なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ケネディ
ケネディは国内では「ニューフロンティア」政策にもとづき貧困、差別の解消、教育問題・都市問題への取り組みを進めた。特になおも続いていた黒人差別にたいしてはその解消を目指し、「公民権運動」に取り組んだ。
そのようなケネディの姿勢は、清新な行動派の大統領のイメージで国民的人気を博したが、一方で保守層や軍内部からは警戒されるようになっていた。1963年11月、南部遊説中にダラスで暗殺され、その政策は副大統領から大統領に昇格したジョンソン政権に継承される。
狙撃された瞬間のケネディ
1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問したケネディ大統領は、自動車パレード中に狙撃され、死亡した。暗殺犯容疑者リー=ハーヴェイ=オズワルドがその日のうちに逮捕されたが、2日後にオズワルド自身が射殺されてしまった。最高裁首席判事ウォーレンを委員長とする調査委員会はオズワルドの単独犯行と結論を出したが、現在も陰謀説も含めさまざまな異論が出されている。
陰謀説には、キューバ危機をめぐる反カストロ派、親カストロ派のいずれかの犯行説、人種問題をめぐる右派と左派のいずれかの陰謀説、ベトナム撤退を考えていた大統領を消した軍の犯行説、さらにFBIやCIA、副大統領ジョンソンの陰謀説までさまざまである。ケヴィン=コスナー主演の『JFK』も大胆な陰謀説を題材にしている。
ケネディ一族では、弟のロバート(兄の政権で司法長官を務め、公民権法制定に活躍した)が、1968年、大統領選の民主党候補指名獲得運動中に暗殺されている。
リンカンの暗殺
ケネディの暗殺は、多くの人にリンカンの暗殺を思い起こさせた。リンカンは1860年に当選し、夫人同伴、衆人環視の劇場で殺され、副大統領A=ジョンソンが後を継いだ。ケネディは1960年に当選、やはり夫人同伴でパレード中に殺され、副大統領L=B=ジョンソンが大統領となった。
それだけではない。最後にゼロのつく年に当選した大統領は、在任中に病死するか暗殺されている。さかのぼっていくと1940年当選のF=D=ローズヴェルト、1920年当選のハーディングはともに病死。1900年当選のマッキンリー、1880年当選のガーフィールドは暗殺されている。
リンカンとケネディの暗殺には、上記のように、0のつく年に就任したこと、暗殺されたとき夫人同伴だったこと、代わりに昇格した副大統領がジョンソンという苗字だったことなど不思議な附合があるが、それだけではない。リンカンはワシントンのフォード劇場で暗殺されたが、ケネディが暗殺されたときに乗っていた自動車はフォードだった、両方とも金曜日だった、二人ともフランス語を話す24歳の女性と結婚した、さらにリンカンがフォード劇場に行くのを止めようとした側近の名がケネディ、ケネディがダラスに遊説するのを止めようとした側近がリンカンとは、驚きである。
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ジョン=F=ケネディ
1917年5月29日、ジョン=F=ケネディはアイルランド系移民の子としてマサチューセッツ州で生まれた。ケネディ家のルーツは1848年にジョンの曽祖父パトリック=ケネディが、まだ英国領であったアイルランドでの差別と飢饉を逃れて新大陸アメリカを目指したことに始まる。祖父パトリック=ジョセフはボストンで港湾労働者から身を起こして実業家となり、マサチューセッツ州下院議員、そして上院議員を経て地元ボストンの有力な民主党員となった。父ジョセフは禁酒法時代に密造酒造りで巨富をなし、金融業を経てついに駐英大使のポストまで手に入れた。彼の夢は一家から大統領を出すことであった。
民主党は1933年からニューディールの政党として長期政権を続けていたが、ニューディール政策が定着したことによって、かえって支持層が保守化して共和党に鞍替えする傾向が出てきた。その結果、1952年の大統領選挙では共和党のアイゼンハウアーが大統領選挙に当選し、それは2期目も継続した。共和党から政権を奪取するため、次の民主党は世代交代を演出し、新鮮な候補者を選ぶ必要があった。そこに登場したケネディは43歳、アイルランド移民の名門の出で、ハーヴァード卒のインテリ、若き上院議員であった。
民主党は1933年からニューディールの政党として長期政権を続けていたが、ニューディール政策が定着したことによって、かえって支持層が保守化して共和党に鞍替えする傾向が出てきた。その結果、1952年の大統領選挙では共和党のアイゼンハウアーが大統領選挙に当選し、それは2期目も継続した。共和党から政権を奪取するため、次の民主党は世代交代を演出し、新鮮な候補者を選ぶ必要があった。そこに登場したケネディは43歳、アイルランド移民の名門の出で、ハーヴァード卒のインテリ、若き上院議員であった。
テレビ討論会でのケネディとニクソン
ケネディは「ニューフロンティア」という未知の可能性をひらくことによって、スプートニク=ショック以来失われていたアメリカの自信を取り戻すことを公約した。対する共和党候補ニクソンは同じように若く、しかもアイゼンハウアーの副大統領としてフルシチョフとも渡り合うなど経験が豊富であることを強調し、エネルギッシュなタフガイと見られていた。
1960年の選挙は、まれに見る接戦となったが、選挙戦では巧みな弁論と魅力的に見られた人柄によってケネディは11万票の僅差で勝利し、アメリカ史上初のカトリック教徒の大統領(バイデンは二人目)となった。決定的な役割を担ったのが、この時初めて導入されたテレビ公開討論であった。ケネディはテレビのおかげで勝った、とも言われた。
ケネディの好印象の理由の1つは彼が着ていたスーツの色と言われる。演説の時にケネディは濃い色のものを、それに対してニクソンは薄い色のものを着ていた。当時のモノクロテレビに映しだされた画面では、ケネディは濃い色で力強く見え、反対にニクソンは薄いグレーの色で、印象が弱く見えたとされている。後にラジオで討論を聞いていた人は「(討論内容だけ聞く限りでは)ニクソンが勝った」という意見が多く、テレビで討論を見た人は「ケネディが勝った」という意見が多かった。
ケネディは俳優のピーター=ローフォードのアドバイスを受けて、綿密にテレビ用のメーキャップをしたうえに、持病(アジソン病)の治療のために服用した薬の副作用で肌の色が浅黒くなったために「日焼けしたスポーツマン」に見えた。それに比べ、ニクソンは直前に病気をしたため、病み上がりで顔色が悪かったにもかかわらず、「議論の内容が重要である」と言ってメーキャップを断り、さらに選挙戦の疲れも相まってやつれて見えた。さらに、照明の暑さから何度も汗をぬぐう場面もあり、これが有権者からは焦っている仕草とみられてしまった。
ケネディは俳優のピーター=ローフォードのアドバイスを受けて、綿密にテレビ用のメーキャップをしたうえに、持病(アジソン病)の治療のために服用した薬の副作用で肌の色が浅黒くなったために「日焼けしたスポーツマン」に見えた。それに比べ、ニクソンは直前に病気をしたため、病み上がりで顔色が悪かったにもかかわらず、「議論の内容が重要である」と言ってメーキャップを断り、さらに選挙戦の疲れも相まってやつれて見えた。さらに、照明の暑さから何度も汗をぬぐう場面もあり、これが有権者からは焦っている仕草とみられてしまった。
就任演説を行うケネディ
1961年1月20日の大統領就任演説でケネディは「世界の長い歴史において、最大の危機に瀕した自由を守る役割を与えられた世代はわずかしかありませんでした。私はこの責任に尻込みしません。歓迎するものです」と述べて、東西冷戦下でソ連に後れをとった宇宙開発などでアメリカの自信の回復に努めることを呼びかけ、「国があなたのために何をすることができるかを問うのではなく、あなたが国のために何をすることができるかを問うのです。」と述べた。
ウィーン会談でのフルシチョフとケネディ
1961年6月、当時東ベルリンから西ベルリンを経て西ドイツに密出国するものが増え、ベルリン問題が深刻化し、大統領就任直後のケネディはウィーンでソ連首相フルシチョフと米ソ首脳会談を行うことになった。しかしソ連がドイツからのアメリカ軍の撤退を要求したことに対してケネディが拒否したことから話し合いは決裂し、1961年8月13日、東ドイツ政府はベルリンの壁の設置に踏み切った。
カストロ
ケネディの大統領就任以前にアメリカの喉もととも言える場所にあるキューバでカストロが権力を握り、キューバ革命が始まっていた。両国はすでにアイゼンハウアー大統領の時、1961年1月3日に国交を断絶していた。
ケネディは前大統領の時から計画されていたキューバ革命政権転覆のために亡命キューバ人を侵攻させることを承認し、4月に実行されたがそれは失敗した(ピッグス湾事件)。態度を硬化させたカストロは1961年5月にキューバ社会主義宣言で社会主義路線を採ることを明確にした。それに対してケネディ政権は、「進歩のための同盟」と称してラテンアメリカ諸国への援助を表明してキューバの孤立化を図った。
キューバにソ連のミサイル基地が設けられたことを探知したケネディは1962年10月22日にキューバ封鎖を実行、両陣営が一触即発という事態となるキューバ危機が起こった。米ソの対立は核戦争の一歩前まで行き着いたが、両首脳はホットラインで話し合い、フルシチョフがミサイル撤去に応じて危機は回避された。この緊張の高まりを受けて、1963年の部分的核実験停止条約の成立を実現させた。
グリーンベレー
アイゼンハウアー
ドイツ南部にルーツを持つアイゼンハワーの祖先が、宗教的迫害を逃れて新大陸アメリカに渡ってきたのは、アメリカの独立宣言よりも約半世紀前の1732年のことである。アイク(アイゼンハワーの愛称)は、カンザス州で代々農業を営む一族の、男ばかり7人兄弟の3番目として、1890年10月14日に生まれた。
貧しい一家ではあったが、「努力しなければ何も得られない」を信条にする母親は、「溺れたくなければ泳ぎなさい」というような示唆に富む言葉で息子たちを厳しく教育した。歴史と英語の成績が良く、何よりもスポーツが好きだったアイク少年は、大学進学のため学費を稼ごうとすぐ上の兄と地元の工場で働き出した。しかし友人の影響もあって、学費不要の軍学校への進学を決意する。地元選出議員の推薦も受け、トップの成績でウエストポイント陸軍士官学校に入学した。
フットボール選手時代のアイク
入学してしばらくはフットボールの花形選手として活躍したが、膝を負傷。フットボールをあきらめきれなかったアイク青年はコーチに転じる。
学生の頃からポーカーが得意で、任官の翌年に結婚した花嫁の衣装代をポーカーで稼いだ、という逸話を持っている。
任官後、軍人としては平々凡々な経歴を重ねていく。第1次世界大戦で欧州派遣軍に手を挙げるもかなわず、代わりに南北戦争の激戦地ゲティスバーグ近郊のキャンプ・コルトで当時の新兵器であった戦車を研究する部隊に配属された。ここでアイクは戦車に関する知識を徹底的に学んだ。
パットン
その後、キャンプ・ミードの戦車学校に移り5歳年長のパットンと出会う。彼らは戦車の研究と実験に没頭するのだが、後々それが生きてくることは、当時は知る由もない。士官学校でのアイクの成績は中の上というところで、軍人としての野心も「せめて大佐で退官できれば」という実に平凡なものだった。
しかし、凡人に終わると思われたアイゼンハワーの人生は、3人の上司との出会いで大きく変わることになる。3人とは 副官をつとめたフォックス=コナー少将、反面教師のダグラス=マッカーサー陸軍参謀総長、心酔したジョージ=マーシャル陸軍参謀総長である。
1920年代の終わりから1930年代の初めまで、アイゼンハワーの軍歴は停滞した。階級も16年間少佐のままであったが、ようやく1936年に中佐に昇進した。その後、参謀総長マーシャル大将の信任を得て、史上最速の昇進を重ね、1945年には元帥にまで上り詰めた。
アイゼンハウアーは第二次世界大戦では陸軍参謀本部作戦部長などを歴任し、1943年からヨーロッパ連合軍最高司令官として北アフリカ侵攻・ノルマンディー上陸作戦を指揮して指揮して名声を高め、国民的英雄となった。
第二次世界大戦後はコロンビア大学総長を務めた後、トルーマン大統領から欧州連合軍最高司令官に任命され、発足した北大西洋条約機構(NATO)軍の組織化と米軍の欧州配備を実現した。ドイツの降伏をもたらした。
第二次世界大戦後はコロンビア大学総長を務めた後、トルーマン大統領から欧州連合軍最高司令官に任命され、発足した北大西洋条約機構(NATO)軍の組織化と米軍の欧州配備を実現した。ドイツの降伏をもたらした。
アイゼンハウアーの選挙運動(1952年)
1952年の大統領選挙では、大戦の英雄としての人気から、民主党・共和党の両党から立候補を要請された。アイゼンハワーは出馬を最初拒絶したが、結局説得を受け、共和党の大統領候補として立候補することとなった。その理由としてアイゼンハワーは「民主党が20年間大統領を輩出し、その変更を国が必要としたので共和党を選んだ」と語った。オハイオ州選出のロバート=タフト上院議員を破り、共和党の大統領候補としての指名を得、民主党のスティーヴンソンの戦いとなった。
二大政党の全国大会が初めて本格的にテレビ中継され、アイゼンハウアーのCMも登場した。この1952年を境に大統領選挙はより国民に身近なイベントになっていった。このとき共和党のキャンペーンの「I LIKE IKE」の「アイ」が3回続くフレーズが全米で大流行し、多数のアイテムが作られた。「ビッグスマイル」と言われた無邪気な笑い顔の写真とともに全国に溢れ、アイゼンハウアーが大勝するのに役立った。
ワシントンでの会見に臨むフルシチョフとアイゼンハウアー
その就任演説で、共産圏に対する「まき返し政策」を提唱(ダレス国務長官の提案)し、核開発でも水爆実験を推進、1954年3月には、ビキニ環礁で水素爆弾の実験を行った。一方では現実的な外交政策も見せ、1953年には朝鮮戦争の休戦に踏み切り、その介入失敗に懲りて、アジアの民族紛争には基本的には不介入政策を採った。インドシナ戦争(第1次)の終結を目指すジュネーヴ会議開催には同意したが、ジュネーヴ協定には加わらず、フランス敗退後に東南アジアでの共産化を防止するとしてベトナム介入を開始した。また西アジア地域では、1956年のスエズ戦争(第2次中東戦争)に際してはイギリス・フランスの武力行使に反対したものの、戦後エジプトのナセル政権の親ソ路線が強まると、1957年1月にはアイゼンハウアー=ドクトリンを発表して中東地域に軍事介入することを宣言し、1958年にはレバノン暴動に際してアメリカ軍を派遣した。
一方で、ソ連がスターリンの死去によって、フルシチョフの時に平和共存に転換すると、積極的に対応し、1955年のジュネーヴ4巨頭会談、1959年のフルシチョフ訪米を実現させた。しかし、ソ連の大陸間弾道ミサイル実験成功、さらにU2型機事件が起こり、米ソの対立は再び深刻となった。そのような中で、1962年には日米の軍事同盟強化をめざして日米安保条約改定を行ったが、日本国内では激しい反対運動が起こり、アイゼンハウアーの訪日が中止された。
アイゼンハウアーとニクソン
外交面での米ソ対立が高まる中、1960年の選挙では後継の共和党候補ニクソンが民主党のケネディに敗れ(就任1961年)政権交代となった。ケネディはアイゼンハウアー共和党政権の宇宙開発競争での遅れためにソ連に人工衛星開発で後れを取ったとして批判し、民主党への政権交代を実現した。
翌1961年1月、新大統領ケネディが就任するにあたり、アイゼンハウアーは離任演説を行った。その中でアイゼンハウアーは、「軍産複合体が……不当な影響力を獲得しないように身を守らなければならない」「この結合の力がわれわれの自由あるいは民主主義のプロセスを危険にさらすことを、決して許してはならない」と訴えた。
このアイゼンハウアーの警告はむしろ予告となった。以後アメリカの国防予算は拡大し続け、軍産複合体は大きな財源を手にして、政治・外交・経済政策に決定的な影響力を及ぼすことになる。アイゼンハウアーの予告どおり、アメリカ国民の自由と民主主義を脅かす力となっていったのである。
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17歳のゲバラ
エルネスト=ゲバラは1928年6月14日、アイルランド系の父とスペイン系の母をもち、アルゼンチンのロサリオ市に生まれた。彼は自らをチェと名乗ったが、それはアルゼンチンで人に話しかけるときの「ねえ」という意味で、彼が議論のときいつも使っていたので、キューバでつけられたあだ名である。
エルネストは未熟児として生まれ肺炎を患い、2歳のとき重度の喘息と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数回転居している。幼い頃は痙攣を伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。
しかし、ラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を生涯苦しめた。
ブエノスアイレス大学医学部を卒業し、医師免除を取得。少年時代から喘息に悩んでいたので「アレルギー性疾患について」という論文で博士号をとった。
大学在学中の1951年に友人とともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験した。旅の過程で、チリの最下層の鉱山労働者やペルーのハンセン病患者らとの出会いなど、当時比較的裕福であったアルゼンチン以外の南米各地の状況を見聞し、大きな衝撃を受け、革命に目覚めた。
この放浪旅行は著作『モーターサイクル南米旅行日記』に記され、後にこれを原作として映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』が制作された。
ゲバラとカストロ
医学部卒業後、当時のペロン政権の軍医強制徴兵を嫌ってアルゼンチンを飛び出し、亡命者としてボリビアの革命集団と交わった。革命政権がクーデターで倒されると1954年にはグアテマラで革命に加わるが、アメリカ軍の介入で革命は失敗し、ゲバラはメキシコに逃れた。そこで医者として仕事をしながら、マルクス主義を学んだ。
メキシコシティでキューバから亡命していたカストロと知り合い、そのキューバ解放の理念に同調して、軍医としてキューバ解放の戦いに参加することとなった。
ゲバラ
キューバ革命では革命政府中枢に入り、国立銀行総裁としてアメリカの砂糖輸入割当廃止などの難局にあたり、ついで工業相ととしてキューバの工業化を図ろうとした。また革命政権のナンバーツーとして世界各国を訪問、経済支援を要請した。政府中枢に入っても彼は粗末なアパートに住み、射撃訓練を続け、外国訪問もベレー帽にヒゲに戦闘服というスタイルを通した。
広島を訪れたゲバラ
1959年にゲバラは来日し、池田通産相と会談し、広島を訪ねている。その際ゲバラは「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と問うたという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、同国では現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげている。
国連総会で演説するゲバラ
1964年12月11日、ゲバラは国連総会で次のような大国批判の演説を行い、第三世界の社会主義化の先頭に立った。
我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。
この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。
あまりにも多くの血が流されたからだ。
代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。
我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。
また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。特にソ連が率いる社会主義陣営の支持
を。
を。
その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!”
しかし、ゲバラの工業化路線に対し、ソ連はキューバに砂糖生産優先を押しつけたため、それを受け入れたカストロとの間に次第に意見の齟齬がみられるようになり、工業化も失敗した。またキューバ危機でアメリカの脅しに屈し、キューバ政府に相談もなくミサイルを撤去したソ連に対して不信感を持つようになった。
コンゴでのゲバラ
1965年4月、カストロに訣別の手紙を残して突然姿を消したゲバラは「ゲリラ戦争による世界革命」を夢見てアフリカに渡り、アルジェリア戦争後のFLNのベン=ベラと会談、コンゴ動乱に加わりルムンバ死後の政府軍を指導した。
しかし、冷戦下の複雑なコンゴ動乱の政治対立にいやけがさしたのか、キューバに戻った。カストロは1966年にソ連批判に転じてゲバラとの関係も修復し、南米の革命根拠地作りのため、ゲバラをボリビアに派遣した。
ボリビア政府軍に捕らえられたゲバラ
当時ボリビアはバリエントス軍事政権がアメリカのCIAの支援の下で錫鉱山などを支配していた。ボリビアに潜行したゲバラはゲリラ部隊を組織し、反政府活動を展開し、ボリビアのベトナム化をめざした。しかし約11ヶ月の戦闘の後、政府軍によって捕らえられ、1967年10月9日、銃殺された。享年39歳。30年後の1997年、遺骨が発見されてキューバに葬られた。

葉巻を吹かすゲバラ
ゲバラのボリビアでのゲリラ戦は彼がつけていた日記が密かにキューバにもたらされ、『ゲバラ日記』として公刊された。誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだ。彼は民族や国家を超えて世界革命を追い求めた革命家だった。
また、ゲバラは喘息持ちでありながらも葉巻の愛好家として知られている。葉巻は革命家の象徴であり、ゲリラ戦での虫除けにも用いられた。また、キューバの特産品でもあるため、これを世界に向けてアピールする狙いもあったとされている。酒は飲まず、マテ茶が好物であった。
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カストロ
カストロはアメリカ軍がキューバ侵攻を企て、空爆を加えた翌日の1961年4月16日に開催された犠牲者追悼集会で「われわれはアメリカの面前で社会主義革命を達成し、この銃でその社会主義を防衛する」と演説し、さらに1961年5月1日に初めて社会主義宣言を発表した。
こうしてキューバ革命は、独裁政治を倒して社会正義を実現しようというカストロの初期の動機から、社会主義社会建設という方向性に転換、あるいは成長していった。さらに同年12月のテレビインタビューで「私はマルクス・レーニン主義者でり、死ぬまでそうあり続けるであろう」と公言した。
そのような状況下で、キューバとソ連の関係は一層親密化し、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に最新鋭のジェット戦闘機や地対空ミサイルなどの供与を要求しはじめた。しかしソ連は1962年夏には、最新兵器の提供の代わりに秘密裏に核ミサイルをキューバ国内に配備するアナディル作戦を可決し、キューバ側のカストロもこれを了承した。
アメリカ軍が撮影したキューバ国内のミサイル基地
1962年7月から8月にかけて、ソ連やその同盟国の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったため、これを不審に思ったアメリカ軍は、キューバ近海の公海上を行き来するソ連やその同盟国の船舶やキューバ国内に対する偵察飛行を強化していた。
1962年10月14日日曜日、アメリカの偵察機U2型機がキューバ上空を飛行し、ミサイル基地を撮影した。CIAがこれを分析した結果、核兵器搭載可能なソ連の中距離ミサイルが運び込まれていることを確認。少なくとも14基のミサイルが布カバーをして設置してあった。
1962年10月14日日曜日、アメリカの偵察機U2型機がキューバ上空を飛行し、ミサイル基地を撮影した。CIAがこれを分析した結果、核兵器搭載可能なソ連の中距離ミサイルが運び込まれていることを確認。少なくとも14基のミサイルが布カバーをして設置してあった。
EXCOMに出席したケネディ(窓際中央)
この写真は10月16日、火曜日午前9時、ケネディ大統領のもとに届けられた。ケネディはただちに「国家安全保障会議緊急執行委員会(EXCOM)を招集し、対策を検討した。会議でマクナマラ国防長官は、アメリカの東半分がミサイルの射程にに入ることを指摘した上で、「キューバ空爆が必要なら、数時間で可能になる」と言明した。軍のトップのテイラー総合参謀本部議長も、「さらに偵察写真を撮って攻撃目標を正確に把握し、一気に奇襲に出ることだ」と進言した。
もしキューバを空爆するなら、攻撃目標をどれにするか。アメリカ軍は5つのシナリオを準備した。問題のミサイルと核弾頭倉庫だけの計52カ所を爆撃する案。ソ連製の戦闘機すべてと地対空ミサイルも合わせて計194カ所を攻撃する案。あらゆる軍事施設を攻撃する案などを含めて5つだ。特に5番目の案の場合は、アメリカ軍による全面侵攻がそれに続くことを前提としていた。
検討会議が始まって3日目の10月8日の会議で、アメリカ空軍のトップ、カーチス=ルメイ空軍参謀総長は、「軍事行動以外に選択肢はありません」とケネディに詰め寄った。
10月22日午後7時、ケネディは通常のテレビ番組を中断して、国民に対し、キューバにソ連の核ミサイルが配備されていることを発表した。軍部の強硬な申し入れにもかかわらず、ケネディは全面核戦争へのエスカレーションを避けるため、キューバ攻撃ではなく、海上封鎖を選択した。同時に、キューバへの輸送途中のすべての攻撃用兵器の徹底した「隔離」を行うと述べた。もしキューバを空爆するなら、攻撃目標をどれにするか。アメリカ軍は5つのシナリオを準備した。問題のミサイルと核弾頭倉庫だけの計52カ所を爆撃する案。ソ連製の戦闘機すべてと地対空ミサイルも合わせて計194カ所を攻撃する案。あらゆる軍事施設を攻撃する案などを含めて5つだ。特に5番目の案の場合は、アメリカ軍による全面侵攻がそれに続くことを前提としていた。
検討会議が始まって3日目の10月8日の会議で、アメリカ空軍のトップ、カーチス=ルメイ空軍参謀総長は、「軍事行動以外に選択肢はありません」とケネディに詰め寄った。
この場合の「隔離」は実際には「臨検」のことであり、強制的に停船させて積み荷を検査することを意味した。これを公海上で実施することは、準軍事行動にあたる。ケネディはソ連を必要以上に刺激することを避け、「臨検」ではなく「隔離」という言葉を使ったと考えられる。
また、ケネディは、「キューバから西側諸国への核ミサイル攻撃は、ソ連によるアメリカへの攻撃とみなし、全面報復を招くだろう」と警告した。
これに対してソ連は、アメリカの対応は核戦争への道だと非難し、ソ連軍に臨戦態勢をとるよう命じ、ワルシャワ条約機構に加盟している東欧各国も同様の態勢をとった。一方、キューバはアメリカ軍の攻撃を予期して総動員令を発動し、25万人の市民が防衛体制に入った。
海上封鎖宣言に署名するケネディ
10月23日午後7時、ケネディは海上封鎖宣言に署名し、10月24日午前10時に発効した。アメリカは陸海軍および海兵隊、沿岸警備隊などを総動員した体制を取り、航空機、艦船、潜水艦などで海上封鎖線近辺の警備を強化したほか、ソ連の貨物船が海上封鎖を突破しアメリカ軍がこれを撃沈した場合、即座に全面戦争となる可能性もあったことから、日本や西ドイツ、トルコをはじめとする海外の基地においても総動員体制をかけ、アメリカ軍人のみならずドイツ軍なども休暇の兵士を呼び戻した。
アメリカ国防総省は「共産圏の船が停船を拒んだ場合、撃沈する用意がある」と発表し、双方の緊張はさらに高まった。核戦争の危機が高まる中、アメリカ中で核シェルターでの生活に備えた食糧の買い占めが始まった。ソ連国内では。この事態は報道されなかったが、国民の間に「核戦争が始まりそうだ」という噂が広がった。世界中が核戦争の恐怖に怯えた。
ソ連の貨物船の上空を飛行するアメリカ軍の対潜哨戒機
10月27日土曜日、キューバ上空を偵察飛行中のアメリカ軍の偵察機が、ソ連軍の地対空ミサイルによって撃墜され、緊張はますます高まる。
約100隻のアメリカ軍艦が封鎖ライン上で警戒を続けていた。封鎖ラインに向けて、多数のソ連貨物船が向かっていた。この貨物船が封鎖ラインを突破しようとすれば、アメリカ軍が阻止するであろう。もし、そうなれば、どうなるのか。
約100隻のアメリカ軍艦が封鎖ライン上で警戒を続けていた。封鎖ラインに向けて、多数のソ連貨物船が向かっていた。この貨物船が封鎖ラインを突破しようとすれば、アメリカ軍が阻止するであろう。もし、そうなれば、どうなるのか。
ソ連海軍の潜水艦を監視するアメリカ軍の航空機と艦艇
封鎖ライン周辺にはソ連軍の潜水艦が集結しており、これをアメリカ海軍の駆逐艦が追い回していた。いつでもソ連を核攻撃できるように、核爆弾を積んだ爆撃機が、大西洋上で旋回を続けていた。アメリカ海兵隊第5遠征旅団はキューバ攻撃の準備を終え、乗船を始めていた。1万4000人の空軍予備兵が呼び出され、それぞれの集合場所に向かっていた。
マクナマラ国防長官は、「土曜日の夜を見るのも今日が最後」だと覚悟したという。アメリカ政府の高官は、いすれも眠れぬ夜を過ごした。ケネディ大統領は、好きな映画「ローマの休日」を見ながら、この夜を過ごした。世界は瀬戸際を迎えていた。
10月28日、日曜日の朝、ソ連のモスクワ放送は、「キューバからの武器の撤去」を発表した。「ミサイル」という言葉はなかったが、ソ連は核ミサイルを配備したことを表向き最後まで認めないまま、アメリカの要求を呑んだのである。
ミサイル配備発見から2週間で、キューバ危機という「20世紀最大の危機」は去った。
キューバ危機は、「アメリカがキューバを攻撃しないと約束するなら、ソ連はキューバからミサイルを撤去する」という形で決着した。しかし、これはあくまでも表向きのことで、実はケネディは密かにフルシチョフと交渉し、アメリかがトルコから核ミサイルを撤去すると約束していたのである。ところが、この両首脳の妥協はカストロには知らされていなかった。カストロはフルシチョフの勝手な妥協はキューバを見捨てることだとして激怒した。
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ミサイル配備発見から2週間で、キューバ危機という「20世紀最大の危機」は去った。
キューバ危機は、「アメリカがキューバを攻撃しないと約束するなら、ソ連はキューバからミサイルを撤去する」という形で決着した。しかし、これはあくまでも表向きのことで、実はケネディは密かにフルシチョフと交渉し、アメリかがトルコから核ミサイルを撤去すると約束していたのである。ところが、この両首脳の妥協はカストロには知らされていなかった。カストロはフルシチョフの勝手な妥協はキューバを見捨てることだとして激怒した。
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アイゼンハウアー
1959年1月7日、アメリカのアイゼンハウアー政権はキューバの革命政府をただちに承認した。腐敗した独裁者バティスタに代わって、国民の支持を得たカストロがキューバに民主主義をもたらし、アメリカとの関係を続けることを期待したのである。
しかし、カストロの革命政府は、バティスタ政権の幹部だった500人以上を人民裁判で公開処刑し、アメリカ企業が所有していた農地65万ヘクタールを国有化した。さらに、カストロは選挙で国民の意志を問うことをしなかったため、アメリカとの関係は日増しに悪化していった。
カストロとニクソン副大統領
カストロは4月にホワイトハウスを訪れ、副大統領のリチャード=ニクソンと会談した。大統領のアイゼンハワーは「ゴルフ中」で会えないという弁解を行ったことからも、当時アメリカがカストロを軽視していたことが窺える。
この年の5月、キューバはソ連から輸入した原油の精製をキューバ国内にあるアメリカの石油会社に依頼したが、石油会社側はこれを拒否。キューバはただちにアメリカの石油会社を国有化した。アイゼンハウアーはその報復として、キューバからの砂糖の輸入量の95%削減を決めた。キューバにとって砂糖の輸出は、経済の命綱であったが、アメリカはそれを断ち切ろうとしたのである。カストロは、アメリカ企業26社を国有化することでこれに応えた。アメリカの損失は10億ドルを超えた。これに怒ったアメリカは、キューバとの貿易を停止してしまう。
一方、ソ連はアメリカが買い付けを拒否した砂糖の全量を買い上げることを申し出た。これ以来、キューバはソ連との経済的な結びつきを強めていくことになる。当時ソ連は、平和共存路線を採っていたので、当初はキューバ支援に積極的であったわけではなかったが、1960年5月にソ連領内でアメリカの偵察機U2型機が撃墜されるという事件が起こり、米ソ関係が一気に悪化し、それがキューバとの軍事的提携の契機となった。
国連総会に出席したカストロ
1960年9月、国連総会に出席するためにニューヨークに渡ったカストロは、高級ホテルで法外な費用を請求されたためやむなくハーレムの安宿に移り、そのホテルにフルシチョフの訪問を受け、友好関係を結んだ。
この時の国連総会はこれまでで最も記憶に残る総会での風景だった。戦闘服に身を固めたキューバ人が、フルシチョフの長い演説の中で彼らの革命に言及がある度に取り乱したように騒々しく歓声を上げた。ソ連の指導者自身も景気付けに大声を張り上げてマクミラン(イギリス首相)の演説を黙らせようとしたが、それに失敗すると片方の靴を脱ぎ、ドンドンと机を叩いて泰然としたイギリスの首相を妨害しようとしたのである。
そして、カストロ本人も演壇に立つと忘れがたい印象を残すことになった。「できるだけ短く終わらせるつもりだ」と聴衆に保証した後、彼はアメリカ帝国主義の罪悪に関して4時間半にもわたり長口舌をふるったのである。これは国連での最長記録である。
カストロとフルシチョフ
国連での演説が終わると、アメリカがキューバの航空機を差し押さえたため、カストロは帰国できなくなった。この時にソ連が旅客機リューシン18を提供、これに乗ってカストロは帰国した。
ハバナには15万の民衆がカストロの帰国を歓迎した。カストロは出迎えた民衆に、「アメリカは冷たい敵意のある国である。ニューヨークは迫害の都市である」と述べた。
大統領就任式で演説するケネディ
1960年3月、アイゼンハウアーは国家安全保障会議において、CIA長官のアレン=ダレスの構想した「キューバの別な政府に権力を与える」ためのゲリラか活動の拠点を造ることを許可した。その計画に基づきグアテマラに基地を設け、亡命キューバ人を主とする戦闘人員の訓練を開始した。同年末のアメリカ大統領選挙では、民主党のケネディ候補は、アイゼンハウアーの対キューバ政策は生ぬるいと言って批判した。アメリカとキューバはついに1961年1月3日に国交を断絶した。
その直後に大統領に就任したケネディは、キューバ侵攻作戦を実行に移し、まず上陸作戦を可能にするため、4月16日、キューバの数箇所の空港を爆撃した。アメリカは、爆撃機はキューバ空軍の標識を付けており、パイロットはカストロに反旗を翻したキューバ兵であると主張した。17日にはキューバ西部のカリブ海に面したヒロン湾に、上陸用舟艇で1500名の兵員が上陸した。ただちにキューバ民兵が応戦、カストロ自身もソ連製戦車に乗って現場に急行、水際での阻止をめざした。侵攻部隊がわずかでも拠点を確保し、そこで暫定政権を樹立して国際的承認を求めれば、アメリカがそれに応える形で本格的な軍隊を派遣してくる口実にされることを阻止しなければならなかったからだ。
反革命軍部隊である第2506旅団のメンバー
激しい戦闘は3日間続き、キューバ側の勝利に終わった。侵攻側は1189名の捕虜、107名の死者を出し、キューバ側は161名の死者を出した。このヒロン湾の闘いによってキューバ国民はカストロの背後にさらに団結を強化する一方で、社会主義への道を決定的なものにした。他方アメリカはその大国主義的傲慢さを内外に露呈するとともに、正義なき戦いに敗北することによってその対キューバ観は感情的なものとなった。
侵攻作戦の失敗後も、CIAはカストロの暗殺を何度も試みた。カストロの吸う葉巻に毒を仕込んだり、カストロが演説するテレビ局のスタジオに精神を錯乱させるガスをまいてカストロが発狂したように見せかけたりする計画まで立てられたが、ことごとく失敗した。
2006年に国家評議会議長兼閣僚評議会議長の権限を暫定的にラウルに移譲するまでに暗殺を638回計画されたといわれ、そのうち147回はCIAが計画したといわれる。カストロは命を狙われた回数が世界で最も多い人物である。(つづく)
侵攻作戦の失敗後も、CIAはカストロの暗殺を何度も試みた。カストロの吸う葉巻に毒を仕込んだり、カストロが演説するテレビ局のスタジオに精神を錯乱させるガスをまいてカストロが発狂したように見せかけたりする計画まで立てられたが、ことごとく失敗した。
2006年に国家評議会議長兼閣僚評議会議長の権限を暫定的にラウルに移譲するまでに暗殺を638回計画されたといわれ、そのうち147回はCIAが計画したといわれる。カストロは命を狙われた回数が世界で最も多い人物である。(つづく)
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フィデル=カストロ
フィデル=カストロは1926年8月13日に生まれた。父のアンヘル=カストロはスペインから陸軍兵としてキューバに来た後、農場主として成功をおさめた人物で、家は裕福であった。フィデルはハバナ大学に入学後、学生運動に参加。21歳の時、ドミニカの独裁政権打倒の戦いに参加して捕らえられたが、脱走した。大学卒業後、弁護士となって事務所を開いたが、貧しい人々を弁護して金銭的は恵まれなかった。
1953年7月26日、26歳のカストロは、弟のラウルら130名の仲間とカーニバルの人混みに紛れてモンカダ兵舎を襲撃、バティスタ政権に対する蜂起の狼煙を上げた。しかし、この蜂起は失敗し、仲間の80人以上が死に、カストロは逮捕された。この日は以後の革命の出発点とされ、以後の運動は「7月26日運動」といわれる。
逮捕されたカストロ
捕らえられたカストロは、精神錯乱状態にあるとされて、病院に隔離され、非公開の裁判にかけられた。その裁判でカストロは5時間にも及ぶ法廷陳述を行い、蜂起の正当性を力強く訴えた。その言葉は獄中からレモン汁で記した秘密の文書で外部にもたらされ、出版されて人びとに強い衝撃を与えた。その一節には次のような文が見える。
「われわれが依拠するのは、毎日のパンを誠実に稼ぎたいと思っている70万人の失業者、みすぼらしい小屋に住み、1年の内4ヶ月働き、子供たちと貧しさをともにしながら、残りの日を飢え、1インチの耕す土地も持たない農業労働者である。……農村の子供の90%が裸足の足から入ってくる寄生虫にやられている。上流社会は一人の子供が誘拐されたり、殺されたりするのを聞いて同情を寄せるが、何千という子供が施設のないため苦痛にもだえながら死んでいく大量殺人に対して犯罪に近い無関心さである。……私は被告の無罪釈放を求めない。……私を断罪せよ。それは問題ではない。歴史は私に無罪を宣告するであろう。」
カストロとゲバラ
判決は禁固15年だったが、2年後に政府は世論の圧力によりカストロを恩赦、釈放した。恩赦後メキシコに亡命したカストロは、バヨ大佐からゲリラ戦術を学んだ。また、アルゼンチンの革命家チェ=ゲバラと知り合い、終生の友となった。
カストロはわずか82人の同士とともにメキシコのトゥスパン港を出港し、1956年12月2日、キューバに再上陸を果たした。乗っていた船は、中古のヨット「グランマ号」で定員はわずか8名であった。「グランマ」とは「おばあちゃん」のことで、現在はハバナの革命博物館の静態保存されている。ちなみに、現在のキューバ共産党の機関紙は、この船の名前をとって『グランマ』という。
カストロは出港前にキューバに戻ることを発表していた。わざわざ敵に教えるようなことをしたのは、独裁政権に不満を持っているキューバ国民に自分が戻ることを知らせ、革命運動を盛り上げようと考えたからだ。当然のことながら、この発表を聞いたバティスタ軍は、上陸しそうな場所で待ち受けた。上陸した8人は、バティスタ軍の戦車とジェット機による攻撃を受け、あっという間にたったの12人に減ってしまう。
12人はキューバ島南部のシエラマエストラ山脈に逃げ込み、ここからゲリラ活動を始めた。所持していた小銃は10丁、弾薬は10包しかなく、ほとんどゼロからの再出発であった。しかし、ゲリラ活動を続けるうちに、次第に仲間が増え、活動ぶりが知られるにつれて、バティスタ政権への反対運動が広がっていった。
これだけの状況に追い込まれてもめげることのない行動ぶりは、まるでドン=キホーテのようにも見えるが、巨大な革命運動に発展させた不屈の精神とその力量は、まさにカリスマであった。
革命勝利の後パレードするカストロ
カストロが再上陸して2年後の1959年1月1日、バティスタ大統領をドミニカへの亡命に追い込み、カストロはついに勝利を収めた。この時、カストロはまだ32歳の若さであった。(つづく)
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青年時代のネルソン=マンデラ(1937年頃)
ネルソン=マンデラは、コーサ人の有力な首長の後継者として、1918年7月18日に生まれた。農村で育ち、ミッション教育を受け、法律学を学んだマンデラは、家族が押しつけた縁談から逃げたいという意図もあり、ジョハネスバークに居を移す。この大都会で、マンデラはアフリカ民族会議(ANC)の政治に深く関与するとともに、オリヴァー=タンボと一緒に黒人初の弁護士事務所を開設した。
逮捕されたマンデラ
1960年代初頭、国民党政府の弾圧が強化されると、マンデラは地下に潜行したが、集会にひょっこり現れるなどして、捜査当局を手玉に取った。1962年には密出国し、ANC武装ゲリラへの支援を求め、アフリカ諸国とイギリスを旅した。彼が逮捕されたのは、秘密裏に帰国した直後の8月であった。

獄中でのマンデラ
マンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監された。1969年5月には、イギリス人傭兵の有志が集まり、ネルソンを救出する作戦が立てられたことがあったが、南アフリカ側への情報漏れで中止されている。1982年、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監。収監は27年にも及び、マンデラはこの時期に結核を始めとする呼吸器疾患になり、石灰石採掘場での重労働によって目を痛めた。
マンデラは収監中にも勉学を続け、1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得した。また、アパルトヘイトの主要勢力であるアフリカーナー(オランダ系白人)との対話を予測し、アフリカーンス語やラグビーの知識を身につけたのも獄中でのことだった。
獄中にあってマンデラは解放運動の象徴的な存在とみなされるようになり、マンデラの釈放が全世界から求められるようになっていった。
獄中にあってマンデラは解放運動の象徴的な存在とみなされるようになり、マンデラの釈放が全世界から求められるようになっていった。
デクラーク大統領と握手するマンデラ
アパルトヘイトに対する国際社会の非難はますます強まり、1977年には国連安保理は南アへの武器輸出禁止を決議し、さらに各国は企業の撤退などの経済制制裁に踏み切った。1984年には大規模な黒人の蜂起があり、翌年、政府は非常事態宣言を出した。経済制裁がさらに強まる中、経済界は政府に政策の転換を迫るようになった。
1990年に南ア共和国白人政権(国民党)のデクラーク大統領は、ついにマンデラの釈放を決定、マンデラは27年に及ぶ獄中生活を終えて解放され、1991年7月にANC議長に復帰した。デクラーク大統領は1991年2月1日に、人種登録法・集団地域法・現住民土地法のアパルトヘイト根幹三法を廃止した。
1993年にはデクラークとマンデラが共にノーベル平和賞を受賞している。
その後、マンデラは人種間の平等と政治的平等を実現させた新しい南アフリカ共和国の指導者として、1994年4月26日に実施された総選挙でANCが第一党となり、黒人初の大統領に選出された。
マンデラは、世界で最も尊敬される政治家のひとりである。27年6ヶ月の獄中生活の期間、マンデラはアパルトヘイトの絶頂期の政治の舞台から隔絶され続けていた。そのことは、この人物に利害関係を超越した象徴性を与える結果となった。
ジャージーを着たマンデラ
釈放後のマンデラは、すべての南アフリカ人に慕われる「おじいちゃん」の役回りを自覚的に演じ、圧倒的な指示を受けた。マンデラ大統領は、公的な行事でも、おしゃれなトロピカル・シャツを着こなしている。首長の威厳と、マスコミ受けを計算できるパフォーマンスを兼ね備えたマンデラは、現代の南アフリカにおける「農村的なもの」と「都会的なもの」を一身に体現する存在だといえるかもしれない。
大統領就任式で宣誓するマンデラ

2010年6月にはサッカーのワールドカップが南アフリカで開催され、開会式への出席が期待されたが、前日にひ孫が交通事故に遭うという不運によって実現しなかった。閉会式には参加し、健在をアピールしたが、すでに前立腺癌の治療を受けており、体力の衰えは隠せなかった。
2013年6月、肺の感染症によって入院、12月5日に95歳で死去した。
1994年5月10日の大統領就任式典の記念演説において、マンデラは、生まれ変わった南アフリカを「虹の国」にたとえた。この表現には、雨上がりの青空にかかる七色の虹のように、黒人も白人も、すべての人種やエスニック集団が互いの違いを認めあいながら、対等に力を合わせ、開かれた国家を建設していこうとする決意が込められている。首都プレトリアの大統領官邸前の広場には、15万人の群衆が集まっていた。マンデラはこう語った。
傷をいやすべき時がやってきた。私たちを分断してきた深い溝に橋を架けるべき瞬間がやってきた。建設の時代は、私たちの肩にかかっている。・・・私たちはついに、自らの政治的解放を達成した。私たちは、いまだに続く貧困、剥奪、苦難、性差別、その他の差別の束縛から、すべての民衆を解放していくことを誓う。・・・私たちは誓約する。自分たちの心に何の恐れも抱くことなく、人間の尊厳に対する不可侵の権利を保障されて、黒人も白人も、すべての南アフリカ人が胸を張って歩くことができるような社会を、すなわち自分自身と世界に対して平和的な「虹の国」を、建設していくということを。・・・この美しい土地が、ある者による他の者の抑圧を再び経験し、世界の鼻つまみ者になるという屈辱を受けることなど、決して、決して、繰り返されてはならない。自由が支配する、アフリカに祝福あれ。
傷をいやすべき時がやってきた。私たちを分断してきた深い溝に橋を架けるべき瞬間がやってきた。建設の時代は、私たちの肩にかかっている。・・・私たちはついに、自らの政治的解放を達成した。私たちは、いまだに続く貧困、剥奪、苦難、性差別、その他の差別の束縛から、すべての民衆を解放していくことを誓う。・・・私たちは誓約する。自分たちの心に何の恐れも抱くことなく、人間の尊厳に対する不可侵の権利を保障されて、黒人も白人も、すべての南アフリカ人が胸を張って歩くことができるような社会を、すなわち自分自身と世界に対して平和的な「虹の国」を、建設していくということを。・・・この美しい土地が、ある者による他の者の抑圧を再び経験し、世界の鼻つまみ者になるという屈辱を受けることなど、決して、決して、繰り返されてはならない。自由が支配する、アフリカに祝福あれ。

第3回ラグビーW杯で優勝し、マンデラ大統領から祝福される南アフリカの主将
大統領に就任したマンデラは、デクラークなど国民党の白人政治家も閣僚に加えて人種融和政策に積極的に取り組み、「虹の国」の建設を進めた。その象徴として、国旗や国歌を新しく制定、1995年にはラグビーのワールドカップが開催され、南アチーム(スプリングボックス)が優勝し、国民融和の気運が盛り上がった。
しかし、経済政策では成長を優先して急激な改革はおこなわなかったので、貧富の差の拡大、治安の悪化などが進んでしまい、課題を残した。1996年、新憲法が制定され、部族語もふくめて11の言語を公用語とするなど人種・民族の融和を謳った。大統領就任時にすでに76歳であったので、任期は一期で終わり、1999年6月に大統領を辞任した。
後任にはANCの急進派ターボ=ムベキが選出されたが、国民党の連立離脱、さらにANC内の急進派と穏健派の対立、ムベキ政権の汚職疑惑など困難が続いた。
後任にはANCの急進派ターボ=ムベキが選出されたが、国民党の連立離脱、さらにANC内の急進派と穏健派の対立、ムベキ政権の汚職疑惑など困難が続いた。
サッカーワールドカップの閉会式に出席したマンデラ元大統領
2010年6月にはサッカーのワールドカップが南アフリカで開催され、開会式への出席が期待されたが、前日にひ孫が交通事故に遭うという不運によって実現しなかった。閉会式には参加し、健在をアピールしたが、すでに前立腺癌の治療を受けており、体力の衰えは隠せなかった。
2013年6月、肺の感染症によって入院、12月5日に95歳で死去した。
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