なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
カテゴリ
最新記事
fc2カウンター
月別アーカイブ
- 2023/10 (1)
- 2023/09 (13)
- 2023/08 (13)
- 2023/07 (8)
- 2023/06 (9)
- 2023/05 (9)
- 2023/04 (8)
- 2023/03 (9)
- 2023/02 (8)
- 2023/01 (9)
- 2022/12 (9)
- 2022/11 (9)
- 2022/10 (8)
- 2022/09 (9)
- 2022/08 (9)
- 2022/07 (9)
- 2022/06 (8)
- 2022/05 (10)
- 2022/04 (9)
- 2022/03 (9)
- 2022/02 (8)
- 2022/01 (8)
- 2021/12 (9)
- 2021/11 (9)
- 2021/10 (9)
- 2021/09 (8)
- 2021/08 (9)
- 2021/07 (9)
- 2021/06 (9)
- 2021/05 (8)
- 2021/04 (9)
- 2021/03 (9)
- 2021/02 (8)
- 2021/01 (9)
- 2020/12 (9)
- 2020/11 (8)
- 2020/10 (9)
- 2020/09 (9)
- 2020/08 (8)
- 2020/07 (9)
- 2020/06 (9)
- 2020/05 (9)
- 2020/04 (8)
- 2020/03 (9)
- 2020/02 (9)
- 2020/01 (9)
- 2019/12 (9)
- 2019/11 (8)
- 2019/10 (9)
- 2019/09 (9)
- 2019/08 (7)
- 2019/07 (9)
- 2019/06 (9)
- 2019/05 (9)
- 2019/04 (8)
- 2019/03 (9)
- 2019/02 (8)
- 2019/01 (10)
- 2018/12 (9)
- 2018/11 (10)
- 2018/10 (10)
- 2018/09 (5)
- 2018/08 (4)
- 2018/07 (5)
- 2018/06 (6)
- 2018/05 (2)
- 2018/04 (5)
- 2018/03 (3)
- 2018/02 (3)
- 2018/01 (4)
- 2017/12 (4)
- 2017/11 (3)
- 2017/10 (3)
- 2017/09 (3)
- 2017/08 (1)
- 2017/07 (1)
- 2017/06 (2)
- 2017/05 (1)
- 2017/04 (3)
- 2017/03 (1)
- 2017/02 (2)
- 2017/01 (4)
- 2016/12 (2)
- 2016/11 (1)
- 2016/10 (2)
- 2016/09 (2)
- 2016/08 (2)
- 2016/07 (1)
- 2016/06 (2)
- 2016/05 (5)
- 2016/04 (1)
- 2016/03 (1)
- 2015/11 (1)
- 2015/09 (1)
- 2015/08 (2)
- 2015/07 (1)
- 2015/06 (2)
- 2015/05 (2)
- 2015/04 (1)
- 2015/03 (2)
- 2015/02 (1)
- 2015/01 (3)
- 2014/12 (4)
- 2014/11 (4)
- 2014/10 (4)
- 2014/09 (5)
- 2014/08 (8)
- 2014/07 (6)
- 2014/06 (2)
- 2014/05 (6)
- 2014/04 (3)
- 2014/03 (10)
- 2014/02 (5)
- 2014/01 (15)
- 2013/12 (11)
- 2013/11 (23)
- 2013/10 (16)
最新トラックバック
最新コメント
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム
QRコード

八路軍時代の鄧小平(1938年)
鄧小平は1904年8月21日に四川省広安県に裕福な地主の家に生まれたが、洪秀全や孫文と同じく、客家の出身といわれている。ちなみに16歳で故郷を出たあと、死ぬまで一度も帰郷することはなかった。
1920年、16歳でフランス「勤工倹学」(働きながら学ぶこと)に参加し、パリなどで苦学しながら中国共産党に入党した。同じころ勤工倹学でフランスに渡り共産党の活動を始めた先輩が周恩来であった。1926年にはモスクワを経由し、1927年に中国に戻ると、国民党による激しい弾圧が始まっており、広西地方でゲリラ戦を指導することとなった。長征中の1935年、遵義会議では毛沢東を支持、それ以後共産党の中枢として、抗日戦争、国共内戦を戦い、特に八路軍の副指揮官としての活躍は広く知られた。1949年の中華人民共和国建国後は国務院副総理や党の総書記を務め、党の実務面で毛沢東を支えた。
毛沢東とフルシチョフ
身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「鄧矮子(チビの鄧)」と呼ばれたりもした。毛沢東からも目置かれており、毛は鄧小平を評して「綿中に針を蔵す」、つまりあたりや柔らかいがシンには鋭いものをもっているといっている。
また1957年に鄧小平らを率いてソ連に行き、フルシチョフにあったとき、鄧小平を「あのチビを甘く見てはいけませんぞ。彼は蔣介石の精鋭百万をやっつけたのです」と紹介したという。
また1957年に鄧小平らを率いてソ連に行き、フルシチョフにあったとき、鄧小平を「あのチビを甘く見てはいけませんぞ。彼は蔣介石の精鋭百万をやっつけたのです」と紹介したという。
鄧小平と劉少奇
しかし、1958年からの「大躍進」運動の総括をめぐって対立が始まり、批判が強まることを警戒心した毛沢東が文化大革命を開始すると、劉少奇と共に資本主義への道を歩む走資派、実権派として激しく批判され、文革期を通じ2度の失脚と復活を繰り返すこととなる。(長征期に親ソ派から、毛沢東に近いと言うことで主流派をはずされたことも加えれば、生涯に3度失脚した。)
最初の失脚は文革初期の1966年10月。毛沢東により、劉少奇と共に走資派・実権派として自己批判させられて役職を解任された。1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、鄧は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。
林彪事件後の中国経済立て直しを目指した周恩来の努力で、1973年3月に復活したが、文化大革命を推進する四人組とは対立が深まった。1975年1月に全人代の「政府報告」でかつての周恩来の提起を継承して「農業、工業、国防、科学技術」の「四つの現代化(近代化)」の提唱を行ったが、江青など四人組の抵抗を受けた。
周恩来への追悼の言葉を述べる鄧小平
両者の対立が深まる中、翌1976年1月に後ろ盾の周恩来が死去し、北京の民衆が反四人組の声を上げて1976年4月、天安門事件(第1次)が起きた。民衆の反政府活動を警戒した毛沢東によって鄧小平は、混乱の責任をとらされる形で再び解任され、2度目の失脚。近代化路線は再び挫折した。
鄧小平はいろいろおもしろい発言を残している。その中で最も有名なのが「白猫黒猫論」だろう。1962年7月7日、共産主義青年団の若者に対して語った言葉の中に、「白い猫であれ、黒い猫であれ、ネズミを捕ればよい猫だ」という四川地方のことわざを引いて(実際には白猫ではなく黄猫だそうだが)、蔣介石軍を破ったときの経験から、物事にとらわれてはいけない、状況次第で現実に対応し、結果がよければよい、と説いたとされている。
毛沢東的な階級闘争のイデオロギーにとらわれるなという鄧小平の現実主義を言っているとして当時から人々に受け止められたが、鄧小平は盛んにその発言を打ち消したという。
鄧小平と華国鋒(1978年の中央工作会議)
1976年9月の毛沢東死去の後、華国鋒政権のもと、鄧小平の復活への待望論が高まった。鄧小平は二度、華国鋒に書簡を送り、華国鋒を指導者として絶賛し、自己の誤りを反省していることを伝えた。
1977年7月、中共第10期三中全回は、「四人組」の党からの永久追放とともに鄧小平の全職務の回復を決定した。これによって鄧小平は中央政治局常務委員、党副主席、国務院副総理、中央軍事委員会副主席兼総参謀長に復帰し、華国鋒、葉剣英に次ぐナンバー3の地位を確保した。 (つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
1977年7月、中共第10期三中全回は、「四人組」の党からの永久追放とともに鄧小平の全職務の回復を決定した。これによって鄧小平は中央政治局常務委員、党副主席、国務院副総理、中央軍事委員会副主席兼総参謀長に復帰し、華国鋒、葉剣英に次ぐナンバー3の地位を確保した。 (つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
1917年の周恩来
周恩来は1898年3月5日に江蘇省の比較的豊かな都市知識人の家庭に生まれたが、父の代に貧困に陥り、養子に出されるなど苦労をした。天津の南開学校に学んで学業優秀だったので、当時の多くの青年と同じく留学を目指したが、旅費が安あがりな日本を選び、1917年に東京にやってきた。
19歳だった周恩来の1918年の日記が公刊されている。周恩来は東京に下宿し、日本語の習得のための東亜学院で学びながら浅草や早稲田を歩きまわっている。その留学中にロシア革命を知り、また『新青年』を読み、祖国の現状を強く憂えるようになった。当時は日清戦争後の中国人青年の日本留学の最盛期で、周恩来も留学生仲間と議論をしながら政治活動に開眼していった。
同じ留学生で早稲田大学や慶応義塾に入学するものも多かったが、経済的に余裕のない周恩来は官立学校入学を目指した。官立学校合格者には中国政府から学費と生活費が援助される制度があったからだ。そこで、東京高等師範学校(後の東京教育大、現在の筑波大)と第一高等学校(後の東大教養学部)を受験したのだが、いずれも失敗し、挫折する。日記の中で自分の勉強不足、特に日本語の学習の不足を嘆いている。
同じ留学生で早稲田大学や慶応義塾に入学するものも多かったが、経済的に余裕のない周恩来は官立学校入学を目指した。官立学校合格者には中国政府から学費と生活費が援助される制度があったからだ。そこで、東京高等師範学校(後の東京教育大、現在の筑波大)と第一高等学校(後の東大教養学部)を受験したのだが、いずれも失敗し、挫折する。日記の中で自分の勉強不足、特に日本語の学習の不足を嘆いている。
1918年5月にシベリア出兵にともなう日華陸軍共同防敵協定の秘密交渉を知り、「二十一か条要求」の一環だととらえた中国留学生の中に、抗議のために一斉に帰国する運動が起きる。周恩来も授業ボイコットなどに加わりながら、河上肇の著作を通じてマルクス主義を知ったようだ。
祖国に帰り政治活動に身を投じようと考えた周恩来は、1919年5月9日に天津に戻った。すでに5月4日、二十一カ条の要求受諾に抗議する五・四運動が始まっており、7日の「国恥記念日」には全国で学生と労働者が決起した。周恩来は帰国するとすぐ南開学校の学生集会に出席、学生運動の先頭に立った。
黄埔軍官学校での周恩来
1920年1月、デモ隊を指揮した周恩来は逮捕され、半年間留置された後、南開大学から渡航費用を支給され、同年11月、フランスに渡り、働きながら学ぶという「勤工倹学」に加わりった。鄧小平もその仲間だった。
フランスで本格的にマルクス主義を学び、1921年に中国共産党に入党した。帰国後、孫文の第1次国共合作により国民党に協力することとなり、周恩来は黄埔軍官学校の教官となった。その校長は蔣介石であった。国共分裂の時は上海でストライキを指導したが、蔣介石の弾圧を受けて撤退、その後南昌での暴動などを指導した。
長征時の周恩来と毛沢東
国共内戦が激化して共産党が瑞金を放棄すると同行し、長征に参加した。その途次の遵義会議で共産党の路線をめぐる親ソ派と毛沢東派の対立では毛沢東を支持、その有力な同調者となった。延安の本拠地でも毛沢東に次ぐ指導力を発揮、1936年の西安事件では党を代表して蔣介石を説得、抗日民族統一戦線の結成を実現させた。
周恩来とネルー
1949年10月1日の中華人民共和国の成立により、毛沢東主席の下で国務院総理となり、朝鮮戦争後の米ソ冷戦の谷間で積極的な外交戦略を展開、1954年のインドシナ・朝鮮問題のジュネーヴ会議では中国の指導者として初めて国際舞台に登場し、優れた外交手腕を発揮した。
さらに1955年4月、インドのネルーとチベットの問題で協議して、「平和五原則」の合意に達し、1955年4月18日にはその理念を柱にインドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議を成功させ第三世界のリーダーとなった。しかし現実にはインドとの関係は悪化し、中印国境紛争が起こっている。
日中国交正常化交渉を行う田中角栄と周恩来・毛沢東
以後、主として中国の外交面での活躍が続き、その開明的な姿勢と調整能力で国民の信頼を受け、米中国交回復の交渉に当たり、1972年には訪中した日本の田中角栄首相と日中国交正常化を行い、日中共同声明を締結し、日本との戦争状態を終わらせた。
1965年頃から、毛沢東がプロレタリア文化大革命を推進すると、それに同調したが、時にその行き過ぎを抑える役割を演じ、推進派の林彪や四人組からは批判された。林彪事件後は積極的に経済の立て直しに乗りだし、1973年には鄧小平の復権に動き、文化大革命による混乱や経済、生産の停滞を克服する道を探ろうとした。しかし、その動きは毛沢東から疑いで見られ、四人組は、周恩来・鄧小平の経済建設路線を文化大革命路線の否定となることを恐れ、周・鄧に対してブルジョア階級に妥協し資本主義を復活させるものとの批判を強めた。
1973年の「批林批孔」運動は、ブルジョワ階級への全面的な政治闘争を優先すべきだと主張する四人組が行った林彪と孔子批判に名を借りた周恩来・鄧小平批判であった。しかし、文化大革命において多くの共産党の実務的な幹部が、実権派・走資派として批判されて失脚する中、周恩来は強い民衆の支持を背景に権力中枢にとどまり、「不倒翁」として生涯を全うすることとなる。
鄧小平と周恩来
1975年に周恩来は鄧小平とともに「四つの現代化」を提唱し、農業・工業・国防・科学技術での技術革新を取り入れて文化大革命によって停滞した国民生活の立て直しに着手しようとした。それに対して毛沢東は水滸伝の宋江を「投降した修正主義」と論評することによって、宋江=文革を否定する投降派=鄧小平という図式で暗に批判した。それを受けた四人組は「『水滸伝』批判」のキャンペーンを行い、また四人組グループに近い毛沢東の甥、毛遠新が名指しで鄧小平を批判した。これらの動きに同調した毛沢東は、鄧小平はずしを決断した。
天安門広場の人民英雄紀念碑に捧げられた周恩来追悼の花輪
1976年1月8日、周恩来が77歳で死去した。後に病名は膀胱ガンであったことが明らかにされた。その遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の鄧穎超と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。周の葬儀には孫文の妻・宋慶齢も参列した。
1月15日、天安門広場でその追悼大会が開かれた。そこで弔辞を述べた鄧小平はその直後に権力の座から引きずり降ろされ、再び人々の前から姿を消した。周恩来・鄧小平の路線を支持する北京の民衆は、その後四人組への反発を強め、同年4月5日に天安門で大規模な周恩来追悼集会を開いたところ、四人組政府は弾圧を強行、第1次天安門事件が発生した。これは民衆暴動「事件」として扱われ、鎮圧されたが、政権内部では次第に反四人組、反文化大革命の気運が高まり、翌1977年には四人組は追放され、華国鋒政権が成立して鄧小平も復権、文化大革命も収束を迎える。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
文化大革命が進行する中で、林彪と江青などの四人組は毛沢東を神格化し、その庇護の下で権力を維持し続けた。
林彪は抗日戦争期の八路軍の指揮官として活躍し、中華人民共和国建国後は人民解放軍を背景に中国共産党の中枢に参画した。朝鮮戦争には仮病で従軍を免れ、多くの優秀な軍人が戦死した後に林彪が軍の実権を握ったとも言われている。
1959年、廬山会議で彭徳懐国防相が解任され、その後任の国防相となってから、毛沢東の忠実な追従者となり、『毛主席語録』を兵士に配ってその宣伝に努めた。
1969年4月、13年ぶりで開催された中共第9回全国大会は「文化大革命の勝利の大会」と位置づけられ、文革の節目となった。大会に出席した代表のほとんどは、毛沢東、林彪、江青らの指名による者であった。また軍人の台頭が目立った。そしてこの大会で、林彪は「党規約」の中に「毛沢東同志のもっとも親密な戦友であり、後継者」と明記された。
しかし、劉少奇国家主席の失脚によって空席となっていた国家主席の廃止案を毛沢東が表明すると、林はそれに同意せず、野心を疑われることになる。
墜落現場
1971年9月に南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判し、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。1971年9月13日に中国人民解放軍が所有する旅客機で山海関空軍基地を強行離陸し、ソ連に向けて逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村で墜落死した。
燃料切れとの説・逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になって発砲して墜落したとの説・中ソ関係悪化を恐れた当時のソ連が入国拒否の最終的意思表示(武力行使)としてミサイル撃墜した説がある。なお逃亡の通報を受けた毛沢東は「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。好きにさせれば良い」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。この林彪事件後は四人組が実権を握るようになった。
周恩来と鄧小平
周恩来・鄧小平は文化大革命の行き過ぎを是正して、国民生活の再建を実現するための経済復興を図ろうとしたが、四人組は1973年に批林批孔運動を開始し、その矛先を周恩来・鄧小平に向けた。
さらに1975年、周恩来は鄧小平と結んで、「四つの現代化」を提唱すると、毛沢東は『水滸伝』の主人公宋公を信念を曲げた修正主義として論じることによって、鄧小平を暗に批判し、四人組がそれに同調して鄧小平非難を展開した。
1972年2月にはアメリカ大統領ニクソンの訪中が実現、それまで長く対立していたアメリカとの国交正常化に大きく前進した。しかし、国内政治では、毛沢東は四人組を牽制する形で周恩来を依然として重用し、1973年には鄧小平を復権させた。こうして文化大革命の背後で、江青・四人組グループと周恩来・鄧小平グループの暗闘が始まった。
周恩来・鄧小平は文化大革命の行き過ぎを是正して、国民生活の再建を実現するための経済復興を図ろうとしたが、四人組は1973年に批林批孔運動を開始し、その矛先を周恩来・鄧小平に向けた。
さらに1975年、周恩来は鄧小平と結んで、「四つの現代化」を提唱すると、毛沢東は『水滸伝』の主人公宋公を信念を曲げた修正主義として論じることによって、鄧小平を暗に批判し、四人組がそれに同調して鄧小平非難を展開した。
天安門広場の人民英雄紀念碑に捧げられた周恩来追悼の花輪
1976年に「不倒翁」といわれた周恩来が死去すると、北京で四人組に反対し、周恩来・鄧小平の路線を支持する市民が暴動を起こした。これが第1次天安門事件である。毛沢東は、民衆の反政府活動の盛り上がりを恐れ、鄧小平を民衆扇動したとして再び失脚させ、四人組を擁護した。しかし、そのころすでに80歳を超えていた毛沢東は、次第に事態を統制する力を失っていった。
毛沢東の死去
1976年1月の周恩来に続き、7月6日に人民解放軍の創設者朱徳が死去、7月28日には唐山地震が起こり死者24万という惨事となった。まだその動揺が収まらないなか、1976年9月9日午前零時、毛沢東が82歳で生涯を閉じた。その日の午後3時、全国、全世界に伝えられた。
審判を受ける四人組
毛沢東の死後、激しい権力闘争が展開され、結局四人組は10月6日に逮捕され、文革穏健派の華国鋒が党主席・党中央軍事委員会主席に就任した。華国鋒の就任は毛沢東の指名があったとされているが、そのもとで文化大革命の継続か方針転換か、をめぐる激しい争いが始まった。華国鋒政権の手によって復活した鄧小平の影響力が強まって中国は改革開放路線をとることとなり、1977年に文化大革命は終了を宣言した。
1980年には「林彪・四人組裁判」が実施され、江青・張春橋は死刑判決、姚文元は懲役20年、王洪文は無期懲役の判決を受けた。こうして文化大革命の申し子である四人組は敗者となった。
江青は1930年代には藍蘋【らんびん】という芸名の上海の映画スターであった。革命運動に関わり、1937年秋に延安に行って不倫の上で毛沢東と結婚し、その4人目の妻となった。この時に江青と名を変えている。その間の経歴はあまり知られていないが、相当スキャンダラスだったらしく、文化大革命中にその素性を知っている映画人が多数迫害され、口を封じられたという。
毛沢東夫人という立場を利用して、急速に政治に介入し、林彪や毛沢東の取り巻きであった四人組の他の仲間と権力の奪取を図り、ついには女帝とまで言われるようになった。逮捕後の裁判中も江青は、大声でわめきちらし、自分の無罪を主張した。後に無期に減刑されたが、1991年5月14日、癌の療養のため病気治療仮釈放中に北京の居住地で首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの戦友が いま…会いに行きます」というのが遺書であった。(おわり)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
毛沢東
1959年の中国共産党の幹部会である廬山会議では、彭徳懐による毛沢東批判が行われ、自己批判を迫られた毛沢東は 国家主席の地位を劉少奇に譲り、党主席にとどまったがその権力を失う危機に至った。自らは党主席として権力の維持を図ったが、党内に劉少奇に続き、鄧小平らの実権派が台頭、荒廃した農村と工業を復興させるための改革が始まった。しかし、1966年、毛沢東は権力回復をねらい、劉少奇・鄧小平らの追い落としにかかる。
姚文元
契機となったのは、姚文元【ようぶんげん】の論文であった。1965年11月10日、姚文元は上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、京劇『海瑞罷官』に描かれた海瑞による冤罪救済は反革命分子らの名誉回復を、悪徳官僚に没収された土地の民衆への返還は農業集団化・人民公社否定を意図するものと批判し、毛沢東はまもなく、本来は無関係だった彭徳懐解任と海瑞の罷免を強引に結びつけ、『海瑞罷官』は彭徳懐解任を暗に批判した劇という印象が急速に形成された。
こうして、「ブルジョワ的」文芸作品に対する取り締まりが強化から文化大革命が始まり、1966年5月には、中央文化大革命小組が設立され、実権派の打倒と徹底的な革命を主張する政治運動が発動された。
こうして、「ブルジョワ的」文芸作品に対する取り締まりが強化から文化大革命が始まり、1966年5月には、中央文化大革命小組が設立され、実権派の打倒と徹底的な革命を主張する政治運動が発動された。
『毛主席語録』を読む紅衛兵1966年
1966年6月1日に『人民日報』は「横掃一切牛鬼蛇神」(一切の牛鬼蛇神を撲滅せよ)という社説を発表した。この社説の中で「人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を徹底的に除かねばならない」(これを「破四旧」と呼ぶ)と主張した。この社説を反映して、各地に「牛棚」(牛小屋)と呼ばれる私刑施設が作られた。
1966年8月の第8期中央委員会総会第11回総会において、「プロレタリア文化大革命についての決定」が決議され、文化・社会の社会主義化の徹底が要求された。この文化大革命を担ったのが、『毛主席語録』を携え、赤い腕章をつけた紅衛兵と呼ばれる学生・生徒である。
1966年8月の第8期中央委員会総会第11回総会において、「プロレタリア文化大革命についての決定」が決議され、文化・社会の社会主義化の徹底が要求された。この文化大革命を担ったのが、『毛主席語録』を携え、赤い腕章をつけた紅衛兵と呼ばれる学生・生徒である。
天安門広場を行進する紅衛兵
衛兵候は最初,清華大学の付属中学の学生たちによって1966年5月につくられた。同月 25日北京大学の7人の学生と教師により初めて実権派批判の大字報 (壁新聞) が出され、6月1日毛沢東に認められて全国にラジオ放送されて以来,たちまち全国の中学 (高校) 、大学の学生によって大字報の嵐が広まった。
6月13日には大学入試延期の決定が出され、学生の「造反有理(造反には理由がある)」が認められたが、その後、実権派が学校に工作組を派遣して運動の弾圧をはかった。この工作組との闘争のなかで紅衛兵が組織された。
8月18日初めて全国の紅衛兵が北京に集り天安門で毛主席と接見し,20日より「四旧」打破を叫んで街頭に進出し,文化財や書物を破壊したり暴力を行なったりして文革推進の先頭を走った。最初毛主席は彼らを支持し、11月までに前後8回 1300万人の接見を行なった。
文化大革命で「走資派」とされた人に対する紅衛兵らの糾弾は、大きな三角帽子をかぶせ、腰をかがめて頭を下げ、両腕を後ろに伸ばす、「ジェット式縛り上げ」の姿勢をとらせ、長時間にわたって自己批判を迫るものであった。紅衛兵は、1966年から1968年にかけて実権派打倒に猛威を振るい、文化大革命期間中に出た死亡者、行方不明者(数百万人とも数千万人ともいわれる)の一部の虐殺に加担したとも言われている。また、当時は中華人民共和国の成立に貢献した政治家や知識人も弾圧を受けた。その1人である彭徳懐も逮捕されて拷問を受け、それが原因で死亡している。
実権派打倒に大きな力となった紅衛兵であったが、権力闘争に利用する価値がなくなると、狂信的な紅衛兵残党の追放を画策した毛沢東によって知識青年上山下郷(下放)運動が展開された。農村支援の名目のもとに約1600万の学生が農村や辺境に駆り出され、多くの学生は過酷な環境に適応できなかったために亡くなった。紅衛兵運動から下放収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受けた。
劉少奇
1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任した劉少奇は、1962年から経済の再建にとりくみ、鄧小平とともに毛沢東路線の修正を図って資本主義の部分的復活をめざした。しかし、1966年8月1日「プロレタリア文化大革命の決定」が採択され、劉少奇は党内序列を2位から8位に格下げされ、さらに10月には鄧小平とともに「自己批判書」の提出を余儀なくされ、事実上の軟禁状態となった。
こうして劉少奇は共産党の実権を奪う実権派であり、「資本主義の道を歩む」走資派の中心人物とされ、厳しい批判の矢面に立たされることとなった。1967年4月1日には『人民日報』は劉少奇を「党内最大の実権派、中国のフルシチョフ」とレッテル貼りをし、9月には北京の要人居住区から追放され、家族とも引き離され、10月には「帝国主義の手先、現代修正主義、国民党反動派の手先」として党からの「永久除名」が決定された(鄧小平は除名ではなく、留党監察とされた)。
糾弾される劉少奇
自宅監禁状態であった劉は病の床に就くが、散髪、入浴ともに許されず、警備員からも執拗な暴行や暴言を受けた。劉の部屋には劉を非難するスローガンを記した紙が壁中に貼り付けられた。治療する医師からは、病状の回復のためにはがす提案もされたが受け入れられなかった。党からの永久除名は劉の誕生日にラジオで放送され、劉はそれを聞くことを強要された。それ以降、劉は言葉を発しなくなった。過去の病歴のため劉はいくつかの薬を常用していたが、それも取り上げられた。多くの歯は抜け落ち、食事や服を着るのにも非常に長い時間がかかった。1968年夏に高熱を発した後はベッドに横たわる状態となったが、身のまわりの世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態であった。
1969年10月17日、河南省開封市に移送。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫部屋に幽閉された。受け持った地元の医師が求めた高度な治療に対し、上部機関は「ありふれた肺炎治療薬」のみを投与するよう指示した。限られた治療の中で病状は悪化し、11月12日に没した。享年70歳。
白布で全身を包まれた遺体は、開封の火葬場にて「劇症伝染病患者」という扱いで、死の約2日後の深夜に火葬に付された。遺骨は火葬場の納骨堂に保管され、その保管証には死亡者氏名「劉衛黄」(この名前は劉少奇の幼名だったという)と記されていた。劉の死は当初は高級幹部以外の国民や国外にはほぼ秘匿され、外部からは生死不明の状態が続いた。
王光美
夫人の王光美も紅衛兵によってピンポン球で造ったネックレスを首からかけさせられ、つるし上げを受けた。それは、かつて彼女が国家主席夫人としてビルマに行ったときネックレスをして宴会に出席したことを、毛沢東夫人の江青が嫉妬してそれを批判し、彼女は資本主義者だと言うことになり批判を受けたのだった。(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
毛沢東
1949年に中華人民共和国を建国し、国家主席となった毛沢東は、東西冷戦のなかで朝鮮戦争を戦って大きな犠牲を払いながら権力の維持に成功し、社会主義国家建設に意欲を強めた。1953年からの第1次五ヵ年計画をほぼ成功させ、国内権力の基盤を固めた。
1956年2月にソ連共産党第一書記フルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開した。しかし、多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。
土法高炉
反右派闘争によって共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざした。毛沢東は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年に大躍進政策を発動、第2次五か年計画に入った。
大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。
目標としていたイギリスやアメリカに比べ電化が遅れていたことから、農村部等、ほとんどの地方では木炭を燃料としていたため、必然的に土法炉の還元剤にも木炭を使用することになった。この事は、木炭を生産する目的で、全土で樹木の大規模な伐採が開始されることを意味した。その結果、森林が姿を消し、毎年のように大洪水を引き起こすこととなった。
「除四害」運動のポスター
製鉄事業とほとんど同じ時期に、「四害」の大量捕獲作戦が展開された。「四害」とは伝染病を媒介するハエ・カ・ネズミと農作物を食い荒らすスズメのことで、中国では「除四害運動」と呼ばれた。
「四害」の中でも駆除の最大の対象となったのはスズメで、毛沢東は「スズメは年間30kgの米を食う」と言いだし、その絶滅を命じた。市民は鍋・フライパン・バケツ・洗面器といった音の鳴る物を叩いて、スズメが木の枝で休む隙を与えず、空から死んで落ちるようにした。スズメの巣も破壊され、卵は割られ、雛が殺された。子供も投石器でスズメを狙って、農業に貢献しようとした。雀狩りは5年間続けられ、記録では北京で年間11億羽のスズメが駆除されたという。
これらの大量攻撃によってスズメの個体数は減少し、絶滅寸前まで追い込まれた。しかし、スズメの駆除は、かえってハエ、カ、イナゴ、ウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。無知な指導層が食物連鎖の生態バランスを完全に無視した結果だったのである。中国政府は最終的に、ソビエト連邦から25万羽のスズメを輸入して、個体数を補充する羽目になった。
これらの大量攻撃によってスズメの個体数は減少し、絶滅寸前まで追い込まれた。しかし、スズメの駆除は、かえってハエ、カ、イナゴ、ウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。無知な指導層が食物連鎖の生態バランスを完全に無視した結果だったのである。中国政府は最終的に、ソビエト連邦から25万羽のスズメを輸入して、個体数を補充する羽目になった。
さらに、同じ種類の種はお互いの成長を阻害しないとして過度な密植が行われ、さらに穴が深ければ深いほど根が生えて強い作物が取れるという理論から2メートル以上の深さに種を埋めるいわゆるルイセンコ農法が採用された(密植・深耕運動)。 当然のごとくこれらの手法は全く効果を上げず、凄まじいまでの凶作になった。
人民公社設立の看板をあげる人々
さらに、中国はソ連の集団農場であるコルホーズを真似て人民公社を設立し、集団的農業により効率的な農作物の生産を行うことになった。「公社」とは「コミューン」の訳語で、第1次五ヵ年計画での農業集団化で始まった合作社と従来の権力機構(郷人民政府と郷人民代表大会)を一体化した組織であった。
その中では農業・工業・商業・文化・教育・軍事を互いに結びつけ、集団生産・集団生活を主とした自力更生・自給自足の地域空間を目指したもので、中国における共産主義の基層単位と見なされた。人民公社化は、1958年8月末には全農家の30.4%が参加し、12月末には99.1%、計2万6578社に達している。
「人民食堂」では食事が無料で提供された
急速な人民公社化は、多くの場合物質的、制度的条件が整わないままで実施したため、看板だけが人民公社で、実際には従来の合作社のままといったものが多かった。さらに人民公社の農民の間には「一平二調」という風潮が広がった。「一平」の「平」は、働いても働かなくても報酬は同じだという悪しき平均主義を表す。「二調」の「調」は「無償の調達」を意味し、生産した食糧は政府が徴収するということである。
つまり、どれだけ一生懸命に働き、多くの食糧を生産しても報酬は変わらず、また、作った食糧は政府が徴収してゆくということである。そうであれば、当然のように積極的に働く意欲が失われてゆく。その上、「自由に食べられる」人民食堂など「共産風」による食料や資材の大浪費を招いた。
つまり、どれだけ一生懸命に働き、多くの食糧を生産しても報酬は変わらず、また、作った食糧は政府が徴収してゆくということである。そうであれば、当然のように積極的に働く意欲が失われてゆく。その上、「自由に食べられる」人民食堂など「共産風」による食料や資材の大浪費を招いた。
彭徳懐
1959年には大躍進の失敗は明らかになりつつあり、廬山会議で政府の重鎮であった彭徳懐【ほうとくかい】が大躍進政策の問題点を指摘し改善を要求した。しかし、これを毛沢東は社会主義に対する裏切りとして猛反発し、彭徳懐は失脚した。
この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。
現場指導者は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった。
毛沢東とフルシチョフ
こうした現実を無視した諸政策が大きな原因となり、1959年から1961年にかけて、中国全土は異常な食糧難に陥った。これに1959年から1961年までつづいた自然災害(華北の旱害と華中・華南の水害)が重なり、さらに中ソ対立からソ連が中国で仕事をしていた技術者1390人を引き上げさせたことも追い打ちをかけた。
大躍進政策による被害者数は飢饉の死者を含めると3500万から7000万にも上り、社会主義関連の死者としては過去最悪なものとなってしまった。毛沢東は責任をとる形で1959年に国家主席の地位は退いたが、党主席には座り続け、次第に権力奪回の機会をうかがうことになる。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
延安革命記念館
長征は1935年10月に陝西省の呉起鎮に到着したことで終了して、新たな拠点(解放区)を建設した。さらに、1937年から拠点を陝西省延安に移し、国民党軍や張学良の東北軍と戦った。これ以降、延安が中国共産党の中心地として、中国政治情勢と日中戦争の一つの焦点となっていった。
コミンテルンは1935年7月、第7回大会を開催して方針を大きく転換し、「反ファシズム人民戦線」を進める方針を打ち出し、それに沿って中国に対しても国民党とのさらなる協力を呼びかけることとなった。それは長征中の1935年8月1日に「八・一宣言」として発表され、国民党に対し抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。
コミンテルンは1935年7月、第7回大会を開催して方針を大きく転換し、「反ファシズム人民戦線」を進める方針を打ち出し、それに沿って中国に対しても国民党とのさらなる協力を呼びかけることとなった。それは長征中の1935年8月1日に「八・一宣言」として発表され、国民党に対し抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。
監禁中の蔣介石と関係者
民衆の中にも1935年12月9日に十二・九学生運動が起こって日本の華北分離工作に対する反対の声が強くなり、それらを受けて1936年12月12日に張学良が蔣介石を西安で監禁し、一致した抗日戦を求めるという西安事件が起こった。共産党は張学良を支持し、周恩来を現地に派遣して蔣介石を説得、当面の内戦を回避に合意させた。
八路軍を描いた絵画
翌1937年7月に日中戦争が勃発したことで共産党と国民党の間で第2次国共合作が成立、それ以降は抗日戦争に全力を挙げることとなり、共産党軍(紅軍)は八路軍などと改称して蔣介石の国民政府軍ととも戦うこととなった。
ただし、第1次国共合作と異なり、共産党が国民党に吸収されるのではなく、独自の活動として各地で解放区を広ることは認められた。しかし共産党は農村での地主追放などの革命運動を一時棚上げし、協力して日本軍と戦うことを第一とした。
1941年、太平洋戦争が始まると、共産党は八路軍による華北での抗日戦を続ける一方、毛沢東主導で整風運動を開始した。これは各地で生まれた解放区と言われる革命拠点で農村解放を進めたことにより、共産党員が増大(1937年に4万人であったのが、1940年には20倍の80万人に達した)したことを受け、党員教育を強化したことで、「整」は「引き締める」、「風」は「やり方、行動方針」の意味をもち、マルクス主義の理解を深めるとしつつ、毛沢東路線の徹底をはかる思想統制運動であった。
毛沢東は独自路線を取りながら、この段階ではソ連共産党のスターリンを社会主義建設に向かう指導者として認め、その著作の学習を薦めている。しかし同時に整風の手段として取り入れられた「自己批判」の手法は、幹部から一般党員まで徹底して行われ、自由主義・個人主義は排されて党組織への忠誠が優先されていった。整風運動は党を引き締め、党活動を優先する組織的な集団へと強化された上で、1945年には120万の党員を擁するまでになった。
重慶会談の蔣介石と毛沢東

1948年4月、人民解放軍は延安を奪回し、9月には東北で遼瀋戦役に大勝した。解放軍はまず錦州を占領して退路を断ち、長春、瀋陽から営口へ、一気に国民党軍を追い47万の国民党軍を殲滅した。国民党軍は11月には徐州一帯の淮海戦役で55万の精鋭を失い、12月の平津戦役でさらに52万を失った。1949年1月31日、北京は人民解放軍によって平和解放された。この三大戦役で国民党軍主力は潰滅した。
1945年8月、日本が無条件降伏し、日中戦争が終わり、各地で日本軍の武装解除が行われると、それをめぐって共産党軍と国民党軍が衝突するなど、新国家建設に向けての困難な状況が表面化した。しかし、中国国民は長い戦争からの脱却を強く望み、またソ連のスターリンもこの段階では国民党政府を支持し、共産党にはまだ全土を統治する力をもっていないとみていたので、中国共産党・毛沢東に対し、蔣介石との協議を強く働きかけてきた。毛沢東はスターリンが蔣介石よりであることに不満があったが、国の内外の戦争反対の声に応えるため、国民党と連携を模索、蔣介石と重慶会談を行うことにした。
重慶における両者の会談は、蔣介石は政治・軍事の両面での中華民国への統合を要求、毛沢東は政治面での統合は合意したが、軍事面で完全に従属することを拒否し、合意は困難であったがともかくも1945年10月10日に双十協定を締結、内戦を回避し、新中国建設で協力し、国民的合意を造る場として政治協商会議を開催することで合意した。
しかし、双方の不信は解けず、1946年6月、両軍の武力衝突が本格化して再び国共内戦(第2次)に突入した。
しかし、双方の不信は解けず、1946年6月、両軍の武力衝突が本格化して再び国共内戦(第2次)に突入した。

解放軍の北京入城
1948年4月、人民解放軍は延安を奪回し、9月には東北で遼瀋戦役に大勝した。解放軍はまず錦州を占領して退路を断ち、長春、瀋陽から営口へ、一気に国民党軍を追い47万の国民党軍を殲滅した。国民党軍は11月には徐州一帯の淮海戦役で55万の精鋭を失い、12月の平津戦役でさらに52万を失った。1949年1月31日、北京は人民解放軍によって平和解放された。この三大戦役で国民党軍主力は潰滅した。
1949年4月、人民解放軍100万は長江を強行渡河し、23日には南京を占領して、正式に国民党支配の終了を宣言した。1949年末までに人民解放軍はチベットを除く全中国大陸を解放し、3年半の内戦で国民党軍744万を殲滅した。国民党の残存政権は広州に遷り、5月には蔣介石が台湾に逃げ、12月には「政府」を台北に遷した。
五星紅旗
1949年7月には毛沢東が「人民民主独裁について」と題する論文を発表して、新しい政府が民族資本家も含めた広汎な統一戦線による人民民主独裁の政権であることを明らかにした。9月21日、中国共産党はじめ民主諸党派、労働組合、軍隊、国内各少数民族の代表が北平に集まって中国人民政治協商会議を開いた。会議は全会一致で臨時憲法の役割を果たす「共同綱領」を採択し、毛沢東を主席とする中央人民政府を選出し、「五星紅旗」を国旗に制定し、北平を北京と改称することを決定した。
「五星紅旗」の大星は中国共産党の指導力を、4つの小星はそれぞれ労働者、農民、小資産階級・愛国的資本家、知識人の4つの階級を表す。
建国宣言を朗読する毛沢東
1949年10月1日、北京の天安門前に五星紅旗が翻り、毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言した。
「われわれの民族は今から平和と自由を愛する世界諸民族の大家庭の一員となり、勇敢かつ勤勉に、自らの文明と幸福を創造するとともに、世界の平和と自由を促進するために働くであろう。わが民族はもはや侮辱される民族ではなくなった。われわれはすでに立ち上がったのである……」(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
「われわれの民族は今から平和と自由を愛する世界諸民族の大家庭の一員となり、勇敢かつ勤勉に、自らの文明と幸福を創造するとともに、世界の平和と自由を促進するために働くであろう。わが民族はもはや侮辱される民族ではなくなった。われわれはすでに立ち上がったのである……」(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
長征のルート
遵義会議の後、南京軍の空襲を避けながら西に向かった紅軍は貴州を抜けるのに4ヶ月かかり、1935年5月、南方に転じて雲南省に入った。雲南から四川省に入るには長江上流の金沙江を渡らなければならない。蔣介石は紅軍は渡河の出来る麗江で足踏みするだろうと予測し、追撃を急いだ。
紅軍は一昼夜で85マイル進み、唯一の渡河場の南岸に達した。北岸に守備隊がいる。紅軍の一部隊が南京軍の軍服を着て変装し、北岸の守備隊に声をかけると、まさかこんなに早く紅軍が来るはずがないと思っていた守備隊が船を廻したので、乗り込んで北岸に上陸した。「静かに守備隊司令部に入ってみると、兵隊がのんびりと麻雀をやっているのを発見した。かれらの鉄砲は安全に壁に掛けてあった。紅軍が「手をあげろ」と命じ武器を取り上げると、かれらは口をあけてびっくり仰天した。」
渡河点を抑えた紅軍は6隻の大型船を調達して、9日間絶え間なく動いて全軍の一兵も失わず四川省に入った。渡り終えると船をすべて破壊、蒋介石軍は渡河するのに200里も遠回りしなければならなかった。
大渡河の渡河
四川省を北上するにはもう一つの難所、大渡河を渡らなければならない。この地は三国時代の英雄たちが戦い、近くは石達開率いる太平天国の残党10万が、曾国藩の清軍に追撃されて全滅した古戦場だった。南京軍は紅軍を第二の石達開にしようと待ち構えていた。
だが紅軍は意表をついて、漢人は通れないとされている少数民族地域に入った。その地方にはロロ族という少数民族がおり、彼らは漢人の支配に服さず独立心が旺盛だった。紅軍は貴州でミャオ族やシャン族を味方にした経験を生かし、ロロ語の話せる先鋒隊の指揮官が働きかけてその協力を取りつけた。紅軍参謀総長の劉伯承は小民族薄指導者と、生贄の鶏の血をすすりあって義兄弟の誓いをたて同盟を結んだ。
それによって紅軍は順調に軍を進め、渡河点に南京軍よりも先に達した。しかし急流をわたる船が少なく、司令官林彪は毛沢東らと協議してさらに上流の唯一の吊り橋に向かった。険しい山道を進み吊り橋までたどり着くと対岸に守備隊の四川軍が待ち構えている。林彪は決死隊を選抜、彼らはモーゼル銃と手榴弾を背中にくくりつけて吊り橋の鉄の鎖にぶら下がり、対岸を目指したが、一人、また一人と打ち落とされる。
守備隊は吊り橋の橋桁に火をつけたが、ついに紅軍の一人が対岸の守備隊の機関銃座にとりつき手榴弾を投げ込んだ。それを見た紅軍は吊り橋の火を消しながら次々と渡った。蒋介石軍の飛行機が到着し橋に爆弾を落とすが、どれも命中せず、河底を爆破しただけだった。
この渡河作戦は長征の中で最も苦しい戦いだった。もしこの渡河に失敗していれば、紅軍は長征に失敗しただろうと言われいる。渡河で活躍した兵士は紅軍の英雄として最高の勲章である金星を与えられた。1935年9月に四川北部の毛児蓋に着いた党中央は初めて陝西省北部を目的地と定めた。
大渡河の渡河に成功した第一方面軍は四川省を北上、第二方面軍や第四方面軍とも合流した。しかし各軍は目指す方向で意見が対立、四川に残る軍もあったが、第一方面軍はさらに北上を目指した。しかし、そこには幾重にも山脈が横切る山岳地帯で、6月でも万年雪を頂く寒冷な地であった。南方人の多かった第一方面軍は寒さに震えながら山岳地帯を抜け、次に草原に出た。

現地のチベット族は敵意が根強く、懐柔に失敗して紅軍は食糧を得るために彼らと交戦しなければならなかった。装備を減らすためテントを持っていなかった紅軍は木々の影でかたまって雨を避け、大草原と言っても沼地が点在する深い泥道に紅軍は難渋した。多くの隊員と動物をここで失った。甘粛省ではイスラーム教徒軍が動員されて攻撃してきたが、それを破り、数百頭の馬を手に入れた。
こうして江西省を出発してから満1年の翌1935年10月19日、陝西省の呉起鎮(1937年から延安に移る)に到着、脚を腫らし疲れ切って忍耐の限界に達していたため、第一方面軍の長征の完了を宣言した。10月22日、第二方面軍・第四方面軍も合流し、ここに長征は完了した。
長征の全行程は中国里で2万5000里(約1万2000キロ)、主力の第一方面軍はその間に368回の戦闘(平均1日1回)を行い、18の山脈と24の大河を越えた。兵員数は主力の第一方面軍では出発時8万6000人だったのが陝西省にたどり着いたのは8000にすぎなかったが、世界史上にかつてない英雄的な進軍であり、「二万五千里の長征」と言われ現在でも中国共産党の偉大な歴史の一つとして語り継がれている。
『中国の赤い星』を書いたエドガー=スノーは、「ハンニバルのアルプス越えも、これに比べれば休日の遠足にすぎない」と語っている。(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
長征の全行程は中国里で2万5000里(約1万2000キロ)、主力の第一方面軍はその間に368回の戦闘(平均1日1回)を行い、18の山脈と24の大河を越えた。兵員数は主力の第一方面軍では出発時8万6000人だったのが陝西省にたどり着いたのは8000にすぎなかったが、世界史上にかつてない英雄的な進軍であり、「二万五千里の長征」と言われ現在でも中国共産党の偉大な歴史の一つとして語り継がれている。
『中国の赤い星』を書いたエドガー=スノーは、「ハンニバルのアルプス越えも、これに比べれば休日の遠足にすぎない」と語っている。(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
1927年頃の毛沢東
「八七会議」の決議を受けた毛は、1927年9月9日、湖南省で武装蜂起するも失敗(秋収起義)、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山【せいこうざん】に向かった。
彼の率いる軍隊は櫛の歯が欠けるように人数が少なくなった。部隊の一部では「まだ逃げないのか」というのが、朝晩の挨拶代わりになっていた。毛沢東は三湾という村で軍の再編成をし、軍を去りたい者には5元の旅費を与えて去らせ、兵士と将校の待遇をすべて平等にし、民主主義の軍隊をつくりあげた。
10月に部隊が井崗山に着くと、毛沢東は「三項の規律」を公布した。第1,行動は指揮に従え、第2,没収した金は公のものとせよ、第3,民衆のものは芋一つ取るな。
1928年の初めに、彼はさらに「六項の注意」を公布した。1,話は穏やかに。2,買い物は公正な値段で。3,借りたものは返す。4,物を壊したら弁償する。5,乾し草は縛っておく(乾し草は寝具にする。)6,戸板は入口にはめておく(戸板の上に寝る)。
後、実際の経験から「水浴は婦人に見せない」「大便は便所でせよ」の2項が加わって「三大規律、八項注意」となり、その後項目の内容は多少変更され、軍歌、革命歌として作曲され、広く歌われている。
1928年の初めに、彼はさらに「六項の注意」を公布した。1,話は穏やかに。2,買い物は公正な値段で。3,借りたものは返す。4,物を壊したら弁償する。5,乾し草は縛っておく(乾し草は寝具にする。)6,戸板は入口にはめておく(戸板の上に寝る)。
後、実際の経験から「水浴は婦人に見せない」「大便は便所でせよ」の2項が加わって「三大規律、八項注意」となり、その後項目の内容は多少変更され、軍歌、革命歌として作曲され、広く歌われている。
井崗山に着いた時、毛沢東の部隊は1000人に満たなかった。だが、1928年4月28日、朱徳・陳毅らが南昌蜂起部隊と湖南の農民軍、計1万人を率いて合流し、中国労農紅軍第四軍が誕生した。
瑞金で行われた中華ソビエト共和国の建国式典
毛沢東は1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。
毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、主席に毛沢東が選ばれたのは、軍権から遠ざけようとする棚上げの狙いがあったとも言われている。
建国はしたものの、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた。
毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を剥奪された。これは毛沢東にとって6回目の左遷であり、その後約2年間は実権を握れなかった。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。
長征のルート
1933年10月、蔣介石は100万の軍を集中して瑞金に第5回目の攻撃をかけてきた。これを迎え撃つ紅軍は毛沢東の軍事戦略を放棄して陣地戦に頼り、一歩一歩後退して、1934年10月、紅軍主力と政府機関が瑞金から離れることになった。後に「長征」や「大西遷」と呼ばれることになるが、目的地も最初から陝西省と決まっていたわけではない。
紅軍の兵力は8万6000ーそれは非戦闘員をまじえた、一つの国家の移動であり、持てるだけの荷物を持って、重装備の100万の敵と戦いながらの移動である。11月下旬下旬、激しい戦闘の末、包囲を突破した時、兵力はすでに3万余に減っていた。
長征途上の1935年1月15日から貴州省の遵義において「中共政治局拡大会議」が開催された。出席者は18人とコミンテルン代表リトロフだった。主要議題はそれまでの路線の総括と、人事問題であった。毛沢東は当時は首脳部から外されていたが、拡大会議とされたため出席し、国共内戦での第5次囲創戦(国民政府軍の共産党根拠地への攻撃)におけるコミンテルンの指示が都市攻撃に偏重したために敗れたことを「極左冒険主義」として批判した。
それに対して主流派の秦邦憲(ソ連留学派)とリトロフが反論し激論となった。コミンテルンの指示により都市に対する全面攻撃を主張していた主流派と、中国独自の革命路線をかかげ農村に根拠地を造って都市を包囲する戦術を主張していた毛沢東ら反主流派が、それぞれ相手の誤りを指摘、自分の誤りは認めないという状況で会議は膠着状態となった。
ところが、周恩来が、それまでの党中央の路線を一貫して守ってきたことを自己批判して敗北を認め、毛沢東支持を発言したことによって会議の大勢は決まった。その結果、秦邦憲は指導部の総責任者の任務を外され、張聞天に交代した。張聞天もソ連留学派であったが、毛沢東も政治局常務委員に復活して軍事を担当することになった。この時会議に参加していた党幹部で、後々名前が出てくるのは、毛沢東・周恩来以外には劉少奇、林彪、鄧小平であるが、共産党史では外すことの出来ない陳雲、朱徳、彭徳懐などの軍司令官も参加していた。
遵義会議は中国共産党の歴史で毛沢東の主導権が確立した会議とされ、毛沢東自身もそこでの勝利を自分の政権の出発点として評価し、常に誇らしげに述べている。現在ではいささか「神話化」されていることが批判され、その詳細には見直しが進んでいるようだ。また遵義会議ですぐに毛沢東政権が誕生したのではないことは上の人事の結論を見ても分かる。(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
遵義会議は中国共産党の歴史で毛沢東の主導権が確立した会議とされ、毛沢東自身もそこでの勝利を自分の政権の出発点として評価し、常に誇らしげに述べている。現在ではいささか「神話化」されていることが批判され、その詳細には見直しが進んでいるようだ。また遵義会議ですぐに毛沢東政権が誕生したのではないことは上の人事の結論を見ても分かる。(つづく)
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
若き日の毛沢東(1925年頃)
毛沢東は1893年12月26日に、湖南省湘潭県韶山郷の農民の家に生まれた。1907年に4歳年上の羅一秀と最初の結婚をしたが、1910年に妻は赤痢のため、わずか20歳で死去した。
1911年に始まった辛亥革命では、毛沢東は長沙で革命軍に参加している。1918年、湖南省立第一師範に在学中、「新民学会」という革命団体をつくって新文化運動に参加した。
1911年に始まった辛亥革命では、毛沢東は長沙で革命軍に参加している。1918年、湖南省立第一師範に在学中、「新民学会」という革命団体をつくって新文化運動に参加した。
卒業後、新民学会の仲間たちとフランス留学運動を起こし、蔡和森、蔡暢兄妹らをフランスに送るために北京へ行き、そこで北京大学図書館に就職して李大釗【りたいしょう】と出会い、社会主義思想の洗礼を受けた。
1919年、五・四運動の少し前に湖南に戻った彼は第一師範の教員となり、学生運動、軍閥追い出し運動を指導した。当時彼が主編した『湘江評論』に発表した「民衆大連合」という論文で、彼はすべての圧迫されている民衆が団結すれば帝国主義と封建軍閥を打倒する十分な力を持つ、と主張した。
1920年9月にはマルクス主義研究会をつくって共産党結成に備え、翌月には社会主義青年団を組織した。この二つの組織は中国共産党の母体の一つとなった。
1919年、五・四運動の少し前に湖南に戻った彼は第一師範の教員となり、学生運動、軍閥追い出し運動を指導した。当時彼が主編した『湘江評論』に発表した「民衆大連合」という論文で、彼はすべての圧迫されている民衆が団結すれば帝国主義と封建軍閥を打倒する十分な力を持つ、と主張した。
1920年9月にはマルクス主義研究会をつくって共産党結成に備え、翌月には社会主義青年団を組織した。この二つの組織は中国共産党の母体の一つとなった。
上海市の一大会址博物館・左から2番目の扉が会場の旧李漢俊宅
同様なマルクス主義グループは、その頃、上海、北京、寒口、済南、杭州、広州などに結成され、またそれぞれ同時に社会主義青年団を組織していた。彼らはいずれも労働者大衆の中に入って、労働者夜学校を経営したり、労働者新聞を発行して、労働者階級とマルクス主義を結び付け、また機関誌などを通じて相互に連絡をとった。
こうして、1921年7月1日、第3インターナショナルの援助を受けて各地の共産主義グループ57名を代表する13人が、上海市のフランス租界内の望志路106号にあった李漢俊の自宅に集まって、中国共産党第1回全国代表大会が開かれた。
13人の顔ぶれは、李漢俊・李達・陳公博・包惠僧・張国燾・劉仁靜・陳潭秋・董必武・毛沢東・何叔衡・鄧恩銘・王尽美・周仏海で、コミンテルンより派遣されたマーリンとニコリスキーの2人も出席した。大会は党規約を決め、陳独秀を責任者とする党中央機関を選出した。
1923年6月、第3回党大会で毛沢東は中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。この第3回党大会では、コミンテルンの指導の下、「国共合作」の方針が決議された。
1924年の第1次国共合作の成立により、中国国民党に入党、農民運動に関わるようになり、地主支配に苦しむ中国農民の解放を強く意識するようになった。
秋収蜂起
1927年7月、蔣介石による上海クーデタで国共合作が崩壊して大弾圧を受け、農村に拠点を移した共産党は、都市奪回を目指して秋収蜂起を決定した。
そのとき8月7日、武漢で開かれた共産党中央緊急会議(八・七緊急会議)の席上で、毛沢東は「政権は銃口から得られるということを、どうしても理解しなければならない」と発言した。農民のエネルギーに依拠し、武装権力を打ち立てようという明確な路線を示したものであった。
「政権は銃口から生まれる」の言葉は毛沢東の革命思想を端的に言いあらわしたフレーズとして、その後も各地の革命運動に「毛沢東主義」という亜流を生み出すこととなった。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!