なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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さらにまた、常精進よ、この法門を受持し、あるいは読誦し、解説し、説き示し、書写しているその偉大な人である菩薩は、800の身体の功徳を得るであろう。その人の身体は、清らかで、完全に清らかであり、瑠璃 のように完全に清められた皮膚の色を持ち、衆生にとって見るも美しいものとなるであろう。その人は、完全に清められたその人自身の身体の表面に三千大千世界のすべてを見るであろう。
三千大千世界において死んだり生まれたり、劣っていたり卓越していたり、きれいな色であったり汚い色であったり、善き境遇にあったり悪しき境遇にあったりする衆生、またチャクラヴァーダ山や大チャクラヴァーダ山の山々、山々の王であるメール山やスメール山の山々に住む衆生、また下に阿鼻地獄、上に世界の最上部である有頂天に至るまで、そこに住む衆生のすべてをその人は自己の身体の表面に見るであろう。
また、この三千大千世界に住む声聞、独覚、菩薩、あるいはブッダたちの誰であれ、また、それらのブッダたちが説き示す法のすべてを、その人は自分の身体の表面に見るであろう。また、それらのブッダたちにお仕えしている衆生のすべてが自己の身体を獲得するのを、その人は自分の身体の表面に見るであろう。
それは、どんな理由によってか?なぜならば、それは、その人の自分の身体が常に完全に清らかであるからだ」と。
その時、世尊は次の詩を述べられた。
「この勝れた経を受持する人の自分の身体は完全に清められていて、まるで瑠璃で作
られているかのように清らかであって、衆生にとって常に見るも美しいものである。
鑑 の表面に像を見るように、そのようにその人は身体の表面にこの世界が見られるの
である。しかるに、その人は、自らそれを見るのであり、他の衆生はそれを見ること
ができない。その人の身体の清らかさは、このようなものであるのだ。
まさにこの世界に住する衆生ー人間や、神々、アスラ、グヒヤカたち、あるいは地獄
や、餓鬼、畜生の世界にいるものたちの像が、その人の身体の表面に観察されるのだ。
世界の最上部である有頂天に至るまで、神々の天上の乗り物や、岩の山もまた、チャ
クラヴァーダ山、ヒマラヤ山脈、スメール山、大メール山、これらの山々は、すべて
その人の身体の表面に観察されるのである。
その人は、声聞を伴っているブッダたちをもまた自分の身体の表面に見るし、独りで
暮らしている菩薩たちや、群衆の中で法を説き示す菩薩である他のブッダの息子たち
をもまた同様に自分の身体の表面に見るのである。
その人の身体の清らかさはこのようであり、その身体においてこのすべての世界が観
察されるのである。けれども、その人はまだ天上界のその身体を得ていないのである。
その人の身体は、このように生まれつきの自然の状態のままであるのだ。
さらにまた、常精進よ、ブッダの私が完全なる滅度に入った後で、この法門を受持し、教示し、解説し、書写し、読誦しているその偉大な人である菩薩の知覚の能力は、それらの1200の心の作用の功徳を具え、完全に清められたものとなるであろう。その人が、完全に清められたその知覚の能力によって、たとえ一つの詩でさえも聞くならば、その一つの詩に多くの意味があることを了解するであろう。
その人は、その一つの詩を理解して後に、それらの多くの意味に基づいて1カ月間も法を説き示すであろうし、4カ月間も、1年間も法を説き示すであろう。また、その人が説く法は、その人によって記憶され、その法は忘却されることはないであろう。日常の世間の慣例、あるいは講説、あるいは呪文の何であれ、それらのすべてをその人は、法の道理によって意味づけして止揚 するのである。
また、誰であれ、三千大千世界の中の6種の生存領域に生まれ、その中を循環(六道輪廻 )している多くの衆生の心によってなされた活動のすべてを、その人は知るであろう。それらの衆生が動揺し、慢心し、誤って議論していることを知り、深く思いをめぐらすであろう。また、聖なる智慧を未だ得ていないのに、この人の知覚の能力はこのように完全に清められているであろう。
また、何であれ、真理と語源的説明について熟考して後に、その人は法を説き示すであろう。その中にあるすべてのことを、その人は説き示すであろう、ブッダによって解かれたすべてのこと、過去の勝利者の経文に説かれたすべてのことを、その人は説くのである」
その人は、その一つの詩を理解して後に、それらの多くの意味に基づいて1カ月間も法を説き示すであろうし、4カ月間も、1年間も法を説き示すであろう。また、その人が説く法は、その人によって記憶され、その法は忘却されることはないであろう。日常の世間の慣例、あるいは講説、あるいは呪文の何であれ、それらのすべてをその人は、法の道理によって意味づけして止揚 するのである。
また、誰であれ、三千大千世界の中の6種の生存領域に生まれ、その中を循環(六道輪廻 )している多くの衆生の心によってなされた活動のすべてを、その人は知るであろう。それらの衆生が動揺し、慢心し、誤って議論していることを知り、深く思いをめぐらすであろう。また、聖なる智慧を未だ得ていないのに、この人の知覚の能力はこのように完全に清められているであろう。
また、何であれ、真理と語源的説明について熟考して後に、その人は法を説き示すであろう。その中にあるすべてのことを、その人は説き示すであろう、ブッダによって解かれたすべてのこと、過去の勝利者の経文に説かれたすべてのことを、その人は説くのである」
その時、世尊は次の詩を述べられた。
「その人の知覚の能力は、清らかで、輝かしく、明瞭で、汚れがない。それによって
その人は、劣っているものや、勝れているもの、同様に中ぐらいのものという種々の
法を了解するのである。
一つの詩でさえも聞いて後に、志の堅固なものは、その詩の多くの意味を知り、4カ
月間でも、1年間でも、常に一緒にいて真実を説くのである。
また、この世界の内と外に住んでいる衆生や、神々、人間、アスラ、グヒヤカたち、
そして龍や、畜生の世界に住するものたちもまた、
衆生が6種の生存領域に留まり、それらの衆生が何を考えるとしても、この経を受持
して後、智者は一瞬にすべてを了解するのである。これが、この経の利益 である。
さらにまた、100もの福徳の相好 を具えているブッダが、このすべての世間において
法を説き明かす時、その人は、その清らかな声を聞いて、そのブッダが語ることを了解
するのである。
その人は、多くの最上の法を熟慮し、また多くの最上の法を常に語るのである。この
経を受持して後、困惑することは、いかなる時にも決してその人にはないのだ。これ
が、この経の利益である。
その人は、あらゆるものごとにおける関連や、相互の関係を識別し、異なった特徴や
意味、語源的説明を了解している。そして、それについて知っているそのままに、そ
の人は語るのである。
過去の世間の師たちによって長い間、この世において語られている経、その法を、そ
の人は常に恐れることなく集会の真ん中で語るのである。
この経を受持し、読誦して後、この人にはこのような知覚の能力が具わるのである。
確かにその人は、未だに完全な知を獲得していない、けれども、この知覚の能力が清
らかであることは、その完全な知の獲得に先立つものなのである。
その人は、実に師の境地に立っていて、あらゆる衆生のために法を告げるであろう。
さらに、幾コーティもの語源的説明に熟練しており、人格を完成された人のこの経典
を受持しているのである。
以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「説法者に対する讃嘆の章」という名前の第18章である。 (法師功徳品第19おわり)
「その人の知覚の能力は、清らかで、輝かしく、明瞭で、汚れがない。それによって
その人は、劣っているものや、勝れているもの、同様に中ぐらいのものという種々の
法を了解するのである。
一つの詩でさえも聞いて後に、志の堅固なものは、その詩の多くの意味を知り、4カ
月間でも、1年間でも、常に一緒にいて真実を説くのである。
また、この世界の内と外に住んでいる衆生や、神々、人間、アスラ、グヒヤカたち、
そして龍や、畜生の世界に住するものたちもまた、
衆生が6種の生存領域に留まり、それらの衆生が何を考えるとしても、この経を受持
して後、智者は一瞬にすべてを了解するのである。これが、この経の利益 である。
さらにまた、100もの福徳の相好 を具えているブッダが、このすべての世間において
法を説き明かす時、その人は、その清らかな声を聞いて、そのブッダが語ることを了解
するのである。
その人は、多くの最上の法を熟慮し、また多くの最上の法を常に語るのである。この
経を受持して後、困惑することは、いかなる時にも決してその人にはないのだ。これ
が、この経の利益である。
その人は、あらゆるものごとにおける関連や、相互の関係を識別し、異なった特徴や
意味、語源的説明を了解している。そして、それについて知っているそのままに、そ
の人は語るのである。
過去の世間の師たちによって長い間、この世において語られている経、その法を、そ
の人は常に恐れることなく集会の真ん中で語るのである。
この経を受持し、読誦して後、この人にはこのような知覚の能力が具わるのである。
確かにその人は、未だに完全な知を獲得していない、けれども、この知覚の能力が清
らかであることは、その完全な知の獲得に先立つものなのである。
その人は、実に師の境地に立っていて、あらゆる衆生のために法を告げるであろう。
さらに、幾コーティもの語源的説明に熟練しており、人格を完成された人のこの経典
を受持しているのである。
以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「説法者に対する讃嘆の章」という名前の第18章である。 (法師功徳品第19おわり)
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また次に、常精進よ、この法門を受持し、教示し、解説し、書写しているその良家の息子、あるいは良家の娘は、それらの1200の舌の功徳を具えた味覚の能力を得るであろう。
その人が、そのような味覚の能力によって味わうそれぞれの味、舌の上に置くそれぞれの味のすべては天上界の素晴らしい風味を放つであろう。また、いかなるまずい味も決して感ずることがないように、その人は味わうであろう。まずい味のものでさえも、その人の舌の上に置かれると、天上界の味を放つのだ。
また、その人が集会の真ん中において説く法によって、その人のそれらの衆生は諸々の感覚器官を喜ばせ、満足させ、最高に満足させ、歓喜を生じることになろう。
また、この人の甘くて、深く、美しく、心にかなった声は、人々の心に触れるもの、愛されるべきものとして発されるであろう。それによって、この人のそれらの衆生は、満足させられ、心が高まるであろう。
さらに、その人が法を説き示すならば、その人の美しく心にかなった甘い声を聞いて、神々でさえもその人にお会いし、敬礼し、尊敬し、法を聞くためにその人に近づくべきであると、考えるであろう。
神々の息子や神々の娘たちも、シャクラ神やブラフマー神、ブラフマー神に属する神々の息子たちも、龍や龍の娘たちも、アスラやアスラの娘たちも、ガルーダやガルーダの娘たちも、キンナラやキンナラの娘たちも、マホーラガやマホーラガの娘たち、ヤクシャやヤクシャの娘たち、〔屍肉を食らう〕ピシャーチャ鬼やピシャーチャ鬼の娘たちもまた、その人にお会いし、敬礼し、尊敬し、法を聞くためにその人に近づくべきであると考えるであろう。そして、それらのものたちは、この人に称讃をなし、尊重、尊敬、供養、恭敬、尊崇をなすであろう。
男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たちも、王や、王子、王の臣下、王の高位の大臣、軍隊を統率する転輪王や、七宝を身に着けた転輪王たちもまた、王子や臣下、後宮や侍者たちを引き連れてその人にお会いすることを願い、恭敬することを求めるであろう。
その説法者は、ブッダが説かれたように、それほどに好ましく、あるがままに法を説くであろう。その説法者は、寿命が尽きるまで常に他のバラモンや、資産家、都市や地方に住む人たちをもまた従えるであろう。ブッダの弟子である声聞たちも、独覚たちも、世尊であるブッダたちもまた、この人にお会いすることを願い求めるであろう。
また、どの方角であれ、その良家の息子、あるいは良家の娘が住している方角において、その良家の息子、あるいは良家の娘は、ブッダの面前で法を説き示すであろうし、またブッダの法を受け容れるための真の器となるであろう。このように、心にかなった深い法を説くその人の声が放たれるであろう」
その人が、そのような味覚の能力によって味わうそれぞれの味、舌の上に置くそれぞれの味のすべては天上界の素晴らしい風味を放つであろう。また、いかなるまずい味も決して感ずることがないように、その人は味わうであろう。まずい味のものでさえも、その人の舌の上に置かれると、天上界の味を放つのだ。
また、その人が集会の真ん中において説く法によって、その人のそれらの衆生は諸々の感覚器官を喜ばせ、満足させ、最高に満足させ、歓喜を生じることになろう。
また、この人の甘くて、深く、美しく、心にかなった声は、人々の心に触れるもの、愛されるべきものとして発されるであろう。それによって、この人のそれらの衆生は、満足させられ、心が高まるであろう。
さらに、その人が法を説き示すならば、その人の美しく心にかなった甘い声を聞いて、神々でさえもその人にお会いし、敬礼し、尊敬し、法を聞くためにその人に近づくべきであると、考えるであろう。
神々の息子や神々の娘たちも、シャクラ神やブラフマー神、ブラフマー神に属する神々の息子たちも、龍や龍の娘たちも、アスラやアスラの娘たちも、ガルーダやガルーダの娘たちも、キンナラやキンナラの娘たちも、マホーラガやマホーラガの娘たち、ヤクシャやヤクシャの娘たち、〔屍肉を食らう〕ピシャーチャ鬼やピシャーチャ鬼の娘たちもまた、その人にお会いし、敬礼し、尊敬し、法を聞くためにその人に近づくべきであると考えるであろう。そして、それらのものたちは、この人に称讃をなし、尊重、尊敬、供養、恭敬、尊崇をなすであろう。
男性出家者・女性出家者・男性在家信者・女性在家信者たちも、王や、王子、王の臣下、王の高位の大臣、軍隊を統率する転輪王や、七宝を身に着けた転輪王たちもまた、王子や臣下、後宮や侍者たちを引き連れてその人にお会いすることを願い、恭敬することを求めるであろう。
その説法者は、ブッダが説かれたように、それほどに好ましく、あるがままに法を説くであろう。その説法者は、寿命が尽きるまで常に他のバラモンや、資産家、都市や地方に住む人たちをもまた従えるであろう。ブッダの弟子である声聞たちも、独覚たちも、世尊であるブッダたちもまた、この人にお会いすることを願い求めるであろう。
また、どの方角であれ、その良家の息子、あるいは良家の娘が住している方角において、その良家の息子、あるいは良家の娘は、ブッダの面前で法を説き示すであろうし、またブッダの法を受け容れるための真の器となるであろう。このように、心にかなった深い法を説くその人の声が放たれるであろう」
ガンダルヴァ(百神データwikiより)
その時、世尊は次の詩を述べられた。
「その人の味覚の能力は、卓越したものであり、その人は劣った味を決して味わうこ
とはないであろう。種々の味であっても舌の上に置かれるや否や、天上界のものとな
って、天上界の味で満たされるであろう。
その人は、美しい声、甘くて、聞くに値し、好ましく、心を喜ばせる言葉を話すのだ。
もちろん、その人は、常に集会の真ん中において愛されるべき深い声を発するのであ
る。
幾コーティ・ナユタもの多くの譬喩によって説くこの人から法を聞く人もまた、そこ
において最高の歓喜を生じ、この人のために無量の供養をなすのである。
神々も、龍、アスラ、〔半神半人の〕グヒヤカたちも、常にその人にお会いすること
を願い、尊敬の心をもって法を聞くのだ。その人には、これらのすべてを声によって
覚らせるであろう。この人たちには、温和で、甘く、深く、美しく、極めて愛される
べき声が具わっているのだ。
大地の支配者である転輪王たちは、その人のために供養をすることを求めていて、息
子や妻と一緒にその人に近づき、合掌をなして、常にこの人から法を聞くのである。
また、その人をヤクシャたちは常に尊敬していて、龍や、ガンダルヴァ(半神半獣の
奏楽神)の群衆、ピシャーチャ鬼や、ピシャーチー鬼たちは、大変に称讃し、尊敬し、
供養するのである。
ブラフマー神もまた、その人の支配下にあるのであり、神々の子たちである大自在天
や、自在天たち、またシャクラ神や、同様にそれ以外の神々の息子たち、そして多く
の神々の娘たちもまたその人に近づくのである。
世間の人々の安寧のために慈愛を有するブッダたちは、声聞たちとともにその人の声
を聞いて、顔を現わすことによって守護をなし、法を説いているこの人に満足するの
である。(つづく)
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「その人の味覚の能力は、卓越したものであり、その人は劣った味を決して味わうこ
とはないであろう。種々の味であっても舌の上に置かれるや否や、天上界のものとな
って、天上界の味で満たされるであろう。
その人は、美しい声、甘くて、聞くに値し、好ましく、心を喜ばせる言葉を話すのだ。
もちろん、その人は、常に集会の真ん中において愛されるべき深い声を発するのであ
る。
幾コーティ・ナユタもの多くの譬喩によって説くこの人から法を聞く人もまた、そこ
において最高の歓喜を生じ、この人のために無量の供養をなすのである。
神々も、龍、アスラ、〔半神半人の〕グヒヤカたちも、常にその人にお会いすること
を願い、尊敬の心をもって法を聞くのだ。その人には、これらのすべてを声によって
覚らせるであろう。この人たちには、温和で、甘く、深く、美しく、極めて愛される
べき声が具わっているのだ。
大地の支配者である転輪王たちは、その人のために供養をすることを求めていて、息
子や妻と一緒にその人に近づき、合掌をなして、常にこの人から法を聞くのである。
また、その人をヤクシャたちは常に尊敬していて、龍や、ガンダルヴァ(半神半獣の
奏楽神)の群衆、ピシャーチャ鬼や、ピシャーチー鬼たちは、大変に称讃し、尊敬し、
供養するのである。
ブラフマー神もまた、その人の支配下にあるのであり、神々の子たちである大自在天
や、自在天たち、またシャクラ神や、同様にそれ以外の神々の息子たち、そして多く
の神々の娘たちもまたその人に近づくのである。
世間の人々の安寧のために慈愛を有するブッダたちは、声聞たちとともにその人の声
を聞いて、顔を現わすことによって守護をなし、法を説いているこの人に満足するの
である。(つづく)
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さらにまた、常精進よ、この法門を受持し、説き示し、読誦し、書写しているこの偉大な人である菩薩の臭覚の能力は、800の功徳を具えていて、完全に清められているのだ。
その人は、その完全に清められた鼻による臭覚の能力によって三千大千世界の内外において見いだされる多種多様の匂い、例えば、腐敗した臭いであれ、快い匂いであれ、さまざまな種類の花の香り、例えば、ジャーティカや、マッリカー(ジャスミン)、チャンパカ、パータラの花の香り、それらの香りを嗅ぎ分けるのだ。
水の中から生ずる蓮の花の多種多様な香りをもまた、その人は嗅ぎ分けるのである。例えば、青睡蓮や紅蓮華、白睡蓮、白蓮華の香りを、その人は嗅ぎ分けるのだ。
花と果実をつける多種多様な樹木の花や果実の香りを、その人は嗅ぎ分けるのである。例えば、栴檀や、タマール樹の葉、タガラの樹、沈水香の甘美な香りをその人は嗅ぎ分けるのだ。
さまざまな変化を持つ幾100・1000もの異なった香り、そのすべてをその人は1カ所にいて嗅ぎ分けるのである。衆生の多種多様な臭いをもまた、その人は嗅ぎ分けるのである。例えば、象や、馬、牛、羊、獣の匂い、また多種多様な畜生の状態を得ている生命あるものたちの身体の匂い、女性や男性の身体の匂い、男の子や女の子の身体の匂い、遠くの場所にある草、灌木、樹木の匂いをもまた、その人は嗅ぎ分けるのである。その人は、現実にある匂いを感受する。けれども、それらの匂いによって圧倒されることもなければ、困惑することもないのだ。
このように、その人はこの世にいて、神々の匂いをもまた嗅ぎ分けるのである。例えば、パーリジャータカや、コーヴィダーラ、マーンダーラヴァ(曼陀羅華)や、大マーンダーラヴァ、マンジューシャカ(曼珠沙華)、大マンジューシャカといった天上の花々の香り、天上の沈水香の粉末や、栴檀の粉末の香り、また、さまざまな種類の幾100・1000もの異なった天上の花々の香りを、その人は嗅ぎ分けるのである。しかも、その人はこれらの香りの名前をよく知っているのだ。
その人は、その完全に清められた鼻による臭覚の能力によって三千大千世界の内外において見いだされる多種多様の匂い、例えば、腐敗した臭いであれ、快い匂いであれ、さまざまな種類の花の香り、例えば、ジャーティカや、マッリカー(ジャスミン)、チャンパカ、パータラの花の香り、それらの香りを嗅ぎ分けるのだ。
水の中から生ずる蓮の花の多種多様な香りをもまた、その人は嗅ぎ分けるのである。例えば、青睡蓮や紅蓮華、白睡蓮、白蓮華の香りを、その人は嗅ぎ分けるのだ。
花と果実をつける多種多様な樹木の花や果実の香りを、その人は嗅ぎ分けるのである。例えば、栴檀や、タマール樹の葉、タガラの樹、沈水香の甘美な香りをその人は嗅ぎ分けるのだ。
さまざまな変化を持つ幾100・1000もの異なった香り、そのすべてをその人は1カ所にいて嗅ぎ分けるのである。衆生の多種多様な臭いをもまた、その人は嗅ぎ分けるのである。例えば、象や、馬、牛、羊、獣の匂い、また多種多様な畜生の状態を得ている生命あるものたちの身体の匂い、女性や男性の身体の匂い、男の子や女の子の身体の匂い、遠くの場所にある草、灌木、樹木の匂いをもまた、その人は嗅ぎ分けるのである。その人は、現実にある匂いを感受する。けれども、それらの匂いによって圧倒されることもなければ、困惑することもないのだ。
このように、その人はこの世にいて、神々の匂いをもまた嗅ぎ分けるのである。例えば、パーリジャータカや、コーヴィダーラ、マーンダーラヴァ(曼陀羅華)や、大マーンダーラヴァ、マンジューシャカ(曼珠沙華)、大マンジューシャカといった天上の花々の香り、天上の沈水香の粉末や、栴檀の粉末の香り、また、さまざまな種類の幾100・1000もの異なった天上の花々の香りを、その人は嗅ぎ分けるのである。しかも、その人はこれらの香りの名前をよく知っているのだ。
また、神々の子たちの身体の匂いを、その人は嗅ぎ分けるのだ。例えば、神々の帝王であるシャクラ神(帝釈天)の身体の匂いを、その人は嗅ぎ分けるのであるまた、そのシャクラ神がヴァイジャヤンタ宮殿で遊び、喜び、戯れていても、あるいはスダルマー神殿で三十三天の神々のために法を教示していても、あるいは遊園に遊びに出かけていても、その人は、匂いによってシャクラ神が何をしているのか分かるのである。
また、他の神々の子たちのそれぞれ各自の身体の匂いを、その人は嗅ぎ分けるのだ。神々の娘たちや、神々の妻たちの身体の匂いも、神々の少年たちの身体の匂いも、神々の少女たちの身体の匂いももまた、その人は嗅ぎ分けるのである。けれども、それらの匂いによってその人は圧倒されることはないのだ。このようにして、世界の最上部である有頂天に生まれた衆生の身体の匂いもまた嗅ぎ分けるのである。
ブラフマー神(梵天)群に属する神々の子たちや、大ブラフマー神たちの身体の香りをも、その人は嗅ぎ分けるのだ。このようにして、あらゆる神々の集まりの身体の匂いをもまた、その人は嗅ぎ分けるのである。
その人は、声聞や、独覚、菩薩、ブッダたちの身体の匂いを嗅ぎ分けるのであり、ブッダの座の匂いをもまた嗅ぎ分けるのだ。また、それらの正しく完全に覚った尊敬されるべきブッダたちが過ごされている場所を、その人は匂いによって知るのである。
この人の臭覚の能力は、それぞれの種々の匂いによって圧倒されたりすることもなく、損なわれたりすることもなく、悩まされたりすることもない。それどころか、その人は自ら願って、それぞれの匂いについて他の人々のためにも説明するのであり、この人の記憶は、それぞれの種々の匂いによって損なわれることはないのだ」
そこで、世尊はその時、次の詩を述べられた。
「その人の臭覚の能力は清らかであり、何であれこの世界に存在する芳香や悪臭のす
べて、それらのさまざまな多くの匂いをその人は嗅ぎ分けるのだ。
しかれば、ジャーティカや、マッリカー、タマーラ樹の葉の香り、また栴檀や、タガ
ラの樹、沈水香の香り、さらには種々の花々の香りもまた、その人は嗅ぎ分けるので
ある。
まさに同様に衆生の匂いをも、またその人は知るのだ。その人は遠くにいても、男や
女、少年や少女たちの匂いによって、それらの男や女、少年や少女たちのいる場所を
知るのである。
その人は、転輪王や、軍隊を統率する転輪王たち、小王たちの匂いもまた知るので
あり、同様に王者、大臣、後宮たちのすべてを、それらの人たちの匂いによって知
るのだ。
転輪王が所有しているたくさんの種類の宝石や、地中に埋蔵されているの非貴金属、
さらには宝石のように美しい転輪王の女性たちもまた、その菩薩は匂いによって知る
のだ。
また、それらの人たちの身体に着用されているさまざまな装飾品や、衣服、塗香を、
その菩薩は匂いによって知るのである。
同様に、最も勝れたこの経を受持する意志堅固な人は、臭覚の力によってその女性が
立っていたり、坐っていたり、寝ていたり、遊びを楽しんでいたり、神通力を持って
いたりするのをすべて知るのである。
同様に、よい香りの油の匂いや、さまざまな種類の花や果実の匂いを嗅ぎ、この地上
に立っているだけで直ちに、その人は、その匂いがどこそこの場所や、こちらの場所
にあたるということを知るのである。
栴檀の花
山々の谷間に花を咲かせている多くの栴檀や、またそこに住んでいる衆生のすべてを
その賢者は匂いによって識別するのだ。
その賢者は匂いによって識別するのだ。
チャクラヴァーダ山の近くに生存している衆生や、大海の真ん中に住んでいる衆生、
また大地の真ん中に住んでいる衆生、それらのすべてをその賢者は匂いによって識別
するのである。
同様に、その人は神々を知り、アスラやアスラの娘たちを識別し、アスラたちの遊び
や娯楽を知るのだ。実にその人の鼻の能力は、このようなものである。
ライオンや、虎、象、龍、また水牛、野牛、牛のように荒野にいる四足獣たちは何で
あれ、それらの四足獣たちの住む場所をその人は鼻によって知るのである。
また、妊娠している女性たちが、疲れた体で男の子、あるいは女の子を母胎に孕んで
いて、その人は、匂いによってその母胎に男女のどちらがいるかということを知るの
である。
その人は、女性が身ごもっているかどうか、胎内にいる児が死滅すべきものであるか
どうかをも識別する。その人は、この女性が、苦痛を伴わず、福徳を具えた男の子を
産むかどうかをも識別するのだ。
その人は、人々の抱く多くの願望の匂いを識別し、同様にその人は願望の匂いを嗅ぎ
分ける。同様に、執着した人や、悪意を抱く人、心の和らいでいる人たちの匂いもま
た、その人は嗅ぎ分けるのである。
また、大地の中にある秘宝、財宝、黄金、金、銀、そしていっぱいに満たされた銅製
の容器を、その菩薩は匂いによって嗅ぎ分けるのだ。
値段のつけられないほどの高価な一連の首飾りと半連の首飾り、宝珠や真珠、そして
値段がつけられないことで評判の光輝いている種々の宝石を、その人は匂いによって
それらのすべてを知るのである。
同様に、天上の神々の所にあるマーンダーラヴァや、マンジューシャカの花々、また
パーリジャータ樹の花々、それらの花々をその意志堅固な人はこの地上にいて嗅ぎ分
けるのである。
天上の乗り物が何であり、どのようなものであり、誰のものであり、勝れたものであ
るか、劣ったものであるか、同様にその中間のものであるか、また美しい外観を持つ
天上の乗り物がどこにあるのか、その人は鼻の能力によってこの地上にいて嗅ぎ分け
るのである。
また、天上の遊園の場所が、スダルマー神殿の神々の座や、インドラ神のヴァイジャ
ヤンタ神殿の中にあるのを、その人は如実に知るのだ。また、その最も美しい宮殿の
中で、何という神々の子たちが楽しんでいるのかを、その人は如実に知るのである。
この地上にいて、それらのものたちの匂いを嗅ぎ分け、その人は、匂いによって神々
の子たちを知るのだ。誰が、どこで行動し、立ったり、坐ったり、あるいはまた、ど
こへ行くのかさえも〔知るのである〕。
多くの花で飾られ、花環や装飾品を着用し、荘厳された神々の娘たちが、どこで楽し
み、またどこへ行くのか、その菩薩は匂いによって知るのだ。
上は世界の最上部である有頂天に至るまで、大ブラフマー神の天上の乗り物によって
動き回る神々や、ブラフマー神たちが禅定に入っているか、あるいは禅定から出てい
るのかを、その人はその地上にいて匂いによって知るのである。
先例なく神々の子たちがアーバースヴァラ天に生じたり、没したりするのをその人は
知る。この経を受持する菩薩の臭覚はこのようなものなのだ。
いかなる男性出家者であれ、人格を完成された人の教えのもとで努力精進し、そぞろ
歩きに従事していて、経の解説と読誦を楽しんでいる男性出家者たちのすべてを、そ
の菩薩は知るのだ。
勝利者の息子である声聞たちの誰であれ、常に樹木の根もとに住するそれらの声聞た
ちのすべてについて、『これこれの男性出家者がどこそこにいる』と、賢者は匂いに
よって、知るのである。
念いを正し、禅定に専念し、経の解説や読誦を楽しんでいる菩薩たち、また常に集会
において法を説き示す菩薩たちのことをその菩薩は匂いによって知るのである。
いかなる方角においても、人々の安寧のために慈悲を具えた偉大なる聖者である人格
を完成された人が、声聞の集団の真ん中で、尊敬され、法を説き示すとしても、その
世間の保護者を、その人は匂いによって知るのである。
さらに、この世間の保護者の法を聞き、また聞いた後に心に喜びを抱いている衆生、
さらにそこにいる勝利者のすべての群衆もまた、その菩薩はこの地上にいて知るので
ある。
この人の鼻の能力は、このようである。けれども、この人の鼻はまだ神通を得たもの
とはなっていない。といっても、それは汚れのないその神通を得た鼻の獲得に先立つ
ものなのだ。(つづく)
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動き回る神々や、ブラフマー神たちが禅定に入っているか、あるいは禅定から出てい
るのかを、その人はその地上にいて匂いによって知るのである。
先例なく神々の子たちがアーバースヴァラ天に生じたり、没したりするのをその人は
知る。この経を受持する菩薩の臭覚はこのようなものなのだ。
いかなる男性出家者であれ、人格を完成された人の教えのもとで努力精進し、そぞろ
歩きに従事していて、経の解説と読誦を楽しんでいる男性出家者たちのすべてを、そ
の菩薩は知るのだ。
勝利者の息子である声聞たちの誰であれ、常に樹木の根もとに住するそれらの声聞た
ちのすべてについて、『これこれの男性出家者がどこそこにいる』と、賢者は匂いに
よって、知るのである。
念いを正し、禅定に専念し、経の解説や読誦を楽しんでいる菩薩たち、また常に集会
において法を説き示す菩薩たちのことをその菩薩は匂いによって知るのである。
いかなる方角においても、人々の安寧のために慈悲を具えた偉大なる聖者である人格
を完成された人が、声聞の集団の真ん中で、尊敬され、法を説き示すとしても、その
世間の保護者を、その人は匂いによって知るのである。
さらに、この世間の保護者の法を聞き、また聞いた後に心に喜びを抱いている衆生、
さらにそこにいる勝利者のすべての群衆もまた、その菩薩はこの地上にいて知るので
ある。
この人の鼻の能力は、このようである。けれども、この人の鼻はまだ神通を得たもの
とはなっていない。といっても、それは汚れのないその神通を得た鼻の獲得に先立つ
ものなのだ。(つづく)
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さらにまた、常精進菩薩よ、その良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門を他の人々のために説き示し、説き聞かせているものは、次の1200の耳の功徳を具えるのだ。
三千大千世界における阿鼻地獄から世界の最上部である有頂天まで、その内外においては、多種多様な多くの音声が現われる。
例えば、象の声、馬の声、ラクダの声、牛の声、山羊の声、人民の声、車の声、鳴き声、悲しみの声、恐怖の声、螺貝の音、鈴の音、小太鼓の音、大太鼓の音、遊びの声、歌の声、踊りの声、楽器の音、演奏の調べ、女の声、男の声、少年の声、少女の声、正義の声、不正義の声、快楽の声、苦悩の声、凡夫の声、聖者の声、心地よい声、不快な声、神々の声、龍の声、ヤクシャ(夜叉)の声、ラークシャサ(羅刹)の声、ガンダルヴァ(乾闥婆)の声、アスラ(阿修羅)の声、ガルーダ(迦楼羅)の声、キンナラ(緊那羅)の声、マホーラガ(摩睺羅伽)の声、人間の声、人間以外のものの声、火の音、風の音、水の音、村落の音、都市の音、男性出家者の声、声聞の声、独覚の声、菩薩の声、ブッダの声である。
三千大千世界の内外において、どれほど多くの、どんな音声が現われても、それらの音声を、その浄化された生まれつきで通常の聴力によってその人は聞き分けるのだ。
また神通を得た耳を生じていないが、その人はその生まれつきで通常の聴力の聴覚の能力によって、それぞれの衆生の声を聞いて後に、それぞれの衆生の声を知り、熟慮し、分析する。けれども、それらのすべての音声によって、その人の聴覚の能力が圧倒されることはない。常精進よ、その偉大な人である菩薩には、このような聴力の能力の獲得があるのである。けれども、まだ神通を得た耳が生じているのではないのだ。
世尊は、以上のことをおっしゃられた。そして、教師であり、人格を完成された人は、次のようにおっしゃられた。
「その人の聴覚の能力は清らかで、汚れがない。しかしながら、それは、生まれつき
の全く自然の状態のもので、その人は、この世界における実に種々の音声を余すこと
なく聞くのだ。
ヴィーナー
その人は、象や、馬、車、牡牛、山羊と羊の音声や、大太鼓と小太鼓、スゴーシャカ
(笙)、ヴィーナー、笛、ヴァッラキー(琵琶の一種)といった楽器の音声を聞き分
けるのである。
快い甘美な歌を聞いて、しかも、その人はその歌に執着することなく、志が堅固であ
る。何de
あれ、どこであれ、幾コーティもの人間たちが話している声をその人は聞き
分けるのだ。
また、その人は常に、甘美で快い神々の声や、歌声を聞く、男性や、女性、同じく少
年や少女たちの声をもまた聞き分けるのである。
実に山中の洞穴に住んでいるカラヴィンカ(迦陵頻伽)鳥、コーキラ鳥、孔雀、
鴛鴦(命命鳥)という鳥たちの美しい声をその人は聞き分けるのだ。
(笙)、ヴィーナー、笛、ヴァッラキー(琵琶の一種)といった楽器の音声を聞き分
けるのである。
快い甘美な歌を聞いて、しかも、その人はその歌に執着することなく、志が堅固であ
る。何de
あれ、どこであれ、幾コーティもの人間たちが話している声をその人は聞き
分けるのだ。
また、その人は常に、甘美で快い神々の声や、歌声を聞く、男性や、女性、同じく少
年や少女たちの声をもまた聞き分けるのである。
実に山中の洞穴に住んでいるカラヴィンカ(迦陵頻伽)鳥、コーキラ鳥、孔雀、
鴛鴦(命命鳥)という鳥たちの美しい声をその人は聞き分けるのだ。
地獄において苦痛を感じている人たちは、非常に恐ろしい声を発し、食べ物の得
られない苦しみによって苛まれている餓鬼たちは、まさに同様にその恐ろしい
声を発する。
また、大地の真ん中に住しているアスラたちは、種々の怒号を発する。まさにこ
の世にいるその説法者は、それらのすべての声を聞き分ける。けれども、それら
の声に比例されることはないのだ。
動物たちが、巣穴の中で吠える声や、お互いに語り合う声、それらの種々雑多の
多くの種類の声もまた、その人はこの世にあって聞くのである。
ブラフマー神の世界に住む神々や、アカニシュタ天や、アーバースヴァラ天に住
む神網たちがお互いに話す声、その声のすべてをその人は余すところなく聞くの
である。
この世において、人格を完成された人の教えのもとで出家して、この世で経典の
読誦をなし、また集会において法を説く男性出家者たちの声もまたその人は常に
聞くのである。
この世においてお互いに経典の読誦をなす菩薩たち、また諸々の法の中において
一緒に唱えることをなす菩薩たちの種々の声をその人は聞くのである。
調練されるべき人を調御する人(調御丈夫)であり、また世に尊敬されるべ
き人であるブッダが諸々の集会において説かれる最高の法もまた、この経を受持
する菩薩は一時に聞くのである。
この三千(1000³)の国土において、下は大阿鼻地獄に境界を接し、上は世界の
最上部である有頂天まで、その内外で、多くの声を発するすべての衆生、
それらのすべての衆生の声を、その人は聞き分けるのだ。けれども、この人の耳
は妨げられることはない。その人の明瞭な聴覚の能力は、それらの声のそれぞれ
の状態を知る。その人の聴覚の能力は、それでも生まれつきの自然の状態のもの
なのだ。
これまで、その人は、神通を得た耳を獲得するために努力をなすことはなく、そ
の耳は生まれつきの自然の状態のままである。実にこの経を受持する畏れなき人
には、以上のような功徳が生じるのだ。
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られない苦しみによって苛まれている餓鬼たちは、まさに同様にその恐ろしい
声を発する。
また、大地の真ん中に住しているアスラたちは、種々の怒号を発する。まさにこ
の世にいるその説法者は、それらのすべての声を聞き分ける。けれども、それら
の声に比例されることはないのだ。
動物たちが、巣穴の中で吠える声や、お互いに語り合う声、それらの種々雑多の
多くの種類の声もまた、その人はこの世にあって聞くのである。
ブラフマー神の世界に住む神々や、アカニシュタ天や、アーバースヴァラ天に住
む神網たちがお互いに話す声、その声のすべてをその人は余すところなく聞くの
である。
この世において、人格を完成された人の教えのもとで出家して、この世で経典の
読誦をなし、また集会において法を説く男性出家者たちの声もまたその人は常に
聞くのである。
この世においてお互いに経典の読誦をなす菩薩たち、また諸々の法の中において
一緒に唱えることをなす菩薩たちの種々の声をその人は聞くのである。
調練されるべき人を調御する人(調御丈夫)であり、また世に尊敬されるべ
き人であるブッダが諸々の集会において説かれる最高の法もまた、この経を受持
する菩薩は一時に聞くのである。
この三千(1000³)の国土において、下は大阿鼻地獄に境界を接し、上は世界の
最上部である有頂天まで、その内外で、多くの声を発するすべての衆生、
それらのすべての衆生の声を、その人は聞き分けるのだ。けれども、この人の耳
は妨げられることはない。その人の明瞭な聴覚の能力は、それらの声のそれぞれ
の状態を知る。その人の聴覚の能力は、それでも生まれつきの自然の状態のもの
なのだ。
これまで、その人は、神通を得た耳を獲得するために努力をなすことはなく、そ
の耳は生まれつきの自然の状態のままである。実にこの経を受持する畏れなき人
には、以上のような功徳が生じるのだ。
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その時、世尊は、常精進(絶えることなく常に専念するもの)という偉大な人である菩薩におっしられた。
「誰であれ、良家の息子である人が、この法門を受持し、読誦し、あるいは教示し、あるいは書写するとしよう。その良家の息子、あるいは良家の娘は、800の眼の功徳、1200の耳の功徳、800の鼻の功徳、1200の舌の功徳、800の身体の功徳、1200の意の功徳を得るであろう。
これらの幾百もの多くの功徳によって、その人の眼・耳・鼻・舌・身・意の6つからなる感覚の能力の集まりは、完全に清らかに、極めて清らかになるであろう。
その人は、母と父から生じた生まれつきの通常の肉眼ではあるが、このように完全に清らかになった眼による視覚の能力によって、山や森林をともなった三千大千世界を、内外ともに、下は阿鼻地獄から、上は世界の最上部である有頂天までのそのすべてを見るであろう。
また、そこで生まれた衆生のすべてを〔生まれつきの〕通常の肉眼によって見るであろうし、またそれらの衆生の行ないの結果を知るであろう。
「誰であれ、良家の息子である人が、この法門を受持し、読誦し、あるいは教示し、あるいは書写するとしよう。その良家の息子、あるいは良家の娘は、800の眼の功徳、1200の耳の功徳、800の鼻の功徳、1200の舌の功徳、800の身体の功徳、1200の意の功徳を得るであろう。
これらの幾百もの多くの功徳によって、その人の眼・耳・鼻・舌・身・意の6つからなる感覚の能力の集まりは、完全に清らかに、極めて清らかになるであろう。
その人は、母と父から生じた生まれつきの通常の肉眼ではあるが、このように完全に清らかになった眼による視覚の能力によって、山や森林をともなった三千大千世界を、内外ともに、下は阿鼻地獄から、上は世界の最上部である有頂天までのそのすべてを見るであろう。
また、そこで生まれた衆生のすべてを〔生まれつきの〕通常の肉眼によって見るであろうし、またそれらの衆生の行ないの結果を知るであろう。
その時、世尊は次の詩を述べられた。
「言葉が巧みで、畏れることがなく、集会の中でこの「白蓮華のように最も勝れた正
しい教え」という経を説き示す人の功徳を、あなたは私から聞くがよい。
その人の眼には、あらゆる点で800の功徳が具わっている。その故にこの人の眼は、
無垢で、清らかで、濁りがないのだ。
その人は、母と父から生じたその肉眼によって山や森林をともなったこの世界を見る
のである。
その人は、世界の中心にそびえるメール山、スメール山、そして世界を取り囲むチャ
クラヴァーダ連山のすべてを見るし、他の山々の集まりや、大海をもまた見るのであ
る。
下は阿鼻地獄まで、上は世界の最上部である有頂天までもがあり、それらのすべてを
その勇者は見るのだ。この人の〔母と父から生じた生まれつきの〕肉眼は、このよう
なものである。
この人には、まだ神通を得た眼は具わっておらず、また生じてもいないが、その人の
肉眼で見ることのできる範囲は、このようなものであろう。
「言葉が巧みで、畏れることがなく、集会の中でこの「白蓮華のように最も勝れた正
しい教え」という経を説き示す人の功徳を、あなたは私から聞くがよい。
その人の眼には、あらゆる点で800の功徳が具わっている。その故にこの人の眼は、
無垢で、清らかで、濁りがないのだ。
その人は、母と父から生じたその肉眼によって山や森林をともなったこの世界を見る
のである。
その人は、世界の中心にそびえるメール山、スメール山、そして世界を取り囲むチャ
クラヴァーダ連山のすべてを見るし、他の山々の集まりや、大海をもまた見るのであ
る。
下は阿鼻地獄まで、上は世界の最上部である有頂天までもがあり、それらのすべてを
その勇者は見るのだ。この人の〔母と父から生じた生まれつきの〕肉眼は、このよう
なものである。
この人には、まだ神通を得た眼は具わっておらず、また生じてもいないが、その人の
肉眼で見ることのできる範囲は、このようなものであろう。
さらに、アジタよ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、もしも誰かある人が、他の男に次のように言うとしよう。『おお、友よ、あなたは来るがよい。そして、「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という名前の法門を聞くがよい』と。そのように言われたその男が、その人の勧めに従って、瞬時の間でもこの法門を聞くならば、その法門を聞くことを勧めたその人は、その勧めた行為によって形成された〔善い果報をもたらす〕善根によって、ダーラニーを獲得している菩薩たちと出会うことを得るであろう。
その人は、愚鈍でなく、明敏な能力(利根 )を持ち、智慧を具えていて、その人は、幾100・1000もの生存のうちにも、悪臭を発する口を持つことなく、悪臭を発することもない。その人には、舌の病もなく、口の病も存在しない。その人は、黒ずんだ歯、不揃 いの歯、黄ばんだ歯、形の悪い歯、隙間のある歯、抜け落ちた歯、湾曲した歯を持つことがない。垂れ下がった唇、内側にめり込んだ唇、分厚い唇、裂けた唇、黒い唇、歪んだ唇、黒い唇、醜い唇を持つこともない。その人は、扁平になった鼻、湾曲した鼻を持つこともない。その人は、長い顔、歪んだ顔、黒い顔、醜い顔を持つこともないのだ。
しかるに、アジタよ、その人は繊細で美しい舌や、歯、唇を持ち、高い鼻を持ち、全体的に卓越した顔を持ち、美しい眉 を持ち、大変に広い額 を持っている。また、その人は、完全に満たされた人の特徴を具えているのだ。そして、教化し指導してくれるブッダに会うことを得て、速やかに世尊であるブッダたちと出会うことを得るであろう。
アジタよ、見るがよい。一人の衆生にこの法門を勧めただけでさえも、これほど多くの福徳を生み出すのである。ましてや、恭敬して聞き、恭敬して読誦 し、恭敬 して説き示し、恭敬して説き明かす人については言うまでもないことである」と。
その時、世尊は次の詩を述べられた。
「この法門を順次に連続して語り継いで、その50番目の人が、この経のうちのただ一
つの詩でさえも聞いて、喜んで受け容れ、清らかな心を生ずるならば、その福徳がい
かに大きいものであるかを聞くがよい。
ある人が、幾コーティ・ナユタもの衆生に常に布施をなす人であり、既に私が譬喩で
示した人たちのすべてを80年の間、満足させるとしよう。
それらの人たちに老齢が近づいていることや、皺 があり、足がよろつき、頭が白くな
ったのを見て、その布施をなす人は『ああ、何とまた、あらゆる衆生は実に欺 かれて
いるのだ。だから、私は直ちに、法によって教示しよう』と考えるであろう。
その布施する人は、今、それらの人たちに法を説いて、その後に安らぎの境地を説き
明かすであろう。『あらゆる存在は、水の泡や。陽炎 のようなものである。速やかに
あらゆる存在を厭 うべできである』と。
それらのすべての衆生は、まさにその布施をなす人のもとで、法を聞いて、同時に汚
れを滅し、阿羅漢となり、〔輪廻における〕最後の身体を持つものとなるであろう。
中断なく連続して語り継がれたこの法門のうちの一つの詩を聞き、喜んで受け容れる
としよう。実にその人は、その布施をなす人よりもずっと多くの福徳があるであろう。
先の布施をなす人の福徳の集まりがどれほど多くても、その50番目の人の福徳のわず
かな部分にも及ぶことはないである。
その人は、愚鈍でなく、明敏な能力(利根 )を持ち、智慧を具えていて、その人は、幾100・1000もの生存のうちにも、悪臭を発する口を持つことなく、悪臭を発することもない。その人には、舌の病もなく、口の病も存在しない。その人は、黒ずんだ歯、不揃 いの歯、黄ばんだ歯、形の悪い歯、隙間のある歯、抜け落ちた歯、湾曲した歯を持つことがない。垂れ下がった唇、内側にめり込んだ唇、分厚い唇、裂けた唇、黒い唇、歪んだ唇、黒い唇、醜い唇を持つこともない。その人は、扁平になった鼻、湾曲した鼻を持つこともない。その人は、長い顔、歪んだ顔、黒い顔、醜い顔を持つこともないのだ。
しかるに、アジタよ、その人は繊細で美しい舌や、歯、唇を持ち、高い鼻を持ち、全体的に卓越した顔を持ち、美しい眉 を持ち、大変に広い額 を持っている。また、その人は、完全に満たされた人の特徴を具えているのだ。そして、教化し指導してくれるブッダに会うことを得て、速やかに世尊であるブッダたちと出会うことを得るであろう。
アジタよ、見るがよい。一人の衆生にこの法門を勧めただけでさえも、これほど多くの福徳を生み出すのである。ましてや、恭敬して聞き、恭敬して読誦 し、恭敬 して説き示し、恭敬して説き明かす人については言うまでもないことである」と。
その時、世尊は次の詩を述べられた。
「この法門を順次に連続して語り継いで、その50番目の人が、この経のうちのただ一
つの詩でさえも聞いて、喜んで受け容れ、清らかな心を生ずるならば、その福徳がい
かに大きいものであるかを聞くがよい。
ある人が、幾コーティ・ナユタもの衆生に常に布施をなす人であり、既に私が譬喩で
示した人たちのすべてを80年の間、満足させるとしよう。
それらの人たちに老齢が近づいていることや、皺 があり、足がよろつき、頭が白くな
ったのを見て、その布施をなす人は『ああ、何とまた、あらゆる衆生は実に欺 かれて
いるのだ。だから、私は直ちに、法によって教示しよう』と考えるであろう。
その布施する人は、今、それらの人たちに法を説いて、その後に安らぎの境地を説き
明かすであろう。『あらゆる存在は、水の泡や。陽炎 のようなものである。速やかに
あらゆる存在を厭 うべできである』と。
それらのすべての衆生は、まさにその布施をなす人のもとで、法を聞いて、同時に汚
れを滅し、阿羅漢となり、〔輪廻における〕最後の身体を持つものとなるであろう。
中断なく連続して語り継がれたこの法門のうちの一つの詩を聞き、喜んで受け容れる
としよう。実にその人は、その布施をなす人よりもずっと多くの福徳があるであろう。
先の布施をなす人の福徳の集まりがどれほど多くても、その50番目の人の福徳のわず
かな部分にも及ぶことはないである。
中断なく連続して語り継がれた法門の中の一つの詩でさえも聞いて後、その人には、
このように、その量を計ることもできない限りない多くの福徳があるであろう。まし
てや、私の面前で聞く人は、なおさらである。
そこで、また一人の衆生にでさえも、『行って、法を聞くがよい、実にこの経は、幾
コーティ・ナユタもの多くの劫を経ても極めて得難いものである』と語り、勧める人、
その人から、さらにまたこの経を聞くことを勧められたその衆生が、この経を瞬時で
さえも聞くとして、あなたは、この経を聞くことを勧められたその人の行ないの果報
についてもまた聞くがよい。その人には、いついかなる時も決して口の病気はないの
だ。
その人の舌もまた、いかなる時にも決して痛むことはなく、その人の歯は、抜け落ち
ることも、黒くなることも、黄色くなることも、不揃いになることも決してない。醜
い唇を持つことも決してないのだ。
顔は、決して歪んでいたり、やつれていたり、長かったりすることはなく、その人に
は、いかなる時にも決して扁平した顔があることはない、鼻や、同様に額も、歯も、
唇も、顔全体が端正に整っているのだ。
だから、その人は、常に人々に対して好まれる容貌を持つのである。しかも、いつい
かなる時も決して口が悪臭を放つことはなく、その人の口には、この世における青睡
蓮 の芳香のように、常に香りが漂 っているのである。
意志堅固な人が、この「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という経を聞くため
に家から出て、精舎に行くとしよう。そこに行って、その人が瞬時でもこの経を聞く
としよう。その清らかな心を持つ人の果報を聞くがよい。
その人の身体は、大変に輝いていて、その意志堅固な人は、馬の車によって巡歴し、
また、宝石で造られた高大な象の車に乗って、経巡り行くであろう。
その人は、この世において荘厳され、多くの人たちに牽 かれる輿 を得るであろう。法
を聞くために精舎に行くだけでも、その人にはこのように立派な果報が生ずるのであ
る。
その人は、その集会の中に坐って、その人のなした清らかな行ないによって、その人
は、シャクラ神(帝釈天)の座席、ブラフマー神(梵天)の座席、転輪王の座席を獲
得したものとなるであろう」
このように、その量を計ることもできない限りない多くの福徳があるであろう。まし
てや、私の面前で聞く人は、なおさらである。
そこで、また一人の衆生にでさえも、『行って、法を聞くがよい、実にこの経は、幾
コーティ・ナユタもの多くの劫を経ても極めて得難いものである』と語り、勧める人、
その人から、さらにまたこの経を聞くことを勧められたその衆生が、この経を瞬時で
さえも聞くとして、あなたは、この経を聞くことを勧められたその人の行ないの果報
についてもまた聞くがよい。その人には、いついかなる時も決して口の病気はないの
だ。
その人の舌もまた、いかなる時にも決して痛むことはなく、その人の歯は、抜け落ち
ることも、黒くなることも、黄色くなることも、不揃いになることも決してない。醜
い唇を持つことも決してないのだ。
顔は、決して歪んでいたり、やつれていたり、長かったりすることはなく、その人に
は、いかなる時にも決して扁平した顔があることはない、鼻や、同様に額も、歯も、
唇も、顔全体が端正に整っているのだ。
だから、その人は、常に人々に対して好まれる容貌を持つのである。しかも、いつい
かなる時も決して口が悪臭を放つことはなく、その人の口には、この世における青睡
蓮 の芳香のように、常に香りが漂 っているのである。
意志堅固な人が、この「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という経を聞くため
に家から出て、精舎に行くとしよう。そこに行って、その人が瞬時でもこの経を聞く
としよう。その清らかな心を持つ人の果報を聞くがよい。
その人の身体は、大変に輝いていて、その意志堅固な人は、馬の車によって巡歴し、
また、宝石で造られた高大な象の車に乗って、経巡り行くであろう。
その人は、この世において荘厳され、多くの人たちに牽 かれる輿 を得るであろう。法
を聞くために精舎に行くだけでも、その人にはこのように立派な果報が生ずるのであ
る。
その人は、その集会の中に坐って、その人のなした清らかな行ないによって、その人
は、シャクラ神(帝釈天)の座席、ブラフマー神(梵天)の座席、転輪王の座席を獲
得したものとなるであろう」
以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「喜んで受け容れることの福徳の表明の章」という名前の第17章である。
(随喜功徳品第18おわり)
(随喜功徳品第18おわり)
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その時、まさに誰かある人が現われて、衆生の福徳を願い、また衆生の幸福を願って、その多数の衆生が願い求めている楽しくて、心にかなったあらゆる快楽、遊び、喜び、享楽を与えるとしよう。その快楽、遊び、享楽のために、一人ひとりの衆生にジャンブー州(閻浮提 ・仏教の世界観で人間が住む大陸)に満々として、金貨、黄金、銀、宝石、真珠、瑠璃 、螺貝 、碧玉 、珊瑚 を与え、また馬の車、牛の車、象の車、そして宮殿や、楼閣を与えた。
アジタよ、このようにして、施主であり、大施主であるその人は、まうまる80年にわたって施物を与えた。そこで、アジタよ、施主であり、大施主であるその人は、次のように考えた。
『私は、実にこれらのすべての衆生を喜ばせ、楽しませ、安楽に生活させた。しかしながら、あなたたちよ、これらの衆生は、皺 がより、白髪頭となり、生まれて80歳の年をとった高齢の老人である。しかも、これらの人たちは死に近づいている。そういうわけで、私は今、これらの人たちをブッダによって解かれた法(真理の教え)と律(出家者の守るべき規則)に悟入させ、導こう』と。
そこで、アジタよ、その人は、それらのすべての衆生を教化し、教化して後に、ブッダによって解かれた法と律に悟入させ、理解させるとしよう。
それらの衆生、その人からその法を聞いた。聞いて後に、一刹那 、一瞬時、一瞬間にして、すべての衆生は、「聖者としての流れに入ったもの」、「天界から人間界にもう一度だけ還って来て覚りを得るもの」、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」となり、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」の果を得て、煩悩を滅し、禅定に専念し、大いに禅定に励み、8種類の解脱によって禅定を行する阿羅漢 にまでなるであろう。
ところで、アジタよ、あなたは、このことをどう考えるか?施主であり、大施主であるその人は、その理由によって、無量で数えることもできない多くの福徳を生みだすであろうか?
世尊からこのように言われて、偉大な人である弥勒菩薩は、世尊に次のように申し上げた。
「世尊よ、これはその通りです。人格を完成された人よ、これはその通りです。世尊よ、まず第一に、安楽をもたらすあらゆるものをそれほど多くの衆生に与える施主で、大施主であるその人は、まさにその理由によって、多くの福徳を生み出すでありましょう。ましてや、それらの衆生を阿羅漢の位に立たせる人が多くの福徳を生み出すということは、言うまでもないことであります」
弥勒菩薩からこのように言われて、世尊は、偉大な人であるアジタ菩薩に次のようにおっしゃられた。
「アジタよ、私は、あなたに告げ、知らせよう。施主であり、大施主であるその人が、すべての衆生に安楽をもたらすあらゆるものによって、400・1000・阿僧祇 もの世界を満たし、すべての衆生を阿羅漢の位に立たせ、福徳を生み出すとしよう。一方、この法門を連続して順次に聞いて達した50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも耳で聞いて、喜ぶとしよう。
〔後者の〕この50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも聞いて喜んで受け容れることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容と、〔前者の〕施主であり、大施主であるその人が、布施することに伴い、阿羅漢の位に立たせることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容とでは、〔後者である〕その中断なく連続して語り継がれたこの50番目の場合のほうが、その〔前者の〕場合よりもずっと内容が富んでいるのである。
アジタよ、このようにして、施主であり、大施主であるその人は、まうまる80年にわたって施物を与えた。そこで、アジタよ、施主であり、大施主であるその人は、次のように考えた。
『私は、実にこれらのすべての衆生を喜ばせ、楽しませ、安楽に生活させた。しかしながら、あなたたちよ、これらの衆生は、皺 がより、白髪頭となり、生まれて80歳の年をとった高齢の老人である。しかも、これらの人たちは死に近づいている。そういうわけで、私は今、これらの人たちをブッダによって解かれた法(真理の教え)と律(出家者の守るべき規則)に悟入させ、導こう』と。
そこで、アジタよ、その人は、それらのすべての衆生を教化し、教化して後に、ブッダによって解かれた法と律に悟入させ、理解させるとしよう。
それらの衆生、その人からその法を聞いた。聞いて後に、一刹那 、一瞬時、一瞬間にして、すべての衆生は、「聖者としての流れに入ったもの」、「天界から人間界にもう一度だけ還って来て覚りを得るもの」、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」となり、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」の果を得て、煩悩を滅し、禅定に専念し、大いに禅定に励み、8種類の解脱によって禅定を行する阿羅漢 にまでなるであろう。
ところで、アジタよ、あなたは、このことをどう考えるか?施主であり、大施主であるその人は、その理由によって、無量で数えることもできない多くの福徳を生みだすであろうか?
世尊からこのように言われて、偉大な人である弥勒菩薩は、世尊に次のように申し上げた。
「世尊よ、これはその通りです。人格を完成された人よ、これはその通りです。世尊よ、まず第一に、安楽をもたらすあらゆるものをそれほど多くの衆生に与える施主で、大施主であるその人は、まさにその理由によって、多くの福徳を生み出すでありましょう。ましてや、それらの衆生を阿羅漢の位に立たせる人が多くの福徳を生み出すということは、言うまでもないことであります」
弥勒菩薩からこのように言われて、世尊は、偉大な人であるアジタ菩薩に次のようにおっしゃられた。
「アジタよ、私は、あなたに告げ、知らせよう。施主であり、大施主であるその人が、すべての衆生に安楽をもたらすあらゆるものによって、400・1000・阿僧祇 もの世界を満たし、すべての衆生を阿羅漢の位に立たせ、福徳を生み出すとしよう。一方、この法門を連続して順次に聞いて達した50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも耳で聞いて、喜ぶとしよう。
〔後者の〕この50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも聞いて喜んで受け容れることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容と、〔前者の〕施主であり、大施主であるその人が、布施することに伴い、阿羅漢の位に立たせることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容とでは、〔後者である〕その中断なく連続して語り継がれたこの50番目の場合のほうが、その〔前者の〕場合よりもずっと内容が富んでいるのである。
アジタよ、この法門から一つの詩でも、一つの句でも喜んで受け容れることに伴って生じるこの福徳、および善い果報をもたらす善根に比べれば、先ほどの布施することや、阿羅漢の位に立たせることに伴って生じる福徳は、その100分の1にも及ばないし、1000分の1にも、100・1000分の1にも、1・コーティ分の1にも、100・コーティ分の1にも及ぶことはない。その差は、数えることも、考えることも、計算することも、譬えることも、近づくこともできないのだ。
アジタよ、この法門を連続して順次に聞いてちょうど50番目のその人もまた、この法門からただ一つの詩でさえも、一つの句でさえも聞いて、喜んで受け容れるならば、このように、無量で数えることもできない福徳を生み出すであろう。アジタよ、ましてや、私の面前で、この法門を聞き、聞いた後に喜んで受け容れる人は、言うまでもないことである。アジタよ、その人のその福徳の生成は、さらに無量であり、さらに数えることもできないのであると、私は言おう。
さらに、アジタよ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門を聞くことを目的として、自分の家を出て、精舎に行く人が、そこへ行って、立ったままか、坐ったままで、この法門を瞬時でも聞くとしよう。その人は、それだけ多くの福徳を生じて蓄積し、現在の生存を終え、生まれ変わって、第二の人生で第二の自己の身体を獲得する際に、牛の車を獲得したものとなろう。また馬の車、象の車、輿 、牝牛 の車、牡牛 の車、神々の天上の乗り物を獲得したものとなるであろう。
さらに、もしも、法を聞くその場において、瞬時の間でも坐ってこの法門を聞いたり、あるいは他者を坐らせたり、あるいは他の衆生のために座席を譲り与えることをなすならば、その人は、その福徳の生成によってシャクラ神(帝釈天)の座席、ブラフマー神(梵天)の座席、転輪王の獅子座を獲得したものとなるであろう。(つづく)
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その時、偉大な人である弥勒菩薩は、世尊に次のように申し上げた。
「世尊よ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門が説き示されるのを聞いて、喜んで受け容れるならば、その良家の息子、あるいは良家の娘は、どれほどの福徳を生みだすでしょうか?」と。
その時、偉大な人である弥勒菩薩は、次の一つの詩を述べた。
「偉大なる勇者が完全なる滅度に入られた後、このような経を聞き、聞いて後に、喜
んで受け容れる人には、どれほどの善いことが生ずるでありましょうか?」
すると、世尊は、偉大な人である弥勒菩薩に次のように告げられた。
「アジタ(弥勒)よ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、誰であっても、ブッダの私が完全なる滅度に入った後に、この法門が説き示され、解説 されているのを聞くとしよう。男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、学識ある人であれ、少年であれ、少女であれ、この法門を聞いて後に、喜んで受け容れるであろう。
もしも、その人が、その法を聴聞した席から立ち上がり、出て立ったとしても、精舎にいても、あるいは家にいても、荒野にいても、街道にいても、村にいても、地方にいても、聴聞したそれらの理由や因縁、その法を、聞いた通りに、受け止めた通りに、能力に応じて他の衆生に語るとしよう。母であれ、父であれ、親戚縁者であれ、親友であれ、親密な人であれ、他の誰かに語るとする。この法門が語られるのを聞いて、その人もまた喜び、その法門を喜んで受け容れて後に、さらにまた他の人に語るとしよう。
「世尊よ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門が説き示されるのを聞いて、喜んで受け容れるならば、その良家の息子、あるいは良家の娘は、どれほどの福徳を生みだすでしょうか?」と。
その時、偉大な人である弥勒菩薩は、次の一つの詩を述べた。
「偉大なる勇者が完全なる滅度に入られた後、このような経を聞き、聞いて後に、喜
んで受け容れる人には、どれほどの善いことが生ずるでありましょうか?」
すると、世尊は、偉大な人である弥勒菩薩に次のように告げられた。
「アジタ(弥勒)よ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、誰であっても、ブッダの私が完全なる滅度に入った後に、この法門が説き示され、解説 されているのを聞くとしよう。男性出家者であれ、女性出家者であれ、男性在家信者であれ、女性在家信者であれ、学識ある人であれ、少年であれ、少女であれ、この法門を聞いて後に、喜んで受け容れるであろう。
もしも、その人が、その法を聴聞した席から立ち上がり、出て立ったとしても、精舎にいても、あるいは家にいても、荒野にいても、街道にいても、村にいても、地方にいても、聴聞したそれらの理由や因縁、その法を、聞いた通りに、受け止めた通りに、能力に応じて他の衆生に語るとしよう。母であれ、父であれ、親戚縁者であれ、親友であれ、親密な人であれ、他の誰かに語るとする。この法門が語られるのを聞いて、その人もまた喜び、その法門を喜んで受け容れて後に、さらにまた他の人に語るとしよう。
もしも、この法門を聞いて、次のその人もまた喜び、その法門を喜んで受け容れて後に、その人もまた他の人に語るとしよう。その法門を聞いて、他のその人もまた、喜ぶとしよう。以上、このようにして、50人に至るまで中断なく連続して、この法門が語り継がれるとしよう。その場合、実にアジタよ、この50番目の人も、連続して順次に聞いて喜んで受け容れるとしよう。
アジタよ、私はまず第一に、その良家の息子、あるいは良家の娘が、この法門を喜んで受け容れることに伴っている福徳の生成について説き示そう。あなたは、それを正しく聞くがよい、そして、心の中でよく考えなさい。私はあなたに語ろう。
アジタよ、それは、あたかも、400・1000・阿僧祇 (1056)もの世界において生存し、6種の生存領域の中に生まれた衆生ーすなわち卵から生まれたもの、あるいは母胎から生まれたもの、あるいは湿ったところから生まれたもの、あるいは両親なしに自然発生したもの、あるいは形を持つもの、あるいは形を持たないもの、あるいは意識を持つもの、あるいは意識を持たないもの、あるいは意識を持つものでないもの、あるいは意識を持たないものでないもの、あるいは足を持たないもの、あるいは2本足を持つもの、あるいは4本足を持つもの、あるいは多くの足を持つものに至るまで、それらの衆生が、一堂に集合して衆生の世界にやって来るようなものである。(つづく)
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ましてや、アジタよ、この法門を受持しつつ、布施によって修行を完成したり、戒律、あるいは忍耐、努力精進、禅定、智慧によって修行を完成しようとするその良家の息子、あるいは良家の娘が、さらに多くの無量で、数えることもできない無限のブッダの知へと導くべき福徳を生ずることは言うまでもないのだ。
アジタよ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門を受持するか、読誦するか、説き示すか、書写するか、書写させるかする人は、あたかも虚空界が、東・南・西・北・下・上の方角と、〔南東、南西、北東、北西の4つの〕方位において無限であるように、無量で数えることもできないブッダの知へと導くべき福徳を生じるであろう。
また、その人は、ブッダのチャイティヤ(塔廟)の恭敬に専念し、ブッダの弟子である声聞たちの称讃の言葉を語り、偉大な人である菩薩たちの幾100・1000・コーティ・ナユタもの徳性を讃嘆し、そして他の人々のために解説するであろう。そして、忍耐によって修行を完成し、戒律を持 ち、善良な性格で、快く共に暮らすものとなろう。また、耐え忍び、感情を抑制しているものとなり、また、不機嫌であることなく、怒るという心の働きがなく、錯乱した心の働きのないものとなるであろう。また、意識をしっかりとし、気力に満ち、努力精進に努めるものとなり、常に修行に専念するものとなるであろう。ブッダの法を探求することで禅定に励み、独居して沈思黙考することを尊重し、沈思黙考することに旺盛なものとなるであろう。また、質問を分析するのに巧みで、幾100・1000・コーティ・ナユタもの質問に答える人となるであろう。
アジタよ、ブッダの私が、完全なる滅度に入った後、誰であれ、この法門を受持する偉大な人である菩薩たちには、私が説いたこのような徳性が具わるであろう。アジタよ、その良家の息子、あるいは良家の娘は、次のように知られるべきである。この良家の息子、あるいは良家の娘は、覚りの座へと出て立ったのであり、覚りを覚るために菩提樹の根もとに赴いているのである。
また、アジタよ、その良家の息子、あるいは良家の娘が、立ったり、坐ったり、そぞろ歩きするところには、アジタよ、ブッダのためにチャイティヤが造られるべきである。そして、それは、神々に伴われた世間の人々によって、『これは、ブッダのストゥーパである』と言われるべきである。
アジタよ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門を受持するか、読誦するか、説き示すか、書写するか、書写させるかする人は、あたかも虚空界が、東・南・西・北・下・上の方角と、〔南東、南西、北東、北西の4つの〕方位において無限であるように、無量で数えることもできないブッダの知へと導くべき福徳を生じるであろう。
また、その人は、ブッダのチャイティヤ(塔廟)の恭敬に専念し、ブッダの弟子である声聞たちの称讃の言葉を語り、偉大な人である菩薩たちの幾100・1000・コーティ・ナユタもの徳性を讃嘆し、そして他の人々のために解説するであろう。そして、忍耐によって修行を完成し、戒律を持 ち、善良な性格で、快く共に暮らすものとなろう。また、耐え忍び、感情を抑制しているものとなり、また、不機嫌であることなく、怒るという心の働きがなく、錯乱した心の働きのないものとなるであろう。また、意識をしっかりとし、気力に満ち、努力精進に努めるものとなり、常に修行に専念するものとなるであろう。ブッダの法を探求することで禅定に励み、独居して沈思黙考することを尊重し、沈思黙考することに旺盛なものとなるであろう。また、質問を分析するのに巧みで、幾100・1000・コーティ・ナユタもの質問に答える人となるであろう。
アジタよ、ブッダの私が、完全なる滅度に入った後、誰であれ、この法門を受持する偉大な人である菩薩たちには、私が説いたこのような徳性が具わるであろう。アジタよ、その良家の息子、あるいは良家の娘は、次のように知られるべきである。この良家の息子、あるいは良家の娘は、覚りの座へと出て立ったのであり、覚りを覚るために菩提樹の根もとに赴いているのである。
また、アジタよ、その良家の息子、あるいは良家の娘が、立ったり、坐ったり、そぞろ歩きするところには、アジタよ、ブッダのためにチャイティヤが造られるべきである。そして、それは、神々に伴われた世間の人々によって、『これは、ブッダのストゥーパである』と言われるべきである。
チャイティヤ窟(インド・アジャンター)
その時、世尊は、次の詩を述べられた。
「人間の指導者が、完全なる滅度に入った後、この経を受持する人の福徳の集まりが
無限であることを、私は繰り返して説いた。
その人は、私に供養をなしたのであり、宝石でできた、色とりどりの、見るも美しい、
非常に立派な遺骨を安置するストゥーパを造らせたことになるのである。
そのストゥーパは、ブラフマー神の世界に等しい高さで、日傘の列が並び、広大で、光
輝に満ち、勝利の旗が掲げられている。
また、冴 えわたった鈴の音が鳴り響き、細長い布片や紐 で飾られている。同様に、勝利
者の遺骨を安置するストゥーパの上では、鈴が風に揺れ、きらきらと輝いている。
また、花や、薫香、塗香によって、また楽器や、衣服、また太鼓によって、それらのス
トゥーパに繰り返して広大な供養がなされるのだ。
それらの遺骨を安置するストゥーパのところで、甘美な音色の楽器が演奏され、香油
の燈明が、それらのストゥーパのためにあまねく施されるのだ。
正しい教えの滅亡の時に、この経を受持し、説き示す人は、私のためにこのような種
々の無限の供養をなしたことになるのだ。
その人は、栴檀で造られた幾コーティもの多くの最上の精舎もまた造ったことになる
のである。それぞれの精舎には、高さが8層からなる32の高楼があり、
寝台や座具を具え、噛んで食べる堅い食べ物や、噛まなくてもよい軟らかい食べ物が
用意され、卓越した羊毛布が敷かれ、幾千もの房舎が設置されているのだ。
また、その人は、花園で飾られた園林や、そぞろ歩きの場所、さらにはたくさんの色
・形によって飾られた多くの卓越したものを布施したことになるのである。
指導者が、完全なる滅度に入った後、この経を受持する人は、私の面前で声聞の集団
に対して種々の供養をなしたことになるのである。
この経を読誦したり、書写したりする人は、先の信順の志がしっかりしている人より
も実のさらに多くの福徳を得るであろう。
極めて明白に説かれた法を、写本に書写させ、その写本を薫香、花環、塗香によって
供養する人、
また、香油の燈明を常に掲げ、ジャーティ樹や、青睡蓮、アティムクタ樹の花や、チ
ャンパカの花を山のように積んで満たす人、
諸々の写本にこのような供養をなす人は、量り知ることのできない多くの福徳を生む
であろう。
あたかも、十方の虚空界において、その大きさが把握されないように、この福徳の集
まりは常にこのように把握されないのだ。
ましてや、耐え忍び、感情を抑制し、心を集中し、戒律を持ち、禅定に励み、独居し
て沈思黙考している人の福徳の集まりについては、言うまでもないことである。
怒ることもなく、悪意もなく、チャイティヤに対する尊敬に専念し、男性出家者たち
に頭を下げ、常に増上慢でなく、怠惰でもなく、
また、智慧があり、意志堅固で、質問されても怒ることなく、生命あるものたちに対
する慈しみの心を持って、適切に説き示す。
誰であれ、以上のようである人、またこの経を受持する人の福徳の集まりには、量り
知ることは見いだされないのだ。
もしも、誰かある人が、この経を受持している以上のような説法者に会うならば、こ
の説法者に対して恭敬をなすべきである。
その人は、その説法者に天上の花を振り撒き、その説法者を天上の衣で覆うべきであ
る。また、その説法者の両足を頭におしいただくことによって敬意を表して、『この
人はブッダである』という思いを生じるべきである。
供養する人、
また、香油の燈明を常に掲げ、ジャーティ樹や、青睡蓮、アティムクタ樹の花や、チ
ャンパカの花を山のように積んで満たす人、
諸々の写本にこのような供養をなす人は、量り知ることのできない多くの福徳を生む
であろう。
あたかも、十方の虚空界において、その大きさが把握されないように、この福徳の集
まりは常にこのように把握されないのだ。
ましてや、耐え忍び、感情を抑制し、心を集中し、戒律を持ち、禅定に励み、独居し
て沈思黙考している人の福徳の集まりについては、言うまでもないことである。
怒ることもなく、悪意もなく、チャイティヤに対する尊敬に専念し、男性出家者たち
に頭を下げ、常に増上慢でなく、怠惰でもなく、
また、智慧があり、意志堅固で、質問されても怒ることなく、生命あるものたちに対
する慈しみの心を持って、適切に説き示す。
誰であれ、以上のようである人、またこの経を受持する人の福徳の集まりには、量り
知ることは見いだされないのだ。
もしも、誰かある人が、この経を受持している以上のような説法者に会うならば、こ
の説法者に対して恭敬をなすべきである。
その人は、その説法者に天上の花を振り撒き、その説法者を天上の衣で覆うべきであ
る。また、その説法者の両足を頭におしいただくことによって敬意を表して、『この
人はブッダである』という思いを生じるべきである。
菩提樹(インド・ブダガヤ)
そして、その人は、その説法者を見て、その時、考えるべきである。『この人は、菩
提樹の根もとに行き、神々に伴われた世間の人々の幸福のために、この上なくめでた
い覚りを覚られるであろ』と。
また、どこであれ、そのようなその賢人が、経の中から一つの詩でさえも語りながら
そぞろ歩きする所、あるいは意志堅固なものが、立ったり、坐ったり、あるいは、寝
台を設置したりする所、
そこには、人間の中で最上の人のための輝かしく極めて美しいチャイティヤを造らせ
るべきであり、そこにおいて、指導者で世尊であるブッダのために、輝かしい供養を
なすべきである。
そのブッダの息子である菩薩が住している所、その場所を私は享受し、そこで私は自
ら進んでそぞろ歩きし、そこに私は坐るであろう。
提樹の根もとに行き、神々に伴われた世間の人々の幸福のために、この上なくめでた
い覚りを覚られるであろ』と。
また、どこであれ、そのようなその賢人が、経の中から一つの詩でさえも語りながら
そぞろ歩きする所、あるいは意志堅固なものが、立ったり、坐ったり、あるいは、寝
台を設置したりする所、
そこには、人間の中で最上の人のための輝かしく極めて美しいチャイティヤを造らせ
るべきであり、そこにおいて、指導者で世尊であるブッダのために、輝かしい供養を
なすべきである。
そのブッダの息子である菩薩が住している所、その場所を私は享受し、そこで私は自
ら進んでそぞろ歩きし、そこに私は坐るであろう。
以上が、聖なる「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」という法門の中の「福徳の分別の章」という名前の第16章である。 (分別功徳品第17おわり)
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