なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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秦の第31代国王の嬴政【えいせい】。紀元前221年に斉を滅ぼし中国統一を成し遂げると、自ら始皇帝と名乗った。
それまで中国の支配者は王を名乗っていたが、戦国時代になると諸国の支配者がみな王を名乗り、王の称号は馬の糞、価値のないものとなっていた。前にも書いたけど、王の名前は諡号【しごう】といって、生前の事績への評価に基づいて死後に贈られていた。政はこれが気にくわない。なぜなら、臣下が君主の名をつけることになるからだ。そこで、「王」に替わる称号として新たに「皇帝」の称号を用いることにした。「皇帝」には三皇五帝の徳を兼ね備える者という意味や、光り輝く帝王の意味がある。政はどの君主をも超えた存在として「皇帝」を称し、自らがその初めであるから始皇帝と名乗り、あとは二世皇帝・三世皇帝と称すればよいとした。さまざまな改革を断行し、現在の中国の礎を築いたことは、みんなもよく知ってるよね。
始皇帝の父の諱【いみな】は異人といい、安国君(後の孝文王)の子であった。安国君には20数人の子があった上に、異人の母・夏姫【かき】は安国君からの寵愛を失っていたことから、彼は太子にたてられる見込みもなく、趙に人質として捨て駒のごとく出され、貧しい生活を送っていた。
趙の都・邯鄲【かんたん】に呂不韋【りょふい】という大商人がいた。ある日、呂不韋は邯鄲の路上でみずぼらしい格好をした人物を見かけ、これが安国君の子であると知ると、こう言った。
「奇貨居くべし(こいつは掘り出し物だ。放っておく手はない)」
呂不韋は異人の屋敷を訪れ、名を売るための資金として彼に大金を与え、趙の名士たちと積極的に交流するよう勧めた。こうして異人は名声を高め、彼の評判は秦にまで伝わった。
次に呂不韋は秦へと向かい、安国君が最も寵愛する華陽【かよう】夫人と接触した。安国君に寵愛されていた華陽夫人だが、2人の間には未だ子が無く、このまま年をとって色香が衰えたときに自らの地位が危うくなる事を恐れていた。そこに目をつけた呂不韋は、華陽夫人に異人を養子として迎えるよう勧めた。
華陽夫人は異人を養子として迎えることを決め、安国君に彼を世継ぎとするよう求めて、安国君はそれを受け入れた。こうして安国君の後継者となった異人は、養母である華陽夫人の出身である楚に因【ちな】んで名を子楚【しそ】と改め、呂不韋を後見として迎えた。
子楚が安国君の太子になったのと前後して、子楚は呂不韋の最愛の歌妓に目をつけ、酒の席でこれを所望した。呂不韋は内心では激怒したが、せっかくここまで子楚に投資したのだからと考え、その妓をやむなく子楚に与えた。これが趙姫である。その時すでに彼女は呂不韋の子を宿していたが、それを秘して嫁いだ。そして、紀元前259年1月に政が誕生した。
紀元前252年、安国君が孝文王として即位、子楚が太子となった。孝文王はわずか1年で没し、子楚が荘襄王【そうじょうおう】として即位、呂不韋が丞相となった。その荘襄王も在位わずか3年で没し、紀元前246年に政はわずか13歳で即位した。呂不韋は丞相として秦の全権を握ることに成功。彼の投資は見事成功したわけである。
紀元前252年、安国君が孝文王として即位、子楚が太子となった。孝文王はわずか1年で没し、子楚が荘襄王【そうじょうおう】として即位、呂不韋が丞相となった。その荘襄王も在位わずか3年で没し、紀元前246年に政はわずか13歳で即位した。呂不韋は丞相として秦の全権を握ることに成功。彼の投資は見事成功したわけである。
『呂氏春秋』という政治のための百科全書のようなものがあるが、これは、呂不韋が富と権力にまかせて中国全土から学者を呼び集めて作らせたものである。
ところで、呂不韋は政が即位した後も趙姫と密通していたが、これは元々好色で、荘襄王の死後に男なしでは居られなくなった趙姫からの誘いであった。しかし、今や国母となった太后との不義密通を続けるのはいくらなんでも危ないと感じた呂不韋は、趙姫を除くために嫪毐【ろうあい】という巨根の男を宦官になりすませて後宮に送り込んだ。嫪毐と太后との間に男児2人が生まれたが、やがて事が露見し、二人は子ともども処刑された。政の即位10年のことであった。
うまく趙姫を除くことに成功したが、事件の背景調査により呂不韋の関与が明らかとなった。本来なら死罪となるところを、過去の功績が考慮されて、呂不韋は免職の上流刑となり、翌年服毒自殺を遂げている。
始皇帝は本当に呂不韋の子であったのか?異論を唱える学者もいるが、真実を知るのは呂不韋と趙姫のみである。
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