なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ムバラク

サダトとムバラク
ムバラクは1928年5月4日、エジプト北部ナイルデルタのメヌーフィヤ県に生まれた。サダト大統領と同郷である。陸・海軍の両士官学校を卒業後、軍で順調に昇進を続け、1972年には空軍最高司令官に任命された。
ムバラクが注目を浴びたのは、翌1973年の第4次中東戦争(十月戦争)である。同じく軍出身サダト大統領の下、イスラエルへの奇襲攻撃を成功させ、一躍国民的英雄となり、戦後、最高勲章である「シナイの星」勲章を授与され、空軍元帥に昇進した。その後、イスラエルの猛反撃を受け、エジプトは劣勢のまま停戦合意を受け入れるが、緒戦でアラブ共通の敵イスラエルの不敗神話を打ち砕いたことは、国家の威信を大いに高めることとなった。
しかし、この戦争の後、サダト大統領はそれまでの社会主義陣営との協調から、資本主義陣営との協調に舵を切ることになる。1950年代に旧ソ連に留学した経験を持つムバラクも、サダトの経済開放政策・欧米追随政策に従い、1975年には事実上の後継者として副大統領に任命された。

サダトとムバラク
イスラエルと平和条約を結んだサダト大統領が、それを不満とするイスラム過激派によって1981年に暗殺されると、テロ対策を名目とした非常事態令を発令し、政治活動の自由を制限するとともに、ムバラクは国民投票で大統領に選出された。以来約30年間、安定政権を維持し続け、「現代のファラオ」と呼ばれた。
エジプトの課題は産業基盤の確立と経済近代化であるとするサダト大統領の政策を継承した。翌1982年には予定されたシナイ半島返還が実現した。イスラエルとの和平を維持し、アメリカとの経済的結びつきを強めて友好関係を保ち、その一方でサダト大統領の対イスラエル和平で冷え切ったアラブ諸国との関係回復に努め、1989年にはアラブ連盟に復帰した。1990年にはイラクのフセイン政権のクウェート侵攻に対するアメリカの制裁に賛成し、湾岸戦争での多国籍軍に参加した。中東和平交渉の重要なパイプ役として、国際社会とりわけアメリカの信頼は厚かった。
ムバラク大統領の肖像画を掲げる支持者
一方、内政では軍と警察による強権支配を続け、「イスラーム団」などのイスラム過激派だけでなく、穏健なイスラーム原理主義組織「ムスリム同胞団」も国政から排除した。これはアメリカの意向と重なるものであり、約30年間にわたる長期独裁が国際社会から黙認されている理由の一つと指摘された。
過激な原理主義の台頭を封じ込め、長年他国と戦火を交えず、アラブの盟主としての地位を築き上げた功績を支持する国民は少なくない。しかし、こうした親米・親イスラエル路線、また格差是正に成果を挙げられないムバラク政権に対する国民の不信は、1990年代以降の人権抑圧・監視強化に伴って、大きく膨れ上がった。とりわけ失業率が高い若年層には、強い不満が鬱積していった。
1月25日、カイロのデモ
2011年1月、チュニジアで始まったアラブ諸国の民主化運動「アラブの春」がエジプトに波及、ムバラク長期政権への不満、怒りから2011年1月25日、カイロなどで大規模なデモが起こり、2月11日、ついに大統領は辞任に追い込まれた。1981年に権力を握ってから、ちょうど30年目であった。
全権を握る軍最高評議会が2012年5月31日に声明を出し、1981年からエジプトで発令されていた非常事態令を完全に解除した。
ムバラクは4月13日に身柄を拘束され、平和的な抗議デモの参加者を殺害した容疑と不正蓄財の罪で告発された。ムバラクの二人の息子も同じく謀殺と汚職で起訴された。2012年1月に始まった裁判では死刑が求刑され、6月に終身刑の判決が下された。収監後も本人と支持者は罪状を強く否認、その間、体調が悪化して一時病院に移るなど、減刑があるのではないかと注目された。
ムバラク後のムルシー大統領の政権が不安定となるなか、2013年1月、最高裁判所がムバラクの終身刑を取消し、裁判のやり直しを命じた。
2013年7月3日、ムルシー政権(ムスリム同胞団)が軍を掌握したシーシによって倒されるクーデタが発生、その直後の8月にムバラクは出獄し軍の病院に収容された。エジプトは軍人出身のシーシ大統領のもとで実質的な軍政が復活、そのもとで2014年11月に公判は棄却され、デモ参加者殺害では事実上の無罪が確定した。2015年5月、ムバラクと息子二人は横領の罪で3年と4年の禁固刑の判決が出た。
最終的には2017年、最高裁のやり直し裁判でデモ隊殺害については無罪となり、公金横領の罪は禁錮3年の刑期を終えているとされ裁判が終わった。こうしてムバラクは2017年3月24日に無罪放免となったが、すでに88歳となっており、政権にカムバックすることはなかった。
2020年2月15日に死去、91歳になっていた。
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サダト
サダトの正式名はムハンマド=アンワル=アッ=サーダート。1918年12月25日、ナイル川デルタ地帯のミヌーフィーヤ県で、貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の一人として生まれた。1938年に陸軍士官学校を卒業。ナセルらと自由将校団を創設してエジプト革命に参加、ナセルの副官を務めた。
1970年、ナセルの急死を受けて大統領に就任すると、ナセル主義を放棄し、親ソ連路線を改めて、ソ連軍事顧問団や技術者を追放、さらに社会主義政策を改め、自由経済の導入を図るという「開放」(インティターハ)政策を進めた。1971年には憲法を改正して国号をアラブ連合共和国からエジプト=アラブ共和国に改めた。
第4次中東戦争
サダト大統領は第3次中東戦争でイスラエルに占領されたシナイ半島の奪還を目ざし、同じくゴラン高原の奪回をはかるシリアのアサド大統領と提携して、イスラエルを南北から挟撃する戦略をたてた。1973年10月、イスラエル側の不意をついてシナイ半島に進撃(第4次中東戦争)し、緒戦で勝利を占めてイスラエル軍不敗の神話を崩した。
しかし、シリアはゴラン高原奪回に失敗、またシナイ半島でもイスラエル軍の反撃が開始され、エジプトは苦境に立ったことから、アラブ諸国の産油国は石油戦略を発動。1973年10月17日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)によって、アメリカ合衆国を中心とする親イスラエル諸国(非アラブ友好国)に対し原油の輸出を禁止する措置が打ち出された。その前日には石油輸出国機構(OPEC)によって原油価格引き上げが一方的に宣言されており、アメリカ、ヨーロッパ、特に日本など、安価な中東原油に依存していた先進工業諸国は大きな経済的打撃を受け、第1次石油危機(オイル=ショック)と言われた。
トイレットペーパー騒動
日本国内ではマスコミも連日、石油資源の不足の危機を報道したので、11月には消費者がスーパーに押しかけてトイレットペーパーを買いだめするなどの大騒ぎとなった。実際には品不足ではなかったのだが、マスコミと口コミによる情報に多くの人が踊らされることになった。
1977年11月19日、サダト大統領がアラブ首脳として初めて空路イスラエル入りを果たし、ベギン首相と直接交渉に入った。イスラエルの存在を認めた上で、占領地の回復を認めさせようと言う現実的な政策であったが、アラブ世界に大きな衝撃を与えた。わずか4年前に第4次中東戦争でアラブ諸国を率いて戦い、手ひどい反撃を受け、アラブ諸国が石油戦略をとることでなんとか反撃した、その敵国イスラエルへの訪問を他のアラブ諸国に図らずに単独でやったからだった。
サダト大統領がイスラエルとの和平に踏み切った最大の理由は、4次にわたる対イスラエル戦争が、エジプト財政を大きく圧迫していたためであった。エジプト経済を建て直すためには、アメリカの経済援助が必要と考えたが、アメリカの要求はイスラエルとの和平であった。イスラエルとの戦争を続けて「アラブの盟主」であり続けるよりも、深刻な経済を打開するためにアメリカの要求を入れて和平するという現実路線を選んだわけである。
翌1978年9月17日、アメリカ大統領カーターの仲介でイスラエルのベギン首相との間でキャンプ=デービッド合意に到達し、さらに1979年3月26日、エジプト=イスラエル平和条約を締結した。この功績でベギンとともにノーベル平和賞を受賞した。
しかし、このサダトの和平への大胆な方針転換は、中東に真の平和をもたらすことはなかった。他のアラブ諸国と、何よりもイスラエルと厳しく戦っている当事者のPLOは、激しくエジプトの変節を非難した。サダトをアラブの大義への裏切り者と捉えて反発し、エジプトはアラブ連盟を脱退せざるを得なくなり、アラブの盟主という地位を失うことになった。
しかし、サダトはアメリカ資本によるエジプト経済テコ入れを推進し、反対派を除き、一族を重用するなど独裁色を強めた。
日本国内ではマスコミも連日、石油資源の不足の危機を報道したので、11月には消費者がスーパーに押しかけてトイレットペーパーを買いだめするなどの大騒ぎとなった。実際には品不足ではなかったのだが、マスコミと口コミによる情報に多くの人が踊らされることになった。
1977年11月19日、サダト大統領がアラブ首脳として初めて空路イスラエル入りを果たし、ベギン首相と直接交渉に入った。イスラエルの存在を認めた上で、占領地の回復を認めさせようと言う現実的な政策であったが、アラブ世界に大きな衝撃を与えた。わずか4年前に第4次中東戦争でアラブ諸国を率いて戦い、手ひどい反撃を受け、アラブ諸国が石油戦略をとることでなんとか反撃した、その敵国イスラエルへの訪問を他のアラブ諸国に図らずに単独でやったからだった。
サダト大統領がイスラエルとの和平に踏み切った最大の理由は、4次にわたる対イスラエル戦争が、エジプト財政を大きく圧迫していたためであった。エジプト経済を建て直すためには、アメリカの経済援助が必要と考えたが、アメリカの要求はイスラエルとの和平であった。イスラエルとの戦争を続けて「アラブの盟主」であり続けるよりも、深刻な経済を打開するためにアメリカの要求を入れて和平するという現実路線を選んだわけである。
サダト大統領(左)、カーター大統領(中央)、ベギン首相(右)
翌1978年9月17日、アメリカ大統領カーターの仲介でイスラエルのベギン首相との間でキャンプ=デービッド合意に到達し、さらに1979年3月26日、エジプト=イスラエル平和条約を締結した。この功績でベギンとともにノーベル平和賞を受賞した。
しかし、このサダトの和平への大胆な方針転換は、中東に真の平和をもたらすことはなかった。他のアラブ諸国と、何よりもイスラエルと厳しく戦っている当事者のPLOは、激しくエジプトの変節を非難した。サダトをアラブの大義への裏切り者と捉えて反発し、エジプトはアラブ連盟を脱退せざるを得なくなり、アラブの盟主という地位を失うことになった。
しかし、サダトはアメリカ資本によるエジプト経済テコ入れを推進し、反対派を除き、一族を重用するなど独裁色を強めた。
1981年10月6日、サダトは先の第4次中東戦争(エジプトでは十月戦争)の勝利を記念する軍隊行進の閲兵中に、式に参加していた兵士から銃撃を受け死亡した。犯人はイスラーム原理主義を唱えるムスリム同胞団系の急進派「ジハード団」に所属するイスランブリ砲兵中尉だった。
サダト本人も自分がいつか暗殺されることを予期しており、近々自分が殺されるだろうと親しい友人などに語っていたという。死の直前にしたためたとされる手記には「自分は、今まで永年の仇敵とされていた、イスラエルとの間に平和を作り上げた。これで人生の終わり。あとはただ昇天を待つのみである」と記述されている。また暗殺される一年前に出された自伝にも自らの死を予期する記述がある。
サダト本人も自分がいつか暗殺されることを予期しており、近々自分が殺されるだろうと親しい友人などに語っていたという。死の直前にしたためたとされる手記には「自分は、今まで永年の仇敵とされていた、イスラエルとの間に平和を作り上げた。これで人生の終わり。あとはただ昇天を待つのみである」と記述されている。また暗殺される一年前に出された自伝にも自らの死を予期する記述がある。
サダト暗殺の瞬間
そのため、4重の警護に守られており、パレードにおける火器使用の規制が行われるはずであったが、その手続きを担当する士官はメッカ巡礼に出かけていた。折しも上空では空軍のフランス製の6機のミラージュが見事なアクロバット飛行を披露して赤・白・緑の煙でエジプト国旗を描いており、群衆はそれに気をとられていた。
パレード中の砲兵車両部隊の1両が大統領の観閲席前に突然停止し、乗車していた暗殺隊が飛び降りてきた。イスランブリ砲兵中尉は大統領の前に進み、サダトはイスランブリ砲兵中尉の敬礼を受けようと起立していたがイスランブリ砲兵中尉は3個の手榴弾を投げつけ、その内1個が爆発した。イスランブリ砲兵中尉と暗殺隊は突撃銃で観閲スタンドに射撃した。サダトが倒れた後、人々は銃弾からサダトを守るために周囲に椅子を投げた。イスランブリ砲兵中尉は「ファラオへの死!」と叫びながら観閲スタンドに走り寄り、サダトの体へ銃を発射した。
首・胸・腰などに被弾したサダトは病院へ搬送され11人の医師による手術を受けたが、同日午後7時50分)、エジプト政府から正式にその死が発表された。62歳没。
パレード中の砲兵車両部隊の1両が大統領の観閲席前に突然停止し、乗車していた暗殺隊が飛び降りてきた。イスランブリ砲兵中尉は大統領の前に進み、サダトはイスランブリ砲兵中尉の敬礼を受けようと起立していたがイスランブリ砲兵中尉は3個の手榴弾を投げつけ、その内1個が爆発した。イスランブリ砲兵中尉と暗殺隊は突撃銃で観閲スタンドに射撃した。サダトが倒れた後、人々は銃弾からサダトを守るために周囲に椅子を投げた。イスランブリ砲兵中尉は「ファラオへの死!」と叫びながら観閲スタンドに走り寄り、サダトの体へ銃を発射した。
首・胸・腰などに被弾したサダトは病院へ搬送され11人の医師による手術を受けたが、同日午後7時50分)、エジプト政府から正式にその死が発表された。62歳没。
イスランブリ砲兵中尉
サダトを狙撃したイスランブリ砲兵中尉はその親衛隊員であった。彼はイスラーム原理主義集団であったが、なぜ原理主義者が親衛隊になれたのだろうか。それについては、サダトはナセル色を一掃し、社会主義勢力を押さえつけるため、ナセル時代には排除されていたイスラーム原理主義勢力を懐柔しようとして、親衛隊に登用したのだといわれている。その兵士によって銃撃されてしまったのは皮肉であった。
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アスワン=ハイダム
ナセルはエジプトの農業の安定のための治水、工業発展のための電力供給源としてナイル川上流にアスワン=ハイダムを建設する計画を立て、その資金援助を西側諸国に要請していた。アメリカは当初、投資を約束していたが、ナセル政権がソ連から武器輸入を決めたり、バグダード条約機構に反対、中華人民共和国を承認するなど、東西冷戦の中で東寄りの姿勢を採るようになったことを警戒し、投資を撤回した。世界銀行も当初の支援約束を撤回した。
スエズ運河国有化宣言をするナセル
1956年6月23日に国民投票を実施して大統領に就任したナセルは、7月26日に行った演説でスエズ運河国有化を宣言、世界に衝撃を与えた。それはエジプトの国土にある運河を自国が管理して利益をアスワン=ハイダム建設に充て、会社を国有化することで生じる不利益は補填するという当然のものであったが、運河会社の株のほとんどを所有するイギリス(イーデン首相)・フランス(第四共和政)は強く反発し、イスラエルを動かしてスエズ運河を目指して侵攻させ、スエズ戦争(第2次中東戦争)が始まった。
イギリスはスエズ運河会社の株主として利益を得ていただけでなく、運河航行の自由がなくなることを恐れた。フランスが加わったのは、同じ時期に展開されていたアルジェリア戦争の背後にナセルがいると考えていたためである。イスラエルは第1次中東戦争でのエジプトから得た地域の支配を確保し、さらに拡大する意図があった。こうして単にスエズ運河をめぐるイギリスとエジプトの対立という図式を越えて、パレスチナ問題と結びつき、戦火を拡大させた。
イスラエルの落下傘部隊

ソ連のブルガーニン首相は英仏に対してミサイルで報復すると警告(当時ハンガリー動乱が起きており、世界の目をそらせるのが目的)、アメリカはアイゼンハウアー大統領が10月30日に安全保障理事会の緊急会合開催を要請、イスラエルの撤兵を求める決議案を提出した。それに対してイギリスとフランスが拒否権を行使した。アメリカと英仏が対立するという驚くべきことが起こった。そこで翌31日、安保理が拒否権でマヒした場合は議題を総会に移管するという1950年の「平和のための結集」決議を利用し、緊急特別総会を開催することとし、その緊急特別総会でアメリカがただちに停戦・撤兵決議案を提出し、11月2日に採択させた。この段階ではアメリカは多国間主義による国際紛争の解決という原則を維持していたのである。
アメリカ・ソ連・国連により圧力を受けたイギリス・フランスは11月6日に停戦受諾、11月8日にはイスラエルも受諾し、全軍の停戦に至った。エジプトは戦争では敗れたが政治的にはスエズ運河のエジプト国有化という実質的な勝利をおさめ、ナセルは「アラブの英雄」として人気が高まった。
ナセルのエジプトがスエズ運河の国有化に成功したことはアラブ世界に大きな影響を与え、各国でナセル主義とも言われるアラブ民族主義が活発になった。1958年2月、エジプトはシリアと合同してアラブ連合共和国を結成し、アラブ世界の主導権を握った。
アラブ連合共和国の成立は、アラブ民族主義の高揚を意味し、オスマン帝国滅亡後、西欧諸国によって分断されたアラブ民族の統一の第一歩を実現したとされ、それを実現させたナセルはこのとき得意の絶頂にあった。また、それは周辺のアラブ諸国に強い影響を与えた。もともとシリアから分離独立したレバノンでは1958年5月8日にアラブ系住民がアラブ連合共和国への参加を要求して暴動を起こすと、マロン派キリスト教徒の大統領がアメリカ軍の派遣を要請してレバノン暴動が起こった。また1958年7月14日にイラク革命が起こって、ハーシム家の国王一家が殺害され、アラブ民族主義を標榜する政権が成立した。
さらに1961年9月1日にはユーゴスラヴィアのティトー、インドのネルーとともに非同盟諸国首脳会議を呼びかけベオグラードで開催し、第三世界のリーダーの一人としての存在感を増していった。
エジプトとシリアの国家統合によって成立したアラブ連合共和国は、3年ほどしか持たず1961年9月28日にシリアで軍部クーデタが起こり、離脱した。しかし、その後再びアラブ民族主義政党バース党のアサドがクーデタで権力を奪い、親エジプトに転じた。
1960年代にヨルダン川の水利などを巡ってイスラエルとの対立が厳しくなり、軍事衝突が起こるとエジプトに支援を要請した。ナセルはそれに応えて、イスラエルの港のあるアカバ湾の入り口を封鎖した。ナセルはイスラエルとの全面戦争は想定していなかったが、1967年6月5日、イスラエル軍はアカバ湾の封鎖に対する反撃を口実としてエジプトに対する奇襲攻撃を開始、第3次中東戦争が勃発した。
イスラエル空軍はエジプト空軍基地を爆撃し、わずか3時間で破壊した。エジプト空軍の反撃を無力化した上で、イスラエル陸軍はシナイ半島・ガザ地区を制圧し、スエズ運河地帯まで進撃した。北方ではシリア領ゴラン高原と、ヨルダン領ヨルダン川西岸地域と東イェルサレムを占領し、全イェルサレムを実効支配した。
6月10日、イスラエルとエジプトは国際連合の停戦決議を受諾し、停戦に合祀した。戦闘はわずか6日間で、イスラエルの圧倒的な勝利となった。イスラエル側は「六日間戦争」とも言っている(アラブ側では6月戦争という)。
1956年10月29日 、イスラエル国防軍の落下傘部隊395人が国境を越えて、シナイ半島のスエズ運河から72kmの地点のミトラ峠に降下し、侵攻を開始。わずか1週間でシナイ半島を制圧した。
イギリスとフランスはイスラエル軍の侵攻の翌10月30日、スエズ運河の安全を守るためとして、イスラエル軍とエジプト軍双方に対して撤退を要求(このときイスラエル軍はまだ運河地帯に到達していなかった)、エジプト軍がそれに応じないことを口実にエジプトの空軍基地やラジオ局を空爆、11月5日、さらに地上部隊をポートサイドに上陸させて運河地帯の占領を開始した。エジプトはイスラエル・イギリス・フランスの3国軍に侵攻され、苦戦に陥った。しかし国際世論は英仏とイスラエルの侵略行為を非難し、エジプトを支持する声が強く、ナセルに有利に動いた。
イギリスとフランスはイスラエル軍の侵攻の翌10月30日、スエズ運河の安全を守るためとして、イスラエル軍とエジプト軍双方に対して撤退を要求(このときイスラエル軍はまだ運河地帯に到達していなかった)、エジプト軍がそれに応じないことを口実にエジプトの空軍基地やラジオ局を空爆、11月5日、さらに地上部隊をポートサイドに上陸させて運河地帯の占領を開始した。エジプトはイスラエル・イギリス・フランスの3国軍に侵攻され、苦戦に陥った。しかし国際世論は英仏とイスラエルの侵略行為を非難し、エジプトを支持する声が強く、ナセルに有利に動いた。

アイゼンハウアー
ソ連のブルガーニン首相は英仏に対してミサイルで報復すると警告(当時ハンガリー動乱が起きており、世界の目をそらせるのが目的)、アメリカはアイゼンハウアー大統領が10月30日に安全保障理事会の緊急会合開催を要請、イスラエルの撤兵を求める決議案を提出した。それに対してイギリスとフランスが拒否権を行使した。アメリカと英仏が対立するという驚くべきことが起こった。そこで翌31日、安保理が拒否権でマヒした場合は議題を総会に移管するという1950年の「平和のための結集」決議を利用し、緊急特別総会を開催することとし、その緊急特別総会でアメリカがただちに停戦・撤兵決議案を提出し、11月2日に採択させた。この段階ではアメリカは多国間主義による国際紛争の解決という原則を維持していたのである。
アメリカ・ソ連・国連により圧力を受けたイギリス・フランスは11月6日に停戦受諾、11月8日にはイスラエルも受諾し、全軍の停戦に至った。エジプトは戦争では敗れたが政治的にはスエズ運河のエジプト国有化という実質的な勝利をおさめ、ナセルは「アラブの英雄」として人気が高まった。
アラブ連合共和国の成立
ナセルのエジプトがスエズ運河の国有化に成功したことはアラブ世界に大きな影響を与え、各国でナセル主義とも言われるアラブ民族主義が活発になった。1958年2月、エジプトはシリアと合同してアラブ連合共和国を結成し、アラブ世界の主導権を握った。
アラブ連合共和国の成立は、アラブ民族主義の高揚を意味し、オスマン帝国滅亡後、西欧諸国によって分断されたアラブ民族の統一の第一歩を実現したとされ、それを実現させたナセルはこのとき得意の絶頂にあった。また、それは周辺のアラブ諸国に強い影響を与えた。もともとシリアから分離独立したレバノンでは1958年5月8日にアラブ系住民がアラブ連合共和国への参加を要求して暴動を起こすと、マロン派キリスト教徒の大統領がアメリカ軍の派遣を要請してレバノン暴動が起こった。また1958年7月14日にイラク革命が起こって、ハーシム家の国王一家が殺害され、アラブ民族主義を標榜する政権が成立した。
さらに1961年9月1日にはユーゴスラヴィアのティトー、インドのネルーとともに非同盟諸国首脳会議を呼びかけベオグラードで開催し、第三世界のリーダーの一人としての存在感を増していった。
第3次中東戦争(シリア国境でのイスラエル軍戦車)
エジプトとシリアの国家統合によって成立したアラブ連合共和国は、3年ほどしか持たず1961年9月28日にシリアで軍部クーデタが起こり、離脱した。しかし、その後再びアラブ民族主義政党バース党のアサドがクーデタで権力を奪い、親エジプトに転じた。
1960年代にヨルダン川の水利などを巡ってイスラエルとの対立が厳しくなり、軍事衝突が起こるとエジプトに支援を要請した。ナセルはそれに応えて、イスラエルの港のあるアカバ湾の入り口を封鎖した。ナセルはイスラエルとの全面戦争は想定していなかったが、1967年6月5日、イスラエル軍はアカバ湾の封鎖に対する反撃を口実としてエジプトに対する奇襲攻撃を開始、第3次中東戦争が勃発した。
イスラエル空軍はエジプト空軍基地を爆撃し、わずか3時間で破壊した。エジプト空軍の反撃を無力化した上で、イスラエル陸軍はシナイ半島・ガザ地区を制圧し、スエズ運河地帯まで進撃した。北方ではシリア領ゴラン高原と、ヨルダン領ヨルダン川西岸地域と東イェルサレムを占領し、全イェルサレムを実効支配した。
6月10日、イスラエルとエジプトは国際連合の停戦決議を受諾し、停戦に合祀した。戦闘はわずか6日間で、イスラエルの圧倒的な勝利となった。イスラエル側は「六日間戦争」とも言っている(アラブ側では6月戦争という)。
ダヤン将軍

ナセルは敗戦の責任をとって辞任を決意したが、国民の辞任反対の声が強く、街頭でデモを繰り返して辞意の撤回を迫ったため、ナセルも大統領にとどまることにした。しかしその指導力はエジプト国内でも、アラブ世界でも次第に低下していった。
権威の回復に苦慮しながらシナイ半島の奪還の機会を探る内に、ナセルは1970年9月28日に心臓発作を起こし、わずか52歳で急逝した。 ナセルの死がアラブ諸国にもたらした衝撃は大きく、10月1日に行われた葬儀では500万の葬列者が詰めかけた。国賓ではファイサルを除くアラブ諸国の元首・首脳全員が参加した。ヨルダン国王フセイン1世やパレスチナ解放機構(PLO)議長アラファトは人目をはばからず号泣し、ナセルを敬愛していたリビアのカダフィ大佐はショックのあまり2度も失神している。
ナセルの死によりアラブ人同士の対立も収拾がつかなくなり、中東情勢は混迷の度を増すことになった。
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イスラエル軍の電撃作戦を指揮したのは隻眼のダヤン将軍であった。戦死者はアラブ側が3万人であったのに対し、イスラエルは670人にとどまり、イスラエルは領土を4倍近くに増やした。また首都としてきたイェルサレムの旧市街を含む東イェルサレムはヨルダンが支配していたが、イスラエル軍が占領し、これで東西併せた全市を支配した。なお、国際連合および国際社会はイェルサレムをイスラエルの首都とは認めていない。
またこの戦争によってパレスチナ難民が100万人以上発生、そのほとんどがヨルダンに避難した。国連は安保理決議242でイスラエルの撤退を決議したが、実行されなかった。
またこの戦争によってパレスチナ難民が100万人以上発生、そのほとんどがヨルダンに避難した。国連は安保理決議242でイスラエルの撤退を決議したが、実行されなかった。

ナセルの葬儀
ナセルは敗戦の責任をとって辞任を決意したが、国民の辞任反対の声が強く、街頭でデモを繰り返して辞意の撤回を迫ったため、ナセルも大統領にとどまることにした。しかしその指導力はエジプト国内でも、アラブ世界でも次第に低下していった。
権威の回復に苦慮しながらシナイ半島の奪還の機会を探る内に、ナセルは1970年9月28日に心臓発作を起こし、わずか52歳で急逝した。 ナセルの死がアラブ諸国にもたらした衝撃は大きく、10月1日に行われた葬儀では500万の葬列者が詰めかけた。国賓ではファイサルを除くアラブ諸国の元首・首脳全員が参加した。ヨルダン国王フセイン1世やパレスチナ解放機構(PLO)議長アラファトは人目をはばからず号泣し、ナセルを敬愛していたリビアのカダフィ大佐はショックのあまり2度も失神している。
ナセルの死によりアラブ人同士の対立も収拾がつかなくなり、中東情勢は混迷の度を増すことになった。
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士官学校時代のナセル
ナセルは1918年1月15日、アレクサンドリアで郵便局員の子として生まれた。正式名はガマール=アブドゥル=ナセルであるが、ナセルは父の名アブドゥル=ナセルの後ろ半分で姓ではない。
ナセルは中学生の頃から反英民族主義運動に共鳴し、1938年に士官学校を卒業した後、第二次世界大戦・パレスティナ戦争に従軍した。
ナセルは中学生の頃から反英民族主義運動に共鳴し、1938年に士官学校を卒業した後、第二次世界大戦・パレスティナ戦争に従軍した。
自由将校団(前列左から二人目がナセル、その右がナギブ)

エジプト革命時のナセル
ナセルは大きな賭に出た。3月25日、革命評議会は国民に対して革命の終結を発表、革命評議会の解散を宣言した。すると翌日から各地で革命の継続を求めるデモやストライキが起こり、ナセルはその声に応える形で革命評議会が政権に復帰することを表明、その政権を正当化した。その上でまもなくナギブの首相・大統領の職を奪い自宅に軟禁した。
ナセルは士官学校の仲間と語らって青年将校を中心とした自由将校団を組織、年長のナギブ中将をその団長とした。1952年7月、クーデタを実行してエジプト王国のファルーク国王を追放してエジプト革命を成功させた。
同年9月、ナセルら自由将校団はナギブを首相として農地改革に着手、封建的な大土地所有を禁止し、王族の土地財産を無償で没収した。さらにファルークの継嗣の即位を否定してムハンマド=アリー朝の王政を廃止し、1953年6月18日、エジプト共和国を成立させた。大統領はナギブ中将が就任、ナセルは表面には出ずに副首相に収まった。

エジプト革命時のナセル
しかし、穏健派のナギブに対し、ナセルは積極的な社会改革を主張して対立していった。初代大統領としてナギブの人気が高いことを恐れたナセルは、1954年2月、革命評議会の決定としてナギブを解任した。ところが世論はナギブ支持に傾き、3月に各地でデモやストライキが起き、革命評議会はやむなくナギブ解任を撤回した。これはナセルにとって「三月危機」と呼ばれる政権の危機となった。
ナセルは大きな賭に出た。3月25日、革命評議会は国民に対して革命の終結を発表、革命評議会の解散を宣言した。すると翌日から各地で革命の継続を求めるデモやストライキが起こり、ナセルはその声に応える形で革命評議会が政権に復帰することを表明、その政権を正当化した。その上でまもなくナギブの首相・大統領の職を奪い自宅に軟禁した。
ナセル
もしガマール=アブドゥル=ナセルが死んでも、私は満足である。なぜなら、あなた方すべてがガマールアブドゥル=ナセルであるから(三度繰り返す)。あなたがたが(エジプトの)栄誉を守り、自由を守り、尊厳を守るから。……私の血はあなた方のもの。私の魂はあなた方のもの。私の心はあなた方のもの……。
ナセル狙撃事件の犯行はムスリム同胞団によるものと断定され、6人が逮捕されて死刑となり、多数が投獄された。この弾圧によってムスリム同胞団は壊滅的な打撃を受けた。
1954年10月19日、ナセルはイギリス軍の完全撤退の合意を成立させた。10月26日、それを祝う集会がアレクサンドリアのマンシーヤ広場で開かれた。もともと演説はあまり得意でなかったが、ナセルは集まった群衆の前に進み演説を始めた。その時突然、ナセルをめがけて8発の銃弾が撃たれた。一瞬の沈黙のあと、間一髪で銃弾を逃れたナセルは、おもむろに起ち上がった。そして、極度の緊張と興奮のなかで即興の演説を続けた。
もしガマール=アブドゥル=ナセルが死んでも、私は満足である。なぜなら、あなた方すべてがガマールアブドゥル=ナセルであるから(三度繰り返す)。あなたがたが(エジプトの)栄誉を守り、自由を守り、尊厳を守るから。……私の血はあなた方のもの。私の魂はあなた方のもの。私の心はあなた方のもの……。
この有名な演説は、今もなお当時を知る人々の胸に刻まれている。ナセルはこの事件を境に、演説で人びとを深く魅了し感動させるカリスマ的指導者となった。
ナセル狙撃事件の犯行はムスリム同胞団によるものと断定され、6人が逮捕されて死刑となり、多数が投獄された。この弾圧によってムスリム同胞団は壊滅的な打撃を受けた。
バンドン会議でのナセル(中央)
1955年2月にはエジプト革命勃発に対応して共産化を防止するためのバグダード条約機構がアメリカをオブザーバーとし、イギリス・イラク王国・トルコなどによって結成されるなど、エジプトにとって脅威となる国際的な動きがあった。それはナセルの目を国際社会に向けさせることとなり、その活躍舞台が一挙に広がることとなった。
同1955年4月、インドネシアのアジア=アフリカ会議(AA会議、バンドン会議)に参加し、ネルー、ティトー、スカルノ、周恩来と並び、第三世界のリーダーとして知られるようになった(この時点ではまだ首相。大統領就任は1956年6
月)。アジア=アフリカ会議では平和十原則をとりまとめる上で盡力した。
月)。アジア=アフリカ会議では平和十原則をとりまとめる上で盡力した。
またイスラエルに武器援助を続けるアメリカを牽制してソ連から武器を買い付け、中華人民共和国とも国交を樹立して冷戦下のアメリカの「封じ込め政策」を妨害した。アメリカは一貫してナセルを危険視することとなる。(つづく)
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父ネルー、母カマラとインディラ(1918年)
インディラは1917年11月19日、ガンジス河とヤムナー河の合流点にあるヒンドゥー教の聖地イラーハーバードで、ジャワハルラール=ネルーとカマラの一人娘として誕生した。父ネルーはインディラが生まれた頃からインド国民会議派の独立運動家として活動するようになり、父親が何度も投獄されるのを目の当たりにしながらインディラは幼少期を過ごした。なお、ネルーの著書『父が子に語る世界歴史』は、独立闘争で獄中にあった彼が、娘であるインディラに書き送った手紙が基になっている。
ともに政治活動をしていた、「独立の父」マハトマ=ガンジー が頻繁に父ネルーを訪問するなど、独立運動を目の当たりにして育ち、マハトマ=ガンジーから多大な影響を受けた。
インディラはサンチニケータン大学で学んだ後、イギリスのオックスフォード大学に留学。 帰国後、パルシー(ゾロアスター教徒)のフェローズ=カーンとの結婚を考えるが、異教徒という理由で両親から強い反対を受けた。インドではジャーティ(カースト)の違う者同士は結婚できないからだ。 そこで、フェローズ=カーンは、マハトマ=ガンディーの養子となり、フェローズ=カーンからフェローズ=ガンディーに改名し、ヒンドゥー教に改宗することで、インディラとの結婚を許され、1942年に結婚した。
したがって、同じ「ガンディー」を名乗っているが、インディラ=ガンディーと、 マハトマ=ガンディーの間には、血縁関係はない。 この結婚には、マハトマ=ガンディーも大きく関与していたと思われる。 インドはもともと宗教を火種とした紛争が多く、独立の際もインド・パキスタンに分割されるなど、 宗教における対立が政治にも大きく影響している。 そのため、首相ファミリーが宗教問題で 内紛を起こしていることは、国民にもよい影響を及ぼさないと考えたからであろう。
1947年にインドが独立すると、夫フェローズは国会議員として活動するようになる。しかし夫婦はすれ違うようになり関係が悪化する。フェローズが1957年の総選挙の直後に病に倒れると、インディラは献身的に介護を行い、関係が改善するが、それも長くは続かず、1960年にフェローズは死亡した。夫が亡くなった後、インディラは父ネルーの秘書役を務めるようになった。
1964年5月に父ネルーが死去すると、インディラは父の支持者から政界に進出するよう圧力を受け、シャーストリ内閣の情報放送大臣に就任した。そのシャーストリ首相も2年後の1996年1月に心臓発作により急死した。国民会議派は急遽、インディラを首相候補として選出し、後継首相となった。組閣前、インディラはいわばお飾り首相であり、実権は党内の有力政治家が握ると予想されたが、彼女は強力な指導力を発揮していく。
インディラは就任演説で、政教分離主義、民主主義と社会主義の推進を掲げ、ネルーの政治姿勢を継承、国民会議派左派の立場を明確にしたため、同派は左派と右派に分裂した。また西ベンガル州とケーララ州ではでは共産党(マルクス主義系)を含み連立政府が成立、マドラス州ではドラヴィダ進歩連盟が選挙で勝利するなど、反政府勢力が台頭した。
それらの動きに対してインディラは1970から「貧困の追放」を掲げ、「緑の革命」と称する農業改革を開始し、社会主義的な色彩を強くした。しかしその政策実行には独断専行が目立つようになり、反対派を排除して自派候補者を州議会選挙レベルにまで押しつけるなど、次第に強権的な姿勢を強めていった。
この間、1971年にソ連との平和友好条約を締結したが、東パキスタンの独立を巡りパキスタンとの関係は悪化し、1971年に第3次インド=パキスタン戦争が再燃した。インディラ=ガンディー政権は東パキスタンを軍事支援し、その結果、バングラディシュとして独立した。この勝利はインディラ=ガンディーの人気を高めることとなり、自信を深めた政権はさらに強権的となっていった。
1974年4月にはインフレ、汚職、失業、教育制度の不備などに対する民衆の抗議活動が盛り上がり、5月には国民的人気の回復を狙って地下核実験を行い、国際的な批判を受けることになった。政権批判が全国的な大衆運動として盛り上がる中、インディラ=ガンディー政権は1975年6月、非常事態宣言を行い、言論・集会・結社の自由を大幅に制限、新聞・雑誌・テレビに対する事前検閲を実施、さらに大衆運動の指導者は野党指導者を反政府活動を先導したとして逮捕した。逮捕者は約700人に及んだ。
この非常事態宣言は1977年まで続いたが、その間、政権はオールド=デリーなどの都市のムスリム低所得者層のスラムを強制的に撤去したり、農村の貧困の原因を除去すると称してナスバンディーといわれる強制断種による人口削減策を強行した。ナスバンディーの犠牲者は非常事態宣言期間に1000万人を突破したと言われている。
1977年、汚職などへの批判が高まるとインディラ=ガンディーは議会を解散、選挙に打って出て信任を得ようとしたが、裏目に出て自ら落選し、国民会議派も敗北、独立以来30年続いたインド連邦の国民会議派政権が初めて中断されることとなった。しかし代わって政権を取ったジャナタ党は派閥抗争に明け暮れ、早くも翌1978年には補欠選挙でインディラ=ガンディーは国会議員に選出され、1980年の総選挙では国民会議派が圧勝して政権に復帰した。
アムリットサルのゴールデン=テンプルとシク教徒
1966年、インディラ=ガンディー政権は2言語のパンジャーブ州を分割してパンジャーブ語地域をパンジャーブ州、ヒンディー語地域をハリヤーナー州とした。パンジャーブ州では経済力を強めたシク教教徒が自治権を要求するようになった。
1980年代になるとシク教徒の自治要求運動は無差別のテロ行為にまで発展、アムリットサル(アムリットサール事件が起きたところ)のシク教徒の総本山ゴールデン=テンプルはその拠点と化した。政権に復帰したインディラ=ガンディー政権は、1984年6月、「青い星作戦」と呼ぶ武力制圧に乗り出し、シク教徒300人、政府側90人が死亡した。
荼毘にふされるインディラ=ガンディー
この攻撃ではシク教分離主義運動の指導者であるジャルネイル=シン=ビンドランワレが死亡し、作戦は成功裏に終わったが、シク教徒からの激しい反発を招くことになった。
1984年10月31日、インディラは俳優のピーター=ユスティノフからインタビューを受けながら歩いている途中、2人のシク教徒の警護警官により銃撃を受け、病院に搬送される途中で死亡した。犯人のうち一人はその場で射殺され、もう一人は逮捕されて共犯者と共に1989年に絞首刑に処されている。
国民会議派が後継首相として選んだのは、インディラの長男のラジブ=ガンディーであった。こうして、インドではネルー→インディラ=ガンディー→ラジブ=ガンディーと親子三代が政権を継承することとなったため、「ネルー王朝」などとも言われた。
しかし、息子のラジブは、汚職事件で人気を落として総選挙で敗れて退陣、1990年再起をめざした選挙戦のさなか、「タミル・イスラーム解放の虎」の女性闘士の自爆テロにより暗殺されてしまう。まだ46歳の若さであった。1987年にラジブ=ガンディー首相がスリランカの内戦に介入してインド軍を出兵させたことに対する報復であった。母と同じ最期を迎えたことから、「ガンディー家の悲劇」と呼ばれた。こうして、マハトマに始まり、3人ものガンディーが暗殺されたのである。
ソニア=ガンディー
1991年の選挙で国民会議派は政権に復帰したが、1996年の選挙で汚職体質への批判が高まって政権を失ってしまう。10年近い野党暮らしを強いられたが、ようやく2004年の選挙で政権を奪回することに成功した。時の国民会議派総裁はラジブ=ガンディーの妻ソニア=ガンディーであったので、ソニアの首相就任が確実視されていたが、そのソニアの裁定により経済運営の実績が見込まれたマンモハン=シンが首相に指名され、政権を樹立した。ソニアはイタリア人のカトリック教徒であっため、4人目のガンディーとなることを恐れたのである。
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ネルー
ジャワハルラール=ネルーは1889年11月14日、「育ちの良さ」を身に着けて生まれた。家はイラーハーバードのバラモン階級の身分で、ムガル帝国の貴族。父のモーティラール=ネルーは高名な弁護士で、インド国民会議派の独立運動家として活動し、議長に選出されたことがある。家は豊かで、庭には水泳用のプールがあるほどだった。
1905年5月、15歳の時、ネルーは留学のために父に連れられてイギリスに行く途中、帝政ロシアがアジアの小国日本に敗れたことを知って感激したという。世界最強の陸軍やバルチック艦隊をもっていたロシアに日本が勝利したのは、信じられないことであった。欧米列強の植民地支配にあえぐアジア諸国民が自らの力でそれを打破することができるということを示したと賞賛した。しかし、その後にネルーは「日本は近隣諸国を植民地支配下に置き、欧米諸国の帝国主義と同じ道を歩んだ」と批判するようになった。
ネルーは、イギリスの伝統的な全寮制パブリックスクールであるハーロー校に入学した。そして2年後、同校を卒業してケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進学して、自然科学(化学、地質学、植物学)を専攻した。1910年に同大学を卒業し、ロンドンでさらに勉強して1912年に弁護士の資格を取得して帰国、父とともにイラーハーバードの高等法院の弁護士となった。
ガンディーとネルー
この「育ち」の良いネルーも、ガンディーのはじめたサティヤーグラハ運動に深く共鳴し、1920年頃から国民会議派の反英運動に身を投じていった。ガンディーに学んでネルーも生活をつくり変えていった。三等車で旅行をするようになり、手織布を着、馬車や家具など贅沢品は売り払い、会議派の活動に全力を傾け、ほとんど個人的時間を持たない生活を送るようになった。
ネルーは生涯ガンディーへの尊敬の念を失わなかったが、ガンディーの徹底した非暴力主義に対しては、それが場合によってはイギリスを助けることになるのではないかと疑問を感じ、対立することもあった。また、ガンディーは西洋文明をまったく否定して、インド古来の伝統的思想に固執したが、ネルーはロンドンで社会主義の影響も受けたこともあって、次第に両者の意見は食い違っていった。
ネルーは生涯ガンディーへの尊敬の念を失わなかったが、ガンディーの徹底した非暴力主義に対しては、それが場合によってはイギリスを助けることになるのではないかと疑問を感じ、対立することもあった。また、ガンディーは西洋文明をまったく否定して、インド古来の伝統的思想に固執したが、ネルーはロンドンで社会主義の影響も受けたこともあって、次第に両者の意見は食い違っていった。
国民会議派ラホール大会
ネルーは国民会議派内では左派のリーダーとして、1929年12月29日のラホールでの国民会議派大会では議長を務め「完全独立」(プールナ=スワラージ)を運動方針として掲げることに力を尽くした。1930年からはガンディーを再び指導者として第2次非暴力・不服従運動を展開し、協力した。しかしこの間、イギリス当局によってたびたび逮捕され、獄中生活を送った。
少女時代のインディラ
ネルーは、1930年11月から33年8月までの3年間、イギリスによって監獄に入れられていた。その間の「余暇と隔離」を生かして、彼は一人娘(後のインド首相インディラ=ガンディー)への手紙で世界の歴史を書き送った。現在それは『父が子に語る世界歴史』全6冊として読むことができる。
1942年8月には、第二次世界大戦へのインドの協力の折衝が不調に終わったことを受け「クイット・インディア」(インドから出ていけ)運動が起きたが、その直前にネルーはガンディーや他の国民会議派指導者とともに逮捕され投獄された。ネルーの獄中生活は通算で10年に及んだ。
憲法に署名するネルー
第二次世界大戦後、1947年8月15日のインドの分離独立によってインド連邦が成立するとその初代の首相となった。1950年にはインド共和国憲法が成立し、インド共和国(厳密には単にインド)の首相となった。
独立を達成したインド共和国において、1952年に行われた総選挙でインド国民会議派は大勝し、その後同党による一党支配が続いた。国民会議派の指導者ネルーは国内での基盤を安定させた上で非同盟主義を掲げ、戦後の国際社会に第三世界の指導者として登場し、中国の周恩来、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノらとともに重要な存在となった。

ネルーと周恩来
1954年4月29日、チベット問題で協議した中国の首相周恩来との間で「平和五原則」で一致し、1955年4月6日にニューデリーでアジア諸国民会議を開催、共同声明として発表した。並行して1954年4月28日には南インドの新しく独立した諸国を招集してコロンボ会議を開催、翌1955年4月18日のアジア=アフリカ会議(バンドン会議)ではリーダーシップを発揮した。また、1961年9月1日にはユーゴスラヴィアのティトーおよびナセルらと第1回非同盟諸国首脳会議(ベオグラード)を開催した。米ソの冷戦に巻き込まれない第三世界の結束を図った。

第1次インド=パキスタン戦争
しかし、インド独立の際、イスラーム教徒が分離して建国されたパキスタンとの関係は、カシミール帰属問題をめぐって常に危ういものがあった。早くも1947年10月、カシミール地方の帰属をめぐって第1次インド=パキスタン戦争が起こり、パキスタンはアメリカに近づいてSEATOとCENTOに加盟した。
中国に対しては帝国主義に対抗する国として友好的で1949年末に共産党政権を承認したが、1959年にチベットで中国共産党政府に対する反乱(チベット反乱)が起こるとネルーはチベット支持を表明し、平和五原則の一つ「内政干渉をしない」ことに反することを行った。インドと中国は友好関係から対立関係に転じ、1962年10月には中印国境紛争(中印戦争)が起こった。この衝突でインド軍の敗色が濃厚になると、ネルーはアメリカに援助を求め、非同盟主義を放棄せざるを得なかった。
すでに病を得ていたネルーは失意のうちに1964年5月27日に74歳で死去した。
すでに病を得ていたネルーは失意のうちに1964年5月27日に74歳で死去した。
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ソウルに突入する北朝鮮戦車隊
1950年6月25日、金日成の率いる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)軍が軍事行動を開始し、北緯38度線を越えて韓国に侵攻した。南北いずれが先に仕掛けたか、議論があったが、現在は北朝鮮の金日成が、中国革命に続いて朝鮮半島でも社会主義による統一国家の建設を目指し、武力統一をはかったものと考えられている。
国際連合の安全保障理事会は緊急会議を開催し、即時停戦と北朝鮮の撤退勧告を決議した。この時、常任理事国のソ連は中国代表権問題で他の4常任理事国と対立して安保理をボイコットし欠席していたので、ソ連抜きの安保理決議となった。アメリカのトルーマン大統領は緊急を要すると判断してアメリカ軍を単独で派遣することを決意、日本駐留のアメリカ軍に出動を命じた。
国際連合の安全保障理事会は緊急会議を開催し、即時停戦と北朝鮮の撤退勧告を決議した。この時、常任理事国のソ連は中国代表権問題で他の4常任理事国と対立して安保理をボイコットし欠席していたので、ソ連抜きの安保理決議となった。アメリカのトルーマン大統領は緊急を要すると判断してアメリカ軍を単独で派遣することを決意、日本駐留のアメリカ軍に出動を命じた。
破壊されたソウル市内の建物
北朝鮮軍は28日、ソウルを占領したが金日成の期待した南朝鮮の人民蜂起は起きなかった。その後も北朝鮮軍の進撃は続き、大田で米軍を破り、半島南端の釜山に迫った。
7月7日、国連安保理は国連軍の派遣をソ連欠席のまま決定、米軍のマッカーサー元帥を統一司令官に任命した。国連軍とはいえ、その9割はアメリカ軍によって構成されているというのが実態だった。
7月7日、国連安保理は国連軍の派遣をソ連欠席のまま決定、米軍のマッカーサー元帥を統一司令官に任命した。国連軍とはいえ、その9割はアメリカ軍によって構成されているというのが実態だった。
韓国に到着したマッカーサーを迎える李承晩
9月15日、マッカーサーは北朝鮮軍の背後を突くべく、仁川上陸作戦を展開し、形勢を逆転させ、ソウルを奪回した。さらにアメリカ軍は38度線を越えて北上したため、10月20日には平壌を陥落させた。
中国人民義勇軍の兵士
それに対して毛沢東の中華人民共和国政府は北朝鮮支援を決意し、大量の中国人民義勇軍(人民志願軍)を送った。義勇軍は当初前線に投入された部隊だけでも20万人、後方待機部隊を含めると100万人に達した。中国軍の参戦によってアメリカ軍は後退し、38度線の南に押さえこまれ、ソウルを放棄した。
朝鮮休戦協定調印式
第二次世界大戦終結の5年目に起こった朝鮮戦争は、「冷戦の中の熱戦」として第三次世界大戦の危機となった。国際世論がイギリスなどを動かし、世界戦争の再発は回避された。しかし、現地司令官のマッカーサーは北朝鮮を支援する中国大陸に対して原爆の使用を計画し、一時は核戦争の勃発が危ぶまれた。
休戦を決意したトルーマン大統領はマッカーサー司令官を解任(1951年4月)、長い休戦交渉の結果、1953年7月27日、南北朝鮮代表、米中代表などが板門店で朝鮮休戦協定に調印した。朝鮮戦争の休戦成立には、同年1月のアメリカのアイゼンハウアー大統領就任、3月のソ連のスターリンの死去という米ソの政権交代が大きく作用していた。
朝鮮戦争の戦死者の数ははっきりしないが、ロシア史料では北朝鮮、中国の死傷者は200万~400万、韓国40万、アメリカ14万といわれる。アメリカの推定では、中国兵90万、北朝鮮兵45万が死傷。約40万の国連軍兵士も死傷。うち3分の1ちかくが韓国兵で、米軍の戦死者は5万4000人であった。ソ連は航空部隊を提供、航空機335機と飛行士120名が失われた。その他、1000万人以上の離散家族を生んだ。
戦争後の金日成は反対派(親ソ派、親中国派)を排除しながら労働党内の独裁的な地位を固め、独自の理念として主体(チュチェ)思想を掲げた。ソ連、中国とも一線を画し、1972年からは国家主席として個人崇拝を強いて権力を維持した。この間、南側に対するスパイ、テロ活動を続け、1970年代には日本人などの拉致事件も引き起こした。
1974年には息子の金正日【キム=ジョンイル】を後継者に指定、1994年に82歳で死去した。息子の金正日(1998年より国家元首)は冷戦時代の終了にもかかわらず依然として反米姿勢を崩さず、「先軍政治」と称する軍事優先と個人崇拝を続けた。
1970年代後半から80年代に金日成から金正日への父子間での権力委譲を合理化するため、この一家の先祖の顕彰が盛んに行われるようになった。
シャーマン号事件
たとえば、1866年にアメリカの商船シャーマン号が通商を求めて大同江に侵入したシャーマン号事件(辛未洋擾【しんみようじょう】)の時、「決起した人民の先頭には、敬愛する首領キム=イルソン主席の曾祖父である金膺禹【キム=ウンウ】先生が立っていた」(1976年刊行の朝鮮大学校の教科書『朝鮮史』)とされた。
しかし、シャーマン号焼き討ち事件で人民の先頭に立って戦った人物は朴春権をはじめ何人かは知られていたが、金膺禹という人物はそれまで全く知られていなかった。
三・一独立運動
また、1919年の三・一独立運動を指導したのは「金日成主席の尊父で不撓不屈の反日革命闘士であり、朝鮮民族解放運動の卓越した指導者である金亨稷【キム=ヒョンジク】先生」(同書)とされ、さらに金日成の母方の祖父や伯父の名さえ出てくるが、三・一運動のジャンヌ=ダルクといわれる柳寬順などよく知られた33人の民族指導者は無視されている。
このような歴史の改ざんをするところに、『オンドル夜話』の著者尹学準氏は「朝鮮社会のヤンバン志向=血統重視の“伝統”」の反映を見、『両班』の著者宮嶋博史氏は「その発想法は韓国における有力な同族集団の祖先顕彰と同じものであり、儒教的な祖先崇拝の観念が認められる」と一致した観測をしている。朝鮮の儒教と両班の「伝統」は北朝鮮でも脈々と続いているということであろうか。
テポドン発射
国際的な孤立を深めた北朝鮮は、先軍政治の思想をさらに先鋭化させ、軍事国家としてその実力を国際的に認めさせるための戦略を採った。北朝鮮は独自に核開発に乗り出したが、アメリカ及びIAEAから核開発疑惑を指摘されたため、NPTを脱退した。
北朝鮮の核開発を抑止する目的で2003年から「六者協議」(北朝鮮、韓国、アメリカ、ロシア、中国、日本)が始まったが、北朝鮮側の強硬姿勢は変わらず、2006年10月には核実験を強行したため2007年を最後に開催されなくなった。
さらに2009年にはテポドンなど、北米大陸に到達する大型ミサイルの実験を行い、アメリカおよび日本が硬化し緊張が高まった。国際社会は表向きには中国も含めて北朝鮮に対する経済封鎖を行い、その核開発を抑えようとした。
金正恩
金日成の生家
金日成【キム・イルソン】は出生名・金成桂【キム・ソンジュ】で、1912年4月15日に平壌西方にある万景台で貧農の子として生まれ、幼い頃満州に移住した。吉林中学在学中から共産主義運動に加わって投獄された。中学を中退後、1932年に中国共産党に入党、豆満江沿岸で抗日遊撃隊を創建し、金日成を名乗った。
1937年6月、金日成のパルチザン部隊が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、25歳の金日成は名を知られるようになり、「白頭山の虎」と呼ばれた。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれる。
日本側はパルチザンを根絶すべく、満州に掃討部隊を派遣。その結果、金日成の仲間の多くが死に、パルチザン勢力は見る見る弱体化していった。1940年末には、金日成にとって状況は危機的となり、ついに彼は、部隊を小グループに分散させて、アムール川を渡り、ソ連領に身を隠す決断をする。
第88旅団幹部合影。前列右から2人目が金日成。
ソ連に越境した金日成はスパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁された。その後、東北抗日聯軍で金日成の上司だった中国人の周保中が彼の身元を保証して釈放される。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊は周保中を旅団長とするソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核とななった。
1945年10月14日の民衆大会に出席した金日成
1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した。金日成は9月19日にウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸し、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした。同年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した。12月17日に開催された朝鮮共産党北部朝鮮分局の第3回拡大執行委員会において、金日成が責任書記に就任。1946年5月には北部朝鮮分局を北朝鮮共産党と改名し、同年8月末には朝鮮新民党と合併して北朝鮮労働党を創設し、金枓奉が党中央委員会委員長、金日成が副委員長に就任した。
ソ連は朝鮮半島の統一を望まず、アメリカもまた朝鮮半島の分断を容認した。1948年に入り、アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、8月15日に大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも国家樹立への動きが高まっていった。9月9日、ソ連の後押しで朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任。さらに翌1949年6月30日、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長(1966年10月12日より総書記)に選出された。
金日成
ところで、「白頭山の虎」と呼ばれた金日成と、写真の金日成は別人だという説があるのはご存じだろうか。日本統治下の朝鮮半島において、抗日独立運動に挺身する「キム=イルソン将軍」の伝説があったことには、多くの証言がある。キム=イルソン将軍について巷では、「日本陸軍士官学校を出ている」「義兵闘争のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「白頭山を根城にして日本軍と戦った」などと言われていた。
金日成が初めて北朝鮮の民衆の前に姿を現したとき、「若すぎる」「朝鮮語がたどたどしい」という声があがった。南朝鮮を信託統治していたアメリカ軍は、1948年8月1日に作成した資料で、金成柱が抗日闘士として名を挙げた「金日成」の名を騙っているとしている。(つづく)
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鄧小平は1977年に復活を遂げ、1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議でその主導の下に「近代化された社会主義」を目指す新憲法が採択され、経済発展を目指す改革・開放政策を打ち出した。さらに、1978年12月18日、「歴史的な転換」とも言われる中国共産党第11期三中全会(中央委員会第3回総会)で華国鋒を批判し、代わって実質的に会議をリードした。
三中全会における鄧小平演説は、内外に中国が「改革・開放路線」をめざして新たな段階に入ったことを宣言するものであった。それは政治では共産党一党独裁のもとで社会主義体制を堅持しながら、市場経済(資本主義経済)を国内経済のみならず対外経済でも導入するものであった。具体的には人民公社の解体、農産物価格の自由化などの国内経済の自由化であり、外国資本や外国の技術の導入を認めることであり、そのような開放経済の拠点として「経済特区」と設けるこ
とであった。
鄧小平は内政では当初は表舞台には立たなかったが、1980年には華国鋒首相を辞任させ、権力を集中させた。同時に中国社会主義の柱であった人民公社に対して、その非生産性を批判して、1982年に「人民公社の解体」を断行した。
鄧小平は内政では当初は表舞台には立たなかったが、1980年には華国鋒首相を辞任させ、権力を集中させた。同時に中国社会主義の柱であった人民公社に対して、その非生産性を批判して、1982年に「人民公社の解体」を断行した。

鄧小平の日本訪問
外交面では、1978年8月には懸案であった日中平和友好条約が締結され、同年10月、鄧小平は副首相としてはじめて日本を訪問、同条約の批准書を交換した。
翌1979年1月1日にはアメリカのカーター大統領との交渉によって、米中国交正常化を実現させ、自らも渡米して科学技術協力協定などを締結した。
鄧小平の中国が改革・開放政策に転換した1979年、世界では、1月のイラン革命からイスラーム圏の激動が始まり、12月のソ連のアフガニスタン侵攻はソ連崩壊への始まりと同時に新たなアラブ過激派の台頭の要因となった。また同年、イギリスではサッチャー政権が誕生し、資本主義社会は新自由主義の導入による混迷の時代に突入した。
胡耀邦と趙紫陽
1982年9月、中共第12回全国大会で、胡耀邦が「政治報告」を行い、今世紀末までに80年の工農業生産総額の4倍増の実現……などの目標を掲げた。指導体制としては革命イメージを払拭し、集団指導体制を確立する意味から党主席制を廃止、総書記制を導入し胡耀邦が総書記に就いた。鄧小平自ら最高ポストに就くことを避けたが「最高実力者」であることは誰の目にも明らかで、総書記胡耀邦と国務院総理趙紫陽を左右に従えた「鄧胡趙トロイカ体制」が成立した。
鄧小平政権下で、「中国独自の社会主義の建設」という理念のもと、1980年代以降の中国経済の驚異的な成長を実現させた。それを支えた実務官僚が、党務の胡耀邦、政務の趙紫陽であった。
1982年9月、中共第12回全国大会で、胡耀邦が「政治報告」を行い、今世紀末までに80年の工農業生産総額の4倍増の実現……などの目標を掲げた。指導体制としては革命イメージを払拭し、集団指導体制を確立する意味から党主席制を廃止、総書記制を導入し胡耀邦が総書記に就いた。鄧小平自ら最高ポストに就くことを避けたが「最高実力者」であることは誰の目にも明らかで、総書記胡耀邦と国務院総理趙紫陽を左右に従えた「鄧胡趙トロイカ体制」が成立した。
ゴルバチョフ訪中
同大会では、外交のウエートも近代建設のために、次第に「世界平和擁護」「平和的国際環境の建設」に移り、「自主独立路線」とともに「平和共存五原則」が強調された。また、台湾問題では従来の「武力解放」政策から、「平和的統一」政策への転換が図られ、香港も含め「一国二制度」による「祖国の統一」が力説された。
1950年代から続く中ソ対立についても、1989年5月にソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問して鄧小平と会談、中ソ関係の正常化が実現した。
鄧小平
鄧小平の台頭は、経済の近代化にとどまらず、「政治の近代化」=民主化、に進むのではないか、という期待を人々に抱かせた。しかし、鄧小平は「四つの現代化」実現のためには、「四つの基本原則」を堅持しなければならないと力説した。それは、
1.社会主義の道
2.プロレタリア独裁(後に人民民主主義独裁と表現)
3.共産党の指導
4.マルクス・レーニン主義、毛沢東思想
の四つである。共産党一党支配に対する批判は許さないことを柱とする「四つの基本原則」によって、民主化運動家の魏京生を逮捕するなどきびしい姿勢を貫いた。以後、文学・思想界でも保守派の「ブルジョア自由化反対」と改革派の主張の対立が続く。
中国共産党内にも「ブルジョア自由化反対」を唱え、改革開放路線を危険視する李鵬などの保守派の勢力も強く、鄧小平は胡耀邦、趙紫陽などの改革派とのバランスを巧みにとりながら、政局の安定に努めたが、ついに子飼いの胡耀邦を改革路線の行き過ぎという理由で解任した。改革開放路線の中で成長した市民はさらに民主化を求め、鄧小平政権との緊張感が高まっていった。
胡耀邦の追悼集会
1899年4月15日、リベラルな指導者として人気の高かった胡耀邦前総書記が死去すると北京の学生・知識人たちは追悼集会を催したが「独裁主義、封建主義打倒」「憲法の基本的人権擁護」などを叫ぶ民主化一般の運動へと拡大していった。鄧小平は学生運動を「党の指導と社会主義を根本から否定することである」と決めつけたが、学生はこの当局の決定に反発、また趙紫陽は「学生運動は動乱ではなく、愛国的な民主運動である」と発言し、党内の対立(鄧小平ら長老派、李鵬ら保守派と、趙紫陽ら改革派)が表面化した。
五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、さらに、運動は拡大し天安門広場で100万人といわれる大集会が開かれ、北京の交通や日常生活は麻痺した。ちょうどこのとき、ソ連のゴルバチョフが訪中していた世界の報道機関の取材陣が北京に詰めかけていた。そのため事件はそこに居合わせた世界のジャーナリストによって映像と共に世界に中継されて伝えられた。
5月19日午前4時に趙紫陽は天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳無い」と声を詰まらせながら約8分間拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。6月23日・24日の両日に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた”趙紫陽は党総書記就任直後から4つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされて党の全職務を解任されたが、党籍のみ、そのままとされた。
自宅軟禁下に置かれたものの、外出は比較的自由で趣味のゴルフなどを楽しんでいたが、2005年1月17日に死去した。一説には鄧小平は「六四天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。
5月20日、建国史上初めて首都北京に戒厳令が施行された。これに対して学生・市民らは当局の軍事行動を阻止すべく市内に入る各要所にバリケードを築き、さらに人民解放軍への直接説得活動を続けるなどして根強い抵抗を示した。戒厳令施行から約2週間、当局は鎮圧行動に出ることができず、両者は対峙状況を続けた。学生・市民を支持する声は海外にも広がったが、鄧小平は一切の妥協を拒否した。
6月3日未明ついに戒厳令部隊が出動して抵抗する学生・市民に発砲、その死者は4日までに一説では2000名前後、その後の当局の発表でさえ、軍側も合わせて死者319名、負傷者9000名に達した。活動家の多くが捕らえられ、あるいは国外に逃亡した。一般の人々は口を塞いでしまい、再び重苦しい中で日々を送ることを余儀なくされた。6月4日は、後にこの事件を六四天安門事件というようになるなど、記憶される日付となった。
戦車隊の前に立ちはだかって抗議する青年
第2次天安門事件が世界に報じられたとき、一枚の報道写真が強い印象をあたえた。それが上の写真である。戦車の前に一人たつ若者を捉えたこの写真は「タンクマン」と呼ばれて有名になり、翌1990年の世界報道写真賞を受賞した。撮影したのはニューズウィークの報道カメラマン、チャーリー=コールだった。
友人がコール氏から聞いた話によると、この写真は天安門広場に面したホテルのバルコニーから300mmのレンズで撮ったもので、撮影からほどなく、部屋に入ってきた当局者に連行され、カメラのフィルムは引き出されてしまった。だが、この写真が写っていたフィルムは、トイレのタンクのふたの裏にテープで貼って隠していたため無事だった。それを下着に入れてAP通信の北京支局までたどり着き、電送してもらったという。
この事件は外国報道機関によって世界中のテレビに民衆弾圧の映像が流され、「民主主義への挑戦」「人権弾圧」と受け止めたアメリカなど西側諸国は、中国に対する「経済制裁」を課すことを決め、日本も同調して第3次対中円借款供与を中断した。中国はこれを内政干渉と反発、「中国の改革開放路線は不変である」と力説した。おりからの東欧革命の進行、11月のベルリンの壁の開放も中国への国際圧力を強めることとなった。
江沢民
鄧小平は経済改革の実行者という面と保守的な人権抑圧の権力者という面を併せ持つ指導者であった。第2次天安門事件で中国の開放路線は一時停滞したが、鄧小平は後継者として実務派の江沢民を指名した。江沢民は改革・開放路線を推し進め、イギリスと交渉して「一国二制度」による香港返還を約束させ、1990年代から現在に至る驚異的な経済成長をもたらした。
鄧小平死後の21世紀の中国は、現在の習近平政権に見られるように社会主義市場経済の枠組みを超えた資本主義大国化が進む一方、反比例的に政治の強権化が強まり民主化が押さえ込まれているようだ。その矛盾を隠すように軍事力の増強による覇権の拡張へと向かっているとも感じられる。鄧小平の時のボタンの掛け違いが、やがて大きな混乱となって爆発するのではないか、中国の抱える香港との一国二制度や台湾との関係などが引き金になるのではないか、「大国」となった中国の今後に危惧が感じられる昨今である。
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