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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーマラリアがよんだ奇跡の発見

王懿栄 
王懿栄

 清朝末期、北京に王懿栄【おういえい】という大学者がいた。彼はそのころ国子監祭酒という、東京大学総長にあたる名誉な地位についていた碩学で、金石学を得意としていた。

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金石文

 金石学というのは碑文研究の一種で、中国古代の青銅器・石刻に刻まれた銘文を研究する学問である。

 王にはマラリアの持病があって、季節の変わり目にはいつも発熱に悩まされていた。1899年のある日、竜骨がマラリアの特効薬だと友人に勧められたので、ボーイを薬屋にやって買ってこさせた。

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 「消えた北京原人」で話したように、中国では地中から掘り出された脊椎動物の骨の化石を竜骨と呼び、薬局で漢方薬として売っている。これを削って煎じて飲むと万病に効くとされた。買ってきた竜骨を袋から取り出してみると、古そうな骨が出てきた。

劉鉄雲 
劉鉄雲

 たまたま王の家を訪れていた劉鉄雲【りゅうてつうん】という弟子が、その竜骨をなにげなく見ると、骨の表面にナイフで刻んだような小さい文字らしいものが見える。二人はこれが金石文よりも古い文字ではないかと考え、薬屋にどこから買い求めたか尋ねたところ、河南省の田舎で農民が掘り出していると聞いた。二人はたくさんの文字の刻まれた骨を集め、研究を始めた。

 ところが、翌1900年に義和団事件が起こり、8カ国連合軍が北京に迫った。西太后ら時の実力者はさっさと西安へ逃げてしまい、王は義勇軍の長官を命ぜられたが、連合軍が北京に入場すると、自害して果てた。

 事変後、劉は王の集めた骨を譲り受け、1903年に「甲骨文字」と名づけ、殷王朝の王が占いに使った卜辞であることを明らかにした。劉は事変中、ロシア軍と交渉して太倉(穀物倉)の米を買い取り、住民に売却することで飢餓から救った。しかし、1908年にその行為が横領にあたるとして流刑となり、翌年、流刑先で亡くなった。

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羅振玉

 劉所蔵の甲骨はその後、羅振玉【らしんぎょく】の手に渡ったが、1911年に今度は辛亥革命が起こる。翌年に中華民国が成立すると、羅振玉は甲骨コレクションを携えて日本に亡命し、研究を続けた。彼は、甲骨文字の刻まれている竜骨が安陽県小屯の出土であることを突き止め、同地を殷王朝の遺跡と推定した。

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 結局、安陽県小屯(すなわち殷墟【いんきょ】)の発掘は1928年に始まるが、日中戦争の勃発で一時中断、中華人民共和国が成立した翌年の1950年に再開された。

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 殷墟からは大量の奴隷の殉葬をともなう多数の大墓が出現して世界を驚愕させることになるのである。現在、殷墟は第19代盤庚【ばんこう】から最後の紂王までの後期殷王朝の都であった商(または大邑商)であったと考えられている。

 王懿栄がマラリアでなかったら、殷墟の発見はなかったのかもね。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/09/22 12:10 】

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