なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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太公望とも呼ばれた呂尚【りょしょう】は歴史上重要な人物にも拘わらず、数々の伝説に包まれて実態がつかめない。紀元前1156年に生まれ、紀元前1017年に139歳で亡くなったと伝えられる。諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、貧乏暮らしで、ただただ読書ばかりして80歳となった
呂尚は現在の西安の近郊にある渭水で、毎日静かに魚釣りをしてたそうだが、 呂尚にまつわる諺に、「太公望の魚釣り、相手が自ら望んで引っかかってくる」というのがある。
呂尚の釣りは実は魚釣りではない。なにせ、真っ直ぐな針に餌もつけず、おまけに釣り針を水中には入れず水面からおよそ1メートルも上に垂らしている。もちろん、魚が釣れるはずがない。通りかかる人はみんな不思議に思い、「こんなんじゃ、100年経っても1匹も釣れね~よ」と言うと、「わしは魚ではなく、天下を釣りたいんだ!」と言ったそうな。周の西伯昌(後の文王)が人材を求めていることを聞いて、釣りをしながらチャンスを待ってたんだね。
呂尚の釣りは実は魚釣りではない。なにせ、真っ直ぐな針に餌もつけず、おまけに釣り針を水中には入れず水面からおよそ1メートルも上に垂らしている。もちろん、魚が釣れるはずがない。通りかかる人はみんな不思議に思い、「こんなんじゃ、100年経っても1匹も釣れね~よ」と言うと、「わしは魚ではなく、天下を釣りたいんだ!」と言ったそうな。周の西伯昌(後の文王)が人材を求めていることを聞いて、釣りをしながらチャンスを待ってたんだね。
西伯がある日猟に出ようとして占いをさせたところ、獣ではなく人材を得ると出た。占い通りにその日はさっぱり獲物がない。落胆して渭水のほとりに出た時、貧相な姿をした呂尚がつくねんとして糸を垂れているのに出会う。言葉をかけてみると、その応答も立派で、大人物であることがわかった。あなたこそ太公(西伯の祖父)が待ち望んでいた人物だ」と喜び、呂尚を軍師として迎えた。これが、呂尚が太公望と呼ばれた由来なんだけど、日本で釣り好きな人を太公望と呼ぶのも、この話から来てるわけだ。

周では昌が亡くなった後、発(後の武王)が後を継ぎ、弟・周公旦と太公望の補佐を受けて次第に国力を強化していった。殷の当時の国王は前回お話しした悪名高き紂王【ちゅうおう】。周は紂王の悪政に恨みをもつ諸侯たちの間に手を回して密かに同盟を結び、『牧誓八国』の同盟軍が結成された。
武王11年2月、殷の東で反乱が相次ぎ、殷は精鋭軍を多数投入した。むろん、周と連携しての動きである。そこへ周の連合軍が西から攻め込み、牧野の戦いが勃発する。
大きな功績をあげた呂尚は、現在の山東省にある営丘という土地を冊封された。当時、山東にいた莱【らい】と呼ばれた民族を討ち、この地を平定。山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を拡大。その後も領土を拡大し、春秋時代に入る頃には東の強国となり、第15代桓公は春秋五覇の一人に数えられた。
臨淄
営丘はのちに臨淄【りんし】と名を改め、斉の都として繁栄した。『戦国策』によれば戸数は7万戸、人口50~60万人を数える大都市だった。市場を中心とした市街地には闘鶏やドッグレースの娯楽場があり、娯楽を求める人々でごった返し、また諸子百家の弁論家があつまってきて盛んに議論をかわし、たいへんな賑わいだったらしい。
呂尚がまだ若くして勉強中のころ、ある女性と結婚した。ところが、呂尚はまったく働こうとせず、毎日読書三昧。一日中机に向かって、一文の徳にもまらない本ばかり読んでいる。まるで働きのない亭主にとうとう愛想をつかした嫁さんは、自分から三行半をつきつけて、実家に帰ってしまった。呂尚が周から斉に封ぜられ出世すると、別れた嫁さんがのこのこやって来て復縁を申し出た。呂尚は黙って水の入った器を持ってきて、水を庭先の土にこぼし、「水を器に戻してみよ」と言った。元嫁さん水をすくおうとしたが、土はすでに水を吸っており、当然すくうことは出来なかった。
呂尚はおもむろに言った。「一度こぼれた水はもとの器に戻すことが出来ない(覆水盆に返らず)」
虫のいい女もいたもんだ。

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