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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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仏のはからい 妙心尼御前御返事①

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

妙心尼御前御返事みょうしんあまごぜんごへんじ

建治元年(1275)8月16日(弘安元年の説もある)、54歳、於身延、和文

 夫の病気を心配する妻に宛てたもの。法華経への背信が最も重い病であると述べ、病身の夫が仏のはからいによって信ずる心を起こした点を示している。

 あわしかき(泡消柿)二籠ふたかご、なすび(茄子)一こ、給ひ候ひ了んぬ。

 入道殿の御所労の事。

 唐土に黄帝こうてい扁鵲へんじゃくと申せしくすし(医師)あり、天竺てんじく持水じすい耆婆ぎば

と申せしくすしあり。これらはその世のたから、末代のくすしの師な

り。
仏と申せし人はこれにはにるべくもなきいみじきくすしなり。この

仏不死の薬をとかせ給へり。今の妙法蓮華経の五字これなり。しかもこ

の五字をば「〔閻浮提えんぶだい人の病の良薬〕」とこそとかれて候へ。入道殿は

閻浮提の内日本国の人なり。しかも身に病をうけられて候ふ。「病の良

薬」の経文顕然なり。

 そのうえ蓮華経は第一の薬なり。はるり(波瑠璃)王と申せし悪王、仏

のしたしき女人五百余人を殺して候ひしに、仏、阿難あなん雪山せっせんにつかはし

青蓮華しょうれんげをとりよせて身にふれさせ給ひしかば、よみがへりて七日あ

りて
とう利天りてんに生まれにき。蓮華と申す花はかかるいみじき徳ある花にて

候へば、仏、妙法にたとへ給へり。

 また人の死ぬる事はやまひにはよらず。当時のゆき(壱岐)・つきま

(対馬)のものどもは病なけれども、みなみなむこ(蒙古)びとに一時に

うちころされぬ。病あれば死ぬべしといふ事不定なり。

 またこのやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経じょうみょうきょう・涅槃経ねはんぎょう

には病ある人仏になるべきよしとかれて候ふ。病によりて道心はをこり

候ふか。

 また一切の病の中には五逆罪と、一闡提いっせんだいと、謗法ほうぼうをこそおもき病と

は仏はいたませ給へ。今の日本国の人は一人もなく極大重病あり、いわ

ゆる大謗法の重病なり。今の禅宗・念仏宗・律宗・真言師なり。これら

はあまりに病おもきゆへに、我身にもをぼへず人もしらぬ病なり。この

病のこうずるゆへに、四海のつわもの(箇兵)ただいま来たりなば、王

臣万民みなしづみなん。これをいきてみ候はんまなこ(眼)こそあさま

しく候へ。

【現代語訳】

病の良薬

 泡消柿 あわしがき2籠、茄子 なすび1籠をお送りいただきました。御礼申し上げます。

 ご夫君がご病気とのこと、ご心配ですね。

 中国に黄帝※1※ 2鵲という医師がいました。またインドには持水・※ 3婆という医師がい

ました。この人々は、当時の世の宝であり、後の時代の医師たちの師表と仰がれる名医

です。ところが、仏は、彼らとは比べものにならないほどすぐれた大名医なのです。な

ぜなら仏は、不老不死の良薬ろうやくを説き遺されたからです。その良薬というのは、私たちの

目の前にある妙法蓮華経の5字のことです。そして仏は、ご自身で、この五字は「※ 4

提の人の病気に効く良薬である」と明言なさっていらっしゃるのです。ご夫君は、閻浮

提の一角を占める日本国の人です。しかも病気にかかっていらっしゃる。したがって、

仏の「閻浮提の人の病気に効く良薬」という言葉がぴったりと当てはまることになりま

す。

 そのうえ、蓮華経というお経の名になっている蓮華は、良薬中の第一の良薬です。

インドの※ 5
瑠璃王という悪王は仏の身近な女性たち500人あまりを殺しましたが、

仏が弟子の※ 6
難を雪山に遣わして青蓮華をとりよせ、女性たちの身に触れさせなさった

ところ、彼女たちは蘇生し、7日後には
 忉利天に往生したのでした。蓮華という花は、

このようにすばらしい功徳のある花ですから、仏はそれを妙法にたとえられたのです。

謗法の重病

 また、人が死ぬのは病気に限ったことではありません。最近の壱岐いき対馬つしまの人々は、

病気はなかったのに、みんなみんな蒙古人のためにたちまちに打ち殺されてしまいまし

た。このように、病気があるからそれで死ぬということでもありません。

 ところでご夫君のこのたびのご病気は仏のおはからいによるものかも知れませんよ。

なぜなら、※ 7名経や※ 8
槃経には、病気にかかった人こそが仏になれると説かれているか

らです。病気で悩むことによって仏道心が芽生めばえるというわけでしょう。

 また、一切の病気の中で、※ 9逆罪と、仏法を信じないことと(、正法を謗ることを三

大重病として仏は哀れんでいらっしゃいます。今の日本国の人々は一人の例外もなく極

大重病にかかっています。その病気とは、いわゆる大謗法という重病です。今の禅宗・

念仏宗・律宗・真言宗の人々がその患者です。彼らは、あまりに病気が重いので、重病

であることを自覚することができませんし、他人も気づかないでいます。この大謗法の

病気がこうじているので、もし今、外敵が攻めてきたならば、日本国は、王も民もすべて

の人々がみな滅ぼされてしまうでしょう。そういう惨状さんじょうを、生きていて目前にするの

は、まことにつらいことです。(つづく)

【語註】


  ※1 黄帝:
中国古代の伝説上の帝王。五帝の一人。姓は公孫。暴徒蚩尤【しゆう】
            を討ち神農【しんのう】にかわって帝位についた。医薬の創始者ともされる。

 ※2 扁鵲:中国・春秋時代の名医。過去世の持水・流水、釈尊時代の耆婆らとともに
         名医の代表としてあげられる。
 
 ※3 耆婆:釈尊在世中の名医でマガダ国の大臣となった人。父殺しの罪に恐れおのの
           く阿闍世王【あじゃせおう】を釈尊のもとへ行かせて入信させた。 

 ※4 閻浮提:宇宙の中央にそびえる須弥山【しゅみせん】の南方にある大陸であるの
           で南閻浮提ともいい、人間の住む世界。諸仏が出現するのはここだけであるとい
           う。 

 ※5 波瑠璃王:中インド・舎衛城【しゃえいじょう】の主。父の波斯匿王【はしのく
       おう】は釈尊の外護者で、釈迦族から后妃を迎えようとしたが、釈迦族はそれを
           嫌い、いつわって婢女を嫁がせた。それが末利夫人(まりぶにん)で、その子が
           波瑠璃王である。のちに真相を知った波瑠璃王は釈迦族を殺したり父王に迫害を
           加えたりした。

 ※6 阿難:
中インド・カピラ城の斛飯王【こくぼんのう】の子で釈尊の従弟にあたる
         (異説あり)。出家して釈尊の十大弟子の一人に数えられ、多聞第一とされる。

 ※7 浄名経:維摩経【ゆいまきょう】に同じ。浄名居士(維摩居士が、釈尊から遣わ
          された文殊師利菩薩との問答を通して、万法は不二であり一切は空であると説く
          経典。
 
 ※8 涅槃経:大般涅槃経の略称。釈尊が8年間かかって法華経を説き終わり、涅槃に
          入る直前の一日一夜にして説かれた最後の説法であるとされる。日蓮聖人は涅槃
          経を、法華経を後世に広める役割を担った経典として高く評価し活用している。

 ※9 五逆罪:五つの逆罪重罪)。父を殺す・母を殺す・聖者を殺す・仏の身を傷つけ
           て血を流す・僧団の和合を乱す。無間地獄に落ちる重罪なので五無間業【ごむけ
           んごう】ともいう。

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【 2023/09/30 05:36 】

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亡き父母を供養する子のために 千日尼御返事⑤

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

千日尼御返事⑤

 しかるに故阿仏聖霊は日本国北海の島のえびすのみ(身)なりしかど

も、後生ををそれて出家して後生を願ひしが、流人日蓮にあひて法華経

を持ち、去年の春、仏となりぬ。尸陀山 しだせん野干 やかんは仏法にあひて、生をい

とひ死を願ひて帝釈 たいしゃくと生まれたり。阿仏上人は濁世の身を厭ひて仏に

なり給ひぬ。その子藤九郎守綱はこの跡をつぎて一向、法華経の行者と

なりて、去年は七月二日、父の舎利を頸に懸け、一千里の山海を経て甲

波木井 はきりの身延山に登りて法華経の道場にこれにおさめ、今年はまた七

月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す。子にすぎたるたからなし、子に

すぎたる財なし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

七月二日                      日 蓮 花押

故阿仏房尼御前御返事

追申

 絹染の袈裟一つまいらせ候ふ。

 豊後房に申さるべし。既に法門日本国にひろまりて候ふ。北陸道をば

豊後房なびくべきに学生ならでは叶ふべからず。九月十五日以前にいそ

ぎいそぎまいるべし。

 かずの聖教をば日記のごとくたんば(丹波)房にいそぎいそぎつかわ

すべし。山伏房をばこれより申すにしたがいて、これへはわたすべし。

山伏ふびんにあたられ候ふ事悦び入りて候ふ。

【現代語訳】

 話をご夫君の聖霊のことに戻しますが、故※1仏房殿は、日本国は北海の島のえびすの身分

のものでありましたけれど、死んでから悪道に落ちることを恐れて出家し、念仏して極

楽往生を願っていましたが、流人として御地に赴いた私に会って法華経の信仰を持ち、

去年の春、亡くなって仏になられました。それは、あたかも、※2陀山の狐が、仏法にめ

ぐりあって生をいとい死を願って帝釈天と生まれ変わったようなものです。阿仏上人は濁

った現世の身を厭って仏におなりになったのです。その子の藤九郎守綱は父の遺志を継

いで熱心な法華経の行者となって、去年は7月2日、父の遺骨を首にかけ、一千里の山

を越え海を渡って甲州波木井の身延山に登り、法華経の道場に納骨を済ませ、今年はま

た7月1日、身延山に登って慈父の墓を拝みました。子ほどすばらしい財宝はありませ

ん。子よりも秀れた財宝はありません。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。

七月二日                            
日 連  花押

故阿仏房尼御前御返事

追伸

 絹染の袈裟を一領さしあげます。

 豊後房にお伝えください。「すでに私の説く法門が日本国に広まってきました。北陸

道方面は豊後房が布教しなければならないわけですが、学問のある者でなければ不可能

なことです。九月十五日以前に大急ぎで身延山へいらっしゃい」と。

 数々の聖教を、日記に書いたように丹波房に大急ぎで渡しなさい。山伏房を、私が言

った通りに身延山へよこしなさい。山伏房をあわれんで扱ってくださったことをとても

悦んでいます。

【語註】

 ※1 
阿仏房:阿仏房は俗姓を遠藤為盛といい、承久の乱で佐渡に遷された順徳上皇に
           随従した北面の武士であった。上皇崩御の後、阿仏房夫妻は入道・尼となってこ
           の地に留り、御陵の傍らに庵を結んで上皇の冥福を祈り、念仏する毎日を送っ
           た。文永8年(1271)11月1日、日蓮聖人は塚原の三昧堂に居住し、かくして
           配所の生活が始まったが、このことを聞いた阿仏房は配所を訪れ、宗敵の情を懐
           いて聖人をせめ、かえって論破されて教化に浴した。阿仏房は身延に入山された
           日蓮聖人を追慕し、国府入道と共に文永11年(1274)と建治元年(1275)6月
           と弘安元年(1278)7月の3度までも佐渡から90歳という高齢にも拘らず身延を
     訪れている。

 ※2 尸陀山の野干:尸陀山はインドの毘摩【びま】大国にあった山。野干は狐の一
           種。未曾有経巻上によると、この山に住んでいた野干が師子王に追われて涸かれ
           井戸に落ち、三日を経て餓死する寸前に、万物の無常を嘆き、仏に帰命して罪障
           消滅を願う一偈を説いた。これを聞いた帝釈は諸天を率いて説法を請うたといわ
           れる。

【解説】

 
阿仏房の妻千日尼は、夫の阿仏房と共に日蓮聖人に帰依し、佐渡における聖人の有力

な外護者となっており、その千日尼の法号は、聖人が在島した2年5ヵ月の間、約1000

日間の尼の供養に因んで授けられたものといわれている。

 
阿仏房は弘安2年(1279)3月21日に91歳で寂した。その子藤九郎守(盛)綱は、

その年の7月2日に父の舎利を頸に懸けて日蓮聖人を訪ね、身延の地に遺骨を埋葬し

た。さらに翌年の7月1日に再び身延の父の墓に詣でた。その折、藤九郎に委ねた、母

・千日尼にあてたお手紙である。

 
日蓮はまず阿仏房の魂は「霊鷲山にそびえている多宝塔の中に、東向きに坐って、釈

迦・多宝の二仏と対面している」と、阿部房が成仏しているという確信を伝えている。

阿仏房が成仏できないのなら、「諸仏は地獄に落ちる」と、かなり歌劇な表現までも加

えられている。

 そして、はるばる佐渡から身延の道場に亡き父の供養に来た遺子藤九郎守綱の姿を語

っている。その行為は、三度老体をひっさげて身延の日蓮に詣でた亡父の心ざしを身を

もって継承する法華経孝養の姿として日蓮は褒め称えたのである。それは「安足国王と

馬と父子」の故事にも似ており、さらに母の苦を救った目連や父母の邪見を改めさせた

浄蔵・浄眼二子のありように勝るとも劣らない法華経孝養者の生き方であったからであ

る。

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【 2023/09/28 05:43 】

亡き父母を供養する子のために  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

亡き父母を供養する子のために 千日尼御返事④

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

千日尼御返事せんにちあまごへんじ

 そもそも子はかたきと申す経文もあり。「〔世人、子の為に衆の罪を

造る〕」の文なり。くまたかわしと申すとりはをやは慈悲をもつて養へば子

はかへりて食とす。梟鳥と申すとりは生まれて必ず母をくらう。畜生か

くのごとし。人の中には、はるり王は心もゆかぬ父の位を奪ひ取る。

闍世王じゃせおうは父を殺せり。安禄山あんろくざんは養母をころし、安慶緒あんけいしょと申す人は父の

安禄山を殺す。安慶緒は子史師明ししめいに殺されぬ。史師明は史朝義しちょうぎと申す子

にまたころされぬ。これは敵と申すもことわりなり。善星比丘ぜんしょうびくと申すは

教主釈尊の御子なり。苦得外道

げどう
をかたらいて度々父の仏を殺し奉らんと

す。

 また子は財と申す経文もはんべり。ゆえに経文に云はく「〔その男女

追いて福を修すれば大光明有りて地獄を照らし、その父母に信心を発さ

しむ〕」等と云云。たとひ仏説ならずとも眼の前に見えて候ふ。天竺てんじく

安足国王あんそくこくおうと申せし大王はあまりに馬をこのみてかいしほどに、後には

かいなれて鈍馬を竜馬となすのみならず、牛を馬ともなす。結句は人を

馬となしてのり給ひき。その国の人あまりになげきしかば、知らぬ国の

人を馬となす。他国の商人ゆきたりしかば薬をかいて馬となして御まや

う(吋)につなぎつけぬ。なにとなけれども我が国はこいしき上、妻子

ことにこいしく、しのびがたかりしかども、ゆるす事なかりしかばかへ

る事なし。またかへりたりとも、このすがたにては由なかるべし。ただ

朝夕にはなげきのみしてありし程に、一人ありし子、父のまちどき(待

時)すぎしかば、「人にや殺されたるらむ。また病にや沈むらむ。子の

身としていかでか父をたづねざるべき」といでたちければ、母なげくら

く、「男も他国にてかへらず、一人の子もすててゆきなば、我いかんが

せん」となげきしかども、子ちちのあまりにこいしかりしかば安足国へ

尋ねゆきぬ。ある小家にやどりて候ひしかば家のあるじの申すやう、「あら

ふびんやわどのはをさなき物なりしかもみめかたち人にすぐれた

我に一人の子ありしが他国にゆきてしに(死)やしけん、またいか

にてやあるらむ。我が子の事ををもへば、わどのをみてめ(目)もあて

られず。いかにと申せば、この国は大なるなげき有り。この国の大王あ

まり馬をこのませ給ひて不思議の草を用ひ給へり。一葉せばき草をくわ

すれば人、馬となる。葉の広き草をくわすれば馬、人となる。近くも他

国の商人の有りしを、この草をくわせて馬となして、第一の御まやに秘

蔵してつながれたり」と申す。この男これをきいて、「さては我父は馬

と成りてけりとをもひて返つて問ひ云はく、その馬は毛はいかに

とといければ、家の主答へて云はく栗毛くりげなる馬の肩白くぶちたり」

と申す。この物この事をききて、とかうはからいて、王宮に近づき、葉

の広草をぬすみとりて、我父の馬になりたりしに食せしかばもとのごと

く人となりぬ。その国の大王不思議なるをもひをなして、孝養の者なり

とて父を子にあづけ、それよりついに人を馬となす事とどめられぬ。子

ならずばいかでか尋ねゆくべき。目連尊者 もくれんそんじゃは母の餓鬼 がきの苦をすくい、

浄蔵 じょうぞう浄眼 じょうげんは父の邪見をひるがえす。これよき子の親のたからとなるゆ

かし。

【現代語訳】

 そもそも、子はかたきであるとと説く経文があります。心地観経しんちかんぎょうの「世の人は、子の

ために多くの罪を造り、三悪道に堕ちて長く苦しみを受ける」というのがそれです。嘉

や鷲という鳥は親は慈悲の心で子を養うのに育った子はかえって親を食物とします。

梟鳥ふくろうという鳥は、生まれると必ず母を食います。畜生というのはこのようなものです。

人の中にも畜生と同じようなものがいて、インドでは、玻瑠璃王はるりおうはむりやりに父波斯匿はしのく
            
王の位を奪い取りました。※1闍世王は父の頻婆沙羅王びんばしゃらおうを殺しました。中国では、※2

山は養母の楊貴妃を殺し、その子の安慶緒という人は父の安禄山を殺しました。当の安

慶緒は子の史師明に殺されましたその史子明はまた史朝義という子に殺されています

これでは、子は敵であるというのも当然です。釈尊の関係者でも、前生でのお子さんで

ある※3星比丘は※4得外道と示しあわせて、たびたび父の釈尊を殺そうとしました。

安足国王と馬と父子の物語

 また反対に、子は財宝 たからであるという経文もあります。心地観経に「その男女が追善供

養を修すると大光明が輝き出して地獄を照らし、その父母に信仰心を起こさせて仏の世

界に導く」とあるようにです。いや仏説にまで及ばなくても、まぢかにその例を見るこ

とができます。インドに※5足王という大王がいましたが、この王はあまりに馬を愛好し

て飼っているうちに、やがては飼い馴らして駄馬 だば俊馬 しゅんめに育てるばかりでなく、牛を馬

に変えることもしました。そして遂には人を馬としてお乗りになりました。その国の人

民がそれをあまりに歎き悲しんだので、王は、知らない他国の人を馬としました。ある

時、他国の商人が安足王の国に行ったところ、王は薬を使って馬とし、馬屋につなぎま

した。馬とされた商人は、何としても故国が恋しい上、とくに妻子のことが慕われてど

うしようもなかったのですが、王が許可を与えないので帰ることができませんでした。

またもし、たとえ帰れたとしたところで、そのような馬の姿のままではどうしようもな

いでしょう。ただ明けても暮れても歎くことばかりしていたうちに、故国では、一人い

た子が、父の帰国予定日が過ぎたので「誰かに殺されたのであろうか。あるいは病気で

動けなくなってるのであろうか。子の身としてどうして父を尋ねないでいられようか」

旅の仕度を始めたものですから母は歎いて「夫は他国へ行って帰って来ません。

たった一人しかいない子が私を置き去りにして行ってしまったならば、どうしたらよい

のでしょう」と悲しみ止めたのですが、子は、父があまりに恋しかったので安足国まで

尋ねて行きました。そして、ある小さな家に宿をかりたところ、その家の主人が「ああ

気の毒なことだ。あなたはまだ幼い。しかも人並すぐれて可愛いらしい。私には一人の

子がいたけれど、他の国へ行ったまま戻って来ません。死んでしまったのだろうか。い

ったいどうしているのだろう。あの子のことを思うと、あなたを見てかわいそうで胸が

いっぱいになりますなぜかというとこの国にはとても歎かわしいことがあるのです

それは、この国の大王があまりに馬を愛好なさって、不思議な薬草を使用していること

です。その薬草の細い葉をくわせると人が馬になります。広い葉をくわせると馬が人に

なります。近ごろも、他国の商人がいましたのを、王がその薬草をくわせて馬とし、第

一の御馬屋におつなぎになって秘蔵のものとしています」と言いました。この子はそれ

を聞いて、「それでは、父は馬となってしまったのだ」と思って質問しました。「その

馬の毛は何色ですか」と。家主は答えて「栗毛の馬で、肩に白いまだらがあります」と

言いました。子はそれを心に止め、あれこれと工作をして王宮に入り、葉の広い薬草を

盗みとって、馬とされた父に食わせたところ、もとのように人となりました。このこと

を知った大王は、思いもよらないことが起こったものだと事のなりゆきを尋ね、子の孝

行な気持ちと行ないに感動して父を返し、それより後は遂に人を馬とすることをお

になりました。この話では、子の親を思う心情と行動とが父ばかりでなく多くの人々の

不幸を救ったことになるのですが、ほんとうに子でなかったならば、どうして危険な他

国へまで父を探しに行くことなどありましょうか。また、※6連尊者は餓鬼道に落ちた母

の苦しみを救い、※7蔵・浄眼兄弟は父妙荘厳王の邪見を改めさせました。これらは、良

い子が親の財宝となるということを示す例です。(つづく)

【語註】

 ※1 
闍世王:頻婆娑羅王を父とし韋提希夫人を母とする中インド・マガダ国の王。
           提婆達多にそそのかされ父を殺して王位につくが、後、その罪を恐れ、耆婆【ぎ
           ば】のすすめに従って釈尊に救いを求めた。五逆罪を犯した阿闍世王の成仏は、
           法華経の功徳の甚大さの証とされる。
 
 ※2 安禄山:中国・唐代の叛臣。玄宗皇帝に寵遇され、楊貴妃と結んでその養子とな
           る。楊貴妃の兄の宰相楊国忠と対立し、天宝14年(755)史思明(史師明)とと
           もに反乱を起こして勝利し大燕皇帝と自称したが子の安慶緒に殺される
           日蓮の史思明に関する記述は事実に反する。

 ※3 善星比丘:釈尊の弟子であったが、悪友に親しんで仏法を捨てたばかりか、かえ
          って誹謗したので、生きながら無間地獄に落ちた。釈尊の菩薩の時の子てあると
          いう説もある。
 
 ※4 苦得外道:苦行によって得道すると説く外道のこと。釈迦在世のインドの六師外
      道の1つ。この派をジャイナ教とも呼ぶ。教祖はマハーヴィーラ(大雄)。

 ※5 安足国王:紀元前三世紀ごろペルシア地方に建てられた安足国(安息国)の王。
           この王に関する話は平康頼の『宝物集』【ほうぶつしゅう】に載っている。

 ※6 目連尊者:バラモンの子であったが舎利弗に誘われて仏弟子に加わり、神通第一
           として十大弟子の一人に加えられた。餓鬼道に落ちた母・青提女【しょうだいに
           ょ】を救ったことが盂蘭盆会の起源とされる。

 ※7 浄蔵・浄眼:薬王菩薩・薬上菩薩が過去世において王子であった時の名。妙荘厳
           王と浄徳夫人との間に生まれた浄蔵・浄眼兄弟は、母ともども法華経に帰依し、
           外道を信じる父の心を翻して仏道に導くことに成功した。妙荘王厳とは後の華
           徳菩薩であり、浄徳夫人は後の荘厳相菩薩である。

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【 2023/09/26 05:33 】

亡き父母を供養する子のために  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

亡き父母を供養する子のために 千日尼御返事③

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

千日尼御返事せんにちあまごへんじ

 されば故阿仏房の聖霊しょうりょうは今いづくむにかをはすらんと人は疑ふと

も、法華経の明鏡をもつてその影をうかべて候へば、霊鷲山りょうじゅせんの山の

中に多宝仏の宝塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候ふ。

もしこの事そらごとにて候わば、日蓮がひがめにては候はず、釈迦如来

の「〔世尊は、法久しうして後、かならずまさに真実を説きたまうべし〕」

の御舌と、多宝仏の「〔妙法華経は皆これ真実なり〕」の舌相と、四百

万億那由他なゆたの国土にあさ(麻)のごとく、いね(稲)のごとく、星のご

とく、竹のごとく、ぞくぞくとすきもなくつらねゐてをはしましし諸仏

如来の、一仏もかけ給はず広長舌を大梵王宮に指し付けてをはせし御舌

どもの、くぢら(鯨)の死にてくされたるがごとく、いわし(鰯)のよ

りあつまりてくされたるがごとく、皆一時にくちくされて、十方世界の

諸仏如来大妄語の罪にをとされて、寂光の浄土の金なる大地はたとわれ

て、提婆がごとく無間大城にかはと入り、法蓮香比丘尼ほうれんびくにがごとく身より

大妄語の猛火ぱといでて、実報華王じっぽうけおうの花のその(園)一時に灰燼の地と

なるべし。――いかでかさる事は候ふべき。故阿仏房一人を寂光じゃっこうの浄

土に入れ給はずは諸仏は大苦に堕ち給ふべし。ただをいて物を見よ、た

だをいて物を見よ。仏のまことそら事はここにて見奉るべし。

 さてはをとこははしらのごとし女はなかわのごとし

をとこは足のごとし、女人は身のごとし。をとこは羽のごとし、女はみ

(身)のごとし。羽とみとべちべちになりなば、なにをもんてかとぶべ

き。はしらたうれなばなかは地に堕ちなん。いへにをとこなければ人の

たましゐなきがごとし。くうじ(公事)をばたれにかいゐあわせん。よ

き物をばたれにかやしなうべき。一日二日たがいしをだにもをぼつかな

しとをもいしに、こぞの三月の二十一日にわかれにしが、こぞもまちく

らせどもみゆる事なし、今年もすでに七つき(月)になりぬ。たといわ

れこそ来たらずとも、いかにをとづれはなかるらん。ちりし花もまたさ

きぬ。をちし菓(このみ)もまたなりぬ。春の風もかわらず、秋のけし

きもこぞのごとし。いかにこの一事のみかわりゆきて、もとのごとくな

かるらむ。月は入りてまたいでぬ。雲はきへてまた来る。この人の出で

てかへらぬ事こそ天もうらめしく、地もなげかしく候へとこそをぼすら

め。いそぎいそぎ法華経をらうれう(粮料)とたのみまいらせ給ひて、

りやうぜん浄土へまいらせ給ひて、みまいらせさせ給ふべし。

【現代語訳】

 そのようなわけですから、故阿仏房の聖霊は今どこにおいでになることだろうかと人
                                 ※1
は疑問に思うかも知れませんが、法華経の澄んだ鏡に影を映してみれば、霊鷲山にそび
                      ※2
えている多宝塔の中に、東向きに坐って、釈迦・多宝の二仏と対面していらっしゃるお

姿が、私には拝見できるのです。もし、このことが間違っていたとすると、それは私の

偏見ではなくて、釈迦・多宝の二如来や十方の浄土にいらっしゃる無数の如来たちが嘘

をついたことになるのです。そうだとすると、釈迦如来が方便品で「仏はこれまで四十

余年の長い間、方便の説法をしてきたが、今からまさしく真実の教えを説かれるであろ

う」とおっしゃった御舌と、多宝如来が見宝塔品で「妙法蓮華経はすべて真実である」
              ※3
と証明なさった御舌と、四百億那由他という彭大な十方の諸国に、麻のように・稲のよ

うに・星のように・竹のように続々と連なっていらっしゃる諸仏が、神力品で広長舌を

大梵天宮にまで届かせて法華経の真実であることを絶讃なさったその御舌などがみな

死んで腐った鯨のように、群らがり腐った鰯のように、一時に朽ち腐って、全宇宙の仏

たちが大妄語の罪に落とされ、仏の住む常寂光の浄土の黄金の大地がバッと破れて、提
                      ※4
婆達多のように無間地獄にドッと陥り、あるいは法(宝)蓮香比丘尼のように、身体か

ら大妄語の猛炎がパッと燃え上がって実報蓮華蔵世界の花の園にたちまち灰燼の地とな

ってしまうでしょう。――どうしてそのようなことがあり得ましょうか、あるはずのな

いことです。故阿仏房一人を寂光の浄土にお迎えすることができないとするならば、諸

仏は地獄に落ちて大苦におあいになるでしょう。落ち着いてよくよく観察してごらんな

さい。仏のいうところが真実であるか虚偽であるかは、阿仏房が成仏するかしないかに

よって判定できることなのです。

 さてさて、家屋でいうならば、男は柱のようなもので、女はけたのようなものです。身

体でいうならば男は足のようなもので女は胴体のようなものです。鳥でいうならば、

男は羽のようなもので女は体のようなものです羽と体とが別々になってしまったら

どうして飛ぶことができましょうか。柱が倒れたら、桁は地に落ちて家屋は壊れてしま

うでしょう。家庭に男主人おとこあるじがいないと、人の魂が抜けてしまったようなもので頼りな

いでしょう。社会的な権利義務に関することを誰に相談したらいいのでしょうか。おい

しいものを誰に食べさせたらよいのでしょう。男主人とは一日か二日会わなくても不安

がつのることでしょうに、あなたは、去年の3月21日に阿仏房殿に先立たれて、去年1

年間待ち暮らしたのにお会いできませんでした。そして今年もすでに7か月を経過して

しまいました。たとえ阿仏房殿ご自身が来られなかったとしても、どうして連絡だけで

もしてこないのでしょうか。去年散った桜が今年も咲きました。去年落ちた果実このみが今年

りました。春風は去年と変わらずやさしく吹き、秋の景色も去年と同じように心に

しみます。自然はそのようにめぐり来るというのに、どうして阿仏房殿の生命だけが消え

去っていって、もとに戻ることがないのでしょうか。月は入ってもまた出ますし、雲は

行ってもまた来ます。それなのに人は死んだらもう帰ってこないということこそ、天も

恨めしく、地も歎かわしいことです。ご夫君との永別を体験なさったあなたは、特にそ
                                     ※5
のようにお思いになることでしょう。急ぎ急ぎ、法華経を旅の食糧とお頼りして、霊山

浄土へいらっしゃって、阿仏房殿にお会いなさるようになさいませ。(つづく)

【語註】

 ※1 霊鷲山:
中インド・マガダ国の首都王舎城の東北にある山で、釈尊が晩年の8年
           間に法華経を説いた聖地。日蓮聖人は、そこで法華経が説かれたことに大きな意
           義を認め、この山を身延山に擬してもいる。

 ※2 多宝仏:東方宝浄世界の主。法華経の説かれる所には必ず大宝塔の内に端座して
           出現し、この経の正しさを証明する仏。釈尊が霊鷲山で法華経を説いた時にも、
           地底から涌出【ゆじゅつ】して虚空に浮かんだ多宝塔の中から大音声を出して法
           華経が真実の教えであることを称え、座席の半分を明けて釈尊を迎え入れた。こ
           うして虚空中での法会が展開する。

 ※3 那由他:サンスクリット語の「ナユタ」を音訳した、「極めて大きな数量」の意
     味で、一般的には10の60乗を指す。

 ※4 法蓮香比丘尼:菩薩戒を受けたにもかかわらず淫行をし、しかもそれを正当化す
           る詭弁を弄したために、生きながら地獄に落ちた尼。

 ※5 霊山浄土:霊鷲山は、絶対真実の教えである法華経が説かれた聖地であるという
     ところから、日蓮聖人は、時間・空間の制約を超越した信仰的な浄土観をそこに
           展開する。すなわち霊山浄土は、久遠実成【くおんじつじょう】の本仏釈尊が
           常に妙法を説き続けている仏の国であり、法華経の行者が究極的に到達する楽
           園なのである。そしてこの浄土は、娑婆世界から遊離した存在ではなく、法華
           経信仰とともに自在に顕現するものであるとする。その意味からして、聖人は
           身延山を霊鷲山に照応する聖地であると認めている。

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【 2023/09/23 05:28 】

亡き父母を供養する子のために  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |

亡き父母を供養する子のために 千日尼御返事②

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

千日尼御返事せんにちあまごへんじ

 九界六道の一切衆生各々心々かわれり。譬へば二人三人ないし百千人

候へども一尺の面の内じち(実)ににたる人一人もなし。心のにざるゆ

へに面もにず。まして二人十人、六道九界の衆生の心いかんがかわりて

候ふらむ。されば花をあいし、月をあいし、すき(酸)をこのみ、にが

きをこのみ、ちいさきをあいし、大なるをあいし、いろいろなり。善を

このみ悪をこのみしなじななりかくのごとくいろいろに候へども

法華経に入りぬればただ一人の身、一人の心なり。譬へば衆河の大海に

入りて同一鹹味なるがごとく、衆鳥の須弥山しゅみせんに近づきて一色なるがごと

し。

 提婆だいばが三逆と羅睺羅らごらが二百五十戒と同じく仏になりぬ。妙荘厳王
みょうしょうごんのう


の邪見と舎利弗しゃりほつ正見しょうけんと同じく授記じゅきをかをほれり。これ即ち「〔一と

して成仏せざるは無し〕」のゆへぞかし。四十余年の内の阿弥陀経等に

は舎利弗が「七日の百万反大善根」ととかれしかども、「〔いまだ真実

を顕さず〕」ときらわれしかば七日ゆ(湯)をわかして大海になげたる

がごとし。ゐ(韋)提希だいけが観経をよみて無生忍むしょうにんを得しかども、「〔正

直に方便を捨つ〕」とすてられしかば法華経を信ぜずば返つてもとの女

人なり。大善も用ふる事なし。法華経にあはずばなにせん。大悪もなげ

く事なかれ。一衆を修行せば提婆が跡をもつぎなん。これ等は皆「〔一

として成仏せざるは無し〕」の経文のむなしからざるゆへぞかし。

【現代語訳】
                                
 下は地獄界から上は菩薩界にいたるまでの※1界、それに地獄道から天道までの※2道に

住む一切の衆生の心はみな違っています。たとえば2人3人といった少人数から、100

人・1000人という大勢の人々の顔は、みな1尺ばかりですが、まったく同じ顔は一つも

ありません。それぞれ心が違っているので顔も同じではないのです。まして2人・10人

どころか六道・九界の無数の衆生の心はどれほど変わっていることでしょうか。だから

人は、花を愛したり、月をめでたり、すっぱいのを好んだり、にがいのを好いたり、小

さいのが目にかなったり、大きいのに心を奪われたり、嗜好はいろいろです。また善を

好み、悪におぼれるなど、価値観もさまざまです。このように、人は種々雑多なものでは

ありますが、法華経の世界に入ってしまえば、ただ一人の身、ただ一人の心となってし

まいます。たとえば、多くの川の水が大海に入ることによって同じ塩味となるような、

あるいは、多くの鳥が須弥山に近づけばみな黄金一色となるようなものです。

 あの三逆罪を犯した大悪人の提婆達多※3 だいばだったも、二百五十戒を保って釈尊の十大弟子の

中に加えられた
羅睺羅※4 らごらも、法華経によって同じく仏となりました。バラモンの教えに                   
執着していた邪見の※5荘厳王も、正見で十大弟子中の智慧第一とされた舎利弗も、法華

経では同じように成仏することが予告されました。これは法華経が、「この経を信じる

者は、一人として成仏しないものはない」という経典だからなのです。釈尊が法華経を

説かれる以前の四十余年間の説法のうちの阿弥陀経などでは仏が舎利弗に「七日間、

阿弥陀仏の名号を百万反唱えたならば、その大善根の功徳によって必ず極楽浄土に往生

する」といわれていますが、後に法華経をお説きになる段階で「過去の四十余年間の説

法はみな方便であって、いまだ真実を顕わしていない。これから説くのが真実の教えで

ある」と宣言なさったので、法華経以前の一切経は、あたかも七日間沸かしつづけた湯

をむざむざと大海に投げ入れたようなもので何の効力もないものとなりましたまた、

韋提希夫人いだいけぶにんは観無量寿経を読んで※6生忍の悟りを得ましたが、法華経において釈尊みず

からが「正直に過去の方便の説を捨てる」と宣言なさったものですから、せっかくの韋

提希夫人も、もし法華経を信じることがなかったならばもとの凡女にかえってしまうは

めになったわけです。このようなわけですから、大善だからといってそのまま認めるわ

けにはいきません。なぜなら法華経に裏づけられなければ意味がないからです。また、

大悪だからといって必ずしも歎くに当たりません。なぜなら法華経の一乗法を修行した

ならば提婆達多と同じように成仏できるからです。これらはみな、法華経の「一として

成仏しないものはない」という文句に嘘がないからなのです。(つづく)

【語註】

 ※1 九界:
十界から、仏界を除いた、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・声聞・縁
           覚・菩薩の九つの世界。

 ※2 六道:迷いと悟りの世界を十種に分けたうちの、迷いの六界。地獄・餓鬼・畜
           生・修羅・人間・天上の六界。衆生はこの六界を輪廻転生するという。
 
 ※3 提婆達多:中インド・カピラ城の斛飯王【こくぼんのう】の子で阿難の兄、釈尊
           には従弟にあたる(異説あり)。幼時より釈尊に対抗意識を持ち、一時は釈尊の
       弟子となったが後に教団を去って分派行動をした。また阿闍世王【あじやせ】を
           そそのかして父王を殺させ、改心した阿闍世王が釈尊に帰依すると釈尊を亡きも
           のにしようとするなど、典型的な極悪人とされる。しかし一方、釈尊が前生で妙
     法蓮華経を得るために給仕した阿私仙人【あしせんにん】こそ今の提婆達多であ
     り、釈尊の成仏は提婆達多を善知識として実現したものであるということが法華
     経・提婆達多品によって説かれてもいる。
 
 ※4 羅睺羅:釈尊の出家以前の実子で、母は耶輸陀羅【やしゅだら】。出家して釈尊
           の十大弟子の一人に数えられ、密行第一とされる。
 
 ※5 妙荘厳王:過去世の雲雷音宿世華智【うんらいおんしゅくせけち】仏時代の国王
    で、外道の教えを深く信じていた人。浄徳夫人と浄蔵【じょうぞう】・浄眼【じ
          ょうげん】二子の尽力によって仏道に帰依する心を発【おこ】、仏から未来に成
           仏して娑羅樹【しゃらじゅ】王仏となるという証言を与えられた。釈尊は、かの
           妙荘厳王は今の華徳【けとく】菩薩であると説いた。
 
 ※6 無生忍:無生法忍の略。なにごとも不生不滅であるという認識を確立して迷いの
     世界を超脱した境地。

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【 2023/09/21 05:43 】

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亡き父母を供養する子のために 千日尼御返事①

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

千日尼御返事せんにちあまごへんじ

弘安3年(1280)7月2日、59歳、於身延、和文

 阿仏房の遺子藤九郎守綱が佐渡からはばるる父の墓に参詣するため、身延に登ったのに対して、遺子守綱の孝養を褒め、また千日尼の悲しみを慰めて、信心を励ました手紙。

 こう入道殿の尼ごぜんの事、なげき入って候ふ。またこいしこいしと

申しつたへさせ給へ。

 鵞目がもく一貫五百文・のり・わかめ・ほしい(干飯)・しなじなの物給ひ

候ひ了んぬ。法華経の御宝前に申し上げて候ふ。

 法華経に云はく「〔もし法を聞く者有らば一として成仏せざること無

し〕」云云。文字は十字にて候へども「法華経を一句よみまいらせ候へ

ども、釈迦如来の一代聖教をのこりなく読むにて候ふ」なるぞ。故に妙みょう

楽大師らくだいし云はく「〔もし法華を弘むるにはおよそ一義を消するも皆一代を

混してその始末を窮めよ〕」等云云。と申すは華厳経けごんきょう

申すは涅槃経ねはんぎょう。華厳経と申すは仏、最初成道じょうどうの時、法慧ほうえ功徳林くどくりん等の

大菩薩、解脱月菩薩げだつがつぼさつと申す菩薩のしょうに趣いて仏前にてとかれて候ふ。そ

の経は天竺てんじく竜宮城兜率とそつ等は知らず日本国にわたりて候ふは六十

八十巻・四十巻候ふ。「末」と申すは大涅槃経、これも月氏がっし・竜宮

等は知らず、我が朝には四十巻・三十六巻・六巻・二巻等なり。これよ

り外の阿含経あごんきょう方等経houtoukyou
般若経はんにゃきょう等は五千・七千余巻なり。これ等の

経々は見ずきかず候へども、ただ法華経の一字一句よみ候へば、彼々の

経々を一字もをとさずよむにて候ふなるぞ。譬へば「月氏」・「日本」

と申すは二字。二字に五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・

無量の粟散国ぞくさんこくの大地・大山・草木・人蓄等をさまれるがごとし。たと

ば鏡はわづかに一寸二寸三寸四寸五寸と候へども、一尺五尺の人をもう

かべ、一丈二丈十丈百丈の大山をもうつすがごとし。さればこの経文を

よみて見候へばこの経をきく人は一人もかけず仏になると申す文な



 九界六道の一切衆生各々心々かわれり。譬へば二人三人ないし百千人

候へども一尺の面の内じち(実)ににたる人一人もなし。心のにざるゆ

へに面もにず。まして二人十人、六道九界の衆生の心いかんがかわりて

候ふらむ。されば花をあいし、月をあいし、すき(酸)をこのみ、にが

きをこのみ、ちいさきをあいし、大なるをあいし、いろいろなり。善を

このみ悪をこのみしなじななりかくのごとくいろいろに候へども

法華経に入りぬればただ一人の身、一人の心なり。譬へば衆河の大海に

入りて同一鹹味なるがごとく、衆鳥の須弥山しゅみせんに近づきて一色なるがごと

し。

【現代語訳】
男は羽、女は身
 ※1
 国府入道殿の尼御前のこと、夫を亡くされてから、どうされているかと嘆きいってい

ます。また、恋しい、恋しいと言っているとお伝えください。

 銭1貫500文、のり、わかめ、干飯ほしいいなど種々のご供養品をお届けいただきました。謹

んで法華経のご宝前にご奉告いたしました。

 法華経の方便品に「法華経を信じるものは、一人として成仏しないものはない」とあ

ります。この一句は、文字はわずかに10字でありますが書かれている内容は、「法華経

を一句読んだだけで、釈迦如来が一生かかってお説きになった聖教全部を読んだのと同

じ功徳がある」ということなのです。だから妙楽大師は法華玄義釈籤しゃくせんに「もし法華経

を弘めようとするならば、ただ一義を解釈するにも、釈尊が一生かかって説かれた教え

のすべてにわたり、そのはじめからすえまでを考窮しなければならない」と言っています。そ

の「始」とは華厳経であり、「末」とは涅槃経です。華厳経というのは、釈尊が初めて

悟りを開かれた時に、法恵・功徳林・金剛幡・金剛蔵の4大菩薩が、解脱月という菩薩

の要請に応じて仏の前でお説きになった経典です。この経は、インド・竜宮城・兜率天

などに収蔵されていたころに何巻あったかは知りませんが、漢訳されて日本国に渡来し

たのは60巻・80巻・40巻の諸本です。次に「末」というのは大涅槃経です。これもイン

ドや竜宮城などの場合はわかりませんが、日本には40巻・36巻・6巻・2巻などの諸本が

伝えられています。この2経のほかの、阿含経・方等経・般若経などは5000巻あるとも

7000余巻あるともされます。これらの膨大な経典類を見たり聞いたりなさらなくても、

ただ法華経の一字一句さえお読みすれば、すべての経典を一字もらさず読んだことにな

るのですよ。たとえば「インド」「日本」といえばたったの2字にすぎませんが、それ

らの2字の中に、5つの天竺・16の大国・500の中国・1000万の小国・無数のあわ粒のよ

うな微小国の、大地・大山・草木・人畜などのすべてが納まっているようなものです。

また、たとえば鏡はわずかに1寸2寸3寸4寸5寸といった小さなものですが、

1尺5尺の人の姿を映し、1丈2丈10丈100丈の大山をも映すようなものです。

そのようなわけで、前に示した法華経の方便品の一句を読んでみると、それは「この経

の教えに随う人は、一人も欠けることなく仏になる」という文なのです。(つづく)

【語註】

 ※1 国府入道殿の尼御前:佐渡に住む日蓮の信者。夫の国府入道と共に、佐渡に流さ
           れた日蓮に帰依し,国の責めをはばからず、献身的に奉仕したという。日蓮が許
           されてのち,建治元年(1275)の日蓮書状によると夫を使いとして身延山に単衣を
           届け、弘安元年(1278)には自身も身延を訪れている。阿仏房の妻の千日尼とも
           親しかった。

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【 2023/09/19 05:30 】

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亡き父母を供養する子のために 上野殿御返事

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

上野殿御返事うえのどのごへんじ

弘安2年(1279)正月3日、58歳、於身延、和文

 藍より青く、子の南条時光が亡父・兵衛七郎の志を受け継いで、食さえ乏しい山中の日蓮に供養を捧げたことに感謝を込めた手紙。

 餅九十枚・閏蕷やまのいも五本。わざと御使をもつて正月三日ひつじの時に、

駿河の国富士郡上野うえのの郷より甲州波木井はきりの郷身延山のほら(洞)へおく

りたびて候ふ。
 
 それ海辺には木を財とし、山中には塩を財とす。旱魃かんばつには水をたから

とし、闇中には燈を財とす。女人にょにんはをとこを財とし、をとこは女人をい

のちとす。王は民ををやとし、民は食を天とす。この両三年は日本国の

内、大疫起こりて人半分げんじて候ふ上、去年こぞの七月より大なるけかち

(飢渇)にて、さといちのむへんのものと山中の僧等は命存しがたし。

 その上日蓮は法華経誹謗ひぼうの国に生まれて威音王仏いおんのうぶつの末法の不軽菩薩ふぎょうぼさつ

のごとし。はたまた歓喜増益仏かんぎぞうやくぶつの末の覚徳比丘かくとくびくのごとし。王もにくみ

民もあだむ。衣もうすく食もとぼし。布衣ぬのこはにしきのごとし。くさのは

(葉)わかんろとをもう。その上、去年こぞの十一月より雪つもりて山里路

たえぬ。年返れども鳥の声ならではをとづるる人なし。友にあらずばた

れか問ふべきと心ぼそくて過ごし候ふ所に元三がんさんの内に十字むしもち九十枚、

満月のごとし。心中もあきらかに、生死のやみもはれぬべし。あはれな

り、あはれなり。

 こうへのどの(故上野殿)をこそ、いろあるをとこと人は申せしに、

の御子なればくれない(紅)のこき(濃)よしをつたへ給へるか。あ

い(藍)よりもあを(青)く、水よりもつめたき氷かなと、ありがたし

ありがたし。恐恐謹言。

正月三日                      日 蓮 花押

上野殿御返事

【現代語訳】

出藍のほまれ

 餅90枚、やまのいも5本、わざわざご使者をお立てくださって、正月3日午後2時に

駿河国富士郡上野郷から甲州波木井の郷身延山のほこらへお送りいただきました。ありがと

うございます。

 そもそも海辺では木が貴重であり、山中では塩を宝物とします。旱魃かんばつの時には水が貴

重であり暗闇では灯火が宝物となります。妻は夫が大切であり、夫は妻を命とします。

国王は人民を親とあがめ、人民は食物を天と貴びます。ところがこの2・3年は、日本国

内に流行病が蔓延して人民が半減してしまったうえ、去年の7月から大飢饉に見舞われ、

人里から遠く離れた地方の者や山中に隠棲している僧などは生きていくのが難しい状態

です。

 その上、私は、法華経を誹謗する国に生まれたので、あたかも威音王仏の末法の世に

出て人々から迫害を受けた※1軽菩薩のような、あるいはまた歓喜増益仏の末の世に出て

難に遭った※2徳比丘のようなむごい目にあっています。日蓮を国王も憎悪し、民衆も敵視

しています。着衣も薄く、食物もなくなってきました。だから粗末な布衣でも錦のよう

に貴く、雑草の葉でも甘露のように美味おいしく思われます。その上、去年の11月から雪が

降り積もって山里の路は絶えてしまいました。年が明けても聞こえてくるのは鳥の声だ

けで、訪れて来る人はありません。よほど親密な人でなければ誰が来るものかと、心細

い日日を過ごしておりましたところ、正月三箇日のうちに届いた丸い蒸餅むしもち90枚、満月の

ように素晴らしい。その満月は心の中も明るく照らし、生死しょうじ無常の闇も晴れることでし

ょう。とても、とても、感動的なことです。

 亡きお父上の南条兵衛七郎殿を、本当に人情の厚いお方だと皆が言っていましたが、

貴殿はそのお子さんであるので、赤心まごころの濃密なところを伝受なさったのでしょう。青は

藍よりいでて藍よりも青く、氷は水より出て水よりも冷たいという諺の通りで、またとな

く尊いことだと思います。恐恐謹言。

正月3日                            
日 蓮  花押

上野殿御返事

【語註】

 ※1 不軽菩薩:常不軽菩薩。『法華経』常不軽菩薩品に出てくる菩薩。人はみな成仏
        するとして、会う人ごとに軽んずることなく礼拝し、後に仏となった。釈尊の前
          生であったという。

 ※2 覚徳比丘:過去世において正法の護持弘通に励んだ比丘。クシナ城の歓喜増益如
         来が涅槃した後に有徳王の武力に守られて法を説いた。死後、阿閦仏【あしゅく
           ぶつ】の国に生まれて第二の弟子となった(第一の弟子は有徳王)。覚徳比丘は
           加葉仏の前生であったという。

【解説】

 南条時光が元旦の供養の品を身延の日蓮のもとへ届けたことに対する礼状であり、こ

の2・3年の間、疫病や飢饉が続いていたにもかかわらず、常に変わらない信心で供養を

続ける時光の真心を讃えている。

 時光はほとんど毎年、正月には供養を届けていたが、特にこの年は前年の11月からの

雪で身延の日蓮の草庵への道は途絶えており、不便ななかの供養であり、時光の志の篤

さが偲ばれる。しかも、この供養の品が日蓮の身にとっていかに貴重であるかを、さま

ざまな例を挙げて感謝されている。

 疫病と飢饉に見舞われ、権力者のみならず一般の民衆による迫害もあって、日蓮は珍

しく弱気になっている自分を見せる。「衣もうすく食もとぼし・布衣はにしきの如し・

草葉をば甘露と思ふ」。

 そこへ届いた時光の供養がいかに有難いものであったか。蒸餅があたかも満月のよう

であると喜ばれ、亡き親に勝るがごとく法華経信者として生きる時光の姿を「出藍のほ

まれ」と称讃した。

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【 2023/09/16 05:30 】

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亡き父母を供養する子のために 南条殿御返事⑤

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

南条殿御返事なんじょうどのごへんじ

 今の御心ざしみ候へば、故なんでうどのはただ子なれば、いとをしと

わをぼしめしけるらめども、かく法華経をもて我がけうやうをすべしと

はよもをぼしたらじたとひつみありていかなるところにをはすと

この御けうやうの心ざしをば、えんまほうわう(閻魔法王)ぼんで

ん(梵天)たひしやく(帝釈)までもしろしめしぬらん。釈迦仏・法華

経も、いかでかすてさせ給ふべき。かのちごのちちのなわ(縄)をとき

しと、この御心ざしかれにたがわず。これはなみだをもちてかきて候ふ

なり。

 またむくり(蒙古)のをこれるよし、これにはいまだうけ給はらず。

これを申せば、「日蓮房はむくり国のわたるといへばよろこぶと申す

これゆわれなき事なり。かかる事あるべしと申せしかば、あだかたき

(仇敵)と人ごとにせめしが、経文かぎりあれば来るなり。いかにいう

ともかなうまじき事なり。

 とがもなくして国をたすけんと申せし者を用ひこそあらざらめ。また法

華経の第五の巻をもて日蓮がおもて(面)をうちしなり。梵天帝釈これ

を御覧ありき。鎌倉の八幡大菩薩も見させ給ひき。

 いかにも今は叶ふまじき世にて候へばかかる山中にも入りぬるな

各々も不便ふびんとは思へども、助けがたくやあらんずらん。よるひる

(夜昼)法華経に申し候ふなり。御信用の上にも力もをしまず申させ給

へ。あえてこれよりの心ざしのゆわ(弱)きにはあらず。各々の御信心

のあつくうすき(厚薄)にて候ふべし。たいし(大旨)は日本国のよき

人々は一定いちじょういけどりにぞなり候はんずらん。あらあさましや、あらあ

さましや。恐恐謹言。

後三月二十四日                  日 蓮 花押

南條殿御返事

【現代語訳】
孝養の心

 今、貴殿の私に対する厚いお志を、亡き父上がご覧になったならば、どれほどお喜び

のことでしょうか。もともと直系の子のことですから可愛いとは思っていらっしゃった

でしょうが、まさか、成人の後にこのような法華経によっての追善孝養をするに違いな

いなどとはお思いにならなかったことでしょう。お父上が、たとえ罪を蒙って悪道に堕

ちていらっしゃったとしても、このご孝養のお志を、閻魔法王・梵天王・帝釈天までが

ご存じになって、お救いくださるでしょう。また釈迦牟尼仏も法華経も、どうしてお見

捨てになることがありましょうか。あの大橋太郎の子が父のなわを解いたことと、貴

殿が尊いお志によって父上をお救いになることとは違いがないのです。今、私は感涙を

流しながらこの手紙を書いているのですよ。

 話は変わりますが、蒙古がまた攻めてくるという情報は、この身延山にはまだ届いて

いません。私は日ごろから法華経の教えに随って、謗法ほうぼうの国には他国から侵攻があると

説いているので、「日蓮房は蒙古が攻めてくるのを喜んでいる」という人がいますが、

それはたいへんな誤りです。他国が侵攻するという予告に対しては、みなが私を怨敵の

ように責めたてますけれども、経文に明記されていることですので、いかに忌避しよう

としてもかなうものではありせん。

 世間は、何の過失もない私、そして、ただ純粋に国の危機を救おうと思って諫言かんげんする

私を排斥していますそればかりか法華経の第五巻で私の顔を殴打しました。この巻に

は、法華経の行者は刀杖瓦石とうじょうがしゃくの難に会うということが記されているのでまことに感

銘深いことなのですが、この事実を梵天も帝釈天もご覧になりました。また鎌倉の八幡

大菩薩も見ておいでになりました。
 とにかく今はどうにもならない
濁悪じょくあく
の世でありますので、このような深い山中に分

け入ってしまったのです。門下の皆さんを本当に気の毒だとは思いますが、お助けでき

ない条件がいっぱいです。しかし、私はこの山中で昼夜を分かたず法華経に祈りをこら

しています。貴殿も、信心の上にも信心を重ねて力の及ぶ限り祈念なさってください。

誓願が成就しないとしたら、それは私の方からの祈りが弱くなって及ばないのではあり

ませんよ。各々のご信心が厚いか薄いかによって決まることです。結局は、日本国のおも

った人々はきっと蒙古の生捕りになってしまうのでしょう。ああ、言語道断この上な

く悲しいことです。恐々謹言。

閏三月二十四日                         日 蓮  花押

南条殿御返事

【解説】

 
この手紙は、かたびら・塩・油の供養に対する返事であるが、日蓮は供養の品々に関

連することに言及して、感謝や、激励の言葉を展開している。

 南条時光の父、兵衛七郎への初めての書簡が文永元年(1264)であることから、父が

日蓮に帰依するようになったのは、日蓮が43歳の時以前と考えられる。その手紙の翌年

(文永2年3月8日)に父は亡くなった。その後、日蓮の佐渡流罪があり、赦免後に日

蓮は身延に入山した。

 父が亡くなって9年後(文永11年7月)に南条時光が身延へと訪ねて来た。それは、

日蓮が身延に入山して2カ月後のことであった。

 この手紙は、それから2年後の手紙である。この時、次郎時光は数えで18歳、弟の五

郎は12歳であった。今で言えば、高校生と小学生である。富木常忍への手紙は漢文体だ

が、この手紙を一見して、平仮名の多さに気づかれるはずである。日蓮は、このように

相手に応じて文体も表現もガラリと変えて手紙をしたためている。

 しかも、ここには全くと言っていいほど、理屈は語られていない。説話文学や、具体

的な実話をもって説き聞かせる内容になっている。それも、噛んで含めるように、亡く

なった父親に代わって子に語って聞かせるような趣の手紙である。

 この大橋太郎についての説話の出店を調べると、この『南条殿御返事』しか出てこな

い。ほかには見当たらない。そのような話を聞いた日蓮が、記憶をもとに綴った文章で

あろう。それにしても、劇作家の作品を読むような思いに駆られる。

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【 2023/09/14 05:34 】

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亡き父母を供養する子のために 南条殿御返事④

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

南条殿御返事なんじょうどのごへんじ

 ををせのありけるは、「かぢわら、われとはしりて、いまだ切らずば

ぐ(具)してまいれ」とありしかば、いそぎいそぎゆいのはまへはせゆ

く。いまだいたらぬによばわりければ、すでに頸切くびきらんとて、たちぬきた

りけるときなりけり。さてかぢわら、ををはしの太郎を、なわつけなが

らぐ(具)しまいりて、ををには(大庭)にひきすへたりければ、大将

殿「このちごにとらせよ」とありしかば、ちごはしりをりて、なわをと

きけり。大はしの太郎はわが子ともしらず、いかなる事ゆへにたすかる

ともしらざりけり。さて大将殿まためして、このちごにやうやうの御ふ

せた(結)びて、ををはしの太郎をた(給)ぶのみならず、本領をもあん

ありけり。

 大将殿
をほせありけるは、「法華経の御事は、昔よりさる事とわきき

つたへたれども、まろは身にあたりて二つのゆへあり。一には故親父こしんふの御

くびを大上だじょう政)入道に切られてあさましともいうばかりなかりしに

いかなる神仏にか申すべきとをもいしに、走湯いず山の妙法尼より法華経を

よみつたへ、千部と申せし時、たかを(高雄)のもんがく房、をやのく

びをもて来てみせたりし上、かたきを打つのみならず、日本国の武士の

大将を給ひてあり。これひとへに法華経の御利生なり。二つにはこのち

ごがをやをたすけぬる事不思議なり。大橋の太郎というやつは、頼朝き

くわいなりとをもう。たとい勅宣なりともかへ(返)し申して、くびを

きりてん。あまりのにくさにこそ、十二年まで土のろうには入れてあり

つるにかかる不思議ありされば法華経と申す事はありがたき事なり

頼朝は武士の大将にて、多くのつみつもりてあれども、法華経を信じま

いらせて候へば、さりともとこそをもへ」となみだぐみ給ひけり――。

【現代語訳】

 頼朝殿からのご命令は、「梶原景時よ、お前自身すぐ刑場へ駈けつけて、大橋太郎が

まだ切られていなかったら連れてきなさい」ということであったので、景時は急いで由

比の浜へ馬を走らせて行きます。まだ遠く離れた所から大声で頼朝殿のご命令を絶叫し

たところ、太刀打ちが今まさに首を切ろうとして刀を抜いた時にそれが聞こえて、大橋

太郎は一命をとりとめることになりました。そうこうして景時が、大橋太郎を縄で縛っ

たまま連れてきて大庭に引き据えると、頼朝殿が「その囚人を、この子に渡しなさい」

といったので、子は庭に走りおりて父の縄を解きました。大橋太郎は、それがわが子で

あるとも知らず、またどうして助かることになったかもわかりませんでした。しばらく

して頼朝殿はまたその子を近くに召して、いろいろのお布施の品を与え、父親を許し与

えたばかりでなく、もと父が治めていた本領までも復帰させました。

 頼朝殿が言われたことには、「法華経が尊いお経だということは昔からその旨を伝え

聞いていましたが、私がそれを信じるにいたる二つの体験があります。その第一は、亡

き父義朝殿が平清盛のために敗死させられて、何とも言えず悔しく思われ、報復をどの
                    ※1
神仏に祈誓しようかと思案していたところ、走湯山の妙法尼から法華経の読誦を習い、
                         ※2
一部八巻の法華経を千部読み上げた満願の日に、高尾の文覚房が父上の首を持ってきて

見せてくれ、それが契機となって平家を討ち滅ぼしたばかりでなく、日本国の武士の大

将軍にまで任ぜられました。これは全く法華経のご利益によるものです。第二は、今、

この子が親の命を救ったという不思議な出来事にあったことです。大橋太郎という奴

は、私にとっては許しがたい者です。だからたとえ天皇から助命の勅宣が下ったとして

も、それをき返して首を切ってしまおうとさえ思っていたのです。あまりの憎さに12年
   ※3
間まで土牢に入れて苦しめ、さていよいよ首を切るという時になってこのような不思議

なことが起こりました。これらの事実に照らしてみても、法華経というお経は本当にあ

りがたいものです。私は武士の大将軍として多くの罪を重ねた身ですけれども、法華経

をご信仰申し上げていますので、何とかご加護をいただけるのではないかと思っていま

す」と、感涙にむせんでいらっしゃいました。――このような話が伝えられています。

(つづく)

【語註】

 ※1 走湯山:
静岡県熱海市伊豆山に鎮座する伊豆山神社の古名。

 ※2 文覚房:平安末期の真言僧。もと北面の武士遠藤盛遠【もりとお】。洛北高雄の
           神護寺に在ってそこを復興したので高雄の文覚房(聖人)と呼ばれる。同寺の復
           興勧進にあたって後白河法皇の不興をかい、伊豆に配流されたが、そこで源頼朝
           と会って、平治の乱で殺された義朝(頼朝の父)のと称する贋首を見せながら平
           家顛覆の挙兵を勧めるなど、動乱期の政界で暗躍した怪僧。

 ※3 土牢:鎌倉市長谷の光則寺にある土牢は、大橋太郎通貞が投獄されていた土牢と
     されている。

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【 2023/09/12 05:34 】

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亡き父母を供養する子のために 南条殿御返事③

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

南条殿御返事なんじょうどのごへんじ
 
 さて十二のとし、出家をせずしてかみ(髪)をつつみ、とかくしてつ

くしをにげいでて、かまくらと申すところへたづねいりぬ。八幡の御前おんまえ

にまいりてふしをがみ申しけるは八幡大菩薩は日本第十六の王

本地ほんじ霊山浄土りょうぜんじょうど、法華経をとかせ給ひし教主釈尊なり。衆生のねがい

をみ(満)て給はんがために神とあらわれさせ給ふ。今わがねがいみて

させ給へ。
をやはきて候ふか、しにて候ふか」と申して、いぬ(戌)

の時より法華経をはじめて、とら(寅)の時までによみければ、なにと

なくをさなきこへ(声)ほうでん(宝殿)にひびきわたり、こころすご

かりければまいりてありける人々もかへらん事をわすれにき。

皆人いち(市)のやうにあつまりてみければ、をさなき人にて法師とも

をぼえず、をうなにてもなかりけり。

 おりしもきやう(京)のにゐ(二位)どの御さんけいありけり。人め

をしのばせ給ひてまいり給ひたりけれども、御経のたうとき事つねにも

すぐれたりければ、はつるまで御聴聞ありけり。さてかへらせ給ひてを

はしけるが、あまりなごりのをしさに、人をつけてをきて、大将殿へ

「かかる事あり」と申させ給ひければ、めして持仏堂にして御経よませ

まいらせ給ひけり。

 さて次の日また御聴聞ありければ西のみかど御門人さわぎけり

いかなる事ぞとききしかば、「今日はめしうどのくびきらるる」とのの

しりけり。「あわれ、わがをやはいままで有るべしとはをもわねども、

さすが人のくびをきらるると申せば、我身のなげき」とをもひてなみだ

ぐみたりけり。大将殿あやしとごらんじて、「わちご(和児)はいかな

るものぞ、ありのままに申せ」とありしかば、上くだんの事一々に申し

けり。をさふらひにありける大名小名、みす(翠簾)の内、みなそでを

しぼりけり。大将殿かぢわら(梶原)をめしてをほせありけるは、「大

はしの太郎というめしうどまいらせよ」とありしかば、「ただ今くびき

らんとて、ゆい(由比)のはまへつかわし候ひぬ。いまはきりてや候ふ

らん」と申せしかば、このちご御まへなりけれども、ふしころびなきに

けり。

【現代語訳】

 そのようにして12歳になった時、出家はせず、頭髪を布で包み隠してうまく九州を逃

げ出し、父が連れて行かれたという鎌倉とやらいうところへ尋ね入りました。そして鶴

ケ岡八幡宮に参詣し、社前にぬかづいて神を伏し拝みながら「八幡大菩薩は日本国第16代

の国王応神天皇として垂迹すいじゃくなさったお方であり、その本地は霊山浄土で法華経をお説

きになった教主釈尊でいらっしゃいます。それが、衆生の願うところを満たしてくださ

るために神として出現なさいました。今、私の願いをお満たしくださいませ。父親は生

きているのでしょうか。それともすでに亡き者となっているのでしょうか。どうぞお教

えくださいませ」と祈願しました。午後8時ころから法華経を誦みはじめて午前4時こ

ろにいたりましたが、そこはかとなく澄んだ幼い声が社殿に響きわたり、思わず身ぶる

いするほどに緊迫した清爽感がただよったので、参詣していた人々も心を奪われて帰る

ことを忘れてしまいました。みなが神秘的な声の出所を尋ねて山のように集まって見る

と、なんと幼い者で、その子が法師か老女のようにすばらしい声で読経をしているので

した。
         ※1
 ちょうどその時、京の二位殿の八幡宮ご参詣がありました。人目をおしのびになって

お参りなさったのですが、御経の声の尊さが尋常ではなかったので、最後までお聞きに

なっていらっしゃいました。しばらくしてお帰りになったのですが、その子と別れるの

があまりに名残なごり惜しく思われたので、家来を監視につけておいて、ご自分は頼朝殿のも

とへいらっしゃって「このような尊いことに会いました」とご報告なさったので、頼朝

殿はその子を召し寄せて、持仏堂でお経をお読ませになりました。

 さて翌日、頼朝殿がまたお経を読ませてお聞きになっていた時、西の御門で人声がざ

わざわとしました。何がおこったのだろうかと聞き耳を立ててみると、「今日は囚人が

首を切られるのだ」と大声で言っていました。子は、「ああ、父上が今日まで命を長ら

えていらっしゃるとは思わないけれど、人が首を切られると聞けば、父上のことがしの

ばれて辛いことだ」と涙ぐんでしまいました。それをご覧になった頼朝殿が「お前は何

者であるのか。事情がありそうだが隠さずに言ってごらんなさい」とお尋ねになると、

子は幼少のころからのことを細かく申し上げました。それを聞いて、侍所さむらいどころ伺候しこう

ていた大名も小名も、また御縁みすの内にはべっていた女房たちも、みな涙に袖をぬらしま

した。頼朝殿が梶原景時かじわらのかげときを呼んで「大橋太郎という囚人を召し出せ」と命令をくだ

と、景時が「その者は、ちょうど今、首を切るために由比の浜へ連れて行かせました。

もう切ってしまったかも知れません」と言ったので、それを聞いた子は頼朝殿の御前で

あることも忘れて、ころげまわって泣いてしまいました。(つづく)

【語註】

 ※1 二位殿:
藤原範兼の娘で承元元年(1201)6月に従二位になった兼子が京都の
           二位殿と呼ばれるのにふさわしいが、ここにに登場するのは源頼朝の妻で建保6
           年(1218)10月に従二位に叙された北条政子であろう。

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【 2023/09/09 09:05 】

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亡き父母を供養する子のために 南条殿御返事②

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

南条殿御返事なんじょうどのごへんじ

 ――つくし(筑紫)にををはしの太郎と申しける大名ありけり。大将

どのの御かんきをかほりて、かまくらゆいのはま、つちのろう(土牢)

にこめられて十二年。めしはじめられしとき、つくし(筑紫)をうちい

でしに、ごぜん(御前)にむかひて申せしは、「ゆみや(弓
)とるみ

(身)となりて、きみの御かんきをかほらんことはなげきならず。また

ごぜんにをさな(幼)くよりな(馴)れしが、いまはなれん事いうばか

りなし。これはさてをきぬ。なんし(男子)にても、によし(女子)に

ても、一人なき事なげきなり。ただしくわいにん(懐妊)のよしかたら

せ給ふ。をうなご(女子)にてやあらんずらん。をのこご(男子)にて

や候はんずらんゆくへをみざらん事くちをしまたかれが人となり

ちち(父)というものもなからんなげき、いかがせんとをもへども

力及ばず」とていでにき。

 かくて月ひ(日)すぐれ、ことゆへなくまれにき。をのこごにてあ

りけり。七歳のとしやまでら(山寺)にのぼせてありければ、ともだち

なりけるちごども(児共)、をやなしとわらひけり。いへ(家)にかへ

りてはは(母)にちちをたづねけり。ははのぶるかたなくしてな(泣)

くよりほかのことなし。このちご申す。「天なくしては雨ふらず、地なく

してはくさをいず。たとい母ありとも、ちちなくはひと(人)となるべ

からず。いかに父のありどころをばかくし給ふぞ」とせめしかば、母せ

められて云ふ、「わちご(和児)をさなければ申さぬなり。ありやうは

かうなりこのちごなくなく申すやうさてちちのかたみはなきか」

と申せしかば、「これあり」とて、ををはし(大橋)のせんぞの日記、

ならびにはら(腹)の内なる子にゆづれる自筆の状なり。いよいよをや

こひしくて、なくより外の事なし。「さていかがせん」といゐしかば、

「これより郎従あまたともせしかども、御かんきをかほりければみなち

りうせぬ。そののちはいきてや、またしにてや、をとづるる人なし」と

かたりければ、ふしころびなきて、いさむるをももちゐざりけり。はは

いわく、「をのれをやまでら(山寺)にのぼする事は、をやのけうやう

のためなり。仏に花をもまいらせよ。経をも一巻よみて孝養とすべし」

と申せしかば、いそぎ寺にのぼりていええかへる心なし。昼夜に法華経

をよみしかば、よみわたりけるのみならず、そらにをぼへてありけり。

【現代語訳】
大橋太郎とその子の物語

 ――昔、北九州に大橋太郎という大名がいました。右大将源頼朝殿から懲戒処分を受

けて、鎌倉の由比の浜の土牢に12年間も閉じ込められていました。その大橋太郎が、召

し捕られて鎌倉へ行くことになった時、故郷を出立するにあたって奥方にむかい、「弓

矢を帯して君に仕える武士の身となったことですから、ご主人から懲戒をお受けするこ

とは歎かわしいことではありません。それに反して、あなたとは幼少のころから馴れ親

しんだ間がらですから、今お別れするのはとても辛い思いです。しかしそのことはもう

言うのはやめましょう。日ごろから歎かわしく思っていたのは、男子でも女子でも子供

が一人もいないことでした。ところが今度、あなたは懐妊したということをお聞かせく

ださいました。生まれてくるのは女の子でしょうか、それとも男の子なのでしょうか。

それを見届けられないのが残念です。また、その子が成長して、父親がいないための苦

しみを味わうことがないようにとは思いますが、それは力の及ばないことです」と言っ

て旅立ちました。

 その後、妻は順調に月日を過ごし、子供は無事に生まれました。男の子であったので

す。

 7歳のときに山寺へ修学のために登らせたところ、仲間の子供たちが「父なし子よ」

といってあざけり笑いました。それで、家に帰って母に父親のことを質問しました。母

は答えようがなくて、ただただ泣くばかりでした。その子はいいました。「天がなけれ

ば雨は降りません。地がなければ草はえません。たとえ母親がいても、父親がいなか

ったならば子が生まれるはずはありません。どうして父上の消息を教えてくださらない

のですか」と。母は責められて「お前が幼いので言わなかったのです。実はこれこれな

のですよ」といって父が鎌倉へ連れて行かれた様子を語りました。この子は泣く泣く、

「それでは父上のかたみとなるものはありませんか」というので、母は「これがありま

す」と言って、大橋氏の先祖の日記、ならびにまだ胎内にいたその子のために遺した自

筆の書状を見せました。子はますます父が恋しくなって、激しく泣くばかりです。子が

「何としても父上にお会いしたいのですが、どうしたらよいのでしょう」と尋ねたとこ

ろ、母は「ここをご出発になった時には家来がたくさん随っていたのですが、罪科をこ

うむった身のことですから、皆ちりぢりに去っていってしまい、その後は生きているの

やら死んでしまったのか、消息を伝えてくれる者もいません」と答えました。子は、こ

ろげまわって泣き悲しみ、いくらなだめても聞きませんでした。母が「お前を山寺に登

らせたことは父上への孝養を尽くさせようと思ったからです仏に花をお捧げなさい。

そして法華経の一巻でも読誦して孝養の営みとしなさい」と言いましたところ、子は急

いで山寺へ登り、二度と家へ帰ろうとしませんでした。そして昼となく夜となく法華経

を読み続けましたので、全巻にわたって経文が読めるようになったばかりでなく、すべ

てを暗誦するにいたりました。(つづく)
 

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【 2023/09/07 05:35 】

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亡き父母を供養する子のために 南条殿御返事①

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

南条殿御返事なんじょうどのごへんじ

建治2年(1276)閏3月24日、55歳、於身延、和文

 18歳の南条時光が帷子・塩・油を供養したことに対する手紙である。罪人として12年
間、牢にあった大橋太郎を、その子どもが『法華経』読誦の功徳で救った話を通して、
南条時光の『法華経』への志が、亡き父・南条兵衛七郎への孝養となると激励してい
る。

 かたびら一、しを(塩)いちだ、あぶら五そう(升)給ひ候ひ了ん

ぬ。

 ころもはかんをふせぎまたねつをふせぐみ(身)をかくし、

みをかざる。法華経の第七やくわうぼんに云はく、「〔裸なる者の衣を

得たるがごとし〕」等云云。心ははだかなるもののころもをえたるがご

とし。もんの心はうれしき事をとかれて候ふ。ふほうざう(付法蔵)の

人のなかに商那和衆しょうなわしゅと申す人あり。ころもをきてむまれさせ給ふ。これは

先生せんじょうに仏法にころもをくやうせし人なり。されば法華経に云はく、

「〔柔和忍辱にゅうわにんにく」等云云。

 こんろん山には石なし。みのぶのたけ(嶽)にはしを(塩)なし。石

なきところには、たま(玉)よりもいしすぐれたり。しをなきところに

しをこめにもすぐれて候ふ国王のたからは左右の大臣なり。

左右の大臣をば塩梅しおみそと申す。みそ・しをなければ、よ(世)わたりがた

し。左右の臣なければ国をさまらず。

 あぶらと申すは涅槃経ねはんぎょうに云はく、「風のなかにあぶらなし。あぶら

のなかにかぜなし。風をぢ(治)する第一のくすりなり」

 かたがたのものをくり給ひて候ふ。御心ざしのあらわれて候ふ事申す

ばかりなし。せんずるところは、こなんでうどの(故南條殿)の法華経

の御しんようのふかかりし事のあらわるるか。「王の心ざしをば臣の

べ、をやの心ざしをば子の申しのぶる」とはこれなり。あわれことの

(故殿)のうれしとをぼすらん。

【現代語訳】

親の心ざしを子申しのべる

 帷子かたびら一つ、塩一駄、油五升を頂戴いたしました。御礼申し上げます。

 衣は寒さから身を守り、また暑さからも身を守ります。そして、体を包み隠したり美

しく飾ったりします。法華経第七巻の薬王菩薩本事品に裸なる者の衣を得たるが如し

とあります。これは、まる裸でふるえている者が衣を手にすることができたようなもの

だというたとえで、嬉しい心のことをいっているのです。昔インドで仏からその教えを
          
づうすることを委嘱いしょくされた24人の者のうち、第3番目に※1那和衆という人がいました。こ

の人は生まれながらに衣を着ていらっしゃいました。これは前世で仏法のために衣を供

養した人の姿なのです。ですから法華経の法師品に「如来の衣とは柔和忍辱の心これな

り」と説かれているのです。

 崑崙こんろん山には宝石はあるが石ころがないといいますこの身延山には塩がありません

石ころがない所では宝石よりも石ころの方が貴重です。そのように、ここでは塩が米に

もまして大切なのです。国王を補佐する貴重な存在は左右の大臣です。左右の大臣のこ

とを塩梅といいます。味鹸と塩がなければ満足な食生活ができないようなもので、左右

の大臣がいなければ国王はすぐれた政治をして国を安定させることができません。

 油というものも大切なもので、涅槃経には「風邪かぜは油が切れた時にわずらい、油があれば

風邪にかからない油は風邪を治すのに最高の薬であるということが説かれています。

 衣・塩・油と、それぞれに貴重な品品を送っていただきました。お志の深さが現われ

ておりますことのありがたさは筆舌に尽くしがたいものであります。これも所詮は、亡

きお父上南条七郎殿が法華経を深く信仰なさっていらっしゃったことの現われでしょう

か。世間の諺に「王の心ざしは臣が述べ、親の心ざしは子が述べる」というのはこのよ

うなことなのでしょう。ああ、お父上はどれほどお喜びなさっていらっしゃることでし

ょうか。(つづく)

【語註】

 ※1 商那和衆:正法時代に釈尊から付嘱を受けた付法蔵【ふほうぞう】の第三祖(第
           四祖とする説もある)で、王舎城の長者。阿難の教えを受けて、八万四千の法蔵
           を付嘱された。胎内にある時から商那(麻に似た草の名)の衣を着ており、出生
           時にも汚れず、成長とともに衣も大きくなった。これは過去世に重病の辟支仏
         【びゃくしぶつ】を救った縁によるものという。

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【 2023/09/05 05:37 】

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亡き母を供養する子のために 上野殿御返事

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

上野殿御返事うえのどのごへんじ

文永11年(1274)7月26日、53歳、於身延、和文

 父上野七郎の追善のため、子息の七郎次郎時光が供養を献げたことに感謝し、父が法
華経の行者であるゆえに成仏し、墓参したこと、子が父の跡をついで法華経を信仰して
いることをほめたもの。

 鵞目がもく十連・かわのり二帖・しやうかう(薑)二十束び候ひおわんぬ。

 かまくらにてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候ひしに、をもひ

わすれさせ給はざりける事申すばかりなしこうへのどの故上野殿

だにもをはせしかば、つねに申しうけ給はりなんと、なげきをもひ候ひ

つるに、をんかたみに御み(身)をわか(若)くしてとどめをかれける

すがたのたがわせ給はぬに御心さえにられける事いうばかりな



 法華経にて仏にならせ給ひて候ふとうけ給はりて、御はかにまいりて

候ひしなり。

 またこの御心ざし申すばかりなし。今年のけかち(飢渇)に、はじめ

たる山中に、木のもとに、このはうちしきたるやうなるすみか、をもひ

やらせ給へ。このほどよみ候ふ御経の一分をことの(故殿)へ廻向しま

いらせ候ふ。あわれ人はよき子はもつべかりけるものかなと、なみだか

きあえずこそ候へ妙荘厳王みょうしょうごんのう二子にみちびかるかの王は悪人なり。

こうえのどのは善人なり。かれにはにるべくもなし。南無妙法蓮華経。

南無妙法蓮華経。

七月二十六日                    
日 蓮 花押

御返事

【現代語訳】
父子による身心の継承

 ぜに十連、川苔かわのり二帖、生姜しょうが二十束、ありがたく頂戴いたしました。

 鎌倉でお別れする時に、後々のちのちもご供養してくださるとおっしゃったおことば、あるい

は、その場かぎりのことではなかろうかと不安に思っておりましたのに、お忘れなくご

実行くださいましたこと、何とも御礼の申し上げようもありません。ご夫君兵衛七郎殿

さえご存命でいらっしゃったならば、心置きなくご供養にあずかることができるのに、

お亡くなりになってしまったので、どうなることかと心配しておりましたのですが、ご

夫君はご自分の形見としてご子息時光殿をお残しくださったというわけでしょうか。

時光殿は、容姿がお父上そっくりであるばかりか、お心持ちまでも似ていらっしゃるこ

とを、とてもうれしく思います。

 ご夫君は、法華経のおかげで安らかな臨終をお迎えになったと承り、お墓にお参りし

てご廻向つかまつりました。
 ところで、このたび種々のものをお送りくださいましたお心ざし、御礼の申し上げよ

うもありません。今年、農産物不作の折しも、はじめて経験する山中の、大木の根元に

木の葉を敷きつめたような粗末な庵の様子をご想像ください。そのように不自由な住処すみか

ではありますが、真心からお読みする法華経の一分を、故七郎殿のご廻向にささげまし

た。それというのも時光殿のご供養の品々をお布施としてのことであると思えば「あ

人は良い子を持たなければいけないなあ」と感涙があふれてきます。法華経・妙みょう

荘厳王品しょうごんのうほんに登場する国王の妙荘厳王は、浄蔵じょうぞう浄眼じょうげんの二人の子の導きによって

仏道に入りましたがもとは外道の教えを信じる悪人でした。それに反して故七郎殿は、

元来が法華経を信じる善人なのですから、このたびのご廻向によって成仏なさることは

疑いありますまい。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。

七月二十六日                          日 蓮  花押

御返事

【解説】

 宛名が書かれていないが、文章の意から 南条七郎次郎時光の母である故南条兵衛七

郎の後家尼御前に与えられた手紙と考えられる。

 兵衛七郎が念仏を捨てて日蓮聖人の信徒になったのは文永元年1264以前であり

大番役等で鎌倉に滞在していた時期のことであったと思われるが、その折、後家尼御前

も時光も、恐らく日蓮聖人にお会いしている。

 幼少だった時光が立派に成長して、父の信心を継いでいることを、日蓮聖人は心から

喜ばれた。このとき、時光は16歳だった。

 日蓮聖人は、故兵衛七郎の廻向のために読経されたことを述べられたうえ、「あわれ

人はよき子はもつべかりけるものかなと、なみだかきあえずこそ候いし」と、時光が正

法信仰を継いだことこそ父母にとって最高の孝養となると喜ばれている。そして、法華

経の妙荘厳王本事品に説かれる妙荘厳王は浄蔵・浄眼の二人の王子に導かれて仏道に入

ったが、故南条兵衛七郎は生前に正法を信じて善根を積んだうえ、今その子息・時光が

正法をもって廻向しているゆえに、「かれにはにるべくもなし」とその功徳が妙荘厳王

に比すべくもなく大きいことを述べられ、時光や後家尼が亡き兵衛七郎の意志を継いで

正法信仰を貫いてきたことを称賛されている。

 なお、南条兵衛七郎の墓は、現在、下之坊の西側にあたる高土と呼ばれる地に、後家

尼御前、時光の墓とともに現存している。

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【 2023/09/02 05:36 】

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