なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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19世紀後半、スペインからのフィリピン独立運動が活発となる中で、最初の運動の組織者ホセ=リサールがあらわれた。
ホセ=リサールは5代目世代の華僑系メスティーソ(混血)、ドミニコ修道会所有の農園の小作農であったが、教育の機会に恵まれマニラのサント=トマス大学で医学を学び、21歳でスペインに留学した。マドリッドで同じく留学中のフィリピン人と会い、フィリピン人はスペイン人に劣るのではなく、足りないのはただ教育の機会だけだと考えるようになり、同胞を啓蒙して、フィリピンをスペインの従属から解放することに使命を見出した。
1887年に『ノリ・メ・タンヘレ(私にさわるな)』、1891年に『エル・フィリプステリスモ』を出版し、激しくスペインの支配を告発した。1892年、マニラに戻り、社会改革を目ざすフィリピン民族同盟(リガ)を結成したが、ただちにスペインの総督によって逮捕されミンダナオ島に追放された。1896年、かねて志願していたキューバへの軍医としての派遣を許可され、ミンダナオ島を離れた。
ホセ=リサールは5代目世代の華僑系メスティーソ(混血)、ドミニコ修道会所有の農園の小作農であったが、教育の機会に恵まれマニラのサント=トマス大学で医学を学び、21歳でスペインに留学した。マドリッドで同じく留学中のフィリピン人と会い、フィリピン人はスペイン人に劣るのではなく、足りないのはただ教育の機会だけだと考えるようになり、同胞を啓蒙して、フィリピンをスペインの従属から解放することに使命を見出した。
1887年に『ノリ・メ・タンヘレ(私にさわるな)』、1891年に『エル・フィリプステリスモ』を出版し、激しくスペインの支配を告発した。1892年、マニラに戻り、社会改革を目ざすフィリピン民族同盟(リガ)を結成したが、ただちにスペインの総督によって逮捕されミンダナオ島に追放された。1896年、かねて志願していたキューバへの軍医としての派遣を許可され、ミンダナオ島を離れた。
おりから、1896年8月にカティプーナンが決起した。カティプーナンはホセ=リサールの熱烈な信奉者であるアンドレアス=ボニファシオが組織した秘密結社で、正式には「人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会」といい、フリーメーソンに倣った血盟による入会儀式などをもっていた。
これがフィリピン革命の始まりであるが、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、内部の連絡ミスもあって、スペイン軍に押され後退した。
これがフィリピン革命の始まりであるが、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、内部の連絡ミスもあって、スペイン軍に押され後退した。
リサールもその指導者のひとりとして再び逮捕され、簡単な裁判にかけられた。リサールはこの蜂起には直接かかわってはいなかったが、有罪とされ、1896年12月30日に銃殺刑となった。この日は現在、国民的英雄リサールの命日としてフィリピンの祭日となっている。
アギナドルも華僑系メスティーソで、マニラ郊外カビテの町長を務めていた。ホセ=リサールの「フィリピン民族同盟」に加わっていたが、ホセ=リサール逮捕後、1896年には「カティプーナン」のメンバーとしてフィリピン革命の蜂起に加わった。
しかし、カティプーナンの組織者ボニファシオと対立し、それを反革命として処刑し、革命派のリーダーとなった。
しかし、カティプーナンの組織者ボニファシオと対立し、それを反革命として処刑し、革命派のリーダーとなった。
山中でゲリラ戦を指導し、1897年11月革命政府の大統領を名乗った。ところが、12月にスペインとの間で妥協的な和解案ビアックナバート協約を成立させて多額の援助金と引き換えに戦闘を中止し、香港に亡命した。アギナルドは香港で自転車業を営み、これに伴いフィリピンのスペインからの独立運動もしばらく落ち着くかのように見えた。
アギナルド邸での独立歓喜の様子(5ペソ紙幣)
1898年2月15日にスペイン領キューバのハバナ湾でアメリカ海軍のメイン号が爆沈した事件を契機にアメリカ合衆国はスペインに宣戦を布告、米西戦争が勃発した。アメリカの援助で帰国したアギナルドは、戦争後の独立の約束を得てアメリカに協力、フィリピン軍を率いてスペイン軍と戦った。
1898年6月12日、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言、マロロスで議会を開催し初代大統領に就任した(第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)。
1898年6月12日、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言、マロロスで議会を開催し初代大統領に就任した(第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)。
しかし、8月の米西戦争後のパリ講和会議でフィリピンは2000万ドルでアメリカに売り渡されることとなった。フィリピンを手に入れたアメリカは12月21日、マッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発してフィリピン独立を否定し、直ちに植民地化を開始した
1899年2月、アメリカの背信的攻撃を受けたことを契機として、アギナルドは今度はアメリカからの独立戦争を戦うこととなった。
1899年2月、アメリカの背信的攻撃を受けたことを契機として、アギナルドは今度はアメリカからの独立戦争を戦うこととなった。
フィリピン人を銃殺するアメリカ軍
アメリカ軍の近代兵器に対してゲリラ戦で抵抗を続けたが、ついに1901年3月アギナルドはアメリカ軍に捕らえられ、2年以上に及んだ米比戦争は終わった。この戦争では、フィリピン軍の戦死者1万2000人、アメリカ軍の戦死者4000人を出している。
また、アメリカ軍により抵抗するフィリピン人60万人が虐殺された(150万人とも)とも言われている。
アギナルドは国民に対してアメリカのフィリピンにおける主権を認める宣言を出すことで釈放され、長い年金生活に入った。第二次世界大戦中には一時日本と結んで独立を図ったこともあるが失敗、1964年2月6日、94歳で亡くなった。
アーサー=マッカーサー=ジュニア
ちなみに、米比戦争時のフィリピン駐留アメリカ軍司令官アーサー=マッカーサー=ジュニアは、後に連合国軍最高司令官を務めたダグラス=マッカーサーの父である。
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ムスタファ=ケマルは1881年に現在はギリシア領となっているサロニカ(テッサロニキ)に生まれた。ムスタファは「選ばれし者」の意味で両親の命名、ケマルは「完全な」の意味で、幼年兵学校の教官が与えたもの。ムスタファ=ケマルで名を表しており、当時のトルコ人に姓はない。1934年に彼自身が創姓法を制定することになる。
1905年、ケマルは陸軍士官学校・陸軍大学を卒業して軍隊に入ったが、ちょうどその年に日露戦争で日本が勝利した。それに刺激されたケマルは、1907年にオスマン帝国の改革運動である「統一と進歩委員会」(青年トルコ)に加入したが、その中心人物エンヴェル=パシャとは生涯友好的ではなかった。
軍人として活躍を続け、トリポリでのイタリア=トルコ戦争、数度にわたるバルカン戦争に従軍した。
軍人として活躍を続け、トリポリでのイタリア=トルコ戦争、数度にわたるバルカン戦争に従軍した。
青年トルコ政権のもとでオスマン帝国が第一次世界大戦に参戦し、ドイツ・オーストリアの同盟国側の一員として戦うことになると、ケマルは前線に出て戦い、1915年4月のガリポリの戦いではイギリス軍とANZAC(オーストラリア・ニュージーランド連合軍)の上陸を阻止し、名声を上げた。
この時、ケマルは兵士に対し、「自分は諸君に対し攻撃は命じぬ。死を命じる!」といって兵士を鼓舞したと言う。
この時、ケマルは兵士に対し、「自分は諸君に対し攻撃は命じぬ。死を命じる!」といって兵士を鼓舞したと言う。
その後、西アジア戦線でイギリスに支援されたアラブ軍との戦闘に専念した。しかし、大戦の形勢は次第に不利となり、1918年10月、スルタンのメフメト6世は連合軍に降伏、イスタンブルはイギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合軍に占領され、エンヴェル=パシャなどは国外に逃亡し青年トルコ政権は崩壊した。
一方、シリアのアレッポでは、ケマルの率いるオスマン帝国軍は連合軍に対する降伏を拒否して抵抗を続けた。
講和に反対してイスタンブルを追放になっていたケマルは1919年にトルコに戻り、抵抗運動を組織した。まずアナトリアのムスリム農民を国民軍に組織し、ついでいくつかの準備会議を経て、1920年4月にアンカラにトルコ大国民議会を招集(アンカラ政府)し、トルコ革命が開始された。
大国民議会のもとにアンカラ政府と国民軍が組織されたが、この段階ではまだイスタンブルにオスマン帝国のスルタン政府と帝国議会は存在しており、イスタンブル側はただちにアンカラ政権を否認、ケマルの行動を国家に対する反逆として死刑を宣告し、「カリフ軍」を組織して派遣し、トルコ人同士が内戦で戦うこととなった。
一方、イギリスのロイド=ジョージ首相の支持を受けたギリシア軍が、1919年5月アナトリア西部のイズミル地方に侵入し、ギリシア=トルコ戦争が始まっていたが、ケマルは1921年8月、サカリャ川の戦いでギリシア軍を大破して、国民軍最高司令官としてガージーの称号を得た。
凱旋したケマル
それに対してイスタンブルのオスマン帝国政府は、1920年8月に連合国との間で講和条約としてセーヴル条約を締結、それは帝国の領土を小アジア西部に限り、他の地域をイギリス、フランス、イタリアによって分割するという、トルコ人国家の消滅に近い屈辱的な条約だったので、ケマルの率いるアンカラ政府軍は、セーヴル条約破棄を掲げて、オスマン政府軍との戦いをさらに展開した。
1922年11月、オスマン政府軍を圧倒し、実力によって国権の最高機関となったトルコ大国民議会は、スルタン制の廃止を決定、最後のスルタン・メフメト6世はマルタに亡命した。これによって36代、600年近く続いたオスマン帝国の滅亡は正式に決まった。ただし宗教的権威としてのカリフの存在は認められ、アブデュルメジト2世を新カリフとして選出した。
権力を掌握したアンカラ政府は、セーヴル条約を破棄すべくイギリス、フランス、イタリアと交渉し、1923年7月に新たな講和条約としてローザンヌ条約を締結することに成功した。
トルコ共和国の成立を宣言するケマル
1923年10月29日、トルコ大国民議会はトルコ共和国の樹立を宣言し、ケマルを初代大統領に選出した。
共和国政府は精力的に法整備、統治機構の改廃を進めた。その際、ケマルが最も心を砕いたことは、イスラーム国家としての性格をなくし「世俗化」を実現することであった。その決意のもとで次々と改革が実行される。
「世俗化」の象徴がカリフ制廃止だった。さすがにカリフ制の廃止に対しては国内だけでなく、世界のイスラーム圏でカリフを擁護するヒラーファト運動が沸き起こったが、ケマルの決断は揺るがず、1924年3月3日、トルコ大国民議会は圧倒的多数でカリフ制度の廃止を決定した。
共和国政府は精力的に法整備、統治機構の改廃を進めた。その際、ケマルが最も心を砕いたことは、イスラーム国家としての性格をなくし「世俗化」を実現することであった。その決意のもとで次々と改革が実行される。
「世俗化」の象徴がカリフ制廃止だった。さすがにカリフ制の廃止に対しては国内だけでなく、世界のイスラーム圏でカリフを擁護するヒラーファト運動が沸き起こったが、ケマルの決断は揺るがず、1924年3月3日、トルコ大国民議会は圧倒的多数でカリフ制度の廃止を決定した。
アブデュルメジト2世
最後のカリフ、アブデュルメジト2世は国外追放となった(オリエント急行でスイスに向かった)。最終的には1926年には最初のトルコ共和国憲法に含まれていたイスラーム教を国教とする条項が削除され、トルコ共和国はイスラーム圏で最初の世俗的な国家となった。
ケマルが実施した近代化政策には太陽暦の採用(イスラーム暦の廃止)・一夫一婦制の採用・女性参政権の実施・トルコ帽やチャドルの廃止など多岐にわたる。
また、トルコ語を国語として制定、文字はアラビア語を廃止してローマ字をもとに新たに制定し、みずから先頭にたってローマ字を国民に教えた。
1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、この時にムスタファ=ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿でアタチュルクは死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。彼は生前、医者に「肝硬変はラクのためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。
ちなみに、ラクはトルコの蒸留酒のことで、アルコール濃度は50%とかなり強い酒だ。アタチュルクはイスラームの教えを守って禁酒していれば、肝硬変で死ぬことはなかった。世俗化が裏目に出たわけだ。
1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿でアタチュルクは死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。彼は生前、医者に「肝硬変はラクのためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。
ちなみに、ラクはトルコの蒸留酒のことで、アルコール濃度は50%とかなり強い酒だ。アタチュルクはイスラームの教えを守って禁酒していれば、肝硬変で死ぬことはなかった。世俗化が裏目に出たわけだ。
トルコ共和国政府は1935年2月1日、アヤソフィアを世俗的な博物館とすることを決定し、以来多くの外国人観光客を魅了してきた。
エルドアン大統領
ところが、イスラーム回帰を進めるエルドアン大統領は2019年3月、アヤソフィアをモスクへ戻す方針を宣言し、トルコ政府は2020年5月29日、アヤソフィアを会場にコンスタンティノープル征服567周年記念式典を開いた。ここでイスラム教の聖典『コーラン』を朗読し、ギリシャ共和国政府は「世界中のキリスト教徒への侮辱」と抗議した。
ありがたいことに、「モスク化」後も外国人観光客も礼拝以外の時間帯は観覧できる。それも無料で。しかし、無料化によりトルコ政府は年間60億円の入場料収入を失うことになった。
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スカルノは1901年にジャワ島南部のスラバヤに生まれた。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。オランダ語による西洋式教育を受けてバンドン工業大学を卒業した。
在学中からオランダに対する民族運動に参加していたスカルノは、1927年にオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党を結成した。その後スカルノはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。
在学中からオランダに対する民族運動に参加していたスカルノは、1927年にオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党を結成した。その後スカルノはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。
1929年12月にオランダ植民地政府に逮捕されて禁固刑を受けたが、1931年2月に恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。この流刑地となったベンクルでは、後に第1夫人となるファトマワティと出会い、結婚している。
1942年、日本軍による占領の直前に脱走し、日本の軍政下ではインドネシア側の指導者として日本軍に協力した。日本の降伏で、1945年8月17日、ハッタとともに独立宣言を敢行し、共和国初代大統領に選ばれた。
しかし、オランダが再植民地化を図って軍事行動に出たため、軍事闘争の最高指揮をとり、1949年末、独立を確立した。
しかし、オランダが再植民地化を図って軍事行動に出たため、軍事闘争の最高指揮をとり、1949年末、独立を確立した。
1955年4月18日~24日、ジャワ島のバンドンで史上初のアジア=アフリカ会議が開催された。議長を務めたスカルノは、この会議を「世界人口の約半数の13億(当時)を占める有色人種の代表による、世界最初の国際会議」と述べ、第三世界のリーダーとしての存在を世界に示した。
会議には29ヵ国(そのうち23ヵ国がアジア)が参加し、日本もオブザーバーとして参加した。インドのネルー、中国の周恩来、ビルマのウー=ヌー、スカルノなどが中心となって議事を運営し、民族・宗教・社会制度などの相違を超えて結束を図ることを目指し、会議は共同声明として「平和十原則」を発表して閉会した。
会議には29ヵ国(そのうち23ヵ国がアジア)が参加し、日本もオブザーバーとして参加した。インドのネルー、中国の周恩来、ビルマのウー=ヌー、スカルノなどが中心となって議事を運営し、民族・宗教・社会制度などの相違を超えて結束を図ることを目指し、会議は共同声明として「平和十原則」を発表して閉会した。
スカルノは1961年には第1回非同盟諸国首脳会議に参加した。このように国際政治では華々しく活躍し、そのカリスマ的指導力が際だっていたが、実際の国内政治では国民に約束した「貧困からの解放」は進まず、多くの政党が乱立して不安定になっていた。
議会制民主政治が危機を迎えると、スカルノは「指導される民主主義」を唱え、軍部と共産党の勢力を基盤に1963年から独裁権力を握り、憲法を改定して終身大統領に就任し、首相も兼ねることとなった。
彼が提唱した民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制をナサコム(NASAKOM)という。またスカルノは、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオのサラワクとサバを併合してマレーシア連邦が成立し、国連に加盟したことに反発して、1965年には国連を脱退した。
議会制民主政治が危機を迎えると、スカルノは「指導される民主主義」を唱え、軍部と共産党の勢力を基盤に1963年から独裁権力を握り、憲法を改定して終身大統領に就任し、首相も兼ねることとなった。
彼が提唱した民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制をナサコム(NASAKOM)という。またスカルノは、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオのサラワクとサバを併合してマレーシア連邦が成立し、国連に加盟したことに反発して、1965年には国連を脱退した。
しかし、1965年に共産党系の軍人が起こした九・三〇事件のクーデタ失敗を機にナサコム体制が崩れ、実権を軍を背景としたスハルトに奪われ、失脚した。
1968年、 第2代大統領となったスハルトは、スカルノの社会改革路線と共産圏よりの外交を改め、「開発」路線と親米路線をとることとなる。
1968年、 第2代大統領となったスハルトは、スカルノの社会改革路線と共産圏よりの外交を改め、「開発」路線と親米路線をとることとなる。
スカルノは「国父」としての地位は保ったものの、全ての役職をはく奪され自宅に事実上の軟禁状態におかれ、さらにデヴィ夫人たちと多くの家族が国外に政治亡命、離散するという失意の状況におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去した。
インドネシア第5代大統領(任期2001~2004年)を務めたメガワティは、スカルノと第一夫人ファトマワティの間に生まれた長女である。
デヴィ夫人
なお、現在日本のテレビのバラエティ番組で活躍するデヴィ夫人は、スカルノの第3夫人だった。インドネシアはイスラーム教だから妻は4人まで許されている。
デヴィ夫人の日本名は根本 七保子。赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働いていた19歳の時に、インドネシアへの開発援助に伴い、「東日貿易の秘書」という名目で、1959年スカルノのもとに送り込まれた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人となった。
デヴィ夫人の日本名は根本 七保子。赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働いていた19歳の時に、インドネシアへの開発援助に伴い、「東日貿易の秘書」という名目で、1959年スカルノのもとに送り込まれた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人となった。
スカルノとの間には、一人娘のカリナがいる。
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ホー=チ=ミンは1890年5月19日に生まれたと言うが、正確にはわからない。また30年間も海外で革命運動に従事して「放浪の革命家」と呼ばれ、その間、パリ、モスクワ、広東でいくつかの偽名を名乗っていた。
本名はグエン=シン=クン( 阮生恭)といい、最も好んで使った偽名がグエン=アイ=クォック(阮愛国)だった。ホー=チ=ミン(胡志明)と言う名は、1942年に中国に潜入したときに使ったものである。
彼はフランスや中国で獄中生活を送り、何度か死亡説が流れるなど、ベトナム本国での活動歴は少なかったが、1945年9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言の時、初めて国民の前に姿を現し、その熱弁と親しみやすい顎髭を生やした風貌から「ホーおじさん」(ベトナム語では「バック=ホ」)と慕われている。
本名はグエン=シン=クン( 阮生恭)といい、最も好んで使った偽名がグエン=アイ=クォック(阮愛国)だった。ホー=チ=ミン(胡志明)と言う名は、1942年に中国に潜入したときに使ったものである。
彼はフランスや中国で獄中生活を送り、何度か死亡説が流れるなど、ベトナム本国での活動歴は少なかったが、1945年9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言の時、初めて国民の前に姿を現し、その熱弁と親しみやすい顎髭を生やした風貌から「ホーおじさん」(ベトナム語では「バック=ホ」)と慕われている。
ホー=チ=ミンはベトナム中部のゲアン省ナムダン県で生まれた。父の儒学者、グエン=シン=サックの影響を受け、幼少から論語の素読を学んで中国語を習得した。父が阮朝の宮廷に出仕するようになると父とともに都のフエに移り、ベトナム人官吏を養成する国学でフランス語も学ぶようになった。しかし、在学中に農民の抗税運動に携わったためにフランス当局から目を付けられて退学処分となった。
その後、船の見習いコックとして採用された21歳のホー=チ=ミンは、1911年6月5日、サイゴンを出帆してフランスへ渡った。ロシア革命の影響でマルクス=レーニン主義に近づき、1920年12月フランス共産党の創立大会に参加、機関誌『ル=パリア』の編集に活躍した。
1923年ソ連に渡り、第5回コミンテルン大会でアジア担当の常任委員に選出され、コミンテルンの指示によって広東に赴き、1925年、広州でベトナム青年革命同志会を創立、さらに1930年香港でベトナム共産党を結成した。
その後、船の見習いコックとして採用された21歳のホー=チ=ミンは、1911年6月5日、サイゴンを出帆してフランスへ渡った。ロシア革命の影響でマルクス=レーニン主義に近づき、1920年12月フランス共産党の創立大会に参加、機関誌『ル=パリア』の編集に活躍した。
1923年ソ連に渡り、第5回コミンテルン大会でアジア担当の常任委員に選出され、コミンテルンの指示によって広東に赴き、1925年、広州でベトナム青年革命同志会を創立、さらに1930年香港でベトナム共産党を結成した。
日本軍がベトナムに進駐した1941年に、雲南省から国境を越えて30年ぶりにベトナムに戻った。ここでベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織して、その主席に就任し、これまでベトナムを支配してきたフランスに替わり、新たにベトナムの事実上の宗主国的存在になった日本に対する武装闘争の準備に着手した。
しかし、ベトミンは軍事力が弱く、1942年8月に中華民国に赴いて、日本軍と戦っていた蔣介石に協力を求めようとした。この時から、従来の「グエン=アイ=クオック」ではなく「ホー=チ=ミン」の名を使うようになった。
中華民国との協力関係を結ぼうとしたが、1942年8月、中国国民党によって逮捕され、1943年9月までを牢獄で過ごすことになる。周恩来の助けで釈放され、1944年にようやく根拠地に帰った。
このアメリカの介入は、1965年2月7日のアメリカ軍による北ベトナム空爆(北爆)から本格的なベトナム戦争へとエスカレートして行く。
しかし、ベトミンは軍事力が弱く、1942年8月に中華民国に赴いて、日本軍と戦っていた蔣介石に協力を求めようとした。この時から、従来の「グエン=アイ=クオック」ではなく「ホー=チ=ミン」の名を使うようになった。
中華民国との協力関係を結ぼうとしたが、1942年8月、中国国民党によって逮捕され、1943年9月までを牢獄で過ごすことになる。周恩来の助けで釈放され、1944年にようやく根拠地に帰った。
1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受諾した旨が短波放送による玉音放送で伝えられ、ベトナムが事実上無政府状態となると、8月16日に国民大会を開催して臨時政府となるベトナム民族解放委員会を選出し、全国総蜂起のアピールを発した。
こうして、ベトミンの指導下における「八月革命」が始まった。8月19日ハノイで蜂起が起き、8月23日には阮朝の首都であるフエでも蜂起が発生してベトミン軍が権力を掌握。サイゴンでも8月25日に民衆蜂起が発生。ベトミンはベトナム全土を掌握していった。8月27日、民族解放委員会が改組されてベトナム民主共和国臨時政府が成立し、ホー=チ=ミンは首相兼外相に選出された。
こうして、ベトミンの指導下における「八月革命」が始まった。8月19日ハノイで蜂起が起き、8月23日には阮朝の首都であるフエでも蜂起が発生してベトミン軍が権力を掌握。サイゴンでも8月25日に民衆蜂起が発生。ベトミンはベトナム全土を掌握していった。8月27日、民族解放委員会が改組されてベトナム民主共和国臨時政府が成立し、ホー=チ=ミンは首相兼外相に選出された。
8月30日にバオ=ダイが退位し、日本の傀儡国家となっていた阮朝・ベトナム帝国が滅亡した。かくして大日本帝国政府が停戦に署名して第二次世界大戦が終わった同年9月2日、ホー=チ=ミンはハノイにおいてベトナム民主共和国の独立を宣言し、大統領に就任した。
1945年12月17日、植民地支配の復活をもくろむフランス軍がベトナム民主共和国軍への攻撃を開始。12月19日、ホー=チ=ミンは『全国民に抗戦を訴える』を発表して抗戦を開始し、インドシナ戦争が開始された。
当初フランスは首都ハノイを押さえ優位であったが、ベトミン軍のゲリラ攻撃に悩まされ農村部を支配できず、戦闘の長期化に国内にも厭戦気運が高まってきた。1949年にフランスはバオ=ダイを擁立してベトナム国を樹立した。
アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスの植民地主義を批判し、援助に積極的でなかったが、1949年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍を全面支援することとなり、インドシナ戦争は一挙に国際的な問題と化した。
当初フランスは首都ハノイを押さえ優位であったが、ベトミン軍のゲリラ攻撃に悩まされ農村部を支配できず、戦闘の長期化に国内にも厭戦気運が高まってきた。1949年にフランスはバオ=ダイを擁立してベトナム国を樹立した。
アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスの植民地主義を批判し、援助に積極的でなかったが、1949年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍を全面支援することとなり、インドシナ戦争は一挙に国際的な問題と化した。
1954年、停戦交渉がジュネーヴで開催され、その最中の5月にフランス軍がディエンビエンフーの戦いで敗北。7月21日にジュネーヴ休戦協定が成立して和平が実現した。
これによってフランスはインドシナから完全に撤退することとなったが、替わってアメリカがその空白を埋めるべく、進出してきた。アメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、むしろ1955年には南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入し、ホー=チ=ミンのベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された統一選挙の実施を拒んだ。
これによってフランスはインドシナから完全に撤退することとなったが、替わってアメリカがその空白を埋めるべく、進出してきた。アメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、むしろ1955年には南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入し、ホー=チ=ミンのベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された統一選挙の実施を拒んだ。
北爆開始
このアメリカの介入は、1965年2月7日のアメリカ軍による北ベトナム空爆(北爆)から本格的なベトナム戦争へとエスカレートして行く。
ホー=チ=ミンは「抗米救国」の先頭にたったが、アメリカ軍の撤退と戦争の勝利・南北の統一の成功を見ることなく、1969年9月2日、独立記念日に心臓発作で亡くなった。享年79歳。
祖国と人民への信頼を最後まで持ち、無私の奉公・優れた実践で「ベトナム建国の父」と呼ばれている。
ホー=チ=ミンは個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んではいなかったがその意向は無視された。政治局の決定により遺骸はレーニンに倣い永久保存(エンバーミング)され、南北統一後のハノイ市のバディン広場に建設されたホー=チ=ミン廟に安置された。
ホー=チ=ミンはスターリンや毛沢東、金日成のような神格化を嫌い、過去の私生活をいっさい公表していない。しかし、かえってそのことが彼を謎に包まれた“神様”のような存在にしてしまった。
色々ささやかれている噂のなかで、とくにベトナム共産党が毛嫌いしているものに、女性関係がある。かつてホー=チ=ミンは自分が犯した二つの過ちを大衆に向かって率直に告白したことがある。
一つは、煙草の喫い過ぎであり、もう一つは結婚しなかったことである。ベトナム共産党の公式解釈ではホー=チ=ミンは生涯独身で通し、すべての人生を革命と民衆解放に捧げた、とされている。だが、革命家のグエン=チ=ミンカイとは事実上の夫婦であったとか、中国で革命運動を行っていた時、中国共産党の仲介で中国人女性・曾雪明と密かに結婚して子どもを二人もうけた、という噂が根強く残っている。
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色々ささやかれている噂のなかで、とくにベトナム共産党が毛嫌いしているものに、女性関係がある。かつてホー=チ=ミンは自分が犯した二つの過ちを大衆に向かって率直に告白したことがある。
一つは、煙草の喫い過ぎであり、もう一つは結婚しなかったことである。ベトナム共産党の公式解釈ではホー=チ=ミンは生涯独身で通し、すべての人生を革命と民衆解放に捧げた、とされている。だが、革命家のグエン=チ=ミンカイとは事実上の夫婦であったとか、中国で革命運動を行っていた時、中国共産党の仲介で中国人女性・曾雪明と密かに結婚して子どもを二人もうけた、という噂が根強く残っている。
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反英闘争を一部の党派的な運動ではなく、大衆的なものにするためにガンディーが着想したのが塩税反対を掲げることであった。暑いインドでは、塩は想像以上の必需品である。しかも塩は自然の恵みであり、外国政府が高い税金をかけて専売に付すべきものではない。ガンディーの鋭い直感力は、国民の誰もが問の意味を了解できる塩税の拒否を選び出したのである。彼はひとたび国民の目を一つの法律の不正に向けることができれば、帝国主義のからくりを容易に理解させうるものと考えた。
1930年3月12日未明、ガンディーは78人の精選された弟子たちを連れて、アフメダバードのアシュラム(道場)を出発し、ボンベイ近くのダンディー海岸まで360キロの行程にのぼったのである。
一行のなかには、学者あり、ジャーナリストあり、織工あり、そして賎民もいた。年齢もガンディーの61歳から16歳の少年まで含まれていた。長い杖を手に持って隊列の先頭を行く半裸の指導者の姿は、ネルーの表現を借りれば、しっかりした足取りで、平和的な不屈の面差ししで歩いて行く人の姿であり、実に感動的な光景であった。ひと目ガンディーの姿を見んものと、幾千、幾万もの老若男女が、毎日毎日ガンディーの通過する沿道に集まって待ちかまえた。
1930年3月12日未明、ガンディーは78人の精選された弟子たちを連れて、アフメダバードのアシュラム(道場)を出発し、ボンベイ近くのダンディー海岸まで360キロの行程にのぼったのである。
一行のなかには、学者あり、ジャーナリストあり、織工あり、そして賎民もいた。年齢もガンディーの61歳から16歳の少年まで含まれていた。長い杖を手に持って隊列の先頭を行く半裸の指導者の姿は、ネルーの表現を借りれば、しっかりした足取りで、平和的な不屈の面差ししで歩いて行く人の姿であり、実に感動的な光景であった。ひと目ガンディーの姿を見んものと、幾千、幾万もの老若男女が、毎日毎日ガンディーの通過する沿道に集まって待ちかまえた。
ダンディーの海岸で塩の塊を拾うガンディー
……行進は24日間続き、4月6日早朝にダンディー海岸に着いたガンディーは、海水で沐浴して身を浄め、祈りを捧げ、海岸に散在する小さな塩のかたまりを拾い集めた。この簡単な所作を合図に、第2次非暴力・不服従運動(第2次サティヤーグラハ運動)の幕が切って落とされたのである。
塩という生活必需品をイギリスが専売にし、重税を課していることは植民地支配の不正義の典型である、という分かりやすい訴えはたちまち民衆の心をつかんだ。
イギリス官憲は警棒を振るってそれをやめさせようとしたが、ガンディーとその支持者は血を流しながら無抵抗で塩を作り続けた。その姿は全世界に報道され、ガンディーは一躍、その非暴力・不服従とともに知られるようになった。
塩という生活必需品をイギリスが専売にし、重税を課していることは植民地支配の不正義の典型である、という分かりやすい訴えはたちまち民衆の心をつかんだ。
イギリス官憲は警棒を振るってそれをやめさせようとしたが、ガンディーとその支持者は血を流しながら無抵抗で塩を作り続けた。その姿は全世界に報道され、ガンディーは一躍、その非暴力・不服従とともに知られるようになった。
運動の高揚を憂慮したインド総督アーウィンは英印円卓会議の開催を提唱、国民会議派は話し合いを拒否したが、ガンディーはアーウィンとの会談に応じ、塩の自由生産などの妥協を引き出したのでロンドンに渡り、1931年9月7日に始まった第2回円卓会議に出席した。
そこで統一インドの即時完全な自治を要求したが、ムスリムや不可触民の代表はイギリスの提案する分離選挙を受け容れようとしてガンディーは孤立、失意の内にインドに戻り闘争再開を宣言、まもなく逮捕された。
イギリスはマクドナルド裁定という分離選挙を導入し、不可触民をも分離選挙区を認めようとすると、ガンディーはそれを不可触民への差別を固定化するものとして獄中で無期限の断食を慣行、不可触民の代表のアンベードカルも妥協して不可触民の分離選挙は実現しなかった。
これを機会にガンディーは不可触民の問題を真剣に解消しようと、彼らをハリジャン(神の子)と呼んでその解放を呼びかけた。しかし、国民会議派主流は完全自治の実現という政治目標から離れていくガンディーを批判するようになり、ガンディーもハリジャン運動に軸足を移したため1934年に第2次非暴力・不服従運動の停止を宣言した。
これを機会にガンディーは不可触民の問題を真剣に解消しようと、彼らをハリジャン(神の子)と呼んでその解放を呼びかけた。しかし、国民会議派主流は完全自治の実現という政治目標から離れていくガンディーを批判するようになり、ガンディーもハリジャン運動に軸足を移したため1934年に第2次非暴力・不服従運動の停止を宣言した。
出獄後のガンディーはインド農村を廻り、熱心に不可触民の解放を人々に説いて回った。イギリスは翌1935年に新インド統治法を制定、地方自治を大幅に認め、それに基づいて37年に選挙が行われると、ガンディーは国民会議派の選挙参加を支持し、国民会議派も地方政権に参加することによって状況を変革させることをめざした。
しかし、37年に実施された選挙で大幅に得票して各地で国民会議派政権が成立し、事実上の与党に変身した。またそのことは少数派のムスリム連盟に危機感をもたらし、対立はさらに深刻になった。
しかし、37年に実施された選挙で大幅に得票して各地で国民会議派政権が成立し、事実上の与党に変身した。またそのことは少数派のムスリム連盟に危機感をもたらし、対立はさらに深刻になった。
1939年、第二次世界大戦が勃発した。第二次世界大戦は、国民会議派を中心としたインドの独立を目指す運動に、深刻な分裂を生じさせた。
イギリスは戦争遂行にインドの人的、経済的資源が不可欠だったので、直ちに参戦させた。それに対して国民会議派は独立の好機であるのに、イギリスがそれを認めず一方的に戦争に協力させようとしているとして反発し、地方政権から引き上げ、戦争への非協力を打ち出した。ガンディーはさらに積極的な戦争反対の立場から非協力を貫くことを主張して個人的な非暴力・不服従運動を開始した。
しかし、ネルーらはファシズムとの戦いを優先してイギリスへの協力を主張し、また有力な指導者の一人だったチャンドラ=ボースはむしろ「敵の敵は友」と考え、ドイツと結んでイギリスと戦うことを主張した。
このように戦争への対応をめぐって意見が分裂していたところに、1941年12月、太平洋戦争が勃発、日本軍がマレー半島からビルマに進出、インドにも脅威となってきた。ガンディーは日本の中国侵略を非難し、日本に対しても非暴力による抵抗を決意した。
イギリスは戦争遂行にインドの人的、経済的資源が不可欠だったので、直ちに参戦させた。それに対して国民会議派は独立の好機であるのに、イギリスがそれを認めず一方的に戦争に協力させようとしているとして反発し、地方政権から引き上げ、戦争への非協力を打ち出した。ガンディーはさらに積極的な戦争反対の立場から非協力を貫くことを主張して個人的な非暴力・不服従運動を開始した。
しかし、ネルーらはファシズムとの戦いを優先してイギリスへの協力を主張し、また有力な指導者の一人だったチャンドラ=ボースはむしろ「敵の敵は友」と考え、ドイツと結んでイギリスと戦うことを主張した。
このように戦争への対応をめぐって意見が分裂していたところに、1941年12月、太平洋戦争が勃発、日本軍がマレー半島からビルマに進出、インドにも脅威となってきた。ガンディーは日本の中国侵略を非難し、日本に対しても非暴力による抵抗を決意した。
国際世論もインド独立を支持する声が強まり、アメリカ・中国からもイギリスに対してインドの独立を認めるよう圧力がかかり、チャーチル首相はやむなくクリップス特使を派遣してインドの戦争協力を取り付けようとした。
しかし、クリップス提案も即時独立ではなく、戦後の独立を約束するに過ぎなかったのでガンディーらは交渉を拒否、ついに1942年8月、イギリスに対して「インドを立ち去れ(クィット・インディア)」と宣言、民衆には「行動か死か」と迫って非協力を呼びかけた。イギリスは直ちにガンディーらを反戦宣伝の理由で逮捕した。
こうしてストライキや街頭行動を展開し、多くの逮捕者が出た。しかし、44年に日本のインパール作戦が失敗したため、インドを立ち去れ運動は停止された。
この間、ジンナーの指導するムスリム連盟は一貫してイギリスの戦争に協力、国民会議派を非難して、1940年にはパキスタン決議で分離独立を明確にした。このようなコミュナリズムの対立に心を痛めたガンディーは熱心に両教徒の融和を説いた。
しかし、クリップス提案も即時独立ではなく、戦後の独立を約束するに過ぎなかったのでガンディーらは交渉を拒否、ついに1942年8月、イギリスに対して「インドを立ち去れ(クィット・インディア)」と宣言、民衆には「行動か死か」と迫って非協力を呼びかけた。イギリスは直ちにガンディーらを反戦宣伝の理由で逮捕した。
こうしてストライキや街頭行動を展開し、多くの逮捕者が出た。しかし、44年に日本のインパール作戦が失敗したため、インドを立ち去れ運動は停止された。
この間、ジンナーの指導するムスリム連盟は一貫してイギリスの戦争に協力、国民会議派を非難して、1940年にはパキスタン決議で分離独立を明確にした。このようなコミュナリズムの対立に心を痛めたガンディーは熱心に両教徒の融和を説いた。
第二次世界大戦末期に成立したイギリスのアトリー内閣は、インド問題の最終的解決を掲げ、戦後の1947年7月、イギリス議会がインド独立法を可決した。しかしガンディーの必死の説得にもかかわらず、国民会議派はムスリムとの分離独立を容認し、ついに同年8月、インドとパキスタンは分離独立した。
8月15日にデリーで開催されたインド連邦独立式典にはガンディーの姿はなく、彼はベンガル地方でムスリムとの対話を試み続け、ヒンドゥー教徒の思い上がりを戒めていた。しかしそのような姿勢はヒンドゥー教急進派にとってはムスリムに妥協しすぎると写り、1948年1月30日、狂信的なヒンドゥー教徒の青年によって暗殺された。
8月15日にデリーで開催されたインド連邦独立式典にはガンディーの姿はなく、彼はベンガル地方でムスリムとの対話を試み続け、ヒンドゥー教徒の思い上がりを戒めていた。しかしそのような姿勢はヒンドゥー教急進派にとってはムスリムに妥協しすぎると写り、1948年1月30日、狂信的なヒンドゥー教徒の青年によって暗殺された。
1948年1月30日午後、国民会議派全国委員会に対する提案をビルラー邸で書き終えたガンディーは、そのあとパーテルと会って少し遅れ、いくらか急ぎ足でいつも夕べの祈祷会に向かった。「そのとき、ひとりの若者が人込みをかきわけてガンディーに近づいた。若者はガンディーの前にぬかずくように跪くと、ガンディーの心臓をめがけてピストルを3発発射した。ガンディーはそのまま、崩れ落ちるように倒れた。〝ヘーラーム(おお、神よ)〟という呟きを残して。
ガンディーを暗殺した若者はゴードセーというマハラーシュトラのバラモンであり、ヒンドゥーの右翼組織、ヒンドゥー=マハーサバー(大協会)の一員だった。ガンディーのムスリムへの態度があまりに寛容であることに強い不満を抱いていたのだった。
ガンディーを暗殺した若者はゴードセーというマハラーシュトラのバラモンであり、ヒンドゥーの右翼組織、ヒンドゥー=マハーサバー(大協会)の一員だった。ガンディーのムスリムへの態度があまりに寛容であることに強い不満を抱いていたのだった。
ガンディーの葬儀
翌1月31日、ガンディーの死を弔う国葬が行われ、200万人以上の人々が8キロにも及ぶ葬儀の列を作った。遺灰はヤムナー川とガンジス川、そして南アフリカの海に撒かれた。
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第一次世界大戦の終結に伴い、連合国はセーヴル条約の過酷な要求をオスマン帝国のスルタン政府に突きつけ、カリフの権威は危機に陥った。その時、インドのイスラーム教徒(ムスリム)の中に、イスラーム世界の最高権威であるカリフを援護すべきであるという運動が起こった。
それをヒラーファト運動という。ガンディーはサティヤーグラハを掲げて反英闘争を展開する上で好機と捉え、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒が協力してイギリスに対する新たな「非協力」戦術を提起した。
国民会議派も1919年末、春に惨劇のあったアムリットサールで大会を開き、イギリスに対するあらゆる非協力を決定し、宗教の壁を越えて1920~21年に「非協力運動」という反英闘争が盛り上がった。
それをヒラーファト運動という。ガンディーはサティヤーグラハを掲げて反英闘争を展開する上で好機と捉え、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒が協力してイギリスに対する新たな「非協力」戦術を提起した。
国民会議派も1919年末、春に惨劇のあったアムリットサールで大会を開き、イギリスに対するあらゆる非協力を決定し、宗教の壁を越えて1920~21年に「非協力運動」という反英闘争が盛り上がった。
ガンディーが粗末な綿布の衣装(ドーティ)をまとい、手紡ぎ車(チャルカ)の前で糸を紡いでいる写真をよく見かける。
これは、国民会議派のスローガン、国産品愛用(スワデーシ)を具体化しようとしたガンディーが進めた、カーディ(手織り布地)運動の象徴だった。ガンディーはすでに全く忘れられていた手紡ぎ車で綿布を織る技術を再現しようとして奔走し、そのやり方を学び、自ら紡ぐことでその運動を広めようとしたのだった。
カーディを着た素足のガンディーが手紡ぎ車を回す姿は、民衆に広く運動の本質を教える方法となった。
これは、国民会議派のスローガン、国産品愛用(スワデーシ)を具体化しようとしたガンディーが進めた、カーディ(手織り布地)運動の象徴だった。ガンディーはすでに全く忘れられていた手紡ぎ車で綿布を織る技術を再現しようとして奔走し、そのやり方を学び、自ら紡ぐことでその運動を広めようとしたのだった。
カーディを着た素足のガンディーが手紡ぎ車を回す姿は、民衆に広く運動の本質を教える方法となった。
全国でイギリス製綿布を焼き捨てたり、役人は仕事を休んだり、学校は自主的に休校したりするなど、非協力運動を進めた。1913年にアジア人初のノーベル賞(文学賞)を受賞した詩人タゴールは、非協力運動の行き過ぎを危惧してガンディーを批判した。それに対してガンディーは「タゴールも紡ぐがいい。他の人々と同じように!」といって反論した。
しかし、タゴールの危惧したように、高揚した民衆の中に次第に非暴力の枠を逸脱する者が現れた。1922年2月5日に連合州のチョウリ=チョウラという村で警官の発砲に怒った民衆3000人が警察署を襲撃、22名の警官を殺害するという事件が起きた。
知らせを聞いたガンディーは大きな衝撃を受け、会議派に対して運動の中止を命じた。この突伝の中止に多くの国民会議派の活動家はとまどい、民衆は憤激した。またムスリムは聖戦(ジハード)を放棄するものとして非難した。しかし、ガンディーの決意は固く、こうして大きな成果はなく収束に向かい、ガンディー自身も逮捕されて運動は終わった。
しかし、タゴールの危惧したように、高揚した民衆の中に次第に非暴力の枠を逸脱する者が現れた。1922年2月5日に連合州のチョウリ=チョウラという村で警官の発砲に怒った民衆3000人が警察署を襲撃、22名の警官を殺害するという事件が起きた。
知らせを聞いたガンディーは大きな衝撃を受け、会議派に対して運動の中止を命じた。この突伝の中止に多くの国民会議派の活動家はとまどい、民衆は憤激した。またムスリムは聖戦(ジハード)を放棄するものとして非難した。しかし、ガンディーの決意は固く、こうして大きな成果はなく収束に向かい、ガンディー自身も逮捕されて運動は終わった。
また、トルコではカリフが退位したためにヒラーファト運動も目的を失い、再びヒンドゥーとムスリムの対立(コミュナリズム問題)が深刻になっていった。ガンディー自身も1922年から24年まで獄中で暮らし、紡ぎ車で糸を紡ぐことと読書ですごした。
1920年代には、ロシア革命とソ連の出現の影響もあって、社会主義・共産主義・労働運動などの新しい運動がインドにも生まれ、ガンディーにも影響を与えたが、ガンディーは一貫して反近代、反西欧の姿勢を守り、戦争や革命に対しても非暴力の立場から常に反対を続けた。
1920年代には、ロシア革命とソ連の出現の影響もあって、社会主義・共産主義・労働運動などの新しい運動がインドにも生まれ、ガンディーにも影響を与えたが、ガンディーは一貫して反近代、反西欧の姿勢を守り、戦争や革命に対しても非暴力の立場から常に反対を続けた。
サイモン
1927年、イギリスはインド統治法改正のための憲政改革調査委員会(サイモン委員会)を発足させたが、そこにはインド人は一人も含まれていなかった。このことでインドでは再び反英気運が盛り上がり、各地で「サイモン帰れ!」の大合唱が起こった。
インド国民会議派でも対抗して独自の憲法草案の作成に入ったが、段階的な自治の実現を目指す穏健派と、即時に完全な自治の実現を要求する急進派が対立し、また統一政府を志向する国民会議派に対して、分離選挙に固執するムスリムも反発、運動は分裂した。
インド国民会議派でも対抗して独自の憲法草案の作成に入ったが、段階的な自治の実現を目指す穏健派と、即時に完全な自治の実現を要求する急進派が対立し、また統一政府を志向する国民会議派に対して、分離選挙に固執するムスリムも反発、運動は分裂した。
その情勢でガンディーの指導力が再び期待され、彼が再び表舞台に立つこととなり、巧みな調整で1929年12月29日のラホールでの国民会議派大会ではネルーら急進派の意見を実現させ、「「完全独立」(プールナ=スワラージ)」を掲げることになった。
その背景にはイギリスでマクドナルド労働党内閣が成立したこと、また世界恐慌がインドにも影響し農村の貧困がいっそう深刻になってきたことがある。
その背景にはイギリスでマクドナルド労働党内閣が成立したこと、また世界恐慌がインドにも影響し農村の貧困がいっそう深刻になってきたことがある。
こうした中、ガンディーは再びイギリスに立ち向かうことになる。(つづく)
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ガンディーは1869年、インド西部のカチャワール半島の商業カーストに生まれた。マハトマ=ガンディーとして知られるが、本名はモーハンダーズ=カラムチャンド=ガンディー。マハトマは〝偉大なる魂〟の意味で、インドの詩聖タゴールから贈られた尊称である。
父親はその地方のいくつかの藩王国の宰相を歴任した。母は熱心なヒンドゥー教徒(ヴィシュヌ派)の信仰を持ち、ガンディーは生涯母を思慕し、菜食主義や断食などの教えを守った。ラージコートで小学校から高等学校まで学ぶ。学校でのガンディーは勉強好きだが内気な少年であったという。
小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。
父親はその地方のいくつかの藩王国の宰相を歴任した。母は熱心なヒンドゥー教徒(ヴィシュヌ派)の信仰を持ち、ガンディーは生涯母を思慕し、菜食主義や断食などの教えを守った。ラージコートで小学校から高等学校まで学ぶ。学校でのガンディーは勉強好きだが内気な少年であったという。
小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。
カストゥルバ
13歳の時に兄たちと一緒に結婚するが、これは当時の幼児婚の習慣に従ったものであった。妻カストゥルバとの間には18歳の時の長男を含め3人の子供をもうけた。
1888年、18歳の時に弁護士になることを目指しイギリスに留学する。カーストのメンバーから反対されながら決行したことであった。ロンドン大学などで猛勉強して弁護士資格をとり、一旦帰国し、弁護士として活動を開始した。その条件は身体を牛の糞などで浄め(最も清浄なものとされていた)てカーストに復帰することだったので、それに従った。
しかし、インドでの弁護士活動は不慣れのためかうまくいかず、傷心のうちに南アフリカで成功したインド人商人の依頼で1893年にアフリカに渡った。
1888年、18歳の時に弁護士になることを目指しイギリスに留学する。カーストのメンバーから反対されながら決行したことであった。ロンドン大学などで猛勉強して弁護士資格をとり、一旦帰国し、弁護士として活動を開始した。その条件は身体を牛の糞などで浄め(最も清浄なものとされていた)てカーストに復帰することだったので、それに従った。
しかし、インドでの弁護士活動は不慣れのためかうまくいかず、傷心のうちに南アフリカで成功したインド人商人の依頼で1893年にアフリカに渡った。
当時、南アフリカにはブール人の建てたナタール、トランスヴァール、オレンジ自由国の三国があり、金やダイヤモンドが発見され、インド人移民(印僑)がその労働力として大量にやって来ていた。彼らはクーリー(苦力)といわれて苛酷な年季労働に従い、激しく差別されていた。
ガンディー自身もダーバンからプレトリアに向かう列車で、乗車を拒否されるという目に遭う。さまざまな差別に逢いながら、インド人唯一の弁護士として差別との戦いが始まる。
ガンディーはまずインド国民会議派に倣い、ナタール=インド人会議を発足させ、その書記となって1906年、トランスヴァール政府(スマッツ提督)が打ち出した指紋登録法に反対する闘いを始めた。その闘いは登録証を集団で焼き払うというもので、ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動の始まりだった。
ガンディー自身もダーバンからプレトリアに向かう列車で、乗車を拒否されるという目に遭う。さまざまな差別に逢いながら、インド人唯一の弁護士として差別との戦いが始まる。
ガンディーはまずインド国民会議派に倣い、ナタール=インド人会議を発足させ、その書記となって1906年、トランスヴァール政府(スマッツ提督)が打ち出した指紋登録法に反対する闘いを始めた。その闘いは登録証を集団で焼き払うというもので、ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動の始まりだった。
ガンディーはその思想をイギリス人思想家ラスキンの著作から着想を得、ヒンドゥー教の『バガヴァッド=ギーター』に述べられている不殺生(アヒンサー)の精神によって根拠づけ、その運動はサティヤーグラハと名付けられた。
サティヤーグラハとは‘真理の把持’という意味であるが、その後ガンディーの指導する非暴力・不服従という新たな手法の運動をそのように呼ぶようになる。彼はその理念を主著『ヒンドゥー=スワラージ』(1907年)で明らかにした。
1915年、インドに22年ぶりに帰り、国民会議派の穏健派の指導者ゴーカレーに請われてそれに加わり、アーメダバードにサティヤーグラハの道場(サーバルマティ・シュラム)をつくって活動を開始、各地をめぐって労働者の争議や農民の反税闘争を指導してインド民衆の心をつかんでいった。
第一次世界大戦中、インドは戦後の自治承認を期待し、100万人以上の兵力と3億6000万ポンドの戦費を負担してイギリスに協力した。ニューデリーにあるインド門は、第一次大戦のインド兵戦死者6万人の慰霊のために建設されたものである。
しかし、大戦後の1919年インド統治法は、州行政の一部をインド人に委ねただけで、自治とは程遠い内容であった。また、これと同時に、逮捕状なしに逮捕し、裁判なしに投獄できる権限をインド総督に与えるローラット法を制定したため、インド各地で激しい反対運動が起こった。
しかし、大戦後の1919年インド統治法は、州行政の一部をインド人に委ねただけで、自治とは程遠い内容であった。また、これと同時に、逮捕状なしに逮捕し、裁判なしに投獄できる権限をインド総督に与えるローラット法を制定したため、インド各地で激しい反対運動が起こった。
ガンディー
これに対し、ガンディーは「われわれはパンを求めて、石を与えられた」として、1919年4月9日、民衆に一斉休業(ハルタール)を呼びかけた。それは一日の仕事を休んで断食することでイギリスに抗議しようとするもので、デリーをはじめ各地で実行された。第1次非暴力・不服従運動(第1次サティヤーグラハ運動)の始まりである。
それは大きな運動となって行ったが、それに対してイギリス当局は暴力をもって弾圧に当たり、一部では民衆も反撃し、暴力事件に転化してしまった。
特にパンジャーブ地方のアムリットサールやラホールでは暴徒が銀行や郵便局に放火し、イギリス人を殺害するという事件が起こった。ガンディーはこの暴走を抑えようとパンジャーブに向かったが途中で逮捕されてしまう。
それは大きな運動となって行ったが、それに対してイギリス当局は暴力をもって弾圧に当たり、一部では民衆も反撃し、暴力事件に転化してしまった。
特にパンジャーブ地方のアムリットサールやラホールでは暴徒が銀行や郵便局に放火し、イギリス人を殺害するという事件が起こった。ガンディーはこの暴走を抑えようとパンジャーブに向かったが途中で逮捕されてしまう。
1919年4月13日、ガンディー逮捕に憤激したアムリットサールの民衆は、集会禁止にもかかわらず2万人が結集して抗議をはじめたが、それに対してダイヤー将軍の指揮するイギリス軍(ネパール人のグルカ兵が動員された)が無防備の群衆に発砲し、379名を殺害、多数の負傷者を出した(会議派の調査では死者1200名、負傷3600名)。
無抵抗の民衆を無差別に殺害
出入り口の一つしかない公園に軍隊と機関銃を配し、高い塀をよじ登って逃げようとする人々に‘弾がなくなるまで’撃ち続けた行為は、イギリス人の残虐さを象徴するものとしてインド人を震え上がらせ、また憤激させた。
続いて、パンジャーブに戒厳令が敷かれ、無差別逮捕、公開鞭打ちなども行われているのに、何が起こっているのか他州に極秘にされたことも、イギリスへの不信となった。
さらにこの処理をめぐるイギリス人の態度も、インド人の神経を逆撫でした。たとえばこの事件の責任者ダイヤー将軍には‘帝国の功労者’として一般人から募った2万ポンドが贈られたのであった。
続いて、パンジャーブに戒厳令が敷かれ、無差別逮捕、公開鞭打ちなども行われているのに、何が起こっているのか他州に極秘にされたことも、イギリスへの不信となった。
さらにこの処理をめぐるイギリス人の態度も、インド人の神経を逆撫でした。たとえばこの事件の責任者ダイヤー将軍には‘帝国の功労者’として一般人から募った2万ポンドが贈られたのであった。
ガンディーは、この事態に、自らのサティヤーグラハ運動が十分理解されていなかったことに気づき、「ヒマラヤの誤算」であったとして、一時運動を停止してしまう。
なぜそれが誤算だったのか、自伝で彼は次のように言っている。
「考えてみると、早すぎた非服従運動のように私にはみえたからであった。……人が非服従運動の実践に適するようになるには、その前に、国家の法律に積極的かつ尊敬をこめてた服従を行っていなければならなかった。たいていの場合、私たちは、法律に違反すると罰せられる恐れから法律に服従している。
……けれどもこのような服従は、サッティヤーグラハに要請されている積極的自発的な服従ではない。サッティヤーグラハ運動者は社会の諸法律をよく理解し、そして彼自身の自由意志からそれに服従する。それはそうすることが、彼の神聖な義務だと考えているからである。このように一人の人が社会の諸法律に忠実に服従しているときに初めて、彼はどの特定の法律が善で公正であるか、そしてどれが不公正で邪悪であるかについて、判断を下すことができる。
その時になって初めて、はっきりと規定された状況のもとに、ある法律に対して非服従を行う権利が生まれるのである。私の過ちは、私がこの必要な限定性を守らなかったところにある」(『ガンジー自伝』)(つづく)
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北伐の完成後、蔣介石は「中華民国」の中心にあって独裁的な権力を振るい、アメリカ・イギリスの支援と浙江財閥の援助によって中国共産党との戦いを進めていく。
1931年、満州事変が起こり日本の中国侵略が開始されてもそれとの対決を避け、共産党勢力との戦いを優先(「安内攘外」策という)し、日本軍と塘沽【タンクー】停戦協定を締結した。
1931年、満州事変が起こり日本の中国侵略が開始されてもそれとの対決を避け、共産党勢力との戦いを優先(「安内攘外」策という)し、日本軍と塘沽【タンクー】停戦協定を締結した。
一方で共産党への攻勢を強めて、1934年には瑞金の共産党政府を西遷(長征)させ、延安に追いやった。
翌1935年には蔣介石は支持基盤である浙江財閥の財力を背景に、懸案の通貨統一(幣制改革)を行い、中国の経済的統一を図った。
翌1935年には蔣介石は支持基盤である浙江財閥の財力を背景に、懸案の通貨統一(幣制改革)を行い、中国の経済的統一を図った。
かつて父の張作霖を日本軍の謀略である張作霖爆殺事件で殺されていた張学良は拠点の満州を日本軍に奪われ、東北軍を率いて易幟【えきし】を行って国民党政府とともに戦うことを表明したが、肝心の蔣介石が共産党との内戦を優先させて日本軍との戦いを極力避けていることに不満を持っていた。
1935年8月、共産党は八・一宣言をを出して、内戦停止・抗日民族統一戦線結成を呼びかけた。当時西安にいて、長征を終えて陝北に着いた共産党討伐を命ぜられていた張学良は、これに感動し、抗日のための共同行動を共産党と密かに相談するようになっていた。
1935年8月、共産党は八・一宣言をを出して、内戦停止・抗日民族統一戦線結成を呼びかけた。当時西安にいて、長征を終えて陝北に着いた共産党討伐を命ぜられていた張学良は、これに感動し、抗日のための共同行動を共産党と密かに相談するようになっていた。
1936年12月4日、共産党の討伐が進まないことに業を煮やした蔣介石が、国民党軍を督励するために西安に乗り込んで来た。
張学良は十七路軍の楊虎城とともに内戦停止を訴えたが容れられず、12月12日、兵を動かして蔣介石を監禁し、内戦を停止すること、南京政府を改組し諸党派共同しての救国にあたること、政治犯の釈放、民衆愛国運動の解禁など8項目を要求した。
張学良は十七路軍の楊虎城とともに内戦停止を訴えたが容れられず、12月12日、兵を動かして蔣介石を監禁し、内戦を停止すること、南京政府を改組し諸党派共同しての救国にあたること、政治犯の釈放、民衆愛国運動の解禁など8項目を要求した。
蔣介石は当初拒絶したが、張学良の要請で西安に来た共産党の周恩来(かつて黄埔軍官学校で蔣介石の部下だった)らが説得、蔣介石夫人の宋美齢も上海から飛行機で駆けつけて夫を説得し、8項目に合意し釈放された。
張学良は「兵諌」(兵を勝手に動かし、上官に諌言したこと)の責任を負って軍法会議にかけられることを望み、蔣介石に同行し、以後国民党の監視下に置かれる。この張学良が身を挺して蔣介石に内戦停止を迫ったことが、中国を勝利に導く大きな転換点となった。
ちなみに、張学良は戦後も国民政府と共に台湾に移って軟禁状態で生涯を送り、2001年に100歳で死去している。
張学良は「兵諌」(兵を勝手に動かし、上官に諌言したこと)の責任を負って軍法会議にかけられることを望み、蔣介石に同行し、以後国民党の監視下に置かれる。この張学良が身を挺して蔣介石に内戦停止を迫ったことが、中国を勝利に導く大きな転換点となった。
ちなみに、張学良は戦後も国民政府と共に台湾に移って軟禁状態で生涯を送り、2001年に100歳で死去している。
1937年に日中戦争が始まると毛沢東の指導する共産党との第2次国共合作に合意、抗日戦争を指導した。日本軍の攻勢を避け、重慶に政府を移し、援蔣ルートによるアメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けて抵抗を続けた。
1941年に第二次世界大戦に拡大すると連合国の一員となり、19433年11月にはカイロ会談に参加して英米首脳と対日戦後処理を話し合った。1945年7月のポツダム宣言には署名で加わった。
1941年に第二次世界大戦に拡大すると連合国の一員となり、19433年11月にはカイロ会談に参加して英米首脳と対日戦後処理を話し合った。1945年7月のポツダム宣言には署名で加わった。
1945年の日本軍降伏後も、両軍は一触即発であったが、とりあえず軍事解決を棚上げして、8月末に蔣介石と毛沢東による重慶会談を開催し、ようやく10月に「双十協定」を締結して、「政治協商会議」を開催して統一の道筋を探ることとなった。
1946年1月、国共両党および他の党派の代表が集まり、政治協商会議が開催され、統一政府の設立では合意が成立したが、それぞれの軍事力の統合では利害の対立が明確になった。
1946年1月、国共両党および他の党派の代表が集まり、政治協商会議が開催され、統一政府の設立では合意が成立したが、それぞれの軍事力の統合では利害の対立が明確になった。
ジョージ=マーシャル
共産党はその支配下の解放区で、「減租減息」(小作料と利息の減額)を実施して民衆の支持を広げていった。アメリカも国共内戦の勃発を恐れ、マーシャル特使を派遣して斡旋を試みた。
しかし最終的な合意に至らず、ガラス細工のような国共協調路線も、ついに破綻を迎え、1946年6月26日、本格的な国共内戦が再び勃発した。
しかし最終的な合意に至らず、ガラス細工のような国共協調路線も、ついに破綻を迎え、1946年6月26日、本格的な国共内戦が再び勃発した。
人民解放軍に占領された南京の総統府
当初は国民党が圧倒的に優位で(兵力は国民党430万、共産党120万、支配地域の人口は国民党約3億3900万、共産党約1億3600万)、おおむね共産党から見れば1対3であり、状況は厳しかった。1947年6月には共産党の拠点延安も陥落した。
しかし、共産党はソ連が支配している東北地方に勢力を移して反抗の準備を強化した。こうして1949年9月から有名な、遼瀋戦役・淮海戦役・平津戦役の三大戦役で人民解放軍が勝利し、1949年1月31日、国民党の北京守備隊は自らの判断で降伏、共産党人民解放軍が無血入城した。
さらに人民解放軍は、国民政府の首都南京に4月24日に入城、国民党首脳は広州、さらに重慶に逃れて抵抗したが、12月までにほぼ国民党軍を降伏させた。
しかし、共産党はソ連が支配している東北地方に勢力を移して反抗の準備を強化した。こうして1949年9月から有名な、遼瀋戦役・淮海戦役・平津戦役の三大戦役で人民解放軍が勝利し、1949年1月31日、国民党の北京守備隊は自らの判断で降伏、共産党人民解放軍が無血入城した。
さらに人民解放軍は、国民政府の首都南京に4月24日に入城、国民党首脳は広州、さらに重慶に逃れて抵抗したが、12月までにほぼ国民党軍を降伏させた。
この間、毛沢東は1949年10月1日、北京で中華人民共和国の樹立を宣言、一方の蔣介石は重慶などを経て、12月に成都から、息子の蔣経国とともに飛び立ち、台湾に逃れた。
蔣介石は1950年3月1日、台北で総統に復帰し中華民国を存続させ、1975年に死去するまで独裁権力を誇った。
蔣介石は1950年3月1日、台北で総統に復帰し中華民国を存続させ、1975年に死去するまで独裁権力を誇った。
蔣介石は紫禁城(故宮)の所蔵品を戦火から守るべく重要文物を南方へ疎開させ、1933年2月から5月までの間に1万3,427箱と64包に及ぶ所蔵品が、上海を経て南京に運ばれた。
1937年に日本軍が南京に向けて進軍してきたために、所蔵品は再び運び出されて80箱が四川省の巴県に、9,331箱が楽山に、約7,287箱が峨眉の計3カ所に避難させられた。
1937年に日本軍が南京に向けて進軍してきたために、所蔵品は再び運び出されて80箱が四川省の巴県に、9,331箱が楽山に、約7,287箱が峨眉の計3カ所に避難させられた。
国立故宮博物院の名品・翡翠白菜
第二次世界大戦後、運び出された所蔵品は重慶を経て再び南京・北京に戻されたが、国共内戦が激化するにつれて、蔣介石の形勢が不利になったため、1948年秋より中華民国政府は北京の故宮博物院から第一級の所蔵品を精選し、5,525箱の文物が3回に分けて台湾に運び出された。
したがって、故宮博物院の所蔵品は、中華人民共和国北京市と中華民国台北市の2カ所に別れて展示されている。これとは別に所蔵品の一部は、国共内戦後の中華人民共和国建国後の混乱のため、北京市に戻すことができず、現在も南京博物院の管轄下で南京市に保管されている。
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したがって、故宮博物院の所蔵品は、中華人民共和国北京市と中華民国台北市の2カ所に別れて展示されている。これとは別に所蔵品の一部は、国共内戦後の中華人民共和国建国後の混乱のため、北京市に戻すことができず、現在も南京博物院の管轄下で南京市に保管されている。
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