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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー現代の活火山・パレスチナ④

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シャロン

 パレスチナ暫定自治協定の成立により平和到来の光が見えたように思われたが、湾岸戦争でのアメリカ軍の進駐に反発したアラブ過激派のイスラーム原理主義運動が盛んになり、PLOの和平路線に反発する新たな勢力としてハマスが台頭した。

 イスラエルでは1995年に和平推進派の労働党ラビン首相が暗殺され、右派のリクードが急速に台頭、2000年にはリクード党首シャロンが1000人以上の武装護衛を引き連れてイェルサレムのイスラーム教神殿(岩のドーム)へ立ち入り、「イェルサレムはすべてイスラエルのものだ」と宣言、反発したパレスチナ人による抗議運動である第2次インティファーダが起こった。シャロンは翌年には首相となり、右派リクードを率いて対パレスチナ強硬路線が強まった。

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アッバス首相(左)、ブッシュ大統領(中央)、シャロン首相(右)

 2001年9月、アメリカでの同時多発テロが起こるとシャロン政権はアラブ過激派の行為と断定、その背後にあるとしてPLOに対する対決姿勢を強め、ヨルダン川西岸にいたアラファトを事実上軟禁状態にした。

 一方アメリカはイラク戦争を遂行する上でその大義のためにはパレスチナ和平を進める必要があり、2003年ブッシュ(子)大統領が仲介してシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッバス首相の間を仲介し、中東和平ロードマップを作成、国連もそれを支持した。シャロンもガザ地区からの撤退を推進することに転じた。

 このシャロンの姿勢転換にリクード内部からの非難が強まると、シャロンは2005年、リクードから分離し中道政党カディーマを結成した。

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ヨルダン川西岸の分離壁

 イスラエルはガザ地区からの入植者の撤退を表明、2005年8月にそれを実現させた。しかし、さらに広大なヨルダン川西岸地区のイスラエル占領地区ではユダヤ人の入植と、入植地を守るための壁の建設が進められており、対立はかえって激化することとなった。

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イスラエル、南レバノンに侵攻

 パレスチナではイスラーム原理主義の影響を受けたハマスが台頭し、2006年のパレスチナの総選挙で第1党となり政権を担当するようになった。イスラエルではガザ地区撤退を進めていたシャロン首相が2006年1月に脳卒中で倒れ、国内での右派の発言力が強まり、同年8月にはイスラエル軍がレバノン南部を実効支配しているシーア派民兵組織ヒズボラのテロ活動を排除するという理由でレバノン南部に侵攻した。2008年以降、特にガザ地区をめぐっての緊張が深まった。

 2009年3月にはリクードの党首右派のネタニヤフが首相となり、パレスティナのハマスやイランなどの反イスラエル勢力との対決、アラブ・ゲリラ攻撃に対する徹底した反撃などの強硬路線をかかげて長期政権を続けた。

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 イスラエルは周辺をアラブ諸国に囲まれているところから、
高度の軍事国家として装備を最大限現代化している。その核武装については、一切明らかにしていないが、保有は公然の秘密とされている。イスラエルとしては、イランに核武装の疑惑がある以上、自衛のための核保有は当然と意識しているのであろう。そのため、1968年に締結され1970年に発効した核拡散防止条約(NPT)には加わっていない。

 2015年の国連における核拡散防止条約再検討会議において、アラブ諸国が中東の非核交渉開始を提案したことに対して、アメリカが反対したのは、同盟国イスラエルの核保有が明るみに出ることを恐れたためと考えられており、オバマ大統領の非核構想の二枚舌性が露呈した格好となっている。(つづく)

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【 2021/12/31 05:20 】

西アジア現代史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

世界史のミラクルワールドー現代の活火山・パレスチナ③

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サダト大統領(左)、カーター大統領(中央)、ベギン首相(右)

 第4次中東戦争で衝撃に襲われたのはエジプトの大統領サダトだった。勝利寸前までいったイスラエルとの戦争で逆転を許し、最後は敗れたという事実から、最終的には和平を実現するしかないという方向に大きく舵を切ることになる。

 1977年、サダトは突然イスラエルを訪問、イスラエルの存在を承認し交渉相手として和平交渉に入ることを表明、ついで翌1978年、アメリカのカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相とのあいだでエジプト=イスラエルの和平を実現し、1979年にエジプト=イスラエル平和条約が成立し、イスラエルはシナイ半島を返還した。
  

 これによって他のアラブ諸国もイスラエルの存在を認め、その消滅をめざすのではなく、共存していくしかないという姿勢に転換した。しかし、パレスチナのアラブ難民の存在は無視されることとなるとして、パレスチナ難民とパレスチナゲリラは激しく反発、パレスチナ解放機構(PLO)は激しいテロ活動に転換する。言いかえれば、イスラエルにとっての敵はPLOだけだという状況が作り出された。

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レバノンに侵攻するイスラエル軍

 PLOは次第に追いつめられ、その本拠をレバノンに移した。1982年6月、イスラエルのベギン政権は、世界の目がイラン=イラク戦争や、フォークランド戦争にむけられているとき、パレスチナ=ゲリラの対イスラエル=テロを根絶することを口実にレバノン侵攻を強行した。これは第5次中東戦争とも言われることがある。

 シャロン国防相が指揮するイスラエル軍はベイルートなどを軍事占領、その結果、PLOはチュニスに撤退し、その力を大きく失うこととなったが、このときイスラエル軍に呼応したレバノン国内のマロン派キリスト教徒による、パレスチナ難民キャンプのアラブ人に対する虐殺行為が行われ、イスラエルに対しても厳しい批判がまき起こり、ベギン首相とシャロン国防相は退陣しなければならなくなった。

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インティファーダ

 1987年にはイスラエルの支配するガザ地区でパレスティナ人の自発的な抵抗運動インティファーダ(第1次)がもりあがる中、PLOのアラファトは1988年に国連で演説し、パレスチナ全体の78%をイスラエルに譲り、残りの22%に相当するヨルダン川西岸とガザ地区に限定した「ミニ国家」を建設することを中心としたイスラエルとの和平交渉に入ることを提唱した。これはパレスチナにおけるに二国家共存をめざす、大きな転換であり、イスラエル側もその受容に傾いた。

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湾岸戦争・砂漠の嵐作戦

 しかし、1989年に始まる東欧革命は、ソ連を中心とした社会主義陣営の崩壊をもたらし、ついには冷戦の終結宣言がなされるに至った。さらにソ連が崩壊したことは、中東情勢にも大きな影響を与えた。米ソの対立という対立軸が失われた冷戦後の世界は、新たな秩序を生み出すのではなく、世界情勢の混迷を生み出し、各地に独自の行動が始まった。

 イラクのサダム=フセインがウエートを侵略したのもそのあらわれであり、それに対して国際連合が機能せず、1991年の湾岸戦争でアメリカ軍を主体とした多国籍軍が侵攻し、勝利者となったことで、中東においてもアメリカの主導権が強まり、それに対する抵抗の動きが新たな対立軸となっていった。

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サダム=フセイン

 1991年の湾岸戦争で、イラクのサダム=フセインは、リンケージと称してパレスチナ問題と関連付け、アラブ諸国の同調を得ようとしイスラエルにミサイル攻撃を行った。イスラエル国内は隣接していない国からの空爆に怯えてパニックに陥り、防毒マスクが飛ぶように売れた。イスラエル軍がイラクに反撃すれば、フセインの思惑どおりアラブ諸国が反イスラエル=アメリカ連合との戦いに同調し、世界戦争に拡大する恐れがあったが、アメリカは強くイスラエルに自重を求め、イスラエルは反撃しなかった。

1991年10月のマドリード中東和平会議
マドリード中東和平会議

 この危機を経たアメリカとイスラエルは、従来のエジプト=イスラエル平和条約のようなものではなく、中東諸国を含む広範な集団安全保障の必要を自覚し、中東和平を前進させることをめざした。そのようなアメリカが主導して開催されたのが、1991年10月のマドリード中東和平会議だった。この会議にはアメリカなど主要国とともに当事国としてイスラエルが参加、そしてパレスチナ人がヨルダンとの合同代表団に加わるという形で参加し、イスラエルとパレスチナ人代表(PLOは除外されていたとはいえ)が国際会議で初めて顔を合わすこととなった。

 しかし、一方の当事者パレスチナ解放機構(PLO)は、湾岸戦争でサダム=フセインのイラクを支持したことから、他のアラブ諸国から非難され、その国際的な地位を低下されていた。そしてマドリード会議にもパレスチナ代表として認められず招聘されなかった。PLOのアラファトはこのような劣勢をはね返すために、大胆な転換を図り、密かにオスロで進められていたイスラエルとの交渉で起死回生を賭けた。

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ラビン首相(左)、クリントン大統領(中央)、アラファト議長(右)

 1993年にノルウェーの仲介でPLOとイスラエルの当事者間の話し合いが初めて行われ、中東和平に関するオスロ合意が成立し、アメリカのクリントン大統領のもとでPLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相(労働党)の両代表が握手しパレスチナ暫定自治協定が成立、1994年にパレスチナにはパレスチナ暫定自治行政府(実体はPLO)が設立されることになった。

 これで、ようやくパレスチナにも平和が訪れると誰もが思ったのだが……。(つづく)


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【 2021/12/28 05:16 】

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世界史のミラクルワールドー現代の活火山・パレスチナ②

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ナクバ

 イスラエルの独立宣言の翌1948年5月15日、周辺のアラブ諸国からなるアラブ連盟はそれを認めず、一斉にイスラエル領内に侵攻し、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発した。イスラエル側はこの戦争を「独立戦争」と称している。イスラエル軍はアラブ諸国の歩調の乱れに乗じて個別に休戦協定を結び、国連のパレスチナ分割案よりも広い領域((パレスチナの3/4)を占領し、独立を確保、さらに国際連合に加盟して国際社会に承認された。 

 5月14日はイスラエルが独立宣言を行った日で、独立記念日とされているが、イスラエル建国のためにパレスチナを追い出された100万にを越える難民にとっては、苦難の始まりを意味していた。現在に続くパレスチナ問題の始まった日でもあり、パレスチナのアラブ人はこの日を「大災厄(ナクバ)」といってその苦難を忘れないようにしている。

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キブツ

 パレスチナ戦争で勝利したイスラエルは、それまでのヨーロッパ各地からだけではなく、中東地域からも多数のユダヤ人が移住してきた。1948年から51年までを「ユダヤ大移民時代」とよび、人口は70万から140万に倍増した。

 しかし、ユダヤ人と言っても、戦前のヨーロッパからナチスの迫害を逃れてパレスチナに移住していた「アシュケナージム」と言われる人々と、建国後にアジア・アフリカ地域から移住したユダヤ人との間に、貧富の格差が大きくなり、経済危機が広まった。イスラエルには戦前の入植時代からロシア系ユダヤ人によって社会主義的集団農場であるキブツが作られ、移住者を吸収し、独特の生産と軍事的性格を持つ制度として存在していた。

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ナセル

 1956年10月29日、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化宣言を発表したことで衝撃を受けたイギリスはフランスとともにイスラエルに出兵を要請した。ベングリオン首相は国力を伸張させる機会ととらえて、エジプトに侵攻した。戦闘ではエジプト軍を圧倒してシナイ半島を占領したが、国際世論は英仏とイスラエルの軍事行動を非難、孤立した三国は撤退した。戦争には勝ったが、ナセルの主張したスエズ運河国有化は認められ、政治的には敗れたこととなり、イスラエルは苦境に立つことになった。

 イスラエルはアメリカ・イギリスからの支援と、西ドイツからの賠償金で経済を維持していたが、軍事優先の財政のためもあって国内の不況が続いた。また、国際政治上の不利も解消されず同情はアラブ側に集まった。1964年にはアラブ人によるパレスチナの解放を目指すパレスチナ解放機構(PLO)も結成され、エジプトとシリアがそれを支援、イスラエルとの関係は悪化した。

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 ヨルダン川の水利を巡ってイスラエルとシリアの間に紛争が生じると、シリアを支援するエジプトのナセル大統領はアカバ湾の入り口を封鎖した。これを反撃の機会ととらえたイスラエルは独自に周辺のアラブ諸国に対する攻撃を開始し、1967年6月5日の第3次中東戦争を起こした。これは、イスラエルが国内の不況と対外的な不利を一挙に解決しようとした軍事行動であった。

 この戦争ではイスラエル軍は奇襲戦法によってエジプト、シリア、ヨルダンという三方のアラブ諸国軍を次々と破り、戦争はわずか6日で決着がついた。イスラエルはこの戦争で、ヨルダン川西岸(東イェルサレムを含む)、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原を占領、イスラエルの支配地はわずか6日間で4倍以上になった。

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パレスチナ難民

 イスラエルの大勝利は、一方でパレスチナ人にとって新たな苦難の始まりだった。第1次中東戦争でヨルダン川西岸とガザ地区に逃げ込んだ難民のうち約19万人が再度、難民としてヨルダン川東岸へ逃げた。また、ヨルダン川西岸とガザ地区にもともと住んでいたパレスチナ人のうち20万人も、ヨルダン川東岸に難を逃れた。

 1967年末までにはヨルダン川東岸へ逃げてきたパレスチナ人の数は、74万人に膨れ上がった。ヨルダン川西岸、ガザ地区から逃げなかったパレスチナ人110万人はイスラエルの占領下で生活することとなった。

Arafat.jpg
アラファト

  アラファトは1929年にイェルサレムに生まれ、第1次中東戦争、第2次中東戦争にアラブ軍兵士として参加、1959年頃、数人の仲間と「アル=ファタハ」という武装集団を結成した。アル=ファタハは、パレスチナの解放はアラブ諸国の首脳の政治的駆け引きで実現されるのではなく、パレスチナ人自らが武器を取って立ち上がるしかないと考え、ヨルダンを基地として、シリアからの武器援助を受け、1965年からイスラエルに潜入して破壊活動を開始した。

 1968年3月21日の戦闘で、PLOのゲリラ戦術がイスラエル軍に勝利し、アラファトの名声があがり、翌1969年PLOの議長となり、パレスチナ側の代表格となった。しかし、ヨルダンのフセイン国王は、国内での反体制運動に転化することをおそれ、1970年にPLOに国外退去を要求、アラブ同士の戦闘であるヨルダン内戦が勃発(PLOはこれを「黒い9月」とよんだ)の結果、PLOは拠点をレバノンのベイルートに移すこととなった。

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ミュンヘン・オリンピック襲撃事件

 1970年代にはPLOの主流派を占めたアラファトの属するファタハなどの激しい武装闘争は世界の注目を浴びた。イスラエルのロッド空港での無差別テロ、「黒い9月」グループによるミュンヘン・オリンピック襲撃事件などは国際世論から非難されるようになった。

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第4次中東戦争

 1973年10月6日、エジプト大統領サダトはシナイ半島での軍事行動を指令、呼応したシリア軍はゴラン高原でも、一斉にイスラエル軍占領地域への攻撃を開始した。この第4次中東戦争開戦の日はユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)であった。この日、ユダヤ人は24時間の断食をして、外出せずにじっと静か一日を過ごす。この日を選んでアラブ側が奇襲攻撃をかけたため、不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされ、中東戦争で初めて敗北、後退を経験した。

 第1次中東戦争、第3次中東戦争で領土を拡大し、イスラエルには「不敗神話」が生まれtいたが、その不敗神話が崩れたのである。イスラエルは戦争の初期に苦戦したが、ようやく体制を整えて反撃に転じ、シナイ半島中間で踏みとどまった。その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。

 アラブ諸国が石油戦略を採用し、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエル支援国に対する原油の販売停止又は制限したことによって石油危機(第1次オイル=ショック)が起きるという、より大きな影響を与えた。(つづく)

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【 2021/12/24 05:33 】

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世界史のミラクルワールドー現代の活火山・パレスチナ①

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 パレスチナは古くはカナーンと呼ばれた地。パレスチナとはこの地方に定住した「ペリシテ(フィリスティア)人の地」を意味する。その後この地方は、ローマ・ビザンツの支配を受け、ついでアラブ・オスマン帝国の一部となった。この間、パレスチナは固定した地理的区画の名称ではなく、シャーム(現在のシリア・レバノン・イスラエル・ヨルダンを合わせた地域)の南部地域を漠然とさし示す地名であった。

 しかし、第一次世界大戦後、イギリスが委任統治領を設定する際に、この地域をヨルダン川の東側と西側に分割し、西側をパレスチナ、東側をトランスヨルダンと決めて、委任統治をしいた。そして、ヨルダン川の西側のイギリス委任統治領パレスチナがバルフォア宣言によるユダヤ人国家建設予定地となったのである。

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シナゴーグで祈るユダヤ人

 イスラエルという名称の由来は聖書の記述に遡る。それによると、アブラハムの息子、イサクの息子であるヤコブが、名をイスラエルと改めるように命じられ、その12人の息子が後のイスラエル12部族の祖先となった、とされている。イスラエルと自称する人々は、他の集団からはヘブライと呼ばれた。また、ユダは12部族の一つとその居住地をさす名称であったが、この部族出身のダビデがイスラエルを統一し、エブス人の建設した都市イェルサレムを占領して都に定めた。その後、ユダヤ教を信じる人々が「ユダヤ人」とされ、ヨーロッパでは迫害の的となっていったのである。

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シオンの丘

 1897年、ドレフュス事件に衝撃を受けたヘルツルの提唱で第1回シオニスト会議が開かれた。シオニストとは「シオンの丘」に帰ろうという運動(シオニズム)の活動家のことである。

 シオンはイェルサレムの別名である。ダヴィデ王が建てたイェルサレムの神殿はバビロン捕囚の際に破壊された。その後、再建された第二神殿も紀元70年、ローマ軍により破壊された。しかし、ユダヤ人はいつかメシア(救世主)が現れ、ユダヤ人を救い、イェルサレムに神殿を再建すると、信じ続けてきた。この「約束の地」への思慕の念は、あくまで宗教的な信条だった。巡礼者としてイェルサレムへ行くユダヤ人は絶えることがなかったが、「ユダヤ人国家再建」という思想とは無関係であった。

 「シオンの地」へ帰還し、そこにユダヤ人国家を再建することを目標としたシオニズム運動は政治的運動へと発展し、19世紀末以降、パレスチナの地にヨーロッパからユダヤ人が移民し始めた。パレスチナには細々とではあったが、ユダヤ人が住み続けていた。そんな、パレスチナに1900年代初めまでに約1万人のユダヤ人が移民した。彼らはロスチャイルド家などユダヤ人大富豪の援助を受けてパレスチナの土地を購入し、開拓農村などを建設した。ユダヤ人移民は、第一次世界大戦終了後の1920年代に8万人、1930年には16万人に達した。

 しかし、ユダヤ人が移民したパレスチナはもちろん「無人の土地」だったわけではない。イギリスの委任統治が始まった1922年当時、パレスチナには約75万人が住んでいたが、そのうちアラブ住民は68万人と圧倒的多数を占めていた。ユダヤ人移民が増えるにつれ、土地を巡るアラブ人との対立が激しくなっていった。このため、イギリスは1939年に両者の調停をはかり、10年後の独立と両民族の共同政権樹立を提案したが失敗に終わった。

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アウシュヴィッツ強制収容所

 ナチスによるホロコーストでヨーロッパのユダヤ人社会は潰滅的な打撃を受けた。ポーランドでは300万人のユダヤ人のうち260万人が殺害された、またルーマニアでは100万人のうち75万人、ドイツ占領下のソ連では250万人のうち75万人が犠牲となり、全体では約600万人のユダヤ人がナチスの犠牲になったと言われる。ナチスの迫害から逃れたユダヤ人はパレスチナに殺到し、1948年にはパレスチナのユダヤ人は65万人に達した。

 第二次世界大戦後、欧米全体が自らの中に潜むユダヤ人に対する残酷な狂気性に愕然とした。その結果、欧米の世論はシオニズム運動に非常に同情的になっていた。ユダヤ人移民の激増により、アラブ人とユダヤ人の対立はますます激しさを加え、各地で衝突が繰り返された。

 1947年2月、イギリスはパレスチナ問題の解決を国連の手に委ねると宣言した。パレスチナにおけるアラブ人とユダヤ人の対立、イギリス政府機関へのテロの増大、欧米諸国の対英批判などに直面したイギリスは、ついにパレスチナ経営を放棄したのである。

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 第二次世界大戦後に繰り返される中東紛争の出発点となったのは、1947年11月29日の国連総会で採択された「パレスチナ分割案」であった。決議案の骨子は、イギリスによる委任統治の終了(イギリス軍の撤退)とパレスチナをアラブ人国家・ユダヤ人国家・イェルサレム特別国際管理地区に3分割するものであった。

 当時パレスチナ総人口の3分の1以下のユダヤ人(土地所有面積では6%)に同地方の56%が与えられ、その区域の人口比はユダヤ人・アラブ人はほぼ1対1となり、紅海の入口(アカバ湾)まで割り込むユダヤ人国家の登場で、アラブ世界が分断されるなど、アラブ側にはとうてい受容しがたい内容であった。米・ソはいち早く支持の姿勢を打ち出したが、在米ユダヤ人機関の予測では必要な3分の2以上の賛成にわずかながら及ばないというものであった。

 それは26日に予定された投票のわずか6時間前であったから、ユダヤ人機関はあらゆる手段を動員してロビー活動を行い、投票日の延長と反対票の可能性のある国に強力な圧力をかけた。ユダヤ人に好意的な国々は投票延期にむけて「マラソン演説」で時間をかせいだ。かくて投票延期とこの国の多数派工作が成功した結果、賛成33カ国、反対13カ国、棄権10カ国で決議案は通過した。

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イスラエル建国を宣言するベングリオン首相

 1848年5月14日、イギリスはパレスチナから撤退し、ユダヤ人は国連分割決議を根拠にただちにイスラエル国の成立を宣言した。それは、ユダヤ人の2000年来の願いが達成された瞬間であった。

 しかし、新しい国の誕生はまた、新しい戦争の始まりでもあった。このあと長く続くことになる中東戦争の始まりである。「もし、1947年の時点でアラブ側が国連分割決議を受け入れていたら、2つの民族はパレスチナで共存できていたし、パレスチナ難民問題やアラブ・イスラエル紛争が起きることもなかったのに」とは今でもよく言われる。特にユダヤ人の側にこうした意見を言う人が多い。

 
しかし、あるパレスチナ人女性が話した。「国連だかなんだか知りませんが、もし国際的に権威のある機関と称するものがある日当然、あなたの家にやって来て、一片の紙を突き出し≪あなたの家の半分は他の人のものになった。ただちに明け渡しなさい≫と言ったら、あなたはどうしますか。決して受け入れないでしょう。私たちパレスチナ人が国連分割決議を受け入れなかったのは当然で、そのことで非難される理由は何もありません」。(つづく)

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【 2021/12/21 05:15 】

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世界史のミラクルワールドーイラン革命の祖・ホメイニ

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若い頃のホメイニ(右から2人目)

 ホメイニは1902年9月24日、イラン中西部のホメインで学者の子に生まれた。出生名はルーホッラー=ムーサーヴィーといったが、のちに「ホメイン出身の者」を意味するホメイニを名乗った。

 ホメイニが生後5ヶ月の時に父親が地元の人間により殺害され、母親とおば達によって教育を受けた。16歳の時に2人とも亡くなり、その後は兄に教育を受けた。 幼い頃に亡くなった父にならいアラークで学んだ後に、彼もイランのシーア派の聖地ゴムでイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者を意味するアーヤトッラーの称号を得た。

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パフレヴィー2世

 イランでは1925年にレザー=ハーンによりパフレヴィー朝が建国されたが、ドイツに接近したレザー=ハーンは1941年にイギリス、ソ連の圧力で退位させられ、子のパフレヴィー2世に替わった。パフレヴィー朝イランは石油の産出国となったため、ドイツ、イギリス、ソ連が強い関心を寄せるようになっていた。

 第二次世界大戦後のイランにおいてもイギリス、ソ連の圧力の中で立憲君主政が機能し、政治を内閣に任せていたが、石油国有化政策を強行したモサデグ政権を1953年にアメリカのCIAなどと協力してイラン=クーデターで倒して独裁的な権力を握った。

 ホメイニは1930年代後半からレザー=ハーンの宗教勢力弾圧に抵抗。1941年にシーア派聖職者の最高学位「イジュテハード」を授与されたホメイニは、同じ年に即位したパフレヴィー2世に対して「王朝の独裁には反対」と宣言した。

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工場を視察するパフレヴィー2世

 国際石油資本による石油資源の支配、社会改革の遅れなどからイランの経済的困難は強まり、また専制政治のもとで腐敗が進行する中、アメリカの要請もあり国内改革を迫られたパフレヴィー2世は、土地改革(農耕地の分配、森林国有化)、女性参政権、労働者への利益分配、国有工場払下げなどの6項目からなる「白色革命」プログラムを国民投票にかけ、1963年に90%の賛成(政府の不正介入による)で実行に移した。

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ホメイニ

 一方議会は停止され、皇帝の独裁的な権限はさらに強化された。この強制的な改革に反対する学生運動やシーア派法学者の運動が起こり、各地で民衆の蜂起があったが厳しく弾圧され、その指導者ホメイニは逮捕され、翌年トルコを経てイラクに亡命した。ナジャフで反パフレヴィー運動を指導したが、イラクからも追放されて、1978年パリ郊外に移った。

 なお、「白色革命」は英語では文字どおり、White Revolution という。ここでいう「白色」とは、「皇帝が命じた」という意味である。フランスで「白」がブルボン朝の国王を象徴する色であったので、白色は国王や皇帝を意味するようになった。

 その国王や皇帝を倒す革命の象徴として赤色が用いられたので、白色は反革命を意味するようになった。革命側が国王や貴族に対して行うのが「赤色テロ」であれば、権力者側が革命家を暗殺する行為は「白色テロ」と言われた。イランの白色革命も、国王が行う革命(それ自体矛盾しているわけだが)なのでそう言われている。

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フランスから帰国したホメイニ

 パフレヴィー2世は白色革命に反対する勢力を、秘密警察(SAVAK)を用いて徹底的に弾圧し、言論・出版の自由を剥奪したため、民衆の反発が強まった。ホメイニはフランスに亡命してからも、一貫して反政府活動を指導し、活発に活動した。

 
1978年、ホメイニを誹謗する記事が新聞に掲載されると、それを政府の陰謀であるとして暴動が起こり、宗教指導者に指導された学生や労働者、農民、市民が王制打倒を叫び始め、収拾をつけられなくなったパフレヴィー2世は1979年1月16日イランを離れ、エジプトに亡命した。

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国民の歓呼に応えるホメイニ

 ホメイニは2月1日に亡命先のフランスから15年ぶりの帰国を果たし、ただちにイスラーム革命評議会を組織した。2月11日、評議会はパフレヴィー朝時代の政府から強制的に権力を奪取し唯一の公式政府となった。「イスラーム共和国」への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得た。

 4月1日、ホメイニは「イラン=イスラーム共和国」の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の最高指導者(国家元首)となり、任期4年の大統領(行政府の長)をも指導しうる、文字通り同国の最高指導者となった。ホメイニは
それまでのアメリカ文化の模倣を否定して厳格なイスラームの日常生活の規範を復活させた。裁判ではシャリーア(イスラーム法)が適用され、映画や文学、絵画もイスラームの教えに沿ったもののみが許され、女性には外出時のヘジャーブ(頭髪と肌の露出をさける衣服)の着用が義務づけられるなど、宗教色の強い、イスラーム原理主義を理念とした政治が展開されることとなった。

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アメリカ大使館員人質事件

  パフレヴィー2世は末期ガンを病んでいたので、アメリカはその治療のためという名目でニューヨークの病院に入院させようとした。しかし、アメリカがその入国を認めたことに反発した学生らが、1979年11月4日にテヘランのアメリカ大使館を占拠、パフレヴィー2世の身柄引き渡しを求めるという、アメリカ大使館人質事件が起きた。この事件によりアメリカとイランの関係は決定的に悪化することになった。

 この事件の発生を受けてパフレヴィー2世は、12月5日にアメリカを離れパナマへ向かった。その後、パフレヴィー2世と「兄弟」と呼ぶほど親交のあったエジプトのサダト大統領に受け入れられ、翌1980年7月27日にカイロで失意のうちに60歳で死去した。

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祈るホメイニ

 ホメイニはアメリカ大使館員人質事件やイランイラク戦争など、共和国初期の最も多難な時期に絶対的な指導者として強硬な内外諸政策を指示した。10余年にわたって革命イランを指導、宗教と政治を一体化させた特異な体制を現代史の一角に築き、1989年6月3日、テヘランで病没した。享年86歳。ゆるぎなき信仰と不屈の闘争心、そして清貧に貫かれた一生であった。

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【 2021/12/17 05:16 】

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世界史のミラクルワールドー恐怖の独裁者・サダム=フセイン②

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炎上するクウェートの油田

 9年にわたったイラン=イラク戦争によって国力を消耗したイラクのフセイン政権は、国力回復の機会を待った。イラン=イラク戦争ではクウェートはイラクを支援して資金援助をしたが、フセイン政権が戦後にその返却に応じようとしなかったことに反発していた。フセイン政権は原油価格の値上げを図ったが、クウェートは薄利多売を主張して値下げするという石油政策でも対立した。

 そうした状況で、1990年8月2日未明、突如イラク軍がクウェートに侵攻、わずか8時間で全土を制圧した。その口実はクウェートはもともとイラクの一州であったのをイギリスが強引に保護領にしたのだから、奪回するというものだった。

 サダム=フセインは、国内におけるイラン=イラク戦争からの復員兵の不満がくすぶり、クウェートが原油価格引き下げによって販路をひろげていることにも反発を強めていた。クウェートは1961年にイギリスの保護領から独立していたが、豊富な石油資源を握る王族が支配する首長制国家であり、憲法と議会は存在したが全く機能せず、イラクの侵攻を食い止める力が無かった。

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 イラクはペルシア湾に面した土地がほとんどなく、船の通行に便利なペルシア湾の利用がままならなかった。クウェートを手に入れれば、クウェートの港湾をすべて使え、ペルシア湾をフルに利用することが出来る。また、クウェートには豊かな埋蔵量を誇る油田があり、これを自国のものとすることが出来れば、イランとの長期戦で生まれた900億ドルもの借款を返すことが出来る。そんな野心がフセインにはあった。

 イラン=イラク戦争から2年しか経っていないのにフセインが戦争に踏み切った背景には、1989年に東欧革命によってソ連の力が激減し、冷戦が終結したことが挙げられる。冷戦終結という世界史的な動きの中で、フセインは決して単純な領土欲からだけ戦争を起こしたのではなく、アメリカ・ソ連という二大国からの介入がないと判断したことが大きな理由ではないかと考えられる。フセインはイラン=イラク戦争ではアメリカの支援を受けていたので、ここでもアメリカは黙認すると踏んでいたとも言われている。

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ブッシュ(父)

 しかし、国連加盟国であり独立した主権国家であるクウェートを一方的に攻撃したことは、激しい国際的な非難を巻き起こし、国連の安全保障理事会がイラク軍に対し撤退勧告を行い、さらに経済制裁を決定した。しかし、イラクが撤退に応じず、「クウェートを19番目の州とする」と宣言して併合したため、アメリカのブッシュ(父)大統領は冷戦終結後も世界の警察官的役割を果たす必要があると考え、武力行使を決定し、多国籍軍を編成して、1991年1月17日にイラク攻撃を開始、湾岸戦争となった。

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ネブカドネザル2世の生まれ変わりと称して描かせた絵画

 空爆が始まるとイラクのフセイン政権はイスラエルに向けてミサイルを発射してパレスチナ問題との「リンケージ」をはかったが、アメリカがイスラエルの反撃を自重させ、中東全体の戦争に拡大することはなかった。

 ちなみに、サダム=フセインは自らを戦争の英雄として国民に訴えるために3人の歴史上の英雄をモデルとした。まず、12世紀に十字軍からイェルサレムを解放したサラディン(サラーフ=アッディーン)。この人物はクルド人であったので、対イラン戦においてクルド人を動員するのに役立った。ついで、7世紀にササン朝ペルシアをカーディシーヤの戦いで破った第2代カリフのウマル。イラン=イラク戦争は「サダムのカーディシーヤ」と呼ばれた。

 さらに、湾岸戦争時の「対イスラエル」という点では、古代にバビロン捕囚を行った新バビロニア帝国のネブカドネザル2世に擬せられた。

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砂漠の嵐作戦

 戦闘はほぼ100時間で決着が付き、イラクが国連決議を受け入れる形で敗北し、クウェートから撤退した。戦後はサダム=フセイン政権は存続したものの、イラクは多国籍軍の監視下におかれ、厳しい経済制裁下におかれることとなった。

 1980年代までの地域紛争では何らかの形でアメリカとソ連という2大国の対立、つまり冷戦が影を落としていたが、1989年の東西冷戦が終結後に起こったこの湾岸戦争ではソ連もアメリカを支持し、先進国が一致し「国連決議」のもとに動いたことが大きな特徴であった。冷戦後の世界において、アメリカが唯一の軍事大国として行動するという状況がここから始まった。

 ところが、その時アメリカ軍がサウジアラビアのメッカなどイスラーム教徒の聖地に軍靴で踏み込んだことに、イスラーム過激派は強く反発し、それがやがて2001年の9.11同時多発テロへとつながる。こうしてみてくると、フセインのクウェート侵攻とそれに続く湾岸戦争が、東西冷戦後の21世紀の世界の混迷の出発点であったことが判る。

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ブッシュ(子)

 フセインは1998年には大量破壊兵器の保有疑惑に対する国連査察を拒否し、空爆を受けた。

 2001年の9.11同時多発テロの後、アメリカのブッシュ(子)大統領は、イラクがテロ集団を隠匿し、大量破壊兵器を所有しているとして非難し、2003年にはサダム=フセインの退陣と亡命を要求したが拒否されたため、2003年3月20日、イラク戦争に踏み切った。

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倒されるサダム=フセイン像

 アメリカ軍はバグダードを空爆、ピンポイントでサダム=フセインの殺害をねらったが失敗した。アメリカ合衆国のもくろみはサダム=フセインさえ殺害すれば、イラク国民が起ち上がるであろうという楽観的なものであった。

 しかし、フセインはその後TVに顔を現して健在ぶりをアピール、同夜アメリカ軍とイギリス軍はクウェートから陸上部隊を侵攻させ、空爆も本格化させた。イラク軍は想定以上の抵抗があったが、アメリカ軍は劣化ウラン弾やクラスター爆弾を投入してその抵抗力を抑え、4月4日にはバクダードに突入、9日には市民とアメリカ軍の手によってサダム=フセイン像が引き倒されて、フセイン政権は倒壊した。5月1日にはイラク軍の組織的な抵抗は終わり、ブッシュ大統領は勝利宣言を行った。

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アメリカ兵に拘束された直後のサダム=フセイン

 サダム=フセイン自身はその後も潜伏を続け、同年12月13日にようやく拘束された。

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処刑されるサダム=フセイン

 サダム=フセイン元イラク大統領に対する裁判は、国際法廷ではなくバグダードのイラク高等法廷で2005年10月から始まった。

 罪状は、イラン=イラク戦争中の1982年のドゥジャイル村でのシーア派住民148名の虐殺、クルド人に対する化学兵器による虐殺(アンファル作戦)など全部で13件に上っていたが、2006年11月5日、高等裁判はドゥジャイル村事件のみで「人道に対する罪」を犯したと認め死刑判決を出した。

 12月26日にはフセインの控訴を棄却して、わずか4日後の12月30日に処刑した。

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【 2021/12/14 05:12 】

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世界史のミラクルワールドー恐怖の独裁者・サダム=フセイン①

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青年時代のサダム

 サダム=フセインは1937年4月28日、イラク北部のティクリート近郊の寒村で農家の子として生まれ、「貫く者」を意味するサダムの名を受けた。生まれた時にすでに父はなく、伯父の家で育った。農業を嫌って家出してバグダードの高校に通い、この頃から学生運動に参加している。

 ティクリートは
スンナ派地域で、アラブの民族主義を主張するバース党の有力者が多かった。サダムは叔父の影響で反英闘争に参加するようになり、1957年、20歳でバース党に入党した。

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エジプトに亡命したサダム(前列右から3人目)

 1958年、イラク革命が起き、ハーシム家が倒され共和政が成立した。しかし、首相となったカセムがアラブ統一よりもイラクの国益を優先する政策をとりアラブ連合共和国への参加に懐疑的だったため、バース党は1959年にカセム首相暗殺未遂事件を起こした。

 この事件に暗殺の実行犯として関与したサダムは、カセムの護衛から銃弾を受けて足を負傷するが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、逮捕を逃れるためベドウィンに変装し、ティグリス川を泳ぎ継いで、シリアに亡命、ついでエジプトに逃れた。

 1963年に帰国後も地下活動に従事し、1968年バース党のクーデターでバクル大統領政権が成立すると、翌年32歳の若さでバース党最高決定機関の革命指導協議会の副議長に抜擢された。バクルがティクリート出身であったからといわれている。サダムは軍人ではなかったが、巧みな権謀術数で古参党員や軍人を排除し、糖尿病のバクルに替わってバース党の実権を握った。


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大統領に就任したサダム=フセイン

 1979年7月17日、バクルが突然辞任を発表、副大統領であったサダム=フセインがイラク共和国第5代大統領に就任した。バクル辞任の理由は病気であったが、実態はサダムを中心とした宮廷クーデタによる追放と考えられており、この時にサダムの大統領就任に反対した勢力は暗殺や投獄・処刑により一掃された。

 サダムは大統領を継承すると、バース党独裁色を弱め、国民議会を再開したり、クルド人の自治を認めるなど「民主化」のポーズをとって国民の支持を得た。しかしその権力の実態は、石油を国営会社で独占してその利益をばらまき、軍と治安組織を押さえて反対派に対しては諜報監視網をめぐらして弾圧する「恐怖の共和国」であった。

 クルド人やシーア派に対して化学兵器を使用して弾圧する一方、「サダム病院」や「サダム空港」を建設し、国の隅々まで肖像を掲げさせて、国父として振る舞うのがその手法であった。

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イラン革命

 1979年2月11日にイラン革命が勃発、イラン=イスラーム共和国が成立したが、革命による混乱が続いた。革命がシーア派のホメイニ師の指導で起こされたため、イラクなどアラブの多数派スンナ派諸国はその波及を警戒するなかで、翌1980年9月、フセイン政権はイランとの国境線で広範囲に侵攻を開始、イラン=イラク戦争となった。

 サダム=フセインはシーア派のイスラーム原理主義が、シーア派が国民の半数を占めるイラクに及ぶことを恐れたのである。バース党のフセイン政権はスンナ派を基盤とし、北部のクルド人と南部のシーア派を抑圧して政権を維持していた。また、イラン領内の石油資源の獲得を目指すのも開戦の目的のひとつであったと思われるが、古代にこの地域に存在した「新バビロニア」のような巨大な帝国を築きたいというフセインの領土拡張の野心の表れでもあった。

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イラン=イラク戦争

 イラク軍は当初、イラン領内で全面的に侵攻を成功させたが、イランが次第に態勢を盛り返し、強い愛国心と反イラク・反米感情を持つ青年層が戦争に参加して激しく抵抗するようになり、イラク軍は次第に後退、ついには逆にイラン軍がイラク領内に攻め込んできた。この間、イラク国内のクルド人がイラン側について反抗した。

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ハラブジャの犠牲者

 このような不利な情勢のもとで、1988年3月16日、フセイン政権はクルド人地区のハラブジャで毒ガス(化学兵器)の全面使用を行い、後に国際的非難を浴びた。

 フセインは兵士を進軍させるとともに、飛行機、ヘリコプターなどの爆撃機を用いて、空と地上から砲撃した。初めは通常兵器が使われたが、後に毒ガスが使われるようになり、住民はいたるところで殺されて死者約5000人、負傷者は約1万に及び、今も後遺症で苦しむ人が多い。

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アメリカ大使館占拠事件

 アメリカはイラン革命でアメリカ大使館占拠事件が起きたこともあってイラクを支援、軍事支援を行い、またソ連は当時アフガニスタン侵攻を行いイスラーム原理主義勢力と戦っていたため、同様にイランの革命勢力の拡大を警戒してイラクを支援した。

 このような国際情勢のもとでフセイン政権はイランとの戦争を継続したが、激しい抵抗のため戦争は長期化した。しかし、隣国シリアがイランを支援して石油パイプラインを閉鎖し、さらにイラン軍が国境を越えてバスラに迫るという形勢逆転が起こり、国際連合も停戦を勧告、1988年8月9日にイラン=イラク軍事監視団を派遣、20日に停戦が発効した。

 国際社会はイランの革命輸出路線をくじき、革命をイラン一国に封じ込めることに成功した。しかしそのために、国際社会は強大なイラク軍の育成に手を貸すこととなり、これがイラクのクウェート侵攻の伏線となった。イラン=イラク戦争は1990年に始まる湾岸危機・戦争への序曲であった。(つづく)

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【 2021/12/10 05:12 】

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世界史のミラクルワールドーアラブの狂犬・カダフィ大佐

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若き日のカダフィ(1970年)

 1942年6月7日、カダフィはリビアの砂漠地帯に住むベドウィン(アラブ化したベルベル人のカッザーファ部族)の子として、スルトで生まれた。ムスリムの学校で初等教育を受ける。第一次中東戦争の影響を受け、エジプト自由将校団の中心人物であるナセルのエジプト革命に魅せられ、アラブの統一による西洋、特にキリスト教圏への対抗を志すようになった。

 1961年にベンガジの陸軍士官学校に進み、在学中から仲間たちと王政打倒を計画し、自由将校団を結成し革命運動を指導した。1965年に卒業するとイギリス留学に派遣されて軍事を学び、帰国後は通信隊に配属された。
 
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イドリース1世

 1969年9月1日、わずか27歳のカダフィは11名の青年将校たちと共に首都トリポリでクーデターを起こし、政権を掌握した。病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は廃位されて王政は崩壊した。

 カダフィは権力掌握後、リビアの伝統的な社会に人民主権に基づく直接民主政である「ジャマヒリア」(アラビア語で民衆の意味、人民民主主義と訳される)を樹立し、国名も「大社会主義リビア=アラブ=ジャマヒリア」と名付けた。この体制では憲法や国会は無く、国家元首も存在しないので、カダフィも要職には就かず、革命の指導者としての「カダフィ大佐」で通した。

 カダフィが「大佐」と呼ばれた理由については諸説があるが、いずれの説でも、カダフィが敬愛するエジプトのナセル大統領が「陸軍大佐」であったからそれに倣った、という点は一致している。

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リビア最大のシャララ油田

 カダフィ大佐の権力の追い風となったのは石油資源だった。1959年に発見されたリビアの油田はカダフィ体制のもと国家資源とされて急速に増産され、それにともなって工業化・都市化も急速に進んだ。カダフィ大佐は潤沢な石油収入を国民に分配することで絶対的な権力を維持することができたが、そのパーソナル・リーダーシップは「反西欧」の姿勢を強め、国内の自由な発言や外国文化との接触の自由を奪うことで成り立っていた。

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カダフィ

 カデフィは遊牧民の生活にこだわり、訪問先の外国でもテントを張って宿泊するのが通例で、ベルギー、ロシア(クレムリンの庭)、フランス(ホテルの庭)、イタリア(ローマの公園)、2009年9月23日に初めて出席した国連総会では、ニューヨーク郊外のニュージャージー州に遊牧民族の伝統に則りテントを張り、そこを宿にしている。

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国連総会で演説するカダフィ

 国連総会の一般演説の席上、国連安保理を「テロ理事会」と批判。国連安保理常任理事国にのみ与えられている拒否権を、国連憲章の前文で謳われている加盟国の平等に反するものと批判し、演壇から国連憲章を投げ捨ててみせ大国による体制を批判した。

 また、「ターリバーンが作りたかったのは宗教国家だったのだ。だったらバチカンのように作らせてやればいい。バチカンがわれわれ(ムスリム)にとって危険な存在だろうか」と発言。さらに「オバマがずっと執権していればいい。オバマはアフリカの息子であり私の息子でもある」、「ケネディ元大統領が暗殺されたのはイスラエルに査察団を送り込んだため。調査した方がいい」「豚インフルエンザ(2009年新型インフルエンザ)はワクチンを売るために人工的につくられたもの、ワクチンは無料で提供しなければならない」などと発言した。

 カダフィの演説は規定の時間である15分を上回る、1時間36分の長時間にわたった。この演説に対してオバマ大統領、ヒラリー=クリントン国務長官などは、はじめから退席。イラン大統領のアフマディーネジャードも途中で退席。
矢継ぎ早に言葉が飛び出す長時間の演説に、国連のアラビア語の同時通訳士が疲れきり、途中で交代する場面も見られた。
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リビアの反政府デモ

 隣国チュニジアのジャスミン革命の影響を受け、2011年2月、カダフィの退陣を求める大規模な反政府デモが発生。国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが欧米を中心とした軍事介入と、欧州に援助された旧王党派などの反カダフィ派の蜂起を招き、2011年8月24日までにカダフィは自身の居住区から撤退。反政府勢力により首都全土が制圧され、40年以上続いた独裁政権は事実上崩壊した。

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カダフィが拘束された下水排水口

8月に事実上政権が崩壊した後も抗戦を続けたカダフィだったが、9月21日には評議会軍が南部サブハを制圧、更に10月17日にバニワリドを制圧、2011年10月20日には旧政権派の最後の拠点であったスルトを制圧した。カダフィは陥落したスルトから複数の護衛車両と共に脱出を試みたが、NATO軍による航空攻撃を受け、破壊された車両から近郊の下水排水口に逃げ込んだ所を反カダフィ派部隊に拘束された。

 国民評議会はカダフィをベンガジなどの主要都市に移送する予定であったが、移送される最中に民兵により射殺された。殺害直後の現場を撮影した映像が流出し、そこではカダフィの血塗れの死体を取り囲んで歓声を上げる民兵の集団が映されている。また更に死体を半裸にして地面に投げ出す、殴る蹴るなどの暴行を加えるなどの非倫理的行為が行われた。独裁者であったとはいえ、極めて無惨な最後であった。

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【 2021/12/07 05:17 】

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世界史のミラクルワールドーブロガーがアラブ世界を変えた・ジャスミン革命

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ベン=アリ大統領

 チュニジアは1956年にフランスから独立、始めは王国であったが、翌1957年に王政が廃止され、ブルギバが大統領に就任し共和政となった。1987年、ブルギバの引退に伴い、後継者として指名されて大統領に就任したのがベン=アリであった。

 しかし、ベン=アリはブルギバ政権の基本方針を転換し、無血クーデターとも言われた。ベン=アリ政権は社会主義路線から転換して社会主義ドゥストゥール党を立憲民主連合と改称し、政治犯の釈放、多党制を認めるなどの一定の民主化を実現した。彼は独立運動に参加した後、軍人として活動して軍を押さえ、圧倒的な国民の支持を背景に、憲法改正を繰り返して大統領任期を延長し、政権の独占を図った。

 チュニジアはアルジェリア・リビアという東西の隣国に比べて民主化、解放の度合いが進み、一定の経済成長も実現していたが、ベン=アリ政権の一族による不正や貧富の差の拡大などが次第に顕著となってきた。

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モハメド=ブアジジ

 アラブ諸国で民主化と自由を求める運動(「アラブの春」)は、一人の青年の焼身自殺から始まった。青年の名はモハメド=ブアジジ(26歳)。チュニジア中部の都市シディブジドで母と妹3人らと暮らしていた。高校卒業後まともな仕事に就けず、約7年間、リヤカーの荷台で果物を売って家族を養ってきた。

 2010年12月17日の朝、モハメドが果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、政府の女性職員が営業許可がない。罰金400ディナール(約2万3000円)だ」と脅してきた。1日の売り上げが5~7ディナールでは到底払えない額だ。

 女性職員は
野菜と友人から借りた秤を没収。さらに、彼の父親を侮辱し、彼自身のみすぼらしさをあざわらい、平手打ちを食らわせた。没収された秤の返還を求め3回役所に行ったが、引き換えに賄賂を要求され追い返された。

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焼身自殺を図るモハメド

 これに抗議するために、モハメドは没収されなかった野菜カートとガソリンの入ったポリタンクを手に、再び役所前まで来た。彼は再び陳情をしようとしたが、役所の敷地内に入ることさえ拒否された。そこで彼は役所前の通りの真ん中に出て、自分とカートにガソリンをかけ、ライターを手に叫んだ。「どうして耳を傾けないんだ。火をつけるぞ」。それでも誰もとりあってくれなかった。

 昼前になり、モハメドは意を決したかのように自ら火をつけたという。
従兄弟のアリ=ブアジジは大勢の群集とともにそこにいたが、モハメドを止めることはできなかった。

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反政府デモ

 従兄弟のアリは事件が起こった直後の現場を画像に収め、インターネットに投稿した。画像は直後の騒ぎを収めた別の画像とともに全国に広がり、市民それぞれが持つ抑圧の記憶を刺激した。息子(25歳)がいわれのない容疑で突然逮捕された経験を持つ貿易商ファトヒ=シーハウィも事件を聞き、昼過ぎに知事事務所前に駆けつけた。「もうたくさんだ。われわれには尊厳が、そして若者には仕事が欲しいだけなんだ」。デモは夜には数百人規模に膨れあがり、夜通し続いたという。

 自殺する若者も次々に現れた。大卒で失業していたというカドリ=ロトフィさん(33歳)は12月月末、自宅そばの井戸に身を投げた。母親は「将来を悲観し、死んで政府に抗議するしかないと思ったのだろう。息子のような若者はたくさんいる」と訴える。

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モハメドを見舞うベン=アリ大統領

 ベン=アリ大統領側はこうした怒りの広がりを鎮めようとしたが、無神経な言動がかえって火に油を注いだ。

 モハメドの母親は、チュニスの病院で看病していた12月28日、大統領宮殿に招かれた。大統領は「救命に全力を尽くす」と語ったが、モハメドの名前さえ知らなかった。大統領はその後病院を見舞いに訪れたが、数分間しか滞在せず、「フランスの病院に運ぶ」という約束も果たさなかった。

 こうした態度がインターネットを通じて広まり、「ベンアリは我々のことを人間と思っていない」とデモがますます拡大したという。モハメドは1月4日にチュニスの病院で死亡した。

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リーナ=ベンムヘンニ

 モハメドの焼身自殺事件をインターネットで発信し続けたのが、リーナ=ベンムヘンニである。この事件が起きた時、27歳だったリーナは大学で英語を教えながら、得意の英語やフランス語を駆使して、20年以上続く独裁政権のベン=アリ政権下における人権問題や腐敗、それに対する人々の反対の声などを拾いブログを書いていた。2010年5月、チュニスの街頭で国の検閲に反対するデモをしたら、仲間が逮捕され、リーナの自宅にも警察が来て、パソコンやカメラを取り上げられた。その一部始終をブログに書いたことで、海外メディアから注目されるようになっていった。

 その約半年後の12月、チュニスから車で3時間以上かかる小さな町シディブジドで、モハメドの事件が起きた。リーナは事件をSNSで知るやいなや、いちはやくカメラを片手に現場に赴き、ブログやフェイスブックなどで刻々と発信する。

 「シディブジドは燃えている」――。ジャーナリストが次々に警察に収監されて動けなくなるなかで、リーナの発信は外国メディアを通して世界中に拡散。かねて行政に不満を持ってきた人々の抗議はチュニジア全土に広がり、焼身自殺事件から1カ月後の1月14日、ベン=アリ大統領一族はサウジアラビアに亡命、23年にわたる長期政権があっけなく崩壊した。

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 この革命はチュニジアのもっとも一般的な花の名を取って「ジャスミン革命」と言われるようになった。その後、安定した民主政権づくりは困難が続いているが、この革命は劇的な広がりを見せ、3月にはエジプトのムバラク政権が倒れたのを初め、他にシリア、イエメン、シリア、リビアといった北アフリカから西アジアにかけてのアラブ諸国の長期政権をゆさぶる大きな動きとなった。この動きは「アラブの春」と言われるようになった。

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【 2021/12/03 05:21 】

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