なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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この時、日本の政権は憲政会の第1次若槻内閣であり、幣原喜重郎外務大臣は不干渉主義を保持していた。
4月20日、若槻内閣に代わり立憲政友会の田中義一内閣が誕生した(外相は田中が兼任)。
国民革命軍が山東省に接近すると、5月27日、政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省への陸軍の出兵に踏み切った。日本軍が山東省に進出して牽制したために、国民党の北伐は一時中止された。
翌1928年4月、北伐が再開され、国民革命軍が山東地域に迫ってくると、田中内閣は第2次山東出兵を実行した。5月には、日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突し済南事件が起こった。日本側は23名、中国側は1000名の死者を出した。
山東出兵で派兵された日本軍は最終的には約10万にふくれあがり、中国側死傷者は約5000人を超えた。中国兵及び中国の民衆は日本兵・日本人に対する憎しみを募らせ、居留民保護どころか、在留邦人がしばしば襲撃され、それを受けて日本軍が増強されるという悪循環を重ねた。
中国民衆は憤激したが、蔣介石は日本軍との全面衝突を避け、本隊は済南を迂回させ、北京を目指すこととし、1928年6月8日、北京に入城した。ところが、その4日前の6月4日に満州某重大事件が起きる。
張作霖はさらに有力者の娘と略奪婚で結婚し、質屋や油屋も営んで財を設け、配下を増やしたという。彼は義和団事件以後ロシアの満州進出に備えて清朝が馬賊を正規軍に編入した時に帰順し、次第に奉天を中心とした大勢力となり、辛亥革命後はたびたび北京進出をねらい関内に入った。はじめ直隷派と結んで安徽派段祺瑞政権を倒し、ついで直隷派と争って1924年には北京の実権を握り、27年には大元帥となった。
その事実が判明したのは第二次世界大戦が終わった後のことであった。
しかし国際的には日本の謀略であることが疑われ、政府・陸軍も河本大佐の単独犯行であると認めざるを得なくなり、ひそかに河本を退役させた。しかし、日本の不利益になるとして軍法会議にかけることはしなかった。
田中義一内閣の処置に不満を持った昭和天皇が直接首相を難詰したため、田中首相は総辞職するという結果となった。
このように関東軍の謀略は何の効果もなく、かえって満州情勢を不利なものにする結果を招いた。関東軍はそのような状況の悪化を一気に覆すため、高級参謀の土肥原賢二や石原莞爾などが新たな謀略を進め、1931年に満州事変を引き起こし、中国への侵略を開始することとなる。(つづく)
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11月25日のコミンテルンの席上、蔣が国民党を代表して行った演説が公然と批判された。この演説で蔣は孫文の三民主義を語り中国革命の意義を説いたのだが、ソ連では孫文と三民主義に対する評価は決して高いものではなかったのである。
蔣はロシア語を学び、『共産党宣言』や『マルクス学説概要』を読んだりしていたことから、「赤い将軍」や「中国のトロツキー」とまで呼ばれていたが、孫文が批判されたことに衝撃を受け、ソ連への不信と共産党に対する警戒感を強くして中国に帰国した。
1925年3月12日、孫文が北京で客死。孫文死後、左右の対立が表面化したが、左派優位のもと、1925年7月、広州に汪兆銘を主席とする国民政府が誕生した。しかし、 1926年3月、蔣介石は中山艦事件を起こして汪兆銘を失脚させ、革命的左派分子を逮捕・追放して、軍・政両権を掌握した。
その裁判が行われた5月30日、青島でも日本資本の紡績工場で争議中の労働者が奉天派軍閥の保安隊によって射殺される事件が起き、抗議行動が一気に爆発し1万人の市民・労働者が集まった。上海南洋大学の学生を先頭にした「上海人の上海を」や「租界を回収せよ」と叫ぶデモ隊と上海租界のイギリス警官隊が衝突、警官隊の発砲によって13名の死者が出た。
この事件(五・三〇事件)を契機に上海総工会(労働組合)ではゼネストを指令、イギリス・日本・アメリカ・イタリアの各租界当局が陸戦隊を上陸させ弾圧した。運動は香港にも広がり、ストライキを弾圧するイギリス・フランス軍により52名の労働者が殺害された。
五・三〇運動と呼ばれるこの運動は、労働者・市民・学生が立ち上がった反帝国主義運動であり、世界に衝撃を与えた。
蔣介石は1926年7月、北京を支配する軍閥政府の排除をめざし、「北伐」を開始。共産党員の指導する農民運動に支援されて軍閥打倒は順調に進み、1927年3月には上海・南京を占拠した。
3月26日、蔣介石が上海に入ると、資本家の団体である上海総商会は彼に早期の安定回復を求めた。特に浙江財閥を代表する宋家一族の長女、宋靄齢【あいれい】は蔣介石個人に財政援助を申し出るとともに、労働運動によって上海租界が回収され、貿易に支障をきたすことのないよう訴えた。
共産党指導下の労働組合である上海総工会は、蔣介石に反対して大規模なストライキを計画していたという。
こうした内外の圧力を背景に、蔣介石は共産党との決別を決意した。4月12日、戒厳令を実施させると自らは上海を離れて、共産党弾圧の汚れ役は、杜月笙【とげっしょう】の率いる秘密結社青幇【チンバン】などに押しつけた。
クーデタから6日後の4月18日、蔣介石は南京に国民政府を樹立。汪兆銘が1927年1月に設立した武漢政府にはなおも共産党員が残ったが、同年7月には離脱し、第1次国共合作はこれによって瓦解した。
上海クーデターで共産党を排除することに成功した蔣介石と、上海の資本家浙江財閥の結びつきは強まり、同年9月、蔣介石と宋靄齢の妹の宋美齢との結婚が成立した(最初の妻・毛福梅は1921年に死去。2度目の妻・陳潔如とは宋美齢との結婚のために離婚した)。
宋姉妹の次女宋慶齢は孫文夫人であったので、蔣介石は孫文の義理の弟ということになり、中華民国指導者としての正当性を獲得するという、絶大な政治的効果を生んだ。
なお宋美齢は若い頃アメリカで育ち、英語が堪能なクリスチャンであった(その影響で蔣介石もクリスチャンになった)。西安事件で蔣介石が監禁されたときは自ら西安に飛び、共産党と交渉したり、日中戦争の時期はアメリカで盛んに中国支援を訴えた。2003年10月、ニューヨークにおいて103歳で亡くなっている。(つづく)
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1912年1月1日、南京に中華民国の臨時革命政府が樹立された。
他方、地方が雪崩をうって独立していく状況の中で、清朝に残された道は、当時下野していた最高実力者袁世凱に頼る以外にはなかった。
総理大臣として再び政治の表舞台に登場した袁は、卓越した政治手腕を発揮して革命派と清朝の双方から譲歩を引き出しながら、自己の立場を強化していった。
ついで、孫文は臨時大総統を辞職し、3月10日に北京で新たに袁世凱が臨時大総統に就任したのである。
袁世凱の野心を警戒していた孫文は、北京から南京に来て首都とすることを約束させていたが、袁世凱はそれを守らず、北京に居座って実質的な首都としてしまった。

宋教仁
しかし、この事態を恐れた袁世凱は実力で議会を解散させ、国民党の指導者宋教仁を暗殺した。国民党側では各地で武装蜂起して袁世凱政権と戦ったがいずれも弾圧されてしまった。この袁世凱独裁政権を倒す蜂起を第二革命と言っている。弾圧を逃れた孫文はやむなく1913年日本に亡命、東京で秘密結社として中華革命党を結成し、革命運動を継続した。
袁世凱は1913年10月には正式に大総統に就任。さらに翌年には臨時約法を廃止し、新たな憲法として中華民国約法を制定、独裁権力を強化した。
失意の内に袁世凱は1916年6月6日に死亡、北京政府は軍閥安徽派の段祺瑞【だんきずい】に継承され、軍閥の抗争が続くこととなる。
孫文は1917年に広東軍政府を樹立し、大元帥となって北京の段祺瑞軍閥政府に対抗したが失敗し上海に逃れた。
1919年1月の第一次世界大戦のパリ講和会議には、中国は北京政府・広東政府合同の代表を送った。国民はウィルソンの提示した「民族自決」の原則に期待し、代表団は不平等条約の撤廃、山東省の旧ドイツ権益の返還、二十一カ条の無効を訴えた。しかし、4月29日、イギリス・フランス・アメリカ・日本の四ヶ国会議で中国の主張は退けられ、日本の中国での権益はほぼ認められた。
そのことが中国に伝えられると、5月4日、北京大学の学生3000人あまりがデモをおこない、パリ講和会議の山東に関する条項の承認を拒否し、売国奴を処罰することを政府に要求するとともに、彼ら自身で人民による処罰を実行したのである。
趙家楼にある曹汝霖(交通総長)の邸宅が焼かれ、章宗祥(駐日公使)は大衆に殴打された。しかし30数名の学生がデモの途中で北京政府に逮捕された。
6月10日、北京政府はついに民衆の要求に屈し、売国奴とされた3人を罷免、28日にはヴェルサイユ条約の調印を拒否した。
上海で五・四運動を目撃して、人民大衆のもつエネルギーを認識した孫文は、かつて東京亡命中の1914年に結成した中華革命党が秘密結社的であったのを反省し、三民主義を掲げながら、より大衆的な政党として、1919年10月10日に中国国民党を結成した。
1922年には上海で李大釗【りたいしょう】・陳独秀と接触、1921年1月にソ連代表ヨッフェとともに「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全な独立にあり、ソ連はそれに対して熱烈な共感をもって援助する」という共同声明を発表した。
孫文は広東にソ連から政治顧問ボロディンらを迎え、共産党との連係を進める。共産党も1923年、コミンテルンの指示で国民党との「合作」を決定し、全共産党員が個人の資格で国民党に加入することにした。
また国民革命の中核となる革命軍の幹部を養成するために黄埔軍官学校を設立、校長は国民党の蔣介石、政治部副主任に共産党の周恩来が就任した。
この時、北京に入る前に日本に来た孫文は、神戸で有名な「大アジア主義講演」を行っている。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。
霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、3月31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て中国に渡った犬養毅が祭文を朗読。 霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使と蔣介石と共に廟後の墓の柩側に立った。
孫文はアメリカの民主主義社会の空気を体験して広東に戻り、香港の医科専門学校を首席で卒業し、マカオで開業して繁盛した。しかし、清仏戦争の頃から、個人を救う医師よりも危機の中国を救う国医となるほうが大切だとして、政治問題に関心を持つようになり、1894年、再びハワイに渡り華僑を中心に興中会を組織して、清朝打倒に立ち上がった。
1895年日本との講和に反対して広州で武装蜂起したが失敗し、日本・アメリカを経てロンドンに渡り、同地の清国公使館に一時拘禁された経験を『ロンドン被難記』で発表し注目された。
1899年、義和団の乱が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。以後、革命資金を集めるため世界中を回った。
1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際、現地の多くのエジプト人に喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があると言われる。
7月30日、東京赤坂の黒竜会で約70名の中国人留学生に宮崎滔天や内田良平なども加わり、同盟会の準備会を開いた。清朝の打倒、共和政を目指すことでは直ちに一致したが、「平均地権」という孫文の提案は社会改革に及ぶ点なので同意を得るために時間がかかった。
ついで8月20日、同じく赤坂の代議士坂本金弥宅で300名の代議員が集まり、正式な結成大会を開いた。孫文が総理、黄興は副総理格の庶務幹事となり、各省ごとの代表を置いた。正式には中国革命同盟会と称したが、「革命」という語が人々に恐怖心をあたえることを警戒して、対外的には単に中国同盟会と称した。
1900年に義和団事件に際して清朝は列強と戦って敗れ、ついに政権内部でも立憲君主政への移行を模索する光緒新政といわれる動きが始まった。科挙の廃止や憲法大綱の制定など、一定の近代化を実現したが、清朝による満洲人の支配に対する漢民族の不満は解消されなかった。
20世紀初頭、中国の民族資本家は利権回収運動を展開し、中国分割によって列強に奪われた鉄道敷設権や鉱山採掘権などの利権を中国人の手に回収しようとした。ところが、1911年に清朝政府が外国資本(四国借款団)を財源とした鉄道国有化政策を打ち出し、回収されたばかりの粤漢【えっかん】鉄道と川漢鉄道がターゲットになると、湖南、広東、湖北などの民族資本家や学生が中心となって国有化反対の運動が起こった。
その中で最も激しい暴動が起こり、辛亥革命の発火点となったのが1911年8月の四川暴動であった。
四川暴動を鎮圧するために、政府は武漢駐屯軍に出動命令を出したが、武漢軍の中核をなす新軍には革命支持派が多く、ついに10月10日に新軍が反旗を翻し、武昌を占領、指揮官黎元洪【れいげんこう】が満州人国家に代わる漢人国家として中華民国の成立を布告した(正式には中華民国軍政府湖北都督府)。
この年が辛亥の年に当たっていたため、ここから始まった革命は辛亥革命といわれることになる。
この報せは直ちに全国にもたらされ、各地で革命派が蜂起、翌月までに13の省が相次いで清朝からの独立を宣言した。
しかし、各省独立の実権を把握するものは多くは立憲派であり、革命派は実質的指導性をほとんど失っていたのが実情である。蜂起1カ月後の11月9日には、武昌で擁立された新軍指揮官黎元洪の名によって各省への呼びかけが行われたりした後、漢口において臨時政府組織大綱が定められ、袁世凱を大総統とする方向が決定された。
一方、革命派は革命に際して上海・広東・安徽・四川などで指導的な地位を得るにとどまっていたが、情勢の変化から上海に各省代表を集めて南京に臨時政府の設立をはかり、謹厳実直で兵士に人気のあった黎元洪を軍政府都督に選出し、両者の対立と紛糾を招いた。
武昌蜂起に始まる侵害革命を孫文が知ったのはアメリカ滞在中のことであった。革命派に参加する省が増えるにつれて人事問題も再燃して難航したが、アメリカからロンドン経由で孫文が帰国したのは1911年12月25日で、翌日、総統選挙が行われ、17省のうち16省の票を孫文が獲得して当選した。
孫文に対する革命派の期待は彼への人間的信望はもとよりであったが、彼が海外華僑からの資金を獲得するのに貢献するであろうとの期待があった。帰国した孫文には自らが総統になる気持ちもなく、財政問題については、確かに海外での募金活動も行ったが成果はなく、むしろ外交交渉に自らの役割を身い出していたから、彼に対する周囲の資金待望の空気をみて、「私には金はない。だが、革命精神だけは多すぎるくらいだ」と言い放っている。
選挙結果は孫文にも予想外のことであったが、革命に賛同する民衆の希望が彼に集まったということであろう。こうして、1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立し、アジア初の共和国の誕生をみたのである。(つづく)
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西洋の医療は幼児の目をくりぬいて薬を作っているとか、鉄道や汽船は怪異なものであり、電信柱があるから雨が降らないのだ、などと信じ、またキリスト教徒が祖先の祭をしないことに伝統を壊すものという不快感を持った。そのような反西洋文明、反キリスト教の運動を仇教運動ともいう。
そのような中で、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件が起こり、それを機にドイツは山東省一帯に進出し、さらに翌年、膠州湾を租借し、列強による中国分割に先鞭をつけた。
義和拳の信者には、伝説上の英雄や仙人、神仏が乗り移り、超人的な力を振るうとされた。たとえば、孫悟空が乗り移った少女が、東京まで空を飛んで行って、賠償金を取り戻して来た、などと伝えられた。
1899年末、山東巡撫に赴任した袁世凱が義和団を弾圧すると、山東省から押し出された義和団は直隷省(現在の河北省と北京)へと展開し、北京と天津のあいだの地帯は義和団で溢れかえる事態に至った。
山東から直隷に活動範囲を広げた義和団は、1900年4月、北京に入った。北京の保守派の皇族や高官の中には、義和団を「義民」として迎え入れようという動きが広まった。こうして、清朝の正規軍が警戒する中で、義和団が北京城内に入り緊張が高まった。
北京の町は、「扶清滅洋」の旗を揚げて集まった20万の農民で埋め尽くされた。50年前の太平天国は北京を占領できなかったが、義和団はそれに成功したのである。
数日後、列強の軍隊が大沽砲台を占領したという報告が入り、西太后は戦争を決断した。6月20日、ドイツ公使が北京市内で清軍の兵士に殺害された。
翌21日、清朝は列強に宣戦の上諭を発した。義和団は、列国の公使館が集まっていた、紫禁城東南の東交民巷と呼ばれる区域を包囲した。この区域には1000名近い外国人と多数の中国人救民がいて、外国軍が北京に入るまで55日に及ぶ籠城戦が繰り広げられた。
イギリスは南アフリカ戦争のため、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧するフィリピン=アメリカ戦争のために兵力を割けなかったため、連合軍の兵員1万9700人のうち、日本軍が9750人を占めた。
日本軍は他国軍に先駆けて戦利品確保に動き出し、まず総理衙門と戸部を押さえて約291万4800両の馬蹄銀や32万石の玄米を鹵獲した。そのためか列国中戦利品が最も多かった。
光緒帝を同行させたのは北京に残しておくことで列強を後ろ盾にした皇帝親政が復活する可能性を封じるためであり、珍妃の殺害を命じたのは彼女がやがて自身を凌駕する存在となることを西太后が危惧したことが原因だと言われる。
珍妃の遺体を井戸から引き上げ弔ったのは日本軍だった。
西安は地方都市なので、食事の質は北京とは比べものにならなかったが、それでも毎日、100品の料理が並んだ。食費は1日あたり銀200両(約1000万円)にのぼったが、西太后は「ずいぶん倹約できた」とうそぶいた。
万事こんな調子で、西太后は、全国から西安に集まった税収を湯水のように使い。贅沢な衣装を新調し、家具調度品を整え、芝居を楽しんだ。
北京議定書では、4億5千万両という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款【こうしばいかん】と言われ、清朝にとって日清戦争での2億両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。
1年4カ月前、庶民に変装して逃げ出した西太后は、意気揚々と北京に凱旋したのである。西太后の西安への逃避行は「庚子西狩」と呼ばれるが、この間に西太后のために費やされた清の国富は、総額で銀1億両(約5兆円)に達したと言われる。
西太后が臥せったのと同時に、光緒帝の病状が悪化した。光緒帝は10年に及ぶ幽囚生活の苦労とストレスのため、肺結核にかかり、心肺機能が低下し、慢性的な体調不良に悩まされていた。この年の7月頃には医師も全快を諦めるほど病状は悪化しており、10月中旬に入るといつ死んでもおかしくない状況になった。
西太后は3度目の垂簾聴政を行うつもりであったが、光緒帝の訃報を聞いた西太后の容態が急変し、10月22日未の刻(午後1時から3時)彼女も息を引き取ったのである。享年74歳であった。
光緒帝の死後24時間も経たぬうちに、西太后も亡くなったのである。偶然というには死亡時刻が近すぎるため、光緒帝の死は実は暗殺であった、という憶測が囁かれた。しかし、1980年に遺体を科学的に調査した結果、自然死であったという結論が出されている。
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光緒帝は康有為からアイデアを得て、次から次へと改革の上諭を下した。皇帝の指示さえあれば新しい試みはおのずから緒につくかのようであった。
制度局の設置、科挙の八股文【はっこぶん】の廃止、京師大学堂の設置、宗室・王公への外国視察の命令、中央各部の行政改革、梁啓超・譚嗣同【たんしどう】など変法派少壮官僚の抜擢、変法派の批判の的だった李鴻章の総理衙門【がもん】大臣の罷免……、このような上諭が連発されて、清朝の官界は中央・地方ともに一種のパニックに陥った。
光緒帝は、変法の上諭を西太后の一応の了解、ないし黙認のもとで下していたのであるが、こうした大変革が現実化することでもたらされる混乱は、西太后にとって座視できないものとなっていた。張之洞のように、変法の必要を認めていた者も、あまりの急激な変化についていけなかった。
9月18日、譚嗣同は深夜に袁世凱を訪ね、閲兵式の際に栄禄を殺害し、西太后を西山の離宮に押し込めるよにう命じた。狡猾な袁世凱は同意したふりをして、憤慨し激昂した様子で、「栄禄を殺すなんて、犬を殺すのと同じようなもんだ」と言った。
西太后はただちに皇帝側の動きを封じ込め、逆に皇帝から政権を奪って再び垂簾聴政を開始した。9月21日、変法派官僚の大粛清が始まった。
1881年に東太后が急死し、西太后一人が政権を握るかたちになった。これにより後ろ盾を失った恭親王奕訢【えききん】は、清仏戦争敗戦の責任を取らされて失脚し、北京宮廷の政治権力は西太后に集中することになった。
1889年、西太后は自分の弟の娘を光緒帝の皇后に選び、皇帝が親政を行うことを許した。しかし、皇帝は何かにつけ頤和園【いわえん】に出向いて西太后の考えを聞かなければならず、また、西太后みずからは北京の西北郊外にある頤和園を改修して隠居所とした。皇后は皇帝のそばに西太后が送り込んだ監視役であった。
光緒帝は青年皇帝として成長すると、政治路線をめぐって西太后と対立を深め、1894年の日清戦争でも、光緒帝は主戦派を支持し、開戦に消極的な西太后と対立した。
康有為は改革の理念を公羊学においた。清朝の儒学の主流は考証学であったが、清末には些末な形式論に陥り、実用に適さなくなっていた。康有為は、孔子の著作とされる「春秋」の解釈は「公羊伝」によるべきであると主張、「公羊伝」によれば孔子は制度の改革を目指して「春秋」を著したものとなる。この学問を公羊学といい、単なる字句の解釈に止まらず、現実の社会を直視して政治の改革と民衆の経済生活の安定を目指す経世済民の学であった。
康有為は、かつての洋務運動が、西洋の思想と技術を分け、その技術だけを取り入れようとしたことが失敗であったとし、機械文明を取り入れるだけでなく、西洋の立憲政治を取り入れ民衆の権利をみとめることによって、国民の義務も負わせるようにすれば、国は繁栄すると考えた。その手本とされたのが日本の明治維新であった。
1895年、康有為は科挙の最終段階の会試を受験するために北京に来ていて、下関条約調印の問題にぶつかった。彼は北京に集まっていた1300名の受験者(挙人)達に呼びかけて、停戦に抗議する「公車上書」を行い、変法と富国強兵を主張した。「公車」は、挙人を意味する雅語である。また、変法の宣伝のために強学会という政治団体が結成され、会報の刊行が始められた。
さらに1898年旧暦正月8日、ヨーロッパ列強による中国分割の事態が進む中、、康有為は国政全般にわたる改革案をまとめ、5度目の上書を光緒帝に提出した。
光緒帝はふかく信任した大臣の手を通じて康有為の上書を読んで、その主旨に全く同感し、彼の意見に従って改革を行おうとした。それが戊戌の変法といわれる改革運動であったが、その前に立ちはだかったのが西太后であった。(つづく)
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セシルが19歳の時にローズ兄弟は棉花栽培から手を引き、ケープ植民地北部のキンバリーに移り、発見されて間もないダイヤモンド鉱の試掘を始めた。
1891年には、世界のダイヤモンド生産の90パーセントを占めるまでになった。
経歴作りのため8年も通ったオックスフォード大学で、当時の若者に圧倒的人気のジョン=ラスキン教授の教えは、その後のローズの生き方に大きな影響を与えた。
ラスキンの次の言葉はローズを植民地主義の先兵として、大英帝国の栄光に向けて駆り立てた。
「開拓者たちよ、もし人あって、報酬を求めることなく、ただイギリスのためにのみその身を銃火にさらすことあれば、この人こそ、イギリスの子孫をして祖国を熱愛させ、かつ熱帯の空の輝き以上に輝かしい祖国の栄光の中に微笑ましめる人であろう」
1887年には、ブール人国家のトランスヴァール共和国で発見された金鉱の経営に参加し、さらに電信・鉄道・新聞などの諸企業に投資して90年代の南アフリカ経済を支配した。
その一方で、ローズはケープ植民地の議員のポストを狙っていた。その手段としてケープタウンの有力紙を買収してあった。豊富な運動資金を使って世論誘導に努めた。ローズはかつて「私は人生において“取引”することのできなかった人をみたことがない」と平然と語っていた。平たくいえば「お金を断られたことがない」と言いたかったようだ。
ローズは1881年に議員になってからも惜しみなく金員をばらまいた。議員の中でも有力な地位につき、1890年、ついに目指すケープ植民地首相の座に就いた。
イギリス政府は、カイロとケープ植民地を結ぶアフリカ縦断政策を推進しようとして、ケープ植民地の北方に遠征軍を送り、ポルトガルの勢力を排除し、さらにセシル=ローズを派遣してイギリス領植民地に編入した。
彼が獲得した地は後に彼の名をとってローデシア(現在のザンビアとジンバブエ)と名付けられた。
ジェームソンは、実行を延期するよう、また、ヨハネスブルクでの蜂起は実現が不可能であることを確証したメッセージを未然に送ったにもかかわらず、1895年12月29日、「ジェームソン侵攻事件」として後世に名をとどめる奇襲を強行し、兵とともに捕らえられてしまった。
襲撃失敗はローズには手痛い打撃であった。彼がその陰謀に荷担したことは明らかであったため、1896年1月首相辞任を余儀なくされた。
オックスフォード大学内のローズ像は、すでに2016年に学生の中から植民地主義者・差別主義者の銅像は撤去すべき、との声が起こっていたが、その時は大学当局はそのまま保存すると決定していた。しかし、今回の運動の盛り上がりを受け、銅像を撤去する決定を下した。
元英国保守党のダニエル=ハンナンはツイッタ―上で「(奨学金制度による)ローズの寛大さは、何千人もの若者が教育を享受することを可能にしました。ローズの死からわずか5年後に最初の黒人学生が奨学金を得てもいる。恩人をこのように扱う大学にだれが寄付をしますか?」と述べた。
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この会議ではコンゴの領有を認められたレオポルド2世は、1885年には「コンゴ自由国」として独立国家の形態をとることとしたが、それはレオポルド2世を元首とする私有領の性格が強いものであった。
コンゴ統治を委ねられた直後のレオポルド2世は巨額の私費や国内外の投資家の投資を募ってコンゴの近代化を推進した。ベルギー本国の75倍もの国土があり、かつジャングルや山岳のせいで踏破が困難なコンゴの地にマタディ・レオポルドヴィル鉄道をはじめとする近代的な鉄道網を敷設した。
また、他の列強とも協力の上で要塞を建設し、黒人を捕らえて売却しようと企むアラブ人奴隷商人の取り締まりを強化した。レオポルド2世はこうした活動のために私財のほとんどをつぎ込んでおり、自らの生活も切り詰めなければならないほどだった。
1893年まで250トン足らずだった天然ゴム生産量を1901年には6000トンにまで高めさせた。しかし、それは先住民の過酷な労働の上に成り立っていた。
歴史学者らによると、現在のコンゴ民主共和国に当たる地域で、レオポルド2世が所有していたゴム園の労働者数百万人が、殺害されたり体を切断されたり、病気で亡くなったりしたという。
その無法な植民地支配は国際的な非難を浴びたため、1908年にはベルギーは正式にコンゴ自由国を併合し、「ベルギー領コンゴ」として管理することとなった。
「長身で、黒いスペード型のヒゲをつけた堂々たるレオポルド2世は、情婦、金銭、コンゴでの残虐行為、その他いろいろのスキャンダルから生まれた悪人の風貌を身につけていた。オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世に言わせるとレオポルドは「真底から悪玉」だった。……数々の不徳のなかでも、ひときわ目立っていたのが貪欲さだったので、その貪欲さが常識をうち負かしてしまうだろうとカイゼル(ヴィルヘルム2世)は考えた。」
ヴィルヘルムはレオポルドに、その先祖のブルゴーニュ公の領地だったフランス西部のアルトワ、仏領フランドル、仏領アルデンヌなどをあわせてブルゴーニュ公国を再興してやろうと持ちかけた。あっけにとられたレオポルドは、15世紀の昔と違うから、閣僚と議会が同意しないだろう、と答えた。するとヴィルヘルムは持ち前の癇癪を起こし、国王たるもの、議会の言い分を聞くとは何事か、と叱りとばした。そして「ヨーロッパの戦争で、わしにつかないものは、みんな敵にまわしてやる」と言い放った。
悪人の国王と癇癪持ちの皇帝の妙な会談だったが、案の定、ドイツ=ベルギー同盟は実現しなかった。
その後もドイツはベルギーを軽視する風は改まらなかったが、レオポルド2世が1909年に死ぬと、彼とは似ても似つかぬ甥のアルベールが国王となった。第一次世界大戦がはじまり、ドイツがシュリーフェン計画にもとづいて、ベルギー侵攻を開始すると、国王アルベールは敢然と抵抗し、全土が占領されても降伏せず抵抗を続けた。
1909年12月初め、腸閉塞で重体となった。王妃には1902年に先立たれており、死期を悟ったレオポルド2世はカトリック司祭を召集して愛人ブランシュとの結婚を強行した。その結婚から数日後、ブランシュが見守る中、74歳で死去した。しかしベルギーの法律ではこの結婚は無効とみなされており、ブランシュはレオポルド2世の死去後ただちに宮廷を追われている。
王位は弟フランドル伯爵フィリップの子アルベール1世が継いだ。
だが、そのころには公私にわたるスキャンダルのせいで国民からほとんど敬意を持たれていなかったレオポルド2世の葬列は群衆のブーイングに晒され、中にはレオポルド2世の棺に唾を吐きかける者まであったという。
国王像の撤去を求める声が高まり、地元当局は銅像を撤去した。
フィリップ国王はレオポルド2世の名には触れなかったものの、当時「暴力的で残虐な行為があり、それが私たちの共通の記憶に重くのしかかっている」と述べ、「それに続く植民地時代も、苦痛と屈辱をもたらした」と認めた。
フィリップ国王はあらゆる形態の人種差別に立ち向かっていくと表明し、植民地支配の記憶が静まるよう、ベルギー議会が提起したこの問題に対して反省を促していきたいと語った。
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