なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
カテゴリ
最新記事
fc2カウンター
月別アーカイブ
- 2023/10 (1)
- 2023/09 (13)
- 2023/08 (13)
- 2023/07 (8)
- 2023/06 (9)
- 2023/05 (9)
- 2023/04 (8)
- 2023/03 (9)
- 2023/02 (8)
- 2023/01 (9)
- 2022/12 (9)
- 2022/11 (9)
- 2022/10 (8)
- 2022/09 (9)
- 2022/08 (9)
- 2022/07 (9)
- 2022/06 (8)
- 2022/05 (10)
- 2022/04 (9)
- 2022/03 (9)
- 2022/02 (8)
- 2022/01 (8)
- 2021/12 (9)
- 2021/11 (9)
- 2021/10 (9)
- 2021/09 (8)
- 2021/08 (9)
- 2021/07 (9)
- 2021/06 (9)
- 2021/05 (8)
- 2021/04 (9)
- 2021/03 (9)
- 2021/02 (8)
- 2021/01 (9)
- 2020/12 (9)
- 2020/11 (8)
- 2020/10 (9)
- 2020/09 (9)
- 2020/08 (8)
- 2020/07 (9)
- 2020/06 (9)
- 2020/05 (9)
- 2020/04 (8)
- 2020/03 (9)
- 2020/02 (9)
- 2020/01 (9)
- 2019/12 (9)
- 2019/11 (8)
- 2019/10 (9)
- 2019/09 (9)
- 2019/08 (7)
- 2019/07 (9)
- 2019/06 (9)
- 2019/05 (9)
- 2019/04 (8)
- 2019/03 (9)
- 2019/02 (8)
- 2019/01 (10)
- 2018/12 (9)
- 2018/11 (10)
- 2018/10 (10)
- 2018/09 (5)
- 2018/08 (4)
- 2018/07 (5)
- 2018/06 (6)
- 2018/05 (2)
- 2018/04 (5)
- 2018/03 (3)
- 2018/02 (3)
- 2018/01 (4)
- 2017/12 (4)
- 2017/11 (3)
- 2017/10 (3)
- 2017/09 (3)
- 2017/08 (1)
- 2017/07 (1)
- 2017/06 (2)
- 2017/05 (1)
- 2017/04 (3)
- 2017/03 (1)
- 2017/02 (2)
- 2017/01 (4)
- 2016/12 (2)
- 2016/11 (1)
- 2016/10 (2)
- 2016/09 (2)
- 2016/08 (2)
- 2016/07 (1)
- 2016/06 (2)
- 2016/05 (5)
- 2016/04 (1)
- 2016/03 (1)
- 2015/11 (1)
- 2015/09 (1)
- 2015/08 (2)
- 2015/07 (1)
- 2015/06 (2)
- 2015/05 (2)
- 2015/04 (1)
- 2015/03 (2)
- 2015/02 (1)
- 2015/01 (3)
- 2014/12 (4)
- 2014/11 (4)
- 2014/10 (4)
- 2014/09 (5)
- 2014/08 (8)
- 2014/07 (6)
- 2014/06 (2)
- 2014/05 (6)
- 2014/04 (3)
- 2014/03 (10)
- 2014/02 (5)
- 2014/01 (15)
- 2013/12 (11)
- 2013/11 (23)
- 2013/10 (16)
最新トラックバック
最新コメント
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム
QRコード

スターリンは、1922年にロシア共産党の書記長となった。1922年12月30日には、新国家ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立、ロシア共産党もソ連共産党となった。すでにレーニンの片腕としての地位を確立していたが、1924年のレーニンの死後、共産党の主導権をめぐってトロツキーとはげしく対立するようになる。
トロツキー
両者の対立は主導権争いという面が強いが、次第に革命理念でも違いを際立たせていった。スターリンは一国社会主義論を党の公式見解にすることに成功し、世界革命論をとるトロツキーを次第に追い詰めていった。トロツキー排除の段階ではジノヴィエフ、ブハーリンとともに三者の協力体制をとっていたが、トロツキー排除後は、この二人も次々と排除し、その他の古参のボリシェヴィキをも退けて、1929年までには党権力を握り、スターリン政権をつくりあげた。
五カ年計画の早期達成を扇動するソ連ポスター
スターリンは、政権を樹立した1929年からの第1次五カ年計画、つづく第2次五カ年計画の10年間を通して、社会主義国家の建設を目指して工業化とコルホーズ・ソフホーズによる農業集団化を推し進めた。この間、特に1930年代は急速な工業化と農村の集団化に批判的な政治的対立者や、独裁体制に批判的な人々を厳しく処罰し、粛清が行われ、スターリンに対する個人崇拝が強まった。
スターリンによる血の粛清で犠牲となった死者は800万~1000万人ともいわれるが、推定数字以外はない。1934年初めの第17回ソ連共産党大会は「勝利者の大会」とよばれ、社会主義建設の勝利と党内反対派の屈服が宣言された。しかし、同年12月のキーロフ暗殺事件を契機に、スターリンは政治テロに対して死刑判決の即時執行などの非常措置の導入を決定。またこの事件を扇動したとして、旧反対派の指導者ジノヴィエフ、カーメネフらが逮捕され、禁固刑に処された。これに続き、1935年のうちに古参ボリシェビキ協会や政治徒刑囚・流刑囚協会など、古くからの革命家の組織が解散させられた。
その後、旧反対派の指導者たちが、外国人記者を前にした一連の「見せ物裁判」で、罪を「自白」し、「人民の敵」として処刑された。ジノヴィエフとカーメネフは死刑の判決を下された。ブハーリンも共犯者として名をあげられた。こうした「見世物裁判」はこの時点では権力基盤を持たず、とうていスターリンに対抗できそうもない旧反対派の人物を対象としていたが、粛清は旧反対派のみならず、スターリンに忠実であった党幹部からコルホーズ農民、また外国人共産主義者にも及んでいる。しかも、彼らの大半は裁判にもかけられず、突然に逮捕され、銃殺されたり収容所に送られた。
この粛清は、一方での、社会主義社会の基礎の完成をうたった1936年の「スターリン憲法」の制定とスターリンの神格化の進行、他方での外敵に対する警戒と極端なナショナリズムのなかで行われた。この大粛清の虚構性については、亡命中のトロツキーが告発を続けたが、ソ連では、スターリンの死後、第20回党大会(1956)におけるフルシチョフの「秘密報告」によって初めて正式に認められ、生存者の収容所からの復帰と多くの人々の死後の名誉回復がなされた。ジノヴィエフ、ブハーリンらの名誉回復は行われなかったが、1988年ペレストロイカに伴い、名誉回復された。
この粛清は、一方での、社会主義社会の基礎の完成をうたった1936年の「スターリン憲法」の制定とスターリンの神格化の進行、他方での外敵に対する警戒と極端なナショナリズムのなかで行われた。この大粛清の虚構性については、亡命中のトロツキーが告発を続けたが、ソ連では、スターリンの死後、第20回党大会(1956)におけるフルシチョフの「秘密報告」によって初めて正式に認められ、生存者の収容所からの復帰と多くの人々の死後の名誉回復がなされた。ジノヴィエフ、ブハーリンらの名誉回復は行われなかったが、1988年ペレストロイカに伴い、名誉回復された。
第二次世界大戦ではソ連軍総司令官・国防相をを兼任、大元帥に昇進し、テヘラン会談・ヤルタ会談・ポツダム会談にソ連代表として出席し、連合国の首脳としてナチス=ドイツの打倒などを協議した。1945年8月、対日宣戦を敢行して対日戦勝国となった。
戦後は東欧に多数の同盟国を従えて広大な勢力圏を築き、中国社会主義革命の成功で中ソ友好同盟相互援助条約を結ぶなど、東アジアにも大きな発言権をもち、東西冷戦の東側指導者であった。
スターリンの健康状態は、第二次世界大戦の終わり頃から悪化していった。慢性的な喫煙による動脈硬化により1945年5月の戦勝パレードの時期に軽い脳卒中が起こり、1945年10月には重度の心臓発作に見舞われていた。
1953年2月28日、スターリンはベリヤ、マレンコフ、ブルガーニン、フルシチョフとの夜間の宴会を楽しんだ。 3月1日午前4時頃、客たちは解散し、スターリンは自室に戻った。暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。
翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、「呼び出されるまで、邪魔をしてはならない」という厳しい指示が出されており、警備責任者は眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。3月1日午後11時頃、注意深く彼の部屋に入ると、パジャマ姿のスターリンが床に横たわっていた。 意識はなく、息も荒く、失禁しており、呼びかけても反応がなかった。呼ばれたベリヤは、スターリンを見るなり、意識不明は酒が原因だと言って去っていった。
その後、遺体は詳細不明の場に運ばれて解剖を受け、その後、公開安置のために防腐処理が施された。3月9日、スターリンの遺体は赤の広場に運ばれた。フルシチョフ、マレンコフ、モロトフ、ベリヤが演説を行い、その後、要人たちによってレーニン廟に運ばれたスターリンの遺体は、レーニンの遺体の横に安置された。
1970年までのスターリンの墓
1961年、政府が「非スターリン化」を進める中、スターリンの遺体はレーニン廟からクレムリン近くの質素な墓地に密かに移された。この墓は今も、熱烈な共産主義者らを魅了している。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
グルジアはカフカス地方(コーカサス山脈の南麓)にあり、西を黒海に面している。
2008年のグルジア紛争以降、反ロシア感情が高まったグルジアは、ロシア語の「グルージヤ」に近い国名表記でなく、「ジョージア」とするように各国に要望した。2009年に来日した同国外相は、日本にも国名変更を要請したが、日本政府はアメリカのジョージア州との混同の可能性もあり、変更には慎重だった。
安倍首相はグルジアのマルグベラシビリ大統領と会談し、グルジアの国名表記を同国の要請に応じて英語表記に基づいた「ジョージア」に変える方針を示し、2015年に法改正されて公式にジョージアが用いられるようになった。
左から黒海・臥牙丸・栃ノ心
話は本題から外れるが、2004年1月場所で新入幕をはたし、大相撲初のヨーロッパ出身関取となった黒海は、最高位小結まで進んで2012年に引退した。黒海に続いてグルジアからの大相撲入門が続き、幕内力士も臥牙丸、栃ノ心と続いた。栃ノ心は2018年1月場所で優勝、7月場所でついに大関に昇進したが、在位7場所で大関から。栃ノ心は少年期のスターリンと似ているような気がするが……。若い頃のスターリン
都会に出て労働運動にかかわるようになってからレーニンの著作を読んで感銘を受け、職業的な社会革命家になる道を選んだ。ストライキを指導して地下活動で頭角を現し、その活動を知ったレーニンは「奇跡のジョージア人」と呼んだという。その間、何度も官憲に捕らえられシベリア流刑になったが、何度も脱走に成功している。
コーカサス地方のボリシェヴィキ責任者となったスターリンは、フィンランドで開催されたボリシェヴィキの会議に出席して初めてレーニンに会い、その行動力を認めたレーニンは彼を「鋼鉄の男」を意味するスターリンというあだ名で呼んだ。
その名の通り、その後のスターリンはレーニンとボリシェヴィキの資金の獲得などの裏の危険な仕事をこなすようになり、故郷ジョージアでは銀行強盗を働いて大金を奪取することに成功した。さらに麻薬売人と手を組んで売春宿を経営したり、かなりきわどいことをしている。彼はそれらを革命のため、と正当化したが、さすがにレーニンから諫められて非合法の資金集めからは手を引いた。このような危険を顧みない行動力だけでなく、語学や文才もあり、演説でも人を惹きつけ、次第にボリシェヴィキの中枢をしめるのようになったのだった。
流刑地でのスターリン
その後も逮捕されてシベリア流刑となり、流刑地で第一次世界大戦の勃発、そしてロシア二月革命(三月革命)を迎える。ニコライ2世が退位、臨時政府が成立して恩赦によってペテルブルクに戻り、大歓迎を受けた。
遅れて亡命先のスイスから封印列車でペテルブルクに戻ったレーニンは、ただちに戦争を内乱に!と呼びかけ、臨時政府を倒す武装蜂起の準備に着手、スターリンとトロツキーの二人が動き回り、遂に十月革命(十一月革命)を成功させ、スターリンは民族人民委員、トロツキーは外務人民委員を分担することとなった。(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

フランクリン=ローズヴェルト
第二次世界大戦中の連合国の戦後処理構想のなかで、ローズヴェルトの果たした役割は非常に大きい。まず、日本軍の真珠湾攻撃に先立ち、1941年8月9日、大西洋上でチャーチルと会談し、大西洋憲章を発表。ファシズムとの戦争という戦争目的で一致した。
1941年12月7日の真珠湾攻撃を受けて日米開戦、さらに11日ドイツ・イタリアとに宣戦布告を行うと、22日にチャーチルとアルカディア会談を行い、太平洋戦争勃発への対応と対ドイツ作戦、合同参謀本部の設置、連合国共同宣言などで合意した。
1941年12月7日の真珠湾攻撃を受けて日米開戦、さらに11日ドイツ・イタリアとに宣戦布告を行うと、22日にチャーチルとアルカディア会談を行い、太平洋戦争勃発への対応と対ドイツ作戦、合同参謀本部の設置、連合国共同宣言などで合意した。

カイロ会談でチャーチル・蔣介石と
その後も、1943年1月、カサブランカ会談でチャーチルとシチリア上陸作戦の検討、無条件降伏の原則の表明した。その後もイギリスとは頻繁に作戦上の調整を行っている。1943年11月、カイロ会談ではチャーチル・蔣介石との間で対日戦争の戦後処理方針を決定し、カイロ宣言を発表した。続いてテヘラン会談ではじめてスターリンを加えた米英ソ三国首脳会談に参加し、第二戦線問題とポーランド問題、ソ連日本参戦問題を検討した。
1944年には6月にノルマンディー上陸作戦を敢行してヨーロッパで反撃を開始、さらに太平洋で日本軍を追い詰めていくなか、7~8月には、アメリカの主導で、ブレトン=ウッズ会議で戦後の国際経済体制、ダンバートン=オークス会議では国際連合規約の草案検討がそれぞれ実務者間で開催された。
ヤルタ会談の三巨頭1944年には6月にノルマンディー上陸作戦を敢行してヨーロッパで反撃を開始、さらに太平洋で日本軍を追い詰めていくなか、7~8月には、アメリカの主導で、ブレトン=ウッズ会議で戦後の国際経済体制、ダンバートン=オークス会議では国際連合規約の草案検討がそれぞれ実務者間で開催された。
ローズヴェルトは39歳の時にカナダの冷たい海で泳いだことがきっかけでポリオに罹り、下肢が不自由になって車いすがなければ1mも歩けなかった。1944年11月に戦争完遂を掲げて4期目の大統領選挙に立候補した時には63歳であったが、医師団の一人の心臓医学専門家は、ローズヴェルトの血圧が異常に高いことに警告を発していた。
就任時は136/78mmHgだった血圧は1937年には162/98mmHg、1941年には188/105mmHgと昇り続け、1944年4月には200/108mmHgとなり、心尖拍動が左前腋窩線に位置するまで心臓も拡大し続けた。1944年の春から咳が続き、鬱血性心不全と診断されジギタリスの服用で軽快しましたが、アメリカ史上初の大統領4選を目指して遊説中の1944年11月の血圧は260/160mmHgにも達していたのである。
しかし、主治医のマッキンタイヤー軍医は健康診断の結果として大統領の服務に十分耐えられる健康体であると診断し、心臓専門医の意見は無視された。こうしてローズヴェルトの真の健康状態は伏せられたまま大統領選挙で国民は彼を4たび大統領として選出した。大戦末期の戦争指導と、スターリンやチャーチルと渡り合うという国際会議の連続は、彼の体力を急速に奪っていった。
ヤルタの位置
1945年2月4日から11日にかけてクリミア半島の避暑地ヤルタで、ローズヴェルト・チャーチル・スターリン三巨頭による会談が行われた。開催地のヤルタはソ連の領土で、スターリンは自分の庭で会議を開くという政治的に有利な立場にあった。さらに、スターリンは自国内移動のため健康面でも有利だった。チャーチルは約3000km、ローズベルトにいたっては約9000kmの道のりを経て開催地に到着しなければならなかった。
リヴァディア宮殿
この時、ローズヴェルトはアメリカからヤルタまで10日間かかっている。巡洋艦で大西洋を横断して地中海のマルタ島へ、飛行機に乗り換えてヤルタへ、さらに自動車で会談場であるヤルタ郊外のリヴァディア宮殿に到着した。会談場に到着した時点でローズヴェルトは疲労困憊の状態にあった。
虚ろな表情のローズヴェルト
この時のローズヴェルトの血圧は300/170 mmHgもあり、その虚ろな表情から体調は最悪であったことがわかる。日本の運命を決めたこの重要な会談で、ドイツが降伏した2~3カ月後に、ソ連が対日参戦すること、その見返りとして南樺太と千島をソ連に引き渡すこと、さらに東ヨーロッパはソ連の支配下に入ることなど、ソ連にとって一方的に有利な約束がなされた。
肉体的にも精神的にも限界の状態で、一方的にスターリンに攻め込まれた。チャーチルがいくら奮闘しても、これでは老練なスターリンに抗すべくもなかったのである。
寒冷地での一週間に及ぶ会談から帰国したローズヴェルトはウォーム・スプリングズで静養生活に入った。しかし、1945年4月12日の昼食前に脳溢血のため63歳で死去した。死亡日の血圧は300/190 mmHg。第二次世界大戦の終結とその勝利を目前にした死であった。
大統領が現役で、しかも大戦の最中に死去したことは、大統領としてふさわしい健康状態であったか、その健康管理は適切であったか、疑問が出されたが、何故か大統領のカルテは紛失し、事実を究明することはできなかった。
昆明におけるフライングタイガース
ローズヴェルトは日本軍によって追い詰められた重慶の蔣介石政権に対し援蔣ルートを通じて盛んに支援を続け、さらにアメリカの退役軍人を中心とする義勇軍「フライングタイガース」を中華民国へ派遣したが、戦闘機(100機)やパイロットはアメリカ政府が用意しており、実質、義勇軍の名を借りたアメリカの対日戦闘部隊であった。
1940年9月、日本が援蒋ルートの遮断を狙ってフランス領インドシナ北部に進駐、さらにアメリカを仮想敵国とする日独伊三国同盟を結成したことにより日米関係は決定的に悪化した。
1941年4月から日米交渉が開始されたが、7月に日本がさらに南部仏印進駐に踏み切ったことに対し、アメリカは日本への石油輸出を禁止し、日本はABCDラインによる包囲網と捉えて反発を強めた。アメリカは中国などからの撤兵、満州の放棄などを要求するが、日本軍は武力解決の道を選び、12月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃を実行した。
12月7日は日曜日だった。朝7時55分、攻撃が始まると教会に行く準備などをしていた人びとは、一瞬、訓練かとも思ったが、すぐに日本軍の空襲だと判った。ハワイの人びとにとってもその日は忘れられない日となった。停泊中のアリゾナは爆撃による火災が弾薬庫に引火して大音響とともに転覆し、逃げ遅れた乗組員1177人が艦とともに海底に沈んだ。攻撃は二波におよび午前10時頃終わった。日本軍による数時間の攻撃で死亡した人の数は2488人にのぼった。その大半は軍関係者であったが、一般市民も46人が犠牲となった。
宣戦布告と攻撃と同時に行う予定であったが、実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告が届いたため、アメリカ側はこれを奇襲と受け取った。ローズヴェルトは日本のだまし討ちであるとして非難し、国民に「パール・ハーバーを忘れるな!」と呼びかけ、それまで参戦に消極的だった国民の戦争意欲を高めた。
ローズヴェルトは翌8日に議会に臨み、宣戦布告を求める演説の中で、パール・ハーバー奇襲を許した日が将来「汚名のうちに生きる日」になると断言し、抗戦の強い意志を表明し、日本に宣戦布告。日本の同盟国ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したため、アメリカは参戦して、枢軸国との全面戦争に突入した。日本の真珠湾奇襲はローズヴェルトに参戦の口実を与える結果となった。
アメリカの参戦は、従来の孤立主義から転換することであり、アメリカの外交政策の大きな変化であって、それ以後のアメリカは、大戦を通じて積極的に連合国のリーダーシップをとるようになっていく。
ローズヴェルトは翌8日に議会に臨み、宣戦布告を求める演説の中で、パール・ハーバー奇襲を許した日が将来「汚名のうちに生きる日」になると断言し、抗戦の強い意志を表明し、日本に宣戦布告。日本の同盟国ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したため、アメリカは参戦して、枢軸国との全面戦争に突入した。日本の真珠湾奇襲はローズヴェルトに参戦の口実を与える結果となった。
アメリカの参戦は、従来の孤立主義から転換することであり、アメリカの外交政策の大きな変化であって、それ以後のアメリカは、大戦を通じて積極的に連合国のリーダーシップをとるようになっていく。
炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機
ローズベルトは真珠湾攻撃が迫っているとの情報を受け取っていながら、わざと行動を起こさなかったとする陰謀論がある。
もちろん、日本軍による米英攻撃の可能性は、日米交渉が行き詰まるなかで予想された事態であったし、ローズヴェルト政権は、「マジック」と呼ばれた暗号解読によって、日本側が野村・来栖両大使に送った日米交渉打ち切りの電文を前日の夜には傍受していた。チャーチルも12月2日には日本の開戦間近との情報をつかみ、ローズヴェルトとチャーチルに通知していたが、それは日本軍によるタイ南部のクラ地峡攻撃を予想するものであった。
大統領側近のホプキンズの後の証言でも、当時のローズヴェルトは、日本がフィリピンやハワイではなく、フランス領インドシナやタイを攻撃することを予想し、その場合、果たして議会や世論が合衆国の参戦に賛成するかどうか苦慮していたという。つまり、日本軍による真珠湾攻撃は、米英にとって予想外の「奇襲」だったようだ。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
もちろん、日本軍による米英攻撃の可能性は、日米交渉が行き詰まるなかで予想された事態であったし、ローズヴェルト政権は、「マジック」と呼ばれた暗号解読によって、日本側が野村・来栖両大使に送った日米交渉打ち切りの電文を前日の夜には傍受していた。チャーチルも12月2日には日本の開戦間近との情報をつかみ、ローズヴェルトとチャーチルに通知していたが、それは日本軍によるタイ南部のクラ地峡攻撃を予想するものであった。
大統領側近のホプキンズの後の証言でも、当時のローズヴェルトは、日本がフィリピンやハワイではなく、フランス領インドシナやタイを攻撃することを予想し、その場合、果たして議会や世論が合衆国の参戦に賛成するかどうか苦慮していたという。つまり、日本軍による真珠湾攻撃は、米英にとって予想外の「奇襲」だったようだ。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

フランクリン=ローズヴェルト
ローズヴェルトは1933年に市場の拡大と日本・ドイツへの牽制の意味から、ソヴィエト連邦を承認した。
この頃、ヨーロッパにおけるドイツ・イタリア、アジアにおける日本のファシズムの台頭が急激になり、ナチス=ドイツのヒトラーによる再軍備、イタリアのムッソリーニ政権によるエチオピア侵入、日本の満州事変から満州国建国と緊迫した情勢が続いた。
この頃、ヨーロッパにおけるドイツ・イタリア、アジアにおける日本のファシズムの台頭が急激になり、ナチス=ドイツのヒトラーによる再軍備、イタリアのムッソリーニ政権によるエチオピア侵入、日本の満州事変から満州国建国と緊迫した情勢が続いた。
しかしアメリカの世論はこの段階でも孤立主義の伝統が根強く、アメリカ議会は1935年に中立法を制定して参戦を否定し、ローズヴェルトもこの段階ではその規定に従って中立を守り、直接介入は慎重に回避した。
その一方で、それまでのアメリカのカリブ海外交の強圧的態度を改め、善隣外交を展開、キューバのプラット条項の廃止などを実現した。また、1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
その一方で、それまでのアメリカのカリブ海外交の強圧的態度を改め、善隣外交を展開、キューバのプラット条項の廃止などを実現した。また、1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
隔離演説をするローズヴェルト
ファシズム国家の侵略行動は続き、1936年にはドイツのラインラント進駐、イタリアはエチオピア併合、さらにスペイン戦争、1937年には日本軍が盧溝橋事件・第2次上海事変で中国本土への侵攻を開始し日中戦争が始まるという世界戦争の危機が高まった。
その事態を受けて、ローズヴェルトは1937年10月にシカゴで演説し、暗にドイツ・イタリア・日本を危険な感染症にかかった患者にたとえて隔離すべきであるいう「隔離演説」(または防疫演説)を行い、世界の注目を浴びたが、この段階でもアメリカ国内の世論は戦争への参加に批判的であった。
1936年は大統領選挙の年だった。ニューディールが「左傾」したため、ローズヴェルトの評価は大きく分かれるものとなった。保守派は彼を激しく非難し、財界人も批判を強めていた。
しかし、一般民衆はローズヴェルトを支持していた。ローズヴェルトはわずか2州を落としたのみで、選挙人票で523対8という史上最高の得票差による勝利を得た。一般投票でも、共和党のランドンに1100万票の大差をつけ、2775万票、率にして61%を獲得した。この比率は、1964年のジョンソン圧勝まで破られなかったのである。
しかし、一般民衆はローズヴェルトを支持していた。ローズヴェルトはわずか2州を落としたのみで、選挙人票で523対8という史上最高の得票差による勝利を得た。一般投票でも、共和党のランドンに1100万票の大差をつけ、2775万票、率にして61%を獲得した。この比率は、1964年のジョンソン圧勝まで破られなかったのである。
1939年9月1日、ヒトラーがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発してからは、ファシズムに対する闘いを支援する姿勢を強め、中立法を改正してイギリスへの事実上の武器輸出を開始し、以後は参戦の機会を待った。
ローズヴェルトはさらに1944年に戦争の継続という特例から四選に出馬し当選する。これは戦争中の特別のケースとはいえ、長すぎるという批判があり、1951年の憲法修正22条で明確に三選は禁止された。
1940年11月、ローズヴェルトはアメリカ史上初めて、大統領として三選された。)憲法は大統領の三選を禁じてはいなかったが、初代大統領の例にならって、あえて三選に挑む例はなかった。ギャラップ世論調査では、ローズヴェルトが三選に立候補したら彼に投票するかという問に、イエスが47%、ノーが53%だった。
しかし、ともかく彼は1940年11月にアメリカ史上初の三選を果して、1941年1月(従来の就任式は3月4日。当選から就任までの期間が長すぎたので、彼は第1期就任中に大統領就任式を現在のように1月20日に改めた)に三度目の就任式に臨み、有名な「四つの自由」演説を行った。言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由など、ファシズムから守らなければならない四つの自由をあげて、民主主義国家としての道義的な戦争目的を明らかにしたのだ。
しかし、ともかく彼は1940年11月にアメリカ史上初の三選を果して、1941年1月(従来の就任式は3月4日。当選から就任までの期間が長すぎたので、彼は第1期就任中に大統領就任式を現在のように1月20日に改めた)に三度目の就任式に臨み、有名な「四つの自由」演説を行った。言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由など、ファシズムから守らなければならない四つの自由をあげて、民主主義国家としての道義的な戦争目的を明らかにしたのだ。
ローズヴェルトはさらに1944年に戦争の継続という特例から四選に出馬し当選する。これは戦争中の特別のケースとはいえ、長すぎるという批判があり、1951年の憲法修正22条で明確に三選は禁止された。
ローズヴェルトは1941年3月に武器貸与法を制定して事実上の参戦を果たした。また同年年8月9日にはイギリス首相チャーチルとの大西洋会談を行って、ファシズム国家との戦争という目的で一致し、早くも戦後における国際平和を維持できる機構の創設で一致し、その構想から国際連合が生まれることとなった。
それでも正式な参戦は出来ないでいた。それは、国内には孤立主義に固執する保守派や、ソ連の共産主義を危険視してナチス=ドイツを支持する勢力も一定程度存在したためである。ローズヴェルトは、国論が参戦で一致出来るチャンスを待っていた。(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
しかし、すでにその頃アメリカの農業生産は過剰となり、いろいろな救済案も成功せず、農産物価格の下落はやまなかった。それにもかかわらず1929年3月の大統領就任演説でフーヴァーは、「私はわが国の前途に不安を覚えない。それは希望に輝いている」と述べていた。
取り付け騒ぎでアメリカ連合銀行に集まった群衆
1929年10月21日月曜日、世界資本主義の中枢、ニューヨークのウォール街の株式取引所で株価の大暴落が始まった。一時的なことであろうという投資家たちの楽観を尻目に、23日事態はさらに悪化し、大金融家たちの買い支えも効果がなかった。
そして、24日の「暗黒の木曜日」がやってきた。取引所では人びとが押し合い、わめきあい、ひっきりなしにかかっている電話は、ことごとく「売り」である。この日一日で約1300万株が売られ、(前日のおよそ倍)、中にはいくら値を下げても、買い手がつかない株も少なくなかった。この日に自殺した投資家が11人ほどというニュースも流れ、高層ホテルで部屋を求めると、「お休みになるのか、窓を利用なさるのか」と聞かれる有様であった。しかも29日は「最悪の日」となり、1640万株が売りに出された。
アメリカでは、1929年9月が株価上昇のピークだったが、11月になると株価指数は3分の2になり、さらに2年半も下落し続け、株価が底に達した1932年6月には、ピーク時の6分の1弱になっていしまった。このような株価下落は平均の数字であり、個々の株ではさらに激しい下落を示すものも珍しくなかった。世界最大の鉄鋼会社だったUSスチールの株は、以前の12分の1の22ドルに、最大の自動車会社ジェネラル・モーターズの株は9分の1の8ドルに下がった。こうして、株の値上がりで一財産築いた人びとが、一夜にして財産を失い、家財道具を売り払うようになった。
イギリスのある失業者

フランクリン=ローズヴェルト
フランクリン=ローズヴェルトは1882年1月30日にニューヨークで生まれた。第26代大統領セオドア=ローズヴェルトは遠い従兄にあたる。フランクリンは若いころからセオドアを目標として政治家を志し、ハーヴァード大学とコロンビア大学で法律を学び、第一次世界大戦では民主党のウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めた。1921年頃小児麻痺にかかって両足の自由を失い、松葉杖の生活になったが、政界に復帰し、1928年にニューヨーク州知事に選出された。
世界恐慌の最中の1932年11月に行われた大統領選挙で、ローズヴェルトは民主党から立候補し、全米48州のうち42州で共和党のフーヴァーに勝った。選挙人数では約9割を獲得し、史上最高だった。一般投票では、それまで最高の2281万票(57%強)を獲得し、フーヴァーを700万票も上回った。「フーヴァー以外なら誰でもよい」と言われていたが、1600万人ちかい人々は、以前からの支持政党へ投票したわけである。
1933年3月4日、第32代大統領に就任、1920年代に続いた共和党政権に代わり、民主党の政権を実現した。
選挙中は「ニューディール」の具体的中身はまだ無かったが、当選後に政治や経済の専門家をブレーンとして採用して、総合的な恐慌対策を策定し、3月4日の就任以後、矢継ぎ早に政策を実施に移していった。まず、折からの金融不安を「バンク・ホリデー」と称して銀行を4日間閉鎖し、その間に緊急銀行救済法を成立させて国民にラジオを通して預金を呼びかけ、金融の信頼回復に努めた。
さらに、新政権成立から3週間もたたない3月22日、アルコール分3.2%以下のビール製造を許可し、酒税を徴収する法律が定められ、国民に新しい時代に入ったことを印象づけた。禁酒主義者からみれば不当な法律だったが、相当数の国民を元気づけた。恐慌を一時忘れるには、アルコールは有効だったし、その製造・販売などさまざまな分野で仕事が増えることが確実だったからである。
また彼は、当時マスコミとして広く普及していたラジオを活用し、たびたび「炉辺談話」として国民に直接話しかけて政策の理解を求め、それによって国民の強い支持を受けることとなった。直接語りかけるようなローズヴェルトの、やや甲高いが親しみを感じさせる話し方は、不況で意気消沈しがちな国民を元気づけるうえで非常に有効だった。
こうして株式恐慌に始まり、たくさんの銀行が破産し、1929年から4年ほどの間にアメリカの工業生産は半分以下に減り、失業者は1283万人、全労働者の4人に1人が失業という惨状になった。
恐慌は、まず西半球のアメリカ勢力圏からアジアの植民地・従属国に広がり、さらにヨーロッパの工業国へと波及した。全資本主義国の全経済部門に及び、1929年から32年までに世界の工業生産は半減し、1932年末には全世界の失業者は5000万人を超えたと推定されている。特に恐慌が深刻になったのはドイツであった。1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、それを機に中欧諸国の金融恐慌が発生し、ドイツにあった金は国外流出を続け、財政は巨額の赤字となった。特に多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援で経済が成り立っていたので、ドイツ経済も破綻、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻した。
アメリカ発の株式暴落が世界恐慌に拡大した理由は、アメリカ合衆国が第一次世界大戦後、世界最大の債権国となっており、世界経済がアメリカ経済に依存する体質になってしまっていたためであり、アメリカの経済が破綻したことが必然的に世界経済の破綻へとつながってしまった。
恐慌は、まず西半球のアメリカ勢力圏からアジアの植民地・従属国に広がり、さらにヨーロッパの工業国へと波及した。全資本主義国の全経済部門に及び、1929年から32年までに世界の工業生産は半減し、1932年末には全世界の失業者は5000万人を超えたと推定されている。特に恐慌が深刻になったのはドイツであった。1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、それを機に中欧諸国の金融恐慌が発生し、ドイツにあった金は国外流出を続け、財政は巨額の赤字となった。特に多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援で経済が成り立っていたので、ドイツ経済も破綻、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻した。

フランクリン=ローズヴェルト
アメリカは1930年6月、スムート=ホーレー法を成立させ、農産物だけではなく工業製品でも関税引き上げを実施した。各国も自国産業を守るために、保護貿易主義に転換したため、世界的な貿易不振が起き、かえって恐慌を長期化させることとなった。またドイツの窮状を救うため、フーヴァー大統領は1931年6月にフーヴァー=モラトリアム(支払猶予令)、を発表し、戦債・賠償金支払いを1年停止することにしたが、タイミングが遅すぎて効果はなかった。
車イス姿のローズヴェルト
フランクリン=ローズヴェルトは1882年1月30日にニューヨークで生まれた。第26代大統領セオドア=ローズヴェルトは遠い従兄にあたる。フランクリンは若いころからセオドアを目標として政治家を志し、ハーヴァード大学とコロンビア大学で法律を学び、第一次世界大戦では民主党のウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めた。1921年頃小児麻痺にかかって両足の自由を失い、松葉杖の生活になったが、政界に復帰し、1928年にニューヨーク州知事に選出された。
世界恐慌の最中の1932年11月に行われた大統領選挙で、ローズヴェルトは民主党から立候補し、全米48州のうち42州で共和党のフーヴァーに勝った。選挙人数では約9割を獲得し、史上最高だった。一般投票では、それまで最高の2281万票(57%強)を獲得し、フーヴァーを700万票も上回った。「フーヴァー以外なら誰でもよい」と言われていたが、1600万人ちかい人々は、以前からの支持政党へ投票したわけである。
1933年3月4日、第32代大統領に就任、1920年代に続いた共和党政権に代わり、民主党の政権を実現した。
選挙中は「ニューディール」の具体的中身はまだ無かったが、当選後に政治や経済の専門家をブレーンとして採用して、総合的な恐慌対策を策定し、3月4日の就任以後、矢継ぎ早に政策を実施に移していった。まず、折からの金融不安を「バンク・ホリデー」と称して銀行を4日間閉鎖し、その間に緊急銀行救済法を成立させて国民にラジオを通して預金を呼びかけ、金融の信頼回復に努めた。
さらに、新政権成立から3週間もたたない3月22日、アルコール分3.2%以下のビール製造を許可し、酒税を徴収する法律が定められ、国民に新しい時代に入ったことを印象づけた。禁酒主義者からみれば不当な法律だったが、相当数の国民を元気づけた。恐慌を一時忘れるには、アルコールは有効だったし、その製造・販売などさまざまな分野で仕事が増えることが確実だったからである。
また彼は、当時マスコミとして広く普及していたラジオを活用し、たびたび「炉辺談話」として国民に直接話しかけて政策の理解を求め、それによって国民の強い支持を受けることとなった。直接語りかけるようなローズヴェルトの、やや甲高いが親しみを感じさせる話し方は、不況で意気消沈しがちな国民を元気づけるうえで非常に有効だった。
ローズヴェルトは1933年3月9日から6月16日までのいわゆる「百日議会」で、15にも及ぶ恐慌対策立法を成立させた。ニューディールの主要な内容は、農業調整法(AAA)・全国産業復興法(NIRA)・テネシー川流域開発公社(TVA)・ワグナー法・社会保障法・金本位制停止など、多岐にわたるが、そのねらいは、従来の自由放任主義の原則を改め、政府の積極的な経済介入によって、公共事業などを行って雇用を創設し、労働者保護や社会保障の充実によって弱者を救済して全体的な国内の購買力を回復(内需回復)して、恐慌を克服しようとするものであった。
ニューディールについては、おおむね好意的な評価が為されているが、詳細に見ると問題も多かった。また、政府による経済介入については、当時から社会主義的な手法であるという批判、非難が強かったことも見逃してはならない。
1933年6月12日からロンドン世界通貨経済会議が開催されたが、ここでのローズヴェルトにも問題がある。国際連盟加盟国ではないが参加を要請されたアメリカは、今や世界経済の大国であり世界恐慌の発端となった責任もあることから、積極的に関与することが期待された。まず世界恐慌でドイツの賠償が事実上不可能となったため、ヨーロッパ諸国のアメリカに対する債務返済も不可能なので、それを帳消しにすることが期待されたが、ローズヴェルトはその問題を議題にすることを拒否し、話し合われなかった。また、すでに金本位から離脱していたアメリカの将来的金本位制への復帰を要請されたが、ローズヴェルトはこれも拒否した。その結果、ロンドン世界通貨経済会議は決裂に追い込まれた。
アメリカは世界経済の牽引車であることの自覚を持たず内向けなニューディールに進んでいったのである。(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

タンネンベルクの戦い
1914年6月23日、サライェヴォ事件が起き、7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝へ圧力を掛けた。ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂し、彼は第一次世界大戦拡大の要因の一つといわれるロシア軍総動員令を7月31日に布告して、パン=スラヴ主義を掲げて連合国として参戦、ドイツとの戦端を開いた。
開戦によりドイツ語風の名をもつ首都サンクトペテルブルクも、これをロシア語に訳したペトログラードと改められた。しかしタンネンベルクの戦いでは、敵の3倍近い兵力を有していながら1個軍(20万人相当)を喪失するという壊滅的な敗北を経験した。
皇帝夫妻をラスプーチンの傀儡として描いた反皇帝派のポスター
2月23日(グレゴリウス暦3月8日)は国際婦人デーであった。この日、パンも薪も不足していた繊維工場の女性労働者が、パンを求めてストライキに入った。これに男性労働者も加わると、ついに市の中心にあるネフスキー大通りをめざしてデモ行進が始まった。
労働者の不満が一気に噴出し、翌日になると、ストライキは全市に拡大した。食糧不足の抗議に発したストライキは戦争と専制政治に反対する政治デモに 転化していった。この結果、皇帝による専制政治はわずか5日間で、いとも簡単に倒されていく。
皇太子アレクセイ
国会の臨時執行委員会は、打開の道が皇帝退位のほかなしと考え、軍の司令部も軍と王朝の保身をはかりこれに同意した。3月15日の夕方、国会の代表者2名、すなわちグチュコーフおよびシューリギンがプスコーフに到着し、皇帝に謁見した。彼らは皇帝にペトログラードの現情勢を報告し、皇帝が退位し皇太子アレクセイに譲位されることを主張した。
かくして皇帝は国会に同意して退位したが、その退位詔書にみるごとく、ニコライ2世は国会の希望とは違った形で帝位を譲った。なわちす皇帝は「愛する息子と別れたくないが故に」、皇太子を狂乱のロシアの元首に即けることを忍びないが故に、弟のミハイル大公に帝位を譲ったのである。
帝位を譲られたミハイル大公は。それが「わが人民の偉大な意志」である場合にのみ権力を受諾すると宣言し、「人民の意志」の反映さるべき憲法議会の招集まで、帝冠は宙に迷った。このミハイルの宣言は退位詔書に署名された翌日、すなわち3月16日に発表された。 ここに300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になった。
かくして皇帝は国会に同意して退位したが、その退位詔書にみるごとく、ニコライ2世は国会の希望とは違った形で帝位を譲った。なわちす皇帝は「愛する息子と別れたくないが故に」、皇太子を狂乱のロシアの元首に即けることを忍びないが故に、弟のミハイル大公に帝位を譲ったのである。
帝位を譲られたミハイル大公は。それが「わが人民の偉大な意志」である場合にのみ権力を受諾すると宣言し、「人民の意志」の反映さるべき憲法議会の招集まで、帝冠は宙に迷った。このミハイルの宣言は退位詔書に署名された翌日、すなわち3月16日に発表された。 ここに300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になった。
トボリスクに監禁されたニコライ2世とアレクセイ
ニコライの一家はユリウス暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ=セローに監禁された。イギリス君主とも血縁関係が強い元ロシア皇帝一家を同盟国でもあるイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードのソヴィエトを中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流された。

イパチェフ館
ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移され、イパチェフ館に監禁された。イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていたが、互いに協力しあって生活を送った。
ニコライ2世は死の4日前まで日記を書き続けた。イパチェフ館の警備兵を務めたアナトーリ=ヤキモフは当時のニコライ2世の様子について後年に、「皇帝はもはや若さを失い、髭も白いものが目立ち始めた。私は彼が兵隊シャツを着て、腰に将校ベルトを締めているのを見た。シャツもズボンも同じカーキ色で、長靴は擦り切れていた。眼は優しく、本当に穏やかな表情をしていた。私は彼が親切で、単純素直で、気の置けない人柄だと思った。私に話しかけようとしているように思える時もあった。本当に、私達に話しかけたがっているようだった」と書き記している。

ロマノフ一家が殺された地下室
しかし、チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト委員会は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、ロマノフ一家全員の処刑を決定した。元軍医でチェーカー次席のユダヤ人のヤコフ=ユロフスキー率いる、ユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成された銃殺隊がイパチェフ館に送られた。
1918年7月17日午前2時33分、元皇帝一家7人(ニコライ2世、アレクサンドラ元皇后、オリガ元皇女、タチアナ元皇女、マリア元皇女、アナスタシア元皇女、アレクセイ元皇太子)、ニコライ2世の専属医(エフゲニー=ボトキン)、アレクサンドラの女中(アンナ=デミドヴァ)、一家の料理人(イヴァン=ハリトーノフ)、従僕(アレクセイ=トルップ)の11人はイパチェフ館の地下で銃殺された。これにより、元皇帝夫婦ニコライ2世とアレクサンドラの血筋は途絶えた。
スターリン時代は皇帝一家の処刑は、革命に貢献する英雄的行為とされていたため、ソ連政府は一時期革命教育の一環として、処刑隊員の兵士を全国の学校や職場で講演させた。そして自身の体験を英雄的行為と考える彼らは、当日の情況を多くの人々の前で詳細に語った。そのため皇帝一家が地下室に集められて処刑隊の指揮官が死刑執行を告げたとき、皇帝が当惑したように「何と言ったのだ?」と訊き返したことや、壁際に固まった10代の子供たちを含む一家に拳銃が乱射されたこと、皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫んだことなど、処刑の状況は比較的正確に判明している。
遺体は一度廃坑に埋めた後掘り起こされ、別の廃坑付近で2体の遺体を焼却した後に、残り9体が硫酸をかけた上で森に埋められた。その後、ソヴィエトは「ニコライ2世のみが処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と発表。これは、ドイツ出身のアレクサンドラ元皇后や、イギリス王家とも繋がりの深いロマノフ家一家の殺害の事実を伏せ、諸外国とのトラブルを回避するためであった。
殺害の決定においては、レフ=トロツキーが「ニコライを裁判にかけて罪状を裁くべき」と主張したが、レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と強硬に殺害を主張し認めさせた。
ソビエト連邦の崩壊後の1994年、発見された遺体が本人たちと確認され、1998年7月、一家の遺体は首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)に埋葬された。2000年8月、ニコライ2世はロシア正教会によって家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに列聖された。
ニコライ2世は1868年5月6日、アレクサンドル皇太子(後のアレクサンドル3世)の長男としてサンクトペテルブルクで生まれた。
1881年に祖父の皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺された。その遺体は足が千切れ顔は判別不能なほどに破損しているなど、当時の感覚では衝撃的な末路であった。その痛ましい姿を見た子のアレクサンドル皇太子は改革を志向した父帝とは反対に専制政治の強化を決意し、ニコライ皇子も決意を同じくしたという。
1881年に祖父の皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺された。その遺体は足が千切れ顔は判別不能なほどに破損しているなど、当時の感覚では衝撃的な末路であった。その痛ましい姿を見た子のアレクサンドル皇太子は改革を志向した父帝とは反対に専制政治の強化を決意し、ニコライ皇子も決意を同じくしたという。
ニコライは両親の勧めで1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行することになった。まずウィーンからギリシャへ向かい、その後は従兄弟であるギリシアのゲオルギオス王子が同行し、エジプト、インド、セイロン、シンガポール、フランス領インドシナ、オランダ領東インド、バンコク(シャム)、香港、上海と広東を歴訪した後、最後に日本を訪問した。
ニコライに斬りかかる津田三蔵
ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かった。1891年5月11日、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵がいきなりサーベルを抜いて斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた。切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため頭蓋骨に裂傷が入った。これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった。津田三蔵の犯行の動機は不明である。
電報で事件の報告を受けた明治天皇はただちにニコライ皇太子のお見舞いのため京都へ行幸し、さらに神戸を出航するニコライを見送った。5月19日に日本を発ったニコライは、5月31日にウラジヴォストークで行われたシベリア鉄道の起工式に出席した後、サンクトペテルブルクに戻っている。
明治天皇の謝罪に対し、「どこの国にも狂人はいる。いずれにしても軽傷であったので陛下が憂慮されるには及ばない」と返答したニコライであったが、この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになる。ロシア首相ウィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争(とその敗北)を招いたと分析している。
1894年初秋に父帝アレクサンドル3世が病に倒れ、11月1日に崩御した。26歳でロシア皇帝に即位したニコライ2世とアレクサンドラとの結婚式は父帝の大葬からわずか一週間後に挙行された。アレクサンドラは「私たちの結婚式は、まるで死者のためのミサの連続のように思えました。違ったのは私が黒い喪服から白いドレスに着替えたことだけです」という感想を書いている。
ホディンカの惨劇の犠牲者
1896年5月18日、モスクワのホディンカ原で、ニコライ2世の即位の式典が開催された。皇帝が贈り物のお菓子を群衆に配布しようとしたところ、集まっていた群衆が殺到し、将棋倒しになって1389名の死者が出るという惨事となった。
ロシアではその後、大惨事のことを「ホディンカ」というようになったという。その後、この原は軍の飛行場となったが、1935年にはソ連の旅客機が空中衝突して48人が死ぬという事故が起こっている。
東アジアに侵出した日本との対立から、1904~05年の日露戦争に踏み切った。ロシアの一般国民のこの戦争のとらえ方は、はじめは極東で起こった小国日本とのトラブル程度であり、ロマノフ家が勝手に起こした戦争という醒めた見方が多かった。
しかし、最終的には敗戦に至らなかったものの、旅順・大連の放棄、日本海海戦でのバルチック艦隊の敗北は大きな衝撃を与えた。特に、旅順陥落の直後にペテルブルクで労働者の請願行動を軍隊が弾圧した「血の日曜日事件」が起こり、そこでの民衆虐殺はツァーリズムに対する幻想を完全に払拭させた。
また、黒海海軍の水兵は戦艦ポチョムキンの反乱を起こして革命ののろしを上げた。こうして戦争継続は困難となったため9月に講和に応じ、翌10月にはウィッテが中心となって国会開設などを約束する十月宣言を出した。
これが第1次ロシア革命であるが、12月には労働者のゼネストを押さえ込んだツァーリ政府は、その内部危機をさらなる帝国主義政策・膨張政策によって解消しようとしてバルカン方面への進出を強め、第一次世界大戦へと突入していく。(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
1928年の大統領選挙で大統領に当選するフーヴァーは、「今日我々アメリカ人は、どの国の史上にもまだ見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利に近づいている。……我々は神の加護によって、貧困がこの国から絶滅する日を、やがて目の当たりにするであろう」と誇らしげに語った。
だがこの時代にアメリカ人の全員が豊だったわけではない。まず農民は価格の低迷に苦しみ、アメリカ農業は1920年代を通じて慢性不況の状態にあった。また国民の間の所得格差も大きく、全アメリカ世帯数の7割は当時一応生活できる収入限界といわれた年収2500ドル以下で過ごしていた。
また、1920年代の経済の繁栄とは逆に、政治では「平常への復帰」を標榜し、自由放任を重視するハーディングやクーリッジなどの共和党の大統領が続いたため、無為無策の、しかも本質的に大企業本位の政策が実施された。
一方、国民の間でも、大戦中の挙国一致の風潮が政治意識の保守化をもたらし、ロシア革命への反動も加わって、この時代「赤狩り」や東欧・南欧系移民や黒人を排斥する第2次クー=クラックス=クラン(KKK)の運動が盛んになった。
1865年に南北戦争が終わって一年もたたないころ、テネシー州プラスキーという田舎町で、戦争に敗れて故郷に帰ってきた南部同盟の若い復員兵6名は、戦争中の思い出を語りあったり、戦友どうしの交友を保つため、社交クラブをつくり、サークルを意味するギリシア語の「ククロス」とスコットランド高地人の一族を意味する「クラン」にちなんで、クー=クラックス=クランと命名した。
しかし、解放奴隷と呼ばれた黒人や、北部から流れてきたならず者で南部は混乱状態になったため、この団体は彼らの家庭や妻子を守るための自警団に成り代わった。同時に戦争で失った南部の自主権を回復しようという目的をもつ秘密結社になったのである。彼らは共和党の南部再建計画に強く反対し、白人優越主義を掲げ、白い頭巾で顔を隠し、白装束で、黒人を襲うようになった。夜間になるとまるで幽霊のような姿で現れる「クラン」を見て、迷信深い黒人たちは、南部同盟の戦死者の亡霊に違いないと信じて恐れた。
1865年に南北戦争が終わって一年もたたないころ、テネシー州プラスキーという田舎町で、戦争に敗れて故郷に帰ってきた南部同盟の若い復員兵6名は、戦争中の思い出を語りあったり、戦友どうしの交友を保つため、社交クラブをつくり、サークルを意味するギリシア語の「ククロス」とスコットランド高地人の一族を意味する「クラン」にちなんで、クー=クラックス=クランと命名した。
しかし、解放奴隷と呼ばれた黒人や、北部から流れてきたならず者で南部は混乱状態になったため、この団体は彼らの家庭や妻子を守るための自警団に成り代わった。同時に戦争で失った南部の自主権を回復しようという目的をもつ秘密結社になったのである。彼らは共和党の南部再建計画に強く反対し、白人優越主義を掲げ、白い頭巾で顔を隠し、白装束で、黒人を襲うようになった。夜間になるとまるで幽霊のような姿で現れる「クラン」を見て、迷信深い黒人たちは、南部同盟の戦死者の亡霊に違いないと信じて恐れた。
最初のKKKは1870年と71年に制定されたクラン取締法で消滅した。しかし、1915年、シモンズという教会の牧師が16人の弟子を連れて、ジョージア州アトランタ郊外のストーン=マウンテンに登り、燃え上がる十字架を「見えざる帝国」の啓示として見たと言い出した。その地はクー=クラックス=クランの再生の地とされ、火の十字架をかざすという儀式が採り入れられた。
ここにクランは白人の優越と南部の理想主義を擁護する団体として復活し、第一次世界大戦後の1920年代にシモンズは「魔術帝王」と称して組織を拡大させ、黒人やユダヤ人、非プロテスタントに対する陰惨な暴力行為をくり返して恐れられる存在となっていった。1924年には会員数450万を数え、南部から西部にかけて大きな政治勢力となったが、戦時の感情が後退する中でゆっくりと衰退していった。
サッコ(右)とヴァンゼッティ(左)
こうした世相の犠牲の代表的例が、強盗殺人の無実の罪で死刑になったイタリア系移民の無政府主義者サッコとヴァンゼッティの事件であった。
1920年4月15日、ボストンの南方のサウス・ブレイントリーで強盗殺人事件がおこり、その容疑者として製靴工場の職人ニコラ=サッコと魚の行商人バルトロメオ=ヴァンゼッティが5月5日に逮捕された。マサチューセッツ州裁判所判事ウェブスター=セイヤーは、二人が恐るべき「赤」、しかも法秩序の破壊を主張するアナーキストであるから、それだけで罰せられるに値する、という予断で裁判を進行させ、有罪を判決した。
1927年までに救済運動も展開されたが、州知事が裁判に誤りがなかった事を声明、8月23日に処刑が行われた。現在の調査では、サッコは有罪、ヴァンゼッティは無罪という説が有力である。
また、都市化に伴う農村の衰退、生活の急変化に対する不安が、ピューリタニズムの伝統と結びついて、1919年に「禁酒法」を成立させたりした。
しかし、ビールに至るまであらゆるアルコール飲料の製造・販売・流通を禁止し、国民の嗜好を法律で縛るのは本来無理なことで、抜け穴だらけの「禁酒法」は市民の間に法律軽視の風潮を生み、また酒の密売を絡んでギャング団の暗躍を盛んにした。