なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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1933年1月30日に首相に就任したヒトラーは、ただちに国会の解散と総選挙を迫った。ヒトラーはこれが最後の選挙で、結果にかかわらず政府構成を変えず、また議会主義には復帰しないと約束して、ナチ党の勝利でナチスの単独支配を懸念する保守派の反対を押し切った。
政府は、4年間で農民救済と失業一掃を実現すると約束し、「マルクス主義への攻撃」をスローガンに内戦さながらの選挙戦を展開した。ラジオ放送が大々的に利用され、左翼諸政党の集会・新聞は次々に禁止された。ゲーリングは、管下の警察に野党勢力の選挙運動を厳しく規制するよう命じ、突撃隊・鉄かぶと団を補助警察に任命してその暴力行為を合法化するなど、露骨な選挙干渉を行い、他方でクルップらドイツ経済界代表をひそかに官邸に招いて、数百万マルクの選挙資金を拠出させた。
燃え上がる国会議事堂
選挙戦終盤の2月27日夜、国会議事堂が放火されて全焼した。
現場にすぐに駆けつけたヒトラーがどんなことを言ったかを、その場にいた新聞『デイリー・エクスプレス』の特派員が翌日の紙面で伝えている。
これは、神のお導きである。私が信じるように、この火災が共産主義者の仕業であることが判明したあかつきには、恐ろしい殺人鬼を情け容赦なく鉄拳で叩き潰す障害となるものは、何一つ残されていない」
ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー首相が今夜、まだ延焼中の国会議事堂のホールでおこなったこの劇的な発言の場に、私は居合わせた。火災は、国会議事堂の議場で午後9時45分に発生した。火は5ヶ所で起こっており、放火であることは疑いの余地がない。放火犯の一人で30歳の男が、建物から走り出してきたところを警察に逮捕された。今夜のベルリンは凍えるような寒さだというのに、男はシャツもコートも着ておらず、身につけていたのは靴とズボンだけだった。火災が発生した5分後、私は国会議事堂の近くまで駆けつけ、炎が壁を走り、巨大なドームを火が包み込んでいくようすを見守っていた。建物の周囲には非常線が張られ、いっさいの人の出入りが禁じられた。20分ほど燃え上がる建物に目を奪われていると、有名な黒塗りのアドルフ=ヒトラーの専用車が、ボディガードを乗せたもう一台の車を従えて、すぐそばを通り過ぎていくのが目に入った。私はその車を追って走り、国会議事堂に入るヒトラー一行にかろうじて紛れ込むことができた。ヒトラーは、決意を秘めたようなきびしい顔をしている。そのような険しい表情のヒトラーを、わたしはこれまで見たことがなかった。ふだんから出目気味の彼の目が、顔から飛び出しそうに見えた。
内務大臣で警察機構の総元締めでもあり、ヒトラーの右腕と言われるゲーリング大尉(のち空軍最高司令官、国家上位元帥)が、ロビーで一行に合流した。彼は顔を真っ赤にして、興奮ぎみに次のように語った。「犯人は共産主義者どもに間違いありません、首相閣下。火災が発生する20分前に、何人もの共産主義者がこの建物のなかにいたことが確認されております。私どもの手で、放火犯の一人を逮捕しました」
ヒトラーは片手を突き出して、冒頭に引いた共産主義者に対する脅し文句を発した。
犯人としてオランダ人の共産主義者ファン=デア=ルッペが逮捕された。政府は事件の調査をまたずに、共産党の仕業と断定し、憲法の基本的人権停止、州権への介入を定めた大統領緊急令を発した。プロイセン州だけでも、2週間で8000名以上の共産党員が拘束された。政府はその後、ドイツにいたブルガリア共産党指導者ディミトロフら4名の共産主義者を逮捕し、ルッペとともに裁判にかけた。
ゲーリングまで証人に立った裁判でも、共産党の関与は認められず、ディミトロフらは無罪になり、ルッペのみが新法を遡及適用されて処刑された。
この事件はナチスにあまりに都合が良かったことから、当時から真犯人はナチスだと噂された。警戒厳重な国会議事堂に、一挙にこれを燃え上がらせるほどの放火の材料を、たった一人の男が持ち込んだり、それに点火したり出来るはずがない。ナチス自身が一切の準備をした後、この放火狂を入れたのではあるまいか?党首脳ゲーリングの国会議長官邸から地下道が、議事堂に通じていたと言われるなど、確証こそないが、ナチスの計画的な放火であるというのが通説となり、戦後もこの説が信じられた。
ところが、1960年代にルッペ単独犯説が西ドイツで発表された。広大な建物に一人で火をつけられるかが、単独犯への疑問となっていたが、戦後の調査では、吹き抜け構造ではそれが可能であるとの結論が出たのである。
すると、フランス人ジャーナリスト、カリックと歴史家ホーファーがナチス犯行説を示す史料集を出して反論し、激しい論争になった。その後、カリックの提出した史料の多くは偽造の疑いが濃いことがわかり、現在ではルッペ単独犯説が有力である。ナチスを憎むあまり、カリックは勇み足をおかしたらしい。
この事件がなくても、ヒトラーやナチスの行動は変わらなかったという見方で歴史家は一致しているが、ルッペの行動はナチスの急進化を早める結果になった。
すると、フランス人ジャーナリスト、カリックと歴史家ホーファーがナチス犯行説を示す史料集を出して反論し、激しい論争になった。その後、カリックの提出した史料の多くは偽造の疑いが濃いことがわかり、現在ではルッペ単独犯説が有力である。ナチスを憎むあまり、カリックは勇み足をおかしたらしい。
この事件がなくても、ヒトラーやナチスの行動は変わらなかったという見方で歴史家は一致しているが、ルッペの行動はナチスの急進化を早める結果になった。
「ポツダムの日」の写真
3月5日の総選挙の結果、総議席の約44%の288議席を獲得、保守与党をあわせてかろうじて過半数を制したが、彼らはこれを大勝利と宣伝した。
旧ドイツ帝国議会開会記念日にあたる3月21日、ポツダムの兵営教会で国会開会式が行われた。新設の宣伝省大臣ゲッペルスの初仕事になった開会式はラジオ中継され、老大統領の前に頭を垂れるヒトラー首相の姿は伝統的ドイツと新興ナチ運動の結合のシンボルとして、国民に印象づけられた。上の写真で写るいかにも謙虚なヒトラーの姿には、保守的な人々に彼を受け入れさせる効果が計算されている。
新国会に、政府は向こう4年間、憲法に反する法律も出せる立法権を政府にゆだねる全権委任法を提出した。共産党議員81名は逮捕され、社会民主党の反対のみで、3月23日、国会の自殺といわれた全権委任法は通過した。憲法そのものは続いたが、ヴァイマル共和国はここに消滅したのである。(つづく)
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ヒトラーが明確に国家権力をめざすことになるきっかけは、むしろフランスが与えた。1923年11月、フランス・ベルギー軍のルール占領とそれによって始まったインフレの進行とでドイツは動揺し、ヴァイマル共和国政府に対する左右両派からの批判が強まった。
そのような情勢を好機としたヒトラーは、当時ミュンヘンにいた第一次世界大戦のドイツ軍の大立て者ルーデンドルフ将軍に近づき、その協力を得て、1923年11月8日夜、クーデターを決行した。ベルリンに行進して権力を握るというアイデアは、前年のイタリアでムッソリーニがローマ進軍を成功させ、ファシズム政権を成立させたことを真似たものであった。
そのような情勢を好機としたヒトラーは、当時ミュンヘンにいた第一次世界大戦のドイツ軍の大立て者ルーデンドルフ将軍に近づき、その協力を得て、1923年11月8日夜、クーデターを決行した。ベルリンに行進して権力を握るというアイデアは、前年のイタリアでムッソリーニがローマ進軍を成功させ、ファシズム政権を成立させたことを真似たものであった。
判決直後に撮った写真
市民たちは一揆に対して同情的であったにもかかわらず、バイエルン官僚と軍部と警察に反対されて一揆は失敗し、翌11月9日鎮定された。ヒトラーは、一旦は南バイエルンのシュタッフェル湖畔ウフィングにあるハンフシュテングル家の別荘にのがれたが、11月11日に捕らえられた。
クーデター失敗後、ナチスはドイツでの活動を禁止され、翌1924年2~3月、ミュンヘンで裁判が開かれた。4月1日に判決が下され、ヒトラーは5年の禁固刑に処せられたが、実際には12月20日までミュンヘン西方のランツベルク要塞で、面会も文通も、同志との会合、会食も自由という形だけのものであった。
この間、ヒトラーは『わが闘争』の第一部を口述筆記し、ナチズム運動を方向付ける時期とした。ヒトラーはこの失敗から学び、偶然に左右される一揆という手段ではなく、選挙という正当な手続きで議会に多数を占め、権力を握るという路線に転換し、そのためには宣伝と行動によって大衆の心をつかむことをめざすようになった。
『わが闘争』はナチズムのバイブルとまで言われるが、短い言葉(スローガン)にしてそれを繰り返すことの重要性など、すでに論理より感情に訴えることを重視する戦略が述べられている。彼は国際資本主義とボリシェヴィズムを、「アーリヤ人を絶滅させようとするユダヤ人の世界制覇の野心」という荒唐無稽な捏造物語の二つの局面とし、これをドイツ人の「共通の敵」に仕立て上げた。
宣伝活動や選挙戦では特別エンジンをつけたメルセデスやフォッカー=ブルフ無蓋複葉飛行機で国内を駆け巡ったが、これらは近代技術とスピードのシンボルでもあり、大衆には彼が「救世主」のように見えたのであった。
宣伝活動や選挙戦では特別エンジンをつけたメルセデスやフォッカー=ブルフ無蓋複葉飛行機で国内を駆け巡ったが、これらは近代技術とスピードのシンボルでもあり、大衆には彼が「救世主」のように見えたのであった。
ゲッペルス
釈放後ヒトラーは党を再建し、自己の権威を確立するとともに全国レベルの党活動家組織をつくり上げた。上意下達の指導者原理による厳しい規律と統制を持つ組織、1930年の時点で7割が30歳代という若い党員集団、ゲッペルスらのつくり上げた新しい大衆宣伝方式、これらを武器として、20年代後半以降ナチ党は選挙という合法的戦術による政権獲得を目指した。
時あたかも既存の市民政党の勢力が衰え始めた時期であり、またほかの国粋主義的大衆組織が集合離散を繰り返して大衆の支持を得られないなか、ナチ党は徹底的な現状批判を行い、理想的な民族共同体の建設を唱えて、プロテスタント地域の農民・大学生など市民階層の若者、および中間層や労働者の一部に支持を広げていった。1926年の党員数5万は1928年には10万に達し、1932年4月には100万を数えた。
ヒンデンブルク
ドイツ共和国のヴァイマル憲法は、形の上では議院内閣制をとっており、1928年の総選挙で第一党となって社会民主党政権が成立していたが、世界恐慌が起こるとこの内閣は対応することが出来ず、総辞職した。
ヒンデンブルク大統領は、もはや議会から首相を選出することは出来ないとして、大統領緊急命令権を行使して、ブリューニングという人物を首相に任命した。
ブリューニング
ブリューニングはカトリック中央党に属していたがこの党はわずか62名の議員しかいない、第3党にすぎなかった。こうして、ヴァイマル憲法の国会の多数派が内閣を構成するという議会制民主主義は行われなくなった。しかし、このような少数派内閣は国政上機能できず、議会と対立すると解散で対抗した。
この時行われた、1930年9月の総選挙でナチ党は議席を107に伸ばし、最初の成功を収めた。ブリューニング内閣はついに安定した政権を築くことが出来ず、その後も保守派のパーペンや国防軍の黒幕として暗躍していたシュライヒャーが首相に任命されたが、彼らはいずれも共和政を終わらせ、君主政を復活させることが望みであった。しかし、いずれも短命に終わり、混乱が続いた。
1932年7月に行われた総選挙で、ナチ党が37.4%の得票率を得て230議席を獲得し、第一党に躍り出た。シュライヒャーはパーペンに無断でヒトラーと面会し、パーペン内閣に副首相として入閣することを求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求して譲らず、最終的にナチ党と政府は決裂した。
1932年11月の選挙でナチ党は第一党ながら196議席に後退し、共産党が100議席と躍進した。すでにそれ以前から、ナチ党内部でヒトラーの「すべてか無か」の方針には危惧感が生まれていた。一方、パーペンには、もはや軍を頼りにした大統領独裁の道しか残されていなかった。軍の黒幕で国防相のシュライヒャーが協力を拒否すると、大統領もお気に入りのパーペンを辞任させるしかなく、ついに黒幕がみずから表舞台に出てきた。
シュライヒャー新首相は、ナチ党議員団長シュトラッサーを抱き込み、社会民主党系の労働組合を引き入れて、大衆的軍事独裁路線を構想した。シュトラッサーは乗り気だったが、ヒトラーは頑として譲らず、シュトラッサーを徹底的に非難・罵倒した。結局、シュトラッサーは党の役職を辞することとなり、シュライヒャーのナチ党分断策は失敗した。
パーペンはこの間シュライヒャーに一泡吹かせる機会をうかがい、ヒトラー政権に逡巡する大統領の説得に成功した。1933年1月末、大統領内閣路線が破綻し、国会の出番が来た時、第一党として待機していたのはナチ党であった。保守派の陰謀は皮肉にも国会への復帰をもたらしたが、それは議会主義そのものの終焉となったのである。
1933年1月30日、ヒトラー内閣が誕生すると、首相・大統領官邸のあるヴィルヘルム通りは、ナチ突撃隊や鉄かぶと団のたいまつ行列が夜遅くまで続いた。ヒトラー内閣といっても、ナチ党員は首相のヒトラーと内相のフリック、無任所相兼プロイセン内務国家委員ゲーリンクの3名にすぎず、他の閣僚ポストは副首相のパーペン、経済相と農業食糧相を兼ね経済独裁者といわれたフーゲンベルクなど、反共和国的保守派か保守的専門家が占めた。
パーペンはヒトラー首相誕生に不安をみせる知人に、「われわれはナチスを政府に取り込んだ。私には大統領の信任があり、2カ月以内にヒトラーを追い詰めぎゅっと言わせてやる」と豪語した。保守派はナチスを「包囲し」、「飼い慣らせる」と信じていた。社会民主党も共産党も、内閣は短命に終わり、その後に自分たちの出番があると考えた。
しかし、ヒトラーとナチスは、半年もたたないうちに、一党独裁体制をほぼ作り上げることに成功するのである。(つづく)
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プラウナウに現存するヒトラーの生家
アドルフ=ヒトラーは1889年4月20日、オーストリアのプラウナウに生まれた。下級税官吏であった父アロイスはユダヤ系商人フランケンベルガーの私生児であったという説があり、これが手塚治虫の傑作漫画「アドルフに告ぐ」のベースになっている。
アドルフの青年期は挫折の連続であった。画家を志して父親と衝突したため中学を中退。13歳で父を失い、母の理解で、18歳だった1907年にウィーン美術アカデミーを受験した。一緒に受験したのは113人であった。まず2日間の構図試験に合格しなければならない。両日ともそれぞれ4つの課題から2つずつ選び、午前と午後各3時間の間に描かなければならない。課題は「楽園追放」とか「カインとアベル」といった聖書の場面である。この2日間の試験で33人が合格、ヒトラーは合格した。
合格者は次に試験の前に描いておいた自分の作品を提出して実力を検査してもらう「作品試験」を受ける。ヒトラーは自信を持って作品を提出したが、結果は不合格であった。作品試験の絵に人間の頭部を描いたものが少なかったから、と大学の記録に残っている。結局合格したのは2人だけだったから、かなり難しい試験だったといえる。大学の学長に面会を求めて落第の原因を聞いたところ、「君は建築科の方が向いているのではないか」と言われた。彼が普段から描いていた絵は事実、建物が多く、人物は少なかった。
この年の暮、母クララが47歳でこの世を去っている。
2015年6月、ヒトラーが描いた水彩画やデッサンなどが、ドイツで行われたオークションに出品された。最高値をつけたのはノイシュバンシュタイン城を描いた作品で、中国からの買い手が10万ユーロ(約1400万円)で落札した。
若き日のヒトラー
ウィーン時代は建築関係の日雇い労働者やペンキ画工・ポスター描きなどで辛うじてその日を暮らすという辛酸を舐めた。ヒトラーが鬱々とした生活を送っていたオーストリア=ハンガリー帝国の都ウィーンは、民族問題のもっとも先鋭的なところであり、当時はドイツ系の民族主義運動が台頭し、ハンガリー人やチェコ人との対立、そして経済や文化で優位なユダヤ人に対する反発が強まっていた。ドイツ民族主義、反ユダヤ主義に強く影響を受けたのもウィーンにおいてであった。
彼はオーストリア帝国の徴兵を忌避し、1913年にドイツのミュンヘンに移住する。第一次世界大戦が起きるとドイツ兵として陸軍入隊、4年間前線で戦い鉄十字章を授与された。毒ガス傷病兵として後方の野戦病院で終戦を迎えたのが30歳の時だった。
ヒトラーのドイツ労働者党党員証(後に偽造されたもの)
1920年2月、ビアホール、ホーフブロイハウスの演説で大衆を催眠にかける演説の才能に自ら気づき、運動にのめり込んでいく。そこで彼はドイツの敗戦と共産主義革命の失敗という混乱の中で、反共産主義とドイツ国家の再建という確固たる使命感を得たようだ。共産党の指導者の多くがユダヤ人であったところからヒトラーはユダヤ人に対する伝統的な反感を巧みに煽る戦術をとった。
1920年3月、この小さな政党は国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と改称し、1921年7月、ヒトラーは党の独裁権を付与された指導者(党首)となった。しかしこの頃のヒトラーは、たくさんいる極右活動家の一人、「ミュンヘンの太鼓たたき」としてしか見られていなかった。(つづく)
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1919年6月、ヴェルサイユ条約が締結され、ドイツ共和国の社会民主党政府はそれを受け入れた。右派は屈辱的な条約は押しつけられたものであると反発し盛んに宣伝した。戦争から復員したヒトラーは、1919年9月、軍司令部から与えられた任務としてミュンヘンの小さな極右の政党だったドイツ労働者党の活動を観察するために参加。彼は僅か55人目の党員だった。
1920年2月、ビアホール、ホーフブロイハウスの演説で大衆を催眠にかける演説の才能に自ら気づき、運動にのめり込んでいく。そこで彼はドイツの敗戦と共産主義革命の失敗という混乱の中で、反共産主義とドイツ国家の再建という確固たる使命感を得たようだ。共産党の指導者の多くがユダヤ人であったところからヒトラーはユダヤ人に対する伝統的な反感を巧みに煽る戦術をとった。
1920年3月、この小さな政党は国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と改称し、1921年7月、ヒトラーは党の独裁権を付与された指導者(党首)となった。しかしこの頃のヒトラーは、たくさんいる極右活動家の一人、「ミュンヘンの太鼓たたき」としてしか見られていなかった。(つづく)
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アサーニャ
一方、共和国政府の大統領アサーニャは人民戦線の強化を図り、1936年9月、社会党左派のラルゴ=カバリェロに組閣を命じ、この内閣に初めて共産党が入閣した。これは共産党員が閣僚となった世界史上最初の例である。さらにこの内閣にはアナーキストも入閣した。こうしてブルジョワ共和派から社会主義者、共産党、アナーキストを含む文字通りの人民戦線内閣となった。しかし各党派はフランコ軍・ファシストと戦う点では一致していたが、根本的な戦略では違いが大きく、複雑な対立関係があった。
11月、フランコ軍が2万の兵力で総攻撃を開始、大統領アサーニャと政府はマドリードを出てバレンシアに避難した。しかし残った市民と民兵はなおも頑強に抵抗、ドルティの率いるアナーキスト大隊が応援に駆けつけて側面からフランコ軍を攻撃したため、フランコはマドリードに入城できなかった。しかしドルティはこの戦闘で腹部に銃弾を受けて戦死した。
また、国際義勇兵にはフランスのアンドレ=マルロー、アメリカのヘミングウェー、イギリスのジョージ=オーウェルなどの著名な作家が参加し、マルローは『希望』、ヘミングウェーは『誰がために鐘は鳴る』の文学作品、オーウェルは『カタロニア賛歌』ルポルタージュ作品を残した。
フランコ軍のマドリード攻撃が手間取っている間、ドイツ・イタリアは反乱軍がブルゴスに設けた臨時政府を公認し、軍隊を義勇兵と称して送り込んだ。イギリスとフランスの政府はそれでも不干渉政策を改めず、全面的な国際義勇兵の参加を禁止する措置をとり国境監視を強めた。
フランコ軍のマドリード攻撃が手間取っている間、ドイツ・イタリアは反乱軍がブルゴスに設けた臨時政府を公認し、軍隊を義勇兵と称して送り込んだ。イギリスとフランスの政府はそれでも不干渉政策を改めず、全面的な国際義勇兵の参加を禁止する措置をとり国境監視を強めた。
マドリードの戦闘が一進一退を続ける中、各地で戦闘が広がり、1937年3月にはマドリード北方のグァダラハラでイタリア正規軍が人民戦線民兵に敗れて多数の捕虜がでたため、イタリア正規軍の介入が明るみに出て国際的な非難が高まり、ムッソリーニが激怒するという事態となった。
マドリード戦線の停滞、グァダラハラの敗北によってフランコは戦線をスペイン北部に転じた。ビルバオを中心としたバスク地方は工業先進地域で独立心が強く、人民戦線政府も認めて1936年10月に共和派・社会党・共産党が参加するバスク自治政府が成立していた。
1937年3月、反乱軍によるバスク攻撃が開始され、陸上と海上から包囲した。その上で4月26日、ドイツ空軍「コンドル軍団」にイタリア軍機が加わり3時間にわたって爆撃が実行された。攻撃機にはドイツの空軍相ゲーリングが意図した新鋭機のハインケル爆撃機、メッサーシュミット護衛戦闘機が実験的に投入された。この爆撃で市街地の25%が破壊され、70%が炎上した。人口7000の町で死者1654人、負傷者889人を出し、まもなく陥落した。このドイツ軍の無差別空爆は、多くの市民を戦争に巻き込み、国際的な非難が巻き起こった。
第一次世界大戦に敗北し、空軍の保有を禁止されたドイツは1935年に再軍備を宣言し、空軍の再建を始めた。スペインの内戦はこの空白を埋め、さらに新たに開発した軍用機や爆弾などの効果、運用方法などを試す絶好の実験場であった。あるドイツの将校は、それを「2年間の実戦経験は平時の訓練の10年分以上に役立った」と要約している。実験としてのゲルニカ爆撃は爆撃の被害を受けた一般住民の側からいえば、自分たちが集団として人体実験の対象になったということになる。自民族(人種)以外を劣等民族視するナチズムの人種主義がその背景にあった。
東京大空襲
ゲルニカ空爆は前線の敵の基地を爆撃する戦術的爆撃ではなく、後方の市街地を無差別に爆撃して一般市民に恐怖心を与えることを目的に行われた、戦略爆撃であった。このような無差別な戦略爆撃が本格的に行われた最初がゲルニカ空爆であった。そしてそれは第二次世界大戦が始まると枢軸側も連合国も盛んに行い、戦争の悲惨さと被害の拡大をもたらした。ドイツによるロンドン空爆、イギリス・アメリカ軍によるドレスデン空爆、日本軍による重慶爆撃、アメリカ軍による東京爆撃などがその例であり、その延長戦の究極にあるのが広島・長崎であった。

ピカソ
1937年、ピカソはパリ万国博覧会でスペイン館の壁画の制作に当たることになっていた。4月26日のゲルニカ爆撃を29日にロンドンのタイムス特派員スティヤ記者の記事がフランス共産党機関誌ユマニテに掲載されることによって知ったピカソは、抗議を込めて大作『ゲルニカ』を描いた。5月1日からモチーフのスケッチに入り、6月4日頃完成させた。7月12日、パリ博覧会スペイン館が開館し、その正面に展示され、多くの人の目に触れた。

ジャック白井
ファシスト連合軍は6月、バスク地方のビルバオを制圧、自治権を剥奪しバスク語を禁じた。マドリード近郊のブルネテでは7月の炎天下、ドイツの戦車に守られた反乱軍とソ連製戦車で武装した人民戦線軍という、事実上ドイツとソ連の第二次世界大戦の前哨戦となった戦いが行われ、人民戦線側が死者2万5000を出して敗れた(この時、国際義勇軍の中でただ一人の日本人とされるジャック白井が戦死した)。
北部戦線を制圧したファシスト連合軍は、1937年10月末にバルセロナに移った人民戦線政府を追って、カタルーニャ総攻撃に転じ、1938年1月からバルセロナ空爆を開始した。人民政府側は戦局を回復する最後の試みとして8月にエブロ川渡河作戦を敢行し、驚くべき粘り強さで10月までファシスト軍の進撃を食い止めた。
しかし、国際情勢は決定的にスペイン人民戦線を見殺しにした。1938年9月のミュンヘン会談でイギリス・フランスはナチス=ドイツのズデーテン割譲を承認したのである。この宥和政策によってイギリス・フランスはヒトラーと妥協することで平和を維持しようとし、それを見たスターリンはイギリス・フランスに対する不信を強めてドイツとの提携に転じた。同時にスターリンはスペイン人民戦線に対する支援を打ち切ることを決意したと思われる。北部戦線を制圧したファシスト連合軍は、1937年10月末にバルセロナに移った人民戦線政府を追って、カタルーニャ総攻撃に転じ、1938年1月からバルセロナ空爆を開始した。人民政府側は戦局を回復する最後の試みとして8月にエブロ川渡河作戦を敢行し、驚くべき粘り強さで10月までファシスト軍の進撃を食い止めた。
2,3日で全土を制圧し共和国政府を倒して軍事政権を樹立することを想定していたフランコ軍は、武装した労働者の頑強な抵抗を受け、マドリード、バルセローナ、バレンシア、マラガ、ビルバオなどの主要都市ではいずれも政府側が反乱を鎮圧した。反乱には軍隊の将校の大半と兵士の75%が荷担したが、その占領地はモロッコと、本土ではカディス、セビリア、北部地方など国土の半分近くにとどまった。
以後、スペインは共和派ブルジョワジーと労働者の政府軍民兵と、軍=ファシストにモロッコのムーア人部隊を加えた反乱軍が一進一退を繰り返す内戦状態が続くが、それは当時緊迫した世界情勢の中で、ファシズム国家と反ファシズム国家の対立と結びついて国際化し、外国軍、外国の義勇兵も加わって、「戦争」の形態へと深化していく。
フランコ軍は8月に入るとモロッコのムーア人部隊を本土に上陸させて攻勢に移り、さらにフランコはナチスのヒトラーとファシスト党のムッソリーニに心情的に近く、その両国に支援を要請、それに応えて積極的な軍事援助が行われた。ヒトラー、ムッソリーニは人民戦線をソ連=コミンテルンによる謀略と宣伝して、反共産主義の理念を戦争参加の理由としたが、実際にはスペインの鉄鉱石などの地下資源を手に入れること、またフランスとの全面戦争に備えて、特にドイツでは再軍備したばかりの軍隊が実戦訓練をする格好のチャンスだと考えたことが理由としてあげられる。特に空軍を指揮するゲーリングはそのような意図が強かった。
ヒトラーとムッソリーニは実はオーストリアに対する利害が対立しており、関係は良くなかった。しかしスペイン戦争への支援は、両国を近づける契機となった。イタリアは当時エチオピア併合を開始してイギリス・フランスから非難されていたこともあり、ドイツと協力することを得策と考えるようになっていた。そこでイタリアはオーストリアをドイツが併合することを暗に承認して、提携することとなった。それが1936年10月のベルリン=ローマ枢軸の成立である。スペイン人民戦線派民兵は、スペインのファシストと戦っただけでなく、ドイツ・イタリアのファシスト国家とも戦ったのである。
なお、隣国ポルトガルは、当時サラザールによる独裁政治体制がすでに成立しており、サラザール政権は人民戦線を敵視していたので、反乱軍に協力し、反乱軍はポルトガルを経由して内陸に攻め込むことが可能になり、またポルトガルは反乱軍の兵站基地となった。また人民戦線側の兵士がポルトガルに逃れると逮捕され、フランコ軍に送り返された。
ガルシア=ロルカ
ガルシア=ロルカは、詩集『ジプシー歌集』や劇『血の婚礼』などで知られた詩人であった。政治活動はしていなかったが、共和派を支持することを公言していた。彼はフランコ派の占領していたグラナダに出かけていって、村の祭りに参加しようとした。友人はフランコ派に属していたので、来たら捕まると言って警告したが、ロルカは出かけた。訪ねた友人はたまたま不在で、ロルカはフランコ派の「黒組」に捕らえられ、他の共和派と一緒に村の外れで自分の墓穴を掘らされ、銃殺された。1936年8月19日、ロルカ38歳であった。その死は世界中に知られ、フランコ派の残虐行為が広く非難されることになった。
ロルカの遺体はグラナダの郊外に埋葬されていると考えられてきた。殺害から73年後の2009年、ロルカと一緒に処刑された教師や闘牛士の遺族からの要請もあり、司法当局は共同墓地があると思われる場所を発掘し、遺骨を確認する方針を決定。発掘調査は約2ヵ月にわたって行われた。ところが、いくら掘っても骨1本出てこず、09年末、調査はいったん終了した。その後、改めて調査が再開されることが期待されたが、2010年12月、アンダルシア州当局はついに「これ以上、遺体の捜索は行わない」と発表した。

スターリン
1936年8月8日、フランス政府は、スペイン内戦に一切の干渉を行わず、一切の武器・軍需品をスペインに輸出しないと決定した。フランスとイギリスは以後一貫して不干渉政策をとる。フランスは不干渉政策をドイツ・イタリア・ポルトガルにも守らせることによってスペインを助けることになると判断し、国際会議を呼びかけた。この三国とも表だっては内戦不介入の顔をしていたのでフランスの提案を受け入れ、ソ連も含めて9月9日に27カ国がロンドンに集まり、不干渉委員会の国際会議が開催された。各国は原則的な不干渉に同意したが、ドイツ・イタリアは平然とそれを無視して反乱軍を支援し続けた。その論理は、不干渉は正式政府間だけの取り決めであり、政府ではない個人向けに輸出するのは問題ない、というようなものであった。逆にスペイン政府は正統な政権として外国軍の支援を受ける権利があったが、それは阻まれた。唯一、ソ連のスターリンはスペイン政府に対する軍事支援を表明した。
スペイン政府はこのようなドイツ・イタリアの反乱軍への武器貸与を国際連盟に提訴した。しかし国際連盟は、この問題は不干渉委員会にまかせるとして取り上げなかった。このようにイギリス・フランスの不干渉委員会の存在は、国際連盟が任務を放棄する口実ともされてしまった。国際連盟が取り上げたとしてもドイツ・イタリアはすでに脱退していたので効力は期待できなかった。
1936年秋になると、反乱軍の占領地域での労働者や市民に対する残虐行為が世界中に知られるようになり、イギリス・フランスの不干渉政策も人道上問題であるという世論が強まった。戦局は9月末に反乱軍がマドリードに迫り、全土の3分の2を制圧した。このころ、イギリス・フランスの不干渉政策を批判して、ソ連は積極的な共和国支援を打ち出し、ドイツ・イタリアの不干渉政策違反に対抗して武器支援を開始した。その正確な戦力は不明だが、航空機や陸上部隊が相当数地中海経由で海上から共和国政府側に提供(実際には売却)した。
なお、アメリカ合衆国も従来の外交政策であるヨーロッパの紛争に対する不介入の姿勢を守り、中立という建前を取っていたが、実際にはフランコ軍にテキサスの石油を提供していた。
フランコを助けたものはナチス・ドイツとファシスト・イタリアだけではなかった。スペイン共和国を破壊するために、アメリカ合衆国、イギリス、フランスは、ドイツ=イタリアと「協力」したといってもよい。
アメリカ合衆国は物資によってフランコを助け、イギリス・フランスは「不干渉政策」によってスペイン共和国を敗北に落とし入れたのである。
(つづく) フランコは、スペイン北西部ガリシア地方のエル・フェロルで、1892年12月4日に生まれた。本名はフランシスコ=フランコ=イ=バーモンテ。エル・フェロルは海軍基地のある町で、父も祖父も海軍の軍人であった。父や祖父と同じ海軍を志望していたが、軍縮で海軍が募集を中止したため、1907年にトレドの陸軍歩兵士官学校に入学した。
フランコが軍人として頭角を現したのはモロッコにおいてだった。スペインは北モロッコのリーフ地方の首長アブデル=クリムとのリーフ戦争で、1921年のアヌアルの戦いでの大敗などのように苦戦が続いていた。苦戦するスペイン軍の中で目立った働きをしたのが、1910年にトレドの士官学校を卒業してモロッコに配属されていたフランコだった。その作戦の巧妙さと仮借ない残虐さはフランスのモロッコ征服者リヨテ元帥も褒めたほどで、軍功によって昇進し、1926年にわずか33歳で准将となり外人部隊の指揮をとった。33歳の将官は、当時のヨーロッパでは最年少であった
フランコが軍人として頭角を現したのはモロッコにおいてだった。スペインは北モロッコのリーフ地方の首長アブデル=クリムとのリーフ戦争で、1921年のアヌアルの戦いでの大敗などのように苦戦が続いていた。苦戦するスペイン軍の中で目立った働きをしたのが、1910年にトレドの士官学校を卒業してモロッコに配属されていたフランコだった。その作戦の巧妙さと仮借ない残虐さはフランスのモロッコ征服者リヨテ元帥も褒めたほどで、軍功によって昇進し、1926年にわずか33歳で准将となり外人部隊の指揮をとった。33歳の将官は、当時のヨーロッパでは最年少であった
プリモ=デ=リベラ
内外の危機に対処して6年間続いたプリモ=デ=リベラの軍事独裁政権は,1930年世界恐慌の影響を受けて崩壊。1931年のスペイン革命で共和国政府が成立すると軍制改革が行われ、フランコが校長をしていた士官学校は閉鎖され、彼はバレンシア諸島に追いやられた。フランコは自由主義も共産主義者もフリーメーソンに動かされていると信じて同一視し、共和国政府への反感を募らせた。
アサーニャ内閣が倒れ、右派内閣が成立してファシストが復活するとフランコも将軍として中枢にもどり、1934年に左派労働者がアストゥリアスで蜂起すると、モロッコのムーア人部隊を投入することを提案して、それによって蜂起を鎮圧するのに成功した。次いでフランコは軍最高位の参謀総長に任命された。
アサーニャ
1936年2月、人民戦線が選挙に勝利して共産党を含む人民戦線内閣が成立すると、フランコは戒厳令を主張したが政府に拒否され、次いでアサーニャ大統領から参謀総長の地位を解任されて離島のカナリア諸島守備隊長に左遷された。任地に赴任する前、右派の将軍たちと謀議を重ね、政府打倒のクーデタ計画を練った上で任地に赴いた。
1936年7月17日、軍部クーデタが宣言されると、フランコはカナリア諸島からモロッコに入り、挙兵して全土に反乱の声明文を放送した。スペインでよく見られた軍による蜂起宣言(プロヌンシアミエント)を発したのである。ただし、フランコは最初から反乱軍の中心だったわけではなく、当初はモラ将軍やラジオ将軍として知られたラジオ出演が大好きなデ=リャーノらに後れを取っていた。しかし、フランコがドイツ・イタリアの援助を得るのにパイプとなったことから反乱軍の主導権を獲得、両国から援助された船舶でモロッコの現地部隊を本土に移送することに成功して反乱軍が全土の半分を制圧するに至った。
1936年100月1日に一種のクーデタで勝手に「国家元首」を名乗り、陸海空の三軍を指揮する「大元帥」となり、ヒトラーの総統(フューラー)を真似てカウディーリョ(統領)と呼ぶことを決めた。この時43歳だったフランコは、ヒトラーやムッソリーニと異なり、自力で独裁者となったのではなく、軍人としての地位を高め、推されて独裁者となった感が強く、またその国家観もプリモ=デ=リベラや隣国ポルトガルで1932年に成立したサラザール独裁政権を手本とする反共産主義国家を標榜するだけであった。
スペイン戦争が始まると、フランコ軍はほぼ全土の西半分を制圧したが、数ヶ月で全土を支配するという当初のもくろみは、ソ連軍の支援を受けた政府軍と国際義勇兵の抵抗によって崩れた。特にマドリード攻略には手こずり、1937年3月にはグァダラハラの戦いで大敗した。そのためフランコは攻撃目標をスペイン北部のバスク地方などに転じ、ドイツ軍に要請してゲルニカなどを空爆、さらに陸上部隊で侵攻し、バスク地方を制圧した。
政府軍はイギリス・フランスの不干渉政策によって不利な戦いを強いられ、ソ連の支援は人民戦線内部の亀裂の要因となって効果があらわれず、次第に追い詰められていった。1938年夏、エブロ川での政府軍の反撃を撃破し、1939年1月にバルセロナを陥落させ、3月28日にマドリードに入城してスペイン戦争を終わらせた。1938年4月1日、フランコは勝利を宣言した。
戦争を有利に進める中、独裁者としての支持基盤を確立するため、1937年4月、それまでの右派政党であるファランヘ党や王党派を統合して「統一ファランヘ党」を作り上げ、唯一の公認政党として総統を支える組織に仕立てた。またカトリックを復権させ、教会を国家の一つの柱とするカトリック国家への復帰を謳った。ファランヘ党は党員を拡大し、約百万に達した。
フランコ
独裁権力を獲得し、内戦を終結させたフランコは、国際的にはドイツ・イタリアのベルリン=ローマ枢軸との防共同盟などの関係を強め、国際連盟を脱退した。しかし、1939年9月、第二次世界大戦が始まるとフランコはスペインの中立を宣言した。これはスペインが内戦で疲弊したため、対外戦争を行う余裕がなくなっていたことが第一の理由であるが、実際には有利な時期に参戦して分け前を得るチャンスを狙っていたのであった。事実、フランスがドイツに占領されると、フランス領モロッコを狙い、自由港とされていたタンジールを占領している。イギリス、アメリカはスペインに中立を守らせるため、さまざまな工作をした。
1940年10月、フランコはヒトラーと会談したが、参戦の見返りとしてアフリカ植民地の拡大という要求を出したため、ヒトラーが躊躇して実現しなかった。スペイン国内ではファランヘ党が参戦を主張し、1941年6月、ドイツがソ連に侵攻すると「青い旅団」と呼ばれる義勇兵1万8000を派遣、レニングラードなどでソ連軍と戦っている。しかし、ドイツ・イタリア枢軸の敗北が濃厚になると、フランコは中立を再宣言し、イギリス・アメリカへの接近を図った。このようにフランコは巧妙に正式な参戦を回避しながら、勝利の分け前にあずかるろうとしたのであった。
フアン=カルロス1世
フランコは1947年には終身統領の地位につき、いわゆるフランコ体制の独裁を続けた。彼が掲げたのは、反共産主義であり、また民主主義を否定して国民の自由な言論を抑圧し続けた。1969年、フランコは亡命先のイタリアで死去した前国王アルフォンソ13世の孫・バルセロナ伯の長男であるフアン=カルロスを自らの後継者に指名した。以降は心身の衰えを自覚するようになり、1975年に82歳で没した。
2018年8月、スペインのサンチェス首相は、「戦没者の谷」からフランコの墓を撤去することを表明した。「戦没者の谷」はマドリードの北西50kmにあり、1959年、当時独裁権力をふるっていたフランコ総統の命令で、スペイン内戦の犠牲者3万人が埋葬され、その中央に高さ150mの巨大な十字架が立ち、フランコ自身が巨大な兵士像などに守られながら眠っていた。
しかし、一般市民は独裁者の眠る墓地には参拝することを拒み、内戦の反政府側として戦死した遺族からも批判の声が起こっていた。左派政権として登場したサンチェス首相はそれらを踏まえ、この施設からフランコの遺骸を移す方針を固めたのだ。それに対して世論調査では移設賛成は41%、反対が39%で世論は割れた。独裁政治の過去と決別することをめざす首相を支持する声がやゝ多かったが、現在もフランコを偉大な指導者として信奉する人々は移設に強く反対した。
しかし、一般市民は独裁者の眠る墓地には参拝することを拒み、内戦の反政府側として戦死した遺族からも批判の声が起こっていた。左派政権として登場したサンチェス首相はそれらを踏まえ、この施設からフランコの遺骸を移す方針を固めたのだ。それに対して世論調査では移設賛成は41%、反対が39%で世論は割れた。独裁政治の過去と決別することをめざす首相を支持する声がやゝ多かったが、現在もフランコを偉大な指導者として信奉する人々は移設に強く反対した。

2019年10月、フランコの遺体が共同墓地から掘りだされ、別な墓地に移葬された。「戦没者の谷」の棺の掘り起こしの場は、スペインの司法相や科学捜査の専門家、神父、フランコ総統の子孫22人が立ち会った。その後霊柩車とヘリコプターで妻の眠るエルパルドの墓地に運ばれ、埋葬された。スペイン政府と遺族の間では1年にわたり法廷闘争が続いたが決着し、政府が6万3000ユーロ(約760万円)の移設費を負担した。
それまで総統の命日に当たる11月20日に墓前で集会を行ってフランコ時代を懐かしんでいた右派も移設反対を訴えていたが、いずれも却下された。左派のサンチェス政権はこれで公約の一つを果たしたことになる。
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1938年にはナチス=ドイツのズデーテン地方割譲要求についてのミュンヘン会談に参加し、英仏の宥和政策を目の当たりにしてドイツとの提携を深めた。会談後わずか6ヶ月でヒトラーがチェコスロヴァキアを占領分割すると、ムッソリーニはかねて狙っていたアルバニア併合を強行した。しかしこのドイツ・イタリアの行動は、イギリス・フランスを宥和政策から転換させることとなった。
ポーランド侵攻
1939年9月、ナチス=ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ムッソリーニは当初は「非交戦国」を宣言し中立の立場をとった。しかし、1940年5月、ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵攻、イギリス軍がダンケルクから撤退するという急転回となり、ナチス=ドイツの優勢が明らかになると、1940年6月10日にイギリス・フランスに宣戦布告し参戦した。
シチリアに上陸したイギリス軍と破壊された市街地
しかし、北アフリカ戦線などでイタリア軍は次々と敗北すると、国内ではムッソリーニ独裁に反発する動きが強まっていった。1943年7月9日に連合軍がシチリアに上陸すると、イタリア軍はほとんど抵抗できず、連合軍はローマに迫った。
7月19日、ローマは大空襲をうけ、人心の動揺はいちじるしい。こうした情勢をまえに、すでにファシスト党内にも強まっていた反ムッソリーニの動きが活発となった。舞台は党の最高指導機関のファシスト大評議会である。それは7月24日午後5時頃、ローマのヴェネツィア宮殿で開かれ、ムッソリーニたち29名が出席した。出席者の中にはピストルや手榴弾を忍ばせている者もあった。
ムッソリーニは妻ラケーレから陰謀について注意されても、平気で警戒していなかった。そして会議では、自分の独裁下になおもドイツ軍とともに戦うことを主張した。しかし、反対派の中心グランディは、ムッソリーニがヒトラーと結んで国民を苦しめたことを非難し、またその独裁に反対、国王が軍の統帥権を握ることを要求して譲らない。激論10時間、健康を害していたムッソリーニは疲労し、気力を失ってゆくようだった。
ついにグランディの提案が採択され、その結果は賛成19、反対7、棄権および無効1であった。ムッソリーニは書類を集めて立ち上がる。党書記長が慣例通り、「総統に敬礼!」と言った時、その統領は腹立たしげに遮った。「もうそれには及ばんよ」。25日午前2時40分頃であった。
ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世
その25日は暑い日曜日だった。夕方、ムッソリーニは国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世の支持を期待しつつ、前夜のことを報告するため、王宮に車を走らせた。妻や側近はあの19人の逮捕を勧め、王宮に行くことを止めたが、ムッソリーニは漠然とした自信に頼りすぎ、また果断にことを処する気魄に欠けているようだった。
結果は果たして凶である。午後5時頃、統領を迎えた国王は言った。「もはやどうにもならぬ。イタリアは破滅した。いま貴下はイタリアで最も憎まれている」。そして国王はムッソリーニを首相から解任した。
しかも、陰謀が巡らされていたのである。王宮を出たムッソリーニは無理やり救急車に乗せられ、彼は保護されるものと信じていたが、実はそのまま逮捕されてしまったのだ。
その夜、ラジオは首相が交代し、後継者がバドリオ元帥であることを国民に告げる。かつて統領に歓呼したローマの民衆が街頭に飛び出し、歌い、抱き合い、街角の数々のムッソリーニの写真を引き裂いたり、ペンキで塗りつぶしたりしていた。
1943年9月8日イタリアの降伏発表。アペニン山脈中最高のグラン・サッソに近い山荘で、囚われの身のムッソリーニはこれを知った。
バドリオ内閣は有利な条件で講和しようと時間を稼ぐ間に、ドイツ軍は一挙にイタリアに展開してローマを占領。1943年9月12日午後、幽閉されていたムッソリーニはドイツのグライダー部隊によって救出され、北部のガルダ湖畔で独立政権を樹立した。これをサロ共和国といい、南部のプリンディシに移ったイタリア王国に対抗することになった。
しかし、ムッソリーニは傀儡でしかなく、しかも病気が進行し、実権はドイツ軍が握っていた。彼が自分を裏切った娘婿チアーノを死刑にしたのも、ヒトラーの信頼を回復するためと思われるが、それも効果はなかった。
60歳をこえたムッソリーニは、かつての「皇帝」のような風貌はさらになく、胃痛に苦しみ、意気消沈、「墓場の淵にいる」ようであり、彼の放送を聞く人々は、替玉かと思うほどの衰え方であった。このムッソリーニの慰みは情婦のクララ=ペタッチであり、妻ラケーレとの諍いは絶えなかったが、彼はペタッチなしではおれなかった。
北イタリア各地ではファシスト政権時代に獄中にあった共産党員が解放され、パルチザン闘争を開始、激しいイタリア解放の戦いを展開した。1945年4月中頃からムッソリーニは逃避行を始め、スイスへ亡命しようとしたが果たせず、4月27日午後3時頃コモ湖畔でパルティザンに捕らえられた。
この時、すべての人々に見捨てられたムッソリーニのもとへ、自らすすんで赴いたのがペタッチである。そして、28日の夕方、二人は射殺された。
29日朝、二人の死体はミラノのある広場に運ばれ、群衆はこれを蹴り、踏みつけ、唾を吐きかけた。一人の女は銃弾を撃ち込んだ。「5発よ、殺された5人の息子のために」。
さらに二人の死体は焼け跡の鉄骨に逆さ吊りにされた。
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29日朝、二人の死体はミラノのある広場に運ばれ、群衆はこれを蹴り、踏みつけ、唾を吐きかけた。一人の女は銃弾を撃ち込んだ。「5発よ、殺された5人の息子のために」。
さらに二人の死体は焼け跡の鉄骨に逆さ吊りにされた。
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ムッソリーニははじめは表面的には憲法を遵守する姿勢を見せ、また他の政党からも閣僚を任命して連立内閣という形態として非難をかわしていたが、1923年には選挙法を改正し次第に独裁体制を強めていった。
この選挙法は、選挙で最多得票し、かつそれが全投票数の4分の1以上であった政党に、自動的に議会の総議席の3分の2を与える、というものであった。この選挙法は、従来の比例代表制によって社会党議員の当選が多くなったと考えていたジョリッティやオルランドら自由主義の政治家の賛成も得て成立した。
1924年4月にこの新選挙法での選挙が野党候補に対するファシストの暴力も公然と行われる中で実施され、その結果ファシスト党は66%を獲得し、自動的に議会の3分の2の議席を手に入れた。社会党、共産党、人民党(カトリック政党)は一桁台にとどまった。
この選挙法は、選挙で最多得票し、かつそれが全投票数の4分の1以上であった政党に、自動的に議会の総議席の3分の2を与える、というものであった。この選挙法は、従来の比例代表制によって社会党議員の当選が多くなったと考えていたジョリッティやオルランドら自由主義の政治家の賛成も得て成立した。
1924年4月にこの新選挙法での選挙が野党候補に対するファシストの暴力も公然と行われる中で実施され、その結果ファシスト党は66%を獲得し、自動的に議会の3分の2の議席を手に入れた。社会党、共産党、人民党(カトリック政党)は一桁台にとどまった。
1924年6月、ファシストによる暴力的な選挙干渉があったことを議会で告発した社会党のマッテオッティという議員が、ファシスト党員によって暗殺されるという事件が起こった。マスコミもムッソリーニが直接関与していた証拠を示して糾弾した。自由派の議員もムッソリーニ非難を強め、総辞職もやむを得ない状況となった。ムッソリーニも関与を否定するとファシスト襲撃隊の献身的支持を失う恐れがあるので、窮地に陥った。
ファシスト襲撃隊の幹部は議会を解散して独裁制を敷け、さもなくば暴動をおこすと最後通牒をつきつけると、ムッソリーニは1925年1月3日に議会に出て演説し、「告訴するならせよ、ファシズムに罪があるならそれは私の責任である」と開き直って独裁制宣言を行った。それに対して国王も議会も沈黙し、ムッソリーニは危機を脱した。この1925年の1月3日がイタリアの議会制度が実質的に消滅した日となったといわれている。
ファシスト襲撃隊の幹部は議会を解散して独裁制を敷け、さもなくば暴動をおこすと最後通牒をつきつけると、ムッソリーニは1925年1月3日に議会に出て演説し、「告訴するならせよ、ファシズムに罪があるならそれは私の責任である」と開き直って独裁制宣言を行った。それに対して国王も議会も沈黙し、ムッソリーニは危機を脱した。この1925年の1月3日がイタリアの議会制度が実質的に消滅した日となったといわれている。
1926年までに反対する議員や官吏を徐々に辞任に追い込みながら、ムッソリーニ暗殺事件が相次いだことを理由に、すべての野党が廃止され、いかなる野党を創設することも禁止されてファシスト党一党独裁制が成立した。この年、イタリア共産党指導者のグラムシらも逮捕された。
ドゥーチェ(統領)となったムッソリーニは、政府では首相のほかに内相・外相および陸・海・空軍の大臣を兼任、独裁者と化した。こうなると本人の意思とは関係なく神格化する動きが始まった。ムッソリーニの愛人マルゲリータ=サルファッティはムッソリーニの伝記を書き、彼を古代ローマの司令官ダックスの再臨であると持ち上げた。
1930年代には、この「ドゥーチェ信仰」が最高潮に達する。ムッソリーニの命令調の警句がいたる所にペンキで書かれた――いわく、「信じるべし、従うべし、戦うべし」、「危険な生き方をせよ」あるいは、「羊として100年生きるよりも、ライオンとして一日生きる方がよい」と。それらの警句に並んで、「ムッソリーニはつねに正しい」といったようなスローガンも、いたる所で見られた。ジャーナリストたちは、ムッソリーニの行動と演説を賛美する記事を書くことを強制され、ムッソリーニに対する拍手は、かならず「いつ果てるとも知れぬ」、「熱狂的な」、「万雷の」拍手と書かなければならなかった。
ファシスト党の書記長をつとめたアキッレ=スタラーチェという人物は、頭はよくないが党には忠実な男だった。この人物の「ドゥーチェ信仰」は異常と思われるほどで、「ファシスト党の幹部は、ドゥーチェと電話で話すとき、直立不動の姿勢をとらなければならない」という規則を作った。
ムッソリーニは1924年にフィウメを併合し、1926年にはアルバニア保護国化などを実現して権威を高め、勢力を拡大した。
1929年2月にはローマ教皇とラテラノ条約を締結し、イタリア王国が1870年にローマ教皇庁から奪ったいわゆるローマ教皇領に対しては賠償金9億4000万ドルを支払ってイタリア領であることを確定し、ローマ市内のサン=ピエトロ大聖堂のある地域を、ローマ教皇を元首とするヴァチカン市国として独立させることを認めた。これにより80年間続いたカトリック教会との関係断絶に終止符を打った。
教皇ピウス11世は、気前のよい財政支援を与えた彼を「神の恩寵で遣わされた人物」と讃えた。
1929年の世界恐慌によってイタリア経済も大きな打撃を受けた。ムッソリーニは国民の目をそらそうとし、1934年には第2回のワールドカップをイタリアで開催。イタリア代表は見事に優勝をはたし、サッカー人気に便乗してムッソリーニの人気を高めた。
その影響を受けて、1936年にはヒトラーがベルリン=オリンピックを開催した。この両者はスポーツの政治利用でも共通していたといえる。
その影響を受けて、1936年にはヒトラーがベルリン=オリンピックを開催した。この両者はスポーツの政治利用でも共通していたといえる。
ちなみに、1938年の第3回フランス大会の時に、ムッソリーニは決勝前にポッツォ監督に対して「負ければ死あるのみ」との電報を打った。幸運なことにイタリアは優勝を飾り、ポッツォ監督は史上初めてW杯連覇を成し遂げた指揮官となった。
出征するイタリア陸軍兵
1935年、ムッソリーニはエチオピア併合(エチオピア戦争)を強行した。イタリアはすでに19世紀末ごろからエチオピア侵略をめざしていたが、逆に1896年3月1日アドワで大敗、汚名を世界にはせていた。
この恨みを晴らすためにも、植民地を得て大イタリアを築くうえにも、ムッソリーニ政権はアフリカに残されたこの黒人独立国に対して野心を新たにした。
この恨みを晴らすためにも、植民地を得て大イタリアを築くうえにも、ムッソリーニ政権はアフリカに残されたこの黒人独立国に対して野心を新たにした。
1934年12月、エチオピアとイタリア領ソマリランドの国境で紛争が起こると、イタリアは国際連盟の調停をきかず、翌年雨季が明けるのを待って10月3日本格的な攻撃を開始した。
このイタリアの侵略に対して、国際連盟は経済制裁を課した。しかし、連盟の中心である英仏はあえて対イタリア戦争を賭するつもりはなく、イタリアが戦争遂行上不可欠としていた重要軍需物資である石油は、輸出禁止品目から除かれた。
このイタリアの侵略に対して、国際連盟は経済制裁を課した。しかし、連盟の中心である英仏はあえて対イタリア戦争を賭するつもりはなく、イタリアが戦争遂行上不可欠としていた重要軍需物資である石油は、輸出禁止品目から除かれた。
こうして経済制裁も効果が上がらぬうちに、イタリア軍は毒ガスまで使用して、1936年5月5日エチオピアの首都アディス・アベバを占領、9日午後10時半ムッソリーニはローマのヴェネツィア宮殿のバルコニーから、誇らかにエチオピア併合を宣言した。
この時こそが、恐らく彼の得意の絶頂であったであろう。(つづく)
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この時こそが、恐らく彼の得意の絶頂であったであろう。(つづく)
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1905年に帰国したムッソリーニは教員を勤める一方、1908年頃から社会主義の政治運動に参加したが、彼の理論は正統マルクス主義とはほど遠く、フランスのサンディカリズムやニーチェの超人思想の影響を受けたとはいえ浅薄なものであった。しかし生来の雄弁で人心をとらえ、1912年には社会党の機関紙『アヴァンティ(前進)』の編集長となった。
第一次世界大戦の勃発で、社会党は中立を唱えたが、彼は『アヴァンティ』紙上で参戦論を唱えたため除名された。第一次世界大戦中は短期間従軍し、その後はミラノで自ら新聞「イル=ポポロ=ディタリア」を刊行、さらに1919年3月同志たち200名足らずと、新しい運動組織「イタリア戦闘ファッショ」をミラノで結成した。「ファッショ」とは「束」とか「一団」の意味で、古代ローマの独裁官に由来する名称である。
その主張は、上院を廃止し労働者による立法権のある評議会を創設し、戦時利益を没収して農民に土地を分配するという労働者・農民寄りのものであった。一部のナショナリスト(国家主義者)、サンディカリスト(労働組合主義者)が参加したが、彼らは「戦争を信仰し議会制自由主義を憎む」点では共通していたが、その主張はイタリア社会党との違いがはっきりせず、民衆の支持を得ることはなかったので、1919年11月の総選挙では惨敗した。
第一次世界大戦の勃発で、社会党は中立を唱えたが、彼は『アヴァンティ』紙上で参戦論を唱えたため除名された。第一次世界大戦中は短期間従軍し、その後はミラノで自ら新聞「イル=ポポロ=ディタリア」を刊行、さらに1919年3月同志たち200名足らずと、新しい運動組織「イタリア戦闘ファッショ」をミラノで結成した。「ファッショ」とは「束」とか「一団」の意味で、古代ローマの独裁官に由来する名称である。
その主張は、上院を廃止し労働者による立法権のある評議会を創設し、戦時利益を没収して農民に土地を分配するという労働者・農民寄りのものであった。一部のナショナリスト(国家主義者)、サンディカリスト(労働組合主義者)が参加したが、彼らは「戦争を信仰し議会制自由主義を憎む」点では共通していたが、その主張はイタリア社会党との違いがはっきりせず、民衆の支持を得ることはなかったので、1919年11月の総選挙では惨敗した。
第一次世界大戦で英仏側に戦勝国となったイタリアは、「講和では敗戦国」と言われた。ヴェルサイユ条約では、イタリアが期待していた領土獲得は果たされず、国民の不満は強かったのである。また財政難、産業の不振、失業者の増大、生活必需品の欠乏、あいつぐストライキのうちに左翼勢力が増大してきた。
こうした情勢下に、1920年にムッソリーニは綱領から社会主義的な表現を一掃し、愛国心・戦争礼賛・偉大な国家イタリア、といった情緒的な表現を強め、反議会主義、反社会主義を鮮明にした。ムッソリーニの情緒的主張は、1919年から20年にかけて盛り上がった社会主義者によるストライキで工場占拠などが相次いだことに強い不安を抱いていたブルジョワ保守層の注目を集めることとなった。
1920年末頃から、北イタリア各地に復員兵などによって「襲撃隊」と呼ばれる民兵組織が作られ、社会主義者に対する暴力的な敵対行為が開始されると、ムッソリーニは襲撃隊を傘下に収め、ファシスト運動を政党化し、1921年10月に「全国ファシスト党」と改称、再組織した。
1920年末頃から、北イタリア各地に復員兵などによって「襲撃隊」と呼ばれる民兵組織が作られ、社会主義者に対する暴力的な敵対行為が開始されると、ムッソリーニは襲撃隊を傘下に収め、ファシスト運動を政党化し、1921年10月に「全国ファシスト党」と改称、再組織した。
ファシスト党員は約31万人に達し、制服は黒シャツ、党首ムッソリーニは「ドゥーチェ」(統領)と呼ばれ、古代ローマ流に右手を伸ばして敬礼しあった。共産主義を恐れるイタリアの支配階層や大資本は、「赤に対するチャンピオン」としてムッソリーニを支持、援助し、警察もファシストの行動に協力的でこそあれ、阻止的ではなかった。一方、社会党、共産党など、左翼勢力の不統一や対立が反ファシズム統一戦線の足なみを乱していた。
こうした中、1922年のメーデー、および8月の2回にわたって行われたゼネストに際し、ファシストの義勇兵は政府に代わってこれを鎮定し、ファシストへの声望はますます高まった。
こうした中、1922年のメーデー、および8月の2回にわたって行われたゼネストに際し、ファシストの義勇兵は政府に代わってこれを鎮定し、ファシストへの声望はますます高まった。
ローマ進軍
1922年10月24日、ナポリでファシスト党大会が開催され、4万人のファシストたちがローマへの進軍を行い、国王により強力な政府を樹立することを要求することを決議した。当時ムッソリーニは自由主義政府に対してはファシストの行動と反政府的要求は遺憾であると弁明し、政権に加わったなら、かならずファシストの統制に全力を挙げることを約束していた。一方、ファシストに対しては、政権を奪取したならば、自由主義を撲滅し、強力な政府を樹立すると弁明していた。
10月27日、若干の都市でファシストの蜂起があり、翌28日朝のうちから、古代以来のアッピア街道や近代的なコンクリートの道を踏みしめて、ローマをめざす彼らの行進が始まった。三隊に分かれた若いファシスト党員たちは、黒シャツに身を包み、粗末な銃を手に、隊列を組むことも忘れて、土砂降りの雨の中をローマ市内に集結し、ローマ市内の数箇所の郵便局、警察署、公共の建物を占拠した。
ムッソリーニはこれらのファシストたちの行動を、遠く離れたミラノから見守っていた。いざという時には、近くのスイス国境を越えればよかったからである。おそらくムッソリーニは、その賭けには勝ち目はほとんどない、と思っていた。
10月27日、若干の都市でファシストの蜂起があり、翌28日朝のうちから、古代以来のアッピア街道や近代的なコンクリートの道を踏みしめて、ローマをめざす彼らの行進が始まった。三隊に分かれた若いファシスト党員たちは、黒シャツに身を包み、粗末な銃を手に、隊列を組むことも忘れて、土砂降りの雨の中をローマ市内に集結し、ローマ市内の数箇所の郵便局、警察署、公共の建物を占拠した。
ムッソリーニはこれらのファシストたちの行動を、遠く離れたミラノから見守っていた。いざという時には、近くのスイス国境を越えればよかったからである。おそらくムッソリーニは、その賭けには勝ち目はほとんどない、と思っていた。
ファシストがローマを占領すると、政府は戒厳令を敷いてファシストの反乱を鎮圧しようとした。しかし、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世はそれを許さず、軍が反乱者たちを解散させるために銃を使用することを許可する勅令に、署名することを拒絶。ファクタ首相は辞職し、組閣の大命はムッソリーニに下った。
その頃、軍隊の出動を恐れて亡命の用意もしていたと言われるムッソリーニは、ミラノの事務所にいて興奮のあまりヒステリーに近いありさま、そして絶えず電話で情報を得ていた。ついに待望の電話!しかし、彼はそれが文字になることを望み、その電報が来た時、10月29日夜、意気揚々と寝台車でミラノを出発した。
翌朝ローマに着くとすぐ、ムッソリーニは国王の馬r九に迎えられて宮殿に赴いた。黒シャツでゲートルをつけ、山高帽の彼は国王の手を握りながら、臆面もなく誇らしげに言ったという。「陛下、奇妙な服装をお許しください。私は戦場からまいりました。」
こうして、当時39歳のムッソリーニがイタリア史上最年少の首相となったのである。(つづく)
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その頃、軍隊の出動を恐れて亡命の用意もしていたと言われるムッソリーニは、ミラノの事務所にいて興奮のあまりヒステリーに近いありさま、そして絶えず電話で情報を得ていた。ついに待望の電話!しかし、彼はそれが文字になることを望み、その電報が来た時、10月29日夜、意気揚々と寝台車でミラノを出発した。
翌朝ローマに着くとすぐ、ムッソリーニは国王の馬r九に迎えられて宮殿に赴いた。黒シャツでゲートルをつけ、山高帽の彼は国王の手を握りながら、臆面もなく誇らしげに言ったという。「陛下、奇妙な服装をお許しください。私は戦場からまいりました。」
こうして、当時39歳のムッソリーニがイタリア史上最年少の首相となったのである。(つづく)
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