なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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仏立像(インド・マトゥラー博物館蔵)
その時、世尊に次の思いが生じた。『私は最上の法を語る時が来た。私は、そのため
にこの世に生まれてきたのだ。その最上の覚りを今、私は説き示そう。
今、この世において、現象的な特徴にとらわれて、愚かな見解を持ち、心に増上慢
を抱いた無知なものたちにとって、このことは信じ難いことであろう。けれども、こ
れらの菩薩たちは私の説法を確かに聞くであろう』
またその時、私は、すべての臆病な心を捨て去って畏れる心がなく、歓喜して、人格
を完成された人の息子(菩薩)たちの中で法を説き、まさにそれらの菩薩たちを覚り
の達成へと教化するのである。
このようなブッダの息子たちを目の当たりにして、あなた(舎利弗の)疑念もまた取
り除かれたであろう。そして、汚れのないこれらの1200人の阿羅漢たちは、すべて世
間においてブッダとなるであろう。
あたかも、それらの過去の保護者たちや、未来の勝利者たちにとって、ものごとの本
性がそうであるように、まさにそのようにブッダである私にとってもまた、ものごと
の本性は、二者択一という誤った考えを離れているのである。私は今、あなたにそれ
を説き示すことにしよう。
いつか、どこかで、かろうじて、牡牛のように勝れた人たちの世間への出現がある。
しかしながら、無限の視力を持つもの(であるブッダ)が世間に出現されても、いつ
かある時、このような法が説かれるだけなのである。
このような最上の法は、量り知れないほど長い時間のうちにも極めて得難いであろう。
また、最上の法を聞いて、その法を信ずるこのような衆生は、極めて得難いであろう。
あたかも、得難い優曇華の花が、いつか、どこかで、かろうじて現われるように。そ
の優曇華の花は、人間にとって心にかなった美しい姿を持つものであり、神々に伴わ
れた世間の人々にとって希有なものであろう。
けれども、この法が雄弁に語られたのを聞いて、歓喜し、讃嘆の言葉を一言でも語る
ならば、その人は、一切のブッダに供養をなしたことになでるあろう。それは、この
優曇華の花のことよりもさらに希有であると私は言うのだ。
あなたは、ここにおいて疑念と疑惑を取り除くがよい。法の王である私は告げる。
『私は最高の覚りに向けて教化するのであり、私にとって、この世に声聞と言われる
人は誰一人として存在しないのだ。〔なぜなら、彼らも菩薩であるからだ〕』と。

舎利弗(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
舎利弗よ、このことはあなたにとって秘要の教えであるべきである。また、私に属す
るこれらのすべての声聞たちも、また最も重要な人たちであるこれらの菩薩たちも、
私のこの秘要の教えを受持するべきである。
理由は何か。〔時代、衆生、煩悩、見解、寿命に関して〕5種類に汚濁した時代には、
るこれらのすべての声聞たちも、また最も重要な人たちであるこれらの菩薩たちも、
私のこの秘要の教えを受持するべきである。
理由は何か。〔時代、衆生、煩悩、見解、寿命に関して〕5種類に汚濁した時代には、
衆生は卑しく、堕落していて、この世において愛欲によって盲目となり、愚かな考えを
持っていて、それらの衆生には覚りを求める心は全くないからである。
そして、『私の乗り物は、ただこれ一つである』と、その勝利者が説かれても、それ
を聞いて、未来の世における衆生は当惑し、この経を誹謗して地獄に落ちるであろう。
その一方で、慚愧の念を持ち、清らかで、最も勝れた最高の覚りを求めて出て立った
衆生のために私は、畏れなきものとなって、一つの乗り物について限りのない讃嘆を
説くのだ。
指導者たちの教えはこのようであり、これが最も勝れた巧みなる方便である。まさに
これは、多くの深い意味が込められた言葉によって語られていて、習学の未熟なるも
のには、理解し難いのである。
だからこそ、世間の人々の教師であり、保護者であるブッダたちの深い意味が込めら
れた言葉を知って、疑惑を捨て、疑念を取り除くならば、あなたがたは、ブッダとな
るであろう。だから、あなたがたは歓喜を生じなさい」
持っていて、それらの衆生には覚りを求める心は全くないからである。
そして、『私の乗り物は、ただこれ一つである』と、その勝利者が説かれても、それ
を聞いて、未来の世における衆生は当惑し、この経を誹謗して地獄に落ちるであろう。
その一方で、慚愧の念を持ち、清らかで、最も勝れた最高の覚りを求めて出て立った
衆生のために私は、畏れなきものとなって、一つの乗り物について限りのない讃嘆を
説くのだ。
指導者たちの教えはこのようであり、これが最も勝れた巧みなる方便である。まさに
これは、多くの深い意味が込められた言葉によって語られていて、習学の未熟なるも
のには、理解し難いのである。
だからこそ、世間の人々の教師であり、保護者であるブッダたちの深い意味が込めら
れた言葉を知って、疑惑を捨て、疑念を取り除くならば、あなたがたは、ブッダとな
るであろう。だから、あなたがたは歓喜を生じなさい」
以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「巧みなる方便の章」という名前の第2章である。
(方便品第2おわり)
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菩提樹(インド・ブダガヤ)
その私は、その菩提樹の下の覚りの座において覚って後、まるまる三七日、すなわ
ち21日の間、そこに坐っていた。そこにおいて、まさにその菩提樹の木を仰ぎ見なが
ら、実にこのようなこの道理について熟慮したのである。
私は、その樹木の王である菩提樹を瞬きもせず仰ぎ見て、私は、その菩提樹の下で瞑
想をしてはそぞろ歩きするのだ。『これは、卓越した希有なる知である。しかしなが
ら、これらの衆生は迷いによって盲目であり、無知である』と。
ち21日の間、そこに坐っていた。そこにおいて、まさにその菩提樹の木を仰ぎ見なが
ら、実にこのようなこの道理について熟慮したのである。
私は、その樹木の王である菩提樹を瞬きもせず仰ぎ見て、私は、その菩提樹の下で瞑
想をしてはそぞろ歩きするのだ。『これは、卓越した希有なる知である。しかしなが
ら、これらの衆生は迷いによって盲目であり、無知である』と。

梵天勧請(1世紀、ガンダーラ出土)
その時、ブラフマー神(梵天)が、私に懇願する。また、シャラク神(帝釈天)
と四天王、自在天と大自在天、さらに多くの風を司るマルット神の群れが、
すべて合掌して、尊敬を持って立ち、私が説法すること懇願した。そこで、私はその
意義を考える。『私はどうしようか?私は覚りについての諸々の称賛の言葉を語るが、
これらの衆生は諸々の苦によって征服されている。
それらの愚かなものたちは、私の説いた法に対して罵りの言葉を発する。罵りの言
葉を発して後に、悪しき境遇に陥るであろう。従って、私にとっては、決して何も言
わないほうがいいのだ。まさに今、私は安らかに滅度に入るべきである』と。
しかしながら、過去のブッダたちを思い浮かべつつ、『それらのブッダたちの示され
た巧みなる方便のように、今、私もまたこのブッダの覚りを3つの種類に分類して説
いてから、ここに示すことにしよう』と。
この法について私は次のように考えた。すると、十方におられる他のブッダたちは、
その自分の身体を私の前に現わし、『素晴らしいことです』という声を発せられた。
『世間の指導者の先端にいる高貴なる賢者よ、あなたは、この世においてこの上な
い知に達して、世間の指導者たちの巧みなる方便について熟慮しつつ習学しておら
れる。
私たちもまた最高の位を覚ったその時、教えとしての乗り物を3つの種類に分類し
て、〈あなたたちは、ブッダになるであろう〉と説くのだ。実に心の卑しい傾向を
持つ無知な人間たちは、それを信じようとしないのである。
それ故に私たちは、その原因を把握することによって巧みなる方便を用いつつ、そ
れらの無知な人間たちが、ブッダになるという結果を願うようになることを広く称
讃しながら、多くの菩薩たちを教化するのである』と。
また私(世尊)は、その時、牡牛のように勝れた人たちの快い声を聞いて、心が高
揚していて、それらの保護者たちに言った。『最も勝れた説法者である偉大なる聖
仙たちよ、私はあなたがたにもちろん敬礼いたします。
賢明な世間の指導者たちが語られるように、そのように私もまた実行するでありま
しょう。私もまた、この恐ろしい激動の時代のただ中で、衆生の汚辱の真っただ中
に生まれてきたからです』
と四天王、自在天と大自在天、さらに多くの風を司るマルット神の群れが、
すべて合掌して、尊敬を持って立ち、私が説法すること懇願した。そこで、私はその
意義を考える。『私はどうしようか?私は覚りについての諸々の称賛の言葉を語るが、
これらの衆生は諸々の苦によって征服されている。
それらの愚かなものたちは、私の説いた法に対して罵りの言葉を発する。罵りの言
葉を発して後に、悪しき境遇に陥るであろう。従って、私にとっては、決して何も言
わないほうがいいのだ。まさに今、私は安らかに滅度に入るべきである』と。
しかしながら、過去のブッダたちを思い浮かべつつ、『それらのブッダたちの示され
た巧みなる方便のように、今、私もまたこのブッダの覚りを3つの種類に分類して説
いてから、ここに示すことにしよう』と。
この法について私は次のように考えた。すると、十方におられる他のブッダたちは、
その自分の身体を私の前に現わし、『素晴らしいことです』という声を発せられた。
『世間の指導者の先端にいる高貴なる賢者よ、あなたは、この世においてこの上な
い知に達して、世間の指導者たちの巧みなる方便について熟慮しつつ習学しておら
れる。
私たちもまた最高の位を覚ったその時、教えとしての乗り物を3つの種類に分類し
て、〈あなたたちは、ブッダになるであろう〉と説くのだ。実に心の卑しい傾向を
持つ無知な人間たちは、それを信じようとしないのである。
それ故に私たちは、その原因を把握することによって巧みなる方便を用いつつ、そ
れらの無知な人間たちが、ブッダになるという結果を願うようになることを広く称
讃しながら、多くの菩薩たちを教化するのである』と。
また私(世尊)は、その時、牡牛のように勝れた人たちの快い声を聞いて、心が高
揚していて、それらの保護者たちに言った。『最も勝れた説法者である偉大なる聖
仙たちよ、私はあなたがたにもちろん敬礼いたします。
賢明な世間の指導者たちが語られるように、そのように私もまた実行するでありま
しょう。私もまた、この恐ろしい激動の時代のただ中で、衆生の汚辱の真っただ中
に生まれてきたからです』
初転法輪像(インド・サールナート)
まさにそれ故に、舎利弗よ、私はその時、そのことを知って、ヴァーラナーシーへと
出て立ったのだ。その近郊の鹿の園(鹿野苑)において私は、5人の男性出家者たち
に対して、ものごとが煩悩の火の消滅した安らぎの境地にあることを方便によって説
いたのである。
そこにおいて、私の真理の車輪は転じられた。そして、ニルヴァーナ(涅槃)という
言葉が世間にあることとなった。同様にアルハット(阿羅漢)という言葉、ダルマ(
法)という言葉、そしてサンガ(僧伽)という言葉も世間に存在することになっ
たのである。
私は、長い歳月の間、教えを説き、また安らぎの境地を説き示した。そして私は常に、
『これが、生存領域を循環する輪廻に伴う苦しみの終わりなのだ』と、このように告
げるのである。
また舎利弗よ、私はその時、両足で歩くもののうちで最上の人たちの、数え切れない
ほど多くの息子(菩薩)たちが、最高で最上の覚りへ向けて出て立ったのを見るのだ。
そして、勝利者たちの法を巧みなる方便によってかつて多種多様に聞いた人たちは、出て立ったのだ。その近郊の鹿の園(鹿野苑)において私は、5人の男性出家者たち
に対して、ものごとが煩悩の火の消滅した安らぎの境地にあることを方便によって説
いたのである。
そこにおいて、私の真理の車輪は転じられた。そして、ニルヴァーナ(涅槃)という
言葉が世間にあることとなった。同様にアルハット(阿羅漢)という言葉、ダルマ(
法)という言葉、そしてサンガ(僧伽)という言葉も世間に存在することになっ
たのである。
私は、長い歳月の間、教えを説き、また安らぎの境地を説き示した。そして私は常に、
『これが、生存領域を循環する輪廻に伴う苦しみの終わりなのだ』と、このように告
げるのである。
また舎利弗よ、私はその時、両足で歩くもののうちで最上の人たちの、数え切れない
ほど多くの息子(菩薩)たちが、最高で最上の覚りへ向けて出て立ったのを見るのだ。
すべてまさに私のそばに近づいてから、敬意を持って合掌して立った。(つづく)
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シャンティ・ストゥーパ(インド・ラダック)
また、その世間においてそれらのブッダたちの面前で法を聞くか、聞き終えた衆生
や、さらに布施をなし、戒を実行し、忍耐によってあらゆる修行を完成し、
努力精進と禅定において奮励し、あるいはこれらの法を智慧によって熟慮し、種々
の善行をなす人たちは、すべて覚りの獲得者となった。
また、それらの勝利者たちが完全なる滅度に入った後で、誰であれ、それらの勝利
者たちの教えに携わり、その教えのもとで堪え忍び、教導される衆生のすべては、
覚りの獲得者となった。
また、それらの勝利者たちが完全なる滅度に入られた後で、誰であれ、それらの勝
利者たちの遺骨への供養をなし、宝石からなる何千もの多くのストゥーパを造る人
たち、さらには金や銀、また水晶のストゥーパ
また、瑪瑙 のストゥーパ、そして猫目石や真珠からなるストゥーパ、同様に最も美
しい瑠璃 のストゥーパ、サファイアのストゥーパを造る人たちもまた、すべて覚り
の獲得者となった。
誰であれ、岩の中にストゥーパを造る人たち、栴檀 や沈水香 のストゥーパを造る人
たち、松の木のストゥーパを造る人たち、また、誰であれ、木材の組み合わせから
なるストゥーパを造る人たち
煉瓦で造られた、あるいは泥土を積み重ねた勝利者たちのストゥーパを喜んで造り
またストゥーパを目的として砂を集めて塔となし、荒野や険難の所に造らせる大人
たち
あるいはまた、誰であれ、砂礫 を集めて塔となし、勝利者のストゥーパになぞらえ
て、あちこちで遊んでいる子供たちーそれらの大人や子供たちは、すべて覚りの獲
得者となった。
や、さらに布施をなし、戒を実行し、忍耐によってあらゆる修行を完成し、
努力精進と禅定において奮励し、あるいはこれらの法を智慧によって熟慮し、種々
の善行をなす人たちは、すべて覚りの獲得者となった。
また、それらの勝利者たちが完全なる滅度に入った後で、誰であれ、それらの勝利
者たちの教えに携わり、その教えのもとで堪え忍び、教導される衆生のすべては、
覚りの獲得者となった。
また、それらの勝利者たちが完全なる滅度に入られた後で、誰であれ、それらの勝
利者たちの遺骨への供養をなし、宝石からなる何千もの多くのストゥーパを造る人
たち、さらには金や銀、また水晶のストゥーパ
また、瑪瑙 のストゥーパ、そして猫目石や真珠からなるストゥーパ、同様に最も美
しい瑠璃 のストゥーパ、サファイアのストゥーパを造る人たちもまた、すべて覚り
の獲得者となった。
誰であれ、岩の中にストゥーパを造る人たち、栴檀 や沈水香 のストゥーパを造る人
たち、松の木のストゥーパを造る人たち、また、誰であれ、木材の組み合わせから
なるストゥーパを造る人たち
煉瓦で造られた、あるいは泥土を積み重ねた勝利者たちのストゥーパを喜んで造り
またストゥーパを目的として砂を集めて塔となし、荒野や険難の所に造らせる大人
たち
あるいはまた、誰であれ、砂礫 を集めて塔となし、勝利者のストゥーパになぞらえ
て、あちこちで遊んでいる子供たちーそれらの大人や子供たちは、すべて覚りの獲
得者となった。
ガンダーラ仏(東京国立博物館蔵)
まさにそのように、誰かある人たちに仏像を意図して32種類の身体的特徴を具えた宝
石造りの像を造らせた人たちもまた、すべて覚りの獲得者となった。
そこにおいて、誰であれ、七宝、あるいは銅や、真鍮からなる人格を完成された人
の像を造らせた人たちは、すべて覚りの獲得者となった。
誰であれ、鉛や、鉄、あるいは泥土によって、あるいは漆喰を塗り固めて、人格を完
成された人たちの見るも美しい像を造らせた人たちは、すべて覚りの獲得者となった。
壁画において幾百もの徳のある相を具え、完全円満なる身体を持った像を造る人たち、
また自ら進んで描いたり、あるいは人に描かせたりする人たちは、すべて覚りの獲得
者となった。
そこにおいて、誰であれ、学びながら、また遊びの喜びを楽しみながら爪や木切れで
壁にブッダの像を造った大人や、子供たち、
それらの大人や子供たちもまた、すべて慈悲の心を持つものとなり、それらすべてが
数え切れないほど多くの生命あるものたちを救った。それらの人たちは、すべて多く
の菩薩たちを教化しつつ、覚りの獲得者となったのである。
また、ブッダたちの遺骨や、ストゥーパに、あるいは泥土で造られた像、またブッダ
の像が描かれている壁、土砂で造られたストゥーパに花や香りを供えた人たち、
また、その時そのストゥーパのところで、妙なる響きを持つベーリーという小鼓や、
螺貝、パタハという小鼓といった楽器を演奏した人たち、また最も勝れた最高の覚り
への供養を実施するために太鼓を鳴り響かせた人たち、
石造りの像を造らせた人たちもまた、すべて覚りの獲得者となった。
そこにおいて、誰であれ、七宝、あるいは銅や、真鍮からなる人格を完成された人
の像を造らせた人たちは、すべて覚りの獲得者となった。
誰であれ、鉛や、鉄、あるいは泥土によって、あるいは漆喰を塗り固めて、人格を完
成された人たちの見るも美しい像を造らせた人たちは、すべて覚りの獲得者となった。
壁画において幾百もの徳のある相を具え、完全円満なる身体を持った像を造る人たち、
また自ら進んで描いたり、あるいは人に描かせたりする人たちは、すべて覚りの獲得
者となった。
そこにおいて、誰であれ、学びながら、また遊びの喜びを楽しみながら爪や木切れで
壁にブッダの像を造った大人や、子供たち、
それらの大人や子供たちもまた、すべて慈悲の心を持つものとなり、それらすべてが
数え切れないほど多くの生命あるものたちを救った。それらの人たちは、すべて多く
の菩薩たちを教化しつつ、覚りの獲得者となったのである。
また、ブッダたちの遺骨や、ストゥーパに、あるいは泥土で造られた像、またブッダ
の像が描かれている壁、土砂で造られたストゥーパに花や香りを供えた人たち、
また、その時そのストゥーパのところで、妙なる響きを持つベーリーという小鼓や、
螺貝、パタハという小鼓といった楽器を演奏した人たち、また最も勝れた最高の覚り
への供養を実施するために太鼓を鳴り響かせた人たち、
また、心地よく鳴り響くヴィーナーやシンバル、パナヴァという太鼓、ムリカンダと
いう小鼓、ヴァンシャという笛、あるいは極めて優美なエーコーツァヴァンシャーと
いう楽器を演奏した人たちは、すべて覚りの獲得者となった。
鉄の鈴や、水、あるいは掌を太鼓のように打ち鳴らし、人格を完成された人たち
の供養のために、甘く魅力的な歌を歌う人たち
鉄の鈴や、水、あるいは掌を太鼓のように打ち鳴らし、人格を完成された人たち
の供養のために、甘く魅力的な歌を歌う人たち
それらの人たちは、人格を完成された人たちの遺骨に対してどんなにわずかであれ、
ただ一つの楽器でさえをも演奏して、その遺骨への多くの種類の供養をなしてから、この世間においてすべてブッダとなった。
また、人格を完成された人たちを壁に描いた像を、ただ一つの花によって供養したと
しても、また、心が悩乱している人たちが供養したとしても、それらの人たちは多く
のブッダたちに続けてお会いするであろう。
そのストゥーパに対して両手で完全な合掌をなすか、あるいは片手で手刀を切るよう
にして挨拶をなすか、あるいは頭をわずかの時間でも下げ、ただ一度でも身体を屈め
る人たち、
その時、悩乱した心であっても、遺骨を安置したそれらのストゥーパに対して『ブッ
ダに敬礼いたします』と一度でも言う人たちは、すべて直ちにこの最高の覚りに達
した。
礼拝する人々
その時、その時代に、それらの人格を完成された人たちが、すでに完全なる滅度に入
られた後にせよ、あるいはまだ世間に存在しておられる時にせよ、それらの人格を完
成された人たちの法の名前だけでも聞いた衆生は、すべて覚りの獲得者となった。
考えることもできないない多くの未来のブッダたちは、その数を量ることもできない
が、それらの勝利者で最上の世間の保護者たちもまた、この方便を説かれるであろう。
それらの世間の指導者たちには、無限の巧みなる方便が具わっている。その方便によ
って、それらのブッダたちは、この世において数え切れないほど多くの生命あるもの
たちを汚れのないブッダの知へと導かれるであろう。
それらのブッダたちの法を聞いて、一人の衆生でさえもブッダにならないということ
は、いかなる時にも決してないのだ。『私は、まず自分で覚りの獲得のために修行し、
次いで他の人たちにも覚りの獲得のために修行させるのだ』。これこそが、ブッダた
ちの誓願である。
未来の世において、ブッダたちは多くの法への入口を説き示されるであろうが、この
一つの乗り物を説き明かしつつ、まさに法について語られるであろう。
十方におられる多くのブッダたちは、最高の境地を覚っておられ、巧みなる方便を説
き、多種多様な乗り物を示して、ただ一つの乗り物を説き明かされるのである。
そして、勝利者の王の中の指導者である私もまた今、衆生に幸福を得させるためにこ
の世に生まれて、このブッダの覚りを、数え切れないほど多くの教化方法を遂行する
ことによって説き示すのである。
私は、生命あるものたちの信順の志や傾向を知ってから、多くの種類の法を説き、種
々の方便によって生命あるものたちを喜ばせるのだ。これが、私の独自の知の力であ
る。
られた後にせよ、あるいはまだ世間に存在しておられる時にせよ、それらの人格を完
成された人たちの法の名前だけでも聞いた衆生は、すべて覚りの獲得者となった。
考えることもできないない多くの未来のブッダたちは、その数を量ることもできない
が、それらの勝利者で最上の世間の保護者たちもまた、この方便を説かれるであろう。
それらの世間の指導者たちには、無限の巧みなる方便が具わっている。その方便によ
って、それらのブッダたちは、この世において数え切れないほど多くの生命あるもの
たちを汚れのないブッダの知へと導かれるであろう。
それらのブッダたちの法を聞いて、一人の衆生でさえもブッダにならないということ
は、いかなる時にも決してないのだ。『私は、まず自分で覚りの獲得のために修行し、
次いで他の人たちにも覚りの獲得のために修行させるのだ』。これこそが、ブッダた
ちの誓願である。
未来の世において、ブッダたちは多くの法への入口を説き示されるであろうが、この
一つの乗り物を説き明かしつつ、まさに法について語られるであろう。
十方におられる多くのブッダたちは、最高の境地を覚っておられ、巧みなる方便を説
き、多種多様な乗り物を示して、ただ一つの乗り物を説き明かされるのである。
そして、勝利者の王の中の指導者である私もまた今、衆生に幸福を得させるためにこ
の世に生まれて、このブッダの覚りを、数え切れないほど多くの教化方法を遂行する
ことによって説き示すのである。
私は、生命あるものたちの信順の志や傾向を知ってから、多くの種類の法を説き、種
々の方便によって生命あるものたちを喜ばせるのだ。これが、私の独自の知の力であ
る。
六道輪廻図(チベット)
智慧と福徳を欠き、6種の生存領域の循環(六道輪廻)に落ち込み、険難の所に閉
じ込められ、さらには苦しみの連続に陥った心の貧しい衆生を私もまた見る。
それらの心の貧困な衆生は、あたかもヤクが尻尾に対して執着しているように、欲望
に対して執着していて、この世において、あらゆる時に愛欲によって盲目となり、偉
大なる遺徳を持つブッダを求めることもなく、苦しみの終わりに達するための教えを
模索することもないのだ。
それらの心の貧困な衆生は、6種の生存領域に心が閉じ込められており、誤った考え
方の中にあって動じることなく、苦によって苦を追い求めている。けれども、それら
の心の貧困な衆生に対する私の同情は力強いものである。(つづく)
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じ込められ、さらには苦しみの連続に陥った心の貧しい衆生を私もまた見る。
それらの心の貧困な衆生は、あたかもヤクが尻尾に対して執着しているように、欲望
に対して執着していて、この世において、あらゆる時に愛欲によって盲目となり、偉
大なる遺徳を持つブッダを求めることもなく、苦しみの終わりに達するための教えを
模索することもないのだ。
それらの心の貧困な衆生は、6種の生存領域に心が閉じ込められており、誤った考え
方の中にあって動じることなく、苦によって苦を追い求めている。けれども、それら
の心の貧困な衆生に対する私の同情は力強いものである。(つづく)
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舎利弗(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
舎利弗よ、私もまた今、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダであって、多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対する憐みのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために出現したのだ。
また私は、種々の信順の傾向を持ち、種々の素質と考えを持った衆生の意向を理解して、種々の教化方法を遂行することによって法を説くのだ。舎利弗よ、私もまた、衆生にただ一つの乗り物、すなわち一切知者の智慧を終着点とするブッダに到る乗り物について法を説くのだ。言い換えれば、まさにブッダの知見によって衆生を教化することであって、衆生にブッダの知見を開示し、ブッダの知見に入らせ、ブッダの知見を覚らせ、ブッダの知見の道に入らせる法を私は衆生に説くのだ。
舎利弗よ、今、私のこの法を聞くこれらの衆生もまた、すべてがこの上ない正しく完全な覚りの獲得者となるであろう。
舎利弗よ、それは、次のように知られるべきである。
『十方の世界のどこにおいても、第二の乗り物を設定することはなく、第三の乗り物についてはなおさらのことであ。る』と。
また私は、種々の信順の傾向を持ち、種々の素質と考えを持った衆生の意向を理解して、種々の教化方法を遂行することによって法を説くのだ。舎利弗よ、私もまた、衆生にただ一つの乗り物、すなわち一切知者の智慧を終着点とするブッダに到る乗り物について法を説くのだ。言い換えれば、まさにブッダの知見によって衆生を教化することであって、衆生にブッダの知見を開示し、ブッダの知見に入らせ、ブッダの知見を覚らせ、ブッダの知見の道に入らせる法を私は衆生に説くのだ。
舎利弗よ、今、私のこの法を聞くこれらの衆生もまた、すべてがこの上ない正しく完全な覚りの獲得者となるであろう。
舎利弗よ、それは、次のように知られるべきである。
『十方の世界のどこにおいても、第二の乗り物を設定することはなく、第三の乗り物についてはなおさらのことであ。る』と。
ところで、実に、舎利弗よ、ブッダたちが時代の濁りの中で出現し、あるいは衆生の濁りの中で、あるいは煩悩の濁りの中で、あるいは見解の濁りの中で、あるいは寿命の濁りの中で出現する時、このような時代の混乱という濁りの中では、多くの衆生が貪欲であり、善い果報をもたらす立派な行ないが乏しいので、舎利弗よ、ブッダたちは巧みなる方便である3つの乗り物を教示することによって、ただ一つのブッダに到る乗り物(一乗)を説かれるのである。
その場合に、舎利弗よ、ブッダに到る乗り物について教化するブッダのこの行為について聞くこともなく、達することもなく、理解することもない声聞、あるいは阿羅漢、あるいは独覚たちは、ブッダに属する声聞でも、阿羅漢でも、独覚でもないと知られるべきである。
ところで、舎利弗よ、男性出家者であれ、女性出家者であれ、阿羅漢の位であると自認し、この上ない正しく完全な覚りへ向けての誓願を抱くことなく、『私はブッダに到る乗り物から捨てられている』と言うならば、また『私の身体の最終的な涅槃は、これ程のものである』と言うならば、あなたはその人を高慢なものと知るがよい。
舎利弗よ、あなたたちは、これらのブッダの法を信じ、私を信じ、信頼すべきである。実に舎利弗よ、ブッダたちに妄語 は存在しないのである、舎利弗よ、乗り物はこの一つだけ、すなわちブッダに到る乗り物だけなのだ」
ところで、舎利弗よ、男性出家者であれ、女性出家者であれ、阿羅漢の位であると自認し、この上ない正しく完全な覚りへ向けての誓願を抱くことなく、『私はブッダに到る乗り物から捨てられている』と言うならば、また『私の身体の最終的な涅槃は、これ程のものである』と言うならば、あなたはその人を高慢なものと知るがよい。
舎利弗よ、あなたたちは、これらのブッダの法を信じ、私を信じ、信頼すべきである。実に舎利弗よ、ブッダたちに妄語 は存在しないのである、舎利弗よ、乗り物はこの一つだけ、すなわちブッダに到る乗り物だけなのだ」
そこで、世尊はその時、まさにこの意味を重ねて示しつつ、次の詩を述べられた。
「その時、慢心にとらわれ、信のない男女の出家者・男女の在家信者たちは、5000人
を下らなかった。
穴のあいた学問を身に着けた愚かな知性のものたちは、その欠陥を自覚することな
く、欠点を保持したまま退出した。
それらの愚かなものたちを集会の中の糟 であると知って、世間の保護者である私は、
その5000人の退出を黙認した。その人たちがこの法を聞くとしても、その人たちに
有益なことはないからだ。
私の集会は、清められ、不要な籾殻 がなくなり、確実なものとなった。価値のないも
のが、すべていなくなって、この集会は最良のものとなった。
舎利弗よ、最上の人たちが、この法を完全に覚られたということ、また、指導者であ
るブッダたちが、幾百もの種々の巧みなる方便によって説法されるということを、私
から聞くがよい。
それらのブッダたちは、この世で種々の信順の志を持ち数え切れないほど多くの生命
あるものたちの考えや、行ないがどのようであるかを知り、またそれらの人々の種々
の行ないや、それらの人々が過去においてなした善い行ないを知って、説法するので
ある。
私もまた、種々の語源的説明や、理由の説明によって、それらの生命あるものたちに
この法を得させるのであり、因縁や幾百もの譬喩によって私はそれぞれに応じてあら
ゆる衆生を満足させるのである。
数え切れないほど多くのブッダたちのもとにおいて、劣ったものを喜び、無知で、修
行もせず、生存領域を循環する輪廻に執着し、非常に苦しんでいる人たちに私は安ら
ぎを説くのだ。
独立自存するものは、ブッダの知を覚醒させることを目的として、巧みなる方便をな
すのであり、私はそれらの人たちに、『あなたたちも、この世間においてブッダとな
るであろう』とは、いかなる時にも決して言わないのだ。
理由は何か?保護者は、時を観察して、また機会を観てから、その後に法を説かれる
からである。今、まさにその機会がようやく得られた。それ故に、私は今、決意を定
めて法を説くのである、
9つの部分からなる私のこの教えは、衆生に能力があるか、能力がないかということ
に応じて説かれたのであり、願いを叶えるもの(=ブッダ)の知に衆生を入らせるた
めに、私はこの方便を説いたのである。
私には、数え切れないほど多くのブッダたちのもとで努力をなしたブッダの息子(菩
薩)たちがここにいる。私は、それらの常に清らかで、明晰で、高潔で、大変に満足
したブッダの息子たちに諸々の広大な経を説くのである。
こうして、それらの菩薩たちは、意向を達成するためにも、清められた身体となるた
めにも、準備が調ったものとなった。私は、それらの菩薩たちに『あなたたちは、未
来の世において人々の安寧のために慈愛を有するブッダとなるであろう』と告げるの
だ。
「その時、慢心にとらわれ、信のない男女の出家者・男女の在家信者たちは、5000人
を下らなかった。
穴のあいた学問を身に着けた愚かな知性のものたちは、その欠陥を自覚することな
く、欠点を保持したまま退出した。
それらの愚かなものたちを集会の中の糟 であると知って、世間の保護者である私は、
その5000人の退出を黙認した。その人たちがこの法を聞くとしても、その人たちに
有益なことはないからだ。
私の集会は、清められ、不要な籾殻 がなくなり、確実なものとなった。価値のないも
のが、すべていなくなって、この集会は最良のものとなった。
舎利弗よ、最上の人たちが、この法を完全に覚られたということ、また、指導者であ
るブッダたちが、幾百もの種々の巧みなる方便によって説法されるということを、私
から聞くがよい。
それらのブッダたちは、この世で種々の信順の志を持ち数え切れないほど多くの生命
あるものたちの考えや、行ないがどのようであるかを知り、またそれらの人々の種々
の行ないや、それらの人々が過去においてなした善い行ないを知って、説法するので
ある。
私もまた、種々の語源的説明や、理由の説明によって、それらの生命あるものたちに
この法を得させるのであり、因縁や幾百もの譬喩によって私はそれぞれに応じてあら
ゆる衆生を満足させるのである。
数え切れないほど多くのブッダたちのもとにおいて、劣ったものを喜び、無知で、修
行もせず、生存領域を循環する輪廻に執着し、非常に苦しんでいる人たちに私は安ら
ぎを説くのだ。
独立自存するものは、ブッダの知を覚醒させることを目的として、巧みなる方便をな
すのであり、私はそれらの人たちに、『あなたたちも、この世間においてブッダとな
るであろう』とは、いかなる時にも決して言わないのだ。
理由は何か?保護者は、時を観察して、また機会を観てから、その後に法を説かれる
からである。今、まさにその機会がようやく得られた。それ故に、私は今、決意を定
めて法を説くのである、
9つの部分からなる私のこの教えは、衆生に能力があるか、能力がないかということ
に応じて説かれたのであり、願いを叶えるもの(=ブッダ)の知に衆生を入らせるた
めに、私はこの方便を説いたのである。
私には、数え切れないほど多くのブッダたちのもとで努力をなしたブッダの息子(菩
薩)たちがここにいる。私は、それらの常に清らかで、明晰で、高潔で、大変に満足
したブッダの息子たちに諸々の広大な経を説くのである。
こうして、それらの菩薩たちは、意向を達成するためにも、清められた身体となるた
めにも、準備が調ったものとなった。私は、それらの菩薩たちに『あなたたちは、未
来の世において人々の安寧のために慈愛を有するブッダとなるであろう』と告げるの
だ。
するとそれを聞いて、それらの菩薩たちのすべては、『私たちはすべて、あらゆる生
き物の中で最高の人であるブッダとなるでありましょう』と言って、喜びに満ちあふ
れるであろう。さらに私は、それらの菩薩たちの行ないを知って諸々の広大な経を説
き示すのである。
また、この最も勝れた教えを聞き、ただ一つの詩でさえも聞いたり、あるいは受持し
たりする人たちこそが、世間の指導者の弟子たちであり、それらのすべての弟子たち
にとって覚りについての疑いは存在しないのである、
乗り物はただ一つであり、第二のものは存在しない。実に第三のものも世間にはいつ
いかなる時にも決して存在しない。乗り物が種々に異なっていることを説く人間の中
の最高の人たちの方便を除いては
世間の保護者は、ブッダの知を顕示するために世間に出現されるのだ。なすべきこと
は、ただ一つであって、第二のものは存在しない。ブッダたちが、貧弱な乗り物によ
って衆生を導かれることはないのである。
私には、もの惜しみはどこにも存在しない。私には、妬 みも存在しない。また、欲望
と貪愛 も存在しない。私にとって、あらゆるものごとは悪が断ち切られている。それ
故に、世間について覚知していることで、私は目覚めた人、すなわちブッダであるの
だ。
私が、このように3つの乗り物を説くということは、私の巧みなる方便である。しか
し、乗り物はただ一つであり、真実もまたただ一つであって、指導者たちのこの教え
もまたただ一つなのだ。
過去の世の量り知れないほどの時間に出現されたブッダたちは、譬喩と、因縁、そし
て幾百もの多くの巧みなる方便によって、多くの浄らかな法を説かれた。
それらのブッダたちは、すべて一つの乗り物を説いたのであり、考えることもできな
いほど多くの生命あるものたちを一つの乗り物に到らしめ、一つの乗り物の中におい
て成熟させるのだ。
勝利者たちには、そのほか種々の方便があり、ブッダたちは衆生の信順の志や、考え
方を如実に知ってから、それらの方便によって神々に伴われた世間において私のこの
最高の法を示すのである。(つづく)
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き物の中で最高の人であるブッダとなるでありましょう』と言って、喜びに満ちあふ
れるであろう。さらに私は、それらの菩薩たちの行ないを知って諸々の広大な経を説
き示すのである。
また、この最も勝れた教えを聞き、ただ一つの詩でさえも聞いたり、あるいは受持し
たりする人たちこそが、世間の指導者の弟子たちであり、それらのすべての弟子たち
にとって覚りについての疑いは存在しないのである、
乗り物はただ一つであり、第二のものは存在しない。実に第三のものも世間にはいつ
いかなる時にも決して存在しない。乗り物が種々に異なっていることを説く人間の中
の最高の人たちの方便を除いては
世間の保護者は、ブッダの知を顕示するために世間に出現されるのだ。なすべきこと
は、ただ一つであって、第二のものは存在しない。ブッダたちが、貧弱な乗り物によ
って衆生を導かれることはないのである。
私には、もの惜しみはどこにも存在しない。私には、妬 みも存在しない。また、欲望
と貪愛 も存在しない。私にとって、あらゆるものごとは悪が断ち切られている。それ
故に、世間について覚知していることで、私は目覚めた人、すなわちブッダであるの
だ。
私が、このように3つの乗り物を説くということは、私の巧みなる方便である。しか
し、乗り物はただ一つであり、真実もまたただ一つであって、指導者たちのこの教え
もまたただ一つなのだ。
過去の世の量り知れないほどの時間に出現されたブッダたちは、譬喩と、因縁、そし
て幾百もの多くの巧みなる方便によって、多くの浄らかな法を説かれた。
それらのブッダたちは、すべて一つの乗り物を説いたのであり、考えることもできな
いほど多くの生命あるものたちを一つの乗り物に到らしめ、一つの乗り物の中におい
て成熟させるのだ。
勝利者たちには、そのほか種々の方便があり、ブッダたちは衆生の信順の志や、考え
方を如実に知ってから、それらの方便によって神々に伴われた世間において私のこの
最高の法を示すのである。(つづく)
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舎利弗(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
そこで、ブッダ釈尊は、舎利弗におっしゃられた。
「舎利弗よ、私の集会は、価値のないものが立ち去って籾殻 がなく、浄信の真髄に立った。舎利弗よ、これらの増上慢 のものたちがここから退出したことはよいことである。従って、舎利弗よ、私はこの意味を説くことにしよう。
「世尊よ、素晴らしいことです」と言うと、舎利弗は世尊に耳を傾けた。
世尊は、次のようにおっしゃられた。
「舎利弗よ、ブッダはいつかある時、このように法の教授を告げるのである。舎利弗よ、あたかも(3000年に1度しか咲かないとされる)優曇華 がいつかある時、出現するように、まさにこのようにブッダもまたいつかある時、このように法の教授を告げるのである。
舎利弗よ、あなたたちは私を信じなさい。私は真実を説くものであり、私はあるがままに説くものであり、私は虚妄 なく説くものである。舎利弗よ、ブッダの深い意味が込められた言葉は理解し難いのである。それは、どんな理由によってか?
舎利弗よ、私は、種々の語源的説明、教示、言説、譬喩 といった、いろいろな幾百・千もの巧みなる方便によって法を説き明かしたのだ。舎利弗よ、正しい教えは思議を超えたものであり、思議を超えた領域にあって、ブッダによってのみ知られるべきものである。それは、どんな理由によってか?
舎利弗よ、ブッダは、ただ一つの仕事のために、ただ一つのなすべきことのために、大きな仕事のために、大きななすべきことのために、世間に出現するのである。
それでは、舎利弗よ、ブッダが、世間に出現して遂行するべきブッダのただ一つの仕事、ただ一つのなすべきこと、大きな仕事、大きななすべきこととは、何であるか?
すなわち、ブッダは、衆生をブッダの知見によって教化すること、すなわち衆生にブッダの知見を開示し、衆生をブッダの知見に入らせ、衆生にブッダの知見を覚らせ、衆生をブッダの知見の道 に入らせるという理由と目的で世間に現われるのだ。
舎利弗よ、私はただ一つの乗り物(一乗)、すなわちブッダに到る乗り物について衆生に法を説くのだ。舎利弗よ、そのほかに何か第二、あるいは第三の乗り物が存在するのではない。舎利弗よ、十方の世界におけるすべてのブッダの場合に、法を法たらしめる根本の理法はこれなのである。それは、どんな理由によってか?
舎利弗よ、過去の世において十方の無量の数え切れない世界にいたブッダたちも、多くの人々の安寧 のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対する憐 みのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために出現したのだ。
ブッダたちは、種々の信順の傾向を持ち、種々の素質と考えを持った衆生の意向を理解して、種々の教化方法を遂行することによる教説、ずなわち多種多様な因縁、譬喩、拠り所、語源的説明などの巧みなる方便によって法を説いた、そのブッダたちのすべてもまた、舎利弗よ、衆生にただ一つの乗り物、すなわち、一切知者の智慧を終着点とするブッダに到る乗り物について法を説いたのである。言い換えれば、まさにブッダの知見によって衆生を教化することであって、衆生にブッダの知見を開示し、ブッダの知見に入らせ、ブッダの知見を覚らせ、ブッダの知見の道に入らせる法を衆生に説いたのである。
舎利弗よ、それらの過去のブッダたちのそばで、その正しい法を聞いた衆生もまたすべてが、この上ない正しく完全な覚りの獲得者となった。
舎利弗よ、未来の世において十方の無量の数え切れない世界にいるブッダたちも多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対する憐みのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために出現する。
舎利弗よ、それらの未来のブッダたちのそばで、衆生がその正しい法を聞くならば、それらの衆生もまたすべてが、この上ない正しく完全な覚りの獲得者となるであろう。
舎利弗よ、今、現在の世において十方の無量の数え切れない世界に滞在し、存在し、時を過ごしているブッダたちもまた、多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対する憐みのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために法を説いているのだ。
舎利弗よ、それらの現在のブッダたちのそばで、その法を聞いているそれらの衆生もまた、すべてがこの上なく正しい完全な覚りの獲得者となるであろう。(つづく)
舎利弗よ、未来の世において十方の無量の数え切れない世界にいるブッダたちも多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対する憐みのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために出現する。
舎利弗よ、それらの未来のブッダたちのそばで、衆生がその正しい法を聞くならば、それらの衆生もまたすべてが、この上ない正しく完全な覚りの獲得者となるであろう。
舎利弗よ、今、現在の世において十方の無量の数え切れない世界に滞在し、存在し、時を過ごしているブッダたちもまた、多くの人々の安寧のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々に対する憐みのために、神々と人間といった衆生の大集団の利益と安寧、幸福のために法を説いているのだ。
舎利弗よ、それらの現在のブッダたちのそばで、その法を聞いているそれらの衆生もまた、すべてがこの上なく正しい完全な覚りの獲得者となるであろう。(つづく)
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舎利弗(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
その時、その四衆の集まりの中に、偉大なる声聞である阿若憍陳如をはじめとする、汚れを滅し自在を得た1200人の阿羅漢たち、また声聞のための乗り物(声聞乗)に属する他の男女の出家者・男女の在家信者たち、そしてまた独覚果に到る乗り物(独覚乗)によって出で立った人たちのすべてに、次の思いが生じた。
「世尊が、ブッダの巧みなる方便について過剰に説明されるということは、果たして理由は何であり、原因は何であるのか?また、『私が覚ったこの法は深遠である』と世尊は説明される。また、『すべての声聞や独覚たちに、それは理解し難いのである』と説明される。世尊が、『最終的な解脱はただ一つ』と、何度も言明されたように、われわれもまた、世尊の法の獲得者であり、安らぎ(涅槃に)達した者であるはずだ。ところが、この世尊が説かれたことの意味を、われわれは理解できない」と。
そこで、舎利弗は、それらの四衆たちに疑念と疑惑があるのを知り、心で四衆たちの心を思い知って、自分でも法についての疑問を抱いて、その時、世尊に申し上げた。
「世尊よ、世尊が繰り返してブッダたちの巧みなる方便や、知見、法の説示について過剰に説明されるということは、理由は何であり、原因は何でありましょうか?しかも、『私は深遠な真理を完全に覚った』と、世尊はおっしゃられます。また、『深い意味を込めて語られたことは、理解し難いのである』と、世尊は繰り返して説明されます。
私は、このような法門を世尊のそばで以前に聞いたことがありません。また、世尊よ、これらの四衆たちは疑念と疑惑を抱いています。ブッダが深遠なる深い意味を込めて、ブッダの法の説明を繰り返してなさるということの本当のことを世尊はお示しください。
舎利弗からこのように言われて、世尊は、舎利弗に次のようにおっしゃられた。
「舎利弗よ、やめなさい。これらの意味が語られて、何の役に立とうか。それは、どんな理由によってか?舎利弗よ、この意味が説明されれば、神々に伴われたこの世間の人々は驚き畏れるであろう」
舎利弗は、また再び世尊に要請した。
「世尊はお話しください。人格を完成された人は、まさにこの意味をお話しください。それは、どんな理由によってでしょうか?世尊よ、この聴衆の中でかつてブッダにお会いしたことがあり、智慧を具えている幾百もの多くの生命あるものたち、幾千もの多くの生命あるものたち、幾百・千もの多くの生命あるものたちは、世尊の語られたことを信ずるでしょうし、受け入れ、会得するでありましょう」
すると、世尊は舎利弗に再び次のように言われた。
「舎利弗よ、この意味が説かれて、何になるのだ。舎利弗よ、この意味が説明されれば、神々に伴われたこの世間の人々は驚くであろう。また高慢な心にとらわれた男性出家者たちは、大きな落とし穴に陥るであろう」
舎利弗は、同様に3度、世尊に要請した。
「世尊は、お話しください。人格を完成された人は、まさにこの意味をお話しください。世尊よ、この集会の中には、私に等しい幾百もの多くの生命あるものたちが見いだされます。また、世尊よ、世尊が過去の世々において成熟させられたその他の幾百もの多くの生命あるものたち、幾千もの多くの生命あるものたちーそれらのものたちは、世尊の説かれたことを信ずるでありましょうし、信頼し、会得するでありましょう。それは、彼らにとって長い間、利益のため、安寧のため、幸福のためになるでありましょう」と。
すると世尊は、舎利弗の願いを3度もお知りになって、舎利弗に次のように告げられた。
「舎利弗よ、あなたは今、3回までも私に要請したのだから、このように懇願しているあなたに、私が何を説かないことがあろうか。従って、舎利弗よ、確かに聞くがよい。正しくまた適切に熟慮するがよい。私は、あなたのために法を説こう」
ところが、世尊がこの言葉を告げられるやいなや、その時、その集会に属する高慢な男女の出家者と男女の在家信者からなる5000人が席から立ち上がって、世尊の両足を頭におしいただいて敬意を表し、その集会から立ち去った。
というのは、増上慢のものたちは、むさぼりの心(貪欲)・怒りの心(瞋恚)・真理に対する無知の心(愚痴)といった善くない果報をもたらす行為によって、未だに到達していないのに既に到達したという思いを抱き、未だに完成していないのに完成したという思いを抱いているからである。それらの増上慢のものたちは、自分が欠点のあるものだということを知ることなく、その集会から立ち去った。
そして、世尊は、それを黙って了承された。(つづく)
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というのは、増上慢のものたちは、むさぼりの心(貪欲)・怒りの心(瞋恚)・真理に対する無知の心(愚痴)といった善くない果報をもたらす行為によって、未だに到達していないのに既に到達したという思いを抱き、未だに完成していないのに完成したという思いを抱いているからである。それらの増上慢のものたちは、自分が欠点のあるものだということを知ることなく、その集会から立ち去った。
そして、世尊は、それを黙って了承された。(つづく)
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第1章 巧みなる方便 (方便品第2)

舎利弗(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
その時、世尊はしっかりとした意識をもって三昧(瞑想)から立ち上がると、舎利弗に話しかけられた。
「舎利弗よ、ブッダの智慧は深遠で、見難く、知り難いもので、一切の声聞や独覚によっても理解し難いものである。それは、どんな理由によってか?舎利弗よ、ブッダたちは、実に数え切れないほど多くのブッダたちを尊敬し、数え切れないほど多くのブッダたちのもとで修行に修行を重ね、この上ない正しく完全な覚りへ向けて長期間の勇敢な努力精進をなして、希有で驚くべき法を体得していて、理解し難い法をそなえ、理解し難い法を教えているからである。
舎利弗よ、ブッダたちが深い意味を込めて語られたことは、理解し難いのである。それはどんな理由によってか?ブッダたちは、種々の巧みなる方便としての知見、因縁、譬喩、拠り所、語源的説明、言葉による表現といった、それぞれの巧みなる方便によって、それぞれのものごとに執着する衆生を解放するために、自らの確信する諸々の法を説き示すからだ。
舎利弗よ、ブッダたちは、卓越した巧みなる方便と知見の最高の完成に達しているのだ。ブッダたちは、執着がなく、妨げられることのない知見と、ブッダの10種の力、説法における4つの畏れなきこと、ブッダに具わる18の特別tの性質、5種の働きと、5種の能力、7つの覚りへの要件、4種の禅定、8種の解脱、3種の三昧などの驚くべき特質を具えておられ、種々の教えを説かれる方なのである。
舎利弗よ、ブッダたちは希有にして驚くべき大いなる法を獲得している。舎利弗は、まさにこのように言われたことで十分だと思うがよい。舎利弗よ、ブッダたちは、最高の希有なる法を獲得しているのだ。
舎利弗よ、ブッダの知っている諸々の法、そのブッダの諸々の法について、ブッダこそが説き示すであろう。舎利弗よ、あらゆる法についてもまた、ブッダこそが説き示すのである。あらゆる法についてもまた、ブッダこそが知っているのである。
それらの諸々の法は、何であるのか、また、それらの諸々の法は、どのようにあるのか、また、それらの諸々の法は、どのようなものであるのか、また、それらの諸々の法は、法は、どのような特徴を持つのか、また、それらの諸々の法は、どのような固有の性質を持つのかーすなわち、それらの諸々の法は、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを、それらの諸々の法に対して、ブッダだけがこの5つの点において明瞭であり、明らかに見ているのである」
「舎利弗よ、ブッダの智慧は深遠で、見難く、知り難いもので、一切の声聞や独覚によっても理解し難いものである。それは、どんな理由によってか?舎利弗よ、ブッダたちは、実に数え切れないほど多くのブッダたちを尊敬し、数え切れないほど多くのブッダたちのもとで修行に修行を重ね、この上ない正しく完全な覚りへ向けて長期間の勇敢な努力精進をなして、希有で驚くべき法を体得していて、理解し難い法をそなえ、理解し難い法を教えているからである。
舎利弗よ、ブッダたちが深い意味を込めて語られたことは、理解し難いのである。それはどんな理由によってか?ブッダたちは、種々の巧みなる方便としての知見、因縁、譬喩、拠り所、語源的説明、言葉による表現といった、それぞれの巧みなる方便によって、それぞれのものごとに執着する衆生を解放するために、自らの確信する諸々の法を説き示すからだ。
舎利弗よ、ブッダたちは、卓越した巧みなる方便と知見の最高の完成に達しているのだ。ブッダたちは、執着がなく、妨げられることのない知見と、ブッダの10種の力、説法における4つの畏れなきこと、ブッダに具わる18の特別tの性質、5種の働きと、5種の能力、7つの覚りへの要件、4種の禅定、8種の解脱、3種の三昧などの驚くべき特質を具えておられ、種々の教えを説かれる方なのである。
舎利弗よ、ブッダたちは希有にして驚くべき大いなる法を獲得している。舎利弗は、まさにこのように言われたことで十分だと思うがよい。舎利弗よ、ブッダたちは、最高の希有なる法を獲得しているのだ。
舎利弗よ、ブッダの知っている諸々の法、そのブッダの諸々の法について、ブッダこそが説き示すであろう。舎利弗よ、あらゆる法についてもまた、ブッダこそが説き示すのである。あらゆる法についてもまた、ブッダこそが知っているのである。
それらの諸々の法は、何であるのか、また、それらの諸々の法は、どのようにあるのか、また、それらの諸々の法は、どのようなものであるのか、また、それらの諸々の法は、法は、どのような特徴を持つのか、また、それらの諸々の法は、どのような固有の性質を持つのかーすなわち、それらの諸々の法は、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを、それらの諸々の法に対して、ブッダだけがこの5つの点において明瞭であり、明らかに見ているのである」
するとその時、世尊はまさにこの意味を重ねて示しつつ、次の詩を述べられた。
「人間と神々に伴われた世間において、偉大なる勇者であるブッダの数は無量であ
り、すべての衆生は、その指導者たちを完全に知ることはできないのである。
それらのブッダたちが所有するこのような10種の力と、8種の解脱、4つの畏れな
きこと、また、このようなブッダの特質を誰も知ることはできないのである。
かつて私が、数え切れないほど多くのブッダたちのそばでお仕えしてなした修行は、
実に底知れないものであり、量り知れないほどきめ細かく、かつまた理解し難く、
極めて見極めがたいものである。
そこにおいて、考えることもできない長い時間にわたって実践した修行の結果を、私
は覚りの座においてみた。それは、実に次のようなものであった。
私も、他の世間の指導者たちも、その修行の結果がどのようにあり、何であり、どの
ようなものであるか、またこの修行の結果の特徴がどのようなものであるかーという
ことを知っている。
それは明示することができないし、それを明示するための言葉も存在しない。また、
その法を説いたとしても、説かれたことを理解するそのような衆生は、信順の志を持
って立つ菩薩たちを除いて世間には決して存在しないのだ。ようなものであるか、またこの修行の結果の特徴がどのようなものであるかーという
ことを知っている。
それは明示することができないし、それを明示するための言葉も存在しない。また、
その法を説いたとしても、説かれたことを理解するそのような衆生は、信順の志を持
さらにまた、世間をよく知る人であるブッダに属しているこれらの声聞たちで、か
つてブッダたちに供養をなし、人格を完成された人によって称賛され、汚れを滅し、
現在の身体が輪廻における最後の身体となっている声聞たちにとってもまた、勝利者
たちの智慧の中には理解できる対象は存在しないのだ。
たとえ仮に、智慧第一の舎利弗に等しい人々が、この世界のすべてを満たして、その
人たちが一つになって熟慮するとしても、実に人格を完成された人の知を知ることは
できないのだ。
たとえ仮に、あなたのような賢者たちが十方を満たしているとしても、また私に属
するこれらの他の声聞たちが、まさにこのように十方を満たしているとしても、
また、それらの人たちのすべてが今、一つになって人格を完成された人の知を熟考
するとしても、またすべての人たちが結束したとしても、無量である私のブッダの
知を知ることはできないのだ。
汚れがなく、明敏な能力を持ち、現在の身体が輪廻における最後の身体となってい
る独覚たちが、あたかも葦や竹林のように十方のすべてを満たしているとしよう。
それらの独覚たちが一つになって、量ることもできない無限の期間にわたって、私
の最高の教えの一部分を熟考したとしても、そのブッダの知の真実の意味を知るこ
とはないであろう。
ガンジス河
新たに菩薩のための乗り物によって出て立った新発意の菩薩たちは、数え切れないほど多くのブッダたちに供養をなし、教えの意義をはっきりとよく理解し、多くの
法を語る者たちであって、それらの菩薩たちが、この十方を満たしているとしよう。
葦や竹のように、それらの新発意の菩薩たちが常に全世界をすきまなく満たしている
として人格を完成された人が自身の眼をもって観察された法について、一つになって
熟考するとしても、
あたかもガンジス河の無量の砂のように、量り知れないほどの長い時間にわたって、
心を一つにして量り知れないほどきめ細かな智慧によって熟考しても、それらの新発
意の菩薩たちにとってもまた、この人格を完成された人が自身の眼をもって観察され
た法の中には理解できる対象は存在しないのだ。
あたかもガンジス河の砂の数のように多くの不退転の菩薩たちがいて、心を一つにし
て熟考するとしても、それらの菩薩たちにとってもまた、この人格を完成された人が
自身の眼をもって観察された法の中には理解できる対象は存在しないのだ。
深遠で。量り知れないほどきめ細かであり、思議を超え、そして汚れのないすべての
法をブッダは覚っておられる。また私は、それらの法がまさにどのような性質のもの
であるかを確かに知っているし、あるいは十方の世界にいる勝利者たちもまた知って
いるのだ。
舎利弗よ、あなたは人格を完成された人が話される教えに信順の志を持っているがよ
い。偉大なる聖仙である処勝利者はあ、誤謬を語る人ではなく、長い時間が経過した
後に、最高の道理を説かれるのだ。
独覚の覚りへ向けて出で立ち、また私が涅槃に立たしめ、苦しみの連続から解放させ
たこれらのすべての独覚果を持って求める者たちや、声聞たちに私は語りかける。
『これが私の最高の巧みなる方便であり、それによって私は世間において多くの法を
説き、あれこれと執着した人たちを解放する。だから、私は3つの乗り物を(三乗)
を説くのである』と」(つづく)
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弥勒菩薩交脚座像(平山郁夫シルクロード美術館蔵)
妙光菩薩の800人の弟子の中の一人の菩薩は、過剰に利得を重んじ、称賛されることを重んじ、人々に知れ渡ることを重んじていて、名声を求めるものであった。その人のために繰り返して教えられた句や象徴的表現も、その人は忘れてしまい、その人に留まることはなかった。その人にはまさに求名(名声を求めるもの)という命名がなされた。けれども、その求名菩薩もまた、その善い果報をもたらす立派の行ないによって数え切れぬほどの多くのブッダに出会った。出会ってから、その求名菩薩は、それぞれのブッダを尊重し、恭敬し、讃嘆し、供養し、敬礼し、尊崇した。
ところで、弥勒よ、あなたは疑わしいこと、あるいは考え違い、あるいは疑惑があるかもしれない。その時その情況で、その妙光菩薩は誰か他の人であったと。
しかしながら、そのように見なされるべきではない。それは、どんな理由によってか?私、文殊師利こそが、その時その情況で、妙光菩薩であったからだ。また、その求名という名前の菩薩で怠け者であった人ー弥勒よ、まさにあなたこそが、その時その情況で怠け者であった、求名菩薩であったのだ。
以上のように、弥勒よ、繰り返して放たれた、このような光明というブッダのこの瑞相を見て、世尊もまた、広大なる菩薩のための教えであり、すべてのブッダが把握しているその「妙法蓮華経」という法門の経を説くことを望まれているのだ』と、私はこのように考えているところだ」
そこで、文殊師利菩薩はその時、まさに以上の意味を重ねて説明しつつ、次の詩を述べた。
「考えることもできない、量ることもできない劫の昔における過去の世を私は思い出
す。その時、生きとし生けるもののうちで最高の人である日月燈明仏という名前の勝
す。その時、生きとし生けるもののうちで最高の人である日月燈明仏という名前の勝
利者がおられた。
生きとし生けるものの指導者は正法を説かれ、数え切れぬほど多くの衆生を導き、考
えることもできない多くの菩薩たちを最高のブッダの知へと教化される。
日月燈明仏には出家する前の王子であった時に8人の息子がいた。そのすべては、そ
の偉大なる賢者が出家されたのを見て、愛欲を捨てて速やかに出家した。
また、その世間の保護者は、法を説かれた。それは、『最も勝れた無量義という広大
な経典』という名前で呼ばれ、数えることもできない多くの生命あるものたちのため
に説き明かされた。
その指導者は、その法を説かれると直ちに、その瞬間に結跏趺坐を組まれ、その最も
勝れた賢者は法座に坐したままで、『最も勝れた無量義処』という三昧に入ってお
られた。
られた。
そして、天上の曼陀羅華の花の雨が降り、打たれてもいないのに、おのずから多くの
太鼓の音が聞こえてきた。神々や夜叉たちは空中にあって、両足で歩くもののうちで
最上の人のために供養をなした。
その瞬間に、すべての国土が震動し、そこにおいて、極めて不思議で驚くべきことが
起こった。指導者が、極めて見るも美しい一条の光明を眉間から放たれたのだ。
その光明は、東の方向へと進み、1万8000の国土に満ちてそれらの国土を輝かせ、そ
してあらゆる世界を照らし出し、衆生の死と生の様相を見せた。
そこにおいて、ある国土は宝石で造られているし、ある国土は瑠璃の輝きを持ってい
て、それらの国土は、指導者の光明によって、輝かしく、極めて見るも美しいものと
見えた。
そこでは、人格を完成された人の供養に専念している神々や、人間、龍、夜叉たちが
見られ、それらのものたちが諸々の世界において供養していた。
また、独立自存するものであるブッダたちが、ひとりでに見られた。そのブッダたち
は、黄金の柱のように見るも美しく、瑠璃の中央に現われた黄金の像のように、集会
の真ん中で法を説いておられた。
そこにおいて声聞たちの数は、見いだされることがないほど無量で、人格を完成され
た人にはそれらの無量の声聞たちが属していた。指導者たちの一つひとつの国土にお
いてその一条の光明は、それらのすべての声聞たちを見せていた。
努力精進を具え、欠けたところのない戒を守っている宝玉のような人間の指導者たち
の息子である菩薩たちが、山の洞窟に住んでいるのが見られた。
ガンジス河
ガンジス河の砂のように多くの意志堅固な菩薩たちのすべてが、自分の所有するすべ
てのものを布施として喜捨し、忍耐の力を具え、禅定を楽しんでいるのもまた、まさ
にその光によって見られた。
人格を完成された人の嫡出の息子である菩薩たちが、不動で、動揺することもなく、
忍耐に立って、禅定を楽しみ、心を集中しているのが見られた。それらの菩薩たち
は、禅定によって最高の覚りへと出て立ったのである。
それらの菩薩たちは、煩悩が消滅して安らかであり、汚れのない真実の立場を知り
つつ多くの世界において法を説き示している。このような振る舞いは、人格を完成
された人の威神力によるのである。
それらの四衆たちは、日月燈明という保護者のこの威神力を見て、その瞬間にすべ
ての歓喜にひたって、互いに『これは、いったいどういうことだ』と尋ね合ってい
る。
人間や神々、夜叉によって供養されたその世間の指導者は、直ちに三昧から出られ、
その時、賢明な説法者である息子の光明という菩薩に語りかけられた。
『あなたは、世間の人々の眼であり、頼りにして趣くところであって、賢明で、信頼
すべきものであり、また私の法を受持するものである。生命あるものたちの安寧のた
めに私が法を説くそのままに、あなたは実に私の法の蔵の証人である』と。
多くの菩薩を近くに立たせ、喜ばせ、称賛し、褒め称えてから、その勝利者である日
月燈明というブッダは、最上の法をまるまる60中劫の間、説かれたのだ。
また、その世間の保護者である日月燈明というブッダが、同一の座に坐って説かれる
最も勝れた最上の法(すなわち「妙法蓮華経」)のすべてを、その勝利者の息子であ
り説法者であった妙光菩薩は受持した。
また、その勝利者である日月燈明というブッダは、最上の法を説いて多くの人々を喜
ばせ、その指導者であるブッダは、その日、神々に伴われた世間の人々の面前で次の
ようにおっしゃられた。
『私は、この真理を見る眼を示し、このような真理の本性を語った。男性出家者たち
よ、私が滅度する時は、まさに本日の真夜中である。
あなたたちは、不注意であることなく、信順の志を堅固に備えていなさい。私のこの
教えに専念するがよい、勝利者である偉大名なる聖仙たちは、数え切れないほど遥か
な時間が過ぎ去った後にも極めて会い難いのである』
すべきものであり、また私の法を受持するものである。生命あるものたちの安寧のた
めに私が法を説くそのままに、あなたは実に私の法の蔵の証人である』と。
多くの菩薩を近くに立たせ、喜ばせ、称賛し、褒め称えてから、その勝利者である日
月燈明というブッダは、最上の法をまるまる60中劫の間、説かれたのだ。
また、その世間の保護者である日月燈明というブッダが、同一の座に坐って説かれる
最も勝れた最上の法(すなわち「妙法蓮華経」)のすべてを、その勝利者の息子であ
り説法者であった妙光菩薩は受持した。
また、その勝利者である日月燈明というブッダは、最上の法を説いて多くの人々を喜
ばせ、その指導者であるブッダは、その日、神々に伴われた世間の人々の面前で次の
ようにおっしゃられた。
『私は、この真理を見る眼を示し、このような真理の本性を語った。男性出家者たち
よ、私が滅度する時は、まさに本日の真夜中である。
あなたたちは、不注意であることなく、信順の志を堅固に備えていなさい。私のこの
教えに専念するがよい、勝利者である偉大名なる聖仙たちは、数え切れないほど遥か
な時間が過ぎ去った後にも極めて会い難いのである』
両足で歩くもののうちで最上の人の声を聞いて、ブッダの息子である多くの菩薩たち
は、苦悩を生じ、激しい苦悶にとらえられた。それは、あまりにも突然の滅度を予告
する声であった。
人間の王の中の王は、それらの考えることもできない数え切れないほど多くの生命あ
るものたちを元気づけて次のようにおっしゃられた。『男性出家者たちよ、あなたた
ちは、畏れてはいけない。私が滅度したとしても、私の後に一人のブッダが出現する
であろう。
徳蔵というこの賢明な菩薩は、汚れのない知に通達していて、最高にして最上の覚り
を獲得し、浄身という勝利者になるであろう』
まさにその夜の真夜中、油がなくなって燈明が燃え尽きるように、その日月燈明とい
うブッダは、完全なる滅度に入られた。そのブッダの遺骨は分配され、数え切れない
ほど無数のストゥーパが出現した。
は、苦悩を生じ、激しい苦悶にとらえられた。それは、あまりにも突然の滅度を予告
する声であった。
人間の王の中の王は、それらの考えることもできない数え切れないほど多くの生命あ
るものたちを元気づけて次のようにおっしゃられた。『男性出家者たちよ、あなたた
ちは、畏れてはいけない。私が滅度したとしても、私の後に一人のブッダが出現する
であろう。
徳蔵というこの賢明な菩薩は、汚れのない知に通達していて、最高にして最上の覚り
を獲得し、浄身という勝利者になるであろう』
まさにその夜の真夜中、油がなくなって燈明が燃え尽きるように、その日月燈明とい
うブッダは、完全なる滅度に入られた。そのブッダの遺骨は分配され、数え切れない
ほど無数のストゥーパが出現した。
サーンチーのストゥーパ
ガンジス河の砂の数のように多くのそれらの男女の出家者たちは、最高にして最上の
覚りへと出て立っていて、その人格を完成された人の教えに専念したのである。
その時、男性出家者であり説法者であり、またその法を受持する妙光菩薩は、80中劫
に満ちる間、日月燈明というブッダのその教えに従って最高の諸々の法を説いた。
その妙光菩薩には800人の弟子たちがいた。その時、その菩薩が成熟させたすべての
弟子たちは、数え切れないほど多くのブッダに出会って、それらの偉大なる聖仙たち
に恭敬をなした。
その時、それらの弟子たちは、適切な修行を行って多くの世界においてブッダとなっ
た。そして、それらの弟子たちは、途切れることなく、相次いで最高の覚りに到るで
あろうという予言をなし合った、
続けて順番に、それらのブッダたちのうちの最後が燃燈仏であり、その燃燈仏は、す
べての神々のうちの卓越した神で、聖仙たちの集いにおいて供養され、数え切れない
ほど多くの生命あるものたちを教え導かれた。
その人格を完成された人の子である妙光菩薩が法を説かれている時、一人の弟子がい
た。その弟子自身は怠け者であり、利得を貪り、名声が知れ渡ることを求めていた。
その人は、過度に名声を求めていて、高貴な種姓の家から家へとやって来るのであ
った。この人にとって、その時、解説を復唱することも、説かれたことのすべても、
同じく身に留まることはなかった。
このように、その人には求名という名前があって、この名前によって諸方に知れ渡っ
ていた。しかし、その人は欠点があるとはいえ、その人がなした善き行ないによって
数え切れないほど多くのブッダたちに出会い、それらのブッダたちに広大なる供養を
なした。そして、その求名は、最も勝れた適切な修行を実践し、そしてこの獅子のよ
うに偉大なる釈迦族の人であるブッダにお会いしたのである。
その輪廻における最後の身体が生まれて、この人は、この上ない最高の覚りを獲得す
るであろう。弥勒の氏族に属するブッダとなり、数え切れないほど多くの生命あるも
のたちを教え導くことであろう。
人格を完成された人が完全なる滅度に入られた後、人格を完成された人の教えのもと
で怠け者であったその人とは、その時、まさにそのようであったあなた、弥勒なので
あり、その時、妙光という説法者であったのは、私、文殊師利なのだ。
この原因と理由から、今、このような瑞相を見て、『これは、その日月燈明というブ
ッダの知の瑞相が現れたのと同じであり、その日月燈明というブッダのところで私が
最初に見たものと同じ瑞相である』と私は言うのだ。
実に、勝利者たちの王である釈迦族出身の最高統治者もまた、完全な眼を持つ人であ
り、最高の真理を見ている人である。その時、私はが聞いた最高の法門、まさにその
妙法蓮華経という法門をこの世尊は説くことを望んでおられるのだ。
今、完了したこの瑞相こそが、指導者たちの用いられる巧みなる方便であり、獅子の
ように偉大なる釈迦族の人は、それによって、衆生の求道心の確立をなして、法の本
性の勝れた特徴を説かれるであろう。
あなたたちは、自己を制して、善い心を持ち、合掌しているがよい、世間の人々の安
寧におために憐憫の情を抱く人が、無量の法を説き、無量の法の雨を降らせられるの
だ。覚りの獲得のために出て立った人々は、それによって満足させられるのである。
今、誰かに何か疑惑の状態や、懸念、また疑問が何かあるならば、賢者は、今、覚り
へ向かって出て立った菩薩である息子たちのために、それらの疑惑や、懸念、疑問を
除き去られるであろう。
以上が「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「序の章」という名前の第1章である。
(序品第1おわり)
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菩薩頭部(ラホール博物館蔵)
文殊師利菩薩は、偉大な人である弥勒菩薩と、その菩薩の群衆全体に語りかけた。
「良家の息子たちよ、ブッダの願いは、「大いなる法」の名声についてのこの講説をなすこと ーすなわち「大いなる法」の雨を降らせること、「大いなる法」の太鼓を打ち鳴らすこと、「大いなる法」の旗を高くかかげること、「大いなる法の松明に火を灯すこと、「大いなる法」の螺貝を吹き鳴らすことである。
また、良家の息子たちよ、ブッダの願いは、今、「大いなる法の教説」をなすことである。私の心に思い浮かぶ限りでは、過去のブッダたちのこのような瑞相を私がかつて見たことからすると、正しく完全に覚られた尊敬されるべきそれらの過去のブッダたちが、このような光明の放出という瑞相を示されたことがある。それ故に、私は次のように了解している。ブッダがこのような瑞相を現わされたからには、ブッダは「大いなる法」の名声についての講説をなすことを望んでおられるのであり、「大いなる法」の名声を聞かせることを望んでおられるのだ。
それは、どんな理由によってか?このような大いなる奇跡と、光明の放出の顕現という瑞相を示されるからには、世尊は、全世界の衆生にとって信じ難い法門を衆生に説いて聞かせることを望んでおられるのだ。
良家の息子たちよ、私は思い出すのだ。それは、数えることのできない、さらに数えることのできない、広大で、無量の、考えることもできない、全く推し測ることもできない、量り知ることもできない劫(天文学的時間の長さ)の、それより以前のさらに遠い過去の世における時のことであった。
その時その状況で、日月燈明という名のブッダがこの世に出現された。そのブッダは、初めにおいてもよく、中間においてもよく、終わりにおいてもよく、勝れた意味と巧みなる象徴的表現からなる法を説かれ、純粋で欠けたものがなく、清く清浄な純潔の行ないを説き示されたのだ。
すなわち、声聞たちのために、生・老・病・死の悩みと苦しみを超越するための四聖諦や、十二因縁を説かれた。菩薩のためには、この上ない正しく完全な覚りをはじめとして、六波羅蜜と結びついた一切知者の智慧を究極とする法を説かれた。さらにまた、良家の息子たちよ、その日月燈明というブッダの次にさらに続けて、全く同じ日月燈明という名のブッダが世間に出現された。
弥勒よ、このようにして、この日月燈明という同じ名前を持ち、家系と氏族も同じ、2万人のブッダが次々に出現された。
ところで、弥勒よ、最初のブッダから最後のブッダまで、2万人の日月燈明という名前のブッダは、広大なる菩薩のための教えであり、すべてのブッダが把握している「大いなる教説」(無量義)という名前の法門である経を説かれた。その後、まさにその瞬間のそのまた瞬間にして、その大衆の集まりにおけるその大いなる法座に結跏趺坐して、身体も不動のままで、心も不動のままで、「無限の教説の基礎」(無量義処)という名前の三昧に入られた。さらにまた、そのブッダが三昧に入られた後、直ちに天上の花である曼陀羅華や曼殊沙華の花の大雨が降り注ぎ、聴衆に伴われたそのブッダの上に降った。また、そのブッダの国土のすべてが6種に震動して、揺れ、遍く揺れ、動き、遍く動き、震え、遍く震えた。
ところで、弥勒よ、その時、その場で、集会に集まって一緒に坐っていた男女の出家者や男女の在家信者、神々、龍、夜叉、阿修羅、人間、人間以外のものたちや、従者を伴った王侯たちや、小王たち、軍隊を統率する転輪王、四つの大陸を支配する転輪王たち、それらのすべてのものたちが、そのブッダを仰ぎ見て、希有なる思いを抱き、驚くべき思いに満たされ、大いなる歓喜を得た。
するとその時、その日月燈明というブッダの眉間にある巻毛の塊から一条の光明が放たれた。その光明は、東の方向にある1万8000ものブッダの国土に流れ出た。光明のその輝きによって、それらのすべてのブッダの国土が極めてはっきりとして観察された。弥勒よ、それは、あたかも今これらのブッダの国土が観察されるのと同じようにである。
さらにまた、弥勒よ、その時、そのブッダも教えのもとに妙光という名前の菩薩がいた。その菩薩には、800人の弟子たちがいた。そのブッダは、その三昧から出て、その妙光菩薩に対して、「妙法蓮華経」という名前の法門を説かれた。そのブッダは、60中劫に満ちるほどの長きにわたって、同一の座に坐って、身体が不動のままでその法門を説かれた。また、そのすべての聴衆も、その60中劫もの間、同一の座に坐って、そのブッダのそばで法を聞いた。その集会において衆生の一人にでさえも身体の疲労や、心の疲労が生じることはなかった。
その時、日月燈明という名のブッダは、広大な菩薩のための教えであり、すべてのブッダが把握しているその「妙法蓮華経」という法門を説いてから、60中億劫経過の後、まさにその瞬間のそのまた瞬時にして、神々や、悪魔や梵天に伴われた世間の人々の面前で、また沙門やバラモン、神々、人間、阿修羅からなる生きとし生けるものの面前で、完全なる滅度に入ることを告げられた。
涅槃仏(インド・クシナガラ)
『「男性出家者たちよ、本日、まさに今夜の真夜中にブッダは、煩悩を余すことのない涅槃の境地において完全なる滅度に入るであろう』と。
そこで、弥勒よ、日月燈明という名のブッダは、徳蔵という名前の菩薩に、この上ない正しく完全な覚りに至るであろうという予言をして、その一切の聴衆に語りかけられた。
『男性出家者たちよ、この徳蔵菩薩は、私の後で直ちにこの上ない正しく完全な覚りを覚って、浄眼という名前のブッダになるであろう』と。
そこで、弥勒よ、日月燈明という名のブッダは、まさにその夜の真夜中に、煩悩を余すことのない涅槃の境地において完全なる滅度に入られた。そして、妙光菩薩はその「妙法蓮華経」という法門を受持した。そして80中劫の間、その妙光菩薩は、その完全なる滅度に入られたブッダの教えを受持し、説き示した。
その時、弥勒よ、日月燈明という名のブッダが、かつて出家をしていない在家の王子であった時、その王子に8人の息子たちがいた。有意という名前の王子をはじめとするそのブッダの8人の息子たちは、まさにその妙光菩薩の弟子となった。まさにその妙光菩薩は、それらの王子たちをこの上ない正しく完全な覚りへ向けて成熟させたが、その後にそれらの王子たちは、数えきれないくらいの多くのブッダたちに出会い、そして恭敬した。それらの王子たちはすべて、この上なく完全な覚りを覚った。そして、それらの8人の王子たちのうちの最後の王子が、燃燈仏という正しく完全に覚られた尊敬されるべきブッダとなった。(つづく)
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