なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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屈原【くつげん】は戦国時代末の楚の政治家・詩人で、三閭【さんりょ】大夫(楚の王族の屈氏・景氏・昭氏)と呼ばれた公族の中でも最高の名門の出身であった。家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていたために懐王【かいおう】の信任が厚く、要職に就いていた。
屈原は紀元前343年に生まれたと伝えられるが、この時代は秦が勢威を振るっており、これに対抗出来るのは楚と斉の二国ぐらいのものだった。楚の外交方針について、臣下は二分していた。秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派(連衡【れんこう】説)と、斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派(合従【がっしょう】説である。屈原は親斉派の領袖としてであり、懐王もこの立場をとっていた。しかし、懐王の寵姫の鄭袖【ていしゅう】や、佞臣【ねいしん】の靳尚【ていしょう】の讒言により、屈原は失脚してしまう。屈原31歳の時であった。悲劇はここから始まる。
実はこの陰謀の黒幕は秦の宰相・張儀【ちょうぎ】だった。もちろん、あの連衡策を説いた張儀だ。張儀は懐王に斉との同盟を破棄すれば、その代償として土地を割譲すると申し出た。懐王は喜んでこれに応じ、斉と断交した。ところが、これが真っ赤な嘘と知り、激怒した懐王が秦を攻撃したが、藍田の戦いで大敗。後悔した懐王は再び屈原を用い、斉への親善大使とした。
その後、十余年の歳月が経った。秦は婚姻を餌に懐王を秦の地に招いた。屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが、懐王は親秦派の公子である子蘭に勧められて秦に行き、監禁されて、翌年客死した。
楚では頃襄王【けいじょうおう】が即位し、弟の子蘭が宰相となった。屈原は懐王を死に至らしめた子蘭の責任を問うたが、それは逆に讒言される結果となり、長沙(現在の湖南省)に左遷・追放されてしまった。時に46歳であった。
屈原は限りない悲しみを胸に抱き、国外に亡命することもなく、洞庭湖あたりを彷徨っていたが、愛国の情熱にかきたてられて、『離騒』『九歌』『九章』などすぐれた憂国、憂民の詩歌をつくりだした。これらの詩は『楚辞』に収められている。
その後、十余年の歳月が経った。秦は婚姻を餌に懐王を秦の地に招いた。屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが、懐王は親秦派の公子である子蘭に勧められて秦に行き、監禁されて、翌年客死した。
楚では頃襄王【けいじょうおう】が即位し、弟の子蘭が宰相となった。屈原は懐王を死に至らしめた子蘭の責任を問うたが、それは逆に讒言される結果となり、長沙(現在の湖南省)に左遷・追放されてしまった。時に46歳であった。
屈原は限りない悲しみを胸に抱き、国外に亡命することもなく、洞庭湖あたりを彷徨っていたが、愛国の情熱にかきたてられて、『離騒』『九歌』『九章』などすぐれた憂国、憂民の詩歌をつくりだした。これらの詩は『楚辞』に収められている。
紀元前278年に秦の軍隊は郢都【えいと】を攻略し、楚の国の滅亡は旦夕【たんせき】に迫った。屈原は恨みを呑んで汨羅【べきら】の淵に、石を抱いて身を投じ、失意のうちに一生を終えた。62歳であった、と伝えられる。
屈原が捜し求めた楚の国を栄えさせる道と、理想のためにわが身を犠牲した崇高な精神は、人々の尊敬を得た。6世紀に成立した『続斉諧記【ぞくせいかいき】』は、屈原の死後について次のように記しています。
屈原の入水後、その死を悼んだ里人は、命日の5月5日に供養として竹筒に米を入れ、汨羅の淵に投げ込みます。しかしある時、屈原の霊があらわれ、こう訴えました。
「淵には蛟龍【こうりゅう】(龍の一種)が住んでおり、投げ込んだ供物を食べてしまう。厄除けに楝樹(せんだん)の葉で包み、五色の糸で巻けば蛟龍は食べないであろう。」
それから里人は教え通りに供物を作るようになったといい、これが粽【ちまき】の始まりだと言われている。
中華ちまきはいつでも食べるだろうけど、日本のちまきは食べる日が決まっているよね。童謡の『背くらべ』の歌詞に「柱の傷は おととしの 五月五日の 背くらべ ちまき食べ食べ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ」にあるように、5月5日の「こどもの日」に食べるよね。「こどもの日」は1949年に制定された国民の祝日だけど、もともとは古来から行われてきた端午の節句。これは屈原の供養のために行われた祭りを起源としており、国の安寧をはかり病気や災厄を避ける行事として少しづつ広がっていき、三国時代の魏の国で国家の行事として定められものなんだ。だから、「こどもの日」のルーツは屈原の命日なんだよ。知ってた?
また、屈原が川に身を投じた知らせを耳にした人々は、四方八方から馳せさんじて、船を出してその屍体を捜したが、水にそって流れ去ったのか、どうしても見つからなかったそうだ。この伝承から始まったのが、龍舟競漕(ドラゴンレース)なんだって。長崎ではペーロン(白龍)競争と呼ばれてるよね。
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