国官憲の対等交渉。
などである。
アヘン戦争の結果として、外国貿易を広州だけに限定し、特許商人組合の公行のみが貿易を行うというカントン体制は解体され、欧米諸国との関係は条約体制に改編される。しかも、それは厳密に言えば、不平等な条約体制であった。
南京条約全13条の主な内容は、
①カントンに加えて厦門・福州・寧波・上海の計5港の開港とそこでの領事駐在。
②香港島の割譲。
③引き渡したアヘンの賠償金600万ドルの支払い。
④公行制度の廃止と公行の債務300万ドルの支払い。
⑤イギリスの戦費1200万ドルの支払い。
⑥イギリス軍に協力した漢奸として逮捕されている清朝臣民の釈放。
⑦中英国官憲の対等交渉。
などである。
アヘン戦争の結果として、外国貿易を広州だけに限定し、特許商人組合の公行のみが貿易を行うというカントン体制は解体され、欧米諸国との関係は条約体制に改編される。しかも、それは厳密に言えば、不平等な条約体制であった。
旧英国駐上海領事館
すなわち、南京条約に続いて1843年にイギリスと締結した五港通商章程、虎門塞追加条約、また、1844年におけるアメリカとの望厦条約、フランスとの黄埔条約は、協定関税(関税自主権の喪失)、領事裁判権(治外法権)、片務的最恵国待遇を規定する、いわゆる不平等条約であり、これによって清朝中国の主権は著しく侵害された。
こうしてアヘン戦争に敗北した清朝中国は、イギリスを中心とする資本主義的な世界経済構造の中に国家主権を侵害された不平等な条件で組み込まれ始めた。そうした過程の出発点であったという意味で、アヘン戦争は中国近代史の起点とみなされている。
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