なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ディヴィット=リヴィングストンはナイルの源流を求めてヴィクトリア滝を発見したほか、アフリカ大陸の南半で3万マイルに及ぶ未知の地域を踏破し、完全な記録を残した大探検家として知られるが、冒険的な探検家ではなく、黒人奴隷制を廃止する熱意に燃え、キリスト教の福音主義運動にもとづく伝道師としてアフリカに渡ったのであった。
ンガミ湖に到着
スコットランドのグラスゴー南西部の紡績工場で働く10歳の少年工だった時、奴隷貿易を知ってショックを受け、敬虔な長老派信者であった彼は医療伝道師を志し、時間をかけて医学・神学を学んだ。南アメリカで伝道生活を行っている時に、住民の言語・習俗、未知の地域への関心に目覚めたのだった。
1849年のンガミ湖の発見で王立地理学協会との結びつきが生まれ、以来地理的探検にのめり込むことになった。
1849年のンガミ湖の発見で王立地理学協会との結びつきが生まれ、以来地理的探検にのめり込むことになった。
奴隷貿易
探検の間も、リヴィングストンは奴隷貿易廃絶への初志は忘れなかった。キリスト教と文明、そしてなによりも内陸部への有利な交易ルートの発見こそが奴隷貿易を無くす道であるというのが、彼の信念であったが、時にはヴィクトリア朝人独特の「たくましいキリスト者精神」で、腕ずくで奴隷キャラバンから犠牲者を解放したりもした。
ザンジバルでは彼の努力でその没年である1873年に奴隷制は廃止されている。
ザンジバルでは彼の努力でその没年である1873年に奴隷制は廃止されている。
1866~73年のナイル水源探検では、奴隷商人に買収されたポーターに医薬品を持ち逃げされて病に倒れ、数年間行方知れずになった。
イギリス国内では消息を絶ち、死亡説まで流れているリヴィングストンを探索する動きも出ていたが、過酷な旅に加えて現地での妨害もあり、失敗続きであった。
スタンリー
1869年10月、『ニューヨーク・ヘラルド』の経営者であるジェームズ=ゴードン=ベネット=ジュニアは、ヨーロッパ滞在中に、特派員の1人であるヘンリー=スタンリーに電報を送り呼び寄せた。
スタンリーはリヴィングストン捜索の依頼を承諾し、莫大な資金提供と、発見が成功した際の報奨金を約束された。
スタンリーはただちに出発したが、他の取材のためパレスチナ、エジプト、インドなどを訪れていたため、リヴィングストンのいる辿り着いたのは1871年11月10日であった。
スタンリーはリヴィングストン捜索の依頼を承諾し、莫大な資金提供と、発見が成功した際の報奨金を約束された。
スタンリーはただちに出発したが、他の取材のためパレスチナ、エジプト、インドなどを訪れていたため、リヴィングストンのいる辿り着いたのは1871年11月10日であった。
スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇し、従者に導かれて本人と対面した。骸骨のようにやせ衰えた姿を見てスタンリーが発した「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」は、後にイギリスで思いがけず人と対面した時の慣用句として使われるようになるほど、劇的なエピソードとして伝えられた。
2人はタンガニーカの北端までの探検を行うなど、4ヶ月をともに過ごした。スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、さらに探検を続けることを望んだ。
スタンリーは1872年3月15日、イギリスへ向けて旅立ち、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送った。
8月15日にリヴィングストン一行はバングウェル湖へ向け出発し、翌年4月29日にはバングウェル湖南側の村、チタンボへたどり着いた。しかし、日記に探検の記録を書き付ける余力もないまま、5月1日、マラリアの複合症により息を引き取った。
2人はタンガニーカの北端までの探検を行うなど、4ヶ月をともに過ごした。スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、さらに探検を続けることを望んだ。
スタンリーは1872年3月15日、イギリスへ向けて旅立ち、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送った。
8月15日にリヴィングストン一行はバングウェル湖へ向け出発し、翌年4月29日にはバングウェル湖南側の村、チタンボへたどり着いた。しかし、日記に探検の記録を書き付ける余力もないまま、5月1日、マラリアの複合症により息を引き取った。
1874年、スタンリーはビクトリア湖、アルバート湖を経てアフリカを横断しコンゴ川の流路を確認した。999日後の1877年8月9日スタンリーらはポルトガル領であるコンゴ川河口に到着した。356人で出発し114人が生き残り、欧米人はスタンリーのみであった。
ベルギー国王レオポルド2世は隣国オランダがオランダ領東インド経営で大きな成功を収めていることに刺激を受け、同じような植民地の獲得を目指した。1878年、スタンリーを雇い入れたレオポルド2世は、「文明化をもたらす」という口実でスタンリーを派遣してアフリカ中央部の広大なコンゴ地方を探検させ、植民地を獲得した。
しかし、ベルギーの議会と世論はレオポルド王2世の行動に反対したため、レオポルド2世はコンゴを個人の私有地として所有することとなった。彼は自己の行動が個人的なものととられることを避けるために、1883年に「コンゴ国際協会」を設立してその保護下で開発を進めることとした。(つづく)
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しかし、ベルギーの議会と世論はレオポルド王2世の行動に反対したため、レオポルド2世はコンゴを個人の私有地として所有することとなった。彼は自己の行動が個人的なものととられることを避けるために、1883年に「コンゴ国際協会」を設立してその保護下で開発を進めることとした。(つづく)
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1858年ニューヨークの名門に生まれたセオドアは、博物学好きで喘息に苦しむ虚弱な子供であった。彼は体力の無さに応じて生涯の奮闘を決心した。彼は自宅で学習し、自然に情熱を抱くようになる。大学はハーバードに入学し、そこで海軍への関心を高めるようになり、ハーバード卒業から1年後の1881年、彼は最年少議員としてニューヨーク州下院に選任された。
1882年には「The Naval War of 1812」を出版し、歴史家としての名声を確立した。1884年2月14日、母と出産直後の妻を同じ日に失い、家を出奔、バッドランズで数年間生活した後、ニューヨークに戻って市警察の腐敗と戦うことで名声を得た。
1882年には「The Naval War of 1812」を出版し、歴史家としての名声を確立した。1884年2月14日、母と出産直後の妻を同じ日に失い、家を出奔、バッドランズで数年間生活した後、ニューヨークに戻って市警察の腐敗と戦うことで名声を得た。
共和党員として地方議員やニューヨーク市公安委員長などを務めていたが中央政界では無名であったローズヴェルトが脚光を浴びるようになったのは、1897年にマッキンリー大統領の下で海軍次官に抜擢されてからであった。彼は共和党に属し、熱心に海外膨張主義を主張し、特にカリブ海への勢力拡大、中国市場に参画するためにハワイおよびフィリピンの領有を画策していた。
彼の進めた膨張政策は1898年のアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)を実現させたが、彼はその際には「義勇騎兵隊ラフ=ライダース」を率いてキューバに侵攻し、名声を高めた。
19世紀の最後で、次の世紀の指導者を選出する大統領選挙は1900年に行われた。共和党からは帝国主義政策を推進したマッキンリーが再出馬、対抗する民主党からは40歳の若さが売り物のブライアンが立ち、フィリピンや中国への帝国主義進出を舌鋒鋭く批判した。
それを受けて選挙戦の前線に立ったのが副大統領候補セオドア=ローズヴェルトだった。彼はまだ41歳、若い二人の舌戦が大統領選挙を大いに盛り上げた。
セオドアは米西戦争では自ら義勇兵を率いてキューバに乗りこみ「帝国主義者」を自称して憚らず、「偉大な文明国の膨張は、常に、法と秩序と正義の勝利を意味する」と主張し、フィリピンをフィリピン人に返せというブライアンの主張に対しては「フィリピンをフィリピン人に返すなら、アリゾナをアパッチ族に返さなければいけない」と反論した。
それを受けて選挙戦の前線に立ったのが副大統領候補セオドア=ローズヴェルトだった。彼はまだ41歳、若い二人の舌戦が大統領選挙を大いに盛り上げた。
セオドアは米西戦争では自ら義勇兵を率いてキューバに乗りこみ「帝国主義者」を自称して憚らず、「偉大な文明国の膨張は、常に、法と秩序と正義の勝利を意味する」と主張し、フィリピンをフィリピン人に返せというブライアンの主張に対しては「フィリピンをフィリピン人に返すなら、アリゾナをアパッチ族に返さなければいけない」と反論した。
ブライアンは「帝国主義は、現在我々の国を脅かしている最も危険な罪悪である」と訴えたのに対し、セオドアは「私はいかなるときも膨張に賛成である。我が国の兵士が戦い血を流してきた血で、我が国の旗を引き下ろすことはしたくない」と訴えた。
このアメリカ全土を熱狂にまきこんだ1900年の大統領選挙は、マッキンリーとセオドア=ローズヴェルトの共和党が勝利した。
ただし、この時の選挙は現代と異なっていた。まず女性に選挙権は認められていなかった。また黒人選挙権は南部における様々な規制法によって実質的に行使できなくなっており、この年、最後まで残っていたノースキャロライナ州選出の黒人下院議員ジョージ=ホワイトが立候補を断念、以後28年間、黒人がアメリカ議会で演説することはなかった。
このアメリカ全土を熱狂にまきこんだ1900年の大統領選挙は、マッキンリーとセオドア=ローズヴェルトの共和党が勝利した。
ただし、この時の選挙は現代と異なっていた。まず女性に選挙権は認められていなかった。また黒人選挙権は南部における様々な規制法によって実質的に行使できなくなっており、この年、最後まで残っていたノースキャロライナ州選出の黒人下院議員ジョージ=ホワイトが立候補を断念、以後28年間、黒人がアメリカ議会で演説することはなかった。
1901年9月6日、マッキンリーが暗殺されたため、憲法の規定によりローズヴェルトが大統領に昇格した。なお就任時の42歳と10ヶ月は史上最年少である。内政では、革新主義の高まりを背景にトラスト規制などの改革政治を推進した。外政では力を背景とした実力外交を展開、「棍棒外交」と言われた積極的なカリブ海政策を進めた。「棍棒外交」は本人の言葉である「speak softly and carry a big stick(棍棒を携え、穏やかに話す)」にちなむ。
すでにマッキンリーの時にプラット条項を強制していたキューバは、ローズヴェルトに代わってから、1902年にキューバ共和国として独立したが、事実上保護国の立場に置かれた。彼はさらに、パナマ運河建設権の獲得など帝国主義政策をとった。日露戦争、モロッコ事件では調停役をつとめ、1906年のノーベル平和賞を受賞している。
すでにマッキンリーの時にプラット条項を強制していたキューバは、ローズヴェルトに代わってから、1902年にキューバ共和国として独立したが、事実上保護国の立場に置かれた。彼はさらに、パナマ運河建設権の獲得など帝国主義政策をとった。日露戦争、モロッコ事件では調停役をつとめ、1906年のノーベル平和賞を受賞している。
タフト
その人気にもかかわらず、彼は1908年の大統領選へ出馬しないことを決定した。代わりに、彼の政策を継続してくれるだろうと考え長年の友人タフトを支持した。
しかしながら、タフトの勝利後に、ローズヴェルトは、タフトが自分の政策に反する考えを持つことが分かり、1912年の大統領選挙に革新党(進歩党とも訳す)を結成して臨んだが、民主党のウィルソンに敗れ再任はならなかった。
ウィルソンの内政での革新政策は支持したが、外交政策、特に国際連盟加盟に反対し、これを阻止した。
しかしながら、タフトの勝利後に、ローズヴェルトは、タフトが自分の政策に反する考えを持つことが分かり、1912年の大統領選挙に革新党(進歩党とも訳す)を結成して臨んだが、民主党のウィルソンに敗れ再任はならなかった。
ウィルソンの内政での革新政策は支持したが、外交政策、特に国際連盟加盟に反対し、これを阻止した。
1902年の秋、ローズヴェルトは趣味である熊狩りに出かけたが、獲物をしとめることができなかった。そこで同行していたハンターが年老いた雌熊(一説には傷を負った子熊)のアメリカグマを追いつめて最後の1発を大統領に頼んだが、ローズヴェルトは「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神に反する」として撃たなかった。
このことが同行していた新聞記者のクリフォード=ベリーマンによって記事にされ、『ワシントン・ポスト』紙に挿絵入りで掲載された。この挿絵のベアは「ベリーマンベア」と呼ばれた。
このことが同行していた新聞記者のクリフォード=ベリーマンによって記事にされ、『ワシントン・ポスト』紙に挿絵入りで掲載された。この挿絵のベアは「ベリーマンベア」と呼ばれた。
このローズヴェルトの逸話に触発されて、ロシア移民モリス=ミットムがアイデアル社を興し、熊の縫いぐるみを製造したのが、アメリカ国内初のテディベア・メーカーと言われている。ちなみに、「テディ」はローズヴェルトの愛称である。
一方、同じ頃にドイツのマルガレーテ=シュタイフの興したシュタイフ社によって、元々はローズヴェルトの逸話と無関係に1902年に作られた熊の縫いぐるみが大量にアメリカに輸入されており、その発注が1903年3月のライプツィヒのトイ・フェアへの出典に端を発するなど公的記録が残されていることから、世界初のテディベアメーカーとしてはシュタイフ社とする説もある。
いずれにしても、テディベアという呼称は新聞記事が最初であり、独占的な商標でないことに変わりはない。
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一方、同じ頃にドイツのマルガレーテ=シュタイフの興したシュタイフ社によって、元々はローズヴェルトの逸話と無関係に1902年に作られた熊の縫いぐるみが大量にアメリカに輸入されており、その発注が1903年3月のライプツィヒのトイ・フェアへの出典に端を発するなど公的記録が残されていることから、世界初のテディベアメーカーとしてはシュタイフ社とする説もある。
いずれにしても、テディベアという呼称は新聞記事が最初であり、独占的な商標でないことに変わりはない。
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アメリカは1860年代の南北戦争のため、中国大陸への進出が遅れたが、1898年に米西戦争の勝利によってフィリピンを獲得、マッキンリー大統領はそこを足場に中国に進出しようとした。
しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど、中国分割が進んでいた。
そこで1899年、アメリカは国務長官ジョン=ヘイが声明を発表し、清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであると主張した。この門戸開放と機会均等の2原則に加え、さらに翌1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。
そこで1899年、アメリカは国務長官ジョン=ヘイが声明を発表し、清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであると主張した。この門戸開放と機会均等の2原則に加え、さらに翌1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。
ジョン=ヘイ
この三原則を「ヘイの三原則」といい、さらにアメリカ合衆国の中国に対する外交原則を門戸開放政策 Open Door Policy という。門戸開放政策は以後アメリカのアジア対外政策の原則的な要求となり、ロシア・日本の中国大陸への進出に対してもこの原則を掲げて反対した。
第一次世界大戦が勃発し、日本は中国に対して山東省でドイツ権益の継承などを二十一カ条の要求として突きつけると、アメリカとの調停が必要となり、1917年11月、特使石井菊次郎を派遣して、国務長官ランシングと協議させた。ランシングは、中国の門戸開放・機会均等・領土保全を尊重することを条件に日本の山東省に対する特殊権益を認めた。
この石井・ランシング協定は、もともと矛盾する内容であるが、曖昧な表現をとることによって、アメリカは中国における日本との対立を避け、ヨーロッパでの世界大戦への参戦を可能にしたのだった。
マッキンリーは1901年9月5日、夫人と共にバッファローで開催されていたパン・アメリカン博覧会に出席し、関税に対する姿勢と対外貿易に関しての演説を行った。
翌朝にはナイアガラの滝を訪問し、その後博覧会に戻った。その日の午後、マッキンリーはテンプル・オブ・ミュージックでの歓迎会に出席する予定であった。
翌朝にはナイアガラの滝を訪問し、その後博覧会に戻った。その日の午後、マッキンリーはテンプル・オブ・ミュージックでの歓迎会に出席する予定であった。
博覧会会場で、大統領と握手するために列を作っていた人々に混じっていた男が、手に持ったハンカチの下に拳銃を隠し、1mの至近距離で大統領の胸と腹部を撃った。1発目はタキシードのボタンに当たって横にそれ、2発目が腹部に命中した。銃撃の8日後に大統領は死んだが、死因はすい臓壊疽と発表された。
今日の医学の常識では弾丸によるというよりは、手術の不手際によるとみなされている。担当医師団は開腹手術で弾丸を摘出することができなかった。医師団は大統領の肥満のせいにした。
マッキンリーは郷里オハイオ州のカントンに埋葬され、以後、大統領にはシークレット・サービスに警備されることになった。
今日の医学の常識では弾丸によるというよりは、手術の不手際によるとみなされている。担当医師団は開腹手術で弾丸を摘出することができなかった。医師団は大統領の肥満のせいにした。
マッキンリーは郷里オハイオ州のカントンに埋葬され、以後、大統領にはシークレット・サービスに警備されることになった。
マッキンリー大統領を暗殺した男はレオン=チョルゴッシュといい、ユダヤ系ポーランド移民の子で、28歳であった。21歳の時、アメリカの政府は間違っていると考えるようになりアナーキストのグループに入った。4年前に起こったアメリカ労働運動史上最大の汚点のひとつとされるラティマー炭坑虐殺事件(穏やかな抗議行動中のロシア系炭鉱労働者が大量虐殺された)が複線だった、と言われている。
その場で取り押さえられたチョルゴッシュは、裁判を認めず、弁護士も頼まず、法廷での発言も拒否した。9月23日の即決裁判で死刑の宣告を受け、10月29日、ニューヨーク州オーバン刑務所内の電気椅子で処刑された。異例の早さだった。彼は最後まで、働く善良な人間の敵を殺したのであり、自らの所業を後悔していないと言い続けた。
刑務所当局は、遺族の遺体引き渡しの求めを拒み、刑務所内に掘った墓穴に遺体を入れ、上から大量の生石灰と硫酸をふりまき埋めた。遺体は、半日以内で化学分解し、全く跡形を止めなかったと推測される。文字通り、犯人は消されてしまったのである。
その場で取り押さえられたチョルゴッシュは、裁判を認めず、弁護士も頼まず、法廷での発言も拒否した。9月23日の即決裁判で死刑の宣告を受け、10月29日、ニューヨーク州オーバン刑務所内の電気椅子で処刑された。異例の早さだった。彼は最後まで、働く善良な人間の敵を殺したのであり、自らの所業を後悔していないと言い続けた。
刑務所当局は、遺族の遺体引き渡しの求めを拒み、刑務所内に掘った墓穴に遺体を入れ、上から大量の生石灰と硫酸をふりまき埋めた。遺体は、半日以内で化学分解し、全く跡形を止めなかったと推測される。文字通り、犯人は消されてしまったのである。
ちなみに、植村直己さんが1984年に冬期単独登頂に成功した後、消息を絶った山として日本にもよく知られているアメリカ合衆国アラスカ州のマッキンリーは、6190mの北米大陸最高峰である。
この山名は1896年に当時の大統領候補だったウィリアム=マッキンリーにちなんだもので、彼は翌年、第25代の大統領に就任した。
この山名は1896年に当時の大統領候補だったウィリアム=マッキンリーにちなんだもので、彼は翌年、第25代の大統領に就任した。
植村直己
しかし、先住民はこの山を「偉大なもの」を意味する「デナリ」と呼び、聖域としている。アラスカ州政府は1975年からデナリを正式名称に使うよう連邦政府に要求、80年には「デナリ国立公園」を設けた。
2015年8月30日、ホワイトハウスは、マッキンリーをアラスカ先住民の呼び方「デナリ」に改称すると発表した。アラスカ州政府の40年にわたる要求を受けいれ、31日、オバマ大統領が同州で正式発表をする。ホワイトハウスは改称の理由として、先住民にとって聖域であり、マッキンリー大統領はアラスカに足を踏み入れたことはない、とした。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!2015年8月30日、ホワイトハウスは、マッキンリーをアラスカ先住民の呼び方「デナリ」に改称すると発表した。アラスカ州政府の40年にわたる要求を受けいれ、31日、オバマ大統領が同州で正式発表をする。ホワイトハウスは改称の理由として、先住民にとって聖域であり、マッキンリー大統領はアラスカに足を踏み入れたことはない、とした。
マッキンリーは1843年にオハイオ州ナイルズに生まれ、同地で教師をしたのち南北戦争に北部側で従軍。少佐で除隊し、法律を学びなおして弁護士を開業した。
共和党の活動に参加、下院議員となり、下院歳入委員長として保護関税政策をとって「マッキンリー関税法を成立させた。1896年にオハイオ州知事から大統領選挙に出馬、共和党と資本家の提携に成功して勝利を得た。
共和党の活動に参加、下院議員となり、下院歳入委員長として保護関税政策をとって「マッキンリー関税法を成立させた。1896年にオハイオ州知事から大統領選挙に出馬、共和党と資本家の提携に成功して勝利を得た。
マッキンリーのキャンペーンバッジ
現代のアメリカの大統領選挙では、候補者のキャンペーンバッジが盛んに使われている。それが登場したのが1896年の大統領選挙で、共和党のマッキンリーと民主党のブライアンが、ニュージャージー州の徽章業者ホワイトヘッド&ホーグ社が作ったものを使ってからであった。
小さな肖像写真をセルロイドのシートで覆い、裏側に金属のリングをはめてボタンに固定するもので、直径1インチ(2.54センチ)程度のものだった。大統領ひとりだけのものと正副大統領を並べたもの(上の写真)があった。
1900年の大統領選挙でもマッキンリーはキャンペーンバッジを作っている。これ以後、どの候補者にとってもバッジはなくてはならない選挙アイテムとなった。
小さな肖像写真をセルロイドのシートで覆い、裏側に金属のリングをはめてボタンに固定するもので、直径1インチ(2.54センチ)程度のものだった。大統領ひとりだけのものと正副大統領を並べたもの(上の写真)があった。
1900年の大統領選挙でもマッキンリーはキャンペーンバッジを作っている。これ以後、どの候補者にとってもバッジはなくてはならない選挙アイテムとなった。
マッキンリー大統領の外交政策は、19世紀末の帝国主義列強の中でも際だって積極的な海外進出であり、アメリカが帝国化する画期となった。
まず、1898年にハワイを併合する。ハワイは1778年にイギリスのジェームス=クックが発見。1795年から1810年までに初代カメハメハ王がハワイ諸島を統一して「ハワイ王国」を建設した。ハワイ王国は立憲君主政をとり、諸外国とも外交関係を持つ独立国家であった。
ちなみに、「カ・メハメハ」はハワイ語で「孤独な人」、「静かな人」の意である。
まず、1898年にハワイを併合する。ハワイは1778年にイギリスのジェームス=クックが発見。1795年から1810年までに初代カメハメハ王がハワイ諸島を統一して「ハワイ王国」を建設した。ハワイ王国は立憲君主政をとり、諸外国とも外交関係を持つ独立国家であった。
ちなみに、「カ・メハメハ」はハワイ語で「孤独な人」、「静かな人」の意である。
ハワイは長い間、ヨーロッパ列強と日本が狙っていた。アメリカ人宣教師は19世紀初頭、すでに渡来し、アメリカ人は砂糖利権の開発に参加していた。19世紀の終わり、アメリカ人は土着の支配者の政治に不満を持つようになり、1893年彼らはリリウオカラニ女王に対し反乱をおこし、彼女に退位をせまり、共和政をうちたてた。
彼らはハリスン大統領の時、アメリカとの併合を交渉し始めた。しかし民主党クリーブランド大統領は帝国主義的併合をきらい、その計画を阻止した。1897年6月マッキンリー大統領はアメリカ人の支配下にあるハワイ政府と2度目の併合条約を結び、その批准を待つうち、スペインとの戦争が始まった。
併合推進者たちはその計画が挫折するのを恐れ、条約という形ではなく両院における合同決議という形で1898年7月7日可決させ、それを待って8月12日ハワイは正式に併合された。その後1900年に准州として政府形態を与えられる。
ちなみに、リリウオカラニは皆さんご存じの「アロハオエ」の作曲者としれも知られている。
彼らはハリスン大統領の時、アメリカとの併合を交渉し始めた。しかし民主党クリーブランド大統領は帝国主義的併合をきらい、その計画を阻止した。1897年6月マッキンリー大統領はアメリカ人の支配下にあるハワイ政府と2度目の併合条約を結び、その批准を待つうち、スペインとの戦争が始まった。
併合推進者たちはその計画が挫折するのを恐れ、条約という形ではなく両院における合同決議という形で1898年7月7日可決させ、それを待って8月12日ハワイは正式に併合された。その後1900年に准州として政府形態を与えられる。
ちなみに、リリウオカラニは皆さんご存じの「アロハオエ」の作曲者としれも知られている。
1898年2月、当時スペイン領だったキューバのハバナ沖に停泊していたアメリカの軍艦メイン号が突然爆沈し、266名の乗組員が死亡した(この中には8名の日本人コックとボーイが含まれていた)。
爆沈の原因は明らかではないが、アメリカ国内の世論はスペインの謀略であるという見方が強くなった。
爆沈の原因は明らかではないが、アメリカ国内の世論はスペインの謀略であるという見方が強くなった。
この頃アメリカで生まれた新聞は、部数拡大のために、事実の裏付けのない記事を載せていた。他の新聞より多く売りたいために誇大な見出しを付け、口調はエスカレートする。
当時、2大イエローペーパーといわれたのが、今もアメリカのマスコミ界に君臨するハースト系の「ジャーナル」紙と、優れたジャーナリズム活動に贈る賞に名が残るピュリッツァーの「ワールド」紙である。
ピュリッツアーは、「この時は戦争になって欲しかった。大規模な戦争ではなくて、新聞社の経営に利益をもたらすほどのものを」と公然と語っている。
当時、2大イエローペーパーといわれたのが、今もアメリカのマスコミ界に君臨するハースト系の「ジャーナル」紙と、優れたジャーナリズム活動に贈る賞に名が残るピュリッツァーの「ワールド」紙である。
ピュリッツアーは、「この時は戦争になって欲しかった。大規模な戦争ではなくて、新聞社の経営に利益をもたらすほどのものを」と公然と語っている。
メイン号と爆沈した後のメイン号(右)
ハーストは早くから、有名なジャーナリストを特派員としてハバナに派遣していた。この特派員は「一発の銃声も聞かないので、帰国しようと思う」と連絡をしてきたが、ハーストは「しばらく待て。私が戦争を用意する」と電報を打ち、「本紙の特派員は、キューバ反乱軍に接触した」と、嘘の記事を掲載する。
こうして、「メイン号を忘れるな、スペインをやっつけろ!」という大合唱が起こり、一部の膨張主義者にとって好都合となった。
湧き起こる世論に押されてり、マッキンリー大統領も開戦を決意し、1898年4月に議会が宣戦を布告し、アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が始まった。新聞が「死の商人」と化し、戦争を起こしたのだ。
こうして、「メイン号を忘れるな、スペインをやっつけろ!」という大合唱が起こり、一部の膨張主義者にとって好都合となった。
湧き起こる世論に押されてり、マッキンリー大統領も開戦を決意し、1898年4月に議会が宣戦を布告し、アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が始まった。新聞が「死の商人」と化し、戦争を起こしたのだ。
アメリカ海軍はラテンアメリカの各地、太平洋のフィリピンとグアムなどスペイン植民地のスペイン基地を攻撃、スペイン軍と戦闘の結果、4ヶ月でアメリカの勝利となった。
1898年12月に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に植民地をもつ国家として一躍世界の強国となったのである。
1898年12月に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に植民地をもつ国家として一躍世界の強国となったのである。
グアンタナモ基地
なお、アメリカ=スペイン戦争の時、アメリカがキューバに上陸した地点を、戦後に永久租借とした。キューバが社会主義国となってもアメリカは返還せず、グアンタナモ基地として使用し続けている。(つづく)
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日露戦争の最中、旅順が陥落した直後の1905年1月22日(ロシア暦で9日)、ロシア帝国の都ペテルブルクで、ニコライ2世に対して労働者の権利、待遇改善などの経済要求と、立憲政治の実現、日露戦争の停止などの政治要求を掲げた請願が実施された。
この労働者の請願行動は、ガポンという司祭(聖職者)でありながら労働運動に加わっていた人物に指導されていた。当時ペテルブルクには日露戦争中であったため軍需工場を中心に労働者に対する過酷な労働強化が図られていた。労働組合結成やストライキ権は認められおらず、無権利状態に対する労働者の不満は強まっていた。
レーニン
すでに活動をはじめていたロシア社会民主労働党や社会革命党(エスエル)は当局の激しい弾圧を受け、レーニンやプレハーノフもジュネーヴに亡命中であった。
そのような中、ガポンはペテルブルクの労働運動を合法的な運動として当局に働きかけ、その承認を受けてニコライ2世に対する請願行動を起こそうと計画していた。
そのような中、ガポンはペテルブルクの労働運動を合法的な運動として当局に働きかけ、その承認を受けてニコライ2世に対する請願行動を起こそうと計画していた。
ニコライ2世
発端はガポンの組織した「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」(ガポン組合といわれた)に参加していたプチーロフ軍事工場の労働者4人が些細なことで解雇されたことをきっかけに、全市の労働者のゼネストに発展、指導者のガポンが工場長らの横暴をニコライ2世に直接訴える請願を提案した。
ガポン組合の行動は社会主義者に指導された労働運動とは一線を画し、隊列は武装せず、その先頭には十字架を掲げるという平和的なものであった。しかしガポンとその協力者たちはこの請願行動は決死の覚悟で臨む必要があることも理解していた。
ガポン組合の行動は社会主義者に指導された労働運動とは一線を画し、隊列は武装せず、その先頭には十字架を掲げるという平和的なものであった。しかしガポンとその協力者たちはこの請願行動は決死の覚悟で臨む必要があることも理解していた。
つまり、突発的な衝突事件ではなく、計画され、組織された請願活動であり、武力弾圧も想定されていたのだった。事実、請願行進は市内の各所で行われ、しかも軍隊の発砲にもかかわらず行進を続け、多数の労働者と女性、子供を含むその家族と共に、指導者の何人かも銃弾に倒れた。
先頭に立っていたガポン自身も銃撃されたが一命を取り留め、、事件後に作家のゴーリキーに匿われて逮捕を免れ、ロンドンに亡命した。
先頭に立っていたガポン自身も銃撃されたが一命を取り留め、、事件後に作家のゴーリキーに匿われて逮捕を免れ、ロンドンに亡命した。
10数万人の労働者とその家族は、幾手にも分かれて冬宮を目指したが、各所で軍の守備隊に阻止された。労働者は武器を持っておらず、ツァーリに対して「プラウダ」(正義)を訴える請願行動であったが、軍当局はコサック兵などを動員して労働者に発砲し、1000人以上が殺害され(当局発表は100人)、2000人近くが負傷した。
労働者請願行動が、軍隊の発砲によって弾圧された「血の日曜日」の事件は、労働者大衆の中にあったツァーリズムに対する信仰(悪いのは官僚や貴族だ、我々の苦境を救い、不正をただしてくれるのはツァーリだ、という思い)を完全に打ち砕いた。ペテルブルクに続いて、各地で労働者は暴動を起こし、政府当局は苦境に立たされた。
労働者請願行動が、軍隊の発砲によって弾圧された「血の日曜日」の事件は、労働者大衆の中にあったツァーリズムに対する信仰(悪いのは官僚や貴族だ、我々の苦境を救い、不正をただしてくれるのはツァーリだ、という思い)を完全に打ち砕いた。ペテルブルクに続いて、各地で労働者は暴動を起こし、政府当局は苦境に立たされた。
ロシア社会民主労働党や社会革命党などの社会主義者は、ガポンの武器によらない請願活動については幻想であると批判し、武器の使用と革命への転換を主張していたが、労働者をストライキから請願行動に引っ張っていく力はガポンの方が強かった。社会主義者も血の日曜日事件ではともに戦っているが、まだ革命への主体的力量は整っていなかった。
一方で日露戦争は次々と敗北を重ねた。1月の旅順陥落に続いて3月には奉天会戦で大敗し、5月には日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅した。6月には黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こし、オデッサでも市民が蜂起した。このような情勢が続き、ツァーリ政府は兵士の離脱を恐れて、日露戦争の継続を断念し、ポーツマス講和会議に応じ、9月にポーツマス条約を締結した。
一方で日露戦争は次々と敗北を重ねた。1月の旅順陥落に続いて3月には奉天会戦で大敗し、5月には日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅した。6月には黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こし、オデッサでも市民が蜂起した。このような情勢が続き、ツァーリ政府は兵士の離脱を恐れて、日露戦争の継続を断念し、ポーツマス講和会議に応じ、9月にポーツマス条約を締結した。
講和後もロシアの革命的な動きは続いた。10月にモスクワで鉄道員のストライキをきっかけに、全国でゼネストに突入すると、ツァーリ政府はウィッテを中心に事態打開に動き、10月17日、ニコライ2世の名で「十月宣言」を出し、市民の政治的自由を認めると共に国会(ドゥーマ)の開設を約束した。
この9月から10月にかけて、各地に新たな革命の主体としてソヴィエトが形成されていった。しかし、12月にモスクワから始まったゼネストは武力で押さえ込まれてゆき、第1次ロシア革命はいったん収束し、翌年から反動期に入っていく。
十月宣言で一定の改革が打ち出されると、ガポンは期待をして翌年ロシアに戻り、かつての権力によって保証された労働組合運動を再建しようとした。ウィッテもそれを容認し、密かに資金を提供するなど関係を持ったが、そのようなガポンの動きは革命派に裏切りと写り、1906年3月28日社会革命党の会議にガポンを召還し、首に縄を付けて宙づりにして殺した。
ソ連共産党の正史ではガポンは当局のスパイであったと断定され、日本でも長くそのような評価がされていたが、現在ではガポンの行動をスパイや裏切りととらえるのは誤りであることが明らかにされている。
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この9月から10月にかけて、各地に新たな革命の主体としてソヴィエトが形成されていった。しかし、12月にモスクワから始まったゼネストは武力で押さえ込まれてゆき、第1次ロシア革命はいったん収束し、翌年から反動期に入っていく。
十月宣言で一定の改革が打ち出されると、ガポンは期待をして翌年ロシアに戻り、かつての権力によって保証された労働組合運動を再建しようとした。ウィッテもそれを容認し、密かに資金を提供するなど関係を持ったが、そのようなガポンの動きは革命派に裏切りと写り、1906年3月28日社会革命党の会議にガポンを召還し、首に縄を付けて宙づりにして殺した。
ソ連共産党の正史ではガポンは当局のスパイであったと断定され、日本でも長くそのような評価がされていたが、現在ではガポンの行動をスパイや裏切りととらえるのは誤りであることが明らかにされている。
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ヴィルヘルム2世の母親であるヴィクトリアは、同名の偉大なイギリス女王ヴィクトリアとアルバート公の間に生まれた長女であった。
両親の方針で甘えの許されぬ、きわめて厳格な育てられ方をしたため、ヴィルヘルム2世は母親が実家からもたらしたリベラリズムに反発し、保守的な政治信条を抱くにいたった。
ヴィルヘルム2世は人種論的な進化論に彩られた白人優越論の信奉者であり、黄禍論【こうかろん】の初期の提唱者となった。黄禍論とは、自分たちよりも劣っているはずのアジアの黄色人種が世界とヨーロッパに災いをもたらすであろうという政治宣伝である。
「シルクロード」(ドイツ語でザイデンシュトラーセン)の命名者として有名なドイツの地理学者リヒトホーフェンは、19世紀末にアジア民族の移住と労働力の脅威にふれ、黄色人種の人口が圧倒的に多いことが将来の脅威となるであろうと指摘している。
ヴィルヘルム2世は性格的に苛烈で周囲に対してしばしば偏見を持って接していたが、特にアジア人に対しては過激な黄禍論者であり、中国人は徹底して蔑視していた。
義和団の乱鎮圧のために清に出征するドイツ兵たちに向けてヴィルヘルム2世は「諸君が敵と思ったらすぐさま殺せ。慈悲は無用である。捕虜などというまどろっこしい物は必要ない」と演説している。日本に対しても三国干渉や日露戦争の講和条約であるポーツマス条約直後の際に黄禍論を展開するなどした。
義和団の乱鎮圧のために清に出征するドイツ兵たちに向けてヴィルヘルム2世は「諸君が敵と思ったらすぐさま殺せ。慈悲は無用である。捕虜などというまどろっこしい物は必要ない」と演説している。日本に対しても三国干渉や日露戦争の講和条約であるポーツマス条約直後の際に黄禍論を展開するなどした。
日清戦争における日本の勝利は,ヨーロッパの白人の間に黄色人種に対する恐怖と警戒の念を強めた。上の絵は、三国干渉が行われた直後の1895年の夏に、ヴィルヘルム2世が原画を描き、宮廷画家のヘルマン=クナックフスが仕上げた寓意画「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!」、いわゆる「黄禍論の図」である。
画面右では、もうもうたる雲気から仏陀の姿がわきあがり、画面左にはヨーロッパの諸民族を形象化した女神たち(マリアンヌ=フランス、ゲルマニア=ドイツなど)がキリスト教の守護天使ミカエルとともに仏教と野蛮の侵入を武装して迎え撃とうとしている。
東南アジアに古くから華人社会をきずいている中国人は将来の通商上のライヴァルとみなされ、義和団事件の勃発や日露戦争での日本の勝利もあったりして、モンゴルやオスマン帝国の侵入をうけてきたヨーロッパは未来への漠然たる不安感を抱いたのである。
画面右では、もうもうたる雲気から仏陀の姿がわきあがり、画面左にはヨーロッパの諸民族を形象化した女神たち(マリアンヌ=フランス、ゲルマニア=ドイツなど)がキリスト教の守護天使ミカエルとともに仏教と野蛮の侵入を武装して迎え撃とうとしている。
東南アジアに古くから華人社会をきずいている中国人は将来の通商上のライヴァルとみなされ、義和団事件の勃発や日露戦争での日本の勝利もあったりして、モンゴルやオスマン帝国の侵入をうけてきたヨーロッパは未来への漠然たる不安感を抱いたのである。
ニコライ2世
ヴィルヘルム2世は母方の従姉妹の配偶者であるロシア皇帝ニコライ2世に「黄禍論の図」を贈り、中国への警戒心を煽った。
かつてのオスマン帝国やモンゴルのヨーロッパ遠征にみられるように、黄色人種の興隆はキリスト教文明ないしヨーロッパ文明の運命にかかわる大問題であるから、この「黄禍」に対して,ヨーロッパ列強は一致して対抗すべきであると述べ、特にロシアは地理的に「黄禍」を阻止する前衛の役割を果すべきであるから、ドイツはそのためにロシアを支援して黄色人種を抑圧すると主張した。この構想の最初の具体的表現が、三国干渉の対日行動であった。
この主張の背後には,ロシアを極東進出政策に向けることによって,ヨーロッパ、近東におけるロシアからの脅威を減殺してドイツのオスマン帝国進出政策を容易にしようとする政治的意図が存在した。
マッキンリー
ヴィルヘルム2世は「黄禍論の図」をアメリカ合衆国のマッキンリー大統領やフランスのフォールフランス大統領らにも配布したことにより、黄禍論は世界に流布するに至った。
その後も、第1次世界大戦中の 1914年に日本がドイツの膠州湾租借地を占領した際にも黄禍論が唱えられ、また日露戦争後から 1920年代にかけてのアメリカの排日運動の際にも、黄禍論的な議論がしばしば行われた。
しかし、その一方でドイツをモデルにして近代国家建設に努力する日本については「東洋のプロイセン」と呼んで評価していた。陸軍大演習の際、日本軍人に「日露戦争の日本軍の戦法を採用した。」と説明したり、ベルリンを散歩の際、居合わせた日本人留学生に声をかけて激励したこともある。
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その後も、第1次世界大戦中の 1914年に日本がドイツの膠州湾租借地を占領した際にも黄禍論が唱えられ、また日露戦争後から 1920年代にかけてのアメリカの排日運動の際にも、黄禍論的な議論がしばしば行われた。
しかし、その一方でドイツをモデルにして近代国家建設に努力する日本については「東洋のプロイセン」と呼んで評価していた。陸軍大演習の際、日本軍人に「日露戦争の日本軍の戦法を採用した。」と説明したり、ベルリンを散歩の際、居合わせた日本人留学生に声をかけて激励したこともある。
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ヴィルヘルム2世はドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世の孫で、母はイギリスのヴィクトリア女王の娘ヴィクトリア。
1988年3月9日、ヴィルヘルム1世が90歳で亡くなり、父フリードリヒ3世が即位した。しかし、すでに喉頭癌におかされており、即位からわかず99日後の6月15日に亡くなり、長男ヴィルヘルム2世が29歳で即位した。
「水先案内人の下船」(『パンチ』の挿絵)
ヴィルヘルム2世は、1890年にもともとそりが合わなかったビスマルクを辞任させ、親政を開始して独自色をうち出した。まず、内政ではビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法の延長を認めずに廃止し、労働運動の弾圧や思想統制強化から国民の融和を図る姿勢に転換した。
内政だけではなく、外交においても従来のビスマルク外交がすすめる勢力均衡をはかるよりも、世界におけるドイツの覇権を求めるという積極策に転じた。
これら、内政から外交に渡るドイツの基本姿勢の転換を、ヴィルヘルム2世は、「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった。航路は従来通り、全速力で航行せよ」と表現した。そこから、ヴィルヘルム2世の政策は「新航路」Neuer Kurs と呼ばれた。
外交政策では、まずロシアとの独露再保障条約の更新を拒否した。これはドイツはそれまでのビスマルク外交の基本姿勢である、フランスを孤立させるための親英・親露路線を改め、独力で帝国主義の世界分割競争に積極的に関わることをめざすものであった。
ヴィルヘルム2世は1896年の演説で、「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説、そこから、ドイツ帝国の積極的な海外膨張政策を世界政策といわれるようになった。
ヴィへルム2世は逆子で生まれたため、左半身に障害が残った。母のヴィクトリア妃はヴィルヘルムが身体障害者であることを密かに嫌っていた。これが母への憎悪、ひいてはイギリスへの憎悪に繋がったと言われているが、海軍の大拡張を行ってイギリスに激しく対抗した。
ヴィルヘルム2世は1896年の演説で、「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説、そこから、ドイツ帝国の積極的な海外膨張政策を世界政策といわれるようになった。
ヴィへルム2世は逆子で生まれたため、左半身に障害が残った。母のヴィクトリア妃はヴィルヘルムが身体障害者であることを密かに嫌っていた。これが母への憎悪、ひいてはイギリスへの憎悪に繋がったと言われているが、海軍の大拡張を行ってイギリスに激しく対抗した。
帝国主義の全地球的な拡大によって、海軍力が世界の強国としての地位を得る条件であると考えられるようになり、各国が海軍の強大化を競ったが、そのなかでも特に急激な艦隊の建設を推進したのがドイツであり、それを提唱したのが海軍大臣ティルピッツであった。
1898年の第1次と、1901年の第2次の建艦法で、艦隊建造予算は単年度ではなく数年にわたる予算として決定し、議会の抵抗を抑えた。このドイツの海軍拡張は当然イギリスを刺激し、両国による激しい建艦競争が展開された。
イギリスの海軍整備の基本方針を「二国標準主義」と言ったが、海軍力世界一の優位を保つには、海軍力第2位と第3位の2国の合計海軍力を上まわっている必要があるという考え方を指す。19世紀末まではその2国はフランスとロシアを想定していたが、フランス海軍は伸び悩み、ロシア海軍が日露戦争で敗れたことにより、1905年からはアメリカとドイツの2国を対象とするようになった。ここからイギリス・ドイツの建艦競争がスタートする。
1898年の第1次と、1901年の第2次の建艦法で、艦隊建造予算は単年度ではなく数年にわたる予算として決定し、議会の抵抗を抑えた。このドイツの海軍拡張は当然イギリスを刺激し、両国による激しい建艦競争が展開された。
イギリスの海軍整備の基本方針を「二国標準主義」と言ったが、海軍力世界一の優位を保つには、海軍力第2位と第3位の2国の合計海軍力を上まわっている必要があるという考え方を指す。19世紀末まではその2国はフランスとロシアを想定していたが、フランス海軍は伸び悩み、ロシア海軍が日露戦争で敗れたことにより、1905年からはアメリカとドイツの2国を対象とするようになった。ここからイギリス・ドイツの建艦競争がスタートする。
イギリスが1905年にドレッドノート級戦艦の建造に着手すると、ドイツも計画を拡大、さらに1908年には毎年4隻の戦艦建造を計画した。それに対してイギリスは8隻建造する計画を立てた。
ドレッドノート Dreadnought とは「恐れを知らない」という意味で、ドレッドノート号は1906年に建造された排水量1万7900トンで30センチ砲10門を備えていた。
ドレッドノート Dreadnought とは「恐れを知らない」という意味で、ドレッドノート号は1906年に建造された排水量1万7900トンで30センチ砲10門を備えていた。
戦艦ドレッドノート号クラスを超える大型戦艦を超弩級と言い、建艦競争時代の言葉として日本でも大正年間からよく使われた。しかしその後、大艦巨砲時代に突入すると、各国の戦艦は殆ど「超弩級」となった。
第二次世界大戦期には日本海軍の戦艦「大和」(排水量64000トン)や「武蔵」(排水量65000トン)が建造されたが、その頃には航空機の発達で無用の長物になってしまった。(つづく)
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第二次世界大戦期には日本海軍の戦艦「大和」(排水量64000トン)や「武蔵」(排水量65000トン)が建造されたが、その頃には航空機の発達で無用の長物になってしまった。(つづく)
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第三共和政下のフランスでは、1889年のブーランジェ事件、1892年のパナマ事件などが続き、共和政治に対する不信が強まり、一方で普仏戦争の敗北でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌの奪回を叫ぶ国家主義の声も強まっていた。
1894年夏、フランス陸軍参謀本部内に潜むドイツのスパイの存在が明るみに出たのは、パリのドイツ大使館から盗まれた一通の手紙であった。ドイツ人武官宛ての差出人不明の手紙にはフランス陸軍の機密文書名が列記されていた。
驚いた参謀本部は直ちにその犯人捜しに乗りだしたところ、参謀本部付きの砲兵大尉アルフレッド=ドレフュスが浮かんだ。疑われた理由は彼がアルザス生まれのユダヤ系であったことだった。参謀たちのユダヤ人に対する軽蔑がその判断を濁らせた。ひそかにドレフュス大尉の筆跡を取り寄せてメモと比較したところ参謀たちは一致していると断定した。10月13日ドレフュス大尉は参謀本部に出頭したところを反逆罪で逮捕された。
1894年夏、フランス陸軍参謀本部内に潜むドイツのスパイの存在が明るみに出たのは、パリのドイツ大使館から盗まれた一通の手紙であった。ドイツ人武官宛ての差出人不明の手紙にはフランス陸軍の機密文書名が列記されていた。
驚いた参謀本部は直ちにその犯人捜しに乗りだしたところ、参謀本部付きの砲兵大尉アルフレッド=ドレフュスが浮かんだ。疑われた理由は彼がアルザス生まれのユダヤ系であったことだった。参謀たちのユダヤ人に対する軽蔑がその判断を濁らせた。ひそかにドレフュス大尉の筆跡を取り寄せてメモと比較したところ参謀たちは一致していると断定した。10月13日ドレフュス大尉は参謀本部に出頭したところを反逆罪で逮捕された。
大尉は強く否定したが、事件をスクープした反ユダヤ系の新聞が「ユダヤ人の売国奴、逮捕される!」と報道した。12月の裁判で有罪が確定し、ドレフュスの軍籍は剥奪されることとなり、翌1895年1月5日、練兵場で徽章ははぎ取られ、軍刀はへし折られた。見守る群衆はドレフュスに「ユダヤ人!売国奴!殺せ独探!」と罵声を浴びせた。
終身禁固刑を言い渡されたドレフュスは、1895年3月に南アメリカのフランス領ギアナ沖の離島ディアブル島(悪魔島)に送られた。
これで一件落着と思われたが、1896年に今度はドイツ武官からスパイに宛てて書かれたものの差し出されずにゴミ箱に捨てられた手紙をフランス側が盗み出した。スパイの名は陸軍のエステラジー少佐。
新たに参謀本部情報部長となったピカールはその筆跡を入手して以前の鑑定人に見せたところ、メモと同一だと答えた。ドレフュスの無実を確信したピカールはその結果を上層部にあげたが、軍部の威信と保身だけを考える幹部は同中佐を左遷して事件に蓋をしようとした。陸軍大臣以下の軍首脳は軍事裁判の権威を守るためとしてそれを抑えつけてしまった。
一方、ドレフュスの妻のリュシーと弟はドレフュスの無罪を信じて奔走し、エステラジー尋問するように嘆願書を提出する。一方でエステラジーも、自身の潔白のための尋問を要求した。1898年1月11日に軍は形式的な軍法会議で無罪判決を出したが、その後エステラジーはイギリスに亡命。亡命後の1899年、自分はドイツのスパイであり、ドレフュスの筆跡を真似て書類を捏造したと告白している。(少佐は後に自殺)
ゾラの公開弾劾文を掲載した『オーロール』紙
俄然ドレフュス擁護の世論はわき上がり、この判決のわずか2日後の1898年1月13日、国民的作家ゾラはクレマンソーが主催する『オーロール(曙)』紙上にフォール大統領宛の公開弾劾文「余は弾劾す(J'accuse!)」を掲載する。
それはドレフュスの無罪を主張し、陸軍当局が証拠をでっち上げたこと、上層部がそれを謀議したこと、軍事裁判も真犯人を秘匿したことなどを激しく告発したものであった。
右派や反ユダヤ系新聞は激しく反論し、ゾラは軍に対する誹謗中傷の罪で告発されてしまった。その裁判はドレフュスの無罪を明らかにする機会でもあったが、結果は反ドレフュスの世論が根強く、かえってゾラは有罪とされてしまった。ゾラは言論活動ができなくなることを避けて、ロンドンに亡命した。こうしてドレフュス事件は再び葬られた。
しかしその後、再審の声が強まり、唯一の証拠である密書の筆跡鑑定が再度行われた結果、ドレフュスではなくエステラジーのものであることが明らかになった。
1899年6月5日、ドレフュスは5年にわたる悪魔島の禁固を解かれ、再審のためにフランスに戻った。8月にレンヌで軍法会議の再審が開始され、やつれたドレフュスが出廷した。しかし、軍は1894年の参謀本部の責任者メルシエ将軍が出廷し、上層部の謀議を否定した。その判決の日、ドレフュスの弁護士ラボリが暴漢に銃撃され大けがするという事件も起きる。
結局、再審の判決も2対5で有罪となり、情状酌量で禁固10年という判決であった。ドレフュスは再び絶望の淵に沈み、収監された。
しかし、政府内の共和派はドレフュス救済に動き、再審請求を取り下げること(つまり有罪を認めること)を条件に、姑息にも大統領令によって特赦するという政治的決着がはかられた。9月19日、ドレフュスは特赦によって出獄したが、一部の知識人はこの「欺瞞的解決」に激怒したが、世論は沈黙する。
名誉回復を求めるドレフュスらはなおも7年間にわたって再再審を要求する。ようやく再再審が行われて無罪判決・名誉回復がなされた1906年には事件発覚から12年の歳月が経っていた。
1899年6月5日、ドレフュスは5年にわたる悪魔島の禁固を解かれ、再審のためにフランスに戻った。8月にレンヌで軍法会議の再審が開始され、やつれたドレフュスが出廷した。しかし、軍は1894年の参謀本部の責任者メルシエ将軍が出廷し、上層部の謀議を否定した。その判決の日、ドレフュスの弁護士ラボリが暴漢に銃撃され大けがするという事件も起きる。
結局、再審の判決も2対5で有罪となり、情状酌量で禁固10年という判決であった。ドレフュスは再び絶望の淵に沈み、収監された。
しかし、政府内の共和派はドレフュス救済に動き、再審請求を取り下げること(つまり有罪を認めること)を条件に、姑息にも大統領令によって特赦するという政治的決着がはかられた。9月19日、ドレフュスは特赦によって出獄したが、一部の知識人はこの「欺瞞的解決」に激怒したが、世論は沈黙する。
名誉回復を求めるドレフュスらはなおも7年間にわたって再再審を要求する。ようやく再再審が行われて無罪判決・名誉回復がなされた1906年には事件発覚から12年の歳月が経っていた。
ドレフュスは軍籍に戻り、少佐に昇進したうえで、1909年6月に引退した。第一次世界大戦が起きると砲兵中佐としてヴェルダン戦に参加し、終戦後はスイスで暮らした。
根強いカトリック教国であるフランスでは、ユダヤ人はキリストを裏切ったユダの子孫という単純な憎悪があった。他のヨーロッパ諸国と同じく、中世から近代に至るまで、ユダヤ人に対する差別意識である反ユダヤ主義が続いていた。フランス革命よって、自由・平等・博愛の理念からユダヤ人の人権も認められ、差別は否定されたが、民衆の中の差別感は残っていた。
普仏戦争後、ユダヤ人でフランスに移り住む人々も増え、第三共和政のもとでの産業発展には彼らの勤勉で高い能力が大きな力になっていた。特にユダヤ系の金融資本や産業資本が利益を蓄え、彼らは共和政を支持する勢力でもあった。しかし都市の下層民や農民はそのようなユダヤ人の成功に反発する心理も強くなっていた。
ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、民衆の反ユダヤ感情がそのエネルギーであった。このようなフランスのみならずヨーロッパ全域での反ユダヤ感情の強さを、ドレフュス事件で身を以て感じたのがハンガリー出身でジャーナリストとして当時パリに滞在していたユダヤ人、ヘルツルであった。
普仏戦争後、ユダヤ人でフランスに移り住む人々も増え、第三共和政のもとでの産業発展には彼らの勤勉で高い能力が大きな力になっていた。特にユダヤ系の金融資本や産業資本が利益を蓄え、彼らは共和政を支持する勢力でもあった。しかし都市の下層民や農民はそのようなユダヤ人の成功に反発する心理も強くなっていた。
ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、民衆の反ユダヤ感情がそのエネルギーであった。このようなフランスのみならずヨーロッパ全域での反ユダヤ感情の強さを、ドレフュス事件で身を以て感じたのがハンガリー出身でジャーナリストとして当時パリに滞在していたユダヤ人、ヘルツルであった。
ヘルツルはこの事件でショックを受け、ユダヤ人の安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先としてユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナをめざすシオニズム運動を開始。
1897年、バーゼルで第1回シオニスト会議が開催され、この動きがイスラエル建国へと繋がっていった。シオニムズ運動の提唱者ヘルツルは〝建国の父〟と呼ばれることになる。
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1897年、バーゼルで第1回シオニスト会議が開催され、この動きがイスラエル建国へと繋がっていった。シオニムズ運動の提唱者ヘルツルは〝建国の父〟と呼ばれることになる。
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1894年7月23日未明に日本軍は王宮を占領して閔氏政権を倒し、その上で国王高宗の父である大院君を担ぎ出して、かつての改革派に属していた金弘集に内閣を組織させた。
金弘集内閣は必ずしも日本の傀儡政権となったのではなく、その改革には封建社会からの脱却を目指す土地改革なども含んでいた。しかし、日本の軍事力を背景とした上からの改革は民衆の支持を受けることはできなかった。
清では光緒帝は開戦論に傾いていたが、李鴻章は配下の北洋艦隊を温存したいため開戦には消極的であった。金弘集内閣は必ずしも日本の傀儡政権となったのではなく、その改革には封建社会からの脱却を目指す土地改革なども含んでいた。しかし、日本の軍事力を背景とした上からの改革は民衆の支持を受けることはできなかった。
ところで、北洋大臣の李鴻章のもとには、淮軍を近代化した北洋陸軍と、清仏戦争後にドイツから購入した「定遠」「鎮遠」を主力艦とする北洋海軍があった。特に、1888年に完成し、1891年には日本の長崎に示威航海した北洋艦隊は、装備の面で当時の日本海軍をしのいでいた。
西太后
日本では、明治天皇は「今度の戦争は大臣の戦争であり、朕の戦争ではない」と不快感を表し、伊藤博文も慎重論であった。それは当時、条約改正交渉の相手であったイギリスの出方をうかがっていたからだったが、7月16日、日英通商航海条約が成立して治外法権の撤廃に成功し、問題はなくなった。
一方ロシアは、1891年からシベリア鉄道の建設を開始していたが未完成であり、アジアへの兵力輸送が迅速にできないことから、介入できなかった。
8月1日に双方が宣戦布告、清軍は平壌に兵力を結集したが、9月16日に全軍が総崩れとなって撤退、平壌の戦いは日本軍の勝利となった。
海上では翌9月17日、日本の連合艦隊が北洋艦隊を捕捉し、主力艦3隻が撃沈されるという黄海海戦で清は大敗した。
ここまで、日清戦争の戦場は朝鮮半島と黄海であったが、10月24日に日本軍が鴨緑江をわたって清国内に入り、遼東半島に侵入、11月21日には旅順を占領した。このとき日本軍が旅順市民を殺害する事件が起き、国際的に非難された。
しかし、その後、海軍経費が西太后の還暦を祝う頤和園の造営費に流用されるなどの理由で北洋艦隊の強化が進まなかったのに対して、日本海軍は速射砲などの性能面、機動力の点で優位に立っていた。
このよなう北洋軍の劣勢を熟知し、また自分の後ろ盾としての軍事力を失うことを恐れた李鴻章は、列強の介入によって日本を牽制し、開戦をなんとか回避したいと考えた。また、同年11月に還暦を迎える西太后も祝賀行事を盛大に行うことで頭が一杯だったから、李鴻章の方針を支持した。
しかし、光緒帝をはじめとして北京政府内には主戦論が多かったため、李鴻章は開戦を決定しないまま、少しずつ増援部隊を派遣するしかなかった。
このよなう北洋軍の劣勢を熟知し、また自分の後ろ盾としての軍事力を失うことを恐れた李鴻章は、列強の介入によって日本を牽制し、開戦をなんとか回避したいと考えた。また、同年11月に還暦を迎える西太后も祝賀行事を盛大に行うことで頭が一杯だったから、李鴻章の方針を支持した。
しかし、光緒帝をはじめとして北京政府内には主戦論が多かったため、李鴻章は開戦を決定しないまま、少しずつ増援部隊を派遣するしかなかった。
明治天皇
日本では、明治天皇は「今度の戦争は大臣の戦争であり、朕の戦争ではない」と不快感を表し、伊藤博文も慎重論であった。それは当時、条約改正交渉の相手であったイギリスの出方をうかがっていたからだったが、7月16日、日英通商航海条約が成立して治外法権の撤廃に成功し、問題はなくなった。
一方ロシアは、1891年からシベリア鉄道の建設を開始していたが未完成であり、アジアへの兵力輸送が迅速にできないことから、介入できなかった。
1894年7月25日、日本海軍は黄海上の豊島沖で奇襲攻撃をかけて北洋艦隊の戦艦1隻を沈めた。
陸上でも日本陸軍が行動を開始、清の朝鮮駐屯軍と7月29日、京城南方の成歓で衝突、清軍は大敗し潰走した。このように日清戦争も日本軍は宣戦布告前に奇襲攻撃を行っている。
8月1日に双方が宣戦布告、清軍は平壌に兵力を結集したが、9月16日に全軍が総崩れとなって撤退、平壌の戦いは日本軍の勝利となった。
海上では翌9月17日、日本の連合艦隊が北洋艦隊を捕捉し、主力艦3隻が撃沈されるという黄海海戦で清は大敗した。
ここまで、日清戦争の戦場は朝鮮半島と黄海であったが、10月24日に日本軍が鴨緑江をわたって清国内に入り、遼東半島に侵入、11月21日には旅順を占領した。このとき日本軍が旅順市民を殺害する事件が起き、国際的に非難された。
全琫準の指導する東学と農民軍は、日本軍のソウル占拠をうけて、戦闘再開を準備し、10月から日本軍との戦闘を開始した。すでに清軍との戦闘で勝利していた日本軍は、全力で農民軍との戦闘に兵力を充てたため、農民軍は圧倒され、激戦の末、次第に追いつめられていった。翌1895年1月、山中に隠れていた全琫準も捕らえられ、農民戦争は壊滅した。
井上馨日本公使は全琫準の人格に共感し、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、朝鮮政府は井上が帰国している間に、処刑を執行した。
井上馨日本公使は全琫準の人格に共感し、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、朝鮮政府は井上が帰国している間に、処刑を執行した。
冬を越して1895年1月末、日本海軍は北洋艦隊の拠点、威海衛を攻撃、陸軍も山東半島に上陸して陸上から攻撃した。2月に水師提督丁汝昌が自決して降伏した。
戦意を失った清朝政府は休戦交渉に入り、1895年3月19日から下関の春帆楼で日清講和会議が行われた。春帆楼は伊藤博文がよく利用していたふぐ料理の料理屋で、ちなみに江戸時代には禁制だったふぐ料理を、はじめて許可された店としても知られている。その2階の大広間で、李鴻章が伊藤博文・陸奥宗光らとの交渉に応じた。
この講和会議の間に、日本は台湾併合の既成事実を作るため、台湾に付属する澎湖諸島を3月26日に占領した。
4月17日、下関条約が成立して日清戦争が終結、日本は賠償金2億両(テール)とともに、遼東半島・台湾の日本領化・澎湖諸島の割譲を受けるなどの成果を得た。
この講和会議の間に、日本は台湾併合の既成事実を作るため、台湾に付属する澎湖諸島を3月26日に占領した。
4月17日、下関条約が成立して日清戦争が終結、日本は賠償金2億両(テール)とともに、遼東半島・台湾の日本領化・澎湖諸島の割譲を受けるなどの成果を得た。
ところで、日清戦争は英露の対立をはじめとする複雑な国際関係の下で行われた。上のビゴーの風刺画にあるように、橋の上から漁夫の利を得ようとじっと見守っていたロシアが、講和条約調印のわずか6日後の4月23日に日本に対して遼東半島の返還を迫ってくる。いわゆる三国干渉である。
小国日本が大国清を倒した風刺画
また、日清戦争の敗北は清朝にとって大きな衝撃となった。アヘン戦争以来の敗北の連続ではあったが清朝はまだその権威を保っており、〝眠れる獅子〟と呼ばれていた。
しかし、小国日本にまで敗れたことで、清朝はその弱体化を世界に曝すことになった。また、下関条約で日本に与えられた「開港場での企業設立権」は最恵国待遇により欧米列強にも与えられ、帝国主義列強による1898年の中国分割につながることとなった。(おわり)
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