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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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法華経分別功徳品第17 この法門を受持する人はストゥーパを造る必要はない

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 次にアジタ(弥勒)よ、この「ブッダの寿命の長さについての教説」という法門を聞いて、通達し、信順の志を抱き、理解し、覚る人は、先の一度でも信順の志を生じるものの場合よりもさらに無量の、ブッダの知へと導く福徳を生ずるであろう。

 ましてや、このような法門を聞いて、人に聞かせたり、読誦 どくじゅしたり、受持したり、書写したり、書写させたり、さらには写本にして花や、末香、薫香、花環 はなわ、塗香、焼香、衣、日傘、旗、のぼりによって、あるいは胡麻油の燈明、
酥油 そゆ(バターに似た油)の燈明、香油の燈明によって尊重し、恭敬 くぎょうし、讃嘆し、供養し、尊重させる人が、さらに多くのブッダの知へと導く福徳を生じることは、言うまでもないことである。

 また、アジタよ、その良家の息子であれ、良家の娘であれ、この「ブッダの寿命の長さについての教説」という法門を聞いて、高潔な心をもって信順の志を抱く(深心信解 じんしんしんげ)とき、その良家の息子、あるいは良家の娘には、次の高潔な心の特徴があることを知るべきである。すなわち、その人は、私が霊鷲山 りょうじゅせんにいて、菩薩の群衆に伴われ、菩薩の群衆に尊敬され、声聞の集団の真ん中にいて、法を説いているのを見るであろう。

 しかも、その人は、私のブッダの国土であるこのサハー世界(娑婆世界)が、瑠璃で造られ、大地の表面が平坦で、八方に道が伸びるロータリーに黄金の糸が張られ、宝樹で飾られているのを見るであろう。また、その人は、菩薩たちが、そこにおいて、楼閣で楽しみながら暮らしているのを見るであろう。
 
 アジタよ、このように見ることが、高潔な心をもって信順の志を抱く良家の息子、あるいは良家の娘の高潔な心の特徴であると知るべきである。

 しかるにまた、アジタよ、ブッダの私が、完全なる滅度に入った後、この法門を聞いて、この法門をそしることなく、むしろ喜んで受け容れる人たちをも、私は、高潔な心をもって信順の志を抱いた良家の息子たちというのである。ましてや、この法門を受持し、読誦する人たちは、言うまのでもないことである。
 
 その上、この法門を写本に作りなして、肩にになう人は、ブッダを肩に担っているのである。それ故に、アジタよ、その良家の息子、あるいは良家の娘は、私のためにストゥーパを建てる必要はないし、精舎 しょうじゃを建てる必要もない。またその人は、男性出家者の集団のために病気に対する薬品などの生活必需品を布施する必要もないのだ。

ダウンロード (1)

 それは、どんな理由によってか?アジタよ、その良家の息子、あるいは良家の娘は、既に私の遺骨に対して遺骨供養をなしたことになるのであり、また、幅が次第に細くなり、高さがブラフマー神の世界にまで至り、日傘が設置され、勝利の旗を掲げ、鈴がえた音を鳴り響かせている七宝でできたストゥーパを建てたことになるからである。

 また、それらの遺骨を安置したストゥーパに対して、天上界や、人間界のいろいろな種類の花や、末香、薫香、花環、塗香、焼香、衣、日傘、旗、幟、勝利の旗によって種々に恭敬をなし、甘美で心にかなった冴えた音のする種々の小太鼓、太鼓、大太鼓によって、また楽器の打ち鳴らされる音や、鳴り響く音、音声によって、また量り知ることのできないいろいろな種類の多くの歌や、舞踏、歌舞という方法によって、幾100・1000・コーティ・ナユタもの量り知ることのできない多くの劫の間、恭敬をなしたことになるからである。

 アジタよ、私が完全なる滅度に入った後、この法門を受持し、読誦し、書写し、解説するならば、その人は、精舎をもまた経てたことになるのである。その精舎は、大きく、広く、高い、赤い栴檀 せんだんでできた8層からなる32の高楼があり、幾千人もの男性出家者たちの房舎があり、園林や花で飾られ、そぞろ歩きのための森を有し、寝台と座具を具え、んで食べる堅い食べ物、噛まなくてもよい軟らかい食べ物、飲食物、病気に対する薬品などの生活必需品で満たされ、安楽をもたらすあらゆる用具で飾られているのだ。

 それらの精舎は、多くて量り知ることができないのだ。すなわち、幾100、あるいは幾1000、あるいは幾100・1000、あるいは幾コーティ、あるいは幾100・コーティ、あるいは幾1000・コーティ、あるいは幾100・1000・コーティ・ナユタである。

 しかも、それらの精舎は、私が完全なる滅度に入った後であっても、私の面前で声聞の集団のために与えられたのであり、それらは、私によって享受されたのだと知られるべきである。従って、アジタよ、このようなことから、私は次のように言うのだ。『ブッダの私が完全なる滅度に入った後で、この法門を受持したり、読誦したり、説き示したり、書写したり、書写させたりする人は、私が完全なる滅度に入った後で、遺骨を安置したストゥーパを造る必要はなく、声聞の集団への供養もなす必要はない』と。(つづく)


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【 2023/02/28 05:33 】

第16章 福徳の分別(分別功徳品第17)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経分別功徳品第17 弥勒による釈尊の無限の寿命の讃嘆

 ダウンロード (3)

 これらの偉大な人である菩薩たちがこの法を理解したことで得る確固たる立場を、世尊が説かれると、まさにその時、直ちに、上方の空中から曼陀羅華と摩訶曼荼羅家の花の雨が降った。それらの幾100・1000・コーティ・ナユタもの世界にある宝樹の根もとに降ってきて、宝樹の根もとの獅子座に坐っておられるそれらの幾100・1000・コーティ・ナユタものブッダたちのすべてに花の雨が降り、注ぎ、振り撒かれた。

 また、世尊である正しく完全に覚った尊敬すべき釈迦牟尼如来と、既に完全なる滅度に入って、獅子座に坐っておられる、その世尊である正しく完全に覚った尊敬すべき多宝如来に花の雨が降り、注ぎ、振り撒かれた。そして、天上の
栴檀 せんだん沈水香 じんすいこうの粉末が空から降りまた上方の空中で、心にかなった甘美で深遠な音のする大いなる太鼓が、誰も打ち鳴らしていないのに鳴り響いた。

 そして、幾100・1000もの一揃いの天上の衣が、上方の空から舞い降りた。さらに、首飾りや、半連の首飾り、宝珠、宝石、卓越した宝石が、上方の空中においてすべての方角に遍く垂れ下がった。また、値段のつけられないほど価値のある幾千もの宝石造りの香炉が、ひとりでに空中を遍く動き回った。

 また、偉大な人である菩薩たちが、一人ひとりのブッダのために、宝石で造られた日傘の列を、ブラフマー神(梵天 ぼんてん)の世界に至るまで上方の空中に差しかけた。このようにして、それらの偉大な人である菩薩たちは、無量で数えることもできないそれらのすべての幾100・1000・コーティ・ナユタものブッダたちのために、宝石で造られた日傘の列をブラフマー神の世界に至るまで上方の空中に差しかけたそれらの菩薩たちは、それぞれにブッダを讃嘆する真実の詩を創作して、それらのブッダたちを称讃した。

ダウンロード (4)

 そこで、偉大な人である弥勒菩薩は、次の詩を述べた。

 「人格を完成された人は、希有なる法を聞かせてくださいました。指導者にいかなる
 偉大なる本性が具わっているのか、また、指導者の寿命の長さがいかに無限であるの
 か、私たちは、かつてこのことを決して聞いたことがありません。
 
 そして、今、人格を完成された人によって面と向かって分かち与えられているこのよ
 うな法を聞いて、世間の人々の指導者の実の子どもである幾1000・コーティもの生命
 あるものたちは、喜びにあふれました。

 ある人たちは、最高の覚りに住して不退転であり、ある人たちは、最も勝れたダーラ
 ニーに住しており、ある人たちは、滞ることのない弁舌に住し、ある人たちは、幾10
 00・コーティ回も旋回するダーラニーに住しています。

 また、国土を構成する原子の数のように無数の他の人たちは、最高のブッダの知に向
 けて出て立っていて、同様に、ある人たちは8度の誕生を経て、無限を見る勝利者と
 なるでありましょう。

 しかるに、指導者からこの法を聞いて、ある人たちは4度の誕生を経た後に、またあ
 る人たちは3度、また他の人たちは2度の誕生を経た後に、最高の真理を見る人の覚
 りを獲得するでありましょう。

 さらにまた、誰かある人たちは一度、誕生してこの世に滞在し、その次の生存で一切
 知者となるでありましょう。指導者のこの「寿命の長さの教説」を聞いて、汚れのな
 いこのような果報を得るのであります。

 この法を聞いて、最も勝れた覚りを求める心をおこした幾コーティもの衆生は、8つの
 国土を構成する原子のように、計算によっても量り知れないでありましょう。

 このブッダの覚りを説き明かしておられる偉大なる聖仙は、このように量り知ること
 もできない虚空界のように無量の果てしない働きをなされました。

 幾1000・コーティもの多くの神々の子たちは、曼荼羅華の花の雨を降らせました。ま
 た、ガンジス河の砂の数のように多くのシャラク神(帝釈天 たいしゃくてん)とブラフマー神たち
 は、幾1000・コーティもの国土からやって来ました。

 そして、それらの神々たちは、栴檀の芳しい粉末や、沈水香の粉末を振り撒き、勝利
 者の王たちに規則正しく注ぎかけながら、虚空をあたかも鳥のように動き回っていま
 す。

 それらの神々は、上方の空中にあって、打たれてもいない太鼓に甘美なる音を鳴り響
 かせつつ、指導者たちのために幾1000・コーティもの天上の衣を放って、ひらひらと
 なびかせました。

 値がつけられないほど価値のある香をくための宝石で造られた幾1000・コーティも
 の香炉が、世間の支配者である保護者の供養のために、その空中においてひとりでに
 遍く動き回りました。

 これらの賢明な菩薩たちは、宝石で造られた、高くて大きな幾コーティ・ナユタもの
 無数の日傘を、ブラフマー神の荘厳された世界に至るまで掲げています。

 また、人格を完成された人の息子たちは、心を喜ばせ、指導者たちのために、極めて
 美しい勝利の旗を立てて、幾千もの詩によって讃嘆しました。

 指導者たちよ、このような希有で勝れた驚くべきことが、今、種々に見られました。
 ブッダの無限の寿命の長さが示されたことによって、これらのすべての衆生は、歓喜
 を得ております。

 今、指導者たちの声は十方に拡がり、その利益は広大であります。幾1000・コーティ
 もの生命あるものたちは、満足させられ、覚りのための因となる善根を得ました」
                                  (つづく)

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【 2023/02/24 05:28 】

第16章 福徳の分別(分別功徳品第17)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経分別功徳品第17 五波羅蜜の修行よりも一念信解の功徳

 ダウンロード (6)

 そこで、世尊は、偉大な人である弥勒菩薩に話しかけられた。

 「アジタ(弥勒)よ、この「ブッダの寿命の長さについての教説」という法門が説かれている時、衆生が一度でさえも覚りを求める心を発す信順の志(
一念信解 いちねんしんげ)を生じあるいは浄信を生ずるならばそれらの良家の息子たち、あるいは良家の娘たちは、どれほどの福徳を生み出すであろうか?そのことを、よく聞くがよい。また、よく熟慮するがよい。

 私は、それらの良家の息子たちや、良家の娘たちが、どれほど多くの福徳を生むかということを話そう。それは、アジタよ、あたかも次の通りである。

 良家の息子であれ、良家の娘であれ、まさに誰かある人が、この上ない正しく完全な覚りを渇望しつつ、80万・コーティ・ナユタ劫もの間、5種類の完成(五
波羅蜜 はらみつ)ーすなわち、智慧の完成を除いた布施の完成、戒律の完成、忍耐の完成、努力精進の完成、禅定の完成ーに向けて修行するとしよう。
 
 アジタよ、この「ブッダの寿命の長さについての教説」という法門を聞いて、良家の息子であれ、良家の娘であれ、一度でさえも覚りを求める心を発す信順の志を生じ、あるいは浄信を生ずるとしよう。この良家の息子、あるいは良家の娘の福徳の生成と善根の生成に比べれば、先ほどの5種類の完成に関連して、80万・コーティ・ナユタ劫をかけて完成された福徳の生成と善根の生成は、その100分の1にも及ばないし、1000分の1にも、100・1000分の1にも、100・1000・コーティ分の1にも、1000・コーティ・ナユタ分の1にも、100・1000・コーティ・ナユタ分の1にも及ぶことはない。その差は、数えることも、考えることも、計算することも、譬えることも、近づくこともできないのだ。

 アジタよ、このような福徳の生成を具えた良家の息子、あるいは良家の娘が、この上ない正しく完全な覚りから退くことはありえないのだ」

 その時、世尊は、次の詩を述べられた。

 「この知、すなわちこの上ないブッダの知を求めつつ、5種類の完成を得て、この世
 に生きる人、

 ブッダや、声聞たちに繰り返し布施をなしつつ、まるまる8000・コーティ劫もの間、
 修行に専念する人、

 独覚や、幾コーティもの菩薩たちを、
んで食べる堅い食べ物、噛まなくてもよい軟
 らかい食べ物、衣服、寝台、座具によって満足させる人、

 この世において、栴檀で造られた住居や、精舎、さらにはそぞろ歩きの場所を荘厳す
 る、見るも美しい
園林 おんりんを作らせる人、

 さらにまた、ブッダの知の獲得のために、正しく完全に覚った人によって説かれ、賢
 者たちによって称賛された、清らかで完全無欠の戒律を守る人、

 さらにまた、忍耐することを実行し、心が制御された境地に立ち、意志が堅固で、思
 慮深くあって、多くの
はずかしめを耐え忍ぶ人、

 覚りを獲得していると思って増上慢になっている衆生からの中傷を、ブッダの知の獲
 得のために耐え忍ぶ人、

 常に努力精進に奮励し、専念しており、意志堅固な想念を持ち、幾コーティ劫もの間
 他のことに心を奪われることがない人、

 荒野での生活を続けていて、そぞろ歩きの場所に行っては、無関心と眠気を振り払っ
 て、実に幾コーティもの間、修行する人、

ダウンロード

 禅定に専念し、大いに禅定に励み、禅定を楽しんでいて、心を集中して、8000・コー
 ティ劫より長い期間にわたって留まって、禅定する人、
 
 その勇者は、その禅定によって、『私は一切知者となりたい』と考えて、この上ない
 完全な覚りを求めて、禅定の完成に到るとしよう。

 これらの5種類の完成のための行ないを幾1000・コーティ劫もの間、実践して、既に
 称讃された人たいには、福徳が具わるであろう。

 しかしながら、女であれ、あるいは男であれ、私の寿命の長さが無縁であることを聞
 いて、一瞬でも信じるならば、この場合の福徳は無限である。

 諸々の疑惑や、動揺、妄想を捨て去って、瞬時でさえも信順の志を抱くならば、その
 人には、このような果報があるのだ。

 また、幾コーティ劫にもわたって修行してきた菩薩たちは、考えることもできない私
 のこの寿命の長さを聞いて、恐れることはない。

 しかもそれらの菩薩たちはこの経を頭におしいただくことによって敬礼し、『私
 もまた、未来の世において、このような人になって、幾コーティもの生命あるものた
 ちを救いたいものだ。
 
 獅子のように偉大なる釈迦族の人であり、保護者であり、偉大なる賢者である釈迦牟
 尼
が、覚りの座に坐って、この獅子吼を響かせられるように、

 私もまた、未来の世において身体を有するあらゆるものたちによって恭敬され、覚り
 の座に坐ってこのような寿命の長さについて説き示そう』と考えるであろう。

 高潔な心を持って、聞いたことを完全に受持し、深い意味が込められた言葉を了解す
 る人たちに、疑惑は存在しないのである。(つづく)

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【 2023/02/21 05:29 】

第16章 福徳の分別(分別功徳品第17)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経分別功徳品第17 「ブッダの寿命の長さの教説」を聞く功徳

第16章 福徳の分別(分別功徳品 ふんべつくどくほん第17)

ダウンロード (2)

 ところで、この「ブッダの寿命の長さについての教説」が説かれているうちに、無量の数えることもできない衆生が、利益 りやくを生じた。
 
 その時、世尊は、偉大な人である弥勒菩薩に話しかけられた。
 
 「しかしながら、アジタ(弥勒)よ、この「ブッダの寿命の長さについての教説」という法門が説かれているうちに、68のガンジス河の砂の数に等しい幾100・1000・コーティ・ナユタもの菩薩たちに、何ものも生ずることはないという真理を認める知(無生法忍 むしょうぼうにん)が生じた。また、これらの菩薩たちの1000倍もの多くの偉大な人である菩薩たちに、ダーラニーの獲得があったのだ。

 
この法門を聞いて、さらに、一千世界を構成する原子の数に等しい菩薩たちに、滞ることのない雄弁さの獲得があった。

 さらに、二千世界を構成する原子の数に等しい他の菩薩たちに、幾100・1000・コーティ・ナユタ回も旋回するダーラニー(旋陀羅尼 せんだらに)の獲得があった。

 さらに、三千世界を構成する原子の数に等しい他の菩薩たちは、この法門を聞いて、退くことのない不退転の真理の車輪を転じた。

 さらに、中千世界を構成する原子の数に等しい他の菩薩たちは、この法門を聞いて、汚れのない輝きを持つ真理の車輪を転じた。
 
 さらに、小千世界を構成する原子の数に等しい他の菩薩たちは、この法門を聞いて8度の誕生を経た後に、この上ない正しく完全な覚りに到ることが確定された。

 
さらに、4つの四大洲からなる世界を構成する原子の数に等しい他の菩薩たちは、この法門を聞いて4度の誕生を経た後に、この上ない正しく完全な覚りに到ることが確定された。

 さらに、3つの
四大洲からなる世界を構成する原子の数に等しい他の菩薩たちは、この法門を聞いて3度の誕生を経た後に、この上ない正しく完全な覚りに到ることが確定された。

 さらに、2つの
四大洲からなる世界を構成する原子の数に等しい他の菩薩たちは、この法門を聞いて2度の誕生を経た後に、この上ない正しく完全な覚りに到ることが確定された。

 さらに、1つの四大洲からなる世界を構成する原子の数に等しい他の菩薩たちは、この法門を聞いて1度の誕生を経た後に、この上ない正しく完全な覚りに到ることが確定された。

 さらに、8つの三千大千世界を構成する原子の数に等しい菩薩たちは、この法門を聞いて、この上ない正しく完全な覚りに向けて心を発したのだ」(つづく)

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【 2023/02/17 05:30 】

第16章 福徳の分別(分別功徳品第17)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経如来寿量品第16 私は、繰り返して衆生の世界に出現する

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 そこで、世尊は、まさに以上の意味するところをさらに重ねて示しながら、その時、次の詩を述べられた。

 「その時、私はこの最高の覚りを得た。そして、その量が決して知られることのない
 幾1000・コーティ劫もの考えることもできない間、私は常に法を説いているのだ。

 私は多くの菩薩たちを教化して、ブッダの知において確立させ、そしてこのように幾
 コーティ・ナユタもの多くの衆生を、幾コーティもの多くの劫にわたって成熟させる
 のである。

 そして、衆生を教化するために、私は巧みなる方便を示して、完全なる滅度の境地を
 現わすのだ。けれども私は、その時、実際には完全なる滅度に入るのではなく、まさ
 にこの世において法を説き続けているのである。

 また、私は自分に神通力をかけてここに
示現 じげんしている。私は、すべての衆生にもまさ
 に同様に神通力をかけているのであって、そのため、理解力が倒錯し、そして愚かで
 ある人々は、私がまさにここに存在し続けているにもかかわらず、私を見ることがな
 いのだ。

 私自身の身体が、完全に消滅したのを見て後、それらの衆生は、遺体に対していろい
 ろな供養をなす。そして、私に会うことがないので、それらの衆生は渇望する心を生
 ずるのだ。そこで、それらの衆生の心は、素直さを得るのである。

 それらの衆生が素直で柔軟で、温和で、また愛欲を離れた状態になった時、その時、
 私は、声聞たちの集団を形成して、霊鷲山 りょうじゅせんに自分の姿を現わすのだ。

 そして、その後、私はそれらの衆生に次のように告げるのだ。『その時、私はこの世
 において、完全なる滅度に入ったのではないのだ。完全なる滅度に入ったように見せ
 るのは、私の巧みなる方便なのだ』と。男性出家者たちよ、私は繰り返して、生き物
 の世界に出現するのである。

 他の国土の衆生は、私を尊敬している。私は、それらの他の国土の衆生に私の最高の
 覚りを示すのだ。ところが、あなたたちは、私の声を聞くことがなく、他方において
 『その世間の保護者は涅槃に入られた』と思っている。

 私は、衆生が悲しみに打ちひしがれているのを見る。しかしながら、私はその時、自
 分の身体を現わすことはない。まず第一に、それらの衆生に私を見ることを熱望させ
 ているのだ。渇望した者たちには、正しい教えを説き示すであろう。

ダウンロード
ブッダ釈尊が法華経を説かれたとされる霊鷲山の香室跡

 私のこの神通の力は、常にこのようなものである。そして、考えることもできない幾
 1000・コーティ劫もの間、私は幾コーティもの寝台や座席を具えたこの霊鷲山から別
 の所へと去ることはない。

 衆生がこの世界を焼かれていると見たり想像したりするときにも、私のこのブッダ
 の国土は、神々と人間たちで満たされているのだ。

 それらの衆生には、いろいろな遊びの楽しみや、幾コーティもの遊園、楼閣、宮殿が
 あり、その私のブッダの国土は、宝石でできた山々や、宝石でできた花や果実をつけ
 た諸々の樹木で飾られている。

 上方では、神々が楽器を鳴り響かせ、曼陀羅華 まんだらけの花の雨を私にふり注ぎ、そして声聞
 たちや、覚りに向かって今、出て立った他の賢者たちに注ぎかけている。
 
 また、私のこの国土は、このように常に存在し続けている。けれども他の人たちは、
 この国土が焼かれていると想像し、世界を極めて恐ろしく、苦しめられ、幾百もの憂
 いが散り乱れている所だと見るのである。
 
 さらに、それらの衆生は、幾コーティもの多くの劫を経ても、私の名前、ブッダとい
 う言葉、ダルマ(法)という言葉、あるいはサンガ(
僧伽 そうぎゃ)という言葉〔、すなわ
 ち三宝 さんぼうという言葉〕さえも決して聞くことがない。悪い行ないの結果はこのよ
 うなものである。
 
 しかし、温和で柔和な衆生が、この人間の世界に生まれた時、生まれるや否や、
 立派な行ないの結果によって、私が法を説いているのを見るのである。
 
 また私は、このブッダの仕事がこのように終わりなきものであることを、それら
 の衆生に対していかなる時にも決して話していない。それ故に、久しい時間の後
 に私は姿を現わし、そこにおいてもまた、私は説くのだ。『勝利者たちは極めて
 会い難い』と。

 私のこの知の力は、決して限界が存在せず。このように、最も輝かしいものであ
 る。しかも、私の寿命は長く、無限の劫にわたっている。私は昔、それを修行を
 して獲得したのである。

 賢者たちよ、あなたたちは、ここにおいて疑いをなしてはならない。そして、疑
 惑を残らず捨て去るがよい。私は、この真実の言葉を語るのだ。実に、私の言葉
 は、いかなる時にも決して偽りではないであろう。
 
ダウンロード (1)

 あたかも、巧みなる方便を獲得したその医者が、倒錯した意識状態の息子たちに対し
 て、生きている自分のことを、『死んだ』と告げたとしても、虚偽という理由で賢者
 がその医者を責めないようなものである。

 
まさにこのように、私は世間の人々の父であり、独立自存するものであり、医者であ
 り、すべての生きとし生けるものの保護者である、そして、凡夫たちが意識の倒錯し
 た患者であると知って、私は、完全なる滅度に入ることはないが、完全なる滅度に入
 った姿を示すのである。

 理由は何か?私を常に見ることで、愚かな無知の人々は、浄信がなく、依存して、愛
 欲に酔いしれていて、怠惰のゆえに、悪しき境遇にするからである。

 私は、常に衆生のそれぞれの行ないを知って、それぞれに応じたやり方で衆生に教え
 を説くのだ。『いったい、どうやって衆生を覚りに到達させようか。どうしたら、衆
 生がブッダの性質を得るものとなるであろうか』と。

 以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「ブッダの寿命の長さの章」という名前の第15章である。     (如来寿量品第16おわり)

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【 2023/02/14 05:26 】

第15章 ブッダの寿命の長さ(如来寿量品第16)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経如来寿量品第16 良医病子【ろういびょうし】の譬え

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良家の息子たちよ、例えば実に誰かある医学に熟達した人が、学識を具え、明晰 めいせきで、賢く、すべての病を治すことに極めて巧みであるとしよう。そして、その人には、10人、あるいは20人、あるいは30人、あるいは40人、あるいは50人、あるいは100人の多くの息子たちがいるとしよう。その医者は、他の国に出かけていて留守であった。
 
 そして、その医者のそれらのすべての息子たちは、毒物による苦しみを受けるか、または毒薬による苦しみを受けているとしよう。その毒物、あるいは毒薬によって、それらの息子たちは、苦痛を感じてもだえ苦しんでいる。その息子たちは、その毒物、あるいは毒薬によって苦しみながら、大地に倒れている。その時、その息子たちの父であるその医者が、他の国から帰って来た。

ダウンロード (1)

 この医者のその息子たちは、その毒物、あるいは毒薬によって苦痛を感じて苦しんでいる。ある者たちは、倒錯 こうさくした意識状態であり、ある者たちは、正常な意識状態である。それらの息子たちのすべては、まさにその苦しみにさいなまれていたが、その父を見て、喜び、その父に次のように言った。

 『ああ、ありがたいことです。お父さん、あなたは、平穏無事にお帰りになられました。そこで、私たち自身の苦しみであるこの毒物、あるいは毒薬から私たちを解放してください。お父さん、あなたは、私たちに生命を与えてください』と。

 その時、実にその医者は、それらの息子たちが苦しみに苛まれ、苦痛に圧倒され、苦しみながら、大地をのたうち回っているのを見て、そこで色も、香りも、味も具えた卓越した薬物を集めて、石の上でいて粉にし、それらの息子たちが服用するように与えて、次のように言った。

 『息子たちよ、あなたたちは、色も、香りも、味も具えたこの卓越した薬を飲むがよい。息子たちよ、あなたたちが、この卓越した薬を飲めば、直ちにこの毒物、あるいは毒薬から解放されて、快適になり、また健康になるであろう』

 そこにおいて、倒錯した意識状態でないその医者の息子たちは、薬物の色を見て、また香りをかぎ、また味を味わって、直ちに口にした。そして、口にしながら、それらの息子たちはその苦痛からことごとく解放された。

 さらにまた、倒錯した状態であるその息子たちは、その父を歓迎して、父に次のように言った。『ああ、ありがたいことです。お父さん、私たちの医者であるあなたは、平穏無事にお帰りになられました』と。


ダウンロード (2)

 ところが、その倒錯した意識状態の息子たちは、このような言葉を言ったとしても、与えられたその薬を飲もうとしなかった。それは、どんな理由によってか?それは、その息子たちの意識が倒錯していて、与えられたその薬の色も気に入らず、また香りも、味も気に入らなかったからだ。その時、実に医者であるその人は、次のように考えるであろう。

 『この私の息子たちは、この毒物、あるいは毒薬によって意識が倒錯してしまっている。その息子たちは、実にこの卓越した薬を飲もうとしない。けれども、私を歓迎している。そういうわけで、今、私はこの息子たちに巧みなる方便を用いて、この薬を飲ませるとしよう』

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 その時、実にその医者は、それらの息子たちに巧みなる方便によって、その薬を飲ませようとして、次のように言うであろう。

 『良家の息子たちよ、私は
しおれて老衰した老人である。そして、私にとって死の時が差し迫っている。しかしながら、息子たちよ、あなたたちは悲しんではならない。また、落胆に陥ってはならない。あなたたちのために、この卓越した薬を私は与えた。もしも、あなたたちが望むならば、その薬を飲むがよい』

 その医者は、その息子たちを、このように巧みなる方便によって教え導いて、ある国へと出発した。そこに行ってから、その衰弱した息子たちに自分が死んだことを伝えた。その時、それらの息子たちは大変に悲しみ、大いに泣いた。

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 『実に私たちの父であり、保護者であり、私たちに同情してくださるただ一人のその人さえも亡くなってしまった。今、私たちは、寄る辺なきものとなってしまった』と。
 
 さて、それらの薄子たちは寄る辺なきものとなった自分を見つめながら、また保護者なき自分を見つめながら、常に悲しみにくれていた。そして、その息子たちは、常に悲しみにくれていることで、その倒錯した意識状態が正常な意識状態になった。そして、その息子たちは、その薬がまさに色も香りも味も具えているということを認めた。こうして、その時、その薬を口にした、そして、その息子たちは、薬を口にしながら、その苦悩から解放されたとしよう。


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 その時、実にその医者は、それらの息子たちが苦悩から解放されたことを知って、再び自分の姿を現わした。良家の息子たちよ、このことをあなたたちは何と考えるか。その医者が、その巧みなる方便をなして後に、虚偽を〔告げたことを〕理由として、誰かある人が、その医者を責めることがないであろうか?」
 
 それらの菩薩たちが言った。

 「世尊よ、それはありません。人格を完成された人よ、それはありません」
 
 世尊が言われた。

 「良家の息子たちよ、まさにこのように私もまた、量ることも、数えることもできない幾100・1000・コーティ・ナユタ劫ものはるかな過去において、この上ない正しく完全な覚りを覚ったのだ。けれども、良家の息子たちよ、私は時々、衆生の教化のために、このような諸々の巧みなる方便を示すのである。そして、この点において、私には虚言は決して存在しないのである」(つづく)

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【 2023/02/10 05:25 】

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法華経如来寿量品第16 ブッダは永遠に菩薩道を実践し、方便として涅槃を現ずる

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 菩薩の群衆からこのように言われて、世尊は、それらの偉大な人である菩薩たちに次のようにおっしゃられた。

 「良家の息子たちよ、私はあなたたちに告げよう。私はあなたたちに知らせよう。良家の息子たちよ、その人がそれらの原子の粒を下に置いた世界、そして下に置かなかったそれほど多くの世界ーそれらの幾100・1000・コーティ・ナユタものすべての世界における原子の粒は、私がこの上ない正しく完全な覚りを覚った後に経過した幾100・1000・コーティ・ナユタ劫もの多くの数に比べて、それほど多くはないと知られるのだ。その時以来、私はこのサハー世界、および他の幾100・1000・コーティ・ナユタもの世界において、衆生に法を説いているのである。

 そして、良家の息子たちよ、その間において、私が宣説してきた燃燈仏をはじめとする正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちの完全なる滅度は、良家の息子たちよ、実に私が巧みなる方便によって法を教授するために作り出したものである。

 しかるにまた、良家の息子たちよ、ブッダはひっきりなしにやって来る衆生の智慧の能力差や、努力精進を開始してからの長さの違いを洞察して、それぞれの国土でブッダとしての自分の名前をそれぞれに名乗るのだ。そして、それぞれの国土で自分の完全なる涅槃について述べ、そして、種々の法門によってそれぞれのやり方で衆生を大いに喜ばせるのである。そこにおいて、良家の息子たちよ、善い果報をもたらす立派な行ないが乏しく、多くの煩悩を持ち、種々の信順の志を持つ衆生に、ブッダは次のように語るのだ。

 『男性出家者たちよ、私は、生まれて後に年若くして出家した。男性出家者たちよ、私が、この上ない正しく完全な覚りを覚ったのは、久からざる過去であったのだ』

 ところが実に、良家の息子たちよ、ブッダは、はるかな昔に覚りに達していても、このように『私が覚ったのは、久しからざる過去であったのだ』と語るということーこれらの法門を語ったのは、衆生を成熟させ覚りに入らせるため以外にはないのだ。また、良家の息子たちよ、ブッダはそれらのすべての法門を、衆生を教化するために説かれたのである。

 また、良家の息子たちよ、ブッダが自分のことを
明瞭 めいりょうに示すことによって、〔あるいは他人のことを明瞭に示すことによって、〕あるいは自分を拠り所として、あるいは他者を拠り所として、ブッダの語られることが何であれ、ここにおいてブッダに虚言は存在しないのである。それは、どんな理由によってか?ブッダは、〔衆生が輪廻 りんねする迷いの世界である欲界 よくかい色界 しきかい無色界 むしきかいの〕三界を、実にあるがままに見ているからである

 三界は、生まれることもなく、死ぬこともなく、消滅することもなく、生ずることもなく、生存領域の循環(輪廻)を繰り返すことなく、涅槃することもなく、真実でもなく、
虚妄 こもうでもなく、あるのでもなく、ないのでもなく、このようであるのでもなく、別のようなものであるのでもなく、虚偽でもなく、真理でもない。ブッダは、愚かな凡人たちが見るような見方で三界を見ることはないのだ。ブッダは、実に三界を明らかに見るものであり、この点においては見誤ることのないものである。

 その場合、ブッダがいかなる言葉を語るとしても、それはすべて真実であり、偽りでもなく、虚妄でもないのだ。衆生は、さまざまな行ないをなし、さまざまな願望を持ち、誤った想念と虚妄によって行動する。その衆生に善い果報をもたらす立派な行ないを生じさせるために、ブッダは種々の法門をさまざまな拠り所によって説くのである。

 良家の息子たちよ、ブッダは、実にブッダがなすべきことをなすのである。ブッダは、それほどに遥かな昔に覚りに達し、量ることのできない寿命の長さを持ち、常に存在し続けているのである。ブッダは、完全な滅度に入ったことはなく、〔衆生を〕教化することを願って完全なる滅度を示してみせるのである。また、良家の息子たちよ、私は、私の過去における菩薩としての修行を今なお未だに完成させていないし、寿命の長ささえも、未だに満たされていないのである。

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釈尊涅槃像(インド・クシナガラ)

 しかもまた、良家の息子たちよ、私の寿命の長さが満たされるに至るまで、私にとって今なおその〔久遠に成道してから現在に至るまでの時間の〕2倍、〔すなわち、現在から未来へとさらに〕幾100・1000・コーティ・ナユタ劫にわたるであろう。だから今、良家の息子たちよ、私は実に完全なる滅度に入ることはないのに、私は、完全なる滅度に入るだろうということを告げるのである。

 それは、どんな理由によってか?良家の息子たちよ、私は、次のようにして衆生を完成させるからだ。私があまりにもこの世に長く存在し続けると、私を絶えず見ることができることで、衆生は善い果報をもたらす立派な行ないをなさず、福徳を欠き、困窮して、愛欲を貪り、盲目のために誤った見解の網に覆われるのだ。
 
 願わくは、衆生が『ブッダは常に存在し続けている』と考えて、ブッダを求める思いが鈍ることがないように、またブッダに対して会い難い思いを生じないことがないように、また、衆生が『われわれはブッダの近くにいる』と考えて、三界から出離するための努力精進をなさなかったり、ブッダにおいて会い難い思いを抱かなかったりすることがないように。
 
 ゆえに、良家の息子たちよ、ブッダは巧みなる方便によってそれらの衆生に、

 『男性出家者たちよ、ブッダがこの世に出現するのは実にまれなことである』

 という言葉を述べたのである。それは、どんな理由によってか?それは、それらの衆生にとって、幾100・1000・コーティ・ナユタ劫もの長い時間が経過しても、ブッダを見ることが可能であるか否か分からないからである。実にそこにおいて、良家の息子たちよ、私はその時、以上のことを拠り所となして、次のように告げるのだ。

 『男性出家者たちよ、ブッダがこの世に出現するのは実にまれなことである』と。
 
 それらの衆生は、ブッダが、この世に出現するのはまれであることをよくよく知って、不思議な思いを生じ、憂いの思いを生じ、そして正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダを見ることがないので、ブッダを見ることを渇望するようになるであろう。ブッダの拠り所に熟慮をなすことによって、衆生が積むその善い果報をもたらす立派な行ないは、長期間にわたってそれらの衆生を利益と善と安楽とに導くであろう。この道理を考えて、ブッダは、実に完全なる滅度に入ることがないのに、衆生を教化するという願望の故に、ブッダは完全なる滅度に入るだろうと告げるのである。良家の息子たちよ、このように言うことが、ブッダのこの法門であって、ここにおいてブッダに虚言は存在しないのである。(つづく)

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【 2023/02/07 05:32 】

第15章 ブッダの寿命の長さ(如来寿量品第16)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

法華経如来寿量品第16 久遠における成道を明かす

第15章 ブッダの寿命の長さ
如来寿量品 にょらいじゅりょうほん第16)

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 その時、世尊はすべての菩薩の群衆に語りかけられた。

 「良家の息子たちよ、私を信じなさい。真実の言葉を語っているブッダを信じなさい」

 また世尊は、2度目にその菩薩たちに語りかけられた。

 「良家の息子たちよ、私を信じなさい。真実の言葉を語っているブッダを信じなさい」

 また世尊は、3度目にその菩薩たちに語りかけられた。

 「良家の息子たちよ、私を信じなさい。真実の言葉を語っているブッダを信じなさい」

 その時、実にそのすべての菩薩の群衆は、偉大な人である弥勒菩薩を最前に立たせて、合掌して、世尊に次のように申し上げた。

 「世尊は、まさにこの意味をお話しください。人格を完成された人は、お話しください。私たちは、ブッダの語られたことを信ずるでありましょう」

 また、2度目にそのすべての菩薩の群衆は世尊に次のように申し上げた。

 「世尊は、まさにこの意味をお話しください。人格を完成された人は、お話しください。私たちは、
ブッダの語られたことを信ずるでありましょう」

 
また、3度目にそのすべての菩薩の群衆は世尊に次のように申し上げた。

 「世尊は、まさにこの意味をお話しください。人格を完成された人は、お話しください。私たちは、
ブッダの語られたことを信ずるでありましょう」

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 その時、世尊は、それらの菩薩たちが3度までも懇請するのを知って、それらの菩薩たちに語りかけられた。

 「良家の息子たちよ、それならば、あなたたちは、ここで私が次のような神通の力を持っていることを聞くがよい。良家の息子たちよ、神々や、人間、アスラに伴われているこの世間の人々は、私のことを次のように了解しているのだ。

 「世尊であり、釈迦族出身の聖者であるブッダは、釈迦族の高貴な家から出家して、ガヤーという名前の大きな都城において最も勝れた覚りの座に到ったことによって、今、この上ない正しく完全な覚りを覚られたのだ」と。
 
 けれども、そのように見なすべきではない。それどころか、良家の息子たちよ、実に私がこの上ない正しく完全な覚りを覚って以来、幾100・1000・コーティ・ナユタ劫もの長い時間が経過しているのである。

 良家の息子たちよ、譬えば500万・コーティ・ナユタもの世界が大地の構成要素である原子から成っているとしよう。その時、誰かある人が現われ、一つの原子の粒をつかみ取って、東の方向に向かって500万もの無数の世界を過ぎ去って、その一つの原子の粒を下に置くとしよう。このようにして、すべての大地を構成する原子の粒を東の方角に行きながら、目印として一つずつ下に置いていって、幾100・1000・コーティ・ナユタ劫にわたって、その人がそれらのすべての世界を大地の構成要素がなくなった状態にするとしよう。良家の息子たちよ、そのことをあなたたちはどう思うか。それらの世界を、誰かが考えることや、あるいは数えること、あるいは量ること、あるいは観察することが可能であろうか?

 世尊からこのように言われて、偉大な人である弥勒菩薩と、そのすべての群衆、菩薩の集団は、世尊に次のように申し上げた。

 「世尊よ、それらの世界は計算することもできず、数えることもできず、思考の範囲を超越しています。また、世尊よ、すべての声聞や、独覚たちでさえも聖なる知によって考えることも、数えることも、量ることも、あるいは観察することもできません。先ず第一に、世尊よ、不退転の位に立っている偉大な人である菩薩の私たちにとっても、思考できる範囲が、その領域に及ぶことはないのです。世尊よ、それらの世界は、それほどに量り知ることができないでありましょう」と。(つづく)

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【 2023/02/03 05:31 】

第15章 ブッダの寿命の長さ(如来寿量品第16)  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
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