なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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須菩提(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
すると、長者である大目犍連 と、尊者須菩提 、尊者大迦旃延 は、身体を震わせながら、眼を瞬 きすることもなく世尊を見つめた。その時、それらの人たちは、それぞれの心の讃歌によって次の詩を申し上げた。
「おお、尊敬されるべき偉大な勇者よ、獅子のように偉大なる釈迦族の人よ、人間の
中の最上の人よ、私たちに同情してブッダの予言の声を聞かせてください。
人間の中の最上の人よ、確かに今こそその時であることを知って、力ある勝利者よ、
まさに甘露 を注ぎかけて、私たちにも未来における成仏の予言をなしてください。
誰かある人が、飢饉のところからやって来て、ごちそうに出会い、その食べ物を手に
して、まさに食べようとした時、『もう少し待て』と言われたとしましょう。
まさにこのように、私たちは、あたかも飢饉という悪しき時代に打ち負かされた人々
のように、疑わしい貧弱な乗り物(小乗)に不安を抱いており、ブッダの知を得たい
のです。
あたかも飢饉のところからやって来た人が、手の中に置かれたその食べ物をまだ食べ
ていないように、完全に覚られた偉大なる賢人は、未だに私たちに未来における成仏
の予言をしてくださりません。
勇者よ、〔『あなたたちは、ブッダとなるであろう』という〕この上ない宣言を聞い
たものの、〔私たちはまだ予言を受けておらず、〕このように不安になっています。
私たちが未来における成仏の予言をされた時、私たちは安穏になでるありましょう。
偉大なる勇者よ、人々の幸せを求め、同情する人であるあなたは、私たちに未来にお
ける成仏の予言をしてください、偉大なる賢人よ、それによって私たちの貧しい心に
終わりがもたらされるでありましょう。
初転法輪像(インド・サールナート)
すると世尊は、自分の心で、それらの偉大なる声聞である尊者たちのこのような心の
思いを了解して、また再び一切の男性出家者の集団に語りかけられた。
「男性出家者たちよ、私のこの偉大なる声聞である尊者須菩提(解空第一)は、300万コーティ・ナユタもの数え切れないほど多くのブッダたちのもとにおいて称讃をなし、尊重、尊敬、供養、恭敬、尊崇をなすであろう。そこにおいて、純潔の行ないを実践し、覚りを完全に成就するであろう。
思いを了解して、また再び一切の男性出家者の集団に語りかけられた。
「男性出家者たちよ、私のこの偉大なる声聞である尊者須菩提(解空第一)は、300万コーティ・ナユタもの数え切れないほど多くのブッダたちのもとにおいて称讃をなし、尊重、尊敬、供養、恭敬、尊崇をなすであろう。そこにおいて、純潔の行ないを実践し、覚りを完全に成就するであろう。
このような諸々の努力をなして、須菩提は〔輪廻における〕最後の身体において、世間の中で名相(月の光を持つもの)という名前の正しく完全に覚ったブッダとなるであろう。
名相というブッダの国土は、宝生(宝から生じたもの)という名前であろう。その劫は有宝(宝の出現)という名前であるだろう。また、そのブッダの国土は平坦で、喜ばしく、水晶で造られていて、宝石の樹木で飾られていて、深い割れ目や断崖が消滅していて、糞尿などの汚物もなく、美しく花々が振り撒かれているであろう。ここにおいて人々は、楼閣に住んで享楽の暮らしを送るであろう。
このブッダには、量り知れない多くの弟子たちがいて、それらの弟子たちを計算しても、その数の終わりに達することができないであろう。また、そこには数え切れぬほど多くの菩薩たちがいるであろう。
そのブッダの寿命の長さは、12中劫にわたるであろう。また、その正しい教えは20中劫の間、存続するであろう。その後、正しい教えに似た教えは、まさに20中劫の間、存続するであろう。
そのブッダは、常に虚空に留まって、法を説かれ、数え切れないほど多くの菩薩たちや、数え切れないほど多くの声聞たちを教導されるであろう」
その時、世尊は次の詩を述べられた。
「男性出家者たちよ、私は今告げよう。聞くがよい。私の弟子であるこの尊者須菩
提は未来の世においてブッダとなるであろう。
大いなる力を持つ数え切れないほど多くのブッダたちに会って、それらのブッダた
ちの知の成就のために、その須菩提は、それにふさわしい修行をなすであろう。
その須菩提は、〔輪廻における〕最後の身体において、32種類の身体的特徴を具え
た勇者で、世間の人々の安寧のために慈愛を有する金色に輝く柱のような偉大な聖
仙となるであろう。
また、その勝れた国土は、見て美しく、多くの人々にとって希求され、心にかなっ
たものであるだろう。その須菩提は、世間の人々にとっての親類であり、数え切れ
ないほど多くの生命あるものたちを救って、そこで過ごすであろう。
法輪(チベット・ジョカン寺)
そこには、大いなる力を持つ多くの菩薩たちがいて、退くことのない(不退転の)真
理の車輪を転じ、その勝利者の教えに対して明敏な能力を持ち、そのブッダの国土を
輝かせるであろう。
そのブッダには多くの弟子がいて、それらの弟子たちを教えることも、それらの弟子
たちを量ることも決してできない。それらの弟子たちは、6種の神通と、3種の明知
からなる偉大なる神通力の所有者であり、8つの解脱に立脚しているのだ。
この最高の覚りを説き示すたびに、そのブッダの神通の力は考えも及ばないものであ
るだろうし、ガンジス河の砂の数のように多くの神々や、人間たちは、常にそのブッ
ダに合掌しているであろう。
そのブッダは、12中劫の間、この世に留まるであろう。両足で歩くもののうちで最上
の人の正しい教えは、20中劫にわたって存続するであろうし、その後、正しい教えに
似た教えも、まさに20中劫にわたって存続するであろう」(つづく)
理の車輪を転じ、その勝利者の教えに対して明敏な能力を持ち、そのブッダの国土を
輝かせるであろう。
そのブッダには多くの弟子がいて、それらの弟子たちを教えることも、それらの弟子
たちを量ることも決してできない。それらの弟子たちは、6種の神通と、3種の明知
からなる偉大なる神通力の所有者であり、8つの解脱に立脚しているのだ。
この最高の覚りを説き示すたびに、そのブッダの神通の力は考えも及ばないものであ
るだろうし、ガンジス河の砂の数のように多くの神々や、人間たちは、常にそのブッ
ダに合掌しているであろう。
そのブッダは、12中劫の間、この世に留まるであろう。両足で歩くもののうちで最上
の人の正しい教えは、20中劫にわたって存続するであろうし、その後、正しい教えに
似た教えも、まさに20中劫にわたって存続するであろう」(つづく)
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摩訶迦葉(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
その時、実に世尊は、これらの詩を述べられると、男性出家者の集団のすべてに語りかけられた。
「男性出家者たちよ、私の弟子で男性出家者であるこの迦葉(頭陀第一)は、3万コーティもの数え切れないほど多くのブッダたちのもとにおいて称讃をなし、尊重、尊敬、供養、恭敬、尊崇をなし、それらのブッダたちの正しい教えを受持するであろう。
「男性出家者たちよ、私の弟子で男性出家者であるこの迦葉(頭陀第一)は、3万コーティもの数え切れないほど多くのブッダたちのもとにおいて称讃をなし、尊重、尊敬、供養、恭敬、尊崇をなし、それらのブッダたちの正しい教えを受持するであろう。
その迦葉は、〔輪廻における〕最後の身体において、光徳(光明を獲得したところ)という世界で、大荘厳(大いなる荘厳)という劫 (極めて長い宇宙論的な時間の単位)に、世間において光明(輝く光明)という名前の正しく完全に覚ったブッダとなるであろう。
そのブッダの寿命の長さは12中劫にわたるであろう。また、そのブッダの正しい教え(正法)は20中劫わたって存続するであろう。その後、正しい教えに似た教え(像法)は、実に20中劫にわたって存続するであろう。
また、その光明というブッダの国土は、清らかで、きれいに石や砂、瓦礫 が取り除かれていて、深い割れ目や断崖が消滅し、糞尿などの汚物の排水路もなく、平坦で、喜ばしく、麗しく、見た目にも美しく、瑠璃 で造られていて、宝石の樹木で装飾され、八方に道が伸びるロータリーに黄金の糸が張られ、花々が振り撒 かれているであろう。そこには、数え切れないほど多くの菩薩たちが現れるであろう。また、そこには数え切れないほど多くの声聞たちが生ずるであろう。
また、そこは、悪魔のパーピーヤスが化現 する機会を得ることもなく、そこで悪魔の衆を見出すこともないであろう。しかしながら、そこに、いつか悪魔と悪魔の衆たちが生ずるとしても、それらの菩薩や声聞たちは、その世界において、光明というブッダの教えのもとで、正しい教えの獲得のために専念するであろう」
初転法輪像(インド・サールナート)
そこで、世尊はその時、次の詩を述べられた。
「男性出家者たちよ、私がブッダの眼によって見るに、実にこの尊者迦葉は、未来の
世において、数えることもできない劫において、両足で動くもののうちで最上の人た
ちに対して供養をなして後に、ブッダとなるであろう。
男性出家者たちよ、実にこの迦葉は、まるまる3万コーティもの数え切れないほど多
くのブッダたちに出会うであろう。そして、この人はそこにおいてブッダの知の成就
のための純潔の行ないを実行するであろう。
両足で動くもののうちで最上の人たちに供養をなし、この上ない知を完成して後に、
その人は、〔輪廻における〕最後の身体において、比較することもできない世間の保
護者である偉大な聖仙となるであろう。
また、そのブッダの国土は、卓越していて、美しく、清らかで、立派であり、見た目
にも美しく、常に心にかなった外観を持ち、愛されるべきところであって、黄金の糸
で見事に飾られているであろう。
男性出家者たちよ、そこには種々の宝石で造られた諸々の樹木があり、その八方に道
が伸びる一つひとつのロータリーに一本ずつ木が植えてある。そして、この国土にお
いて、それらは快い香りを放っているであろう。
その国土は、多様な種類の花で飾られ、種々の花で美しく輝き、そこには深い割れ目
や断崖もなく、平坦で、安楽で、見た目にも美しいであろう。
そこには、よく調練された心を持ち、大いなる神通を持ち、広大なる経を受持してい
る数え切れないほど多くの菩薩たちがいて、何千もの多くの保護者となるであろう。
法王〔である〕ブッダの弟子たちで、汚れを滅し、〔輪廻における〕最後の身体をた
もつものの数は、天上の知によって幾劫にもわたって数えたとしても、決して知るこ
とはないのだ。
そのブッダは12中劫の間、この世に留まり、そのブッダの正しい教えは20中劫の間、
存続するであろう。その後、さらに、正しい教えに似た教えも、20中劫の間存続し、
光明というブッダの荘厳となるであろう」(つづく)
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六道輪廻図(チベット)
迦葉よ、この譬喩は次の意味を明らかにするためになされたのである。従って、この場合、次の意味を知るべきである。迦葉よ、生まれつき盲目のものとは、〔地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界という〕6種の生存領域の循環(六道輪廻)に住する衆生の名前である。正しい教えを知らずに、煩悩によって闇と、暗黒とを増大させる人たちは、無知ゆえに盲目なものたちである。
また、無知ゆえに盲目なものたちは、〔実際には存在しないものを、あるかのごとく〕作り出す心の働きを積み重ねるのだ。それによって、精神と物質〔からなる認識対象〕が、苦しみのみの集まりになるのだ。
このように、無知ゆえに盲目である衆生は、6種の生存領域の循環の中に住しているのである。ブッダは慈しみの心を生じた三界から脱け出している。しかし、あたかも愛する一人息子に対する父親のように、ブッダは慈しみの心を生じて三界に姿を現して、衆生が6種の生存領域の循環の輪の中をさまよっているのを観察するのである。けれども、衆生はそこから脱け出すことを知らないのだ。
そこで、ブッダはそれらの衆生を智慧の眼で見て、次のことを知るのだ。『これらの衆生は、憎悪はわずかだが激しい愛欲を持つものや、愛欲はわずかだが激しい憎悪を持つもの、智慧の劣ったもの、賢いもの、心の清らかなもの、誤った見解をもつものたちである』と。
そして、ブッダは巧みなる方便によって、それらの衆生に3つの乗り物を示し、菩薩は覚りを求める心(菩提心)を発 して、何ものも生ずることはないという真理を認める知を得て、この上なく正しい完全な覚りに目覚めるのである。
そこにおいて、ブッダは医者で、衆生は迷妄ゆえに、生まれつき盲目の人と見なされる。愛欲と憎悪と迷妄は、〔病気をもたらす原因となる〕風と胆汁と痰にみなされよう。
あらゆるものごとが空 であること、自性 のないこと、欲望を離れていること、煩悩の炎が吹き消されていることに到る4つの門は、4種類の薬草のように見なされるべきである。
このように、空 であること、自性のないこと、欲望を離れていることという3つの解脱への入口を修行して、衆生は無知を滅する。無知を滅することによって、〔実際には存在しないものを、あるかのごとく〕作り出す心の働きの滅尽があり、その結果、苦しみの滅尽があるのだ。このようにして、この人は善にも悪にも留まることはないのである。
声聞と独覚の乗り物に属することは、盲目の人が視力を回復したことだとみなされる。その人は、煩悩の束縛から逃れて、三界に属する6種の生存領域から解放されるのである。それ故に、声聞のための乗り物に属するものは、このように〔解放されたことを〕知って、次のように言葉を告げるのだ。
『完全に覚られるべき法は、これよりほかにない。私は、涅槃に達したのだ』
『すべての法を体得していない人に、何故に涅槃があろうか』と。
ブッダは、その人を覚りへと教化するのだ。その人は、覚りを求める心を発して、生存領域の循環に留まることもなく、涅槃に達することもない。その人は、十方の三界に存在するものがすべて空であると覚って、世間を化作されたものに等しく、幻に等しく、夢・ 陽炎・音の反響に等しいものと見るのだ。
その人は、あらゆるものごとを、生じることもなく、滅することもなく、束縛されることもなく、解放されることもなく、迷妄ゆえの暗さもなく、明るくもないものと見るのである。深遠なあらゆるものごとをこのように見る人は、衆生がそれぞれの意向によって熱中している三界のすべてを全く見ないことによって、見せるのである」と。
その時、世尊はまさに以上の意味を重ねて示しつつ、次の詩を述べられた。
「月と太陽の光が、徳ある人にも、悪い人にも、人々に平等に射すように、光には相
「月と太陽の光が、徳ある人にも、悪い人にも、人々に平等に射すように、光には相
手によって少なかったり、多かったりすることはない。
また、ブッダの智慧は、太陽と月のように光を発していて、その智慧を発することは
少なすぎることもなく、実に多すぎることもなく、すべての衆生を導くのだ。
あたかも陶工が、同じ粘土で器を作っているのに、その人の容器が黒糖や牛乳、バタ
ー、水を入れる容器となるようなものである。
その場合に、あるものは不浄なものの容器、他のものはヨーグルトの容器となる。け
れども、その陶工は諸々の器を作るのに同一の粘土を手に取るのである。
容器に何を入れるか、それによって容器は性格づけられる。同様に、衆生に違いはな
いけれども、好みに差異があることで、ブッダたちは、
乗り物に差異があることを説くのである。しかしながら、ブッダに到る乗り物は確実
なものである。衆生は、生存領域を循環する輪について無知であることから、涅槃の
安らぎも知らないのだ。
けれども、ものごとが空であり、実体を離れたものであると知る人は、完全に覚った
ブッダたちの覚りを如実に知るのだ。
中くらいの智慧を確立することで、その人は独覚と言われ、空についての知が欠如し
ていることで、声聞であると言われる。
しかるに、あらゆるものごとについて覚っていることで、正しく完全に覚った人と言
われるのだ。そこで、その人は常に幾百もの方便によって生命あるものたちに法を説
くのである。
あたかも、生まれつき盲人の人が、太陽や、月、遊星、星を見ることがないままに、
『色・形は全く存在していない』と言うようなものである。
また、ブッダの智慧は、太陽と月のように光を発していて、その智慧を発することは
少なすぎることもなく、実に多すぎることもなく、すべての衆生を導くのだ。
あたかも陶工が、同じ粘土で器を作っているのに、その人の容器が黒糖や牛乳、バタ
ー、水を入れる容器となるようなものである。
その場合に、あるものは不浄なものの容器、他のものはヨーグルトの容器となる。け
れども、その陶工は諸々の器を作るのに同一の粘土を手に取るのである。
容器に何を入れるか、それによって容器は性格づけられる。同様に、衆生に違いはな
いけれども、好みに差異があることで、ブッダたちは、
乗り物に差異があることを説くのである。しかしながら、ブッダに到る乗り物は確実
なものである。衆生は、生存領域を循環する輪について無知であることから、涅槃の
安らぎも知らないのだ。
けれども、ものごとが空であり、実体を離れたものであると知る人は、完全に覚った
ブッダたちの覚りを如実に知るのだ。
中くらいの智慧を確立することで、その人は独覚と言われ、空についての知が欠如し
ていることで、声聞であると言われる。
しかるに、あらゆるものごとについて覚っていることで、正しく完全に覚った人と言
われるのだ。そこで、その人は常に幾百もの方便によって生命あるものたちに法を説
くのである。
あたかも、生まれつき盲人の人が、太陽や、月、遊星、星を見ることがないままに、
『色・形は全く存在していない』と言うようなものである。
しかるに、偉大なる医者が、生まれつき盲目の人に同情心を抱いて、雪山に行って、
水平方向や上の方に行ったり、下の方にも行ったりする。
このようにして、あらゆる色と味の構成要素を持つ薬草など4種類の薬草を山で得
て、そこでそれらの調合をなす。
ある薬草を歯で完全に嚙み潰して、また他の薬草を挽いて粉にして、同様に別の薬
草を針の先で体内に入れて、生まれつき盲目の人のために用いるであろう。
その盲目の人は、視力が回復して、太陽や、月、遊星、星をはっきりと見るであろ水平方向や上の方に行ったり、下の方にも行ったりする。
このようにして、あらゆる色と味の構成要素を持つ薬草など4種類の薬草を山で得
て、そこでそれらの調合をなす。
ある薬草を歯で完全に嚙み潰して、また他の薬草を挽いて粉にして、同様に別の薬
草を針の先で体内に入れて、生まれつき盲目の人のために用いるであろう。
う。そして、この人の心に次のような思いが生ずるであろう。『かつては無知ゆえ
に、あのようなことを発言した』と。
このように、衆生は大いなる無知の故に生まれつき盲目であって、実に6種の生存領
域を循環しているのである。〔あらゆるものが相い縁って存立しているという〕縁起
の輪についての無知の故に、衆生は苦悩にとらわれているのである。
このように、無知ゆえに愚かである世間において、最上の一切知者であるブッダは、
慈悲の性質を具えた偉大なる医者とて出現したのである。
方便を用いるのが巧みなこの教師は、正しい教えを説いて、この上ないブッダの覚り
を最高の乗り物に属する人に説くのである。
しかるに、指導者は中ぐらいの智慧を持つもののために中ぐらいの覚りを説き、6種
の生存領域を畏れるもののために他の覚りを説くのである。
三界から出離している声聞は、中ぐらいの覚りを了解すると、心に次のような思いを
生ずるのだ。『私は、このように清浄で至福の涅槃に達したのである』と。
そこで、私は、まさにその声聞に告げるのだ。『それは、涅槃とは言われない。そん
なものではなく、あらゆるものごとについて知っていることで、不死の涅槃は得られ
のである』と。
なものではなく、あらゆるものごとについて知っていることで、不死の涅槃は得られ
のである』と。
聖仙ヴィヤーサ
あたかも偉大な聖仙たちが、〔生まれつき盲目で視力を回復した〕人のために心に慈
悲を抱いて、次のように告げるようなものである。『あなたは愚かである。あなたに
とって、〈私は賢い〉という思いが心にあってはならない
あなたは、壁に囲まれた場所の内側にいる時、わずかな智力しか持たないあなたは、
外で進行していることすらも知ることはない。
しかも、内側にいて、外において何が生じ、何がなされ、何がなされなかったかを未
だに知ることがない。わずかな智力しかないあなたに、どうしてそれがわかるであろ
うか。
地上の5ヨージャナ(約75km)の距離のところで発した音をあなたは聞くことはでき
ない。ましてや、遠方で発せられた他の音はいうまでもない。
あなたに対して、よこしまな心を持つ人たち、あるいは親しみを抱いている他の人た
ち、それらの人たちをあなたは見分けることができない。それなのに、あなたは、ど
うして慢心を抱くのか。
あなたは、1クローシャ(牛の鳴き声が聞こえる範囲)の距離を行くのでさえも、道
なくしていくことはできない。また母の胎内にいた時に起こったそれぞれのことでさ
えも、あなたは忘れてしまっている。
これらの5つの神通が具わる人が、この世においてすべてを知る者と言われる。あな
たは、心の迷妄のゆえに何も知らない。けれども、〈私は、すべてを知る者である〉
と、あなたは言っている。
もしも、あなたがすべてを知っていることを欲するならば、諸々の神通を得るべきで
ある。そして、荒野に住むものとして、その神通の獲得と清浄な法について熟慮しな
さい。それによって、あなたは諸々の神通を獲得するであろう』
その視力を回復した人は、言われたことの意味を理解し、荒野に行って、心を完全に
集中して熟慮するであろう。そして、長い時間を経ずして、5つの神通を獲得し、徳
を具えたものとなるのだ。
まさにそのように、すべての声聞たちは涅槃に達していると思い込んでいる。そこで、
勝利者はその人のために、『これは休息にすぎないものであって、涅槃ではないのだ』
世俗的な道理をこのように説くということ、それがブッダたちの方便なのである。す
べてを知っていることなくして、真の涅槃はないのである。従って、そのすべてを知
ることに取り組むべきである。
三世についての無限の知と、清浄な6種類の完成(六波羅蜜)と、あらゆるものごと
が空であること、自性のないこと、欲望を離れていることと、
覚りを求める心を成就することに取り組むべきである。涅槃に導く他の教え、すなわ
ち煩悩の汚れのあるものも、煩悩の汚れのないものも、すべてが寂滅して虚空のよう
なものであるという教えや、
〔慈 ・悲 ・喜 ・捨 の〕4種類の敬虔なる行為に住することと、〔布施・愛語・利行・
同事の4種類によって〕衆生を受け容れることとが説かれた、衆生の教化のために、
最高の聖仙たちが説いたのだ。
また、あらゆるものごと、幻や夢を自性とし、芭蕉の茎のように実質がなく、音の反
響と等しいものであることを知る人、
その人は、また、三界に属するものが悉くその幻や夢を自性としていて、束縛されて
いるのでもなく、束縛から解脱しているのでもないことを知り、涅槃の安らぎを知る
のである。
あらゆるものごとは、平等で、空であり、種々に異なって生ずることのない性質を有
しているのであって、その人は、あらゆるものごとを思考の領域に属していると見る
ことはないのだ。また、いかなるものごとをも識別することがないのだ。
その大いなる智慧を持つ人が、諸々の法の全体を悉く見るのであり、3つの乗り物が
決してあるのではなく、この世にはただ一つの乗り物があるだけなのだ。
諸々の法は平等であり、一切が平等であり、常に完全に平等である。このように知っ
て後に、その人は、至福で不死の涅槃を了解するのである」
以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「薬草の章」という名前の第5章である。
(薬草喩品第5おわり)
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摩訶迦葉(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
例えば、迦葉よ、生まれつき盲目の人は、次のように言うであろう。
『よい色や、悪い色を持つものも存在しないし、よい色や、悪い色を持つものを見る人たちも存在しない。太陽と月も存在しないし、星宿も存在しない。〔火星・水星・木星・金星・土星の5つの〕惑星も存在しないし、惑星を見る人たちも存在しない』と。
その時、他の人たちが、その生まれつき盲目の人の面前で次のように言うとしよう。
『よい色や、悪い色を持つものも存在するし、よい色や、悪い色を持つものを見る人たちも存在する。太陽と月も存在するし、星宿も存在する。惑星も存在するし、惑星を見る人たちも存在する』と。
けれども、その生まれつき盲目の人は、それらの人たちを信じようとしないし、言われたことを分かろうともしないであろう。
その時、あらゆる病気について知っている医者がいるとしよう。その人は、その生まれつき盲目の人を見て、次のような思いを抱くであろう。
『よい色や、悪い色を持つものも存在しないし、よい色や、悪い色を持つものを見る人たちも存在しない。太陽と月も存在しないし、星宿も存在しない。〔火星・水星・木星・金星・土星の5つの〕惑星も存在しないし、惑星を見る人たちも存在しない』と。
その時、他の人たちが、その生まれつき盲目の人の面前で次のように言うとしよう。
『よい色や、悪い色を持つものも存在するし、よい色や、悪い色を持つものを見る人たちも存在する。太陽と月も存在するし、星宿も存在する。惑星も存在するし、惑星を見る人たちも存在する』と。
けれども、その生まれつき盲目の人は、それらの人たちを信じようとしないし、言われたことを分かろうともしないであろう。
その時、あらゆる病気について知っている医者がいるとしよう。その人は、その生まれつき盲目の人を見て、次のような思いを抱くであろう。
『この人の病気は、過去世の悪い行ない(悪業 )によって生じたのである。また、生じている諸々の病気は、すべて風によるもの、胆汁によるもの、痰によるもの、そして、以上の肉体の3要素が複合したものーの4種類である』と。
その時、その医者は、その人の病気を治療するために繰り返し手立て(方便)を考えて、次のような思いを抱くであろう。
『実に世間に流布しているこれらの薬によって、この病気は治療することができない。けれども、山の王である雪山 (ヒマラヤ)には4種類の薬草がある。4種類とは何か?それは次の通りである。
第1は〝あらゆる色と味の構成要素を具えたもの〟という名前で、第2は〝あらゆる病気から解放するもの〟という名前で、第3は〝あらゆる毒を除去するもの〟という名前で、第4は〝それぞれの原因に応じて安寧を与えるもの〟という名前である。これらが、4つの薬草である』
その時、その医者は、その生まれつき盲目の人に同情の心を生じて、山の王である雪山に自分が行くことができるような手立てについて考えるであろう。そして、雪山に行って、上へ登ったり、下へ降りたり、水平方向に行ったりして薬草を探すであろう。
その人は、このように探しているうちに、それらの4種類の薬草を得るであろう。そして、それら薬草を得て、薬草を歯で砕いた状態にして与え、薬草を挽 いて粉にして与え、薬草を他の材料と混ぜて調合して与え、薬草を調理されていない生 の材料と混ぜ合わせた状態にして与え、薬草を身体の部位に針で刺して与え、薬草を火で完全に焼いて与え、薬草を互いに材料を混合させるやいなや、飲み物や食べ物などの中に混ぜて与えるであろう。
すると、その生まれつき盲目の人は、その医者の手立てを尽くした治療によって視力が回復するであろう。眼が見えるようになったその人は、外と内や、遠くと近く、また月と太陽の光、星宿や惑星も、すべてのものを見るであろう。そして、次のように語るであろう。
『かつて、私に話しかけてきた人たちを信じることもなく、言われたことを理解しなかった私は、ああ、何とまた愚かであったことか。その私は、今あらゆるものを見ている。私は盲目の状態から解放されて、眼が見えるようになった。従って、私にとってこれ以上勝れたことは決して何もないのだ』と。
聖仙ヴィヤーサ
またその時、5つの神通を具えている聖仙たちがいるとしよう。それらの聖仙たちは、常人に見えないものを見る眼(天眼通 )、常人に聞こえない音を聞く声(天耳通 )、他人の心を知る力(他心通 )、過去世の生存についての記憶を知る力(宿命通 )、超自然的な力(神足通 )によって人を解脱させる働きに精通していて、その人に次のように言うであろう。
『聞きたまえ、男よ。あなたは単に眼を回復させただけなのだ。しかも、あなたは何も知りはしないのだ。何故にあなたは、増上慢を生じるのだ。しかも、あなたには智慧があることはなく、また、あなたは賢者ではないのだ』
それらの聖仙たちは、その人に次のように言うであろう。
『聞きたまえ。男よ。あなたは家の中に坐っている時、屋外の他の色や形を見ることがないし、また、知ることがない(天眼通の欠如)。また、あなたにとって、温和な心を持っていたり、あるいは敵対心を持っている衆生は、存在していないにも等しいのだ(他心通の欠如)。5ヨージャナ(約75キロ)の距離の所に立っている人の話していることを、あなたは知ることはない。あなたは、太鼓や螺貝などの音を認識することもなく、聞くこともない(天耳通の欠如)。足をあげて一歩ずつ歩くことをせずに、あなたは〔牛の鳴き声が聞こえる範囲である〕1クローシャの距離さえも行くことはできない(神足通の欠如)。また、あなたは母親の胎内に生じ、生長したのであるが、胎内にいた時のその行動思い出すことはない(宿命通の欠如)。
従って、何故にあなたが賢者であろうか?また、何故にあなたは、〈私は、すべてを見ている〉と言うのか?聞きたまえ、男よ。あなたは暗黒であるものを明瞭であると思い、また明瞭であるものを暗黒であると思っているのだ。それは当然のことである』
すると、その人は、それらの聖仙たちに次のように言うであろう。
『どのような手立て、あるいはどのような立派な行ないをなして、私は、そのような智慧を得ることができるのでしょうか?あなたがたの助力でこれらの徳を得たいものです』
『聞きたまえ、男よ。あなたは単に眼を回復させただけなのだ。しかも、あなたは何も知りはしないのだ。何故にあなたは、増上慢を生じるのだ。しかも、あなたには智慧があることはなく、また、あなたは賢者ではないのだ』
それらの聖仙たちは、その人に次のように言うであろう。
『聞きたまえ。男よ。あなたは家の中に坐っている時、屋外の他の色や形を見ることがないし、また、知ることがない(天眼通の欠如)。また、あなたにとって、温和な心を持っていたり、あるいは敵対心を持っている衆生は、存在していないにも等しいのだ(他心通の欠如)。5ヨージャナ(約75キロ)の距離の所に立っている人の話していることを、あなたは知ることはない。あなたは、太鼓や螺貝などの音を認識することもなく、聞くこともない(天耳通の欠如)。足をあげて一歩ずつ歩くことをせずに、あなたは〔牛の鳴き声が聞こえる範囲である〕1クローシャの距離さえも行くことはできない(神足通の欠如)。また、あなたは母親の胎内に生じ、生長したのであるが、胎内にいた時のその行動思い出すことはない(宿命通の欠如)。
従って、何故にあなたが賢者であろうか?また、何故にあなたは、〈私は、すべてを見ている〉と言うのか?聞きたまえ、男よ。あなたは暗黒であるものを明瞭であると思い、また明瞭であるものを暗黒であると思っているのだ。それは当然のことである』
すると、その人は、それらの聖仙たちに次のように言うであろう。
『どのような手立て、あるいはどのような立派な行ないをなして、私は、そのような智慧を得ることができるのでしょうか?あなたがたの助力でこれらの徳を得たいものです』
霊鷲山の洞穴
すると、それらの聖仙たちは、その人に次のように言うでありましょう。
『もしも、あなたがそれを望むなら、荒野に住みなさい。あるいは、山の洞穴の中に坐り、法について考えなさい。そして、あなたは諸々の煩悩を断つべきである。そのように、衣食住についての貪りや欲望を払い捨てた頭陀行 の徳を具えて、あなたは諸々の神通を獲得するであろう』
『もしも、あなたがそれを望むなら、荒野に住みなさい。あるいは、山の洞穴の中に坐り、法について考えなさい。そして、あなたは諸々の煩悩を断つべきである。そのように、衣食住についての貪りや欲望を払い捨てた頭陀行 の徳を具えて、あなたは諸々の神通を獲得するであろう』
すると、その人はその意味を理解して、出家した。荒野に住みながら、心を一点に集中して世間における渇愛を断って、その人は5つの神通を獲得するであろう。また、その人は神通を得て、考えるであろう。
『私は、過去において正しくない他の行ない(業)をなした。それによって、私は徳を得なかった。私は今、思った通りの所に近づいている。けれども、以前の私は、智慧も理解力も乏しく、盲目の状態であった。』(つづく)
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摩訶迦葉(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
そのほか、さらに迦葉よ、ブッダは衆生を指導するにあたって平等であり、不平等であることはないのだ。例えば、迦葉よ、月や太陽の光があらゆる世界を輝かせるようなものである。善い行ないをする人にも、悪い行ないをする人にも、高い地位にある人にも、より低い位にある人にも、よい香りを持つものにも、悪臭を持つものにも、すべての場合に光は平等に射すのであって、不平等に射すことはないのだ。
まさにこのように、迦葉よ、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちの一切知者の智慧から発する心の光は、地獄・餓鬼・畜生・人・天の5つの境遇に生まれたすべての衆生の所に及び、正しい教えの説法は、それぞれの信順の志に応じて、大いなる乗り物(大乗)に属するものにも、独覚果に到る乗り物(独覚乗)に属するものにも、声聞のための乗り物(声聞乗)に属するものにも、平等に及ぶのである。
また、ブッダの知の光には、不足していることも、過剰であることもない。その結果、衆生は福徳と智慧を完全に獲得するに到るのだ。迦葉よ、3つの乗り物があることはなく、ただ、各々異なった修行をなす衆生がいるだけである。それ故に、3つの乗り物を方便として設けるのである」
世尊からこのように言われて、尊者摩訶迦葉は、世尊に次のように尋ねた。
「世尊よ、もしも3つの乗り物がないとするならば、何故に、現在において『声聞』『独覚』『菩薩』という言葉による表現がなされるのでしょうか?」
迦葉からこのように尋ねられて、世尊は、尊者摩訶迦葉に次のようにおっしゃられた。
まさにこのように、迦葉よ、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちの一切知者の智慧から発する心の光は、地獄・餓鬼・畜生・人・天の5つの境遇に生まれたすべての衆生の所に及び、正しい教えの説法は、それぞれの信順の志に応じて、大いなる乗り物(大乗)に属するものにも、独覚果に到る乗り物(独覚乗)に属するものにも、声聞のための乗り物(声聞乗)に属するものにも、平等に及ぶのである。
また、ブッダの知の光には、不足していることも、過剰であることもない。その結果、衆生は福徳と智慧を完全に獲得するに到るのだ。迦葉よ、3つの乗り物があることはなく、ただ、各々異なった修行をなす衆生がいるだけである。それ故に、3つの乗り物を方便として設けるのである」
世尊からこのように言われて、尊者摩訶迦葉は、世尊に次のように尋ねた。
「世尊よ、もしも3つの乗り物がないとするならば、何故に、現在において『声聞』『独覚』『菩薩』という言葉による表現がなされるのでしょうか?」
迦葉からこのように尋ねられて、世尊は、尊者摩訶迦葉に次のようにおっしゃられた。
「それは、例えば迦葉よ、陶工が同じ粘土で種々の容器を作るようなものである。その場合に、あるものは黒糖の容器となり、あるものはバターの容器、あるものはヨーグルトや牛乳の容器、あるものは不浄なものの劣った容器となる。粘土に多様性はないけれども、中に何を入れるかということだけで、種々の容器の多様性が認められるのである。まさにこのように、迦葉よ、乗り物はただこの一つだけ、すなわちブッダに到る乗り物だけであり、第二、あるいは第三の乗り物は存在しないのである」
世尊からこのように言われて、尊者摩訶迦葉は、世尊に次のように尋ねた。
「世尊よ、もしも衆生が種々の信順の志を持っていて、それらの衆生が迷いの世界である三界から脱出したとするならば、その人たちの涅槃は一つであるのか、あるいは二つ、または三つであるのでしょうか?」
世尊が答えられた。
「迦葉よ、あらゆるものごとが平等であることを覚ることによって、涅槃があるのである。しかも、その涅槃はただ一つであって、二つあるのでも、三つあるのでもない。実にそれ故に、迦葉よ、私はあなたのために譬喩をなそう。この世において、智慧ある人たちの一類は、語られたことに込められた意味を譬喩によって了解するのである。 (つづく)
世尊からこのように言われて、尊者摩訶迦葉は、世尊に次のように尋ねた。
「世尊よ、もしも衆生が種々の信順の志を持っていて、それらの衆生が迷いの世界である三界から脱出したとするならば、その人たちの涅槃は一つであるのか、あるいは二つ、または三つであるのでしょうか?」
世尊が答えられた。
「迦葉よ、あらゆるものごとが平等であることを覚ることによって、涅槃があるのである。しかも、その涅槃はただ一つであって、二つあるのでも、三つあるのでもない。実にそれ故に、迦葉よ、私はあなたのために譬喩をなそう。この世において、智慧ある人たちの一類は、語られたことに込められた意味を譬喩によって了解するのである。 (つづく)
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初転法輪像(インド・サールナート)
この世には、この小さな薬草や、他の中ぐらいのもの、そして大きな薬草と、細部に
わたってこれらの薬草がある。それらについてあなたがたは、聞くがよい。私は、す
べてを説き明かすであろう。
汚れを離れている法を了解しつつ、涅槃に達して楽しく過ごしている人たち、また6
種類の通力(六通)を具え、3種類の明知(三明)を具えている人たちは、小さな薬
草と言われるのだ。
岩の洞穴に住む人たち、また個別の覚りを渇望する人たち、このような中ぐらいに清
められた理解力を持つ人たちは、中ぐらいの薬草と言われる。
牡牛のように勝れた人となることを求め、『私は、人間と神々の保護者であるブッダ
になるであろう』と言って、精進と禅定とに専念している人たちは、この最高の薬草
と言われるのだ。
さらにまた、人格を完成された人の息子(菩薩)たちで、この世において慈愛に従事
し、涅槃の静けさを求める寂静の修行に専念し、牡牛のように勝れた人となることに
おいて疑いがなくなった人が、このような小樹と言われるのだ。
実に不退転の真理の車輪を転じつつ、神通力に専念し、また意志が堅固であり、数え
切れないほど多くの生命あるものたちを解脱させる菩薩たち、その人こそが大樹と言
われるのである。
わたってこれらの薬草がある。それらについてあなたがたは、聞くがよい。私は、す
べてを説き明かすであろう。
汚れを離れている法を了解しつつ、涅槃に達して楽しく過ごしている人たち、また6
種類の通力(六通)を具え、3種類の明知(三明)を具えている人たちは、小さな薬
草と言われるのだ。
岩の洞穴に住む人たち、また個別の覚りを渇望する人たち、このような中ぐらいに清
められた理解力を持つ人たちは、中ぐらいの薬草と言われる。
牡牛のように勝れた人となることを求め、『私は、人間と神々の保護者であるブッダ
になるであろう』と言って、精進と禅定とに専念している人たちは、この最高の薬草
と言われるのだ。
さらにまた、人格を完成された人の息子(菩薩)たちで、この世において慈愛に従事
し、涅槃の静けさを求める寂静の修行に専念し、牡牛のように勝れた人となることに
おいて疑いがなくなった人が、このような小樹と言われるのだ。
実に不退転の真理の車輪を転じつつ、神通力に専念し、また意志が堅固であり、数え
切れないほど多くの生命あるものたちを解脱させる菩薩たち、その人こそが大樹と言
われるのである。
また、あたかも雲が平等に雨水を放出するように、勝利者は、その平等な法を説かれ
るのである。大地の表面に生えている種々の薬草のように、ブッダの智慧はこのよう
に多様なのである。
この譬喩を示したことで、あなたはブッダの巧みなる方便(手立て)を知りなさい。
そのブッダは、あたかも同一の雨に対する諸々の水滴のように、一つの法を種々の言
語的説明によって説くのである。
私もまた、法の雨を降らせながら、まさにこの世間の人々を、すべて満足せしめるの
だ。そして、それらの人たちは、よく語られた同一の味を持つ法をそれぞれの能力に
応じて熟考するのである。
雨を降らせると、草や灌木のように、あるいはまさに中ぐらいの薬草のように、ある
いはまた小樹や大樹のように、十方におけるそれらの声聞、独覚、菩薩のすべてが自
らを輝かせるのだ。
世間の人々の安寧のためのこの根本の理法(法性 )は、法によって常にこのすべて
の世間の人々を満足させる。しかもまた、満足せしめられたすべての世間の人々は、
諸々の薬草に花を咲かせるのである。
さらにまた、中ぐらいの薬草を育てたそれらの人たちは、煩悩の滅尽に住する阿羅漢
であり、森や林に住する独覚たちである。それらの阿羅漢や、独覚たちは、よく説か
れたこの法を成就したのである。
志が正しく、堅固で、三界のあらゆることに通達していて、この最上の覚りを求めて
いる多くの菩薩たちは、常に小樹のように生長するのである。
神通を具え、しかも禅定に専念している人たち、また空性 について聞いて後に、歓
喜を生じ、幾千もの光明を放っているそれらの人たちこそが、この世において大樹と
言われるのである。
るのである。大地の表面に生えている種々の薬草のように、ブッダの智慧はこのよう
に多様なのである。
この譬喩を示したことで、あなたはブッダの巧みなる方便(手立て)を知りなさい。
そのブッダは、あたかも同一の雨に対する諸々の水滴のように、一つの法を種々の言
語的説明によって説くのである。
私もまた、法の雨を降らせながら、まさにこの世間の人々を、すべて満足せしめるの
だ。そして、それらの人たちは、よく語られた同一の味を持つ法をそれぞれの能力に
応じて熟考するのである。
雨を降らせると、草や灌木のように、あるいはまさに中ぐらいの薬草のように、ある
いはまた小樹や大樹のように、十方におけるそれらの声聞、独覚、菩薩のすべてが自
らを輝かせるのだ。
世間の人々の安寧のためのこの根本の理法(法性 )は、法によって常にこのすべて
の世間の人々を満足させる。しかもまた、満足せしめられたすべての世間の人々は、
諸々の薬草に花を咲かせるのである。
さらにまた、中ぐらいの薬草を育てたそれらの人たちは、煩悩の滅尽に住する阿羅漢
であり、森や林に住する独覚たちである。それらの阿羅漢や、独覚たちは、よく説か
れたこの法を成就したのである。
志が正しく、堅固で、三界のあらゆることに通達していて、この最上の覚りを求めて
いる多くの菩薩たちは、常に小樹のように生長するのである。
神通を具え、しかも禅定に専念している人たち、また空性 について聞いて後に、歓
喜を生じ、幾千もの光明を放っているそれらの人たちこそが、この世において大樹と
言われるのである。
迦葉よ、このような法の教示は、あたかも雲が雨水を平等に放出するようなものであ
る。それらの雨水によって、大きな薬草が生長するのであり、法の教示によって無量
の人間の花が生長するのである。
私は、自ら確信している法を説き示す。そして時間が経ってから、私はブッダの覚り
を示すのだ。これが、私とすべての世間の指導者たちの最上の巧みなる方便である。
私は、このように真実にして最高の真理を語るのである。『それらの声聞たちは、す
べて寂滅に赴くことはない。これらの声聞たちは、最も勝れた覚りへの修行を実践し
ているのであり、これらのすべての声聞たちは、ブッダになるであろう』と。
(つづく)
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摩訶迦葉(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
するとその時、世尊はまさにこの意味をさらに示しつつ、次の詩を述べられた。
「法の王であり、存在への執着を打ち破るものである私は、世間に生まれた。私は、
衆生の信順の志を知って、衆生に法を説くのである。
堅固な智慧をもつ偉大なる勇者たちは、語ったことの真意を久しく守り、密かに保持
して、生命あるものたちに直ちに説くことはないのだ。
もしも、理解し難いその智慧について。愚かなものたちが、思いがけずに聞くような
ことがあったならば、非常に愚かな者たちは、疑惑を生ずるであろうし、それらのも
のたちは、そこで落伍してさまようであろう。
このようにそれぞれ異なった能力を持つ人に、私は、それぞれの関心事に応じて説く
のであって、それぞれ異なった動機によって、私は、その人の見解を正しくするので
ある。
迦葉よ、それはちょうど、雲が世界において湧き起り、そして大地を覆いつつ世界の
すべてを包み込むようなものでもあるのだ。
「法の王であり、存在への執着を打ち破るものである私は、世間に生まれた。私は、
衆生の信順の志を知って、衆生に法を説くのである。
堅固な智慧をもつ偉大なる勇者たちは、語ったことの真意を久しく守り、密かに保持
して、生命あるものたちに直ちに説くことはないのだ。
もしも、理解し難いその智慧について。愚かなものたちが、思いがけずに聞くような
ことがあったならば、非常に愚かな者たちは、疑惑を生ずるであろうし、それらのも
のたちは、そこで落伍してさまようであろう。
このようにそれぞれ異なった能力を持つ人に、私は、それぞれの関心事に応じて説く
のであって、それぞれ異なった動機によって、私は、その人の見解を正しくするので
ある。
迦葉よ、それはちょうど、雲が世界において湧き起り、そして大地を覆いつつ世界の
すべてを包み込むようなものでもあるのだ。
その大いなる雲は、水を満々と含み、稲光の花環を持ち、雷鳴の音を鳴り響かせなが
ら、あらゆる生き物たちを喜ばせるであろう。
その大いなる雲は、太陽の光線をさえぎり、国土を清涼になして、手の届く高さのと
ころにあって、留まりながら、あらゆる方面に雨水を放出するであろう。
また、それは、少なからざる水の量を平等に放出するであろうし、満遍なく雨水を注
ぎながら、この大地を潤して満足させるであろう。
この大地の上に生じたものは何であれ、薬草であれ、草や、灌木、樹木であれ、小樹
であれ、大樹であれ、
実にいろいろな種類の穀物、あるいは、緑色の野菜でさえも、また山や洞穴、藪 の中
に生ずるもの、
ら、あらゆる生き物たちを喜ばせるであろう。
その大いなる雲は、太陽の光線をさえぎり、国土を清涼になして、手の届く高さのと
ころにあって、留まりながら、あらゆる方面に雨水を放出するであろう。
また、それは、少なからざる水の量を平等に放出するであろうし、満遍なく雨水を注
ぎながら、この大地を潤して満足させるであろう。
この大地の上に生じたものは何であれ、薬草であれ、草や、灌木、樹木であれ、小樹
であれ、大樹であれ、
実にいろいろな種類の穀物、あるいは、緑色の野菜でさえも、また山や洞穴、藪 の中
に生ずるもの、
それらの草や、灌木、樹木のすべてを雲は完全に満足させ、乾燥した大地を満足させ、
さらに薬草にも雨水を遍く注ぐのである。
そして、雲によって放出された同一の味を持つその水は、地上に留まり、それを草や、
灌木などは、能力に応じて、立場に応じて吸収するのだ。
樹木は、大きな樹木も、小さなものも、中ぐらいのものも、何であれ、すべてが願望
に応じ、能力に応じて水を吸収するし、願い望むままに吸収し、生長するのだ。
ちょうど樹木が、幹や、茎、樹皮、枝や枝先に雲から雨を注がれながら生長するよう
に、まさにそのように諸々の卓越した薬草は、葉や、花、そして果実に雲から雨を注
がれながら生長するのだ。
それらは、そのようなそれぞれの立場と、そのような種々の性質の種子を持ち、それ
ぞれの能力に応じて繁殖するのである。しかしながら、雲によって放出されたその雨
水は、同一の味を持つのである。
迦葉よ、あたかも水を含むもの(雨雲)が、世間に出現するように、まさにこのよう
に、ブッダもまた確かに世間に出現するのだ。出現して後に、世間の保護者は生命あ
るものたちに語りかけて、真実の行ないを説き示すのである。
また、偉大なる聖仙は、神々に伴われた世間において尊敬され、次のように告げるの
だ。『両足で歩くもののうちで最上の人であり、勝利者であり、如来である私は、ま
さに雲のように世間に出現したのである』と。
私は、迷いの世界である三界に執着する身体の干からびたすべての衆生を満足させ、
苦悩によって萎 みつつある人たちを安楽の中に立たせ、喜びと心の安らぎを与えるで
あろう。
神々と人間の集いよ、あなたたちは私の言うことを聞くがよい。私を見るために近づ
くがよい。世尊であり、如来である私は、誰にも凌駕 されることもなく、衆生を救済
するためにこの世に生まれたのである。
また私は、数え切れないほど多くの生命あるものたちに、清らかで、見るも勝れた法
を説くのだ。そして、その法には同一の味の平等性とあるがままの真理、すなわち最
終的な解脱と内心の寂静(涅槃)が具わっているのである。
また私は、常に衆生を覚りに至らせることを目的として、同一の音声によって法を説
くのである。このことは、実に平等であって、不平等であることはなく、決して嫌悪
もなく、愛欲も存在しないのである。
私には、決して貪著 はないし、私には、何においても愛着も憎悪もない。また、私
は生き物たちに対して平等に法を説くのであり、一人の人に対するのと同じように、
そのように他の人たちにも説くのである。
歩いていく時も、立っている時も、坐っている時も、私は法を説くのであって、私に
はそれより他になすべきことはないのだ。寝台に横になっていても、座席に坐ってい
ても、私には怠惰が存在することは決してない。
さらに薬草にも雨水を遍く注ぐのである。
そして、雲によって放出された同一の味を持つその水は、地上に留まり、それを草や、
灌木などは、能力に応じて、立場に応じて吸収するのだ。
樹木は、大きな樹木も、小さなものも、中ぐらいのものも、何であれ、すべてが願望
に応じ、能力に応じて水を吸収するし、願い望むままに吸収し、生長するのだ。
ちょうど樹木が、幹や、茎、樹皮、枝や枝先に雲から雨を注がれながら生長するよう
に、まさにそのように諸々の卓越した薬草は、葉や、花、そして果実に雲から雨を注
がれながら生長するのだ。
それらは、そのようなそれぞれの立場と、そのような種々の性質の種子を持ち、それ
ぞれの能力に応じて繁殖するのである。しかしながら、雲によって放出されたその雨
水は、同一の味を持つのである。
迦葉よ、あたかも水を含むもの(雨雲)が、世間に出現するように、まさにこのよう
に、ブッダもまた確かに世間に出現するのだ。出現して後に、世間の保護者は生命あ
るものたちに語りかけて、真実の行ないを説き示すのである。
また、偉大なる聖仙は、神々に伴われた世間において尊敬され、次のように告げるの
だ。『両足で歩くもののうちで最上の人であり、勝利者であり、如来である私は、ま
さに雲のように世間に出現したのである』と。
私は、迷いの世界である三界に執着する身体の干からびたすべての衆生を満足させ、
苦悩によって萎 みつつある人たちを安楽の中に立たせ、喜びと心の安らぎを与えるで
あろう。
神々と人間の集いよ、あなたたちは私の言うことを聞くがよい。私を見るために近づ
くがよい。世尊であり、如来である私は、誰にも凌駕 されることもなく、衆生を救済
するためにこの世に生まれたのである。
また私は、数え切れないほど多くの生命あるものたちに、清らかで、見るも勝れた法
を説くのだ。そして、その法には同一の味の平等性とあるがままの真理、すなわち最
終的な解脱と内心の寂静(涅槃)が具わっているのである。
また私は、常に衆生を覚りに至らせることを目的として、同一の音声によって法を説
くのである。このことは、実に平等であって、不平等であることはなく、決して嫌悪
もなく、愛欲も存在しないのである。
私には、決して貪著 はないし、私には、何においても愛着も憎悪もない。また、私
は生き物たちに対して平等に法を説くのであり、一人の人に対するのと同じように、
そのように他の人たちにも説くのである。
歩いていく時も、立っている時も、坐っている時も、私は法を説くのであって、私に
はそれより他になすべきことはないのだ。寝台に横になっていても、座席に坐ってい
ても、私には怠惰が存在することは決してない。
あたかも雲が雨水を平等に放出するように、私は、この世間のすべての人々を満足さ
せるのだ。貴いものたちにも、賤しいものたちにも、戒を破るものたちにも、さらに
は戒を持 つものたちにも、等しい思いを抱いているのだ。
まさにそのように徳を消失していたり、徳も善行も完全に具えていたり、邪見に囚わ
れていたりする人たち、また邪見を打破し、正しい見解を持つ人たち、さらには清ら
かな見解を持つ人たちがいる。
卑しいものたちにも、最も勝れた心を持つものたちにも、さらにまた能力の鈍いもの
たちにも、私は法を説くのだ。すべての怠惰を遠ざけて、私は、法の雨をそれらの人
たちに適切に注ぐのである。
また、それらのものたちは、それぞれの力に応じて私から法を聞いて、心に喜びを抱
く神々や、死すべきものである人間、帝釈天 、梵天 、さらには転輪王 という種
々の立場に立つのだ。(つづく)
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せるのだ。貴いものたちにも、賤しいものたちにも、戒を破るものたちにも、さらに
は戒を持 つものたちにも、等しい思いを抱いているのだ。
まさにそのように徳を消失していたり、徳も善行も完全に具えていたり、邪見に囚わ
れていたりする人たち、また邪見を打破し、正しい見解を持つ人たち、さらには清ら
かな見解を持つ人たちがいる。
卑しいものたちにも、最も勝れた心を持つものたちにも、さらにまた能力の鈍いもの
たちにも、私は法を説くのだ。すべての怠惰を遠ざけて、私は、法の雨をそれらの人
たちに適切に注ぐのである。
また、それらのものたちは、それぞれの力に応じて私から法を聞いて、心に喜びを抱
く神々や、死すべきものである人間、帝釈天 、梵天 、さらには転輪王 という種
々の立場に立つのだ。(つづく)
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その時、迦葉 よ、数え切れないほど多くの生命あるものたちが、ブッダの法を聞くために近づいた。
その時、ブッダもまた、それらの衆生の能力や、努力精進の優劣が異なっていることを知って、それに応じた法門を説くのだ。ブッダは、喜びと満足に関係し、歓喜を生じ、安寧と幸福を生じて増大させる数多くの多様な法に関する話をそれぞれに応じて語るのである。その話によって、それらの衆生は、現在において幸福になり、また死して後に善い所に生まれるのだ。そこで、多くの願望を享受するし、また法を聞くのである。そして、その法を聞いて後に、障害のない者となり、能力に応じて、立場に応じて、勢力に応じて、次第に一切を知るものの法に精通するのだ。
あたかも、迦葉よ、大きな雲が三千大千世界のすべてを覆い尽くした後に、平等に雨水を放出して、あらゆる草や、灌木、薬草、樹木を雨水によって満足させ、それらの草や、灌木、薬草、樹木が、能力に応じて、立場に応じて、勢力に応じて、水を吸い上げ、それぞれの種類の大きさに達するようにである。
迦葉よ、まさにこのように、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダが説かれるその法は、すべて同一の味、すなわち、解脱という味、貪愛 を離れているという味、寂滅 しているという味を持つのであり、一切知者の智慧(一切種智)を終着点としているのである。
摩訶迦葉(中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』)
その場合に、迦葉よ、ブッダの説かれている法を聞き、受持し、専念するそれらの衆生は、自分で自分のことを知ることも、感じることも、理解することもないのである。
それはどんな理由によってか?迦葉よ、それらの衆生のことを、それらの衆生が何であり、どのようなものであり、またどのような性質のものであるのかを、ブッダのみが、あるがままに了解しているからである。
また、それらの衆生が何を考え、どのように考え、何によって考えるのか、何を修行し、どのように修行し、何によって修行するのか、何を達成し、どのように達成し、何によって達成するのかをブッダのみが了解しているからだ。
その場合に、迦葉よ、ブッダのみが一目瞭然として、目の当たりに見ているのである。ブッダは、それらの衆生がそれぞれの立場に応じて立っていて、草や、灌木、薬草、樹木のように、劣ったもの、勝れたもの、中ぐらいのものからなることをありのままに見るのである。
迦葉よ、この私は、涅槃を終着点とし、常に心の静けさ(寂静 )に帰していて、同一の大地に根差し、虚空へと趣く同一の味の法、すなわち解脱という味、寂静という味を知っている。けれども、私は衆生の信順の志を尊重するゆえに、一切知者の智慧を直ちに説き明かすことはないのである。
迦葉よ、あなたたちは不思議な思いにとらわれ、驚くべき思いに満たされている。というのは、あなたたちは、ブッダが深い意味を込めて語ったことを理解することができないからである。それは、どんな理由によってか?迦葉よ、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちが深い意味を込めて語ったことは、理解し難いからである」と。(つづく)
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それはどんな理由によってか?迦葉よ、それらの衆生のことを、それらの衆生が何であり、どのようなものであり、またどのような性質のものであるのかを、ブッダのみが、あるがままに了解しているからである。
また、それらの衆生が何を考え、どのように考え、何によって考えるのか、何を修行し、どのように修行し、何によって修行するのか、何を達成し、どのように達成し、何によって達成するのかをブッダのみが了解しているからだ。
その場合に、迦葉よ、ブッダのみが一目瞭然として、目の当たりに見ているのである。ブッダは、それらの衆生がそれぞれの立場に応じて立っていて、草や、灌木、薬草、樹木のように、劣ったもの、勝れたもの、中ぐらいのものからなることをありのままに見るのである。
迦葉よ、この私は、涅槃を終着点とし、常に心の静けさ(寂静 )に帰していて、同一の大地に根差し、虚空へと趣く同一の味の法、すなわち解脱という味、寂静という味を知っている。けれども、私は衆生の信順の志を尊重するゆえに、一切知者の智慧を直ちに説き明かすことはないのである。
迦葉よ、あなたたちは不思議な思いにとらわれ、驚くべき思いに満たされている。というのは、あなたたちは、ブッダが深い意味を込めて語ったことを理解することができないからである。それは、どんな理由によってか?迦葉よ、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちが深い意味を込めて語ったことは、理解し難いからである」と。(つづく)
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迦葉よ、それは、ちょうどこの三千大千世界において、それほど多くの、さまざまな色の、さまざまな種類の草、灌木、薬草、樹木や、さまざまな名前の薬草の群落が、地上や、山や、岩の洞穴に生えているようなものである。そして、大量の水を含んだ雲が湧き起こったとしよう。その雲が三千大千世界のすべてを覆い尽くし、あらゆるところで同時に雨水を放出する。
迦葉よ、この三千大千世界に草や、灌木、薬草、樹木たちが生えている。その場合に、草、灌木、薬草、樹木や、小樹、大樹たちは、若くて、柔らかい茎、枝、葉、花を持ち、それらのすべては、大きな雲によって放出された雨水から、能力に応じて、立場に応じて、水の成分を吸い上げるのだ。そして、それらは、同一の雲から放出された同一の味の大量の雨水によって、それぞれの種類の種子に応じて成長し、発芽し、大きくなるのである。そのように、それらはそれぞれに花と実をつけ、それぞれにさまざまの名前を得るのである。
しかも、それらの薬草の群落や、種子の集団は、すべて同一の大地に生えて、同一の味の雨水によって潤されるのであ
る。
迦葉よ、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダは、まさにこのように世間に出現するのである。あたかも大きな雲が湧き起こるように、そのようにブッダもまた世間に出現して、神々、人間、阿修羅に伴われた世間の人々のすべてを、声をもって覚らせるのである。
迦葉よ、あたかも大きな雲が、三千大千世界のすべてを覆い尽くすように、まさにこのように、迦葉よ、正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダは、神々と人間、阿修羅に伴われた世間の人々の面前で次のように言葉を発して、声を聞かせるのである。
『あなたたちよ、神々と人間たちよ、私は正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダである。私は既に迷いの世界から向こうの岸(彼岸)へと渡り終えていて、人々を向こうの岸へ渡らせるのであり、私は既に解脱していて、人々を解脱させ、私は既に元気づけられていて、人々を元気づけ、私は既に完全なる涅槃に入っていて、人々を完全なる涅槃に入らせるのである。
私は、この世についても、未来の世についても、正しい智慧によって真実あるがまま(如実)に知っていて、一切を知るもの、一切を見るんものである。神々と人間たちよ、あなたたちは、法を聞くために私に近づきなさい。私は、道を伝承するものであり、道を案内するもの、道をよく知るもの、道を聞かせるもの、道に精通するものである』と。(つづく)
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